TOPページに戻る / 『罰市偵』INDEXページに戻る

「前回までのあらすじ」

 英雄探偵としてタンガラム全土にその名を轟かすヱメコフ・マキアリイは、美貌のカニ巫女シャヤユートを相棒として昼夜を分かたず悪と戦う日々を送っていた。 
 だが邪悪の奸計に嵌りシャヤユートは脱落を余儀なくされ、カニ神殿に収容監禁される事となる。

 シャヤユートを深く尊敬するカニ巫女見習いクワンパは周囲の反対を押し切り、自ら英雄探偵の助手たらんと志願する。
 果たして、着任初日より襲来する邪悪の魔手。
 だが彼女は英雄探偵の雄々しき姿に、正義がまさに地上に実現するを目の当たりとする。 

 新たなる戦闘態勢を整えたマキアリイ事務所には、全国から助けを求める悲痛な叫びが今日もひっきりなしに届けられる。
 敵は多い、味方は少ない。それでも英雄探偵は歩みを緩める事を知らない。
 彼に安息の日はいつ訪れるのか。カニ巫女クワンパは生き残れるか。
 二人の前途に待ち受けるは、いかなる陰謀巨悪であろうか。

 冒険の日々が今幕を開ける。ただゲルタ一枚のみを携えて。

 

『罰市偵』第二巻「戦う日常」 開演。

 

 

『罰市偵』

(第八話)

 マキアリイ私立刑事探偵事務所は鉄道高架橋下に設けられた建物2階にある。
 当然のことながら、列車通過中はすさまじい騒音と振動で会話する事もままならない。

 横柄な依頼人が滔々とまくし立てる舌も止めざるを得ず、クワンパは「ざまあみろ」と内心喜んでいた。
 対話再開。

「   それで、知り合いの警察局の人間から信頼に足る優秀な刑事探偵を紹介してもらったわけだが、実のところ吾輩は私立の探偵なるものにさほどの期待はしていない」
「まあ、胡散臭い輩も多いですからね。でも刑事探偵は国家資格保有者ですからそれなりに信じていただきたいと思いますよ」

 依頼人は恰幅の良い中年男性で、それほど派手な服装ではないが資産家お金持ちなのは間違いない。
 ただ超お金持ちではないようだ。偉そうではあるが家名の矜持から来るもので、資産を誇って虚勢を張るのではない。

 タンガラムの良き伝統のひとつに、資産の大小で偉さが決まるわけではない、というものがある。
 貧乏でつましい暮らしをしていても、先祖が社会の重責を担う立場を務めたのであれば誇りと思い胸を張って生きる。
 うなるほどカネが有っても国家に貢献していないのであれば、肩身が狭い思いをせねばならない。
 名誉とは個人が自ら築くものではなく、社会が一般民衆が最大公約数として認めるものだ。
 カネを世間にばら撒いて福祉に贈与など繰り返しても、なかなか難しい。

 だからこその十二神殿だ。
 神官巫女の活動を物心両面から支援し理解者となるのも、尊敬を得る為の手段であった。

「今回の依頼は我が家にとって非常に重大な意味を持つものだが、巡邏軍や警察局の捜査ではおそらく解決不能だと考える。
 ヱメコフ・マキアリイ殿に説くのもなんだが、現在の方台治安維持体制は弛みきっておるな」
「それはー」
「私人である一個人が犯罪捜査で英雄と持て囃されるなど本来あってはならぬ事だ。捜査当局が無能である証明に他ならない」
「まあ、そのようにお考えになられる方も少なくはありませんね」

 所長のマキアリイは特に反発も無く淡々と応じている。営業に私情を差し挟みはしない。
 クワンパは、それは感心な態度だとは思うが、英雄探偵として彼を崇める人の為に反論くらいして欲しいと思う。
 依頼人はあまりにも礼を失していた。マキアリイをそんじょそこらの探偵と比べるなんて。

「とにかく実績だ。盗品遺失物の捜索に関して十分な経験と実績を持つ人間を雇いたいのだが、失礼ながらヱメコフ殿、貴殿は」
「まあ私の評判をご存知であれば、普通は殺人事件担当と考えますね。ブシブヒュコさん」

 依頼人ブシブヒュコは持参した黒の革鞄の中から一冊の本を取り出した。これまた革表紙でお高そう。

「50年前に我が家に伝わる財宝の目録を作った際に写真を撮った。今回盗まれたものも載せてある」
「目録、ですか」

 代々続く富豪であれば当然に作るのだろうが、貧乏人の二人は目を丸くする。

「新しい目録を作らねばならぬ時期ではあるが、昨今の物質文明で次から次へと送り出される工業製品は財宝と呼べるものではないから張り合いが無い。
 この頁だ」

 目録は右開きで、見開き頁の右側に名称と由来、評価金額、左側に写真が載っている。
 立体的なお宝であれば前後左右上下の写真があるが、依頼の品は正面からの1枚しか存在しない。
 精細な白黒写真だ。

「……勲章、ですね」
「ソグヴィタル民衆王国の嘉ヴァグメー金塔大綬章だ。と言っても分からだろうな」
「あいにくと勲章は自分がもらったものしか知らないもので」

 通称「潜水艦事件」を見事解決した功績で、二人の若者ヒィキタイタンとマキアリイは「協和国護民功労者章」をもらった。
 しかしながら賞金は付いてこない。軍人として当然の責務であると、特に金銭的褒賞は貰えなかった。
 マキアリイはケチだなーと思ったが、そんな程度ではない。

 二人は軍・政府の地に落ちた威信を回復する宣伝材料として長時間拘束され、撮影や取材、各種式典への参加や特別奉仕活動に従事させられた。
 もちろん公務であるから特別手当も付かない。
 選抜徴兵であればそもそもが給料すら存在しない。身の回り品を購買部で買うこづかい程度の支度金のみだ。
 英雄になんてならなきゃ良かった、と後悔する日々が続く。

 そんな実情を知らない一般大衆は、二人が映画等で大人気でなったのを見て、大金を儲けただろうと陰口を叩く。
 軍除隊後もヒィキタイタンは国会議員として大活躍、マキアリイは英雄探偵として大人気であるから、誤解を修正しようと思わない。

 マキアリイの探偵業を金持ちの道楽扱いしない依頼人は、世評に流されずむしろ好意的であるとさえ言えるだろう。

 

「今より15日前、週が明けた早朝に書斎に入った吾輩は、勲章が盗まれているのを発見した」

 

         ***        

「勲章の他に盗まれたものは、現金や宝石などは」
「巡邏軍にも申告したが、2金と8ティカ。これは金庫ではなく机の上の手文庫に不用意に入れておいたものだ。(1金=20ティカ=10万円相当)
 金庫の中には債券宝石類およそ500金相当も一緒に保管していたが、無事であった。そもそも金庫は開いていない」

「勲章は別に保管してあった、という事ですか」
「勲章の価値は他人に見せてこそだから、専用のガラス函に収めてあった。保安ガラスで錠もしっかりしたものだが、あっさりと開けられて盗まれた」
「勲章以外でその函に納めていたものは何ですか」
「表彰状や特典権利証、由緒ある宝石も幾つか飾ってあったが、これは無事だった」
「その宝石は警察局の登録がしてあるものですか」
「うむ。そもそも由緒の方に価値があり、物自体は値の張るものではない」

「つまり足が付き難い現金は盗まれたが、換金が困難な登録された宝石は避けた、という事ですね。
 勲章の金銭的価値はどうです」
「無い」

「ない?」

 依頼人ブシブヒュコ氏の言葉に、思わずクワンパが質問を返した。
 勲章というものは金銀宝石で飾り立てるものではないのか。
 ブシブヒュコ氏は不躾な女事務員と、所長マキアリイを見比べた。無礼は許すが無知は許したくない。

「君達はソグヴィタル民衆王国についてどの程度知っているだろうか」
「あいにくとこの土地の生まれではないもので」
「私も歴史の勉強はあまり得意じゃなくて」

 こんなことだろう、と彼は肩をすくめる。
 刑事探偵事務所に教養を求める方が間違っているのだ。

「ソグヴィタル民衆王国とは方台歴史上で初めての民衆主義国家で、一般民衆選挙で為政者が選ばれた最初の国だ。
 建国は創始歴5895年、その4ヶ月後に初めての全国民選挙が行われ初代民衆総統ボド・メキヒレが選ばれた。
 常識だ」
「はあ。」

「我が先祖はボドと共に初めての民衆王国を率いた閣僚の一人、財資長官であった」
「なるほど、勲章はその証であり貴方の家系が保有した状態でないと意味が無いものなのですね」
「ソグヴィタル民衆王国は、同時に初めての無産階級による政権でもある。貴族や富豪・大商人の資産を接収して政府が独占管理する体制を敷いた。
  つまりは贅沢こそが敵と見做されていた」
「それで勲章にも高価な飾りが無いわけですか」

 マキアリイはクワンパを振り向いてチフ茶を要求する。これは面倒な依頼になりそうだ。
 もちろんブシブヒュコ氏は安物の茶など飲んだりしない。

「巡邏軍に勲章の奪還は申し入れたわけですね」
「警察局にも押し掛けて優先捜査を要請したが、「善処します」と言われただけだ」
「金銭的価値が無いものであれば、そうなるでしょう。第一窃盗犯を捕まえたところで盗品が戻ってくるとも限りません」

「うむ。窃盗犯の逮捕はもちろん正義の要求するところだが、この際問題としない。
 重要なのは勲章の奪還、君にはこれを依頼したい」
「たしかに公権力の捜査では難しい案件です。刑事探偵を雇うのが最善の策と言えるでしょう。
  ですが価値が無いとは知らずに盗んだ可能性もあります。その場合は既に処分されているかもしれません」

 依頼人は目を瞑り、しばし黙想する。いざという時の覚悟が必要だ。

「勲章の破棄が確認されれば、それは一つの結果である。なるべく確実な証拠証言を得て貰いたい」
「承知しました。それでは正式な契約に移りましょう」

 

「久々にお金持ちの依頼者ですね。こういう案件だと依頼料手数料も高価く取れるんですね」

 浮き立つ気分でクワンパはもう一度茶を淹れた。わざわざ1階の靴・皮革卸問屋に降りて給湯室でお湯を換えて。

「これは刑事探偵の職務とは言っても、公的な手続きを必要としない案件だからな。実は値段は付け放題だ」
「おおお。なら3日で1金でなく、その倍取っても良かったかもしれませんね」
「あの手の客は依頼料安いと逆に疑って掛かるからな。とはいえ、仕事に手抜きをするつもりは無い」

「では、目当てとか心当たりがあるわけですか」

 マキアリイは湯呑みを手に、事務員を見てにやっと笑う。任せておけ。

「今回の犯行の特殊性はお前にも分かったろうが、目的のものしか実は盗んでいない。現金はただの物盗りに見せかける偽装工作だ」
「では、由緒の有る宝石も一緒に盗んでも良かったのではないですか」
「現金が有ったからそれで良し、と思ったんだろう。宝石類は足も付き易いからな。
そして単なる物盗りであれば、巡邏軍も警察局も普段通りの一辺倒な捜査しかしない」

「窃盗犯って捕まらないものですか」
「貴重品の換金に故買屋に持ち込んだところで足が付く、というのが普通だな。現金ではまあ無理だ。
 職業的常習窃盗犯の逮捕はおおむね、現行犯を発見して追跡捕縛して取り調べで余罪が露見する。そんな形をとる。
 つまりは警察局は窃盗犯が捕まってから捜査を開始するようなものだ」
「うわ。それじゃあ勲章返ってきませんね」

 マキアリイは立ち上がり書棚に歩き、人名簿の厚い本を取り上げた。
 ベイスラ在住の様々な職業人の住所氏名連絡先が書いてある。

「とりあえず故買屋に当たるべきだが、特殊な文化財的な品だから業者も限られる。
 目指す勲章がほんとうはどの程度の価値が有るかを学者先生に尋ねてみるさ」

 がんばってください、とクワンパは事務机に座って自らの仕事を再開する。
 とにかく今日はいい日だ。経済的に。

 

        ***        

 大学の教授職にも階級は有る。
 師頭教授、大教授、正教授、副教授、教授輔、そして講師だ。

 今回勲章の文化的価値を尋ねたのは、ソグヴィタル大学文学部歴史学科の教授輔。30代前半の若い先生だ。
 所長の話によると、この先生には結構お世話になっているらしい。
 解決した数々の難事件の中には大富豪や旧家が対象となった例も多く、様々な宝物や歴史的遺物が巻き込まれている。
 犯行動機の解明にあたり物品の価値が分からぬと困る場合もあるので、専門家に頼むのだ。

 謝礼は必要無い。
 英雄探偵の正義の偉業を陰で支えた、との自慢話は学生の間に大いに広まり、彼の世間的評価を高めてくれる。
 念願の副教授職にまっしぐら、というわけだ。

 電話での会話。

”ソグヴィタル民衆王国の、嘉ヴァグメー金塔大綬章、ですかー”
「分かりますか」
”ええ、ちょっと待って下さい。こちらにも写真型録がありますから”

 書庫に行って何やら探している気配。

”お待たせしました。嘉ヴァグメー金塔大綬章ですね、これはかなり曰くつきの代物でして、前期と後期ではまったくの別物なのです”
「ふむふむ」

”ソグヴィタル民衆王国は建国が5895年、滅亡が5930年です。
 わずか35年の寿命ですが、前期20年は良かったのです。理想が現実の形となり、民衆が平等に権利を保護される”
「つまり民衆主義運動の成功例ですね」
”そうです。初代民衆総統ボド・メキヒレが生きている間は、でした”

「つまり最高指導者が代わってダメになった?」
”はい。嘉ヴァグメー金塔大綬章も最初の20年はわずかに10個しか授与されていません。
 対して滅亡までの15年で122個が乱発される事となります。
 価値というのなら、どちらの時期にもらったものかが分からないと”

「ソグヴィタル民衆王国は貧乏だから勲章に飾りが無い、と依頼人は言ってました」
”あ、それなら間違いなく前期です。後期の勲章は政権の求心力を取り戻す為にやたらと派手な、それも高価な宝石で飾り立てていましたから。
 金銭的価値で言えば文句なく後期の方が換金し易いのですが、文化財的価値は圧倒的に前期分です”

「依頼人はブシブヒュコと名乗っていました。先祖は財資長官だったと」
”ブシブヒュコ・メンゾ・アガですか! それは大物だ。財資長官なら間違いありません。

 ブシブヒュコ財資長官は、無産階級の暴走で国内の富豪から巻き上げた資産を持ち主にすべて返還した事で名を上げた人物です。
 その際に全額を民衆王国が発行した紙幣で戻し、国家への信頼と忠誠心と財源を同時に確保する手法を考え出しました。
 つまり民衆王国が存続し続ける限りは財産の価値が保証される、というわけですね”

「なるほど、かなりの有名人で偉人でもあったわけですか」
”ブシブヒュコはボド・メキヒレ政権の3期までを支えて、任期途中で脳卒中で亡くなっています。
 その死を惜しみ、民衆王国最高位の名誉である嘉ヴァグメー金塔大綬章が追贈されていますね”
「それは、遺族家系が是非にと取り返すはずだ」

”ただし、それらの経緯を知らない者にとっては本当に価値は無いと思います。単に古ぼけた錦の飾りに過ぎませんから”
「つまり、これを目的に盗んだとすれば犯人はよほどの目利きですか」
”いやあ、目利きというよりは特殊な蒐集癖でも無いかぎりは、ちょっと分かりかねますねえ”
「骨董専門の故買屋に持ち込んでも、まったく相手にされない?」
”と思います。よほどコレが欲しい人でないと”

 

 教授輔との電話を終えて、マキアリイは考える。
 おかしい、これは絶対に計画的犯行のはずだ。ただし窃盗犯自身が勲章に価値を認めていたとは限らない。

 職業的窃盗犯の中には他者からの依頼を受けて指定の物品を盗みに行く者が居る。
 巡邏軍では「決め打ち」と呼ばれる手法だ。
 この場合、窃盗犯と依頼主が直接会うのは稀で、仲介者が必ず存在する。
 今回歴史的資料価値を持つ勲章が対象となるから、やはり骨董専門の故買屋が関係するはず。
 モノの価値の分からぬ者では仲介も務まらないからだ。

 当たるべきはその筋。

 マキアリイは再び電話を掛ける。
 旧知の同業者、熟練辣腕の刑事探偵だ。

「あ、ガラクさん? マキアリイです、故買屋で骨董に詳しい、はいそれも文化的価値の高い……」

 

        ***        

 というわけで、マキアリイとクワンパはとある古書店を望む辻に隠れている。

 この店は古書のみならず古銭や郵便切手、昔の有名人や有力者の書簡など文化的歴史的価値の高い物品を対象とする。
 人文学の研究が盛んなベイスラ、ソグヴィタル大学のお膝元では重宝される店であろう。
 店主は70代の老人、狢オヤジと評判の曲者である。

 店構えを見てクワンパは尋ねる。ほんとうにここなのか?

「だって普通ですよ。ただの古書店以外の何物でもないですよ」
「泥棒市みたいなものを想像していたのか。そんな分かり易い店が有るわけ無いだろ」
「でも故買屋ですよ、なんか表面上は繕っていてもそれらしい胡散臭さってものが、」
「故買屋じゃない、仲介者だ。やっと見つけた」

 盗品が換金可能な価値を持たないと理解した時点で、マキアリイは普通の捜索を諦めた。
 蛇の道は蛇、特殊な商品の行方は専門業者に尋ねるに限る。
 文化財専門の故買屋を数軒当たって、なかば強制的に業界情報を提供してもらったわけだ。

 そして極め付けの珍品を、というよりは個人の趣味でしか値が付けられないガラクタを専門に入手してくれる有り難い「業者」の存在を確認する。
 ただし客とモノは選ぶらしい。
 ガラクタではあっても歴史的文化的に確かな希少性重要性を見出せない依頼は、すげなく断れると聞いた。
 もちろん単なる蒐集家は相手にしない。
 個人的に切実な理由、あるいは酔狂を究めた芸術的欲求を認めなければ大金を積まれても相手にしないそうだ。

 つまりは彼はこの事業を文化的に意義あるものとして捉え、物品に現代社会においてふさわしい位置と役割を与える仕事を行っている。

「学芸員みたいなものですか」
「本人はそのつもりなんだろう。まあ骨董屋ってのは古臭いガラクタに法外な値段を付ける理屈を探してくる仕事だしな」
「それで、摘発するんです?」

 事務員の問いにマキアリイは少し頭をひねって見せた。
 まだこの少女は分かっていない。刑事探偵は警察ではないのだから、犯罪を摘発する資格も権力も持っていないと。

「ま、本人を見て決めるさ」

 

 ガラス戸を右に引いて店内に入る。
 古書特有のカビ臭さはあるが空気に澱みは無く、清潔な明るい店内だった。
 書籍のみならず切手古銭などを扱う関係もあるのだろう。店内の見通しが良く万引きは出来ない作りだ。

 奥の帳場にちんまりと座っている。
 白髪で背の低い彼は、近所で聞き込んだところでは至って健康で健啖家という話だ。
 長く白いまつ毛を蠢かして客の値踏みをする。一瞥にして金にならないと判断した。

 マキアリイが正面から尋ねる。

「この店は書籍だけでなく、歴史的な意義のある古物も扱うと聞いたんだけど、間違ってないね」

 返事は戻って来ない。金が無い者を相手にするほど暇ではないのだろう。
 ずずっとチフ茶を啜る。
 海千山千の老狢に駆け引きも面倒だ。一方的にまくし立てて行こう。

「俺は探偵だ。盗まれた勲章を探している。この店では勲章も扱うのだろ」
「……まあ古ぼけた金ピカを持ち込む人も少なくはないね。ほとんど売れないけどね」

 さすがに老人も「英雄探偵」の顔を見知っている。
 そして英雄のもうひとつの芳しからぬ噂、「見境なく乱暴を働くカニ巫女同伴」を聞き及んでいた。
 視線はマキアリイの背後に従う3杖(210センチ)の棒も携える女に向かう。
 実際、天井からぶら下がる蛍光電灯にぶつけていた。

「勲章はあっちだね」

 顎をしゃくって示す方向を覗いてみる。粗末な紙箱の中にくすんだ金色の勲章が無造作に放り込まれていた。
 ほとんどが軍関係と思われる。
 名誉の証を古物商に売り飛ばすほど経済的に困窮するのは、社会功労者や役人ではなく、軍人の成れの果てか。
 もちろん金メッキで金銭的価値はほとんど無い。5ゲルタでもお釣りがくるくらいだ。

「もうちょっと珍しいのは無いのかい」
「ガラス箱の中だね、値の張るのは」
「宝石とか付いていない、タダの絹の飾り物らしいんだが」
「なんだいそのボロクズは。いくらなんでも買い取らないよそんなもの」
「嘉ヴァグメー金塔大綬章、っていうんだがね」

 反応無し。ま、当然か。

 

        ***        

「この店は色紙も売ってるんだね。有名人かい」
「有名といっても芸能人じゃないさ。文人だね、文筆家のものだね」
「うん、知らない奴ばっかりだな」

 壁にガラス張りの額に入れて飾られているのは、かってはタンガラム全土に名を馳せた文筆家が揮毫した色紙だ。
 簡単な絵が描いたものもある。
 と言っても最近は文学界も近代商業の波が訪れて、古臭い本を読む人も少なくなった。
 よほどの名著でない限りは図書館に無い本も多い。
 知らない作家ばっかりだ。

「政治家とかは無いんだね」
「そんなつまらないもの誰が欲しがるんだよ」
「そういうものかね」

 ここノゲ・ベイスラ市はソグヴィタル大学開校以来、主に人文学で名を高めてきた。
 当地の需要でいえば、そういうものなのだろう。

「じゃあさ、爺さん。これらの色紙はなかなかに貴重なものなんだね?」
「まあ、価値が分かる人ならね」
「でもさ、あそこらへんに掛かってる額のやつは、艶文だね。いやらしいやつだね」
「当時の落書きが今では結構な値が付くものさ。たとえ猥褻な詩文であっても、だからこそ珍重する向きもあるさ」

 老人はマキアリイを少し見直した。
 旧字体のテュクラ符で書かれた古文を見抜くとは、なかなかに目が利く。

「あそこに掛かってるのは、パチャラマチャの恋詩だ。ほんものさ」
「嘘つけよ、2千年前に紙なんか無い。青晶蜥時代の模写だろ」
「ふふん、本物のヴェグタイの筆さ。500年前なら文句はないかい」

 どちらも歴史に名を残す文人である。
 ヴェグタイは酔狂な行動で知られ、その死も酔狂の極北とされる革命思想家だ。

 二人の男が話題にするので、クワンパも何があるのかと壁を仰いで見上げる。
 眉をひそめた。

「おっと爺さん、カニ巫女が艶文に気付いたぞ」
「あんな小娘に読めるもんかい」
「カニ巫女をバカにするなよ。あいつら毎日古臭い経文を昔の字のままで読んでるんだぜ」

 老人は少し狼狽えた。
 猥褻画像写真映画また文書小説などはカニ巫女が街で取り締まる対象である。
 昔の偉い人が書いたからとの理由で棒が止まるわけではない。

「おいあんた、ちょっと止めてくれよ。お願いだ」
「ああ。カニ巫女は老人にだって容赦は無いからな。おーいシャヤユート!」

 何故か師姉の名で呼ばれたクワンパは、不審に思って帳場に近付く。
 マキアリイが店主と複雑な交渉をしているのを妨げないように座を外していたが、何の用だろう。

 老人も、「シャヤユート」の名に敏感に反応した。
 くびりとしわがれた喉を鳴らし、慌ててチフ茶の茶碗を取り上げ飲んだ。
 心臓が止まるかと思ったよ。

 

        ***        

 マキアリイは。

「ところで爺さん、その茶は少し香りが違うな。ひょっとしてソレは」
「ほお、わかるかい。一杯淹れようか」
「そこのカニ巫女に飲ませてやってくれよ。勉強さ」

 老人は一度奥に引っ込んで新しい茶碗を取りに行った。
 クワンパは所長の耳元で囁く。

「どうですか、勲章の行方は」
「慌てるな。それより心して茶を飲めよ」

 戻ってきた老人がなかなか複雑な手順でのろのろと茶を淹れるのを、クワンパ訝しげに見守る。
 なにせ特殊な故買屋のやる事だ。毒くらい入っているのではないか。
 小さな盆の上に茶碗と塩昆布の入った小皿も付いてくる。
 所長の勧めで、クワンパは茶碗を手に取った。
 顔の前まで持ってくると、確かに香りが違う。馥郁として、日頃のチフ茶とは隔絶して異なる上品な感触。
 一口含むと。

「    あ。あれ、これチフ茶ですか?」
「分かるか」
「いえ、これチフ茶ですけど、チフ茶じゃない。ものすごく味わいが綺麗」

「ほほお、綺麗ときましたか。なかなか育ちの良い娘さんだ」

 老人も若い世代に分かる人間が居た、と満足気な顔を見せる。
 クワンパは昆布をかじり、もう一度飲む。
 ますます深い味わいに頭が謎でいっぱいになった。

「どういうことです? 特別に上等な茶の実を使ってるんですか」
「これが『山奥の老婆風』と呼ばれるチフ茶の正式な淹れ方だ。普通の茶の実だが、そんじょの喫茶館ではとても出来ない手間を掛けるとこのとおり」
「へ、へえー」

 マキアリイはこの茶としばしば遭遇する。
 英雄探偵としての活躍を称賛される割には物質的見返りは少なく財産まるで増えないが、宴席を設けて歓待を受けるのは慣れっこになった。
 最高級の料理店や旅館で出されるのがほんのり甘いヤムナム茶か、この『山奥の老婆風』チフ茶だ。

「爺さんすごいな。自分で淹れられるんだ」
「ふはほ、この歳での楽しみといえばそれほど無いからな」

 クワンパが飲み干して茶碗を老人に戻すと、マキアリイはさてと、帳場を背に歩き出す。
 驚いてクワンパが引きとめようとする背後から、老人が言葉を投げる。

「ああそうだったな。ソグヴィタル民衆王国の安物勲章が欲しいって探しに来た若い男が居たな。
 パリッとした身なりのすっきりとした男前だ。
 派手な宝石の付いた勲章よりも、曰く有りげで識者にしか価値が分からないのが仕事に必要と言ってたよ」

 マキアリイは振り返らず、左手を上げて返事をした。
 ガラス戸を引いて店を出ていく。

 やむなく続くクワンパは外に出た途端、叱るように忠告する。

「所長、あれだけで手がかりになるんですか? もっと詳しく盗んだ奴の情報を聞かなくちゃ」
「いいんだよ。あの親爺、「勲章を取り返したいのなら仲介するぞ」と教えてくれたんだ。カネでなんとかなる話だ」
「カネで、買い戻せるって事ですか」
「今回の依頼人の懐具合を考えると最も穏便で確実性の高い方法だ」
「でもいいんですか、依頼人は犯人の逮捕も一応は望んでいますよ」
「盗みの専門家は捕まらないさ。だが、勲章を必要とする若い男ってのは気になるな」

 

        ***        6 

 とはいえ悪人を肥え太らせて楽しいはずもない。
 事務所に帰ってきたマキアリイは、古新聞を引っ張り出して何事か探し始める。
 ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所は全国紙・ベイスラ地元紙・経済紙と3紙を取っており、1ヶ月保存したら重要な記事だけを切り抜いて帳面に貼っておく。
 3紙1ヶ月分を事務所内にばらまくから、クワンパは呆れてしまう。

「所長、片付け自分でやってくださいよ」
「クワンパ、お前も探せ」
「何をですか」
「何かだよ」

 まったく要領を掴めない。行きがかり上勲章に関係する記事だろうが、そんなものが簡単に見つかるとは。

「あ、100歳のお年寄りが国から功労章をもらったってのがあります」
「それで?」
「だけです」
「次探せ」

 だよな。こんなのじゃないよな。
 だがそもそも古ぼけた勲章を必要とするのはどんな場面だろう。やはり名誉が掛かった話だな。
 とはいうものの民衆協和国、民衆主義というのは生まれながらの特権的身分制度を否定し、すべての人が平等という思想だ。

「詐欺、ですかねやっぱ」
「なにが」
「勲章が必要な仕事、ですよ。はったりをかます為には小道具が必要でしょ。勲章の使い道なんて他に思いつかない」
「だがそれならもっと新しい派手な勲章の方が良いはずだ。入手も簡単で手間も掛からない」
「そうですか、じゃあ……。
 『舞台俳優キンタ・アラヴリアン氏文化宝珍賞、古典演劇50年』、てのは?」
「違う」
「祝賀式典が盛大に、……やっぱ伝統芸能はちがいますよねー顔触れが大俳優ばっかりだ」

 読み上げるクワンパの声に、マキアリイもしばし探す手を止めて考える。
 特殊な勲章ではない、特別に価値のある勲章なのだ。これが意味を持つのは、他の勲章との比較において。
 より古い、より高い、歴史的に意義のある。

 既に調べ終えた新聞を再度引っ掻き回す。

「これか!」

 

 大ハナト旅宿館「富月城」。ノゲ・ベイスラ市でも有名な高級旅館である。
 ハナト財閥の旅館系列店だが近年買収されたもので、営業自体は百年前から行っている由緒正しい建物だ。
 付属施設に大会堂がある。2千人を越える収容人数を持ち、大規模な式典を催す事が出来る。
 もちろん旅館本体から料理を持ち込んで大宴会も可能だ。

 大会堂以外にも小さな会堂が複数設けられており、百人規模の会合が行える。
 その一室が本日の注目を集める。

『若き伝統継承者の為の新時代資産運用法講習会と楽しい懇親会 特別講師○×△招聘』

 事務所の古新聞から発見したのは、投資講習会の案内広告だった。
 クワンパは講習会の看板を見て首をかしげる。いやちょっと、実態を反映してないだろ。コレ。

「所長、これってお金持ちの結婚適齢期の若い人同士がお見合いをする宴会でしょ?」
「少し違うぞ。『若き伝統継承者』ってのは、褐甲角王国時代の貴族や、金雷蜒時代の神族の血統に付属する枕詞みたいなものだ。
 伝統と格式ある家柄同士が顔を合わせる機会ってのは、なかなか無いからな」
「お金持ちには違いないでしょ」

 主催者は今売出し中新進気鋭の投資会社の社長で、タンガラム全土で同じような会を何度も催している。
 若さゆえの危うさはあるが、怪しいかと言えばそれほどでもない。
 調べると、実に半年も前から参加者募集をしている。

「この会に潜入する為に、古い勲章を盗んだわけですか」
「もう少し調べないと分からんが、使うとすればココだろう」
「そんな付け焼き刃が通じますかね。伝統ある家柄の若様達ですよ」
「だからこその価値が分かりづらい勲章だろう。「聖戴者」時代でない、「民衆王国」の勲章をわざと選ぶんだから」

(注; 聖戴者時代とは、神に選ばれた者が額に「聖蟲」と呼ばれるものを戴き、民衆を統治する体制の事。創始歴5500年代くらいまでを指す。
  以後「聖蟲」は徐々に失われ、現在はタンガラムに継承者は居ない)

 

        ***        

 旅館本体の総支配人の下に、会堂の支配人は位置付けられる。催し物の総責任者だ。
 マキアリイとクワンパは無理を言って彼の元に押し掛けた。
 「会堂で犯罪が行われる兆候を発見した」と言われれば、拒むことも難しい。ましてや高名な英雄探偵の申し入れだ。

 さすが高級旅館付属施設の支配人室。
 勧められる薄卵色の革椅子は想像を絶する柔らかさで、クワンパなにやら身体が沈んでいく。
 冷たい飲み物も高級ガラスの碗で供される。マキアリイに対しては発泡酒を、美人秘書の笑顔と共に差し出されるのだから面白くない。

 支配人は、犯罪の可能性はさておき、苦境を正直に吐露する。

「実は、特別講師として経済学者として著名なパシャマ・シン氏を予定していたのですが、家庭にご不幸があったという事で、」
「まだ未定のままなんですか」

 古新聞で見つけた講習会の広告には、文字通り「○×△招聘」と記してあった。つまり、講演する人物が当時未定であったわけだ。
 これはタンガラムではよくある手法で怪しいと言えば怪しいのだが、会の規模、出席者の品格に応じて期待を裏切らない人物を呼ぶ習慣だ。
 ハズレは無い。いや大ハナト旅宿館で行う催しが貧相なものであるはずが無い。

 その名誉を守る為、支配人は非常の手段を考えついた。

「ヱメコフ・マキアリイ様。貴方ならパシャマ・シン様の代わりとして十分以上の人気を持っていらっしゃいます。
 急なお願いではありますが、講習会で講演をしていただけないでしょうか」

「え? 私は投資判断とはまるっきり縁の無い人間ですよ」
「良いのですそれは。出席者を飽きさせず、またのご来場をいただける楽しい時間を過ごしていただければ。ヱメコフ様であればこの上なく有り難い事です」

 道理ですんなりと支配人に会えたわけだ。

 隣に座るクワンパを振り返ると、藁しべでじゅるじゅると飲み物を啜っている。非常にご満悦。
 所長に対して「いいじゃないですかそのくらい」て顔をしている。
 タンガラムにおいて本物の果汁飲料は結構な値段のする高級品だ。

 だがさすがにマキアリイも即答しない。会堂の方は良くても、主催者は納得しないだろう。

「あら、よろしくてよ」

 不意に背後で女の声がする。割と低音で艶のある、よく響く声だ。
 聞くだけで美人と察しが付く。
 支配人が立ち上がった。

「これは、メナアハン様!
 ヱメコフ様、こちらが今回の投資講習会を主催なさる『新時代投資技術ゲレータ』の代表 メナアハン様です」

 黒褐色の長い髪、白い肌、豊満な胸を隠す暗い色の衣装。加えてメガネ。黒縁で理知的に感じさせ、非常によく似合う。
 年齢は20代半ば、マキアリイよりは下だろう。
 想像に違わぬ美女ぶりだ。髪が黒いのはつけ毛であるからか。

 マキアリイとクワンパも立ち上がる。クワンパは革椅子に埋もれて苦戦したが。
 メガネの彼女は営業用とは思えぬ笑顔で二人に応じる。

「ノゲ・ベイスラ市に英雄探偵さまがお住まいなのは知っていましたが、まさかお会いできる機会を得られるとは。
 私はメナアハン・キクフォ。『新時代投資技術ゲレータ』の代表会頭です」

「刑事探偵のヱメコフ・マキアリイです。こちらはカニ巫女のクワンパ」
「ども」
「ええ、よく知っていますわ。先頃新聞等で大きく報道されたクワンパさんですね。
 かの高名な英雄探偵様が講演をしてくださるのであれば、私としてもまた「教導」においても異存はございません。謹んでお願い申しあげます」

「教導、とは、」
「ああ、ご存知ありませんでしたか。
 私は会の代表でありますが、本当の中核人物で新時代の投資環境を作るのは「教導」ゲレータです。
 ゲレータ・カパフルッツ。教祖ですね、簡単に言うと」

 かなり明るく、軽い女である。
 クワンパは同じメガネの、質屋のネイミィを思い出した。
 彼女もマキアリイの講演会で儲ける算段をしているから、歯ぎしりして悔しがるだろう。

 

        ***        

 講演が決まったから、早速にマキアリイとクワンパはお色直しさせられる。
 さすがに高級旅館の会堂である。どんな格式の式典であっても対応できる立派な衣装が幾着も用意してあった。
 ただマキアリイの肉体は、

 衣装担当の背が高いが細いなよっとした男は、ほうっと溜息を吐く。

「マキアリイ様はさすがに鍛え込まれた御体ですねえ。胸板なんかこんなに厚くて、なかなか寸法が合う礼服が見つかりません。
 せめて1日頂ければ徹夜でも直したのですが」
「いや、動かないようにするから窮屈でも我慢するさ」

 一方のクワンパは。

「なんで私、女給仕の格好ですか。いや似合うとは思いますけど、なんか納得できません」
「お前は会場に忍び込んで怪しい人物を探すのが仕事だから、目立っちゃいかんだろ。
 それとも、貴族のお嬢様の役がやりたいか?」
「いえそれは結構。お断りします」

 もちろん会場にカニ巫女棒を持ち込むのは厳に拒否された。当然。
 だがそうすると丸腰で戦場に挑む事となる。安全に関して万全の備えが効かない。
 必死で食い下がるのを、マキアリイに制止された。

 ついでに美容員に化粧道具を借りてクワンパの顔面に細工を始める。タヌキみたいな顔にされてしまった。

「なにをするんです!」
「もう分かっているだろうが、お前も十分に有名人だ。宴会の中に素顔で出たら正体がバレてしまうだろ」
「たしかに、その恐れはありますが。でもこの顔は酷い……」

 

 講習会の開幕は10時(午後6時)から。
 明るさがまだ残る宵の空の下、美麗な衣装に身を包む『若き伝統継承者』達が様々な方向から訪れる。

 ノゲ・ベイスラ市は旧ソグヴィタル王国の王都で、タンガラム(十二神方台系)の中央地域南部を統括する位置となる。
 発展の速度が遅く古い秩序体系がそのまま維持されている土地も多い。

 特に「黒甲枝」と呼ばれた貴族階層は道徳規範を重視し自らを律する事を家訓として、地元に深く強い絆を築き上げている。
 公的・民衆主義的には認められていなくとも、地域世襲の指導者であった。

 「金持ちのぼんぼん」などと陰口を叩く方が恥ずかしくなるような、きりっとした顔つきの凛々しい男女が集まってきた。
 例外が少数居るが。

 素の一般人クワンパは給仕の衣装を身に纏い会場をうろついていて、緊張感と共になんとなく馴染む雰囲気に包まれている。

 今回の出席者は「黒甲枝」、カブトムシ神の聖戴者「神兵」の家系が多い。彼等は一族代々カブトムシ神に仕える神官巫女みたいなものだ。
 カブトムシ(褐甲角)神「クワァット」は武神、契約を守護する者、結婚を司る。
 性格的に固い神様だ。
 規律道徳の厳守と神殿の監査を司るカニ神と似ていると言えなくもない。

 そして、

「あれ?」

 誰一人として勲章なんか付けていない。付けるわけがない。
 公的な式典であれば身分を証明するための様々な飾りを必要とするだろうが、今回私的なそれも投資技術の講習会だ。
 後の懇親会はそれこそ肩肘張らない付き合いをして、生涯の伴侶を見つけたりする場所だ。

「え、じゃあ、なんで所長は?」

 これは英雄探偵、大外れか。

 

        ***        

 マキアリイの楽屋にメナアハンが訪ねて来た。

「「教導」がヱメコフ様にお会いしたいと申しております。お出で願えませんか」

 「教導」ゲレータ・カパフルッツは自らに新興宗教の教祖的な演出を施して指導力を高めていると聞いた。
 投資に関しては素人のマキアリイだが、かなり危ない橋を渡っているのだなと予想は付く。

 控室に行くと、マキアリイ一人で入る事を勧められた。
 実務代表のメナアハンですら講演前は接触を遠慮するという。
 かなり気難しい人間だな、と警戒して扉を開く。 

 純白の絹の礼服。襟も大きく、豪華絢爛と呼ぶにふさわしい装飾。
 背は高くないが難をつけるほど貧弱でもない。運動を趣味としない一般人の体格だ。

 髪油でびっちりと撫で付け端正な形に整えてある。
 にも関わらず彼の髪は、マキアリイとほぼ同等の茶色であった。
 肉を退け、常日頃粗食している証拠。

 にこやかに微笑んだ。年齢はマキアリイとさほど変わらない。2才ほど上か。

「金持ち相手の投資指南をしている若手実業家であれば、髪色は真紅に違いない。と思ったでしょう」
「その期待はありました。わざとですね」
「黒甲枝の方々は質素倹約を旨とし、髪が茶色なのをむしろ誇りと考えているのです。彼等に倣いました」

 勧められ、部屋の中央に据えられた応接椅子に座る。
 出番が近いから、飲み物等の接待は無し。

「ハハ、嬉しいな。僕はですね、あなた達ふたりの英雄、ヒィキタイタンとマキアリイに親近感を覚えていたのですよ。
 年齢が近いだけでなく、世界におけるその在り方についてでね」

「そのような言い方をしてくれる人はなかなか居ませんね。英雄の虚名という奴は人を遠ざけるもので」
「僕も人に敬して遠ざけられる質ですよ。
 世界を、このタンガラム方台を変革に導こうと考え、実際に実行に移す人はそうは居ない。

 だがあなた方は自らの運命に逆らわず、まっすぐに進んでいく。その姿は僕を勇気づけてくれるものです。
 そう、在りし日の黒甲枝の神兵のように」

 面と向かって真っ正直に褒められると、居心地が悪い。

「僕はですね、マキアリイさん。
 今のタンガラムの政官界それに財界は、ずいぶんと卑屈な者の集まりになっていると思うんです。

 黒甲枝のように志の高い人は居ますよ、確かに。今日集まってくれた方々が。
 でも彼等は世に出ない。地元の農民を守るだけで満足しているのです。
 その結果中央で跋扈するのが、志の低い連中卑屈な奴らです。学問は出来る秀才でも、人間的にははるかに劣等だ。

 これはダメでしょう。ひっくり返さないと。
 あなた達のように戦わないと。特にマキアリイさん、あなたは素晴らしい。
 政界のウミと腐敗を絞り出し白日の下に曝してくれる。尊敬します。

 僕もあなたに倣ってこの世界を、タンガラムの秩序を根底から覆す活動を行っているのです……」

 

 彼、ゲレータ・カパフルッツはしきりと自らの胸を押さえる。
 心臓でも悪いのか、と思ったが違う。
 礼服の下、いや広い襟の裏に何かを忍ばせている。これをしばしば確かめるように押さえるのだ。

 まるで自分の魂がそこにあるのを確認するかに。

 

        ***        10 

「それでは皆様お待ちかね、「新時代投資技術ゲレータ」教導、我らを未来に導く者 偉大なるゲレータ・カパフルッツの登場です!」

 司会を務めるメナアハンのよく通る声に呼び込まれて、明るい舞台に登場する。
 目の眩む照明。割れる拍手の波。
 彼を待ち受ける人々に手を振って応える。

 演壇に立ち、右手を差し上げると、会場に丸い物体が浮き上がる。
 本日の主役は飛行船、その100分の1模型だ。水素ガスで浮き、頭上に滞留する。
 パンと花火が鳴って紙吹雪が散る。

 

「皆さんこんばんわ、ゲレータ・カパフルッツです。

 大方の人はご存知でしょうが、今秋ついにゥアム帝国と本邦タンガラムとの間に飛行船を中継基地とした直接電波通信回線が開設されます。
 これによりタンガラムとゥアムは密接な繋がりを持ち、より高度な国際関係を築く事が可能となります。
 飛行艇による郵便で最速でも3日掛かっていた通信が、まさに直接出来るようになるのです。この商業的影響を本日はお話したい。

 皆さんの多くは地方農村部を拠点とする黒甲枝の一族の後継者です。
 一見すると国際関係とはまるで縁が無く、これまで通りの日常を続けていけると思っているでしょう。
 だがそうはいかない。実はこれから国際商業の熾烈な戦争が、皆さんの地元を襲うのです」

 

 あれ、投資についての話をするんじゃなかったのかな? と給仕の真似事をしているクワンパは不思議に思う。
 だが出席者は全員真剣な顔つきで、一言も聞き漏らすまいと舞台に注目している。
 あまり賢そうに見えないバカ系の出席者であってもだ。

「国際通信が即時に繋がるようになる。この影響がどれだけ大きなものであるか、たぶんタンガラム国民のほとんどは理解していません。
 理解のある人でもせいぜいが軍事的な影響について想像する程度です。
 なにしろあまりにもゥアム帝国は遠い。タンガラムに直接の影響を与えられるはずが無い。これが当たり前の考え方です。

 しかし、そうではない。ゥアムの資本蓄積はタンガラムのそれよりも倍以上大きい。
 この資本力によってタンガラム経済界に一大勢力をたちまちに築いてしまう。
 これまで免れていたのはまさに通信の速度の壁があったから、本国で行う投資判断が時間差によって効率的に行えなかったからなのです。
 言うなれば、これまでは普通の将棋であったものが、いきなり別の棋盤が現れ駒がいくらでも外から供給される状態になる。
 そしてタンガラムの中央政界はそれを企図している。
 既存の国内経済界による各種政治的な軛から脱する為に、あえて外資を導入し乱を導き、以って政界の支配力を高めんと考えているのです」

 

 がーんと頭を撃ち抜かれた気がした。
 これってひょっとすると、政府による売国行為じゃないのか。タンガラム人民をゥアム帝国に売り飛ばすような話ではないか。
 だが左右を振り返っても、出席者達は声一つ立てずに集中し、聞き耳を立てている。
 ここまでの話は事前に知っていた、そんな感じ。単にクワンパが政治情勢に疎いだけと言える。

 本職の給仕でクワンパの監督をしてくれている30代の女性が目で、うろちょろするな、と注意する。
 この程度でびっくりしていては、この商売務まらないらしい。

 煌めく照明の中心に立つゲレータは、さらに核心に言及をしていく。

「当然にタンガラム経済界の中軸、大手資本財閥系列は対応を進めています。
 政府が立てた計画に沿う形で、ゥアム外資の受け入れ先として自らの体制を再整備しているのです。
 タンガラム資本市場の激変は避けられません。

 では我々一般投資者、小資本家はどう対処すればよいか。本日の課題はこれになります。
 だが本日お集まりの皆様は黒甲枝の出身の方、農村を基盤として農業経営をなさっている一族の方が多いと思います。
 どのような政治状況となろうとも、堅実に村を護り民衆を結束させ実り多くこれまで通りの生活を続けていければ良しとする。そうお考えでしょう。
 それは正しい。単なる農民の立場からすればそれでよい。
 一般民衆を安寧に留めおく為に、貴方方指導者は革新せねばならない。僕はそう訴えます。

 かの砂糖戦争を引き合いに出すまでもなく、農産物はしばしば経済において大きな動きを作り出し……。」

 

(注; ゥアム・シンドラと通じる外国航路は現在、大型汽船による定期航路と、飛行艇による飛び石航路によって繋がっている。
    飛行艇は航続距離が短い為に、中継基地となる飛行艇支援船を定点に配置し、燃料補給を繰り返して飛行する。片道約2日、気象によって変動する。
    ゥアム帝国まではおおむね5千キロ、シンドラ連合王国までは3500キロと隔絶する。ゥアム航路は直線ではなく大きく曲がっている)
(注; 飛行船による無線通信中継計画は、飛行艇中継基地である支援船を飛行船の母船ともして、上空8000メートル付近に電波中継機器を搭載した飛行船を滞留させるもの。
    電離層の乱れによってこの惑星上では電波による遠距離直接通信が難しい)
(注; 砂糖戦争とは、今から百年ほど前タンガラムにゥアム帝国艦隊が侵攻してきた史上初の方台間戦争。
    タンガラム原産の砂糖の輸出割当枠増大をめぐってゥアム帝国と外交紛争となり、タンガラムを制圧して砂糖産地を掌握しようと戦争にまで発展した)

 

        ***        

 続くソグヴィタル大学経済学部の教授は、ゥアム帝国の経済構造と資本系列についての解説を行ってくれた。
 普段まったく聞かない話であるから物珍しく面白かったのだが、具体的な投資行動には繋がらないから出席者には物足りなかったろう。

 やはりゲレータ・カパフルッツが提唱した農業連合組合の構想、
国際経済の進展で大きく揺さぶられる農産品市場を他人に任せず自分達で管理していく発想が素晴らしかった。
 人を見て物事を説く、というのだろう。今回の出席者の為に編み出した方策なわけだ。

 講習会開幕から1時刻弱(2時間)、椅子を片付けて「楽しい懇親会」に雪崩れ込む。
 給仕が忙しくなるのはこれから。
 生演奏の音楽も奏でられ始める。

 若様姫様の間を飛び回って、クワンパもだいたいの様子がつかめてきた。
 旧カブトムシ(褐甲角)王国系の貴族階級も何種類かに分かれているのだと。

 今回出席者の多くは「黒甲枝」と呼ばれる武人系の貴族で、農村に住んでいる。キリッとしているのはこの人達だ。
 一方バカ面をしているのは都会に住む元宮廷貴族。彼等は商業や金融で財を成した。
 さらに「金翅幹家」と呼ばれる上位の階層があって、出席数は少ないが黒甲枝がしきりに挨拶に行く。かなり偉いらしい。

 改めて確認するが、ほんとうに勲章なんかどこにも無い。
 クワンパも何をどう警戒すべきか分からず、料理や飲物を運ぶ役を懸命に務めるしか無くなった。

「ふむふむ、黒甲枝のお姫様は革小物を持っているのが目印か。なるほど」

 妙な所にばかり気が付く。
 若様の方は武人の家系からか結構身体を鍛えていて、武術の心得も有りそうだ。
 支配人が強くマキアリイに講演を依頼するのも宜なるかな。彼等は英雄探偵の言葉に大いに関心を持つだろう。

 振り向くと、照明が一人の人物に集中し輝いている。
 白い礼服のゲレータが宴会の中に入って出席者と歓談しているのだ。
 遠くて声は聞こえないが、たぶん個々人の細かな質問などに答えているのだろう。
 なるほどこれは講習会だ。

 

 宴たけなわに全体が暗くなり、司会のメナアハンが会場放送で喋り出す。

「本日お集まりの皆様はほんとうに幸運でございます。
 このように高名な方が初めて公に行う講演の機会が、まさに私共の集まりだとはなんという僥倖でしょう。
 それではご紹介いたします。いえ、多くを語る必要もなく皆様ご存知のお方です。
 方台の正義と平和を守り続ける現代の神兵、邪悪を斥けタンガラムに光を与える無敵の英雄。
 私立刑事探偵ヱメコフ・マキアリイ! そう英雄探偵マキアリイさまが、本日の特別講演を務めて下さいます」

 けたたましく鳴り響く音楽は、映画『南海の英雄若人 潜水艦大謀略を断つ』の主題曲。
 最初に公開された「潜水艦事件」の映画だ。クワンパが会堂の音声技術者に頼まれて選んだ。

 なにしろマキアリイは自身の主題曲には困らない。
 「潜水艦事件」だけで4本の映画、「英雄探偵」モノは伝視館演劇主題曲も合せて10本も有る。
 だが最も有名で最も人が親しむのが、最初に公開され爆発的人気となったこの映画。
 この曲は必然的にもう一人の英雄ソグヴィタル・ヒィキタイタンを思い出させるが、まあいいや。

 舞台上、再度据えられた演壇に照明が当たる。
 参加者は皆声を上げ、熱烈に歓迎を表明する。

 英雄探偵マキアリイ、見参。

 

        ***        

「あーみなさんコンバンワ、世間では多少名が知られている英雄探偵とは私のことです。

 とはいうものの、あれは私の能力が優れているからこそ解決できた、というものではなく、なんだこいつぶっ潰してやろうて事件の方から来てくれたんですね。
 日常本来の業務はもっとささやかな、それこそ暇な民間人探偵に回ってくる些細な依頼を汗水流して調べています。

 今回もですね、盗まれた古い勲章を探せという簡単な依頼なのです。
 そりゃあ宝石やら金銀で飾られた時価数千金もするお宝であれば頑張りますが、依頼人曰く「金銭的価値は無し」です。困りますねーこんなの。
 でも仕事は仕事、日々のゲルタを齧るだけのお足がもらえるとなれば、脚を棒にしてでも働かなくちゃなりません。
 大食らいのカニ巫女を食わせなくちゃいけませんから。

 というわけで蛇の道は蛇、古いものなら骨董屋。至極あやしげな店を訪ねてみたのです。

 「おう親爺、これこれこういうわけで盗まれた勲章置いてないか?」
 「なにをバカな。盗品なんか扱やしないよ。勲章ならそこんとこ置いてるから、好きなの持ってきな」
 「いやどれでもいいってんじゃない、古くて飾りが無くて宝石も付いてない、資産価値1ゲルタも無い特別に貴重な勲章なんだ」
 「ちょっと待ちなあんちゃん、そんな勲章が世の中にあるもんか」
 「ちなみにこの、空き缶にごろごろ入っている「国家防衛士勲章」、幾らだい?」
 「そいつは2ゲルタだ」
 「安いな、1個もらおう」
 「まいどあり」チーン

 「ところで親爺、この店は書画や古本なんかも置いてるんだな。どんな店だい」
 「うちはな、欲しい人が欲しいものを手に入れられる、その人だけに価値が有るガラクタを高っ価い値段で売りつける店なんだ」
 「じゃあ今買ったこの勲章は、2ゲルタもしない?」
 「仕入れ値は10個2ゲルタだ」
 「うああ、なんてぼったくりだい。お、あそこに掛かっている色紙は、偉い人の書かい」
 「書もあるし、絵画もある。落書きもある」
 「落書きでカネを取るのか?」
 「落書きの方が値段が高くなる。誰が描いたか分からないのに、ちょちょいと有名人の署名を入れてやればアラ不思議」
 「アラアラ」

 「ところであんちゃんのお連れさん、カニ巫女じゃないかい?」
 「おう、なんでもぶっ壊す恐ろしい奴よ」
 「おっかないねぇ、あの棒なんとかしてくれよ。あああ、電球が割れた」
 「悪気は無いんだ。まだ本気を出してないだけで」
 「要らないよそんな本気」

 「それでな親爺、盗まれた勲章ってのが……。あっこらへん、高価いかい?」
 「どれどれ、あの壁に掛かってるのはヴェグタイの筆さ。艶文だね助平なやつだ。10金はするな」
 「カニ巫女がじっと見ているぞ」
 「へへへ、あんな娘っこに古い字が読めるもんかい」
 「カニ巫女、お経読むから読めるよ」
 「え゛ええええええ、止めてくれよお」
 「それでな、盗まれた勲章ってのがソグヴィタル民衆王国の、」
 「止めてくれよおやめろ、おおおおおおお、あ」
 「あ!」
 「あー、あーーーーあーー。」

 「それでな、親爺。この店で一番高価い品物はどれだい」
 「あっちの隅の鎧かなあ、それとも金雷蜒の壺かな。とほほ」
 「おーいシャヤユート、隅っこに寄ってみな」 

 「分かったよなんでも言う事聞くよ。勲章だな、勲章が要るんだな」
 「1ゲルタもしない特別なやつだよ」
 「どうしてもと言うのならこちらも商売だ。盗んだ奴から買い戻してやるよ」
 「盗んだ奴知ってるのか」
 「蛇の道は蛇さ、ガラクタ盗む酔狂な泥棒はこのノゲ・ベイスラでも一人しか居やしねえ」
 「そいつはなんでガラクタなんか盗むんだ」
 「そりゃあんちゃん、ガラクタを高価い値段で売りつけてくれる店が有るからさ」

 ドット笑イ

 

        ***        

 クワンパも多少はマキアリイの手口が分かってきたから腹は立てないが、今まさに手掛けている事件をネタにするとは思いもしなかった。
 つまりは勲章窃盗犯に次の対応をさせる為に脅しを掛けたのだが、効果が有るのか無いのか。
 というかアレのどこが講演だ。お笑い演芸ではないか。

 もっとも、観客は直後に行われた質疑応答で十分満足した。
 マキアリイの活躍については、本人よりも映画や演劇を見る応援者の方がよく知っている。
 彼等の質問に対して補足や訂正をしていけば、1刻くらい軽く潰せるのだ。
 緊張を解きほぐす導入部として、アレは立派な話術の技巧である。

 舞台の上から降りてきて、宴会の主役は既にマキアリイだ。
 予想の通りに黒甲枝の人は男も女も英雄に大注目。武術の達人、タンガラム最強の戦士として高く深く尊敬する。
 武人の家系であればこそ厳しい審美眼にも合格なわけだ。

 ただ困った事にお姫様達は皆所長の好物を熟知していて、会場にわずか一品だけ供されていたゲルタ料理を奪い合って捧げてくる。

「なんだか腹立ってくるな」

 クワンパが首を左右に振って会場内の状況を確かめると、本来の主役ゲレータ・カパフルッツが居ない。
 いつの間にか退出している。
 メナアハンはちゃんと姿が有るから、次の催し物の準備かなにかだろう……。

 

 ガチャーン、とガラスの割れる音が遠くで聞こえた。
 宴会の喧騒と生演奏の音楽で目立たなかったが、さすがにマキアリイは反応した。
 クワンパに「行け」と目で指示する。
 本人が動くと会場内の全員の注目を引いて混乱に陥るに違いない。なにせ正義に篤い黒甲枝の集まりだ。

 給仕の監督に手振りで合図を送って、クワンパは会場をするりと抜けた。
 廊下に出たら全速疾走だ。

 出くわした従業員にどっちと尋ね示した方向に飛び込むと、ゲレータの控室だった。
 会堂の支配人は既に顔を見せていた。

「何事です?」
「どうやら賊が窓を割って押し入ったようで、ゲレータ様が追い駆けて行ったと、その場に居合わせた者が、」
「まさか……」

 大きな窓は派手にガラスが飛び散り、人が通るだけの穴が開いている。
 乗り出して確かめると、6杖(4メートル以上)下の離れた先に隣の建物の屋根がある。

「あそこまで飛んだのですか、ゲレータさんは。この暗さで」
「そのようです」
「なんて無茶な」

「無い、無いわ!」

 後から駆け付けたメナアハンがゲレータの私物を確かめて、血相を変える。

「名簿がありません、教導は名簿を盗まれたと知って必死で追いかけて行ったのです」
「名簿とは、今回の講習会の出席者ですか」
「それだけではありません。出席者の氏名住所のみならず、財産や投資実績についての資料も添付された非常に重要な!」

 なるほど。盗むに値するお宝なわけだ。
 これは本職の出番だな。

 クワンパは、再び会場に取って返す。
 お姫様に囲まれるマキアリイに告げた。

「所長、仕事です!」

 

        ***        

 歓呼の声に送られて、マキアリイ出陣。
 会堂の外に出て、屋根の上に居るはずのゲレータ・カパフルッツを探す。
 彼は白い礼服のままであるから、夜闇でも目立つ。

 状況は走りながらクワンパから聞く。

「ゲレータは見えるが、追いかけている賊ってのは見えないな」
「そりゃあ黒装束でも着ているんじゃないですか」

 屋根の上だから下から見上げていては分かりづらい。
 下の整備された道を走る方が早いから先回り出来るのだが、屋根伝いに妙な方向に進んでいる。

「クワンパ、俺も屋根に上がるぞ」
「はい! でもどこから」

 ここからだ、と目の前に迫る建物の壁面に取り付いた。
 壁の凹凸、レンガの継ぎ目、外壁に設置されている機器などを足場として、とんとんとんと駆け上がっていく。
 マキアリイの運動能力の高さは理解していたが、これにはびっくりした。

「しょ、所長ー」
「おう、お前は下から回れ」

 あっという間に3階を登り切り、瓦屋根に躍り上がったマキアリイは、向かいの建物に大きく跳んだ。
  そのままゲレータを追い駆けていく。

「非常識な人だとは思ってたけど、ほんとにむちゃくちゃだな」

 クワンパは今回カニ巫女棒を持っていない。戦闘力に不安があった。
 とりあえず近くに棒や箒が落ちていないか探す。

 

 屋根の上から見てみれば、ゲレータは一生懸命頑張って走っているのが分かる。
 ただ体力派ではないのだから、暗い足元も覚束ないままに必死で転ばぬよう急いでいる。まるで泳ぐような踊るような姿だ。

 一方のマキアリイは瓦や部材が不規則に並んでいる屋根の上を音もなくぬるりと滑らかに進んでいく。
 地上を走る速度とさほど遜色なく、たちまちに追いついてしまう。
 名簿を盗んだ盗賊、はまだ見えない。

 ゲレータは振り返り、体勢を崩して足元を踏み外す。屋根の端から転落した。
 が、マキアリイそこは読んでいた。
 落ちるよりも早くに自分で屋根を走り降り、壁面を足場に空中のゲレータを掴まえる。
 土壁からはみ出す桁の材木に手を掛けて、2人分の重量を支える。
 その後片手の腕力のみで壁を登り、屋根の上まで引き上げた。

 ゲレータは自分を助けてくれた男を驚異の目で見つめ返す。これは英雄を通り越してもはや超人と呼ぶべきではないか。
 そして、正気に返る。

「あ、マキアリイさん、名簿が、大切な名簿が盗まれて、追わなくては」
「いや、あんたでいいんだ」

 

        ***         

 手を伸ばして、屋根瓦の上に座り込むゲレータの礼服左胸の襟の裏を探る。ひっくり返すと古ぼけた絹の飾りが現れた。
 今回の依頼の品「嘉ヴァグメー金塔大綬章」だ。

「名簿が盗まれた、ってのは自演だな。本当の目的は屋根のどこかに勲章を隠したかった。
 何故焼き捨てない?」
「何を言っているのか分からない。それよりも名簿の犯人を、」

「あんたは俺が勲章を取り戻しに来たと知って捨てようと考えたが、何故か思い留まって、目眩ましの事件を考えた。
 被害者になってしまえば巡邏軍警察局の仕事、しがない民間刑事探偵の出番じゃないからな。
 勲章も楽々回収できる」

「なんの事だか分からない。この勲章は僕の家系が代々受け継いできた、」
「それは違うな。あんたは貴族とか勲章には縁の無い、普通の民衆協和国の国民だ。
 だが分からない。何故これが必要なんだ、他人の家の勲章が」

 すべてお見通し、と観念してゲレータは息を整えた。平静を取り戻そうとする。

「わかりませんか、英雄探偵の貴方でも。何故誰も知らない勲章が必要だったかを」
「ああ、さっぱり」

「本物だから、ですよ。
 本物を身に着けている事で人は自信を得る。紛い物、下級劣等品ではダメだ。本物が持つ輝きだけが力となって支えてくれる。
 旧世代の貴族を相手にすると、底の浅い現代人ではすぐに薄っぺらさを見破られてしまう。だから助けを必要とした。
  ましてやこれは、僕が心から尊敬する偉人ボド・メキヒレが、彼と共に世界を変革した同志にのみ贈った勲章です。
 貴い血統も神の助けも無しで、自分と民衆の力で成し遂げた理想の国の」

「わかんねえな。所詮は他人のものだろう」
「それは貴方自身が本物だからです。分からないでしょうねきっと、永遠に」
「まあいいや、とにかく勲章は返してもらうぞ」

 ちまちまと襟の裏に勲章を縫い付けている糸を解き始める。
 ゲレータが抵抗するなど考えもしない無防備な姿。だがいきなり襲い掛かっても手も無くねじ伏せられるだろう。
 勲章を外して。

「依頼終了。後は用は無し」
「ん? ……僕を警察局に引き渡さないのか」

「そうすべきとは思うんだが、窃盗の実行犯も捕まえなくちゃいけなくて、勲章自体は証拠品として押収されてしまうんだな。
 あんたと違って職業窃盗犯は逃げるのも専門だ。何年も捕まらない。
 その間に、こんな古ぼけた絹の飾りは手違いで処分されちゃうだろうな」

「英雄探偵がそれでいいのか? 正義は何処に行った」
「依頼人から請け負ったのは盗品の回収で、それが最優先だ。
 あんたが何を企んでいるか理解に苦しむが、詐欺とも思えないからな」

 事件終了、とマキアリイは屋根の上に立ち上がり、闇の空に大きく両腕を開いた。
 礼服の脇の部分が左右とも大きく引き裂けてしまっている。
 寸法が合わない窮屈な服を着て壁登りなんかしたからだ。高価い服なのに。

「そろそろ戻るとするか。名簿ってのも持ってるんだろ」 

 

       ***        

 会場に戻ってきたマキアリイとゲレータは、割れんばかりの拍手で迎えられる。
 設定では、「ゲレータは盗賊から名簿の奪還に成功するが屋根から転落したところをマキアリイの超人的活躍に救われた」事になる。
 ゲレータの純白の衣装が汚れに塗れ、マキアリイの礼服も破れてしまったのが信憑性を補強する。
 もちろん屋根に登れなかったクワンパは事情を知らない。

 ゲレータの身を案じていたメナアハンは涙でマキアリイに礼を述べ、頭を垂れる。熱烈な接吻まで付いてきた。
 警備の責任が問われる会堂支配人も、大事に至らずに済んだと胸を撫で下ろすのだった。

 

「巨乳でメガネの女が好きなんですね、所長は」
「何をとんがってるんだお前は」

 口は悪いがクワンパは上機嫌だ。背中には大きな風呂敷包みを担いでいる。

 会堂の支配人は、今宵起きた事件を難無く解決してくれた英雄探偵に対してなんらかの報酬を払うべきだ、と結論した。
 奥ゆかしいマキアリイは丁重に断ったのだが、それではどうしても気が済まない。
 せめてもと宴会のごちそうを紙箱に何箱も詰めて持たせてくれた。クワンパにとっては何よりの報酬である。

 夜道を二人して歩きながら、事件について整理をする。

「ところで所長。今回うまいこと勲章の奪回に成功しましたが、ここで犯罪が発生すると見抜いた根拠は何ですか。」
「いや、接触して脈がなければ次に行くつもりだった」
「脈?」
「俺はなんだか事件に好かれる質で、探さなくても向こうから寄って来てくれる。その感じだな」
「はあ。」

 名探偵と呼ばれる者は行く所必ず事件に遭遇する運命にある。
 英雄探偵たる者は、その運命すらも道具として事件解決に当たるのだ。

 

 翌日、勲章の奪還が成ったとの連絡を受けて、依頼人ブシブヒュコがマキアリイ事務所に駆け付けた。
 無事な姿の勲章を確かめて大いに喜び、マキアリイの貢献を褒め称えた。
 窃盗犯の逮捕には至らなかったが、別に巡邏軍警察局を喜ばす義理も無い。
 これを以って契約完了の運びとなる。

 依頼人は報酬を惜しむケチな金持ちではないが、しかし計算には細かい。
 必要経費の欄をつぶさに精査して、妙な損失を発見した。

「この、毀損した礼服の買い取りというのは、本当に事件解決に必要だったものなのか?」
「あ、いやーそれはー、」

 馬鹿正直な所長は言葉に詰まってしまう。
 ちゃんと説明すると、窃盗を依頼した張本人をわざと逃がした事まで言わねばならない。
 会堂の支配人に茶番のツケを払わせるのも罪だと思ったわけだ。
 買い取る際に本来の価格の2割にまで値引きしてもらったことだし。講演料も入ることだし。

 このままでは礼服代金を事務所が引っ被ってしまう。
 所長に任せてはダメだ。
 話の流れに割り込んで、クワンパが直接交渉する。

「ブシブヒュコ様、その礼服の損傷は調査の必然として発生したものに相違ありません」
「だがどのような経緯であるか、はっきりとしないものは認められない」
「この度の事件は特別なものです。特別に価値の有る勲章を追って、私どももふさわしい敬意を払って難しい状況の解決に挑みました。
 それもこれも、依頼人様が勲章にそれだけ高い価値をお認めになられたからです。名誉あるものだと仰ったからです。

 礼服の損傷は名誉を守るのに必要な代償であったと考えます。そうでなければもっと乱暴な方法を用いました」

 うむ、とブシブヒュコは考え込んだ。
 しばらく沈黙の後明細書を卓に置き、上着の胸に挿している高級万年筆を抜いた。
 請求通りの金額を小切手帳に書き込む。

 顔を上げ、特にクワンパに向いて言った。

「そこの事務員殿の言われるとおりである」

 

 

.(第九話)

 或る日の昼過ぎ、お使いで出ていたクワンパは、帰ると事務所に知らない男が居るのを見た。
 芸能関係の業界人と察しがつく派手な服装で、所長と打ち合わせをしている。
 クワンパにも明るく笑い掛けた。

「いやああなたがクワンパさんですね、初めまして。わたしはエンゲイラ光画芸術社の制作員 アガト・オプティアラスと申します」
「あ、映画会社の」

 タンガラムには大手映画会社が4社有る。
 最大手が「自由映像王国社」、資本力に優れ大作映画を得意とする。歴史・時代劇映画も多く手掛けた。
 2番手が「エンゲイラ光画芸術社」で、若手光星(アイドルの意味)を中心とした青春映画を主に展開する。
 3番手が「風麗月光キレアルス」、高名な芸術監督キレアルスが立ち上げ、芸術性の高い作品を特徴とする。幾つもの大企業の後援で資金は豊富。
 4番手は「サクレイ映画芸術社」、主に婦人を当て込んだ恋愛映画を得意とし、制作費の安い作品を早撮りする。

 ソグヴィタル・ヒィキタイタンとヱメコフ・マキアリイが一躍国民的英雄となった「潜水艦事件」の映画も、3社が手掛け計4本も作っている。
 いずれも大反響満員御礼で、大いに儲けた。

 最初に作られた『南海の英雄若人 潜水艦大謀略を断つ』が最も流行ったのだが、これは「エンゲイラ光画芸術社」の作品。
 社風に則り、若手新人男性俳優を前面に押し出して圧倒的支持を受けた。
 その時のマキアリイ役の俳優が、現在の『英雄探偵マキアリイ』連作の主役を務めている。

 映画会社の社員が来たとなれば、
クワンパ、流れに乗るしか無い!

