「ねえお姉さまぁ、私。」
その夜は雨が降っていた。
相原志穂美鳴海姉妹の家は、住宅街の交差点近くにある。80年代初めに建てられたものなので、当時の平均的な野暮ったさを保存しており、貧相だ。辻の端にある為、かっては排気ガスが酷かったのだが、最近の道路整備のおかげで流れが変わり、家の前の交通量も減って現在は取り立てて問題の無いレベルに改善された。バブル崩壊後の公共事業頼みの景気対策もたまには良いことをする。
その家の二階に二人の部屋はある。辻の角の家であるから妙に三角形に家全体が建てられていて部屋数が少なく、二人の勉強部屋は一室になっている。角っこであるから当然庭と呼べるほどのものも無く、駄犬ピカードは玄関脇の犬小屋で半ば道端に住んでいるという有り様だ。
相原姉妹の部屋は、夜更かしする事が多い志穂美が自分の領域にカーテンを引くというだけで仕切っている。
今夜は志穂美はすでにベットの上に居て、古本屋で買ってきた萩尾望都の漫画を読んでいた。志穂美は元々は漫画なんか読まないのだが、近年勢力を拡大しつつある漫画専門の古書店で昭和の頃の傑作を色々と発見し、現在精力的に研究中なのである。鳴海の方はと言えば、漫画月刊誌を律義に買い込む友達がいるので最近の漫画も一応は心得ており、姉のにわか漫画研究を、今さらそんな大昔の、なんて思ってたりする。
しとしとと雨の音がする静かな夜更けに、感心にも勉強していた鳴海は、思い出したように背中の姉に向けて言った。
鳴海「お姉さまぁ。」
志穂美「姉者と呼べ。」
鳴海「だからあ、その呼び方はイヤなんだったら。」
志穂美「だからなんだ。」
鳴海「あのね、私、中学校でもゲリラ的美少女野球団を作りたいの。」
志穂美は顔を上げて鳴海の後頭部を見た。
鳴海「あのね、最近私思うんだけど、ウエンディズもメンバー揃っちゃって私居なくても試合出来たりするでしょ。出番も少ないし。だから私、自分でもチーム作ってみようかな、なんて思ったんだ。第一私、中学生じゃない。門代高校に勝手に出入りしてもいいのかなって気もするの。」
志穂美「弥生ちゃんが実力者なんだから、お前が来るのくらいなんとでもなるぞ。とはいえ、確かにメンバーが一応9人いる現状では、出番が少なくなるのは致し方ないな。」
鳴海「でしょ。だから私もチームを作ってみよーと思ったの。別に中学生はいけないって法は無いんでしょ。」
志穂美「どうかな。中学生でも容赦はしないって所じゃないか。他のチームも。」
鳴海「そっか、対戦相手ってのがあったんだ。あうー、全部高校生だからなー。やっぱダメかな。」
志穂美「それはそれとして、そんな物好き、中学校に居るのか。9人要るんだぞ。」
鳴海「なんとかなりそう。」
志穂美「なんとかなるのか。ならなんとかなるかも知れないな。」
鳴海「なんとかなるなる。」
志穂美「なるなると釜がなるなり梅雨の闇」
鳴海「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
湯立の神事の釜鳴りなんて知らない鳴海には、志穂美の俳句はまったく理解の外にある。だが、たぶん、中身はでたらめで下らないだろう、という事は見当が付いたのだった。
・・・・・・・
翌日、鳴海は中学校で部員集めをした。
鳴海の通う市立城下中学校は門代高校の真下、坂を下って500メートルの所に有る。門代高校は進学校だからそう簡単には入れないが、城下中学校の校区の生徒には、通うのに便利なので一応行きたい学校のトップだ。
鳴海が生徒であるからには、志穂美も当然ここの卒業生である。ウエンディズでは他に聖、ふぁがここの出身だ。
