「デスマーチ・ドリーマー」

 

(第一回)

M「生徒会役員選挙が6月15日。公示日が6月1日、で2週間後で月曜日15日が投票ってわけね。で、即日開票、その週の土曜日20日が生徒総会と新役員認証式。22日から新執行部発足、と。立ち会い演説会は?」
Y「13日、土曜日。2時間の予定でこの日は授業は無い。もともと学校も無い日だけれど、講習がある。三年生は参加自由で一二年生は強制参加。討論会もやることになっているけど、例年盛り上がりに欠けるから、今年は形式を換えて質問会にする。わたしがそこらへんの連中に手を廻してイヤらしいクリティカルな質問をする人間を揃えてる。」
J「弥生ちゃん、そんなところまで世話焼いてたの。」
Y「いや、さあ、必要は無かったんだけど、馬鹿はごめんでしょ。今作ってるマニュアルを、読めもしない理解も出来ない、ってのが生徒会長になったらどうするの。」
M「小柳原くんはそれでいいって?」
J「生徒会長はなんも知らない。元々現執行部は生徒会役員選挙の選挙実行委員会に介入できないことになっている。別のチャンネルで組織されてるってわけね、マニュアル通りにやればいいだけだから、それはいいのよ。ただ、監督は先生がするのよね、これ。」
M「小柳原くんになにやらせたの?」
Y「だから、質問会よ。つまり司会ね、田原総一郎みたいなものよ。現今の社会情勢とか学内の問題とかについての候補者に対する質問会の仕切りを生徒会長がすることにしたの。で、盛り上がるようにサクラを仕込んだ、てわけ。」
M「やよいちゃーん、そこまでやらなくてもいいんじゃなかったの。」
Y「いやいや。生徒会長はあくまで凛々しくかっこよくなくちゃ。彼にも見せ場が必要よ。で、それに忙殺されてる間、わたしは引き継ぎのマニュアルを作る、と。」
J「・・・・・・・何冊ある?」

 じゅえるの言葉に後ろを振り返った弥生ちゃんは、お手伝いの書記の二年生Aにちょいと背を屈めてもらって、書類棚のファイルの数をひいふうみと数えた。

Y「20冊。あと5冊かな。」
M「全部自分で書いたわけ?呆れたー。」
Y「まあそのなんですか、わたしも2年間好き勝手放題やらせて頂いたわけですから、責任というものをとらなくちゃいけないですよ。なにしろ、ほとんど総ての委員会の内部を引っ掻き回したからね。」

 お手伝い書記Bが弥生ちゃんの他人事のような発言に、辛辣な意見を返した。

B「これまでのマニュアルが全部役に立たなくなってしまったんです。それは責任とらなくちゃいけないでしょ。」
Y「だってさ。」

 生徒会準備室では現在生徒総会の準備と事務引き継ぎの準備に追われている。決算とかは部外者のまゆ子がコンピュータでじゃーっと処理してしまい三年生の会計Cはやることも無く、生徒全員に配る報告書の印刷と製版に掛かっている。これはこれで手間と人手が掛かるのだが、本年に限って言えばその仕事が倍、いや三倍に増している。それはもちろん、

「弥生ちゃんのせいだ!

 

 門代高校生徒会での弥生ちゃんの2年間の死闘の跡が、この膨大なマニュアル群の作成事業となる。旧来の生徒会の弊習を一人で一気に片づけてしまい、新たな時代にふさわしい合理的な組織に改変してしまったツケを、弥生ちゃん自らが支払っている。まゆ子とじゅえるはそのお手伝いにこの三日生徒会準備室に入り浸り缶詰状態なのだ。もちろんうえんでぃずの練習もちゃんと行われており、しるくと志穂美を中心とするジゴク特訓が敢行されているはずだ。

M「いざとなったら、明美一号二号も投入するから心配しないで。」
Y「いや、二号はうえんでぃずの方で忙しいでしょ。夏合宿の準備もあるし。」
J「なーに言ってるの。あんなの直前にぱぱっと決めればいいだけじゃない。どうせしるくの牢屋敷でしょ。」
M「じゅえる、違うって。あのね、弥生ちゃん。今年はしるくがね、別荘でどうですかって言ってるのよ。」
Y「え、別荘。牢屋敷ダメなの?」
J「いいんだけどね、こちらのメンバーのスケジュールを調整すると衣川家の法事と重なっちゃうらしいのよ。一年生の夏期オリエンテーションあるでしょ。あれに合宿重ねるわけにはいかないじゃない。加えて、ぴんくぺりかんずの子たちのスケジュールがね、中学校でも夏期キャンプとかあるわけなのよ。」
Y「まずいな。じゃあ、牢屋敷が使えるのは、」
J「四日間。残り三日を海辺の別荘に行こうというのが、しるくの申し入れね。」

M「それで二号は悩んでるのよ。ぴんくぺりかんずは連れてけない。主要メンバーだけに絞るのはどうだろうか、て。でも美鳥とかカネが無いて言うじゃない。中学生もさ、ほら足代がね。」
J「まゆ子おー、合宿代はね、あ突然だけど、美矩が二代目会計になった。というか、あたしが任命した。」
Y「じゅえる、それは誰に相談して。」
J「まゆ子と志穂美と明美12とね。別に問題ないでしょ。釈の方がよかった?」
Y「いや。というか、じゅえるあなた、会計の仕事てちゃんとやってたの?」
M「そうだ、うえんでぃずの会計報告っての見たことない。」

J「・・・そういう話はねえ、部費てものを取ってるクラブが言うものよ。うちはなに、誰かお金出した?」
M「わたしは出したよ。」
Y「わたしも出した。」
J「わたしだって出したわよ。出してないのが居るわけだ。ふぁとか明美とかしるくとか。」
Y「え、しるく部費出してないの?」
J「取れないんだよ。しるくは部費以外のありとあらゆる場面で色々と提供してるでしょ。これでまた部費取ろうっての。」
Y「済みません。しるくちゃんごめんなさい。」
M「ふぁは?」
J「ふぁは? じゃない。一番カネを使ったのはまゆ子、あんただよ。」
M「ごめんなさい。じゅえるちゃんごめんなさい。」
Y「あの、もしかして、一年生の美鳥とか、取ってないよね。」
J「大根もらった。お金が無いからこれでなんとかって大根を三本もらったよ。わたしとふぁと志穂美で買って、部費にしたんだ。」
M「それは弥生ちゃん家の畑で取れたやつだね。」
J「ともかく会計は難しいんだよ、うちは。ゲリラ的美少女野球てのも結構お金掛かるんだから。」

Y「その金の問題。家弓さん招聘計画はどうなった。」
M「志穂美がちゃんとやってるよ。どうも、志穂美本人が会いたいという希望が強いらしくてね、どぐめきらと仲良くやってる。お金はー、積み立てかな。」
Y「夏合宿のすぐ後だから、無理があるんじゃない。」
J「おおありなごやのこんこんちきだね。そんな金は無い。」
Y「どうするのよ。」
J「借りる。」
Y「誰に。」
「「こいつだ。」」

 と、じゅえるとまゆ子は互いを指差した。いきなりのアクションに思わず弥生ちゃんは最速で筆記し続けていたシャーペンを床に落してしまう。じゅえるはマニュアルの清書中のノートパソコンから指を放し、まゆ子は弥生ちゃんの書いた草案を添削する赤鉛筆を置いて立ち上がる。

J「七号こんぴゅーたの軍資金は今何パーセント?」
M「あーら、じゅえるさん。東京進出計画の預金が百万でしたっけ。」
Y「うわ、二人ともお金持ちなんだ。」
M「というわけで、弥生ちゃんはお金の心配はしなくていいわけよ。こいつからアテの無い借金をすればなんとか間に合うから。どうせ卒業までに返せば帳尻は合うてことね。」
J「ちなみにまゆ子のコンピュータは古い奴売り飛ばせば少々の無理が効くというお話ね。科学部のロボットでしたっけ、あれ、学校に売るという計画じゃなかったの。」
Y「え、学校に売る?!」
M「ま、まあ自分で組んだわけで、自分持ちになってるんだけど、それはいかんということで部費で落す算段をしてる最中なのよね。ただ、2年分の部費でも足りないという問題があるんだけど。」
Y「いや、あの、ふたりとも。そんなことまでしなくても皆でなんとかすればなんとかなるよ。」
J「それは分かってるんだけどね、なにせゲリラ的美少女野球団門代地区が全員集まるんだから、金なんかどばどばと。」
M「だから、当座の分を短期的に融通するだけのおはなしだから、だから、じゅえる〜。」
J「まゆちゃ〜ん。」

A「あの、どうでもいいですけど、なんか警備の人が来てますよ。」
「もう10時半回ってるんですけど、いいかげん帰ってくれないかなー。」

 書記Aの後ろの廊下から民間の警備員のおじさんが顔を出した。門代高校は定時制もあるのでなにか行事が有る時は比較的遅くまで居る事が許されるが、やはり10時を越えると責任上追い出さねばならないようだ、顧問の先生も無いし。書記AB、三年生の会計C、関係する専門委員会から引っ張って来た応援の二年生DEF(彼らは次の生徒会でそのまま実務を継承することに決まっている)、その他お手伝いの一年生Gと、全員が帰りたいけど弥生ちゃんが帰ってくれないよお、という顔をしている。いつまででもOKなのは臨時でお手伝いになったまゆ子とじゅえる、弥生ちゃんだけのようだ。

 弥生ちゃんは隣の印刷室の生徒会長小柳原くんに声を掛ける。

Y「こななぎくん、タイムリミットだって。」
小「わかったー、今切り上げるー。」

 小柳原くんはこれでも男の子であるので、印刷機とかコンピュータとかは割と得意なのだ。今回の印刷業務を一手に引き受けて、生き生きとしている。いや、本来重要な仕事は全部弥生ちゃんがやってしまっているので、身の置き場所が無くならないように配慮して、彼の為に男手が必要な場面を積極的に作り出してるわけだ。

 シャツを腕まくりして手を真っ黒にした小柳原くんが戻って来た。どうやら旧型の輪転機が故障したのを自分で直したようだ。コピー機レーザープリンタの類いはいまだに生徒会に納入されていない。職員室にはちゃんとあるのだが、この時間帯では使えない。もっとも最低価格の藁半紙をレーザープリンタに掛けるわけにもいかない。旧式には旧式の利点というものがあるのだ。まゆ子は言った。

M「次の生徒会にはプリンタ買わせなさい。」
Y「だね。」

 それぞれがやり掛けの自分の仕事を両手いっぱいに抱えて生徒会準備室を出る。この上に更に学生鞄やら体操服やらをぶら下げて帰るのだ。どこがIT革命だ書類の電子化だ、なんで教室に教科書置いて帰っちゃいけないのだ、ロッカーは何のために有る、とか皆思うのだが、校則で置いてはいけないことになってるから仕方がない。盗難に遇っても学校は補償してくれない、自己責任をおっ被されてしまっているのだから

A「じゃ、電気消しますよ。」

 言うが早いか、書記Aは電燈のスイッチをオフにした。途端に広がる暗闇。廊下の電燈も運動場の照明もとっくの昔に落されている。暗さに目がなれるまで皆目をぱちくりさせていた。一人、懐中電灯を持っている警備員の人が「それでは気をつけて」と言って下足置き場に向かう階段を照らしてくれた。男女混合の10人は、或る者は心残りを置いたまま、或る者は喜び勇んで廊下を小走りで抜けて行く。弥生じゅえるまゆ子のうえんでぃず三人は、最後に生徒会準備室に鍵を掛けた小柳原くんと最後尾を行く。

小「まだマニュアル掛かる? 蒲生くん。」
Y「仕方ないねえ。これを終わらせなければ引き継いだことにならないんだもん。自業自得よ。」
J「とはいえ、全部が全部期日までに終わらなくてもいいような気もするんだけど。」
Y「それはダメ。けじめというものが有る。ていうか、わたしはヤだ。」
M「性格だからねー。」

 ばたばたと帰る背後に、何者かの気配を感じてじゅえるが振り返る。ずっと腰を曲げ顔をそれに近づけて言った。

J「というわけで、今回省力化の為に台詞の前は頭文字になります。生徒会の連中の名前はあえて設定しません。ていうか、こいつら二度と出て来ないし、今更新しい登場人物なんか作りたくないし、その他大勢だからね。」

 と、ウインクを投げて読者に媚びを売り、皆を追いかけて廊下を走って行った。

 

 門代高校の坂は長い。全長500メートルはあるこの坂をほとんどの生徒は重たい鞄を抱えて毎日必死になって登ってくる。ほとんど、というのはこの坂の上にもまだ坂があり、峠に繋がっていて、そこに住んでいる者はより過酷な山登りを強いられる、ということだ。幸いにも生徒会にはその境遇に喘ぐメンバーは居ないが、しかしその山道を生徒の全てが知っている。山登りコースは自動車がほとんど行き来しない為、安心して生徒を走らせる事が出来る、地獄のマラソンコースなのだ。男子は12キロ、女子8キロのコースで今年の冬、弥生ちゃんは全校女子で8位になった。

 弥生ちゃんが乗るバスは、この坂を下り切った車道の交差点のところにバス停がある。つまり、そこで皆とお別れ。じゅえるは更に下って繁華街アーケードの通りのバス停で弥生ちゃんとは別の路線に乗る。まゆ子はこのまま小柳原くんがエスコートして山手の家まで帰ることになる。

 

M「今更という気もするけど、弥生ちゃん。この、教科書を全部一々持って帰らなければいけない、ってのは校則の修正効かなかったの?」
J「そうだよ。これをこそイの一番に解消するべきじゃない。」
Y「いいのよ、これはこれで。毎日筋トレしてるようなものよ、って、ぜんぜん筋肉付かないけどね。」
J「それは不思議よね。何キロあるんだろ、3キロ? 4キロ? ウエイトリフティングで使う小さいダンベルあるじゃない。」
M「小さいのは1キロだね。両手で二キロ持って上下する。あれを毎日やってるようなものだけど、全然効果無し。抗重力筋てのはしぶといわ。」

小「そう言えば君たちは、ウエンディズだっけ、あれは体育会運動部とは別口の組織なんだね。」
M「うちは、実は文科系の部活なのよ。分類上は。」
J「弥生ちゃん、これはこれでいいの? 今の内に修正しといた方がいいんじゃない。」
Y「こななぎくん、聞いて驚くな。”ウエンディズtheBASEBALL BANNDITS”は女子ソフトボール部でも愛好会でも同好会でもなくて、野球のファンクラブなんだよ。より正確には、野球の応援団だ。」
J「げ、そうだったの?」
M「ど、どこの。ま、まさか。」
Y「そのまさか。ウチの野球部のだ。だから、グラウンドも勝手に使えている。でも、野球部は毎年県予選1回戦負けしているから、出番がなーい。」
小「でも、君たち、野球部と喧嘩ばかりしてるだろ。というか、向こうはそのこと知ってるの?」
Y「知るわけないじゃない。なにしろ、ウチのメンバーですら知らないんだから。ちなみに学校側は、去年の台湾の高校との交流会の実績で、勝手に教室やグラウンド使っても文句を言わない約束になっている。野球部はなにがなんだかわかんないでしょう。」

小「それはー、蒲生くん。やっぱりちゃんと登録しなおした方がいいよ。」
Y「そうねー。でもそういうことは、次のウエンディズのきゃぷてんに任せましょう。なんでもかんでもわたしがやってしまっちゃ、後の人が面白くないじゃない。」
小「意外だな。蒲生君がそういういいかげんというのは。」
J「いや、弥生ちゃんて結構どうでもいいとこではいいかげんだよ。」
M「ていうか、自分が考えないでいいところは考えないからね。他の人への配慮なんてしないヒトだ、こいつは。」
Y「いや、わたしもね、もうちょっと人様の気持ちとかも考えた方がいいかな、て思わないでもないんだけど、でも普通の人ってどうでもいいことをぐちゃぐちゃ適当にやってるじゃない。そんなのわたしがまんできなーい、ってやっちゃうと、まあそうなのよ。」
小「そうか。じゃあこれまでの二年間は他の生徒の為というよりも、自分の為にやってたんだ。道理で自分の得にもならないことを一生懸命やると思った。」
M「それよね。自分の得になりゃしなのに、我慢出来なくなっちゃうてのは、損な性分よね。」

 そうこうする内にバス停の前にまで来る。正確に言うと、弥生ちゃん家行きは通り向かいの上り方面で、信号を渡らなければならない。三人はそのまま下の港町方面に更に下るから、ここで弥生ちゃんは一人になる。

M「いい? 弥生ちゃん。まあ、弥生ちゃん襲う馬鹿もいないとは思うけど。」
J「そうね、誰か護衛付けた方が良かったね。」
小「蒲生君、バスが来るまでみんなで居ようか。」

 弥生ちゃんは左手の腕時計を街燈に照らしてバスの時刻表と見比べる。ぜんまい式の時計だから、自力では光らない。

Y「いいよ。まだ10分くらいある。遅れるとじゅえるの方がバス大変になるでしょ。」
J「いや、そうなんだけどさあ。」
Y「いいっていいって。それにわたしを誰だと思ってるの。ゲリラ的美少女野球ウエンディズのキャプテンだよ。」
M「それは重々承知してるんだけど。」
J「やっぱ、明日は志穂美か誰か付けるよ。というか、とりあえず電話しなさい。今から家に帰るって。」
小「家の人に迎えに来てもらった方がいいよ。というか、車で迎えにきてもらうように話しておいた方がいいんじゃないか。」
M「そうね。もしほんとうに遅くなるんだったら、車出してもらいなさいよ。」
Y「心配性だね。わかった、今から電話する。バス停まで葉月迎えに出させるよ。」

 と弥生ちゃんはケイタイを取り出して家に連絡する。弥生ちゃんは本当は、ケイタイ電話の類いは必要ないかな、という種類の人間なのだが、周囲の者が弥生ちゃんと連絡が付かないとにっちもさっちもいかなくなるので、皆で無理やりに持たせたのだ。だから、弥生ちゃんは通話機能以外はほとんど使わない。メールも自分では打たない。というよりも、メールが多過ぎて処理に困るから、止めて直接通話してくれ、と皆に懇願しなければならなかった。

Y「バス停まで迎えに来るって。」
J「葉月くんて、来年はウチに進学する? 鳴海ちゃんと同学年よね。」
Y「そのはずだよ。他の高校は受けないでしょ。門代高校が一番近いからね。」
小「やっぱり、頭いいんだろうね、蒲生くんの弟なんだから。」
M「それは当たり前。問題はどの程度頭がいいか、よ。金鳩高校受ける気は無いの?」

 金鳩高校は、偏差値上門代高校よりも格が上の超進学校なのだが、門代地区からは大分離れているので寄宿するか、通学に電車で1時間以上掛けなければならない。弥生ちゃんも中学生の時に行かないかと担任に誘われたのだが、いくらなんでも遠過ぎるので断った経緯がある。

J「あれ、そう言えば、葉月さんて、小学生じゃなかったっけ。」
M「なに馬鹿な事言ってるの。鳴海ちゃんと同い年だよ。」
Y「あー、それは、あれだ。つい最近いきなり背が伸びたせいでしょ。わたしよりも小さかったのにもう抜かれちゃった。」

 なんだかんだ喋っている内に定刻どおりにバスが来たので、弥生ちゃんは友達に待たせてしまった事を気に懸ける必要も無く別れることができた。じゅえるもまゆ子も、口ではそうは言わないがやはり弥生ちゃんを一人で帰すのが心配だったのだ。それに気付いて、小柳原くんはふたりに話し掛けた。

小「いや、君たちは、結局蒲生くんを大切にしてるんだね。口ではかなり突き放したように言うけれど。」
J「まあね。弥生ちゃんは強いんだけど、それでも万全と言えるわけでもないのさ。」
M「最善を尽して、なおも万一に備える、というのが厭兵術の基本よ。弥生ちゃんは、知らない人にとっては小さい女の子だからね。舐めて掛かると痛い目見ると思うんだけど、そんな危険は未然に防いどかなくちゃね。それはともかく、小柳原くん。キミはわたしを家まで送ってくれるんだよね。」
J「ああ、そういや、危険といえばまゆちゃんの方が危険だね。送りオオカミになるんじゃないよ。」
小「いや、それは小学校の時から同級生だし、家も、大回りだけど、通り道だから、この時間帯で送って行かないわけはないんだけど。送りオオカミってのは別に後ろから襲うという意味は無い、」

M「そんなくどい事言うから、弥生ちゃんに相手にされないのよ。もっとぱぱっと直接的に簡潔に潔く告白しちゃわなきゃ、弥生ちゃんは千年だって気付きはしないよ。」
小「なに、なにをこんきょにそんな、まさか。」
J「イイってイイって。隠さなくても分かるんだから。でも、そうねえ。弥生ちゃんのあの鈍さは、ちょっとどうかなあと思うね。」
小「いや、ボクは、僕たちはそんなことは一度だって話した事も無い間柄で、・・・鈍いの?」
M「なんというかねえ、弥生ちゃんは自分のことを恋愛の対象に見る男の子がこの世に居るとは思って無いみたいだね。」
小「でも、美人だと思うのは、間違いないだろ。君たちは、蒲生くんをブスだと思ってるわけじゃないよね。」
J「いや、十人並みよりもよほど可愛いんだけどね。というか、あんたたちが悪いんだよ。弥生ちゃんの顔を見ると2、3メートル退くじゃない。」
M「それよ! まともに弥生ちゃんの顔も見ないでしょ。相手が自分のコト怖がっていると思えば、それは恋愛もへったくれもない。」
小「じゃあ、退かなければいいってわけ、・・・・ではないな。退かないと跳ね飛ばされるだろう?」
J「間違いなくね。でもまあ、アレよ。生徒会辞めたらいくらか暇になるから、そんなつんけんしたオーラもちょっとは消えるんじゃないかな。」
M「あ、でも期待しない方がいいよ。夏場はウエンディズの仕事が山盛りだし、なにしろ弥生ちゃんは夏の暑さには弱いからね。正常な判断ができないから、跳ね飛ばされオーラは150パーセントあっぷしてる。」

小「・・・・・・・・なんとなく、君たちの方が、もうちょっとオーラ弱めた方がいいと思うよ。」

 

 弥生ちゃんはバスの最後席の真ん中に座った。他に乗客は50歳くらいのおばさんが一人、中程の席に居るだけだ。港地区と反対方向にトンネルをくぐって抜けると、そこは学校のある所とは正反対に拓けてなく、田んぼや畑が広がっている。更に先には工場やコンテナヤードがある、まるっきりの人気の無い場所になってしまうのだが、弥生ちゃんの家はそこまでは行かない。バスで12分ほどで着くのだが、このトンネルを抜けることが知らない内に心境の変化を呼び起こす。心理的障壁の象徴とでもいうのか、ここから先の弥生ちゃんは常の弥生ちゃんではなく、プライベートな少女へと変身する。