「新作映画ですね、シャヤユート姉の事件の映画化ですね!」
「はい。今マキアリイさんに脚本の最終確認をしてもらっているのです」
「うああああああああおおおおおおおお」

 見せて見せて、と革椅子に座るマキアリイの背後に回る。
 アガトの説明が続く。

「この度、シャヤユートさんが関与された事件の裁判が結審しましたから、晴れて公開に踏み出せます」
「ユージェン村連続殺人の?」
「はいそれです。既に事件関係者の大半に映画化の許諾を頂きまして、後はマキアリイさんの最終判断のみです」

「判断と言ってもだな、もう撮影は進んでるんだろ」

 印刷された脚本をぺらぺらとめくりながら、マキアリイは応える。
 背中に張り付いて必死に覗き見しようとするクワンパに迷惑しながらも、注釈を加える。

「俺の仕事は、事件関係者がこの映画によって不利益を被らないように、或る程度の改編を加える。特に固有名詞や人名をだな」
「じゃあ事件映画は嘘が混じっているんですか」
「そう考えていい。もちろん映画として面白いように脚色はされるんだが、あまりに人格を貶めるものも拒絶するのさ。犯人にだって人権は有る」

「マキアリイさんの監修は実際に有った犯罪事件を映像化するのに不可欠なものです。
 なにしろ政府政党官公庁軍部に大企業が絡む大掛かりな事件が多いので、上手い具合に誤魔化していただかないとこちらも火傷してしまいます」

 クワンパはふと気が付いた。
 今『英雄探偵マキアリイ』劇場映画を撮るのは、上記4社すべてである。
 中でも最も進行していたのは最大手「自由映像王国社」が手掛ける『古都甲冑乱殺事件』(仮)のはず。
 今秋公開予定。

「ユージェン連続殺人事件は、」
「題名は、『英雄探偵マキアリイ犯罪録 シャヤユート最後の事件』に決まりました」
「最後の、ですか。これから新しい映画がどんどん出るのに」
「営業上これが最も強い印象を与え、観客の興味を大きく惹きつけると確信しています」
「公開日は、」
「2か月後の予定です」
「やっぱり!」

 夏公開で、最大手の作品の出鼻を挫く作戦だ。
 向こうは資本力の大きさを利用して今から大規模な宣伝活動を繰り広げているが、その尻馬に乗って安上がりに済ます狡い目論見も有る。

 マキアリイも、商業界の熾烈な戦争にさすがに呆れた。

 

         *** 

 ちなみに『古都甲冑乱殺事件』とはシャヤユートが居た頃に起きた事件で、旧青晶蜥王国の王都テキュでの祝祭を舞台とする。
 トカゲ神救世主「ヤヤチャ」を讃える壮麗な祭りに集まった大観衆の中に、甲冑と剣で武装した薬物依存症患者が斬り込み無差別に殺戮する猟奇事件である。
 犯人は、実行犯は捕えたのだが、背景が複雑すぎて未解明のまま。それでも映画化するのに不便はない。
 英雄探偵と美貌の事務員大活躍である。

 事件が起きたのは祝祭が行われる6月であり、本物の祭りの情景を撮影するには今年の6月を待たねばならない。
 撮影を切り上げて映画の公開を早める事は絶対に無理なのだ。

 さらに説明すると、現在マキアリイ役を務める俳優は3名居る。
 「エンゲイラ光画芸術社」と「自由映像王国社」のマキアリイは同一俳優であり、撮影が並行すると彼にとんでもない負担が掛かる。
 営業上も難しい立場に追い込まれる。
 独占契約をしたいところだが、「それは観客が納得しないでしょお」というマキアリイ本人の言葉により自由契約となっていた。
 おかげで彼は、「映像上のマキアリイ」として確固たる地位を得る。マキアリイ本人の代理となれるほどに。
 今では政府広報に彼が起用されるまでになった。

 クワンパが芸能雑誌等で知る所では、彼は大人気俳優として多額の出演料を稼ぎ豪邸まで建てたという。
 マキアリイ本人よりもよほどの金持ちだ。
 なのにうちは何故?

「映画の原作料とかはうちには入らないんですか」

 何を言うんだこの女は。という目でマキアリイと映画会社の人に見られて、クワンパ怯む。
 私、なにかまずいこと言った?

 マキアリイは冷たく、不心得の事務員を諭す。

「あのなクワンパ。俺の映画は何本もあるが、原作料なんてものが発生するわけ無いんだぞ」
「え、でもこれは何の打ち合わせで」
「俺がやってるのは映画の監修であって原作ではない。だいたい現実の世界で起きた犯罪事件のどこに原作料を払えばいいんだ?」
「あ!」

 ようやくに自分の間違いを理解した。
 ついで映画会社のアガトが補足する。

「基本的にマキアリイさんが解決した事件の実録映画、放送演劇もですが、は事件報道として制作されています。娯楽作品ではないんですよ建て前としては。
 だから警察局もわずか数日数週間前に起きた事件の映像化に協力してくれるし、広報の一手段として認めてくれます。
 そうでなければ被害者加害者双方の利益や名誉侵害の訴訟となって、とてもではありませんが映画化なんて無理なんです」
「ということだ。原作も版権も無い。映画が大人気でもうちには何の見返りも無い。ただ監修料が入るだけだ」

 はー、と納得したが、承服しかねる。
 世間では観客動員百万人とか興行収益1万金なんて派手にぶち上げているのに、ちょっとくらい本家を潤してくれてもいいじゃないか。
 事務所の経理を任された立場からして、一言言いたい。

「カネをクレ」
「マキアリイさんにお願いする監修料としては、映画で10金、放送演劇では5金が相場となっています。ですよね」(1金=10万円相当)
「おう」
「それは高価いんですか安価いんですか?」
「売れっ子の脚本家の先生よりは安いですね。放送演劇の脚本としては高めではありますが、そちらは各地での巡業公演もありますから格安と言えるでしょう。
 現実の事件を題材とした場合、最初の取材費だけでこのくらい簡単に吹っ飛びます。会社的にはとても経済的と言えます」

 時々経理の帳簿に出現する「監修料」名目の入金の正体をようやくに理解した。
 なるほど、それ以上に事件から儲けようとするのは強欲と呼ぶべきだろう。だがなにか無いものか。

 クワンパ、はっと気付く。
 左右を見回して郵便物を探す。手近に有った事務所宛の茶封筒の宛先は、
   『ハマヴイ映画興業社』
 マキアリイ映画関連商品の販売で儲ければいいわけか!

 勢い込んで、マキアリイに食いついた。

「ですよね、所長!」
「いやあのな。そのカラクリに気が付いたカニ巫女はお前が初めてだぞ。頭いいな」

 だがカニ巫女としては失格だ、と言われたようで、クワンパは顔面真っ赤になった。
 尊敬する師姉に顔向け出来ない、恥ずかしい。

 

         *** 

 マキアリイ所長が阿呆な事をアガトに尋ねる。

「クワンパ役の女優さんはもう決まったのか。」
「現在募集中です。既に千件近い申込書が集まり、書類選考の段階です」

「ちょっとまって!」

 いきなり恐ろしい話が始まってカニ巫女は戦慄する。思わず手を突き出して会話を止めた。
 今何を言った。本人の与り知らぬ所で何してやがる。

「映画や放送演劇でクワンパさんの役をする新人女優の話ですよ」
「それはわかってる。だから何故私なんですか」
「そりゃーマキアリイさんの事務所のカニ巫女見習いですから」

 所長に振り向くと、へっと笑われた。
 自分は今どんな顔色をしているのだろう……。

 マキアリイは身を乗り出して話を継ぐ。

「シャヤユートの時は面白かったな。『カニ巫女見習いの一日』」
「サクレイ(サクレイ映画芸術社 4番手)のアレですね。やられましたよー、単なる形態模写であそこまで売れるとは」

 前任のカニ巫女事務員シャヤユートが配属になった初日からその姿を撮影して、映像のとおりにシャヤユート役女優が真似をして日常の風景を描く、という短編映画だ。
 ただ単に動きを真似ただけなのにとてつもなく面白くて、主に小劇場上映であったのに毎日10回も客を入れ替える騒ぎとなった。
 半指幅(7.5ミリ)10分の簡易映画にして一般販売もしたら、即日完売という有様。
 残念ながらカニ神殿から「巫女の品位を汚す」との強硬な抗議を受け、この手法は二度と使えなくなった。

「クワンパ映画も衝撃登場やりたいな」
「やりたいですねえ。なにか凄く活躍する事件、起きませんかね」
「おいおい」

 

 アガトが帰った後、クワンパは事務席で放心状態にある。
 働けよ、と所長に叩かれた。

「所長、あれなんとかなりませんかね」
「まあせいぜい美人の女優さんが見つかるのを期待するんだな。お前の印象が消し飛ぶような」
「なるほど、それは、でも、なんか、やだ」

「それでクワンパ、巫女寮の方はどうなった。今週から移ってるんだろ」
「ああはい。ようやく店子が定数埋まりました」

 巫女寮とは、とあるお金持ちの若後家が財産分与でもらったお屋敷を改装して、十二神の巫女専用の寮としたものだ。
 その後家さんも元はトカゲ巫女であり、病院で患者の世話をしていたら金持ちの爺さんと結婚する事となった。
 名をグリン・サファメルという。とても美しい、胸の大きい、天然なヒトだ。

 クワンパが実家から出て独立する住処を探していて、事件に巻き込まれていた彼女を助け、居住が決まった。
 ゥアム帝国調の華麗な装飾が施された立派な豪邸だ。
 あまりにも大きすぎて管理が行き届かず、巫女を住まわせてなんとかしようとの算段。

 マキアリイは彼女に頼まれて入居者となる巫女を探す約束をした。
 カニ巫女トカゲ巫女だけでなく、コウモリ神やミミズ神、カブトムシ神殿にまで顔が利く。
 或る意味ではマキアリイ英雄探偵の力は、旧来の十二神信仰の基盤に成り立っているとも考えられた。
 彼が得意とする格闘球技「ヤキュ」も、トカゲ神救世主「ヤヤチャ」に由来するものだ。

「一度そちらに顔を出すとサファメルさんに言っておいてくれ。自分で推薦してなんだが、知らない奴も居るからな」
「はい。大家さんにはそのように伝えておきます」

 

         *** 

 巫女寮がある屋敷町と、マキアリイ刑事探偵事務所がある鉄道橋町との間の距離は徒歩で30分。
 ただし帰りは40分を越える。
 屋敷町は丘の上にあり、最短経路はとんでもない坂を登る事になるからだ。

 もちろんお金持ちは回り道する。自動車が登れる道路がちゃんと整備されている。
 だが貧乏人は2本の脚で歩いていく。それが人間自然の姿。

「よおねえちゃん、尻押してやろうか」
「要らねえ」

 最短距離であるから、荷物を運ぶ需要もある。遠回りがいつでも最適解とは限らない。
 だから荷運びの人足やイヌコマ(と呼ばれる小さな馬)も用意されている。
 輿を担いで人を運ぶ事だって出来る。
 機械文明社会とは言え、タンガラムのあちらこちらに旧世代の遺物は幾らでも転がっていた。

 もちろんクワンパはそんなものを利用する選択肢を持たない。カニ巫女棒が有れば上等。
 汗だくになりながらも建設的な思考を巡らせる。

「……斜め昇降機ってものが世界のどこかにあるって聞いたけど、どっかの金持ちが作らないかなア」

 晴れの日であるからまだマシだ。
 これが雨降りとなると坂は滝に変わる。さすがに別の道を選ばざるをえない。地獄階段と呼ばれる道だ。

 坂を登り切ってようやく巫女寮に辿り着いた頃にはすっかり陽も落ちて、辺りは暗くなり始めた。
 これでもずいぶんと日が長くなった。そろそろ春から夏に季節が移る。
 その前に、タンガラムには雨季が来る。恵みの雨が。

「クワンパ、ただいま戻りましたー」

 赤レンガで低く囲った塀の上に鉄製の瀟洒な柵があり、美しく整えられ花が咲き誇る庭が垣間見える。
 門前の表札には「ワッドシラ十二神巫女寮」と書いてあった。
 この屋敷の本来の持ち主でグリン・サファメルの亡夫ワームワッドシラの名。大手鉄道建設会社創業者で大富豪だ。
 自分が亡き後の若く美しく天然な妻の行く末を案じて、購入したと聞いている。

 門には珍しい電話式の呼び鈴が付いており、訪問者および入居者はこれで申請して門扉を開けてもらう。
 母屋から出てきて庭を横切り、現れたのは中年と呼ぶにはもう少し年配の怖そうなおばちゃんであった。

「カーハマイサさん、ただいま戻りました」
「はいお疲れ様ですクワンパさん」

 巫女寮と言っても単に女子限定の下宿屋を想定していたサファメルであるが、入居者の選定を任されたマキアリイが真っ先に選んだのがこの人だ。
 カーハマイサは55才で中学校の教師をしていたが今年退職。タンガラムでは通常55才定年である。
 結婚もしてないし、退職金もあるし悠々自適に老後を過ごそうかと考えていたところに、寮監の仕事を依頼された。
 ちなみに教師時代に生徒から奉られたあだ名は「鬼」。
 サファメルが構想していた「ふんわりほわほわの巫女寮」は、この時点で崩壊した。

 何故マキアリイが彼女を選んだのか、クワンパにも痛いほどよく分かる。
 なにしろ大家のサファメルさんは、天然だから。危ないから。また屋敷を取られそうになるに決まってるから。

「クワンパさんは今日お当番ですね。厨房にただちに向かってください」
「はい!」

 これでもカニ神殿の見習い寮よりはよほど緩い。
 月1ティカの家賃で暮らそうとするクワンパにとって、甘受と呼ぶほどにもならない締め付けだ。
 我ながら規律に縛られるのに慣れ過ぎてしまって、思わず笑えてしまう。

 

         *** 

 白い、大き過ぎる厨房だ。
 屋敷の庭で盛大な宴会を催せるほどに設備が整えてあるが、普段使いにはさすがに大袈裟。
 つい最近まで料理人も居たのだが、乗っ取り騒動で辞めてしまった。
 自分のためだけに料理をするのもつまらない、と大家のサファメルが下宿を考えるのも無理はない。

 クワンパが部屋着に着替えて入ると、既に2人調理当番が働いていた。

「クワンパさんお帰りなさい」
「なんだ、今日は残業無しか」

 最初に声を掛けたのが、カタツムリ巫女の「ヰメラーム」、19才。
 後の方は、ゲジゲジ巫女「ッイーグ」、20才。
 どちらもクワンパと違い見習いを終了して正巫女である。下っ端だが。

 カタツムリ(緑隆蝸)神『ワグルクー』は山と森、家、国家を守護するモノである。簡単に言うとこんもりとしたものの神様。
 神官巫女の責務は祭事であり、神話劇を演じる俳優女優である。
 記憶力抜群で容姿も美しい者が選ばれるので、王宮の侍従侍女の役も務めてきた。
 また舞台衣装を自らも縫うので、服飾に関しても優れた技を持つ。

 ゲジゲジ(金雷蜒)神『ギィール』は太陽、灼熱に輝く陽光、金属の光と稲妻、頭を司る神でもある。
 精神や知識、学習はもちろん、精神疾患から悪魔祓いまで扱うのだが、一般人が期待するご利益は「髪結い」であった。
 ゲジゲジ巫女は最新流行の髪型をひねり出す芸術家であり、髪を飾る装飾品、全身までも彩る宝飾品を扱っていた。
 現在では民間の理髪店も多いが、ゲジゲジ神殿は特別に高い地位を認められている。

 クワンパは二人共苦手だ。
 どちらも年上で美人という理由もあるが、芸術的才能で生きていける人間はなんだか羨ましい。
 特にッイーグは、高慢で自分の美しさをひけらかそうとする。ゲジゲジ巫女としては典型なのだがやはり許せない。
 光物で全身武装してキラキラと金持ちそうに見せるのもイヤだ。

 もっともゲジゲジ神殿はそういう女ばかりで競い合って神経の休まる暇も無い。傍で見るほど楽ではなかった。
 宝飾品で自分を飾るのも業務の内、有力な後援者が見つかるまでは借金まみれで残業の嵐だったりする。
 質素な格好で他人をぶっ叩いて憂さ晴らしが出来るカニ巫女が、よほどお気楽に思えるのだ。

 クワンパは料理用の前掛けをして、尋ねる。

「今日は何人?」
「なんと全員勢揃いだ」
「誰も残業も泊まりも無し? うそお」
「巫女寮が始まって初めてですねえ、みなさんのご都合が合うなんて」

 ゆっくりと話すのはヰメラーム。いい人なのだが少し喋りが遅い。よく考えて言葉を出す。
 大家のサファメルの話し相手にはちょうどよい感じだが、気の短いクワンパにとって接し易い人ではない。
 しかし、割とそそっかしい。特に事前の計画に抜かりが多く、よく難儀な目に陥ってしまう。
 普段ぼーっと神話や創作劇の構想なんかを妄想しているから、足元が留守になるわけだ。

「それで今日の献立は」
「トナクを炊く。肉料理、大山羊の腿が1本手に入った。これをまるごと香草と焼いて、薄切りにしてショウ油を素としたタレを掛ける」
「誰だそんなぜいたくな料理を選んだ奴は!」

 淡々と説明するッイーグにクワンパは噛み付いた。
 食費はどうするんだそれ、下宿人全員が出し合うんだぞ。一ヶ月の配分考えたのか。
 ッイーグも悲しそうな目をする。

「大家さんが買ってきてしまった。どうしよう……」
「どうしようって、サファメルさんが出すんじゃないぞ。合同だぞ」
「あの人が、そんな金勘定してると思うか?」

 3人共に押し黙る。
 今日の買い物は大家さん唯一人で行かせてしまったのか。誰も警戒しなかったのか。
 とりあえず、ヰメラームが提案する。

「とにかくせっかく買ってきた腿肉を無駄にする事は出来ません。他のお惣菜を安物にして長期的に帳尻を合せましょう」
「そうだな、それしか無いな」

 クワンパは早速食料庫を漁り、最終兵器を取り出した。
 ここは所長に倣うとしよう。
 案の定ッイーグが細い眉をしかめて、愚痴を言う。反対はしない。

「ゲルタかよ、またゲルタ汁かよ」
「クワンパさん、せめてネギは入れましょう。豆味噌もケチらないで」
「クワンパ、わたしは考えたんだがな。サファメルさんに提案して、」

 高貴でぜいたくな印象を与えて商売しているゲジゲジ巫女だ。古代には支配者ギィール神族の侍女として絢爛たる日常を送ったとされる。
 だから神殿の掟的には嬉しくないのだが、背に腹は代えられない。

「……サファメルさんに提案して、庭で野菜を育てよう」

 

         *** 

 華麗な装飾が施された明るい食堂に巫女寮の全員が集まり、それぞれ席に着いている。
 入居者全員が揃うのは今日が初めてであるので、夕食の前に大家のサファメルが挨拶を行う。

「皆さんこんばんは。そしておめでとうございます。
 あなた方はかの英雄探偵ヱメコフ・マキアリイさんによって選ばれた仲間です。
 これから何時までご一緒できるか分かりませんが、今この時を神聖なものと考えて日々を真剣に生きていきたい。
 そういう場所にわたしはしたいと願っています。
 皆さん仲良くしていきましょうね」

 はいっ! と最年少で末席に座る髪の黒い少女が手を挙げる。
 黒服の彼女は14才まだ中学生でありながら、コウモリ神殿で修行する。
 巫女名は「ビナアンヌ」。

「カーハマイサさんは十二神殿となんの関係があるのですか」

 いきなり聞き難いことを聞きやがった、と年長の巫女達は硬直する。
 この若さで葬式を司る神殿で修行中だから、なんか変な娘だろうとは思っていたがやっぱりだ。

 カーハマイサは首を少し傾げる。たしかにその疑問には答えるべき。

「そうですね、私は巫女の経験者ではありませんが、私の教え子には何人もその道に進んだ者が居ますよ。
 これでいいですか」
「はい、それならば結構です」

 よく分からないが、ビナアンヌは納得してしまった。
 今の言葉は、自らの教え子のように寮の巫女達を教育する、という意味なのに。

 食堂の大きな机に並んで座る順番は、まず正面の主人の座が大家のサファメル 25才。
 その右手に寮監を務めるカーハマイサ 55才。
 この二人は当然として、後は年齢順に座っている。
 巫女世界は神殿に入った年で先輩後輩が決まり、他の神殿の神官巫女でもおおむねその秩序が保証される。

 最年長は27才のミミズ巫女「ミメ」 マキアリイ事務所の屋根裏に住んでいる呪先生の紹介だ。やはり占い師をしている。
 彼女は別格として、後は若い。

 22才タコ巫女「タルリスヴォケィヌ」 歌舞音曲を司るタコ(紅曙蛸)神『テューク』に仕える楽器演奏者。
 巫女寮に備え付けのゥアム帝国製機械鍵盤楽器が自由に使えると聞いて、入居した。

 ついで20才ゲジゲジ巫女「ッイーグ」
 19才カタツムリ巫女「ヰメラーム」

 18才蜘蛛巫女「ソフソ」
 蜘蛛(黄輪蛛)神『セパム』は文字と記録、空の星座の神で、彼女も駆け出しの算術士だ。メガネを掛けている。
 ちなみに彼女が得意なのは惑星の軌道計算であって、一般の経理には興味を持てない。金勘定は任せられない。

 そしてカニ巫女見習いで世間修行中のマキアリイ刑事探偵事務所所属、17才「クワンパ」
 見習いだから一番端に座るのは、「ビナアンヌ」と同じ。

 サファメルはもう2人ほど欲しかったが、おおむね満足する。
 いずれ環境が整えば増員も出来るだろうし、十二神殿の間にも評判となって良い人が来るだろう。

「それでは皆さん、お夕食をいただきましょう。ご馳走ですよ」

 明るく微笑むサファメルの前で、巫女達は複雑な表情を笑顔に作り直す。
 食事の支度は共同、食材の買い出しの費用も全員の食費を集めて計画的に使う規則。
 大山羊の脚まるごと一本なんて、顔面青ざめるに決っている。

 もう覚悟を決めて食うしかない。
 それぞれがそれぞれの神に対して懺悔の祈りを捧げる。

 

         *** 

 欲を言うならば、力仕事専門がもう2名ほど欲しかった。とクワンパは思う。
 もちろん自分自身も労役班だ。

 クワンパの役は巫女寮の用心棒である。が、もう一人戦闘巫女は居る。
 タコ巫女「タルリスヴォケィヌ」通称タルちゃん、は双短剣の使い手だ。剣舞をするから相当に使える。
 だが力仕事はしない。商売ものの繊細な指を痛める真似をするわけが無いのだ。

「そう言えばクワンパさん、」
 と、ヰメラームが食事中話し掛けてくる。カタツムリ神の神官巫女は古来より神話劇を演じる俳優である。

「カタツムリ神殿に、「クワンパ」さんの役を演じる新人女優の募集広告が貼り出されていましたよ。映画撮るんですねえ。」

 思わず口の中の食べ物を吹き出しそうになった。
 その話、昼間聞いたばっかりだ。
 食堂の全員が、

「ほー」
「へー」
「わー」
「凄いわクワンパさん」
「そういう話になるのですね、英雄探偵の助手を務めるヒトは」

「ちょっと待ってください、皆さん!」

 思わず大きな声を出して訂正する。せねばならない。

「あくまでも映画や伝視館の放送演劇に出てくるのは女優さんであり、マキアリイ事務所の事務員その人ではありません。
 あれは虚構架空の物語なのです。現実の事件に準拠していますが、ウソ話です。
 それを忘れないで下さいくれぐれも。」
「そりゃそうだ、クワンパ本人が銀幕に出るわけじゃない」

 ッイーグがそっけなく言う。ゲジゲジ巫女は自分より人気者が居るのが許せない質だ。
 普段なら頭にクル態度だが、今限定でそれでいい。それが正しい反応だ。

「本人が映画に出ればおもしろいのに」

 ぼそっと、蜘蛛巫女ソフソが聞こえるように言う。
 悪いやつではないのだが、彼女は変化を求める者だ。この巫女寮にも、なにか騒動が起きるかもと入居した。
 英雄探偵マキアリイの事務員が居るのだ。事件が起きてワクドキ大冒険になるのが当たり前じゃないか。
 ひょっとすると巫女寮自体が映画に出るかもしれない。いや出るに違いない。

 と、大家のサファメルに告げる。全員大混乱になった。

「わっ」
「うそ」
「そんなバカみたい」
「そういえば前のシャヤユートさんは日常生活が映画になって」
「いえ冷静に考えればそれはあり得る話です。サファメルさんどう対処しましょう」
「だいじょうぶですよマキアリイさんがなんとかしてくれます」

 あっ、とクワンパは気が付いた。マキアリイの人選の意図だ。
 美人、美人、美人ばかりなのは映画の絵面が映えるようにか。
 寮監が厳しそうなおばさんなのも、下に中学生を配置するのも、その為か。
 仕込みを入れて演出を付けて、マキアリイ伝説を補強する面白クワンパを作る気か。

 この食堂の中に、映画会社の回し者が居る!?

 

         *** 

「そりゃ考え過ぎだよ」

 食事が終わって片付けになって、皿を洗うクワンパにソフソは言った。
 そこまで上手く仕込めるもんか。
 年下のビナアンヌも勘ぐり過ぎだとクワンパを責める。

「マキアリイさんがそんなに信用出来ないんですか。事務員なのに」
「就職入社して実態を知るまでは私もそう思ってたのさ。英雄探偵ヱメコフ・マキアリイは信頼に足る人物だって。
 ところが実際に働き出して活躍の秘密を知って、考えを変えたんだ。
 こいつはとんでもない山師だって。捜査手法自体が行き当たりばったりだ」
「わかんないなあ、実績十分なのに」
「わかりませんねえ」

 年少組が皿洗いを完了した頃になって、最年長ミミズ巫女「ミメ」が入ってきた。手伝う気は欠片も無いらしい。
 クワンパを呼んだ。

「クワンパさん、夜は寝る?」
「そりゃ寝ますよ、明日があるし」
「寮を狙ってる不埒な視線がある。下着泥棒かもしれない」
「え、ほんとですか」

 ミミズ巫女は呪いを専らとし、なにやら薄暗い部屋で怪しげな薬品を調合する。
 夜更かしするし、夜中に出歩いて不思議な儀式を繰り広げる。
 夜が営業時間であるから、皆が寝静まった館の様子も知っているのだろう。

 考えてみれば女子ばっかり、それも美しく若い巫女が住まう寮に痴漢が目を付けないはずもない。
 これは、カニ巫女の仕事であろう。

「分かりました、私がなんとかします」
「そう? じゃあよろしく」

 ふらりと戻っていった。手伝う気は欠片も無いらしい。
 夜といえば、天空の星座を扱う蜘蛛巫女の出番でもある。
 ソフソもこれまで手薄であった夜間の防犯を懸念していた。
 鼻に乗ってずり落ちてきたメガネをちゃっと押し上げる。

「鉄柵だけじゃあダメだよねやっぱり。防犯装置を蜘蛛の巣みたいに張り巡らせよう」
「鳴子の罠を仕掛けるか。どこから入っても分かるように、敷地の全周に沿って」
「でも危険な攻撃系罠はダメだよ。大家さんぜったい引っ掛かるから」
「うん、警戒系だけだな」

「ハエ取り罠はどうでしょう。アレなら痛くないけど動けなくなります」 

 ビナアンヌも手を挙げた。コウモリ神は夜の守り神、邪悪な妖怪や屍人を滅ぼす異形の神だ。

「それは有りだな」
「でも全周に仕掛けるわけにもいかない。敵が侵入し易い場所を見つけて、捕獲系は設置した方がいいよね」
「うん」

 どちらにしろ、もう暗くなった今から用意は出来ない。
 今晩は奇をてらわずに王道「不寝番」をするべきだろう。
 当然クワンパがやる。明日のことは明日考えよう。

 夜の神様に倣ってビナアンヌも志願するが、先輩二人に強くたしなめられた。

「中学生は寝なさい!」

 

         *** 

 深夜、クワンパは立膝して座りながら眠っている。カニ巫女棒を抱いたまま。
 巫女寮の館1階応接室。前にマキアリイと来た時にサファメルと対話した場所だ。
 考えてみればあの時もクワンパは泊まりこんで夜通し番をした。

 夜警戒しながら眠るのは、実はカニ巫女にとって普通の生活だ。
 恨みを買う事の多いカニ神官巫女は報復を受けるのも日常で、常に警戒を怠ってはならない。
 眠る時でも異変があればすぐに飛び起きて戦闘態勢に移れるよう、見習い寄宿舎で躾けられていた。

 クワンパ自身は既に苦にならないほど仕込まれているが、実家の安楽な寝床に慣れて精神が少し鈍っていた。
 不寝番は、カニ巫女としての本分を取り戻し引き締め直すのに丁度良い機会である。

「クワンパさん、だいじょうぶですか」

 闇の中、寮監のカーハマイサが携帯電灯を手に見回りをしている。防犯は本来彼女が取り仕切る。

「あ、だいじょうぶですこれがカニ巫女の仕事ですから」

 眠っていたはずなのに、クワンパは起きていたかに平然と反応する。
 これがカニ巫女の芸だ。昼間居眠りをしていても使える便利な技。

「そうですか、無理はしないでください。また明日の不寝番は無しですよ」
「ハイ、朝には皆と相談して色々決めます」

 再び闇に戻り、カーハマイサが見回る音も遠ざかり、やがて静寂に包まれる。
 夜中にうろつき回るミメも、星を観測するソフソも今晩は素直に床に就く。
 遠くからカエルの鳴き声が聞こえてきた。

 肩に立て掛けたカニ巫女棒を、一度まっすぐに構え直して戻す。
 いかに芸とはいえ、毎晩はさすがに不可能だ。最低でもカニ巫女3人が順繰りに番を務めるべき。
 こういう時は先手必勝で痴漢変態を血祭りに上げ見せしめとして、以って近所に脅しを掛けるのが上策。
 恐怖こそ最高の防犯策である。

 早く来ないかな、下着泥棒。

 

 来なかった。

 どこの神殿でも朝は早い。3時半(午前5時)には起き出して、清掃や儀式を開始する。
 クワンパは不寝番のご褒美として、清掃と朝食の準備を免除された。
 ただ、朝っぱらからタルちゃんが鍵盤楽器をガンガン打ち鳴らすのは、どうにも神経に響いていけない。
 タコ神のお祈りがそうだから、仕方ないのだが。

「いや、あんたの棒術の稽古も物騒だよ、朝っぱらから」

 ッイーグに注意されてしまう。彼女は化粧を入念に行うのにずいぶんな時間を必要とする。

「朝風呂はさすがに寮では無理があるからね。水浴びをするにはまだ寒いし」
「洗濯物出してくださーい」

 ヰメラームが全員に呼び掛ける。
 洗濯はもちろん当番制であるが、昼間は皆それぞれの業務で寮を離れるので、最終的に残るサファメルとカーハマイサの仕事になってしまう。
 改善の余地あり。
 なお、ヰメラームは舞台衣装を縫ったりするので針仕事は得意。寮の布製品総支配に任命された。

 なんやかやで大騒ぎをして、全員支度を整えて食堂に整列する。
 赤緑黄に金キラの巫女衣装、事務員服の紺に中学校の女子制服と、色とりどりに花が咲く。

「今日、夜遅くなるヒトは?」
「はい、クワンパです。夜間電話番で残業もしくは泊まりになります!」

 カーハマイサが小さな黒板に「クワンパ 夕食なし」と書き込んだ。
 誰かさんのせいで食費は切り詰めねばならない。無駄は許されない。

「その他遅くなるヒトは電話連絡してください」
「ハイ!」

 いざ出陣。
 だがミメは今からもう一回寝る。朝のお勤めを済ませたら寝るのがミミズ巫女の仕事。

  

         *** (第九話 その2)

 昼前の業務を終え、休み時間にご飯食べに行ったついでに買い物をして、事務所に戻ったクワンパは
何故か幼女が居るのを見た。こどもだから髪が黒い。
 ガラス扉を開け入ってきたクワンパを下からずいと見上げる。

「所長、なんですかこの子」
「依頼人だよ」
「バカ言わないでください、こんな4才位の子になにを」

「黒ピッ太をさがしてほしいの」

 両手を開いてクワンパに訴えかける。真剣に、なにがなんでもお願いだ。

「所長、黒ぴったんて何ですか」
「黒ピッ太はネコなの。しっぽがあってちいさくてかおがまるくて黒いの」

 すっ、とクワンパの顔面が白くなる。
 舐めとんのかこのガキ、いや所長が私に嫌がらせでこんな子連れて来やがったな。
 人が刑事探偵業を勘違いして就職したのを、今更になって探偵物語定番でなぶる気か。

 おんどれはー、と大声で叱ろうとした瞬間、幼女はマキアリイの所に飛んで逃げた。

「こわいよーおじちゃん!」
「よしよし、怖いねえ、カニ巫女のおねえちゃん怖いねえ。
 というわけだクワンパ。お前、これから町に出て黒ピッ太を探してこい」
「は? なんですそれ、業務と何の関係が?」
「業務というなら、所長の命令は絶対だ。見付けるまで帰ってくるな」

 とりあえず所長を叩こうとカニ巫女棒を振り上げると、マキアリイは幼女をかばって背中を見せる。
 まるで、私が幼女を殴り殺そうとするかに見せつける気だ。

 こんちきょめ、と叫んでクワンパは事務所を飛び出した。ガラス扉ががちゃんと割れそうな音を立てる。
 1階に続く暗い混凝石の階段を走り降り、表通りに飛び出した。
 もちろんカニ巫女棒は携えたまま。首から布鞄をぶら下げて、さっき帰って来たままの姿だ。

 

「どうしました、クワンパさん。ヤクザでも出ましたか」

 振り返ると、マキアリイ事務所の下で営業する靴皮革問屋の従業員が話し掛けてくる。
 どうやら自分の表情はかなり殺気立っているらしい。
 呼吸を整え、気持ちを整理する。今更所長の気まぐれで阿呆な真似をさせられるのに腹を立ててどうする。

 というわけで、クワンパは圧倒的早口で現在の状況を目の前の男にぶち撒けた。
 年齢30才越えの彼は、前二代のカニ巫女事務員の所業を知っている。
 まあまあ、と両手で押さえる仕草をしてクワンパをなだめた。

「そうですか、マキアリイさんは遂に例の計画を実行したんですね」
「は? 前々からネコ探しを私にさせる気でしたかあのやろお」
「いえいえ、マキアリイさんは最近愚痴っていたんですよ。クワンパさんが事務員の仕事をまじめにやり過ぎるって」
「事務員が仕事をまじめにやって、何がおかしいんです。どっか間違っていますか!」
「間違っちゃいませんよ。でもですねー、
 シャヤユートさんも、ザイリナさんも、二人共に事務所に居着かない人達だったんですね」

 いきなりぐっさりと心臓を抉られる衝撃。
 優れた巫女は、たとえマキアリイに給料をもらう身であっても業務そっちのけで正義を追求していた、……のか。

「正義を示す場を探していた、ってことですか」
「はあ。特にシャヤユートさんは乱が無ければ自分で火を点ける性格で、大石をひっくり返して下の地虫が湧いて出るのを虱潰しにするような、そんな気迫で悪を探していましたよ」
「ザイリナ姉は?」
「ザイリナさんは、懐かしいなあ。ザイリナさんはいつもお腹が空いて、近所の色んな店を強襲してたかっていましたね。
 悪を潰せばそれだけご飯が食える的な」

 なんという事だ。二人共に生きる事と正義を追求する責務を同一化してカニ巫女正道を堂々と歩んでいたのか。
 地味な探偵事務員の生活を塗り潰して、圧倒的色彩に輝く正義の道を。
 それに比べて自分は、英雄探偵のしっぽを追い掛けるばかりで、帳簿なんかとにらめっこして。

「じゃあ所長は、私にも同じことをやれと」
「だと思いますよ。ネコ探しはその方便ですねたぶん。もっと町の人と触れ合って、世間の実像を知れって事でしょう」
「……ありがとうございます」

 反省、ひたすらに反省。
 親の心子知らずとはこのことか。黒ぴったんを探せとは、そういう温情であったのか。

 

         ***

 「黒ぴったん」とは何者か。

 ネコである。しかもしっぽがあるから、無尾猫ではない。
 タンガラムにはネコは、山猫、無尾猫、小猫の3種類居る。しっぽがあって小さい小猫は子供たちも大好きな町の人気者だ。
 「黒ぴったん」は小猫で、顔が丸くて黒いらしい。

 もうちょっと情報が欲しい。これでは探す前に黒ぴったんの住処を確認するだけで大事だ。
 今更事務所に戻って追加情報を聞くわけにもいかないし。
 ではご近所のネコ好きの人に話を聞くとするか。せめて、あの女の子の名前くらいは聞いておくべきであった……。

 幼女の顔を思い出そうとしても、そもそも子供って見分けがつかないし、着ている服の特徴もまるで覚えていない。
 何の手掛かりも無いままでネコ1匹を探すなど、如何にも無謀。素直に降参して所長に謝りに行くべきか。

「あ!」

 なんだ。簡単ででっかい手掛かりあるじゃないか。

 ネコを探す幼女、を探すからいけないのだ。
 所長マキアリイがどこからあの子を連れて来たか、を考えればいい。おそらく、間違いなく知人の子だ。
 それも個人的な友人というよりは行きつけの網焼き屋とか飲み屋の近所に住んでる子だ。
 マキアリイが探偵であるのを知っていて、黒ぴったん探しを頼んだに違いない。

 幸いにしてクワンパは、マキアリイが聞き込みをするという名目で飲み歩くのを尾行した経験がある。
 あの経路で探せば、とりあえずなんとかなるのでは。
 それでダメなら虱潰しで。

 ふう、と溜息を吐く。だめだなー私。
 所長の立ち回り先くらい知っておかずに何が事務員だ。
 誰と誰がマキアリイの味方で、誰が敵意を持っているか。そのくらい弁えずに英雄探偵の助手ができるものか。
 そりゃ心配されるはずだ。

 気を取り直して探索を開始する。
 まずはこの間お世話になった、下宿探しでサファメルさんを紹介してくれた酒屋に行ってみよう。
 酒を商うなら、マキアリイがよく行く飲み屋の見当も付くだろう。

 

 1刻半(3時間)を費やして、マキアリイご近所立ち寄り先地図を完成させた。
 黒ぴったん探しの幼女の家も発見する。というよりは、女の子本人とばったり出くわした。
 マキアリイがすぐに送り届けてくれている。思ったよりも近くに住んでいた。

 慎重に、逃げられないように、膝を折り背を低くして目線を合せて優しく尋ねてみる。

「そうかー、トトリーちゃんて言うんだ」

 今度は幼女を怖がらせなかった。
 イガラミン・トトリー4才の両親は燃料販売業で、近所の飲み屋網焼き屋に木炭を届けていた。
 ノゲ・ベイスラでは未だガス燃料供給は一部に留まり、昔ながらの木炭・練炭が多く使われている。
 お得意先の一つにマキアリイがしばしば立ち寄り、「かっこいい探偵のおじちゃん」として覚えていたわけだ。

 だが話を詳しく聞くと、たしかにちょっと変な事件だ。
 小猫の「黒ピッ太」は、近所に住んでいる半野良でみんなの人気者であった。
 本日朝方、トトリーがネコと遊ぼうと外に出たら、知らないお兄ちゃんに連れられてどこかに行ってしまうのを目撃する。
 服装から考えると、上級学校の生徒。この辺に住んでいるのではないらしい。

 「黒ピッ太」の身を案じて「探偵のおじちゃん」に頼むのは、実に合理的行動であった。

「わかった。カニ巫女のおねえちゃんが必ず黒ぴったんを助けてくるよ」
「おねがいだよ」

 クワンパ既にこの依頼、遊びではやっていない。
 黒ぴったんの1匹や2匹見つけられないで、何が探偵だ。

 

         ***

 まあ、無理である。
 ただでさえネコ探しは難しいのに、こう入り組んだ商店街飲み屋街で、どこを探せばいいものか。
 先ほどの推理を援用して、ネコではなく上級学校の生徒の少年を探せばよいのだが、まるで引っ掛からない。
 目撃者が居ないというよりも、朝の時間帯は忙しくて誰も注意を払っていなかった。
 朝方であれば通勤通学で通り抜ける人も多いし、いちいち通行人を見張る物好きは居ない。

「参ったなー、通学の生徒ならそろそろ帰ってくる頃合いだし、放っておけば黒ぴったんも帰ってくるんじゃないか?」

 だが小猫は遠くに連れて行かれると自力では戻れず、何ヶ月も適当に暮らすと聞いている。
 帰巣本能を持たない。

「誰かネコ名人居ないかなー、いないかー。ん?」

 視線を感じて振り向くと、ネコが居た。
 真っ白な無尾猫だ。全長は1杖半(1メートル)もある。

 クワンパは最近連中とよく遭遇する。いや、自分が監視されているのを感じる。
 無尾猫は人間界の面白い出来事を見物するのが習性で、最近のお気に入りはクワンパらしい。
 マキアリイ事務所のカニ巫女なら誰でもいい。

「おーいネコ」
 と呼ぶと、近付いてきた。ただしカニ巫女棒の射程には入らない。

「おまえ、黒ぴったんを知らないか? 知らないよな」

 ネコうなずく。クワンパは驚愕した。

「え、知ってるの?」

 ネコは、こっち来い、と言わんばかりに思わせぶりに方向を転換して、クワンパを誘う。
 2、3歩歩き出して、もう一度振り向いた。何故かクワンパが首からぶら下げる布鞄を注視する。

「あ、こいつ」

 クワンパは布鞄の中から小さな布で包まれたネコ煎餅を取り出す。こいつ、これの匂いを嗅ぎ付けやがったな。
 煎餅をほれほれと振って見せると、ふんと鼻を鳴らして再び歩き出す。契約成立だ。
 ちなみのこのネコ煎餅、おやつとして事務所の丸い缶から分捕ってきた。既に常習犯だ。

 

 無尾猫は、小猫に比べてはるかに大きい。人間の子供と同じくらいだ。
 だが歩く道は小猫と同じ。地形的障害をほとんど感じずにどんどん進む。

 ついて行くクワンパは無茶苦茶になった。狭い通路の左右の壁に擦れて、埃まみれに。
 どうしても通れない場所は回り道して行くと、ちゃんと待っていてくれる。
 本当に黒ぴったんの居場所を知っているようだ。

 商店街を離れ少し人がまばらになった。周辺は大きな敷地を持つ建物ばかりとなる。
 すこし大きめの商会や組合の事務所が並んでいた。倉庫も有る。
 この辺りは自動車道が整備されて、混み入った旧来の事務所街よりも交通が便利なのだ。
 これからはこういう所が繁盛するんだろうな、と思っていると。

 ネコは高い鉄柵が張り巡らせた敷地の前で停まる。中は良く整備された庭で樹木が植えられ、美しいタンガラム薔薇が咲き誇っている。
 クワンパに振り向いて、にゃあと鳴く顔を作る。だが喋らない。

「ここ?」

 この敷地内だとしたら、ずいぶんと面積が広い。小猫が隠れる場所なんか幾らでもあって探すのも大変だ。
 と思っていたら、見つけた。
 鉄柵の前でしゃがみ込んで庭の奥を見つめている。
 灰色の上級学校の制服を着た少年。髪の色が黒いから、クワンパよりも2才ほど下だろう。

 

         ***

 彼が腰の辺りに掛けている通学用布鞄から、黒い頭の小猫が顔を覗かせる。
 黒ぴったん発見! 拉致されたとのトトリーの証言は正しかった。

 しばらく観察すると、彼は庭の中に黒ぴったんを投げ込む機会を図っているらしい。
 どういう意図が有るかは知れないが、紛れも無く不審人物。
 カニ巫女としての責務を果たすのみだ。

 良からぬ真似をしている人間は、カニ巫女が背後に迫るのを気付かない。
 ぶっ叩かれて初めて何が起きたかを知る事となる。
 黒ぴったんはその衝撃で学生鞄から逃げ出した。

「うぎょあがおらなんだこらうわいたたいたいたいたい」
「覗きですか、許せませんね」

 柵の向こうの庭を見ると、少年はその先にある屋敷を覗いていたのが分かった。
 屋敷の傍には桜色の服を着た女性が、おそらくは少女であろう、が寛いでいる姿がある。
 あれこそが少年の標的だろう。

「黒ぴったんを使ってあの娘を柵の傍まで誘き寄せる算段ですね。死になさい」
「いややあやめていたいたいあたたあ、」

 抵抗が出来なくなるまで打ち据えた後に、ようやくクワンパは巡邏軍に突き出すという法律上正統な措置を思い出した。

「じゃあこれから巡邏軍詰め所にまで行きましょう。そこでお別れです」
「ややや、それだけは、それだけはなんとかしてやめて、巡邏軍だけはゆるしてくださいあたた」
「哀願しても無駄です。『シャムシャウラ』(カニ神)には慈悲はありません」
「ごめん、ごめんなさいなんでもします。だから巡邏軍にだけは」

 カニ巫女が棒術の次に熱中するのが、捕縄である。
 布鞄の中から丈夫な紐を取り出して、少年を後ろ手にくるくると縛る。もう逃げられない。

「さあ行くよ」
「うああもう駄目だあ破滅だあ」

 ここでクワンパは気付いた。黒ぴったん、どこに行ったのだろう。
 おーい、と叫ぶまでもなく、案内してくれた無尾猫が頭の黒い丸顔の小猫の首の後ろを噛んでぶら下げている。子猫のように。
 なかなか気の利く奴だ。

 今回の任務の最重要目的は黒ぴったんの捜索と奪還である。巡邏軍に覗きの現行犯を突き出すのは、その後でいいだろう。 

「ところであなた、名前は」
「堪忍してくださいおねがいしますよ」
「名乗れぬような奴に慈悲も温情も要らないな。公明正大に突き出してやる」
「やめてー!」

 

 もう夕方になってしまった。
 鉄道橋町に戻ってきて、靴皮革問屋の従業員に挨拶をして、2階に上がる。
 哀れな上級学校生を引っ立てたまま。

「所長、任務完了です! ついでに黒ぴったん誘拐犯も捕まえました」
「お、ごくろうさん。まさか完遂出来るとは思わなかった。それが「ネコを連れてったおにいちゃん」か」
「女性の覗きをする為に可愛い小猫をダシに使おうって、ふてえ奴です」

「そんな、言い訳をさせてくださいよおお」

 マキアリイは連行される少年の顔を見て、わずかに驚いた。
 知り合いか?

「君はひょっとして、……カロアル軍監のご子息のバイジャンくん、ではないかい」

 

         ***

 日暮れて街に火が灯る。
 人の流れが逆転し、勤め帰りの男達が我が家へ飲み屋街へと向かう。

 終業後も蛍光灯が明るいマキアリイ事務所に、質屋のネイミィがやって来た。
 クワンパ一人が待つ。
 濃茶色の資料綴をめくっていた。

「所長は?」
「上学生(上級学校生徒)と飲みに行った」
「え、未成年を連れて」
「男同士で話をした方が良い場合があるんだそうですよ。まったく」

 クワンパが捕まえた学生は、カロアル・バイジャン16才。
 父は巡邏軍ベイスラ県部隊司令官 軍監カロアル・ラゥシィ。クワンパが万年筆叩き折った犠牲者だ。
 巡邏軍詰所に連れて行かないでくれと必死になって哀願したのも納得できる。

 マキアリイが事情聴取したところによると、バイジャンくんはとある会合に父のお供で無理やり連れて行かれ、同じく出席していた令嬢に一目惚れした。
 ろくに話も出来なかったからなんとか繋ぎを付けようと住所を探り、彼女がたいへんなネコ好きだと知る。
 そこで庭先から小猫を放り込んで鉄柵の近くにまで誘き出し、という計画。
 手近なネコを探していたところ、折よく人懐っこい奴がやって来たのでそのまま拉致をしたわけだ。

 いくらなんでもこんな程度で刑事罰に問えるはずもない。むしろぶん殴ったクワンパの方が逮捕されてしまう。
 色々善後策を相談する事にして男二人で出掛けた塩梅。

「所長が恋愛相談ねーぇ」

 メガネの曇りを拭きながら、ネイミィも呆れている。まずは自分が身を固める事を考えなさいよ。

「こちとら残業で首都からの暗号通信を受けなきゃならないってのに、いい気なもんだ」
「それなんだけど、具体的には何を通信してるんです? 相手は首都の法衛視だってのは聞いてるんだけど」

 クワンパの疑問はもっともであるが、刑事探偵の職務であれば素人は知らなくて良い事も多い。
 ネイミィはそういう立ち位置でマキアリイの手伝いをしている。淑女危うきに近寄らず。

「わたし達はただ電話受ければいいだけよ」

 

 「鉄道橋町内電話交換処」は混凝石造りの2階建て、全面白色の近代的な印象の建物である。
 特徴は屋根。四方八方の電柱に向けて無数の電線が延びており、まるで傘を差したような、あるいはタコに似た異形を示す。
 1階は事務室兼控室、その背後に機械室。2階が回線交換室となる。

 狭い木の階段を二人はとんとんと昇っていく。

「おばんでーす」「こんばんわー」

「あやー、ネイミィねえさんこんばんわー。そっちはマキアリイさん所のクワンパさんですねえ」
「おつかれハミ」

 交換室にはまだ遅番の女性交換手が2名残っていた。勤務時間は11時(午後8時)まで。
 年嵩の方は30代後半、「ハミ」と呼ばれる若い方は20才前後でネイミィを「ねえさん」と呼ぶから年下なのだろう。
 二人共に電話交換手の明るい灰色の制服を着て、見事なまでに髪が黄色い。
 これはベイスラより南の「毒地開拓領」と呼ばれる地方出身者の特徴だ。

 ネイミィは年嵩の方にしっかりと挨拶する。電話交換手は女だらけの世界だから特に序列に厳しい。

「シザヰさん、今晩は。えーこれがマキアリイ刑事探偵事務所のクワンパです。ご指導よろしくお願いします」
「あやー、ネイミィさん懲りないねえ。カニ巫女はシャヤユートさんで酷い目に遭ったじゃあないかい」
「ああ、まあ。クワンパはもうちょっとマシで平凡なやつですから、お見捨てにならないでください」

「ども、よろしくお願いします」

 ネイミィが自分の為に頭を下げてくれているのを見て、クワンパも素直にお辞儀する。
 交換室を見回せば、なにやら電気の配線がうようよと。至る所が危険物に思えて、そりゃシャヤユート姉には触らせられないなと納得する。

 シザヰは壁の時計を見て確認する。もう半刻ほどは勤務時間。

「それじゃあ、下で回線交換の模擬練習でもするかぁい」
「はい、お願いします」
「あんた、感電したことあるかい。びりっと来てもびっくりしないかい」
「ちょっとは」
「うんうん。怖いもの知らずのヒトは怖イからねえ」

 

         ***

 町内電話交換処とは、町の1区画全体を内線として各人・各事業所に個別電話を繋げる私設交換所である。
 タンガラム電通信公社が設定するバカ高い電話料金を安く上げる方策として、このような形態に落ち着いた。
 設備の一部を自己負担する分、公社の都合に振り回されなくて済むわけだ。

 高価な自動交換機など設置できないから、昔ながらの人力で交換手を雇っている。
 給料も町内の事業所が出し合って賄っているわけだが、どこも自社の営業時間外の料金を払いたいとは思わない。
 そこで夜間利用する事業所は自ら交換手を派遣せねばならないわけだ。

 遠距離通話も夜間は料金が安い。
 マキアリイ刑事探偵事務所は首都との連絡に夜を選ぶから、事務員がその役を務める。
 クワンパも電話交換技能を身に着けるべきであった。

 

「まずは回線交換の仕組みを模型で学ぶんよ」

 1階に降りたシザヰとクワンパは、夜勤の技師の助けを借りて模擬電話交換台を組み立てた。
 模型とは言っても表示灯、呼び出し鈴などは本物と同じで、2階でやると紛らわしい。
 若い男性技師は、シザヰの「命令」に忠実に従う。交換処は女の園だから、お局様に逆らったらどんな目に遭わされるか分からないのだ。

 立ち上がる木枠に電線がうじゃっと突っ込まれたのが、練習用の交換台だ。
 シザヰは付属の受話器を握る。クワンパは交換手用を頭に被った。

「あんたらは夜勤だけだから楽なもんだ。昼間は目が回る忙しさサ」
「よろしくお願いします。
 ……あの、「外線」と「内線」は分かりますが、「隣線」てなんです?」
「隣の町内交換処と直結する回線さ。公社の回線使わないから安く通話できる。まそこ、ちょっと難しいね。

 じゃあ始めるよ。鈴が鳴ったら釦を押して、言われた番号に電線端子を突っ込むのサ」

 

 11時過ぎ。2階回線交換室はネイミィとクワンパだけになった。
 初心者クワンパも本物の交換台の前に座る。

 流石に特訓はきつかった。
 矢継ぎ早の回線要求で目が回る。これはもう職人技だ。

 一方本物は、まるで動きが無い。たまにぴかっと光っても、瞬時にネイミィが反応する。
 そもそも営業中の事業所が現在わずか5軒しか無い。電話の電源表示が赤色になってるから、どこが生きているか一目で分かる。
 終業時にはちゃんと電話の電源を落とすのも、事務員のお仕事なのだ。

「もし営業していない事業所への電話があったら、交換手が伝言を受け付けて翌朝伝える仕組みになっている。言葉遣いはちゃんとするんだよ、酔っぱらい相手でも」
「酔っぱらいが電話掛けてくる?」
「かなり普通に」

「通話料の記録もわたし等の仕事だから、ちゃんと計数器押すんだよ」
「へい」

「あの、シャヤユート姉はここで何をしでかしたんですか」
「電源函にカニ巫女棒叩き込んだ」
「ぅわお」
「それ以来2階は長物持ち込み禁止の規則が追加された」
「ごもっともな判断で」

「……、 お腹空きましたねー」
「交換室内は飲食禁止。持ち込みも無論禁止だぞ。電線にお茶なんかこぼされてはかなわん」
「ですよねー」

 

         ***

 「よお」

 と、階段からマキアリイが顔を覗かせる。二人が気付いて振り向くと、右手に持った紙包みを高く掲げる。

「差し入れ持ってきたぞ」
「「飲食物持ち込み禁止です!」」

 規則は規則であるし、何時までも反応が無いとしても交換台の前から離れられない。
 そこで、一人ずつ階段の所まで来て半分だけ降りて食べる変則状況となる。まずはクワンパから。

 所長はネイミィに断る。

「ありがとうな。クワンパは使い物になるかい」
「前の巫女よりははるかにマシ、としか今のところは言いようが無いですよ」
「ははは」

「うわ、例のようにゲルタ弁当かと思ったら、鶏だ! 鶏腿だ」
「ウソ!」
「ほんとほんと。わー所長どうしたんですか、これ」
「「ソル火屋」に居たから、大将に焼いてもらったぞ」

 クワンパ、あまりに驚いて今座った階段から立ち上がる。

 「ソル火屋網焼き店」、それはマキアリイ信者にとって伝説の聖地だ。
 ヱメコフ・マキアリイがノゲ・ベイスラ市を活動拠点と定めて、最初に刑事探偵事務所を開いたのが、
網焼き屋の屋根裏、下宿先そのものであった。

 ここで最初のカニ巫女見習い「ケバルナヤ」と巡り合い、数奇な運命に導かれて失われた国宝を発見し、タンガラム全土に英雄探偵としての名を轟かせたのだ。
 ゲルタの煙漂う網焼き屋の屋根裏、朝日が差し込む木の階段に眠る若き英雄マキアリイ。
 映画でもこの情景は趣き深く描写され、国民に強く印象を植えつけた。

 鉄道橋下の事務所に移ってからの方が、今はもう活動期間は長いのだが、それでも信者にとっては「英雄の拠点」として認識が染み付いている。
 誰もが一度は訪れてみたいと願う聖地であった。

 無論、クワンパもその一人。

「うわあ、行ってみたい。行ってみたい」
「あ、まだ連れて行って無かったな。大将にクワンパも紹介しないとな。
 早く食え。ネイミィを待たせるな」
「はい。はい」

 紙包みのまま手で持ってかぶり付く。「三国焼き」だ。
 鶏の腿1本をタンガラム特産ショウ油ダレを塗って炭火で焼き、シンドラの香辛料とゥアムの辛茄子(唐辛子みたいなもの)をまぶした、辛くて旨くて抵抗出来ない味だ。
 骨までばりばり齧って食べてしまった。

 ネイミィと交代して交換台の前に着くが、そのまま喋り続ける。

「それで、昼間の上校生を連れて網焼き屋に行ったんですか」
「クワンパ、あれはカロアル軍監のご子息だぞ。おまえが迷惑を掛けた」
「しょせんは猫ぴったん誘拐魔ですよ。で、今彼は?」
「「ソル火屋」で寝てる。おまえに殴られたのが堪えたんだろ」

「未成年に酒飲ませたんじゃないでしょうね」

 ネイミィも鶏を齧りながら懸念を口にする。
 脂で手も口もべとべとになってしまったが気にしない。メガネは無事だから。

 

         *** 

”アナタ、クワンパさんね?”

