ウエンディズ顧問、古典の先生、河野かほりは、本日、個人面談で生徒一人一人と進路についての相談をしている。

 今年から三年生の副担任についた河野先生は、まったくの偶然でウエンディズメンバーがひとりも居ないクラスに当たった。彼女はこの僥倖に天への感謝を忘れない。が、ひとり問題生徒が居た。それは

河野先生「大東さん。あなたは私学文系でいいわけね。」

大東「はあ、まあ、入れるならばどこにでもという感じでお願いします。」

 

 大東桐子17歳、暴力事件による停学二回。身長163センチのほっそりとした美人であるが目つきが鋭く可愛げが無い。髪も淡く染めてゆるいパーマを掛けている。当然校則違反だ。協調性が無くクラスで浮いており他人を寄せつけない。加えて、常日ごろ学校中に手裏剣を突き立てたり、刃物をふりまわしたりしている。

 これはただ単に武器の操法の練習をしているだけで悪意は無い。生まれつき刃物が好き武器が好きという迷惑極まりない趣味の持ち主なのだ。練習の甲斐有って武器術のみならず素手での格闘も自然と強くなった。刃物による攻撃を想定すると集中力や見切りが厳しくなる、相手の急所も見えてくる。クリティカルヒット狙いの危険な格闘者だが、どう考えても現代人としては不適であろう。

 おおざっぱな性格なものの潔癖でもあり、違法行為や暴力を好む所ではない。が目立つ風体なので街に出るとよく、他校の生徒や進学しなかった子にからまれてしまう。結果、自力でなんとかして暴力事件に発展したという損な役どころで、停学にこそなったが補導とか書類送検は未だ無い。桐子自身は、素人相手に喧嘩しても死んだり大怪我しないよう手加減するのがうっとうしくて嫌になる、というまるで反省の色の無い態度で通している。

 成績に関しては見かけ道理、まるでなってない。学習意欲も無くとりあえず落第しないような最低ラインをさすらっている。浮き世の義理で出席はちゃんとしているよ、というものだ。

 

 河野先生はため息をついた。

 

先生「そういう態度じゃダメじゃない。今からでも頑張ったらちゃんとした所に受かるわよ。というよりも、あなた、勉強してるの?」

大東「他人に自慢出来るほどはしてません。」

先生「私の経験によると、他人に自慢出来るほど勉強しなくちゃ、成績は上がらないわよ。言ってみて、一日何時間やってるの。」

大東「それはー、はは、せんせいも言いにくいこと聞くね。」

先生「もう。これは一度おうちの方に相談するしかないわね。」

大東「それは止めた方がいいです。というよりも、私ひとり暮しだし、実家とは疎遠だし、」

先生「あ、ごめんなさい。おかあさまは、」

大東「というわけで、小言や苦情を言うのは私だけにしてください。」

先生「そうだったわね、えーと、あなた、お友達も少ないわね。あんまりクラスでも評判良くないし、誰か親しい友達に相談とかしているのかしら。友情って大切よ。」

 

 大東桐子はここでちょっと考えた。友達は居ないことは無い。が、校外の友達だったりすでに学生ではなかったり、と進路相談に役に立つ者はほんとに思いつかない。あえて言うならば、

大東「選択授業で一緒になる、相原志穂美、か、それかー、まあこれが一番たよりになるかな、蒲生弥生ですか。相談出来るのは。」

先生「げ、二人ともウエンディズじゃない。」

 

 露骨に嫌がる河野先生に大東桐子は、この人も大人になれないなあ、という淡い感想を抱く。

大東「この二人は正反対の結論を出しますから、相談しても役に立ちませんよ。二人とも先生はよく知ってるでしょ、顧問なんだから。」

先生「それは言わないでちょうだい。あの子達に付き合ってたら、命が幾つ有っても足りないんだから。正直、早く卒業してくれないかな、って思うくらい。あ、言っちゃダメよ。内緒。」

大東「はい、内緒。でも、わたしのコトもそう思ってません?」

 

 河野先生はさすがにマズったという顔をした。あわててまとめに掛かる。折りよく次の生徒の時間となった。

先生「あ、ということで、とにかくもっと勉強しなさい。いくらどこでもいいってもおのずと限界はあるのよ。どこにも受からないという事にならないよう、自分で頑張らなくちゃいけないわ。あなた自身の人生なんですから。」

 結局はそういう事しか言えないわけで、あまり有意義な時間では無かったなと、大東桐子は教室を後にした。

 

 とは言うものの、さすがに三年生ともなると将来を考えざるを得ないわけで、元来悩むに適していない脳髄を酷使する必要を感じていた。

桐子「やっぱ、OLって柄じゃないよねえ。大学ってとこは、なんか行けばバカになるとかいう話だし、かと言って、」

 全然思い浮かばない。同学年の女子と比べれば、年長の大学生とか社会人とかと付き合ったりもして割と世間も知っている筈なのだが、なにか根本的なところで欠落している部分が自分にはある、そう感じざるを得なかった。

 その穴を埋めるものは。

   トン!

 手首の裏に指を滑らし、ひらりと右手を揮うと、魔法のように木製げた箱に棒手裏剣が突き立った。距離7メートル、狙いどおりの場所にヒットする、完璧な腕前。

桐子「たぶん、・・・忍者なんだろうね、天職と言えば。おんなだからくのいちか。」

 いくら酔狂でも忍者に就職出来るとは桐子も思わない。やはりまともに大学にでも行くしか選択肢は無いのだろうか、迷う。

 

「あ、とうこー。ちょうどいい所にいた!」

 振り替えると、弥生ちゃんだった。後ろには志穂美まで控えている。偶然、と言うよりは、さっき名前を呼んだから縁しが濃くなったのだろう。

弥生「桐子、話があって探してたんだ。ね、お願い、一肌脱いでくれない。」

 桐子に弥生ちゃんが頼み事をするのは珍しい。ふつうは桐子が弥生ちゃんに泣きつくのだ。

桐子「なにー? あんたには借がいくらかあるけど、あんまり厄介なのはヤだよ。」

弥生「いやちょっと暴れてほしいだけなんだ。」

桐子「?」

 弥生ちゃんのお願いはウエンディズの事だった。ウエンディズの新入部員と下部組織で中学生のピンクペリカンズが一応の訓練を終えて実戦投入準備を始めたのだが、彼女たちは練習以上の格闘を経験した事が無い。対ゲリラ的美少女リーグならば、厭兵術のスタイルの格闘で練習どおりにそのまま行けるのだが、他のスタイルの武術格闘技戦闘術が相手では、練習通りには進行しないので柔軟性に欠けて対処に失敗する可能性が高い。タフな戦闘力は様々な異なるスタイルの戦闘をくぐり抜けての場数がものを言う。

