(今回は弥生ちゃんたちが二年生の時のお話しです。)

閑話休題。

 過日、ゲリラ的美少女野球団”ウエンディズ the BASEBALL BANDITS”は台湾から来た女子高ソフトボール部と対戦した。

 どういう経緯でそうなったのかは最早知る人もいないが、その女子高と門代高校は姉妹校縁組とやらをしていて、ソフトボール部の生徒が卒業旅行の一環として日本の高校のソフト部と対戦しよう、という企画が持ち上がったわけだ。

 一応は私的な訪問という事になってはいるが、そこはきちっとしたけじめを付けて応対しなければならない。と、門代高校校長はごく当たり前のように考える。だが、非常に都合の悪い事に、門代高校には女子ソフトボール部は正規のものが存在しなかった。あるのは文字どおりにゲリラ的に活動しているウエンディズが在るのみ。しかも、それを忌避しようにもウエンディズのキャプテンは、これまた門代高校を代表する生徒、誰がどう考えてもこの人と認めざるを得ない完璧優等生、生徒会副会長、蒲生弥生だったのだ。

 本来なら部活動は愛好会同好会、正規の部、と順繰りに生徒会、各部長会議での承認と議決が必要であるが、今回は緊急を要する事態であるので、校長命令で一足飛びに正規の活動としてウエンディズは同好会に昇格した。といっても、名目だけで、部費は0円。あくまで純粋に学校からの独立性を維持する為、何の拘束も指導も受けない事を前提に弥生ちゃんが渋々受け入れた、形になっている。弥生ちゃん本人とすれば、挑戦は何時なんどきでもどんな不利な体勢でも受ける、という心づもりであるが、せっかくの機会だからなるべく高飛車に出て交渉を進めた結果、こういう形での決着を見た。

 ただ、相手チームは遠方よりの客人であり粗相の無いよう、特に乱闘厳禁というわけで、試合中臨時の顧問が付く事になった。学校側とすれば当然の対応だが、どういうわけだか校長の依頼を体育教師達は引き受けてくれない。弥生ちゃんが非常に厄介な生徒である事は教師達の間では知れ渡っており、出来るならば関りあいたくない、という当然の心理だ。そこで生贄が選ばれた。

 河野かほり、26歳。主に一年生に古典を教えている気の弱い、スポーツには縁の無いタイプの女教師だ。

 彼女は前年まで副顧問をしていた朗読愛好会が部員不足で消滅して、今年何の顧問にもついていなかった。つまり、運悪く暇だったわけで、たらい回しで舞い込んだウエンディズ顧問への就任の依頼、というか命令に逆らう術が無かったのだ。

 校長の紹介で無理やりウエンディズに引き会わされた河野先生は、小さいくせに妙に威圧感のある弥生ちゃんにまたたく間に精神的に制圧されてしまう。

河野先生「あ、蒲生さん。分かってると思うけど、乱闘は無しよ。乱闘は絶対に無しよ。というか、普段でも乱闘をするってのは良くないと思うのよね、女の子なんだし。」

弥生「女の子云々はあんまり関係ないと思いますが、仰しゃる事は理解しました。大丈夫ですよ、ソフトボールの試合する時はソフトボールのルールに従いますし、乱闘なんかやった事は一度も無いですよ。」

河野先生「それは蒲生さんの言う事だから信用しないではないですよ。でも、ときどき蒲生さんは普通の生徒からかけ離れたような行動をするでしょ、先生はかなり心配なの。ね、約束してくれる? 絶対に相手を傷つけるような事はしないって。」

弥生「はあ、先生。ソフトボールの通常の試合だって怪我する時はするんですよ。それに私たち、練習によって相手をまったく無傷のまま昏倒させる技術ってのも習得してます。」

河野先生「きゃあぁぁぁぁぁぁーーーーーーー。だから蒲生さんは怖いのよ。だからそういう事言わないで。先生、なんだか心臓止まりそう。」

弥生「あーー、でも、なんですね。変に遠慮したら向こうの方がいぶかしむのではないですか。やるとなったら本気で試合をしないと、礼儀に反してるってものですよ。」

河野先生「えーと、先生は野球のことまったく分からないのよね、どうしよう。」

弥生「そうですね、じゃあ、先生にはしるく付けましょう。彼女なら、野球に詳しくない先生にも丁寧に説明してくれますし、乱闘を主に引き起こす相原志穂美さんを牽制出来ますよ。」

河野先生「それよ! 衣川さんならきっと先生の言う事聞いてくれるわ。えーと、どうしましょ、蒲生さんが主将で、衣川さんは二番目に偉いヒトにしてください。お願い。」

弥生「まあ、最初からふぁとしるくは副将で、八段まゆ子が参謀ですが。じゃあ今回私は儀礼的な主将として、しるくに臨時代行主将という事で試合の指揮取らせましょう。しるくならだいじょうぶでしょう。」

河野先生「ありがとおお。がもうさんありがとう、恩に着るわ。ああ、これで首がつながった。」

弥生「たかが非公式の試合ですよ。そんなおおごとになったりはしないでしょう。」

河野先生「はああああ、よかった、あ、肩が凝っちゃった。やねもう。」

弥生「聞いてないな。」

 

 試合当日。

 台湾のソフトボールのチームは全員緋色のユニフォームだった。10数人に中年の男性、たぶん彼女たちの在学時代の監督、と私服のままの少女が二人付いて来た。全員、どちらかというとほっそりとしたお嬢様タイプで戦闘力野球能力共に高そうには見えない。

 対するウエンディズは今回ようやっと正式採用となったユニフォームのお披露目となる。白地に鴇色の縁どりで、イメージとしてはかっての近鉄のユニフォームの色ちがい、というところだ。肩に”W”を図案化したマークが付いている。デザイン原案はじゅえる、監修しるく、志穂美である。一応正式なのは上着だけで、下半身はそれぞれ好きにする事になっている。ブルマ、ホットパンツ、スコート、弥生ちゃんはスパッツで細い腰をより印象的に決めている。

 両軍ホームベース上に並んで挨拶する。弥生ちゃんはまゆ子と研究した中国語の挨拶をした。

弥生「に、にぃめんはお。」

 台湾のチームの面々はびっくりして目を丸くした。その様子を弥生ちゃんとまゆ子とじゅえるはどきどきしながら眺めている。彼女たちは台湾で、中国は北京普通話がどの程度有効なのか、ひょっとしたら広東語とか閔南語使った方がいいのじゃないか、とかの論争をしていたのだ。だが、

