げばると処女

最終巻
エピソード7 終り良ければ統べてよし、蒲生弥生ちゃんの大審判

後篇

 

 

 

【シュメ・サンパクレ・ア】

 ガンガランガの南に有るシュメ・サンパクレ・アの館に、不意に貴人が訪れた。
 10名ほどの供回りはすべて見慣れぬ甲冑を毛織りの外套に包み正体を隠している。クワアット兵でも交易警備隊でもない、金雷蜒軍上級剣令の装備に近い。

 紅曙蛸女王時代からの名門であるサンパクレ家の家人は、この程度ではたじろがない。
 武力に頼らず政略や策謀によって勢力を保って来たからには、思いも掛けぬ人物が予約も無しに訪ねる。まま有る事だ。
 だが今日は嬉しい驚きをもって客人を迎えた。

「シュメ!」
「ま、まあ。士団長さま、どうして。」

 シュメの秘密の夫にして息子カマンティバゥールの父、カンヴィタル鮮パァヴァトンその人だ。
 常ならばカプタニア山中にて褐甲角(クワアット)神の地上の化身を守る神衛士の長を務め、下界に降りるなど滅多に無い。
 シュメとの逢瀬も、所用にて近くに立ち寄ったとしても彼女が忍んで行く。

 姿を偽るとはいえ白昼堂々と立ち寄るなど、何事が起きたのか。

「心配は要らない。れっきとした任務で下った帰りだ。カプタンギジェ関にまで行って来た。」
「まあそのような遠くにまでお出でになられるとは、よほどの御用でございますね。」
「仔細は喋るわけにはいかぬが、道中様々なものを見ることが出来た。青晶蜥神救世主降臨の影響は凄まじいな。」
「ではガモウヤヨイチャン様のお蔭で、今日は私の元にお立ち寄りくだされましたか。」
「様々だな。色々な意味で。」

 改めてシュメは夫の胸にすがりつく。これは夢では無いだろうか、陽の光の下で愛しい人と抱き合えるなど。
 老女がカマンティバゥールの手を引いて現れる。6歳となった子は、見慣れぬ男性の姿にひるんで凍りついている。
 シュメは優しく警戒を解きほぐした。

「カマンテ、この方はお父上ですよ。誰に恥じることも無い、此の世で最も尊い血筋の御方です。さあお出でなさい。」

 生まれてこの方まで3度だけ、鮮パァヴァトンは彼を抱いた。身体が弱かったカマンティバゥールは数日とはいえ遠出は難しく、母と同行するのは希だった。
 だが今はすっかり元気になって屋敷の庭を走り回っている。
 手紙では聞かされていたが無事男の子らしく成長した我が子に、父も大きく腕を開いて迎え入れる。

「カマンティバゥール、来なさい。」

 老女に促され、ととっと走った男児は父の足元で立ち止まり、高い顔を見上げる。
 精進潔斎の食で乳白色となる髪の中に、黄金に輝くカブトムシを見付けて声を上げる。

「むしだー。」
「そうだ。お前も受継ぐカブトムシだよ。」

 鮮パァヴァトンは跪き、我が子を甲冑の腕に抱え立ち上がる。腕の中で抱き直し、聖蟲と対面させる。

「かぶとむし、クワアットだ。」
「そう、尊い褐甲角神が化身の聖蟲だ。最も強く、最も意志の堅固な神の使いだ。」
「ちょうだい。」
「うむ。いずれそなたの額にも座を設けることとなろう。」

 夫の言葉にシュメは息を呑んだ。
 それはカマンティバゥールがカンヴィタル王族として迎えられる事を意味する。存在すらも秘さねばならぬ我が子を、公に明らかにするとの決意だ。
 出来るはずがない。鮮パァヴァトンは厳格な掟によって縛られるカプタニア神衛士団長であり、職を辞したとしても一生聖なる山を降りては来ない。

 驚いた表情があまりにおかしかったのだろう、父と息子は揃って顔を並べてシュメを見て笑う。
 夫は明るく種明かしをする。

「ガモウヤヨイチャン様のお蔭なのだ、シュメよ。私は士団長の任を解かれ、下界に降りて新たに属王家を立てる。メグリアル王と同様に、地上において王国の代理を務めるのだ。」
「では奥方様も共に?」
「いや。あの者は神聖神殿より出る気が無いからな。地上で私を支える者が必要だ。」

 信じられない。このような幸運が世に有り得るのだろうか。
 カンヴィタル鮮パァヴァトンにはれっきとした正妻が有る。金翅幹元老員の息女で敬虔な褐甲角神の信徒、巫女でもある。
 彼女が居る限りはシュメは日陰の存在でしかなかった。

 またいかに王族の血を引くとはいえ、側妾から産まれた子が聖蟲を戴くのは難しい。
 褐甲角(クワアット)神は結婚を司る神でもある。その辺りの戒律は厳しく、王族であればこそ例外は認められない。
 鮮パァヴァトンには他に子が無いとはいえ、掟に外れたカマンティバゥールの聖戴は絶望的であった。
 だが。

「我等母子を、新しい宮廷にお迎えくださいますか。」
「もちろんだ。今日はその為に来たのだ。」

 想像だに、無想だにしなかった展開にシュメは混乱する。いかなる神の気まぐれで、このような運命が巡り来るのか。
 老女が近付き、鮮パァヴァトンから男児を受け取った。改めて彼はシュメを抱く。
 戸惑う妻の耳元で、囁いた。

「これまで苦労を掛けたな。もう心配無い。カマンティバゥール共々、幸せにしてやれる。」
「望みもしませんでした。ただ、ただ繋がりがあるだけで、私はそれだけで、」
「それでは困る。これからは王の妃として威厳を示してもらわねばな。」

 変だ。シュメは思う。
 彼女が知る鮮パァヴァトンはこのような軽い甘い言葉を用いる人ではない。思慮深く、すべてにおいて抑制の利いた慎重な性格だったはずだ。

 確かに彼は歴代の神衛士団長と比して活動的だ。下界の事情にも関心を持ち、積極的に関わろうとする。
 王国の政治にも外交軍事にも深い理解があり、次の武徳王と目されていたことすら有る。
 もしも神衛士団長という立場が無ければ、普段からこのように喋っていたのかもしれない。彼本来の姿なのだろう。
 にしても、

「そうだ、新しい王家には新しい名が必要だ。陛下より賜るものではあるが、あらかじめ候補を申請しておくことも許される。
 サンパクレ王家と名乗ってもよいな。」

 舞上がっているのだ。望外の幸運に浮き立っているのは、彼も同じだった。

 

 その日の予定はすべて取り止めて、サンパクレ家では祝宴が開かれた。

 鮮パァヴァトンは任務について語らぬが、なにやらとても大切なモノを探しに出たらしい。
 ギジェ関の更に先、東金雷蜒王国の北方に有るネズミ神の森で発見したとの報告を、密偵より受ける。
 彼は少数で東金雷蜒領に潜入し、自ら確かめて来たようだ。
 
「シュメよ、方台はこれから大いに変わる。もはや留めようが無い。敵領内に乗り込んで、よく分かった。」
「しかしギィール神族の支配が揺るいだという話はどこからも聞きませんが、それでも変りますか。」
「うん変わる。神族自身が変わるのを欲している。方台の支配権を投げ棄ててでも、新たなる世界を求めているのだ。
 長い支配に彼等自身がもはや厭いたのだろう。私が遭遇した神族は皆、ガモウヤヨイチャンがもたらしたこの好機に乗ろうとしている。」

 シュメが傾ける酒瓶に盃を差し出しながらも、饒舌だ。
 彼の念願は下界に降りて多くの賢人や、可能であればギィール神族と交わって世界の真実を解き明かす事であったから、興奮も当然であろう。
 その欲求こそが行動となり、シュメと巡り合ったのだ。
 時に浮かれて軽薄と誹っては、罰が当る。

