「難儀な話だな。」

 志穂美は肩に重たい演武用の薙刀を担いで、図書館に続く渡り廊下を歩いている。

 建て増しに継ぐ建て増しで、渡り廊下もかなり複雑な形状に仕上がっており、段差も多く、当然バリアフリーなんぞまるで考えられてない。車椅子はおろか、歳食った教員にも移動に苦労する有り様だ。天井が低くなっている場所もあり、志穂美も薙刀を再三引っかけてしまった。

 

 今回の任務は明美一号二号の依頼を受けてのものだ。

 もともとは明美1号は図書部、つまり司書部員である。顔形同じの2号も自然なにかと図書館に居ついていて、一号と間違われる事も多く代役を果たす事もたびたびで、その内に部員に引っ張り込まれたというわけだ。

 なぜ静謐な図書館に志穂美が必要だったかというと、ネズミ取り。閉架の書庫にネズミがたびたび出没し、か弱い司書の先生がひっくり返ってしまい、図書部員一同対策を協議した結果、「用心棒を雇うべ」という事になった訳だ。か弱い先生が、歳は40なんだが、抱きしめると折れてしまいそうな細い頼りない優しげな外見にも関らず、「殺して! あのネズミ殺してええ!」とマナジリをつり上げて口走るので、非情の策を取らねばならなかったのだ。

 もちろん、当初の挑戦者はちゃんと順当に男子であったのだが、まあ意欲は買うが素人の哀しさ、さんざんネズミに翻弄された挙げ句に失敗する。二人目の男子も失敗。そこで最後の手段として、志穂美ではなく、桐子を選んでしまったのが運の尽きだった。

 桐子は確かに成功した。もちろん、そこら中に手裏剣を突き立てまくった末の成功ではあるが、ともかく見事にネズミを貫いた。が、その後が良く無かった。即死しなかったのだ。手裏剣を背中に突き立てたままネズミは逃げ回り、書架の上を飛び回り本という本に血を付け回った揚げ句、桐子のとどめを受けてようやっと絶命する。あまりの惨状に司書の先生は気絶するわ、図書部員全員で拭き掃除に翻弄されるわ、可哀想な一年生部員が貧血を起こすわで、ネズミをそのままに放置していた方がよっぽどマシと言える程のさんざんな結果。しかも、退治した後もかさかさと動き回る音からネズミがもう一匹いる事が判明し、血気に逸る桐子にお引き取り願うのに随分と苦労させられたのだ。

 

 これだけの目に遭いながらも、司書の先生はまだネズミ退治にこだわった。ともかくもネズミを殺せる、それも奇麗に周辺を汚す事なく出血無しに殺す事が出来る人材を何が何でも連れてくる事を、執拗に図書部員に要求した。殺鼠剤を撒くとかバルサンを焚くとかは、化学物質過敏症を恐れるあまりに却下されたし、猫を導入というのも、まあこれは書物の保護の面で確かに問題があったため見送られた。やはり人間凶器が一番、という事なのだ。

 先生は、武芸の達人として令名の高い、しるくに依頼する事を提案したが、明美たちはしるくが無用の殺生を嫌う事を知っていたから黙殺した。その代わりが志穂美という訳だ。園芸部のふぁもネズミ退治は得意だよ、と言っていたのだが、彼女の手段はネズミ取り器でこれは既に図書部で失敗していたから見送られた。司書の先生は、志穂美の言う「薙刀で半分くらい叩くと昏倒させて血を見る事なく捕らえる事が可能です」との口車に乗せられてしまう。

 というわけで志穂美は特別な演武用薙刀を携えてきたのだ。打突部が竹刀になっている普通のものでなく、木で刀の形を整えている見栄えのするやつだ。ネズミを叩くにはむしろ都合がいい。長さは180センチで少し短いが、だと言って書庫内で振り回せるような代物ではない。司書の先生もそれをいぶかしんだが、それを見てとった志穂美は試しに揮ってみる。前後左右上下袈裟に斬ったり逆に払ったり後ろに大きく石突きで突いてみる。びゅあっという風を切る音がするが、しかし山と積まれた本には、上の埃にすらかすりもしない。見事な腕前にその場に居た全員が拍手をした。志穂美はふ、と鼻で笑う。