台湾の子「”いっしょにやきゅうができてうれしいです”」

 全員胸をなでおろした。

 

 両軍礼をしてそれぞれのベンチに戻った。にわか顧問の河野先生がウエンディズ全員をむりやり円陣にした。

河野先生「いい! くれぐれも言うけれど、絶対乱闘は無しよ。喧嘩しちゃだめよ。あぶないことしちゃだめ。ちゃんとまともな野球をするのよ。せんせいのお願い。いい? わかった? 衣川さん、約束してくれるわよね。」

 今回主将代行のしるくはちょっと小首を傾げて考える。もちろん、ゲリラ的美少女リーグでないチームに乱闘を仕掛けるつもりは毛頭無いが、かと言って手加減をする気も無い。本気で野球の勝負をすればひーとあっぷする事もあるだろうが、そういうのも禁止なのだろうか。

 しるくはまゆ子に尋ねようとした。が、弥生ちゃんがまゆ子の口を後ろから両手で塞いでしまう。しるくは、弥生ちゃんの「そこはしるくが考えるべきだ」というメッセージだと理解する。確かに仮にも主将を任されたとなると、試合全体を自分がイメージする通りに組み立てなければならない。だが、相手に怪我を負わせないかと心配で落ち着きの無い河野先生を不幸のどんぞこに突き落とすのも可哀想だ。しるくはまわりを見渡して、じゅえる、は止めて志穂美に相談を持ちかけた。

しるく「ねえ、どう。むこうのチームは野球強そうかしら。」

志穂美「鎧袖一触。」

 志穂美は志穂美らしく単刀直入に答える。その言葉はしるくをまた悩ませた。そう、相手は弱そうなのだ。ウエンディズは最近ソフトボールチームとの対戦成績が上がってきている。まゆ子が考案した”ピッチャースプーンによる高速球に順応すると打撃力が上がる”作戦は順調に効果を上げており、なまじのチームなら気迫で押し切る事も可能になっているのだ。ウエンディズから乱闘を抜いても、今回負ける可能性はかなり低い。

 しるくは指を唇に当ててじっと考える。端から見ている弥生、まゆ子、じゅえる、ふぁは、しるくの気合いが徐々に高まっていくのを楽しげに見ている。

 

 

しるく「・・・・・・潰しましょう。」

 

 

 試合結果。

 ウエンディズは9対0で圧勝した。相手には二塁も踏ませないパーフェクトな守備、明美一号以外は全員安打という見事な攻撃で安打16本という成果を上げた。なにより、気迫で相手を圧倒したのだ。これは無理も無い話で、初めてゲリラ的美少女チームと対戦するソフトボールチームは、乱闘上等ウエルカム、という異様な気迫に呑まれて本来の実力を発揮出来ない事が多い。なにせゲリラ的美少女チームのメンバーは、塁を守備する人間をぶっ殺す勢いで突っ込んでくるから、なんだこりゃ、とびっくりしてしまう。まあ何度も対戦すると、彼女たちが乱闘は禁止されていて不満たらたらで野球本来の仕事はかなりいいかげんである事に気付くのだが、ともかく初回は不利だったりする。

 今回台湾ちーむはまさにこの罠に陥った。せっかく海を渡ってはるばる日本まで親善試合をしに来たのに、この仕打ちはないだろう、という有り様だ。泣く娘もいて、引率の先生が慰めている。中国語だから何言ってるか分からないが、まあ、根性と気迫で負けたのはたしかに顧問の先生にはショックであろう。今後の指導で彼女達の後輩はスパルタ式の練習を強いられるだろう。

 あまりに凄まじい試合内容に河野先生が茫然と立ち尽くしているのを横目に、弥生ちゃん達はしるくの指揮を誉め称えた。

 

 悲劇はそれから二週間後に始まる。

 

 門代高校の校舎は旧館、新館、新々館に分けられる。旧館の方はかの「外教」小講堂と同年代に作られたもので、煉瓦セメント造り三階建て、一部瓦屋根を葺いた風格のある建物だ。市の歴史的建造物の指定も受けている。それに対して新館は、70年代の作りで5階建、一年二年生はこの上階で学んでおり教室の移動でひいひい言わされ、低い階に位置される三年生は登り降りを免除され楽になる。新々館は視聴覚教室美術教室等の特殊教室、図書館が入っている。旧館は校長室職員室と門代高校の心臓部となっているが、少々階段に問題があり雨の日などは転びやすい。

 その日、生徒会の会議を終えて旧館職員室に向かっていた弥生ちゃんは、二階に下りようとする踊り場で躓き足を踏み外してしまった。常には無い迂闊さだが、そこは日頃ゲリラ的美少女リーグで鍛えた身体。階段の段差もものともせずに受け身を敢行した。階段での受け身は背筋がものをいう。背中を丸めテンションで背筋を膨張させて脊椎を保護し、タイヤのように転がり段の端で規則的に転がっていくのが最も安全だ。これが無理に止まろうとテンションを抜くと、脚腰をしたたかにぶつけて骨折するのがオチ。下手すると頭でブレーキを掛ける事になってしまう。止まりそうになるまで自力で転がっていくのがセオリーだ。

 手にした書類やファイルホルダーをばらまきながら派手に弥生ちゃんは転げ落ちた。見事なまでに転がって首尾よく二階まで無傷で下り、両脚を投げ出すように開いて止まる。さすがに目が回り、自分が今どういう状況にあるか判断も付かないが、ともかく怪我はしなかった、という事実に安堵する。

 だが。

 二年生の少女が二人と、一年生の男子が数名、弥生ちゃんの転落を目撃した。そして彼らは、停止した弥生ちゃんのスカートが大きくめくれ上がり、脚の間から薄水色のショーツが露出するのも見てしまった。

 彼らの注視をしばらく浴びて、ようやくにして事態の深刻さに気付いた弥生ちゃんは、おもむろにスカートの裾を直し、凛と立ち上がり、階段に散乱した書類を無言で回収しだした。二年生の少女が飛んで来て弥生ちゃんの手伝いをする。

「だいじょうぶですか。怪我しませんでした。」

 彼女たちの深刻な表情に、弥生ちゃんは凍りついた笑みを返すのだった。

 