 彼と共に敵領内に潜ったのは、聖蟲を持つ神衛士はただの1人。残りは黒甲枝より募った武術の達人だ。
 鮮パァヴァトンは神衛士とは別に「神衛密士」を組織した。聖蟲を持たない一般人の密偵だ。
 これを必要としたのは、実にシュメの責任である。
 彼女がし出かした或る事件が再発しない為に、神衛士を補佐して下界を探る密偵が要求された。鮮パァヴァトンに直接従う。

 危険な、二人のなれそめだ。

 

 今から10年前。家督を相続したばかりのシュメは荒れていた、稚かった。
 紅曙蛸王国時代よりの名門にして方台でも指折りの富豪ではあっても、届かぬものは幾らでも有る。
 金雷蜒神聖王に服従して以来、サンパクレ家は家名と富を守ることばかりを追求し、一度も表舞台を目指していない。

 他の小王の家系は次々に潰れて行く中、2千年を保ち堪えた先祖の叡智には敬服すべきであろう。が、若き当主にはまったく物足りない。
 このまま更に千年2千年を、ひたすらに頭を下げ続けて生きて行くのか。
 己が滅びるのも省みず世界に乗り出すのが、人として在るべき姿ではないか。

 そう考えた当主はシュメばかりではない。サンパクレ家に生まれた何人もが同様に考え、行動した。
 結果は無惨なものだ。
 世間が受入れなかったのではない、失敗して滅びたのでもない。
 サンパクレ家に仕える召し使い共が許さない。彼等にとっては安定と富の確保こそが至上にして絶対の命題。
 家を護る為ならば主人であろうとも亡き者とし、新たな、彼等の望みどおりの当主を選び出す。

 女人の身でありながらシュメが相続したのもそういう経緯からだ。
 家令侍人は、家の存続に関わらない限りにおいてはあくまでも従順だ。死ねと命じられれば笑顔のままに短剣を己が喉に突き立てる。
 それでも彼等の目はあくまでも家に向き、シュメを直接には見ていない。
 主人とはあくまでも家を存続させる為の装置に過ぎず、代わりは幾らでも有る。そう語るかにシュメには思えた。

 ただし、彼等にも触れられぬ領域がサンパクレ家の当主には与えられる。
 人食い教団、いや『火焔教』の理事の椅子だ。

 火焔教は紅曙蛸王国時代後期において小王に仕え、人肉を食する儀式によって人を従えた。方台最初の宗教とも呼べる。
 小王は火焔教の司祭達よりも上位の存在にして、儀式は小王の権威を高める為に有る。
 この関係は2千年の長きを経ても未だ変わらず、火焔教が『貪婪』を名乗る今の世でもサンパクレ家には特別な権威を認めた。
 またサンパクレ家は教団の表の顔の一つとして便宜を図り、経済面で支え続ける。
 家の召し使いが主人に従わぬのも、人食い教団の裏付けがあるからだ。人こそ食わぬが先祖代々の信心だ。

 シュメは自らの身を護りつつも、召し使いどもを完全に従える術を模索する。肉親を家の為に排された復讐の意もあった。
 有り余る富を用いて『貪婪』に貢献し、より高い地位に昇り詰める。
 方台を裏から支配する人食い教団の最高位「天寵司祭」の更に上に立つ。
 それには方台最大の禁忌である「聖蟲」の謎に挑まねばならない。

 「聖蟲」とは何であるか、正体は? ギィール神族も黒甲枝も知ってはいない。

 小さな虫の身体にそんな大きな力が宿るはずが無いのは、自明の理。究理神官は天河からの力が通り抜ける道標と考えるが、確証は持っていない。
 そもそもが生きた聖蟲は神族神兵の頭上に有り、調べるなど誰にも許されぬ。自らの額に戴く者はなおの事、禁忌に挑もうと考えない。
 下手に弄って聖蟲の機嫌を損なえば、どこかに飛んで行ってしまう。無か全てかの余りにも分の悪い大き過ぎる賭けだ。
 また聖蟲自身の作用によって、聖戴者はそんなことを考えないようになっているらしい。

 人食い教団ならば禁忌を怖れない。世界の実相を解き明かす智慧の総体こそが教団の本性であるから、機会が有るなら聖蟲にも挑む。
 もしも研究可能な単独の聖蟲を手に入れ教団の総力を挙げて解明すれば、金雷蜒褐甲角の両王国をも凌ぐ事も可能となろう。
 人類の頂点に立つ、とさえ言える。

 今にして思えば、何故そんな大それたことを考えてしまったのかシュメ自身にも分からない。ひょっとすると自分の考えではないのかもしれない。
 だが荒れる心に分別は必要無い。
 道は示された。ただひたすらに突き進むだけだ。

 

 その頃、カンヴィタル鮮パァヴァトンは20歳。神衛士団長に就任したばかりであった。

 カプタニア山脈の奥地にあっても、迫り来る千年紀の終りには眼を閉ざせない。
 次なる救世主の到来に心は騒ぎ、未だ成し遂げられぬカンヴィタル・イムレイルの誓約の実現に焦りを見せる。
 聖蟲を捨て王族の身分を捨て、ただ一人の兵士となって聖戦に挑もうとさえ考える。

 彼は知識を欲した。尋常の学問ばかりでなく、あらゆる側面から世界の実相を識る者を求めた。
 提供したのはスガッタ僧だ。
 彼等は例外的にカプタニア山脈の限られた霊域に入ることが出来る。褐甲角王国が建つ前からの聖地であるから、拒む訳にはいかない。

 スガッタ僧は独自の学問の体系を有す。彼等の哲学は極めて明快にして確たる基盤の上に立っていた。
 思考と肉体は不可分にして、肉体の強化無くして知識の理解は有り得ない。脳髄は肉体の婢に過ぎず、全身の剛健さを持って初めて十全に機能する。
 故に肉体こそが叡智の宝庫であり、世界を読み解く者には常人を越える肉体の獲得が不可欠と見極めた。

 スガッタ教も元は火焔教の分派だ。二つの違いは、人肉を生で喰うか、火で調理して喰うかでしかない。
 火焔教は焔を盛大に用いて儀式を精密壮大に組み上げる。ありとあらゆる調理法と薬味を研究し、知識の体系を編んだ。地球においては錬金術が果たした役割を、人肉調理で成し遂げる。
 一方スガッタ教は人体を細部まで分解し働きを知り、ついでこんなものを食べたところで自分の能力は拡大しないと理解する。
 死に迫る荒行で肉体を鍛錬し、中途で斃れた同輩を分解して成果を確かめた。特に筋肉と骨の関係に留意して、遂には物理学に辿りつく倒錯を見る。

 鮮パァヴァトンは聖地を訪れるスガッタ僧と接触し、高僧を招く事に成功する。
 当時まだ存命であったラゴロク師の一行を密かにカプタニア山脈に通し、単身出向いて教えを乞うた。
 さすが千人の弟子を持つ師は鮮パァヴァトンの眼を様々な切り口で拓き、方台の現状を明かして見せた。
 なにより勉強になったのが、肉体の状態によって目に映るものが変わり理解も思考も転変する、人間の曖昧さの認識だ。

 聖蟲を戴く者は、与えられる超能力と自らの肉体の限界との齟齬で精神的に不安定に成り易い。
 また王族や金翅幹元老員は戦闘に臨む場が無いので、どうしても己が身に宿る力の真の意味を理解出来ない。
 若い彼は肉体の制御と強化の呼吸法を伝授されたが故に、次代の武徳王へと推されるまでに成長し得たのだろう。

 

 シュメ・サンパクレ・アの付け入る隙もここから生まれた。

 カプタニアの聖地には古くから人が住んでいる。山奥に籠って下界とは交渉を持たない「賎の醜夫」や「杣女」と呼ばれる者達だ。
 彼等はネズミ神官の時代から山に棲むと伝えられる。あるいは罪を犯した者が逃げ込んだとも聞く。
 スガッタ僧の中にも出身者は居るし、聖地で修行をする際には食を乞うなど協力関係に有る。

