「踊る人形だ。コナンドイルの。」

 まゆ子は言った。

 或る日まゆ子の教室に、珍しく明美抜きで聖がやって来た。例のようにじゅえるとつまらない話をして時間を潰していたまゆ子はちょっと驚いた。

 だがもっと驚いたのは、聖が差し出した一通の手紙だった。

 紙の上にはシンプルな金釘状の線で描かれた無数の人形が踊っている。ごていねいにもちゃんと旗を持ったものまである。

 推理小説に疎くてもシャーロックホームズの「踊る人形」くらいは誰だって知っている。当然聖ほどの頭があれば解読するのに何の苦労も無い筈だ。

 しかし、

じゅえる「・・・・・読めなかった訳?」

 聖はこくっとうなづいた。その素直さに、まゆ子はこれが「踊る人形」の単なるコピーでは無い事にやっと気が付いた。

まゆ子「英語、いやローマ字じゃ無いんだ。」

じゅえる「なになに、日本語なの。」

まゆ子「そうか、これは。」

 旗を持った人形の異様さにまゆ子は目を止めた。ほとんど同じ姿なのだ。これはつまり、単語の切れ目を表わすコナンドイルの「踊る人形」では無い事を意味する。

 じゅえるはもう一つ人形の特徴を発見した。

じゅえる「妙にお行儀がいいね、これ。」

 人形は手足をばたばたとさせているにも関わらず、転倒したものが一つも居なかったのだ。左右に傾いたものも僅かしか無い。だが人形の種類自体は「踊る人形」の数よりも多いのではないかと思われた。

まゆ子「「踊る人形」のアイデアを援用したオリジナルの暗号だね。」

じゅえる「言われてみれば、そう、21世紀だもん。19世紀の暗号をそのまま使う程のまぬけはいないか。」

 じゅえるは聖に向き直った。この手紙をいかにして入手したのか。差出人のプロフィールを聞けばおおよその内容は推測出来たりする。

 聖は言った。

聖「・・・・・・・・・・・・・・。」

じゅえる「ふーん、文通相手で本をしばしばやりとりするってのか。えーと、どっかの大学の講師だって? 妙な知り合いがいるんだね。」

まゆ子「ふううううん、大学の講師ねえ。専門は何?」

 まゆ子の発する気配が少し変わったのにじゅえるは気付いた。大学講師と聞いて対抗心を掻き立てられたようだ。

聖「・・・・・・・・・・・。」

じゅえる「残念。理系じゃないんだって。」

 だがまゆ子はそれには応えなかった。紙面に踊る人形をじーっと眺めている。

まゆ子「わたしもね、前に踊る人形暗号を考えた事があるんだ。使う相手が居なかったから結局使わなかったけどね。」

 そういうと右手を頭の上に差し上げた。

まゆ子「「踊る人形」の暗号は人形の動きがでたらめなんだよ。だから無駄も多い。人形の個数を増やすと解読も困難になるけど、今度は自分が画くのが嫌になる。それで二進法を使って人形の動きに規則性を与える事にしたんだ。二進法だとちょっとした違いの組み合わせで驚く程たくさんの記号が作れるからね。また或る要素に特別の役目を与えておけばそれが何を指すのかが一目で分かったりする。ただし、記号の規則性に気付かれたら解読がやたらと簡単になるのがわかっちゃったから、没にしちゃったよ。」

 まゆ子は聖の前に手紙を突き出した。

まゆ子「この暗号にはそれと同じ要素がある。でもちょっと解読に手間取りそうだ。どうも文章を綴っている訳ではなさそうなのでね。ところで聖っちゃん、あなたの家にパソコンある?」

 聖は首を振った。

まゆ子「なら乱数表とかは使ってないね。相手は聖っちゃんがコンピュータを持っていない事を知っているだろうから、しちめんどくさい事は礼儀としてさせないはずだ。」

じゅえる「でも聖宛ての手紙となると、普通では使わない言葉で書いているかもしれない。たとえば古語とかアナグラムとか。」

 まゆ子が顔を上げると、聖はその可能性はあるかもしれない、と言った。

まゆ子「ちょっと預からせて、これ。明日までには解いてくるから。」

 そう言うとまゆ子はふらふらと教室を出ていった。 

 じゅえると聖は、いまや心ここにあらずというまゆ子を見送って、取り残された。

 じゅえるはちょっと意地悪っぽく聞いた。

 

じゅえる「ねえ、あなた、ほんとにアレ解けないの。」

 聖は言った。その答はじゅえるを十分満足させるものだった。

 