 剣道場。しるくは竹刀剣道はめったにやらないが、それでも専門にやっている生徒たちよりよほど強い。女子では話にならずもっぱら男子に稽古を付けている。

 どこが違うかというと、真剣の実用を対象に稽古を積み重ねたしるくの剣は、鋭さ精度が桁違いに高いのだ。そもそも竹刀は真剣よりはよほど長い。木刀よりも長い。それに対してしるくが竹刀で使うのは、小太刀。半分の長さだ。それでいて通常の竹刀の打ち込みを防ぎ流し返す事ができるのは、足のさばきが実戦用の鋭さをもっている為で、足と剣とが同じ早さで飛ぶ。つまりしるくの全身が一本の剣のように舞っていて、かわすのも打ち込むのも全身一体に翻る。見方によればこれは途方も無い蛮勇で、相手の剣が当たる事を怖れもしない。実際、衣川家伝一刀流の極意は捨身、歯向かうものがあれば受けず防がず剣で打ち折れ、というほどで、前に立つ者を許さない苛烈さだ。

 剣の原理がまるで違うので竹刀剣道には応用は効かない。しかし剣道部員達は皆、このしるくの足の秘密を必死に盗もうと努力している。

 本日しるくの相手をしたのは三年生の男子、上背のある細く強靭な筋肉の持ち主で中学生の時には県大会で上位に入った強者だ。背が高くリーチが長いから普通の相手なら引けをとる事は無いが、しるくに対しては今まで一本も取った事はない。とはいえ日々精進の甲斐もあり、目標とする人間が身近に居る事もあり、めきめきと腕を上げている。しるくもそろそろ小太刀ではあしらいかねるかな、と思う程だ。

 だがやはり一本も取れなかった。しるくの早さは尋常ではない。動き自体は普通の早さだが、角度が急で死角に入るから、相対する者はしるくがいきなり消えたり予期しない所から現れたり、ほとんど加速装置かテレポートしてる、とさえ感じられる。気が付いたら懐に入られていた、という按配で、小太刀で竹刀を相手に出来るのもこの歩法の故である。

 その動きに対し、彼は何の工夫もしなかったわけではない。他の人間との稽古を脇から見ていればどう動いているかは分かるから、しるくが相手に非常に密着する事に気が付いた。目には見えなくても、動いた方向にぶちかましを掛ければしるくの動きを潰せるのではないか、と考えた。この奇襲攻撃は、しるくが入り込んだ方向を間違えると逆にピンチになる一か八かの賭けだが、彼は見事にぶち当てた。

 果たして、しるくはこの攻撃で一瞬動きを止め、竹刀の正面に棒立ちになる。ここを逃しては勝つチャンスは無い。彼は電撃のような面を打ち込んだ。このタイミングでは絶対に一本取れる筈であった。が、しるくはその打ち込みに頭から突っ込んでいく。敵の刀をぶち折るという、衣川家伝一刀流奥義「灯籠斬り」。刀どころか石燈篭でさえ上から下まで両断する必殺剣だ。この奥義の秘密は、単なる力や勢いではなく、丹田から迸り出る気合いをそのまま刀に載せて接触点に集中させる、一種の発勁技法なのだ。

 当然、そんな技を人間相手に使った事はない。実の所、しるくは自分が奥義を使った事さえ気付かなかった。身体が勝手に動いて、だが効果は絶大だ。

 小太刀に接触した竹刀は物理法則を無視して弓なりに後ろに反り返り、肉体はコンクリートの壁にぶつかったように空中に静止した。そのまましるくの小太刀に斬り伏せられ、脊椎を逆にたたみ込まれて地面に叩きつけられた。他の剣道部員は全員正座して二人の稽古を見ていたが、ひょっとしてしるくが真剣を使ったのではないか、と瞬間的に思ったほどだ。

 斬り伏せたまま下段に構え残身をとって一歩下がったしるくは、初めて自分が奥義を使った事に気がついた。というより、自分の強さが質的に次元が違う事を今初めて実感したと言ってもよい。彼女は、今の打ち込みに、なんの重さも感じなかった。にも関らず相手がその場に崩れ落ちていく不思議な感覚。師範の、「この技は甲冑武者に対して使うもので、間違っても稽古で使ってはいけない」という、奥義を使える自覚が無い者には無意味な、当然軽く流した注意を、はるか遠くで聞くように思い出した。

 その内周囲の部員達が騒ぎ始め、

                やがて救急車がやって来た。

 

 相原志穂美は書道部員である。ウエンディズに参加する前からそうである。中学の時は陸上部であったのだが、三年やった結果あんまり面白くないとの結論を得て、高校生になったからにはもう少し実利のある事に挑戦しようと、自らの悪筆を修正するために書道を選んだのだ。

 志穂美の野望は思わぬ方向で挫折した。書道部の顧問はまともな書家であったのだ。習字のようなきっちりとした綺麗な字を生徒に書かせず、より芸術的な奔放な書を要求する。志穂美はこれにまんまとひっかかった。芸術的な書といえば、余人には読むことも叶わぬわけの分からないぐにゃぐにゃした墨跡であり、これが正しいと完全に理解した彼女は自らの悪筆を是とし、なお一層の逸脱をはかる事となったわけだ。

 顧問の先生もこれでよしとした。なにしろ志穂美が紙に向かう姿は、全身より青白い燐光が発すると思われるほど鬼気迫り、全霊ほとばしる勢いで墨が舞うという、見ようによっては書いている本人自身が芸術と言えるほどの凄まじさであるから、書いたものが読めないくらいはなんでもない。また確かに、なんて書いているかは分からないものの、書いた人間の非凡さがひしひしと迫って来る気魄をその作品は発散しつづけている。芸術を人の心に染み渡る技、とすれば、志穂美の書はまさに芸術の名に恥じないものなのだ。

 志穂美自身は書道部の幹部ではないが、全部員から畏怖の念をもって尊敬されている。もっとも一年生はただ単に怖いヒト、と見ているようではあるが。

 その日の志穂美は乗っていた。つらつらつらつら書けたのだ。1メートルの長さの紙に細筆でびっしりと千字文をつづっていく姿は鬼というより山猫だ。モノに憑かれたかの如く書いていく。志穂美はいいかげんで荒っぽい割には器用で、半紙に余分な墨を垂らして汚す事は無い。墨が飛ばないのがむしろ悩みだというくらい、綺麗に書く。悪筆には違いないが、意図しない点画は存在しないわけだ。3時間掛けてすっかりと紙面を墨と余白で埋め尽くしたそれは、イスラム圏の壁面装飾に似る、会心の作である。