 シュメの手の者は彼等に目をつけた。金銭は意味を為さないが、鉄の道具や美麗な衣は大いに彼等の気を惹いた。
 また巧みに人を使ってラゴロク師をカプタニア城近辺の聖地に誘導し、多数の人を神聖宮近くに入れて警戒を揺さぶる。いかに神衛士が感覚に優れていようと、不審者だらけであれば十分に働けない。
 「賎の醜夫」は山で活動する優れた運動能力を持ち、幾日も獲物に感付かれない隠伏の術を良くする。下界に降りる時は変装も用いる。
 首尾良く聖廟に忍び込み、聖蟲の幼虫の遺骸を納めた金銅の壷を1個持ち出した。
 その年の分で中身はほとんど空だった為に、扱いに慎重が欠けて居たのだろう。

 神衛士が気付いた時には聖骸は既に山を降り下界に、シュメの手の中に有った。
 鮮パァヴァトンは激しく後悔し、自らの命を断って謝罪しようとする。だが押し止めたのはラゴロク師だ。
 彼は叡智の働きで下手人を直ちに割り出し、背後に人食い教団が絡んでいると看破する。
 そして最高の交渉人を選び出し、聖骸探索に当らせた。
 ラゴロク師の若かりし頃に共に学び修行をし、後にスガッタ教団から離脱した歴史上唯一人の「スガッタアレス(女修行者)」。
 今では「白の母」と呼ばれる黒髪の背の高い人だ。

 たちどころに聖骸の在り処は判明し、鮮パァヴァトンはラゴロク師「白の母」と共に奪還に赴く。
 若い二人はこうして出会った。

 褐甲角神の聖蟲を持つ者に常人が束になっても敵わない。シュメ自らも短剣を振るって抵抗するが、手もなく地に叩き伏せられてしまう。
 聖骸を納めた壷は無事鮮パァヴァトンの手に戻るが、しかし「白の母」はこう説いた。

「壷の中身を霊廟に戻せば、いずれは土に還り何をも産み出さぬ。
 だがギジシップ島の神族学者が調べれば、天河の神の毛一筋ほどは識れよう。」

 ラゴロク師は女を止めた。また女もそれ以上を勧めない。
 鮮パァヴァトンの頭上に座すカブトムシは悪を許さぬ。自らに邪な心を認める者の額に留まろうとはしない。
 彼は迷わず壷を霊廟に戻す、はずだった。

 声を聞いた。これまで耳にした事の無い、深く頭蓋に染み徹る声だ。
『賽を投げよ。戯盤の駒を進め、我が元へ到れ』
 誰も聞かない。鮮パァヴァトンにのみ授けられた啓示だ。神か魔か、あるいは聖蟲の声か。
 ラゴロク師に尋ねても冷たく突き放される。啓示を受けた者のみが選択の権利を有する。

 彼は師の教えに従う。常識を越える不思議の事態の解決には、尋常ではない肉体を必要とする。
 聖蟲を戴く彼にはそれが許された。
 神のカブトムシの手を借りて全身に奇蹟の力を漲らせ、一気に精神を天上の高みに押し上げ超人の目で物事を見定める。

 映ったものは、足元に横たわり半身を起こして自分を見上げるシュメの姿だ。
 若い肢体を薄い黒の革衣に包み、流れる腰の曲線は湖に跳ねる魚を思わせた。甘く柔らかく整った面に不似合いなぎらつく瞳は、我が身を呪い焼き尽くす焦燥の焔を噴き上げる。
 この少女の求める所が、まさに自分が探す真理の在り処。甘美と憤怒が決して溶けずに入り交じる矛盾こそが正解だ。

 鮮パァヴァトンは六木を振る。運命の遊戯に身を投じた。

 

 その後、度々忍んで下界に降りる彼をシュメが案内し便宜を図る。有り余る富を用いて彼の要望を叶えて見せた。

 「白の母」は『貪婪』の最高幹部の一人でもあり、彼女の勧めで鮮パァヴァトンを絡め取り手駒とするはずだった。
 だが何度も逢瀬を重ねる度に、惹かれ合う。光と闇とを共に抱えて生きる互いを鏡を覗き込むかに見詰め、近付いて行く。
 朝露が落ちるように二人は結ばれ、全てを許す間柄となった。

 やがてカマンティバゥールを授かり、シュメはようやくに自らの落ち着く場所を手に入れた。
 サンパクレの家を潰しても、息子には褐甲角王国の庇護が有る。父の力が一族の理不尽な運命から解き放ってくれる。
 だが思うのだ。

 今の自分は十分な幸福の内に居る。これ以上を望むのは罪ではないか。
 過ぎたる幸運は、後に破滅をもたらさないか。天秤の反対側には何が乗っているのだろう。

 いつになく笑い盃を傾ける夫の姿に、シュメは心に誓う。
 護らねば。富を費やし家を燃やしても、せめてこの人とカマンテだけは運命の残酷な顎から救い出さねば。
 その為には人が要る。
 人食い教団の息の掛かっていない信頼できる忠臣と、時代の激動の中でも揺るぎを見せぬ賢人と。
 王にふさわしい宮廷を整えねば。

注) 十二神方台系の賽子は六角柱で「六木」と呼ばれる。鉛筆占いと同じ。

 

【聖弥生ちゃん学園】

 とまあそんなわけで、シュメ・サンパクレ・アは方台で最高の果報者となった。
 だが夫 鮮パァヴァトンの航路はさほど順調とはいかない。

 彼は望んだままに属王となり「チューラウ神衛士」を与えられ、カプタニア神聖神殿の名代として外交交渉に臨む。
 王号は「パクトレアル」。サンパクレは本来花の名であるが、その近縁種を冠している。まずは希望通りと言えよう。

 問題は、褐甲角王国唯一の属王となってしまった事にある。
 弥生ちゃんの帰還とそれに続く新秩序構築によって、十二神方台系は政治的に大きな変革を遂げた。
 最大の変化は、方台分割統治の是認である。

 これまでは金雷蜒褐甲角両王国とも神によって使命を与えられた唯一正当なる地上の支配者と自らを任じ、方台全土の統一を目指して戦った。
 弥生ちゃんは方台統一の大義名分をさらりと斥け、適度の大きさに分割された連邦国家として、方台を戦乱から救い出す。
 新秩序に基づいて褐甲角王国は3つに分かたれた。
 カンヴィタル武徳王国、ソグヴィタル王国、メグリアル王国。後に南海グテ地を領有する黒甲枝諸侯国も成立した。

 よってソグヴィタル、メグリアル王家は属王家としての身分から単独で立つれっきとした王へと昇格する。
 残されたのが、カンヴィタル改めパクトレアル王 鮮パァヴァトン。領地も持たず、カンヴィタル武徳王に従う唯一人の属王である。

 こんなはずではとほぞを噛むが、側妃となったシュメは満足だった。
 無制限の権力の頂点に立てば、いかに賢明なる鮮パァヴァトンでも道を踏み外し破滅へと転がり落ちかねない。
 幸運もほどほどが良く、更なる高みを望むならば子孫の代に托し、当代は礎となるべきだ。
 さすがに2千年の長きに渡り神族神兵と渡り合って来た名門の生まれ。時間は彼女に味方する。

 一年余りはほんとうに何事も無く幸福の夢に酔い痴れた。
 しかし、やはりそれはやって来る。

 

「奥方様、王子が! カマンティバゥール様がお熱を、」
「なんと、今朝までは何事も無かったではありませんか!?」

 パクトレアル宮殿を造営するには国家財政に余裕が無い。なにせ西の百島湾では褐甲角王国海軍が主体となって西金雷蜒王国と戦争中だ。
 致し方なくサンパクレ家の邸宅をそのまま宮殿と改称して用いている。
 防衛設備も整った城と呼んでも差し支えない建物だ、何の不足も無い。
 シュメとカマンティバゥールは生まれた家で夫が父が草原に出掛けて行くのを見送る。