「通常の薙刀道の動きとは違う、厭兵術独自の歩方を使った薙刀術です。乱戦時や屋内で使う時に、長兵器の利点を生かしたまま混雑した空間を移動出来るように工夫されています。」

 

「それでは相原さん、おねがいしますね。私はこのまま帰りますから。鍵は三年生の明美さんに渡しておいて下さい。」

 と司書の先生はそそくさとその場を後にする。どうしてもネズミを見るのが嫌なのだ。だから、桐子が手裏剣でぶち殺した時は、生きた心地もしなかっただろう。

 明美一号は志穂美の腕前に何一つ懸念は持たないが、それでもなお不安は残る。

「志穂美ー、でもネズミはどうやっておびき出すのよ。いくら薙刀で打つと言っても、目の前に出てくれなければ叩けないんじゃない?」

「そうですよ。この間の件でネズミも警戒してるでしょうし。」

 二号も不安を口にするが、志穂美は軽く微笑んだ。

「待つ。」

「待つと言っても。」

「チーズを置いておくよ。わたしが控えているのの隣の書庫の並びにね。直接は薙刀が届かない陰の位置に置いておく。」

「え、でも、それじゃあ叩けませんよ。」

 志穂美は未だ未熟な後輩に諭す様に言う。

「歩方を利用して瞬時に横の列に移動するんだよ。だから移り易い様に書庫の端に座ってる。通常一歩踏み込むタイミングで横と前にと、二歩移動するんだよ。で、ネズミが出るまでいつまでも待つ。」

 明美一号は、一応尋ねてみる。

「待つ、って夜になるかもしれないよ。ひょっとして明日の朝とか。」

「日の出までにはたぶん終わってるだろう。」

「せんぱい、徹夜する気ですか!」

 呆れてものも言えないが、二人は志穂美が一度言い出したら絶対聞かない事を知ってるから、もはや止めはしなかった。というよりも呆れてその場を志穂美に任せて開架の図書室の方に引き揚げたのだ。

 

 図書室に詰めていた、明美一号の友人で現在は図書部の部長になっている吉田保奈美が、眉をひそめて尋ねる。彼女は、ネズミ退治に武力を用いるのに反対派だった。

「ねえ明美、相原さんといい大東さんといい、どうしてこんな一文の得にもならない事にそこまで真剣になれるの?」

 少し考えて、二号の顔も見て、明美はため息をついた。

「だって志穂美なんだもん。」

 

 

 相原志穂美はコンビニから買ってきたチーズかまぼこを二本、ケーシングを剥いて床に置き、書庫の電灯を消してチーズの右隣の列に座った。書庫の端、つまり通路ぎわで、書棚に遮られていても、瞬時に横に飛び打ち込む算段だ。

 背筋をピンと伸ばし、チーズの列に近い左の肩に薙刀を立て掛けて、胡坐をかく。動き易いよう、音を立てないよう、裸足である。そこらへんの古書を無造作に取り、座布団として尻の下に敷いた。大きく息を吸い、静かに長く鼻から吐いて、呼吸を整え瞑想する。まもなく書庫の中は、細く長く続く志穂美の呼吸がかすかに聞こえるだけとなる。階上の図書室ではわさわさと人の気配がしており、グラウンドでは運動部の部活の声がする。すっかり延びた陽は6時というのに未だ落ちず、カーテンを引いた暗い書庫の中にも残光が漏れてところどころに明暗の縞を作っている。古書の山は長く影を伸ばし、残光に舞い散る埃は次第にわずかになり、床に書架に古書の束に薄く儚く降り積もっていく。 何事も無くそのまま一時間が過ぎ、とうとう暗闇が訪れた。校庭の灯のみが唯一の灯となり、人の気配が全校中から消え失せた。図書室も人の帰る物音がざわと続き、しばしの静けさの後、閉架書庫の扉の向こうで声がした。