部員集めは最初から困難にぶち当たった。というのも、城下中学校には最初から女子ソフトボール部があるのだ。難航するのは目に見えていた。そもそも中学校であるから、なにかサークルの類いを作ろうとするなら、まず担任の教師にでも届け出て許可を得なければならない。
だが、
鳴海「ゲリラ的美少女野球団に許可が出るコトは、まずないだろー。」
桔花「まねー。軟式野球ってコトなら出ないでもないだろーけどー、練習始めたら一発でバレるもんね。」
東桔花。鳴海と一緒になってゲリラ的美少女野球団創設を企てるこの少女、実は弥生ちゃんのファンである。
鳴海に誘われてウエンディズの試合に応援に行き、凛々しく活躍する弥生ちゃんの勇姿を目の当たりにし、以来すっかり弥生ちゃんの虜となってしまったのだ。
大体、弥生ちゃんが戦っている所を見ると女子の10人中4人は引っ掛かるというもので、背は低いながらも印象度は抜群、天性のアイドル性を備えていると言っても過言では無い。
それに加えて成績はトップクラス、抜群の実務能力、おまけに人の上に立とうという気概があり、いかなる権威にも屈せず、あらゆる妨害困難をも乗り越え撃破して、ただただ他人の役に立とうと日夜努力しているというのだから、門代高校一般女子生徒全学年の大半に弥生ちゃんは支持されている。というか、その支持があるからこそ半ば公然と生徒会を陰で仕切ってもどこからも文句が出ない訳だ。
もっとも、支持するコトと好きなコト、とはちょっと違うらしい。弥生ちゃんほど煙たがられている子もまた他には居ない。
敵にするには勿体ないが、さりとて付いて行くには過激過ぎる、というのが普通の女子生徒の弥生ちゃんへの評価だったりする。あまりにも鮮やかな個性は、生ぬるい人格の持ち主には却って毒になるらしい。
というのが、鳴海が姉から聞いた弥生ちゃんの評価であり、自身の見聞きした上での弥生ちゃんの姿もまたこれに違わないと思うのだ。いい加減なようで結構志穂美の鑑定眼はしっかりしている。信頼するに値する。
姉は、
「にも関らず、そのきらびやかさに灯火に飛び込む蛾のように引きつけられる者も少なくは無い。東桔花もその一人で、いずれ手ひどく代償を払わせられるだろう」
との予言も併せて為している。
それが分かっていながら友人を困難な状況に引きずりこもうとする自分を、鳴海は結構お茶目さんだと思う。
桔花「ともかくは人数を集める事だよ。数さえ揃えば学校の外で練習してもいいんだから。」
桔花は、なかなかに美人である。顔は小さいし造作も整っている。目は大人っぽい印象を与えるが、所詮は田舎の中学生であるから、ただのはったりだ。
肩までの髪を、鳴海と同様に左右に括っている。鳴海もいい加減髪質は固いが、桔花はそれに輪を掛けてきんきんで、校則の関係上無理やり力一杯束ねているので左右に花が咲いたように弾けている。
性格も髪に似てきんきんと尖がっているのだが、今はそれに加えてあこがれの弥生サマに近付こうというので240パーセント程興奮気味だ。
実にあやつり易い状態にある。
鳴海「とは言うものの、ゲリラ的美少女野球を口で説明するのできないよー。」
桔花「うんんーーー。ビデオで見せようか。」
鳴海「あー、いやーー、後で証拠になるから撮影はペケなんだ。美少女リーグ。」
桔花「とりあえず、メンバーの候補はどのくらいいるー?」
鳴海「あしび、と、合田さん。」
桔花「ふむぅ。悪くない。」
あしび、とは上で説明したマンガを毎週買っている鳴海の友達だ。本名を犬飼あしび、という。運動神経は悪くないのにどこの運動部にも所属していない、帰宅部の生徒だ。目がくりくりとした可愛い子で、髪型もなんとなくくりくりしている。
