(挿し絵はこちら!)

鷺宮しづはしるくのファンである。

 彼女の家は元は侍であり衣川藩士であったそうだ。それもかなりの家禄を誇る上士だったらしい。とはいえ、しづ自身はこれはもう頼りなくふわふわとした、まるで芯の無いクラゲのように俗世に超然とした性格である。よくある事だが、そういう人間は自らがそういうものであるという自覚が無く、むしろ世間の目を常に意識し自分の息の勢いにすらびっくりするほど繊細な、外界に影響され易い性格だと思っている。故に世間との関りをを回避するが、その態度がまた常識とずれまくっているから周囲は相当に迷惑するものだ。

 そういう訳で、彼女がしるくを好きになるのは必然と言えるだろう。しるくは、ふんわかと柔らかく暖かい思いやりのある性格でありながらも、果断で決して折れる事が無く思った事にまっすぐで、その上剣を取らせたら男子の中にも叶う者がいないと来る。美しく上品で、しづが理想とするのに何一つ曇りが無い完璧なモデルだ。ウエンディズの下部組織であるピンクペリカンズに成り行き上加入した時から、彼女がしるくの後を追うのは天に定められていたようなものだ。

 めでたくお近づきになれたからには徹底的に行こうと、しづはしるくと同じお花の師匠に就こうとした。が、あまりの月謝の高さにさすがに鷺宮家の人も首を縦に振らず、計画はいきなり頓挫した。しづは動転し、うろたえ七転八倒してピンクペリカンズの皆に迷惑を掛けまくった挙げ句、それを伝え聞いた相原志穂美の口添えで、当初の計画よりもはるかに良い結果を得た。

 すなわち、お花とお茶を、他ならぬしるくから直接習うというものだ。

 当然しるくは幼少よりその手の伝統的教養に属する習い事はみっちり仕込まれており、7月にはもう18歳になるわけであるから、それらもすっかり仕上がって免許皆伝、師範の資格も得るまでになっている。これまでは諸事に忙しく他人に教授する場が無かったのだが、志穂美に「(親から決められたスケジュールどおりでなく)たまには他人の為に無理をしろ」と言われて、しるく自身も「そういうものか」と納得した。

 さて、感激するのはいいのだが、しづは見かけどおりに不器用な子だ。折角しるくの指導を得たというのに、教えれば教えるほどに人形とロボットの合の子のような動きに変わっていく。最初くきくきと定められたとおりに動いたかと思うと、次にはサーボモーターで動くアクチュエーターのように定速度でつるつると軌道を辿るという、どうみても不自然なにんげんらしくない動作を示すのだ。これにはしるくもさじを投げた。自分が習ったようにしづを仕込むのは不可能と判断し、より神髄に近い抽象的な目標を与え、それに至るのはしづの好きにやらせるという苦肉の策を取るしかなかった。

 言い出しっぺである志穂美は先日、しるくが横に付いて指導しながらのしづのお茶席に招かれて御礼をされたのだが、その時のお点前を、
「自動販売機の紙コップお茶汲みだ」
と評すのだった。

 さほどの困難を与えているにも関らず、しづはしるくに可愛がられるのになんの不安も覚えない。しるくも、やけに手間の掛かるしづを、「なるほど、妹とは大変複雑なものなのですね」と、日々転変する状況を楽しく感じていたのだった。

 こうしてしづは、単にお茶お花の弟子というだけでなくしるくの個人的なお付き合いにもお供として付いていく事が多くなった。

 

 今日はしるくの個人的なお茶会。お花のお師匠さまの所でよく会う臼井小夜子という人物ととりとめもない噂話を楽しむというお茶席に、しづも招かれた。と言うよりも、彼女にしづを見せびらかそうという趣旨なのだ。

 臼井小夜子は20歳。衣川よりも前からこの地にあって支配していたという古い家系の裔だ。
 臼井家は家格を言えば衣川家よりも朝廷での地位は高かったという名門で、地元の氏神であった臼井神社の宮司でもある。衣川藩が転封で御国入りをした際も最初の頃は支藩として、後には幕府の命で吸収されて家老格となり、非常に注意深く重く扱われて来たという歴史がある。簡単に言うと、危険な影響力を持つ家系であったために腫れ物を触るような扱いをされてきたわけだ。