 窓ガラスを透かしてみると、コンテナヤードか高速道路のインターチェンジへ向かう大型トラックが制限速度以上の早さで越えてバスを追い越して行く。その光の帯を見つめていると、ふいに眠気が襲って来た。自分では今まで気付かなかった疲れが、身体にはずっしりと染みついているのを今更のように思い知らされた。いくら弥生ちゃんがエネルギーに満ち溢れていると言っても、肉体の限界と一日24時間の壁はある。寝不足のままで何日も働き過ぎると無理が健康を損なうという、ごく当たり前の事柄を理解せざるを得ない。

「そうは言ってもあと一週間くらいで全部終わりよ。というか、そうすれば後はらくちんで、夏休みに突入出来る。」

 弥生ちゃんに抜かりは無いから、夏は門代高校の夏期講習に加えて、進学予備校の講習も申し込み済みだ。当然最高レベルクラスにエントリー出来たのだが、それに出るとこれまた一日仕事で帰りが10時を過ぎてしまうスケジュールになる。ただでさえ自分は夏の暑さに弱くへばってしまう体質なのだから、これは止めておいた方が良かっただろうか。

 でも考えてみれば、去年の方がずっと忙しかったような気がする。ウエンディズの夏合宿に加えて生徒会の改革改変に大車輪で奮闘していたコトを思い返すと、今度もまたなんとかなるだろう。そういう時にこそ、頼りになる仲間の存在が嬉しい。何時まででもウエンディズをスタッフに使えると大層楽なのだが、高校卒業後はどうするべきか。

 バス停を二つほど止ると、乗客は弥生ちゃん一人になってしまった。これからまた三つ先で降りるのだが、周囲はほんとうに田舎風になってしまう。見渡すかぎり一面に広がりカエルがげこげこ鳴く典型的な水田が弥生ちゃんの原風景で、本来ならここで一生を終わってもなにも悔いは無いという性格でもあるのだが、しかし、どうも本人の希望とは別に周囲の希望というものが弥生ちゃんをここから都会に引きずり出してしまうようだ。

 バス停に誰も居なかった為にノンストップで進み、定刻よりも数分早いくらいにすみやかにバスは弥生ちゃん家の近所に止った。あぜ道脇で停留所の看板以外は何も無い。定期券を見せ運転手に御礼を言って、重い鞄を抱えてバスから飛び降りる。顔を上げると、弟の葉月がいた。

葉「ねえちゃん、遅いよ。いくらなんでも物騒だろ。」
Y「遅くないって。これが、まあ、これから一週間は当たり前と思ってよ。」

 ぐぎゅるるう、といきなり弥生ちゃんのお腹がなった。そう言えば、と、昼食からすでに10時間以上経っていたことにやっと気付く。

Y「今日の晩御飯、なに?」
葉「あ、・・・・・・・・・・・・ワルイ。」
Y「なに、悪いって。」
葉「食っちまった。」
Y「なにい。」
葉「わ、俺だけじゃないよ。えーと、つまりねえちゃんが帰ってくるのが遅いのが一番悪いんだ。食われてしまってもしょうがないだろ。」
Y「そんなのとっとくに決まってるじゃない。人数分作るんだからさあ、・・・・・・・まて。人数分しか作らなかったのか。」

葉「・・・・そうなんだ。」
Y「美鳥、は、今日も、来た?」
葉「農作業に休みは無い、し。」
Y「食っちまったわけね。わたしの分を美鳥が。遅いから。」
葉「ねえちゃんが遅いのがワルイ。」

 鞄を弟に全部押しつけて持たせた弥生ちゃんは、頭を抱えた。彼女を頼んだふぁには悪いが、どうもこの江良美鳥という娘は弥生ちゃんに相性が悪い。衝突する、というのではなくて、なんとなく自分よりもウチに合ってしまうところが、非常に都合が悪いのだ。なんとなれば、つまり弥生ちゃんが家に居なくても良くなってしまう状況を演出する。

Y「あのさ、葉月。あんた、美鳥のことどう思う?」

 葉月は、しかし即答しなかった。そっぽを向いて姉に顔を見せない。なんとはなしに、胸騒ぎがする。

葉「・・・いい人だよ。悪い人じゃない。それに、」
Y「それに、なに?」
葉「実のところ、今んところ、家にねえちゃんが居る時間より、美鳥さんが居る時間の方が長いような、気がするし。」

 があーんという擬音が空腹で疲労困憊の弥生ちゃんの脳裏を駆け巡った。じゃあ、今、自分家で娘らしいことをしているのは、自分ではなく、・・・美鳥?

 すと、と足を止めて弟の後ろ姿を見る。いつの間にか自分よりも背が高くなって男の子らしさも見せるようになった葉月に、弥生ちゃんは自分が彼にしてあげられることはもうそろそろ無くなってくるんじゃないか、と思わされてしまった。

Y「葉月、あんた今身長何センチ?」
葉「160かなあ、姉ちゃんより10センチは大きくなってしまったよなあ。」
Y「まだ伸びるかな。」
葉「伸びてもらわないと困る。男子の高校生の平均身長は170くらいだろ。」
Y「それだよ。あんた、高校はウチに来るよね。」
葉「そのつもりだよ。姉ちゃんがそうだったように、金鳩は遠いだろ。」
Y「鳴海ちゃんは会ったことあるよね、相原鳴海ちゃん。同い年でしょ。鳴海ちゃんは門代高校受けるつもりなのよね。」
葉「ああ、志穂美さんの妹ね。そうか、俺が行ったら同級生になるんだよな。クラスも同じになるかも知れないし。」
Y「あんたが行ってくれると、なにかと便利なのよね、連絡に。ウエンディズの様子も分かるし。」
葉「ねえちゃん、自分が卒業した後のことなんか心配するなよ。それに、美鳥さんもしばらくはウチに来るだろ。直に聞けばいいじゃん。」
Y「美鳥は、ずっとウチに来るかな?」
葉「来るんじゃないかな。農業気に入ってるみたいだよ。じいちゃんも美鳥さんになら田んぼやってもいいとか言ってるくらいだし。あ。」
Y「なに?」
葉「まずいな。門代高校俺が行くことになったら、美鳥さんと一緒に登下校するとかになるかも。」
Y「どういうこと。」
葉「いや、まだ家に居るんだよ。美鳥さん。今、寝てる。」
Y「は?」
葉「晩飯ねえちゃんの分食って、風呂入って、疲れて寝てしまった。今も居る。」
Y「ど、どうするのよ。お家に帰らなくちゃ、てもうバス最終出ちゃたじゃない。」
葉「いや。あんまり気持ち良さそうに寝てるから、母さんが電話してウチに泊めるってもうご家族に連絡しちゃった。」

チロ「わんわん。」

 門脇でしっぽを振って出迎える老犬チロに帰りの御挨拶で頬を両手で挟んでごしごししてやると、弥生ちゃんは葉月を置いて玄関に飛び込んだ。
そのままどかどかと居間まで行き、タオルケット一枚を腹に巻いて畳の上に直に寝る江良美鳥の姿を見ると、気が抜けてどしゃっとその場にしゃがみ込む。

 おじいさんと父親とが座卓の傍でテレビを見て居たのだが、突然飛び込んでいきなり崩れ落ちた弥生ちゃんの態度にびっくりした。おばあさんはもう寝ているからこの場には居ない。

父「弥生、・・・ああ美鳥さんだよ。」
爺「良く寝てるからそのままにしてやんな。ほんとに良く寝る子だ。」
弥生「じいちゃん、この子、いつから寝てる。」
爺「いや、そういえば、八時から寝てるな。」

 柱時計はすでに11時を回っている。ちょっと寝るにしても、寝過ぎだろう、と弥生ちゃんは怒った。

Y「じいちゃん! いくらなんでも、ちゃんと家に返してやらないとダメじゃない。」
爺「弥生、怒るな。じいちゃんが悪かったとおもってる。おもってるけど、こんなに幸せそうに寝てる姿を見てると、起せなかったんだよ。」

 確かに、美鳥は幸せそうで安らかそうに見える。基本的にこの娘はなごみ系だから、何もしない、あるいは寝ている姿が一番他人に安心感を与え、望ましく感じられる。特に迷惑を掛けるわけでもなし、慣れぬ農作業で疲れてるとなれば、そのままにしておいてやろう、と蒲生家の皆が思ってしまうのも無理からぬことだ。

母「あ、おかえり弥生。御飯なにもないけど、食べる?冷凍でも温めようか。」
Y「おかあさんもなにか言ってよ。そんな、他人家の子を勝手に泊めたりしたらダメでしょ。」
母「いや、この子可愛いじゃない。大きいけど。あんたみたいにぽんぽん弾けるみたいにうるさくもないし、おかあさん好きだな。ウチの子にしちゃおうか。」
Y「それが中学校の教師の言う台詞? しんじられない。」

 耳元で弥生ちゃんがきゃんきゃん喚くので、さすがに寝ていられなくなって、美鳥は目を覚まし、ゆるやかに起き上がった。

美鳥「あ、キャプテンこんにちは。今日はお早いお帰りですね。」
Y「いま、何時か知ってる?」
美鳥「あ、寝過ごしましたか。申し訳ありません。ではお暇して、明日また窺います。それでは師匠。先生、お母さま、これで帰ります。」
Y「11時15分よ。もう帰れない。」
美鳥「あ。あれ、まだ八時だと。」
父「弥生、そんなに怒るな。お父さんが車で送って行くよ。」
爺「いやあ、やっぱ布団敷いて寝かせてやれよ。」
美鳥「えーと、キャプテンどうしましょうか。やはり、遅くまでお邪魔するというのはご迷惑だと。」

 突然、美鳥の腹がぐるるるると鳴った。釣られて弥生ちゃんもお腹を鳴らす。恥ずかしさに頬を赤くして弥生ちゃんは、台所から顔を覗かせている母親に涙目で訴えた。

Y「なんでもいいから、晩御飯して。二人分。それから、この子、わたしの部屋に布団敷いて。」

 

(続く)

2004/7/20

 

(第二回)

 不本意ながら弥生ちゃんは、次の日の朝講習に江良美鳥を伴って登校するはめになった。

 彼女は朝は早いのだがそのままお爺さんにくっついて農作業に出かけてしまうので、畑に飛んで行って首根っこを捕まえて連れ戻し準備をさせ、バスに押し込んだのだ。もちろん「腹が減った」と泣かないように朝ご飯もちゃんと食べさせたし、お弁当も母親が美鳥の分も作ってくれたのを持たせての御通学となる。

 通学のバスの中は朝6時半ということで、さすがに人も少ないが、感心なことに門代高校の生徒が五人も乗っている。二人掛けの席に弥生ちゃんと二人並んで座らされている美鳥が、収まりの悪い顔をして尋ねた。

美鳥「せんぱい、あの、朝講習てこれから毎日行かないといけないものでしょうか。」
Y「うちは進学校だからね。強制では無いけれど出ないと肩身が狭いんだよ。ていうか、四月からやってるだろ。何も言われない?」
美鳥「そういうことをわたしに言う人は、・・・居ないですねえ。どうしてでしょうか。やっぱり、あれかな。」
Y「あれって? なに、あなたクラスでは特別視されてたりする。」
美鳥「そうかもしれません。授業中の半分以上の時間、寝てますから、みんな朝は寝ているものと思ってくれてるんじゃないでしょうか。」
Y「・・・ああ。そうね、言うだけ無駄、と思ってるわけね。」

 見る見るうちに弥生ちゃんの機嫌が悪くなるのは、人の感情の動きに鈍い美鳥でもさすがに分かったのだが、さりとて、授業中に寝るのは別に確固たる意志に基づいて断固決行するわけでは無く、不可抗力で睡魔に襲われているのだから、自分にはどうしようもないことをキャプテンに分からせる方法は無いだろうなあ、と漠然と考えるしかなかった。

美鳥「でも、三年生の人は受験生だから大変ですよね。朝講習も放課後講習もずっと出なくちゃいけないんですから。」
Y「わたし、今日は出ないわよ。朝。」
美鳥「そうなんですか。・・あれ、じゃあどうしてこんなに早くに。」
Y「おまえだよ。おまえを朝講習に連れてく為に早出してるんだよ。それは置いても、さっさと学校に行って生徒総会と引き継ぎの準備しなくちゃいけない。昨日は帰って来て風呂に入ったらもう12時過ぎてたらから、予習くらいしかすること出来なかったのよ。」
美鳥「あれ、先輩、お風呂入った後に勉強したんですか。気付かなかった。」
Y「あんたもう寝てたもんね。・・・・・・・!、ああっ!! あんた、昨日、勉強しなかったね!?」
美鳥「はあ。八時ごろにはうたた寝をしまして、キャプテンが帰って来たのが11時で、布団を敷いてもらって寝たのが12時前で、起きたのが5時ですから。」
Y「ちくしょー、全然気付かなかった。二度は許さん。」
美鳥「あー、大丈夫ですよ。あんな遅くまでお邪魔することなんて、もう、そうそうは無いですから。」
Y「いやある。」
美鳥「そんな、御無礼は繰り返しませんよ。」
Y「ぜったいある。」
美鳥「そうですかあー、まあ、そう言われますと、あたしもそんな気がしないでもないような。」

 不機嫌でむっつりした弥生ちゃんは以降「門代高校前」バス停につくまで一言も喋らなかった。美鳥も、これ以上なにか言うと怒られそうで何も話し掛けはしなかったのだが、しかし、どうしてこの人は自分のことをそんなに気に掛けてくれるのか、不思議に思うのだ。とても今時の人には思えない。お節介というよりも、まるでおねえさんかおかあさんみたいだ、と自分よりも20センチは小さい上級生を感じるのだ。

 

 一年生の教室に美鳥を叩き込んだ弥生ちゃんは、自分の教室での朝講習に後ろ髪を引かれながらも生徒会室に向かう。丁度二年生の書記Aが職員室から鍵を取って来て開けているところだった。

Y「朝早くから悪いね。」
A「いえ、でもなるべくならもっとスケジュール的に楽になるように、省力化も考えてくださればよかったんですが。」
Y「うーん、そこまでは考えてなかったねえ。そこんところは反省材料ね。」

 この書記Aは、特に崇拝者というほどではないが、弥生ちゃんを高く評価してくれる数少ない生徒だ。他は大概、評価はせずに「スゴイヒト」で思考停止して真の弥生ちゃんの姿とは向き合わない。まじまじと正面から弥生ちゃんを見つめる人間というのは、相当の変り者か勇気のある人間だけなのだ。

 生徒会室から隣の生徒会準備室の方が弥生ちゃんの指定席で、生徒会室は基本的には会議室であるから、こちらの方が心臓部だったりする。生徒会長である小柳原クンはこっちは居づらいので、生徒会室の方を主に使っている。というよりも、追い出されている形になるわけだ。弥生ちゃんは別に小柳原クンをキライではないが、ちょっとスピードが合わないのであまり取り合わない。彼が悪いわけではなく、弥生ちゃんの思考速度が速過ぎるのが原因であり、実務においては書記Aやらまゆ子じゅえるならついてこれるのだが、政治的な関係にある小柳原クンとはうまく間合いが取れなかったのだ。むしろ、小柳原クンがよくぞ弥生ちゃんの仕事を妨げなかった、というのが客観的実質的に正当な分析といえるだろう。

 まゆ子もじゅえるも朝講習をふっ飛ばして早くから来てくれる筈なのだが、さすがにまだ姿を見せない。弥生ちゃんも昨夜の草稿の続きを取り出して二三枚遡って読んでみる。脳裏にはぶわーっとこれまでに書いたマニュアルの文章全文が広がり、今手元にある草稿を本来のありかに自動的に嵌め込もうとし、組み上がった文章の中からさらに続きの構想を掴み取る。考えるというよりも脳裏には今まで自分がやってきた姿が確としてあり、自分がどう判断して結果どうすべきだったかをそのまま紙に書き写すだけだから、知的作業というほどのことではない。ただ、手で書字するスピードが思考に追随せずもどかしく遅いからやたらと時間が掛かるというだけで、頭に電線をつないでコンピュータに思考を保存できるのならものの30分も掛からないだろう、と現今の情報技術の拙さにSF的に歯痒く思うのだ。

 八時前になってじゅえる、まゆ子、一年生の生徒会手伝い、ついで小柳原クンも続々と集まってくる。しかし、しょせんは弥生ちゃんの頭の中のモノを分け与えることが出来ないのだから、作業効率はほとんど変わらない。ただワープロで清書してファイルが棚にまた一つ並ぶ、というだけの話だ。

J「それはそうと、その肝心の生徒会長は、あ新しい方ね。は弥生ちゃん選定しなかったの?」
M「え、ああ、候補者ね。スカウトとかしなかったわけ?弥生ちゃん。」
Y「べつになにも。そこまでわたしがやらなければいけない義務は無いでしょ。」
J「無いけど困るんじゃない。やるんだったらより優秀な後継者を必要とするでしょ。自分の仕事を継いでくれるヒトに無頓着ってのは、弥生ちゃんとしてはちょっと思慮が無い。」
Y「おもしろくないじゃない、そんなの。いいのよ、誰が生徒会長になろうが、わたしはスタッフの方を鍛えて来たから。それにどんだけ頑張っても、人材というのはそう簡単に見つかるものじゃないよ。」
M「と言うか、弥生ちゃんが二人も三人も居たらコワイじゃない。」
J「ま、怖いというか、学校分裂するわよね、そんな状況じゃ。」

M「でもほんとうにノータッチなの? 誰か目星付けてるヒト居たんじゃない。」
Y「二年生の生徒会長の立候補者ね、推薦も含めてだけど、予想通りよ。これが出るなあ、と思った奴がちゃんと出てる。出なかったのも居るけど、それは人それぞれの理由があるわけで、別にならなければ損をするというわけじゃない。でしょ。」
J「そりゃ一人しかなれないわけだし、どっちかというと、なっちゃった方が損だし。でも小柳原クンが会長選挙の時は、弥生ちゃん大活躍したじゃない。みんな、小柳原クンじゃなくて、弥生ちゃんの為に投票したようなものよ。」
Y「や、だって。小柳原クンがいちばんいい感じだったんだもん。自己主張無いし、ヘンな思想にかぶれてもないし、素直だし真面目だし好感度あったし、中学の時から良く知ってるし、成績も上位だし。」
J「傀儡としてサイコー?」
Y「しっけいな。」
M「ちがうの?」
Y「なにをふたりとも。ねえ、”A”さん、わたし、小柳原クンに相当貸しあるわよねえ。」
A「はあ。貸しというか、無理やり貸しつけたというか、ともかく立場尊重してましたね。」
Y「ほら見なさい。わたしはこの一年、というか一年生の時から委員会で組んでたんだけど、ずっと彼を大事にしてきたのよ。」
B「ほとんど、夫婦とかおかあさんみたいな感じでしたかね。」
M「なんか信じられないな。もっとサドっぽいんじゃないの、弥生ちゃんて。」
A「・・・進歩しました。去年よりずっと優しくなりましたね。」
B「そうですよ、去年は会長、そうとう傷ついてましたよ、毎日。今年になってからです、優しくなったのは。」

Y「なんかおもしろくないな。」

J「いいから続けて。どして。」
B「どしてと言われても、特になにも転機というようなものは無かったと思いますが、なぜでしょう。」
M「どうして、弥生ちゃん。」
Y「しらないわよ。」

 

小「あ、ちょっと、蒲生くん。」

 となりの生徒会室から小柳原クンが弥生ちゃんを呼んだ。なにか、委員会でトラブっているらしく一年生の委員が数名やってきて、小柳原クンが一人で応対していたようだ。弥生ちゃんは席を離れて生徒会室に行き、彼らと二三会話すると、生徒会準備室の書棚から「弥生ちゃんマニュアル」の一冊を取り出して、彼らに説明し出した。

 数分後、戻って来た弥生ちゃんは再び草稿に向かいながらも言った。

Y「マニュアル化は便利なんだけど、どこになにが書いてあるか、はマニュアル見ながらじゃ分かんないなあ。やっぱり全部知ってる人、というのが要るような感じだよ。」
M「書記の子たちじゃダメなの?」
Y「いや、そうじゃなくて、新生徒会長がだよ、どこになにがあって何をどうすればいいか、を知らないと、とんでもないコト言い出すじゃない。小柳原クンは、あんまり良く、そういうとこしらないのよね。」

J「そりゃそうと、さっきの続き。今年の頭になにがあったの。」
Y「は?」
M「あ、さっきの続きね。弥生ちゃんが急に優しくなったの。」
Y「誰が、誰に?」
J「またまたとぼけちゃって。小柳原クンにやさしくなったんでしょ、ねえ。」
B「端から見てると、そういう風に感じましたよ。」
Y「そかな?まああれよ、わたしもおねえさんになって丸くなったってとこじゃないの。」
M「それじゃつまんない。」
Y「そ、ねえ。じゃああれかな。校長のとこ行った時からかな。」
A「ああ、お年始回りに二人で校長先生のお宅に伺ったって話ですか。」
J「ほお、なんか有ったの。」
Y「さあー。ついでに二人で初詣も行ったけどねえ、あのくらいからかなあ。」
M「なるほど、デートしたってわけね。納得。」
J「あまりおもしろくない話だけど、そんなとこかあ。デートねえ。」
Y「デートってほどのものじゃないわよ。ばかねえ。」

B「これは私見ですけど、会長の方が変わったのかもしれません。そのデートで。蒲生さんはそれに無意識に対応して態度を変えたのかも。」
M「深いね。」

Y「どうでもいいじゃない。変な詮索スルナ!」

 とかなんとかする内に瞬く間に8時30分の始業時刻になり、また全員は散会した。かって盗難事件が有った為に生徒会準備室にはまゆ子が買って来た電子ロックが填められており、学校側の鍵を開けたままの状態時でも、誰も居ない時はこれを使い、生徒会の人間しか出入り出来ないようになっている。弥生ちゃんに対する嫌がらせで書類を勝手に持ち出す人間が居ないとも限らないので、この措置は絶対に必要だ。

 

 それから午前中の授業の時間、弥生ちゃんは一切生徒会関連の仕事はしなかった。もちろん超絶優等生である弥生ちゃんが授業中に内職をするわけがないし、意欲的に勉強中であるのだが、正直な話、授業中に教わることはとっくの昔に自分でやってしまったところなので、あくびが出るほど退屈である。もちろん表面的にはやらないのだが、内心の自由までは拘束されてるわけもなし、「弥生ちゃんマニュアル」の構想はこの退屈な時間帯にすべて脳内でやってしまっており、一言一句忘れない能力をフルに活用して文面も作成。生徒会準備室で草稿を書いている時はそれをただ単に文字に書き写しているだけなのだ。

 しかし、授業の合間の休み時間は弥生ちゃんが神経を安める時は無い。ひっきりなしに訪問者が訪れて生徒会、学校、委員会、部活からウエンディズまで、なんやかやと問題を持ち込んで弥生ちゃんの指示を仰ぐのだ。

 