「しほみー、私達帰るからね。」

 明美一号だ。志穂美は暗闇に目を開いて、構わないでいい、と扉の外に言い置いた。しかし志穂美には、二人の明美がそのまま帰りはしないだろうという事が分かっていた。二人はこの後まゆ子の居る科学部の部室にでも行くのだろう。あそこはよほどの事がなければ9時までは開いており、訳の分からない機械を作っている。まゆ子は、実際は自分ではあまり工作はせず、もっぱらプロデュースに務め、器用な男子の部員を監督して自分の考案した新兵器をこしらえさせるのだ。明美たちはそこで時間を潰し、9時までは志穂美を待つだろう。そこが閉まっても、現在生徒総会の準備で大わらわの弥生ちゃん以下役員が詰める生徒会室、準備室に行けばよい。これで10時までは潰せるわけだ。

 

 志穂美は、しかし、長くは待たされなかった。

 階上から人の物音が消えてまもなく、暗闇の中にかすかに蠢く気配がした。それは、最初は用心深く注意を払って、だが断固とした意志で書庫の谷間を縦進していく。

「来たな。」

 志穂美にはわかった。このネズミは、怒っている。彼らの不可侵の領域であるこの閉架書庫に突如現われた人間どもに、立腹している。自ら攻撃する事により、人間を撃退するつもりなのだ。これは、たぶん、桐子と遭遇していないネズミだろう。桐子が一匹を殺した時、このネズミは不在だったのだ。だから未だ戦意が旺盛だ。桐子以前の男子生徒を撃退した時とおなじように、志穂美も脅せば退却すると思っている。

 当初よりの計画通りに志穂美はひたすら待つ事とした。このネズミは、志穂美の目の前にちゃんと現われるであろう。しかし、間合いに入ってこないかもしれない。誘いに乗らず、隣の列のチーズかまぼこに手を出すまで、微動だにしない事だ。

 果たして、ネズミは、まず餌に気がついた。考えてみれば、この書庫にはネズミが食べられるようなものは無い。本を齧るのは巣を作る為だ。柔らかい紙を巣穴に敷き詰める為に本を齧る。それ以外には用の無い場所だ。だからこれは予想外の存在だったのだろう。志穂美の聴覚には、ネズミが警戒しつつじりじりとチーズかまぼこに接近する様子が、目の前に40インチプラズマディスプレイハイビジョンで映し出すように、はっきりと見えた。

「まだだ。」

 ネズミはまだ、餌を食べる気は無い。志穂美はそう判断した。罠と疑っているのだ。まず志穂美の方に一度偵察を入れて安全を確認し、しかるのちに獲得するつもりだ。ネズミの行動の足音からは、そういう戦術が伝わってくる。明美達はよほどまずい対策を取ったのだろうという事が如実にうかがえた。餌を仕掛けて皆で番をして、ちょっと近づいたら当たりもしない攻撃を繰り返し、ネズミに翻弄される。そんな事を繰り返して、すっかりなめられた訳だ。だが今回、志穂美の投入の際にはそれはちょうどいい布石となるだろう。

 

 ネズミは近づいてくる。すでに、薙刀の間合いに入っているようだ。しかし、相当に警戒している。不思議なもので、あの貧弱な頭、ほとんど新皮質の無いような脳しか持たないというのに、彼は知的だった。志穂美の気配をうかがうように、書庫の端をつるつると往復して、打ち気をこちらに起こさせようとする。だが、完全警戒中の、しかもダッシュ体勢にあるネズミを、この狭い本棚の狭間で打つ事は、よほどの達人をもってしても不可能だろう。志穂美は打ちたい気持ちが身内で跳ね回るのを氷の意志で押し殺す。左肩に立てかけたままの薙刀はかすかにも揺れない。

 ついに、ネズミは思い切った行動に出た。120センチの距離で、志穂美の正面に出たのだ。二本足で立ち上がり、志穂美の表情をうかがうように首を傾げる。暗闇のわずかな月明かり下、光る目に志穂美は惑った。「今なら打てる」 この間合いであれば闇の中とはいえ、多分、40パーセントの確率でヒットする。しかし、

 きゅるるとネズミは後ろに下がった。やはり誘っていたのだ。予備動作のアクション無しにはいくら志穂美でも打てはしない。間合いに居ると言っても、志穂美が立ち上がり、薙刀を構えるまでには、ネズミは姿を消すだろう。例えしるくの居合であっても、今のは斬れない。もっと遠くに、3メートルほどの距離で、ネズミに警戒を解かせ無ければ仕留める事は出来ない。