 さすがに廃藩置県で衣川藩が消滅した後は臼井家も単なる宮司として地主として平穏無事に過ごしており、現在も衣川本家と親しくする間柄である。しるく自身も名門の娘としての境遇が似ている関係で三つ年上のこの人を姉のように慕っている。

 そういうわけでしるくが、妹みたいなしづを姉のような小夜子に紹介するのは当然であった。

 小夜子は現在遠方の大学に在籍し、またこの度四ヶ月ほど欧州に留学し長く家を空けていたので、しるくの近況に暗かった。彼女は、単に旧いというだけで現在はさほどの富豪では無い自分とは異なり、真のお嬢様お姫様であるしるくには真の意味での友達がなかなか出来ないのを長年に渡って案じていた。しるくがウエンディズに参加して以降はその心配も必要が無くなったと思うのだが、今回新しく、妹のようだと文にしたためてきた鷺宮しづに紹介されるのを楽しみに帰郷したのである。

 しづの点前は現在でもさほど見るべきところが無い。初心者と言ってしまえばそれまでだが生来の不器用、人形のような硬直した動きというのが仇になりなかなか上達の気配を見せない。それでも今回、しづは良くがんばった。しるくに恥をかかせないよう一生懸命教わった事を細大漏らさず思い出し必死に務めたのだが、却って額に汗をにじませて滴る汗をそのたびしるくに拭いてもらう事になる。

 二人の姿をじっと見つめる小夜子は、黙ってしづの茶を頂いて最大限の敬意をもってもてなしを受けたのだった。

 しづの点前が全て終わり、しづ、しるくともに安堵とともに脱力しているところで、小夜子はしるくに語りかけた。

「なんだかほっとしたわ、うゐ様。」

「まだまだ不調法で申し訳ありません、小夜子様。」

「違うわよ、困った娘ね、あなたは。」

 しるくは不意を衝かれてはっと顔を上げた。てっきりしづの拙い所作に、自分の指導不足を指摘されたものだと勘違いしたのだ。見上げた小夜子の顔にはこれまでしるくが見ることの無かった穏やかな笑みを浮かんでいた。

「私は今まで貴女に姉のように親しくして頂いてきましたけれど、もうその役は必要は無いと今はっきりと認識しました。しづちゃんという良いお友達が出来て、あなたも成長する事ができたのですね。」

 しるくはほんのりと頬を染めた。

「自分でも、そう思います。」

 小夜子は今度はにったりと猫のように笑った。彼女の普通の笑い方はこの笑顔なのだ。旧家の生まれで幼少より作法に厳しく育てられた彼女の本性は、実はとても悪戯好きのお節介焼きである。

「しづちゃん、私が代りましょう。私が思うにあなたは、・・砂糖が無いと抹茶はダメでしょ。」

「はわわわ。」

 炉の側でカラクリ人形の様にかたかたと所作の型を空手で繰り返していたしづは、小夜子の言葉に緊張の糸が切れて両の手をぱたと畳に突いた。

「・・・・・・・うゐさま、うごけません。」
「しづさん、よくがんばりました。」

 当然の事だが、長時間の正座の結果両脚が痺れていて、それでも強い緊張でそれを覚えずに必死で亭主を務めていたしづの、血流が回復した両下肢に一気に激痛が襲ってくる。振袖を着ていては七転八倒するわけにもいかず、ただその場で四つん這いになり電撃に囚われたまま硬直しているのだった。

 小夜子はふふと頬で笑うと、しづの肩にそっと手を添え押し上げた。しづの上半身が立ち上がりそのまま彫像のように硬直した。その姿のまま、畳を滑って平行移動し、きちっとしるくの左側に配置される。小夜子は家伝の骨法術の使い手でもある。人体をいじらせたら何人と言えども抵抗できない。骨折脱臼はお手の物、自ら動く気の無い必死で動くまいと亀の子になってがんばる柔道部員でさえも畳から引き剥がしてコロコロと地に舞わす事もたやすい。なにせ元は死体を生きているかの様に偽装して動かすのが売りの傀儡の術なのだから、生きている人間を意のままにするのは造作も無い。