 で始まる首都からの電話が入ったのは、日付が変わった直後。
 女の声で、挨拶も早々に受信方法を指示して、いきなり怪しげな連続音が流れてくる。
 マキアリイが磁気録音機を使えとの指示を残していかなければ、採り逃しただろう。
 機器の接続・操作は夜勤の技師が手伝ってくれた。

 通信は20分続いて、いきなり切れた。
 首都からの遠距離通信であるから、これだけでも結構な電話代。もちろん向こうの負担だが。

 ネイミィは通信を終えて停止した磁気録音機の前に立ち尽くす。

「……これ3倍速高速通信だけど、ウチの交換処の中古電信印字機に合せて普通速で再生しなくちゃいけなくて、
 一度で印字出来ればいいけど、だいたい予備で2回刷るし、機械が信号読み違えて電文壊れたらやり直しだし、」
「今日、帰れない?」
「最後電文を保管場所に届けて、機密保護で録音帯を消去して、ハハ寝る暇もありゃしない……」

 質屋勤めが本業で、マキアリイ事務所の仕事は好意でやってくれるネイミィだ。徹夜は明日の勤務に差し障る。
 腹を括った。ここは寝るべし。

「どうせ機械が動いている間はやる事無いし、動かなくなったらわたし等にはどうしようもないし、まあじっと見守り続けて」
「見てるだけでいいの?」
「紙や打鍵が引っかからないように注意して、印字機の墨は切れないと思うけど、時々有るからその時は起こして。停電が起きたら諦める」
「あ、うん」

 既に電話交換の業務は終了した。交換室の椅子を並べて、ネイミィは毛布を被り早々に寝てしまう。
 クワンパは手伝ってくれた技師の顔を見るが、彼にも下での設備保守作業が有る。
 済まないね、と言い残して階段を降りてしまった。

 後は、機械が紙帯に延々と数字を叩きつけていくのを見るだけだ。

 

 催眠効果を持つ機械の音に必死に堪えるクワンパ。もう何時間経過したか認識できない。
 自分が起きているのか寝ているのかさえも判らなくなった。

 思いっきり自分の顔を張って、ようやく意識を取り戻す。
 ネイミィはどっぷりと眠りに就いて、羨ましくはあるが怒りは持たない。これはあくまでもマキアリイ事務所の人間の仕事だから。
 電信印字機は快調に動作し続け、紙帯も撚れたり切れたりしない。電文間違いも発生していないようだ。

 ほっと安心して、窓を見る。
 ガラス窓から直接闇の空が見えるはずだが。……赤い。
 赤い光がかすかに差している。

 何事か、と寄って外の街を眺めてみると、遠くの空が輝いていた。

「あ、火事だ」

 再び機械の前に戻って、毛布に包まるネイミィを揺り起こす。火事だよ火事。
 不機嫌に目を開き髪を掻き上げ、眼鏡を正しく装着し直して、

「火事? どこ?」
「ちょっと遠い。向こう河の手前かな」
「向こう河、って、「ソル火屋」の有る辺りじゃない」

 さすがにネイミィも驚いてクワンパと共に窓に寄る。
 本当に、所長が居るはずの場所で焔が燃え盛る様が見えた。
 これはまずい。ひょっとしたら犯罪絡み、いやマキアリイ暗殺を企てた暗黒勢力の仕業か。

 元の椅子に戻ったネイミィは、そのまま毛布を被ってまた横になってしまう。

「どうせこの程度では死なないから、あの人」
「ああ、うん、死なないよね。ヱメコフ・マキアリイだから」

 

         *** (第九話 その3)

  すでに空は白み、巫女寮に帰るより事務所に直接行ってよい時間だ。

 夜通し印字した暗号文は、所定の保管場所に収めて無事を得た。
 要するに、郵便局の受付函だ。
 マキアリイも首都からの通信文を中継するのが役目であり、本当の受け取り人は秘密なわけだ。
 首都から直接郵送できないとは、よっぽど権力に近い妨害者が居るのだろう。

 ネイミィは家が近いからそのまま別れて、クワンパは事務所に戻る。
 風呂に入りたいところだが致し方ない。

 暗い階段を上って、『ヱメコフ・マキアリイ私立刑事探偵事務所』と金文字で描かれたガラス扉を開けて、中に篭った空気を嗅ぐ。
 前々から思っていたがこの事務所、なんとなく異臭がする。昼間は窓を開けて空気を入れ替えるから気付かないが、朝一番だとはっきり分かる。

「ゲルタか……」

 所長の臭いだ。男臭さ汗臭さ、あるいは安酒の臭いが篭もるよりはマシなのだろうが、やはり腹は立つ。
 壁の時計を見ると、4時になったばかり。(午前6時過ぎ)
 所長が出勤するまで、1刻くらいは眠れるのではないか。

 応接用の長椅子に横になる前に、電話の電源を入れる。これで交換台の表示器が赤色に転じたはずだ。
 普段なにげなくやっていた手順だが、裏の仕組みが分かると重要性がよく分かる。
 なにごともけいけんだな、と……。

 うつら、とした瞬間、電話の呼び出し鈴が鳴る。
 なんだ! と思ったが飛び起きて、首を回し壁の時計を再度確かめる。
 いつの間にか時間が飛んで、4時半30分(午前7時30分)になっていた。
 始業時間はまだだよ、とは思いながら、結構寝たんだなと納得して受話器を取る。
 町内交換処には早番の回線交換手が来て業務を始めているわけだ。

「はい、ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所です」
「こちらは巡邏軍ノゲ・ベイスラ市治安拘留所です。「ヱメコフ・マキアリイ」を自称する人物を現在収容しています。
 解放手続きの為、本人であると証明する書類と身元引受人を寄越して下さい」
「所長が、何をやらかしたんです」
「昨夜発生した放火乱闘事件に関連して緊急逮捕されましたが、刑事責任は問われない事が既に確定しています」

「あの私、マキアリイ事務所の事務員で未成年ですが、身元引受ダメですかね?」
「規則によれば、成人で選挙権登録者・住所が特定されている人物を要件としますが、……まあ、あのマキアリイ氏ですから」

 天下の英雄探偵の顔を見間違える者は居ない。
 本来であれば今すぐにでも釈放したいところだが、手続き上誰かが必要であった。

 クワンパは電話で係官の指示を受け、事務所の隣にある代書屋に飛び込んだ。
 代書屋のおじいさんは公証人やら立会人見届人の役も果たす。
 一筆書いてもらって、クワンパはおじいさんの代理という立場になった。これで身元引受人にも成れる。

 長大なカニ巫女棒を引っ提げて階段を駆け下り、再び早朝の街に飛び出す。

 

         ***  

「まあとりあえずぶん殴っておきましょう」

 正義の味方たる者が官憲司直にとっ捕まるとは、無様にも程がある。
 カニ巫女棒が無慈悲に振り下ろされるのも当然だ。

 巡邏軍治安拘留所、つまりは暴動等で一斉検挙した多数の容疑者をまとめて収容する牢屋に、マキアリイはにたにた笑いながら座っていた。
 一人ならまだ許してやらないでもない。
 昨日クワンパが捕まえた黒ぴったん誘拐犯 上級学校生カロアル・バイジャン君16才までもが牢内に居る。
 監督責任者としてまったく話にならない。
 言って分からん奴は棒の餌食とするのが、カニ神殿の掟だ。

 マキアリイと同時に拘束されたヤクザ十数名も、あまりに凄惨な光景に目を背ける。
 英雄探偵は彼等の敵となる存在であるが、この仕打ちはいくらなんでもあんまりだ。同情に値する。
 若く未熟とはいえカニ巫女は侮ってはならないと、教訓を深く心に刻み付ける。

 二人を釈放する手続きをして、牢屋から出てきたのをとりあえずぶん殴って、
もちろんただ無闇に叩いていたわけでなく、さりげなく身体に怪我や火傷が無いか確かめていたわけで、
服こそ二人共に煤で汚れているが何事も無く健康体であるから遠慮無く棒を振るって、
近所の定食屋に尻を小突いて押し込んだ。腹が減っているだろう。

 男二人が並んで座る前の席にどっかと腰を据え、カニ巫女は尋ねる。

「さて、事情をうかがいましょうか」
「クワンパ、まず事情を伺ってから叩くもんだろ。普通」
「所長はゲルタでいいですね。バイジャンさんはー、めんどくさいやゲルタ定食3つ」

 考えてみればクワンパ自身朝飯も食っていない。
 道理で棒を振り下ろす腕に力が入らないわけだ。骨とかに効いた感触が無かった。

「なんでこの子を深夜まで引っ張り回したんです?」
「もちろんちゃんと日のある内に帰そうとしたんだが、家に電話させたら学校を無断で休んだ事がとっくにバレてて、勘当だーとか」
「そこは無理やりにでも帰すとこでしょ、大人なんだから」
「すまん」

「あのすいません、あんまり歳も離れていないのにこの子扱いはやめてくださいよ」

 と正当な要求をしようとした16才は、牙を剥く猛獣の迫力に口をつぐむのを強制された。
 何を言っても無駄そうだから、じくじくと愚痴を零す。まったく男らしくない。

「……だって、なんで、人助けをして牢屋に入れられたり勘当されたり、棒で殴られたりしなきゃいけないんですか。教えて下さいよマキアリイさん」

 さほどの間を置かずに、あっさりとゲルタ定食が出てきてくれた。
 牢屋の近くの小汚い店だから期待はしなかったが、予想を下回らないものが出されたのは有り難い。
 トナクと玄米の混ぜご飯に、干しゲルタの汁物(これは毎晩巫女寮で作っているのと同じ)
 緑色のタレの掛かった焼き豆羹(タンガラムでは豆腐を意味する)、香の物。
 美味とか栄養学とか関係なしに、とりあえず腹が膨れればよい献立だ。

 3人共に無言で食う。食らう。
 昨夜からの睡眠不足の腹いせに、飯もおかわりして貪った。
 クワンパ、口の周りを懐紙で拭いて尋ねる。

「で? 今日はこれから」
「ああ。そう言えばバイジャン君の荷物も「ソル火屋」に置いてきたままだ。
 俺達は事務所でバイジャン君のお母上が迎えに来るのを待ってるから、クワンパ行って取ってきてくれ」
「私がですか。」
「向こうで「ソル火屋」の大将に聞けば、何があったか分かるから」

 まあ伝説の聖地「ソル火屋網焼き店」に行くのはやぶさかではないし、昨夜の火事騒ぎの顛末など本人に聞くよりマシだろう。
 不承不承ではあるが、引き受けた。

 もちろん3人分の朝食代を払うのも、クワンパだ。
 マキアリイ、手持ちの財布は騒ぎの中でどこかに行ってしまった。身分証明書が無かったのもその為だ。
 「ひょっとしたらソル火屋にあるかもしれない」と言うからには、引取りに行かねばならない。
 財布の中には、大事な「刑事探偵資格証明書」だって入っているのだ。

 (注;なんらかの液体状の食品を固めてぷるんぷるんになったものを、タンガラムでは「羹」と呼ぶ。毅豆の豆乳をにがりで固めたものであるから「豆羹」) 

 

         *** 

 マキアリイ事務所から「ソル火屋網焼き店」までは5区画離れている。少し遠い。
 昨日クワンパが調査した「所長立ち回り先地図」の範囲外で、今更にして思うが、こちらにももっと早く顔を出しておけばよかった。

 左右に首を振って通りの看板など見回して、火事場の跡を発見する。
 火は大きかったものの、1棟が焼けただけで終わったのは不幸中の幸い。ただ近所の商店数軒に破壊の痕が広く残っている。
 所長と一緒にヤクザ十数名が捕まったのだから、結構な大喧嘩が繰り広げられたのだろう。

 しかし変だ。いくら英雄探偵が見境なく正義を求めるにしても、ヤクザの喧嘩に割って入るほど阿呆ではない。
 前に数百人の大ヤクザ同士の決闘が行われた中に、ケバルナヤ神姉と共に乱入して鎮めた事件が有る。だがアレはれっきとした大義名分に従っての行動だ。
 事件は映画となり、銀幕の中で悠然とヤクザの三下共を片っ端から殴り倒すマキアリイ(役)はカッコ良かった。
 まさに男祭り!

 昨夜同じ光景が再現されていたとすれば、……惜しいことをした。見損ねた。

「あんた、クワンパだね! マキアリイ探偵とこの」

 いきなりしわがれた声で呼び止められた。老婆だ。
 見境いの無い赤にきらきら光るガラス玉を縫い付けた金の有りそうな服装だが、顔はまさに因業婆あ。振り乱した白髪が昨夜の事件が今も終わっていないと主張する。
 カニ巫女棒を直接握るとは度胸のある婆だ。カニ神殿は、必要があれば老人だとて容赦はしない。

「なんでしょう」
「えい悔しいよ。口約束なんか守る必要無いけどこればっかりは払うてやる。領収書はオレが勝手に書くから要らねえ」
「は?」

 むりやり手の中に茶封筒を押し込まれる。後も振り返らずに近所の建物に入ってしまった。
 人違いではなさそうだし、払うというならカネだろう。所長が何か約束したのだな、と理解して封筒の中を覗いてみると。

「これは、4ティカ札が、8枚?」

 くちゃくちゃに皺が寄り汚い擦り切れた高額紙幣が、計1金12ティカ(16万円相当)
 大金と呼べるだろう。よっぽどの事をあの老婆にしてやったと見受けられる。
 火事場での事だから、たぶん命でも救ったのか。

「しかし、カネを取ってヒトを救うとは、正義の味方としてあるまじき浅ましさだな」

 

 「ソル火屋網焼き店」は労せずして見つかった。表通りの電柱に案内看板が設置されていたからだ。
 宣伝広告を出すほどの大きな店ではない。
 だが英雄探偵マキアリイの拠点となった事が知れ渡り、タンガラム全土から信者が巡礼に訪れるから、町会が便宜を図ってくれている。

 路地の奥に同じような木造の建物が集まった内の1軒で、1階店舗は柱だけで壁も扉も無い。
 営業中は炭火の煙が出て行くように素通しにしている、古い形の飲食店舗だ。店を閉める時は戸板を嵌めて壁とする。
 看板は赤く、麗々しく描いた「ソル火屋」の文字。焔をあしらう。
 横に「ゲルタ」の絵文字も書いている。これは、1ゲルタ(百円)から飲める食べられるの意味。
 映画に出てくる店の様子とまったくに同じ。

 異なるのは、看板の隣により大きく「英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所跡」と描いた別の看板を掲げている点だ。
 風情ぶち壊しと思えるが、現在はマキアリイが居ない事を明示しておかなければ困るのだろう。

 時刻は昼前半刻ほど。昼飯を食べに来る大勢の客の為に、盛大に焼き始める頃だ。
 今ならまだご迷惑とならないだろう。

 戦闘的にならないようにカニ巫女棒を横に寝かせて、大きく声を上げる。

「ごめんくださーい、私、ヱメコフ・マキアリイの使いで来た、クワンパと申します」

 

         *** 

「うゎあああ、ここがあの、ここですか。うわああ」

 「ソル火屋」の”大将” ソル・マトゥルは40代初めで、ヱメコフ・マキアリイの歳の離れた兄のような存在だ。
 妻ソル・バウと従業員の女性メッメッホフは30代で、歳下の下宿人に良くしてくれた。
 と、だいたいの英雄探偵関連の書物には書いてある。俳優が演じる映画でもそうだ。

 たぶん間違いはないのだろう。酷いことをするのはカニ巫女くらいなもので。

 初めて顔を見せたクワンパに3人共が大歓迎してくれて、大将自らが忙しい中マキアリイの寝床であった天井裏に案内してくれた。

「いやカニ巫女さんは特別だからね。誰でもに見せるものじゃないんだよ。全国から信者さんがよくやって来るんだけど」
「やはり来ますか。鉄道橋の事務所には来ないんですけど」
「あちらは今まさに正義の為に戦っている真っ最中だからさ、不心得者でなければ遠慮するよ。ここに来るお客さんはちゃんと判ってる」

 件の屋根裏に続く木の階段をよじ登る。2階の上だ。
 埃っぽいのと、下で炙る煙とでとてもまともな人間の住処とは思えない。
 実際「ソル火屋」では、住居は店の隣に構えている。2階はただの倉庫と準備室でしかない。

 クワンパ、正直な感想を述べる。

「なんで所長はこんなとこ借りたんでしょうね」
「ああ、借りたというか、いつの間にか居着いたというか、ゲルタの臭いを嗅いでいたらいつの間にか屋根裏に登っていたというか」
「ネコですか」

 見たところ映画に出てくるのと同じで、以後は他の目的で利用をしていないらしい。
 マキアリイの熱狂的信者であれば是非とも拝みたい聖地の心臓部である。拝観料取ればいいのに。

「そういう人は2階までしか通さないよ。その方が有り難味があるらしいね」
「所長は今もちょくちょくお店に来るんですよね。上に上がったりは、」
「無いね。あまり深くに関わったら破壊工作者とか来るかもしれないって本人は心配してるんだ。こっちはどんと来いだけどね」

「ここはだいたいケバルナヤ神姉の領分ですよね。ザイリナ姉やシャヤユート姉は来ましたか」
「ザイリナさんは懐かしいね。よくお肉を食べていってくれたよ。誰かのおごりさ、もちろんマキアリイは払わない」
「やっぱり」
「シャヤユートさんはあまり来なかったけれど、2、3度屋根裏で寝ていったね。あんな度胸の有る人はそう居ないな」
「ははあ」

 あらかた覗いて2階に降りてくる。
 一応は居室として使えるように出来ているのだが、今は英雄探偵マキアリイ映画の宣伝広告や張り紙が置いてある。
 探偵業の依頼人とは下の店舗で事務的な話をしていたから、映画の筋書きにそれほどは関係しない場所だ。
 ちなみに依頼が女性客の場合、ゲルタの煙が被らないように隣の糖蜜屋で応接をしていた。

 ソル大将は、どうだと言わんばかりにクワンパに尋ねる。
 感慨深いものがあっただろう。

「そうですねえ、本人は今もだらしないんですが、こんな煙だらけの中で眠れるとしたら、むしろ超人の域ですね」
「ハハハ、だろうね。焼いてる本人が煙いもんな」

 1階店舗に降りてくると、店の外に女の子が数名固まっている。
 場末の飲み屋街に来る服装には見えないから、地方から来たマキアリイ信者だろう。
 案の定、自分の顔を見て「クワンパさんよくわんぱさん」と騒ぎ始めた。
 ぱしゃりと写真の投光器が白色を瞬かせる。

 大将が謝る。

「すまないね。なにせ現役カニ巫女さんが初めてのご来店だから、近所の写真屋を呼んでしまったよ」
「あー、まあ、慣れました。さすがに目くじら立てていたら疲れます」
「ご馳走するよ、何でも焼くよ。クワンパさんが好きなものは何かな」
「昨夜は鶏を頂きましたから、イカとか」
「あいよ、イカ1丁!」

 女の子の一人が店に突入してくる。クワンパの傍で色紙を突き出した。

「あの! クワンパさんですよね新しくヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所の事務員に成られたカニ巫女見習いの。
 あの! こちらにお印を下さい!!」
「やだよ。私はそんな偉い人じゃないよ」

 つっけんどんに断るが、それがまたカニ巫女としての典型に則っていたかで店の外の子までが飛び跳ねて喜ぶ。
 色紙に署名などでなく、カニ巫女棒で軽く撫でてやった方が受けるかもしれない。

 従業員のメッメッホフさんが外からいそいそと戻ってくる。何処へやらお使いに行ってきたようだ。
 大将に報告する。

「来ました。センセイちゃんと居ました」
「おう、ごくろうさん。
 クワンパさん、嫌かも知れないけど一人会ってもらいたい人が居るんだ。とっても有名な先生さ」

 だれでしょう。

 

         *** 

 白髪白髭に黒眼鏡。
 身長は高く肩幅も広く、山の樵に思える重厚な風貌。年齢は老人と呼ぶべきだろうが、迫力が圧倒的に強烈だ。
 クワンパはもちろん知っている。
 新聞雑誌伝視放送でもしばしば顔を見る全国的有名人だ。

 思わず立ち上がって迎えてしまう。

「キレアルス芸術監督ですね。あの高名な」

 ボンガヌ・キレアルス 62歳。
 映像の魔術師としてゥアム帝国・シンドラ連合王国にまで名が轟く映画監督である。
 単に芸術的な映像を撮るばかりでなく、物語としての完成度も感動も特別に観客に訴えるものが有り、興行収入の面でも巨人と呼べる存在だ。
 国から幾つもの勲章をもらい、非公認ながらも「芸術大臣」の称号を賜り、タンガラム芸術振興に大きな役割を果たしている。

 彼は自らの映画会社「風麗月光キレアルス」を率いて数々の名作を生み出しているのだが、
現在製作中の映画は、英雄探偵ヱメコフ・マキアリイを主人公とする『第七協和国 破聞』(仮)である。
 映画雑誌で読んだ。
 「ソル火屋」の事務所で巫女ケバルナヤが助手であった時代の事件だから、監督本人が現地取材に来たわけだ。

 鴨居に額をぶつけそうになるのを、手で抑え、クワンパの前に立つ。
 巨人だ。明らかにマキアリイよりも背が高い。

「昨夜はマキアリイ君も直接に見掛けたのだが、本人と親しく語らうと映画の登場人物としての造形が歪む可能性が有ったから遠慮してしまった。
 だがクワンパさん、アナタなら。
 彼の協力者となったばかりのアナタなら、誰も知らない、また日常となっていずれ忘れてしまう鮮烈な実像を未だ抱いているだろう。
 それを聞かせてもらいたい」

 さすがに高名な監督だ。押し付けがましい、いきなり圧迫というか強引だ。
 クワンパ考える。芸術の為であれば協力もやぶさかではないが、彼はほんとうにそれを自分に求めているのか。
 ここはカニ巫女としての本分を弁えて、真正面から対決するべきではないか。

「あ、大将。そう言えば所長の財布、こちらに忘れていませんか?」
「ああ、ああ、来てるよ。マキアリイが落とした財布を親切な人が届けてくれた。火事騒ぎ乱闘騒ぎの中、よく無事で見つかったもんだ」
「私、昨夜こちらで何が有ったのか、知らないんですよね。所長は一体何をしでかして巡邏軍に捕まったんです」

「私は見た、昨夜何が起きたのかを、一部始終見守った。
 まさに英雄であった。彼をこそ英雄と讃えるべきと、私自身が認めざるを得なかった。
 映画にもこの一章を加えよう。私自身が体験したこの感動を現在の彼の姿として、過去の事件への導入部として使いたい。
 嗚呼、何故昨夜私はCAMERAをこの街に持ち込まなかったのか。不覚、このキレアルス一生の不覚」

「うるさいひとですね、この人」
「芸術家の先生はこんなものじゃないのかな。他の会社の映画監督の人もだいたい似たような反応を示すよ」

「私は見た! ヱメコフ・マキアリイが何者であるかを」

 

         *** 

 ちなみに、キレアルス監督が撮影中の映画『第七協和国 破聞』(仮題)の元となった事件は、こんなかんじである。

 「盗難国宝奪還事件」によって全国的に名を知られる事となった刑事探偵ヱメコフ・マキアリイとカニ巫女見習いケバルナヤ。
 尊い聖女として崇められるケバルナヤは、或る老人に呼び止められ、マキアリイへの依頼を受ける。
 今から60年前の動乱の際に、政府の治安秘密警察によって連行された兄の所在を探してもらいたい。

 現在は第八民衆協和政体と呼ばれているが、その前、第七政体が大混乱の渦中に崩壊する過程で、この悲劇は起こった。
 およそ5千人もの官僚や法論士、学者新聞記者等が治安秘密警察に連行されたまま、行方不明となっている。おそらくは射殺されたのであろう。
 だが政権が交代して数十年が経った今に至っても、政府行政はその頃の資料を公開せず、すべてが闇に包まれたままだ。

 刑事探偵マキアリイは、最初この依頼に難色を示す。明らかに職分を越えた依頼であるからだ。
 だが秘密治安警察から改組された公安警察機構の工作員が妨害の姿勢を示す事で、逆に興味を惹かれ本格的な調査に乗り出す。
 そして首都から離れた山中に、連れて行かれた人々が埋められたと伝わる丘を一人で掘る。
 皆にバカにされ、罵られ、世情を混乱させるなと諌められるも、まっしぐらに真実に向かい、遂に白骨の海へと掘り至る。

 発見はしたものの、真実を公表する事は叶わなかった。すべての報道機関が後難を恐れて尻込みしたのだ。
 業を煮やしてマキアリイは、自らが持つ「潜水艦事件」における英雄としての立場を利用して、国家総統に直接話を持ち掛ける。
 マキアリイの進言により、総統は打倒された旧政治体制が犯した罪を認め、すべて情報公開したのであった。

 直接的な暴力は見られないが、より大きく陰湿な力に潰される事無く正義を貫いたマキアリイとケバルナヤは、再びの称賛を浴びる。
 とはいえ地味な事件であるから、映像化には恵まれなかった。
 そこで、芸術的かつ政治的にも意義深い作品を多く手掛けてきたキレアルス監督が注目し、自らの手で映画化を企てる。
 完成前から既に傑作の予感を漂わせる、大作だ。

 マキアリイ映画愛好家としてのクワンパの意見では、この映画には若干の不安点が有る。

 まず間違いなく話は暗く地味なものとなるだろう。事件の性質上動かし難い。
 次に俳優。いつものマキアリイ役俳優は使われない。キレアルス映画に常連の俳優が若き英雄探偵を演じる事となる。
 それはそれでいいのだが、かっこいいのだが、やはり違和感を持たざるを得ない。
 そして監修。この映画は政府公開資料を元に作られており、ヱメコフ・マキアリイ本人の監修を受けない。
 つまり事務所にはびた一文入ってこない。

 のだが、監督は映画冒頭部に現在のマキアリイの姿として昨夜の派手な火事騒ぎを挿入し、過去の事件を浮かび上がらせる演出を試みるようだ。
 キレアルス監督は、自作の中に1箇所必ず自らの姿を紛れ込ますのを特徴とする。
 自らが体験した事件を自らが描き、自ら出演する。こんな美味しい話が他にあろうか。

 

 キレアルス監督は語る。

「私は本来英雄主義的冒険行動に対しては否定的な立場を取る者だ。
 その私をして、彼をこそ英雄と呼ぶべきだと結論せざるを得なかったのだ」

 特に興奮はしていないのだが、よほどに昨夜の情景が脳裏に焼き付いたのだろう。
 既に監督は、今にも撮影所に飛んで帰ってCAMERAを回したい心持ちだ。

 彼の語るところ、また随時ソル大将が補足説明をして事件を再構成したところでは。

 昨夜、「ソル火屋」の近くの表通りで、ヤクザ同士の喧嘩があった。
 この界隈にはヤクザ「マギヴァグ會」が所有する酒場が有り、拠点ともなっている。
 だが本来この地域を縄張りとしたのは「緑苔漠風会」であり、1箇所だけ飛び地となった「マギヴァグ會」の店が目障りで仕方がなかった。
 双方とも最近までは大人しかったのだが、それは英雄探偵マキアリイが近辺でとぐろを巻いていたから。
 捕食圧が失われた事で、再び闘争の焔を燃え上がらせるのも無理はない。

「つまり、焼けた建物はその「マギヴァグ會」の店なんですか?」
「そうじゃないんだ。もうちょっとややこしい話になっている」
「よいかな、次を語って」

 昨夜は酒場に「マギヴァグ會」の上級幹部が立ち寄って、何らかの宴となっていた。
 それを聞き込んだ「「緑苔漠風会」が人数20人ばかりを集めて、襲撃を企てる。もちろん「マギヴァグ會」も無警戒ではない。
 寄せ手に倍する人数で近辺に待機しており、一触即発の事態。
 一度は巡邏軍が介入して解散をしたものの、深夜には再結集して遂に喧嘩の幕が上がる。

 どちらかは知らないが、多分寄せ手側の「緑苔」だろう。脅しの為に火炎瓶を用いてぼんぼん投げる。
 だが運悪く、隣の建物に火が燃え移ってしまう。
 それが、

「ゲギミっていう因業婆さんが持っている建物だったんだな。クワンパさんがカネを渡されたって婆さんが、たぶんそれだ」
「あの人、お金持ちなんですか」
「昔はね、あの人も夜の女で上手いこと金持ちの旦那を捕まえたんだ。その旦那が持っていた物件のひとつだね。
 表通りに有るんだから、相当の価値は有ったんだろう」
「ふむふむ」

 

         *** 

 ゲギミ婆さんは首尾よく金持ちを捕まえて後妻となる。20年以上を連れ添って、それなりに幸せだったのだろう。
 だが旦那が死ぬとお定まりの遺産相続合戦。前妻の息子娘が寄ってたかって財産を分捕ろうとし、また婆さんも応戦する。
 結果、表通りのちゃんとした建物を獲得したのだから、結構なやり手であったわけだ。

 建物は混凝石造りの2階建て。だが婆さんは拡張して3階に木造の部屋を増築した。
 下の階は待合いの喫茶館や酒場、遊技場として、増築3階には託児所を開設する。
 婆さんも昔は夜の商売で、女としてそれなりの苦労をしたのだろう。深夜飲み屋街で働く女達が子供を預ける場所を作ってやったのだ。
 もちろん預け料は安くはない。だが他に適当な場所は無いし、行政も夜間託児所など与り知らぬ。
 それなりに繁盛して、手伝いに貧しい少女を雇いこき使っていた。

 火炎瓶の火はここに延焼する。

「3階でしょ。なんでそんなところにまで火が飛ぶんです」
「表通りから見えないように、路地裏に直接託児所に上がれる木の階段を作ってたんだ。防火対策なんかまるで考えてない」
「じゃあ子供たちは、建物の方から逃げたんですか」
「いやそれがな、」

「あとで消防に尋ねたのだが、喫茶館や遊技場の方から屋上に繋がる階段は荷物で潰されていたそうだ。唯一の階段は瞬く間に燃え上がり、誰も助けに行けなくなった」
「じゃあ消防は?」
「ヤクザ同士の喧嘩で、誰も何も構わない。火事が起きたことさえ分からなかったのではないか」

 煙に燻されて、3階託児所から手伝いの少女が顔を出して助けを呼ぶ。
 当時託児所には30人もの幼児乳児が預けられており、唯一の階段が焼けてしまえば、助ける手段が無い。
 下の通りのヤクザの騒ぎで、必死の声が届かない。誰にも聞こえず、ただ焼け死ぬばかりかと観念するところ。

 さっそうと現れるのが、英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ。
 燃える階段をそよ風でも吹いているかに平然と潜り抜け、壁も伝ってあっという間に3階にまで上がってしまう。
 だが30人の赤子は多過ぎた。どう頑張っても3人程を助けるのが関の山だ。
 では、彼は何をしたか。

「上から枕を投げたのだ」
「枕、ですか」
「下で暴れているヤクザに枕を投げて注意を惹き、託児所に注目させる。そして下で待ち構えているヤクザに対して、」
「うん」
「子供を投げたのだ!」

 こんな無茶な助け方は無い、と思われるが、乱闘を繰り広げるほどに肉体に自信がある連中だ。
 3階から落ちてくる普通に育った3才児でも、おっかなびっくりで抱き止めた。そして、マキアリイがなにをやっているのかを理解する。
 いつの間にか自分達の喧嘩で多くの子供が死にかけていた、と認識した。

「彼等も、元を質せば田舎の村の子沢山で、食い扶持が無くて幼い内から働き手として街に送り出された者も多い。
 今は身を持ち崩したとはいえ、子供幼児の扱いには慣れている。
 火事から子供を助けねば、と思い至ると敵味方の別なく天を仰いで、投げ下ろされる子供を必死で受け止めた」
「いやしかし、無茶でしょ」
「無茶もなにも、焔がメラメラと燃え上がり、投げるマキアリイ君の袖を焦がすほどなのだ。一瞬の躊躇も許されない状況だ。
 あの時他に子供を救う手立ては本当に無かった」

 最後に残ったのが、投げ下ろす事ができない嬰児が3人、手伝いの14才の少女、そして託児所の経営者であるゲギミ婆さんだ。
 もはや下には脱出出来ないから、屋根に上って隣の建物に飛び移る事となる。
 少女は身体に3人の嬰児を縛り付け、マキアリイは婆さんを担いで少女を屋根に押し上げる。

 最後に、婆さんと自分が脱出する段となって、マキアリイは改めて条件を提示した。
 「救出料1人1ティカ」
 金持ちのゲギミ婆さんは、自分と手伝いの少女2人分と考えて即座に応じ、マキアリイの背に担がれて屋根に逃れる。

 隣の建物には既に消防員が上り、手を伸ばして3人が逃れるのを助けている。
 マキアリイは少女の腕を掴み大きく振って、空を飛ばせる。彼女は消防員の手の中に抱き止められ、身体に括りつけた嬰児も無事であった。
 婆さんを背負ったマキアリイは助走を付けて自ら飛び、難無く我が身を救ったのだった。

 

         *** 

「なんだ、大活躍じゃないですか、なんでそれで巡邏軍に捕まるんです?」
「それがだよ、クワンパさん。マキアリイが婆さんに約束させた「救出料1人1ティカ」は、投げ下ろして救った幼児の分も入っていたわけさ。
 婆さんは2人分と勘違いしたけれど、本当は幼児30人と手伝いの少女と自分、計32人分だ」
「ははあ、それで4ティカ札8枚ですか。しかしセコい商売ですね」
「いやいや、マキアリイはそんなケチじゃないぞ。焼け出された子供の母親は、他に子供を任せる所が無くて難儀するのが目に見えている。
 せめてもの見舞金として、婆さんにカネを出させたんだな。
 なにしろあんな燃えやすい階段作った奴が悪いに決まってるんだ」

 そして揉めた。
 騙されたと気付いた婆さんがマキアリイに食って掛かる。

 運悪く、おっとり刀で駆けつけた巡邏軍の1個中隊が関係者と思しき者を片っ端から逮捕して、ついでに婆さんと揉めているマキアリイも捕まえた。
 弁解をする暇も無く護送車に押し込まれて、治安拘留所行き。

 ははあ、と得心が行き、クワンパは布鞄から先ほど受け取った茶封筒を取り出す。

「つまりこのお金は、お母さん達の為のものなんですね?」
「マキアリイはそのつもりだろう。
 ゲギミ婆さんも、頭を冷やしてやっと意味が分かったのさ。でなけりゃ自分の建物が焼けてるのに、カネなんか払わないさ」
「じゃあこのお金は、大将に渡しておいた方がいいかもしれませんね」
「そうだな。オレから配っておこう。さっき話に出た手伝いの少女が、お母さん達を連れてここにお礼に来るからな。
 マキアリイが後のことはウチに行けばなんとかなる、と教えてやってくれたんだ」

「うむ流石だ。人を救うまでは並の勇者でも出来る。だが救った後の身の振り方までもをちゃんと配慮できるとは、まさに英雄」

 キレアルス監督は昼日中から酒を注いでもらい、しみじみと味わっている。
 英雄の活躍を解説する事で、自身も再びの高揚を得たのだろう。マキアリイ映画の人気の秘密はこれである。
 観客は自分も英雄となったかに感じて、映画館を出る時には胸を張って社会の為に役立とうと思うのだ。数秒で効果は切れるが。

 クワンパ、一つ疑問に思う。
 これまでの話の中に、上級学校生カロアル・バイジャン君16才は出てこない。
 彼はどうして巡邏軍に捕まってしまったのか。

「ああ、あの少年か」

 キレアルス監督は再びに良い気分に包まれる。

「彼は、焔の中で必死に子供を救おうとするマキアリイ君の姿を見て、だが焔の大きさと騒ぐヤクザの大人数を見て、立ちすくんでいたのだ。
 当然の反応だ。誰もが英雄になれるわけではない。我が身を捨てて英雄的行動に移るには、勇気を越えた力が必要だ。
 背中を押してくれる年長者の出番であろう。私は、彼にこう諭した。

 「英雄探偵マキアリイ、彼には誰もが憧れるが、誰も彼と同じには出来ない。それを引け目に感じることは無い。
  だが彼の助けになろうと思う君の心を縛ってはいけない。それは君の人生の問題だ」

 彼は矢のように走って、喧騒の中に飛び込んでいったよ……」

 

 こいつのせいか。
 こいつのせいでバイジャン君はとっ捕まって、私がゲルタ定食代を払わねばならなかったのか。

 世間的身分の見境も無くカニ巫女棒が冴え渡る。
 店の外で、世界的大監督と憧れのカニ巫女との対話を見守っていた女の子達も跳び上がって喜ぶ。

 伝説がまた一つ生まれた。

 

         *** 

 バイジャン君の学校鞄を取り戻し、鉄道橋町の事務所に戻ると、彼の母親が迎えに来ていた。

 学校を無断で休み、父親が司令官を務める巡邏軍の拘留所に入れられる、とんでもない恥を曝してしまったのだ。
 お手打ちにされるかと怯えたが、火事場で捕まったヤクザ達の証言から人命救助に助力したと判明して、執行猶予とされたのだろう。
 母親は綺麗な方であるがとても厳しそうだ。巡邏軍監の妻であれば至極当たり前なのかもしれない。

 後に聞いた話では、バイジャン君には妹が居て母親そっくりにキツイのだそうだ。
 ネコが好きな優しげな令嬢に恋をするのも自然の流れか。

「まあこれからはネコなんかに構わないで」

 クワンパの忠告を背中で聞いて、家まで連行されていった。
 振り返り、所長に尋ねる。

「所長が連絡したんですか」
「ここに居るとは電話したが、別に事情は伝えていない。父親が部下に調査させて判断したんだな」
「「ソル火屋」の大将が言ってましたよ。後の事は任せておけって」
「ふん、どうだった?」

 単純な感想は抱けない。
 一歩離れて第三者的に考えれば、マキアリイはまたしても英雄にふさわしい偉業を成し遂げたのだが、賢い人のする事には到底思えない。
 バカを捨てたら、この人は一体何者になれるのだろう。

「映画監督のキレアルスさんに会いました。昨夜の一部始終を見ていたそうです」
「あの人は苦手だ。なんか異様に迫力があって、こちらの背中の裏側まで覗き見しそうで」
「ええ、だからぶっ叩いておきました」
「本当に?」
「はい。めったにない経験が出来たって喜んでましたよ」

 明日の朝刊の1面はそれだな、と呟いて、マキアリイは応接の長椅子に寝てしまった。
 既に時刻は夕方で、営業時間も残り半刻しか無い。今日のところは怠惰でもいいか。
 寝不足のまま、コロコロと変わる状況にクワンパもいい加減くたびれてしまった。

 まあそうだよな。こんな毎日じゃあ突っ張って畏まっていたら、寿命いくら有っても足りないよ。
 のんびりとだらだら行こう。

 

「ただいま戻りましたー」

 2日ぶりに戻った巫女寮の扉を開けると、カタツムリ巫女のヰメラームが青い顔をしている。
 自分が居ない間、今度はどんな面倒が起きたのか。

「クワンパさん、大変です」
「なんですか、今度は誰が何をやりましたか」
「大家さんが、卵を買ってきてしまいました。20個も」

 なんだって、と顔から血の気が引くのをクワンパは感じている。
 1個1ゲルタ(1百円)もする高級品を、人数分のそのまた倍も。
 また共同の食費ががっくりと削られてしまう。

 年上のヰメラームも打つ手が無くて狼狽える。誰かあの底抜けお財布を始末できないものか。

「大家さんは自分一人の為ならば何も贅沢をしない、質素を苦とも思わない素敵な方ですが、
 他の人が喜ぶ事であれば、どんな犠牲を払ってでもしてあげたいと願う、とても困った方なのです。
 カニ神殿ではこんな人をどうやって躾けるんですか、クワンパさん……」

 

 

(第十話)

 銀行から帰ってきたクワンパは、事務所の前にとんでもない化物が停まっているのに驚いた。
 真紅に輝く流線型。滑らかで傷一つない金属板が複雑な曲線で組み合わされ、漆黒の車輪がぬめる艶で真新しさを誇っている。

 自動車だ。それも貨物自動車や乗り合いなんて野暮なものではない。
 競技用高速車両。時速200里を叩き出す超高級車だ。
 (地球時速だと90キロ/時、土路面走行時
   注;タンガラムの自動車は燃料供給事情により開発の当初から燃費向上が出力増強よりも優先される)

 近所の人も、特に子供達男の子達がすっ飛んで集まり、呆けた顔で見詰め続ける。
 車両の脇に立ち番をする丈高い男性も何やら面映ゆく、迷惑そうだ。

 クワンパの登場で人々はようやく視線を自動車から外した。
 マキアリイ刑事探偵事務所へのお客であるのだから、ここは事務員さんに任すべき。

 さすがに色んな種類の職業人と対面して、クワンパも人を見る目が出来てきた。
 立ち番の男性は身なりもしっかりとして紳士的、だが視線は厳しく妥協が無い。警察関係者だ。
 ただ、薄給の公務員がこのような趣味的な自動車を所有するはずも無く、彼は本当の客のお供であろう。
 警察関係者を供とする重要人物とは。

 男に近付き二言だけ了解を取って、クワンパも事務所に戻る。
 暗い混凝石の階段を登る間に客の正体を知る。ほんのりと薄く、化粧の香りが漂っている。

「ただいま戻りましたー」

 と、躊躇なくガラス扉を開くと、案の定に派手な高級服に身を包んだ美女をマキアリイが相手している。
 年齢がかなり高い。おそらくはマキアリイと同じか、もう少し。
 カニ巫女が遠慮すべき相手ではなかったから、遠慮なく苦情を述べる。

「下の車、邪魔です。あんな大きなものが停まってたら往来の邪魔でしょ、ただでさえ道幅無いのに」
「あはは、これはカニ巫女だわ」

 大美人と呼ぶには少し地味な顔立ち。服装自体の派手さに比べて化粧を抑えている印象だ。
 これまた職業柄による自己抑制と考える。髪も茶色で、本来の質は質実剛健の旧家のお嬢様か。
 声に聞き覚えがあった。

「ああこのヒト、首都からの電話の」
「チュダルム彩ルダムよ。覚えておいてね。職業は法衛視」
「所長に暗号通信を送ってきた法衛視はあなたですかー」

 正体よりも名前に驚く。”嘉字付き”かー、とあっけに取られた。

 嘉字とは、チュダルム「彩」ルダム、の真ん中の字のことだ。通常の名前はテュクラ符で記述されるのに対して、ここだけが「ギィ聖符」で記される。
 「ギィ聖符」とは古代金雷蜒王国の支配者であったギィール神族が用いていた文字で、複雑な字素を組み合わせた表語文字だ。
 自らの名にこれを許されるのは、ギィール神族また褐甲角王国の神兵と呼ばれた黒甲枝、及びそれに準じる高い位を王に認められた者のみだ。
 聖戴者と呼ばれる存在により社会が統治されていた時代の遺物である。
 民衆主義の今の世にわざわざ嘉字を名乗るのは、先祖代々受け継ぐ者。生まれながらの権力者の印だ。

 マキアリイは女事務員に説明する。つまりこの方は、

「クワンパ。この人はヒィキタイタンの従姉だよ」

 おお! いきなりいい人に見えてきた。

「お初にお目にかかります。カニ巫女見習いでヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所の事務員クワンパです」
「はいどうも。
 さてマキアリイ君、この子を交ぜて本題の話する?」

 当然に彼女は遊びで来たわけではない。
 仕事、それもかなり大事であるだろう。首都の法衛視がわざわざベイスラに出向いてくるほどの事件だ。
 クワンパは三下扱いにさすがにちょっとだけカチンと来た。

「守秘義務ということでしょうか。捜査上の秘密を私が守れるか、という」
「命の危険に曝されて、暴力拷問を受けたとしても守れるか。というお話よ。
 その点、前のシャヤユートさんをわたしは買ってたんだけどな」

 これだ。
 英雄探偵マキアリイの事務所に勤める前に覚えた興奮と緊張の正体だ。

 数々の凶悪事件を解決してきたマキアリイと共に働くのは、自ら死地に飛び込むのと同義。
 事務員が誘拐されて英雄探偵を脅迫する材料とされる。動きを縛ろうとする。
 そんな展開に陥る覚悟も無しに、事務所のガラス扉を開いてはいない。

 改めてカニ巫女として問われる。
 自分は正義の為に我が命を捧げる事が本当に出来るのか。

「シャヤユート姉よりも頼りなく思われるのは無理もありません。
 ですが、

      やらないわけ無いじゃないです」

 

         *** 

「改めて宣言しておきましょう。この度の案件は、あなたの命よりも重く、あなたの生命と引き替えにもする重大なものです。
 ほんとにやりますね?」
「やりますよ」
「簡単に言うね。口ほどの実が有るのを祈ります」

 美女法衛視チュダルム彩ルダムは、自らの位置を少々換えた。
 マキアリイとクワンパは寄り添った形となる。
 書類等は無く、ただ言葉だけで説明する。

「この度マキアリイ君に協力をお願いするのは、「闇御前」の裁判についてです。
 闇御前については、改めて説明するまでも無いですね」
「はい。知ってます」

 クワンパはマキアリイが解決した事件について様々に詳しく知っている。
 ただ残念ながら、「闇御前」事件は未だに映画化がされていない。伝視館放送や新聞雑誌で読んだ限りの知識となる。

 「闇御前」事件とは、クワンパの二代前の事務員ザイリナの時代に起きたもので、英雄探偵マキアリイ最大の成果と言えるだろう。
 或る意味では、マキアリイが英雄として奉られる事となった「潜水艦事件」よりも大きなものだ。
 なにしろ「潜水艦事件」を引き起こした張本人である、と推定されるほどなのだから。

 タンガラム中央政界を長年牛耳っていた闇の実力者、黒幕、帝王と呼ばれた老人が、これまでの人生で積み重ねた数々の邪悪な犯罪の全て。
 これを、マキアリイは陽の下に明らかにした。
 あまりにも重大過ぎる結果に、政界は大きく動揺し、政府の支持率はがっくりと低下し、裁判所の権威も回復不能なほどに傷つく。軍ですら逃れられなかった。
 英雄はまさに不可触の悪龍を退治したわけだ。
 まさかその発端が、幼いザイリナが暇つぶしに始めた「学校怪談」の真相追求であったとは、如何に「闇御前」であっても予想出来なかったろう。

 彼が逮捕されて丸2年。裁判も真っ盛りであるが、

「5回目よ」
「え、裁判て2回で最終判決じゃないんですか?」
「今度のベイスラでもう5回目の裁判。無茶苦茶よ」

 タンガラム民衆協和国において、刑事事件の裁判は二審制である。
 より正確に言えば、検事の役となる警察局の法衛視は刑事事件の捜査指揮も行っており、最も良く事件を知る者として最初の裁定を下す。
 これに異議のある場合には裁判になるわけだが、裁定が下る際にも弁護人である法論士が関与して事実上の調停を行っている。
 2.5審制と呼ぶべきかもしれない。

 一審は地方裁判所で行われ、判決が出て不満がある場合は上告する事となる。
 上告は首都にある「中央法政監察局」にて審議され、再審が認められれば一審が行われたのとは別の地方裁判所で、違う裁判官・検事によって審理される。
 「中央法院」は前例の無い事件や法律の改正を伴う重大な案件の場合にのみ審理を行い、それが無い場合は一審と同レベルでの裁判所で行う事とする。
 どこで審理しても同じ結果が出る。これがタンガラムにおける法の公正だ。

 ちなみに、「闇御前」事件の第一審は首都ルルント・タンガラムの隣の県であるカプタニア地方裁判所で行われた。
 罪状は「殺人教唆」21件。すべてヱメコフ・マキアリイに対する暗殺指令を対象とする。

 

「そこのところは映画で見ました。『英雄暗殺!』」
「うん、まあ、そういう事さ。最初に逮捕された時の証拠ではなかなか公判を維持できなくて及び腰になっていたところを、マキアリイ君がとんでもなく固い証拠を持ってきてくれたわけさ。
 殺し屋を生きたまま連れてくるという」
「逮捕された時も殺人教唆ですよね? あと脱税と高額資産保有無届け、でしたか。登録文化財不法保有やら盗品買いやらもありましたよね確か」
「有るんだけどね、出来たてほやほやの死体もごろっと。でも、まあー関係者の口の堅いこと」
「ははあ」

 クワンパと彩ルダムの会話に、マキアリイも苦笑する。
 全然緊張感が無い。

 だが話の途中でクワンパも気がついた。
 暗殺者をそっくり連れてきたのに、なんで有罪にならないの? 暗殺請負も自白したんだよ。

「だからさ、カプタニア地方裁判所ではちゃんと有罪になったのよ。「殺人教唆」についてはね」
「ですよね。当然ですよね」
「で、その第二審よ。再審で今度はヌケミンドル地方裁判所で行われるはずが、中央法政監察局に突き返されたのよ裁判自体が」
「え、どういうことです」
「だからさ、殺人教唆なんて微罪で裁くなよって話なの。「闇御前」がやらかした犯罪の数々をそのまま墓場に持っていけというのさ、この裁判は」
「ダメじゃないですか。巨悪は全て表に抉り出さないと」
「それをやられると困る人が至る所に居るわけさ。だったら「闇御前」死んでくれと」
「悪ですねー、世の中みんなワルですねー」

 マキアリイが気になる点を尋ねる。「闇御前」が獄中で暗殺されるのを防ぐ手立てはちゃんと講じているのか。

「一人しか入っていない特別監獄に巡邏軍一個中隊100名で。もちろん看守医師看護者調理師も身元がはっきりした紐付きでないのが確実な人物で固めている。
 けど、殺そうと思えば殺せるでしょ」
「強襲戦闘部隊が攻め込んできたら無理だろ」
「だいじょうぶだいじょうぶ。今も「闇御前」の秘密組織はぴんぴんしてるみたいだから、ちゃんと暗殺の報復をしてくれるわ。
 一般社会への復帰の目が残っているかぎり、殺す度胸の有る勢力は無い」

「未だ恐怖の抑止力は効果絶大か」
「効かないのはあなたくらいよ」

 

         *** 

 自分への暗殺指令を、殺し屋暗殺者の口から直接に自白させ裁判で証言させたヱメコフ・マキアリイである。
 もちろん殺しの専門家が依頼主の素性を素直に白状するはずもない。拷問程度ではまったくに無力。
 ではどうやって吐かせたのか。

 映画『英雄暗殺!』ではその過程が詳細に描かれている。

 マキアリイはタンガラム中を逃げ回り、数多の暗殺者の手を潜り抜けていく。だが敵が諦める事は無いと見極めるや、反撃に出た。
 つまり普通にやっつけたのだ。敵も命を懸けて仕留めにくる危機一髪の瞬間をすり抜けて、勝つ。
 負けた暗殺者は死ぬ運命にある。無茶な攻撃をすれば自分が致命の危機に陥る。実際死に掛けた。
 これをマキアリイ、お人好しにも助けてやる。助けて救って、その上でまた放す。もう一度自分を狙ってこいと。
 当然暗殺者は機会が有れば何度でも襲う。恩義を振り返りなどはしない。そしてまた負けて死に掛けて助けられる。
 3度もやればいい加減マキアリイも頭にクル。殺す側はカネ貰ってやってるんだからいいが、自分はタダ働きだ。なんの得にもなりゃしない。
 だったら、今度は俺にも得をさせろ、と。

 暗殺者も義理堅い奴が多いから、マキアリイの言葉に頷いた。報酬はもちろん依頼人の氏名の証言。
 だがこんな約束は意味が無いのだ。もしまた負けたら自殺してしまえばいい。闇の掟を守るには、それで十分。
 そしてマキアリイはまた勝った。死にそうなところを救い出す。
 自殺するのは分かりきっているから、ぶん殴って気絶させた。息を吹き返して、観念する。
 そこまでして自分を活かそうとするのなら、漢としてマキアリイに応えねばならない。それがタンガラムの任侠道だ。
 死の掟より義理よりも、重たい確かなものがある。

 男祭りだ。

「でしたよね」

 と、無邪気に尋ねるクワンパだ。しかし疑問は残る。
 他の暗殺者はどうやって白状させたのか。
 マキアリイはこともなげに答える。

「それ、7人分やった」
「え?」
「他は卑劣な手段を使う奴らで、もっと簡単に白状した。やっぱ卑劣はダメだな根性がない」

「その供述調書全部読んだわ。まーお人好しにも程がある、バカよバカ」
「それで助かってるのは法務当局だろ。ちょっとは俺に還元しろよ」
「還元てなにさ。カネでも払えというのか。そんな法的根拠は無い」

「暗殺者やっつけた報酬って、もらってないんですか。21人分?」
「21件ね。マキアリイ君1人を殺そうと21組に殺人依頼しているの」
「もっと正確に言うと、とっ捕まえた暗殺者の中で素直に自白する気になった奴で、21件だ」

「方台中を逃げ回ったんでしょ。鉄道料金他逃走資金も自腹ですか」
「おう。俺が狙われて俺が逃げて俺が返り討ちにする。誰がカネを払ってくれると言うんだよ」
「それこそ「闇御前」に慰謝料請求すればいいのに」

 クワンパの言葉に二人は驚愕し、思わず席を立ち上がる。彩ルダムは叫んだ。

「なにこの娘、賢いわ!」
「ど、どうだ。うちの事務員はスゴイだろ」

 

 話を元に戻す。

「つまりベイスラで5回目の裁判があるんだけれど、政治軍事に関与する様々な犯罪は未だ全貌を明らかに出来ていないのよね。
 本人の自白に拠らなければ、まったく進展しない。
 そこで詳細を供述する代わりに、刑事責任は問わないという政治取引が成立しようなんて話になってる」

「そんなの許すんですか! バカじゃないんですか政府は、というか裁判所はバカの親玉ですか!?」
「それを言われると耳が痛い。というわけで、わたしは徹底抗戦する事にした。
 単なる刑事事件の裁判でなく、国家反逆罪による特別法廷に引きずり込む。その為の証人を用意した。
 ベイスラの裁判に出廷させて、逃れようもない反逆の証拠を突きつけて、中央法院に叩き込んでやるつもりよ」

 おおー、と思わずクワンパも拍手する。
 ヒィキタイタン様の御従姉なら、そうこなくちゃ。

 

         *** 

 ちまちまとした打ち合わせをして、法衛視チュダルム彩ルダムは上機嫌で帰る。
 次は飲みに連れて行けと言い置いて。
 下の道路に駐車していた高速自動車は、まるで工場のような爆音を発し風を巻いて去っていく。
 あんなもの乗り回していたら燃料代がどれほど掛かることか。

 マキアリイは彼女を見送った窓を閉めて、クワンパに尋ねる。

「彩ルダムさんが何故ウチに来たか、分かるか?」
「陽動、ですかね。そうでなければあんな派手なもので、英雄探偵なんて派手な人物の所に来る理由がありません」

「ということだ。お前にも今回の計画の一端を担ってもらうわけだが、お前に明かされる秘密はその程度のもんだ。
 悪漢に捕まってゴーモンされても、ぺらぺらと喋ってくれていいぞ」
「えーーー、そこまで私信用ありませんかー」
「じゃあ言い方を変えよう。お前拷問されて自白を強要されたら、知ってることをさも重要機密のように勿体つけてちびちびと喋れ。
 なるべく信憑性が有るようにな」
「了解しました」

 それにしても、ソグヴィタル・ヒィキタイタン様の従姉で、しかも嘉字付きの名門貴族令嬢かあ。
 とんでもないヒトが知り合いなんだな。
 どのくらい偉いんだろう。

「クワンパ、お前少し勘違いしているだろう。
 ヒィキタイタンはな、王族の血筋なのは確かだが分家も分家、傍流の果ての木っ端名門なんだぞ」
「いやでも、お金持ちですよ」
「この民衆主義の世の中で、上等な血筋だけで大富豪になれるものじゃない。
 ヒィキタイタンのとこは、曾祖父さんと祖父さんが随分と商才の有った人で、独力で財閥にまでのし上がったんだ。
 それでもソグヴィタル王家の本家筋からは一顧だにされない存在で、ヒィキタイタン本人も「潜水艦事件」で国家英雄になるまでお目通りも叶わなかったんだぞ」

 はー、名門貴族ってのもたいへんなんだ。一般庶民で良かったよ。

「では、彩ルダムさんは」
「あちらは逆で、名門中の名門。こないだ「勲章事件」でたくさん会っただろ、黒甲枝の若様に」
「はい。褐甲角王国の貴族で「神兵」と呼ばれた階級の血統ですね」
「チュダルム家は、その黒甲枝の総元締めだ。チュダルムの爺さんが一声掛けたら、タンガラム中の黒甲枝が決起するという噂だよ」

「ずいぶんと詳しいんですね、所長」
「法曹界の大立者だからな。俺が首都に呼ばれて式典に出席させられる時は、かならず列席する。政府関係の犯罪暴いちゃったら、爺さんに直接尋問されたりもするんだよ」
「ははあ、英雄探偵もたいへんですね」

「その娘がまた親にそっくりで、質実剛健にして剛毅木訥、悪に対して退くことを知らず、玉砕覚悟で体当りしていくという困った性格だ」
「あんな高級車に乗ってるのに、質実ですか?」
「アレは発動機の試験してるんだ。ガワよりも機械の方に興味がある質だ」
「可愛げがない女ですねー」

「そんなわけで、嫁の貰い手も無い。チュダルムの爺さんの息子になるのは、誰にとってもおっかないさ。
 歳とってからの末娘だからな。可愛がられてるんだよ」
「所長も爺さんとやらに気に入られてるんじゃないですか。いっそのこと所長が貰えばいいじゃないですか」

 冗談でバカを言ったクワンパである。だからいきなり固まって何やら考え出したのに、逆に焦る。
 この人、本気になったんじゃないだろうな。

「クワンパ」
「はい!」
「その思いつき、絶対他人に漏らすな。どこをどう通って、チュダルムの爺さんの耳に入らないとは限らない。絶対に言うな」
「はいっ!」

 あまりにも真剣な眼差しに、クワンパも脅威の深刻さを思い知った。
 名門中の名門貴族の婚き遅れで物騒な親御さん付き、となれば婿の候補もよほどの豪傑が望まれる。
 高貴な血統で該当者が居ないとなれば、天下の大英雄なんかが注目されてしかるべき。
 ほんとに危ない。姉さん女房を押し付けられてしまう。

 

         *** 

 こうして「闇御前討伐秘密計画」は始動した。
 と言っても主役は裁判所であり公務員だ。巡邏軍も移送されてくる「闇御前」本人の警備計画と事前演習でばたばたと騒がしい。

 或る意味ではマキアリイの存在そのものが、彼らの神経を逆撫でする。
 折角英雄が邪悪を陽の下に曝して正義を執行したのに、不手際をやらかし秘密を闇に還してしまった日には、どれだけ世間に叩かれるか。

 もちろん報道放送映画関係から3流醜聞新聞に至るまで、皆注目し取材陣を大量に送り込んでくる。
 そもそもが英雄探偵マキアリイに対する殺人教唆から始まった法廷だ。本拠地に舞台を移したからには、本人が当然に証言するだろう。
 今は未だ実現していないが、実録映画『闇御前事件』に製作許可が下りた暁には、この場面は必ず挿入されるはず。
 どうせなら、どんと派手な騒動をぶち上げてもらいたい。がっちりと絵になる光景を。

 ちなみにこれまで行われた4回の裁判で、マキアリイ本人は出廷証言していない。
 彼を襲った殺し屋共の裁判にはちまちまとマメに呼び出されたのだが、「闇御前」本人の裁判には必ずしも必要というわけではなかった。
 むしろ、一連の事件を担当する首都警察局が極力マキアリイとカニ巫女ザイリナの出番を小さくしている。
 「英雄探偵 対 闇御前」などという煽情的な構図を作らないよう政治的に配慮したからだ。

 

 最近街を廻って正義を実現する喜びを覚えたクワンパが、事務所に戻ってくる。

「居ますねー、事務所の周りにも監視者が。公的私的芸能取材と、所長の動向を逐一見張っていますよ。」
「悪党は居たか?」
「1人ぶん殴ってやりました。囮作戦は大成功です」

 いかにも犯罪者、ヤクザと思しき輩は片っ端からぶん殴る。これが今求められる安全策。
 なにせマキアリイは「闇御前」直接の仇であり、配下の者達は復讐を諦めていない。
 ベイスラ地元ヤクザも、なんらかの形で恩恵を受けていたのだろう。チンピラを配置してしっかりと見張っている。
 蹴散らせば、ますます連中の注目を集める。

「ところでこちらの御二方は何者です」

 男が2人、事務所に居る。
 1人は風船のように膨らんだ中年小男で、なんだか偉そうな髭を生やしている。曲芸団の猛獣使いみたい。
 もう一方は背が高くひょろっとして、猫背で、かなり不気味。女の子にモテそうには見えない。 

 いきなり背の高い方の男が落っこちた。なんだ、と思うと、背丈がクワンパと同じ高さになっている。
 手品か。

「これはこれは、お嬢さんは今巷で有名なカニ巫女のクワンパ殿でございますな。
 わたくしは、軽業曲芸の「餅マッチリ」と申します。こちの方は「伸び縮みキャルファー」でございます」
「あ、どうも。クワンパです」

 髭小男に丁寧なご挨拶を頂き、クワンパも頭を下げる。そうか芸人さんか。
 所長が説明してくれる。

「上の呪先生の紹介だよ。ちょっと専門家の知識が必要になってな、来てもらったんだ」
「この度は英雄探偵として名高いヱメコフ・マキアリイ様がわたくしどものようなケチな軽業を御入用との事で、急ぎ馳せ参じて参りました。
 正義の味方の御為に持てる技の全てを役立てまする所存であります」

 芸人には芸をする方と喋る方とが居て、髭小男は喋る方らしい。声が深くてとても佳い。

「でも、曲芸でなにをするのですか、所長」
「まあそこはだ、……。」

 マキアリイは指を立て、全員に声を出すなと指示する。
 果たして階下の階段の入り口辺りに人の騒ぐ気配がある。男で、なにやら乱暴な口調。

「クワンパ、最初に入ってくる奴は思いっきりぶん殴っていい。続く奴には手を出すな、待機だ」
「了解しました」

 どたがたと階段を登る音がして、事務所のガラス扉が割れる勢いで引き開けられた。
 若い男が怒鳴りながら入ってくる。

「オラココがマキアリイ野郎の探偵事務所かよオエ、ぶぎゃが」
「お見事!」

 クワンパが振り下ろしたカニ巫女棒は男の脳天に真っ直ぐ叩きつけられ、床面に伏せさせる。ぴくっと痙攣して動かなくなった。
 邪魔にならないように後ろに下がっていた髭小男と伸び縮みは、どこから出したか金色の扇をぽんと開いてクワンパの手並みを褒め称える。

 出入り口に男がうつ伏せで横たわり、入るのに邪魔である。
 後続の男は連れに指図して、足を引っ張って除去させた。改めて事務所の扉をくぐる。

「   いきなりこういう真似をされるとだな、穏便な交渉ってもんが出来ないんだがな。マキアリイさんヨ」

 

         *** 

 ヤクザの親分、いやもう少し下の実務幹部で戦闘隊長というべきか、ギラギラと鋼の迫力を持つ男が事務所に入る。
 まず最初にマキアリイを見て、ついで子分をぶっ倒したクワンパがカニ巫女棒を構えるのを睨む。
 その背後の芸人2名を見咎めた。

「マッチリと伸び縮みじゃねえか。おめえらココで何してる」
「あ、いやわたくしどもはお仕事の関係でご相談を、」
「アコギな商売で搾り取られるのは芸人の常だから、俺のところに相談に来たのさ。通常業務さ」
「そうか。だが今日は帰れ。こっちが話がある」
「は、はいどうも只今すぐに。それではマキアリイ様よしなにお願い致しまする」
「あいよ」

 男に触れないように、髭小男と伸び縮みは体を平たくして壁に貼り付いて横歩きし、扉の外に消えていった。
 事務所の外にも連れてきたチンピラが居て、睨まれながらぺこぺこと頭を下げて暗い階段を降りていく。

 男は悠然と革の応接椅子に座る。かなりの筋肉質で喧嘩も相当できると思われた。
 マキアリイ、クワンパに説明する。

「この人は、「マギヴァグ會」の若衆別頭のグラガダルさんだ。監獄にも2回入った偉いさんだ」
「「マギヴァグ會」ってこの間の火事の、」

「あの時は世話になったようだな。こちらの人数も10人ばかり捕まった。
 あいつらえらく晴れ晴れとした顔で牢屋に入っていたなあ」

 ノゲ・ベイスラ市には幾つかのヤクザ組織が有り、年中抗争事件を引き起こしている。
 ただ縄張りがカチ合う事はあまり無く、それぞれに異なる分野で資金を稼いでいた。
 歴史的にどの分野で勢力を伸ばすかは決まっていて、彼らが無ければ上手く回らない産業現場も少なくない。

 最近は社会変化の幅が大きくなり、隙間産業が伸長してどこの組織とも関係ない分野が広がっていく。
 新しい形の犯罪組織も生まれ、既存のヤクザとの軋轢を増していた。

 

「さてマキアリイさんよ、仕事の話をしよう。
 今度ノゲ・ベイスラで御前様の裁判がある事は、知らないはずがねえな。
 あんたの所が裁判所に色々と手を貸しているのは分かっている。手を引いてもらいたい」

 マキアリイはクワンパに指示して、事務所の奥に引き下がらせる。
 カニ巫女はおおむね気が短くいきなりキレるから、クワンパは別としても、こういう場面では外させる。

「裁判関係者にヤクザがなにやら申し込むのは、それだけで訴訟妨害だ。下手すれば捕まっても仕方ないぞ」
「そうは言うが、天下の英雄マキアリイさんだ。ヤクザなんか怖くも無えだろう。
 今度の裁判はいろいろごちゃごちゃ有るらしいが、やっぱり中心はあんたに対しての暗殺指示だ。そいつはこっちも理解する。
 だがよ、今更に御前様に逆らって何があるよ。役人に任せておけばいいだろうが」