 パクトレアル王は、カプタニア神聖神殿からの内意を伝える形で方台新秩序に関与する。
 カンヴィタル武徳王はこれまでと違い直接に国政に関わる為に、神聖秩序と必ずしもそぐわない政策を取るようになった。対して彼は、あくまでも褐甲角神とカンヴィタル・イムレイルの大願に従って掣肘する。
 当然カンヴィタル、ソグヴィタル、メグリアル三王国の実務を預かる宰相達とは対立する。

 なかなかに忙しい。
 弥生ちゃんは実のところ政治的にはあまり発言をしないし法律を作らない。そんなことは方台に生まれた人間の仕事だと突き放して見守る。
 逆に、神聖秩序に関しては積極的に動いている。

 青晶蜥神救世主、名を贈られて「星浄王」はあくまでも天河の計画の象徴・権威として君臨す。いわば国際政治の舞台装置として機能する。
 より良い装置となるべき様々な仕掛けが必要で、組み立てるのに奮闘しているわけだ。
 なにせ自分が去った後千年も使われるのだから、最初の設計が肝要。
 さりとて押しつけがましいと感じられては元も子も無い。あくまでも方台の人間が自主的に新秩序に参画し維持している、と錯覚させる罠を施さねばならぬ。
 のこのこと出しゃばって来る奴は、これ幸いとこき使う。

 パクトレアル王も大繁忙となる道理だ。

 

 王宮の留守を任されるシュメは妃としての務めを滞り無く進めている。
 我が家を王宮と化して以来、褐甲角王国の官吏や女官、神兵やクワアット兵が多数配置され、旧来のサンパクレ家の家人を抑え付けるまでになった。
 彼等が頼るのはシュメ以外になく、積年の恨みも幾分か解消出来て胸の空く思いだ。

 カマンティバゥールには6歳となった頃より武術の稽古を始めさせた。無論男の、黒甲枝の教師を付ける。
 近侍にも少年を多数配し、男らしく雄々しく育つよう心掛ける。
 なにせ今や王太子と呼ばれる、パクトレアル王家唯一の後継者だ。日陰の身では無くなった。

 毎日庭園で棒きれを振り回し元気よく走り回る我が子の姿に、シュメは至福の極みを味わっている。
 やはりガモウヤヨイチャンより頂いたピルマルレレコ神のお護りが良いのだろう。時折熱など出すが、小さな護符から発せられる青い光に翌日にはけろりと癒っている。
 青晶蜥(チューラウ)神の御加護の御礼にシュメは幾度もトカゲ神殿に寄進し、周辺住民への医療の施しを広く篤く行った。

 それでも元が病弱な子ゆえに細心の注意を払っていたのだが、

「護符は? 護符の光は発せられていないのですか。」
「それが護符からはとめどなく光が、ですが、」

 庭園より寝室に運ばれたと聞き、シュメは侍女達の先頭を切って部屋に駈け入った。
 部屋全体を染め上げる真っ青な光に目を伏せる。

「この光は、」
「護符からは先程よりこれまでに無い強さで光が溢れております。ですが王子の容態は芳しくなく、」
「医師は、トカゲ神官を呼びなさい。」
「既に使いの者を走らせております。」

 寝台に横たわり苦しげに息をする幼子の胸に、親指角ほどの小さな七宝の護符がある。
 ウラタンギジトの名の有る職人が弥生ちゃんの命により拵えた。青い頭に金の角を持つピルマルレレコの顔が精緻に描かれた見事な工芸品だ。
 発する青い光が水と紛うほどに部屋に溢れ、溺れんとさえ感じられる。
 ウラタンギジトに使いしてこれを手に入れたカタツムリ巫女は言っていた。
 「護符はガモウヤヨイチャンさまの聖蟲と直結し、天河の力を直接に分け与えられます。カマンティバゥール様は常に青晶蜥神に見守られておいでです」

「だのに、何故?」

 おっとり刀で飛び込んで来た老トカゲ神官は名医の誉が高い。カマンティバゥールが生まれてすぐに病弱の身を案じ遠方より引き抜いて来た。
 彼は部屋の状況に驚き、患者を見るよりも前にシュメに言う。

「これは、私の手に余る事態やもしれませぬ。おそらくはガモウヤヨイチャン様御本人でないと、」
「よいから早く診よ。」

 老神官は王子の枕元に侍る女官らを退け、額を触り脈を取り胸を叩き、角で作られた聴音器を当てて確かめる。
 体内の音を聞き異常を確かめるのは、弥生ちゃんより伝授された最新の診察法だ。
 青い光に照らされる神官の横顔は、硬い。

「体内にて異常が起こっているのは分かりますが、私には手の施しようがございません。」
「護符は、神の光では効かぬのですか?!」
「外傷には著しい効果が有り慢性病にも素晴らしい治癒を見せるのですが、体内深くの異常ではやはりガモウヤヨイチャン様がお使いになられるハリセンに優るものはございません。」
「まことか? 光が効かなくなったのではないか?」

 シュメが取り乱して騒ぐので、老神官は自らの左掌に小刀で浅く傷を付けた。光にかざすと、見る間に傷が閉じて行く。

「護符は正常に機能してございます。」
「では、ではガモウヤヨイチャン様を此の地にお招きすれば、王子を癒していただけるのか。」
「……残念ながら、ガモウヤヨイチャン様の御身は方台民衆すべてが求めるものにして、いかに王子の御為とはいえ御運び頂くのは難しいかと。」
「どうすればよい。」
「こちらから赴くのが最善かと。」

 だが重篤の少年を長旅に引き出して無事で済む道理が無い。
 迷うシュメに、老神官は妥協案を示した。弥生ちゃんより神剣を預かったトカゲ巫女であれば、また他の手立ても考えつくかもしれない。
 彼女達は弥生ちゃんの名代として日頃神剣を用い人を癒しているから、青い光の使い方に自分よりは通じているだろう。

 シュメは納得はしなかったが、他の手立てを考えつかない。いや、万難を排し蔵を空にしても弥生ちゃんの行幸を仰ぐべきだが、それにはやはり日数が掛る。
 人をデュータム点に遣わして交渉をさせながらも、巫女の往診を依頼するしかなかった。

 容態は一進一退、時折は口を利けるまでに良くなるがすぐまた熱がぶり返して意識不明となる。
 心配の内に4日が過ぎ、神剣の巫女がやって来た。
 これでも無理を押しての強行軍だ。弥生ちゃんの名代はやはり人に癒しを求められ一日たりとも休みは無いのを、カネの力でねじ伏せた。

 巫女はさすがに光の効果に熟達する。神剣に宿る艶を判じて病人の容態を知る術も身に着けていた。
 祈るシュメに、絶望的な言葉が返って来る。

「護符が保ちません。数日中に青い光の奔流に耐え切れず、護符が崩壊するでしょう。」
「それでは、王子は、」
「光が途絶えては手の施しようもありません。無論神剣で補いますが、四六時中守るなどは到底叶いません。」
「手立ては、王子を救う手立てはほんとうにないのかえ。」

「されど護符が有る限りは王子様の身は安泰です。もしも崩壊するまでにガモウヤヨイチャンさまの御前に辿りつければ、あるいは。」
「長旅にカマンテは耐えられると言うのだな。間違いは無いか。」
「私も付き添って走りましょう。おそらくは、今すぐに立てば間に合うかと。」

 瞬時も迷わなかった。
 シュメは直ちに人を集め輿を設える。街道沿いに使いを出して、パクトレアル王太子の道中を全力で支援すべしと命令を発した。
 12人の壮丁が担ぐ王族専用の輿だ。担ぎ手は宿場ごとに取り替えて全力で走る。
 それでもデュータム点救世主神殿まで8日を要する。

「急げ。一刻も早く、ガモウヤヨイチャンさまの御許へ。」

 前後をクワアット兵に護られ、百名余りの壮丁を代えとして従えて、輿は走る。
 道中にわかに暗雲が天に立ち篭め、やがて風雨となって輿に降り掛かる。
 道がぬかるみ足を取られ、強健な壮丁といえども疲労困憊し半刻(1時間ほど)も保たずに交代を余儀なくされた。