F「というわけで弥生ちゃん、園芸部の予算の復活折衝を望みたいというのが、今日のお願いなのよね。」

 3時限目にやってきたふぁは、これまたどこから調達してきたのかといぶかしむほどの超美少女を伴っていた。弥生ちゃんの記憶ではこの娘は一年生で男子に一番人気の、はっきり言って可愛いばかりできりっともすきっともしてない、緊張感の無いDOLLみたいな女の子である。

F「で、これが次の園芸部の部長ね。お花がだいすきなんだそうだ。」
Y「じょうだんでしょ。」
F「いや本気。園芸部も次代の部員が入ったということで、予算の復活をね、おねがい。」
Y「おねがいもなにも、そんなのは三月にもう終わっちゃってるし、修正も五月で締め切ってるし、遅いよ。来週はもう生徒総会なんだよ。」
F「そこをなんとか。どうせ裏技とかあるんでしょ。」
Y「そんなもの無いよ。・・・・・・・じつはここだけの話。園芸部は花壇があるかぎり潰すわけにはいかないから、まゆ子の科学部に”遺伝子実験場”として管理させる、という名目で確保してある。・・・・」
F「さすが弥生ちゃん! 持つべき者は独裁者ね。」

Y「で、あなた。ほんとうに園芸部の部長をしてくれるわけね。」
F「あ、やよいちゃん、実質は卒業まではあたしがね、」
「はい。わたし、お花大好きですから。花壇の水やりとかももう前からお手伝いさせてもらっているんですぅ。」

 弥生ちゃんは固まった。門代高校の生徒であるからには、うすのろという事はないのだが、とろい。実務能力もやばいかもしれない、との感想を抱いて不安そうにふぁの顔を見た。ふぁもそれは重々承知というわけで、涼しい顔をしている。

Y「大丈夫なわけ」
F「大丈夫なわけないじゃん。これはオトリよ。」
Y「囮! じゃあこれは餌ね、男の子を釣り上げる気ね。」
F「力仕事できるわけないじゃん。やっぱ男手が欲しいでしょ、菜園てのは。で、この子をダシに使って四五人ほど確保しようという腹なのさ。」
Y「相変わらずの悪よのう。

  で、あなた、おなまえは確か。」
「はい。峯芙美子ですぅ。」

 弥生ちゃんは全校生徒の顔と名前を一応は知っている。知ってはいてもやはり、「こいつ、バッタモノくさい名前だなあ」と思うのだ。

F「で、ね。まあこういう奴なわけだから、ウエンディズに入れようなんて気はさらさら無いわけだよ。そこんとこはよろしくね。」
Y「頼まれてもゴメンだ。明美二号の頭痛のタネをまた増やしてどうする。」
F「あー、それは考えなかった。実質苦労するのはアレだよね。」
Y「で、練習の方はうまくいってる?ちょっとここんところ私見られなくて悪いんだけど。」
F「やってるよー。居ない方がいいくらいだな。明美二号が必死になって指導力を発揮してる。弥生ちゃんが居なくて次期キャプテンとしての自覚が芽生えて、ちょうどいい感じだ。まあ、なんていうの、普通の部じゃあもう今ごろから二年生にバトンタッチしてるんだから、そんなに考える必要は無いよ。」
Y「要らんと言われると、介入したくなるけど、まあともかく後一週間はオネガイ!」
F「心得た。」

 ふぁは峯芙美子に二言三言話し掛け、芙美子は弥生ちゃんにお辞儀をして二人してその場を去って行った。園芸部はこの先どうなるものかしらん、と二人の後ろ姿を目で追っていたら、芙美子はまるで恋人のようにふぁの左腕にしがみつく。身長176センチのふぁと一年生だからまだ140センチ代の芙美子とは、なかなかにお似合いのように見える。美鳥といい芙美子といい、その気は無いのに女の子を引っ掛けてくるふぁは、宝塚の男役みたいのものであろうか。あれでレズ気があったら学校中で大騒ぎなのだが、家に帰ると女らしかったりするから不思議だ。酒屋の娘で店先にはたまにどうみても一本線の違ったおっちゃんも来るのを見慣れているから、男に対しては幻想も抱かないのだろう。まるっきりの自然体で居られるのがふぁのいいところだ。

 とはいえ、お節介は弥生ちゃんの本性みたいなもので、峯芙美子で男の子を釣り上げるからには、彼女自身を守る盾が不祥事を防ぐためにも必要だと考えた。ぴりぴりした性格のきつい子を園芸部に配置しておくか、と一年生の女の子のリストを記憶の中でピックアップし始めるのだ。

 

 

 四時限目が終わってお昼ご飯を食べようと弥生ちゃんは急いで生徒会室に向かった。次は体育の授業だから後の時間的余裕がない。ちゃちゃっと食べてすこしでも草稿を進めようと扉に手を掛けたところで、携帯電話がぷるぷると震え出した。とうぜん校内でのケイタイの使用は禁止だが、呼び出されることが多い弥生ちゃんだけは特別に許可されている。というよりも、いちいち放送で呼び出す手間を省く為に学校側が弥生ちゃんに持たせていると言った方が正しい。
 果たして確認すると、お嬢先生ことウエンディズ顧問の河野かほり先生だった。後からやってきた書記Bにお弁当を手渡して、弥生ちゃんはいそいそと職員室に向かう。弥生ちゃんは職員室への呼び出しには慣れてるから、どの先生が呼んだかで用件の察しは付くのだが、果たして。

先生「志穂美さんと聖さんです!」
Y「あ、やっぱり。」

先生「先生ももうこれだけたびたび迷惑掛けられたら大抵の事には驚きませんけど、今回のはやり過ぎです。相手は自殺未遂したって言うじゃないですか。」
Y「そうは言いますけど先生、人を騙してお金を貪っていたいんちき宗教を暴くのに、なんか倫理的問題があるでしょうか。」
先生「そういうのは警察とか保健所とか文部科学省とかがやるんです。」
Y「でも誰もやらなかった。祐木(聖)さんのおばあさんのお知り合いが、むざむざと騙されて老後の貯えを掠め取られるのを、取られた後でなんとかしろ、と仰しゃいますか。」
先生「う。」
Y「それに別に相原さんも祐木さんも乱暴を働いたわけではありません。なにか、向こうが実害を受けたとかいう訴えが、それこそ警察やら裁判所やらからありましたか?」
先生「うう。」
Y「むこうがいんちき宗教でてきとうな霊能力まがいの手品をやってるのを、見破っただけです。舞台で手品師が手品のタネを観客に見破られても、別に観客に罪はないでしょう。」
先生「でもそれは営業妨害・・。」
Y「先生。宗教は営業では無いのです。それは信仰です。営業ならどんなにいいかげんな商品を詐欺同然に売り飛ばしても、客が納得して買えば詐欺にはならないでしょ。でも宗教は違うのです。常に信者の信頼の上に乗ってそれは成り立っているのです。目が覚めてしまえば、今まで支払ったモノもいんちきだと気付くのですし、以前寄付したモノを返還しろという裁判もいっぱいあるでしょ。だいいち素人の高校生の小娘にネタばらしされたくらいで信者の信頼を立て直せないようなのは、元々宗教者の名に値しない。」
先生「でも向こうのひとは自殺みすいを。」
Y「死んでないでしょ。」
先生「そう、ね。」
Y「死ぬ気も無かったんですよ。最初から死ぬつもりではなく、単に騒いでみただけ。自分が被害者だということをアピールする為のパフォーマンスです。警察の方もそういうのには慣れっこですから、学校には何も言ってこないでしょ。」
先生「だからといって、志穂美さんと聖さんが世間様を騒がせたのは事実であって、それがPTAの方達の間で問題になって、」
Y「じゃあ、先生は、ふたりになにか、そういうコト教えました?」
先生「そんなこと教えるわけないじゃない。」
Y「じゃあ、生徒がなんらかの宗教活動をすることを、学校は咎めますか?」
先生「あ、それはね、それは、まあ、なんというですか、・・・良くないのは一応教師としての道徳的な使命として止めたりはするけど、」

Y「二人は正義です。」
先生「いや、それはそうなんですけどね、蒲生さん。」
Y「世の中が無関心無気力で溢れている現在、それほどの行動力を持ち、弱者の為に立ち上がろうという人が一体何人居るというんです。それを世間を騒がせたという理由で処分する?じゃあ、そういう老人を騙して金品を奪いとるばかやろどもを放置した世間は何の責めを負うというのですか。」
先生「あ、やめてやめて。」
Y「もし私もその場に居たら、二人に続いてそのいかさま霊能師を完膚なきまでに叩きのめしたでしょう。最早それは叶わないですけど、よろしい。二人に成り代わって先生と、PTAにでも教育委員会にでもどこにでも出向いて、二人の純真な勇気と正義を明かしてみせましょう。スケジュール組んでください。」
先生「いやあーーーーーーーー!!。」

 手帳を取り出して日程を確かめるフリをし始めた弥生ちゃんに、河野せんせいは悲鳴で答え、職員室の全員の視線を浴びることとなる。頭を抱えて現実逃避するせんせいに返答も期待せずに退出の許可を尋ねて、その場を離れようとして、ついでに生徒指導の先生の用向きを伺い、ついで学年主任の先生に三年生の進路説明会の特別講演に招聘する人選が決まったことを知らされ、も一つついでに教頭先生に呼び止められ市のお祭りに本校代表として「お前出ないか」という誘いを慇懃に断り適当な女子生徒を推薦して職員室を後にした。

桐子「よお。」
Y「よお、じゃない。なに、また?」

 男性の体育教師に連行されてきた大東桐子と職員室の前ですれちがう。

Y「せんせい、またですか。」
先生「こんどは違う。刃物だ。」
Y「手裏剣でしょ。」
先生「カタナだ。」
Y「は?」
先生「本身の脇差持って来てやがった。」
桐子「いやだなあ、あれは脇差ではなくて、大脇差。ヤクザとか渡世人が一本だけ差してる奴ですよ。」
先生「余計に悪いわ。」
Y「・・・なんの為に。というか、本身なんてどこで手に入れたの。」
桐子「鉄工所。自作したんだ。ほら、手裏剣をカタナで叩き落とすてのがあるでしょ、あれを練習しようと思って。でもただのバネ鉄でもとんがると案外斬れるものよね。」
Y「ばか・・・・。」

 桐子は手裏剣を自作する。というか、手裏剣なんて普通のところでは売ってないし、何本も買った人間はそりゃあ警察からマークされるだろうから仕方なしに自作する。幼少のみぎりより五寸釘を延ばして手裏剣を作っていた桐子は、ついで炭素鋼を削って本物に近いものを作るようになり、今回大物に挑戦した、というわけだ。もちろん焼き入れの技術は持ってないから刃が無い形だけのカタナなのだが、鉄板というものは切っ先に角度が付いていれば軟鋼であっても刃など無くても立ち木の枝や人の手指くらい簡単に刎ね飛ばすことができる。銃刀法違反ではなくても兇器準備集合罪とか殺人予備くらいにはなるだろう。

Y「なんてばか!」

 と言いつつも桐子の弁護の為に180度反転して職員室に再び入る。こうして今日もまた、弥生ちゃんはお昼のお弁当を食べ損なうのだった。

 

 

 ぐぎゅるる、と体操服の下でお腹が泣く。

 とうとう昼休みを桐子の弁護で潰してしまった弥生ちゃんは、空腹のまま体育の授業に望むこととなる。今日の授業はバレーボール。弥生ちゃんの背丈ではさすがにこの競技は向いていないが、しょせんは普通の授業であってまわりの人間も、そりゃ弥生ちゃんよりは大きいものの普通の高校三年生女子の背丈であって、とりたてて弥生ちゃんだけ不利ということはない。無いのだが、選手とちがって動きも技術も素人以下で全然使い物にならず、アテにならない。よって、弥生ちゃんはひとりで頑張ってしまうことになる。いつもの事だ。

 試合形式での練習で、スポーツ万能の弥生ちゃんはその小さい身体をいかんなく発揮してボールを拾いまくり、サーブもぽこぽこ入れる大活躍の末、チェンジコートの際にエネルギー切れでへたってしまう。

「大丈夫?べんきょうし過ぎなんじゃない?」

 気づかってくれるクラスメートは、弥生ちゃんのことをウエンディズの人間ほどには知らない。勉強なんてのはほとんど余技で、今はたまたま生徒会のことで連日連夜多忙を極めているが、それも物心付いた時からの習い性でまったく気にならない。体調的にはぴんしゃんしていて、ただ単にお腹が空いたという事実を、恥ずかし過ぎて申告もできなかったりするのだが。

「貧血? だから無理するんじゃないとあれほど言ってるのに。誰か、保健室に蒲生さんをつれていきなさい。」

 体育の女教師もまったくの勘違いをしてくれる。しかし、お腹が空いたというのを素直に言うのも癪だし、解決策を考えるとこのまま保健委員に連れられて体育館を出ていく方が分はいいのだ。体育館の出口までは脚を引きずって体重を預けてさも重病の様を見せていた弥生ちゃんも、体育館の喧騒が聞こえなくなる場所まで来るとしゃきっと背筋を伸ばして自分で歩き出した。

Y「ちょっと教室に寄るよ。」
「え、保健室に行くのよ。あぶないじゃない。」
Y「いいからいいから。自分のからだのことは自分が一番良く知っているんだから。」

 男子も居ない、空の三年一組の自分の席の机に、気を利かして書記Bが弥生ちゃんのお弁当を届けてくれていた。ひったくる様にお弁当を掴んだ弥生ちゃんは、いそいそと廊下にまた出てくる。

「ま、まさか。」
Y「そのまさか。貧血じゃなくて空腹なんだよ。」
「しんじらんない。」
Y「でも倒れてしまうほど空腹だ、というのは本当だよ。素直に保健室に行って食べよう。」
「ちょっと待ってよ。じゃあ、お腹空いてるのにあんなに暴れてたってわけ?」
Y「うん。」
「ばかじゃないの?」
Y「いやあー、そうねえー、やっぱりなんでも全力疾走というのがわたしのモットーで、というか目先の事で全力出さなきゃ気がすまないというか、もう身体が勝手に動いちゃうというか、ばかねえ。あはは。」

 

 保健室にお弁当ぶらさげて行くというのは、さすがに例が少ないわけで、保険医の先生に呆れられてしまう。

「まあ、朝食を抜いて倒れるというのは珍しくもないけれど、お昼を食べ損なって倒れるというのはちょっと私も見たことないわねえ。」
「ばかなんですよ、蒲生さんは。目先のことにしか注意がいかないんですから。」
Y「すいません。ところで、そこのポットのお湯でお茶なんか淹れてくださるとありがたいんですけど、ダメ?」
「ここで喉を詰まらせて死んじゃった、なんて羽目になったら目も当てられないわ。自分で淹れなさい。」
「私が淹れますよ。まったく。」
「でも蒲生さん。御飯は一応はちゃんと摂っているようだけど、睡眠の方はどうなの。一日何時間寝てる。勉強で遅くまで起きてて朝低血圧で起きられないとかは、無い?」
Y「遅くまで起きてない、と言えば嘘になりますが、寝付きが異様に早いですから。布団の上に寝て、目を瞑るともう朝です。だから、睡眠は一応十分に足りてると思いますけどね。」
「ちなみに寝るのは何時。」
Y「あ、ありがと。遅くても二時半ですかね。三時の針は見たこと無いですから。これって普通でしょ。」
「朝講習が有るから起きるのは朝6時か。ちょっと短いわね。もう三十分は早く寝なさい。人間て90分をサイクルに寝るわけなのよ。蒲生さんの場合は、四時間半は欲しいわね。」
「ちなみに私は、一時です。」
Y「それで課題とか宿題とか間に合う?」
「まにあわないよお。」
Y「でしょうね。いつもあなた他人からレポート借りてるもの。」

「まあ、もうすぐあなたも生徒会引退でしょ。そしたら少しは身体も空くでしょうから、ちゃんと余裕をもって睡眠も食事もちゃんと摂って、で受験に励みなさいよ。なんたってあなたは今年の三年生で一番期待されてるんだから。」
「ねえ、がもうさん。東大行くってホント?」
Y「そのつもり、ではある。もっとも東京というのはちょっとやな感じだけどね。めちゃくちゃ異様に暑いし。あ、わたし夏の暑さはダメなんです。頭ぼーっとして、考え事がまとまらなくて、でおおざっぱな、人の都合も考えない、まっしぐらに目的達成する最短の手段を遂行するわけなんですよね、夏場は。そういうのは病気じゃないでしょ。」
「人によって体質はあるから、もしほんとうにヤバいと思ったら頭にぴたっと貼る熱冷ましを使いなさい。あれは、昔はなかったのよねー。あれはいいわよ。」
Y「ほお。じゃあ今年はあれで夏を乗り切ってみますか。」

 早食いでちゃかちゃかとお昼を片づけた弥生ちゃんは壁の時計を見上げる。体育館で倒れてから、すでに15分が経過している。だが未だ授業中だ。

Y「さて、もうひとあばれしてきますか。」
「え、まだやるの。ていうか食べたばっかりじゃない。」
「いくらなんでももう少し、食休みをいうものをとらないと、今度はお腹が痛くなるわよ。」
Y「いやあ大丈夫ですよ。いつもばたばたと食べていきなり走り回ってますから。それに、こんなところで御飯食べてたということが知られたら学校中で笑われてしまいます。いこ。」

 

 門代高校は受験校であるから、午後の授業は三時半で普通に終わるとしても、その後清掃とホームルームを経て、再び講習が行われる。朝講習は任意参加だが放課後のは強制参加であり、よっぽどの用事が無い場合は結局五時までは解放されない。部活動も例外ではなく、本格的な練習は五時以降ということになる。

とはいうものの、
 結局弥生ちゃんはこの講習もさぼってしまった。正課の時間内はさすがにまともに受けていたのだが午後の講習にまで付き合っていると、ほんとうに次の生徒会への引き継ぎが出来なくなってしまう。代替わりした後までも小姑みたいにいつまでも生徒会室にいりびたりなんてまっぴらゴメンだ、とあえて抜けて来たのだ。教師もクラスメートも弥生ちゃんが毎日とんでもなく忙しい事を承知しているし、それでいて成績学年トップの座を他に譲り渡したことが無いのだから文句を言われる筋合いも無い。

 しかし、他の生徒会メンバーやじゅえるまゆ子はそうはいかない。弥生ちゃんはひとり寂しく生徒会準備室で原稿用紙の上にシャーペンを走らせていた。が、驚いたことにもうひとりやって来たのだ。

Y「こななぎくん・・・・。」
小「やっぱりいたね。」

 生徒会長であるからには彼もまた優等生である。無断で講習を休んでいいはずがない。にも関らず彼は弥生ちゃんの目の前に居る。

Y「なんで。」
小「選択科目の具合で、今日は奇跡的に時間が空いたんだよ。不思議でもサボりでも無いよ。」
Y「いや、まあ、・・そういうことも無いわけではないわよね。」

 あまりの意外さに目をぱちくりさせる弥生ちゃんだが、それとは独立して草稿を書き上げる手は止めない。

Y「ま、まあそうよね。三年生は科目の選択が自由になってるんだから、人によっては空き時間が発生してお休みになる、というのを聞いた事があるような。」
小「キミとは違う意味で、僕もまた特別なんだよ。他人が取らない科目ばっかりを揃えてしまって、スケジュールの無駄が多い。」
Y「それは貧乏性ね。」

 小柳原くんは生徒会室に荷物を置いて、準備室の方に入って来た。壁際に外れた机の上に置いてあるフォルダに挟んだ、書記Aが作業中の原稿をしばし眺めて、言った。

小「手伝うよ。」
Y「いいよ、総会の準備と立ち会い演説会の準備しておいて。」
小「もう終わった。」
Y「え、そう?」
小「報告書なんか、もうとっくに終わってたんだ。印刷も目処がついて明日には製本するよ。今読んだのは別のペーパーで、次の生徒会の最初の委員会のだね。総会終わってからでも間に合う奴だ。」
Y「うそお、じゃあ私だけ、まだ準備出来てないのは。」
小「だから手伝うよ。」
Y「そうね、じゃあ添削おねがい。て、大部分はまゆ子が持って行ってるから、第二稿の方ね。」
小「うん。」

 小柳原くんは普通まゆ子が座る、弥生ちゃんの左前の席に着いて、差し出すマニュアルの第二稿を読み始めた。これはもうじゅえるがワープロで打ってプリントしたものだから、自筆の原稿よりもはるかに読みやすい。だが、読みやすくなると却ってアラや無理が目立つようになるもので、弥生ちゃん自身により徹底的に修正が加えられる。自分でワープロを打てば修正も効率的なような気もするが、現状手で書いた方が弥生ちゃんにとってははるかに早いのだからトータルで速度を出す為にこのシステムで三人掛かりで遂行する。多分に、弥生ちゃんがワンマンで勝手に決めたというそしりを免れる為に、多人数の手を煩わせてチェックした、というアリバイ作りの意味合いもある。

 果たして、小柳原くんは原稿を読み進めて行く内に額に皺を寄せて来た。が、弥生ちゃんは黙殺する。このマニュアルの神髄は、全部読まなくても部分的に引用しても機能する代わりに、相当冗長な表現が含まれている点だ。こう言うと誤解を生むが、マニュアルではなくて修身や道徳の指南書に構造が似ている。読めば誰もが弥生ちゃんに成れる、という売り込みで作っているから、読者がそこに表現されている仮想の人格”やよいちゃん”にシンクロするまではかなり違和感が生じるだろう。しかしシンクロすれば、これはバイブルとして絶大な威力を発揮する。十年先でも弥生ちゃんが門代高校に君臨する、とまゆ子などは予測するほどだ。

小「蒲生くん、これは。なにか、かなり、女の子向けだね。」
Y「文体はそんなことは無いと思うけど。」
小「いや、文体とか表現じゃなくて、思考法が、というかこれは論理的じゃない。けど要点は外してないような気もする。」
Y「使える? と思う?」
小「使える。いや、そうじゃない。まるで、隣に、」

 隣に弥生ちゃんが立って逐一指導しているかのよう、と小柳原くんは感じた。それがまさに目的でありだからこそ有効なのだが、それを「女の子ぽい」と表現する事に弥生ちゃんは注目した。やはり、体質的に合わない人間が出ることは避けられないようだ。

Y「マニュアル補足の仕様書の方を読んでみたら? まゆ子の勧めでマニュアルとは別に法律みたいに箇条書きにしてみた奴だけど、そっちの方は全部できあがってるわよ。そうかあー、男の子には合わないということもあるのね。」
小「いや。僕は、僕たちは分かるよ。たぶん、この感触はキミだね。キミと会ったことがある人間なら、ここに書いてあるモノでキミを思い出すんだろうけど、」
Y「知らない人間が読んだらどうなるか、わからないわね。卒業してみなければどうなるか予測つかないね。」
小「うん・・・。このマニュアルの作成の経緯を別に補足しておいた方がいいかもしれない。」