 そこで桐子に、ウエンディズ、ピンクペリカンズの新人相手に格闘して、異なるスタイルの戦闘の経験値を積ませるのに役立って欲しい、という訳だ。

 桐子は二つ返事で引き受けた。

桐子「いいよー。そういうのだったら別にお願いされなくてもいつでもやってやる。でも、ウエンディズのレギュラーともやらせろよ。」

弥生「まあそれは、そうだね。レギュラーも折りを見て、手裏剣つきでやってみるかな。」

 飛び道具はウエンディズにもある。まあ刃が付いてるのはさすがによろしくないが、目先を変えて喝を入れるためにもじゅえるとか明美とかを脅かしてみるのもよいだろう。

 弥生ちゃんの後ろから志穂美が口を出した。

志穂美「弥生ちゃん、どうせやるのなら刃物使わせよう。実戦というなら経験こそが最大の武器だ。」

 志穂美の言うことは正論である。本物の刃物を相手にすると逃げ回るだけでも一苦労で、大抵は身がすくんで動けない。真に役立つ護身術というならば本身の白刃による格闘を経験しておく以上に有効な練習は無い。それは弥生ちゃんにも桐子にも分かる。分かるが、普通はそんな事をさせようとは思わないだろう。二人とも顔を白く引き攣らせて笑った。

桐子「あーー、ところで、わたしもちょっと話があったんだ。ねー、ちょっと付き合わないか?」

 他に相談する人間も居ない事だし弥生ちゃんなら間違いもなかろうと、桐子は誘ってみたが、あいにく弥生ちゃんは非常に忙しい身体だった。

 もうすぐ生徒会長が任期を終え新しい役員選挙の時期になる。当然副会長弥生ちゃんも引退をしなければならない訳で、代替わりの引き継ぎの準備に忙殺されている。なにしろ弥生ちゃんが門代高校生徒会に入って以来、ありとあらゆる校則を検討し洗い直し正すべきは正し変えるべきは大胆に改正した。学校側とハードな交渉を繰り返した末、弥生ちゃんのコントロールがあればこそ、という条件下での実現を勝ち取ったものもある。故に次代に伝えるべき申し送り事項が多過ぎるのだ。数年後までを見越しての引き継ぎをする必要が発生し対応を検討した結果、読むだけで誰でも弥生ちゃんになれるという五輪書にも匹敵する超絶マニュアル群の執筆中である。通常作業と併せて、とても尋常の作業量でないが、楽々とこなすところが弥生ちゃんの弥生ちゃんたる由縁だ。

弥生「ごめーん。志穂美なら空いてるから頼んでみれば。じゃ。志穂美まかせた。」

 勝手に任された志穂美は無表情に桐子の顔を見る。桐子の思うところ、この女は自分に対してあまり良い感触をもっていないのではないだろうか。人の気持ちに無頓着な桐子といえども、そのくらいはわかるような気がする。ま、これでもいいか。

桐子「ちょっと付き合ってよ。おごるから。」

志穂美「そんなことはしなくてもいい。わたしは非常にしんせつな人間だ。」

 そ、そうなのか、と内心驚いたが本人が言うのだから間違いないのだろう。だが別な懸念がある。こいつに相談してなにか益となるところがあるだろうか。もっとも、この女の進路というのも、考えてみれば想像もつかない。桐子よりも更に不可解な性格なのだから、弥生ちゃんの進路志望を聞くよりも逆に参考になるかもしれない。

桐子「外出て街いこ。喫茶店。」

 門代地区、とくに街場には何故かファーストフード店が無い。喫茶店にでも行く以外無いのだ。下校途中そんなところに寄るのはもちろん校則違反であるが気にしない。

 

 下足置き場で二人は一年生の集団に出くわした。彼らも下校途中であるが、中に志穂美はウエンディズの隊士を見つけた。

志穂美「江良。」

美鳥「あ、先輩。こんにちは。今日はウエンディズ練習無いんですよね。ひさしぶりに早く帰ってさかな釣ります。」

 一年生の江良美鳥は身長173cmと長身で筋肉質でありながら、性格はぼーっとした糠に釘な少女である。趣味は、食物採集、つまり野山や海で食べられるものを漁ってくる事だ。これには理由があり、彼女の父親がリストラされて経済的困窮に陥った結果、三人の娘を抱える江良家の三度の食事の分量が減り、大柄な彼女はいつも腹を空かせた状態に陥りやむなく自力でなんとかしている、という訳だ。中学時代は水泳部の選手だったが余計に腹が空くからとやめた。

 

 志穂美は隣の桐子に振り向きもせず言った。

志穂美「桐子、おごれ。」 桐子「え?」

志穂美「ウエンディズの新入部員で今度お前と戦う事になる娘だ。特技は大食、なんでも良く食べる。」

桐子「ほお、よし、じゃあこいつも連れていこう。」

美鳥「え? 先輩、なんのことですか。」

志穂美「お前にひとつ聞きたい事がある。これまでにどのくらいの量、食べた事がある? 金額ベースでいい。」

美鳥「え、金額ですか。いやーあ、それはー、値段安い方が多く食べられますけどー、そうですねえ、ラーメン一杯430円のお店で5000円払った事あります。小学生の頃ですけど。」

 事態を呑み込めず問われるままに答える美鳥に、なるほどこれはいじり甲斐のあるおもちゃだ、と、桐子は意を強くした。筋力体力は十分ありそうで、自分の練習相手としても使えるかもしれない。恩を売って損は無い。

桐子「今日は、もう少し食ってもいいよ。私のおごりだ。」

美鳥「え、いいんですか。なにか悪いみたいですけど。」

志穂美「これは大東桐子という。弥生ちゃんがこいつの尻ぬぐいにいつも酷い目に遭わされている話は聞いた事があるだろう。その敵をとると思って存分にお前の能力を発揮するがいい。」

桐子「そう、遠慮はいらない。金ならちょっとはある。成金の娘だからわたしは悪い奴なんだよ。」

美鳥「そういうものですか。うーん、まさかウエンディズがそんな戦闘までやっているとは気付きませんでした。じゃあ及ばずながら挑戦させていただきます。」

桐子「うん。期待している。」

美鳥「でも、まだわたし、思いっきり限界まで食べた事が無いですから、ひょっとしたら見かけ倒しで弥生キャプテンのお役に立てないかもしれません。それでもいいですか、志穂美先輩。」

志穂美「骨は拾ってやる。死ぬ気でやれ。」

美鳥「はあ。がんばってみます。」

 桐子は美鳥の顔を見た。表情が無くわかりづらいが、かなり自信がありそうだ。ちょっと財布の心配をした。今現在、たしか二万円は持ってなかったような気がする。安くて量が多くてまずい店にしておこう、と決めた。

 

 校門を出て、城下中学への坂を三人は下る。下校時分であるので他の生徒も周囲には散見されるが、皆、こちらを見ては顔を背けている。桐子は、たぶん自分じゃなくて志穂美に責任があるだろう、と楽観的に考えるが、どちらも災厄を撒き散らす同程度に迷惑な存在だ。ふたりの後ろを付いてくる美鳥は、他の生徒の素振りにまったく何も感じていない。彼女の感受性は鈍くは無いが、どこか遠くの地平を見ているのであろう。