 ネズミは一旦、書庫から姿を消した。志穂美の気迫に怖れをなしたのか、かさとも言わなくなる。志穂美はやはり待つ。どうせ畜生の知恵だ。チーズかまぼこの誘惑には耐えられないだろう。そう固く信じている。そして、さらに、一時間。

 

 

 やはり来た。今度はより警戒している。さきほどのは偵察だったのだろう。なわばりを検索していたに過ぎない。他のなわばりも調べて、ようやく本来の仕事に取り掛かろうという訳だ。ネズミのやる気がぐんぐん伝わってくる。狙いは、・・・・・・・チーズかまぼこだ。志穂美が移動していないのを確認して、罠の可能性が低いと判断したのだろう。確かに、人間の目の前に餌を置いてたら、それは畜生の目にも罠と映るだろう。しかし、直接には手を出せない隣の列に、書棚に遮られる形で座っているとしたら。

 普通に考えれば、人間の目を盗んで、餌を奪取する、という計画になる。この場合、むしろ、人間が居るという事が、餌自体には罠が仕掛けられていないという証拠になる。餌を食べてるスキに人間どもが取り囲み、攻撃をする、そう企図されていると考えるのが当然の判断だろう。その策をかいくぐって餌だけを分捕るというのは、ネズミにしてみればかなりスマートな方法と思えるに違いにない。確かに障害を潜り抜け危険を回避して大いなる成果を得る、というのは、野生生物にとっては当たり前、当たり前過ぎて他を考えられない自然の生理というものだ。そしてネズミは、自分の運動能力と人間のソレとを比べて、イケル、と判断する。

 それが志穂美の罠である。

 ネズミにやる気を起こさせ先に手を出させて、勝ち誇る瞬間を打つ。座った状態から予備動作無しで滑るように隣の書棚の列に移動し、同時に薙刀を走らせてネズミを出血させないように半分叩く。ほとんど奇術のようなものだが、ネズミと人間とでは運動能力、機動性に差が歴然とある以上、尋常の技では通じないのは明白。奇術には違いないが、得意の気合いで志穂美は一発に賭けるのだ。

 

 志穂美は暗闇にキッと気を飛ばす。果たしてネズミはその気に反応して動きを止める。気というものを志穂美はしかとは理解していないが、ともかくネズミはそれを読んでいる事は確認した。であれば、

 ふっと息を吐き、警戒を解く。身体の緊張を解き、呼吸を楽にする。ネズミからも意識を外す。外しながらも、軽く動きを読み続ける。脚の血が滞らないよう本を二冊座布団として背筋を伸ばしてあぐらを組んで座っているのだが、さらに両のつま先を立て足の親指を床に接地させ、いつでも動けるようにセットしながらも、股の筋肉の緊張は半ばとして気配をネズミに読ませないようリラックスする。左肩の薙刀は手の中に軽く握られ揺るがせもしない。

 再びネズミは動き出した。警戒しつつ、それでも勇ましく、自らの能力を誇るかのように、ジグザグとチーズかまぼこの置かれている地点に近づいている。シャカシャカと、今までに無い音がネズミの足元からした。チーズかまぼこを包んでいたビニール袋の音だ。志穂美から見て向こう側、ネズミが来るだろう方向に、風で飛ばされないよう薄い昔の教科書で固定して置いて有る。ここにネズミが触れると、今までとは違う高い乾いた音を立てるようにしておいたのだ。異音にネズミは静止する。志穂美にはネズミの位置が手に取るように分かったが、まだだ。

 しばらく呼吸を探るように止まっていたネズミだが、このビニール袋が罠では無いと確認したのか、再び動き出した。今度はそのまま直接チーズかまぼこに接触する。そして手で触れ押してみて、何も起きない事を確かめてから、咥えてさっと引いていこうとした。しかし、

 チーズかまぼこも固定されていた。容易にはネズミが巣に引いていけないよう、ケーシングを半分だけ剥いて二本のチーズかまぼこを結んでいるのだ。むき出しの部分を両断して運び易くするか、ケーシングを噛み切って一本ずつにするか、それともこの場で食べるか、どれかを選ばねばならない。