 幸いにしてスプリタ街道はよく整備されている幹線道であり、褐甲角軍の伝令署が10里(キロ)ごとに設置される。
 王族の急ということで最大の支援が得られるが、それでも輿の母子には遅々として進まぬと感じられる。

 また夜は走れない。いかに大人数で松明を掲げて足元を照らすとしても、一日輿に揺られた王子の疲労は著しく休息を必要とする。
 やはり輿にて付き従うトカゲ神官と神剣の巫女が夜通し看病して、明日の疾走に耐えられる体力を回復させる。
 もちろんシュメも心労から激しい眠りに襲われるが、必死に堪えて我が子を見守った。

 2日めの宿は単なる砦であり、貴人が休むにはまったく適しない場所であった。
 大人数を受入れる宿舎も無く、大半の随員は野宿同然となる。
 ここでシュメは急使にて、弥生ちゃんからの回答を得る。
 やはり往診は無理だった。デュータム点到着予定日には外出などせずに患者を待ち受ける、との約束を取り付けるのが精一杯だ。

 3日めは大きな宿場の役人の言葉を入れて、輿を小さな6人担ぎのものと交換した。王太子が用いるには格式で劣るが、壮丁の交代を早くして速度を稼ぐ算段だ。
 ガンガランガから連れて来た担ぎ手はほぼ全員が疲労で脱落、この街で得られる人数にも限りがあるのでやむを得ない。
 代償としてより大きく揺れる羽目になる。
 シュメは必死にカマンテを抱え輿にしがみ付く。

 目の前に護符を眺めていれば、確かに崩壊も間近だと知れる。青い光は時々途絶え、瞬き、また強く輝く。光が消えると途端に我が子の脈が乱れるから、ただただ祈るばかりだ。
 無理を重ねて七宝で描かれたピルマルレレコの瞳に涙が浮かぶかにも思えてくる。護符の裏にひびまでもが入っている。

「長くは保ちません。夜も走りましょう。」
 巫女の言葉にシュメもうなずく。だが王子は耐えられるのか。

「ガモウヤヨイチャン様より特別の処方をいただきました。御許しがあれば王子様に施したく存じますが。」
「……許す。」

 躊躇するのも無理は無い。神剣の巫女は刃を王子の身体に徹し、内部から光で癒そうとする。慎重に確かめ、細い小さな身体に輝く水晶の鋭角を突き入れる。

「おお、おお! カマンテ。」
「御静かに。大丈夫です、これで護符も命数を伸ばします。」

 容態が安定して護符の光も細くなる。どうやら患者の状態に合わせて光の強さを加減しているらしい。通り抜ける力が減ずれば、崩壊の速度は抑えられる。
 ついで、シュメも神剣にて癒しを受けた。なにより母が倒れては王子を守る者が無い。誰よりも強く抱きかかえる手が、今必要だ。

 天候は回復しデュータム点の賑わいの翳が街道にも見えて来る。輿は速度を更に上げ、担ぎ手を次々と換えてひた走る。
 限界だ。少年の容態が急変し、護符は再び強く大きく輝き、ぼろぼろと破片がこぼれていく。
 呼吸をするかに明滅し、暗くなり、また弾かれるかに光を放つ。

 耐えて、あと少し、もう少し耐えてください。シュメは必死に祈る。自分の命で務まるのなら、カマンテの代りに自分を天河に召し上げて下さい。

 ぐん、と速度が急に上がった。輿がそれまでより持ち上がり、飛ぶ滑らかさで走る。随行する者の声が遠ざかり、我が輿だけが進んで行く。
 なにごと、と窓を開けて外を確かめると、禿頭の巨人が4人で担いでいる。いずれも只の人ではなく、顔はにこやかながらも表情が無い。
 巨人は怪力の持ち主で、6人が担ぐ輿を羽のように軽くに扱う。目の回る速度で周囲の風景が流れて行く。

「ご安心めされ。これなるはガモウヤヨイチャン様の御指図にて待ち受けし達者の者。金雷蜒王国の獣人が裔にございます。」

 随走するのは山狗の仮面を被り上半身が裸の若い男、ギィール神族に仕える狗番だ。
 獣人と同じ技術を用いて肉体を強化されたうすのろ兵を率いて、途中までシュメ達を迎えに来た。

 あれよと言う間に宿場を越え、交代もせずにすり抜ける。道の左右に流れる人は呆気に取られて飛ぶ輿を見送った。
 しかし、

「あぁ護符が、護符が弾ける。」

 もはや護符は半ばも姿を保たず、ピルマルレレコの顔が残るだけ。それも金色の角はもげ丸い青い髪にはひびが無数に走る。
 あと少し、もう少しだけ堪えておくれ。神様ガモウヤヨイチャン様、カマンテを御救いください。

 デュータム点の門が見える。巨人達の疾走に驚いた人の波が左右に別れて道を開ける。
 あと少し、もう一歩。

「ああああ。」
 青い光の小さな粒が無数に弾けて輿の中に飛び散った。護符は砕けて微塵となる。

「よくぞ持ち堪えた! さすがはウラタンギジトが名匠の作。」

 輿の扉が剥ぎ取られ、先細りのする長い黒髪の少女が顔を覗かせる。艶の有る髪の分け目にしがみ付く、青と緑に色の変わる神々しいカベチョロが舌を突き出した。

「ガモウヤヨイチャンさま!」
「委細は了解、この場で処置する。どきなさい。」

 輿から引き出すのも億劫と、振り上げたハリセンで輿の天井壁が吹き飛ばされる。
 シュメの腕の中にぐったりと横たわる少年に青く透けるハリセンを押し当て、しばし瞑想して容態を確かめた弥生ちゃんは、裂帛の気合いと共にぶっ叩く。
「きぇい。」

 シュメごと吹き飛ばされて、少年と母は土の地面に転がった。勢い余って患者まで、弥生ちゃんがよくやる失敗だ。
 だが周囲で見守るデュータム点の人は、特にトカゲ神官巫女は知っている。こういう気合いの入った打擲をなさる時は、必ず患者は助かる。

「ぷ、…は、ぁ。はぁ。……ははうえ、ははうえはごぶじで。」
「  ! カマンテ、カマンティバゥール、気が付きましたか、母です。ここに居ます。」
「ははうえ、そのようにおかおに土がついて、へんです。」

「あああ、ああああ。」

 とめどなく涙を流して我が子を抱きしめる母の姿に、止める者は誰も居ない。

 

 場所を移して、改めての弥生ちゃんの診断は芳しいものではなかった。

「先天的なものだから、これを癒すには7度ハリセンで叩かないとダメだね。しばらく休養を取り体力が戻ってから、本格的な治療を行います。」
「一度に7度叩くのはダメなのでしょうか。」
「先程のは緊急避難的なものだから。本当に健康体になる為には、苦痛を伴い危険も大きな超絶技巧的ハリセン捌きが必要なのだよ。1回ごとに患者の体力も大きく損なわれる。」

「どうしても7度の施術が必要なのですか。」
「根治しなければ、20歳くらいまでが寿命でしょうかね。」

 選択の余地は無い。またシュメは7度の意味を良く知っている。
 トカゲ神殿のお布施、つまり治療費は貧乏人には安く、富豪には目の玉が飛び出るほど高い。神殿始って以来の方針だ。
 金持ちから取り上げたカネを貧しい人の薬代とする。紅曙蛸女王が定めた仕組みを、弥生ちゃんも是とする。
 故に方台では、トカゲ神殿で金持ちが治療を受けるのは喜捨であり功徳と看做される。

 方台でも指折りの富豪で王族の治療ともなれば、1回ごとに財宝の山が必要だ。
 とはいえその程度の経費をサンパクレ家は痛痒とも感じない。

「喜んでガモウヤヨイチャン様に寄進いたします。あるいは神殿を建立し、貧しき者の為に備えさせたくも存じます。」
「うん。それはそれでよい。ただー、それじゃあ足りない。」