 

 江良美鳥は基本的にはふぁの子分である。

 ウエンディズに勧誘したのもふぁだ。その出会いが妙なもので、冬の海、岸壁で釣りをしていたふぁが、これまた海辺で貝を漁っていた美鳥を見つけた。潮干狩りにはあまりにも不適な寒さの中、岩場を不器用に飛び回り切れるような冷たさの海水に手を突っ込む少女に、ふぁは、得も言われぬ物悲しさを感じた。それで注視していたのだが、十数分後、予想の通りに美鳥は海に落っこちた。周囲には誰も居らず美鳥には連れも無かった為、ふぁがしょうがなく彼女を拾いに行った。別に溺れたわけではないが、というか溺れても水泳部だから大丈夫だ、と美鳥は後で釈明したが、ともかく二月の厳冬の中ふぁは、ずぶぬれの少女を拾ってしまったのだ。置き去りにするわけも行かず、かと言って濡れたままふぁのスクーターに乗っけていくわけにも行かず、とりあえずその場でゴミを焼いてたき火をした。美鳥は同性とはいえ見ず知らずのふぁの前で一糸纏わぬ姿となり、ダウンジャケットを借りて火の前で丸くなり暖を取り、ぽつぽつと色々な話をした。

 そこでふぁは彼女が城下中学の生徒で後輩に当たる事を知る。そして門代高校を受験するのだと聞いた。ためしに城下中学のピンクペリカンズのメンバーの事を尋ねてみたが、美鳥はまるっきりなんの事か分からなかった。それどころか、自分のクラス内に限っても全然人の名前を覚えていないのだ。この娘はちょっとおかしなところがあるな、とふぁはぴんと来た。こういう、一般の生徒からは遊離してしまう人物こそウエンディズにふさわしい、と直感する。

 ふぁは言った。

「そんな狩猟採集生活じゃないまともなバイトを世話してあげるよ。というか、うち来ない? 酒屋の配達て私もやってるんだよ、家業だから。」

「すいません。でも学校の校則でバイト禁止されているじゃないですか。それにわたし、もうやってみたんです、近所の店番。レジのお金が入ってるとこ、へし折ってしまいました。」

 おそろしく不器用。酒ビンを割られかねないから、確かに酒屋のバイトには不向きかもしれない。だがふぁは、彼女に最適のバイト口を知っていた。

「それじゃあさあ、農家の手伝いってのはどう? わたしの知り合いにおじいさんおばあさんだけの農家があるんだ。その家は両親ともに学校の先生だから、農業の手伝いはしないんで、その家の子供たちは熱心に手伝いするけれどいかんせん忙しくて時間がとれない。手が足りない。で、どう?」

 ふぁは、この娘を弥生ちゃんの家に押しつける気だ。果たして、美鳥の目が輝いた。

「直接、食べ物を自分で作れるんですね。自分で作ったものを自分で食べれるんですね。」

「そうそう。ついでに言うと、私は門代高校の園芸部の部長でもあるよ。学校でも野菜作って売っている。」

「お願いします!是非おねがいします。」

 美鳥は初めて真剣な顔になった。真冬の海に落っこちたら、恵比須さまに助けられる幸運に出くわした、という所だ。

 こうして美鳥はふぁの子分になり、首尾よく高校受験にも成功して、ウエンディズのメンバーになった。

 弥生ちゃんの家に連れていくと、おじいさんは快く彼女を引き受けてくれた。おじいさんは言った。

「うちの子は、みんな出来が良過ぎて、誰も田んぼに残ろうとはしないんだな。弥生といい、弟の葉月といい、どうせいつかは東京とかの大学に行くに決まってる。でもあんたなら、野良仕事の教え甲斐があろうってもんだ。これも仏さんのお引き合わせだな。」

 

 

 10分ほど坂を下って港付近の商店街にまでやって来た。ここまで下りないと高校生がたむろ出来る店は門代高校付近には無い。三人はどこで食べるか思案した。

美鳥「あの、せっかくお金使って頂けるのですから、ここはシャクティさんのおうちを利用させてもらってはどうでしょう。」

桐子「シャクティて、あのインド人のメンバーだね。料理人の娘なのか。」

志穂美「ああ、そういう手はあるな。そうだな、どうせ金払うのだったら知人のところの方が建設的だ。」

 他人の金だと思って志穂美はいいかげんに言い放つ。とはいえ、

桐子「ちょっと待て。インド人の娘の親の料理人といえば、インド料理だろ。高くないか?」

志穂美「王族とかが食べるような料理は高いだろうが、一般庶民が食べてるものはそんな値段にはならないだろう。なんせ10億人も居る国だ。」

桐子「そりゃそうか。・・待て、インドの安物の店屋物を食わせる店が、日本で商売成り立つのか?」

美鳥「それは大丈夫です。シャクティ先輩の話だと、おとうさまは日本で料理の勉強をして料理人になったそうですから。」

志穂美「ああ、ただ単に日本に出稼ぎに来て、中華料理店で下働きで入って、その流れで蕎麦屋に移って、そこで仕込まれてプロになったという話だ。」

桐子「それで、インド料理なのか、おい。」

 

 美鳥の案内するままに三人は商店街に入った。アーケードの入り口すぐに、店はある。いや、店は以前からずっとそこにあったのだ。志穂美が物心付いた時からその店はあった。そして、この歳になるまで、店が営業しているのを見たことが無い。中でなにが行われているのか見当もつかない、いわくつき伝説の店だったのだ。

 桐子もそれを知っていた。店の前に立った時、すこし身震いした。

桐子「もう一度聞くけど、間違いなくここだな。」

美鳥「はい。」

 

 「平民食堂」と書いてある。今時平民、だ。もう数十年前にハイカラにペンキで書かれた木の看板がおおきく掲げられている。一方、インド料理店であることを示す何物も、店外に飾られていない。営業中の札すら無い。

桐子「ここは、営業してたのか、・・・・というか、ここ、店の権利持ってる人、ちゃんと生きてたんだね。」

 桐子が一番扉に近い。左右を振り向いて二人の顔を見たが、志穂美が開けろと促すので、観音開きの扉をおそるおそる真鍮のタブを押して入った。

 首を突っ込んで中を覗くと、意外と明るかった。木造で内部は全面真っ白なペンキ塗りでむしろモダンな感じすらする。日本の食堂というよりも、こざっぱりとした病院の待ち合い室のような趣だ。その壁の一面に、インドの神様の巨大なポスターが大きく貼り付けてある。まさにインド。だが、本物でまともなインド料理店ならもうすこし趣味の良い内装にするだろう。桐子が以前に行った普通レベルのインド料理店は、黒檀のまがいものの壁板で店中を品良く黒く統一していた。あそこの店主なら決して、40年ほど前にはおしゃれだった洋食食堂に極彩色のポスターを貼るなどという軽挙はしないだろう。