 ネズミは引いていくのは諦めた。当然だ、移動中に狙われたらいつもの運動性を発揮出来ない。その場で食べられるだけ食べて撤退するのが最も堅実だ。このネズミの体格ならチーズかまぼこ一本を食べても動きが鈍くなるという事は無いだろう。ネズミにとってみれば、人間の餌を食ってしまうのは、すなわち勝利である。

 

・・・・・・・・・。

 

「食ったな。」

 志穂美は感じた。ネズミは警戒しつつもチーズかまぼこを食べるのに専念している。気配を変えずリラックスしたまま、志穂美は腰を浮かせた。空気を揺るがすこともなく薙刀が後ろに振りかぶられる。

 つ、とリノリウムの床を蹴って音もなく左に、隣の書棚の列に移動した。中腰で姿勢も低く、差し込む外の灯が順光であるから、志穂美の姿はネズミの方に影を投げかけない。食べるのに夢中のネズミは一瞬気付かなかった。いやなにかあったとしても、この距離ならば十二分に対処できたのだ。その筈だった。

 左手の中の薙刀を右手で滑らせながらびゅっと投げる。右腕が伸び切ったところで最後端の石突きをくんんと握り、手首を返して切っ先をネズミに向ける。手首の返しによりコンパスを開くように大きく距離を稼ぎ、ヘビが鎌首をもたげる形で薙刀はネズミの上に落ちてくる。ネズミは左右どちらに逃げるべきか、瞬時迷ったが、右に跳ぶ。跳べなかった。志穂美は最初から薙刀に力を込めていない。ともかくスピード重視でネズミの上に薙刀を投げただけだ。威力は、インパクトの瞬間上から左手で薙刀の柄をぶっ叩き床面に激突させる事で発生する。叩きようでどちらに跳んでも対応できたのだ。

 

 手応えで志穂美には分かった。ネズミが薙刀の刃で頭蓋を割られた事を。木刀と同じ、固い木の穂先であるから、竹刀と違って、当たれば間違いなく骨折、内蔵破裂は間違いが無い。志穂美は立ち上がり、薙刀を小脇に戻した。近づいてみると、ネズミはうつぶせに大の字になっている。多分死んでいるだろうが、念のため石突きで首筋をポクっと突いてみる。首の骨が折れる感触がした。これで完全にネズミは息の根を止めた。

 

 ルル、と携帯電話が振動する。もしほんの十秒、この電話が早ければ、ネズミ退治は失敗しただろう。わずかに機嫌を悪くして、志穂美は着信のスイッチを押す。

「しほみー、わたしたちもう帰るからー。」

 明美一号だった。時間を見ると、9時の少し前だ。まゆ子の科学部が終了したのだろう。特に遅過ぎもしない、ちょうどいい時間だった。

「待て、わたしも帰る。」

「あ、ネズミ、やっつけたの?」

「ああ、今仕留めた。」

「仕留めたって、血は? 血が一杯出たんじゃない?」

「ちょっと待て。」

 志穂美は薙刀を手放して書棚に立てかけ、裸足の足に上履きを引っ掛けて、書庫の扉脇の電灯のスイッチを押しに行った。

「あ、今、図書館の電気点いたよ。」

「まて、あー、大丈夫、血はほとんど出ていない。」

 蛍光燈の白い光の下で確認すると、ネズミはほんとうに綺麗な形で絶命していた。まるでネズミのおもちゃが寝そべっているようだ。これが先程まで生きて、志穂美と度胸勝負をしていたとはにわかには信じられないくらいに、静かな姿だ。

 

「やたー、ちょと待って、今そっち行くから。」

 わずかに明美一号以外の女子の声が後ろで聞こえて、通話は切れた。

 携帯電話を手にしたまま志穂美はその場に立ち、上からネズミを眺め続ける。なんだか、空しい。

「・・・・・・生きたままだったら、ピカードのおもちゃに出来たのに。」

 だが、もし本当に生きた、動ける状態であれば、ネズミは逆にピカードをおもちゃにして翻弄し、結局は逃げていっただろう。結果として図書室からネズミが居なくなればいいのだから、志穂美としてはそれでも良かったのだが。