Y「やってよ。」
小「え。」
Y「それはつまり、自分のことを書けといいたいんでしょ。私がこれを書いたという。でもそんなのはイヤよ。恥ずかしいじゃない。まるで自分の自伝を書くみたいで。」
小「ああ、それは、イヤだな。でも、僕が書いていいわけ?」
Y「いいんじゃないの。女の子、それもじゅえるやらまゆ子やらに書かせたくないわよ。あくまで外側から客観的に見た私、てのを描いてよ。」
小「石橋くんの書くキミ、か。それは読みたくない。」
Y「えろえろになっちゃうわよ。」
小「でもほんとうに、いい?」
Y「むしろ、こななぎくんが私をどのように見ていたか、てのは興味があるわ。正直言って私、男の子って苦手なの。だから男子がどういうふうに私を見てたのか、知りたいような気もするし。」

 小柳原くんはしばし、宙をにらんで考えた。その姿を、ちろと目を上げて観る弥生ちゃんは、それでも執筆の速度を落さず注意深く観察する。実は、確かに他者が自分を何者であると位置づけてるか、は興味があるわけで、それも男子がどう思ってるかは今後の人生を設計する上で確かに必要な視点なのだ。弥生ちゃんは、うまく行ったら政治家にでもなろうと思ってる人間だから、どちらかと言うと市長とか知事とかの方が向いてるだろうけど、どちらにしろ世界の半分だけを相手にしていては野望も叶わない。男子の支持というのを獲得する為にも、その予備データをここで入手するのは得策なのだ。

 と、いう打算は別として、至極私的な興味としてこななぎくんが自分のことをどう思っているかはかなり気になる。たまに揶揄して恋人とか夫婦とか言われてしまう二人だが、フォークダンス以外ほとんど手もつないだこともない。弥生ちゃんは、かなりキツい態度でこの二年余り相当にこななぎくんを痛めつけてきた自覚があり、それにもめげず最後まで自分に付き合ってくれた彼に対して感謝すらしている。だが、当の本人はその事に気付いているのか、あるいはさほど傷つかなかったのか、それとも憎まれてしまってるのか、卒業する前に是非とも知っておきたいと願う。こういう時は、万能の独裁者と呼ばれる無敵な自分の唯一の弱点、異性の心を察する才能の無さを歯痒く思うのだ。

 弥生ちゃんの視線に気付いて、小柳原くんが自分の瞳を見る。どきっとして、シャーペンの手を休めた。その隙を突いて彼は言った。

小「家で書いてくるよ。かなり時間掛かるかもしれない。一週間くらい。それでいい?」
Y「それはー、急ぐわけではないから。でも、最初に私に見せてよ。まゆ子とかじゅえるはその後よ。絶対よ!」
小「約束する。」
Y「指切り!」
小「え。」
Y「ほら。」

 とむりやり右手をひったくってこななぎくんの小指を自分の左手の指を絡ませた。

Y「ゆびきりげんまん、嘘付いたら、ほんとうに針千本呑ます。」
小「ほんとうに、針?」
Y「わたし、嘘は大嫌い。」

 二人して顔を見合わせている内に、なんだか気恥ずかしくなって、また草稿の上に目を落し、そのままもう顔を上げることは無かった。二人しばし無言での作業が続き、ただ紙と黒鉛のこすれる音のみが部屋に響き、時間だけが流れて行く。

 やがて、終業のベルがなり、校内全体が人の移動で騒がしくなり、生徒会準備室にも二人三人とメンバーが集まって来て、まゆ子とじゅえるがぺちゃくちゃしゃべりながらもそれぞれの席について弥生ちゃんのサポートを始め、小柳原くんはいつもの定位置である生徒会室に戻って行った。

 

 

A「というわけで、今日は9時までです。というか今日から9時以降の残業は指導の先生が付かないとダメ禁止ということになりましたー。」

 弥生ちゃんの代わりに職員室に呼び出されていた小柳原くんと書記Aは、帰ってくるなりそう宣言した。昨日10時過ぎまで残っていたのが警備員から報告され問題になっていたようだ。弥生ちゃんは嘆息し、一年二年生はばんざいする。まゆ子もじゅえるもなんだか気の抜けたような顔をして弥生ちゃんの顔を見つめる。

M「そのスケジュールだと、総会に間に合わないね。」
J「選挙結果を受けて新生徒会長を徹底的にレクチャーと洗脳をして、週末の総会に望むって計画だから、足りないのはちとしまりが悪いね。」

 だが弥生ちゃんは二人を制して言った。

Y「あーごくろうさま。たしかにそんな時間までみんな残すのは非常識だわ。9時にはちゃんと上がりましょう。定時制もあることだし。」
M「でも、じゃあどうするの。」
J「学校が無理となると、・・・・・・・・・家でやるか。」
M「でも、どこで?弥生ちゃん家は遠いし、あんたのところも無理でしょ。わたしのとこは足の踏み場もないし。」
J「・・・弥生ちゃん。聞くところによると、桐子はまたなんかやらかしたそうだね。職員室で弥生ちゃんが弁護してたってお嬢先生から聞いたよ。」
Y「お、あれから先のコトなのにちゃんと覚えてたんだ。さすがお嬢先生は自己保身の神様だね。」

M「そうだ、弥生ちゃん。桐子の家。」
J「それそれ。」
Y「え?」
J「桐子の家で泊まり込みでやろ。あの子にはずいぶんと貸しがあるわけだし、分不相応の家に一人暮らしだし、」
Y「そんなこと、アレに無断で勝手に決めて、いいかな?」
M「悪いわけないでしょ。桐子が弥生ちゃんにどんだけ恩があると思ってるの。」
小「いや、そんな、泊まり込みなんて、そこまでしなくてもいいんじゃないかと思うよ。というか、バレるとそれはそれでまた問題だし。」
Y「とはいうものの他に手が無い。しかたないなあ。じゃあ、明日桐子に話しつけて、立ち会い演説会の夜の土日で泊まり込み、というのでどう?」
J「無難過ぎるね。」
M「そんなとこかあ。まあ、いいか。でも、あれ、小柳原くん、立ち会い演説会の方は準備出来てるの。」
小「あ、まあ、・・・・リハーサルってのをするのが、なんとも。」
M「そりゃあ気が重い事で。リハ、どうするの。弥生ちゃん。」

Y「こんなこともあろうかと、しなりおです。」
J「おお、さすが。」
小「マニュアルの裏で、そんなものまで作ってたのか。」
A「あ、それは、わたしも手伝いました。」
Y「候補者にもこのシナリオは渡してあります。金曜日、ここに集まって最終打ち合わせをしますけど、その前にこななぎくんは全部覚えてください。というか、覚えられるでしょ、このくらい。三枚しかないもん。」
J「そりゃそうだ。しゃべるのは候補者であって司会じゃない。」
小「まあそうなんだけどね。」
Y「で、これが裏シナリオです。聴衆から質問があった際に使われる想定問答集です。当然のことながら現執行部に対する批判は出てくるでしょうし、それに対する候補者それぞれの意見も表明されるわけですが。現生徒会長がおたおたしては困ります。これも覚えておいてね。」
小「うあー。」

M「(弥生ちゃん。ひょっとして、サクラの質問者のシナリオてのも考えた?)」
Y「(もちろん)」
M「(さぷらいず、有り?)」
Y「(期待は裏切らないさ)」

Y「まあ、今日が水曜日ですから、全然大丈夫です。会場設営の方は?」
B「なんとかやってます。一二年生で大丈夫です。」
Y「というわけさ。じゃ、今日は9時まで。頑張ろう。」

 

葉「今日ははやいじゃん。」

 今日もバス停のところで待っていた葉月が弥生ちゃんの学生鞄を受け取って言った。9時には学校を出たと言っても帰り着くのは9時半10時近くにやはりなってしまうわけで、暗く人気が無く物騒にはちがいない。昨日と同様に皆が迎えを寄越せというので、また弟を電話で呼び出したのだ。

Y「ま、これくらいが普通だよねえ。で、御飯は。今日はちゃんとあるよね。」
葉「あるといえば有るけど、でも。」

 ぴくっと、弥生ちゃんの眉が引き攣った。聞きたくない言葉が弟の口から告げられる。

葉「まだ、いるんだ。美鳥さん。」
Y「もう。またなんで、この時間に帰さないと帰れないでしょ。寝てるの?」
葉「お風呂入ると必ず寝る。御飯食べても寝る。コンボだから、確実に寝る。」
Y「叩き起こす! 先行くよ!!」

 と弟に荷物の全てを預けて、田んぼの脇の街燈も無い暗い道を全力疾走で走りぬけていく。あまりの元気よさに、連日の激務に姉の体調を心配する方が馬鹿馬鹿しくなっていく。遠く、林の向こうからチロがわんわんと弥生ちゃんを出迎える声が聞こえた。

(続く)

04/08/15

 

 

(第三回)

Y「あー、ご苦労さん。じゃ、あとの片づけはよろしくね。こななぎくん、職員室の呼び出しがあったら、あなた代わりに行ってくれる?」

小「それはもちろん。でも、もう大体カタは付いてるから、選挙管理委員会に任せてしまってもいいだろ。」
Y「あ、そね。そっちの方がいいかも。じゃ、(書記B)さん、こななぎくんと後任せるわ。鍵の戸締まりをちゃんとして。あ、書類は金庫に入れるのよ。こういうときにこそ嫌がらせとか妨害とかはあるものだから。バックアップ取ってるからといって油断しちゃダメ。」

 

 弥生ちゃん率いる生徒会執行部は、去年の二月にかなり致命的な損害を受け、その復旧に1ヶ月を要した。弥生ちゃんがこれまでの各委員会の在り方を変革しようと決意したのは、この時の復旧作業で他に生徒会バックアップ機能が無かったのを重視した為だ。

 基本的に一年しか任に就かない各委員および委員長は結局マニュアル通りのことしかせず、それも前例主義で以前にやった例の無いことは出来ないしやりようも無い。委員長の個性は必要ではなく、ただ年間スケジュールに従って遅滞なく案件を処理すれば済む。高校の生徒会なんだからそれで上等なのだが、それではやっぱりおもしろくない、と弥生ちゃんは各委員会の職務を大幅にリストラして統合再編してしまった。数を少なく相互に補完機能を持たせ、ついでにチェック機能も重複させて、各委員会の独立性を強める。生徒会を頂点としたピラミッド構造ではなく、複数のコアを持つ有機体的組織へと変えた。結果、各委員会委員長の権限と自由度が高まると同時に、人材もそれなりに出来る人間で無いと機能しないことになる。これまでは能吏タイプであれば良かったものを、弥生ちゃんと同種のヤマ師で無ければその真の機能を発揮できないように仕組んだのだ。

 だからこそ必要とされるのが「やよいちゃんマニュアル」である。これさえ読めば誰でも弥生ちゃんに成れる。否、それぞれの委員長がその職責を果たす為には「やよいちゃん」にならねばならぬ状況を作り出し、自然と洗脳マシンとしての教育機能を有する機械生命体へと生徒会を作り替えた。代わりに生徒会長自らはその職責が軽く、各委員会の仲裁役として、あるいは審判としてのみ機能する。簡単にいうと、小柳原くんでも出来るようにしてある。弥生ちゃんは以前より生徒会長のみが学校と対峙する現行のシステムを不満に思い、より多角的に複数のチャンネルから教職員と対決する方法を考えており、その為には人材の数を揃えるしかないという結論を得た。それぞれの人材にそれぞれの権限というフィールドを与え、権限によって磨かれる資質がその人を戦力として高めて行き、状況に応じて互いに連携して学校側に対処する。

 なんの事はない、うえんでぃずの、いや厭兵術の、それぞれが同じ動きを覚えて同じ連携の仕方を知っていると打ち合わせをせずとも瞬時に戦闘集団が組めるという、独自の戦闘理論をそのまま応用しているだけだ。生徒会及び生徒全員をウエンディズの隊士にしたようなものだが、もちろんそこらへんの理屈はまゆ子やじゅえるくらいしか理解していない。

 このマニュアルは現在は暫定的にしか機能していない。一年がかりで改変したものの未だ旧システムの委員会マニュアルで運用されている為で、年度が換る今回の生徒会から完全実施される。ゆえに整理統合した独自権限の面白さまでは理解する者は居ないのだが、それでも強化された権限が成果を徐々に発揮し出してきて、今回生徒会役員選挙ではそれを掌握しようという人間がかなり現われ活況を呈している。弥生ちゃんは知っていたのだ。現在の少年少女たちは大人から覚めていると言われるものの、活躍の場が与えられていると知ればちゃんと飛びついて”馬に乗る”ということを。だから権限の強化というよりも、強化したように見える、なにか出来る可能性が倍加したように見える、というプレゼンテーションに重点を置いた。弥生ちゃん自身の派手な動きと活躍も、魅力をより輝かせたのだ。

 

J「で、立会演説会に出てた候補者ね。あいつら全員が生徒会長狙いというわけじゃないんだよね。」
Y「各委員長狙い、というのも居る感じだね。なかなか、機を見るに敏だよ。生徒会長があんまり得でない、と見切ってる。」

M「ふーん。委員長は今まで通りに委員会で互選なんでしょ。それなのに、いいわけ?」
Y「互選というよりも自然と適当な人に決まるものだよ。わたしがここに居るのだって、誰に選ばれたわけでもない。」
J「選ばれたのは小柳原くんだもんね。そうか、なるようになるわけだ。」
Y「ならなかったら困るわけね。でも生徒会長に立候補するようなにんげんは、互選でも自然と前に出てくるという寸法。」

M「ふむ、なかなかに複雑だね。民主主義とはすこし違う理屈みたいだ。」
Y「実力本意制民主主義というかんじね。これが真の民主主義よ。だれにでも公平に権利があるわけじゃない、というのが民主主義を理解する上での基本中の基本なんだけど、学校レベルの民主主義ごっこでは、そこまでの理解は無い。やりたい奴がやる、という感じで、権限に利権が伴わないしね。」
M「ですね。」

 弥生ちゃんたち三人は既に帰り支度である。今日はこれから泊まり込みで「やよいちゃんマニュアル」の追い込みに入るのだ。仕事場は、脅したりすかしたりした挙げ句ようやくにして大東桐子の家を召し上げた。ここに弥生ちゃん達三人が機材と資料と共に篭って、マニュアル完成に到るという計画。なにしろ土日が終わればもう選挙、新生徒会長が決まってしまう。その後に控える生徒総会までには新会長の教育を終えておかなければならない。それも、慣れ親しんだ仲間とハードな泊まり込みとかにはいかない弥生ちゃん的には部外者を、短時日で生徒会長に仕上げるわけだから、来週はもう無理が効かないのだ。

小「僕たちは手伝いに行かなくても大丈夫?なんだったら、何人か手伝いを寄越すけど。」
Y「いや、あなた達は選挙と生徒総会の準備を続けてちょうだい。大丈夫よ、私がこれまで準備不足で不手際をしたこと有って?」
小「無い。無いけど、・・・無理はしないで。」
J「もうめいっぱい無理してるんだけど。」

 生徒会室を後にして三人はいそいそと下足置き場に移動する。その姿が廊下の端に消えるのを見届けて、小柳原くんは残った生徒会メンバーに言った。

小「お金もらわないでこんなに頑張る人、というのは生涯二度とお目に掛かれないだろうな。」
A「ええ。タダ働きさせるのは忍びないですね、副会長は。」
B「時給にしたらいくらくらいでしょうか。」

 

 弥生ちゃん達三人はそれぞれに教室が違うので下駄箱もばらばらに離れている。弥生ちゃんは文系、まゆ子は理系、じゅえるが私立文系でてんでんばらばらなので、離れている間までは会話はしなかった。不思議なもので、三人常時繋がっているようでもすこし離れるとなんとなく寂しくなって、良からぬコトも考える。じゅえるはなんだかんだ言ってもやっぱめんどくさいからこのままふけちゃおうとか、まゆ子だったら一度科学部に顔出した方が良かったかな、とか。弥生ちゃんも同様で、くるっと踵を返して生徒会室に戻ろうかとか思ってしまう。四六時中一緒に居るわけでもない小柳原くんが、ちょっとだけ恋しくなった。

Y「いや、おまたせ。」

 二人に少し遅れて外に出た弥生ちゃんは、意外な暗さに思わず天を仰ぎ見た。黒い。冗談にならないくらいに雲が渦巻いて今にも一雨来そうな気配がある。梅雨時だから仕方がないが、今日は桐子の家までコンピュータ等を担いでいくので、途中で降られるのは願い下げだ。

M「ああ、降りそうね。仕方ない。一応防水のバッグに入ってるけど、急いだ方がいい。」
J「さっさと下の坂まで下りようよ。今だったらまだ間に合う。」
 だが、弥生ちゃんはまた別の方角に顔を向ける。グラウンドの反対側、外教室の傍に数人の女子が体操服姿で集まっている。ウエンディズの練習だ。
Y「ふたりとも先行っといて。わたし、ちょっと様子を見てくる。今日の指導は誰?」
M「志穂美だよ。あ。」

 返答も聞かずにグラウンドを横断して走り出した弥生ちゃんに残された二人は呆れてしまう。ここ10日ほどはまったくウエンディズの活動に参加できなかったからうずうずしていたのだろう、と大目に見てあげることにして、二人はそのまま校門へ歩き出した。弥生ちゃんには悪いが、まゆ子はウエンディズの練習はこの数週間結構たっぷりこなしている。じゅえるはともかくまゆ子は練習の指導をわりと頻繁にやるのだ。主にまともな野球技術の練習で肉体的に結構堪えるようなハードなやつを。

M「じゅえる知ってる? 夏合宿に前後して開祖家弓さんの講習会があるという話じゃない。」
J「あ、本決まりしたわけ。」
M「でね、厭兵術とゲリラ的美少女野球標準戦闘術技の他に、天狗術も教えてくれるんだって。」
J「天狗、って天狗道ね。飛んだり跳ねたりする、家弓さんの得意技の。」
M「それがねえ、ちょっと違う術なんだ。いつまででも歩いても走っても大丈夫な術。」
J「ほースゴイね。さすがだよ。天狗というからには、険しい山の中を何日も歩いても大丈夫な術というのがあるんでしょうね。」
M「ただ歩くだけじゃなくて、重たい荷物を背負って歩くんだけど、その術を教えてくれるのね。」
J「まて。重たい荷物を背負って、歩く術なの?」
M「実践的でしょう。」
J「げげえ。」

 弥生ちゃんが近くに来ると、正面を向いていたウエンディズの一二年生隊士が皆一斉に振り返り、敬礼した。この敬礼はいつの間にかウエンディズの一二年生の間で勝手に制定されたものらしく、三年生は皆これを受けると妙な気分になる。なにしろ、敬礼は敬礼でも右手を額にかざしてそのままぺこっとお辞儀するのだ。まるでドリフターズのカトチャンが「どうもすんづれいしました」とやる仕草のよう。どうせシャクティあたりの発案なのだろうが、下級生達はどうもこれを全校的に流行らせようという気があるらしく、全校的にエライ人である弥生ちゃんは時折諸所で隊士でもない生徒からこの礼を受けたりする。

Y「志穂美、ごくろうさん。」

 今日の指導の志穂美は、一段高いコンクリ段の上に仁王立ちしている。脇にはシルクにふぁが控えており、この三人にしごかれるのであれば弥生ちゃんが特に口を挟む必要は無い。徹底的に運動部的な練習を行ってくれるだろう。だが見回すと明美一号と聖が居ない。

Y「明美たちは。」
しるく「今日はぴんくぺりかんずの指導に行ってますわ。もうすぐ練習試合ですから、下でも張り切っているそうです。」

 夏休み前にウエンディズの下級生と城下中学ぴんくぺりかんずの三年生の混成チームで、桜川えんじぇるすの一二年生チームと練習試合を行うのだ。この試合はテストマッチであるから基本的には三年生は加勢も口も出さない。練度の点から見ても体力的にも経験値からも、どう考えても戦力的には向こうの方が有利なのだが、こちらも策が無くもない。志穂美やしるくといった超強力なフロントを相手にひたすら防御演習を繰り返すことで、多少の攻勢には崩壊しない「負けないチーム作り」を行っている。弥生ちゃん達三年生が卒業した後は、明美二号をリーダーとするウエンディズはこの戦法で一年間戦うことになるが、今回はその戦術のお披露目でもあったりする。

Y「とは言うものの、攻撃的でない試合というのは、やる気がしないねー。」
ふぁ「その辺はまゆ子がなんとかしてくれたよ。てってい的にピッチャー狙いでマウンドにライナーで打球を集める特訓をしてる。」

 ゲリラ的美少女野球はもちろん野球がベースになっており、乱闘と比較しても決して軽くは見られていない。うまくすれば全くラフプレー無しで試合を収めることだって可能なのだ。要するに、相手をKOするか、得点差で勝つか、どちらも同等の価値を持つということであり、どちらも尊重するからこそ理に適った合理的な戦闘が成り立つ。良い球を投げるピッチャーを擁するチームは野球を重視する傾向が強いというのは当然なのだが、ピッチャーの人材はどこのチームでも稀少であり常に集中攻撃の対象となる。野球自体の価値も当量に認めるからこそ投手の価値は高く評価される。また、チーム内でも戦闘単位としても優秀な人間がピッチャーを務めている事も多い。ゲリラ的美少女野球では三人ほどピッチャーを戦闘不能に追い込んでしまえば、後は雑魚ばかりという状況のチームが大半だから、この戦術は結構いける、と弥生ちゃんは思った。塁に出れば戦闘力の弱いウエンディズ、ぴんくぺりかんずの隊士はひとたまりもないが、進塁得点を諦めてバッターボックスから一歩も動かないことを決め込んでしまえば、存外勝てるかもしれない。

Y「じゃ、二号。頑張って。」
二号「はい。ご苦労様です。人手が必要でしたらいつでも呼んでください。」
Y「うみゅ。」

 今度はちゃんとグラウンド表面を荒らさないように端をぐるりと回って、弥生ちゃんはまゆ子じゅえるを追いかけた。その後ろ姿を見送るしるくは、皆と同様に弥生ちゃんの身体を心配して言った。

しるく「もうすこし、余裕を持って生きられたらよろしいのに。弥生さんはあのまま一生忙しいままなのかしら。」
ふぁ「そうかもしれないけど、暇を持て余す弥生ちゃんというのも想像付かないなあ。」
志穂美「ああいうタイプは高血圧になったりする。元気過ぎて大病に気がつかなかったりするらしいし、ひとりだとしんぱいだな。」
二号「そんな縁起でもない。」

 

 弥生ちゃんが追いついた時、二人はもう校門から100メートル以上は進んでいた。後ろから声を掛けようとすると、すでに二人とも口論に及んでいる。二人は仲良しだから遠慮が無く互いの手の内を知りつくしているから、些細な事でもよく口論にお呼ぶのだが、それはほとんど遊戯のようなものだ。