志穂美「ほう、なかなかのものだな。」

 続いて入って来た志穂美が言うのは、招き猫だ。高さ50cmある巨大な黒い招き猫がカウンターに鎮座しており、ますます無国籍性を強く感じさせる。振り返ると扉の脇の観葉植物の陰に金魚鉢もある。これは中国の縁起物で赤い金魚に緑のホテイアオイは商売繁盛の景気づけに良いとされる。店主の節操の無い縁起担ぎの趣味が如実に現れている。

 最後に入った美鳥が、遠慮がちに言った。

美鳥「何が出てもひるまずに食べてみせます・・・。」

 桐子は美鳥の、そこはかとない批難と逃避の意思を感じ取った。志穂美が居なければこのまま踵を返して別の店に行く事になったかも知れない。だが、元々ウエンディズ関係者の店だ、逃げるのは無理だったろう。

 案内も乞わずに勝手に手近のテーブルに志穂美は着いた。傍若無人さにはひけを取らない桐子だが、こういう時に少し、自らの普通さ平凡さを自覚する。或る意味志穂美は桐子の憧れなのだ。気を取り直してあえて悠然と椅子を引いて志穂美の隣に座り、美鳥も柄にもなく慌てて着席する。

 当然のことながら、店内には三人以外の客は居ない。店員も見当たらない。

 だが扉の開く音を聞きつけて、まもなくカウンター奥からインドの民族衣装サリーに身を包んだ、色の黒い痩身の中年女性が現れた。楚々として上品な、だがなんとなく影の薄い、肌が黒いにも関らず「朧たけた」感じの整った顔だ。たぶんこの人が、シャクテイの母親であるのだろう。

志穂美「シャクテイは父親似だな。」

 勝手な予想をぽつと漏らす。継いで、さすがに小声で、御苦労されているようだ、と付け加えた。

「あの、シャクテイをご存じで、門代高校の生徒さんですか。」

 予想したよりもはるかに流暢な日本語で彼女は尋ねた。志穂美は音もなくすっと立ち上がる。釣られて美鳥も立ち上がった。志穂美は身長169cm、美鳥は173cmと大きな娘だ。小柄なシャクテイの母親を、上から威嚇する形になってしまった。

志穂美「ウエンディズ the BASEBALL BANDITSで前衛突撃隊員を務める相原志穂美です。娘さんをお預かりしています。」

美鳥「あ、一年生の江良美鳥です。お世話になっています。」

「これはごていねいな挨拶を。申し遅れました、シャクテイの母です。うにゅいおsでおごすぞ!!」

 シャクテイのおかあさんはカウンターから厨房に向かってインドの言葉で声を掛けた。太い声でまた意味が分からない返答があり、そして中肉中背のインド人のコックさんが現れた。この人がお父さんであるはずだが、その服装格好はどう見ても、日本の板前だ。

「これはようこそ、シャクテイの父でアヒラムです。この度は娘がなにか凄まじく強力なカラーテの道場に通うという事で心配しておりましたが、あの子はこれまで一度も自分で何かしてみようと言い出した事は無くて、これもなにかの縁と任せておるのです。どうぞよろしくウ。」

 多少芝居じみたジェスチャー付きでお父さんは挨拶する。ちょっと怪しいところがある日本語だが、長く関西方面に居たにしては不思議と関西弁は入っていない。ウエンディズについてかなり誤解があるようだが、特に修正する必要は無いだろう。おいおいシャクティ自ら正しい知識を積み重ねていってくれるのも、楽しみの一つというものだ。

桐子「・・・シャクティはお父さん似だね。」

 先程の志穂美の言葉をそのまま反芻する。目がぱっちりと開き、元気がよく、おしゃべりなところは本当に良く似ている。

「あの、ところでうちのシャクティがなにかし出かしたでしょうか。あの子はそそっかしいところがあって、ひょっとしてご迷惑をおかけしたとかでは。」

 お母さんがおそるおそる尋ねる。これが弥生ちゃんだったらそんな台詞は言わせなかっただろうが、なにせ志穂美と桐子だ。押しかけられた方が不安に思うのは当然だろう。もし志穂美の機嫌でも損ねた日には、シャクティ回転逆さ張りつけ、くらいは覚悟してしまう近寄り難さがある。

志穂美「いえ、お客さんです。外で食事するつもりでしたから、せっかくなら、と寄らせて頂きました。」

 志穂美にだって人に威圧感を与えない言い方は出来る。その言葉にご両親はほっと表情を崩した。いそいそと動き始める。

「ああ、さようでございますか。それはありがとうございます。さっそくメニューを取って参ります。」

 相手が単なる女子高生なのに、お母さんは非常に腰が低い。お父さんは厨房に戻って準備に入った。

 カウンターから手書きをコピーしてラミネート加工されたメニューを三枚持って来た。色つきボールペンで可愛らしく書かれたメニューはちゃんとした日本語と漢字である。志穂美は気付いて言った。

志穂美「これは、シャクティさんが。」

「はい。私どもはインドから参りましたから、日本の言葉も文字もまったくダメだったのですが、あの子は小さい時から頭が良くて、すぐに日本の文字も漢字も覚えてしまいまして、私たちを助けてくれるのです。幼稚園の頃にはもう漢字で書いたマンガが読めて、この子は天才じゃないかしらと思いましたが、日本語にはルビというものがあったのですね。ホホホ。」

 シャクティの文字は女子高生らしく甘えたようにまるい。丸文字ではなく、自分ではマンガの書き文字を真似て書いているつもりなのだろう。三人は三様にメニューを眺めている。

桐子「・・・・・・しほみ、これは、・・・・・。」

 桐子の声が震えた。志穂美はくんと顔を上げ、前髪を揺らして桐子を見た。桐子の顔は紙のように白い。

桐子「これは、・・ぜったいたべなきゃいけないんじゃないだろうかね・・・・。」

 桐子が自分の手の中のメニューで示す品目を、志穂美は長い首を伸ばして確認する。

 

      インドラーメン        500円

      インドチャーシューメン   650円

      インドちゃんぽん      800円

      インド風カレーうどん    550円

 

志穂美「・・・・・・麺か。」

美鳥「うわあーおいしそうですねー。」

桐子「おいしそう?! おいしそうと思うのか、お前は。」

美鳥「え、でも、インド風でしょ。」

志穂美「桐子!」

 テーブルの側にはまだちゃんとシャクティのお母さんが控えている。桐子は慌ててまたメニューに顔を伏せた。だが志穂美はそのまま注文に出る。

志穂美「それでは、インドラーメンとインド(肉は入ってませんよ)カレー。こっちの子はインドちゃんぽんとインド(炭火焼ちきん)カレー。桐子はカレーうどんとインドカレーちゃーはんだ。」