もう一人の合田とは、合田苗子。社長令嬢である。地元の土建屋で、もとはやくざまがいの商売であったらしいが、まあそれは大昔の話だ。苗子自身は、少林寺拳法を習っているというのが仲間うちでちょっと有名だ。隣のクラスの生徒だけど。
桔花「なにしろ弥生サマの前で恥ずかしくないメンバーを揃えなくちゃいけないからね。気合いの入ったのじゃないと。」
鳴海はちょっと笑った。
大元のウエンディズはそれほど気合いが入っているとは言えないからだ。まあ、気合いを入れなくても凄まじい人ばかりではあるが。
そこへふらふらと生贄がやってきた。
しづ「なにしてるの。仲間にいれて。」
鷺宮しづ、は人形みたいな少女だ。顔は真っ白、髪は真っ黒。腰まで引きずる黒髪を絹のリボンで高く結わえてお女郎さんみたいになっている。
だがなんと言っても特徴的なのはその目で、黒水晶のように透き通る大きな瞳はいいのだが、ほとんど瞬きをしないのだ。人形のようにじーーーーーっと見つめられると大抵の人間は耐えられない。また顔に表情も表わさない。
だから友達が出来ない。コワイから男子も近付かない。
自然、「仲間に入れて」が彼女の口癖になってしまった。
鳴海と桔花は互いに顔を見合わせた。しづは、友達とは言えないから、どの程度使い物になるか分からないのだ。
桔花は言った。
桔花「きついよ。」
しづ「いい。」
鷺宮しづはメンバーになった。
その週いっぱい、桔花と鳴海はメンバー勧誘に大童だった。
鳴海が目星を付けていた二人の勧誘が難航していたからだ。
合田苗子は、実はゲリラ的美少女野球団を知っていた。格闘関係の少女たちには結構有名な話なのだそうだ。が、尾鰭も付いている。「素手で猿を殴り殺した」とか、「暴走族の集会を襲撃してバイクに火をつけた」とかのデマがまことしやかに飛び交っているらしい。
合田苗子は、ひょっとしたら鉄砲で撃たれるかもしれない、と二の足を踏んでいたのだ。彼女の家庭環境を考えるとあながち杞憂とは言えないかもしれない。
桔花は、それはバカな心配だと一笑したが、鳴海は、まゆ子が開発した「波動砲」の威力をその目で見ていたので、顔を営業スマイルで引き攣らせるばかりだった。
あしびは、これもまた難航した。やる気が無いのだ。きついのはイヤだし汚れるのもやだと言う。桔花が切れてご破算になりかけたのを鳴海が必死で繋ぎ止めていて、今も交渉は継続中である。
その間鷺宮しづは何にもしなかった。ただ後ろでふわふわとしていただけだ。邪魔をしなかっただけエライだろう。
鳴海は今さらにして「八段まゆ子」の貴重さを思い知らされた。今彼女達に必要なのは、まゆ子の10分の1でもいい、アイデアを考え出せる人なのだ。
という訳で今後の方針を相談する為に、鳴海達は弥生ちゃんに面会する事になった。お膳立ては志穂美がしてくれた。日曜日の午前11時、衣川邸座敷牢で対面する。
前日から桔花は大興奮だった。あこがれの弥生サマと直にお話し出来るというので、失礼の無いよう、意味の無い事を言わないよう、原稿まで用意している有り様だ。鳴海が、弥生キャプテンはそんなに堅苦しい人じゃないよ、と緊張を解きほぐそうとするのだが、却ってきんきんさせてしまう。
しづは、まあ何も考えずに付いて来る。衣川藩としるくの説明をしている内に、鷺宮家が衣川藩士であった事が判明したが、別に影響はないだろう。しづの余所行きの衣装は予想の通りに、フリルがいっぱい付いた人形の服みたいだった。
約束の15分前、三人は衣川邸東通用門に居た。正面玄関は仰々しくて普通ウエンディズは使わない。なにせ勅使門まであるのだ。巨大な自動車用エントランスと警備員まで常駐している玄関に、ただの女子高生中学生はあまりにも場違いだ。