 全てを終えて、ようやくにして息を吐いた志穂美に周囲の一年生もほっと気を抜いた。志穂美が書いている間はあまりに圧迫感があり無視する事など不可能だから、書に集中など出来ない。志穂美の筆画が終わって後、ようやく自分達の練習時間に移られる。ざわざわと準備に掛かり出した。

 志穂美は今出来たばかりの作品を恍惚として眺めている。どうせ三日も経てば読めもしない字など見る気も無くなるのだが、さすがに書いたばかりの直後なら何の文字か分かる。書の出来栄えを審美する、というよりも誤字脱字を探していたのだ。間違っていたとしても修正などしないのだが。

 或る一年生の少女は、無心に自らの作品に見入る志穂美に見惚れてしまった。それまでの緊張を解き、わずかに紅潮を残した頬に普段では見られない志穂美の年相応の可愛らしさを見いだした彼女は、不覚にも魅き付けられてしまう。手には硯を捧げ持ち、墨を湛えてゆるやかに慎重に移動していたにも関らず・・・・・・・。

 

 志穂美の背中、白いブラウスに覆われた水鳥の曲線を描く広背筋にびやっと大量の墨が走った。くるっと首を回して後ろに立つ一年生に志穂美は顔を向けた。彼女はまだ自分が何をしでかしたか、うまく認識にのれない状態に在る。志穂美はとくに感慨もなく衝撃とも覚えず、普段の調子よりもよほど穏やかに、むしろ思いやり深く透明に言った。

「なに?]

 ぬるっと墨が背を這って、スカートの下に垂れ落ちる。曲線に沿って墨は進み志穂美のショーツの中に、尻の割れ目につつと忍んでいく。志穂美もようやく自分が今どのような状態にあるか気が付いた。一年生はその場にばっと伏せ頭を床にこすりつけた。

「こここここここここここ、ころさないでください。」

 殺しゃしないけどね、と志穂美は思う。怒りは不思議と沸いてこなかった。ただ、今し方仕上げたばかりの作品が、まったくの反故になってしまったのを惜しむだけだ。

 

 悲劇はさらに続く。

ふぁ「・・・・・菜園が害虫に全部やられてしまったよー。無農薬有機栽培でやってたのが裏目にでちゃった。見たこともないけばけばしい虫に食べられたよ。ふええええん。」

じゅえる「・・・いやそういう話は聞いたことはあったのよね。注意はしていたのよ、そういう事しちゃダメだなあって極力どけて置いていたわけなのよね。でもまさかこのあたしがそんなまぬけな事しちゃうなんて、思っても見なかったわ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・コーヒー、キーボードの上にこぼしちゃった。どーしよー、まゆこおーーーー。」

 この日は定期試験で、選択の具合によってはまるっきり午後が暇になる生徒が出る。手すきのウエンディズ隊士達は食堂で遅い昼食を摂っていた。だがそれは期せずして不幸自慢大会になってしまっていた。弥生、まゆ子、じゅえる、ふぁ、聖が集まって愚痴の言い合いになる。

まゆ子「ふぁ。あたしも学校の菜園見たけどさ、アレどうも日本の虫じゃないよ。どっかからまぎれ込んで来た外国の害虫だと思う。一応保健所とか言って、対策聞いて来た方がいいんじゃない? それからじゅえる、あんた、前のワープロじゃなくてよかったじゃない。コンピュータでしょ、キーボード別の。キーボードのキーってさ、あれ取れるんだよ。ひっぱったらぱかっと取れて下が拭けるんだ。ま、年にいっぺんぐらい外して掃除した方がいいよ。あ、いきなり全部外しちゃったら、どこになんのキーが付いていたかわからなくなるから、並びに沿って順番に外して丁寧にそのままの順で置いていくんだよ。」

弥生「そういうまゆ子はどんな不幸に見舞われたわけ?」

 他人の世話ばかり焼くまゆ子に弥生ちゃんが告白を促した。まゆ子は皆をぐるっと見渡して、天井の蛍光燈を見上げ嘆息して言った。

まゆ子「・・・・月には炭素が無いのよね。窒素も。CとNが無い訳なの。これは非常にやっかいな問題でね、つまり月では有機化学工業ができないって事を意味するの。それは人類の宇宙進出にとって非常にまずいわけね。なんたって要するに宇宙ではプラスチックが作れないって事で、現在の科学技術からプラスチック無しでどこまでやれるかを考えると暗澹たる気分になるわ。で、まあ、近未来を考えるとそういう製品は地球から高い金使ってロケットで持ち上げるしかないんだけど、でもそれじゃああんまり芸が無いってもんで、極力月にある資源で代替品を確保するべきなの。第一ね、ロケット燃料も月から調達するのが筋なんだけど、そりゃあ水はあるらしいわよ、月に水はある。これを電気分解して水素と酸素に分離させて燃料に使うって方法はあるわよ。でもそれってものすごーく勿体ないと思わない。これから月にはいくらでも水は必要なのよ。なんだったら地球から持っていって備蓄しようってくらいよ。それをバカみたいに宇宙にばらまくって、これどうしようもない阿呆な仕業と思わない?在るのよ。月にはロケット燃料になる資源が山ほど。酸素はあるのね、化合物の形で酸素はある。だから燃やすものがあればいい。で、一番有望なのがアルミニウムなの。ほら有るでしょ。酸化鉄とアルミの粉末を混合して火を付けると、ものすごい高温で酸化鉄からアルミが酸素を奪って還元反応を起こすの。テルミットっていうんだけど、これ第二次世界大戦から特殊焼夷弾として工場の破壊とかする爆弾として使われて来たのね。テルミット爆弾は鉄だって溶かす程の超高温を発するから、通常の焼夷弾ではうまく燃えない工場設備を効果的に破壊するのよ。でね、月には窒素が無いと言ったでしょ。窒素が無いと言うことはニトロ基が作れないって事なのね。これが意味する事は、月では火薬が作れないって事なの。火薬って窒素水素炭素の塊ってものなのよ。だから非常に困る。だから簡単に手に入るテルミットで爆発を起こすようには出来ないか、というのは極通常の考え方ね。でさ、あなたたちは知らないでしょうけど、爆発ってのは要するに化学反応によって発生するエネルギーが高温のガス、つまり高温を与えられて速度が早くなった分子が飛び散る事で威力を発揮するってものなんだけど、そういう事ならば要するに気体の分子にエネルギーを与えて高速にすりゃあいいって話になるの。テルミットそのままでも爆発しないでもないんだけど、その高温はちと無駄なのね。つまり無駄に温度を高くするわけでエネルギーの無駄づかいをしているのよ。じゃあそのエネルギーを別の物質に吸収させ、高温高速の分子に変換すればまったく無機的な火薬が作れるって寸法なの。やり方は簡単、テルミットに水でも混ぜればいい。蒸気になるのね。水蒸気爆発よ。これはあまりにも身近過ぎてわかんないでしょうけど、爆発物に匹敵するだけの大爆発を起こすのね。というか、船とか蒸気機関車のボイラーって大爆発するのよ。洒落では済まないくらいに派手にね。で、要するに圧力容器にテルミットと水のカプセルを併設して置いて、テルミット反応によって生じる熱で水を気化蒸発させて圧力が高くなれば大爆発、って・・・・・事になるはずなんだけど。」