「しづちゃん、脚を伸ばしておきなさいよ。大丈夫誰も見てないから。」

「もうしわけありません。わたし、わたし、正座をすると痺れが脳にまで届くんです。」
「しづさん、もしかしてそれは病気なんじゃありませんか。」
「病気というよりも、経絡がすこし偏って発達してるってとこでしょ。現代人には多いのよ。凝りに自分じゃ気付かないでそのままずっと放りっぱなしにして、原因不明の未病に取り憑かれるのがね。」

 さすがに小夜子は骨法術の宗家師範であって東洋医術にはとても詳しい。

「わたくし、もうだめなのですか。このまま死ぬまでこのままなんですか。」

「いや、ダメとかそういう話じゃなくて、死ぬまで正常な状態というのがわからないのをずーっと続けて本来あるべき姿に気付かないというだけで、別に健康を損なうとかじゃないのよ。偏頭痛がするとか手足が痺れるとかの症状を持っていても、90歳まで生きる事だって珍しくない。」
「ああ、理解出来ません。死ぬまで直らぬ不治の病なのですね。」
「しづさん、気をしっかりもって。それに今の説明はわたしにも分かりませんでしたよ。」
「はわわ、うゐさまにもわからぬ奇病とは。」

「芝居のかった娘ね。えい。」

 小夜子が肩口をわしづかみにしてひねると、しづは電撃を受けたように身体を反らせて跳ね上がり、袖を振り廻してうつぶせに畳に落ちた。息が止まったように思えたのでしるくが固唾を飲んで見ていると、手先がぶるぶると震えてきて、その震えが腕の先端から身体の中心にまで広がり、ついには全身が小刻みに振動して、再び手足をばたつかせ、不意に電池がきれたみたいに脱力して落ちた。それきり動かない。

「しづさん、しづさん。」
「大丈夫よ。経絡を押さえて痺れを散らしただけだから。日頃身体の硬直しがちの人は、こういう自発動が派手に起きるだけで、まったく健康な人でもちゃんと起きるごく普通の現象なのよ。」
「とてもそうは見えませんでしたが、」
「じゃあどういう仕組みで起きたっての。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ほくとしんけん。」

 お姫様のしるくも、うえんでぃずのまゆ子やらじゅえるやらに冒されて妙な言葉を覚えている。却ってテレビ・漫画に疎い小夜子の方がなんの事だか分からなかった。

「はっ。」
「しづさん、大丈夫ですか。痛いところとか気持ち悪いとかありませんか。」

「うゐさま、わたし、ここはどこです。」

「頭が痛かったり心臓がどきどきしたりしませんか。お腹痛くないですか。」

「夢をみてました。」
「ゆめ?」

「とおい、とおい国に居るのです。さむい、でも凍えるほどではなく、さみしいところでした。わたしはそこにひとりでいてバスが来るのを待っているのです。」

「だいじょうぶですか。小夜子さま、これは一体。」

「バスはなかなか来ないのです。わたしはベンチに座って本を読んでいました。とても長いお話しです。志穂美さまと直子さま(ふぁ)が鬼を退治するおはなしです。」

「ああ、しづさん、それは夢です。小夜子さま、ほんとうにしづさんは大丈夫なのですね。」
「いや、だいじょうぶだと思うんだけど、こんなおもしろいこと言う子は、大学の女子寮にも居ないわね。100人ばかり経絡をいじって療治したんだけど。」

「本を読んでいるといつのまにか後ろにおばあさまがいらっしゃいました。見たことのない人です。そのおばあさまがおっしゃるには、このバス停はもう30年も前に廃止されていつまで待ってもバスは来ないと言うのです。でもわたしは言いました。もう10分待ってみると。そうしたらおばあさまがおまわりさんを呼んできて、おまわりさんにわたしは逮捕されました。」