 じゅえるは図書館に居た。

 今日の当番は明美である。本来明美は図書館の貸し出し業務を行なう図書部の一員であり、ウエンディズに入ったのは本人の意志ではなく、運悪く弥生ちゃんとまゆ子に捕まってしまったからなのだ。今も正規の図書部員として元気に活躍している。

明美「「踊る人形」、そんな本あったかな。」

保奈美「「シャーロックホームズの帰還」か「最後の挨拶」じゃないかしら。無い事もないと思うけど、英語で書いたのの方がいいかしら。」

 明美とペアで当番についている吉田保奈美が言った。

 彼女はどことなくじゅえる本人に似ている黒髪の美人だ。じゅえると較べて引けはとらないのだが性格が大人しく活発さに欠け、会う人に植物的な感じを与える少女である。明美の勧めでウエンディズも勧誘をしてみた事があるのだがまるっきり戦闘的で無く、トラブルに直面すると硬直してしまうタイプだ、と弥生ちゃんは見て断念した経緯がある。

じゅえる「いや、特にそれでなくても暗号の本があればいいんだ。「踊る人形」くらいならまゆ子じゃなきゃ解けないという程のものでは無いからさ、というか、今度暗号を使った小説を書いてみようかな、なんて思っちゃってるの。」

 吉田保奈美はにっこりと微笑んだ。彼女はじゅえるのやおい小説の熱心な愛読者でもある。

保奈美「そういう事ならお手伝いさせて。」

 

 カウンターでの受け付け業務を明美に任せて、二人は閉架の図書室へ向かった。

 閉架図書室は埃の部屋だ。高校の図書館というものはだいたい受験勉強の為にあるもので、本を漁って資料をかき集めて研究する、などという生徒なんか居た例しがない。当然閉架図書室も何週間も人は入っていない。

保奈美「祐木さんって、そんなに交流範囲が広かったのね。人は見掛けによらないってのは本当だわ。」

じゅえる「聖は、あれは大変な人間だよ。あたしは思うんだけどさあ、あの子ウエンディズに入れたのは失敗だったかもしれない。あの子身体が弱かったから行動半径がめちゃくちゃ小さかったんだけど、あの子の考えるままに動けるだけの体力を手に入れた今は、どういう風になっちゃうのか見当もつかないね。

  あ、そうそう。今度聖はレコーディングするんだよ。CDを出すか出さないかってとこまで話が進んでるみたい。」

保奈美「しるくさまが肩入れしているってアレね。ほんと、嘘みたいに順調ね、祐木さんは。」

じゅえる「順調、ねえ。わたしらはどっちかというと、檻の蓋が開いたとか脚を繋いでた鎖が切れたとかに感じるけど。」

 

 ほこりにまみれた本の山の中から、二人は「輪具の世界史」という本を見付けた。これは主にルネサンス時代のボルジア家と法王庁との関係を軸に19世紀までの暗号をめぐる物語が描かれている。

じゅえる「わたしの読みだと、まゆ子のアプローチは純粋に数学的だろうけど、それじゃ解けないって事になるんじゃないかな。」

保奈美「祐木さんがそういう人なら、あなたの方が適任かも知れないわ。というか、これは物語として考えるといい訳なのね。」

じゅえる「そう。正体不明の謎の女子高生とそれに暗号を送ってくる大学講師。暗号の中身はなにか、ていうのでお話はいくらでも考えつくわ。」

保奈美「じゅえるのお話なら、逢引の約束でしょうね。でも祐木さんだから。」

 

 じゅえるは暗い天井を見上げた。黒魔術の秘儀、ネクロマンシーとかだったらどうしよう。聖だったら本当にそんな事をやっててもおかしくは無い。というか、黒魔術の書というのは全篇これ暗号と言っても良いくらいで、「大学の講師が研究するだけの価値があるもの」とくれば、最も蓋然性が高いものである。

 だが、

じゅえる「聖は、笑ってたんだ。人に見せてはいけないものなら解読を他人に頼んだりしないでしょ。」

 じゅえると保奈美は本を調べてざーっと流し読みする。

 その結果、驚くべき事が明らかになった。

 シャーロックホームズが解いた「踊る人形」暗号は、ルネッサンス期の暗号と較べても非常に稚拙なものであったのだ。ありあまる財力を背景に世界の有力者達は非常に高度な暗号を最高レベルの数学者を動員して駆使し、また解読していた。

 暗号に対する自分達の知識の乏しさに二人は呆然とした。

保奈美「こんな世界があったのね。祐木さんは凄いわ。」

じゅえる「となるとますます、何が書いてあったのか、に焦点を絞った方がいいようね。」

 じゅえるは考えた。普段使わない脳の領域まで使って考えた。そう、聖は暗号には慣れている。暗号は彼女にとって身近で不可避なものなのだ。その彼女が解読を他人に任そうとする。他人に読める暗号とは、もちろん専門的で排他的な知識を必要としないものだ。であればそれがテキストであるというのも怪しくなる。いや、なまじ文章が書いてあったりすると興ざめというものだ。