東通用門はごく普通の和風の門で特に緊張はしないのだが、桔花としづにはそれでも十分豪華に思えた。
鳴海は普段来慣れているからどうという事はないが、二人は右を向いても左を見ても何にでも驚いてみせる。第一、門をくぐって5分も歩かされるなんて、個人の家にある筈が無い。
あまりの驚きように、鳴海は、まだ勧誘に成功していない二人も連れて来ようと考えた。寄らば大樹の蔭、と思わせるのもまた手だろう。
そして・・・、
「こんにちは。キャプテンの蒲生弥生です。」
座敷牢の檻の中、真っ白いワンピースを着た弥生ちゃんが正座して三人を出迎えた。後ろにはしるくも控えている。その威容に三人は気圧されてしまった。鳴海が抑えなければ二人は土間に土下座してしまっただろう。
弥生ちゃんはにっこり微笑んだ。
弥生「ゲリラ的美少女野球団を作ろうというのね。お名前は。」
桔花「は、あずまきっかです。弥生さまにお会い出来てわたし感激です。」
弥生ちゃんは怪訝な顔をした。しるくに振り返り、ついで鳴海の顔を見る。
鳴海「あー、きゃぷてん。桔花はきゃぷてんのファンなんです。」
しるく「まあ。」
弥生「うーーん、嬉しいけど、”弥生ちゃん”って呼んでね。」
桔花「は、はい。」
弥生「で、隣のあなたは。」
しづは大きく頭を下げてそのまま答えた。
しづ「鷺宮しづと申しますー。衣川の姫さまにはお懐かしゅうございますー。」
しるく「まあ、どこかでお会いしたかしら。」
しづ「はいー、幼稚園のクリスマス会にお出でになりましたー。わたし、口の周りをべたべたにして姫さまに拭いていただきましたー。」
しるく「真仰幼稚園ね。私はもう小学校だったわね。」
しづ「はいー、随分とおねえさまでありましたー。」
鳴海と桔花、そして弥生ちゃんも成り行きの意外さにびっくりした。
弥生「なるみちゃん、不思議な子を連れてきたね。」
鳴海は、弥生ちゃんの口調がいつものように砕けてくれた事にほっと胸を撫で下ろした。そのまま桔花を小突いて本題にもっていかせた。
桔花「あの、弥生・・・」 弥生「ちゃん!」
桔花「え、とおー、・・・・弥生さん。私は弥生さんに憧れて城下中学にもゲリラ的美少女野球団を作ろうと努力していますが、その、知らない生徒には説明がとても難しくてなかなか部員集めが出来ません。また、そのままだと学校の方の許可が下りないと思いまして、なんとか考えてみたのですがうまくいかなくて、それでお知恵を拝借したいと思います。」
弥生「そうだね。私達も最初のうちは秘密結社だったもんね。集団でぼこぼとと殴り合うって言って通る筈が無いよね。しるくとも相談したんだけど、それは。」
と、ちらとしるくに話を振った。
しるく「そうね。ここは正面から突破した方が近道だと思うわ。ゲリラ的美少女野球団は元々は武術兵法の集まりなんだから、それを前面に押し出した方が先生方の共感を得られると思うし、私達も協力をし易いの。」
桔花「正面突破、ですか。」
しるく「そう。兵法術研究会とか護身術研究会とかの名目で正面から当たるの。」
しるくの言葉に鳴海はなんだか八段まゆ子の影を見出した。やっぱり裏で糸を引いているんだろうなと思わされた。
弥生「このしるくは衣川家伝一刀流の目録だよ。つまり武術の専門家だ。こういった会はそれを指導する人が一番肝心なんだ。この場合正面から乗り込む方がずっと善いとの結論に達したの。私達が直接ね。」
弥生ちゃんはウインクして、桔花はまた魅入られた。