「かなり長い夢みたいね。」
「そのようですわ。確かにすこしおもしろいかもしれません。」

「交番にわたしは連れて行かれました。わたしは交番に入ったことがありませんのでどきどきしたのですが、おまわりさんに椅子に座れと言われて座っていますがいつまで経ってもおまわりさんが帰ってきません。声を出して呼んでみても誰も来てくれないのです。わたしは心配になってここはもしかしたら交番ではなくてひとさらいのやしきではないかと考えまして、逃げ出しました。」

「サスペンスみたいね。この娘、案外想像力に長けているんじゃない。」
「不思議な夢を見るというのは、才能なのでしょうか。わたしは病気で熱を出した時くらいしか、このような変な夢を見たこと無いのですけれど。」

「わたしは走っていました。遠くの方に立っている人のところまで走ると安心だとなぜか分かっていましたから一生懸命走りました。がんばれがんばれと励ます声がしましたので一生懸命はしりました。」
「ここらへんは、うゐさまが呼びかけた声に応じてビジョンが構成されたのかもしれないわ。」

「遠くに立っている人のところまでやっとのことでたどりつきましたら、それはまゆ子さまでした。まゆ子さまはおっしゃいました。魔球がある、と。この投げ方をマスターしますとメジャーリーグでストライクが取れるのです。でもわたしにはそのやり方が理解出来ませんでした。それで再度説明を聞こうとしますとまゆ子さまは、泣き虫は嫌いとおっしゃいますので、わたしはもう泣かないと約束しました。すると、畳の目が見えて、うゐさまの声が聞こえてわたしはお座敷で倒れているのに気がついたのです。」

「だいじょうぶみたいね。」
「そのようですわね。しづさん、痛いところはありませんか。起き上がれますか。」
「はい。」

 しづは伏せた姿勢から起き上がろうとしたが、自分が振袖を着ていたことをまったく忘れていたようで長い袖に引っ掛かってかなりの急角度でまた畳に額をぶつけた。

「しづさん・・・・。」
「だいじょうぶです。」

 今度はスムーズに起き上がり、正座をした。脚のしびれはもう治ったようだ。

「なんだか涼やかな気分です。」
「ほら。」
「なるほど、経絡を押さえるとこのような効果があるのですね。」

 三人は改めて着座し、小夜子の淹れた砂糖入り抹茶をしみじみと味わった。

 しるくはこのような茶を他で飲んだ事は無かったし、正直言って抹茶がこんなに甘いなんて、すきっと精神を引き締める茶としての機能に反するようで承服できなかったのだが、左に座っているしづがゆったりと幸せそうに啜っているのを見て、人にはそれぞれにふさわしい正しいことが有るのだと、また今日も学習させられたと思うのだ。しづはしるくの言うことならなんでも逆らわないで従うが、しるくが彼女のすべてを悟ることは出来ない。自分では良かれと思っても、しづにとっては大層な負担となる事も、実際は強いているのかもしれない。そう反省した。もっとも、その辺りを姉の先駆者である志穂美に聞いてみると、「嫌ならやられている方が勝手に逃げる」とのこと。おとなしくて従順なしづもそうなのだろうか、いやいつそう来るのだろうかと内心ではどきどきして待っているのだ。

「今度はココアいってみよう。」
「はい。」
「ちょ、お待ちください。」

 いきなり茶席がとんでもない方向にずれていくのを、考え事していたしるくは危うく見過ごすところだった。いつのまにか小夜子の脇にはココアやらコーヒーやらが一式揃えられた盆が出現している。考えてみれば、砂糖を取り出した時に同時にすべて持って来たわけだ。確信犯だ。

「小夜子様、いくらなんでもココアとかコーヒーはお茶席には合わないと思います。しづにはもう少しまともな作法を身に付けさせてからそのような特殊な応用を出来るように、」
「いや、うゐさま。しづちゃんは今日はもう神経保たないよ。さきほどの緊張から解放されて、もう普通には出来ない。」