 この暗号は解ける。だが、解けて後にも驚きを与えるもの。

 そうでなければ、聖が他人に任せる筈がない。

 

 隣の書架を探っていた保奈美がじゅえるを呼んだ。我に帰ってじゅえるは首を巡らし保奈美を探した。

 保奈美は、一冊の本のページをひっぱって持ちあげている。そのページには非常に美しいラピスラズリの青が印象的な、精緻な図が印刷されていた。同心円を何度も重ねてシンボルの名が金色にラテン語で表記されている。

保奈美「黒魔術、とは限らないのよ。世界の神秘を表わすという行為は教会にとっても重要な任務だったのよ。」

じゅえる「調和、か。天上の、天空の構造図。」

保奈美「天使の位階図よ。」

じゅえる「神に嘉された天空を満たすものは、」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。暗い閉架図書室に舞う埃が、窓から漏れる光に天使の羽からこぼれた鱗粉のように輝いた。

 

 次の日の昼休み、聖が、まゆ子とじゅえるの教室にやって来た。今日は明美と一緒である。ついでに吉田保奈美もやってきた。正解を聞きに来たのだ。

 明美はむろん昨日のいきさつを知っている。保奈美はじゅえると違って意地悪ではない。じゅえるは隠そうとしたのだが、親切にも図入りで教えてやり、明美は彼女達の発見に目を丸くして聞き入っていた。

 全員揃ったところでじゅえるはまゆ子に言った。

じゅえる「そんなには難しくなかったでしょ。」

 まゆ子は、椅子に座ったまま目を伏せた。黙ったまま机上に昨日の手紙を置く。

まゆ子「この暗号は、解けた後の方が難しかったわ。」

明美「数字だったんでしょ、ね。」

 まゆ子は驚いて目を開けた。二三度ぱちぱちと瞬いた。

 ついで聖の顔を見る。聖の表情は、分厚い眼鏡に遮られ読めはしないのだが、彼女が明美に答えを教えたわけではない、という事はまゆ子にも分かった。

まゆ子「・・・・・正確に言うと、数字ではないわ。数字の組よ。」

じゅえる「高さと、長さね。」

 

 まゆ子はあんぐりと口を開けた。だが、さすがにうろたえはしなかった。

まゆ子「・・・・旗を持った人形が解読の鍵だったの。旗を持った人形は手が全て同じ形で足だけが違う。つまり、上半身と下半身では意味が違うという事を教えてくれるのね。そうすると旗を持った状態とは0を表わす。0と、足の意味よ。足の種類は少なかったわ。4個しかなかったの。でも私は足の状態は5個あると読んだわ。0、1、2、3、4、ね。0は頻度が少ないから存在しなかったけど、当然あるべき直立不動の状態が無かったから書き加えたの。」

保奈美「足は、長さだったのね。」

 まゆ子はまぶしそうに保奈美を見上げた。彼女はまゆ子とはあんまり縁が無い。だが、彼女も当事者のひとりだと、まゆ子は理解した。

まゆ子「右手と左手も独立している。右手は4状態、左手は3、と旗を持つ0、つまり左手で旗を持っている状態では手は常に水平なの。だからこれは別の状態として数えて3。4懸ける3で12状態、人形は左右に傾くけどこの関係は変わらない。つまり12で循環している。

 12進法といえばダースだけど、これには補助記号があって頭の色が変わるのよ。これによって12は7と5に分けられる。白い頭は7個、黒いのは少なかったけど推定で5個。右手4状態にまんべんなく散らばってるわ。

   白いのが7で黒いのが5、と言えば。」

 

「ピアノの鍵盤。」

 じゅえる、保奈美、明美が口を揃えて言った。

 まゆ子はやっぱりね、と肩をすくめた。

まゆ子「人形の左右の傾きは音階でオクターブ違う事を表わす。右に傾いたら一つ下、左に傾いたら一つ上。右手は上からドシ、ラソ、ファミ、レ。半音も含めて3個ずつ納まっている。旗は休符だから音階は関係なし。つまり0よ。」

 