弥生「でもその為にはあなた達に厭兵術の理念についてちゃんとした理解が必要だわ。という訳で今日ここに来てもらったの。立ちっぱなしじゃ落ち着かないから、あがってらっしゃい。」
三人は木格子をくぐって座敷牢に上がった。梅雨時だというのに牢の中は不自然な程からっとしている。窓も格子の吹きさらしというのにだ。
そしてしるくが全員にお茶を淹れてくれる。さすがにお姫さまだけあって、煎茶の淹れ方も作法に則ったもので、滑らかな段取りを見ている内に自然と心が透明に落ち着いてくるのだった。
弥生ちゃんも一服啜って、話し出した。
弥生「ゲリラ的美少女野球は、野球に名を変えているけどれっきとした武道よ。でも護身術では無い。護身を超えて、自分の身と同様に仲間や友達を守れるように、しかも効率良く最小限の練習量でものの役に立つ事を旨とする、とても合理的な武道である”厭兵術”というものに基づいて作られているのよ。」
桔花「最小限の練習、ですか。最大ではなくて。」
弥生「厭兵術は、習い始めたその日からもう使えるように作られている。考えてもみて、練習不足で今はまだ出来ませんと言ったって緊急事態は遠慮してはくれないのよ。だから、まず理念なの。聞いて即応用が効く、これが兵法というものね。技術よりも前に兵法を覚える事。これが他の武術や護身術とは隔絶して違う所よ。
厭兵術の始祖は、明治の人なんだけど、この方は素手で虎と熊と戦って勝ったって話なの。」
鳴海「虎と戦ったんですか!」
弥生「うん、当時はまだ朝鮮半島に虎が居たからね。熊は北海道の原生林の中でって聞くけど、ともかく一人で出くわしてそのまま格闘して見事に勝ったのよ。虎には口の中に岩石を突っ込んだっていうし、熊は”八方落とし”って投げ技で谷底に放り投げちゃったの。
でもここが偉い所なんだけど、始祖はこう考えたの。
「こんな事は普通の人間は何年修行しても出来るようにはならない」
始祖は、それは熊を投げるくらいだから先天的に素質があったわけ。身体も大きくて筋力も強かったって書いてるし、子供の時分から何年も厳しい修行に明け暮れてきた。だから、いきなり目の前に野獣が出てきても、勝てたんだけど、
でもこれは異常だという事に気が付いたのね。
それに素手で戦ったんだけど、この時武器をもってなかった訳じゃない。最後まで素手だったんだけど、実は懐には拳銃を持っていたんだ。熊も虎も、それを知ってたらもっと別な選択をしたかもしれない。まったくもって戦いというものは、その場の運と相対的なほんのわずかな差で決まる、という点を痛感したわけ。」
そこまで言うと、弥生ちゃんは目で、桔花に感想を促した。
だが、桔花にはそこから普通の人向けの護身術へと発展する原理が分からない。そこで逆に尋ねてみた。
桔花「あの・・・・、それでは随分と範囲が広くて漠然としているような。ほんのちょっとの差で勝てるようにするんです・・・・・、か? 練習もせず。」
弥生ちゃんが答えるより早く、鳴海が桔花を手で制した。
鳴海には弥生ちゃんの真意が分かった。分かってしまったのだ。
鳴海「桔花、そうじゃないよ。キャプテンは熊に勝て、と言ってるんだよ。」
桔花「え・・・・・・・・・・。」
桔花は顔色を変えた。振り返って弥生ちゃんの顔を見る。にっこりと笑っている。
弥生「いきなり出くわして、逃げられないとしたら、戦うしか無いわね。」
ようやくにして桔花は、自分が何に足を踏み込もうとしているのかに気が付いた。
弥生「という訳で、始祖は「厭兵術」を作った。
素手よりは武器を、一人よりは二人三人、前よりは後ろから、強い者より弱い者から。