桐子「ちょっと待て、・・・・いや、まあ、それでもいいや。どうせどれ見ても見当がつかないから。」

志穂美「ではそういう事で。」

 お母さんは注文を繰り返すとカウンターに下がっていった。厨房の奥でインドの言葉がこだまする。うどん、は日本語だったからメニューを読み上げていたのだろう。

 

志穂美「それで、なんだ。」

桐子「へ?」

志穂美「へ、じゃない。なにか相談したい事があったのだろう。」

 桐子は坂を下る途中からすっかり志穂美と同行する目的を忘れ去っていた。慌てて考えを立て直す。よく考えると、その目的とは下級生が居るとちょっと話しづらいものだったが、無視する事とする。

桐子「や、ほら、時期が時期だけにあれだ。進路の事だよ。高校出てどうするか、進学するか、それとも別の道を選ぶか。」

志穂美「なるほど。おまえにはまるっきり向かない思考だな、それは。」

桐子「面と向かって言われるとなんだが、そのとおりだ。というか、そう言うお前はどうなんだ。なんか当てがあるのか?」

 志穂美はそのまましばらく石像のように止まった。呼吸している素振りすらない。そして、ちらと瞳を振った。

志穂美「幼稚園の先生というのはどうだろう。小さい子は可愛いぞ。」

 桐子はぶっと吹き出した。そこに、ようやっとの事、シャクティのおかあさんがお茶を三人分淹れて来た。桐子はおかあさんに顔も向けず、左手で口元を押さえながらろくに手元を見もせず右手を机の上に這わしてカップを取り、噛りつくように茶を啜った。インド料理店らしく紅茶で、成金の娘にしては趣味のいい桐子には受け入れ難い安物の葉だが、背に腹は換えられない。

桐子「幼稚園のせんせーえ??」

美鳥「はあ、志穂美先輩ってそういう人だったんですね。優しいひとなんだ。」

 美鳥が能天気に受け答えする。当の志穂美は澄ましたものだ。

桐子「おまえ、ようちえんってのは、子供だぞ。赤ちゃんみたいなものだぞ。乱暴に扱ったら怪我するし、びーびー泣くし、殴ると親に訴えられるぞ。」

志穂美「まるで私が乱暴者みたいな言い方だな。私だって手加減という言葉は知ってるし、か弱い幼児を手に掛けるなどという卑劣な真似をするわけがないだろう。」

桐子「いや、でも、そうだ適性ってものがあるだろ。控えめに見積もっても、おまえは小さい子に教育上良くない影響を与えるぞ。普通の人間ならそう思うぞ。」

志穂美「そうかな?」

 志穂美はどこか遠くをまっすぐに見つめた。志穂美には滅多にない、まるで近視の人が見えないものを見るような表情だ。殊勝にもものを考えているのだろうか、桐子は不安になった。

志穂美「今時、幼稚園の先生といってもやさしいばっかりではいかんだろう。近所には不審者とか変態が徘徊して子供を誘拐するような時勢だ、小学校に刃物を持って乱入して子供たちを殺していくとかの事件も起こってる。そういう時、大人の先生はどうするべきだと思う?」

桐子「ああ、・・・・。」

 桐子は志穂美の考えがやっと理解出来た。それはむしろ、美しい心映えと呼ぶべきであろうが、しかしウエンディズ以外の余人にそれを理解させるのは無理であろう。

美鳥「志穂美先輩はすごいな、そんなこと私考えた事もなかったです。そうかー、そういえばそういう事もあるんですよ。そうです、むだに戦っちゃいけないんですよね。弥生キャプテンがいつも言ってることですよね。」

 志穂美は美鳥にこくっとうなづいた。満足そうだ。

 桐子はもう一度まずい紅茶を啜った。マズイ、どういうわけだか知らないが、非常にマズイ状況だと感じる。自分とおなじように刹那的ではないかと思われた志穂美が、実はこんなまともな事を考えていたとは。どう考えても自分が迂闊で遅れを取ってるな、とひしひしと感じられる。そんな桐子の心理状態を見抜いたかのように、志穂美が話し掛ける。

志穂美「・・・・おまえ、ほんとになにも考えてないな。」

桐子「い、いや。あるよ、ちゃーんと。そう、たとえばOLになってだね、外国とか遊びに行って、てきとーなところで結婚とかして、ってのは性に合わないか。スッチーとかどう、いやスチュワーデスは難しいかもしれないけど、旅行の添乗員とか楽しそうじゃない。海外旅行とか行ってお客がスリにやられたとしたら、こうずばっと手裏剣投げて敵を倒す、ってのは、殺人罪か、な?」

 志穂美が白い顔をますます冷たくして、こちらも紅茶を啜る。美鳥は、まだ桐子の話に続きがあって、とんでもない展開をするのではないか、という期待からかじっとこちらを見つめている。桐子はその期待に応える事が出来ず、絶句した。

 

志穂美「芸者になれ。」

桐子「?」

 不意の言葉に桐子はどう反応していいか分からない。芸者? ゲイシャてのはあの、和服着て島田結ってぽっくり履いて、のアレか?

桐子「水商売はちょっと。なにせかーさんがあれだったからねー。」

志穂美「芸者は今時ちょっと違う。」

 桐子の控えめな拒否を気にする事無く、志穂美は続けた。

志穂美「おまえ、勉強する気ないだろ。」

桐子「まあね。」

志穂美「派手好きだろ。」

桐子「そうかもね。」

志穂美「他人と喋るのも気にしない。」

桐子「割と水商売は向いてるかも。でもやらないよ。」

志穂美「でも、身体動かすのは好きで、踊りとか真面目にやりそうだ。」

桐子「うーん、そういうの習うのは苦にならないかも。」

志穂美「手裏剣とか武器術とか、止める気は無い。」

桐子「出来ればね。練習する暇がある仕事だと文句は無いね。」

志穂美「時代劇であるだろ、橋の上を番傘さして芸者が歩いてると、わらわらと悪党どもが襲ってくる。」

桐子「ちょっと待て!」

 

 やっと志穂美の言う事が理解出来た。志穂美は志穂美なりに、桐子の事を真剣に考えてくれている。だが、イメージ先行だ。今の桐子がそのまま仕事に就いたら、という前提で考えつくのが、時代劇の芸者で隠密同心なのだろう。それは確かに自分なら出来る、が隠密同心の求人募集は無いだろうよ。

桐子「考えてくれるのはありがたいが、もうちょっと現実的なものがいい。」

志穂美「芸者は現実的じゃないのか?」

 二人の話を聞いていた美鳥が脇から口を出した。

美鳥「私はなにになれるでしょうか?」

桐子「なにって、好きなものになればいい。」

美鳥「好きなものって、ご飯ですが。」

志穂美「料理人がいい。ちょうどいいからここに見習いで入れ。」

美鳥「いえ、そういうのは何か違うような気がするんですけど。八百屋さんとか魚屋さんとか。」

 