弥生「・・・・・・・・・成功しちゃったのね。」

まゆ子「成功しちゃった。どうしよう。」

 その場の全員がはーっとため息をついた。

 ひとり、聖だけが超然としてうどんを食べている。門代高校の食堂のうどんは、時間帯によっては出汁の濃度が異なるが、まあ普通の味だ。あんまり普通過ぎてカレーのような伝説を持てないのが、残念。誰の記憶にも残らない。聖はわりと麺類が好きだが猫舌だから一本一本、箸で引っ張り出して冷ましながら食べている。よってただでさえ安物の麺が伸び切ってなにがなんだか分からない寝惚けた味に成り果てた。さすがにここまでくると聖の忍耐の許容範囲を超え、やむなく七味唐辛子を投入して味にアクセントを付ける事とする。そもそもうどん一人前は聖には多過ぎるのだ。

 手を伸ばして七味唐辛子のビンを不器用に取る聖を、じゅえるはじとーと陰気な目で眺めている。他の者はとっくの昔に食べ終わって聖が済むのを待つばかりなのだが、何時まで経っても中身の減らない丼に、いいかげん呆れた。

 聖は七味唐辛子のビンの赤いプラスチックのふたを取り、ぱっぱと振ってみるが何も出ない。もう一度少し強く振るがやっぱり出ない。びんをぐるぐると回して中身を確かめると、中が湿気って塊になっている感触がした。聖は深く考えずに自動的に動いて、机の端に七味唐辛子のびんをことことぶつける。もう一度回してみると、今度はさらさらとした感触に変わっていて、聖はほんのわずか満足そうな顔をした。ようにじゅえるには見えた。

じゅえる「・・・・・そこでぱかっとふたが外れて中身がどばどばと出て来ると、ナイスボケなんだがね。」

 弥生ちゃん達は、いくら遅いからと言ってさすがにそりゃあ露骨ないやみだな、と思ったが、聖自身は特に反応せずぱっぱと振った。ほんのわずか粉が出る。もう一度、すこし強めに振ってみた。と、振り出す穴が空いてる中ブタがぱかっと外れて出汁に落ち、中身がそっくり零れてうどんの液面を真っ赤に染めた。

 聖はわずかに引き攣った表情で面を上げ、全員の驚く顔を見上げた。思わずじゅえるが椅子をずらして立ち上がった。

 

弥生「これで七人目。残るは、」

まゆ子「明美一号二号と、鳴海ちゃんよ。」

 事ここに至って弥生ちゃん達は今回連続する不幸が人為的な操作によるものである可能性に言及し出した。と言って、物理的な攻撃を仕掛けられているとは思わない。ウエンディズ隊士全員の運気が不自然な程徹底的に落ち込んでいる、と解釈したのだ。

じゅえる「つまり、・・・・・・・・呪い?」

まゆ子「非現実的で非科学的だけどね、全員に不幸が起こってるんだから、事象の発生確率に異常がある事をを疑ってみてもいいんじゃない。」

ふぁ「なんせウチには霊感少女が三人もいるからね。」

弥生「志穂美に聖ちゃんに、後誰?」

じゅえる「明美よ。あんなに不幸な人間ってそうざらには居ないわ。もはやアレは特殊能力に勘定して差し支え無いと思う。違って?」

弥生「う、そうかな。そりゃ常識離れして不幸になる頻度が高いのは認めるけど。」

まゆ子「そうは言っても明美の事だから、今回不幸になるとしてもどんなもんだろう。ひょっとして、通常レベルの不幸にまぎれて判別できないかもしれない。」

じゅえる「あるいは、人命に関る程の大不幸だったりして。」

ふぁ「縁起でもない。」

 聖は目の前で繰り広げられる愚にもつかない堕論にツッコミどころを山ほど見つけていたが、音声百倍アンプを装備していなかった為に口を挟む事が出来なかった。しかし、七味唐辛子をぶちまけるなどというバカみたいなミスティクを自分がしでかしてしまう、というのも納得し難いものがある。本当に呪いが掛かっているとして自分が気が付かない筈がないのだが。

 議論は当然のようにどうどう巡りとなり、両明美に何事か発生した時にまた検討し直す、という常識的な線に落ち着いた。恨みを買うとしても、心当たりが多過ぎて特定が出来なかったのだ。

 