 衝立の後ろでクワンパもしっかり聞いている。
 彩ルダムが行う囮作戦はずいぶんと効いているようだ。

 マキアリイの存在は非常に大きく目立ち、目眩ましになっていた。
 巡邏軍や警察局の人間なら裏から手を回して制御出来るのだろうが、不確定要素が加わって手の内が読めずに困っている。
 無駄とは承知で脅しを掛けてきたわけだ。

 マキアリイも涼しい顔で応じるだけだ。

「仕事だからな。ちゃんと公式に中央法政監察局と契約して、ベイスラにおける裁判妨害勢力の情報を収集しているのさ」
「それだけじゃ無えだろ。何を企んでやがる、隠し玉を持ってるだろ」
「そりゃあ、弾が無ければ戦争にならないからな」

「単刀直入に言う。幾らで手を引いてもらえるか」

 

         *** 

 英雄探偵がカネで考えを変えるわけが無いだろう。と普通は思う。
 だが今回、マキアリイはいつもと違った論理で動いていた。

「カネか。出せるのか?」
「お、おお。ちゃんとした商談として話に乗るぜ」
「クワンパよお、アレ教えてやんな」

「はい!」

 と、衝立の後ろから帳簿を持って現れるカニ巫女だ。

「えーこれまでは、「ヱメコフ・マキアリイに対する一連の暗殺未遂事件」については刑事事件としての裁判が開かれているわけですが、
 所長はおよそ2ヶ月半に渡ってタンガラム全土を逃走し続けたわけです。
 その間に発生した諸費用、および暗殺未遂事件に伴う各種被害損害について、そのほぼすべてを自身で負担しています。
 まずは交通費として、高速鉄道特急料金をはじめとして、逃走用自動車賃貸料金から自転車購入費に至るまで、とんでもない金額になっています。
 そして宿泊料、2ヶ月半の逃走生活で安宿ばかりを選択したとはいえ、その間探偵業務の遂行が不可能でありますから収入の手段が無く、ただひたすらに出費を繰り返しています。
 だがそれ以上に、暗殺者による攻撃で発生した周辺被害。自身の負傷による医療費もさることながら、不幸にも事件に巻き込まれた人に対する当座の医療費もこれまたヱメコフ・マキアリイの負担となっています。
 物質的被害に関しては、英雄探偵として名高い所長の人徳により不問に附された件も少なくありませんが、損害賠償請求を正式に「闇御前」に対して行うとなれば、調査の上で計上せねばなりません」

「「闇御前」じゃねえ、御前様だ」

 グラガダルの機嫌は見る見る内に悪くなっていく。
 言いたいことはだいたい理解した。確かにカネの問題だ。

「今述べたヱメコフ・マキアリイが実質的に支払った必要経費は、これだけで720金(7200万円相当)になります。
 鉄道貨車破壊や橋梁爆破、宿舎爆破、賃貸自動車全損、車両銃撃に伴う和猪死亡に対する補償が大きいですね。
 これらは借金によって支払いを行って、現在も所長はつましい生活を続けながらほそぼそと返済しております。当然に利子が掛かります。
 さらに言えば、これは単に必要経費に過ぎず、暗殺行為による自身の生命の危機に伴う身体的精神的苦痛に対する慰謝料を請求して然るべきだと考えます。
 刑事事件として裁判で扱われているのは暗殺未遂21件でありますが、これはヱメコフ・マキアリイ本人によって暗殺者が逮捕また何らかの形で決着を見た事件に過ぎず、
 逃走生活2ヶ月半の間に、計150件の襲撃を受けたと記録されています。
 いずれも殺害を意図した攻撃として理解する事が出来て、たとえ未遂に終わったとしても精神的苦痛に対する慰謝料として1件につき10金は請求すべきだと考えます。
 もちろん負傷に至った襲撃に関しては、その倍10倍を請求すべきでありましょう。
 単純計算でも1500金(1億5千万円相当)に足すことの720金。
 数え上げる内に私、事務員としてなんだかものすごく腹が立ってきました。どうだこのやろう!」

「とまあ、そういう訳だ。これは俺だけでなく、「闇御前」によって被害を被った人達全員の為に損害賠償請求をする先駆けとなるもんだ。
 退くわけにはいかないんだな」

 革椅子からグラガダルは立ち上がる。怒るというよりは呆れ果ててしまう。
 普通の人間ならとっくの昔におだぶつで、カネなど必要の無い体になってるだろう。不死身の英雄様も大変だな。

「俺が悪かった。カネで買収できるようなモンじゃねえな。
 遠慮なくやらせてもらうぜ。そっちの方が安上がりだからな」
「おう、そういうことでよろしく」

 

 ヤクザの去った事務所で、片付けをしながらクワンパは考える。
 これまで何人も殴ってきたが、さすがに今日来た大物は迫力が違う。アレと戦うには神殿挙げての総力戦になるだろう。
 かと言って、カニ巫女が銃火器武装することも叶わない。
 さてどう対処したものか。

 マキアリイは窓の外を覗いて、しっかり監視が居るのを確認した。
 先程のヤクザ「マギヴァグ會」だけでなく、複数の勢力が競合しているはず。「闇御前」への忠誠心競争なのだ。
 だから協力分担して行動する事はない。総司令部は存在しない。
 そこにつけ込む隙が生まれる。

「クワンパ、そろそろ次の段階に行くぞ」
「次ですか」
「おう、こちらから攻めていく。」

 

         ***  (第十話 その2) 

 その朝、「クワンパ」は紺色の事務員服姿で巫女寮を出て、まっすぐに鉄道橋町の事務所に向かう。
 途中カニ巫女棒を何度も肩に担ぎ直して、通行人にぶつけないように注意しながら歩く。
 特に誰に会うでも無く、挨拶も普通にこなして、靴皮革問屋の脇から暗い混凝石の階段を上って金文字の描かれたガラス扉を開く。
 既に男性が出社していた。

「あなたが、クワンパの言ってた「呪先生」ですね」
「はいそうです「クワンパ」さんいえ蜘蛛巫女のソフソさんですねご苦労様です」

 「クワンパ」は,胸元から取り出した金縁の眼鏡を掛けて、「ソフソ」に戻る。
 つまりは、クワンパの不在を誤魔化す為に替え玉を使う計略。
 前日深夜に寮を抜け出して秘密任務に向かうクワンパの代役として、背丈と胸が同程度のソフソが選ばれた。
 顔立ちは結構違うのだが、そこは女優としてのカタツムリ巫女ヰメラームと、髪結いゲジゲジ巫女ッイーグが腕を揮う。

 ッイーグは、

「まあ辛気臭く貧乏そうに見せればいいわけだが、カニ巫女棒持ってる時の迫力は化粧では出ないからな」
「そこは演技でなんとかしてもらいましょう。なるべく苦虫を噛み潰したみたいな表情で居て」
「あのすいません、眼鏡が無いと何も見えないんですけど」

 近視で見えない眼を細めてやっと街を歩いて、ちょうど良い具合に人相が悪かったようだ。
 呪先生に尋ねる。
 ソフソの眼には、なんだか蜘蛛神殿の老神官様みたいに見えて、相当の知識人だろうなと尊敬の念を抱く。

「それで私はこの事務所で「クワンパ」を演じればいいわけですね。何をすればいいのですか」
「これです」

 『英雄探偵マキアリイ』映画の宣伝用等身大マキアリイ立て看板だ。天然色4種類、別々の格好を決めている。
 ただし、写真の主はヱメコフ・マキアリイその人ではない。
 実録物映画で主演を務める俳優が写っている。

「これはお宝物ですね、どこから調達したのですか。映画の熱狂的愛好者だと奪い合いになる代物でしょ」
「まあご本人を映画化しているわけですから映画会社から直接にもらえると思いますよ本人と似ているかどうかは別として」

 ソフソにも自分が何をするべきか、だいたい理解できてきた。
 要するに探偵小説でよくある仕掛けで、絵姿や彫刻を用いてその人物がある場所に居ると監視者を騙すわけだ。

「とすると、この立て看板を長々と晒すのはまずいですね」
「一瞬でいいですね半刻に1回ほんのすこしだけ姿を見せるだけで十分だと思われます後はあなたが事務員として普通に働いていれば」
「了解しました」

 呪先生は説明を終えると早々に廊下のはしごを伝って屋根裏部屋に帰ってしまった。
 まるでトカゲのような軽快な動作に驚かされる。さすがは英雄探偵の屋根裏に住む人だ。

 とりあえず革椅子に座って休憩する。
 ここで彼の有名なヱメコフ・マキアリイが日夜正義の為に戦っていると思うと、感動も一入。
 本物クワンパは何が悲しくて毎日愚痴ばかりをこぼすのか。

 とはいえこれから数日英雄もカニ巫女も居ない。
 ソフソは格闘に関しては非力のド素人、棒など持たされてもどうしようもない。
 差し当たっては悪漢に襲われた際の脱出経路を確保しよう、と周囲を観察する。

 この建物は鉄道橋の5連の弓形橋脚の1つの下にあり、用途を不法転用されたもの。混凝石造りで頑丈では有る。
 襲撃された場合の逃げ道は、まず事務所窓から表通りに避難できるのはよしとして、
 内部の階段は1つ、2階まで。表通り側に事務所が2軒。ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所の左隣は代書屋になっている、
 階段を挟んで裏側にはすぐ扉が有って、これを開くと。

 ぱあーっと光が広がった。何も無い。素通しの張り出しだった。
 1階店舗部分の屋根に相当するが、ただの混凝石の打ちっぱなしで平たいだけだ。

 橋の裏側には町は無く、すぐ下に細い川が流れている。川岸の草むらにはゴミが転がる。
 高く見上げると鉄道橋を構成する煉瓦が並び、3階に相当する高さの部分に小さな部屋がある。
 鉄道橋の管理棟だ。本来のこの建物の用途はそうなのだ。
 鉄はしごがあって、橋の線路に上がることも出来る。

「逃げるには不自由しない構造、ですか。さすがは天下の英雄探偵です」

 

          *** 

 アユ・サユル湖はタンガラム方台の中心に位置する巨大な円形の湖、陥没湖だ。
 直径は百里(キロ)に及び、その由来が火山であるとすれば、凄まじい破壊をもたらしたものと推測されている。
 方台南岸東方にも同規模同様の地形「円湾」がある。これもまたアユ・サユル湖と同じく巨大噴火によって陥没したものだろう。

 アユ・サユル湖は人間の歴史にも大きな影響を及ぼしている。
 そもそもタンガラム方台は1辺1千里の正方形に似た形状をしているのだが、その南北中軸を貫く山脈がある。
 北部はカプタニア山脈、南部はベイスラ山地と呼ばれるが、そのど真ん中に穿たれたのがアユ・サユル湖だ。
 方台中央部の東西交流は、この巨大な山脈と湖によって阻害される。
 徒歩による移動は1ヶ所のみ、アユ・サユル湖北岸のカプタニアを通る「カプタニア街道」を使うしか無い。
 南岸ベイスラ側は高い山を垂直に抉る切り立った崖が続き、移動できない。

 故にカプタニア街道は交通の要衝として発達し、また関所として機能した。
 この土地を掌握すれば東西交易を支配する。軍事要塞としても難攻不落で、閉鎖する事により自在に政治状況を左右出来た。
 褐甲角王国はカプタニアを占拠して初めて金雷蜒王国と対抗することが叶い、国家としての体裁を得られたという。
 以後タンガラム方台の西側を領有し、二つの王国が並立して覇を競う歴史が長く続いていくこととなる。

 タンガラム民衆協和国の首都ルルント・タンガラムは、褐甲角王国の首都カプタニアの西隣、経済的な中心として栄えた「ルルント・カプタニア」を用いている。
 もしもゥアム帝国から再度の進攻があり、タンガラム本土が東岸側から制圧されたとしても、カプタニア街道を封鎖すれば政治の中心機能は維持される。という防衛計画になっている。

 

 では湖上の水運はどうか。
 アユ・サユル湖の湖岸はおおむね切り立った崖であり、上陸可能な地形は限られる。
 時計回りで、北西ルルント・タンガラム、北岸カプタニア、北東ヌケミンドル、東岸から南東までベイスラ、すこし離れて南西サユールに船着き場が設けられている。
 ヌケミンドルからベイスラまでの東岸はおおむね低く利用しやすいが、西岸はルルント・タンガラム1ヶ所しかないと考えて良い。
 サユールの方向は山岳地帯に通じ、タンガラム方台の西岸には繋がっていない。
 険しい山道を越えると南岸グテ地と呼ばれる荒れ野に出る。不毛で、経済的には無いも同然だ。

 つまりは湖上水運はルルント・タンガラムと、ヌケミンドル、ベイスラを繋ぐ水路のみが発達する。
 特にヌケミンドル市は工業都市として大いに繁栄し、タンガラム工業の首都と呼べるほどだ。

 ノゲ・ベイスラ市も工業都市を名乗っているが、ヌケミンドル市に比べると3分の1の規模しかない。
 ベイスラはタンガラム南部からの産物を、首都またヌケミンドルに送り込む中継基地としての役割を任されている。
 決して主役にはなれない運命であった。

 

 さて我らが英雄探偵ヱメコフ・マキアリイは、今回アユ・サユル湖に来ている。
 ノゲ・ベイスラ市より北に20里ほどの大きな船着き場だ。

 湖は軍事的にも非常に重要な存在であり、湖上水軍と呼ばれる艦隊までが整備されていた。
 さらには水上戦闘機。
 海とは違い波の静かな内陸の湖は水上戦闘機を用いるのに最適である。
 ルルント・タンガラム、ヌケミンドル、ベイスラの3ヶ所に水上機部隊が基地を構える。
 広い湖はまた、高度な飛行技術を誰にも気兼ねなく行うことの出来る格好の訓練場だ。
 戦闘機操縦士の練度も高い。

 マキアリイは、首都ルルント・タンガラムからベイスラに、「闇御前」事件裁判の証人を水上飛行機で輸送する極秘任務を遂行する。
 事務員クワンパ共々行方をくらまし消息不明としたのもこの為だ。

 当然に、マキアリイはちゃんと飛行機の操縦が出来る。
 「潜水艦事件」で国家英雄となった彼は、都合により無理矢理イローエント海軍の飛行士養成課程に放り込まれて、短期間で操縦技能を叩き込まれた。
 これも皆、政府広報の為。おくにのためである。

 ただし今回軍用機は使わない。
 中央法政監察局から正式な依頼を受けた公務であるのだが、民間の水上機を借りる。
 マキアリイが操縦技能の練度を落とさないために訓練飛行に通っている飛行機協会に顔を出す。
 事務員に軽くあいさつをして、様々に関係書類を書いていく。

 用紙にガラス筆を走らせながら、気取られないように事務所のガラス扉の外を覗くと、
 果たして怪しい人物が、自分の姿を探っている……。

 

          *** 

 借りる飛行機はいつもの牽引式複葉二人乗り練習機。型名は『ルビガウル Vゼビ』
 (「ゼビ」とは天鳴蝉神で5番目の神を意味する。つまり5回目の改修型)

 『ルビガウル V』は元々湖上水軍が用いていた偵察・連絡機だ。と言っても10年前までの話。
 現在は新型が導入されており、中古機が民間に放出されたものを飛行機協会が手に入れた。
 年季は入っているが良く整備されており、長時間の飛行でもまったく変調を来さない。
 戦闘機のように無理に性能を引き出していない分、発動機の寿命も長いわけだ。

 機体は木製、翼は布に樹脂塗料を塗って平滑化して空気抵抗を抑えている。
 燃料は一価酒精(メタノール)、巡航速度は時速350里(170km/h 地球時間換算)
 決して速くはないが、民間機としては普通の速度である。
 一応は軍用機であるので急降下運動が可能。この時の最高速度は時速600里にもなる。

 ただし、協会の規定で急降下は絶対厳禁と定められていた。機体寿命を保つ為に必要な措置だ。

 馴染みの整備士が桟橋に繋がれる機体に案内してくれる。
 マキアリイは長くて黒い大きな木箱を両手で抱えていた。相当に重いのだが、手伝いは笑って拒絶した。

「これもちょっとした借り物でね。傷を付けるとえらく怒られるんだ」
「今回それを運ぶのがお仕事ですか」

 整備士も英雄探偵マキアリイの活躍には毎度胸を躍らせる。
 一朝事有る時は英雄の手助けとなり自らも正義の為に戦うぞ、などと妄想するのも若さゆえの軽薄さであろう。
 もちろん彼とても軍隊の経験があり、軍で飛行機整備技術を身に付けた。
 戦闘訓練も少しばかりは心得が有る。

 それを承知であるから、マキアリイも桟橋に下ろした箱の蓋を開け、中身を示す。

「ま、こういうもんだ。今回の任務に必要なものさ」
「うほっ。まーかせてくださいしっかりと設置しますよ。後席でいいですか、でも単独操縦で一人ですよね」
「後席でいいんだ」

 もちろん整備士任せでなく、操縦するマキアリイ本人も機体の点検を自分で行う。
 多少の不具合であれば途中着水して自力で発動機を調整し直して、なんとかせねばならない。
 操縦士にも相当に機械の知識が必要だ。飛行機はまだまだ発展途上の乗り物だった。

 ちなみに陸軍機もちゃんと有り、巨大なウキ(浮舟)で水面にでなく、車輪で陸地に着陸する。
 民間航空機の大多数は陸上の飛行場から飛び立ち、降りてくる。
 だがタンガラム方台に軍事的脅威が発生するとなれば、間違いなく海外からの攻撃であり、広大な海上が戦場になると想定されている。
 軍の飛行機操縦士はすべて水上機の操縦が出来ると考えて良い。
 実際の戦闘経験が有るのも、海外派遣軍の水上戦闘機乗りだけだ。

「ところでマキアリイさん、気付いているとは思いますが、誰か見張ってますぜ」
「だな。ノゲ・ベイスラを出る所から尾行しているぞ」
「やっぱり犯罪者ですかねヤクザですかね、それとも破壊工作者が」
「あーその事だがね」

 と整備員の耳元で細々と打ち合わせをする。色々と合図を決めておいた。
 その為の道具は、黒い木箱の中に入っている。

「じゃあ箱預かっておいてくれ。返す時無いと怒られるからな」
「はい! 慎重厳重丁寧にお預かり致します」

 整備員は軍隊調に敬礼してみせる。
 マキアリイは「潜水艦事件」の際は単なる一兵卒に過ぎなかったが、国家英雄に祭り上げられて特別昇進を受け階級も2つほど上がった。
 その後幾度もの大事件を解決して政府から表彰を受ける度に名誉なんとかがどんどん追加されていき、今では軍隊においては海軍士官並の待遇を受ける。
 敬礼に対しては敬礼で返すべきであろう。

 

 桟橋から離脱し発進する水上機を見送って整備員が事務所に戻ると、見計らったかのように男が入ってきた。
 中背の中年、半分髪が禿げ上がり、風采の上がらないくたびれた茶色の服装、ただ眼差しは厳しい。
 ヤクザ者かと思ったが、違う。非合法な雰囲気が無い。
 感じからすると、私立の民事探偵ではないだろうか。浮気や素行調査など、人の後を付け回す尾行の専門家だ。

 男は言った。

「電話を借りたい」
「公衆電話ならあちらの隅にあります」

 事務員の答えを受けて、背を向け電話台の場所に進む。
 若き整備員は後ろから殴ってやろうかと思った。

 

          *** 

 首都ルルント・タンガラムには立派な船着き場、港と呼ぶべき整備された発着場があり、昼夜問わず客船や貨物船が出入りしている。
 だがさすがに此処は目立ちすぎた。人の目も多い。
 監視を逃れて脱出するには不向きである。

 そこで中央法政監察局の法衛視チュダルム彩ルダムは、「闇御前」裁判の重要証人を移送するのにカプタニアの船着き場を使った。
 カプタニアは旧褐甲角王国の王都であり要塞だ。褐甲角王国の特権階級であった「黒甲枝」の本拠地でもある。
 黒甲枝の総帥たるチュダルム家の本領を発揮して、自らの地盤で証人の受け渡しを行う。

 既に夕方で、アユ・サユル湖の水面はさざなみが細かく光り輝き、着水するのに目が眩んだ。

「マキアリイ君、ごくろうさん」
「なんですかその格好は」

 『ルビガウル V』を桟橋に着けたヱメコフ・マキアリイは、普段は華麗に装う彩ルダムの愉快な姿に思わず吹き出す。
 薄灰色の作業服を着て、帽子で豊かな茶色の髪を隠している。
 彼女達が乗ってきたのは、車体横に「麺麭粉のククリプト」と書かれた貨物輸送車だ。穀物粉屋の配送に化けている。

「すなおに鉄道で来ればいいでしょうに。そこまで化けるのなら」
「監察局内部にも間諜は居るから、ほんとうに信用できる人間だけ使ったのさ。駅なんか恐ろしくて恐ろしくて」

 そして肝心の証人は小麦粉の袋を被されて多少白くなっていた。
 いかに正義の為とはいえ、ここまでの目に遭わされるとは思わなかっただろう。
 だがこれからが本番だ。

 彩ルダムは証人に告げる。

「じゃあアフォイナさん、これから飛行服に着替えて、暗くなってから空を飛んでもらいますから」
「いやいや、飛行機って夜飛べるんですか、前が見えないでしょう」
「だいじょうぶだいじょうぶ。飛行機を操縦するのは天下の大英雄ヱメコフ・マキアリイ君ですから、どーんとお任せアレ」
「そ、そうかなー」

 証人をなんとか納得させた上で、歳下のマキアリイに確認する。

「飛べるでしょ、夜」
「飛ぶのは問題無いですが、降りるのは曲芸ですよ。暗い水の上に何の目印も無く降りるんですから」
「ダメなの?」
「やりますけどね、軍の腕扱きでないと普通やらないもんですよ」
「君なら出来る。死んでも骨は拾ってやるから安心しなさい」
「ううやだなー」

 この人はすっかりお姉さん気分であるから、マキアリイも強く反論できない。
 カニ巫女棒に叩かれる方がよほど気が楽だ。
 確認の為に、自分で証人に尋ねる。

「アフォイナ・ボルゴンさんですか、この度はご苦労をお掛けします」
「あ、はい。こちらから望んだ事ですから、頑張ります」
「ところで、お食事はなさいましたか」
「は? あ、そうそろ夕食の時間ですか。昼に少し、あまり喉を通らなかったもので、言われてみれば空腹だと」
「それは良かった。飛行機ずいぶん揺れますから、その方がイイです。ベイスラに着くまで我慢してください」

 操縦の後席でげろげろと吐かれてはかなわない。
 証人もこれから何が起こるのか薄々と理解して、三度緊張に顔を引き攣らせる。

 彩ルダムは左手首に嵌めた大ぶりの腕時計を見て、これは立派な高級品でありとても粉屋の配達には見えない、運転手役の部下に合図をする。

「マキアリイ君、あとは任せた。私は次の証人を、今度は鉄道経由で送る作業するから」
「鉄道はダメなんじゃないんですか」
「闇に乗じて貨物車に、だよ。あらゆる経路で複数の証人を送る事で、敵の目を誤魔化すのさ」
「そりゃごくろうで」
「その後は深夜街道を自動車でぶっ飛ばしていく。私自身が囮なのさ」

 チュダルム彩ルダムは、他人を危険な目に遭わせるだけでなく、自身も危ない橋を渡って見せる。
 故に陰謀渦巻く首都の法曹界においても信頼され、今回の大仕事を任されているのだ。
 親の、先祖の七光によるものでは無い。

 

          *** 

 今宵の空には大きな白の月と小さな蒼い月と、共に揃っているのだが月齢が悪くあまり明るくない。
 月明かりが充分であればアユ・サユル湖の湖面は輝き、着水も楽なのだが致し方ない。

 後席に座る証人のアフォイナ・ボルゴンが、伝声管で話し掛けてくる。
 発動機推進翼(プロペラ)の騒音に加えて、飛行中は常に向かい風だから、直接に話しかけても良く聞こえない。
 互いに防護用の飛行帽を被っているから、伝声管経由でないと声も跳ね返してしまう。

「あの、もう少し高く飛んだ方が安全じゃないですか。なんだか船の帆柱をかすめているような気が」
「そりゃ錯覚ですよ。実際はまったく接触しない高度です」
「そうですか。いや飛行機はよく分からなくて」
「高度を取るのは簡単ですが、電波探知で捕捉されてしまうからこの高度で行きます」

 だが実際は、離水直後から湖上水軍の電探網で捕捉されているのだ。
 ほんとうに映らないようにする為には、家の屋根の高さで飛ぶしかない。夜間ではとても出来ない芸当だ。
 映ってはいるけれど、映らないように努力している。そういう姿をマキアリイは演出している。
 おそらくは軍内部にも潜んでいるだろう「闇御前」勢力の協力者が気付くように。

 それに、軍の電波発信塔を利用して飛行機は飛んでいた。方位を測る目印として最適な存在だ。

「あの、マキアリイさん」
「なんでしょう」
「私、なんだか不思議な気がします。ほんの2年前までは御前様に逆らうなんて想像すらしていなかったのに、こんな事を自分がしているなんて」
「ああ、」
「それも皆あなたのせいですよマキアリイさん。あなたが御前様を逮捕しなければ何も、何もかも変わるはずが無かった。
 そのあなたに守られて、御前様の裁判に出廷する為に空を飛んでいるなんて……」

 法衛視の彩ルダムから提供された情報で、マキアリイもアフォイナの個人情報を得ている。
 彼は極めて普通の会社員なのだ。
 大学出で一流企業に就職する事の出来た恵まれた境遇と言えるだろうが、特別なものは何も無い。犯罪とも無縁の一般人だ。

 ただ彼が勤める企業は「闇御前」の組織と深く結びついており、そして大企業であればどこもそうせざるを得なかった。逆らえば業界ぐるみで潰される。
 闇の組織との連絡要員として多少深く事情を知る部署に居た、それだけの人物なのだ。
 企業への忠誠心もあり、闇御前に逆らう恐怖もある。知れば知るほど恐ろしく、見ぬふり知らぬふりで決して真実を表に明かすなど考えなかった。
 或る日突然、理不尽な逆境に放り込まれなければ。

 知り過ぎた。思い当たる節はそれ以外に無い。
 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイにより、「闇御前」本人が殺人教唆で逮捕される事件が起きた直後である。
 自分が生きているのは不都合と、誰かが考えたのだ。
 会社か、闇の組織なのか。それとも政府関係のもっと深いものか。

 藁にもすがる思いで、接触してきた中央法政監察局の事情聴取に飛びついた。
 もし特別な保護が無ければ、彼の命はとうの昔に無くなっていただろう。
殺人でも事故でもなく、ごく普通の浮浪者が行き倒れた形で発見されていたはずだ。

「ああ、着きましたよ」

 ベイスラから発せられる信号を電波方位指示器が捉え、規則正しい連続音が聞こえる。
 しかし、湖面には何も無い。

「あの、此処ですか」
「此処に降ります」
「でも下が何も見えませんが、ほんとに」
「ちょっと揺れますよ。ちょっとだけ覚悟してください」

 いきなり飛行機の挙動が変わった。
 安定した水平飛行から、獲物を襲う猛禽のように、拡がる闇に突っ込んでいく。
 ぶつかる、と思ったが水の匂いが、飛沫が頭を抱えて守るアフォイナの鼻腔をくすぐる。
 またしても飛行機はふわりと浮き上がり、元の高度に戻る。右旋回を始めた。

 彼は、操縦するマキアリイが小さく零す声を伝声管からはっきりと聞いた。

「あー、ほんとに何も見えないや。参ったなこりゃ」

 冗談じゃない、と思うが今更どこに逃げようも無い。すべては英雄の腕前に委ねるのみ。
 だがマキアリイが何を基準に旋回しているか、ようやく見つけた。

 暗い湖面にぽつりと一つ、小さな灯りが浮いている。

 

          *** 

 出発した飛行機協会の桟橋に機体をゆっくりと近付ける。出る時世話になった若い整備士がもやいを受け取り、杭に繋ぐ。
 彼の表情は固い。
 操縦席から降りて飛行帽を脱いだマキアリイに、彼は悔しそうに小声で言った。

「マキアリイさん、すまない!」
「なあに、計画通りさ」

 発動機が止まり飛行機が完全に停止したのを見極めて、闇の中からぞろぞろと男達が現れる。
 手には短い槍に幅広刀、白熱電灯のまばゆい光に鈍く輝く。そして猟銃、長銃、拳銃までも。
 その数50人、さすがに大げさ過ぎて呆れた。どんな化物と戦うつもりだよ。

 マキアリイ、小さく両手を上げる。
 完全武装のヤクザだ。者によっては軍用鉄兜までも被っているから、仰々しい。

「やーこれはちょっと勝てないなー」

 タンガラム民衆協和国において、銃火器の民間所有は大きな制限が掛けられる。
 特に現代銃器で必須の真鍮製金属薬莢と雷管を用いた連発銃は、完全所有禁止となっている。
 許されるのは、タンガラムで発明され伝統的に使われてきた「鉄矢銃」と呼ばれる単発銃だ。

 後装式で、紙薬莢に包まれた装薬と、鉄で出来た小さな矢「鉄矢弾」を別々に装填する。
 銃身内部に螺旋線条を刻んだ旋転銃と呼ばれるものも古くから有るのだが、弾丸が鉄製で安く上がる鉄矢銃が好まれた。
 この型式の銃器銃弾は古い工業技術で製造されており、心得がある者なら比較的簡単に自作出来る。
 狩猟においては充分な性能であるし、禁止しても密造するから、事実上放任されていた。

 旧い銃も大切に保管されており、今もヤクザの出入りや労働争議、反政府運動などで頻繁に用いられる。
 取り締まろうにも、「砂糖戦争」の頃に曾祖父さんが使っていた名誉と勇気の証だ、と誰も自発的に提出しようとしない。
 タンガラムの誇りである「民衆主義」「民衆協和国運動」も、鉄矢銃によって成し遂げられる。幾度もの政権崩壊と再生を導いてきた。
 言わば魂の武器。

 整備士は言われたことはやったぞ、と走ってマキアリイから離れて事務所の建物に飛び込んだ。
 いくらなんでもこんな人数相手に立ち回り出来ない。自分は英雄探偵ではないのだから。

「マキアリイさんよ。ご忠告のとおりに暴力で解決することにしたさ」
「やっぱりあんたか」

 「マギヴァグ會」のグラガダル。この間マキアリイ事務所を訪ねた男だ。
 猛り立つヤクザ達の中で唯一静かな落ち着きを見せているが、彼こそが最も危険であろう。
 他の暴力集団との幾度もの抗争を経て、今の若集別頭という地位に上り詰めた。

 若集別頭とは、「マギヴァグ會」構成各団体から抽出された戦闘員集団を預かる、會長直属の親衛隊長である。

「會長がな、御前様には大変に世話になっていてな。退くって事を知らねえんだ。
 裁判の証人連れてきたんだろ。こっちに引き渡してもらいたい」

 斜めに歪んだ太い唇に紙巻き煙草を咥えている。
 顎をぐいと左に突き出すと、隣にいた下っ端がさっと寄って燐寸を擦って火を点けた。
 マキアリイはその姿に眉を潜め、忠告する。

「昆布の削り屑を燻しても何の薬効成分も無いと、保健当局が発表しているぞ」
「へへ、お天道様の下で大手を振って生きてる奴は皆同じ事を言いやがる」

 その言葉を合図に、ヤクザ達がぞろぞろと間合いを詰めてくる。
 マキアリイの戦闘力の高さは彼ら自身存分にその身に叩き込まれているから、決して先走らず、銃口方向が自分達に交差して同士討ちにならないよう、慎重に進む。
 これでは抵抗する隙も生まれない。

 グラガダルに代わって先頭を進む幅広刀の男が、刀をついと突き出す。
 ネズミ色の服を着た割と小太りの、それでいて顔は尖ったネズミみたいなはしっこい男が先行する。彼が飛行機を確かめる。

 傍で鼻をくんくんと蠢かし様子を探るのに、マキアリイはまったく反応せず正面の幅広刀の男を睨んでいる。
 集団は10歩(7メートル)離れて止まり、戦闘体制で身構える。マキアリイが瞬時に間合いを詰めて襲いかかる事が出来る距離を、ちゃんと心得ていた。
 実際ちょっとしたきっかけが有れば、例えばいきなり桟橋を照らす白熱電灯が消えるなどすれば、一気に形勢は逆転するだろう。

 男達の後ろから、グラガダルが追加説明をする。

「なあに、証人さんをぶっ殺そうって話じゃねえんだ。御前様の裁判の間中こちらが指定した宿屋に泊まってくれればいいんだ。女も付けてやる」

 マキアリイの返答など待たずに、小太りネズミ男はもやいに繋がれた飛行機を覗き込む。
 前席は操縦士でマキアリイが乗り、証人は後席に縮こまって隠れているはず。

 だがネズミ男は顔色を変えて親分を呼ぶ。

 

          *** 

「別頭ぁー!」
「どうした!」

 複葉機の下の主翼に足を掛けるという蛮行を行いながら後席を覗き込むネズミ男は、顔面引き攣らせながらも声を上げる。

「   機関銃がありやすぜ」
「なんだと?!」

 民間機が武装を許されるなどあり得ない。
 にも関わらず、マキアリイが使用した水上訓練機『ルビガウル V』の後席には、対空迎撃用の機関銃が装備してあった。
 金属薬莢を用いる軍用兵器の速射力に、鉄矢銃など敵うはずも無い。

 グラガダルは叫ぶ。

「証人の男は、居るかー?」
「誰も乗ってやせん!」

 マキアリイはふっと頬を緩めた。

「とまあそういうわけだ。誰も居なくて良かったな、乗ってたら今頃お前ら蜂の巣だよ」
「クソっ」

 3人が続いて飛行機に寄り、機体の後方や下の浮舟などを覗き込み、誰か隠れていないか探す。
 もちろん何も見つかるはずが無い。
 男達を左右に割って、グラガダルが前に進み出る。マキアリイの目と鼻の先にまで出て、昆布の煙を吐いた。

「やってくれたか。そういう気はしてたんだ」
「考えれば誰でも分かる話さ。天下の大英雄ヱメコフ・マキアリイ様が、飛行機に乗って華麗に最重要証人を裁判の地まで運ぶんだ。
 どう考えたって囮だろう、コレ」
「証人のアフォイナ・ボルゴンは何処に居る」
「さあね。チュダルムの姉さんは真っ赤な高速自動車で夜通しベイスラにかっ飛んで来ると言ってたから、そっちじゃないかな」

 グラガダルは火の着いた紙巻き煙草を湖に投げ捨てる。
 完全武装のヤクザ達は後ろに引き下がり、そのまま撤収を始めた。
 本日の狙いはヱメコフ・マキアリイの命ではない。無駄はやらない。

 敢えてマキアリイは挑発してみる。

「ん? 掛かってきてくれよ。俺だって仕込みの一つ二つは用意してるんだからな」
「今日はやらねえ。それに俺は、あんたのコトは割と好きなんだ」
「お。いきなりの告白だな」
「何が何でもあんたをぶっ殺してやるって連中も會の内には居るんだが、俺はそうじゃねえ。
 実のところ、あんたのおかげで儲かってるんだ。

 悪党がな、大きな顔でのさばっていられる世界ってのは、案外とつまらないもんだ。偉い奴カネの有る奴ばかりが得をして、面白くもなんともねえ。
 その点、あんたが御前様をとっ捕まえてくれたおかげで、俺たちは大繁盛だ。
 もっと掻き回してくれると、どんどん面白くなりやがる。
 期待してるんダゼ」

 手下が誰も居なくなった桟橋で、不敵に笑って背中を見せる。根っから裏街道を往く男だ。
 闇の中に消え、発進する何台もの自動車の音と共に去る。

 

 一度は飛行機協会の事務所に逃げ込んだ整備士も、おそるおそるに首を出し、マキアリイの傍に小走りで近付く。
 手には黒い球体を2つ携えていた。

「行きましたか、連中」
「ああ。物分りのいい親分で助かった。それも使わずに済んだからな」

 整備士が預かった黒い木箱の中身は、飛行機搭載用の機関銃と銃弾一揃い。おまけに閃光爆弾が2つ入っていた。
 もしも桟橋で戦闘になる気配があれば、マキアリイの合図で彼が爆弾を放り込み、乱戦に持ち込む算段であった。
 そもそもが桟橋前方に並ぶ夜間着陸灯の色を利用して、「異変がある」との合図をマキアリイに送っている。
 ヤクザ共に脅されていたとしても、所詮相手は飛行機の素人。専門家が仕込めば気付かれずになんでも出来た。

 マキアリイは飛行機に振り返り、点検を始める。
 整備士に給油も頼んだ。

「これからまた、夜の内は飛ばなくちゃならんからな」
「まだあいつらとやるんですか」
「俺の可愛い事務員ちゃんが助けを待ってるからな。空中から援護するんだ。
 機関銃、後席から上翼上に設置し直してくれないか」

 『ルビガウル V』は旧式機であるから、推進翼(プロペラ)の回転に同調して機関銃を発射する機構が付いていない。
 正面に射撃しようと思えば推進翼に干渉しない位置、上の主翼、操縦士の頭の上にしか設置する場所が無かった。
 この位置だと機関銃が弾詰り等を起こした場合対処出来ないのだが、致し方ない。

 だが整備士は逆に提案する。もっと良い方法がある。

「俺が銃手として後ろに乗りますよ。ちくしょうめ、あいつらが出たら今度はぎたぎたにしてやる」
「おいおい、あくまでも威嚇だけだぞ。追っ払えば上等だ」

 

          *** 

 カプタニアで水上飛行機に乗り込んだ「闇御前裁判」の証人アフォイナ・ボルゴンは、ベイスラ発着点の手前10里(キロ)の湖上で降ろされた。
 岸からはかなり離れて目撃者も居ない、暗い水の上だ。

 マキアリイはこの場所に留まる小舟の2つの灯のみを目標に、曲芸のような着水を敢行したわけだが、5回目にしてようやく成功した。
 水面ギリギリまで降りてきて、水をかすめて飛び上がる水上機の轟音に、舟に乗るクワンパは何度も何度も肝を潰された。
 下手をすれば小舟と水上機が接触して共に木っ端微塵もあり得たのだから、命懸けだ。

 もっと酷い目に遭ったのはアフォイナで、彼は荒っぽい曲芸に5回も付き合わされた。
 ほぼ失神状態で自力では水上機の後席から降りられず、マキアリイに担ぎ上げられようやく小舟に移される。
 舟を漕ぐのは持ち主の、マキアリイの釣り仲間という白髪白鬚の爺さんだ。年齢不詳でまるで真人のような枯淡な風貌であるが元気だ。
 爺さんも言う。

「いやー寿命が百年縮むのお」

(注;タンガラムの伝統的な小舟は櫂を1本だけ巧みに使って漕ぐ。場合によっては櫓のようにも使うので「櫓櫂」と表記する事もある。
  水底が浅い運河等では竿を用いる。)
(注;真人とは仙人とだいたい同義。神に選ばれて千歳の寿命を授かった人の域を越えた者を指す。仟人ともいう。創始歴6200年現在、確実に1名は居ると噂される)

 

 岸に上がったクワンパとアフォイナは爺さんに別れを告げて林の中の道を歩いて行く。この時点でもアフォイナはまだ正気ではない、
 通常なんらかの乗り物を使うところを、敢えて徒歩の選択。およそ25里(キロ)を歩く。
 一応は近所の人が使う道で草などは生えていないが、でこぼことした土の路面は歩きやすいとは言えない。起伏も結構有ってなかなかの難業。
 頼れるのは己の2本の足と、イヌコマ1頭だ。

 イヌコマはタンガラムにおいて古くから荷役に使われてきた小さな馬で、人間を乗せる事は出来ないが15石(51キログラム)までの荷物を載せてとっとこ走る。
 非常に賢い生き物で、夜の闇の道を間違える事もなくまっすぐに道案内してくれる。
 ふらふらと頼りないアフォイナも、イヌコマの胴に回した紐を掴んでなんとか歩いて行けた。

 彼の格好は飛行服のまま、クワンパはカニ巫女見習い正規の服装。
 動きやすいし汚れてもいいし、寒くもないからこの姿だ。
 十二神の巫女は田舎に行けばなにかと良くしてもらえるから、クワンパの知名度による危険性を考慮しても採用した。

「さて。」

 とクワンパは木々の立ち並ぶ陰に入り、懐中電灯を点けて地図を見る。光が漏れないように気を使う。
 いかに秘密作戦でここまで来たとはいえ、敵がどこまで網を張っているか定かではない。
 マキアリイの水上機が途中で降りた事も、軍の電探網では検知出来ただろう。
 それゆえに正規の道路を使わずに間道を歩いていくのだが、そこまでしても見破られる可能性は低くない。

 こんな事もあろうかと、イヌコマの背には軍用無線機を積んでおいた。
 もしも敵襲を受けた場合、上空を旋回しているはずのマキアリイに連絡し、ただちに援護してもらうのだ。
 正確な位置を示す為に信号弾を打ち上げる銃までも携えている。が、武器はカニ巫女棒1本のみ。
 他の荷物は、食料飲料と雨具に着替え。
 いざとなったら道を離れて藪に潜み追手をやり過ごすのだが、時間稼ぎはあまり取りたくない選択だ。

「な、なんでこんな、正義を行うだけなのに、こんな辛い目に遭わなくちゃいけないんだ もうやだ」
「ああ、愚痴を言うだけの元気出てきましたね。大丈夫がんばってください」

 イヌコマに引っ張られてなんとか歩き続けるアフォイナが延々と弱音を吐き続けるのにも構わず、クワンパは尻を叩いて先を急がせる。
 こういう時精神力の強いカニ巫女は頼りになる。なにがあっても許してくれないから、ちゃんと目的地に辿り着けるのだ。

 

 3時刻半(8時間弱)歩いてやっと田園地帯に出て来れた。ここからは軽便鉄道でノゲ・ベイスラ市の郊外まで行く。
 軽便鉄道とは普通の鉄道よりも幅の狭い線路の上を小さな蒸気機関車が引っ張っていく可愛い鉄道だ。
 ベイスラ県内なら電力供給の不安は少ないから電車を走らせた方が得なのだが、架線の整備や電気料金、電車購入の費用等々導入を躊躇わせる要因が多々有るわけだ。

 二人は着替えて、ごく普通の一般市民の姿になる。
 時刻は5時になったばかり(午前8時)で、大勢の人が狭い車内にぎゅうぎゅう詰めになっている。
 ここに無線通信機やらカニ巫女棒やら証人やらを詰め込むのは大変だった。

 イヌコマは尻を叩くと勝手に帰ってくれる。頭がいいから、自分が帰るべき家をちゃんと理解していた。
 おおむねイヌコマはそういう信頼を得ており、放し飼い同然でも安心できる。

「座席、座れないですかね」
「人が切れたら空くでしょ」
「座りたいんですが無理ですか」

 切れなかった。地方部からノゲ・ベイスラ中心市街に働きに行く人は終点まで乗っていく。
 半刻(約1時間)も掛かって、乗り換えに降りて、今度は路面電車だ。
 着いた所は。

「ここです!」
「巡邏軍ですかあ」

 巡邏軍ベイスラ中央司令部の有る駐屯地。この間クワンパが大暴れして、司令官カロアル・ラウシィ軍監殿の万年筆を叩き壊した。
 今回「闇御前」裁判においても、司令官に直接個人的な便宜を図ってもらう。
 もちろん他の軍人には秘密だ。
 カロアル軍監本人は信頼する、するべき、せざるを得ないが、「闇御前」の息の掛かった者が巡邏軍に居ない訳が無いと見做すべきなのだ。

 ではどのように証人を保護してもらうのか。

「このヒト痴漢です、逮捕してください!」

 駐屯地入り口の歩哨所に、クワンパはアフォイナを突き出した。
 ここは司令部であるから一般の治安維持業務は行われていないのだが、目の前で犯罪が行われれば否応なしに対処する。
 その為の収容施設もちゃんと設置してあった。

「そ、そんな、こんなバカな話が、助けてください!」
「いやいや、これくらい安全な所はありませんから。どーんと大船に乗ったつもりで安心してください」

 この措置は当然にカロアル軍監の指示に基づくものだ。末端の兵士はただ命令を忠実に遂行するのみ。

「さてと。」

 クワンパの仕事はまだ終わらない。なにせ世紀の大悪党を裁く大裁判の準備なのだ。
 身体の奥底からどんどん力が湧いて出る。
 なんの為にカニ巫女になったかと言えば、まさにコレ。休もうなんて考えない。

 だが取りあえずは腹ごしらえ。この間所長と二人で入った定食屋に向かう。

 

          *** 

 所長も事務員も居なくても、ヱメコフ・マキアリイ私立刑事探偵事務所にはちまちまと仕事が発生する。
 偽クワンパとして偽装工作を行っている蜘蛛巫女ソフソも、事務所に篭りっぱなしでなく出掛けて処理しなければいけなくなった。
 最初から、或る程度出歩いて通常業務ぽく振る舞え、と言われているからいいのだが、

 偽装3日目の今日などは、背筋に重たく冷たいものが齧りついた気分がして、どうにも不安でならない。

 初日は良かったのだ。なんだか面白くて、喜んでマキアリイ所長の立て看板をクルクルと置き換えて遊んでいた。
 2日目、早くも見破られたのではないか、となんとなく思う。
 通りの辻に隠れているはずの監視者が、もちろん本当に監視者かどうかは分からないのだが、大胆に表に出てきている気がする。
 おそらくは自分がクワンパ本人ではない事がバレたのだろう。
 無理もない。この両日事務所近辺でカニ巫女棒に叩かれた者は居ないのだから。

 そして3日目。明らかに自分を見る目が違う。近所の一般人にも正体が完全に知られてしまっている。
 これ以上の偽装工作は無意味だ。
 それに天井裏の呪先生だけでなく、この事務所のある建物全体になにかが潜んでいる気配がある。
 禍々しく恐ろしく、だが決して尻尾を掴まさない。

 ソフソは蜘蛛巫女である。文書と記録を司る。
 蜘蛛神殿には古くから占いの技術も伝わっていた。というよりは、おみくじを売って運営費を捻出していた。
 またこれは、非常に強い武器でもある。
 書物に詳しい蜘蛛神官巫女は、口から出任せで適当な箴言をいくらでもひねり出す。
 もっともらしく占いぽい仕草をして見せて、もっともらしいお説教を垂れれば、その日の食事に困らない稼ぎを得られるのだ。

 というわけで占い札を持っている。49枚。ちゃちゃっと自分自身を占ってみる。

「2の夕、”天駆ける愚者”、正義また無謀を表す」

 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイそのものを表すのか、これは?
 そしてもう一枚。

「”夕呑螯(シャムシャウラ)神”、か」

 当然過ぎる絵札の出現に、読み解く事がまるで出来ない。なにせソフソ自身が現在カニ巫女に化けているのだから。

 

 とりあえず今日中に入金せねばならない請求書を持って銀行に出かけたソフソは、戻ってきて階段を上り惨劇の現場に立ち尽くす。

 男が2人、それも結構体格の良い動き易い服装をした若い男が、事務所の床に書類をばら撒いて死んでいる。
 頭からどくどくと血が噴き出し、今まさに殴り殺された瞬間であろう。

 膝から力が抜けて崩れ落ちようとする自分を必死に立て直して、入り口金文字のガラス扉にしがみ付く。
 あまりの恐怖に声も出ない。
 いっそ女らしく金切り声の悲鳴を上げれば簡単に解決しただろう。だが生憎、巫女という職業は取り乱してはならない事になっている。

 どうすればいいか、どうすればいいか、警察だ巡邏軍だ。電話、でんわしなくちゃ。
 隣や下に声を掛けて人を呼ぶ、という選択肢は思いつきもしない。とにかく公権力を呼んでなんとかしてくれなくちゃ。
 飛び散る鮮血を踏まないように慎重に足を運んで、ゆっくりと、恐る恐るに電話の受話器に指を伸ばす。
 まるでカタツムリの歩みのように、自分でも歯痒くなるほどに遅く、ようやくに指先が触れる。
 受話器を握って番号を回そうとする瞬間、大きな手にその手を掴まれた。

 驚愕、恐怖。叫びをあげようとする口もまた手で塞がれる。男が背後から自分を抱き留める。

「心配しなくていい。私は首都警察局特別専従班のラシコー法衛視だ。
 この件は我々の監視下で発生している。通報は無用だ」

 続いて彼と同様の会社員のような服装をした男達が何人も踏み込んでくる。
 床に転がる死体を検分して、

「生きてます! 両方とも」
「そうか、救急車を呼べ」

 ここでようやく電話の出番となる。
 腕から解放されたソフソは説明を要求する。その権利はあろう。

「いつから、いつからバレてました! いえこの人達はなんですか」
「私は今回の「闇御前」裁判に絡んで暗躍する様々な勢力の活動を監視、捜査する為に派遣された特別専従班の監督使だ。
 君はカニ巫女クワンパと同じ寮に住んでいる蜘蛛巫女のソフソだね? 
 2日前に君がクワンパの替え玉となって出社した時点から、我々は把握している」
「あ、そんな簡単にバレてたのか。
 この、男達は、」

 このような事態を想定して待機していたのであろう。救急隊員があっという間にやって来て、血まみれの男2人を収容して階下に担架で運んでいった。
 あとはラシコー法衛視の部下の捜査官が現場検証を始め、事務所を荒らし出す。

「何処の勢力かはこれから捜査するが、ヤクザの感触ではない。おそらくは政治結社の団員ではないか。
 警戒すべきヱメコフ・マキアリイも恐ろしいカニ巫女も居ないと見極めて、裁判関係の資料を物色しに来たのだろう」
「では何故、あんな恐ろしい……」

 ラシコーは跪いて床を濡らす血を指で拭う。結構な出血だが、これほどの痛手を頭部に加えながらも殺さずに済ますとは。

「カニ巫女が持つ神罰棒の仕業、だろうな。それもよほどの手練が襲ったようだ。2人共に一撃ずつで倒されている、並の腕ではない」
「カニ巫女が、マキアリイ事務所を守っていた。そういうことですか」
「君を守っていた。そういうことだ」

 ソフソは占いの結果を思い出す。
 そうか、人知れずこの建物を昼夜の別なく守る人物がちゃんと配置されていたのか。
 階段の脇に出て、叫ぶ。

「シャヤユートさん? シャヤユートさんですよねクワンパの前にマキアリイ事務所に勤めていた。居るんですよね!
 居るんでしょ返事をしてください。
 大家さんに怒られたんですよ、夜半に裏で火を炊いたでしょ、空き缶で。
 証拠残ってるんですよ、ゲルタなんか焼くから臭いが!」

 

 

※ 「闇御前事件」について説明しよう!

 公務員・地方政治家絡みの背任事件を三度立て続けに解決したマキアリイとカニ巫女事務員「ザイリナ」は、国家からにわかの表彰を受ける事になった。
 そうでもしなければ政治に対する国民の不信を払拭できないという理屈がある。
 また、この機を利用して政権与党および国家総統ヴィヴァ=ワン・ラムダが人気取りを行おうと画策した。

 割を食ったのがザイリナだ。
 連日の祝典に次ぐ祝宴で上流階級のおもちゃにさせられ、あちらこちらに引っ張り回され愛想笑いを強要され、カニ巫女棒を振るうのは厳禁で、とにかく心中毒が溜まり続けていく。
 遂には頑健無比、腐りかけのごはんでも問題なく頂ける鉄の胃袋がけいれんを起こし医師の世話になってしまう。

 ノゲ・ベイスラ市に戻ってきたザイリナは放心状態。心の平穏を取り戻すために悪党をぶちのめしてやろうと考える。
 だがそう都合よく悪党も湧いてこないわけで、マキアリイ事務所本来の業務を離れて、独自の事件捜索を行う。
 ザイリナが卒業した中学校に流行っていた「学校怪談」に飛びついた。

 「美しい女子中学生がある日なんの前触れも無く失踪した。八方手を尽くして探したがまるで見つからない。
  ある日同級生の父兄の一人がとある秘密の会合に出席したところ、その宴席に見たことも無い料理が運ばれてきた。
  大きな肉の塊で、まるで蝋のように光が透ける。とてつもない美味だという。
  だがこれは美しい少女が裸体で身をよじる形の、顔はまさに失踪した中学生である。
  宴席に集まった賓客は争って「肉」を切り取り、たちまち全身骨まで食べ尽くしてしまった……」

 この話を聞かされたマキアリイは大笑いする。そもそもが、秘密の会合に出席する父兄とはどんな犯罪組織の一員か。
 しかし粘るザイリナは、本当に失踪事件を仕入れてきた。

 

 とある美しい女子中学生が全寮制の学校に転校した。家族にも度々手紙を寄越しているが、なかなか帰省しない。
 家族が学校を訪ねてみると、彼女はとっくの昔に退学して行方知れずとなっていた。
 当然に警察局に届けを出して探してもらうが、見つからない。

 失踪者の探索は刑事探偵のれっきとした業務である。マキアリイも乗り出して、寄宿学校を調査した。
 結果、彼女がとある新興宗教に勧誘され、何人かと共に入信して学校を去ったと知る。
 しかし当の宗教団体には彼女は居らず、どこに消えたか謎のまま。

 マキアリイはこの宗教団体がいわば信者のねずみ講的な組織形態を持つと看破し、上部団体に人材を供出する仕組みになっていると理解する。
 特別に美しい少年少女は最上位の団体に集められていた。
 目的は、「宗教教義に基づく理想の新天地国家の建設」 選ばれた者のみが住む神の国を作ることだ。
 具体的計画に、タンガラム人の外国居住や移住を斡旋する非営利の公益団体が関係していた。

 マキアリイの調査により上部宗教団体で失踪した女子中学生を発見。だが個人の意思により信仰に身を捧げたと主張されると、奪還できない。
 カニ巫女棒の恩恵によりその場の信者全員の洗脳が解かれて、拉致事件としての立件が可能となった。
 件の公益団体の女性会長も警察局の取り調べを受けるが、犯罪を立証するのは難しい。
 だがマキアリイは女性会長の執務室に巧みに隠された金庫を発見。恐るべき犯罪の証拠を見出した。

 すなわち、少年少女が移住する目的地がれっきとした主権国家である「バシャラタン法国」であり、その国内に「独立国家」を築こうとする謀略だ。
 現地の支配層である「政治僧」に対して工作資金等を供与し、またタンガラムの珍品や財宝を賄賂として贈っていた。
 その一つに「吐蝋肉」がある。

 「吐蝋肉」とは本来河に棲む巨獣が丸呑みした子鹿などが、胃の中で半分消化されて吐き戻されたもので、形はそのまま肉が半透明となる。天下の美味ともてはやされる珍品だ。
 なんと失踪した少女を巨獣の胃に吊るして生きたまま加工する工場が実在した。美少女型の「吐蝋肉」を賄賂の切り札として多用する。

 マキアリイとザイリナは「吐蝋肉」養殖工場を強襲。悪党どもをなぎ払い、胃の中の少女を救い出す。
 女性会長は逃亡し、「闇御前」バハンモン・ジゥタロウの屋敷である「闇御殿『享楽城』」に逃げ込んだ。

 

 「闇御前」が一連の事件の黒幕なのは明白であるが、政官財界・軍部にまで極めて強大な影響力を誇る彼に対して、警察局は手も足も出ない。
 そこでマキアリイとザイリナが『享楽城』に乗り込んだ。美しい庭園で各界名士を集めての昼食会が開かれている。
 不法侵入者であるマキアリイに対して、「闇御前」は巨漢兇悪な護衛との決闘を座興に所望し、勝てばこの屋敷にある財宝をなんでも一つくれてやると約束する。
 無論マキアリイが勝利して、金銀財宝また美女に惑わされる事無く、「宝のつづら」を手に入れた。
 中身は、女性会長の死体である。不始末の咎で衆人環視の中巨漢に惨殺処刑された、まさにできたての死体だ。

 バレてしまった以上はマキアリイとザイリナを屋敷から逃すわけにはいかない。
 だが、ザイリナはゥアム製小型無線通信機を隠しており、内部の会話を屋敷の外に待機していた警察局の特別捜査官に届けていたのだ。

 こうして「闇御前」は殺人教唆で逮捕される事となり、殺人犯である巨漢も逮捕。
 巨悪がついに陽の下にあぶり出されたのである。だが、

 

 以後の事件は映画『英雄暗殺!』に続く。

 「闇御前」の取り調べは難航し、ついには「嫌疑不十分」で釈放、などと囁かれる事態にまで陥った。
 その間マキアリイは暗殺者の群れに襲われ、何ヶ月もタンガラム中を逃亡し続ける。
 逆襲に転じ、暗殺者を捕獲しまた放して幾度も恩を与える事で、遂に暗殺依頼者名を自白させる事に成功。
 一連の暗殺事件が「闇御前」の依頼であるとして、都合21件にも及ぶ殺人教唆により法廷闘争へと持ち込むのだ。

 

 ちなみに、失踪した女子中学生が転校する前の中学校の担任教諭が、巫女寮のカーハマイサさんである。

 

 

         ***  (第十話 その3) 

 五月二十一日、「闇御前」裁判当日。

 ノゲ・ベイスラ市すべての人が固唾を呑んで、世紀の審判の開幕を今や遅しと待ち構える。
 おそらくは、いや間違いなく大波乱の展開が待っているはず。「闇御前」に加担する勢力が手をこまねくわけが無い。
 首都とは異なり物理的に警備体制が手薄となるこの地での裁判こそ、奪還する最後の好機だと考えるに違いない。

 方や裁判所。正義の味方を気取るにしても、本当に信じて良いものか。
 議会政府行政司法から軍部に至るまで、あらゆる部署に「闇御前」は根強い影響力を行使するという。
 公権力が総ぐるみとなれば、どのような違法行為だとて容易く実現できる。
 現に首都ルルント・カプタニアにおいて開かれた裁判では呆れるほどに悪辣な妨害が頻発して、遂には審理を諦めて放り出したくらいだ。
 裁判所自体が毅然としていればこうはならない。
 あくまでも悪に断を下し市民社会に正義をもたらさんと決意していれば、生命も惜しまずに続行したであろう。

 唯一絶対の信頼を寄せる事が出来るのは、民衆の英雄。国家の闇を打ち砕く現代の救世主。
 刑事探偵ヱメコフ・マキアリイが独りあるのみだ。
 そしてここは彼の狩場、悪を根こそぎに平らげる本拠地なのだ。
 否が応でも市民は期待する。またしても彼はやってくれるはず。
 法廷で真の邪悪と正面切って立ち向かい、見事斃してくれるのだ。

 だが戦場が裁判所内に留まるとは限らない。
 巷間流れる噂では、悪人どもはノゲ・ベイスラ市内各所に同時に火を放って裁判自体を流してしまう計画とか。
 さらには重要証人の移動を路上で待ち伏せて暗殺するなども。
 逆に、歪んだ正義感に取り憑かれた暴漢ども、「天誅行徒」を名乗る輩が「闇御前」本人を襲って殺そうなど、まことしやかに語られる。

 果たして今日を無事に乗り切る事ができるか。

 

 そして五月二十二日。次の日である。

 なぜいきなり日付が変わるかと言えば、マキアリイ刑事探偵事務所のうら若き事務員クワンパさんは、ベイスラ中央裁判所に行ってないからだ。
 昨日はずーっと事務所で留守番をしていた。

 考えるまでも無く、裁判所内外で数多の職種の公務員が忙しく働く中で、一介の民間人事務員が何を出来るはずも無い。資格だって持っていない。
 カニ巫女棒はあれども、警備の陣営は銃火器で武装して待ち受けている。
 所長のマキアリイだって実力行使をする機会が無さそうなのに、なんで彼女を連れていくものか。

「というわけで私は不満がいっぱい溜まっています。一人だけ除け者みたいで」
「まあ、そうね。わたしだってそれほど活躍したわけじゃないし。ねえマキアリイ君」

 唯一人、新聞一面大見出しで載っている所長ヱメコフ・マキアリイには彼女らの台詞が理解できない。
 何もしないでカネ貰える方が楽じゃないか。

「彩ルダムさん、こんな所で油を売っていていいんですか。国家反逆罪で特別法廷が開かれる事になったんだから、忙しいんじゃないですか」
「いいのいいの。わたしの仕事は昨日で終わった。後は頂上法廷の父様が適当にやるから」

 革椅子にふんぞり返るチュダルム彩ルダム法衛視に、マキアリイもクワンパも渋面を作って肩をすくめるばかりだ。
 如何に重圧から解放されたとはいえ、緊張感無さ過ぎる。朝っぱらから酒でも飲んでいるのではないか。

 ちなみに事務所下の道路には、この前と同様に真っ赤な高速自動車が駐まっており、首都中央警察局の護衛が立番をしている。
 「闇御前」裁判は正義側の一方的圧倒的勝利に終わったが、その腹いせにマキアリイ事務所に爆弾火炎瓶等を投げ込むくらいはあるだろう。
 彼の仕事は全然終わっていない。

 クワンパはまったくもって不愉快である。
 自分は何一つ仕事をやった気がしない。そもそもが裁判の様子も知らないのだ。
 いいかげん教えて下さいよ。

 

         ***

 五月二十一日のベイスラ中央裁判所の様子は、有線放送で逐一中継解説されていたとはいえ、内部の状況までは手が届かない。
 裁判所内でほんとうは何が起きていたのかは、今後の新聞報道等に詳細が載るのを待つしか無い。

 ただ一般大衆は、英雄探偵が見事巨悪を葬って新しい段階に突入した、と理解した。
 マキアリイがクワンパに説明するところでは、

「つまり、俺達は盛大に道化を演じて見せたのさ」
「そうそう」
「道化、ですか。ほんとうは何の働きもしていない?」
「昨日の主役は正真正銘隠し玉の証人さ。俺達の仕事はあの人の存在を徹底的に隠蔽し、「闇御前」側が対応をする余地を与えない事にあったんだ。」

 

 裁判所周辺の警備は、ノゲ・ベイスラ市に裁判が移る事が確定した時点で既に始まり、1週間前から厳重に、3日前から厳戒態勢に突入する。
 取材陣も3日前から場所取りを始めて、前夜には既に総動員体制となっている。

 裁判所に被告人や証人が到着するのは、当日早朝より。
 市内全域で通勤通学が始まる前の4時ちょうど(午前6時頃)に最初の、そして最大の注目人物である「彼」が護送されてきた。

 「闇御前」の通称を持つ、タンガラム民衆協和国最大の政商にして裏世界の支配者。
 本名を、バハンモン・ジゥタロウという。
 年齢は86歳もしくは87歳、戸籍上の記載に若干の疑問点があり確定していない。
 出身地は方台西岸、百島湾と呼ばれる無数に島が集まった海域で、親は漁師をやっていたとされる。
 闇御前、いやジゥタロウも順当に成長すれば漁師になる運命だ。

 だが時は混迷を深める第七協和政体崩壊の時期。
 荒れる世間の波に乗って若者は政治運動に飛び込み、先の見通しも立たないまま闇雲に暴れ回る時代であった。

 ジゥタロウも故郷を捨てて都会に潜り込み、のし上がる機会を窺っていた。
 折よく政党人と知り合いになり、当時は失職中の元国会議員の書生に成った。
 その人に将来性を見込まれ大いに可愛がられて勉学を積み、やがて彼は国外に目を向ける事となる。

 彼の故郷百島湾の遥か西の果てには、シンドラ連合王国がある。
 タンガラムとは旧い縁を持つ唯一の異国だ。
 既に蒸気船による定期航路は開かれているが、当時タンガラムは現地に確たる拠点を設けて居らず、有力な提携先も得られていない。
 連合王国という複雑な政治体制ゆえに外交も一筋縄でいかず、外務省も通り一辺倒の関係を続けるのみである。

 元議員の薫陶により異国に強い関心を抱く彼は、若くしてシンドラに旅立つ。
 残念ながら経済的な問題から大学教育を受けられなかった為に、超階級社会であるゥアム帝国よりも、猥雑と表現されるシンドラ社会に可能性を見出したのだ。
 初めて見る異国の地で彼は遺憾無く才能を発揮する。
 現地でタンガラム独立商人の間に独自の連絡網を設け、シンドラの地方太守に接近して後援を受け、タンガラム間貿易の一角に食い込む事が出来た。

 若き顔役として一応の自信自負と共に帰国した彼を待ち受けていたのが、第七協和政体断末魔の咆哮であった。
 ここから闇御前への道が開けていく……。

 

 「闇御前」の一代記は裁判所前に詰め掛けた取材陣皆が熟知するところである。
 首都またデュータム市での裁判ではその姿を公にする事は無かったが、今回は機会が得られるかも。
 裁判所前の道路に進入する巡邏軍の重装甲車に写真機の砲列を向ける。
 だが無数に瞬く投光器の閃光は警備にとって最悪だ。(マグネシウム)の焔は、取材陣に潜んだ刺客の銃砲の隠れ蓑となる。

 そこで巡邏軍では写真撮影に投光器の使用を禁止。逆に裁判所入り口に設置した強力な電気探照灯で目眩ましとする。
 その為に道路の向かいにひしめく取材陣は撮影出来ず、離れた所から望遠で覗いていた者のみが成功した。

 数ヶ月ぶりに撮影された「闇御前」バハンモン・ジゥタロウは異形の容貌でもまた知られる。
 長身痩躯、老人にしては腰も曲がることはなく飄として重装甲車から降り立った。
 身には拘置所の収監者が着せられる朱色の衣。上下共に朱く目立ち、管理の便宜を図っている。
 逮捕前までに報道で流された写真や映像だと、たっぷりと絹を使ったゆったりとした黒の礼服姿が多い。まさに大物然としている。
 だが若い頃の闊達さを考えると、今のすっきりとした服装の方が実は似合っているのではないか。

 なにより人目を引くのが、その顔だ。
 細い頸の上に丸い小さな頭で、色は白く髪も白く髭は無く、両眼がぎょろりと丸く大きい。瞳の色は銀。
 まるでカエルを思わせる、世間一般では稀な形。
 だがタンガラムにおいては古来よりカエルは美の象徴。千差万別色とりどりの種類が棲み、生きた宝石と呼ばれている。
 カエルの容貌を持つ者は天界の美を地上に顕現させたとして珍重される。妖しい魅力が人を惑わせた。
 彼も若い頃は、いや現在においても言い寄る美女を退けるのに難儀させられるという。
 絶倫としてもまた知られる。

 

         ***

 有能な美女ばかり11名を妾とし、彼が率いる経済団体の要職を務めさせており、「闇御前の11姉妹」として名を馳せる。
 ヱメコフ・マキアリイが彼を逮捕した直接の理由も、その中の1人の殺害教唆を暴いた事による。

 哀れなるかな。権力を求めて有力者に接近し、自らを贄として捧げる事で得た地位を、
市井の木っ端探偵に足元を掬われ、主人に不始末の責を問われて衆人環視の内に私刑惨殺されてしまったのだ。
 愛した者に対しても冷酷残忍なる振る舞いを平然と行う。
 齢八十を超えて人界の則を逸脱するにしても甚だしく、やはり常人とは呼び難い。

 重装甲車の陰から裁判所正面玄関に入っていく十数秒を、現場の人は息を潜めて見送った。

 

「その写真が、新聞のド一面に載っているのです!」
「まあね、他に写真を撮れる場面無かったからね。」
「それにしてもー、なんとも憎々しい姿ですねコイツ」

 極めて先入観たっぷりのクワンパの評に、顔で笑いながら彩ルダムは訂正を入れる。

「いやね、闇御前の尋問に当たる法衛視はだね、1時刻以上は彼と喋るなと固く釘を刺されてるんだよ」
「なんですか、それほどまでの悪の瘴気を噴き出して精神が汚染されるんですか」
「逆だよ。あの人はとても話が上手くて人を惹き付ける力が凄いのよ。1対1で真正面から向き合うと、いつの間にか彼の味方になっている。そんな事例がたっぷりよ」
「まさに悪魔的です!」

 クワンパは新聞を大きく両手で掲げて、写真をぎろと睨む。闇御前には正義の焔をぶつけるのみ、の姿勢が絵に描いたように表現される。
 マキアリイは、カニ巫女には分からないだろうなと楽しくなった。
 妖しい美の誘惑など、カニ神殿の対極に位置するものだ。まったくに理解を拒み完全否定できるのは一種の才能である。

 

 主役の入場に続いて関係者が続々と裁判所に入っていく。
 彩ルダムが用意した証人も一人ずつ独立して護られながら到着した。全員が巡邏軍が用意した装甲自動車を用いている。
 彼らを阻止しようとする企みは予想の通りに発生した。
 或る証人は潜伏場所が既に突き止められており、自動車には自動車をぶつける手段で動きを止められ、襲撃を受けた。
 幸いにして首都警察局から派遣されていた特別機動護衛隊が即時に対応して事なきを得たが、法廷で証言するまではまったくに油断できない。

 そして、裁判所の入り口でも。
 巡邏軍によって遠ざけられる取材陣の丁度目の前、裁判所の建物の端に掛かる位置まで到達した装甲自動車が急にふらつき、停止した。
 何事か、と写真機が向くと、いきなり車の扉が開いて男が2名飛び出した。
 大柄な男が背の低い小太りの男を抱きかかえて、走る。
 次いで運転席の巡邏軍兵士も飛び出した。

 何? と考える間も無く、装甲自動車に噴進弾が直撃する。
 火薬ガスを噴射して飛翔する噴進弾は、成型炸薬を用いて戦車も破壊する最新兵器だ。当然に軍でしか用いていない。
 装甲自動車に直撃して大きく爆発する。
 襲撃だ!