 志穂美はふぁが彼女を連れて来たいきさつを思い出した。美鳥の口を制し、ふぁに相談しろという。美鳥は自分の事はひとまず止めにして、桐子に話を継いだ。

美鳥「あの、あなたのひと、は名前忘れてしまいましたけど、」

桐子「大東だ。おおひがしとうこ。」

美鳥「大東さん、はい。で、大東さんはお綺麗ですから、芸者さんでも十分人気出ると思います。芸者さんになりたいという若い人は今少ないですから、テレビにも出れるかもしれません。」

志穂美「そうだな。ルックスはまあいい方だな。目付きが悪いけど。」

桐子「テレビかあー。」

 考えてみると、芸者もそう悪いものではない気がする。だが芸者なんてどうやったらなれるのだろう。少なくともここ門代地区では見たことがない。志穂美に尋ねてみると、意外な事を知っていた。門代地区では昔、戦争前は港のところに人が集まるから近くに遊郭もあったらしい。確かに今は芸者など見れないが、ツテはここらへんにも転がっているだろう、という。

 

 料理はまだ来ない。すこし遅いのではないか。間がもたないので桐子は話題を換えてみる。

桐子「で、江良美鳥、だったか。ウエンディズの練習はどうだい。厳しいか。」

 志穂美が半分微笑んだ。そういえば、美鳥達は桐子によってこてんぱんにされる予定だった。

美鳥「厳しいというか、意外です。今まで考えた事の無いことを要求されます。まるでお芝居の稽古みたいなのまであって、全然頭がついていきません。」

桐子「そりゃ、あたまを使ってる時点でもうついていけてない、って事だからな。そういうのは考えるんじゃない、感じるんだ。身体が勝手に動くところまで動きを身体に叩き込むんだよ。」

美鳥「はあ、それはよくふぁ先輩にも言われるんですが、あの”状況”という練習がぜんぜんわからないんです。」

 志穂美が半眼にすまして紅茶を口に含んだ。ついで、すぱっと目を開くと美鳥を見て言った。

志穂美「今、ここで、この桐子がおまえを襲撃するとしたら、どうする。」

美鳥「え、」

 桐子はにたと微笑んだ。まるで少女の皮をかぶった虎だ。

美鳥「えと、なんだっけ、おおがしさん、」 志穂美「大東だ。」

美鳥「おおひがしさんって、たたかう人なんですか。」

桐子「それを見分けるのも、心得ってもんだ。で、どうする、逃げるかい。」

美鳥「えーーーーーとーーーーー、逃げた方がいいでしょうか。」

志穂美「逃げてみな。」

美鳥「逃げます。」

 と、椅子を後ろに引いてのろのろと立ち上がった。まるでスローモーションのように遅い。袖口に指を忍ばせながら、桐子は美鳥が体勢をつくるまで待った。

 美鳥はテーブルから半歩離れて入り口の方に身を寄せて立った。桐子は未だ席に着いている。テーブルにひじをついて、指を組み、嬉しげに目を光らせている。

美鳥「逃げました。」

志穂美「そうか。・・・・・もう一歩下がった方がいいな。」

美鳥「はい。」

 言われるままに金魚鉢の前まで下がる。桐子から距離にして4メートルだ。

桐子「それでいい?」 美鳥「はあ。」

桐子「ま、こんなものかな。」 志穂美「自分でここまで考えついたのだったら、半分は合格だがね。」

桐子「いい?」

志穂美「どうぞ。」

 桐子は席を立たず、そのまま右手を走らせた。すとん、と音がして美鳥の脇を抜けた後ろの柱に棒手裏剣が突き立つ。美鳥はなにが起こったかわからない。

「OH! ニンジャマスター!!!」

 いつの間にかカウンターから出て来ていたシャクティのおかあさんが目を丸くする。じたばたと手足を振り回して転げるように厨房に飛び込んだ。桐子は、うろたえるインド人というものを、生まれて初めて目にした、と、間抜けな感想を抱いてしまった。

桐子「マズイかな。」 志穂美「手裏剣だからね。」 桐子「謝った方がいいかな。」 志穂美「手裏剣だからね。」

 厨房からぱたぱたとおとうさんとおかあさんが飛び出して来た。扉の脇の手裏剣を目にして、おとうさんはなぜか興奮する。

「OH、アナタはカラーテではなくニンジャだったですね。シャクティが習ってるのはニンジュツでしたか。日本に来て初めて見ました。握手してください。」

桐子「あ、はあ。」

 おとうさんの大きな手でがっしり握手されぶるんぶるん上下に振り回されて、桐子はすこし顔をしかめた。どうやら、別な誤解をされたようだが、怒られなかったから良しとするか。

 

 志穂美は、おかあさんに尋ねる。

志穂美「すいません。まだ掛かりますか。」

「申し訳ありません、もうすぐ持って参ります。」

志穂美「いえ、そうではなくて、こちらの子は通常の女の子の三倍ご飯食べますから、時間が掛かるのならば追加のオーダーをしておこうかと思います。」

「左様ですか、ありがとうございます。それでは今うかがいましょう。」

 おとうさんは桐子が突きたてた手裏剣をしげしげと眺めている。桐子が席を立って側に行き、少し解説をした。志穂美の手招きで美鳥は席に帰ってくる。

志穂美「料理の追加をするぞ。お前は行きがかり上通常の三倍飯を食わねばならなくなった。好きなものを言え。」

美鳥「三倍ですか。普通の人の。」

志穂美「そうだ。前に言ってただろう。中学校の水泳の夏合宿で人の三倍食べたって。」

美鳥「すいません。あれ、男の人の三倍です。」

志穂美「なに?」

美鳥「恥ずかしい。わたし、あの時調子にのって男子で一番食べる人の三倍食べました。普通の人なら五人前くらいです。」

 志穂美は絶句した。それではいくら食べても物欲しそうにしているはずだ。

 そういう事ならば、と志穂美は美鳥の意見も聞かずに手当たり次第にオーダーを始めた。

 

志穂美「ではインド料理という事で、タンドリーチキン(風チキン)、それと子羊の煮込みというのはフランス料理では。」

「いえ、インドでは羊はよく使うのですよ。残念ながら子羊は高いですから、うちでは大人の羊を使っていて少し固いですが構いませんか。」

志穂美「固くてもいいな。」 美鳥「完全にだいじょうぶです。」

志穂美「天ぷらがあるな。これはカレー味ですか。」

「カレー粉をまぶしています。それとタレにチャツネというジャムのようなものが付きます。」

志穂美「辛い、てんぷらですか。おい、辛いのはいいな。」

美鳥「まったく大丈夫です。」

志穂美「コロッケというのは、インド風ですか。」

「コロッケというよりも、揚げ餃子にちかいですね。具をパンで包んで油で揚げます。これも辛いソースが掛かります。」

志穂美「ではそれも。パエリア風リゾットというのは。」

「早い話が炊き込みご飯です。これはまるっきりインド風ですよ。シャクテイが、日本のお客さんは炊き込みご飯と聞くとどろくさく感じるかもしれない、と言いましてイタリア風に書いてみたのです。」