 そうこうする内に終了のベルが鳴り試験が終わって、全校のあちこちで続々と生徒が動き出す。食堂にもぞろぞろと集まって来るその中に明美二号が居た。

二号「あ、みなさんこんなとこに居たんですか。どうでした、試験、うまくいきました?」

ふぁ「試験はね、試験は別にどうという事は無かったよ。それ以外のところでちょっと不具合が起こってるわけ。」

じゅえる「ね、明美ちゃん。あなた最近なにか、いつもとは違うようなスゴイ事って起こらなかった?」

二号「なにかとは、なんですか。」

じゅえる「あり体に言うと、その、悪い事。最近特に運勢が落ち込んでるって事無い?」

二号「絶好調です。」

 もうこれ以上御機嫌な状態は無いほどにこやかに明美二号は笑みを浮かべた。

二号「テレビを見ても雑誌を見ても、ケイタイ占い見ても、金運恋愛運健康運学業運総合運あらゆる方面においてパーフェクトです。実際おこづかいも臨時収入がありましたし、今日の試験もヤマが大当たりで全教科つっかえる問題もまったく無く、ほとんど完璧と言える素晴らしい出来でした。なんたって書き間違えの一つも無くて消しゴムほとんど使わなかったくらいですから。そういえばここ一週間ほど犬にも吠えられず、タンスの角で足をぶつける事もなく、買い物のおつりを間違えて多く取られる事もなく、コーラを開けても爆発しない、って常に無いスムーズな生活を送ってますね。恋愛運はまだ何も出てないですけど。・・・・・なんか出るかな。」

 照れる明美二号を置いて、ウエンディズの先輩たちはため息をついて椅子に深く座り込んだ。どうやら呪いの線は消えたようだ。

二号「あの、なにかわたし問題でも?」

弥生「いや、何も無いならまったく問題ない。ようするに、これは運気の巡りがたまたまタイミングを合わせたというだけの話なんだね。」

じゅえる「二号が絶好調なら、私たちが不幸に見舞われるってのも納得いくわ。いかないけど。運勢量保存って奴かしらね。ひとり勝ちの法則よ。」

ふぁ「ああ、あああー、それ聞いた事あるな。妙にツキまくってる人間の側に居ると、運気を吸い取られてしまうって。超能力でもなんでもないんだけど、体質としてそういう人がいるんだって。」

まゆ子「一号明美はどうなんだろ。生年だけであとのエレメンツはすべて二号と一緒なんだろうから、やっぱ絶好調なのかな。」

二号「あ、そういや、朝一号先輩に会いましたけど、なんか困ってましたよ。試験なのにいとこがやってきて勉強する暇がなかったとかなんとか。」

じゅえる「それはーーーーー、特に問題とは言えないかなあ。」

二号「そのいとこが就職するんで荷物を整理してる、って話でテレビもらうとか言ってましたよ。小さいのでビデオが付いてるの。」

弥生「・・・・・・・明美は二人とも絶好調らしいね。」

 ウエンディズを尻目に生徒たちは入れ代わり立ち代わり食事を済ましている。よくもまあ、こんなどうでもいいようなメニューを飽きもせず食べられるものだとふぁは関心する。舌にはちと自信があるふぁは、こんな所の飯はとても喉を通らないので一年生の最初の一回限りで利用は断固拒否している。今も購買部のパンを食べただけだ。ちなみにそのパンも、中身が入っているものはまったく信用しておらず、せいぜいメロンパンくらいしか買わない。変な調理パンとかやきそばパンとか買うくらいなら固形燃料もちこんで園芸部部室で自分で料理してやろう、って女だ。家庭的なのかワイルドなのか分からない。

 ふぁの理解の外で生徒の群れは流れていく。と、一人の男子生徒が食券売り場で突然奇声を上げた。

「うお、金が無い。万札が無いぞ。」

 その声は、その場に居る人間のかなりが知っている。今度入った一年生で一番巨大な男子生徒。プロレスラーの高山善廣選手を一回り小さくしたけれど並みよりよほどでかかった、と言われる巨躯の持ち主で、ラグビー部と柔道部が獲得合戦で主将同士のタイマン張って、ラグビー部が首尾よくゲットしたという今年度期待の新人だ。でかいからあっという間に門代高校の有名人に、またよく食うので食堂のおばちゃんたちのアイドルにもなっている。

二号「どうしたの、黒崎くん。」

黒崎「おわ、山中か、探してくれ。俺の万札が、さっきまで確かにここにあった筈なのが消えちまった。落としたんだ、たぶん。ここらへんに。」

 いきなり親しそうな二号の様子に、ウエンディズの先輩達は目を丸くした。その表情に二号はちょっと照れて頭を掻いた。

二号「いや、中学校の同級生なんですよ。昔からあんな具合で、」

弥生「はあ。そう。そうか、そりゃ同級生の一人も居るかな、黒崎クンも。」

じゅえる「ふうん、彼、中学の時は何部だったの。」

二号「それが、あんな風ですからそこら中引っ張りだこで、特定の部活ってのには入ってなかったみたいな。そうだ、文化部ですよ、確か正式に入ってたのは。でも、その部活にはほとんど姿を見せなかった筈ですけど。」

ふぁ「変なの。」

二号「確かに変ですよね。黒崎くんとおんなじ高校に通ってるってのも割と信じがたいんですが。彼、結構あたまよかったんだ。」

まゆ子「ああ、ああ、なるほどね。そういうタイプなんだ。」

 黒崎くんは食堂の床を這い回って一万円札を探している。食堂の机といい椅子といい、手当たり次第に持ち上げて、遂には女子のスカートでもめくりかねない勢いだ。よほどにお腹が空いているのだろう。そこへ、

明美一号「あ、居た。じゃーーーーーん、みんなおめでとう。わたくし今回の中間テストでたぶん史上最高得点取りましたわ。なーーーんというかこの一週間というもの、ほんとにこんなにツいてていいのかしらって位絶好調で、もうこの世の春というか黄金時代というか、ひょっとしたらこのまま死んじゃった方が人生ばら色なのじゃないだろかってほど、幸せにハッピーを重ねてるのです。テレビも雑誌も運勢最強最高だし、金運上昇、恋愛運今世紀最大ってなもので、今なんかそこの渡り廊下で一万円!、一万円拾ってしまいました。ああー、神様ってホント居るのね。」

 と、場違いに程舞い上がる明美一号が登場した。両手でひっぱる福沢諭吉をぴらぴらと見せびらかせながら。

じゅえる「明美、それ、拾ったの?」

明美「うん、風でふわーーーーーっと、私の手の中に飛び込んで来るみたいな感じで。いやあ、日ごろの行いがいいとやっぱ違うのね。」

 その一万円の持ち主を、食堂に居る誰もが知っていた。血迷った黒崎くんが明美一号に突進する。

「やまなかあ、すまん、ありがとう、愛してる。」と、熱く、力の限りに包容する。イノシシでも絞め殺しかねない怪力で、だ。

二号「違う、黒崎くん、それ、二年生の明美先輩!」

明美「うぎゃがががあげぐろがばぎじょげ、ど、べぱ。」

 日本語には決して聞こえない悲鳴を十数秒上げた後、明美の脊柱から不快なクラック音が食堂中で聞こえるほど高らかに響き渡る。

 