 取材の記者はこれをこそ待ち構えていた。爆風に身を屈めながらも写真機を向け、禁じられる投光器の閃光を走らせる。
 そして彼らは気付いた。装甲自動車から飛び出した男の1人は、彼らのよく知る人物だった。

「マキアリイさんだ! マキアリイさんが!」
「証人の移送にも協力していたんだ!」

 小太りの証人を庇いながら周囲を警戒し、眼の覚める速度で裁判所の通用口に走り込む。
 彼の居た地点の土が不規則に弾け飛んだ。射撃、銃撃されている。

 直ちに警備の巡邏軍兵士が周辺全域を強権でもって規制し始める。取材も何もお構いなしに押し出し、解散させる。
 さらには銃撃地点を探して何組もの小隊が走り出す。
 完全に戦闘状態だ。

 

         ***

「あ、それな。狂言だから」
「は?」
「俺達が仕組んだ偽の襲撃だ。砲弾の炸薬もただの花火に換えた」
「取材の記者じゃまだったのよねー。何百人居たのかしら、あれのど真ん中に迫撃砲でも撃ち込んでみなさいよ。いきなり裁判中止よ」
「あ、そんな陰謀が有ったんですか」
「過激組織の迫撃弾発射器があとで何基も見つかったわ。「闇御前」の一党にカネをもらって官憲にド派手に直接攻撃できると張り切ってたって、とっ捕まえた警察局の連中が言ってたわ」
「危険だからと言って解散する記者連中じゃないからな。やはり一度痛い目を見なければ素直に逃げてくれない。
 巡邏軍なり警察局なりの強権で解散させようにも、報道の自由やら市民の知る為の権利なんかで反論して逆に食い下がってくる。
 であれば、狂言だなと」

 クワンパも、所長と彩ルダムが周到に今回の裁判の準備を進めていたのは知っているが、本当に色々考えていたんだと改めて感心する。
 正義を執行するにしても、本来ここまで細心な注意を払って慎重に事を図らねばならないのだ。

「所長がかばっていた証人てのは、」
「それ餅マッチリさんだ。狂言とはいえ本物の火薬が爆発するのに素人使うわけにはいかない。
 というか、この装甲自動車で運ばれていた証人は、俺だ」
「あ。そうですよね、所長もれっきとした証人でしたね」

 

 体よく追っ払われて平穏となった裁判所前に、首都近辺からそれぞれ別の経路で移送された4名の証人が到着入場する。
 彼らは道中様々な妨害を受け、結構な冒険を経てノゲ・ベイスラ市に集結した。
 ただし、1人ずつの証言では「闇御前」を国家反逆罪に追い込む事は不可能。4人全員が揃って周辺を固めるからこそ、決定的な打撃を与えられる。

 静謐であるべき裁判所内は喧騒で満たされ、収まらぬままに開廷に至る。
 もちろん警備陣は多勢を投入して安全を図っているが、法廷内部であからさまな活動は出来ない。
 もしも裁判関係者の中に刺客が混ざっていた場合、対処のしようが無い。

 こんなこともあろうかと、証人の中に最強の警備員を配している。ヱメコフ・マキアリイ、天下の大英雄だ。
 彼は入廷する前にも、ぱぱっと刺客を3名捕まえた。
 もちろん逮捕は警察局や裁判所警護の要員が行うが、彼らの中に変装して潜んでいた者をあっさりと見破った。
 武術の達人として知られるマキアリイは、また人間の動きを解析する優れた専門家でもある。
 ほんのわずかな動作の違いから意図を推察し、正体を看破する。
 自ら暗殺に曝される事数百回の男にとっては、児戯に等しい。

 と、言われても事務員クワンパには信じられない。
 今先程、狂言話を聞いたばっかりだ。あらかじめ仕込んでおいた偽刺客ではないのか?
 機先を制して刺客達の動きを封じる作戦ではなかったのか。

「クワンパおまえな、だんだん可愛げが無くなってきたぞ」
「マキアリイ君、あれ本当に分からない。どうしてあんなに簡単に見破れるのさ」
「うーん、説明するまでもなく人と歩く道筋が違うから、というのでは説得力にならないですか?」
「分かんないなあ」

 

 とにもかくにも裁判は始まった。しかし、彩ルダム自身はこれには関わらない。
 地方裁判所での裁判であれば、通常は裁判官も検察官も法衛視が務めるのだが、今回は両方共に法衛監が当てられている。
 法衛監は地方裁判所では長官のみ1名で、下位の法律家である法衛視を率いて業務を処理している。
 司法の最高機関である「中央法院」となれば所属するのは法衛監ばかりで、法衛視は小間使い扱いとなるわけで、
この裁判、名目はともかく実質上は「中央法院・頂上法廷」での戦いに準じるわけだ。

 他方「闇御前」の弁護人側は、これまたタンガラム法曹界で名の通った大物法論士ばかり。元法衛監も名を連ねる。
 不可能な訴訟も確実完璧に逆転してみせると評判の法論士も居て、正直検察側は分が悪い。
 特に政治や軍事に絡んだ各種工作活動の違法性に関しては関係者の証言に頼る他無く、実証が困難と言わざるを得ない。
 その為の4人の証人であるのだ。

 ただ絶対に有利な点も存在する。
 ヱメコフ・マキアリイに対する21件の殺人教唆。これは既に暗殺者本人の有罪は確定している。
 および彼が「闇御前」の私邸である通称「享楽城」に乗り込んだ際に発見した女性の死体。彼女の殺害を教唆した罪に関しては、今回で確定する。
 まずはこの件で、検察側が先行する。

 国民的英雄として著名な刑事探偵ヱメコフ・マキアリイ氏が証言台に立つ。
 今回の裁判は特別に重大なものであるとして、法廷での発言はすべて磁気録音機で収録されている。
 傍聴人として選ばれた各界名士の前で、マキアリイは宣誓する。

「タンガラム民衆協和国の自由なる国民として、また社会正義に基いて自ら行動する矜持有る人間として、この法廷において真実のみを語り事実を明らかにする助けになる事を誓います」

 以下の質問と答えはこれまでに何十回となく喋らされた話ばかりだ。
 なにしろ殺人教唆であるから殺人を実行した犯人が居るわけで、裁判は優先して行われ既に有罪も確定している。
 身長3杖(210センチ)を越える凶悪な格闘者で、「闇御前」の傍近くに侍り暴力を以って仕えてきた。
 一種の殺人機械であり、命じられるままに「闇御前」に逆らう者を鏖殺して、恐怖で人を支配する役に立っている。
 特に女を殺すのに芸術的な技巧を有し、より醜く見苦しくあがくように苦痛を殊更に与え、また奇っ怪に人体を捻じ曲げて主人を喜ばしてきたわけだ。
 もちろん正義の英雄マキアリイは、「享楽城」庭園にて彼と戦うことを強制され、見事勝利しているのである。

 件の女性の死体は、勝利したマキアリイに対し「闇御前」が与えた褒美。その場に有ったどの財宝でも好きなものを一つ与える、により獲得した宝箱の中身であった。

 

         ***

 問題は、何故彼女は殺されたのか。
 主に中学生の美少女10数名の失踪と死亡、および違法な海外渡航より正確には人身売買が関係する。
 彼女の役職は、タンガラム国民の海外移住を支援する公益団体の会長だ。
 だが真の任務は「闇御前」の指示に基づき、国外において他の機関の活動の便宜を図るのを目的とする。

 つまりは公共の利益の為と称して悪事を行っていたのを、刑事探偵ヱメコフ・マキアリイに摘発され、その責を問われて惨殺された。
 全貌を明らかにするには、「闇御前」が行う様々な事業についての詳細な調査が必要である。
 場合によっては国家反逆罪に相当する行為も、その中から発見されるであろう。

 

 証言を終えたマキアリイはそのまま法廷に留まり、検察側に特別に席を与えられ、被告「闇御前」バハンモン・ジゥタロウと正対する事となる。
 裁判長の特別な許可を得て、記録係が法廷内の情景を撮影した。重大事件の場合報道関係に公表する慣例として広まっている。

 さてココからが本番。
 「闇御前」を告発する4人の証人が呼び込まれる。
 彼らは直接間接に「闇御前」の下で働いていた人物で、本人と顔を合わせた途端に態度を翻して証言を拒むかもしれない。
 いずれも秘密保持の為にその生命を狙われた、また家族にも累が及んで災難を受け、故に証言を決意した者達であるが、どう転ぶか分からない。
 それだけ強烈な影響力を「闇御前」は持っている。
 だからこその英雄マキアリイの同席である。
 光と闇の狭間に置かれて、証人は各々なにを選択するか。

「でも結局その4人の証人って、単なる囮だったんでしょ目眩ましの」
「まあなあ」
「あれだけ苦労して連れてきたのに馬鹿みたいじゃないですか私達」
「クワンパさんそれはね、仕方ないのよ。たしかにあの人達の証言は普通なら十分有効なんだけど、弁護側にもその存在は知られているから対策されてしまうの。
 存在を極力秘密にしていたんだけど、裁判所中央法院にだって連中の手先は忍び込んでいるからさ。筒抜けなのね」
「証言って、あらかじめ何を喋るか分かっていた。そういう事ですか」
「すべての情報をあちら側が握っているわけでしょ。こっちはほんの上っ面を撫でている程度にしか知らなくて、ダメね普通」

「そこで、隠し玉ですか」

 

 2人目の証人アフォイナ・ボルゴンが弁護側の反対尋問により嬲られた後に、彼は現れる。
 まったくに場違いな、裁判で正式に証言する際に慣例として着用される礼服ではなく、作業着姿の初老の男性である。髪もほとんど色が抜けて白髪も同然。
 裁判所の人間は彼に見覚えがあった。否、見ても認識はしなかっただろう。
 彼はベイスラ中央裁判所の清掃員に過ぎないのだから。

 裁判長に氏名と住所、職業を尋ねられ、宣誓を求められる。

「アゼファールド・ィヒです。職業は現在は当裁判所の清掃、」
「その男は死んでいるはずだ!」

 弁護側法論士が叫ぶ。彼が証人を知るはずは無かったが、裁判資料の片隅に記載されている。
 「闇御前」バハンモン・ジゥタロウが逮捕された直後に起きた、関係者が連続して事故死する事件の被害者名簿の内だ。
 検察の法衛監が答える。

「アゼフィールド・ィヒ氏は自宅で起きた爆発事件で瀕死の重傷を負い、容態が安定したところで当地ノゲ・ベイスラ市に移されて療養生活を送っていました。
 現在は体調を回復して当裁判所内にて清掃員として働いていますが、これは今回の証言を無事に行うための一種の保護措置であります」
「ですが人相が違うと、被告人が」
「安全の為に整形手術を行って正体を隠しておりました。証人がアゼフィールド・ィヒ氏本人であることは指紋・医療記録から確認されております」

 彼が彼である事を証明する為に、一時審理は中断する。

 

         ***

「でもどういう人なんですか。所長は知っていたんですかその人、アゼフィールド・ィヒさんですか」
「この件はマキアリイ君が居なければ成し得なかった、と言ってもいいわね。それだけ信用できる人間が法曹関係者の中にも居なかったのよ」
「なにせ国家機関が諜報員を差し向けてくるからな。まともな人間なら後先考えて転んでしまうところさ」
「バカだからねこの人」

 チュダルム彩ルダムの仕事とは、つまりはこの最終兵器とも呼べる証人の存在を徹底的に隠蔽し、最大の効果を発揮する場面で投入する事にあった。
 アゼフィールド・ィヒはこれまでに登場した証人とは異なり、「闇御前」本人の側近として働いていた人物だ。
 秘書は別に有能な者が居るのだが、彼は「闇御前」が外国使節と直接交渉する際に随伴し助言を与える。実際元はれっきとした外務省の役人であった。

 本来「闇御前」が司っている国外権益の獲得は、国家が全面的に管掌すべき事案だ。
 だが広大な海洋上で繰り広げられる争奪戦は既に武力を用いた戦争状態と呼ぶべき状況にまで発展し、建前上のまったくに平穏で友好的な国際情勢と乖離する。
 どの国も自らの国民に戦争を隠蔽したままに外交を行う為に、闇の権力者・秘密外交機関を生み出す事態となっていた。

 ィヒは政府から派遣され、「闇御前」が行う各種裏交渉・工作活動のすべてを認識し報告する連絡員でもある。
 彼自身も複雑に入り組んだ国外権益の重要性を理解し、結局は国家のためとなる必要悪として「闇御前」に従う。
 その意味では彼は普通の上級公務員であったのだ。

「ふつうのひと、なんですか」
「犯罪が、悪人によって行われるばかりではないさ。ごくまっとうな社会人が属する組織・社会の極めて正当な指揮命令系統に従って行動したら、それが犯罪だったという事例は多い」
「世の中綺麗事ばかりで成り立っていないからね。ある程度は目を瞑らなくてはいけない事もあるわ。カニ巫女には理解できないでしょうが」
「いえそれは、案外と。貧しさ故の不法行為に関しては彼らを善導する事こそカニ神殿の責務とされています」

「とにかく彼自身は自分を犯罪者とは見做しておらず、それ故に自分が犯罪に巻き込まれるなんて考えては居なかったんだ。
 俺が、「闇御前」を逮捕しちまうまではな」

 ィヒのみならず、多数居たはずの「知り過ぎた男」は、自らの危うい立場を認識する前に次々に殺されていった。
 ほぼすべてが事故、あるいは自殺として処理される。巡邏軍警察局にも政府の内々の指導がなされ、無難に決裁されていく。
 この件に関しては政府行政自身が、自らに火の粉が掛からぬように早手回しで動いたと言えよう。
 必ずしも、「闇御前」の組織が主人の身を守るために働いたわけではない。

 司法ですら例外ではなかった。
 司法機関も上層部になるほどに、国家の政治に深入りする。
 国家百年先の大局を踏まえ、単純な正義を貫く事によりそれが侵害されるとすれば、修正を行うにやぶさかではない。
 あくまでも彼らに許された範囲においてのみ正義は追求され、国家と国民の存続こそが優先される。

「ダメじゃないですか」
「ダメだよ。でもダメでない馬鹿みたいに正義を貫く人間も居るのさ。ウチの父様みたいなバカがさ」
「チュダルムのお父様というのは、何をなさっている方なんです」
「頂上法廷の裁判官の一人で、「護法統監」という役職にあるよ。簡単に言うと武力で司法権を守る兵隊の将軍さ」
「ははあ、そりゃー、いかにもな」

 つまりは偉い人の中にも、マキアリイのように頭の堅いネジ曲がった根性のヒトが居るわけだ。
 その娘であるから、なるほど嫁の貰い手は無かろうさ。

 

         *** 

 アゼフィールド・ィヒの抹殺計画は、非道を通り越して虐殺であった。
 その日、彼の家では一族を集めての伝統的な行事があった。タンガラム民衆の間では普通に行われる、親族が集まって先祖の徳を偲ぶ供養の会だ。
 名目はともかく、大人たちは酒を飲み大いに騒ぎ、子供たちはご馳走を食べて遊ぶ楽しい集いである。

 一族13人が宴会を行っている最中に、ガス爆発が起きた。消防署の現場検証ではそう結論付けられている。
 だが爆発力の桁が違う。家庭用ガスの漏れによる爆発事故では家屋の骨組みまで一瞬で破壊される事はない。
 アゼフィールド家はいきなりすべてが消滅した。12人が即死、人体もばらばらにちぎれ飛び、何人居たか判別できないほどだ。

 何故その家の主人であるィヒ本人が生き残ったのか、まったく分からない。
 家屋の構造のお陰で爆風を直接浴びなかった為か、五体いずれも損なわれなかったのは奇跡としか言いようが無い。
 それでも瀕死の重体となり、救急車で病院に到着した時点では心臓も停まっていたという。
 奇跡的に意識を取り戻したのは、実に1ヶ月後。

 既に首都警察局も、「闇御前」事件全般を管理する中央法政監察局も彼の重要性を十分に認識し、ひそかに安全確保の方策を巡らせていた。
 担当は、「護法統監」チュダルムの実子である法衛視チュダルム彩ルダム。
 「闇御前」にも政府にも軍部の介入にも怯まずに彼を守り、裁判で証言させる説得を行う任に耐える者が他に見出だせなかったのだ。
 その彼女にしても、首都ルルント・タンガラムにおいて安全を確保し続けるのは無理と判断する。
 チュダルム家の本拠地は首都の隣のカプタニア県であるが、いかにも近すぎて介入を防ぐ事は出来ない。

 幸いにして彼女には、従弟ソグヴィタル・ヒィキタイタンを通じて、国家英雄として讃えられる刑事探偵ヱメコフ・マキアリイと親交があった。
 国家的難事件を幾つも解決し、「闇御前」事件においても中心的な役割を果たした彼を抜きに物事を進めるのは、むしろ不自然だ。
 やるのだったら地獄の淵までもずっぽりと付き合いなさいよ、と計画に巻き込んだ。 

 未だ重体のィヒをアユ・サユル湖を渡ってベイスラに運び、医療体制を整える。

「ここで、ウゴータ先生にも手伝ってもらったわけだよ」
「ああ、偽病院てそんなことまでしてたのですか。じゃああそこに隠れていた」
「それはもう少し元気になった後だ。
 偽病院の患者の一人が重態になったとして、身分を偽りソグヴィタル大学病院に送り込んでなんとかね」

 当然に、首都の病院ではアゼフィールド・ィヒなる人物は治療の甲斐なく亡くなったと公式に発表している。

 

「元気になったところで裁判所内に清掃員として働く事で保護して、裁判の機会が訪れるのを待っていたわけですか」
「偽の家族も作ってね。彼には現在、妻と娘の役をする人が居て一緒に暮らしているのよ。まったくに普通の一般人として」
「司法当局の工作員てことですか」
「それが使えればね、マキアリイ君に頼むこと無かったのよ」
「重態になった人間に家族が付き添わないのは不自然だろ。病院に居た時分から家族役を送り込んでおいたんだ。
 俺個人のツテで、信頼の出来る人物にお願いした。
 なんというかー、俺が解決した事件の恩を着せて無理やりお頼みした、という感じがしないでもないが」
「似たような公権力の横暴で被害を受けた人をマキアリイ君助けたから、その人達も快く引き受けてくれたのよ」

 そして遂に、復讐の時は来た。

 

         ***

 事務所の電話が鈴と鳴る。
 仕事もしないで無駄話に耽っていた3人は互いに顔を見合わせ、クワンパに応対を促す。電話番は事務員殿のお仕事。

「はい、ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所です。はい、はいはい、はい。居られます。はいお嬢様をですね、」

 彩ルダムの顔を見て、受話器を差し出す。

「お父様が、遊んでないでさっさと帰ってこい、だそうです」
「ちちち、バレたか。でもなんでココって分かったのかな」

 それは間違いなくバレる。事務所下の道路で高速自動車の番をしている警察局の護衛は、定時連絡をする決まり。
 受話器を受け取った彩ルダムは、傍からでも漏れ聞こえる怒声にぺこぺこと平身低頭して恐る恐るに電話を切った。

「ということさ。せっかくだからマキアリイ君と飲みに行こうと思ったけどこれまでだ」
「いやーざんねんだなーそれでは次の機会にという事で」
「うん、やっぱ首都でないと時間取れないよ。ヒィキタイタンと3人で飲むかね」

 致し方なく撤退する彼女は、入り口のガラス扉で立ち止まり、振り返る。

「じゃ次は、首都での事件で。どうせあなたの事だからすぐに新しい事件に出食わすでしょ」
「またその時はお世話を掛けます」
「うん楽しみに待ってるよー」

 

 窓から首を伸ばして下の真紅の自動車に乗り込む彩ルダムを見送り、クワンパは所長に尋ねる。

「また次の大きな事件って、ありますかね」
「世の中平穏無事が一番なんだが、心当たりが無いわけでもない」
「なんですかそれ」
「今年の夏は選挙だろ、国政総選挙」
「あー。あーそれは、忙しそうですね。言われてみれば「闇御前」が捕まってから初めての国政選挙ですか。それはー」
「やっぱり忙しそうだよな、俺」

 怠惰に革の長椅子に寝そべり、雑誌を顔に乗せて昼寝を決め込むマキアリイだ。
 昨日の今日で予定も無いから、クワンパも尻を叩くのはやめておく。
 というよりは、昨日の今日でまだ何か騒動が起きる可能性が無いでもない。待機、も立派なお仕事だ。

 事務員席で本来の業務を再開したクワンパは、口だけで所長に尋ねる。

「その隠し玉のィヒさんですか。また死んだんですよね」
「ああ、面倒だからまた死んでもらった。今度は俺関係ないけどな」

 

         ***

 証人アゼフィールド・ィヒによる衝撃的な事実の暴露。次から次に語られる国家に対する背信反逆の数々に、法廷は凍りついた。
 もはや単純な殺人教唆での裁判は不可能で、ベイスラ中央裁判所は本件審理を拒絶。中央法政監察局に改めて国家反逆罪による立件を勧告する。

 この裁判の傍聴人はベイスラ地方政府が定めた条件を満たす市民有権者であり、相応の社会的身分を持った名士に限られる。
 それでも希望者が殺到して20倍の確率で抽選されたのだが、中には大学教授や政治評論家等の報道機関と密接な関係を持つ人も含まれる。
 彼らは裁判中止が確定した時点で法廷を退出して、裁判所外に待ち構える報道各社の取材記者に見聞きした事実をそのままに伝えた。
 圧倒的衝撃の内容にひたすら聞き入り、手帳に筆鉛筆を走らせ細大漏らさず書き記す。
 有線放送実況中継の天幕では、その場の喧騒を背景として放送弁士がほとんど絶叫調に全国の聴取者に状況を説明する。 

 そして今回の主役であるアゼフィールド・ィヒが裁判所入り口から姿を現す。
 頭巾を被り顔を半分隠してよく見えないのだが、誰か傍聴人の一人が「あの人だ」と叫んだ為に取材記者の暴走が始まる。
 もはや規制も何も無くたちまち人垣を作り、怒るような責める口調で質問を次々に浴びせ掛ける。
 彼の代弁者となったのが、ヱメコフ・マキアリイだ。

「あー皆さん。今回重要な証言をしてバハンモン・ジゥタロウを頂上法廷に送り込んだ功労者のアゼフィールド・ィヒ氏をご紹介します。
 ですが多大な緊張の上に、暗殺未遂事件で負った後遺症により全身の体調がよくありません。
 正式な記者会見は後日行いますが、本日の質問は私が代わって引き受け回答します」

 だがわずか数分で終了に追い込まれる。
 国家反逆罪での裁判を開くに当たりィヒに対しての事情聴取が必要となり、首都警察局また中央法院、国会で特別に編成される議員団による尋問が続くだろう。
 身柄を確保する為に首都警察局より派遣された特別捜査専従班が裁判所前に姿を見せる。
 護送する装甲自動車も用意していた。

 彼らとの交渉はマキアリイの任ではない。証人の安全を守り続けてきたチュダルム彩ルダム法衛視が飛び出して、前に立ち塞がる。
 だが既に大きく事情が変わった現在、彼女が抗し得る権限はもはや失われていた。
 強引と思われるほどに取材記者達を退けて、ィヒを犯罪者ばりに拘引する。マキアリイが抵抗の形を見せるが、彩ルダムに引き止められた。
 装甲自動車に押し込まれて、何処へやら連行される。

 と思った瞬間。裁判所から離れ装甲自動車が速度を上げた途端に、いきなり排気管から火を噴いた。
 何がと思う間もなく自動車は焔に包まれる。そして爆発。
 車体が吹き飛ぶほどの威力は無いが、中の人が無事ではないと覚悟を強いられる。
 果たして運転していた捜査官が飛び出し、地面に転げ回って服に着いた焔を必死で消そうとする。

 証人は、アゼフィールド・ィヒはどうなった?
 駆け出すヱメコフ・マキアリイの目の前で、再びの焔の拡大。爆発。
 燃える焔に包まれた人の形がふらりと歩み出て、助けを求めるかに片腕を伸ばす。
 操り人形の糸が切れたかにぱたりと倒れた。

 待機していた消防自動車がわずかに唸りを上げて始動し、消防士が長く放水管を伸ばして焔に挑む。
 間もなく救急車もやって来て、俯せのィヒを担架に載せ運び去っていった。

 周囲で見ていた何人が気付いただろう。
 地面に倒れるその刹那、ィヒの背がひゅっと伸びたのを。

 

         ***

「それも狂言ですね。証人の今後の安全を図るための」
「実はな、俺達が描いた脚本通りに進展したんだがな、俺達が用意して仕込みを入れておいた自動車はアレじゃないんだ」
「え?」

「中身のィヒさんもな、伸び縮みさんに替え玉を頼んだんだが、何処の病院に連れて行かれたか分からないんだ」
「それ、それって誘拐、ですか」
「どうしようかな。探しに行かなくちゃいけないんだが、手がかり全く無しだ。どうしよう」

 どうしようじゃなく、大問題じゃないか。事務所なんかで寝転がっておらずに探しに行けよ。
 だがまるで動こうとしない所長に、クワンパはこれはカニ巫女棒の出番だな、と入り口脇の傘立てに目をやった。

 電話が鳴る。間髪を入れずに受話器を取り、応答する。

「はいヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所です」
「ヱメコフ・マキアリイを出せ」

 男、若くはない、少し怒気を含んだ声で脅しに掛かっている。ヤクザかも。知らない人だ。
 クワンパもいいかげんこの手の電話への対応には慣れてしまった。

「それではお名前とご用件を伺います。どのような、」
「いいから出せと言っているだろが」
「ご用件を伺わないコトにはお取り次ぎ出来かねます。どうぞ」

「……、伸び縮みする気色の悪い男を預かっている。これで通じるか?」

 所長に受話器を突き出した。

「お待ちかねの電話です!」

 そういう事だったのか。拉致誘拐した人物が目的の証人で無かったとすれば、どこか別の場所に匿われているに違いない。
 様々な役所が絡んで探るのも困難だが、アゼフィールド・ィヒの代理人を努めていたヱメコフ・マキアリイが一枚噛んでいるのは確かだ。
 であれば、交渉に連絡を入れてくるはず。

「はいお電話代わりました。(伸び縮み)キャルファーさんは生きているだろうね」
「まったく、曲芸師を替え玉に仕込んでおくとは念が入ってるぜ。装甲自動車の床に穴が有るから、本物を下水道に脱出させる手品と勘違いした」
「お楽しみ頂き光栄の至り。で、どこに行けばいい」

 嬉しげにすら見える表情でマキアリイは悪との交渉を行っている。人質の生命など意に介する様子が無い。
 必要が無いのだろう。
 勘違いして拉致したのは、証人に用が有ったからに他ならず、生きていなければ意味の無い仕事なのだ。
 そうでなければ昨日、爆破抹殺している。
 おそらくは、どこまでの情報を司法当局に漏らしたか確認したいのだ。それだけ広範な情報をィヒは把握している。

 公的な捜査機関が対象であればまた変わるが、なにせ相手は庶民の英雄正義の味方。人情派としても通っている。
 哀れな伸び縮みさんは生きていてこそ交渉にも脅迫にも使えるはず。
 多少は痛めつけられているかもしれないが。

 マキアリイは受話器を置いて、小さな紙片にちょこちょこと用件を書いていく。
 これから行う伸び縮みキャルファーさん救出劇を、巡邏軍他関係各所に伝えるものだ。
 クワンパは命じられるままに電話を繋いで、連絡を付けていく。

 さて次は。

「というわけで俺は出掛けるが、どうする」
「付いて行くに決まってるじゃないですか。留守番なんて嫌ですよ」

 既にクワンパ、手にはカニ巫女棒を持ち、応急医療道具を詰めた布鞄を肩に担いでいる。出撃準備完了。
 まあカニ巫女だから付いて来るよな、と特に反対もせずにマキアリイは事務所の扉に鍵を掛けた。
 昨日は留守番をさせたから不満も溜まっているのだろう。

 暗い混凝石の階段を下りて通りに出ると、小太り髭の餅マッチリさんが不安な表情で出迎えた。
 マキアリイの姿を見てほっと息を吐き、尋ねる。

「キャルファーを助けに行かれるのでしょうか、マキアリイさま」
「うん、付いて来るかい」
「そ、それはもちろん。長年の相棒を拐われたとなればたとえ火の中水の中。ましてや天下の英雄探偵様がお救いくださるのであれば何を恐れる事がございましょう。
 ですが、お嬢さんもですか」
「カニ巫女だから、悪は許しておけないんだとさ」

 ぽん、と小太り頭の上で金色の扇を広げる。なんとお見事なお覚悟。

「では参りましょう。この餅マッチリ一世一代の大冒険にございます」

 

 

 (第十一話)

 ヱメコフ・マキアリイが英雄として世間に名を馳せる緒となった「潜水艦事件」は、南海の軍港イローエントで発生した。
 それから10年。イローエント市は益々の繁栄を見せている。それも悪の都としてだ。

 元々方台南岸の海浜地帯は激しい乾燥によって不毛の地であり、現在も最貧区としての位置付けは変わらない。
 当然に行政も行き届かず支配も緩み、伝統的に無法がまかり通る土地であった。
 金雷蜒王国と褐甲角王国が覇を競っていた時代は、互いの勢力の中間地点として無法都市「ッタ・コップリティ(通称タコリティ)」が栄華を誇った。
 互いの国の権から離れた地域として、中央政界での闘争に敗れた実力者達がこの地に逃れ再起を図り、あるいは敵国と通じての逆転を狙ったものだ。
 青晶蜥神救世主「ヤヤチャ」の伝説も、創始歴5006年この地より出発する。

 創始歴6215年現在、南岸いやイローエント市周辺は別の意味で治外法権となっていた。

 タンガラム民衆協和国は既知の3カ国と交易を行っている。
 東方のゥアム帝国との交易拠点は方台東岸シンデロゲン港、西方のシンドラ連合王国とは西岸ミアカプティ港に交易拠点を設ける。未だ定期航路の無いバシャラタン法国との間には、首都に近い西岸に大使館寺院が置かれていた。
 しかしながらそれは公的関係での交流であり、私的民間の交易はおおむねイローエント港に集中した。
 法律スレスレの、また完全に非合法な商品が持ち込まれるのもこちらだ。密出入国もイローエント港を窓口とする。

 今より20数年前、違法外国人「滞留者」による犯罪が問題視され始めた。
 治安当局の取締り活動は大幅に強化されているが、事件は急増。国内犯罪勢力とも結託して、状況は複雑になるばかりだ。
 滞留者も増加の一方で、もはやタンガラムであってタンガラムでないと言われる事態となっていた。

 では正義の英雄探偵ヱメコフ・マキアリイは何も対処しないのか?
 彼にとってイローエントは徴兵時代を過ごした町で、国家英雄に祭り上げられた因縁の土地である。
 職務により訪れる事も少なくなく、その度に悪党どもを両手の指で数え切れない数捕まえて巡邏軍警察局に突き出しているのだが、腰を据えて活動しようとは思わない。

 彼の知名度を利用して、イローエント市長に担ぎ上げようとする勢力があるからだ。
 無私正義の人として著名なマキアリが市長となって全権を握れば、混乱した状況を打破して平穏な市民生活を取り戻してくれる。と期待する人は多い。
 だから、逃げるしか無い。

 

 というわけでお忍びでイローエントにやって来たマキアリイは、滞留者の集団に囲まれている。

 滞留者が不法に棲み着いた町に来たのだから当然だが、実はタンガラム人も少なくない。
 ここでしか手に入らない物品や情報、あるいは人間が有るからだ。外国人による売春宿などは、醜聞好色雑誌でも人気の記事である。
 そして、彼らを取り仕切る犯罪組織。
 もちろんタンガラム既存のヤクザ組織も深く食い込んでいるのだが、言葉の壁からどうしても完全に掌握出来ない。
 滞留者の大物が、外国人タンガラム人双方を束ねる顔役として町を支配している。

 一説によれば、彼の背後で権益を保護しているのはタンガラム政府そのもの、直接の黒幕は現在国家反逆罪で起訴される「闇御前」バハンモン・ジゥタロウだと言われている。
 タンガラムと同様に、ゥアム・シンドラ・バシャラタンにおいても交流都市が作られ、滞留者による混乱を引き起こしていた。
 各国諜報部員が身を潜めて工作活動をするのに好都合で、タンガラムの諜報員も密かに潜伏する。
 互いに毒と悪を呑み合って、均衡を保っている。
 「闇御前」の裏工作手法はそれだと、外交筋の知人から聞かされた。

「まあ、こうなるよな」

 人を探すのが今回の仕事である。
 滞留者の町は、犯罪者や身を隠す必要のあるタンガラム人にとっても格好の場所だ。闇や裏の世界は必要だからこそ存在する。
 そして探しに来る人間に対しては、町全体が牙を剥く。光を拒むのが闇の習性であるのだから。

 手に蛮刀や棍棒を握る目つきの鋭い人相の悪い外国人の4人組が、マキアリイの前に立ち塞がる。
 彼らの先には、女が一人。顔を隠すかに布で髪全体を覆い、裾の長い異国の服を地面に引きずりながら逃げていく。
 女は金払いの良い客であったようだ。商売の邪魔をされたからには、排除する他に思考は無い。

 マキアリイは一応は警告する。

「あー、俺はー、強いぞ。怪我をしたくなければやめておいた方がいいぞ」

 だから田舎者は嫌いなのだ。今時映画も外国に輸出されて、ヱメコフ・マキアリイの名声は4カ国に鳴り響く。
 ちょっとでも心得の有る者ならば、不用意に襲ったりしないだろう。
 なにせ映画の中での英雄探偵は、武術においても古今無双の最強者なのだから。

 4人が15人に膨らんで、ことごとくをぶん殴ると、その界隈で騒ぎに紛れて勘定をごまかしたり万引きしたりかっぱらい痴漢も発生し、半ば暴動の如き有様に。
 巡邏軍武装機動隊が突入して強硬に鎮圧する中で、マキアリイは目的とする女をようやくに掴まえた。

 細い手首、ほとんど食事もしていないのだろう。今にも折れそうな頼り無さ。
 顎の線は鋭く美しい線を描くが、頬はこけ激しくやつれている。
 他愛も無く引き寄せられ、腕の中に転がり込んだ。
 頭を覆っていた模様の派手なバシャラタンの布が剥がれて、目の覚める緑色の髪が零れ落ちる。
 藍色の瞳は力なく、生きる希望も無く、自分を捕らえた男の顔を見上げる。

 マキアリイは一瞬言葉を失った。やはり予想通りに、彼女は。

 

「ハキミゥラ・サーメルさんですね。貴女は2月10日に殺された事になっている」

 

         ***

 私立民間の刑事探偵は、逮捕権を持たない。
 目の前で起きた現行犯であれば市民の義務として捕まえる事も出来るが、一般には巡邏軍や警察局に通報する他無い。

 同行する意志の無い女を連れていくにはどうすればよいか。下手をすればマキアリイ本人が誘拐で逮捕されてしまう。
 だが特に考えもせず女の手を引っ張って、手近な巡邏軍詰め所に出頭する。
 訴える気があれば訴えてもらいたい。痴漢でも誘拐でも。

「巡邏軍イローエント治安司令本部に連絡してください。殺人事件の重要参考人を確保しました。ベイスラ地方裁判所に確認の連絡を取りたいのです。
 私の名前はヱメコフ・マキアリイ、職業は刑事探偵です」

 

 ベイスラ地方裁判所の一室に、「ハキミゥラ・サーメル殺人事件」裁判の関係者が集っている。
 裁判官、検事の役をする警察局法衛視、被告弁護人が連絡を待っていた。
 弁護人は、マキアリイが常々仕事を頂いている法論士ィメンタ・スルグナ・シャニナメンター。有能で誇り高く、雇うには高額報酬を必要とする。

 彼らは第一報を受けたマキアリイ事務所の事務員クワンパから状況を伝えられ、協議の為集まっている。

 

 「ハキミゥラ・サーメル殺人事件」の概要は、
 創始歴6215年2月10日、巡邏軍は市民からの緊急通報電話により、室内で若い女性が死んでいるのを発見したと伝えられる。
 通報者はゴドーロプ・パグミニヲン 男性23歳。資産家の息子で、儲からない商売をわずかに行って実業家を名乗っている。
 彼は、おそらくは自分の恋人であるハキミゥラ・サーメル22歳ではないか、と通報電話内では語っている。

 急行した巡邏軍初動捜査班は、高級集合住宅のパグミニヲンの部屋にて裸の女性の死体を確認。だが個人を識別出来なかった。
 顔面が家具に押し潰されて酷い損傷を受け、人相がまるでわからない状況であった。
 その後司法解剖と個人の医療記録から、ハキミゥラ・サーメルと推定される。
 体付きや手相から家族が確認。提出された本人の櫛等から採集された指紋によっても、同一人物と認められる。

 死亡時の状況をパグミニヲンは証言する事が出来なかった。
 おそらくは彼女と二人で酒を飲んでいたのだろうが、同時に服用した薬物により朦朧とし、朝気がついたら彼女が死んでいたとしか認識しない。
 鑑識によると、室内で闘争に及んだ形跡が多数認められ、おそらくはサーメルとパグミニヲンが口論の末に暴力沙汰に及んだと思われる。
 薬物はサーメルが持ち込んだもので、幻覚剤と強壮剤を混合した媚薬の一種。外国製で、体質によっては服用者に粗暴な行いが表れるともされている。

 部屋の中には複数の指紋も確認されたが、パグミニヲンは女を連れ込む事も多く、全員を確認できない。
 当日は二人きりだったとの証言を覆すものも無く、パグミニヲンが薬物による錯乱状態の中で殺害に及んだと結論された。
 遺体の各部に闘争による負傷の痕跡はあるものの深刻ではなく、直接の死因は頭蓋骨骨折と脳挫傷である。
 重い箪笥を故意に倒して下敷きにした際に受けたもので、他に凶器の類は使用されていない。

 薬物使用で朦朧とした状況で行われた犯行であるから、殺意が存在したか判然としない。
 殺人であるか傷害致死であるか、過失致死と見做すか。
 警察局の捜査を指揮する法衛視は箪笥を故意に倒した時点で殺害の意図があったと判断し、殺人と認定。
 ただし死刑ではなく無期懲役刑の処罰裁定を行い、裁判へと発展する。

 

 パグミニヲンの実家ゴドーロプ家は資産家であり、敏腕と噂の高い法論士ィメンタ・スルグナ・シャニナメンターに弁護を依頼する。
 スルグナは刑事探偵ヱメコフ・マキアリイに捜査記録に記載される事象の裏付け調査を依頼。
 その過程で、マキアリイは不思議な証言を見出した。

 遺体の損傷が酷かった為に、家族の元に帰ると早々に火葬されたのであるが、その際に友人知人による最後のお別れが行われた。
 殺人事件被害者の葬儀は悪魔祓いの様相を見せるのがタンガラム一般伝統の儀式である。
 呪いを避ける為遺体に接触する事はほぼ無く、火葬直前に故人確認の為に棺を開けた時の話だ。

 サーメルの幼少期からの友人も多数参列した中に、小学校時代の恩師も居た。既に退職した老婦人だ。
 彼女は目を悪くして近付いてもよく見えず、わざわざ遺体の手を握って確かめた。
 そして、「この子はサーメルちゃんじゃない」と言い出したのだ。
 家族は驚き、改めて火葬場職員に間違いなく「ハキミゥラ・サーメル」と申告し事なきを得たのだが、彼女は最後まで納得しなかったと言う。

 マキアリイは老婦人を訪ねて、何故そのように発言したかを質問した。
 彼女は、「似ているけれど、あの手は別の教え子のもの」と証言する。
 ただし小学校時代の話であるから既に10年以上昔の記憶だ。今となっては誰の手だったかも分からない。
 そもそもが子供の手の感触の記憶で、成人女性の手が識別出来るか。不可能と考えるのが常識的な判断だ。
 彼女が勤務した幾つかの小学校の記録を精査し、パグミニヲンの交友関係の中にかっての教え子が居ないかを確かめる。
 が、空振りに終わる。

 むしろ使用された媚薬の入手先を再調査する過程で、「サーメルに似た女」を確認した。
 媚薬は非合法スレスレのものであり、流通経路も確かならぬ筋である。警察局捜査班は売人に当って、サーメルらしき女性が幾度か出入りして購入した証言を得る。
 捜査班はこれをサーメル本人と断定したが、マキアリイが別筋から聞き込んだところではどうも違う。
 姓名は分からないが結構なアバズレで、男を何人も手玉に取って食い物にしていたらしい。
 事件後も、薬物を仕入れに行ったイローエント港の滞留者街で女を見たという。

 家族友人の証言するサーメルの人物像とまったく異なるので別人と思われたが、ではこれは何者か。
 マキアリイはスルグナに出張費を申請して、イローエント市に捜索確認に行く。

 

         ***

 ベイスラ地方裁判所会議室に電話の呼び出し鈴が鳴る。
 裁判官役の法衛視が取った。裁判所所属の法衛視は、検事役警察局の法衛視と同等同格である。

「ヱメコフ君か、私は「ハキミゥラ事件」裁判官のトメル法衛視だ。うん、本人に間違いない? 確認、うん、うん」

 彼の傍には警察局の法衛視が顔を近くに寄せて、受話器から漏れる音声に聞き耳を立てている。一言でも聞き漏らさないように。
 裁判官、さすがに鬱陶しく感じて、まずは彼に状況の確認をさせようと譲歩した。
 受話器を渡す。

「ヱメコフ君か、私はベイスラ中央警察局「ハキミゥラ事件」担当のマイラガ法衛視だ。結論から聞きたい、ハキミゥラ・サーメルは生きているのか?
 生きている? 間違いなく、本人で。うん、そちらのイローエント巡邏軍でも確認、医療記録が違う? 小学校、小児科か、の医療記録で確認、うん。
 つまり偽の医療記録で故人を確認した事になるわけか。遺族に、うん分かっている事情聴取を改めて行う。
 媚薬を買った女、うんその調査資料をスルグナさんに、うん分かっているありがとう」

 これは間違いなく失態である。被害者の身元確認を間違えていれば、捜査も誤るのは言うまでもない。
 マイラガ法衛視本人の責任ではあるが、単純な殺人事件と考えて被疑者や遺族(?)証言を安易に採用した部下の捜査官の重大な過失と言わざるを得ない。
 捜査は振り出しに戻り、当然に裁判も成立しなくなる。

 半ば興奮気味のマイラガ法衛視から受話器を受け取り、被告弁護人法論士スルグナはマキアリイを労った。

「マキアリイ君、ご苦労だった。本人を同行してスプリタ幹線鉄道で、うん明日には。分かった待っている」

 スルグナは受話器を裁判官に戻し、改めての協議を呼び掛ける。

「これは、事件を最初から再捜査すべきであり、裁判自体は放棄すべきと考えますが如何に」
「警察局はどのようにお考えで」
「告訴を取り下げ、処罰裁定は破棄します。直ちに局に戻って再捜査の指揮を執ります」
「ならばそういうことで。皆さんごくろうさまでした。解散します」

 

 ヱメコフ・マキアリイは通話を終えて受話器を置き、係官に感謝する。自前だと長距離電話料金幾ら取られる事か。

 巡邏軍イローエント師団外国人特別対応集中司令署、という聞きなれない役所にマキアリイとサーメルは案内された。
 ここは滞留者犯罪や密貿易を専門に扱う機関で、滞留者町で大騒動を引き起こしたマキアリイ本人への事情聴取もされたわけだ。

 巡邏軍掌令シアフォーノが今回の件の担当となる。
 彼は35歳、10年前の「潜水艦事件」処理で忙殺された夏の日を思い出す。
 (注;「剣令」「掌令」は軍士官で少尉程度の位 警察なら警部。巡邏軍掌令は外勤ではなく事務処理の管理職)

「ここイローエント市では被害者取り違えはよく発生するが、ノゲ・ベイスラなんて都会で起きるとはなってないな」
「どうも特殊事情がありそうです。そこは本人に事情聴取するしかありませんが、」
「ちょっと取り調べは無理なようだ。憔悴が酷いし、薬物中毒の症状も見られる」
「髪が緑なのはバシャラタンの茶葉のせいですか」
「ああバシャラタン人はたいてい緑色の髪だ。髪色が変わるのは別に健康に害は無いそうだが」

 医師の診断を受けたサーメルが女性兵士に付き添われて医務室から戻ってくる。
 女性兵士が結果を伝える。

「外傷や病気等はありませんが、食事をほとんど摂っていなかったようで栄養失調です。
 あと精神的に相当参っていて、精神安定作用の有るバシャラタンの赤茶を過剰摂取して髪色が変わったそうです。
 酒はあまり飲まないようで中毒症は見られないとの事ですが、薬酒は様々に試したそうで或る程度の薬物反応が出るが大丈夫だそうです」
「そうか。ヱメコフさん、これなら明日鉄道で出発しても大丈夫だろう」

 マキアリイも女性兵士に尋ねる。所持品や宿泊先については何も語らなかったか。

「宿泊先は滞留町のHOTELの一室だそうです」
「”HOTEL”?」
「ああ、イローエントでは外国語が多用されるようになっていて、旅館のことだ」

 シアホフォーノ掌令に頼んで兵士を派遣して、サーメルの所持品を回収してもらう。
 マキアリイ本人も行きたかったのだが、先程暴動を引き起こした身では許可が下りなかった。

 場所を移して、彼女が仮眠できる部屋に案内してもらう。
 尋問をしたいところだが、この事件既に巡邏軍から警察局に移管されたもので、巡邏軍としては遠慮するのが筋となる。
 憔悴も著しいから安静に留め置く事として、女性兵士が引き続き看視を続ける。

 代わりにマキアリイが多少の質問をする。ほとんど喋らないが、たまに反応した。

「バシャラタンの茶葉は相当な高級品です。よくカネが続きましたね」
「……お金は、ありました」
「逃走資金は最初から用意していた、という事ですか」
「……お金は、おかねだけがありました。あとは、」

「イローエントに逃げる際に誰かの支援を受けましたか」
「……わかりません。でも誰かがいつも見張っているような気が」
「知らない人ですか、男ですか女ですか」
「わかりません……」

 これ以上の質問は無理と考えて、マキアリイは部屋を出た。
 今晩はこのまま司令署内で過ごして、明日早くにノゲ・ベイスラ市に出発する。
 事件への関与がまだよく分からないが、逃げ出したり自傷自害の可能性もあって一晩中見張っておかねばならないだろう。

 先程の女性兵士に後を任せて、マキアリイは廊下の長椅子の上に寝た。
 目を瞑る彼の上から、女性兵士が喋り掛けてくる。

「でも本当に英雄探偵のマキアリイさんが来られるとは思いませんでした」
「何度も来ているよ。イローエントは犯罪の震源地だから、首都近辺で起きる事件にも影響を及ぼしている」
「新聞で見ました。「闇御前」裁判たいへんでしたね」
「まだまだ大変になるさ。国家反逆罪の特別法廷だからな」

「この廊下も結構うるさいですよ。よろしければ別室を用意しますが、移りませんか」
「ここでいい。万が一があるからここで」

 それ以上は女性兵士も話し掛けなかった。

 

         ***

 ヱメコフ・マキアリイにも誤算は有る。
 巡邏軍はマキアリイにもサーメルにも夕食を用意する事を考え付かなかったのだ。
 サーメルは食べようとも思わないから気にしないが、マキアリイはしばらく寝てぱちっと眼が覚めた。

「げるた……。」

 幸いなことに、巡邏軍の食堂は一日中開いていた。
 ここイローエント市は犯罪が昼夜を分かたず多発して、兵士がいつでも出動できるように食事の準備も整えているのだ。
 ただし深夜帯は出来合いのものを並べているだけで、調理はしてくれない。
 半分寝ている会計の爺さんの傍のざるに小銭を放り込んで紙包みを持っていく。ほんとうに眠っているように見えてしっかり番をしているのだから、大した芸だ。

 星空味ゲルタはさみ麭(マヨネーズ和えゲルタバーガー)の紙包みと炭酸水の瓶を持って元の長椅子に戻る。
 異変に気付いた。

「誰も居ないな。」

 部屋の中に人の気配がしない。サーメルと女性兵士が居たはずだが、二人共に気配が無い。
 女性兵士が用を足しに出た隙を突いて逃げ出した、そんなところだ。

 女性兵士は名前をダクトネ・オーィンと言い、階級は巡邏正兵(一等兵)
 南海イローエント港の地元民らしく、陽に焼けて活発な19歳だ。
 多少軽薄な感じもしないではないが、英雄との遭遇で舞い上がっているだけかもしれない。

 紙包みと瓶を長椅子に置いて、通路を改めて観察する。
 追い詰められた女が人の多い方に逃げたりはしない。食堂が有る方向からマキアリイは来た。
 暗い方、外に出られる方に進むはず。

「すいません、マキアリイさん。少し外しました。中で寝ているはずです」

 と、ほぼ呑気にダクトネが帰ってくる。つまり便所の有る方には逃げていないのだろう。
 窓を伝って、の線は無い。巡邏軍の建物は取り調べ中の容疑者が逃げ出す事を考慮して、鉄格子を嵌めている。
 問題は上か下か。通常の精神状態なら下りて外に逃げるところだが、場合によっては屋上に上がって飛び降り自殺騒ぎを起こす可能性も。

 部屋にサーメルが居ない事を確認したダクトネは、慌ててマキアリイに告げる。

「逃げました、申し訳ありません。あなたが居ない間は離れるべきではありませんでした」
「……いや、違うな。逃げるのではなく、求めているんだ」

 緑の髪を思い出す。あれは、ほぼ毎日数時間ごとにバシャラタンの茶を飲んだ副作用。
 精神を安定させる効果を持つ赤茶を服用して、不安を和らげていたのだ。
 中毒患者が薬物の効果が切れれば求めて動き出すのは自明な。

「こっちだ」

 マキアリイは慌てず歩き出す。ダクトネは後方を振り返り、探すべきはこちらではないかと懸念しながらも付いてくる。
 進みながらも、全館に警報を出して全員で捜索した方が良いのではないか、と進言するも、

「    居た」
「無い、無い、無い、ない、ないない、無い、ない……」

 巡邏軍の食堂に高価な輸入茶を置いてあるはずも無い。
 緑の髪の女は必死で飲み物の棚を探すが、求めるものを見出す事が出来ず、泣きながら虚しく棚を漁っていた。

 マキアリイは彼女の肩を抱いて、元の部屋に戻ろうと促した。抵抗はしない。
 ダクトネに、別の温かいものを用意してくれと頼む。食堂には無料のチフ茶のヤカンも置いてある。

 部屋に彼女を送り届けて、チフ茶で落ち着かせるのを確認し、再び廊下の長椅子に戻る。
 もう一眠りするか、と考えたところで、腹が減ってゲルタ麭を買ってきたのを思い出した。
 しかし長椅子の上には無い。

 どこに落ちた、と探すと、廊下の端のゴミ箱に包み紙が捨ててあるのを発見する。
 炭酸水の瓶も隣に置いてあった。もちろん空だ。
 誰だか知らないが、長椅子に置いてあった食い物を勝手に食べてしまったのだ。
 巡邏軍という正義の砦においてもこの始末。世の中間違っている。

「……、げるた。」

 中毒患者は切れれば求めて再び動き出すものだ。

 

         ***

 翌日5時丁度(午前8時)の特別急行列車に乗って、ノゲ・ベイスラ市に戻る。

 国土の真ん中を南北にまっすぐ貫くスプリタ幹線鉄道は国家の大動脈だ。
 貨物輸送量も多く、輸送効率を高める為に線路の軌間も広くなっており、高速走行が可能となっている。
 おかげでイローエント市からノゲ・ベイスラ市まで4時刻(9時間)で移動出来る。陽のある内に戻れるのは有り難い事だ。
 ただし、それなりに料金は高い。
 最低の3等車料金でも、各県在来線乗り継ぎ料金の倍も掛かる。時間は4分の1となるが。

 使用するのは1等車個室だ。
 ハキミゥラ・サーメルが被害者と誤認された事件は未だ概要が掴めず、サーメル本人が何者かに危害を加えられる可能性を排除できない。
 ベイスラ中央警察局の大失態にこれ以上の恥の上塗りをしない為に、本人移送には万全を尽くす必要が有る。
 担当のマイラガ法衛視が費用はこちらで持つと言ったから、遠慮なく十分な対応措置を取らせてもらう。

 サーメラ本人は、昨夜と打って変わって精神状態も落ち着き、素直に指示に従っている。
 1回1包1ティカもするバシャラタンから輸入された赤茶が、20包。計1金(10万円)分を大事そうに両腕に抱きしめているからだ。
 専門家に聞いたところでは、髪が緑になるには最低でも2ヶ月、毎日2杯以上飲まねばならないらしい。
 おそらくは10金は茶に費やしている。カネだけは有った、という証言も本当なのだろう。

 彼女が抱く赤茶は、宿泊先から回収してきた私物である。
 夜の内に泊まっていたHOTELに巡邏軍兵士を派遣して、私物の回収や事件に関連する事物の探索を行った。

 滞留街にありながらもそのHOTELは、宿泊客の荷物や金銭が安全に保管される極めてまっとうな施設であった。
 もちろんその背景には、経営母体が滞留者によって結成された犯罪・暴力組織で、彼ら自身が安全な宿を業務上必要としたという裏付けがある。
 当然利用にも厳しい制限が付きまとう。飛び込みの客を受け入れたりはしない。
 つまり、サーメルはいずこかの犯罪組織に関与する者に案内紹介されて、あのHOTELに宿泊した事になる。
 滞留街を一人でうろついても危害を加えられなかった点からしても、陰で護衛されていたと思わざるを得ない。

 何らかの人物が失踪中の彼女を見守り続けていた。そう結論付けるべきだ。
 であれば犯罪の出発点であるノゲ・ベイスラ市への帰還を、その人物が妨害・奪還しに来る可能性は高い。
 個室使用は安全確保の為に必要な措置と言えよう。

 

「わー、私1等車とか初めて乗りました」

 巡邏軍女性兵士ダクトネ正兵も随伴する。
 移送の対象が女性であり精神的衰弱状態にあるから、マキアリイ一人では困る事にもなるだろう。

「誰が乗ってくるにしても、1等車であれば身分確認もされるから大丈夫だろう。
 怪しい人物が居るとしても、2等車座席の方だ」
「そうですね、警戒は怠らないようにします」

 マキアリイ本人は3等座席の方がよいのだが、致し方ない。
 ちなみにこの列車は1等2等車のみで3等車両の付いていない特別急行だ。2等車であっても乗車券購入の際に氏名を要求される。
 そもそもがイローエント市から外国人・滞留者が他に移動するのは大きな制限が課せられており、巡邏軍が駅で目を光らせていた。
 不審人物では乗車できない。敵もごくまっとうな一般人の身分で乗っているだろう。

 サーメルを座席に座らせて、個室の扉を閉めて通路でダクトネと打ち合わせをする。
 彼女は昨日の通常制服でなく、巡邏軍礼服に姿を換えた。1等車に乗るから精一杯規定の範囲内でおしゃれしている。
 マキアリイ自身も、あまり汚い格好はダメだと日頃着ている服を鉄道会社に拒否され、やむなく貸衣装。

「マキアリイさんは1等車に乗ったこと有りますよね、国家英雄なんだから」
「1等どころか特等車両にも乗った。あれはーとてつもなく鬱陶しい体験だったよ、総統閣下以下周り中偉いヒトばっかりでさ、緊張して緊張して」
「さすが!」

「とにかくだ、俺は英雄探偵として顔が知られ過ぎているから、不審者も俺の前では反応を見せないだろう。
 車内の人物確認は君に頼みたい」
「分かっています。万が一の時の逮捕権もあなたにはありませんから、私が支援します」
「うん。車掌にも既に巡邏軍から通達が届いているから、乗務員以外立入り禁止区画にも君は出入り出来る。見落としの無いように」
「はい」
「ただし、あまり隠れている者を刺激しないように。さりげなくだ、いいな」

 カニ巫女に対してはこの注意はまったくに役に立たない。
 彼女らは藪をつついて虻蜂を出すのを喜びとするほどで、計略で悪を泳がせておくなど出来はしない。
 性格が普通人寄りのクワンパであれば、そういう芸当もありだろうが、

「そうか」
「なんでしょうか」
「いや失礼、うちの事務員を思い出しただけだ」

 クワンパは、ひょっとするとカニ巫女ではなく、巡邏軍や警察局の女性隊員の方が向いているかもしれない。

 

         ***

 イローエント発デュータム行スプリタ街道特別急行『ファイファオン(早風) 03号』が汽笛と共に出発した。
 エイベント県までの1刻半(3時間)は蒸気機関車が牽引する。エイベントからベイスラ、ヌケミンドルは電化区間であるから電気機関車に交換する。
 編成は、機関車・乗客貨物+乗員車・2等客車5両・中間電源冷蔵車・厨房車・食堂車・1等座席車2両・1等個室車1両・(特等車今回は無し)・1等乗客貨物+車掌車・郵便車。

 幹線鉄道は高速路線であるから軌間も広く、特殊鋼製の高品質なものを使っている。時速300里(150キロメートル/地球時)対応だ。
 同等の幹線鉄道は他に、北方を東西に貫くボウダン街道線、東岸線、西岸首都線のみ。毒地中央にある工業都市ギジジットへの路線が現在計画中である。

「マキアリイさん! 扇風機が付いてますよ!」
「ああ、夏場は涼しくていいな」
「さすが1等車、個室一つ一つに装備ですか。さすがです」
「食堂車なんか冷房まで付いているぞ、今はまだ使ってないが。後で食べに行こう」
「はい、喜んで!」

 無論ダクトネ正兵も遊びで乗っているわけではない。まずは仕事と、動き出した車内を点検に出発する。
 乗客名簿は巡邏軍も出発前に調べて不審者が居ないと確認しているが、偽名を使っていないとも限らない。
 やはり目で見て確認するに如くはなく、とりあえずは先頭の2等車座席を調べに行く。

 一方マキアリイは、何もしない。内懐から古い文庫本を取り出して読み始める。
 対面に座るサーメルは、これまで何にも反応を示さなかったのに、読書する男を注視する。
 相手が聞くのも期待せずに、独り言のように尋ねる。

「       なにも、聞かないのですか」
「実際問題としては、私の仕事はもう終わりました。貴女の生存を確認した時点で終了です。被告人が無罪、……とは言えないまでも、」