志穂美「ではそれも。サラダもあるといいかな。サラダは別にインド風もなにも無いか。」

「強いて言うならば日本風ですね。」

美鳥「あの、お菓子はないですか。」

「ああ、インドのお菓子はいつも置いています。これはすぐに持ってこれますよ。」

美鳥「じゃあお願いします。」 志穂美「あ、私たちにも下さい。」

志穂美「えーーと、こんなところかな。」

 おとうさんに手裏剣の投げ方の手解きをしながら、桐子が口を挟んできた。

 

桐子「志穂美! おでんがあるんだ。」 志穂美「おでん?」

「おでんはインドの煮物を日本のおでん風に串に刺したものです。これもすぐに持ってこれますから、うちにおいでになるお客様はまずこれをお頼みになりまして、料理ができるのを待ちます。」

志穂美「そういう事は最初に言ってください。ではおねがいします。」

美鳥「おねがいします。」

 おかあさんは深々と礼をして、手裏剣をしきりに投げたがるおとうさんをつかまえて、厨房に引っ張っていった。そのままだといつまでも遊んでばかりいて、料理はいくら待っても出てこなかっただろう。

 

 桐子が席に戻って来て言った。

桐子「で、いくらぐらいになる?」

志穂美「えーと、何品かな。七品にお菓子と、ラーメンとか最初に頼んだのが六品だから、一万円近くにはなるだろう。」

桐子「うわあ、ほんとに遠慮の無い奴だな。でも、ほんとに食べられるんだろうな。」

美鳥「一皿があんまり大きいようでしたら、ダメかもしれません。」

志穂美「そういう時は私たちも決死で食べるしかないな。」

桐子「おい、私がゴチしてそのうえに死ぬような思いしなきゃいけないのか。」

志穂美「全部食べなきゃ失礼だろ。」

美鳥「あの、なるべくがんばります。」

 とはいえ、桐子の表情は上機嫌だ。金を一人で払わされるからといっても不満ではなさそうに見える。さすがに不思議に思って美鳥は聞いた。

美鳥「えーと、大ひがさん?」 志穂美「大東だ。」

美鳥「あの、ほんとにごちそうになってもよいのですか。いや、払えと言われても私はとても払えませんが。」

桐子「細かいことは気にしない。酔狂でやってるわけだからさ。」

美鳥「でも。」

志穂美「こいつはおこづかい月三十万円だ。気にするな。」

美鳥「えーーーーーーーーーーっ!!!!!!」

桐子「生活費学費家賃込みだよ、一人暮しだから。ま、それでも多いといえば多いか。そういうわけだ。」

志穂美「場合によってはしるくよりもリッチなんだ。しるくはこづかい0円だからな。使うたびに申請しなきゃいけない。」

美鳥「な、にか、複雑な事情がおありなんですね。」

桐子「成金だからね。」

 

 おかあさんがインドのお菓子を持って来た。小さな四角のおしゃれな焼き菓子だ。溶かした白い砂糖できゃしゃな飾りつけがしてあり上にナッツが乗っている。三人揃って口に入れた。甘い。どうしようもなく甘い。同じ大きさの砂糖の塊だってもうすこし味わいがあるだろう、というくらいに甘さだけがどくどくと口の中を占有する。

美鳥「意外といい感じですね。インドのお菓子って。かわいいし。」

桐子「・・・・・・・・・・・・・一つあげる。」

美鳥「あ、すいません。よろしいですか?」

桐子「ひとつでじゅうぶんだ、これ、あたしには。お茶淹れて来て。」

美鳥「あ、はい。」 志穂美「わたしもだ・・・・・。」

 

 ついで、”おでん”がやって来た。その姿は誰の目にも、

桐子「カレーだね。」

志穂美「カレーの具をそのまま食べるという事か。」

美鳥「ふえー、大根が入ってますよ。おいしそうですね。」

桐子「分かりやすいと言えば、こんな当たり前の食い物も無いな。」

 と、串を手にとって見る。じゃがいもとチキンの皮を刺してある。志穂美が取ったのはこんにゃくだった。

志穂美「無国籍料理とはよく言ったものだ。」

 口に運ぶと、全員が怪訝な顔をした。

桐子「カレーじゃない。スパイスは効いてるけど、むしろあっさり目だ。どうして。」

志穂美「香草で匂いがきついおでんという感じだな。見た目はカレーなのに、どうしてこんな味になるんだ。」

美鳥「でもおいしいですよ。大根。」

志穂美「まずいとは言ってない。むしろおいしいのに驚いてる。」

桐子「ほとんど日本料理と言っても違和感無い、癖の無い、いや、そうか、関西風だ。」

志穂美「ああ!」

 シャクテイのお父さんが主に関西方面を流れ歩いて食堂をやっていた事を志穂美は思い出した。関西人の口に合わせて味を変えるとこんな具合になるだろうか。それにしても元のインドでの味はどんなのだろうか。

桐子「くどさが無いんだよ。あっさりし過ぎている。インド料理というからもっとこってりしてるもんだとばかり思いこんでいたけど、全然逆だ。」

美鳥「でも、後になって口がすーっとしてきますよ。」

志穂美「辛くない事は無い、というわけか。たしかに後で辛さが来るな。ちょっと卑怯な味だ。」

桐子「参ったな、インドカレーと効いてめちゃくちゃ辛いものだと思いこんでたんだが、カレーうどんの方はどうなんだろう。辛くないカレーうどんはちょっと食べる気しないな。」

美鳥「そういえば、カレーは東南アジアのタイとかシンガポールあたりの方が辛いと聞いた事があります。」

 

 その頃になってようやく最初にオーダーした料理がテーブルに次々にやって来た。インドラーメンにインドちゃんぽん、カレーうどんにカレーライス、カレーチャーハンだ。

 

志穂美「ラーメンは白濁したスープに、いかにも業務用といった感じの工場で作った麺が浮いている。一見すると豚骨味だが。」

 レンゲでスープをすくって口に運ぶ。

志穂美「・・・・・・・・・・・ヨーグルト味。」

桐子「げ!」

志穂美「いや、スパイスは効いている。だが、酸っぱい。まろやかというよりはまったりした甘さが口の中に広がり、スパイスの香りが微妙に食欲を刺激する。総合的な評価をすると、今までに見たことの無い新種のラーメンだ。」

桐子「マズイ?」

 志穂美はずるずると麺をたぐった。つるり、と吸い込んでしばらく食感を確かめている。

志穂美「・・・・・麺が安物だ。」 桐子「いやそれは見れば分かるから。」

志穂美「バランスは最悪。ラーメンと呼べる代物じゃない。だが、それは麺がこのスープに適合していないからだ。がんばって研究してみればひょっとするといけるかもしれない。」

美鳥「実験中なのでしょうか。」

志穂美「インド料理でラーメンが出てくるんだ。ど肝を抜かれて文句を言う人間もいないんだろう。とはいえ、さすがの私も面と向かって言う気にはならないが。」

 