弥生「・・・・・相変わらず飛ばしてるね。」

じゅえる「明美って、幸運が不運の形でやってくるわけなのね。半端な占いなんてぶっ飛ばしちゃうほどに過激に。」

ふぁ「なにはともあれ、アレは一種の不幸には違いない。例の呪いはやっぱり有るってことで。」

聖「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 冷たいリノリウムに横たわる明美一号の屍をおののいて見つめる二号に、まゆ子は静かに言った。

まゆ子「明美ちゃん、あなたも恋愛運最強だったわよね。一号が抱きしめられたのって、たぶんあなたの身代わりよ。本来ならそこに倒れてるの、あなただった筈。」

二号「そ、そうでしょうか。わ、わたくしの恋愛運って、そんなおそろしい目に遭うような。て、たぶんおなじ占いの、一号先輩の方が、恋愛運強かったのだとか。」

じゅえる「あなたさあ、テストも絶好調だって言ってたわよね。絶好調時のテスト結果って、後の進路を過たせる最大の要因なんだ。一号は、どうせ、解答欄間違えて書いてるとか、そんな不幸だと思うけど。」

二号「じじ、自重します・・・・・・。」

 嫌な冷たさを持った汗が、二号の首筋からつつつと背筋を下りていった。一号の屍にイメージを刺激され、鼻の奥にきな臭い、血の滞るような幻臭を感じている。

 

 床に倒れた明美は脇目に、テストを済ませた生徒たちは次から次に食堂に押しかける。カウンターからお盆を持ってそれぞれに席を埋めていった・・・。

 

 

 彼女たちがこの一連の異常を呪いと認めるのに、ひとつ問題があった。相手が誰か分からないのだ。恨みを買う相手ならいくらでも居る。しかし、九人にまとめて不幸をもたらす程の霊力を持つ者は心当たりがない。そんな真似は志穂美にも聖にも不可能だと言うから、これは尋常ならざる超常の力によるものだろう。

まゆ子「そういえば、台湾には、というか中国本土の近海には、媽祖というとんでもなく強力な神様が居るんだそうだよ。本来御舟を守る海の守り神で霊験あらたか御利益確実ていうのだけど、嫉妬深い女の神様で神罰も強力だって。」

弥生「あ、・・・そうか、一番最近恨みを買った相手だね、ソレ。」

 呪いの相手が台湾チームであるかどうかを見分けるのは、簡単な方法があった。姉妹校の親善試合だったから中学生の鳴海ちゃんは参加していない。代わりに、

 

弥生「河野先生、ちょっとお話しがあるのですが、よろしいでしょうか。」

 試合の時新たなる関係者としてウエンディズに存在していた、にわか顧問の河野かほり先生。彼女に不運の伝搬が起こっていれば、台湾チームの呪いであると断定してもよい。放課後、ウエンディズ全員の激励を受けて、弥生ちゃんは職員室に出撃した。

 河野先生は、その後ウエンディズ隊士から「おじょ先生」のニックネームを頂戴している。26歳にもなってまだお嬢様気分が抜けない、可愛らしいような情けないような頼りなさから、誰ともなしにそう呼ぶようになった。基本的にはウエンディズを野放しにしてくれているから特に文句も無く、迷惑を掛けて首を吊ったりしないよう皆自重してはいる。

河野先生「わ、蒲生さん、なに? また相原さんがこわいことしちゃったの? 明美さんが事故って救急車とかじゃない?」

弥生「いえ。先生ウエンディズの顧問ですから、一応今月の報告と予定の連絡なんかしなければいけないと思いまして。練習に見学に来て頂くとか、ご指導頂けないかとか、隊士全員が希望しているのですが、いかがです?」

河野先生「れんしゅう? だめよ! 私なんにも知らないもの。野球もまだルールだって覚えてないわ。それに格闘するんでしょ、そんなの見てるだけで卒倒しそうになるわ。」

 ここら辺がまさにおじょ先生なわけで、弥生ちゃんはちょっと眉をひそめた。河野先生を抱き込む必要も無いがまったくの無理解もいざと言う時には困るのだ。特に、弥生ちゃん達が卒業してしまった後、弥生ちゃん並みの政治力が無い後継者しか得られなかった場合、その問題は顕在化するだろう。ウエンディズの存続が危うくなるが、ウエンディズの一年生は明美二号しか居ないという、こちらから先にどうかしなければならない。

弥生「それはともかく、先生、最近身近でなにか異変はありませんか?」

河野先生「異変? いへんって、まさかあなた達、危ない人に喧嘩を売ったとかしてないでしょうね。」

弥生「え、いえ。」

 弥生ちゃんは隊士達に連続する不幸の数々を掻い摘まんで説明した。最初は要領を得なかった河野先生も、三人目四人目と話が続いていく内に目が据わって来た。

弥生「という訳なんですが、先生には不幸と呼べるような事象は起こっていませんか。」

河野先生「・・・・・・・・そんなのは不幸なんて呼ばない。その程度の不幸は不幸なんかじゃないわ。」

 職員室で、他の教師も多数居る中で、それでも書類の陰に隠れて極力バレないように身を屈めてではあるが、河野先生はいきなりぼろぼろと涙をこぼして泣き始めた。

河野先生「せんせいね、せんせいね、ふこうになっちゃったわよ。あのね、ふられちゃったの、さんねんも付き合ったのに。それも相手は出来ちゃった結婚だってのよ、あたしなんか指一本も触れられてないのに、そんなのあっていい訳?!」

 河野先生はがばっと弥生ちゃんの細い身体を抱きしめ頭を胸部にこすりつけて、それでも声を殺して泣きじゃくった。弥生ちゃんはこういう分野は専門外でまるっきり苦手だから、身動きが出来ないまま、周囲の視線に焦りながらも、先生の頭を優しく撫でて慰める。でも、指一本触れられてない、というのではどうも、付き合っていると思っていたのは先生だけの勘違いじゃないのかな、なんて思うのだ。