ともかく勝つ為に合理的に取り得るすべての戦術を是として、状況に応じて対応を間違わず的確に対処出来る頭脳と胆力、それを実現する為の技術体術、特に集団での防御運動に力点を置くまったく新しい武道を創出したんだ。
でも、これ、流行んなかった。当時は柔道がのしてたからね。それにパッと見には、ちょっと卑怯な所もある。なにより当時は軍隊ってものがあったから、集団での戦闘となると軍隊式が主流正式ってな訳で、世間の片隅でほそぼそと続けられてきたんだ。
この状況は戦後になっても変らなかった。労働争議や学生運動とかの、集団でのデモとかあったからね、厭兵術もその類いと一緒と思われてしまったんだ。」
と、弥生ちゃんはまたお茶を啜った。つられる様に皆お茶を飲む。しるく一人が微笑んでいた。
弥生「その状況が一変したのが80年代なのよ。
学生運動もすっかり下火になって、ようやっと集団戦闘の訓練もおおっぴらに出来るって世相になった時、橘家弓ってひとが、みんなで野球をやろうって考えついたの。
その当時は厭兵術もほとんど型ばっかりになっていて、集団戦闘っていっても真剣味の薄いものになってたのね。やっぱりなんか目標とか理由が無いと、みんなで一丸になって戦うってのは出来なかったのよ。だから仕方なしに、集団で動く型を作ってそれをなぞるって形に自然となっていたんだけど。
そんな時、橘家弓さんは、野球の乱闘シーンを見て、これだ!って思いついたんだ。
理由が無いと戦えないのなら、自分で理由を作って本当にモメちゃおう。ついでに人数を集めるのにも練習の場所を借りるのにも野球に偽装しとけば好都合だ。
おまけに野球には、走る、投げる、地面を転げる、といった集団戦闘や護身術でも重要な要素が多数含まれていたので、基礎的な体力を養うのにも便利だと悟ったわけ。武器も使うし。
こうしてゲリラ的美少女野球は創始されて、橘家弓さんは”流祖”となったんだ。
で、今も家弓さんは野球団の世話人をしつつ、厭兵術のまっとうな講習会を毎月やっているんだけど、ゲリラ的美少女野球リーグは家弓さんの思惑を越えて、変形しつつ増殖を始めた。勝敗の概念が発生して競争原理が導入された結果、なんか怪しい進化を続けているんだ。
というわけで、あなたもがんばると新しい進化に貢献出来ると、私は思うよ。私もそのつもりでやってるし、それ以上の事も目指してる。
こんなものかな。頑張ってみる? きっかさん。」
桔花「はい、はい。はい、私頑張ります。」
弥生ちゃんはその場にすっくと立ち上がり、桔花に手を差し伸べた。
弥生「今日はいい具合に、しるくが巻き藁を斬る日なの。見学していきなさい。」
桔花「巻き藁って、日本刀ですか。」
弥生「本身のカタナを見たら肝が据わるわよ。」
桔花、鳴海、しづの三人は座敷牢の裏でしるくの剣技を拝見した。研ぎ澄まされた刀が振るわれるたび、10メートルも離れて見ていたのに、三人は首をすくめてしまう。しるくはサービスもよく、秘伝の「灯篭斬り」という荒技までも披露してくれたのだった。
衣川邸からの帰り道、桔花は言った。
桔花「なるみちゃん、わたしたちは、とりあえずそこそこから始めよう。とてもじゃないけどあのマネは出来ない。弥生サマがおっしゃってたでしょ。今この時から、使えるものでなくちゃ意味が無い、って。」
鳴海「おーー、さっすがー。わかってきてるねー。」
桔花「遠いよ。遠いけど、わくわくしてきた。」
盛り上がる二人についていこうと、しづは会話に割り込んだ。
しづ「ところでー、野球って三人でするのー?」
桔花鳴海「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
ゲリラ的美少女野球団ウエンディズ城下中学校分隊、現在3名。