 志穂美の言葉が途切れたのを合図として、桐子と美鳥は自分の丼に飛びつくように箸を着けた。

美鳥「ヨーグルト味の中にタコとかイカとかかまぼことか浮いてます。私のは辛いですよ。魚介類の出汁も出てますし。でも麺は確かにちょっと。」

桐子「私のは麺はいいぞ。安物のうどんだがそれは学校の食堂のと一緒だもん。カレーはすこし粉っぽい。なんか口の中に引っ掛かる感じがする。でもバランスは、日本のカレーうどんを忠実に真似してる、って感じだ。悪くはない。」

志穂美「カレーライスが、うんーーーん、おでんのカレーの味とまた違う。すこし生っぽい青臭さがある。ベジタブルカレーだからだろうか。」

美鳥「わたしのは想像どおりの味です。カレーです、ほんものの。」

桐子「なに? 日本のカレーとおなじ味なのか?」

美鳥「いえ、たしかに少し違いますが、辛さが先に立つのは日本のカレーと同じです。絵に描いたようなカレーの味と言ってよいのではないでしょうか。」

桐子「私のは、下がチャーハン、というかタイ米みたいなご飯のピラフだから、掛かってるカレーは薄い水みたいのだ。辛いぞ。味もいい。だがカレーとは少し違う。辛いぶっかけご飯みたいなものだ。」

志穂美「つまり、すべての料理でカレーの種類が違うのか。さすがだ。」

桐子「そんな手間を掛けてりゃ、料理が出てくるまでが遅いのも仕方ないか。どうやらここはじっくり腰を落ち着けて食べなければいけない店のようだな。」

志穂美「さいわいにしてまだ何品も料理が出てくる。たっぷり時間を掛けてもらおう。」

美鳥「あ、がんばって全部食べます。わたし。こういう味でしたらまったく問題ありません。」

桐子「なんだかなあ、弥生ちゃんって辛いもの大好きだっただろ。一緒に連れてくればよかったな。」

志穂美「そうだな。キャプテンとして、隊士の実家の店くらい一度は利用してみるべきだろうな。」

 

 二時間掛けて三人はすべての料理を食べ尽くした。美鳥はたしかに良く食べたが、志穂美桐子も負けずに食べた。なにしろ次の料理が出てくるまで時間が掛かるから、待っている間にお腹が空くのだ。好奇心もあったから、無理をしてでも味を見る。結果、シャクテイのうちの店の料理は、バランスが綱渡り状態であるがなかなか見所のある、筋の通った立派なものだ、という評価を得た。

 三人が食べ終わり、ミルクティのチャイ(茶)を啜っていると、ようやくシャクティが帰って来た。三人を見て目をまるくする。

シャクティ「あ、いらっしゃいませ。先輩、どうしたんですか。」

志穂美「どうしたもなにも、お客さんだ。お前の家を儲けさせてやろうと思ったんだ。」

シャクティ「あ、それは、いらっしゃいませ。なににいたしましょう。」

桐子「ばか。今食べ終わったところだよ。」 シャク「あやー。」

 席を立った桐子はなんだか身体が重くなったように感じた。考えてみると、自分は169cmの志穂美、173cmの美鳥という大柄な子と争うように食べていたのだ。163cmしかないのに身のほどをわきまえなかった自分が馬鹿だ。

 カウンターの隅にあるレジの前に行き、桐子はおかあさんに代金を支払った。締めて16,750円。大散財だ。その金額に後ろで見ていたシャクティが驚いた。

シャク「一体、三人で何を食べたんですか!うちのお店で一万円なんて。」

美鳥「あの、すいません。食べられるだけ食べてみました。わたし。」

志穂美「ウソをつけ。まだ胃の半分も食べてないだろ。」

美鳥「あ、そうかも。立ったらなんかおなかにスペースが空いたような気がします。」

 呆然とするシャクティを尻目に、見送りに来たおかあさんとおとうさんに挨拶をして三人は店を出た。次は必ず弥生ちゃんとメンバーを全員連れてくる、と約束をした。

 

 時間はすっかり夜となり、アーケードには明るく照明が灯っている。道行く人がなぜかこっちの方をじろじろと見るのは、万年閉鎖状態の「平民食堂」から人が出てくるのがよほど珍しかったのだろう。桐子は、自分達だけが特別にこの店を知ってて、その価値を他の人が知らない、となんとなく誇らしげに感じた。

 店の前で桐子は二人と別れた。美鳥は桐子に向かってぺこぺこと頭を下げていつまでも御礼を言うのを、志穂美が引っ張ってどこへやら連れていった。遠ざかる二人の姿を見ると、志穂美が実にちゃんとした先輩の役をやっているように思える。志穂美の居場所は、今のところ確としてあるらしい。

 

 

 なんとなく先程までの高揚感が薄らいでいく。やることも無いのでそのまままっすぐ歩いて家に帰った。

 桐子のマンションはすこし古いが家賃はそれなりに高い、割と上質な所だ。一階ロビーにオートロックも付いていて、このあたりのマンションでは早かった方だ。学生が一人で住むようなところではない。母親が一緒に暮らしていた時に移って来てそのまま居着いている。元はふたりで住んでいた為に、桐子ひとりではどうしても広過ぎて薄寒い。

 玄関の錠を開けて上がると、台所の流しの中に昨晩使った食器がそのまま漬かっているのが見えた。半ば自動で桐子の指はテレビのリモコンに伸び見たくもないお笑い番組を映し出した。

 通学かばんをじゅうたんの上に放り出し、自分は革のソファに身を投げた。ソファの上に脱ぎ散らかしていた寝間着代わりのTシャツを床に追い出してそのまま横に寝そべった。珍しく喪失感というものを覚えている。

桐子「家族かあ。」

 シャクティの店はなんとなく暖かかった。ちゃんと両親が居て、皆が一つの家に住み、家族の役割がはっきりと別れていて、自分もそこにちゃんと居場所がある。そんなに裕福でなくてもお客が居なくても、そちらの方が絶対に正しい暮しだな、とうらやましく思えた。

 背中を弛緩させソファに身体を埋めていく。低血圧の桐子は食べ過ぎると消化器に血を取られて眠くなるのだ。テレビの音が遠ざかり視界がだんだん暗くなっていく。、とりとめもなく先程までの光景がまぶたに浮かび、唐突に志穂美の言葉を思い出した。

 

「はは、ばかじゃないの、げいしゃなんて。」

 だが学校で河野先生に受け答えするのに、それは絶妙のネタに思えた。明日先生にあったらそう言ってやろう。先生は目を丸くして驚くだろうか、それとも逆に、自分みたいのは一般生徒からかけ離れた進路の方が良い、と納得されてしまうかも。

 

 微笑みながら、桐子は、眠りに就いた。

 

2003・01・23

 

 

 

 

 

 

 

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