弥生「えーと、ですね、で、厄除けの為になんかしなきゃいけないと思うんですけど、」

河野先生「せんせい心当たりあるわ。とっても良く効くお地蔵様があるの。そこに行くと女の子の不幸をお地蔵さまがなんとかしてくれるって話よ。」

 弥生ちゃんの制服を涙と化粧でぐちゃぐちゃにしながら、なんとかという聞いた事があるような地蔵尊の名を河野先生は教えてくれた。

 

 全員が集合する外教に戻って来た弥生ちゃんは、今回の状況がほぼ間違いなく台湾チームの呪いである可能性が非常に高いと推定して差し支えない色彩が強い、という分析を披露した。同時に河野先生が提示した「とても良く効くお地蔵様」へのお参りを提案する。

じゅえる「鈍蓋地蔵尊ですって!」

ふぁ「鈍蓋地蔵だってえーーーーーー!!」

しるく「鈍蓋地蔵尊なのですか! そんな。」

まゆ子「鈍蓋地蔵って言えば、やよいちゃん!」

 だが弥生ちゃんは皆が一様に驚くのに、却って自分がびっくりした。

弥生「わたし、そういう方面ってまったく疎くて分からないんだけど、鈍蓋地蔵尊ってそんなに有名なの?」

明美「だって鈍蓋地蔵だよ、なまりぶた。」

二号「こんなに近いのに、キャプテン知らないんですか、鈍蓋地蔵。」

弥生「す、すまない。私そういうのって全然関心無くって。でも鈍蓋地蔵尊って、誰でも知ってるほど霊験あらたかなわけ? 良く効くの??」

志穂美「鈍蓋地蔵尊だから、効くと言えばこれほど確かな所も無い。」

聖「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。(肯定)」

 

 弥生ちゃんは外教の天井をじーーーっと眺めて考えた。皆がこれほどまでに言うのならば、確かにそれは有名で効果抜群のお地蔵さまなのだろう。それほど有名なものを自分がまったく知らないってのもちょっと恥ずかしいものがある。ここは後学の為にも一度お参りしておくべきであろう、と。

 

明美「しかしまさか河野せんせいの口から”鈍蓋地蔵”が出て来るなんてね。びっくりだわ。」

ふぁ「うん、わたし先生見直したよ。やっぱ女も25越えたら一筋縄じゃいかない。」

じゅえる「そうねえ、人は見かけによらないって言うけれど、ひょっとしたら若い頃はもっとぶっ飛んだ人だったのかも知れないわね。」

しるく「あ、わたし、なにかちょっと興奮してしまいました。」

二号「これってやっぱ、秘密事項でしょうね! 他の生徒には言わない方がイイですよね!」

まゆ子「ううむ、なるほどね、おじょ先生のあだ名は見くびってたね。じぞ先生に格上げだ。」

皆「うん。」

 志穂美と聖は会話に加わらず、しきりに考える弥生ちゃんを見つめていた。弥生ちゃんは未だ状況を把握していないんのだろうな、という観測をしながらも次のアクションを待っている。聖は、ある事に気付いて志穂美に話し掛けた。確証も無く無闇に呪い返しを掛けると反作用の効果の予測がつかない、と。年代物の朽ちかけた生徒用椅子の背もたれに身を預け、長い脚を行儀悪く投げ出している志穂美は、聖の言に目玉だけ動かして誰にも聞こえない小声で答えた。

志穂美「そこまでは面倒見きれない。」

 

 そうこうする内に弥生ちゃんの考えがまとまったようだ。ばっと身を翻し皆に向き直った弥生ちゃんは、花が咲いたような明るい笑顔で言った。

「善は急げ。今から行こう!」

 

 門代高校を下ってバスに乗って二十分、山の中の地蔵尊にウエンディズは制服のまま大挙して押しかけた。バスの路線が通学に使ってるのと全然違うから弥生ちゃんが知らないのも無理はない。だが、バス停がわざわざその前に「鈍蓋地蔵尊前」という名前で設置してあるので、路線図で見て覚えていたのかもしれない。ともかく弥生ちゃん以外の人間には非常に有名な場所だったのだ。

 その人気の理由を、バスから下りる直前窓越しに、弥生ちゃんは悟った。こんな山の中に不自然に大きな門構え、その外回りに何十本もの赤い幟が立っている。山号が大きく記された立て看板に、これまた大きく書かれているのが、

弥生「・・・・・・みずこ?」

じゅえる「そうよ。」

弥生「おんなのこの不幸をなんとかしてくれる、ってのは、」

ふぁ「つまりそういう事ね。」

 弥生ちゃんは顔を真っ赤に染めてその場にしゃがみ込んだ。皆びっくりした筈だ。というか、何故誰も説明してくれなかったのか。

 くるっと踵を返してバス停に戻ろうとする弥生ちゃんを志穂美が捕まえて山門に向きを変える。

じゅえる「ここまで来たら覚悟を決めて前進あるのみ、よね。弥生ちゃん。」

ふぁ「敵前逃亡は死刑、じゃなかったけ、ね。」

 珍しく頼りない弥生ちゃんを見兼ねてしるくも口を挟んだ。

しるく「あの、弥生さん、こちらは別にそれだけを扱っているわけではなくて、普通の方が参詣されても支障ありませんよ。」

弥生「いや、そういうもんだいじゃなくてね。」

 ウエンディズは抵抗する弥生ちゃんを全員でおしくらして、境内に突入した。

 山肌を削った何列もの石段に数百体もの石の地蔵が赤い前掛けをしてずらっと並んでいる。遠目には怪しげな女の参詣客もちらちらと散見されるその中を、紺色の制服に身を包んだ少女達が集団で、非常識な高速で突き進む。その強力な生命力と若さが周囲の空気に反してキッチュな趣を醸し出していた。

 

 翌日。

 弥生ちゃんは第一現の始業前に河野先生に職員室に呼び出された。なにやら深刻な表情である。

 先生は言った。

「あのね、蒲生さん。あなた達が集団で鈍蓋地蔵尊に居るのを見たってPTAの方から報告が入って来たのよね。良かったらせんせい相談に乗るわ。たとえあなた達の誰かがもし万一間違いを犯したとしてもね、先生達はきっと悪いようにはしない。だから正直に話してくれる?」

弥生「おい・・・・・。」

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 その頃台湾チームの女の子達の間では奇妙な偶然による不幸が相次いでいた・・・・・。

 

 

終わり

2002/10/17

 

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