 さすがに神経の弱った女性に、かっての恋人が殺人犯として訴追されているのを思い出させるのは酷かと考え、口を閉ざす。
 だがサーメルはそこには反応しない。

「何を読んでいるのですか」
「ご存知では無いでしょう。シキワーハァメル著『現代詩人悪評伝』という小説です、古いものです」
「……、140年前の作家でしたか。確か当時の評論家に、「あなたの作品は20年を経ずして誰にも顧みられなくなる」と言われた」
「詳しいんですね」
「当時の習俗、それも若い人の間で流行ったモノ・言葉を何の説明もなく多用するから、すぐに時代から外れてしまう人です。
 50年くらい前に一度再評価されて、その時に復刻版が出たはずです。
 あなたが持っているのはそれですね」
「これは参ったな、文学にお詳しいのですか」

 サーメルは答えずにガラス窓の外に流れる風景に目をやった。遠く、イローエントの白茶けた乾いた大地が拡がる。

「……あんなにたくさん読んでいたのに、ずっと好きだったのに、……すっかり忘れていました。わたし、自分を見失っていたのですね……」

 

 サーメルをマキアリイに任せて、ダクトネは列車内の見回りを行う。

 マキアリイの推理、未だ推測に留まるのだが、サーメルを見守り続けていた人物は彼女に対してある種の感情、愛情にも似たものを持っているらしい。
 犯罪組織とは縁もゆかりも無い女性に付きまとうのだから、変質者と呼ぶべきであろう。
 利益を求めてであれば諦めるという選択肢もあるが、変質者ならそれは無い。あらゆる非常識な手段を講じて奪還を試みるはず。
 最悪の場合彼女を殺すことで全てを終わらせる結末も。

 ダクトネは気を引き締めて腰の周りの装備を確かめる。
 通常外勤であればそれなりの武装を携えるが、今回の任務は「一民間人の移送」に過ぎない。しかも巡邏軍礼装姿だ。
 武器は「護剣」と呼ばれる儀礼用短剣のみ、他は手錠しか持っていなかった。

 二等座席に座る乗客の顔を一々確かめながら、それでも警戒心を外に見せぬよう気遣い慎重に進む。
 いずれも高価な特急料金を負担できる紳士淑女で、誰一人怪しくは感じない。
 普段はイローエント市のいかにも悪人面をした犯罪者ばかり眺めている眼には、向かない仕事であったかも知れない。
 だがそれでいい。巡邏軍兵士の存在を主張しておく事で、敵に新たな対応を促すだろう。

 紺色の制服を着た車掌の男性とすれ違う。
 本来列車内の警備は彼等の担当、ショバ荒らしをするなよと睨まれた気がする。
 だが敵は乗務員に変装しているかもしれない。顔をしっかり覚えておく。

(注;「護剣」とは、タンガラム軍兵士の礼装に付属する短剣。かって軍人階級が特別な存在であった頃に常時帯剣していた名残だ。
 陸・海・巡邏軍でそれぞれ違い、見分ける特徴ともなっている。
 巡邏軍は護拳に金属の環が着いた白磨きの棒状小剣で、刃は一部のみ。尖った十手みたいなもので、護拳部分で対象を殴り倒して制圧逮捕する)

 

         ***

 個室の扉を開けると、サーメルが古い文庫本を熱心に読んでいる。
 なるべく彼女を刺激したくないから、マキアリイが通路に出てダクトネの報告を聞く。

「二等車両には不審人物は見当たりませんが、この列車は乗務員以外進入禁止の区画が多くて完全に調べたとは言えません」
「乗務員に化けている可能性もあるからな。とはいえ逃げ場の無い車内だ、常時変装していれば却って目立つ」
「そうですね。引き続き見回りましょうか」
「いや、」

 サーメルが滞留者街で自由に出歩けた事を考えると、もし奪還作戦を行うのであれば複数人が襲撃してくるはず。
 素直に本人の警備を強化した方がよいかもしれない。
 ダクトネは改めて尋ねる。

「サーメルさんが被害者ではないとすれば、殺された女性というのは誰なんでしょう」
「それが分かれば解決だ。奪還に来る者は真の被害者の関係者だろうな」
「ですね。でもなんで入れ替えなんて面倒くさいことを」
「ノゲ・ベイスラ市に戻って警察局が事情聴取を行えば判明するさ。俺の仕事ではないよ」

 私立刑事探偵の職務はあくまでも刑事裁判被告人弁護の為の情報収集と事実確認である。事件の解明ではない。
 勝手に私的に解決してしまったら、治安当局の機嫌を大きく損ねてしまうのだ。隠忍自重。

 扉を開け個室に戻ると、サーメルは一心不乱と表現したくなるほどに本を読んでいた。
 なにがそんなに面白いのか、とダクトネが覗くと眼がチカチカする。古い活字に難しい単語ばかり。
 だがサーメルの私物に文庫本は無かったはず。

「これ、マキアリイさんの本ですか」
「おお」
「なんだか凄く難しいですね、いつもこんな本を読んでいるんですか」
「安い古書ばかり、だな普段読むのは」

 はあー流石は国家英雄、世間を驚かす大活躍の背景にはやはり深い教養の裏付けがあるのだな、知識人読書人だなー。
 と尊敬の眼差しで見るのに、マキアリイはやっちまったか、と訂正の必要を覚える。
 紙背に徹すとばかりに読んでいたサーメルも顔を上げてこちらを見る。書物に関する話題であれば興味も向くわけだ。

「あーそれはな、俺の育った所はとんでもないど田舎で、娯楽何にも無し。書物と言えば冗談抜きで百年2百年前の古書しか無い、という環境だったんだ。
 武術の稽古や農作業をフケる口実に、形だけでも学問している姿を見せなくてはいかんわけで、嫌々ながらも読んでいたら慣れただけだ」
「……それは理想的な読書体験ですねうらやましい」

 車内放送が流れる。3人共にどこから流れてくるのか分からない声に注目した。

”乗客の皆様にお知らせします。食堂車の準備が整いました、只今から営業を開始いたします。
 なお6時半より半刻は一等車の乗客の方の専用となります”(午前11時からの1時間)

 サーメルが少し笑って、彼女が固い表情を崩したのはこれが初めてだ、二人を誘う。

「なんだかお腹が空いてきました。お二人ともご一緒いただけませんか」

 

         ***

 殺人事件発生より昨日まで逃亡生活を続けてきたハキミゥラ・サーメルは、その間ひたすらに精神安定効果の有るバシャラタンの赤茶を飲んできた。
 おそらくは自分が犯した罪による良心の呵責に苛まれ、生きた心地もしなかったのだろう。食事も喉を通らないほどに。
 こうして身柄を治安機関に確保されてしまった以上、もはや心配する必要が無くなったわけだ。
 ようやくに空腹を自覚出来るほどの精神状態に落ち着く事が出来た。

 ダクトネは彼女の様子から、どうも殺人犯らしく無いな、との心証を得る。
 では彼女は一体何をしでかし、逃げねばならなかったのか。

 

 3人は食堂車利用の一番乗りであった。
 一等車の乗客は裕福な者ばかりであるから、それなりの敬意を要求する。
 給仕達は並んで頭を垂れて出迎えるが、かの高名な英雄探偵ヱメコフ・マキアリイであるとは想像を超えていた。

 車掌から本日の乗客について説明を受けていた給仕長が恭しくあいさつをする。

「ヱメコフ・マキアリイ様でいらっしゃいますね。この度は当『ファイファオン 03号』また食堂車をご利用いただき有難うございます。
 ご公務でいらっしゃいますか」
「ああ。3人、頼むよ」
「ご案内いたします。こちらへどうぞ」

 案内された卓の向かい合わせの席で、マキアリイは一人で、サーメルを窓際に、通路側にダクトネが座る。
 万が一を考えて即応出来るように配置する。
 献立は色々と用意されているのだが、サーメルもダクトネもマキアリイに任せると言う。
 何よりダクトネは豪華列車は初めてだし、公務であるから贅沢を要求するわけにもいかない。

「こちらのご婦人には軽いものを。俺たちも、まだ朝の内だしなあ、」
「はい」

 給仕長自らが注文を承るのに、マキアリイは全部任せようと思ったのだが、自分を見つめるダクトネの瞳の輝きに気が付いた。
 彼女は、期待している。
 生涯初の豪華列車の、その最大の楽しみである食事でがっかりさせるのも可哀想だ。
 時間的にはまだ朝食と呼んでよいが、なにせ出るのが早くてろくなものを食べていない。

「いや。そうだな、職務で昼は立て込んで食事ができなくなる可能性もある。今の内に腹を作っておこう。ダクトネさんもそれでいいかな」
「はい! お任せします!」
「じゃあ俺たち二人はしっかりとしたものを頼む」
「かしこまりました。御酒はいかがなさいますか。洋酒も取り揃えておりますが」
「公務だから遠慮しておくよ」
「はい」

 今更ながらに気が付いた。
 そうか、昨夜は飲んでいなかったな。もったいないことをした。
 イローエントは外国人の多数集まる港だから、酒も色々珍しいものが楽しめる。
 惜しいことをした。残念だ。悔やまれる。

 

         ***

「マキアリイさんはこの豪華列車をよく使うんですか」

 無邪気に尋ねるダクトネに、さてどう答えたものかと悩む。
 実のところイローエント市への出張は多く、幹線鉄道豪華列車に乗る機会も多い。ただし政府の式典に呼びつけられる時だ。
 国家的英雄としての待遇を整えるのは政府の威信を示す方法として効果が有り、一流の旅館や料理、衣装、移動も一等車の切符が送られてくる。
 その割には本人に支払われる謝礼が少ないのはどういう理屈だろう。

 今回は通常業務で、被告弁護の為の必要経費で賄われている。依頼人が資産家であるから問題は無いが、普通なら出張旅費なんか出たりしない。
 正義の為に自腹を切ることだってある。

「来る時は三等車でゲルタ弁当を3つ買った。察してくれ」
「はっ。」

 卓の上の細いガラスの花瓶に赤い花が揺れている。シンドラ連合王国の品種だ。
 熱帯に属するシンドラの植物は寒冷の気候には馴染まず、タンガラムにおいては南の地方でだけ栽培されているものが多い。
 1200年前にシンドラから百種類もの植物の種子や苗木が送られてきたと伝わるが、育ったのは20種ほど。
 そのいずれもがタンガラムの産業を大きく支えてくれている。
 例えば、コメ。

「真エビとゥアム芋細切り揚げの米汁麺でございます」

 細かい装飾が描かれた浅い皿に金色の出汁が張られ、透明な米粉の麺が品良く浸かっている。
 茜色の小エビの剥き身が幾つかと、糸のように細く削ったゥアム里芋を油で揚げたもので麺の上を飾る。さらに香草が一葉。
 サーメル向けに、胃の負担が少ないように軽くと頼んだ料理だ。

 ガラスの盃にほんのりと桜色の果汁飲料が注がれる。これもまたゥアム産の飲み物。

 サーメルは驚かないが、ダクトネには初めて見る料理だ。
 いや食べようと思えばイローエント市でなら何処かで供しているのだろうが、皿も一級品でその上に芸術的に盛られているとなると、未知の存在になる。

 給仕はサーメルに、美しい箱に入った数組の食器を提示する。
 タンガラムのもの、ゥアム帝国のもの、シンドラで用いられるもの。どれを使っても礼儀に外れる事は無いが、やはり慣れた自国の食器を選択した。
 ダクトネが思わず尋ねる。

「箸とヘラで食べるのは、ひょっとしたら料理によってはダメなんですか」
「そんな事はありませんよ、いつもどおりに食べていただいていいのです」

 サーメルが優しく教えるが、その姿はやはりそれなりに富裕な家庭の育ちを思わせる。
 捜査資料によると、ハキミゥラ・サーメルの実家は富豪とは言わないまでも、かなりの土地持ちである。

 マキアリイも追加で安心させてやる。

「箸だって、元は星の世界で使われていたという食器だからな。どの国の料理を食べても問題ないだろ」
「そうでした。救世主さまがお授け下されたものでした」

 しかし、とまだ悩んでいる。

「ゥアム帝国って、金属の櫛でご飯を食べるんですよね?」

 

 やはり酒を頼むべきだったか、と悩み始めた頃に料理が出て来る。

「本日は麺料理を主体としてお楽しみいただく趣向となっております。
 バシャラタン法国のソバ麺と卵を練り込んだ小麦麺の取り合わせ、鴨脂の醤油ダレとゥアム辛茄子刻みでお召し上がりください」
「ソバ?」

 タンガラムでは「チフ」と呼ぶが、種類が若干違う。実を煮出して「チフ茶」とするが普通は食用にしない。夏の枕の中身になる。
 バシャラタン法国ではソバは主食となる穀物だ。気候の関係で他の穀物が育たない事もあり、上は惣國太僧上から下々の民に至るまで同じものを食べている。
 ただし麺にはしない。タンガラム人は新しい穀物粉を得ると必ず麺にしてしまう奇癖を持つ。
 これまでには無い味わいで、最近人気急上昇中の食べ物だ。

 ダクトネも食器を選ぶことを強いられたが、サーメルに倣いタンガラムの箸とヘラを選択する。
 タンガラムの食器は金属を避けるのが特徴で、箸は美しく塗られた木製、ヘラは骨で作られたものだ。微妙で繊細な彫刻が施されている。

 平皿に盛られた麺をどこから攻略するか。
 卵麺の方には舌を突き刺すゥアム辛茄子を細かく刻んだものがまぶしてあり、なかなかの難物である。
 ここまで辛い食品はタンガラムにはこれまで無かったので、大抵の人は苦手なのだ。美味いとは分かっていながらも躊躇する。

 格闘中の彼女の前に、エビの「サラダ」が届けられる。5種の野菜と共に頂く。
 エビも近年養殖が進んでいる食材で、美食の代名詞とも呼ばれている。「飽食の時代」と評論家が世を批難する際に、必ず取り上げられる品だ。
 高価で庶民には手が出し辛く、だったら山に入って虫を取ってこよう、との屁理屈で鄙びた田舎料理が逆に注目されている。

 この「サラダ」一つで普段の昼食何日分か、とダクトネは困惑し眉をひそめる。

 

         ***

 麺とサラダを食べ終わった頃に、肉が来た。
 食器は一度全て下げられ、新たにシンドラ製の装飾過剰な金属の二股と、鞘に入った小刀が置かれる。

「ゥアム二脚鹿の利刀焼きでございます」

「二脚鹿ってなんですか、マキアリイさん」
「図鑑で見たことが有る。二本足で立ち上がって跳ねるかなり大きな鹿で尻尾が長いんだ」
「そんなもの食べてもいいんですか?」
「こうして、焼かれて皿に乗っているからなあ」

 利刀焼きとは、正式名称を「頑健肉の利刀焼き」と言い、文字通りにとんでもなく堅い肉を堅いままに焼いて食べる料理だ。
 タンガラムの人間は歯が強く鳥の骨でもバリバリと噛み砕いてしまうほどだが、それでも歯が立たない筋肉がそのまんま塊で出て来る。

 調理技術の歴史とはまさに堅い肉をいかに柔らかくして食べるかであり、薄く切ったり叩いたり長時間煮たり漬け込んだり細かく刻んだりと、様々な工夫を積み重ねてきたわけだが、
それはすなわち、肉を肉以外のものに変化させるに他ならない行為だ。
 だが肉の旨味醍醐味とはまさに肉の塊をそのままに齧りつくところにある。堅い肉を堅いままに味わう事ができないか。
 導き出された答えが「利刀焼き」である。

 至極単純な話、とてつもなく良く切れる刃物で焼いた肉を食べたいだけ切り取って味わう。
 一口大どころではなく、一噛み大に切って食べれば後はもう飲み込むだけ。という理屈だ。
 焼けた鉄板の上でじゅうじゅうと脂を焦がしながら現れる肉に、誰もが食欲をそそられる。

 二脚鹿は、ゥアム帝国において大トカゲと共に盛んに食べられる食材で、国際航路の客船にも必ず積んである。
 しかしやはり堅くて食べられない部位はあり、タンガラム到着まで残る例が多い。
 これをわざわざ買い求めてくるのが、美食の粋と言われている。長期間の保存で程よく熟成し、肉の旨味も増している。

「穀食はいかがなさいますか。餅飯粥、また珍しい麭(パン)もご用意しております」
「そうだな、俺はトナクの飯で頼む。ダクトネさんはどうする」
「珍しいとは、どのような麭があるのですか」
「トウキビ粉の薄焼き麭ではいかがでしょう。ゥアム帝国でよく食べられているものです」
「じゃあそれでお願いします」

 とにかく肉と格闘する。シンドラの二股で突き刺して小刀で小さく切っていく。
 利刀焼きは、まさに刀の斬れ味を食べるものだ。
 タレもシンドラの香辛料を多く効かせた複雑な味で食欲をそそり、大人を夢中にさせる。
 飲み物は発泡甘酢飲料で、脂に塗れた舌を清めてくれた。
 トウキビ麭は薄い円形で黄色。わずかに茶色に焦がしており、手で千切って肉汁をすくって食べる。まるでこの料理の為に焼かれたように味が調和した。

 利刀焼きの場合、食べ終わると給仕が必ず小刀を回収していく。極めて良く切れるから暗殺に用いられる事も多々有るのだ。
 肉の鉄板が下げられると、小さなガラスの器で乳氷菓が現れる。
 列車なのに冷蔵庫まで装備しているのか、とダクトネは改めて吃驚する。
 『ファイファオン 03号』は特別急行であるからこその装備だ。人間のみならず高級食材を冷凍冷蔵で内陸部まで届ける役目も持っている。
 その為の非常用発電機までもが搭載されているのだ。

「……マキアリイさん、私なんだか悪い気がしてきました。こんなご馳走を食べてしまったら、私今日死んじゃうんじゃないでしょうか」
「死なない、死なない」

 乳氷菓はサーメルも食べる。
 白く盛られた上に飾られる赤と紫の果物の甘煮を、銀の匙で救って唇の間に収める。
 絵のような光景に、この人はやはり事件に巻き込まれるだけの美人なのだなとマキアリイも認識した。
 人間性格や行動だけでなく、容姿によって犯罪を引き寄せる事もある。

 

         ***

 ほんのりと柔らかな花の匂いのするヤムナム茶で心を落ち着ける。

 マキアリイは国家英雄だから各界名士や国家総統に招かれてご馳走される事も度々だろうが、サーメルが慣れているのにダクトネは注目する。

「サーメルさんも、豪華列車よく利用するのですか」
「ウチはそこまで裕福ではありませんよ。でもゴドーロプさんと旅行した際には……。」

 いきなり事件に触れてくる言葉に、マキアリイもダクトネも一瞬動きを止めた。だが刺激しないように表情は変えない。
 サーメルは畳み掛けるかに告げる。

「たぶん、わたしの身に何が起きたのかを語るべき時が来たのでしょう。ご飯もいただきましたし、心も落ち着いて今なら全てをお二人にお話出来ると思います」
「え、こんな所で、」

 さすがに殺人事件の概要を豪華食堂車で、他の客も給仕も居る中で話すのははばかられる。
 ダクトネは驚いて場所を移そうと提案するが、マキアリイは。 

「ハキミゥラ・サーメルさん。貴女がこれから語る事を私もダクトネ正兵も後に公式な報告書として巡邏軍警察局に提出し、処罰裁定や刑事裁判が開かれる際には不利な証拠としても用いられます。それでもよろしいですか」
「はい覚悟しております。犯した罪は自ら償う事でしか再びこの世に戻れないと、逃走中に痛いほど理解させられました」
「それでは私ヱメコフ・マキアリイをお雇い下さい。刑事探偵として被疑者の権利を保護し、取り調べの最中にでも当局の扱いを監視し、また法論士の方とも連絡を密に取るお手伝いが出来ます」
「お願いいたします」
「これを以って、正式に契約を取り交わした事と認めます。なお刑事探偵依頼料金は1日当たり1ティカで別途諸経費が掛かります」

 マキアリイとダクトネ正兵は、現時刻を以って法的に敵味方に分かれる事となる。

 

 一等車個室に戻り、事情聴取を開始する。
 マキアリイとダクトネは並んで座り、ダクトネが手帳に供述を書き記していく。

「……なにから話せばよいでしょうか。まず、わたしが何者であるかを語るべきでしょう。
 わたしハキミゥラ・サーメルが、如何にしてゴドーロプ・パグミニヲンさんと巡り合ったか。ここから始めるべきでしょう。

 わたしは女子師範学校を卒業した後に、ベイスラ県歴史文書管理館の司書として採用されました。
 書物に埋もれて暮らすのも楽しかったのですが、さすがにいい歳になってきて親に結婚を催促されるようになり、言われるままにお見合いをしました。
 結婚をしても司書は続けられますから、それを許してくれる人というのが条件です。

 何人かとお見合いをしたのですが、中の一人がゴドーロプさんです。あまり良い感触を持ちませんでした。
 彼は資産家の御子息で学生時代はお金をいっぱい使って遊んでいました。わたしが苦手な種類のヒトです。
 ただ彼もいい加減遊び飽きて普通に実業の世界に入るべきという気になって、これまで遊んでいた女とは別の、妻として家を守るような女を結婚相手として求めたのです。たぶん御両親のお言いつけでしょう。
 だからわたし達は燃える恋などではなく、互いの世間体で付き合う事になったのです。
 それはそれでよいと思いました。必ずしもこの人と結婚せねばならないわけではなく、ただ時間潰しがお互い出来るという。

 それでもそれなりに時間を共に過ごしていると、なんとなくその気になって、結婚しても良いのかなと思い始めた頃に、あの女が来ました」

「殺された女性、ですか」
「はい。あの人は名前を「ォウサカ・フェイナ」と言います。でも多分、偽名です。あの人の家には色んな名前の証書や証明書がありましたから。
 あの人は、

 あのヒトは、最初から馴れ馴れしい人でした。まるで何年も前から友達であるかのように親しくわたしにまとわり付いてきて、無遠慮に話したのです。
 そうですね女子学校の生徒であった時分のまま、という感じです。
 ただあの人はたぶん、中学校もろくに通ってないと思います。頭は良かったはずなのに。
 キラキラとして言葉の端々に人を惹き付けるなにかを仕込んでいて、無視する事が出来ない。男性が相手であればどんな人でもすぐに彼女に恋してしまう、そんな魅力に溢れていました。

 綺麗なヒトです。でも彼女はわたしに、彼女がわたしとそっくりだと言うのです。
 全然そんな風には思いませんでした。だって髪型も着る服も何もかも趣味が違うのですから。
 しかし、彼女に誘われて行った美容室で髪型他を同じに整えてみたら、本当にわたしそっくりにあの人はなったのです。
 いえ、わたしと同じ顔をしていながら、わたしよりも遥かに美人に化けました。

 そして彼女は言うのです。「ゴドーロプ・パグミニヲンさんを自分に譲ってほしい」と」

 

         ***

「ゴドーロプさんの実家の資産が目当てであるのはすぐ分かりました。あの人はそうやって儲けているのです。
 ただわたしは、それを不思議にも不快にも思いませんでした。ああ、そうなんだなと、そうでなければわたしに近付いたりしないんだと。
 つまりわたしに化けてゴドーロプさんに近付き、わたしとして結婚して、財産を奪う。ちょっと面白くなりました。
 それにわたしも、犯罪に付き合う気はありませんから、彼が騙されてちょっとのぼせたあたりで出ていってタネ明かしをしてやろうと。それなら罪も無いだろうと考えました。
 別の思惑もあります。もし彼女がわたしの代わりにあの人を虜にしてしまったら、以後元のわたしと付き合う気も無くなるだろうと。
 ずるずると流されるままに結婚に落ち着くのも嫌かな、と朧気ながらに感じていたものを、はっきりと決着付けたくなったのです」

「それで、すり替わったのですね。「ォウサカ・フェイナ」と」
「はい。彼は簡単に騙されました。そして簡単に夢中になりました。
 あの手の男を手玉に取るのは、彼女にとって実に容易い事です。わたしという地味な女がいきなり奔放な本性を表した、と勘違いして箍が外れた感じです。
 面白いように転げ落ちていきました。
 もちろんわたしも、そんな人と結婚したくはありません。冷ややかに見つめるだけです」

 

 現実世界、犯罪に絡む世の裏側をさんざん見せられてきたマキアリイである。ダクトネ正兵も巡邏軍に勤めていれば汚いものを嫌でも見る。
 虫も殺せないおとなしさに見える女性でも、心の内にはどす黒く燃える悪意を秘めている。これも自然の姿なのだ。
 静かに語り続けるサーメルを見る目は変わるが、しかしゴドーロプ・パグミニヲンという男が所詮それだけの人間であったのだろう。

 

「でも彼女の計画は、わたしが想像しているのと大きく異なるものでした。
 彼女は、結婚して財産分与や相続などを待つつもりは毛頭無く、もっと手っ取り早く財産を横取りする気でした。

 言いなりになるしか無くなったゴドーロプさんを操って、架空の投資話や商談に手を出させ、その保証人としてご実家を巻き込み数年の内に全てを吐き出させるのだと、わたしには分かりました。
 吐き気がしました。悪い女だとは分かっていても、そこまで徹底的に邪悪だとは見抜けなかったのです。
 彼女はどこから入手したのか分からない異国の薬物なども用いてゴドーロプさんを完全に支配し、やりたい放題の非道を続けたのです。
 それも、わたしの顔で。名前で。

 わたしはもう止めて、と頼みましたが聞き入れてくれません。それどころか、彼女のお腹には彼の子どもが居るとまで言いました。
 本当かどうか分かりません。ひょっとすると、誰が父親か分からない子をゴドーロプさんに押し付けるのでしょう。
 それも、わたしが産んだ事になる……。

 我慢できないわたしは、ゴドーロプさんの家に押し掛けました。
 彼は彼女が持ってきた薬物でふらふらで、何がなんだか分からない状態でした。
 わたしは彼女に抗議して、でも彼女は嘲笑うばかりで、結局掴み合いの喧嘩になってしまいました。
 不思議な事に、顔も姿も同じなのに腕力はわたしの方が強くて、彼女はその場に有った棒を振り回して部屋の中がめちゃくちゃになってしまいました。
 そして彼女を突き飛ばしたら、転んで頭を打って、動かなくなりました。

 わたしは瞬間的に、死んだと思いました。彼女を、「ォウサカ・フェイナ」を殺してしまったと。
 頭の中が大混乱して逃げました。後先を考えずに、でも自分の家にも帰れない。それだけは分かっていました。
 逃げ込んだのは逆に、彼女の部屋です。隠れ家みたいなところで、彼女がこれまでにどんな悪事を行ってきたのか全部証拠が揃っている、そんな部屋です。
 ここで二人で変身して入れ替わっていたわけで、鍵は突き飛ばした時に持っていたものを奪いました。
 たぶんわたしは、わたしが関係していた証拠を始末しようと考えたのでしょう。その時は。
 でもそのまま何日も、ただがたがたと震えているだけでした」

 

 つまり、殺人犯はサーメル本人だとの告白だ。経過からすると殺意は認められず傷害致死に落ち着きそうだが、それでも有罪ならば実刑だろう。
 しかしながら、とマキアリイもダクトネも疑問に思う。
 死体の発見状況と違う……。

 

「異変に気付いたのは4日目です。何時まで経っても巡邏軍が家に来ません。事件が表沙汰になっていないのか、と心配になりました。
 そこで外に出て新聞を買ってみると、殺人事件で「ハキミゥラ・サーメル」が殺されているのです。
 わたしは既に死んでいるのです。

 わたしは混乱しました。食べるものとかを買い込んで再び彼女の部屋に戻り、ひたすらに事件が進展する様を見守りました。
 被害者は間違いなくわたし自身で、しかも顔が潰される惨たらしい殺され方で、犯人としてゴドーロプさんが巡邏軍に逮捕されました。
 わたしの家族はわたしの遺骸を引き取って、あっという間にお葬式をして。

 わたしはどうしたらいいか分からなくなりました。
 彼女の部屋に有った異国のお茶や薬物でなんとか不安を紛らわせていましたが、その内に買い置きも切れて、買いに行ってもベイスラでは売ってないと聞いて、
 それで、イローエントに行く事を決めました。
 お金は有ったのです。部屋に、かなりまとまった額の札束が。
 どういう経緯で儲けたものかだいたい想像は出来ますが、その頃にはわたしもすっかり薬物中毒に冒されていて、それにわたしはもうわたしでは無いのです。
 「ハキミゥラ・サーメル」は死に、「ォウサカ・フェイナ」が生き残っている。
 悪いとは思いながらもお金を握り締めて、イローエント行きの列車に乗ったのです……」

 

         ***

「幾つか質問させて下さい。まず事件が起きた当日のゴドーロプ氏の自宅に居たのは、貴女とゴドーロプ氏、「ォウサカ・フェイナ」の3人だけですね」
「はい」
「その後誰かが訪ねてくるなどは聞いていませんか」
「分かりません」

「「ォウサカ・フェイナ」の隠れ家は、誰か他の人が住んでいませんでしたか」
「あそこは彼女だけが住んでいる、いえ物置の感じがする部屋です。他人の気配はしませんでした」
「誰も訪ねて来ない?」
「気付きませんでした」

「その隠れ家の住所は分かりますか」
「ノゲ・ベイスラ市内の……。」

 

 一連の供述を終えて再び黙るサーメルを残して、マキアリイとダクトネは個室の外に出た。

「捜査資料によると、事件の通報はゴドーロプ・パグミニヲンが薬物の効果が切れて目を覚ました後に自分で巡邏軍に伝えている」
「サーメルさんが逃げた後何があったのか、誰にも分からないのですね。ひょっとすると4人目が居たのかも」
「その4人目が改めて「ォウサカ・フェイナ」を家具で押し潰したと考える事も出来る。その場合、彼女はまだ生きていたのかも知れないな」

「遺族が、この場合サーメルさんの家族が、あっさりと遺体を本人と確認したのも気になります。自分の娘をそう簡単に取り違えるでしょうか」
「そこは憶測になる。ベイスラ中央警察局の「ハキミゥラ事件」担当のマイラガ法衛視に「ォウサカ・フェイナ」の隠れ家を捜索してもらおう」
「ですが、列車の中です。どうやって連絡を取りましょう」
「電化区間なら車内電話も使えるんだが、車掌に頼んで通過駅に通信筒を投げてもらおう」

 ダクトネが車掌への連絡を引き受けて、乗務員室に向かう。
 個室に戻ったマキアリイは、再び沈黙と憔悴に戻ったサーメルに声を掛ける。

「少し寝た方がいいかもしれません。寝台を用意しましょう」
「いえ、起きていた方が、考えていたいのです」

 

 列車はイローエント県を出て、エイベント県へ向かう。荒れた大地が続く。
 そもそもがイローエント港がある南岸地帯は降水量が少なく農耕が不可能な地域が広がり、人口も少ない。
 ベイスラ山地の南端にあたるエイベント県から気候も風土も変わり、人間が住むのにふさわしい土地になる。
 イローエント港は風景からしても異界と呼べるのだ。

 ハキミゥラ・サーメルは死者の国から生きている人間の世界に戻る。

 ダクトネが顔色を変えて戻ってきた。

「マキアリイさん、二等乗客の間に何人も病人が出て大変です!」
「病気? 皆同じ症状か」
「腹痛です。まったくの他人同士でも同じ症状ですから、車内で何かが起きたとしか。今車掌以下の乗務員が大騒ぎしています」

 腹痛であれば食中毒がまず真っ先に考えつくが、食堂車で食べた3人に何の症状も表れていない。
 伝染病がこんなに短時間に広まるはずが無いから、やはり食堂車とは別に口に入れた物か。
 マキアリイはサーメルを残して個室の外に出る。

「どうやらサーメルさんを奪還する為に仕掛けてきたみたいだな」
「やはり攻撃ですか」
「乗務員に化けるなら今の状況が最もふさわしい。だが、車内で奪還したとしても逃げ場が無い」
「はい」
「次は最寄りの駅に停車させる布石を打ってくるぞ」

 サーメルの警備にダクトネを残して、今度はマキアリイ本人が見回りに行く。
 と言っても食堂車までだ。二等車両と一等車両との間に食堂車と電源・厨房車は有り、関門ともなっている。
 マキアリイの目当ては乗務員だ。ここを行き来する乗務員の顔を覚え、不審者を発見する。

 

         ***

 しばらくして戻ってきたマキアリイは、ダクトネを外に呼び出す。

「水だ。二等車両の手洗い場に有る飲料水供給器に薬物を投入されたらしい」
「あの無料で水が飲めるアレですか。鍵はかかっていないんですか」
「簡易な鍵で、どの列車に装備されているのでも皆同じ鍵が使えるそうだ。たぶん事前に入手していたんだろう」
「周到ですね。まるで何日も前から狙っていたような」
「そうだ。治安機関にサーメルさんが保護された場合の奪還手段をあらかじめ想定しておいたんだな。となると、犯人も列車窃盗の専門家を雇っているかもしれない」
「ああ、それは有ります。イローエントでは列車内の窃盗事件はもう毎日のように起きていますよ」

「主犯格は列車には乗っていないかもな。臨時停車した時が勝負だ」
「はい、心得ておきます」

 がくん、と列車が揺れ速度が落ちる。
 車掌が険しい表情で通路を走り抜ける。マキアリイを見て、さすがに国家英雄で正義の味方に対しては事実を報告すべきだろうと考えたのか、足を止める。

「申し訳ございません、車両火災が発生しました。すぐに鎮火しましたが最寄りの駅に停車します」
「場所は」
「二等乗客の手荷物預かり室です」

 やはり曲者は二等乗客として潜んでいたわけだ。
 車掌は再び走り去って、やがて車内放送が流れる。

”乗客の皆様にお知らせします。車両に故障が発生したため臨時停車いたします。運行に支障はありませんので皆様お静かに席に着いてお待ち下さい”

 

 停車したのはイローエント県とエイベント県の境目にある「コングロア接続駅」だ。
 通常は旅客列車は止まらない駅で、保線作業員の待機所と呼んだ方が適切かもしれない。
 鉄道関係者ばかりが住んでいる町があり医療施設は整っているので、腹痛を訴える乗客をここで処置する事とした。

 進行中の『ファイファオン 03号』からの信号通信を受けて、駅には既に大勢の作業員が待ち構えていた。
 治療が必要な乗客は作業員に肩を支えられて列車を降り、担架に乗せられて運ばれていく。

 また整備士達が列車の内外を点検して、障害が無いか確かめていく。
 スプリタ幹線鉄道の豪華特急列車と言えば「タンガラム鉄道公社」の花形車両で、人身事故などはまったくに許されない。
 誇りを懸けて安全運転を保証している。

 そして鉄道保安官がマキアリイ達を出迎えた。3人の前に藍色の制服制帽で敬礼する。
 ちらと、背後に立つ緑の髪の女性を確かめる。

「あの国家英雄として高名な刑事探偵のヱメコフ・マキアリイ様と、随伴の巡邏兵の方ですね。
 今回の列車妨害事件があなた方を標的としたものだとの連絡がイローエント運行本社から入っております。
 恐れ入りますが、事情聴取の為に事務所にお出で下さい」

 黒塗りの高級自動車が迎えに待機しているのを示す。
 作業用の自動車ではなく、本社から視察に重役などが訪れた際に使うものだろう。
 国家英雄を出迎えるのに最大限の礼儀を尽くしたと見える。

 だがダクトネはいきなり高笑いを始め、勝ち誇る。

「あっはっは、さすがはマキアリイさんの推理だ。まさかここまで台本通りに進展するなんて、笑っちゃうしかないよ」
「な、なんですかあなたは」
「制服を着ていれば公的機関の人間に見える? 笑っちゃうね、私達は何年も厳しい訓練を受けて初めて兵隊らしく鉄道保安官らしくなれるんだ。
 そんな付け焼き刃の演技で騙されるバカが居るもんか」
「何を言っているのですか。とにかくここでは作業に差し支えます、事務所で詳しくお話を伺います」
「ええい問答無用だ、列車運行妨害、公共物放火、複数傷害罪の現行犯でお前を逮捕する」
「なんですかあなたはー!」

 マキアリイとサーメルを背に置いて、ダクトネが手錠を取り出し鉄道保安官を逮捕しようとする。
 鉄道保安官は25、6歳で、確かに重要人物を接遇するには少し貫目が不足する。いかに普段は何も起きない僻地であっても、責任者としては若過ぎた。
 怪しいと言えば確かにそうだが、先入観に過ぎないか。

「く、くそっ、よく見破ったな」

 鉄道保安官はやおら腰の拳銃を抜き、抵抗する。
 公的機関の保安官や警護官が所持するはずの6連発回転拳銃ではなく、3銃身の密造銃だ。ここまでは本物が調達出来なかったらしい。

 ダクトネは呆気に取られる。
 まさかこんなにあっさりと正体を曝け出してくれるとは、なんて簡単な。
 元々これは、誰が迎えに現れたとしても行うと決めたお芝居なのだ。
 本物であれば普通に逮捕されてくれる。どうせ所属組織に人物照会すれば無実が判明するのだから、抵抗するまでもない。

 

「よし動くな、ハキミゥラ・サーメルをこちらに渡せ。少しでも動いたら撃つ」

 

                  ***

 彼は自分がどのような姿勢で拳銃を突きつけていると思ったのか。

 地面の上に腹這いで横たわり、拳銃を握る右手をねじ上げられ、とっくに完全無害化されている。
 英雄探偵マキアリイが、男が態度を豹変させ逆襲に転じる瞬間を見逃すはずが無いだろう。
 あまりの早業で力もほとんど使わずに柔らかく制圧された為に、男は自分が立ったまま、拳銃を構えて脅しているままの認識で、予定されていた言葉を発したわけだ。

 気がつくと、ダクトネ正兵とサーメルを地面に這いつくばって見上げる視界となっている。

「あっまて、なんだ。何が、動けん」

 見ていた女性二人も何をマキアリイがしたか分からなかった。
 男が拳銃を取り上げられ、両手を縛られたのを確認して、改めて対応するべきだと思いついた。

「あ、あのマキアリイさん。逮捕なら私が、手錠も有りますから」
「密造銃の所持も追加だな。ゥアム製の金属薬莢弾を使う奴で、イローエントでは結構出回っている」
「はい。現行犯で逮捕します」

 男の制帽を払って、顔を露わにする。

「サーメルさん、この男に見覚えはありませんか」
「あ、ええ。いえ、見たことの無いヒトです」
「本当に? イローエントでも見なかった」
「はい……、いえ、知りません」

 完全に正体が露見したと見て取って、黒い高級自動車はいきなり発進して逃げてしまった。
 男を救出しようとは考えない。その程度の関係だ。

 騒ぎが起きたのが伝わって、改めて本物の鉄道保安官がおっとり刀でやって来る。今度は40歳代の丸顔で、いい人そうだ。
 逮捕した男の顔を見ても、誰だか知らない。やはり変装に過ぎなかった。

 

 逮捕した男の身柄をどのように処理するか、少し揉めた。
 『ファイファオン 03号』の運行妨害を行ったのはやはり二等乗客の一人で、「コングロア接続駅」で降車した後に失踪している。
 捕らえた男を尋問した結果、カネで雇って列車をここに止めるだけの役目だったと白状する。つまり列車妨害の主犯はこの男だ。

 鉄道保安官はこのまま留置してイローエント警察局に処分を任すべきと主張したが、逮捕したのはあくまでも巡邏軍のダクトネ正兵だ。
 また事件の根本にはノゲ・ベイスラ市で起きた「ハキミゥラ殺人事件」が絡んでおり、重要な関係者であるハキミゥラ・サーメルを移送中であった。
 取り調べるのであればベイスラ中央警察局捜査班がまず行うべきで、ここに男を留置してもすぐに裁判所命令を持って身柄引き取りに来るだろう。
 であれば、このまま運行を再開する『ファイファオン 03号』で送り届けた方が面倒が無い。

 鉄道保安官も乗り込んで男を車掌室に収容し、『ファイファオン 03号』は再出発する。

 サーメルは元の個室でダクトネ正兵に任せて、マキアリイは男の事情聴取に当たる。
 どうせノゲ・ベイスラ市までたっぷり掛かるのだ。暇潰しに丁度よい。
 車掌と鉄道保安官が立ち会い、公式の証人となる。なにせマキアリイの立場はまったくの私人民間人であるからだ。

 

「まず名前から聞こう。「ォウサカ・フェイナ」ってのは偽名だと思うが、あんたはなんと名乗っている?」
「どこまでを知っている」
「サーメルさんが知ってる事だけだ。あんたは「ォウサカ・フェイナ」の何だ、男か」

「俺は、偽名でいいのか、ならば「ォウサカ・ボーロ」という事にしておく。「ォウサカ・フェイナ」の「兄」である時は、こう名乗っている」
「本当はどういう関係だ。仕事だけか」
「いや、どう答えたら。あいつは俺の運命を変えた女だ、と言えばいいのか」
「あいまいだな。少し角度を換えてみるか。

 「ォウサカ・フェイナ」の死体をサーメルさんと誤認させるのに、どうやって家族を言いくるめた。そんなに簡単に医療記録のすり替えなど出来ないはずだ」
「出来るんだそれが。二人は特別な関係だからな」
「二人がそっくりに似ているのは、偶然ではないだろう」
「ああ。俺は前からサーメルを知っていた。だから彼女が資産家のドラ息子と付き合い始めた時に、これは使えると思ってフェイナを呼び出したんだ」
「詐欺で全財産を巻き上げる計画だな。だが何故サーメルさんに注目していた」

 男はここで口籠る。
 逮捕され、既に覚悟を決めているからには何を白状しても構わないのだが、どこまでを話すべきか。
 これが警察局の捜査官や人の良さそうな鉄道保安官相手なら喋るはずも無いのだが、刑事探偵マキアリイはあくまでもハキミゥラ・サーメルの側に立つ職責だ。

「サーメルには話さないでくれるか」
「彼女に知られては困る事か」
「あまり嬉しくは思わないだろう。ひょっとするとこれから先、生きていく希望を失うかもしれん」
「   お前は、サーメルさんにそこまで思い入れが有るのか。「ォウサカ・フェイナ」とは誰なんだ」

「長子双子の養子縁組……」

 

         ***

 ああ! と鉄道保安官が納得の声を上げた。

 これは古い慣習で、初産で双子が生まれた場合片方を他に養子に出すというものだ。
 子どもが生まれたらその家に神様が来て祝福をしてくれるのが、双子を一人と見間違えて一人分の幸福しかくれない、という迷信による。
 もっとも真の意味は、初産で双子の養育となれば母親が大変だし、双子を同じ環境で育てれば同じ病気で同時に死んでしまう事もあったから、環境を変えてどちらかでも生き残らせようとの古くからの知恵だ。
 今は戸籍制度も完備して医療記録も残るはずだが、ネズミ神殿の産婆が取り上げた場合には実子として届けられると聞いている。

「つまり、双子なのか。サーメルさんと「フェイナ」は」
「だから、ハキミゥラの家ではサーメルが妹を殺した、と聞かされて俺の言うとおりに従った。身元を偽るのにも積極的に協力した」
「実際に自分が産んだ子、だからか」
「それだけじゃない。殺人事件の加害者と被害者、どちらの方が世間体が良いか、考えたら分かるだろう」

「お前は、フェイナが養子として貰われていった先の家族、なのか」
「そういう事になる。4つ下だった。「妹」が出来て嬉しかったさ」

 

 マキアリイは、ようやくにサーメルが逃走中も大切に保護されてきた意味が分かった。
 自分の義妹と血を分けた女性が苦難に陥っていれば、手を差し伸べようとするのは自然の感情だ。愛と呼んでもよい。
 しかしそれでは、実際の義妹への愛情はどうなるのか。

「ひょっとすると、サーメルさんはフェイナを殺していないのではないか」

 男は嗤う。

「何故そう思う」
「本当に殺していれば、お前がサーメルさんの世話を焼くのが理解できない。恨みが先に立つのが人情だろ」
「ああそうだろう。だがあいつは悪い女だったからな」

 マキアリイに対して、治安を守る者に対して初めて優位な立場を得たと思ったのか、男は饒舌になる。

「まあサーメルを保護したのはそれがカネになるからだ。
 元々の計画では俺達は、ゴドーロプを結婚詐欺に掛けるつもりだった。実家の方に、悪い女が絡みついているから手切れさせてやろうと、そういう仕掛けだ。
 殺人事件に発展した後は、息子の無罪放免を獲得する切り札としてサーメルの存在をほのめかしてカネを吸い上げるつもりだ。
 だがそれだけじゃない、と言われれば、俺もそう思う」

「死んでいなかったんだろ」
「サーメルは殴り合いの喧嘩なんかしたことも無い女だから、倒れて動かなくなったのにビビったんだ。
 負けて頭を打って気を失ったのを、死んだと誤解した。俺が現場に入った時は、まだ白目を剥いて寝ていたからな。

 フェイナは弱いくせによく突っかかっていくバカ女だったよ」
「やっぱり。

 

 どうする。そこから先は警察局の尋問まで喋るのを取っておくか。あちらさんもお前を締め上げたくてうずうずしているんだ」
「あ〜そうだな。本当は誰が殺したか、そんな事が問題になるんだな。
 いいさ教えてやる。俺だよ、でっかい箪笥を倒して下敷きにした。その時にはもう、サーメルとすり替える算段が頭に浮かんでいたからな」

 殺人の自白に、立ち会う鉄道保安官も車掌も色めき立ちマキアリイを見る。
 だが英雄探偵は微動だにしない。

「現場検証の報告書を読んだ時から思ったさ。あんな重たい箪笥を女の手で動かせるはずがない。ゴドーロプは薬物で酩酊状態にあり、なおさらだ。
 当事者以外の別の人間が裏に隠れているんだろうって」
「そういうことだ。箪笥が倒れる位置を測って、あいつの頭を持っていくのもちゃんと計算した。人相が分かるようでは困るからだ」
「そんなに義妹が憎かったのか」

「ああ憎かった。あいつさえ居なければもっとまともな人生が歩めたはずだと、何度思ったか」

 

         ***

「俺もな、学校に通っていた頃は警察局とか巡邏軍とか、正義の味方になりたいなんて思ったものさ。普通に正義感の強い少年だった。
 そのまま進んでいても成れなかったかもしれないが、順当に暮らしていればそれなりのそこそこの人生を歩めただろう。家は貧乏でも無かったし。

 妹さ。すべて歯車が狂ったのは」

「なにが有った」
「なにもかにも、あいつは大人になったんだよ。中学生になった頃から急に大人びて美人になった。男にちやほやされるように手管を使うようになった」
「ああ、悪いってそういう意味か」
「男遊びで学業も疎かにして、両親からも怒られるあいつを俺はかばった。誰が責めるにしても俺だけは味方になってやろうと、そんな風に思っていたのさ。
 妹だからな。ただ俺は、あいつと俺と血が繋がっていない事実を軽く見過ぎていた。
 あいつは知らない。本当の兄貴だと信じ込んでいて、からかうつもりで俺にまで媚びてきた。

 最初はいなしていたが、その内に俺も本気になって、親の居ない昼の家でつい手を出して抱いてしまった。
 もう後は止まらない。近親相姦で二人共に無茶苦茶で、家を飛び出しカネを稼ぐために様々な悪事に手を染めて、
 気が付いたら俺達は立派に美人局、詐欺師になっていたわけだ。
 だが俺は後悔はしない。あいつに関わってしまったのは運命で、コレ以外に落ち着く先なんか無い。
 未来なんか最初から決まっていた、そう思っていたんだ」

「そこで、サーメルさんを知ったんだな」
「ああ、よく似た女子学校の生徒を見かけて、何者かと探ってみたら双子の片割れのハキミゥラ・サーメルだ。
 俺は愕然としたよ。一卵性の双子であれば性格も一緒だろうと普通考えるが、ぜんぜん違う。
 まるで善と悪の魂が半分ずつ双子に振り分けられたように、サーメルは光の存在だった。
 もし養子に出されたのがサーメルの方だったら、そう考えると俺は得体の知れない衝動に突き動かされて、夜中に叫んでしまったな。
 俺達は良き兄貴と妹で、両親が望むままの正しい人生を歩んで行けて、それぞれに幸せを掴んでいただろう。
 こんな薄汚れた犯罪なんかとまったくに無縁で居られたはずだ」

「幻想だよ、ソレ」
「幻想なんだよな、だがゴドーロプの家で無様に横たわるあいつを見下ろした時、人生を修正できる気がした。
 この女が居なければ、俺が本来歩むはずだった運命が取り戻せる。両親の元にだって、家にだって帰れる。
 そんな声が聴こえる気がしたんだ。

 それにあいつは、ゴドーロプの子を妊娠したとも言いやがった。もうデタラメだ、俺の手にはどうしようもなく余る存在になった」

「検死報告では、「ハキミゥラ・サーメル」は妊娠していなかった。そう書いてある」
「そうなんだ。嘘だったんだ。なんだ馬鹿馬鹿しい……」

 

 そこから先は男は喋らなくなった。事情聴取も終了する。

 既に列車は電化区間に進入して電気動力車が接続され、車外との電話連絡も出来るようになった。
 直接にノゲ・ベイスラ市のマイラガ法衛視に聴取した内容を伝える。
 ただ、今は感傷的になっている男も、強圧的な警察局の取り調べでは素直に供述しないだろう。

 マキアリイが鉄道保安官に後を任せて車掌室を出る時、男は鉄柵が入った窓の外を見ながら呟いた。

「あいつの最後の言葉は、「おにいちゃんたすけて」だったよ……」

 

 予定から3時刻(7時間弱)遅れで、豪華特急列車『ファイファオン 03号』は幹線ベイスラ駅に到着する。
 既に陽は落ち深夜帯へと移っていた。
 警察局の捜査官十名余が停車場に待機しており、黄色く眩い照明の中影のように立っている。
 乗客がすべて下車した後に車内に入ってハキミゥラ・サーメルと、自称「ォウサカ・ボーロ」を連れて降りる。

 サーメルは巡邏軍ダクトネ正兵に付き添われ、出迎えたのは家族だ。
 既にマキアリイからの連絡で故人識別を誤魔化したカラクリが明かされており、それなりの処罰を受けるだろう。
 それでも失ったはずの娘を、孫、姉を取り戻した喜びに代わりは無い。緑の髪を痛々しく思い、優しく撫でる。
 サーメルも涙で詫びるばかりであった。

 「ォウサカ・ボーロ」は捜査官2名に両脇を掴まれて降りてくる。
 ヱメコフ・マキアリイを迎えたマイラガ法衛視は手をしっかりと握って労をねぎらう。
 警察局の一大失態を暴露したマキアリイだが、一日待っている間に事件は解決だ。
 何の苦労も要らないのは、捜査を管理する者として満足すべき状況にある。

「色々気になりますが、詳細に関してはそちらで解明をお願いします。
 あと、私はハキミゥラ・サーメル嬢の契約刑事探偵となっており、取り調べに際しては依頼人の人権保護の為の各種措置を取らせていただきます」
「ああだが、おそらくは処分無しで釈放されるだろう」
「そうなる事を願いますよ」

 引き立てられていく男は、ほんの一瞬ではあるが目の端に映ったサーメルに名残惜しそうな視線を向ける。
 マイラガ法衛視は、結局のところ、と事件を総括する。

「つまりはこの事件、当初の想定通りに「男女間の痴情のもつれ」だったわけだ」
「ええ。余罪の有無は知りませんが、所詮は殺人が1件のみです」
「統計上の些細な1件、に過ぎないか」

 

         ***

 ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所の事務員クワンパは、郵便物の整理をしていてベイスラ中央警察局からの茶封筒の中に妙な書類を発見した。

「なんですこれ。振込通知で1金(10万円相当)ですよ。何か仕事受けました?」
「あー、いやちょっと貸してみな」

 マキアリイ事務所が警察局から請け負う仕事はだいたいが安く、まとまった金額の大物はめったに無い。
 クワンパもその辺りの事情を理解して、すっかり零細経営に対応している。

「ああ分かった! これアレだ、「ハキミゥラ事件」を解決した謝礼だ」
「正式な捜査請負契約もしていないのに、ですか? ずいぶんと気前がいいですね」
「手間を省いてやったからな。それに口止め料も入っているつもりだろ、ペラペラ新聞屋に喋るなよと」
「ああなるほど。それでは遠慮なく受け取っておきましょう!」

 謝礼と言うならば、先日ゴドーロプ・パグミニヲンの両親が事務所を訪れて、マキアリイを神の使いかの如くに崇め奉り、多額の謝礼を置いていきそうになった。
 さすがは資産家、20金である。警察局とは桁が違う。
 だがマキアリイは彼等に礼を言われる立場には無かった。
 あくまでも被告弁護人を務めた法論士ィメンタ・スルグナ・シャニナメンター氏から請け負った調査であり、第一義的には彼の元に御礼に行ってもらわないと困る。
 余録が有るとしても、彼の方からだ。そうでなければ刑事探偵と法論士の正常な関係が保てない。

「あれはー惜しかったですねえ。所長」
「さもしい事は言うなよ」

 クワンパが不満に思うのは、所長がせっかく異国情緒あふれるイローエント港に行ったのに、お土産の一つも無かった点だ。
 仕事であれば仕方ないにしても、なんだか腹が立つ。自分も付いていけば良かった。

「お前、行きたかったのかイローエント」
「そりゃあ、英雄探偵有るところカニ巫女有りです」
「なら連れてってやるさ。今年は何の年か知ってるか」
「はあ、私18歳になるからもう大人です」
「「潜水艦事件」10週年だ。夏には嫌でもイローエントに連れてかれて政府式典に強制参加だよ。お前もだ」
「あ。そいつはお断りしたいな」
「そうだろ。お前の前の前のザイリナなんか、とてつもなく元気なのに政府式典に引き回されて胃をやられてしまったからな」
「うあー。」

 イローエントからの葉書が1枚届いていたのを発見する。差出人は、ダクトネ・オーィン。

「女性ですね、これは」
「巡邏正兵で、ハキミゥラさんをベイスラまで連れ帰った時に付き添ってくれた人だ。なんて書いてる」
「特には、ただの挨拶で。また会いたいと書いてますよこの女たらし」
「夏の政府式典、では、互いに忙しくて会えないな。残念」
「どんなヒトです」
「お前が巡邏軍に入ったみたいな、そんな感じかな」

 

 それから10年の後、ヱメコフ・マキアリイはイローエント市に活動の舞台を移し、外国人犯罪組織や秘密諜報機関と死闘を繰り広げる事となる。
 ダクトネ・オーィンもマキアリイを助け正義の一翼を担い、最終勝利への道を拓く運命だ。

 だが彼も予想しなかっただろう。
 更に数年後、彼女が芸能週刊誌に『わたしは英雄ヱメコフ・マキアリイの一夜妻だった!』との手記を発表し、大騒動を引き起こすとは。

 

 

 (第十二話)

「あ、なんだこれ?」

 ヱメコフ・マキアリイ私立刑事探偵事務所の事務員クワンパは、遂に財務困窮の原因を発見した。
 前回「闇御前」裁判に掛かった諸経費を計算していると、見慣れない領収書が紛れ込んでいる。
 なにかと思ってよく読むと、「アユ・べイスラム湖上飛行訓練協会」の会員更新料を払ったものである。
 なんと1金(10万円相当)も盗られた。

「所長、なんですこれ」
「こないだ水上飛行機使っただろ。アレ借りたとこだよ」
「それは分かりますが、使用賃貸料整備技術料燃料費機体保険料、ここまでは分かります。
 会員更新料という事は、これまでも会員であったという意味ですよね」

「そりゃそうさ。飛び込みの操縦士に気軽に飛行機貸してくれない。操縦技量の検定をして、十分単独飛行を任せられるか判定して、会員登録が許される。
 なにかおかしいか?」
「それ年会費1金ですよね。これまでも1金ですよね」
「ああ。それがどうした?」

「飛行機ってもっとお金掛かりますよね。今回1回首都まで往復しただけで、このくらい掛かってますよね」
「あ゛」

 マキアリイ所長は事務員が何を言わんとするか、気がついた。
 飛行機に関する経費が事務所の帳簿に記載されていない事実を、クワンパは発見したのだ。

「事務所の経費に書いてないとすれば、所長個人の経費として税金申告とかしてますよね」
「うう、それがだ」
「家計簿ですか。ちょっと見せて下さい」

 許可もへったくれもなく窓辺の引き出し、マキアリイ個人の書類他ガラクタが入った所を無遠慮に掻き回す。
 目的の個人帳簿を見つけてさっそく精査を始めると、途端に。

「なんだこれはああああ」
と怒鳴り声を上げる。

 簡単に言うと、月3金、年間で40金が軽く飛行機代として計上されている。
 ちなみにクワンパの給金は週4ティカ(5000円×4)である。クワンパ5人分が飛行機に食われている。
 これではどれだけ経費節減に努めても、無駄であろう。

「説明を要求します!」
「あ、ああ。基本的なところから始めるべきだろうな。

 まず、飛行機操縦免許制度というやつだ。年間飛行時間というものがあり、その時間以上を飛行しなかった場合、免許取り消し再取得になる。
 これが年間37時刻(37×2時間)、つまり週に1回飛べという意味だ。
 で、俺は飛行機を個人で所有していないから、練習の度に借りて練習することとなる。当然機体賃貸料が要るし、燃料費も整備費用も掛かる。事故った時の為に保険料も必要だ。
 これでだいたい1金が飛ぶ。週に1回」

「それは1回飛んだら、ですよね。月に3金掛かるのはそれが原因ですよね。一日に3時刻飛べないんですか」
「そりゃ飛べるんだが、飛行機ってやつは長く飛べばそれだけ機体や発動機に無理が掛かって、重整備というのが必要になる。
 普段の簡単な整備とは大違いで、とんでもなくめんどくさくカネも掛かるもんだ」
「ほんとですかあ〜、嘘っぽいなあ」
「お前なあ、3時刻もまっすぐ飛べば方台を横断してしまうんだぞ。1千里(1000キロメートル)だ。楽なわけ無いだろ」

 クワンパ、飛行機についてはまったく何も知らない。そもそも乗ったことさえ無い。
 技術的な事を言われても、何も感じない。次に進む。

「でもですよ、何故事務所の必要経費に入れないんですコレ。業務に必要だから操縦免許を維持しているんですよね」
「……税務署は、そこを認めてくれない。俺のせいじゃない、世間が国が悪いんだ」
「何故です?」
「私立刑事探偵に飛行機なんて要らない、ってあいつら言いやがるんだ……」

 まったくもって正論である。
 刑事探偵の職務はむしろ、地べたを這いずり細々とした人間関係を調べて廻る商売だ。
 華麗に空中を飛び回って、なんとする。

 クワンパ、無慈悲に言い放つ。

「飛行機操縦免許、捨ててください」
「それが出来れば苦労しないんだあ、要るんだよ」
「ウチのお父さんはそれなりに有力で大きな企業の役職を務める高給取りですが、飛行機道楽をするほどの余裕はありません。
 なんであなたは、」
「だからこの操縦免許は国家財産なんだよ。国のカネで取らされたものだから、維持し続けなくちゃならんのだ」
「またわけの分からんことを」

「だから、国家英雄は空を華麗に飛ばなくちゃいけないと、誰か知らないけど決めたんだ!」

 

           ***  

 話は十年前、「潜水艦事件」に遡る。

 当時タンガラム南部の軍港イローエントで選抜徴兵の軍事教練を受けていた青年、ソグヴィタル・ヒィキタイタンと1年下ヱメコフ・マキアリイは、
 偶然にゥアム帝国外交官令嬢が誘拐される現場を目撃し、実力を以ってこれを阻止粉砕する。
 だが悪の襲撃は留まることを知らず、令嬢を守るために二人は大冒険を繰り広げ、側車付自動二輪車高速艇航空機等の最新兵器を駆使して、
 遂に陰謀を打ち破り、邪悪を葬り去ったのである。

 この時、水上偵察機を操縦したのが美男子ソグヴィタル・ヒィキタイタン。
 財閥の御曹司として生まれた彼は、入営前に私的に飛行免許を取得しており、軍用機といえども簡単に操縦し得たのである。
 天駆ける若き英雄の姿はタンガラム全国民の憧れとなる。
 祝賀式典の際には海軍航空隊と共に翔び、空に麗々しく白煙にて文字を書いて見せたのだ。

 一方マキアリイは主に格闘面にて活躍しており、泥臭い地上でむさ苦しい猛者共と力比べをさせられている。
 世間の人気がどちらに傾くか、言わずとも知れよう。

 だがヒィキタイタンは1年足らずで選抜徴兵の残りの期間を終え、軍・政府の広報活動から離脱してしまう。
 首都の有名なお金持ち大学に入学して、華麗なる学生生活を送るのだ。
 困ったのは政府広報局。誰がどう見たって、空飛ぶヒィキタイタンの方が広報活動において訴求力が有るに決まっている。
 引退してしまうとなれば、後釜を作らねばなるまい。

 というわけで、マキアリイはイローエント海軍にて急遽航空機操縦訓練課程に放り込まれた。

 普通、タンガラム民衆協和国の選抜徴兵制度においては、自動車運転免許はなんとか取らされる。
 というよりは、タンガラム民間社会に機械や電気機器を自在に扱える軍隊経験者を増やすのが、制度の目的である。
 今や軍隊も機械力の時代であり、筋肉バカばかりを増やしても勝てないと軍上層部も理解する。
 故に優秀な人材を選抜して、除隊後の各種特典までも付けて、軍に2年間送り込んでいるわけだ。

 だが飛行機は別だ。操縦士の適性資質が厳密に要求される。
 志願兵で長期間軍に在籍する事が約束され、難しい試験に合格する優秀な知能を持ち、肉体的にも頑健な者でなければ、投資に見合わない。
 ヱメコフ・マキアリイの操縦士訓練は異例中の異例であった。

 幸いにしてマキアリイは頭脳明晰にして身体も殊の外剛く、運動神経にも優れ、瞬く間に飛行機操縦を習得してくれた。
 政府広報局は安堵し、改めて「潜水艦事件」の国家英雄を空に飛ばす計画を推し進めるのであった。

 

「そこんところは私も知っています。政府式典でよく飛んでましたね」
「今でもお声が掛かれば飛ばなくちゃいけない。それも結構な曲乗りをさせられる」
「理解しますが、それならば業務に関連すると税務署は見做すべきではありませんか?」
「国家英雄、という職業はタンガラムには存在しない、のだそうだ」

 これまた正論。英雄なんて業として行うものではない。
 故に必要経費も発生しない。いわば個人の趣味の範疇であろう。

「なんとかならないんですか」
「公務員の時はなー、警察局に居た時分はまったく問題なかったんだ。政府所有の飛行機を乗り回して、燃料費も整備費も政府のカネで」
「警察局辞めて私立探偵になったから、公金を支出出来ないという事ですか」
「法的にな、そんなカネを出す理由が無いんだよ。無いよなそりゃ」
「はあ。」

 致し方ない。
 マキアリイ所長にいくら掛け合っても、この問題が解決しない事を理解する。
 であれば、

「なにをするんだ」
「手紙を書きます。わたくしことヱメコフ・マキアリイは一身上の都合により国家英雄としての責務を果たすことが出来なくなりました故に、以後式典等において飛行機操縦を行わない事を通告いたします。
 えーと、総統府でいいですかね宛先」
「あー、総統府政府広報局国民広報課潜水艦事件国家英雄係、もしくは総統府儀典局だな」
「そんな部署が有るんですか」
「広報局内部でも色々あるんだが、飛行機で飛べと行ってくるのは総統閣下お声掛かりの時だから、儀典局だな」

 あきれてしまいますね、とクワンパも嘆息する。縦割り行政は何にでも絡んでくるものだ。
 マキアリイは補足説明をした。

「広報局はな、結構煩いんだよ。或る意味では巡邏軍警察局よりも俺に口出ししてくる。
 おまえも見たこと無いだろ。

 ”あの英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ氏が愛用の礼服” だとか、”夜の豪傑マキアリイ愛飲の酒”だとか、”マキアリイ氏はゲルタが大好き”広告とか」