end
2001/07/20
(おまけ)
対面の日の朝八時、桔花は相原家の前に居た。
あんまり気合いが入りまくって興奮して一歩もじっとしていられない。少しでも早く鳴海と合流して打ち合わせに完璧を期しておこうというわけだ。手には徹夜でこしらえた設立趣意書と資料と訪問着をぶら下げている。鳴海の家で着替えていこうという腹づもりなのだ。
駄犬ピカードはまだ寝ている。目の前に不審人物が気合い全開で立っているというのに、まったく反応が無い。番犬としては到底使い物にならないが、まあ朝っぱらから吠えて安眠を妨害するよりはマシだろうか。道端に面した戸口の側に犬小屋を構えている関係上、そうそう知らない人物に吠えていては身が保たないという現実上の制限もあるから、大目に見てあげよう。
玄関のインタホンを押して、しばらくいらいらして、また押して、
出てきたのは桔花の予想を裏切る人物だった。
志穂美だ。
志穂美は眠かった。ウエンディズの試合でもなければ日曜の朝八時になんて起きていないのだが、たまたま眠りが浅い瞬間に桔花が鳴らしたベルを聞いてしまった。半ば夢中のまま自動的に足が動いて階下の土間に下りてきた。
桔花は恐怖した。
志穂美の形相があまりにも凄まじかった為だ。全身総毛立ち、頭の中に冷や汗を感じた。目は釘付けられたように志穂美の顔から逃げられない。怒ってる、そう見て取れた。考えてみれば日曜の早朝だったのだ、配慮に欠けていた、と今さら後悔したがすでに後の祭だとも感じた。このまま自分は食い殺される、と覚悟した。
志穂美本人は、ただちょっと眠いだけなのだが。
桔花「あ、・・・・アネジャジャさま・・・・。」
思わず口走る言葉の意味に、桔花はまだ気が付かない。日頃学校で鳴海が姉の事をよくこんな風に言うので、狼狽した言語野が勝手に出力したのだ。
その言葉が自身の死刑執行命令書にサインするものだとの認識が、徐々に桔花の意識の裡に紡ぎ出されていく。じわじわと、自分の立場を認識していく恐怖とは、いかなる味わいだろうか。
志穂美「姉者じゃ? 学校で鳴海はそんな事言ってるのか。」
志穂美は、予想に反した間の抜けた声で応えた。眠いからどうでもいい。ようやく目の前のこの少女が、最近鳴海がよく話に出す中学校でゲリラ的美少女野球団をつくろうとする友達だと思い至った。
寛大な志穂美は桔花を咎める事はしなかった。ただ己の本性の命じるままに行動をする。
志穂美「おまえが新しいチームを作ろうという娘だな。・・・、厭兵術の基本を教えてやろう。」
と言うと手を伸ばして催促した。桔花はしばらくぼんやりと、志穂美の、美しいが刃物を思わせる堅固さを持つ右手を見つめていたが、それが自分の右側にある玄関のドアに突き刺さった新聞を乞うているのに気が付いた。
桔花は新聞受けに刺さっている朝刊を抜こうとした。前夜雨が降った為、新聞はビニール袋に包まれている。新聞受けに思いっきりねじ込まれたそれは、日曜版と広告増量の厚みの為、渾身の力を込めて引っ張らなければ抜けなかった。体勢を大きく崩してようやく取り出し、ばね仕掛けの人形のようにぎこちなく差し出す。
新聞を受け取った志穂美はそのまま桔花の脇に放り投げた。桔花は何をされたのか理解出来ない。
放物線を描いて、新聞はピカードの頭に激突した。さすがにこれには驚いたピカードは犬小屋を飛び出し跳ね回り、ついで目の前に突っ立っている桔花の足にすがりつく。
為す術もなく立ちすくむ桔花。志穂美は厳かに教訓を垂れた。
「敵は常に前に居るとは限らない。敵意のある者のみが敵とは限らない。」
その言葉は、以後桔花の座右の銘となった。
(おわり)