「あ、そうだな。」

 この薙刀はしるくからの借り物である。いくら出血を伴わなかったとはいえネズミを叩いて殺した事に、しるくは気を悪くするかもしれない。ひょっとしたら黴菌くらいは着いてるかもしれない。洗浄する必要があるだろう。確か、図書室の上の階の便所には、アルコールを染ませた便座拭き用のティッシュペーパーが有った筈だ。再び薙刀を手にとり、閉架書庫の扉を開けて、階段を上がった。

 

 薙刀を拭き、自分でも小用を済ませて書庫に戻ろうとした時、下で悲鳴がした。明美達がやってきて、ネズミの死体に驚いてるのだろう、ととくに慌てもせず階段を降りていく。扉を開けると、

「う、動いた、ネズミ、動いた。」

 明美二号が顔面を引き攣らせている。見回すと、明美一号、まゆ子、それと科学部の二年生の女子が二名居る。女のくせにネズミの死体を観たがるとは、物好きも居るものだな、と志穂美は悠然と近づいていく。まゆ子もなんとなしに顔が青い。

「う、動いたのよ。」

「まさか。」

 まゆ子も、やはり同じことを言う。志穂美は改めてネズミを眺めてみるが、動かない。しばらく見つめていたが、やはり動かない。

「動かないぞ。」

「「でも動いたのよ。」」

 明美が二人、揃っておなじ言葉を叫ぶ。しかし、その場を取り繕うように、まゆ子が表情をあらためた冷静な風に装った顔で、言った。

「死後硬直、かな。いや、まだ早いか。死んでも筋肉の細胞は生きてるから、ちょっとけいれんしただけ、かな。」

 科学部の女の子は、二人抱き合って志穂美を眺めている。まるで志穂美に、このネズミの死体に徹底的な攻撃を加えて、絶対にあの世から這い上がって生き返る事の無いようにして、もらいたいなあ、とかを期待しているようだ。もちろん志穂美にその気は無い。だが、

「明美、ちょうどいい。わたしはネズミを殺すのまでは引き受けたが、ネズミの死体を片づけるところまでは請け負ってない。どうせ明日、司書の先生に見せて確認を取るんだろうから、ちゃんと拾って始末しろよ。」

「え、私?わたしいー?!」

「いや、私たち、じゃないのかな。」

 まゆ子が冷静につぶやいた。

 

 その後、一時間以上もかかって明美達はネズミの死体を回収し、保存して、保管場所を絶対に開かないように封鎖した。あまりに時間がかかり、どたばたとし過ぎた結果、警備員がやってきて何事かと確認した位だ。遂には、生徒会室で残業をしていた弥生ちゃんまでやってくる。連日の激務にさすがの弥生ちゃんも少しやつれているようだ。

「なに、あなたたちさっさと家に帰りなさいよ、というか私ももう帰るよ。」

「ネズミ、ネズミをやっつけたの。ぶちころしたのよ。」

「死んでるんですけど、綺麗なんですよ。今にも動いて化けて出て来そうなほど。」

 明美達は、なんだか二人ともハイになっている。自分で殺した訳でもないのに舞上がっているみたいだ。

 二人の言葉に、弥生ちゃんも興味をそそられる。

「ふうーーーん、そんなに綺麗に殺したのか。さすがは志穂美だね。ね、ちょっとネズミ見せてよ。」

「え、今ですか?」

「せっかく隔離したのに。」

「いいじゃない。どうせ死んでるんでしょ。」

 またぞろ騒ぎを繰り返すような雰囲気に、志穂美はいつになったら家に帰れるのだろう、とうんざりした。よくよく考えると、夕食も摂っていない。腹が減った。

「きゃー、うごいた!」

「動いた。またうごいた。」

「いやだからね、死んだとしてもそう簡単に筋肉とかの組織が破壊されるわけじゃなくて、ATP回路がちゃんと機能してエネルギーを供給すれば、死んでても手足がぴくぴく動くのは珍しくもなんともなくてね、」

「うおー、なんというか、このまま剥製にしてとっておきたいような、見事なネズミだねえ。かんどうした。」

 

 志穂美は思う。やはり生物を殺生するのは良くないことだ。そうでなければ、自分にこんな、いつまでたっても帰れないとかいう罰があたるわけがなく・・・・・・・。

 

 

 

FIN
2003/05/31

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