M「だからね、圧力を掛けていたわけじゃないとしても、その場の空気というものが全員マジ討論しなきゃいけない雰囲気を醸し出すわけね。」
J「それは当たり前のことでしょ。その為にわざわざ時間を作って。一二年生なんか強制参加だよ。」
M「だから、それがじゅえるの甘いとこなんだったら。一見するとマジでも意外と人ってのは手を抜けるのよ。言い方を変えると、自分の立場やイメージを守る為にディフェンシブな対応に終始するわけね。」
J「でも、結局は議論に介入しなかったんだから、連中はその自己保身?な態度を貫けたんじゃない。」
M「わたしはそうは思わない。候補者自身が考える以上のコトを言わされてたじゃない?誰も正常ノーマルの状態でしゃべってない。圧力が掛けられてたからこそ、熱がこもった、予想外に踏み込んだ発言に及んだのね。真面目に議論聞いてたら分かるわよ。」
J「わたしだって聞いてたけど、皆自分の意見を結構スムースに言ってたわよ。聞き易かった、不正規発言も無いし小柳原くんは冴えてたし。これってシナリオどおりでしょ、演説会の。」

 おっと、これは自分に関係するはなしだった、と成り行きを背後から見守っていた弥生ちゃんは口を出す。

Y「なに、立会演説会のことなの。」

M「あ、弥生ちゃん。だから、そこなのよ。え、と、観客席の最前列脇に、一人、鬼みたいに座ってたでしょ、やよいちゃん。」
J「弥生ちゃんの存在が、候補者たちにどのような影響を与え、選挙結果にどういう流れを引き起こしたか、ね。」
Y「わたし何もしてないよ。」
M「それが問題。じゅえるは、影響を与えてないという。でもわたしは、居るだけで候補者に無言のプレッシャーを与えていたと思うのね。」
Y「いや、わたしは、こななぎくんがうまくできるか心配で彼の真後ろに陣取っていたんだけど、・・・あれマズかった?」
J「あたしは普通に感じたけど。三年生の最後列席からは別段異常は感じなかったわよ。問題なし。」
M「私は裏に居たからよくわかる。候補者の何人かは相当プレッシャー感じて神経症みたいな動きしてたのよ。明らかに通常とは異なる。」
J「でも人前で話するんだから、多かれ少なかれ緊張するでしょ。それにあの配置じゃ、舞台上の候補者からは弥生ちゃん見えないわよ。」
Y「ふむ。ほんとに端っこで一年生と一緒に見てたからね。」
M「たしかに舞台からは見えないんだけどね、小柳原くんがしきりと背後の弥生ちゃんに助けを求めるような動きをね。」
J「前から見ると、なかなかかっこよかったわよ。ぴしっとやってた。」
Y「そうだよ。こななぎくんは上手だったわよ。」
M「候補者はそうは思わなかったでしょ。なんていうか小柳原くんね、生徒会長時々ぴくっと動くのよ。背中押されたみたいに。そのたび候補者は緊張してた。実際、その直後には小柳原くん、どこから用意したのかと思うような鋭いクリティカルな質問飛ばすんだもん。」

Y「あ、それ裏シナリオだ。話の流れに合わせて書記のAが舞台下でスケッチブック出して、・・・・すいません、陰から指示してました。」
J「やってたの!!」
M「嘘!? わたしに内緒で?」

Y「より正確に言うと、A用の裏シナリオがあって、こななぎくんがピンチに陥った時にはそれを使うように最初から指示してた。だから、こななぎくんが進行に詰まると、Aが私を見て、私がAに指示を出すと、こななぎくんにフィードバックして。」
M「そんなの聞いてないよ・・・。」
Y「あくまでこななぎくん救済の為のシナリオだもん。わたしが指示したと言ってもタイミングを示しただけで、何をどうしろとまでは言ってない。」
M「がーん、騙されてた。」
Y「いや、だからさ。こななぎくんが私の尻に敷かれてるというイメージを与えないように、Aを仲介にしたのよ。実際彼女にすべて任せても良かったんだけど、私の方が付き合い長いじゃない。その、こななぎくんの心理の機微というのですか、そのわずかな隙を埋める間合いを計ってタイミングを知らせてた。別にこななぎくんをリモートコントロールしてた、というんじゃないよ。」

J「つまり、候補者に圧力は掛けなかったけど、こななぎくんを通じてすべてコントロールしてた、というのね。」
Y「いえ、わたしはただ単にこななぎくんがかっこよく気持ちよく司会出来るようにね。現場の全体の演出はまるっきり手を出してないよ。」
J「わかった。今回の立会演説会って、妙に進行よくて、・・おもしろかったのよね。小柳原くんの司会がびしびしって決まるし、候補者の発言もぽんぽんて小気味良く飛び出すし。全部けいかくどおりなわけだ。」
Y「流れを重視したの。見て聞いておもしろい、それが今回の立会演説会のコンセプトで、選挙管理委員会の連中のプロデュースじゃださださの演出になるだろうから、まゆちゃんを舞台効果に使って、シナリオも候補者に読ませて事前討論して意見考え直させて間抜けな発言しないようにリハしたし、ついでに演劇部でボイストレーニングもさせて発音明瞭に練習させたし、こななぎくんあくまでかっこよく凛々しく見えるようにAに専属アシストさせて。で、わたしが生徒会全部を支配しているのではない、ということを印象づける為に最前列席で何もしませんでした。」

M「私にも、全貌は教えなかったというわけね、ひどい。」
Y「いや、でも、裏方で音響とか照明とかやってくれるまゆちゃんに、そういうことまで知らせると考え過ぎて不自然にぎこちなくなっちゃうじゃない。」
J「あー。まゆ子がやり過ぎる、演出過剰にしてしまうと思ったわけね。そりゃ賢明な判断だわ。」
Y「だって、効果音なんかつけるんだもん。」
J「ねえ。スポットライトにスライドに、効果音にBGMね。スモーク炊かなかったのは節度というものね。」

M「あうー、そんなに信用されてなかったなんてー。まゆ子大ショック。」

 

 喋りながら長い坂を下ってアーケードの商店街にまで行くと、打ち合わせどおりに書店に大東桐子が待っていた。真剣に立ち読みしていたので邪魔しちゃ悪いと背後からこっそり近づいて覗いてみると、キャラに似合わぬハーレクィン小説を読んでいた。視線に気付いて桐子は振り返る。

T「おそいじゃん。」

J「なんか、イメージがたーんと変わるような本読んでるね。」
M「うーん、ここはグロ死体写真集とか読んでて欲しかった。」
T「あのなあ、私は別に、猟奇殺人とか検死解剖に興味はないぞ。」
Y「そうは言っても、誰もそんなもの読んでるなんて予想しなかったんだから。でも、どうして、ソレなの。」
T「いいじゃないかー、恋愛モノ読んでも。ドラマだって映画だって、恋愛モノ見たら軟弱者呼ばわりされるのかよ。」
J「照れなくてもいいじゃない。」
M「そうだよ。普通っぽくていいよ。みんな声を掛け易くなる。」

T「ちょとまて、学校で言いふらしたりするなよ。」
Y「そんなことはしないけど、手遅れだよ。三日と保たずに全校に広がるよ。」
T「なんで、」

 弥生ちゃんが顎で指し示す方向を本棚越しに覗いた桐子は、一年生の女子が二名こちらを興味深そうに眺め、桐子が見ていることに気付いて一目散に逃走するのを視認する。あきらかに桐子が何者でありどういうポジションとイメージで見られているかを熟知している態度だ。学校生活全てに無関心な桐子とは正反対に、学校という閉鎖空間内の情報を網羅し拡散することを使命とする種の人間なのだろう。弥生ちゃんの言う通りに、すでに手遅れと思われる。

T「まあいいや。はーれくぃん読んだからといって内申書の評価が変わるわけもなし、男子がいきなりラブレター抱えて行列作るわけもない。いつもどおりに、陰でこそこそこっちを見て噂話をするだけのことだ。」
J「お望みであれば、男の子の二ダースくらいは調達してあげてもいいわよ。」
T「自分もふりーのくせに。口だけは大きいんだな。」
M「いや、じゅえるはさ、男子が苦手というんじゃなくて隙を見せないんだよ。自分に興味を持ってそうな人間に先回りして接触して、告白する前に単なるおともだちにしてしまってる。トラブルは未然に防ぐせこい奴なんだ。」
J「そういうわけね。あんたに興味の有りそうな奴をちぇっくしてやろうか? というか、二三人心当たりあるんだけど。」
Y「えーそうなんだ。凄いな。そんなの見ただけで分かるなんて、超能力者みたいだ。でも、その心当たりって誰?」
J「実は、」
T「やめろ。」

 書店内にも関らず桐子が暴れそうな気配を見せたのでからかうのは止めて、早速彼女の家に向かう事にする。今にも降り出しそうな黒雲の渦巻く曇天で、急いで家に入りたいところだが、

J「買い物して行こ。どうせ桐子の家に食べるものとか置いてないだろうから。」
M「・・・・・だめだ、わかんない。桐子はいつも家で何食べてるの?料理とかする?」
T「・・・しない。コンビニで弁当買ってくるとか、ピザとか取ったりするけど、料理は湯を沸かすくらいだなあ。」

 弥生ちゃんの耳がぴくっと動く。いや、もし犬猫みたいなとんがった耳が付いていたら、の話だが、そういう風に敏感に反応する。

Y「コンビニじゃなくてスーパー行こう。そっちの方が安いし、食材も買える。」
J「ほお。やりますか。」
M「桐子の家でお料理大会ですね。」
T「おまえたち、仕事に来たんじゃないのか。他人の世話を焼いてる暇なんかないんじゃ。」
Y「無いよ。あなたがス・ル・ノ!」
J「当然だね。あなたの家なんだもん。御馳走してよ。」
T「えーーーーーーーーーーー! どうしよう。どうしたらいいかな、というか、本気?」
M「大丈夫よ、あなたも食べるんだから、死ぬ時は一蓮托生呉越同舟よ。」
Y「親しいお友達同士が、彼女の作った料理を食べて死ぬというのだから、恨んだり呪ったりしない。」
T「あうん、ひとりじゃできないぞ。誰か手伝えよ。」
Y「するする。」

 商店街の近所にあるスーパーでは、土曜日の昼下がりという客があまり居ない時間帯ではあったが、高校の制服姿の四人は相当に目立つ。やはりここは主婦の戦場であって、彼女たちはお呼びではないのだ。入ったはいいが桐子は、そのまま入り口付近に立ち尽くす。

T「えーーーーーーー、なに買おうか。」
Y「予算は?」
T「へ?」
J「だから予算の枠内で作るものが決まるでしょ。まさか、カツオ一本買ったりしないわよね。」
M「カツオのたたきか。それいいね。丁度旬よ。」

 まゆ子はお魚が大好きである。いきなりそわそわし始めるが、弥生ちゃんがたしなめる。

Y「いきなりそんな大技は使えないわよ。あくまで桐子が作るのよ。そんな大げさな、・・・高知の漁師って、藁の焚き火の中にカツオ放り込むのよね。」
M「うー、じゅるじゅるする。」
T「カツオのたたきってのは、あれは刺し身じゃないのかな?」
J「全然ちがう!」

 後ろから客が入って来たので押されるように三人は奥に進む。自然と野菜売り場にたむろすることになった。

T「野菜は、・・・・・カツオのたたきってのは、野菜は要らないよね。」
J「だめだこりゃ。」
M「あのねえ、カツオのたたきってのはね、上にのっける薬味の方がずいぶんと大事なの。ネギとか茗荷とか。」
T「刺し身のツマとは違うの?」

 見兼ねて弥生ちゃんが口を挟む。さすがに弥生ちゃんは気の行き届き方が違い、三人の誰もが取らなかったスーパーのバスケットをちゃんと手にしている。

Y「カツオのたたきは却下。ちゃんと火の通る、まともな料理を作ります。カツオはまた今度。で、あなたは何を食べたいの? まずメニューから決めなくちゃにっちもさっちもいかないでしょ。」
T「許されのならば、・・・・ちきんらーめんとか?」

 ぱあーーーん、とまゆ子じゅえるに後頭部をシンクロで叩かれる。

T「いたいな・・。」
Y「難しいことは止めましょう。まず、考えなくちゃいけないのは、何食作るか、よ。私たちはこれからたぶん徹夜でマニュアル作成最終段階を遂行するわけね。とうぜん、時間が進むに従って効率はオチるし機嫌も悪くなる。だから、まともに料理の指導が出来のは初回だけよ。」
T「ちょっとまて、何食作らせる気だ、て、そうか、気付かなかった。今が二時だから、夕食だな、たぶん夜食も食うし朝飯も食う。日曜日の昼飯、晩飯も、食う・・・・。」
J「その前に、これからお昼ご飯も食べるんだな。これはパンかなにか、適当なものを買って行こう。桐子が作るのは夕食からね。」
M「四人分を、五回作る。最低ね。ひょっとしたら日曜日の夜まで食い込んで、学校には桐子の家から通う可能性すらある。」
T「すまん。ゆるしてくれ。私にはそんなおそろしいことは出来ない。」
Y「日曜日は志穂美か明美を呼ぼう。あの二人は料理の達人だから、まともなものが食べられる。明日は明日の料理教室をするとして、問題は今晩の二食だ。朝はてきとうでいいよね。」
M「朝ご飯用に食パン買っとこう。リスト作るか。」

 と言うとまゆ子は、制服の胸ポケットから生徒手帳を出して”しょくぱん”と筆記する。それだけで桐子は身震いをした。これは本格的に自分がいじめる宣言のような行為だと認識したのだ。

J「まずは、米。2キロくらいかな。食パン1斤、牛乳。ベーコンエッグとかでいいでしょ、簡単で。ベーコン二袋と卵一パック10個入りのやつね。」
Y「卵は一パックじゃ足りないでしょう。何を作るにしても便利だから。」
M「足りなきゃまた明日買い足せばいいんじゃない。とりあえず、今日の分だけでいいわよ。」
J「そうかもね。お菓子はあたしが買うから、別に置いといて、桐子、あんたんちコーヒー有る?」
T「え? ・・・・・どうだろう。」
J「インスタントコーヒー一個。インスタントで文句は無いね。」
M「ぜいたくはこの際言わないけれど、大きいの買おう。う〜、1000円くらいするかな。」

Y「桐子、お味噌ある?」
T「無い。」
Y「味噌一パック。昆布と煮干しも。大根でも買っとくか。」
M「あたし、じゃがいも!」
J「あぶらげー!」
Y「ほら桐子、どんどん文化的な献立が出来てく。」
T「あたしはどうしよう〜。」
J「めんどくさいから、ポタージュスープの素を一箱買って行くとして、桐子、コンソメある?」
T「無いよ。」
J「コンソメ一個。まさか醤油とかソースとか無いとは言わないよね。」
T「醤油、切れてます・・・・。」
M「じゃあ当然塩も無いな。砂糖も、胡椒もマヨネーズも。」
T「あ、マヨネーズはある!」
M「日付は?」
T「え?」
M「そのマヨネーズ、買ったのは何時?」
T「・・・・・・・わかんない・・・・。」
J「マヨネーズ一本。サラダを作るとしてレタスを一球、キュウリとか玉ねぎとかトマトもね。」
T「なんか、・・・・ずいぶんとお目にかかってないようなモノが、ぽんぽんと飛び出すね・・・。」

Y「で、問題は、メインディッシュよ。」
T「そうだ、ステーキしよ、ステーキ。牛肉買って、いや、焼肉の方がいいかな!」
Y「あんた、肉焼けばいいと、そう思ってるでしょ。あまい!」
J「ステーキの焼き方は難しいんだよ。強火でぎちぎち焼いちゃうような人には出来はしない。」
T「そんなあ。」
M「まあまあ二人とも。完全に否定するのもなんだよ。牛は止めて、鳥の胸肉とか焼かせてみよう。」
T「(ぱっと顔が輝く)」
J「じゃあ、鳥胸肉・・・四枚?」
Y「4。それをメインにおいて、付け合わせに炒め物を付けるということで。マイタケ買お。」
M「椎茸が好きだな。ステーキとか言った罰だ。インゲンとかニンジンを炒めさせよう。」
J「あのステーキに付いてくる甘いのね。マッシュポテトとか付いてくるというのいいんじゃない?」

Y「みそ汁御飯に鳥の焼いたのと付け合わせ、サラダ。晩ご飯はこんなところで上等かしらね。じゃ、夜食いこ。」
T「とほほ。でも真夜中にそんなにたくさん食べたら、太るよ。」
M「それは言える。」
Y「でも食べないと頭が働かない。甘いものがいいんだけど。」
T「そうだ、ケーキを買おう。甘いものがいいよ、やっぱ。」
J「別にいいんだけど、桐子のお料理教室だからねえ。あまり手抜きされても張り合いが無いし。」
Y「すぱげってぃ。」
M「いいね。じゃあ夜はスパゲッティ。どうしようか、夜だからスープスパとか軽くていいんじゃないかな。」
J「どうも、本人がうらみがましいような顔をしてるから、ナポリタンにしよ。パスタ買ってウインナソーセージを買って。」
Y「ナポリにはナポリタンは無いという話だね。桐子、ケチャップは有る?」
T「無い。」
J「あんたの家には一体何があるんだよ。」

M「じゃあ、こんなところで〆るかな。ちゅうちゅうたこかいな、と。2,500円。米買ってコーヒー買って五千円というとこか。」
J「お菓子が入ると六千円になるかなあ。お金は後で割り勘で、桐子出しといて。」
T「とほほ。」

 みんなで手分けしてばばっと買い物を揃え、ついでにお菓子とかジュースとか要らないものまで揃えて、バスケット二つ分の買い物を桐子に押しつけてレジに並ばせる。普段滅多に来ないスーパーなので所在なく並び、レジ内のおばちゃんが妙な視線で桐子をなめまわすように見るのに身をすくめ、しぶしぶと支払いを済ませて三人が待っている整理テーブルの所に戻って来た。三人は桐子からバスケットを受けとると手早くビニール袋の中に買い物を詰め込んだ。同時に妙なモノもチェックする。

M「イカが一杯入っているのは誰なのよ。」
Y「それはわたし、と弥生は言った。自分で焙って七味を振って食べるのです。」
J「まゆ子、カツオが入ってるのはやっぱ、たたきにするわけね。」
Y「なめたけ買ったの誰だ。海苔も入ってる。」
J「いやあ、御飯炊くんだったら、そういうのって必需品なんじゃないかなあ。」
M「桐子。聞くのわすれてたけど、炊飯器あるよね。」
T「あるけど、・・・・・・最後に使ったのは何時だったか忘れた。」
M「うわ。」

 

 スーパーの外に出ると、案の定降り出していた。6月の梅雨時のしとしととした身体に纏わりつく雨ではなく、かなり景気の良い大降りだ。気温が下がって、夏場はにがてな弥生ちゃんにはそれはそれで結構なのだが、濡れてしまうと何の用意も無い桐子の家ではケア出来ないだろう。

 皆を見渡してみると、ばっちりまゆ子とじゅえるは折り畳み傘を取り出した。抜け目がない。当然弥生ちゃんも抜かりは無いが、肝心の桐子はと言えば。

T「無い〜。買ってくる。」
Y「いいよ。どうせすぐそこだから、私と相合い傘でいこう。」

 まゆ子とじゅえるに今買ったビニール袋をすべて持たせて、弥生ちゃんと桐子はぴたっとくっついて傘に入った。背丈がかなり違うから、あまり効果は無いように思えるが無いよりはマシというものだ。弥生ちゃんが抱える仕事に使う荷物は相当に多かったので傘は勢い荷物を濡らさない為に使われた。

T「やっぱ百円傘買った方がいいんじゃないかな。」
Y「今時は300円はするわよ。いいから行くわよ。」

 

 

 至極みじめな有り様に成り果てて、ようやく桐子のマンションにたどり着く。ここは建築年数こそかなり経っているが当時としては上質な高級マンションであり、母親がまだ居た頃幼い桐子と二人で暮らしていたのだ。

 渋る桐子を急っついて錠を開けさせ、しっかりとした鉄扉を開いて部屋に入った弥生ちゃんは、玄関先でぴたっと歩みを止めしかめ面して鼻をひくつかせる。どうして入らないのか不審に思ったじゅえるとまゆ子は弥生ちゃんの肩ごしに中を覗いて、その理由を知る。一人桐子だけが呑気に、とうせんぼする形で立ち尽くす弥生ちゃんの背中から声を掛けた。

T「どうしたの、入りなよ。」
Y「へんな臭いがする。」
T「ああ、梅雨時だからねえ。洗濯物の臭いかな。」

 原因はそのような一般的なものではない。意を決しまなじりを引き締めて踏み込んだ弥生ちゃんは、スリッパを買わなかったことに後悔した。

M「うひゃああ。」

 桐子の家は、一人暮らしの女の子の部屋、という可愛らしげなものではなく、ずぼらな男の部屋にそっくりだ。床一面にゴミが転がるというほどでは無いのだが、ホコリがそこかしこにうっすらと積もり、足を運んでふき取っていない場所以外は白くフローリングのつやを隠し、隅の方には綿毛か小動物のようにちんまり丸まっている。左右を確かめると扉の陰の目につきにくい場所に大きなゴミ袋が二三鎮座しており、脇には1.5リットルペットボトルの空きビンが五本並んでいる。

J「げげげげげえげ。」

 キッチンを覗いたじゅえるがカエルを踏みつぶすに似た悲鳴を上げる。どうせそんな所だろうと予想はしていたから、じゅえるを振り返らずに弥生ちゃんは奥まで進む。感心なことにテレビの周辺はそれほど散らかっていない。テレビの前に配置されたソファも、奇麗なものだ。その代わりマガジンラックがキャパシティを越えてテレビ番組案内の雑誌に溢れている。どうやら新聞は取っていないようで、新聞紙はまったく見当たらない。四角いテレビゲーム機の上にレンタルビデオが二本置いてあったが、確かめてみるとなんてコトのないハリウッド映画と香港武林映画だった。
M「あう、ここは見ない方が良かった。」

 ベランダを確かめたまゆ子が弥生ちゃんに返答を期待しない投げるような声を掛けた。どれどれと覗いてみると、梅雨時だというのに洗濯物が忘れられたように寂しく外に掛けられており、その下にはまた大きなゴミ袋が五個ばかり並んでいる。反対側には大きな板が立て掛けてあり、ダーツの的と同様の色の付いた多重丸が書いてある。手裏剣の練習をベランダでするということだろうか。

T「あのさ、ゴミはゴミの日に出さなきゃいけないんだけどね、朝遅いでしょう。また学校行くのに急いだりして、うまい具合に決まった日に出せないコトが多いんだ。いや、一人暮らししたらあんたたちにも分かると思うんだけど、そうきちっきちっとはいかないんだ。これは体験者の貴重な意見として素直に受け取ってね。」
Y「言訳しなくてよろしい。仕事する前にまず掃除しなきゃいけない、というわけだ。トイレを見せてもらおう。」
T「おいー。」