 いきなり弥生ちゃんの顔が変わる。シュメも良く知る普遍的な、政治家の顔だ。
 この人は単なる救世主ではない。戦士であり破壊者であり、歴史を裁く者でもある。世間の評判を思い出した。

「シュメ・サンパクレ・ア、方台でも指折りの富豪にして紅曙蛸女王国時代後期の小王の末裔。2度の救世主の到来にも家を損なわず、影響力を確保し続けてきた偉大なる血統。」
「……はい。」
「しかしてその実態は、人喰い教団『貪婪』の隠れ蓑、表の代理人の一つ。」
「!」
「また”白の母”と呼ばれる先ほど『貪婪』の最高責任者となった女人の訪問を幾度も受ける。パクトレアル王の属王位就任に際しても、彼の人の関与が有ったと聞く。」
「……。」
「メグリアル王女 焔アウンサの暗殺事件においても、貴女がなんらかの便宜を襲撃者に計ったとの報告も受けている。」
「……。」

「さてシュメさんよ。王子を病より救うには、ちょいとお喋りしてもらう必要がありそうだね。」

 顔面蒼白のシュメは床に膝を着いて、1刻も立ち上がる事ができなかった。

 ちなみにこの段階でのサンパクレ家の悪行に関する情報は、すべて伝聞による憶測だ。関係者から直に情報を引き出すのは無理だった。
 さすがに2千年続く家の臣は、人食い教団の恐怖も有るのだろうが、口が堅い。拷問しても勝手に死ぬばかりだろう。
 が、断片的なネコ達の噂を継ぎ合わせて方台の実情を再構成するのは、弥生ちゃんの十八番。ジグソーパズルを組み上げるかに、なにもかもを暴き出してしまう。

 観念したシュメが自白した陰謀の数々には、さしもの弥生ちゃんも唖然とさせられる。
 特にスガッタ僧が暗躍する新しい動きに関しては、弥生ちゃんの情報網もほとんど掴んでいなかった。僧侶は俗世を離れ独自の閉鎖的な修行生活を営むばかりで、政治的策謀に乗り出すのは誰にとっても想定外だ。
 彼等の標的は生まれたばかりの一神教ピルマルレレコ教であり、弱小の信者達に直接攻撃をする。動機は理解できない。
 もちろん弥生ちゃんは座視するわけにはいかない。いかにピルマルレレコ教が裏付けの無い茶番の集まりであっても、自分が大本であるのは間違いないからだ。

 また「妖幼女ゲキ」なる新たなる神人も見過ごせない。
 コウモリ神人の娘とも伝わる、スガッタ僧が厚く崇拝し旗印に担ぐ5歳ほどの女の子。弥生ちゃんに匹敵する強力な神通力を無制限に揮うという。
 もしも名前の通りに「本物のゲキ」であるならば、早急に保護しなければならない。
 天河十二神によって再現されたゲキは寿命が短く、すぐに論理崩壊してしまうと額のカベチョロから聞かされた。

 結果から言うと、幼女の救済に弥生ちゃんは失敗する。神通力が強過ぎて縛れなかったのだ。
 論理崩壊が進み神の叡智を備えた存在から幼児へと急速に退行して行く童を救ったのは、「白の母」である。
 『ジョグジョ薔薇の乱』の渦中での一幕だ。

 

 シュメ・サンパクレ・アはその後特に制裁や処罰を受けていない。
 パクトレアル王の公的な立場を鑑みて、弥生ちゃんは不問に附した。
 王子カマンティバゥールの治療も弥生ちゃん方台退去までに完了し、70歳の長寿を生きる。
 パクトレアル王二代として、幼少時に救われた恩義からも青晶蜥王国と協調姿勢を取り、方台新秩序構築に役立ってくれた。
 550年後の弥生ちゃん再召喚の時にも、パクトレアル=サンパクレ家は安泰だった。

 弥生ちゃんは罰しなかったけれど、お願いはした。
 シュメに対し女子教育の必要性を説き、方台で最初の女子専門の高等教育機関を設立させる。宗教的な色合いの無い、中立的なものだ。
 全寮制3年のサンパクレ私立女子大学堂、通称「聖ヤヨイチャン学園」。
 ガンガランガに方台全土より選抜された優秀な少女達を集め、最高の教授陣を揃えて教育を施し社会各層に有為の人材を送り届ける。
 女性の権利拡大に大きく貢献し、女性初の宰相までも産み出した。

 最初の学長にシュメは就任する。
 学園に人喰い教団は幾度も食指を伸ばしたが彼女は防ぎ続け、逆に教団の賢者を表の世界に引きずり出し悪の企てに対抗させる。
 宗教から独立する学問の集団は、歴史の必然だったのだろう。方台に同様の大学堂が幾つも成立し、連携して学問の発展を進めた。
 逆に人食い教団は徐々に衰退し、千年の後には残滓のみが存在する。

 なお、サンパクレ私立女子大学堂の紋章は弥生ちゃんである。イヌコマに乗った先細りのする長い髪の少女、だ。
 学内には等身大のイヌコマに乗った少女像も安置される。
 女学生たちはこの像に百合の花を捧げる風習を守っている。何故百合かの由来は、誰も知らない。

 

【医神】

「あーお尋ねがありました例の件、皆さんも興味津々のアレですがー、ぶっちゃけ居ます。病魔はまちがいなく此の世に実在します!」
「おおー!」

 青晶蜥王国成立後の話。
 弥生ちゃんはトカゲ神官を百人ばかりずらりと並べて星の世界、地球の医学についての講義を行う。トカゲ神救世主であるから当然のお仕事だ。

 この日の為に弥生ちゃんはまたしても新たなる発明を行う。黒板と白墨を作り上げ、講義場に持ち込んだ。
 石膏を焼き固めたチョークを用いて、完成したばかりの黒板にカリカリカンカンと書いていく。まっさらの黒板に最初に字を書くのはなんだか楽しい。
 大勢の前で簡単に書字しまた消せる道具は方台に無く、便利さに皆は目を回す。
 以後黒板白墨は量産されて学問研究の重要な武器となり、大衆教育の道を拓く。

 弥生ちゃんがイの一番に書いた白文字は、ギィ聖符で『病魔』。
 本日のメインテーマである。

 神官達の興味の的はもちろん「病魔」の実在の是非について。
 何故人は病気になるのか、理由をどこに見出せばよいか。究極的には超自然神秘の介在を求めるのだが、これは地球の人間と同じ心の働きだ。
 地球と違うのは、目の前に真実を知る救世主さまが厳として存在する事。
 誰もが聞かずには居られない。
   「病魔って、ほんとうに居るのですか?」

 答えて曰「是也」

「とはいえ眼で見る事は出来ませんし、全ての病気が病魔の仕業とも限りません。
 あー方台従来の医療の分類にも有る通りに、病気は主に4つの原因が認められます。

 1に、人間生まれ持ったる性として不可避的に遭遇する身体の異常。老化や妊娠と同じく、生き物であるが故に自然となってしまうものです。まあ大体これは厄介ですね。
 2が、怪我と同様に明確な外部要因との接触によって生じる病。毒や薬品、火傷凍傷暑気中り、有害な煙を吸い込んだり窒息したり、毛玉やら石などの異物の呑み込み、毒虫寄生虫などなどにより引き起こされる原因の特定が極めて簡単なものです。
 3が、人間普通の生活環境や習慣、労働によって必然的に到達する身体の異常。栄養失調による衰弱は万病の元ですが、飲酒や大食ゲルタの長期の常食、また特定の食品を欠いたが為に病気になることもまま有ります。長時間の無理な姿勢や肉体の酷使でもそうなりますね。荒淫やら麻薬の常習等不道徳な行為に加えて、気鬱の病なども物理的な異常として発現します。
 4でもって、病魔によるもの。伝染したりしなかったり、どうにも罹る理由が分からない。どこから忍び込んだのかさっぱりだ。原因が目には見えないから、超自然の仕業と看做すのも無理は無い。」