 しるくはしづの顔を見た。恥ずかしそうにしづは袂で顔を隠す。

「お許しくださいませ。」

 おもわずため息をついてしまう。確かにしるく自身も、しづの心配で自分の心に余裕が無いという自覚が無かった。不調法をさせないようにとの気掛かりばかりで、危うくしづの心中を察する事を怠ってしまった。それに気付くとは、さすがに小夜子さまはもう大人だ。

 少し見慣れない手法で小夜子はココアを淹れた。手さばきはさすがにしるくの姉弟子であるので茶道のものを十分うまく活用しているのだが、茶筅の使い方がかなり独自の、ココア専用と言える不思議な泡立て方をする。小夜子はまずしづに茶碗を勧めた。しるくの左手に座るしづの方が小夜子からは遠いのだが、やはりしるくが変な顔で怒っていると見たのだろう。

「・・・・・よーろっぱの香りがします。」
「でしょお。向こうでおいしいココアの淹れ方を習って来たの。まあこういう風にはやらないんだけどね。」

 しるくははっとした。そう言えば臼井小夜子はこの四ヶ月フランスとドイツに留学、というよりも遊学をしてきたのだ。そのご報告のお話しをまだ窺っていなかった。迂闊、と内心で唇を噛む。

「小夜子さま、御留学のおはなしをまだうかがっていませんでしたわ。」

「ふん。そうなのよ。まだ話してなかったよね。とはいえ、ねえ。四ヶ月でなにかあるとか変わるとかも無し。最近では日本人も向こうに多いし、日本料理店も日本食の素材もさほど苦労せずに見つけられるから苦労と呼べるほどの苦労は無かったのよ。知り合いのツテを頼っての滞在だったしね。」
「そう、なんですか。」
「いや、あれなのよね。今は向こうで勉強するというのも普通でしょ、ただ行って帰って来たくらいじゃあ身にならないって誰でも知ってるし。行って意味が有るとしたらせめて修士号くらいはとって帰らないと箔も付かないじゃない。むしろ、向こうの人が私を勉強した、というのが正しいな。」

 遠慮がちにしづが聞いた。

「向こうのひとは大きいのでしょうか。」
「小さい人もちゃんと居るわよ。わたしのー、背丈でもさほど低いという感じはなかったわね。」

 小夜子は身長159cmでしるくの164cmよりも小さい。ちなみにしづは155cmでまだ伸びているので最終的にはしるくくらいにはなるだろうと予想されている。意外だが、ゲリラ的美少女野球団ぴんくぺりかんずで二番目に大きいのだ。
 ついでにしるくも尋ねてみた。

「小夜子さま、向こうでは何をお勉強されたのです。たしか史学科ですよね、日本史の。向こうの大学とかには行かれましたか。」

「行くには行ったけどねー、研究室付属の博物館とか図書館で日本関係の古文書とかに目を通して来ましたよ。でもね、むしろ私が生きた標本みたいなもので、なにしろ古い家系の宮司とか巫女なんて人間が目の前に居たら、そりゃあ色々いじってみたくなると思わない。」
「わたくしも行くとそうなりますか。」
「なるでしょうねえ、大名のお姫様なんだもん。しかし、それ以上に私は酷い目にあったのよ。その古文書ね、向こうの人も最近は読めるのよ、ちゃんと漢字も勉強して筆文字も読める。でも声に出して読むとなにか違うらしいのね。声調が日本人と違うと考え方もよくわからない、という感じがするみたい。で、日本から祝詞を読める人間がやって来たということで、さんざんぱら読まされて喉痛くなっちゃった。」

「それは災難でしたわ。」
「で、その評判がいつの間にか世間様に広がっちゃって、そこここの日本人家庭でお経を読んでくれとかお祓いをしてくれとか、地鎮祭のまねごとまでやらされて地元新聞にまで載ったりしたわ。」
「すごい・・。」
「結婚式にも引っ張り出されたし、巫女装束をどこから調達したのか分からないけれど着せられて撮影会とか、はなはだしいのは誰かの庭に鳥居建ててお稲荷さん作ってるところまで案内されて、キツネが出るから超能力で退治してくれとか。おいなりさんならそりゃ狐くらい出るわよ。」