 だが、どういうわけだかトイレだけはそれなりだった。奇麗とは言えないがまともに掃除をしている。前後左右を確かめてみても、ここだけはまともな女の子の部屋だった。

Y「まだ、更正の余地はある、というところね。」
T「ひどい言われようだな。」

J「やよいちゃん!」

 じゅえるが呼ぶのでキッチンに行ってみると、大きな冷蔵庫の下の段、野菜ケースを覗いているところだった。銀色のビール缶が4・5本ごそっと、すっからかんの真白いプラスチックの庫内に転がっている。

J「なんでこんなものがあるのかな。」
Y「ほー、どうやって買ったのか、聞いてみたいところだねえ。変装でもした?」
T「あ、なんだ、それは化粧して買いに行くと売ってくれるんだな。」
Y「後で処分します!」

M「弥生ちゃん!」

 今度はまゆ子が呼ぶ。今度は何かと行ってみると、ベッドルームだ。今だに二つベッドが置いてあるが、一つは隅の方に寄せて物置みたいに上に段ボール箱とかを積んでいる。中央に置いてある方に桐子は寝ているらしいが、学校に行く前に着替えたのであろう衣服が布団の上に散らばっている。弥生ちゃんは枕元とかその周辺の戸棚とか押し入れとかを引っ掻き回してチェックする。

T「なに探してるんだよ〜。」
Y「使用済みコンドームとかは無いだろうね。」
T「う〜〜〜〜〜〜〜。そんなの無いだろ。ちゃんと見ろよお。」

 まゆ子は鏡台の側にあるアクセサリの類いを一々チェックしている。桐子は、若い女の子であるアリバイを作るかのように安物の宝飾品をしばしば買うが、ほとんど一回しか使わないので大半が埃を被っている。なんとなく購入順に地層が出来ているな、とまゆ子は感じた。反面、化粧品の方はしっかりしていて、こちらは数も豊富で管理もしっかりして埃どころかきっちり整理された威容をたたえている。

Y「さすがに、これはちゃんとしている。」

 弥生ちゃんが褒めたのは木刀である。赤樫の細身のほんとうに武器にもつかえる奴で、手入れも十分され光ってさえいるが握りの辺りは手垢でつるつるしている。よく素振りをしている証拠だ。ベッドの右脇に立て掛けていたものを手に取って試しに振ってみる。びゅびゅっと細身の木刀が風を斬り、ぴたっと枕の上1cmに止る。バランスも良いし重さも手ごろで、買う時にずいぶんと吟味しただろうと推察出来た。刃の部分にへこみが何ヶ所から有るのは、一体何を叩いたのであろう。

T「弥生ー。これがその、新しく作った大脇差ね。」

 やすりをかけてバリを取ってあるだけで鏡面仕上げにしておらず日本刀独特の光は無いが、形だけは立派な大脇差を桐子は抜いた。鞘も自作である。ボール紙を奇麗に切って整形しビニールテープを巻くといういかにも手作りの貧弱さだが、それだけに作り手の愛情が感じられる。

Y「ねえ、これどこで作ったの。鉄工所では切ってもらうだけでしょ。」
T「だからそこよ、居間。テレビの前で奇麗に丁寧にやすりかけたのよ。だからテレビとソファは奇麗でしょ。掃除したもの。」
Y「何時の話?」
T「一週間前かな?」

 つまり、比較的奇麗に見えたテレビ周辺も一週間は掃除をしていない、ということになる。弥生ちゃんは右手の木刀を元の場所に戻して、両手で左右の頬を自分でばしばしと叩いて気合を入れる。

Y「掃除だ! じゅえるは台所、まゆ子は居間で仕事出来るようにコンピュータ設置して。わたしと桐子はここと玄関する。掃除機は?」
T「そこ。」

 桐子は押し入れの中から小箱を数個放り出して、何年も使っていない風体の掃除機を引っ張り出す。どうも桐子は通常は箒で掃除するらしく、掃除機には通電した気配が無く長年納戸にしまわれていた置物の静謐さをもって弥生ちゃんの目の前に引き出されてきた。

 ホースや吸い込み口を一生懸命組み立てる桐子の後ろから、弥生ちゃんは話し掛けた。

Y「もっと早く来るべきだったよ・・・。」

T「そうなのかもしれないねえ。やっぱ他人が来ない家というのはどうもいけない。私だってやろうと思えば、ごく当たり前の奇麗な家にしておくことは出来るんだよ。ただひとりだとやる気無くてつい億劫になってしまう。」
Y「これからは週一回は志穂美に巡視させるね。」
T「それはやめろ。」

J「やよいちゃん、煙草発見!」
Y「処分せよ。」
J「らじゃ。」
T「吸ってないよ。滅多に吸うものじゃないよ。」
Y「分かってる。もう二度と吸わないんだよね。」
T「うーーーーー。」

M「やよいちゃん!」
Y「なに?」
M「お風呂場が、洗濯物が溜ってる!!」
Y「今行く!」
T「あ、梅雨時だからね、洗濯できない日が、・・・・・。」

 現在7時半。大東桐子のマンションを大掃除し溜った洗濯物を片づけついでに毛布等を雨の中近所のコインランドリーに持って行ってまるごと洗濯乾燥させ、台所の食器類を洗い直しついでにゴキブリ退治の対策を施し、完全な状態に部屋全体を復元させて、ついでそのまま夕飯の調理に突入し、悪戦苦闘の末に遂に成し遂げ完成したものを皆で頂き、ようやくにして本来の仕事である「やよいちゃんマニュアル」の作成に取り掛かることができた。

 この段階になると、桐子がする事は何も無くなる。ただぼーっと見ているだけだ。退屈でどうしようもないので、借りて来た映画でも見ようと思う。

T「なにも手伝えないよね、あたし。」

M「邪魔になるでしょう。そこで勉強でもしてたら。」
T「いや、それはー、いやかな。」
Y「桐子、あんた、進路指導はどういう結論出したの。」
T「お、ああ、志穂美から聞いたな。」
Y「聞かなくても心配するけど、出所はお嬢せんせいだよ。わたしのところに相談に来たんだよ。大東さんがこのまま悪の道に染まって行くのはどうすればいいか、って。」
J「あくのみちとは、・・先生、テレビに犯罪者となった桐子の恩師としてインタビューされるとか考えたかな。」

T「なんか余計なお世話みたいだが、結局諦めた。大学行くよ。それが一番無難そうだ。」

M「超無難ね。問題先送り。でも、それが正解でしょうね。どっか、東京にでも行くわけね。」
T「東京もいいけどもっと遠いところがいいかと思って。交通の便の悪い、僻地みたいな。おやじがそう簡単には来れないようなとこね。」
J「なるほど。それじゃあ、いっそのこと外国なんかいけば?」
Y「留学は、お嬢先生の寿命が縮むからやめてくれないかなあ。」
T「留学は、・・・ちょっとね。成績の問題があって、受け入れてくれるとこが見つかりそうに無い。」
M「別にまともな大学に通わなくても、現地でそれらしいオープンスクールとかもあるんだけど。でも、そういうのは却ってよくないかな。重石にならない。」
Y「無難に国内にしときなさい。北海道なんてどうかな。」
T「悪くないなあ。冬寒いだろうけど。」
M「カニ送って。」
J「私もカニと新巻鮭一本ほしい。」
Y「新巻鮭一本ていうのは、見たことないなあ。切り身しか。」
T「鮭というのは、熊が取る奴だろ。人間は、熊と競争して取るのかな。」
M「ばかなことを。ちゃんと網を仕掛けるんだよ、川を遡る途中で。で、食用の内の1割も無いと思うけど、イクラ取って人工授精させて稚魚を川に戻す。熊が居るのはそのまた上流。もっとも、人間が手を入れて無い、自然のままの川というのもあるんだろうけど。」
T「北海道に行けばそういうの見られるかな。」
J「札幌じゃ無理だと思うけど、桐子の成績じゃあ札幌の大学にはいけないんじゃないかな。もっと僻地の大学でえ、そこでなら大自然の営みとかもろに見れるんじゃないかしら。」

Y「なんとなく、うちの美鳥もそういうとこに行きたくなりそうだな。」
J「美鳥ちゃんは、弥生ちゃんの家に入り浸りだって?」
Y「どういう仕組みかしらないけれど、いつのまにかうちの子になってしまってる。迷惑というわけでもないんだけど、なんか複雑な気分。」
T「一年生の大きい子だな。なんでおまえの家に居着くんだよ、それ。」
Y「農作業のアルバイト、というか弟子だ。じいちゃんとばあちゃんが可愛がって畑や田んぼに連れてってる。あれは元々いつでもお腹の空いてる子だから、自分で食品作れるのが楽しくて仕方ないみたい。」
T「ほおー、人にはそれぞれに居場所というのがあるものなんだね。」

M「どうでもいいけど、桐子。北海道に行くのはいいけれど、いくら場末の大学だって成績が基準に満たないのは入れてくれないわよ。」
J「だね。」
T「それはそうなんだ。どうしよう。学習塾にでも通った方がいいかな。今更だけど。」
Y「それは、行くんならさっさと行った方がイイ。夏過ぎたらやばいよ。でもその前に、面白いからお嬢先生のところに泣きついてみたら? 心を入れ換えて勉強しますぅーとか言って。先生感激するかも。」
T「それはただ単に面白い、というだけのはなしだろ。やだよ。とはいえ、あれでも専門家なんだよなあ〜。」

 桐子はがらっと窓を開けて外を確かめる。雨は勢いこそ弱くなったが季節に相応しい翳むような雨が降り続き、心にまで絡みついて気分をくさくささせる。どうも、部屋の温度もちょっと高めになってきたみたいで、シャツの胸元をぱたぱたさせて風を送り込んで涼を求めてみた。

T「すまん、クーラー付けていいか。」
J「そうねえ。すこし暑いわよ。」
M「ドライにしよ。湿度を取れば過ごし易くなる。」

 だが弥生ちゃんはクーラーはきらいなのだ。起動時に変な臭いがするし、閉鎖空間に篭ることを強いられるのも精神衛生上芳しくない効果を与える、と思いこんでいる。だから、夏場頭がぼーっとなるのにも関らず屋外や開けっぴろげの部屋に居続け、なんだか訳のわからない体調になってバテてしまうのが毎年恒例の行事となっている。

Y「扇風機無いの? しかたないなあ。まあ、いいけど。」

 ぴこ、っとリモコンを操作して桐子はクーラーを動かした。かなり年代物であるそれはうおーんとひとしきり大きな作動音を立てた後、通常レベルの騒音に落ち着き、同時にものすごく不快な臭いを乗せた熱風を吐き出す。

Y「うげげげえ。」

 風に襲われて、弥生ちゃんは座っていた座布団から飛び跳ねて玄関にまで走り出し、がたんと扉を開けて外気を吸った。二三回呼吸をして一心地ついたところで桐子に反撃する。

Y「とうこ! これはまさか、清掃してないとか言わないでよね。」
T「あ。・・・・・でもほぼ毎日使ってるから、大丈夫だよ。」
M「う〜そうか。これは盲点だったな。でも、大分臭いもマシに落ち着いて来たよ、弥生ちゃん。」
J「このくらいなら許容範囲内かな。」

 今から電器店に行ってクーラー洗浄液を買って来ようとする弥生ちゃんをまゆ子が必死でなだめる。結局は弥生ちゃんも折れてまた元の席に着き、再び活動を再会した。すでに下書きは終了しておりほとんどがじゅえるの手によってコンピュータに打ち込まれ、三人の作業はひたすら出来た文書を読み続け矛盾を探し修正して補足する、これに尽きている。この調子だと大体は明日中には終わるのだが、それにしても文書の量が多過ぎて読み進めていると一人の脳からはみ出してしまいそうだ。

 

J「あー、なんだかぜんぜんわかんなくなって来た。学校全体のシステムってこんなに複雑だったのね。」
M「複雑というか繁雑だったのよ。それを今回シンプルに統合したわけなんだけど、統合して部署が減った分一つの部署が取り扱う項目が増えたから、その処理に当たる人員とか権限とかの取り決めを全部取っかえたわけね。」
Y「これでも前例を可能な限り踏襲してはいるんだけど、権限の強化というのは要するに他に対する越権行為を法文化するということだよね。権限のカテゴリのせめぎあいが全体をよりよい方向に動かす原動力となるわけさ。だから、じゅえるが複雑と言ってる箇所は、複数の部署が関連する項目よね。内部で完結する業務は今までよりずっと楽なはず。」
M「でも弥生ちゃん。葛藤がエネルギーの素になるという話でしょ。それは分かる。もちろん切磋琢磨した方が全体としての質が高くなるのは当たり前で、これまでの生徒会と委員会が互いに干渉せず無難にことを起さずにスケジュールをこなしてたのよりは、それははるかに面白いわよ。でも、そうすると、人材を得られなかった部署はへこむよ。」
J「あーそれは私も気になっていた。誰もが弥生ちゃんみたいに強い訳じゃないのね。自然な流れとして弱小の部署というのが出るのは避けられない。どうするの。」
Y「そこまでめんどうは見ない。というか、各委員長が一年間変わらない今までの生徒会じゃない。ダメなら各委員からも、余所の部署からでも委員長変更の動議が出せるようになってる。人材の質を自分達で維持確保する機能はあるんだよ。」
J「でもそれってほんとうに発議する度胸のあるヒト居るかしら。」

 

 全然おもしろくない。話についていくのを諦めて桐子はテレビを点けた。よく考えたら明日帰さなければならないビデオをまだ見ていなかった。どうせ自分が居なくてこいつらは勝手になんとかやっていくだろうから、自分は自分の用件を勝手に進めようと思う。

 ビデオに電源を入れてレンタルビデオを放り込む。最近ではDVDのレンタルも増えて来たので、その時は足元に転がっているゲーム機を使う。これは折角買ったのは良いがゲームなんかやった例が無くもっぱらDVD再生機として機能しているのだが、人の話ではこの機種はそういう風に使うのが正しくて、ユーザーは皆ゲームなんか買わないでもっぱらDVDを見るに限っているそうだ。世の中はなんかおかしいないいかげんだな、と桐子は自分のことは棚に上げての感想を抱く。

 きゅるるると広告を早送りして、本編映像へと到る。アメリカの映画配給会社のタイトルが出てくると、弥生ちゃんが言った。

Y「ごめん。ちょっと音小さくしてくれない。」
J「とうこお、それなーに。」
M「なんの映画?」
T「いや、今度秋に新作が公開になるとかいうんで借りて来たんだ。”サイン”て映画知ってる?」
J「ひょ!」
M「げ!」

 桐子と弥生ちゃんは二人の表情に目を丸くした。桐子もビデオの進行をリモコンで切って、二人に向き直る。

T「・・・・・駄作?」
J「とは言い難い。」
Y「へんな映画なの?」
M「間違いなく変だ。」
Y「面白いの?」
J「ひとによるわ。」

 桐子と弥生ちゃんは顔を見合わせた。どうやらとんでもない難物を借りて来たようだ。

T「ちなみにあらすじは、どんなの?」
J「いわく言い難い。」
Y「謎バレ?」
M「知らない方がハナ、という種類のには違いない。」

 結局ふたりはなにも教えてくれる気が無さそうだ。諦めて桐子はヘッドホンを被ってソファにうずくまりビデオを見る。傍らにはまゆ子が主張して買って来たインスタントコーヒーを大型マグカップになみなみと淹れてある。桐子はコーヒーはブラック党だがだんだん温くなっていき最後には室温にまで下がって行くのをじんわりと待ちながらぺろぺろ舐めるように飲むのが好みである。好きではあってもブラックが体質に合っているわけでもないらしい。

 弥生ちゃんは一度仕事を始めると脇目も振らない。だから桐子が邪魔をせずに二時間映画でおとなしくしてくれるというのなら、何の不満も無い。そのへんな映画というのが気になるが、見終れば桐子がかいつまんで教えてくれるだろう。

 

 問題は別のところにあった。弥生ちゃんはVIPだからひっきりなしに電話が掛かってくるのだ。大体30分は間を置くことがない。携帯電話なんて世の中に無ければ桐子の家は良い隠れ家になるのだが、文明の利器というものは人を縛る鎖のようで個人の時間を一方的に断ち切り奴隷的待遇を睡眠中にまで強いる。特に現在は生徒会選挙、生徒総会、その他諸々の委員会部活動、それにウエンディズと立て込んでおり、弥生ちゃんの指示を仰ごうとする者の枚挙に暇が無い。目先の仕事にまっしぐらに精励吶喊しようと思っても、気勢を削がれること著しい。

Y「まゆちゃん、志穂美からだ。」
M「え?」

 電話を代ったまゆ子がしばし話を続け、その間弥生ちゃんとじゅえるは作業を黙々とこなして行く。五分ほども話をして、まゆ子は弥生ちゃんにケイタイを返した。

M「中学校の方で一年生がケガしたって。」
Y「え?」
J「え、やばいじゃない。」
M「いや、ケガ自体は大したことないし、指導に当たってた明美はケガのプロフェッショナルだから、うろたえながらもそつなく完璧に処置したんだけどね、そのケガを中学校の先生に知られちゃったんだって。」
J「あー、そりゃあ困ったね。じゃあ絶対なんか言ってくるよ。」
Y「やっぱり中学生じゃあ、安全を監督する先生が要るかもね。で、なんて。」
M「とりあえず月曜日にシルク連れて中学校行ってゲリラ的美少女野球の安全性の説明をすることになったんだけど、弥生ちゃんも一緒に行って欲しいって。ついでに中学校の一二年生には常時プロテクタを着けようかという話になって、その作り方をね。」
Y「行くのは全然構わないけれど、城下中学は私OGでない無関係者なんで、それでも大丈夫かな。いっそのことお嬢先生でも引っ張っていこうか。」
J「それはやめろ。却って話がややこしくなる。そうね〜、うう〜ん、志穂美とふぁでしょ、あそこ出たのは。聖もだっけ?あいつらじゃあ説得力無いかなあ。」
M「弥生ちゃんが行かないと多分収まらないでしょう。仕方がない。生徒会長選挙で大変だからと、火曜日にずらしてもらおう。」
Y「そうだね。」

M「それはそうと、志穂美も手伝いに来るって言ったけど、明日にしてと言っておいたよ。買い物もついでにしてくるように、て。11時前には来るんじゃないかな。」
J「今日はケンカは見たくない。ともかく、平穏無事にこれ仕上げよう。」

 

 三人は黙々と作業を続ける。といってもこの段階ではいきなりペースが上がって奇跡的にはかどるという事は無いので、いかに集中力を切らさずに粘り続けるか、その一点のみに成否が掛かっている。この状況下で最初に限界に達したのはじゅえるだった。無味乾燥の文章の読み込みにも段々と飽きてくるし、連日の作業の疲れもある。昼間に掃除洗濯炊事等と慣れないコトをやらされた筋肉疲労も眠気を誘う。自分の家を出てから既に16時間も経つわけで、そろそろ顔に脂が回ってベタついて不快にもなってくる。お風呂入りたいとか思うが、入るとそのままばたんと眠ってしまうだろう。冷たい水で気合を入れ直すにしても、今はまゆ子弥生ちゃんはノっている状態であるから、一息入れるにしてももうしばらく粘って待つ方が良いだろう。なんだか身体中がかゆいような気にもなってくる。

 まゆ子はまゆ子で、やはり疲労の極みにある。元々は粘り強いしあまり神経質でない、タフで温厚な性格の彼女だが、生徒会関連の仕事もこれで終わりだと思うとやはり浮き足立ってしまうところがあるらしい。また時々は自分が書いた文章のの誤字やら言い回しの変なのやらを見つけて不快になる。基本的にはマニュアルは既に出来ていて最終チェックの段階なのだから、もっと気を抜いても良いかとも思うが、ふと目を上げると、弥生ちゃんの姿は今だに疲れ知らず触れば電撃が放たれるか如くに真剣な居住まいに圧迫感さえ感じてしまう。やはりこの子は常人ではないと、もう知り合って3年にもなるのだがこれまでに何度となくそう思わされた事を、今回もまた感じてしまう。結局は弥生ちゃんの強さに比べると、自分は器用な電気屋さん程度の者でしかないのだとひしひしと気付かされ、自分の前途が暗澹たるものに思えて仕方ない。弥生ちゃんの他人に強く働きかける圧迫力は、一面ではカリスマの素ではあるが、同時に一般生徒に敬遠させる原因ともなっていて、近づき過ぎると慣れた筈の自分でも結構疲れるのだ。

 弥生ちゃんもやはり疲れているには違いないのだが、実はすでに心はここには無い。思うはただ、早くこれを使ってみたい、という一点だ。月曜日に決定する新生徒会長をこのマニュアルで特訓するという、真実この事業の中核となる作業が控えているのだ。誰になるかは分からないが彼/彼女にできるだけ分かり易くも詳細を完全に伝える為に、この二ヶ月腐心してきた。当初のものを読みやすく書き直し、微に入り細に入る指示を諦めばっさりとディテールを切って単純化してみたり、生徒会全体の構成を再三組み直して個々人の能力の全てを引き出せるよう変革したのも、すべて次の生徒会に自分の意志と事業の継続を十二分に理解してもらうが為。代替わりした後までもずるずると自分が引っ張りだされ指示し続けないで済むように、自分の全てを出し切って紙上に表現し尽くし、こななぎくんやじゅえるまゆ子生徒会役員全員にありとあらゆる迷惑を掛けた一大事業の、その真価が問われる瞬間がもう目の前に迫っているというのに、疲れを感じる暇など無い。でも、次の次の生徒会の在り方までも考えるような自分を、客観的に見ると人は笑ってしまうのだろうなと思ったりしている。

 思考のスピードと勘の鋭さ確かさ、個体の持つ魂のエネルギーの大きさで、弥生ちゃんにはまゆ子じゅえると隔絶した差があるのだが、所詮自分のことは自分では分からない。人と比べて優越感に浸ろうとか考えた事も無いし、無いから他人がどれほど自分に付き合うのに疲れるか、が分からない。だから弥生ちゃんは自分以外の者に目覚まし時計の役を期待する。弥生ちゃんと共に働く者がばてて疲れて死んでしまわないように、緊張と集中を解き空気を混ぜ返し状況をブレイクしてくれる人間を必ず一人はその場に確保するのだ。

T「ふわわわわわわ、おわったあー。」

 桐子がようやく映画を見終えて伸びをする。テレビの前に置かれたソファの陰であまり様子が見えなかったのだが、なんだか時々ぴくぴくと動いていたので、アクションシーンとかが多い映画だったんだな、と弥生ちゃんは勝手に思った。