「目では見えなくとも実在を証明できるのですか?」
「見えるようにします。眼鏡玉を組み合わせて微小なものを観測する機械を作ります。この発明により初めて証明出来ます。」
「小さいのですか。」
「はい。」
「どのくらいですか。いえ、そんな小さなものが取り憑いただけで、人間が病気になりますか。」
「簡単に言うと、カビです。カビだからどんどん繁殖しますよ。」

 おおお、と鐘が割れるかの低い男の驚声が講義場を埋めた。

 講義場は神殿の円形劇場を利用して、舞台上にトカゲ神官達の席机、外周の客席には聴講を希望したギィール神族や金翅幹元老員黒甲枝神兵、別分野の神官学匠などなど全部男が座っていた。
 星の世界の医術の講義が行われると聞きつけて千人以上が馳せ参じたが、収容数に限りが有る。女性には諸々の事情から他日にご遠慮いただいた。
 それでもまだ多いからやむなく籤引きで定めるも、神族神兵も平等に引いたのに相当数が勝ち残る。どうも、それぞれの聖蟲がインチキを使ったようだ。

「人体に生えるカビこそが病の元凶、病魔であるのですか。」
「今の私があなた方に伝えるべきなのは、そこまでです。目に見えぬほどに小さなカビによって引き起こされる病は千差万別、これとの闘争に勝利すれば医術を極めたと誇ってもさして傲慢とは言えません。」

 ウイルス感染に関しては弥生ちゃんは判断を保留する。
 十二神方台系の人間と生物は、地球と瓜二つと言えるほどに似ている。同一の根源から枝分かれしたものと看做しても、勘違いを誹られないはずだ。
 それでも方台の生物がちゃんとDNAを用いる発生を行っているのか、自分には分からない。ひょっとするとRNAだけで遺伝子が成り立っている可能性も否定出来ない。
 頭の上のカベチョロが教えてくれないから憶測ですらないのだ。思い込みになってしまう。
 故に喋らないことに決めた。

 今後千年ほどは真菌や細菌とだけ格闘してもらおう。それで上等過ぎる。

「ガモウヤヨイチャンさま、では人間は目に見えないほどの小さなカビに対してまったくの無力なのですか。いかなる手立ても通用しないのですか。」
「いえ、原因さえ分かれば避ければ良いだけですし、これのみを殺せば患者は自ずと回復します。」
「手段は。」
「千差万別、カビの種類によって違います。人間に仇なすカビは千や2千じゃ利かないのです。」

 絶望、を表わす顔が並ぶ。無理も無い。

「そうは言っても、人体に入る経路は決まっているし、入り口で抑えればだいたい大丈夫です。食物を煮炊きすると熱でカビも死んじゃいますから、食べても平気です。」
「おお、そんな簡単な方法で。」
「酢でも酒でもカビは死にます。強い酒で食器などを拭けば、あらかた死にます。お湯でも死にます。セッケンヌは簡便に使えて極めて有効です。」
「つまり、体内に入る前に殺せば安泰ということですか。では体内に入った後の対処法はありませんか。」

「クスリというのはその為にあるわけです。でも直接にカビを殺すだけがクスリの効能ではないのでして、」

 と、語られる人体内部における外敵との闘争は、方台の人間が想像すらしない苛烈なものであった。
 特に免疫の概念はまったく未知のもので、人体には病気に対する耐性と自然治癒能力が備わっていると認識していても、まさか組織的計画的に病気と対抗する手段を持ち、それも何段にも渡って陣を敷いているなどはただただ驚嘆するばかりであった。

 「人体とは一個の王国であり、国土が有り森や川があり畑があって百姓が耕しイヌコマが穀物を運び、それを襲う病魔の群れに対し闘う兵士と指揮する王が居る」
 弥生ちゃんが比喩に使ったこのモデルは『人体王国論』と呼ばれ、その後の方台医学・生物学を大きく規定する。

「とまあそういうわけで、私が青晶蜥(チューラウ)神より授けられたハリセン神剣が発する青い光は、人体内に元より備わる免疫機構の活性化と破損した組織の修復を主に行います。
 傷が塞がり復元する仕組みについての説明は、また今度。」

 はいはい、と林立する神官達の手に、弥生ちゃんは両手で抑えるかの仕草をする。まだ病魔に関する話は終ってない。

「免疫機構の話で、皆さんにも医療とは闘争であると理解していただけたでしょう。
 何故救世主である私に、戦士としての能力と治癒者としての能力が同居するか、矛盾無く説明出来ます。
 だが天河十二神の意図はさらに千年先、方台に新たなる計画が示される時の準備を私は任されています。」

「この千年紀のみならず、次の千年もガモウヤヨイチャン様が統べられるのですか?」
「違います。なにを隠そうこの世界には、方台が複数有ります。それらが互いに交流する時代が来るのです。」

 またしても講義場は驚く声で満たされる。既に医学の枠を越えて、人類の命運に関わる話題となったからには傍聴人も手を挙げる。
 一人の若いギィール神族が喋りたい全員を差し置いて勝手に質問した。

「方台外部世界の探索は既に1400年も前に神族の一人キルギルギス将軍によって行われ、東西南いずれにも1月以上の航海距離に何も無いと証明されている。これは間違いなのか。」
「結論から言うと、天河十二神により誤導されて何も無いところを進まされています。方向を示すのが頭の上のゲジゲジの聖蟲ですから、容易いことです。」
「では他の方台は近距離に隣接しているのか。」

 これには弥生ちゃんも首をひねる。衛星軌道上から見た惑星は地球よりも若干小さい程度で、直径1万キロメートルほど。
 対して方台は一辺1000キロ。32個有ると聞いた他も同程度とすれば、赤道上に配置すればちょうど一周する。だが満遍なく球面上に配置すれば、2000キロずつの間隔は空くだろう。

「色々ですね。近い所もあれば、まるっきり孤立しているものも有る。十二神方台系は孤立系として設計されています。」
「それら全てに人が住むのか。」
「半ばには十分な数の人間が住んでおり、幾つかには十二神方台系と同程度の高度な文明が存在します。だがどこも外界との接触を許されておりません。時期ではないと天河は考えています。」

「複数存在する方台を繋ぐ役目をガモウヤヨイチャンは任されたという。如何なる任務を天河から負わされたのか。」

 これが本題だ。
 弥生ちゃんは自ら黒板を消して、もちろん黒板消しも発明した、テューク(タコ)の姿を可愛らしく描く。

「これは私の世界では有名なお話、小説、作り話です。

 或る日天空より鋼鉄の船に乗ってテュークの姿を持つ生物が攻めて来ます。
 星の海を自由に渡る科学技術を有するテュークに対し人間はまさに無力。ありとあらゆる武器兵器で応戦しますがことごとく敗れ、もはや滅亡を覚悟するまでに追い詰められます。
 しかしながら7日が過ぎて、急に敵の攻撃が止まります。大地のあちらこちらにはテュークの船が人を攻撃する姿のまま硬直して動きません。なんの反応も見られなくなります。
 決死的覚悟で状況を確かめに鋼鉄の船によじ登った兵士は、船の中でテューク達が死んで腐っているのを発見します。
 人間に対しては傍若無人歯牙にも掛けない武力を誇ったテュークも、人間世界に蔓延する病魔の攻撃には耐えられず為す術無く滅び去り、人類は救われたのです。」