「はあ。無いですね、なんでですか、と問うも愚かな、」
「広報局が禁じてるんだよ。
 国家英雄で商売してもらっては困るんだとさ。俺民間人なのに」

 なるほど、これは是非とも一筆啓上せねばなるまい。

 

           ***  

 結局のところ文面を多少変更して、飛行機関連経費を必要経費として認めてくれるように税務署に口を利いてくれ、と頼む事になった。

 ついこの間も「闇御前」裁判で飛行機を使ったし、世間の皆様はマキアリイがカッコよく空を飛ぶのを期待するだろう。
 子どもの夢を裏切るわけにはいかない、と主張されればカニ巫女も折れるしか無い。

 憂さ晴らしに街に出て悪を狩るカニ巫女本来業務を行っていると、この間の幼女に遭遇する。
 今日はぬいぐるみを抱いていた。

「カニのおねえちゃん」
「トトリーちゃん、今日はネコと遊ばないの」
「黒ピッ太、また居なくなっちゃった」

 またか。あいつは誰にでも媚を売るから、色んな所に連れて行かれる。

「わかったよ。居たら連れ戻してくるね」
「おねがいだよ」

 2、3歩歩いて踵を返し、幼女が抱えるぬいぐるみを引ったくる。やはり思った通り。

「これ、マキアリイ所長だね」
「えいゆうたんていだよお母さんがつくってくれたの」

 丁寧に返してやるのだが、心中クワンパは穏やかではなかった。
 なぜ正義の為に働く所長が、あんな変な顔をしているのか。さらに、なぜ口にゲルタを咥えているのか。
 他に個人の特徴となる印は無かったのか。

 飛行機で空を飛び庶人に印象づける行為は、案外と必要なのかもしれない。

 

 おおむね勘は当たるもので、特にそんなバカなと考えるものほど正鵠を射ているものだ。
 黒ぴったんは思ったとおりの場所に、思った通りの人間と共に居た。

「またか!」

 懲りない少年の襟首を捕まえる。黒ぴったんは彼の学生布鞄から首を出している。
 どうもこいつは楽して行ける遠足気分で、ゴキゲンにどこにでも連れて行かれてるようだ。

「まだ陽の高い内から学校を抜け出してくるとは、ほんとに勘当されなくちゃ気が済まないようだな」
「ちがうー、今日は試験で半日下校なんだー信じてくれ」

 クワンパ、今日はぶん殴らないように注意しているから、カニ巫女棒が却って邪魔になって身動きが不自由になる。
 一方カロアル・バイジャン君は棒が怖くて暴れるから、逆に棒が振り回された。
 綺麗な庭を囲む背の高い鉄柵にぶつかって、景気良く音を立て、人を呼びつける事となる。
 園丁の男性が柵の傍に来て、不審者を確認する。

「あんたらは何だ」
「あ、お構いなく。ただの通りすがりのカニ巫女です」
「あ、どうも学生です。ぜんぜん関係ないですから」
「いやいや、関係無いヒトががんがん柵を殴らないでくれ迷惑だ」

 柵の近くにネコも来た。なにか面白い事が起こったと思ったのだろう。
 小さい小猫ではなく、1杖半(1メートル)もある真っ白な無尾猫だ。柵の中から鼻をふんふんと鳴らす。
 無尾猫はすべて白で素人には個体の見分けが付かないのだが、この間クワンパを助けてくれた奴ではないだろうか。

「おい、バイジャン君よ」
「は、はい」
「お嬢様はネコがお好き、という情報は、ちょっと曲がって伝わってないか?」

 バイジャンも学校鞄の中から覗く黒ぴったんの頭を、思わず知らずに撫でている。
 どうも、ネコ違いだった可能性が、

 鉄柵の向こうには無尾猫が、1頭2頭、5頭、8頭、どんどん増える。
 園丁の周りに真っ白に雪が降り積もったように、無尾猫の群れが出現した。

 

           ***

 ノゲ・ベイスラ市は水運に恵まれた土地だ。
 ベイスラ山地に降った雨が集まって幾つもの川となり、ここで集合して一本の河となり、アユ・サユル湖に流れ込む。

 川を利用してベイスラ山地の産物を集積し、アユ・サユル湖を通って首都ルルント・タンガラムや工業都市ヌケミンドル市、さらに大運河を通って毒地方面に供給している。
 今から1100年ほど昔の毒地開発期には木材を大量に供給して、史上空前の大繁栄を遂げたと伝わる。
 おかげでベイスラ山地は禿山になり、雨水が直接に川に流れ込んで洪水が頻発し大被害をもたらしたのは、中学校の歴史の授業で必ず教えられる事。

 現在も木材運送に河川は普通に利用されているのだが、木材集積池の幾つかは用途廃止で公園になっていた。
 大きな池の畔には美しく樹木が植えられ、人々の憩いの場として利用される。

 「北ホトトク水鳥公園」もその一つ。
 1周2里(キロメートル)の池は水鳥が多く繁殖して、しかも人を怖がらずに近付いてくる公園として知られている。
 もちろん街中での狩猟は禁止されており、捕獲して個人で飼ったり売買も禁じられる。卵も盗ってはいけない。
 ちゃんと番人が居て、鳥の保護に努めていた。

 

 人妻メテヲン・モガナ・ワィグールもよくここに散歩に来る。
 25歳、結婚して4年になる。子どもはまだ無い。おそらくは望めないだろう。

 彼女は軍人の家に生まれた。ワィグール家は3代前から軍人をなりわいとする。
 父親はタンガラム陸軍に属し、最終的には掌令輔で退役した。長年を下士官として部隊を支える。(掌令輔;准士官)
 士官教育は受けられなかったが、これは仕方がない。元々が特別に優秀な若者のみを受け入れる狭き門なのだ。
 それに軍隊を実質的に支えるのは下士官階級だ。一兵卒から始めて定年で退役するまで第一線で働けた事を誇りに思う。
 現在は軍に関係する民間警備会社の主任として迎えられている。

 息子は2人、長男は民間企業に、次男は軍人となった。そして末子で長女のモガナ。
 非常に美しい少女で、陸軍の式典に花を添える為ずいぶんと駆り出されたものだ。
 しかし身体が弱く病気がちで学校を休む事も度々であった。佳人薄命とはよく言ったもので、ますます透明な美しさに磨きが掛かる。
 交際や求婚を幾度も申し込まれるが、これではまともな結婚生活も出来ないだろうと人並みの人生は諦める。

 そこに、運命の人が現れた。
 次兄は最初海軍であったが、志願して海外派遣軍に転属する。父の時代とは異なり、現在は昇進の為には国家への貢献として志願任務を重なる必要がある。
 過酷な状況にあると伝わる派遣軍に身を投じた兄の無事を願う毎日であったが、1回目は無事生還した。
 この時戦地で知り合った上官、がその人である。

 イローエント港に兄を迎えに行ったモガナが紹介されたのは、同じ部隊で水上戦闘機乗りのメテヲン・ゥェケタ掌令輔だ。
 彼は出世には興味が無いとは言うが、能力を買われて特に派遣軍に配置された腕利きの操縦士で戦場でも十分な働きを示した。
 戦功を認められ特別に昇進して、今回の帰還となる。
 兄は乗っていた哨戒小艇が転覆して海上を漂流していたところを、捜索に出た彼の飛行機に発見されたらしい。
 命の恩人だと紹介された時、モガナは「自分はこの人と結婚する運命にあるのだな」と感じた。

 その直感に誤りは無く、数日を経ずしてメテヲンはワィグール家に訪ねてくる。
 父母はモガナの身体虚弱を理由に再考を促したが、彼は是非にと自分を望む。
 モガナも、「派遣軍の兵士、特に激しい任務の戦闘機乗りは一度出港したら二度と戻らないのも珍しくない」と諭されたが決心する。
 再度の派遣任務の3日前に、二人は結婚した。

 結婚して初めて知ったのだが、メテヲンはとある財閥家系の子息であった。
 妾腹の生まれで家業を継承などは無いのだが、それでも結構な資産家である。軍人になったのも父の家からの支援に頼らずに済むようにだ。
 夫の留守の間は、ヌケミンドル市の外れに有る義母の家で共に暮らした。
 不自由など無かったが、夫の無事をただ祈るだけの毎日は毒となり、身体に堪える。
 心臓を悪くして入退院を繰り返した。

 夫は何度も戻り、また出港を繰り返す。これが4年続いた。
 だが今度は戦傷を受けて帰ってきた。戦闘機操縦士にとって命とも言うべき左の眼を傷つけたのだ。
 胸が締め付けられる想いだが、同時に安堵もする。これでもう外国に行かなくて済む。
 夫は派遣軍からアユ・サユル湖上水軍へと異動になり、戦闘機部隊の訓練隊長になるという。
 ベイスラの水上航空隊へ着任し、新たな任務に取り組んでいる。

 ノゲ・ベイスラ市に家を借り、夫と二人きりで暮らす事となった。
 もはや心配の必要も無く、穏やかに一緒に生きていけるだろう。

 

(哨戒小艇は、帆走を主とする内燃動力と通信機を備えた小型艇で、10日程度の単独哨戒任務を行う。武装は歩兵携行兵器以外ほぼ無い)

 

           ***  

「ああ、モガナさん。今日もおいでになっていましたか」
「あ、先生こんにちは。今日は天気が良くてとても体調がいいのです」

 やはり公園に憩いに来た老紳士がモガナに挨拶をする。ローヴァオという元医師だ。
 医者は生涯現役を貫く者も多いが、彼には立派な後継ぎの息子が居て、個人医院のすべてを任せる為に楽隠居を決め込んでいる。
 公園を一周する散歩を日課として、新参のモガナともすぐに親しくなった。

「先週までは市内全域が騒がしくて、ようやく静かになりましたね」
「そうだね、「闇御前」裁判でしたか、アレは大変な騒ぎだった」
「英雄探偵のヱメコフ・マキアリイさんがこの市を活動拠点にしているから、あんな騒ぎがいつも起こるのですか」
「うーん、彼は頑張っているねえ」

 頭が青色と緑の水鳥が互いにクチバシで睦み合っている。
 まもなく雨季に入り、川も池も増水する。鳥達の営みも活発化する季節だ。
 何時迄もこのままで過ごしていたい、心地よい昼下がりの風の中に、

 

 キン、と鉄が交わる音がした。

 何人かが周囲に居たが、皆音のする方向を振り向いて探す。
 キンキンと何度も音は繰り返す。
 不穏な騒動を予感して、誰もが身構えた。近くに浮いていた水鳥も飛び上がる。

 藪を貫いて、背の高い男が飛び出した。右手には木の棒を握る。
 彼を追って4人の不審者が走り出る。
 不審者、全身頭までを赤い衣で包み、赤黒い醜悪な仮面を被った者を他にどう表現すべきだろう。
 彼等は全員が細長い刀を握り、背に鞘を負っている。

 アレは「トカゲ刀」と呼ばれるものだ。
 創始歴5000年頃から使われるようになった鋭利流麗な弯刀で、トカゲ神救世主「ヤヤチャ」が用いたとされる。
 青晶蜥王国時代には、この刀を帯びる事が高い身分の証となったという。

 恐るべき斬れ味を活かすには使い手にも抜群の技量を必要とされ、実際振り回す赤服の不審者達は優れた体術を身に付けている。
 4人に囲まれた男は棒を振り回して防御に徹するが、彼も大層な武術の達人なのだろう。
 必殺の刃を難なくかわし、疾風の如き連撃を笑みを浮かべながらも軽く弾いていく。

 4人は男を仕留めんとする刺客なのか。

 ローヴァオ医師はやっと、男の素性を思い出した。

「あれは! ヱメコフ・マキアリイ君ではないだろうか」
「英雄探偵の? では悪漢に命を狙われて、」

 

           ***  

 数々の難事件怪事件を解決し国家英雄として持て囃されるヱメコフ・マキアリイは、天下無双の武術家としても知らぬ者が無い。
 とはいえ彼が実際に格闘を行う姿を見た者は少なく、映画等の俳優の演技で知るばかりだ。
 なるほど、これは強い。

 だが得物が木の棒、どうやらシュユパンの球技で使う棍棒だったようだが、そう長くは保たない。
 無数に斬り付けられ、刻まれ、ついに折れてしまう。
 危うしマキアリイ。
 さすがにこれでは勝てないと、逆襲に出る。
 4人の襲撃者の中から一番背の低い者を選び、素手で挑みトカゲ刀を奪い取る。

 形勢は一気に逆転した。素手でも強いマキアリイが一閃両断の刃を手にするのだ。
 襲撃者達も怯み、風車のように振り回すのを止め慎重に出方を窺う。
 3対1でも劣勢に見えた。

 武器を奪われた者は懐より何かを取り出し、これを用いて英雄に挑む。
 刃物には見えない、短い筒だ。武器というよりも、爆弾?
 しかも投げつけるのではなく、自ら抱きついての自爆攻撃か。
 他の3人は支援する形で手数を増やし、自分達に注意を向ける。
 さすがにまずいと見て取ったマキアリイは、俄然攻勢。瞬く間に2人を打ち据えた。

「ほお、あれは峰打ちですな」

 ローヴァオ医師の解説に、剣劇に疎いモガナは尋ねる。

「みねうちとは、なんでしょう」
「刀の、刃の付いていない部分で敵を打ち倒し殺さぬようにする技です。実際の命のやり取りの最中ではよほどの達人でも使いかねると聞くが、流石だ」
「殺さずに逮捕するということでしょうか」
「ああ。英雄探偵マキアリイ、その名声に恥じぬ見事な覚悟、冷静さ。そして技のキレ」

 もう一人を刀の柄で打ち倒すが、ついに自爆攻撃を目論む敵が身体に取り付いた。
 マキアリイ、刀を捨てて揉み合いになる。おそらくは既に導火線に火が点いている。
 鉄拳が炸裂し、醜悪な仮面が割れ飛んだ。下から現れたのは、遠目にも白い女の顔。
 か弱い女の身でありながらアレだけの剣技を用いるとは、いかばかりの苛烈な修行を積んだのか。
 だが才能には勝てない。

 傍から見ていても握り拳に汗をかく。急いで、早くやっつけて。

 マキアリイ、女刺客から筒状の爆弾をもぎ取り、池に投げる。しかし一瞬遅かったか。
 手から離れた直後に筒は大爆発を起こし、焔が赤く煌めいた。四散する破片が人の肉を抉り命を絶つ。
 だが彼は、その大きな背中で自らを殺さんとする女を庇い、無数の破片を敢えて受ける。

 草むらに突っ伏したままの二人。
 やがて女は男の下から這い出し、だが放心状態にある。結果としては彼女は目的を完遂したのだろうが、これは勝利と呼べるのか。
 ヱメコフ・マキアリイにまだ命は有るらしい。
 女は地面に転がるトカゲ刀を拾い、留めを刺さんと試みるが、停まる。刀を投げ出した。

 灰色の衣のネズミの面を被る者が何処からか10名以上現れ、二人を囲む。
 女に代わり暗殺を成し遂げんとするが、これを許さない。4人の赤服は上位の階級で命令は絶対なのだ。
 灰色のネズミは倒れた3名を回収して、風のように去っていく。
 赤服の女も、ネズミに支えられながらその場を後にした。

 その身は悪に堕ちるとも、尊厳誇りを失う事は無い。命を助けられた恩を顧みぬ外道にはなれぬ。
 ヱメコフ・マキアリイはまた、人としても勝利した。

 

「ふう、……」
「あ、モガナさんしっかりしなさい」

 一連の血闘劇が終幕を迎え、安堵した瞬間にモガナは体調の急変を覚え、倒れてしまう。
 衝撃の光景に我を忘れて没頭し見入っていたのだ。緊張だけでも心臓の悪い者には毒となる。

 ローヴァオは元医師の務めとして紳士として、モガナを抱き起こす。
 医師の心得にわずかばかりの診療器具を携えてはいたが、とにかく野外のこの場では処置に困る。
 周囲の人に呼び掛けるにも、暗殺騒ぎを巡邏軍に通報する為に既に駆け出して電話に向かい、手助けしてくれる者が居ない。
 誰か、と老人は叫んだ。誰かこの人を運んでくれないか。

「……私で良ければお手伝いいたしますよ」

 頭からどくどくと流血しながらも、背の高い男が2人の前に立っていた。
 英雄探偵マキアリイ、あの位ではくたばりはしない。たとえ衣服はずたぼろに裂けていようとも。

 地獄の幽鬼が舞い戻ったかの凄惨な姿を、未だ意識を残していたモガナは真正面から見てしまう。
 気絶した。

「あ、これはいけない。どこか四阿にでも運ばねば」
「き、キミ、君。君も来なさい、その姿では、とにかく治療が必要だ!」

 

           ***

 妻が倒れたと聞いてメテヲン・ゥェケタ掌令正は急いで自宅に戻って来た。
 着任早々で未だ実質的な業務も無く割と自由が利くのだ。

 彼は27歳。
 元は海軍航空隊の水上戦闘機乗りであったが、海外派遣軍に所属して6年間の長きに渡り活動してきた
 出征、と呼ぶべきであろうが公式にはタンガラム民衆協和国はどこの国とも戦争をしていないのであるから、単なる調査航海として認識される。

 水上戦闘機を駆り空中戦闘を行う事百度。
 一度も撃墜される事は無かったが、戦傷を受け左目の視力が極端に減衰した為に除隊。再び海軍アユ・サユル湖上水軍航空隊へと転属し、戦技訓練隊長を命じられた。
 それ故に左目には眼帯をしている。

 (注;掌令正は歩兵戦闘を指揮しない士官で中尉に相当する。佐官というものが無いタンガラムにおいては、大尉並と見ても良い)

 

 玄関を開けると年配の家政婦が出迎えた。
 実母には要らないと言ったのだが、なにせ夫の自分より妻と長く暮らしてきたヒトだ。二人暮らしでのモガナの負担を心配してわざわざ人を頼んでくれたから、断れなかった。
 家靴に履き替え革鞄を渡すと彼女は、「医師の先生がお出でになってらっしゃいます」と告げた。
 そこまで体調が悪いのかと気を引き締めて奥に向かう。
 応接間の戸口に見慣れぬ老紳士が立っていた。モガナが掛かり付けのの医師ではない。

「ああご主人でいらっしゃいますな。儂はローヴァオという元医者です。奥様が公園で急に胸押さえられて動けなくなったので、老骨ながらも診させていただきました」
「それは有難うございます。それで、家内は」
「ああ。既に体調も安定してお休みになっておられます。あんなものを観てしまったからには当然と言えますがな」

 何を見たのだろう。よほど衝撃的な人身事故でも起きて、感情が乱れて心臓の調子を悪くしたのか。
 ローヴァオ医師は心配はしなくてよい、と色めき立つ軍人を片手で抑えた。

「いやむしろ目の保養と呼ぶべき素晴らしい光景であったが、ご婦人にとってはいささか刺激が強過ぎたと。儂としては血が沸き立って10歳ばかり若返る心持ちがしたくらいですな」

 驚かれますな、と応接間の扉を開いたので、メテヲンは警戒しながらも前に進む。
 木乃伊男がそこに居た。

 思わず右の腰に手をやり拳銃を探すが、ここは戦地ではなく敵襲の危険の無い土地だ。軍服を着ていても武器は携帯していない。
 木乃伊男はふらりと立ち上がり、随分と丈が高い、頭を下げる。

「これはご主人ですか、お邪魔しております。私も多少の怪我を負っておりまして、ローヴァオ先生に手当して頂きました。場所を借りて申し訳ございません」
「あ、あ……。」

「驚かれたかな。この方はかの有名な刑事探偵のヱメコフ・マキアリイさんですぞ」
「その名は確か冒険映画の、国内状況の報道映画でも度々聞いた、国家英雄と呼ばれる?」
「あーたぶん、そのヱメコフ・マキアリイです。お初にお目に掛かります」

 この屋の主人に立ち話もなんだから、と3人共に席に着いて語る事となる。応接間に客を迎えたのは引越し後初めてだ。
 まずは木乃伊男から。

「改めて、私は私立刑事探偵のヱメコフ・マキアリイと申します。この度は治療の場をお借りする事となりましてまことにありがとうございます」
「自分は海軍アユ・サユル湖上水軍航空隊ベイスラ支隊空中戦技訓練隊長のメテヲン・ゥェケタ掌令正であります。以後お見知り置きを」
「ほお、水上戦闘機の操縦士でしたか。それではその眼は、やはり戦闘での、」
「はい。海外派遣軍に6年在籍しました。
 それで、その怪我は一体どうしたのですか」
「あーちょっと立て込みまして」

「その件に関しては儂から説明した方がよろしかろう。ヱメコフさんの口からではどうしても自慢話になってしまいますからな」

 

           *** 

 家政婦が熱いチフ茶を淹れて来てくれたので、しばし喫して再開。
 ローヴァオ医師が水鳥公園で目撃した全てを語り始める。

 

「簡単に申しますとヱメコフさんは刺客に襲われたのです」
「刺客?」
「全身を赤の衣で包み顔には醜悪な仮面を被り、鋭利なトカゲ刀で武装した4名の正体不明の人物です。いやあ凄まじい剣技の遣い手でしたわい」
「刀で切り刻まれて? 全身を」
「いやいや、それは難無く切り抜けられたのですな。最初は木の棍棒で刃を防いでおられたが、」

「あ、アレはシュユパンの振り棒です」
「おおやはり!」

 英雄マキアリイが球技「シュユパン」の優れた選手である事は、タンガラム国民皆が知るところ。
 本当はシュユパンの祖である殺人格闘球技「ヤキュ」の達人であるのだが、玄人以外は気にしない。
 とにかく球を棒で打って革手袋で取る競技である。

「トカゲ刀の斬れ味は凄まじく、ヱメコフさんの振り棒が段々と傷ついて切り折られてしまったのです。
 そこで逆襲に出て、一番背の低い刺客から刀を奪い取った。しかし相手を傷つける事無く無傷で捕らえる為に、峰打ちを用いましてな」
「ほお、無傷で逮捕するのですか。自身が暗殺の襲撃を受けていながら」

「刑事探偵は逮捕権も無ければ殺傷の許可も国から与えられていませんから、正当防衛の現行犯逮捕でないと困るのです。やっぱり死んでしまうと裁判とか厄介で商売上がったりになるもんで仕方なく」
「いやいやまったくもって謙遜が過ぎますぞ。人命の尊重こそまったき正義の理想の在り方。感服いたしました。
 そこで次から次にと刺客を倒していくのですが、刀を取られた者が、この者は仮面が割れて女であったことが分かりましたが、懐より爆裂弾を取り出してヱメコフさん共々に自ら爆死しようと試みまする」

「その爆発に巻き込まれたわけですか」
「いやいや、いやいやいやそこでヱメコフさんは、」
「ああもう先生、私の事はマキアリイとお呼び下さい」
「それでは失礼して。マキアリイ君は女の刺客が自ら爆死しようとするのを見極め、その爆裂弾をむりやりに取り上げ池に投げ捨てて無事を得た。
 が、ほんの一瞬遅く、投げた空中で爆裂し破片が飛散するのをマキアリイ君は自らの背でかばい、女刺客をも救ったのですな」

「それはまたどうしてそんな真似を」
「あー、そこはー、身体が勝手にと言わざるを得ず。バカですね」
「ええ、まあ。愚かとしか言いようのない行為です。戦場から帰った身としては」
「そこが英雄探偵と呼ばれる所以であるのですな。その身魂に染み付いた正義の心が悪をもすら救わんと、思考を超えて動いておるのでしょう」
「いやそんな大げさな」

「それでですな、救われた女刺客もいたく心を打たれたようで、傷ついたマキアリイ君に留めを刺す事も可能ではあったのですが、剣を納めてその場を逃げていったわけです。

 いやあこの一部始終を見せられては老体にも血が滾る心持ちでして、奥方のモガナさんも思わず食い入るように見るしか無かったわけです」
「はあ。それはさすがに、心臓に悪い光景です」
「ああうむ。モガナさんが心臓が悪いことは聞いておったのだから、儂がもう少し配慮しておくべきでしたな。すみませぬ」
「いえ、御手を上げて下さい」

 

 大体の事情は理解したが、メテヲンは現在のタンガラム社会の状況には疎い。
 首都やヌケミンドル市に比べれば静かと聞くノゲ・ベイスラ市が、これほどまでに闘争と犯罪に満ちているのであれば、モガナをやはり母の元に戻すべきではないか。
 マキアリイに質問する。

「それで、その4人の刺客の心当たりについては無いのですか」
「ぅあ〜、うん。心当たりと言われてもですね、各方面色々と恨みを買っていますからねえ」

「マキアリイ君、これはやはり直近の、「闇御前裁判」の報復ではないだろうかね」
「その可能性が現在一番高いですかねえ。刺客の筋は伝統武術で由緒正しい暗殺集団忍者っぽいものでしたから、少し線が外れるんですがね」
「おう、うむなるほど。たしかに「闇御前」は現在の政治状況に基盤を置く者で、そのような深い因縁とは異なりますかな?」

 木乃伊男と老人が共に腕を組んで考える光景に、メテヲンは不思議を感じる。

 血腥い話であるのに、その被害者とも呼ぶべき男がこれほどまでに呑気に平和に考え事をしているのは、実に変だ。
 これが戦争の無い世界と呼ぶものだろうか。
 派遣軍に長く居過ぎて、世の中から自分はずれてしまったのではないだろうか。

 少なくとも、夢にまで見た日常は平穏ではないらしい。

 

           ***  

 あんまり自分の事を褒められるのも恥ずかしいので、マキアリイは話題を替える事とする。

 メテヲン掌令正は海外派遣軍の戦闘機操縦士として数々の実戦を潜り抜けてきたと言う。
 戦傷を受けたとはいえ、「掌令正」の位を持つ操縦士はそうは居ない。よほどの戦果を挙げたに違いなく、歴戦の勇士にして空の英雄であろう。
 同じ飛行機乗りとして、興味が沸く。

「その左の眼の傷はやはり空中戦闘においてのものでしょうか。一体どこの軍隊と」
「そこは軍機でお教え出来ませんが、敵機と正面切ってすれ違った時に、機関銃弾を受け損いました。
 銃弾そのものは身体には当たりませんが、割れた風防の有機ガラスの破片が眼に飛び込み、今もまだ入ったままなのです」
「おお!」
「ガラスが眼に入っても即失明となるばかりではないそうで、実は視力が無くもない。眼の中で複雑な屈折をして光が煌めき乱反射するので、眼帯で塞いでいます」

 ローヴァオは医師の立場から尋ねる。手術で破片は取り出せないのか。

「取ろうと思えば取れるのですが、その場合確実に失明すると聞いています。まるっきり見えないよりは、朧気にでも見える方がマシなのでやめました」
「なるほどそれが賢明かもしれませんな」

「ヱメコフさんは、飛行機に興味がお有りですか」
「これでも私は操縦士免許を持っていましてね。イローエント海軍で無理やり取らされたのです」
「それでは航空隊に志願入隊された」
「いえ、選抜徴兵の時に」
「おかしいな。選抜徴兵の訓練兵は、航空機操縦課程には入れないはずだ」
「それが筋なんですが、ソグヴィタル・ヒィキタイタンが一足早くに徴兵終了で除隊して政府宣伝の為に飛ばなくなったから、仕方なしに無理やりです」
「ああそのような経緯で。
 あ、いやそれは覚えがあるぞ。「潜水艦事件」の後ですね、まだ私が軍隊に入る前だ。

 そうだ、ソグヴィタル・ヒィキタイタンと言えば、あの人ではないか」

 

 まるで知っているかにメテヲンがヒィキタイタンを語るので、マキアリイもローヴァオも驚いた。ひょっとすると知り合いなのか。

「ああすいません、こちらの事でつい思い出してしまいました。

 私は軍隊に入る前に、父親と将来について揉めましてね。どうしても飛行機操縦士に成りたかったので、民間の飛行訓練場に整備員見習いとして紛れ込みました。
 ヒィキタイタンさんはそこで操縦訓練をしていて、見掛ける事も多かったのです。
 歳も、あの人もまだ少年の若さでしたから少年整備員の私とも話をしました。まあ随分なお金持ちだと思ったものです。

 その後、何を考えたのかあの人は選抜徴兵に応募して、いきなり国家英雄ですよ。飛行場で皆で噂したものです。
 私が軍隊に入ろうと思ったのも、あの「潜水艦事件」が契機となったと言えるかもしれません。
 それで、今彼は何をしているのですか?」

 さすがに何年も海外で過ごして、本国の事情には疎い。ローヴァオが説明する。

「ソグヴィタル・ヒィキタイタン氏はご健勝で、国会議員となり若手政治家として今も精力的に活動中ですな。マキアリイ君と同じく、タンガラムの未来を創る若き改革者として人気者です」
「ああ! 彼らしいな」

 

           ***  

 目を覚ましたモガナは、家がなんとなしに賑やかな華やかな感じを覚えた。この家に引っ越して以来初めてだ。
 結婚して以来、かもしれない。

 まだ実家に居た頃は、父母や兄達が様々に友人を連れて来て、何かと口実を設けて騒いでいた。
 モガナもその度駆り出され花を添える役をやらされる、少々騒がしい家であった。
 結婚した後は、国外に派遣される夫の留守を義母と共に守る日々である。裕福ではあっても客の訪れない家だった。

 心機一転、また別の異なる音のする家を二人で作ろうと考えていたのだが、早くもそれは成ったらしい。

 寝台で身を起こして窓を見ると、どうやら既に夕暮れになっているようだ。
 夫が既に戻っているのであれば、と改めて身支度を整えて廊下に出る。
 まだモーアカさんが残っていてくれた。家政婦の彼女は本来ならもう帰宅している時間のはず。
 賑やかな雰囲気に包まれて、彼女も楽しそうだ。両手で色紙を握っている。

「旦那さまがお戻りになられたの?」
「あ、奥様。もうおかげんはよろしいのですか」
「ええすっかり。それよりこれはどうしたの」
「ああ奥様、ほんとうに大変な御方と知り合いになってしまわれましたね。今旦那様とお医者様とご歓談なさっておられますよ」
「ひょっとして、ヱメコフ・マキアリイ様がいらしているの」
「はい! わたくしなどにも気さくに、ほらこの通りに孫にお印(署名)をいただきました」

 聞けば、おもてなしは彼女がすっかり整えてくれている。酒と肴も出して、夫のメテヲン・ゥェケタと楽しく喋っているそうだ。
 まあ珍しい、とモガナは目を丸くした。

 夫ゥェケタは、人付き合いが悪いわけではないが、さりとて積極的に交友を求める性格ではない。
 人に嫌われる質ではないので、向こうから寄ってくれるのを待つ方だ。モガナの兄がそうだった。
 よっぽどウマが合うのだろう。だが不思議ではない。
 海外派遣軍で何年も戦い続けてきた夫は、自身まぎれもなく英雄であるのだ。モガナはそう思う。
 英雄同士、通じるものがあったのだろう。

 応接間の扉を開くと、さすがに仰天した。木乃伊男が、……まあ昼間の血塗れの姿に比べると。
 夫が振り返る。顔を笑みの形に留めたままに。
 心配される顔で毎日帰って来られるのはあまり愉快なものではないから、今日は嬉しい。

「あ、モガナ。もう大丈夫なのか」
「お帰りなさいませ。あなた、こちらの方々は体調を崩した私を手当してくれた、」
「分かっているよ。倒れたお前をマキアリイさんが担いでくれて、ローヴァオ先生が診てくださったんだね」

 恩人二人の方に向き直り、深く頭を垂れる。

「改めて御礼申し上げます。メテヲン・ゥェケタの妻モガナでございます」
「あ、これはご丁寧に。私立刑事探偵のヱメコフ・マキアリイです。こちらで先生に私も手当して頂きました。まことに恐縮です」

 腰を浮かして少し立ち上がり、返礼をするマキアリイだ。だがモガナは別の心配をする。
 爆弾の破片を受けて全身に傷を負ったはずの人が、見るからに重傷なその姿で、酒など飲んで大丈夫なのだろうか。
 ローヴァオに顔を寄せて尋ねる。

「先生。マキアリイさんは御酒を飲んでも傷に障りませんか?」
「なあに、英雄豪傑にとってこればかりの傷、何ほどがありましょうや。現に本人が痛みを楽しむかに飲んでおられますからな」
「先生、それはやはり良くないでしょう」

 だが止めるに及ばないようだ。無敵の英雄は、その身体も剛健で傷の回復力もずば抜けて優れている、のかもしれない。
 そう思わせる安心感がマキアリイの姿からは読み取れる。

 モガナは夫の隣に座った。

 

           *** 

 男同士の話に割り込むほど、心得ていないモガナではない。
 それに、ゥェケタが決して自分には話さない海外派遣軍での苦労話を聞く事が叶うかもしれない。
 夫は、

「海外派遣軍ではですね、本国の状況を兵にも士官にもまったく知らせようとはしないのです。
 そもそもが任務そのものが高度な政治的判斷を伴うもので、政府に対する疑念を兵が抱いては成り立たないと司令部では考えているようなのです。
 だから新聞や娯楽なども検閲されて、本国はまったくに無風の穏やかな社会であると無理矢理に思わせています」

「それはひどいな。目隠しされてるようなものですよ」
「だから、あなたの出演された映画は娯楽を越えて情報源としての価値が高いのです。
 曲がりなりにも本国で起きた犯罪事件、それも政府中枢にまで伸びる重大犯罪が曖昧ながらも表現されていて、本当の事情を知る助けとなるのです」
「ほお、それらの映画は名目上はれっきとした「報道映画」ですからね。
 でもその映画、俺自身は出演してませんよ。俳優です」
「あ。ああ、そうだそうなんだ。いやよく考えると顔が違う。ああでも、なるほどほんとだ」

 ハハハと男3人が笑うのに、モガナもくすりと口元を押さえる。
 こうして主体的に会話に関わらず傍観してみると、マキアリイが聞き上手だと分かってくる。
 刑事探偵は他人から情報を得るのがなりわいで、随分と技巧を備えているわけだ。

 ゥェケタが再び海外派遣軍の話を続ける。酒も少し嗜んで、自身を縛る枷が解けていると感じた。

「それでですね、もちろん兵の間ではマキアリイ映画は大人気なのですが、立ち寄った島や港の現地民にも人気なのです。言葉は分からなくても活劇は言葉を必要としませんからね」
「言葉が違っても分かるもんですか」
「なにしろどこの島も本国から遠く隔絶した遠方の海中にあるから、映画も来ないし放送も無いのです。だから近代的な娯楽には飢えている。
 そこで我が艦隊では調査活動用の撮影帯を流用して、マキアリイ映画の複製を違法に製作しついでに翻訳して弁士台本まで付けて、現地民と交換をしているのですよ。
 おかげで新鮮な食料や燃料を購入できたりする」
「なんだそれはー」
「ほほおお、とんでもない愛国的貢献ですなマキアリイ君も」

 

 いつまででも楽しい時間は続けられそうだが、家政婦のモーアカがモガナに帰宅の意を伝えに来た。
 とっくの昔に日が落ちて夜分になっている。ローヴァオ医師も驚いた。

「これはしたり。いつの間にか長居をし過ぎていたようですぞ」
「ああ先生、ではご夕食もご一緒に」
「いやモガナさん、家では妻も心配しているでしょう、何も伝えていませんから。ここでお暇いたしますよ」
「では先生、私が途中までお送りしましょう」

 マキアリイも椅子を立ち、ゥェケタとモガナに改めて礼をする。
 慌ただしく賑やかに3人が家を辞し、残された夫婦に本来の静けさが戻ってきた。
 扉を閉めて、戸口で夫は振り返る。妻に笑いかける。

「大変な一日だったな」
「ええ。でも楽しい一日でした」

「ヱメコフ・マキアリイか。遠くから新聞や映画で知るのとはまったく違う、普通に親しみ易い印象の人だったな」
「とてもいい人でした。また遊びに来てくれるでしょうか」
「それは無理だろう。職務で忙しいだろうからな」

 確かに英雄探偵の活躍をタンガラム中の人が求めている。
 偶然ならともかく、そう何度も個人宅を訪れる事は無いだろう。
 それでも、

「わたし、あの人が貴方とお友達になれると思うのですよ。
 また我が家を訪ねてくれると思います。これは予言ですよ」
「我が家の巫女さんには敵わないな」

 ゥェケタは左目を覆う眼帯を外し、モガナを見た。
 この目はガラスの破片を受けて大きく視力を損なったが、代償として不思議な力を授けてくれた。
 人の寿命が分かるのだ。

 さほど遠くは見えないが、今日死ぬ人間が分かってしまう。
 乱反射で煌めく世界の中、その者だけが黒く見える。
 だからと言って、その者の運命を変える事は出来ない。黒く見えた部下を安全な任務や部署に配置して試みたが、全て無駄だった。
 どうやっても逃れられないと知った後は、むしろ死の見える部下を危険な任務に配置し、より有益に死ねるように使う。

 また敵機と対峙した際にも、黒く見える機体を狙えば確実に仕留め屠る事が出来た。

 合理主義に流れていく自分に恐怖し、目の傷を理由に除隊を願い出て許された。
 だが平和のはずの本国においても、思わず能力を使う時が有る。

 毎朝、妻を、モガナを左目で見てしまう。
 そして安堵する。

 

 ゥェケタはモガナの肩を抱いた。
 暖かい奥の部屋に、二人戻っていく。

 

           ***

 美しく繊細な東岸趣味の磁器の椀に、ほのかに花の香るヤムナム茶がやわらかな湯気を立てる。

 カニ巫女事務員クワンパと上級学校生カロアル・バイジャンは、鉄柵の庭の屋敷に招かれ、お茶を御馳走になっている。
 花咲く庭を望む芝の壇の周囲には大きな無尾猫が、ネコが、猫ねこネコ、ネコだらけだ。
 十数頭が屋敷の主人の下に集結し、思い思いに寛ぎ憩い、だらけている。

 ちなみに小猫「黒ぴったん」はバイジャンの膝の上に居た。

「驚きますよね、こんなに無尾猫が集まる所はベイスラには他にありませんから」

 二人を招き入れたのは、屋敷の令嬢。親は居るが本宅は他にあり、ここは彼女専用の保養所であると聞いた。
 タンガラム人は思春期を過ぎると髪の色が赤、もしくは茶に代わり成人の証とする。
 しかし彼女の豊かでふんわりとした髪は、薄い桃色だ。
 髪色が薄い人は、過去に大病を患った経験を持つ。

「お嬢様は幼少期病弱でしたが、今はほんとうに健康なのです。ご心配は無用にお願いします」

 二人の思考を読み取ったかに、令嬢の隣に立つ女家庭教師が説明を加える。
 女性にしては背が高く、痩身で、尖った眼鏡のいかにも学識の有りそうなヒトだ。
 冷たい感じではなく、目の色がくるくると盛んに変わって表情を豊かに作り出す。

 令嬢が改めて、と自己紹介をする。

「わたくしはィプドゥス・レアルと申します。
 こちらはわたくしのお世話をしてくださる家庭教師のハギット先生。とても気の利く方で、あなた方をお招き出来たのも先生のおかげなのです」

 ィプドゥス商会とは服飾関係の大手会社で、タンガラム中で手広く商売を行っている。大手百貨店内にも売り場を持つ高級銘柄だ。
 また軍服の納入も行っていると聞く。
 ベイスラは重工業よりも軽工業の比重が大きい。服飾・繊維関係企業の本社が幾つも有る。
 巡邏軍監が出席する会合に社長とその令嬢が招かれていたのも、当然と言えよう。

 レアルは歳は18才だそうで、夏に18になるクワンパとほぼ同じ。
 女子学校を卒業して、今は正式な学生ではないがソグヴィタル大学の聴講生である。
 女子が大学に通うと進歩的とかいう過激思想に被れて富豪・財閥の妻としては不適当となる、と偏見を持つ老人も少なくないから、その対策だ。
 実際高度な学識を身に着けた家庭教師が付いていれば、教養的には問題ない。

 クワンパは正直な感想を述べる。

「あ〜どうりで。道理でお綺麗なお嬢様だと思いました。ねえバイジャンくん」
「あ、う、うん、ええ、そうですね」
「わたしはカニ巫女見習いで現在はヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所に勤める「クワンパ」と申します。こちらの男は、」

「はいクワンパさん。ネコ達がご迷惑をおかけしています。これも皆、ネコ達がわたくしの為になんとかマキアリイ事務所の様子を教えてくれようと頑張っているせいなのです。叱らないであげてください」

 突然の告白に、自己紹介をしようとしたバイジャンは凍りつき、クワンパも目を大きく開く。
 ではこのところ無尾猫が事務所の見張りに来ていたのは、レアル嬢に中の様子を伝える為だったのか。

 というか、レアルはネコの言葉が聞ける?

「ネコ無尾猫が喋るという伝説は、アレほんとなのですか?」
「カニ巫女相手には昔からめったに喋らないとは聞いていますが、喋りますよペラペラと」
「ではあなたは、伝説の”ネコの長者”ですか!」

 「ネコの長者」とは古来よりタンガラムに伝わる特殊能力者。
 全国津津浦浦でごろごろと怠惰に過ごしているネコ達が収集した人間社会の噂話を、ネコ連絡網を通じて遠方にて伝え聞き、ありとあらゆる事を知るという。
 昔はネコは普通に人間と話をして、噂話を売る事で餌を得ていたとされるが、「ネコの長者」はその要となる存在だ。
 歴史的に有名な者も居る。

 つまりはレアルの興味本位の関心を満たしてエサをもらう為に、ネコは積極的にマキアリイ事務所に訪れていた。
 クワンパは彼女に監視されていた?

 

           ***  

「あまりうれしくない話です」

「ごめんなさい。でも前の巫女のシャヤユートさんに比べるとクワンパさんはとても優しい、ネコにも親しみ易い人だと聞いて、お会いしたくなったのです。
 そこでネコ13号に頼んで、なんとかお招きできないかと骨を折ってもらいました」
「13号? 名前は無いのですかこいつら」
「ネコは見分けが付きませんから」

 確かに振り返ってそこら辺りを真っ白に染めるネコの山を眺めても、どれが誰だか分からない。白が溶けて1頭の境目も見分けられない。
 試しにクワンパが 「13号」と呼んでみると、1頭がヒョイと首を上げた。「9号」と呼んだら別のが首を上げる。
 自己申告制なのか。

「シャヤユート姉にも監視を付けていたのですか」
「あの方はネコを殴る人で、ネコ達も恨み骨髄でいつか鼻を引っ掻いてやろうと夢想していたようです。臆病ですからとても実行は出来ませんけどね」
「その時は事務所にネコ皮の敷物が出来ていたでしょう」
「まあ大変」

 なんとなくレアル嬢の役割がクワンパにも理解できてきた。
 ネコが一方的にエサをもらうのではなく、レアルがネコ達に面白い事を教えてそれを調べに行く。そんな感じで便宜を図っているのだ。
 なによりもネコ社会に深い理解と愛情が無ければ、「ネコの長者」には成り得ない。

 一方バイジャンは何時まで経っても女同士の話の輪に入れてもらえず、居心地の悪さに撫でる手もおざなりになって、黒ぴったんは膝から逃げてしまう。
 周囲の白い大ネコ達に鼻を近づけてふんふんと接触を試みる。

「所長のマキアリイは案外とネコに優しい、思い入れの有る人なんですが、ひょっとしてあなたを知っているのではないですか」
「お目に掛かった事はありませんが、ネコ達を通じて知っているようですね。あの方はネコにとっても特別な人なのです」
「所長って、ネコと話が出来る?」
「多分出来るでしょうが出来ないふりをしていますね。大昔はネコと話をする人も迫害されましたから、その頃の風習を保っているみたいに」

 

 無尾猫が人間と話をしなくなったのは、創始歴6000年頃の「方台理性化運動」の結果だと伝わる。

 その頃民衆協和国運動は最盛期を迎え、タンガラム完全統一政府を樹立して、理性を最高の価値と崇める風潮であった。
 旧時代の悪習は今こそ払拭されるべき、とあらゆる非合理な存在宗教的な勢力に対して社会総ぐるみの攻撃が行われ、様々な風習や文物が葬り去られた。
 カニ神殿も例外ではなかった。妄論にかぶれた若者達が大挙して破壊に訪れる。
 だが逆襲に転じ人民の素直な信仰心を神罰棒を持って擁護し、理性化運動と民衆協和国政府の欺瞞を暴き人民の支持を取り戻し、狂気の運動に終止符を打つのである。

 古来より無尾猫はヒトの告げ口をすると忌み嫌われる所が大きく、決して社会で歓迎される存在ではなかった。
 方台理性化運動の最中は特に無尾猫の排除駆除に力が注がれ、やむなく住み慣れた街を離れて田舎の山奥や草原に逃げ延びた。
 運動が頓挫し再び人が落ち着きを取り戻して、無尾猫も街に戻ったが以後喋る事は無くなったという。

 

「ネコ達の話に依りますと、ガンガランガには世にも珍しい黒無尾猫が居て、その飼主がまことやんごとなき血筋の姫なのですが、マキアリイさんの動向に常に注目しているそうです」
「所長の故郷とされる場所ですね。出生地はともかく、ガンガランガで養育されたのは間違いないはずです」
「たぶん、そのお姫様がなんらかの関係を持っているのでしょう。

 でもネコ達は詳細をぜんぜん教えてくれません。謎は長く保った方が価値が高くなると知っているのです」
「ほほお」

 さすがにネコは曲者だ。だから人に嫌われいじめられる。

「ネコ達は自慢話はしませんが、マキアリイさんの英雄的活動にはネコが集めてくる噂話の情報が結構寄与しているらしいですよ。あくまでもらしい、ですが」

 

           ***  

 お嬢様、と家庭教師のハギットが耳元で囁く。
 さすが大企業の令嬢、日々なんらかの会合やら祝宴に出席せねばならないようだ。
 無駄話も時間切れ。
 ついにバイジャンくんは自己紹介も出来ぬまま。

「あ、あの!」
「カロアル・バイジャン様ですね。先日の防衛産業祭の祝典でお目にかかりました。よく覚えています」
「あ。そう、ですか。それはありがとう、ございます」
「また「黒ピッ太」と共に遊びにいらしてくださいね」

 と、足元にじゃれつく頭の黒い小猫を抱き上げて、バイジャンに手渡してくれる。
 望外の大接近にバイジャンは初めて「黒ぴったん有難う」と思った。

 

 再び屋敷の鉄柵の外に出る二人。
 布の学校鞄に黒ぴったんを仕舞うバイジャンに、クワンパは肘鉄を食らわした。

「おら、お嬢様とお話できて嬉しかっただろ」
「話していたのはクワンパさんばっかりじゃないですか。もうちょっと気を利かせてください」
「何を言うか。あんな美人を相手に、あんたがまともに喋れるわけないじゃない。これでいいんだよ。

 でもさー、あれは無理だよ。歳やカネの問題でなく、バイジャンくんじゃ釣り合わないな」
「ほっといてください。個人の自由だ」

 他人に言われるまでもなく、実際に近くで話してみれば自分でも分かるのだ。
 だからと言ってすぐ諦めるようでは男の子ではない。年上の美人に憧れるのは至極当然にして必要な事なのだ。

 クワンパ、なんだか姉のような気分がして、恋愛成就はカニ巫女の本分ではないが出来るだけは取り持ってやろうなどと思ってしまう。

 それはともかく、もう夕方か。

「じゃああんた、さっさと帰りなさい。フラフラ遊び歩いてたら、またお母さんに勘当されちゃうぞ。
 あと、黒ぴったんはちゃんと元の町に返すんだ。小さい女の子の友達が待ってるんだから」
「うぃー」

 背を向け鉄道橋町に戻るクワンパを、バイジャンは見送った。
 確かに、自分一人ではこんなに上手くは接触できなかった。色々と不満は残るが感謝しておこう。
 しかし黒ぴったんは偉大だ。また連れて来よう。

 

 無人の事務所に戻ったクワンパが時計を見ると、もう終業時間である。
 しかし所長が戻るまでは居る事にした。さっさと帰ってもいいのだが、留守の間に電話も郵便物も届いて二三処理しなくてはいけなかった。

 追っ付け帰ってくるだろう、との案に反して結構待たされる。
 マキアリイが戻ったのは更に1刻後。とっぷりと日が暮れて真っ暗になってしまった。
 おまけに、包帯木乃伊男。

 クワンパは眉間に皺を寄せ、はーっと深くため息を吐いた。

「またヤキュの練習ですか」
「おう、したたかにやられてしまったぜ」
「いい加減子どもじゃないんですから、明日の業務とかも考えてくださいよ。そんな遊びでズタボロになって」
「今回は医者代掛からなかったぞ。そこは褒めてくれ」

「あ、お酒臭い。その傷なのに飲んだんですか」
「ちょっとだよちょっと」
「やっぱり性根は叩き直さないとダメなようですね……」

 立ち上がるクワンパは、いきなりぐーと鳴った腹の虫に赤面する。
 夕食時をとっくに過ぎたこの時間なら致し方ない。
 包帯まみれの顔で、マキアリイはにやりと口を曲げた。

「それより腹が減ったぞ。一緒にラウ麺でも食いに行くか。おごるぞ」
「この時間だと巫女寮でも残り飯が。まあ行きますけどねオゴリなら」

 

 

 (第十三話)

 全国的に雨季に入り長雨が続く今日この頃、ノゲ・ベイスラ市で話題となっているのが「サマアカちゃん誘拐事件」である。

 とある大企業の社長の孫である カンパテゥス・サマアカちゃん(5歳 男児)が、幼稚園に送迎する自家用車ごと失踪。
 まもなく身代金を要求する電話が入る。
 お定まりで警察局・巡邏軍への通報は禁じられたが即座に連絡を取り、極秘の内にノゲ・ベイスラ中央警察局に捜査本部が立ち上げられる。

 しかしながら情報は漏洩して瞬く間に拡散。誘拐事件は市民の多くが知る所となる。
 犯人からの連絡の内容にもそれを示唆する文言が挿入されているので、警察局は改めて記者会見を開き公開捜査に切り替えた。
 巡邏軍も総力を挙げての協力を表明。多数の兵士を動員して市中全域の厳重警戒を始める。

 この事件において特筆すべきは、被害者のサマアカちゃんの曾祖母、つまりは社長の母親が結構な有名人である事だ。
 名はカンパテゥス・イダンツ・ヱダ という。
 彼女は出産間もなく夫を亡くし、婚家カンパテゥスの親族からも爪弾きにされ、乳飲み子を抱えたまま自活せねばならなくなった。
 この時内職で始めた「靴下編み」から出発して、小さな店を起し、工場を建てて結構な大会社にまで成長させた。
 『カンパテゥス編機工業』である。

 この立身出世談は後に新聞の連載小説となり、演劇や映画、連続放送演劇ともなり、タンガラム中で大評判となる。
 小心者でありながら尊大で憎々しげな「叔父」の役が、妙に人気を博したものだ。
 「潜水艦事件」が発生する前の話。

 その後彼女は社長職を息子に譲り、つまりはかっての乳飲み子だ、経営も盤石にして何の心配も無い余生を送っていた。
 孫達も成人し、次代の経営者と目される長男が結婚して生まれたのが、サマアカちゃんだ。

 今回の誘拐事件を即刻警察局に通報したのも、彼女の決然とした意思によるものとされる。

 報道各社は喜び勇んでこの事件に飛び付き、大規模な取材合戦を展開。
 連日連夜伝え続け、国民の関心を独占している。

 

 このような状況の中で、我らが英雄探偵ヱメコフ・マキアリイは何をしているかと言えば、

「何もしていないのですね」

 クワンパは事務机の上に頭を横たえて、長椅子に座る所長を曇った眼で見つめる。
 天気が悪いから気分もどんよりする。
 書類を確かめていたマキアリイは、心外だと事務員に反抗してみせた。

「お前なあ、でかい事件なら何でもかんでも俺が食い付くと思ってるだろ」
「そうしてくれないと、事務所の支払いが滞るんですけどね」
「わかってるよ、だから仕事取ってきたじゃないか」
「ええ。どうでもいいような雑魚仕事をですね」

 現在ノゲ・ベイスラ市の巡邏軍は総動員でサマアカちゃん事件の捜査に当っている。
 余分な仕事に回す人員が居ない。
 そこで本来行うべき事件処理を民間の刑事探偵に任せるわけだ。

 マキアリイが請け負ったのは、鉄道線路で見つかった轢死体の身元調査である。事件発生から5日となる。
 ちょうどサマアカちゃん事件発生の日だ。

「でも所詮は事故死でしょ。鉄道保安官が調べればいいんじゃないですかねそんなの」
「殺人だよ、間違いなく」

 事件資料として借り受けてきた白黒死体写真を眺めながら、無感動にマキアリイは断言する。

 

       *** 

「根拠は?」

 クワンパは未だに事務机に頭を載せたままである。根性が入らない。
 なにせ世の中は誘拐犯憎しで燃え上がっているのに、自分は無関係であるのだから。

 マキアリイが答えるに、

「死体が綺麗過ぎる」
「轢死体なんでしょ、バラバラなんじゃないですか」
「だからさ、顔面の人相が全くわからないほどに綺麗にぐっちゃぐちゃなんだよ。おまけに両手の指も綺麗サッパリ切断されて指紋の取り様が無い」
「はあ、それはちょっと引っかかりますね。
 でもそれなら、巡邏軍はもうちょっと本腰を入れて捜査すべきではないですか」

 クワンパは首を上げた。これは結構な凶悪犯罪ではないか。

「だろ。しかも着ている服の大きさが、どうも身体に合っていない。小さいようだ。
 服そのものは古着で上下もバラバラの、放浪者が着ているような薄汚れたものだ。おそらくは死体に適当に着せたんだろう」
「それ完璧に殺人事件じゃないですか! どうして」

「でもな、これを一生懸命身元調査した結果、ほんとうにタダの放浪者だったら、どうだ?」

 え? とクワンパは口籠った。
 そこまで念入りに丁寧な手口で死体を処理しているのに、何の得にもならない人物を殺すのか。どんな狙いで。

「借金が払えなくなって、とかですか」
「いや。単純に殺される為だけに殺されている。ベイスラでも年に2件か3件起きてるな。全国だと100人くらいか」

 理解できない。呆気に取られて説明を乞う。なんで。
 マキアリイは、ようやく俺様の刑事探偵としての経験に恐れ入る日が来たか、と事務員に嫌な笑みを向ける。

「木を隠すには森の中、死体を隠すには死体の中さ。
 どうでもいい殺人事件に巡邏軍も警察局も振り回された挙句に徒労に終わるとなれば、著しく捜査意欲が無くなってしまう。
 本当は深刻な事件性がある殺人であっても、真実に辿り着けないままに身元不明で処理されてしまうのさ。

 その結果がこれだ。民間の刑事探偵におざなりに仕事を投げている」
「ただの数合わせの為に、殺されているんですか。
 でも、それなら山の中とかに死体を隠した方がいいんじゃないですか」

「世の中には、保証書付きの死体というのを欲する奴も居るんだ。
 確かに殺人が行われた証明を国家権力がしてくれる。遠隔地からでも公的に確認出来て、安心するわけだ」
「身元不明になるように、殺し屋に依頼している、って事ですか……」

 

 再び死体写真に目を通す所長の姿に、クワンパは暗然たる気分に戻る。
 幼児誘拐事件だったり、保証書付きの死体だったり、どうしてこの世は悪ばかりがのさばるのだ。
 英雄探偵が何人悪党を捕まえたら世の中平和が訪れるのか。まったく無意味ではないのか。

 とは言うものの、巡邏軍が多忙である現在、刑事探偵に依頼に来る客は増えている。
 ほとんどが軽犯罪であるが、それでも依頼は依頼。微々たるものだがちゃんと儲かる。
 世の中が不正に満ちているからこそ、刑事探偵は商売繁盛なのだ。

 クワンパ、茶色の髪をかきむしる。

「あああああ〜、誘拐事件の捜査したい!」
「依頼が無いのに動くわけにはいかんだろ。第一、警察局も巡邏軍も総力挙げて探してる。ショバ荒らしは出来ないぞ」

「誘拐事件って、私立民間の刑事探偵に出番は無いんですか」
「警察局に秘密のままに誘拐犯と交渉をしたい、って時には、刑事探偵を雇う事もあるさ。
 だが結果が良かった例は少ないな。結局は通報して国家権力に縋った方がマシだった方が多い。なにせ動員できる数が違うからな」
「ですねえ。

 所長は誘拐事件を手掛けた事はありますか」
「あるよ」

 それは、かって「英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ」の熱心な支持者であったクワンパも知らない事件である。
 公にならなかった犯罪も密かに解決しているのだ。この男は。

 

       *** 

 突然マキアリイは、頭の上で手をひらひらと舞わせ始める。
 何らかの形を作ろうとして、試みているようだ。

 クワンパに問い掛ける。

「クワンパ、」
「はい」
「指が切れてる」
「それは聞きました。指紋が取れないんですね」
「1本だけ違う切られ方をしている指がある。根本から切断している」

 なにせ身元判別の為の手がかりがこの死体写真しか無い。ほんのわずかの違和感でも見つければ、突破口になるだろう。
 どれどれ、とクワンパは事務員席から立ち上がり、長椅子の所長の背後に回る。
 マキアリイは膝に数枚の白黒大判写真を広げ、指の無い手のひらの写真が、

 

 クワンパ、胃の内容物を盛大に事務所の床に吐瀉した。ゲロゲロと。

 いや自分では死体に強いと思っていたのだ。
 大体からしてタンガラムの子供は、7歳で小学校に上がってから8年の義務教育の間に、およそ1体の死体と遭遇するものだ。(全国平均で)
 人道的近代社会を築いたと自負するものの、治安状況に関してはこれが精一杯の努力の成果。
 だから死体発見話は男子も女子も定番怪談として一つは持っており、特に驚くものではない。

 ましてやカニ神殿は世間の悪と戦う使命を帯びており、悪の結果としての犠牲者被害者の遺体を発見するのは責務とも呼べるだろう。
 葬儀を司るコウモリ神殿ほどではないが、死体慣れしている。と今の今までクワンパも思っていたのだ。

 あまりにも平然と所長が死体写真を見ているので、思わず無警戒に覗いてしまった。大失態だ。

 驚いたのはマキアリイだ。
 カニ巫女というものはおおむね神経が鋼鉄で出来ており、多少の惨劇では眉一つ動かさない。
 これまで3人の巫女 ケバルナヤ・ザイリナ・シャヤユートがそうだった。ザイリナに至ってはまだ子供に過ぎないのに、平然と修羅場に立っていた。

 クワンパが他と違って随分と優しいカニ巫女だとは気付いていたが、実際普通の女の子らしさを示すとは。
 自分の配慮の足りなさに大いに反省する。

「すまんクワンパ、だいじょうぶか」
「え、ええ。申し訳ありません、いま雑巾取ってきます……」

 ふらふらと物置場に進む彼女を、背後から心配な視線で見送る。

 だがクワンパ本人としてはとりあえず、巡邏軍からの借り物の捜査資料の上にぶち撒けなかった事に上首尾だと満足し、
またお昼ごはんが無駄になってしまったのを惜しむ算盤勘定だけが頭に渦巻いていた。

 

 自ら床掃除をして原状復帰を果たした後に、クワンパは元の自分の席に着いて。再開。

「指が1本違うという話でしたが、」
「あ、ああ。大丈夫か、ほんとに」
「気にしないでください。その程度の覚悟も無しに刑事探偵事務所なんかに勤めていません」

「おう。つまりだな、左手の薬指の切断面が他の指と違って根本からになっているんだ。当然に人為的に切断されている。車輪に切られたものではない」
「はい。この指だけが特別な処置を必要とした、という意味ですね」
「その理由はなんだと思う?」
「えー、必要が有ったから切ったんですよね。個人を識別する印か、入れ墨とか? が有ったとか」
「それもある」

「あとはー、指輪ですか。強盗が金の指輪を盗む為に指を切るという話を聞いたことがあります」
「それも本当の話だ。ただし今回、営利目的の殺人ではないだろう。とすれば、身元を明らかにする証明となる指輪か」
「そうですね。その可能性が高いと思いますが、どんな指輪だったかがわからない、と……」

 何か引っかかる。自分は何か知っている、とクワンパは思った。

 

       *** 

 指輪はおおむね呪具である。それも拘束具としての性質が強い。
 定められた神霊との結びつきを表し、永遠の下僕である事を誓う証だ。共同体に所属する証明としての入れ墨の風習が薄れた今日では、特に象徴的な存在である。
 嵌める指も厳密に定められ、宗教宗派によって異なる。
 左手薬指を特に重視するのはピルマルレレコ教団の、その中でも心臓から伸びる金線が左手薬指を通って星の世界に届くと考える「ヤケミ信団」の信徒が、

 何故自分はこんな事を知っている?