 

「・・・遊ばれてます。」

 端でココアを啜り続けていたしづがぼそりと言った。まさにしるくも小夜子もそう思っていたところだったので、うんうんとただ首肯くばかり。

「でもまあ、それでいいんじゃないかなあと思うのよね。留学って言っても一方的に向こうのものを日本に持って帰るという時代はもう終わったわよ。これからは、向こうのものをこちらに、こちらのものも正しく向こうに伝えなくちゃね。日本のものを正しく持って行けるだけの伝統的に正統な教養を身に着けた若い人が居ないから、わたしなんかもう定めだと思って頑張っちゃったわ。」

 しるくは日頃から自分でも心で暖めていた問いに解答をずばりと教えられたような気がした。まさに我が意を得たりという感じだ。さすがに姉とも仰ぐ臼井小夜子様だと、更に尊敬の念を深くした。なぜならば、彼女の言っていることは、自分がもうすぐ出さねばならない決断そのものなのだから。

「小夜子様。わたしは、今のお話しを聞いて、やはり留学は取りやめると父に話したいと思いました。」
「うん。」

 いきなりの留学の話に何も知らないしづは顔を上げ、しるくと小夜子の顔をかわるがわる見つめた。優しくおだやかにしるくが教えた。

「高校を卒業したら、ね。私はヨーロッパの方で大学に行くという話があったのよ。」
「そんな。ではわたくしはどうすれば。」
「安心して。行かないわ。行かない。

 小夜子さま。私は今は留学をするべきではないと思います。行きたくないわけではありませんが、しかしどうせ行くならばもっと日本の事を、日本の大事なものを正しく外国の方に教えられる、それだけの裏付けを持ってから参りたいと考えます。ですから、今は国内で勉学に励みたい。」

「うん。」
「うゐさま。」

 しづは安堵の表情で、小夜子は先程から変わらぬ微笑のままで、しるくの決意に応えた。しるく自身もやっと自らの進路を決断し得たという安心感を抱き、すこし自分が興奮しているのではないか、と自らを省みて改めて姿勢を正し直した。

「小夜子様、今度はお茶を頂きたいのですが。」
「はい。」

 再び小夜子は炉に向かい、完璧なまでの裏千家の作法に則って茶を点てた。その所作の端々にしづも目を見張るほどの静かな美しさを撒き散らし、外国の人もこれでは彼女を放すわけがないと納得させられた。
 しるくは作法どうりに頭を下げて茶を頂いた。今度は十分に苦く、甘く、軽く、心を解きほぐし、背筋を延ばすしるくを元気付けてくれるものだった。

「結構なお点前で。」

「    。」 

 心の底からの感謝を込めて礼をする。小夜子も快く受け取ってくれた。つられてしづまでがお辞儀をしたほどに、深く強い絆が二人の間にはある。それは時を経ても変わることなく、生涯二人を支え続けてくれる予感を漂わせている。しづにはまだよく分からない。しかし、なんとなしに嫉妬を覚えるほどの羨ましい関係に自分も加わりたいと願うのだ。

「では、わたくしの留学も、無駄になりますね。」

「え?」
「いえ、実は私が行ったのも、うゐ様の受け入れがうまく行くかリサーチして来たようなものだったから。」
「え、あら。あら。」
「あはは。無為に過ごしたわけじゃないし、徒労に終わったわけでもないわよ。わたしはわたしで、これは十分に楽しませてもらったからね。やっぱり観光旅行は二ヶ月三ヶ月思いっきり時間を掛けなくちゃ。ね、しづちゃん。」

「は、はい。飴は溶けるまで甘いのです。」

 なかなか含蓄に富んだその返事に、二人はちょっと目を見張った。

「お、やるね。」
「いいでしょ。」
「うん。」

 

END

2004/06/21

 

 

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