Y「どんな映画だった?」

 無邪気に尋ねる弥生ちゃんに、桐子は難しい顔をした。

T「よくわからん。」
Y「あなた、ちゃんと見たんでしょ。」
T「メル・ギブソンが、・・・よくわからん。なんで銃で撃ち殺さないんだ?」
Y「は?」
T「宇宙人なんだ。宇宙人が攻めてくるんだ。でも裸足でとうもろこし畑を駆け回って、屋根に登って、バットで殴り殺された。」
Y「は?」
T「いや、わたしも自分で言っててよくわからないんだが、宇宙人がやってくるんだよ。ミステリーサークル作って。で世界中にやってきて、地球を征服しようとして、・・・・・水に濡れたら溶けちゃった。」
Y「は?」
Y「あたまに銀紙被せると、思考が読み取れなくて、緑の大きなムキムキの宇宙人が、・・・どうやって閉じ込めたんだろう。あのインド人。」
Y「は?」
T「いやインド人が居てね。メル・ギブソンの奥さんを車で轢き殺して、で宇宙人を手術室に捕まえるんだよ。」
Y「ゴメン。よくわからない。」


J「そのインド人が監督だよ。インド人のナイト・シャマラン監督。”シックスセンス”と”アンブレイカブル”ていうブルース・ウィリス主演の映画も撮ったの。」
T「そうか、あれが監督か。うーん。」
J「ちなみにシャマラン監督は自分の作品によく脇役で出演するのよね、”サイン”はかなり重要な役どころだったけど。」
Y「ふーん、インド人なのにハリウッドで映画撮ってるんだ。スゴイ才能の持ち主なんだね。」
M「確かに才能はあるんだけど、よくわかんない人なんだよ。いや、才能の方は間違いの無い、でも脚本も自分で書くわけで、で、すごいお金もらってる。」
Y「なるほど。アメリカンドリームを実現したわけだ。その映画ヒットしたの?」
M「興業収入は満足すべきものだったらしいんだけど、ヒットしたのかなあ。」
J「わからないねえー。」

T「よくわかんなかったよ。なんか変なもの丸ごと呑み込んだみたい。よくわからないから、お風呂入る。」
J「あ、うん。」
Y「じゅえるー。桐子の次に入らせてもらいなよ。あんたなんか疲れてるよ。」
J「いや、眠くなるから、いいよ。」
Y「眠くなったら寝ればいいじゃない。どうせ、二三時間で叩き起こしてあげるから。」
M「安らかに眠らせてはくれないわけね。」
Y「さすがに、そこまで寛容にはなれないなあ。この状況じゃ。」
J「ごもっとも。じゃあちょっと顔を洗ってしゃきっとして。」
T「なに? 弥生ちゃんの言うように入ればいいじゃん。ていうか、一緒に入る?」
J「えぇ〜〜〜〜〜〜〜〜? それもいいか。時間節約できて。でも、シャワーだけだから。」
M「ぬかりなし。ちゃんとお風呂炊いたよ。弥生ちゃんが入りたいて言うから。」
Y「そうなんだ。」
J「なんだ、最初からそういう積もりだったんだ。じゃあ遠慮無く。」

 そうと決まるとじゅえるはいそいそと桐子を押しのけて脱衣場に入った。桐子を除く彼女達は10時過ぎだというのに未だに門代高校の夏の制服を来ているが、ぬかりなく着替えも用意している。なにせ最悪二泊するコトを見込んでいるのだから、荷物が大きかったのも仕方ない。風呂場に向かうじゅえるを見送るまゆ子に弥生ちゃんは言った。

Y「次まゆちゃんも入りなよ。先は長いんだから根を詰めると保たないよ。ゆったり行こう。」
M「弥生ちゃんも入る?」
Y「入るけど、たぶん明日の朝だね。私はまだまだ大丈夫だよ。今頃になってようやっと八分くらいに乗ってきた。」
M「わひゃ。やよいちゃんに付き合ってたら常人じゃ身が持たないね。よくわかった、つまりおのおの勝手に自分のリズムで好きなようにやろう。」
Y「そういうこと。ちょっとお腹も空いてきたね、なにかお菓子出してよ。」

 お菓子に関してはじゅえるよりもまゆ子の方が経験値や見識が高い。もちろん今回はスーパーで売ってる程度のものだからそうぜいたくも言えないが、なかなかに渋いラインナップで取りそろえている。甘いチョコ菓子主体のじゅえるセレクトよりも、ほのかに甘い和菓子系統から干菓子おつまみ系まで網羅するまゆ子セレクトが、弥生ちゃんの舌には合う。

M「弥生ちゃん、イカは焼かないの?」
Y「あれはいざという時にてんぱってきたら元気づけに食べる。誰にも触らせないよ。」
M「じゃあ、七味おせんべとかでいい?」
Y「ぐっど。」

 まゆ子がお菓子をお盆に開けている間、弥生ちゃんは台所に立ってお茶の用意を始めた。昼間火花が散るほどに一生懸命こすって見違えるようにぴかぴかになったヤカンに水を入れ、これも針金ブラシで分解掃除までしたガスレンジに掛けて湯を沸かす。台所の隣に風呂場があるので、じゅえると桐子が風呂に入っている物音が聞こえてきた。ここで聞き耳立ててると男の変態さんだな、と思いつつもついつい聞いてしまうのが人間の性というもの。だが確かに、聞く甲斐のある異音が漏れてくる。

2004/09/05

 

(夏は終わったけど、それでもまだ続く。次回たぶん最終回!)

 

 

第四回〜最終回

 桐子の家の風呂場は造りが古いので案外狭い。少女二人が入って窮屈というほどではないが、現在のマンションの標準的なバスルームみたいに開放的ではなく密室に篭る感じになる。二人並んで流しっこくらいは出来るのだが、

 

J「あ、いやん、やめて。」
T「ふはは、良いではないか、良いでは。」
J「あ〜れぇ〜、お殿様、おやめになってえ。」

 なんだか隠微な展開になっているようだが、声が明るいので弥生ちゃんにはよく状況が掴めない。ふたりともレズであるとかは聞いていなかったが、前に弥生ちゃんも桐子に全身をまさぐられた事が有る。完全無欠の弥生ちゃんも、その粘着行為には音を上げた。じゅえるもやはりそうなのだろうか。

J「うふふ、うふふ。」
T「はあはあ、絶品じゃ。わしはもうおのれを放さぬぞえ。」
J「あれそのような、お止めくだされ。」
T「ここのところがたまらんのじゃ。ぐへへへ、好い按配じゃ。」
J「あ、参ります参られます。」
T「どうじゃ儂のテクは。堪えられぬのじゃろう。」
J「ああ、極楽が、西方浄土が見えて参りまする。」
T「げしし、御仏の慈悲じゃ、これでもくらえ。」
J「ひい、そのような恐ろしげなものを、入りませぬ壊れまする。」

 どういうプレイなのか、見当もつかない。心配になってそーっと風呂場に行って中を覗いてみると、二人は仲良く流しっこしていた。

J「えっちい」

Y「え? え?」
T「ほら、ひっかかってきただろ。やよいちゃんはせんざいてきにその気があるんだよ。」
J「なるほどねえ。それは気が付かなかったよ。」
Y「え? え?」
T「なーに、自分でも気付いてないんだから、他人が分からなくても当たり前。こう、うりうりと脇腹あたりを責めてみれば、悶絶してねえ。」
J「今度やってみよう!」

 状況がよく掴めなかったが、どうやら弥生ちゃんは二人に弄ばれたようだ。にゅーっと猫の目をして風呂場のガラス扉を閉じて居間に戻る。まゆ子は勝手に顔ほどの直径が有るおせんべを齧っていた。

M「どうしたの弥生ちゃん。顔まっかにして。」
Y「いや、別になんでもない。」

 うらめしそうに風呂場を見つめていた弥生ちゃんの背後で、湯の吹き上がる音がする。慌てて台所に飛び込んでヤカンの火を消し、急須に茶葉を入れて湯を注ぐ。当然の事ながら桐子の家に日本茶などは置いてなかったので、まゆ子が気を利かせて最低レベルの茶葉を買い物かごに放り込んでいたのだ。しばらく置いてぐるんぐるんと急須を回して中の茶を回転させ、四人分の茶碗と共に盆に乗せて居間に戻る。茶碗は数こそあるものの、四客揃いで残っているものは少ない。これもまた購入年月の差があり最近の、桐子が買ってきた百円ショップのとんでもない安物が前面に出て比較的よく使われているが、母親が買ったとおぼしき食器類はそれなりに高価そうで、大事に食器棚の奥に鎮座している。

Y「やっぱりこの家は一人が暮すには広過ぎる、という感じね。」
M「あー、まあ、仕方ないんだけどね。いっそのこと弥生ちゃん、桐子とふたりで住んでみる?」
Y「・・・・・さぞかし神経が逆立つような生活だろうね。」

 二人してのんびりなごやかに茶を啜っていて30分も経過して、ようやくじゅえると桐子が風呂から上がってきた。二人ともお肌つるつるでほのかに上気して、女っぷりプラス3という所だ。桐子はテーブルの上にならべたお菓子類の中から行儀悪くチーズ鱈スティックを一本取ってくわえると、台所に入ってジュースをコップに注いだ。じゅえるはそのままテーブル脇に座って、弥生ちゃんが淹れた茶をすする。濡れた髪をタオルで包んで家から持ってきた大きめだぼだぼのTシャツを着ているのだが、すると伸びる白いうなじが艶っぽい。じゅえるをじろじろと観察する弥生ちゃんとまゆ子の様子を見て、台所から帰ってきた桐子が立ったまま言った。

T「いやあ、さすが門代高校ナンバーワンの美人だね、じゅえるは。まさに絶品て裸だったよ。」
J「そんなこと大声で言わないでよ。」
T「染みもほくろも無いんだよね。色々ひっくり返してみてようやく見つかるくらいで。特に太股から下腹からおヘソに到るとこの肌ざわりってのは、なんとも劣情をそそるというか、男でないのが残念と言うか。これでバストがもうちょっと大きければ、完璧なんだけどねえ。」
Y「なんだ、やっぱりあんなことしてたんだ。」
T「やよいちゃんみたいに、卒倒したりしないから。でも、他人の裸を見るというのはいいねえ。こんなにまじまじと見たのは弥生ちゃんが修学旅行で気絶したのを介抱して以来だよ。」
Y「う〜。」
M「じゅえるは桐子の裸見てないの。」
J「あんまり面白くないのよね、さすがに筋肉質だから。胸も薄いし。なにより腕の筋肉が筋張ってるのよ、太くは無いけど固くて痛いし。まだ服を来てた方が魅力的よ。」
T「それはひどいなあ。これでも、・・おっと。」

Y「これでも?」
T「いやいや。それよりもさ、今度はまゆちゃんの裸というのを見てみたいんだけど、だめ?」
M「なんかイヤだけど、あとでお風呂入るから、見てみる?」
T「出来るならその88というのを、ぽよんぽよんしてみたい。」
Y「う〜、まったくなにを考えてるのよ。見たければ志穂美でも呼んできなさい。」
T「あー、しほみか。でもあれは、わたしとおんなじような体付きだからなあ。脚長いけど。あんまりそそらないや。」

 四人はしばらくほのぼのとお茶を楽しんでいたが、それにも飽きて再び仕事をし始めた。弥生ちゃんは元の通りに眼光紙背に徹すという有り様で誰も手を触れられない緊張感を漲らせる。じゅえるは風呂上がりということで半分以上気を抜いて枕を肘当てに寝そべる形で原稿のチェックを続けるが既に目がとろんとしている。桐子はまたテレビの深夜放送を見るともなく眺め、そしてまゆ子は。

M「だめだ。なんか身体がかゆくなってきた。ごめん、ちょっとお風呂入る。」
Y「はいどうぞ。」

 先程までの緊張感の持続が不可能となり、まゆ子も気分転換に風呂に入ることとした。机から離れてふらふらと風呂場へと向かうまゆ子の後ろ姿を見送って桐子は言った。

T「もう一回おふろ入ろうかしらん。」

Y「またあ。どうしてあなたはそんなに人の裸を触りたがるかな。」
T「でも弥生ちゃん。それは気持ちいいんだから仕方ないだろ。」
J「否定はしないけどねー。たしかに女の子の肌は気持ちいいものだよ。別にレズっ気が無くても、て女の子は皆レズっ気あるんじゃないかな。男子みたいに互いにちっとも触らないってのじゃつまらないじゃない。」
Y「そう言われてみると、男子はそんなに触らないねえ。なにか特別なものがあるのかな。」
T「おとこってさあ、そういう触り方すると直接せっくすに結びつくんじゃない?」
J「ホモ行為ってことにストレートに行っちゃうのかな。間に中間段階が無くて。」
Y「中間が無いってそんな。でも、その代わりに格闘技とか発達したのかも。」
T「それはあ、・・そうなのかなあ。柔道の寝技とかは気持ちいいのかな。」
J「柔道よりは相撲でしょ。裸でしがみつくんだから。でも気持ち良さそうには見えないね。」
Y「痛いんじゃないかな。ばしばし叩き合うし、地面には落ちるし。そんな快楽の為にやってる風には全然見えない。」

T「どっちにしろ、男は固くて触ってもおもしろくないでしょ。やっぱ触るのなら女の子だ。」
J「桐子はぷにょぷにょした肌を触るのが好きなわけ?」
T「ぶよぶよなのはイヤだよ。あくまで緊張感の中、潤滑油流したみたいになめらかな肌ざわりをね楽しみたいのさ。固い筋肉はダメ、しなやかさ柔軟さが強さの中に無いと揉み応えが無い。」
J「じゃあまゆ子の胸は対象外じゃないかな。」
Y「まゆちゃんの胸は、ぷにょぷにょだよ。とうぜんのことながら。」
T「ちちち、浅いね。まゆ子の狙い所はおしりだよ。あんたらと違ってぼんと張ってるヒップラインが、こうさわさわとしたくなるんだな。」
Y「おしりかあ。それは考えなかった。そうなんだよなあ。まゆちゃんはおしりが他とは違って、いかにもその、なんというか。」
J「なに赤くなってるのよ、弥生ちゃん。」
Y「ほら、男の子だったらだよ、おっぱいが大きい女の子とおしりが大きい女の子と、どっちと、ほら、やってみたくなるものかな。」
T「しりじゃない?」
J「私もおしりに一票。」
Y「わたしもそんな感じする。まあ、おしりの大きい子は胸も大きいんだけどさあ。そういやしるくもおしり大きいかな。」
J「あれは、いい感じよね。武道やってるって感じのする、いかにも充実した力感があるというか、他では見られない曲線よね。」
T「しるくかあ。そうだな、あのしりはちょっと他の子とはレベル違うて感じだ。ゴージャスな、なんか金掛かってるての? お姫様尻ていうのかな。」
Y「そんなもの世の中にあるか!」

J「ま、なんにせよ、おしりの大きい女の子は、さっさと子ども産みそうなイメージあるよね。安産型てのでしょ。男の子も種族保存の本能から、その手の女の子に食指が伸びるんじゃないかな。」
T「じゃあ胸は無駄だよな。触っても母乳が出る訳じゃないんだから。」
J「そりゃあ、・・・無駄かな。」
Y「でも胸というか乳房というのは、性的ディスプレイでおしりの代替物として異性の目によく見える正面に発達した、とか聞くけれど。」
J「そういう説は本当に正しいのかなあ。唇が赤いのは性器の代わりだ、ていう奴でしょ。でも遺伝子がそんなことまで考えて都合よく形態を変えるわけないじゃん。」
T「うお、なんだかアカデミズム。」
Y「不思議よね遺伝子って。進化論とかあるけどさあ、昆虫の擬態とか極楽鳥の羽根だったり、あんなに奇麗になる必要ないじゃない。擬態てのはさあ、他者から見てそう見えるというのでしょ、でも自分じゃ見えないのよね。自分で見えないものの形をどうしてあそこまで整えられるのかな? これは神様の存在を仮定する方が合理的でしょ。」
J「そこらへんはまゆ子じゃないと分からないよ。」

T「おっと忘れてた。まゆちゃんのおしりをさわさわするんだった。」

 というや桐子は居間から離れて風呂場に押しかけた。途中でもう脱ぎ出したから、乳放り出した状態で歩いてた事になる。自分の家なんだからどうでもいいのだが、残った二人は全然色気のないものを見せられてげんなりする。

J「見るんだったらさあ、シチュエーションてのが大事になるわよね。見せる為の演出が必要だわ。」
Y「同感。乳出したからといって色気があるわけじゃないんだ。」

 風呂場の中でまゆ子がさんざん抗議する声がする。先程のじゅえるとのプレイ時と同様にお殿様あるいはヒヒおやじモードで桐子は迫っているようだが、じゅえるとは違って悲鳴が聞こえてくるので、見兼ねて弥生ちゃんとじゅえるは助けに行った。

 ガラス扉を開けると、今まさに桐子がまゆちゃんをレイプしている、としか見えない、タイル張りの床にまゆ子がひっくり返って脚を桐子に両方とも取られて拡げられてる凄まじい光景だった。

Y「あのね桐子。モノには限度というものがあると思うんだ、わたし。」
T「いや、でもさ、こういう事ってこの先何度も有るとも思わないからさあ、思う存分まゆちゃんの身体を味わっておこうとするのは自然な欲求だとは思わない?」
J「思わない、って脚つかんでどういうことしようとしてたんだよ。」
M「こいつ、わたしのあそこみたいって!」
Y「あそこって・・・・。」

 じゅえると弥生ちゃんはその言葉に促されまさにその場所に目が行ってしまった。三人に凝視される形になってまゆ子は必死で股間を両手で隠す。長い黒髪が水びたしで顔に掛かり半分も表情が見えず、落ち武者か井戸の幽霊といった姿だ。

Y「・・・・・・・その、桐子。もう見たからいいじゃない。」
T「うん。じゅえるは見せてくれなかったからさあ、ちょっと見たいかなって。じゅえるはやんわりと断るのが本当にうまいんだよな、テクニシャンだよ。それに比べるとまゆ子は、男に迫られると火に油を注ぐってのですか、未熟もいいとこだよ。」
J「まゆちゃんは経験値不足だからしかたないじゃない。」
M「うう、こんな格好させられてそんなこと言われるなんて・・・。」
T「いや、でもさ、修学旅行の時には弥生ちゃんのをまじまじと見せてもらったんだけど、やっぱへんだ。こんなの見たがるなんて男って変態だよね。」
J「・・あんたに言われたくないだろ。」
M「・・・ひでえよ。」

 

 風呂から上がったまゆ子はピンクのぶかぶかトレーナーに薄い膝までのパンツに着替えると、ごろんと畳の上に弥生ちゃん達と反対方向に顔を向けてふて寝した。あんまり可哀想な姿に弥生ちゃんは思わず桐子の弁護をした。

Y「あのね、まゆちゃん。桐子が女体マニアなのは、一人暮らしで寂しいからなんだよ。お母さん居なくて、ひたひたと肌を触れ合う事も無いんだから、人一倍触りたがるんだな。」
M「・・・・もういいよ。」
Y「いやー、よくないような、その、なんですか、お仕事してくれないと困るんですけど。」
M「知らない!」

 取りつく島がない。諦めてじゅえるに振り向くと肩をひそめて放っておけとジェスチャアする。桐子は、これはご満悦という感じでまたソファに戻り深夜のお笑い番組を楽しんでいた。弥生ちゃんも、このままでは本当にいつまで経ってもマニュアル出来上がらないというので、本格的に本来業務に復帰する。この段階での校正と修正は内容的な問題ではなく、まったく生徒会に関係の無かった者が読んでも十全に理解できるか、を試している。なにしろ四六時中弥生ちゃんに頼り切っていた生徒会の業務を、十数冊の書物の中に封じ込めようというのだ。弥生ちゃんには自明でも、他人は存在すら気付かない陥穽もあるだろう、そのバグ出しの真っ最中だ。だから、まゆ子がふて寝で離脱というのは痛い。部外者でありながら業務全般を把握している人物といえば、じゅえるとまゆ子以外には居ないのだから。

T「・・・手伝おうか?」

 桐子が不意に声を掛けて来た。いつの間にか原稿の一枚を手にしている。

T「広報委員会の・・・・・、へー、広報委員会と放送部と新聞部図書部がいっしょくたになるんだ。監査部てのはなんだ? ”生徒会のチェック機構として新設される監査部は生徒会と各委員会の活動内容を調査判定しそのまま生徒全体に伝える役目を持ちます。広報委員会は監査部を中核として生徒会、各委員会活動の実体を客観的に生徒全体に伝えるのを目的として、その手段となる部活動と施設運営委員会を統合した、独自性の強い委員会となります。” なるほど、部活と委員会をいっしょくたにしてしまおうという寸法なんだね。」

Y「部活と委員会と機能が重複するところは、案外と人員も重複してるものだからね。興味のあるところに参加すれば、自然とそういう振り分けができてしまうのは理に叶ってるでしょ。だからいっそのこと、合体させてみたんだよ。少子化で生徒数も減ってるしね。」

T「なるほど。生徒が減ってるのに昔と同じ構成の委員会、というんじゃ、それは非効率だ。」
Y「ていうかさあ、これまでの委員会システムができたのはもう60年も前の話なんだよ。それからずーーーーっと変わってないで委員会が増えるばっかり。各クラスから強制的に委員を拠出させるという手法も、なんだかイヤな仕事の押しつけ合いみたいに決まるでしょ。それじゃあ、生産的な活動なんてできっこない。」
T「ごもっとも。じゃあ、各クラスから必ず一人は委員を出すという仕組みはなくなるんだ。」
Y「部署によるね。そこに書いてる広報委員会は、そんなに人間要らないから志願制だ。逆に厚生風紀委員会は、清掃の監視もするから全クラスから人員を強制的に調達する。会計委員会は任命制だね。生徒会長が各学年からこれぞと思う人に依頼する。四六時中働かないといけない部署じゃないから、それで間に合うんだ。」

T「そういう風に言われると、今までの委員会ってのは、いいかげんな決め方してたんだなあ。」
Y「他にも、体育施設委員会は運動部すべてが所属するから、人員が過剰になるわけ。文化部もまとめて校外交流委員会にしちゃったから同じね。一般の部員も委員とはいえ、責任は委員会ごとに全然ちがうのさ。」
 弥生ちゃんは自分の手元の原稿を精査しながらも、桐子の質問に的確に答えている。他から見ると、弥生ちゃんには頭が二つあるんじゃないだろうかと思わされるのだが、当の弥生ちゃんはその異常性に自分では気付かない。

 弥生ちゃんの話を聞いて、じゅえるが口を挟んだ。

J「帰宅部の連中はなんの義務も無し、というのは、平等の原則に反するんじゃないの?」
Y「桐子みたいな連中に、何を期待するというのよ。」
T「そりゃそうだ、首に縄付けて引っ張られても、何もしないぞ。」
J「そうなんだけどさあ。そうは言ってもやっぱり不平等じゃないの。」
Y「そうかな。だからこそ、任命方法を色々と換えてみたんだけど。やりたい者がやるように、そうは見えないかな。」
J「わたしは、・・・・・なあーんか釈然としないなあ。」
Y「帰宅部といっても放課後講習とかもあるし、人によってはその後で塾とかに行ってたりするんでしょ。委員会活動の省力化もしたんだから、何もしない人間が出てもいいじゃないさ。」