 まゆ子はここで深呼吸をした。自分の結果を先回りされても怒らなかったのは、これは性格の良さによる。そして当然の疑問を口にした。

まゆ子「どうして分かったの。」

 じゅえると保奈美は見つめあいニコッと笑った。

じゅえる「簡単な推理だよ、ワトソンくん。我々は容疑者の動機から入ったのだ。」

保奈美「祐木さんは暗号はひとりでも解けるのよ。黒魔術に詳しいから。でもあえて他人に解読を任せた。これは専門知識が無くても解ける事を知っていたからよ。」

じゅえる「そして暗号の送り主だ。大学の講師ともあろうものが無意味なお遊びを送ってくるわけが無い。そういう人間なら聖が拒絶する。そして聖本人も言ったんだ。

    解読してみなくても送り主で内容は分かる、って。」

まゆ子「うーーーん、つまりなんだ、大学講師が聖に送ってきそうなものを片っ端から当たってみたんだ。」

じゅえる「片っ端、じゃないよ。聖にふさわしいものだ。そして聖が、他人に任せる事に意味がある、と思えるもの。ひじりっちゃんは遊びって事をしないからね。で、それは解読されて意味が分かればおしまい、というような底の浅いモノではないってのに、」

保奈美「気付いた後は簡単だったわ。暗号って英語で”コード”じゃない。和音もコードだもの。」

まゆ子「くりぷとぐらむだよ、暗号は。俗な言い方だ、それは。」

 

 そこでじゅえるは手を出して、まゆ子に催促をした。

 まゆ子は観念したようにもう一枚、紙片を取り出した。

 それは確かに五線譜に音符を書き記したものである。

明美「何、何の曲。」

保奈美「なにかしら。」

じゅえる「・・・・・・・・"Fly me to the Moon"、私を月までつれてって、だ。」

 じゅえるはこれでもピアノを能くする。お嬢的教養だから当然だ。

 まゆ子は言った。

まゆ子「聖ちゃん。これどんな意味? さすがにそこまでは分からなかったわ。」

 

 聖は笑った。少し口の端が曲がっただけだが、確かに笑った。

聖「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

明美「・・・・暗号は、出す人を知れば別に読めなくても内容を理解出来る。暗号の手紙を送る事自体が意味を持つ通信文だ、って。」

まゆ子「ふむ。」

聖「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

明美「・・・・・・この手紙が文章で無い事は一目見て分かった。文章で無い暗号は何らかの手段だ。何の為の手段か。」

じゅえる「もったいつけずに教えなさいよ。」

聖「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

明美「・・・「この暗号を解ける人と一緒に訪問して下さい」という招待状だ。

   暗号を解く事で彼の事が割と理解出来ただろう。警戒する必要の無い人物だ。曲はなんでも良かった、「月光」でも「荒城の月」でも。期日を伝えるメッセージで、満月の日、今度の日曜日。ただし彼の家を訪問するとなると一日仕事だから日曜日以外は無い。解く必要の無い暗号だった。」

 

じゅえる保奈美「ああ・・・・・・・・・・・。」

まゆ子「そこまでは考えつかなかった。暗号を解く事自体、既に術中に嵌まっているって事なのね。」

明美「げ、月曜日はだめなのね。」

 

聖「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

明美「・・・・・・彼は私がいつもひとりだった時からの知り合いで、私がひとりでは心細いだろうと配慮してくれた。ここでお願いがあるのだが・・・・・。」

 

 と、明美は一息ついた。

明美「今回は私はパスするわよ。暗号解いたの私じゃないもの。」

まゆ子「私もパス。もっとふさわしい人物がいるものね。」

 じゅえると保奈美は顔を見合わせた。聖がじーーっと二人を見つめる。

じゅえる「つまり、まんまと捕まっちゃったって事だな。」

保奈美「喜んでお呼ばれするわ。」

 

 

 次の日曜日、門代駅はちょっとした騒ぎになった。

 じゅえるがフルパワーでめかし込んで来たからだ。おかげで人目につく事アイドルの如く、保奈美ももちろんそれなりに気張っていたので、二人並ぶとなにかの撮影かと勘違いしたやじうまがぞろぞろと集まってきた。

 間の悪い事には当日は港の方でイベントをやっておりカメラを持った男の子が何十人も居て、駅構内は俄撮影大会になってしまった。

 

 聖と保奈美は引き攣りじゅえるに集まる人目から隠れるようにしながら、一時間も電車に乗って件の大学講師の家を訪れた。

 彼はまだ三十歳そこそこだったが、さすがにアイドルデュオ的じゅえると保奈美に惑わされず、初めて会った聖と意気投合する変人ぶりを見せた。

 彼にはほんとに若い、実際まだ女子大生だという新妻が居て、置いてきぼりにされたじゅえるたちは彼女の歓待を受け、仲良くなった。

 

 

 彼女の話によると「踊る人形」の暗号は、彼女へのプロポーズにも使われたそうだ。

 

 

2001/04/13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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