 

「誘拐が、」
「ん、どうした」
「サマアカちゃん誘拐事件が、たしか、指輪が、」

 クワンパ自分で動いてここ数日、誘拐事件が公になった後の新聞を引っ張り出してくる。
 単なる興味本位でなく、刑事探偵事務所の基礎資料として特に犯罪関係の記事は精読する癖が付いている。
 微に入り細に入りどうでもいい事まで執拗に書かれた記事の中で、第一の容疑者として報道関係者が勝手に推測しているのが、サマアカちゃんを幼稚園まで送っていく運転手だ。

 男性32歳、現在の運転手を勤め始めて1年と少し。氏名は未だ憶測による疑惑に過ぎないから(仮名)とされている。

 彼は誘拐事件当日もいつも通りにお屋敷からサマアカちゃんを乗せて幼稚園にまで送り届けるはずだったが、自動車が到着する事は無く、そのまま失踪。
 この幼稚園は富裕層の子供を預かる高級な教育施設で、自動車通園をする子も少なくない。
 サマアカちゃんが到着しなかった事は直ちに家に伝えられた。運転手からの連絡も無い。
 その1時刻後に犯人側からの最初の電話が入っている。

 運転手がなんらかの関与をしているのは間違いない。
 ただ彼が巻き添えを食った被害者なのか、それとも誘拐を手引した犯罪者側なのか、未だに警察局は判断を公表していない。

「たしか、この運転手の人が、……ありました。

 えーと、高等学校卒業でそれなりに頭が良く、ただの運転手ではなく別の部署への移動を勧められてもそのままを希望した。
 出世昇進を望まないのが「ヤケミ信団」で、現世の醜い争いから免れる為に敢えてそのような生き方を志向する。
 信徒は左手の薬指に銀の指輪を嵌めており、これが星の世界の御使い「ヤケミ」とプラズマにより直結しており、死後星の世界への転生を確かなものとしてくれる。

 これですね!」
「その運転手の身長は?」
「えーと、2杖半5爪(178.5センチ)ですね。中肉で陽には焼けておらず色は白い。特に運動競技は嗜まず、農作業もしない。軍隊経験無し」

「死体検案書では、年齢25〜40歳くらい、身長2杖半〜2杖7分(175〜189センチ)」
「2分も長さ違うのはダメでしょう。誰ですかその間抜けな解剖医は」
「ああ、バラバラの死体を上から順に並べただけだなこりゃ。
 でもな、死体が線路で発見されたのはサマアカちゃん事件が起きた日の早朝、まだ家を自動車が出発していない時間帯だ。運転手はちゃんと確認されている」
「じゃあやっぱり別人ですか。そうですか、そうですね。そりゃそうか」

 いい考えだと思ったが、世の中そんなに甘くない。素人探偵が通用するほど犯罪捜査は単純ではない。
 はずだが、マキアリイは再び死体写真を睨んで考え続ける。

「……ひょっとすると、ひょっとするか。改めて死体を組み直してみるか」
「所長?」
「ちょっと出てくる。来客は適当に処理してくれ」

 と捜査資料を油紙の袋に入れて、傘を取って事務所を出ていってしまう。
 見送るクワンパは、だが期待はしない。

 いくらなんでも英雄探偵の運がそこまで都合良くは無いだろう。

 

       ***  

 ヱメコフ・マキアリイが持ち込んだ捜査資料を、ウゴータ・ガロータは診察台の上に広げて見た。

 44歳、髭面でがっちりした体格の先生は見かけよりもずっと知的である。
 が、マキアリイなどとツルんでいるのだから、相当の変わり者だ。

「こいつは酷いな。この轢死体の身元を調べているのか」

 死体検案をもう一度やり直そうと思えば、知り合いの医師に頼るしか無い。
 マキアリイは当然に自らのネグラであるニセ病院院長 ソグヴィタル大学医学部副教授のウゴータ・ガロータに依頼する。
 相も変わらず貧乏で支払い能力の無い患者がひしめく廊下を掻き分けて、診察室に押し入った。

 ニセ病院での診療は給料もらってやってるわけではないし、本物の重病人は設備の充実した公営の慈善病院に突っ込むしか無い。
 患者そっちのけで打ち合わせを始める。
 決まりきった規則が無いのがニセ病院の良い所であり悪い所だ。

「身長の推定がいい加減だ、と言うのは分かるが、骨が砕ける切断される部品も足りないとなれば、無理だぞ正確な復元は。
 特に頭部の破損が酷い。頭蓋骨の半分も無いじゃないか」
「まあそうなんですが、出来るだけ厳密な測定が出来ないかと。他に手がかりとなる特徴は残されてないし」
「やってはみるが、それで遺体は巡邏軍の死体置き場なのか」

 そこを問われると心苦しいのだが、マキアリイは事前に死体安置所を訪ねている。
 そもそもが轢死体であり遺体の破損状況が最悪で、しかも内臓が露出して急速に腐敗が進行する。
 身元引受人が見つかったとしてもこの状態では見せるわけにいかないし、再度検案してみても何も見つかるはずも無い。
 さっさと火葬して骨になってしまっている。

 どうもすみません、と頭を掻きながら事情を説明すると、案外と好評価であった。

「なんだ、もう骨になっているのか。それならば話は早い。研究室に持ち込んで学生に組み立てさせよう」
「あ、そんなんでいいんですか」
「肉が付いているとだな、流石に大問題だが、タダの骨なら研究資料として持ち込みも可だ。
 オレの研究室で教えているのは戦地や僻地での医療だし、爆弾でふっ飛ばされた遺体やら獣に食われてバラバラの骨も扱ったりするからな。
 いい実習になるよ」
「何でも屋なんですね先生とこは」

 

 床に寝転がる患者を跨いで、トカゲ巫女「チクルトフ」が診察室に入ってきた。喋る男二人をよそに片付けを始める。
 マキアリイが来て診療は止まったと見て、遠慮なしに勝手にやる。
 国家英雄など路傍の石ころにしか見えない。それがトカゲ巫女というものだ。

 彼女は、

「あ、そうだ。マキアリイさん、クワンパさんは元気にご活躍ですね?」
「なにか、用でもありますか」
「たぶん彼女でなければ解決できない問題が生じたみたいです。一度訪ねるようにお伝えください」
「何の問題ですか」
「一言ではとても」

 妙な期待をする顔で彼女が見るので、マキアリイは院長に尋ねてみる。

「なんですかい」
「たぶん、アレの話だろう。ちょっと迷惑だがさりとて追っ払うのも筋違いであるから、クワンパさんの仕事かなアレは」

「先生、今日の診察はもうお終いですか」
「そうだな。雨で客足も少ないから手術でもするか」
「承知しました。では受付を終了します」

 さすがにマキアリイもぎょっとする。
 ニセ病院では基本的に手術は飛び込みの緊急でしかやらない。他に回す時間が命取りになる場合だけだ。
 院長に確かめると、

「ああ、そんな重大なやつじゃない。放っとっても大丈夫なのを延々と待たせてるから、時々まとめて片付けるのさ」

 トカゲ巫女に振り返ると、だからあんたはダメなのだ、的な顔で応えてくる。ニセ病院の手順を分かっていない。
 もうちょっと自分の家に関心を持て、ということか。

 

       *** 

 翌日。雨。

 言われるがままにクワンパはニセ病院を訪れた。
 前回と同様に一度トカゲ神殿を訪れ、トカゲ巫女見習いに変装してだ。雨降りだから雨合羽姿。
 トカゲ巫女は棒など持たないから、カニ巫女棒を偽装するために布を巻きトカゲのぬいぐるみを括り付ける。
 今日はもう一つ、新しいぬいぐるみを携えていく。

 電車を降りて貧困街を抜けて、ヱメコフ・マキアリイの自宅兼ニセ病院に入る。
 元は結構なお屋敷で要塞のような堅牢さを誇る建物だが、各所にすだれがぶら下がったり洗濯物が放置されてたりで、すっかり所帯染みてしまっている。

 降り続く長雨で人工石張りの床もしとしとと湿気ている。
 それでも外の街の、雨露をなんとか凌げる程度の木造長屋よりはよほど過ごし易い。
 ここに居るだけで病状の悪化を防げる病人も居るのだ。何十人もが屋敷の中で陰気に転がっている。

 患者の受付はトカゲ巫女の仕事ではない。近所の住民が代わりばんこで雑用を努めている。
 今日は10代前半の中学生と思しき少女がやっていた。

「あのすいません。頭之巫女の「ヴァヤヤチャ」さんはいらっしゃいますか」
「あ、クワンパさんだ」

 この子、何故変装をあっさりと見破る。
 受付の子は逆に「何故クワンパさんはこんな見え見えの変装をしているのか」、不思議に思う。
 英雄探偵マキアリイのカニ巫女事務員クワンパは、とっくの昔に有名人であった。

 

 もちろん扱いは超特急で、すぐにトカゲ巫女の責任者「ヴァヤヤチャ」に会う事が出来た。

 36歳の彼女はさすがに他のトカゲ巫女とは違い、単純な冷血でなく腹芸も使ってみせるし、表面上は温かくも振る舞える。
 だが、ただでさえ慢性的に資金不足のニセ病院を運営する為に、鬼畜外道な資金繰りを行っていた。
 所詮は巫女見習いのクワンパにとって、他の神殿とはいえ頭之巫女は目も眩むほど偉い御方である。

「カニ巫女見習いクワンパ、参りました」
「よく来てくれましたクワンパさん。あなたのお力を借りねばならない事態は発生しました。対処して下さい」
「はっ! して、敵はどのような悪党でしょう。ヤクザですかゴロツキですか、タカリですか」
「そういうのではないのですが、たいへん迷惑な方が近頃しばしば訪れて対処に困っています。
 私達も対策を考えましたが、どちらかと言うとマキアリイさん関連の事態で、ならば専門家に頼むべきとあなたを呼んだ次第です」

「ほおほお。所長の愛人でも押し掛けてきましたか。おまかせ下さいカニ神殿は痴情のもつれの解決にも最大限の力を発揮します」

 不義密通などで夫婦関係が泥沼の闘争になった場合にも、カニ巫女は介入して円満解決に導く使命を帯びている。
 まあだいたい夫をぶん殴るだけであるが、場合によっては姦婦成敗も行う。

 

 ヴァヤヤチャはクワンパのトカゲ巫女姿を観察し、ぬいぐるみに気がついた。
 トカゲのぬいぐるみは神殿で貸したものだが、もう一つは人の形をしている。

「クワンパさん、その新しいぬいぐるみは何ですか」
「あ、お気づきになられましたか。実は私が独自に考えた策でして、」

 巫女見習い服から外したそれは、口にゲルタを咥え、右手には白いシュユパンの球を握っている。
 この間遭遇した幼女トトリーが抱えていた母親手製の「えいゆうたんてい」ぬいぐるみを小さくしたものだ。
 シュユパンの球は追加してもらった。

「事務所の近所の方に頼んで作ってもらった「英雄探偵マキアリイ」のぬいぐるみです。
 これを大量に作ってですね、販売すればニセ病院の運営費にいくばくか助けになるのではと愚行しました」

「これを。素人の手縫いですね」
「はい。ニセ病院の患者さんはタダで診療してもらっているわけですが、それでは長くは続かないと考えまして、であれば患者さんまたその家族の方に運営費を稼ぎ出してもらうお仕事を考えるべきかと」
「カニ神殿の巫女らしい考え方です。
 確かにこの程度のぬいぐるみであれば、この辺りの女なら誰でも作れそうですね」
「でしょ」

「でも幾らで売るつもりですか。病院の運営費を稼ぐとなれば、相当の数を売らねばなりません」
「そうですねー、1個5ゲルタ、儲けを考えると10ゲルタ(千円相当)、というところですか。マキアリイ所長の人気を考えるとさほど高価には感じないでしょう」
「ですが、1万個も売れれば上出来でしょう。長く続くとも思えませんから、恒久的に稼ぎ出すというわけにはいきませんね」
「ダメですか」
「考え方は良いのです。また近辺の貧困を救済せねばニセ病院が幾ら頑張っても限度が有るのも確かです。
 しかし、これでは弱いと思います」

 

       *** 

 やっぱり素人考えではダメかー、とクワンパが諦めかけた時、背後から声が掛かる。

 トカゲ巫女「チクルトフ」だ。
 彼女はニセ病院においてはヴァヤヤチャに次ぐ職責で、トカゲ巫女達を指導して看護を行う「婦長」役を努めている。
 まだ30歳になったばかりだが、随分な切れ者である。

「ヴァヤヤチャさま、その試みは別のやり方で使えると思います」
「どのようにですか」
「私達は有徳の方を巡って浄財を寄付してもらいニセ病院の運営を行っております。
 どの人も見返りなど求めぬ志の高い方ばかりですが、常々それでは張り合いが無いのではと考えておりました。
 患者自らが感謝の意を表して心ばかりでもお返し出来る手段は無いものかと」
「なるほど。カネを取られるばかりではそういつまでも寄付はしてくれない、という考えですね」

「患者の家族の小さな子供に命じて御礼の手紙などをこしらえてみましたが、やはり弱いと存じます。
 なによりこの病院は「国家英雄ヱメコフ・マキアリイ」氏のお名前により成り立っているものですので、マキアリイさんのお言葉などが有れば嬉しいものとなろうと考えました。
 しかし、彼はそこまで露骨な金策には付き合ってくれません」
「役に立ちませんね。そこでマキアリイさんのぬいぐるみですか」

 クワンパ、知ってはいたがトカゲ巫女ってひとでなしだなー、と改めて感想を持つ。

 ヴァヤヤチャは改めて手の中のぬいぐるみを見る。
 変な顔だかっこ悪い。素人が手作りしたものであるから仕方がないが。
 単純な販売ではさほど捌けないと思うが、むしろ出来の悪さがこの際武器となろう。

「チクトルフ、その案は検討に値します」
「ありがとうございます」

「クワンパさん、」
「はい!」
「あなたのお考えに乗ってみようと思います。それで、幾つ作れますか」
「その点に関しては、ニセ病院に手伝いに来ているおばさん達に相談して、何人が手伝ってくれるかも調べねばなりませんのでまだ」
「とりあえず百個作ってください。

 チクトルフ、百件にお願いする準備をしておいてください。子供達の手紙も添えましょう」
「かしこまりました」
「なるべく大口献金が見込まれる方にですよ」

 

「この人形をねえ。この程度ならそりゃ女なら誰だって作れるけどさ、こんなもんでいいのかい?」

 出番が来るまで待機となったクワンパは、前のように食堂厨房に行って近所から手伝いに来ていた女達にマキアリイぬいぐるみを見せた。
 カマドの火がちょっと熱く、厨房なのに洗濯物が掛かっている。
 この間来た時にも世話になったアチャパガおばさんは、肩をすくめる。

「この長雨だと洗濯物がぜんぜん乾かなくてね。病院てとこは清潔な布が絶対に大量に必要だから、こうして火の有る所でむりやり乾かしてるんだ」
「雨季ですからしかたないですねえ」

 クワンパは、おばさんが出してくれた糊茶を舐める。
 糊茶とは、おかゆを作った鍋にほんのわずか残ったのを洗った湯そのものである。味とかそういう次元は考えない。

「確かにクワンパさんの言うとおりに、患者に飯を食わせるにもカネは要るんだよね。治療費払えないヒトがその日の食費を払えるものでもないしね」
「病気で仕事できないわけですからね。だから私はなんとかカネ儲けの方法を考えたのですが、結果は凄いコトになっちゃいました」

 おばさんはもう一度くるくるとぬいぐるみを見直した。

「あたしらが声を掛ければそりゃ簡単に人数は集まるよ。でもねー、手間賃が出ればの話さ。皆大勢の家族を食わせるのに忙しいからね」
「そこなんですよねえ。ニセ病院にみんなお世話になってるから、という理由では弱いですよね」
「そうなんだよ。頼る時はべったりなのに、現金なものでねえ。
 あと、材料だよね。こちらから用意しないとさすがに誰も手伝ってくれない」
「頭之巫女のヴァヤヤチャさまに当座の資金を出してもらえないですかね。たった百体分ですからそれほどにはなりませんよ」
「あー無理無理。あのひと達はもう、お金に関してはド汚いからね」

 クワンパ、厨房の調理台に縦肘をついて考える。
 最初から分かっていたのだが、このような話は言い出しっぺが動かなければ実現しない。
 無論自分もカニ巫女見習いとして困った人貧しい人を助けるのに否やは無い。無いが、カネも無い。
 週給4ティカでは自分が食べていくだけでやっとだ。

 なんとか材料費、いや手間賃込みでカネを出してくれる都合の良い阿呆は居ないものか。

 

        *** 

 厨房の勝手口の扉を開けて、とてつもなく美しい人が入って来た。

 ニセ病院の建物は元々が広壮堅牢な邸宅であり、食堂厨房もかっては何十人もが一度に晩餐を楽しめるように大規模かつ先進的な設備が整っていた。
 現在もその趣は残っており、病院食を作る為にごたごたと詰め込まれた調理器具類を取り払うと、立派な石組が蘇る。

 彼女がその場に立つだけで、まるでおとぎ話のお城のように厨房は光り輝いた。

「ああメマさん、こっちおいで。これ見ておくれよ」

 アチャパガおばさんが手招きするので、メマ・テラミはゆっくりと近付いていく。長い髪が緩くたなびき、まるで音楽が聞こえてきそうだ。
 クワンパも前に来た時に遠目で見て「妖精か?」と見紛うたが、間近で見ると本当に同じ人間には思えない。
 瞳の色が深い海のように紺碧で、魂が吸い込まれる。

 彼女も見慣れぬ人物を発見して、首をわずかに傾げた。

「貴女は、マキアリイさんの事務所のカニ巫女の方ですね」
「カニ巫女見習いで事務員の「クワンパ」です。メマ・テラミさん、ですよね。お初にお目にかかります」
「トカゲ巫女の方は、クワンパさんにはこの病院に近付かないように頼んだと聞きました。なにか、マキアリイさんの身に変事が起きましたか?」
「あ、いや、その。私は呼ばれて来ただけでして」

 メマは話している最中にクワンパから興味を移して、おばさんの手に有るぬいぐるみに注目する。
 細く透けるように白い指を伸ばし、手渡してもらい、確かめる。
 クワンパは何故だか、マキアリイ人形がその瞬間自分のもので無くなった気がする。

「これは、……マキアリイさんを象ったものですか」
「「えいゆうたんてい」人形です。事務所の近所の人に頼んで作ってもらいました。本物はもう少し大きいんですがね」

「メマさん、実はさニセ病院の近所の女で、この人形を百個作るって話が出てるのさ。そしたら病院の寄付金をがっぽり稼げるという寸法でね」
「病院のため……」

 おばさんの説明する計画に、彼女も乗り気を見せる。
 ただ不満は有るらしい。ぬいぐるみ、変な顔だから。

「この人形にそっくりに作らなければならないのですか」
「クワンパさん、そこはどうなんだい」
「あ、そりゃあ作る人によって出来不出来ははあるでしょう手作りだから。工場で作る時なんかは形が変わらないように型で材料を抜くみたいですけど、そんなに大げさじゃないし」
「では、わたしが考えるマキアリイさんを作ってもよいのですか」
「全部同じ材料を使って、全部同じ形にして区別の無いようにはしますが、器用な人なら綺麗な人形を作るでしょうね」
「そう。    」

 しばらく手の中のマキアリイをじっと見つめて、やがておばさんに返した。

「わたしにも作らせてください」
「はい、クワンパさん。一人確保だ」
「え、えへへ」

 

 いきなり扉が力いっぱい引き開けられ、大きな空気の塊が吸い出される。
 床を踏み破らんばかりに駆け込んできたのは、筋肉の山。体型の歪な大男。
 雷鳴が轟くばかりに声を出す。

「奴がキタっ!」

 クワンパは前に来た時はこの人はもっとゆったりとした男だと思ったが、今日はほとんど狼狽と呼ぶべき様相だ。
 案外と突発的事態に弱い、肝の小さい人物かもしれない。
 コウモリ神殿の下働きである墓堀人のンゴアーゥルだ。
 血迷うとかなり怖い顔になるのだが、アチャパガおばさんもメマ・テラミも動じない。

「なんだいでかい図体でそんなびびって、何が来たよ」
「奴だ、あいつが来た」
「あいつって、ひょっとしてあいつかい。あのアレの」
「ああまたしてもだ」

 おばさんは額に手を当ててこいつはどうしたものかと悩む。そして、部外者の存在に気付く。
 カニ巫女見習いクワンパは、

「ああっ! そうか、ヴァヤヤチャさまはだからあんたを呼んだのか。
 頼むよクワンパさん、アレはあんたしか勝てない」
「え、え?」

 メマを見ると、こちらもまた期待するようにじっと見つめ返してくる。
 よっぽどの化物の襲来を受けたらしい。おそらくは、英雄マキアリイですらもあしらいかねるほどの。

 

       *** 

 カニ巫女棒の偽装を取っ払い、完全戦闘態勢で裏庭に飛び出たクワンパが見たものは、

変態であった。

 推定年齢14歳の女子。おそらくは中学校の生徒。この時間帯学校はどうしたのか。
 いやそもそもそのいかれた格好は頭悪い子なのか。

 黒の袖なし雨合羽を羽織って裏口の門柱の上によじ登っているのはまだ良い。
 雨だから濡れてもいいとの配慮だろうか、紺色の学校水着を着て足元は靴下無しで運動靴を履いている。衣装各所で装飾過剰。
 くりくりとした頭はまだ若いのに色が黒でなく茶色、いや亜麻色。おそらくはカツラであるが、何故に赤ではなく貧乏そうな色にしているのか。
 そして顔面には派手な刺繍の入った暗紅色の仮面を付ける。ついでにその上に眼鏡。
 ひゃははっはと高笑いした。

「吾を崇めよ。吾が愛するヱメコフ・マキアリイを崇めよ。わーれこそは英雄の忠実なる下僕、永遠の従者にして真の理解者。約束されし花嫁なるぞ。
 さあ近くによって目にも見よ。みかんをくれてやろう!」

 と、手近にたむろしていた患者に無差別にみかんを押し付けていく。運転手付きで自家用車に積んできたらしい。

「すいません、アレなんですか?」

 クワンパは背後に振り返り尋ねるが、厨房勝手口はぴたりと閉ざされ覗こうともしない。
 扉の向こうからアチャパガおばさんが謝った。

「ごめんねクワンパさん。アイツに捕まったらいかにマキアリイさんが優れて素晴らしい人であるかを延々と何時刻も説教されてしまうからさ」
「そういう意味で厄介な奴なんだ」
「悪い娘じゃないんだよ、患者さんに色々と差し入れを持ってきてくれるからどこかのお金持ちのお嬢様なんだろうね。
 でもマキアリイさんが好きで好きでたまらないらしくて、ここを発見してしまったからなんとかお役に立とうと頑張ってるみたいなのさ」
「はあ。」

 何故に自分がトカゲ巫女に呼ばれたか、さすがにクワンパも理解した。
 つまりはこいつと同水準に変な奴、と見られているわけだ。心外な。

 仕方がないから門柱に近付いてカニ巫女棒を突き出した。

「あーこら。おまえ、迷惑だから降りてきなさい」
「なんだてめー、この吾為す業に恐れ入ったか。嫉妬のあまり気が狂いそうか」
「とにかく降りてきなさい。足元滑って危ないから」
「知った事かあ!」

 と大きくふんぞり返って、案の定雨で濡れた門柱の上で滑ってひっくり返る。芝生に落っこちた。
 すこぶる腰を打って痛かろうに、のたのたと起き上がり、門柱にしがみついて一生懸命登ろうとする。高い所に登らないと演説はできないらしい。
 こんな時の為にカニ巫女棒は有る。バカの子を叩いて愚行を止めさせる。

「うう暴力反対」
「とにかく事情を説明しなさい。お前誰だよ」
「吾が名はっ!」

 黒の雨合羽をコウモリの翅のようにはためかせて、花壇の石縁に登る。ちょっとでも高い所が必要だ。

「故あって真名を明かす事は許されぬが、覚えてもらおう。正義と真実の人ヱメコフ・マキアリイに影のように従う者。呼んでもらおう、「みかん男爵」と!」
「女なのに男爵?」

 みかん男爵、しばし考える。結論が出た。

「吾が名はみかん女爵! 過ちを改むるに躊躇しない者だ!」

 ちなみに『男爵』とは、旧褐甲角王国において本来聖戴者の家督は神兵として戦う男性にのみ継承を許されていたのを、諸事情により女性が継ぐ事となった者が、
男性と同様に国家と民衆に貢献できると自ら名乗ったのを由来とする。
 みかん男爵、謂れなき言いがかりに誠実に対処しようと試み、勉強不足で早くも敗北した。

 クワンパ、眉間にしわを寄せて苦慮する。
 中学校の時代はなんだかおかしくなる子が出て来るものではあるが、それがカネを持って行動力が有るとろくでもないコトになる。
 世間一般においても、英雄探偵マキアリイの活躍に触発され自らも正義の為に働こうと考える浅はかな愚か者が各所で迷惑を掛けているとも聞く。
 若気の至りと言えばそれまでだが、悪意によるのではなく世間に自らを認めてもらおうとの熱意と誠意が空回りした結果であるのだから、年長者としては善導してやるべきであろう。

「あーこらこら、みかん男爵さん。学校サボってこんな所で遊んでいたら先生にもマキアリイ所長にも怒られちゃうぞ。もっと真面目に堅実に勉強しなさい」
「貴様に言われたくないわ、カニ巫女見習い「クワンパ」! いやさ、メィミタ・カリュォート!

 貴様が中学生の頃の悪行三昧を、この吾が知らぬと思うたか」

 流石はヱメコフ・マキアリイの一番の理解者を名乗るだけはある。
 事務員「クワンパ」の恥ずかしい隠すべき過去も、しっかりと記憶している。

 クワンパは心に回復不能の痛撃を食らった。

 

       *** 

 冷静に考えてみれば、中学生時代に不良となって世間様に迷惑を掛けた末に、カニ巫女棒による制裁を喰らい信仰に目覚めてそのまま神殿入りをして、
正義の刑事探偵国家英雄ヱメコフ・マキアリイの事務所に勤めるまでやってしまう女である。

 みかん男爵とどちらが頭おかしいか、余人であれば悩む所であろう。

 

 それからおよそ半刻の間、クワンパとみかん男爵の壮絶な死闘が繰り広げられた。
 主にヱメコフ・マキアリイに関する豆知識披露合戦である。謎当てだ。

 傍で見ていたニセ病院関係者および患者も、クワンパがまさにこの戦いに最適な人材であると理解する。
 みかん男爵も敗北を認めた。

「く、さすがはマキアリイ様がお認めになられた事務員だ。直接の関係者でなければ知らぬ裏事情にそこまで詳しいとは、残念ながら感服せざるを得ない……」
「嬉しくないぞ、全然」

 すべて土砂降りの雨の中。ずぶ濡れで、風邪をひいてしまう。ちなみにクワンパはちゃんと傘を差している。
 震える手でみかん男爵は宿敵を弱々しく指差した。

「だがこれは知らぬであろう。吾と彼の方との前世より続く愛縁を。

 そう、あれはこんな雨の降り続く日でした。わたしは実家本宅を離れてカプタニアの祖父母の家に遊びに来ていたのです。
 せっかくおじいちゃんおばあちゃんと一緒なのに雨ばっかりで外に出ることも許されず、わたしは退屈を極めていました。
 長雨が続き川が増水して危ないと皆が噂する中で、わたしはそれがどんな災害であるか見てみたくなりました。
 6歳の、小学校に上がる前のお話です。今より8年前、史上空前の大水害が起きた年の話です……。

 誰も問うていないのに、自らの思い出話を始めるみかん男爵。陶然とした面持ちで、過去の悲劇に酔っていると思われる。
 熱にうなされるかの姿に、クワンパもさすがにまずいと考え始めた。というか自分も寒い。

「かわいそうなうさぎちゃんは、荒れ狂う濁流に首を伸ばして眺めていたところ、足が滑って転落してしまったのです。
 危うしうさぎちゃん、矢の早さで流される彼女に、屋敷の者も為す術がなく、ただただ波に呑まれて消え行く命。
 だがそこに、光が現れます。あの御方です。
 当時まだ警察局の捜査官養成学校に通っていたあの方は、訓練生総出で洪水被害の警戒に当たっていました。
 その目の前を流れ行くうさぎちゃん。だが人の手で救い出すのは不可能と思える圧倒的大奔流。
 それでもあの方は土手を素晴らしい速度で駆け抜けて流れるうさぎちゃんに先回りし、自らの胴体に縄を巻いて流れの中に飛び込んだのです。
 彼の腕の中にしっかりと抱き留められるうさぎちゃん。
 その後、訓練生の皆様巡邏軍の兵士の皆様が協力して縄を引き、無事生有る者の世界へと帰還が叶ったのであります。

 みかん男爵、どうと倒れる。感極まって咽いだか、それとも体調不良の為か。
 とにかくクワンパと、お付きのじいやらしき人に抱えられ、食堂厨房の火の傍に連れて来られる。
 じいやであれば雨の中暴れるのを止めろよ、と思うが、それはやっぱり無理らしい。

 椅子を並べて火の前に寝かして、洗濯物を引っ張り下ろして身体を拭う。髪はやっぱりカツラだった。
 ついでにクワンパも全身を拭いてもらう。これはメマさんが手伝ってくれた。

 しかし、語りはまだ続く。

「こうしてうさぎちゃんは生涯の伴侶に6歳にして巡り合ったのです。この御恩を返す為に、自らの人生の全てを捧げても良い。
 だがその御方はあまりにも高く尊く、世間全ての人が仰ぎ見る輝かしい存在で、ちいさなうさぎちゃんでは何時まで経ってもお傍に近づけないのです。
 どうすれば御恩に報いられるでしょう。

    そうだ、引っ越しをしよう。あの方のお傍で陰ながらお支えする事が叶うならば、それだけでわたしは。

 なんですその不細工な人形?」

 おとなしく寝ていればいいものを、周囲に目を走らせて、調理台の上に置きっぱなしになっていた「えいゆうたんてい」ぬいぐるみに目を留める。
 憧れのヱメコフ・マキアリイがかわいくない人形にされると思えば、一言言いたくもなるだろう。
 クワンパが説明。

「あ、これね。みんなで量産してニセ病院の為のカネ儲けをするんだよ。売るんじゃなくて、寄付金集めの材料にね。
 でも貧乏人ばっかりが集まってるから準備がたいへんでね」
「わ、吾にもなにか、作らせて。お手伝いを。

 カネなら有るぞ、カネなら」  

 

       ***  (第十三話その2)

 ウゴータ・ガロータ副教授の再鑑定により、死者の正確な身長は「2杖半〜2杖6分(175〜182センチ)」と判明した。
 2杖6分より確実に小さい、との保証付きだ。

 再鑑定は火葬された骨をソグヴィタル大学の研究室に持ち込んで、学生の実習として行われた。
 「発見された人骨からその正確な身長と死因を特定せよ」との課題になる。
 幸いにして身元不明者の遺体は燃料費を節約する為に十分な火力で焼いておらず、灰にはならないある程度の強度を保ったままの状態である。
 作業自体は簡単であったが、破損した部位を考慮して実際の身長を推定するのは非常に困難で、やはり大まかにしか出せなかった。

 血液型に関しては、最初の検案時に分析した結果はタンガラム国民の半数が属するT型と呼ばれるもので、特徴とはならなかった。
 一応失踪した「サマアカちゃん事件」の運転手も同じ型であるが説得力が無い。
 死体安置所に保管されていた肉片の資料を精密分析して、T型乙系と呼ばれるものであると判明する。これで8分の1まで絞られる。

 ヱメコフ・マキアリイは旧知の警察局の鑑識官を訪ね、様々な手段を講じて半ば脅迫的に運転手の血液型の資料を見せてもらう。
 輸血に必要な免疫拒絶反応を知るには簡易測定で十分であるから、履歴書等には単純にT型としか記載されていなかった。
 数年前に入院した時の医療記録により、ようやく同じT型乙系と確認する。

 残念ながら透過線撮影による骨格写真は入院時には撮らなかったので、比較は出来ない。

 

 その一方で、「遺体がまったく関係の無い人物」であった場合も調査する。
 事故(事件)現場周辺で雨の中聞き込みを続け、放浪者の間での話を聞いて、彼らの中に最近行方が分からなくなった者が居ない事を確認する。
 念の為に周辺の盛り場等でヤクザを捕まえて半ば脅迫的に協力してもらった結果、何らかの制裁を受けて殺された人物の噂などが流れていないと認識する。
 ノゲ・ベイスラ市内の失踪者名簿は既に巡邏軍で確認済みだが、逆に多すぎて分からない。
 新しく判明した情報を元に再度調べてみたが、やはり絞り込めなかった。

 遺体が現場近くではなく遠方から運ばれてきた場合も考えられ、これでは万全とは言えない。
 通り一辺倒の刑事探偵の調査であれば、報酬分で言えばこの程度の結果で納得してもらえるのだが、マキアリイは調査続行する。

 

 ニセ病院を訪ねると、ウゴータ院長は、

「趾紋なら有るんだ。ちゃんと死体検案の時墨で複写している。他に取るものも無かっただろうがな」
「足指の指紋ですか。しかしそれは、自宅を調べても検出出来ないと思いますがね」
「無理か。足型もダメか」
「たぶん」

 靴、靴下を履いており、また床も木の板であり敷物が有ったりで、趾紋採集出来る場所が思いつかない。
 鑑識班が頑張ればなんとかなるのかもしれないが。

「本人の靴と合わせてみれば可能かもしれません。ただー、警察局がその程度の薄弱な根拠で認めますかねえ」
「英雄探偵だろ、なんとかしろ」
「えいゆうたんていだからなんとか出来ない、て時も有るんですよ。俺恨まれてるから」

 マキアリイは渋々と電話室に向かい、血液型を尋ねた鑑識官に連絡を取る。
 サマアカちゃん誘拐事件最有力容疑者の足型有りますか?

 青ざめた顔をして診察室に戻ってくる。院長に告げた。

「運転手の下宿先の洗面所に、ガラスで足を傷つけた時の血痕がしっかり残ってるそうです……」

 さすがに院長も吹き出した。

「早く行って、照合してくるんだ!」

 

 最有力容疑者 運転手ワッテー・ナスルル(32歳)の死体が事件発生以前に既に確認されていた、との私立刑事探偵ヱメコフ・マキアリイからの報告に、
ノゲ・ベイスラ中央警察局「サマアカちゃん誘拐事件」捜査本部は色めき立った。

 ただちにマキアリイ事務所から遺体の再鑑定書や関連資料を押収し、捜査員が事件現場の鉄道線路に多数投入されて大発掘を始める。
 報道各社にも情報はたちまち漏洩して、一斉に方針転換。運転手を誘拐事件に巻き込まれた被害者として報道し始める。

 これまでは肩身の狭い思いで警察局の事情聴取に応じていたワッテーの家族も、一躍悲劇の主役として脚光を浴びた。
 離婚調停中で妻子はノゲ・ベイスラ市の外に別居して、事件前の事は何も知らない。
 変わり果てた夫・父の姿に対面し、涙を零すのであった。

 事件発生7日目にしての急展開だ。

 

       *** 

「7日ですか……。もう少し早く身元の確認が出来ていれば、ですね」

 中央警察局での聞き取り調査を終えて事務所に戻ってきた所長に、クワンパは熱いチフ茶を差し出した。

「ご苦労様です。でも、誘拐発生から7日目ですよ」
「うん。長すぎるな、誘拐事件であれば、これはちょっと危ない」
「足指指紋なんて最初から分かっていたじゃないですか。気付かなかったんですか」
「そんなのほとんど役立たないからな。指紋照合だけでも大変なんだ、膨大な資料を手作業でなんだから」

 クワンパは、だが最大の疑問に直面する。
 もし運転手が事件前夜に殺されているのであれば、当日早朝出勤してきた運転手は何者か。

「本人であると確認されたのではないのですか」
「教えてはくれないのだが、どうもごく少数の使用人と屋敷の守衛が挨拶をした程度らしい。帽子を被っていたら分からないのかもな」
「そんなものですかね」
「目立たない男、目立ちたがらない男、という性質を上手く利用されたわけだ」

 もし運転手がニセモノにすり替わっていたのであれば、犯行はまったくに簡単なものとなる。
 ただそんな芸当をしてのけるには、屋敷内での協力者が居なければ無理ではないだろうか。

「というわけで捜査班はもう一度屋敷の関係者を徹底的に洗い出している。まあ直になんとかなるだろう」
「でも、サマアカちゃんは無事なのでしょうか」

 こればかりはどうしようも無い。
 誘拐犯との連絡は続いており、身代金の額や受け渡し方法についての交渉が進んでいる。
 だが電話での交渉は発信元が特定されないように、ベイスラ県外の長距離電話を経由してのものとなっている。
 かなり大掛かりな組織による犯行と思われた。

「身代金を払った後にちゃんと安全に解放されるか、これが大変だからな。逆に危ないんだ」
「取るだけ取って殺してしまう、ってやつですね。うーん」

 まだ終業時間前なのにマキアリイは立ち上がり、帰り支度を始めた。背伸びをする。

「俺は帰って寝る。大した儲けにもならない仕事で頑張りすぎた。後は閉めておいてくれ」
「はいご苦労さまでした」

 クワンパも特に咎め立てしない。
 私立の刑事探偵が「サマアカちゃん事件」に関与するのに、これ以上は必要無いだろう。
 やるべき事はやって、カニ巫女見習いは満足だ。

 

「きゃーマッキーちゃんいらっしゃーい。ひっさしぶりー」
「おう、夜の見回りに来たぜ」
「やだあ、頼もしー」

 寝に帰ったはずのヱメコフ・マキアリイは、何故か「カエル横丁」と呼ばれる歓楽街に出没した。
 女が居てちやほやしてくれる店は「酒楼」とか「酒房」などと呼ばれ、もうちょっと濃厚なものとなると「紫酒楼」などの名になる。

 天下の英雄マキアリイの守備範囲は、懐具合が年中寂しいから、さほど高級でも濃厚でもない所と決まっている。
 多かれ少なかれ地回りのヤクザが経営に絡んでいるのだが、気にしない。彼らの方でも敬して近付かず、揉め事を避けようとする。
 マキアリイが立ち寄る店はある種の優良店扱いとなり、一般客でも安心して楽しめて商売繁盛めでたい事だ。

 たちまち女の子に取り囲まれるが、店内を見るとがらんとして客が少ない。
 長雨が続いて夜歩きする酔客も家に帰るらしい。

「マッキーちゃん何飲むー」
「燃料酒のショウ油割り」
「またそんな身体に悪いものー」

(注;飛行機・二輪自動車の燃料はメタノールを用いると法律で決まっているのだが、戦闘機用燃料はより熱量の高いエタノールとの混合燃料を用いる。
 このエタノールはサトウイモから砂糖を抽出した残り滓、廃糖蜜から作っている。蒸留して100%の濃度をメタノールと混合する。
 混合前をそのまま飲むのが燃料酒。もちろん30%くらいに希釈する)

 

       *** 

 席に着いて改めて見回すと、もう一つ女の子の塊がある。
 割と羽振りの良い客が入っているようだ。
 ただ空気が少し違い、客の話に熱心に聞き入っている。

「なんだい、あちらさんは」
「ああそれがね、マッキーちゃん。「サマアカちゃん事件」の事情にめちゃ詳しいお客さんなのよ」
「ほお。関係者かな」

 刑事探偵の性分から、ぐるりと背を回して観察してみる。
 中年と呼ぶには少し若い男性。商売は何をしているのか、勤め人ではない。ヤクザ独特の凄味も無い。
 こんな店に来るくらいだから、特に裕福でも無いのだろう。
 しかし、今現在に関しては大盤振る舞いするほどの余裕が有る。

「分かんねえな」
「まあまあそんなヒトより、マッキーちゃんお話して」
「マッキーちゃんはサマアカちゃん事件は解決しないのー」

 

  一しきり女の子と遊んでいる内に、店の隅で独りで飲んでいる男が気になり始めた。
 マキアリイは常日頃ヤクザや犯罪組織、諜報機関、あるいは捜査関係者などなどに付け回されており、尾行者監視者には不自由していない。
 その手合だと見当を付けたが、今回自分が対象ではないらしい。
 奥の客の方だ。

 男が便所に立ったのを見計らい、自分も席を抜け出して付いていく。
 はたして便所ではなく、廊下の隅に有る公衆電話に。
 背後から挨拶をした。

「よお。」
「な、なんだお前」
「こんな所で怪しい奴を見つけてしまいましたとさ。これは正義の鉄拳を御見舞してやるべきだと愚考しまして」
「あ、バカお前、マキアリイだろ勘違いだ。お前じゃないおまえじゃ」
「悪党どもはみんなそう言うのさ。でも後でみんなごめんなさいする。さあ!」
「さあじゃない、違う違う俺は、捜査官だっ」

 そんな事は最初から分かっている。分かっていて脅してみせた。
 どうせまともに頼んでも何も教えてくれないから、ちょっとお近付きになる手口だ。

 彼はノゲ・ベイスラ中央警察局のココラバコ捜査官と名乗る。マキアリイよりは少し年長。
 監視対象であったのは、「サマアカちゃん事件」の被害者一族に含まれるカンパテゥス家の、カンパテゥス・ヲオギョーラという男で35歳。
 ただし、直接の親族ではなくちょっと縁遠い人物だ。

 

 説明するに、かって放送演劇で話題となったサマアカちゃんの曾祖母であり、『カンパテゥス編機工業』の創業者カンパテゥス・イダンツ・ヱダが絡んでくる。
 劇中で示された通りに、イダンツは息子を産んだ直後に夫を亡くし、婚家カンパテゥスの親族から爪弾きにされ市中に放り出された。
 ヲオギョーラは、この本家に当たるカンパテゥス家の血族となる。

 その後の筋書きによると、時代は第七協和政体が崩壊した直後の激動期にあたり、裕福であったカンパテゥス本家の家業が次第に傾いていく。
 イダンツの始めたささやかな商売は数多の困難を乗り越えて雄々しく成長していくのに対し、急速に没落していった。
 有能な当主の急死、後継者の無能と放蕩もあって財産を失い、遂には破産状態に陥る。
 ベイスラを離れてタンガラム全土をさすらい、イダンツとも音信不通となった。

 それから20年を経てすっかり荒び、為す術が無くなった本家一族がイダンツの元に転がり込んでくる。
 助ける義理も無いのだが、イダンツは相応の補助をしてやり、一家はなんとか生きていく事が可能となった。職も探してもらい、子育ても行えた。
 その子供達というのが、カンパテゥス・ヲオギョーラであり、姉のカンパテゥス・キミスア37歳である。
 現在は両親も死に、本家はこの二人およびキミスアが産んだ父親の居ない子のみである。

 

「職業は?」
「基本的に何でも屋だな。カンパテゥスの分家が大金持ちだからなにかと雑用をもらいに行き、ほどほどにこなしてカネをもらう。そんな感じで暮らしている」
「じゃあこんな酒楼に来るカネは無いな、本来」
「カンパテゥスの名を利用して口利きをしてやるとかで出入り業者からせびっているらしいが、問題を起こすほどのバカではない。小悪人にすらなれないて奴だよ」

 マキアリイは、店で大いに騒ぐヲオギョーラを覗き見る。
 誘拐事件でイダンツの一家が沈んでいるだろう中での、この振る舞い。積年の恨みが募っているのか。
 だが同時に、事件が経済的利益を彼にもたらすかのようにも思える。

 ココラバコ捜査官は、

「マキアリイさん、あんたがワッテー(運転手)の死亡を確認してくれたから、もう一度関係者を洗い直しているんだよ。邪魔してくれるなよ」
「こちらも捜査に首を突っ込む気はサラサラ無いよ。依頼料ももらえないのに」
「そういう事だ。本職に任せろ」

 

 民間刑事探偵は、国家権力である警察局の捜査官に比べると捜査能力で格段に劣る。なにしろ物量が違う。
 出来ない事はやるものではない。素人扱いされても甘受すべきではあるのだ。

 

       *** 

 寝たり起きたり店をはしごしたり、気がつくともうすぐ朝日が登る。
 否、雨雲に遮られ、今日も陰鬱な一日の始まりだ。

 これじゃあクワンパに殴られるな、と慄きながらもふらふらと、雨に濡れないように軒先を選んで歩いていると。
 ネコが居た。真っ白な無尾猫だ。
 マキアリイに呼びかけるかに、ニャアと鳴く顔をした。声は出さない。

 「なんだい」と近付いていく。
 無尾猫は極めて知能が高く、人間並みの思考が出来る。人間並に間抜けでバカな真似もしでかす。
 さてはまた、人間様が手を貸さねば解決できない厄介事に嵌り込んでしまったな、とフラフラ付いていく。
 マキアリイはヒトだけでなくネコにも面倒見が良い。

 無尾猫はとある建物の狭間を首を伸ばして指し示し、そのまま壁伝いにとんとんと屋根まで登っていってしまった。
 同様に、マキアリイも壁をトントンと蹴って軽やかに垂直に登っていく。
 彼の武術の師匠は、こともあろうに「ネコを追いかけて捕まえられるように成れ」と修行を課した。入り組んだ地形や障害をすり抜けて疾走するネコに追いつけとの、無理無茶な難題だ。
 結果、ほんとうにネコと同じ動きが出来るようになった。

 屋根の上では端っこに端正に座り、下を覗き込んで指し示す。
 上から覗いてみると、男が狭間に逆さに嵌っていた。屋根から落ちて狭くて身動きが取れなくなったらしい。
 ネコはマキアリイに、この人間を助けてやれと教えてくれるのだ。

 だが下手に入るとマキアリイも挟まって動けなくなってしまう。上から呼び掛ける。

「おーい、あんた。大丈夫か」
「や、やられた。助けてくれ」
「怪我は無いか。骨は折れてないか」
「分からないが全身痛い。助けてくれ」

 上から見てもよく分からない。仕方なしに入れる所までは降りてみる。男から3杖(2.1メートル)上で停まる。
 やはり消防救難隊に任せるべき案件だ。
 顔が見えた。

「お、あんたは」
「助けてくれ、殺されそうになった。必死で逃げたんだ」
「屋根の上をか。誰に狙われたんだよ、ヤクザか」
「そんなんじゃない、もっと恐ろしい連中だ。姉貴が、あいつらとツルんで俺を殺そうとした」
「姉貴って、あんた自分の姉に殺されるような事をしたのか」
「ちがうちがう、あいつらは俺を殺して分前を寄越さないつもりなんだ。俺を犯人に仕立てる気だ」

「そうか、じゃあこっそり助けた方がいいな」
「頼む、見つからないように、上手く逃してくれ。礼ならする、カネはアテが有るんだ。有るんだ」
「ちょっと待ってな。信頼出来る仲間を呼んでくるからさ。ちょっとの辛抱だ」
「頼む、早く、たすけて」

 

 ヱメコフ・マキアリイが信頼する仲間とは、巡邏軍消防救難隊および警察局捜査官御一同様である。
 建物の狭間から救出されたカンパテゥス・ヲオギョーラは、捜査官と共に救急車に乗せられ、病院で厳しく訊問される事となる。

 前夜会ったココラバコ捜査官も現場に急行していた。

「済まない、急に姿を消してこちらでも人を増やして探していたところなんだ。まさか屋根から落っこちているとは」
「何があった。急に殺されるとか、事態が急変したとしか思えないが」
「身代金の受け渡しが昨夜行われた。500金(5千万円相当)だ。追跡は失敗した」

「つまり、ヲオギョーラは用無しになったわけだ。姉の方はどうなった」
「今捜索中だ。あちらもいきなり所在不明になっている」
「じゃあ急いだ方がいい。そっちも殺されてる可能性が高いぞ」
「ああ」

 

 だが手遅れであった。

 ヲオギョーラの自白で判明した「サマアカちゃんの監禁場所」である廃屋に、巡邏軍特別強行制圧隊が踏み込んだところ、
最近何者かに使用された形跡は有るものの、幼児を監禁していた様子は無く、
カンパテゥス・キミスア37歳の遺体が発見された。

 キミスアとヲオギョーラの姉弟は、自らの不遇を逆恨みしていたのを犯罪組織に利用され、今回の誘拐事件の片棒を担がされている。
 運転手をすり替えた手口も、ヲオギョーラが関与して正体がバレないように演技をして見せた。

 だがサマアカちゃんの本当の監禁場所は、彼らには伝えられていない。

 

       *** 14 

 カンパテゥス・ヲオギョーラの供述によると、サマアカちゃん誘拐事件を最初に計画したのは、姉のカンパテゥス・キミスアだったらしい。

 運転手のすり替えを考えたのも彼女だ。当初案によると、
 犯行当日、運転手は病気等の理由で欠勤し、サマアカちゃんの自動車の運転はヲオギョーラが行う。
 そして途中で運転手に襲撃されてサマアカちゃんを奪われ、ヲオギョーラは負傷した姿を見せる。サマアカちゃんはキミスアが変装して引取り、隠れ家で保護する。
 運転手はそのまま身代金要求の交渉を行い、まんまとせしめて山分けとする。
 サマアカちゃん解放後に、予め用意しており既に発見されている死体が実は失踪した運転手であった、として誘拐犯が実は別人という事にする。
 そのまま運転手は正体を隠して悠々と逃走する。

 いかにも犯罪映画や放送演劇の愛好家が考える陳腐でご都合主義の妄想である。
 この計画のキモは、キミスア本人が隠れ家からサマアカちゃんを発見保護して送り届け、イダンツ一家に一生の恩義を売りつける、ところだ。
 まさしく私怨の産物であり鬱屈した感情を紛らわす自慰に過ぎず、計画した本人ですら実行可能性を考えなかった。

 そもそもが運転手のワッテー・ナスルルを抱き込まねば成立し得ず、冗談めかし「楽してカネが儲かる方法」として提示して、ワッテーにも呆れられた。

 この児戯のような計画が、いつの間にか玄人の犯罪組織に乗っ取られ、キミスア、ヲオギョーラ共に実行犯の一味として犯行に及ぶ事となる。
 犯罪組織からの勧誘は、後に運転手の替え玉を務めた男からだったようだ。
 しかしワッテー本人を抱き込む事は出来ず、当初計画を知る彼を生かしておくわけにはいかない。
 ワッテーを明確に殺害するよう要求したのは、キミスアだったという。

 

 捜査班はここで疑問に思う。
 キミスアの誘拐計画はどこから外部に漏れたのか。犯罪組織は何時それを知り得たのか。

 屋敷内の関係者の証言を総合して、一人の若い家政婦の存在が浮かび上がる。
 ワッテーは彼女に、「この家には酷い親族が居る」と架空の誘拐計画を教えたらしい。

 名をヨルノ・スメァラメという。
 彼女は勤め始めてまだ4ヶ月で捜査陣も要注意とは考えていたが、疑いの目を向けるにはあまりにも美少女であった。
 20歳ではあるのだが、清楚で純粋で賢く品が良く、他人の家で使われるのが冗談に思えるほどの佳人で、印象はまさに美少女だ。

 性格も外見と同様に明るく、陰が無く、幼児に対しても優しく真摯に接し、命じられた事に疑問を持たず喜々として従う、よく出来た娘である。
 サマアカちゃんも「おねえちゃん」と良く懐き、仲良しになった。
 就職を紹介した筋も確かなもので、こんな娘が犯罪者の一味であるとすれば世の中誰を信じるべきか。

 だがヲオギョーラの言葉の端々に、彼女が示唆したと思われるものが登場する。

 彼女はカンパテゥス姉弟に対しても、本来の主人であるイダンツ一家と同様の尊敬を持って仕え、ことある毎に本家筋である誇りをくすぐる賛辞を語った。
 誘拐計画への誘いは別の人物、後に運転手ワッテー・ナスルルの替え玉を務めた男から与えられた。
 彼女と男には直接の接点は無いとヲオギョーラは認識するが、もし彼女の言葉が無かったとしたら、犯罪に手を染ようと考えただろうか。

 

 捜査班は改めてヨルノ・スメァラメを訊問しようと試みたが、気がつくと何処にも居ない。
 誰にも何も語らずに、いきなりカンパテゥス邸から失踪してしまう。
 直ちに全市に非常線を張り、身柄確保の為に捜査員を総動員した。

 例のように情報はあっけなく漏洩し、報道各社も1時刻を必要とせずに把握した。
 ヨルノはカンパテゥス家イダンツ一家の重要な関係者として認識されており、またその美貌から記者の間では注目の的ともなっていた。
 彼女が真の容疑者であると伝えられると興奮は頂点に達し、逮捕の瞬間を撮影せんと器材を抱えて走り探す。

 しかしながら、美しい者が姿を偽るのは至極簡単な技である。
 行方は杳として知れない。

 

       *** 

 女が走り抜ける。雨の街を、灰色にぬめる石畳を。

 傘を傾け靴を睨みながらに歩を進める通行人がはっと顔を上げ注目する美人だ。まだ少女と呼ぶ年齢ではないか。
 服装は良家の子女のもので派手ではなくむしろ控えめに抑えているが、まるで舞踏会に赴く姫君のように華麗な装いに見える。
 細かい雨粒が漂う中を走り抜ければ彩りもくすむはずが、一向に魅力を失わない。

 こんな娘が何に怯える必要があるだろう。傘も差さずに、必死の表情で。
 だが暗い服の男達が何人も後に続くのに、むしろ納得する。
 彼女には、彼女にしかなし得ない役割が、悲劇の犠牲としての演技が要求されるのだ。
 持って生まれた美しさに見合う特別な役が。

 ぬかるみ足元も覚束ない道を、水たまりの飛沫を幾重にも重ねながら、逃げる。走る。
 右手には貧弱な木の柵を挟んで、増水した川がどうと吠える。激流に呑まれた樹木が助けを求めるかに枝を差し上げる。
 迫る水嵩は土手を乗り越えんと窺い、今にも足首に襲い掛かりそうだ。
 さらにその上、

 鉄道高架橋が川沿いの道ごと覆う天蓋となり黒い影を落とす。
 まるで隧道のような暗がりで、繊細な少女であれば晴れの日であっても通るのに躊躇いを覚えるだろう。

 道は一本きり、これを抜けるしか無い。だがもしかすると先に待ち構える者が居るのでは。
 懸念は有ってもただ突き進むしか彼女には残されていない。
 ばしゃばしゃと立てる飛沫が止み、ただ流れる水の轟音のみが聴覚を圧した。
 天井に反響して、まるで世界全体が自分に覆い被さってくるかに錯覚する。

 道の向かいから輸送自動車が迫り来る。前照灯の煌めきが捕食獣の牙を剥く顔に見え、思わず立ち竦む。
 風を巻いてすぐ脇を走り抜けた。排気煙の臭いが遅れて襲い、呼吸をしばし妨げる。
 喘ぎに咽び、涙が零れる。急に疲労を覚えて脚の慄えが止まらない。
 出たい。 ただ前に、闇の外に、それだけを欲するのに天蓋は何処までも続き心を押し潰す。
 脳裏には無数の想像がひしめいて、正常な判断を下せない。激しい濁流があたかも自分を誘っているかに感じられる。
 死すらもこの状況よりはまだマシなのかも。
 いや、まだ折れてはダメだ。

 ゆっくりと背後を振り返る。薄い灰色の影がまだ、橋の手前にも到達していない。
 だがこれ以上引き離すのは無理だ。
 タスケテ、誰かわたしを助けて。声にならない叫びを上げ、また駆け始める。
 頭上では鉄輪の響きが雷鳴のように軋み唸り、震え、終わらない。

 空が広い。高架下を抜けた。雨が止んでいる。
 見渡す限りに灰色の雲が敷き詰められる中、一箇所だけ割れて青が覗く。光が地上を刺した。
 その指し示す場所に、輝く者が居る。こちらに歩み来る背の高い男の姿が。
 背後には女も従うが、それは眼に入らない。

 もしも世界に神が本当に居るのなら、これこそが助けの手であろう。
 彼は自分を救うために、この場に遣わされた。何の根拠も無しにそう感じる。直感した。
 いや彼女の脳髄では自らが思いもしない作用が働き、彼を正しく認識する。
 間違いなく、彼は自分を助けてくれる。そういう人であらねばならない。

 

 男を目掛けて走り込み、その厚い胸板に飛び込んだ。
 濡れた身体で抱きつき、震えながら必死で懇願する。

「助けてください。怪しい男達が何人も、わたしを追いかけてくるんです!」

 ダメ押しに胸に頭を擦り付ける。これで大抵の男はなんらかの反応を見せるはず。
 だが動かなかった。肯定否定、どちらをも示さない。
 算が外れて怪訝に思い、顔を上げて表情を覗う。

 高架橋下の暗がりを抜けて来る不審な追手を確かめている。彼らの出方を見て対応を決めるのか。
 男、ヱメコフ・マキアリイは困惑している。

 確かに怪しい、目つきの鋭い男達だ。一般人とは思えない。
 ではあるがその中に旧知の人物、ココラバコ捜査官を発見したから対応を迷う。
 警察局の捜査員が追う女であれば、そして彼は現在サマアカちゃん誘拐事件を担当する。
 どう考えてもこの美女は重要参考人だ。

 女、思惑通りに男が動かないと見て取って、ばっと離れる。
 すり抜けて、再び逃走しようとするが、

「クワンパ、そいつを捕まえろ」
「お任せ!」

 カニ巫女棒に躊躇は無い。曇天に弧を描き、見事一撃で女を仕留めて見せる。
 追いついたココラバコ捜査官以下が女 ヨルノ・スメァラメを確保した。

 

       *** 

 苛烈な訊問の末にヨルノ・スメァラメが自白した隠れ家に巡邏軍特別強行制圧隊が突入し、誘拐犯を逮捕する。
 既に主要な幹部は逃走を果たしていたが男2名と、サマアカちゃんの世話係として雇われた女が1名捕まった。
 そして、サマアカちゃんは。

 大勢の取材記者が取り囲み、撮影の閃光を幾つも同時に瞬かせる中、サマアカちゃんは巡邏軍女性兵士に抱かれて両親の腕の中に戻された。
 まだ若い母親は涙で愛児を抱きしめ、ただただ泣き続け、子供を困惑させる。
 父親も二人を上から抱いて、関係各位に感謝の言葉を捧げながら、こちらもまた泣くのである。
 もちろん全国中継放送。

 ノゲ・ベイスラ中央警察局の事件担当法衛視は胸を張って記者会見に臨む。
 2件の殺人が絡む凶悪犯罪であったが、誘拐の被害者カンパテゥス・サマアカちゃんを無事奪還できた事で、まずは満足すべき成果と言えよう。
 身代金500金は奪われたままだが、犯罪組織に繋がる重要な関係者を逮捕した。
 いずれ良い結果を報告出来るだろう。

 質疑応答を終え記者会見を締め括るにあたり、法衛視は苦渋無念の表情を顔面に色濃く浮かべながら、喉から声を絞り出す。

「……一連の事件の解決にあたり、私立刑事探偵ヱメコフ・マキアリイ氏の多大な貢献が有った事を此処に報告し、深い感謝を捧げるものであります。以上」

 

 前日までの長雨が嘘のように晴れ上がった鉄道橋町のヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所前に、黒塗りの大型乗用車が駐まっている。
 サマアカちゃんの曾祖母 女傑カンパテゥス・イダンツ・ヱダがわざわざ訪れて感謝の意を示しに現れたのだ。

 近所の人は、さすがはマキアリイさんだと感嘆賞賛の声を上げ、取材記者も通りに写真機を並べて待ち構えるが、
事務所の中ではさほど和やかに進んではいない。

 マキアリイは自分が依頼されたのは巡邏軍からの轢死体身元調査のみであり、その分の報酬は既にもらっているからコレ以上の謝礼は要らないと突っぱねた。
 それで済ます訳にはいかないのは、この事務所を訪れる者皆思う事。
 イダンツも是非とも、心ばかりでありますからと食い下がる。

 しかしながらマキアリイの意思は堅く、クワンパも感心するところだが、常に不自由をしていながらも所長は金銭的には潔癖である。
 筋が通らない謝礼は徹底的に受け取らない。血の涙を流す痩せ我慢をしてでも、もらわない。

 さすがの女傑も音を上げた。

「クワンパ、お帰り頂きな。」
「分かりました。さあカンパテゥス様、これ以上は無駄です。業務にも差し支えますから、お引き取りください。」
「しかし!」

 カニ巫女も負けず劣らず筋を曲げるのが大嫌いだ。
 こういう時は絶対に退かない。配慮しない。たとえ相手が国家総統であってもだ。

 金文字の扉を逆さに開いて、イダンツとお付きの人達は事務所からの退却を余儀なくされる。
 やむなく暗い混凝石の階段を降りていく。相当の高齢にも関わらず、イダンツは達者で急な階段にも不自由はしない。

 外の通りから二階を見上げると、事務所の窓からマキアリイが見送る。
 再度深々と礼をして、自動車に乗り込み去っていく。

 野次馬も散り、報道記者も数名が残るだけとなった通りの、辻の角にマキアリイは一つの影を見出した。
 電信柱の後ろに隠れるトカゲ巫女だ。藍色の正装を決めている。
 窓からマキアリイが自分を見ていると気付いて、姿を現し遠くから礼をする。
 マキアリイも右手を挙げて小さく返す。

 彼女はこれからカンパテゥス邸に出向きイダンツとの面会を取り付け、マキアリイの虚名を引き合いに出してニセ病院への寄付を勧めるのだ。

 他人の足元を見て弱みに付け込み金銭を巻き上げる。そういう仕組みが出来ている。

 

【二巻之終】

***********************************

 

(テレビドラマ『罰市偵〜英雄とカニ巫女』 出演者インタビュー)

※第二回 主人公「英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ」役のカ=ヴァ・ヤクシャプティさんをお迎えしました。

「よろしくお願いします。カ=ヴァさんは現在27歳ですね。撮影開始時は25歳ですか、少し若いマキアリイですね。」
「実際人間歳をとるもので、本物と同じアクションをするためにはやはり若い頃でないと無理です。撮影期間中ボクは毎日鍛えまくりでした。」
「カ=ヴァさんは学生時代シュユパンの選手として練習に励んできたと聞いていますが、ヤキュ(マキアリイが本来使う格闘技)は経験なさいましたか。」
「あれは恐ろしい球技です。なにしろシュユパンで導入された安全の為の規則が全部ありません。やられる方が悪いという単純明快な論で成り立っている自己責任の世界です。」
「聞くだけで恐ろしい。」

「ドラマの中での演技についてお尋ねします。やっぱり誰でも知ってる国民的英雄マキアリイを演じるのは難しかったですか。」
「マキアリイの役は、これまでにも様々な名優によって演じられてきた難しい役です。というよりも、マキアリイ役を演じる事で名優になっていったと言われるほど要求水準が高いのですね。
 でも今回、監督のパチヤーさんから「これまでのマキアリイ役とは違うものを作ります」と特別に指示を受けました。
 なにしろこの『罰市偵 〜英雄探偵とカニ巫女』には、”マキアリイ”グェンヌ役のワヴターヌさんが出ていますからね。」
「本物が活躍していた時代に映画でマキアリイ役をやっていたカゥリパー・メイフォル・グェヌ氏ですね。彼の演技が後のマキアリイの手本となっていますから、なるほど本物と代役は演技が違わないといけないわけです。」
「だから筋肉です。頭で考えるのはやめてとにかく筋肉が喋るように自分を徹底的に鍛え上げました。でも、本物みたいには動けないから困ります。」
「それも監督の指示ですか。」
「画面に写った時にとにかくボリューム感、なんだか知らないけど凄いものがそこに居る。そんな感じが欲しかったらしいです。或る意味演技というより置物ですね。」
「ほとんど怪獣映画です。」
「あ、そんな感じです。ちょうど、探偵マキアリイが活躍していた時代は怪獣映画も流行った頃ですか。そのイメージをダブらせる、そういう感じです。」
「ファンの方からはご意見はありませんでしたか。」
「違和感を感じる人は多いらしいですが、今回二枚目ではないと監督が徹底してこだわっていましたから、そういうものだと理解してもらえたらしいです。」

「ヒロインの「クワンパ」役のスミさん(シードリイ・スミマス・アム)についてはどうでしたか。」
「怖かったです。だって本当にカニ巫女棒で叩いて来ますから。監督から「ほんとにぶつけろ」と指示を受けていたみたいで、ほんとに殴られていました。」
「痛かったですか。」
「鍛えた筋肉のおかげでそこまでは。とにかく真剣にぶつかってきてくれて有難かったです。これが弱々しいヒロインだと、置物怪獣と釣り合いませんからね。」
「ラブシーンは、」
「無いんですそれが。徹底的に。他の各話毎に出て来るヒロインとは結構接触が多いのですが、クワンパとの間にはまったく潔癖な無接触状態です。」
「二人は恋人にはならない。そういう演出ですか。」
「シリーズ全体を通してほんとうに少しずつちょっとずつ心が通い合っていく。そういう演出ですか、とにかくもどかしく焦れったい。」
「「クワンパ」には思い入れの深いファンが多いからですかね。」
「監督は女の方ですから、クワンパとマキアリイを恋愛関係に描きたくなるのを逆に封印したのではないですか。クワンパが恋に落ちる瞬間、を描きたかった。」
「やはりあの写真のシーンですね。」
「あのシーンですよ。」

「ソグヴィタル・ヒィキタイタン閣下とはお会いになりましたか。スミさんは試写会の時に初めてお会い出来たそうですが。」
「ボクは撮影開始直後に会いに行きました。撮影に使う昔の複葉機を実際にお持ちですからね閣下は。」
「ヒィキタイタン閣下の私物なのですか、アレは。」
「マキアリイと違って、閣下は撃墜された事がありませんから昔乗った飛行機をずっと保有し続けていたんです。大変なお金持ちですから、広大な倉庫に4機も格納されていました。」
「実際に飛べるものですか。乗りましたか。」
「恐れ多くてそれは無理です。整備はされていて飛べるそうですが、現在の飛行機とは徹底的に違いますからね。撮影は地上と水面に浮かべた状態で行いました。空中戦は古い飛行機専門の操縦士がやっています。」
「格闘も出来て飛行機も操縦できる、本物のマキアリイはとんでもない人ですね。」
「でも戦車とか水雷艇とかオートバイとか、当時の機械はあらかた乗せられました。飛ぶのが無理だっただけで、映ってる本人ですよボク。」
「閣下とお会いした印象はどうでしたか。」
「殴られました、胸板のあたりを。筋肉の付き具合を試してもらったのです。閣下のご意見では、マキアリイ本人はそこまで筋肉質ではないという事でしたが満足していただけました。」
「おおー、やっぱり筋肉ですか。」
「大正解です。」

「それでは最後に、読者視聴者の皆様に一言お願いします」
「えーこれは監督にも説明されたし、歴史上の本人も言っていることですが、「ヱメコフ・マキアリイは英雄探偵と呼ばれるが、名探偵と呼ばれた事は無い」、これに尽きます。
 深い推理やドロドロとした怨念なんかはこのドラマとはまったくに無縁ですから、安心してご覧ください。」
「ですが、結構知的なシーンは多いですよね。」
「知的な筋肉です。行動と判断が同じタイミングで働く、だから常人を超えた活躍が出来た。ボクはそういう人だと考えます。
 あと、ゲルタです。苦くて人生の味がします。味わい深い人物はやはり食べ物から生まれます。」
「本日はありがとうございました」

 

 

 

TOPページに戻る / 『罰市偵』INDEXページに戻る
inserted by FC2 system