 

 桐子は二三枚読んでみたが、だんだんと眠くなる。いくらその気はあっても彼女はこういう仕事には向かず、弥生ちゃんへの好意を形には出来なかった。よくもまあ二人とも集中力が続くなあと眺めるとやはり無理があったようで、風呂上がりのじゅえるがとろーんとしている。それに対して弥生ちゃんは深夜だというのに全然ゆるんだところが無い。だがよく見ると弥生ちゃんはこれでなかなかリラックスしているようなのだ。確かに緊張感が漂っているのだが、手足の端々の動作はリズミカルにぽんぽんと運ばれ見る者に小気味良さを感じさせる。学校ではあまり見せない姿だと、動きに関しては感性の優れた桐子は興味を深くする。目の前のペーパーにすっかり集中しきっているようだが、もし今後ろから叩いてもするりとかわして反撃されるのではないか。じっくり分析して、実はこれが弥生ちゃんが一人の時の標準的な動きだと気がついた。つまり家で勉強とかをしている動きなのだ。しかし、自分には苦痛でしかない学校の勉強や生徒会の仕事をこなしているというのに、どうしてこんなに楽しげなのだろう。こういう風に勉強ができたのなら自分も成績がぐんぐん上がるだろうな、と羨ましくなる。

 だが桐子は、その境地に達することは永遠に無く、弥生ちゃんの姿を見ているだけで疲れて変な形で眠りに落ちてしまう。ソファの上に胡坐をかいたまま頭を脚の中心に落すように丸くなり、潰れた。その姿に振り返ることなく目を原稿に留めたまま、弥生ちゃんはリモコンに手を伸ばし点いたままのテレビを消す。ついで顔を上げてじゅえるに言う。

Y「無理しなくてもいいよ。やすんで。」
J「いえおかまいなく。」

 だがじゅえるの頑張りもそう長くは続かなかった。本来なら彼女は美容の為に睡眠を十分に取る事を心掛け、いかに忙しくても午前二時以降は必ず寝るように習慣づけているのだ。既に時刻は大きくリミットを越え、体内時計のプログラミングも体調のレベル低下を招いており、風呂に入って緊張を一旦解いたというコンディションの中、更正する赤鉛筆の手は止まり、顔が僅かずつ階段上に高度を下げて行き、遂には座卓上面に着地した。

 このまま放置すれば明日起きた時に顔に変な跡が着く、と弥生ちゃんはじゅえるの頭をそっと持ち上げて床に身体を横たえさせた。じゅえるはもう意地も何もなく、すんなりと寝息を立てる。再び自分の座布団に戻った弥生ちゃんの前に、むくっとまゆ子が起き上がり、弥生ちゃんの正面で机に向かう。

M「ふたりとも、寝た?」
Y「ごめんね、まゆちゃん。桐子のこと、あとで埋め合わせするから。」
M「ああいう事態にどう埋め合わせするのか見当もつかないんだけど。」

 少し言葉に険を混ぜて答えるまゆ子に、弥生ちゃんは苦笑いを返す。眠った二人が起きないようにテレビもBGMも無しに作業を進めるが、深夜とはいえ、いやだからこそ音を消して静かにしていると外の物音が聞こえてくる。いつの間にかまた雨が降ってきたようだ。しとしとと、いかにもおばけが出そうな物悲しい音を立てて街路樹の葉に雨粒が落ちている。それに注意を逸らしてしまうと、まただんだんと眠くなっていくわけだ。

 

 まゆ子はそれでも頑張った。ぶんむくれて横になっていた間はあんまりに腹を立てたので眠ってはいなかったのだが、それが裏目に出た。睡眠時間的にはゼロなのだから二時間も横になっていた分も耐久力に寄与しない。知らず知らず顔が前のめりになり、後ろで止めていた長く重たい黒髪が幾筋かずつ頬に貼り付いて行く。じゅえるの場合と違って弥生ちゃんはまゆ子の奮闘に期待して不用意な言葉も掛けなかった。こういう場合、受け答えをさせると自分が起きていることを納得安心して却って眠気に対する耐久力が低下するのだ。じゅえるの時は既にもう戦力にならないと見極めたから、敢えて声を掛けたのだが、まゆ子に眠ってもらってはほんとうに困るので気付かないよう僅かずつ座卓を揺すって、自発的に睡魔に抗させた。

 その努力も空しく、まゆ子は遂に力尽き、じゅえるの隣に寝かされた。残るは弥生ちゃん唯一人、蛍光燈の青白い灯が煌煌と照らす部屋の中で作業を続ける。三人の為にいっそのこと電燈も消して一人別の部屋に移ろうかとも思ったが、寝室くらいしか行くところが無かったし朝ももう近いのでそのまま続行する。雨の音は変わらず連綿と続き、一層孤独感を募らせる。さすがの弥生ちゃんも心細さを感じざるを得ない。だが、「やよいちゃんマニュアル」を更に読み進めて行く内にそれも忘れてしまった。

 そこにはまさに自分自身が居た。門代高校に入学して以来、先代の生徒会長を助け一年生でありながら学校側と渡り合って校則変更に努力したことや、文化祭実行委員としてこれまでにない盛り上がりを演出して活況を呈したことも、小柳原くんを擁立して生徒会長選挙に挑んだこと、そして一年に渡って全委員会の機構を見直し再編して学校側に認めさせたことも、今となっては皆夢のように感じられる。弥生ちゃんは過去を振り返らないタイプの人間で、完璧な記憶はあるもののそれを懐かしむという習慣は持ち合わせていない。ゆえに、自分がこれまで為してきた全てを客観的に語る「やよいちゃんマニュアル」に却って驚いてしまうのだ。へー、わたしってこんなこと考えていたんだ、と他人事のように突き放して楽しむことができた。
 そう、「やよいちゃんマニュアル」の真の価値は、それが面白いことにある。読み物として完璧に人を惹き付ける、それが為に文芸部のじゅえるまで動員した。単なる生徒会マニュアルならとっくの昔に完成している。構造的に単純で論理的に組織が組み立てられ、それを簡潔にまとめており理解に苦労することはない。

 しかし、それでは足りない。弥生ちゃんがそうであったように、これから受継ぐ人にも生徒会、各委員会活動に同じ熱意と誠意を期待する。”おもしろい”マニュアルはその方便なのだ。実際これまでのアルファ版ベータ版「やよいちゃんマニュアル」は生徒会役員、ウエンディズのしるくや聖、志穂美にも明美二号にも読んでもらい他有志の生徒にも試してもらって、好評を得ている。肩がこらず時間も短く平易にさりげなく読み通せる、それでいながら過不足なく弥生ちゃんの真意を伝え、働いてもらう。その為にこれだけの努力労力と人員時間を費やしたのだ。一見軽やかに見える弥生ちゃんが、実は人の三倍苦労と努力と研究研鑽を積み重ねていることを、多くの人は知らない。

 

「!」

 鳥の声を聞いて、弥生ちゃんは我に返る。雨の音はすでに止み、窓の外がうっすらと明るくなっている。席を立って窓を開けると、朝日のまぶしさが目に突き刺さった。雨に濡れた地面がまぶしい光に反射して、世界全体が生まれ変わったように美しく見える。爽やかな風が窓辺に立つ弥生ちゃんの脇を吹き抜けて、室内に新しい息吹を通わせた。

Y「・・・もうすぐ夏だねえ。」

 背後でブンというテレビが起動する音がした。振り返ると、桐子が目を覚まし、リモコンに手を伸ばしてスイッチを入れていた。じゅえるも髪を振り乱して起き上がる所だった。

J「今何時?」
T「・・・・六時二十分だね。てれびに時刻が出てる。」
J「まゆ子は?」
Y「五時半まで起きてたよ。」
 じゅえるは低血圧っぽいのそっとした緩やかな動きで左脇に眠るまゆ子を見やる。そして弥生ちゃんに向き直った。
J「ごめーん。」
Y「あと少し。もうちょっとだからみんなでがんばろー。」

 弥生ちゃんは、徹夜も関係ないといった爽やかな笑顔でじゅえるに答えた。弥生ちゃんに付き合うとなかなか心底から疲れてしまう事が多いのだが、この笑顔を見る為にわたしはこの人と一緒に居るのかな、とじゅえるは思う。その想いを共有してくれる人は隣で死んだように寝ているのだが、その無防備さにわたしは間違ってないよという無言の肯定を得て安心する。

 二人のやりとりを半分魂が抜けたように見つめていた桐子が言う。

T「腹減った・・・。」

Y「そうね。もう朝だもん。」
J「結局夜食作らなかったわね。あの分使わなかったウインナ焼こうか。とうこー、私も手伝う。」
T「ぅえー、また料理かよー。」
Y「あ、まゆちゃんの分も作っておいてね。どうせ八時頃には起きるだろうから、」
J「ふぁあい。その前に歯を磨かなくちゃ。」
T「シャワーでも浴びてきたらいんじゃない?」
J「そうねー。またはだか、見る?」
T「朝っぱらからだと胃にもたれる。」
J「お湯沸かしといて、お鍋とヤカンと。おいしーコーヒー淹れてあげる。インスタントでも淹れ方によってはいけるのよ。」
T「あいーーー。」

 

 ちゃかちゃかちゃちゃかちゃちゃちゃかた、かたちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃぱたかたん
 かたかたたかかたかたか、かたかたかぱたかたかちゃんかちゃかた、ぱかかちゃかた、ぱかかたかたん。

 志穂美がシャクティを伴って桐子の部屋を訪れたのは午前十一時前だった。二人の住いは桐子の家から比較的近いので、弥生ちゃんのお手伝いをしようというウエンディズ皆の代表で派遣されたのだ。放っておけば全員が集まってきそうなところだが、さすがにそんな人数は使い道がない。

 だが、行ってみると弥生ちゃんの姿は無く、まゆ子とじゅえるが二人してコンピュータを並べて軽快に入力しているところだった。原稿の校正が終了し最終稿と締めを括って修正分をひたすらにキーを叩いていたのだ。志穂美は不審に思って、まったく手隙の桐子に尋ねてみる。

S「桐子、やよいちゃんはどうした。」

T「仕事終わったから、風呂入って寝てる。」
J「いや、入力になると弥生ちゃんじゃ追いつかないからね。これでもう御仕舞い。ごくろうさまよ。」
M「ま、こっちも後二時間でけりが着きそうだけどね。わざわざ来てもらったけれど、やる事無い。ごめんね。」

 志穂美はそんなことを気にしない。だが、ちょっと弥生ちゃんの姿を見てみたくなった。桐子の案内で寝室に行ってみる。

釈「あ、かわいい。」

 桐子のベッドの中で布団を被ってまるく弥生ちゃんは寝入っていた。徹夜の緊張感も先程シャワーを浴びて洗い流し、安心して眠っている。その姿は17歳の女子高生には、まして人からこんからーと呼ばれる権力主義者には見えず、まだほんの小さな女の子のようだった。

S「なるほど。ごくろうさまだったわけだ。寝かせておこう。」

と志穂美は寝室を離れて桐子に言った。

S「いや、どうもありがとう。」
T「おまえさんに感謝される筋合いのことじゃないんだけどね。」
S「それはそれとして、この部屋。なんかすこし荒んでいるな。あまり手を入れて無いだろう。」
J「だってさ。まゆ子、昨日志穂美が来てたら修羅場だったね。」
M「しほみー、きのうはさあー、この百倍荒んでたんだよ。」

 志穂美のこめかみがぴくっと動き、桐子が肩をひくっとすくめる。その様子から雲行きが危ないと察知した勘のいいシャクティが、さくっと話題を変える。

釈「あ、の、みなさん。折角来たんですからなんでも言ってください。そうだ、お昼ご飯をつくりましょう。なにが食べたいです?」
J「そうねえー、昨日は鳥の胸肉焼いたので、夜はお菓子。朝は食パンに目玉焼きとウインナ焼いたのとお味噌汁だったからー。」
M「オムライスとか食べたいかな。」
T「あ、それいい。」

 怒ってないかなあーとおそるおそる顔を覗いて、シャクティは志穂美に指示を仰ぐ。気勢を削がれた志穂美は桐子への関心をむりやり背けて、今自分ができることに集中しようとしている。志穂美にしても、折角来たのになにもせずに帰っては子供の使いだと忸怩たる思いがあるのだろう。無言で手提げ袋の中からエプロンを取り出すと、ばっとカッコを付けて広げ腰に巻く。きゅっと後ろで蝶結びをして、他を省みず台所につかつかと入って行った。細いが筋肉が締まった腰つきに白いエプロンというのは、なかなかに凛々しく色っぽい。

 志穂美の後ろ姿を見送って、じゅえるはにたっと笑って桐子に言った。

J「ほら、朝食の時の洗いモノをちゃんと片づけといて大正解でしょ。」
T「まったく。不精してほっておいたら、ひどい雷を食らうとこだった。」
釈「・・・大東さんて、ふだんどういう生活をしてるんですか。」

 桐子がその問いに答えるよりも早く、まゆ子が志穂美に声を掛ける。

M「しほみー、やよいちゃんがねー、週に一度は桐子の家に来た方がいいんじゃないかって。」
T「あ、ばか!」
S「了解した。」

 台所に姿を隠したままで、志穂美は恐ろしい宣言をする。桐子はまゆ子にうらめしそうな目付きで抗議するが、もう手遅れだ。まゆ子が顎をしゃくって促したので、シャクティは志穂美の手伝いに台所に入って行った・・・・・・・・・・・。

 

 

 

『このマニュアルを読む人は奇異に思うかもしれないが、これは正式な文書ではない。極めて私的な、しかし誠実に後の生徒会に現在の職務を引き継いでもらおうとそのノウハウを記述したものだ。ゆえに読みたくなければ読まなくてもよいが、だからと言って無視したり廃棄したりはしないで欲しい。これに記された方法論が実際に学校側と交渉する上で実に有効であるか、我々は骨身に染みて知っている。マニュアルA稿に記された規定通りに生徒会を運営しても、大過なく一年をクリアできるだろう。だが、それはこのマニュアルに載っている方法を駆使しマニュアル記述者が半ば命がけで獲得した成果なのだ。新しく変更された生徒会・委員会システムは、そういう熱意を前提として成り立つように作られている。故にこれを読む君達は、マニュアル記述者が何者であるか知る必要がある。だがあえて詳細は教えない。教える必要も無い。このマニュアルはその人物があたかも隣に居るかのように懇切丁寧に解説してくれる。熟読すれば、その人と為りを自然と知るだろう。時にはうんざりする事もあるかもしれないが、そこは我慢して読み続けてくれたまえ。いや、必要なところだけを抜いて読むのもいいだろう。人の人格は一面的な観察では正確に知ることが出来ない。たまには反抗してみたり、言わんとすることを先回りして考えるのも有効だ。だが覚えておいて欲しい。マニュアル作成者は、読者がそういう行動にも出るだろう事を予期し十分構想と対策を練って執筆に当たったのだ。そう簡単にこの人物を出し抜けると思ったら大間違いだ。

 紹介しよう。マニュアル作成者の名は蒲生弥生。第XX代門代高等学校生徒会で副会長を務めた人物だ。もちろん只者ではない。これまで六十年続いた生徒会・委員会の構成をほぼ一人で改変した、希有の改革者だ。彼女がその任にあった当時、本校の生徒は皆、”独裁者””征服者コンカラー”と呼んでいた。実に彼女に相応しい異名だ。とはいえ押しつけがましい人物ではない。彼女は背は150cmにも満たない小柄な少女であり、容姿も可憐端麗、成績優秀スポーツ万能、風邪一つひかない健康優良児でもある。喧嘩っ早いが自ら単独で無謀な行動に出ることはなく、あろうことが校内に私兵集団を結成し、四海に覇を唱えていた。マンガのように思えるかもしれないが、こんな人物と同じ学年を過ごした我々の苦労を思いやって欲しい。要するに彼女にとって、地方の進学校である本校は舞台が狭過ぎたのだ。彼女の志望は将来政治家となって日本全体の国政に携わりたい、というものだが、当時の誰一人としてそれを無謀だとは思わなかった。何年か後の未来の君達がこれを読む時には、ひょっとして彼女はテレビに出演しているかもしれない。そう思わせるだけの力量を確かに備えていたのだ。

 或る日彼女は我々にこう言った。「私ひとりでは、とうてい追っつかないわ」。そのとおり、彼女が改革した新しい生徒会では、彼女と同等の人材を必要とした。だがそんな者が何人も居るわけが無い。無いのなら作ろう、と彼女は考えた。その為の道具が本書である。このマニュアルを読んで、君達も彼女の息吹、彼女の想いを知って欲しい。知るだけでよい、決して同じ位、同じ志を共有しようなどとは思わない方が良い。どうせ出来っこないのだから。凡人が才有る者の真似をするのは身の破滅の素だ。せいぜい自らの器の小ささに打ちのめされるだけだろう。我々がそうであったように。

 そうは言っても彼女もただの人間、一介の女子高生に過ぎなかった。生きている女子としての欠点も多く持っており、それも常人よりも更に多く隠す事あたわずという有り様だ。一例を挙げると、世間一般本校標準の女子生徒として見て、相当に奥手だったことだろう。女子と話す時と男子ととでは、まるで別人のように人格が一変する。男子と話す時は突然年齢が十歳ほど上がったように鉄壁の冷血さを示す。また人の話を聞かない。彼女は人一倍勘が鋭く諸事情報に通じているため、普通人が喋る内容を事前に察知してしまう。だが、会話とは用件だけを伝えればよいものではなく、それに付随するニュアンスや意図の表現を途中で打ち切られることで不完全燃焼感を持つ。自分が言わんする事を十分に理解されてないと感じての誤解を受けることも多かった。夏場は特に不機嫌で自分勝手なリズムで物事を最大限の効率とスピードで進めようとする為、周囲のスタッフは皆鞭をもって追われる急かされ方だった。教師からも受けは必ずしも良くなく、特定の教師からは鬼のように思われ忌避され、また復讐するかのように僅か16、7才なのに教員の職務の一部代行を押しつけられた。身のこなしは優美で繊細ではあっても容赦はなく、生来の器用させっかちさから他人の仕事を取り上げてその人間がやるよりも数倍の見事さで片づけてやる気を無くさせたり、ほんの僅かの指示であっても実は先の先まで読んでいての深い意味を持っていて、まるで孫悟空がお釈迦様の掌で弄ばれるような感覚を与えたりもする。なにより迷惑なのは、彼女自身「日本三代バカ声」と称する程の大声の持ち主で、グラウンドの端から人の名を呼び周囲の顰蹙を買うことも度々であった。

 このような人物であるから誰も彼女みたいになりたいとは思わないし、またなれる道理も無い。魅力的というのならば確かにアイドル並みに強烈な光を周囲に放つが、テレビのアイドルが営業用であるのに対して、彼女はあくまでボランティアとして働く。その厚意は誰も否定する事ができないが為、彼女を掣肘する方法を持たない。手綱の無い野生馬か荒れ狂うゴジラか、いずれにしても常人の枠を大きく踏み越えており、他人が模範とするのに不適な人物だ。くれぐれも紙面から受ける印象のみで彼女を理想化することが無いよう自重を望む。

 しかし、敵に回すとこれほど恐ろしい者も無いが、同じ側に立つ時或る種の特殊な高揚感を持ち彼女と同じ万能感を共有出来た事も、同じ学年に属した証言者として衒い無く記しておこう。まことに彼女と親交を持つのは、マツリと呼ぶにふさわしい希な体験であった。このマニュアルから彼女を感じる者はその余韻を得るだろうが、我々は釣り鐘の中に閉じ込められガンガンと鉄棒で叩かれるに等しい影響を受けたのだ。

 彼女抜きには何事も始まらず終わらない。彼女が為した生徒会・委員会の構造改革はその成果でありまた始まりでもある。今後このシステムで生徒会を運営していくからには、彼女という人が居た事を忘れないのが得策であろう。特に、この先さらにシステムに変更改変を加えようと試みる者があれば、私はこう忠告する。「やめておけ。罠が仕掛けてあるぞ。彼女はすべてを見切っている」。

 以上を、このマニュアルの作成を傍観してはいたが最終承認者として許可を与える権限を得た、彼女と同期の生徒会長であった自分が、自らの責任として警告する。

 

 六月三十日。生徒会は完全に新執行部に移行した。小柳原執行部から残るのは、最初から予定されていた二年生の書記二人のみである。
 最早自分とは関係なくなった生徒会室で、その二人を前に小柳原くんは、弥生ちゃんから頼まれていたマニュアルに補足する序文を朗読した。読み終えたところ、書記A安曇瑛子と書記B別当美子はがっかりしたように嘆息する。前生徒会長は二人の様子に不満げに言った。

小「ダメ?」

A「いえ。で、蒲生さんはどうおっしゃっていました?」
小「蒲生くんは、まんぞくそうだったよ。」
B「副会長、けっこう期待してたのに。」
小「え、やっぱりどっかダメかな。」
B「色気、無いですから。」
A「ねえ。」

 ねえ、と言われても小柳原くんには想像を絶する批評であって、どう修正したらよいのかまったく分からない。弥生ちゃん本人が良いというものを、どうするべきだろう。

A「蒲生さんのことを書くからには自分が何者かも記述しなければいけないでしょう。こうしてはどうです。」

 安曇瑛子が示した改善策に、小柳原くんは首をひねり、別当美子の顔も見て、けっきょくそのとおりに書き加えた。

『私、こと第XX代門代高校生徒会会長 小柳原優翔は、中学二年時に蒲生弥生君と同級になり、同じ門代高校に進学して以来2年余生徒会で共に活動出来たことを、生涯の幸運と受け止める。この十年における門代高校生徒会最大の功労者であることは論を待たないとしても、それ以上になにより彼女は輝いていた。その輝きで生徒会長を務めた自分の影がかなり薄くなったが、その分彼女が仕事をし易い環境を提供できたと自負する。そして、彼女と私の間に、同志として或る種の紐帯が生まれたと信じる。』

 

小「OK?」

A「先程よりは。」
B「愛は、・・なかったんですか?」
小「愛?」
A「女性として、ですよ。」

小「いやなことを聞くなあ。そんな余裕は全然無かったよ。なんたって、いつもいじめられてたもんな。」
B「そうなんですか。甲斐性ナシですねえ。」
A「お似合い、とは思いませんでしたけどね。でも蒲生さんにとっては、唯一近くに寄せつけた男の人だったんですよ。」
小「そんなこと言われても、相手がアレなんだから、・・・・・・・。

   でも。」

B「はい。」

小「十年先でも、なんだか蒲生くんの近くに居るような予感はするな。当てにはならないけど。」
A「・・・・・上出来です。」
B「ハナマルあげましょう。」

小「なんなんだろうな。」

 

 

END
2004/9/19

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