「ほお。」

「次にほんとうにあったお話です。テュークの話はこれを元に構想されました。

 有る年代に、ごく限られた地域の人が外洋航海の術を会得し、未知の領分とされた場所に次々に進出して行きます。
 彼等は世界の果てが有ると信じ怖れられていた西の彼方にまで船を進め、未踏の航路を進みます。
 そして遂に、これまで知られていなかった広大な陸地を発見します。発見と言ってももちろん現地には住民がちゃんと住んで立派な都市を作り文明を持って繁栄していました。
 その国の一つ、とある島にはおよそ50万人ほどもが住んでいました。
 航海で渡って来た人たちは、現地の人が今までに罹った事の無い疫病を、病人が使った衣服や毛布、あるいは病人本人を送りつけるなどの手段で広めます。
 この病に対する免疫がまったく無かった島の住人は次々に倒れ、接触から50年後にはわずか2000人にまで激減し、易々と攻め滅ぼされてしまいました。
 広大な土地すべてに疫病は広まり、3000万を数えた人口は10分の1と化し以後は奴隷とされたのです。」

 誰も、咳き一つしない。顔面蒼白で、中には吐きそうな者まで居る。
 衝撃と呼ぶにはあまりにも残虐な、これが人の所業かと彼等は疑う。少なくとも十二神方台系には、病を武器として使う発想をした者は歴史上一人も居ない。

 ちとやり過ぎたかな、と弥生ちゃんは再び黒板に向かい、テュークの落書きを消した。念入りに時間を掛けて、皆が落ち着くのを待つ。
 もういいかな、と振り返り、にこやかに微笑んだ。

「とまあそういうわけで、青晶蜥神救世主は隔絶した方台同士を繋ぐ準備として、武力と医術の進歩を促す役目を負うのです。
 ちなみにその話には後日談があり、海を渡って虐殺と掠奪の限りを尽した人々も現地に蔓延っていた未経験の疫病に感染し、船を伝って元居た世界全域に未知の病を振り撒く羽目になってしまいましたとさ。」

 重苦しい沈黙の中、観客席の黒甲枝の一人がわずかに答える。

「……備えなければ、」
「はい。」
「備えねば、いかなる状況に直面しようとも迅速に的確に対処出来る、知識と体制を整えておかねば、」
「方台新秩序はその為に作られました。」

「勝たねばならぬ。いや、決して負けてはならぬ。生き残らねば。」

 そうなんだけどね、と弥生ちゃんは嘆息する。
 自分であれば、他と接触した際に負けぬ劣らぬ強靱な文明を作れるだろう。

 だが十二神方台系の人間が他の方台に上陸し、勝利し、虐殺と掠奪をほしいままにするのを、自分は止める事が出来ない。

 だから方台を分割した。敢えて統合を諦める。衝突の種も播いておいた。

 留めるには、自ら平和を生み出す能力を獲得せねばならぬ。
 長年に渡る小規模で破局に陥らない戦争を繰り返し、骨身に凍みて戦乱を憎み和平を求め、互いを尊重し共存する文化を作り出す。
 それも聖蟲の助け無しで、だ。

 彼等に決して安逸な日々を与えてはならない。無菌室で暮らさせるわけにはいかないのだ。

 救世主っていんがなしょうばいだよ。

 

【ひぽぽたますの誓い】

 トカゲ神救世主の義務として方台医術の向上に日夜戦い続ける弥生ちゃん。当然医療機器にも新製品を投入する。
 が、絶対やらなかったものが一つ有る。注射だ。

 考えてみれば当たり前のことで、トカゲ神官たちは血管に動脈静脈が有るのは知っているが、それがどういう意味を持つかまでは理解しない。
 なんの為に血液が流れているかも知らないで、注射もへったくれも無い。

 彼等の名誉の為に補足説明すれば、動脈静脈の機能が分からないのは当たり前なのだ。
 方台の人間、いや動物には動脈静脈に加えて、中脈と呼ぶべき一群の血管網が用意されている。心臓から動脈を通って出た血液が、静脈を通って帰って来る単純な構図が描けない。
 ではこの中脈は何かと問えば、弥生ちゃんも知らない。
 ハリセン治療の時に人体を一時分解して働きを確かめてみたのだが、どうもこれは呼吸器に関連するものらしい。
 十二神方台系の有るこの惑星は、地球に比べて空気が薄い。よって酸素交換の効率を上げる器官が増設されている。
 地球の鳥類が備えている気嚢システムに似たものが、人間にも備わっているわけだ。

 つまり方台の人間ウェゲは、地球人に比べて脳の血の巡りが格段に良い。
 後にゲキと呼ばれる高度知的生命体に進化するだけあって、原始的な段階から発展の素地が用意されている。

 とまあそういうわけで、血管内に不用意に薬液を注入するのは避けるべきとの結論を得た。
 しかし注射器を作らなかったわけではない。ガラス職人に命じてでっかいのを作る。針は無しだ。
 要するに浣腸器である。
 方台医療にも、肛門に液体を注入して排泄を促す療法はさすがに用意されている。
 従来の方法を効率化しただけ、ではあるのだ。

 但し肛門に薬液を入れれば、口から胃を通して吸収されるよりも迅速に効果を発揮する。
 これを弥生ちゃんは積極的に使うと決めた。注射が使えないから、代替として用いる。
 まあ、よく効いた。
 トカゲ神官達は、これまでは同じ薬を経口で投与しても効果が望めなかった患者が直腸からの吸収で顕著に回復するのに驚き、平伏した。
 救世主さま面目躍如である。

 肛門注入も濫用を厳に慎むおふれを出すのは当然として、だが本当に注射器は必要無いのか?

 輸血はしない。注射できないのだから、点滴も有り得ない。
 歴史逆行・異世界降臨系物語の主人公はすぐ輸血をやりたがるが、なにせここに住んでいるのは地球人じゃない。どんな拒絶反応があるか分からないし、感染症の拡大も懸念される。
 血の交換といえば即魔術的秘儀に拡大発展しかねない。いたずらに血をすすってわけのわからない病気の蔓延を招くだろう。
 よって概念すら伝えずに留めておく。失血死は対処しないと方針を決めた。

 だが部分麻酔の技術に注射は絶対に必要だ。

 弥生ちゃん降臨の直前に方台に出現した驚異の怪奇生物”フェビ”、蛇である。日本語の「ヘビ」が訛ってこの名が付いた。
 このヘビに噛まれた人は刺された部位がしばらくすると赤く大きく腫れ上がる。のみならず、深い眠りに襲われて何日も何週間も人事不省となる。だいたい1ヶ月の命だ。
 患者の容態を確かめた結果、噛んだ部所を腫らす毒と、昏睡に到らす毒の出る牙が違うと判明する。
 前に大きく突き出した牙からは昏睡毒が出て、口の奥の牙からは腫れる毒が出る。死ぬのは後者の働きによる。
 であれば、昏睡するだけの機能しか持たない毒を希釈して投与すれば、麻酔薬として使えるのではないか?

 実験した。イノコやイヌコマを使って、ヘビ毒10分の一100分の一にして投与する。もちろん直腸経由だ。
 10分の一だとイヌコマは目覚めなかった。眠っている最中だとご飯が食べられないから、衰弱死してしまう。
 1ヶ月も保つ方が不思議なのだろう。適宜口を濡らして献身的に看病する患者の家族の力が、延命に役立っていたわけだ。
 100分の一だと、すぐに起きる。眠らない個体も居る。イノコであれば丸1日は何をしても起きないのだが、イヌコマには利かない。
 人間はイヌコマと同規模の生物だから、50分の一か30分の一希釈が適当と見る。

 とはいえ、万が一の時に起こす術が無ければ危なっかしくて使えない。ハリセンでぶっ叩けば起きるが、そんなものが有るのならそもそも麻酔なんか要らない。
 弥生ちゃんは研究を重ねるが、方台滞在中に研究を完成させることは出来なかった。

 代わりと言ってはなんだが、カエル毒を抽出して麻痺剤を獲得する。
 軟膏にしたカエル毒、ガマの油みたいなものだ、をぬりぬりするとその部位の感覚が著しく鈍り、切った縫ったが楽になる。
 麻酔ではないから完全に痛みを止める事は出来ないし、数日から数週間も効果が抜けない欠点は有るが、以後盛んに使われた。
 数十年後にはこれのみを用いての開腹手術を試みるなど、なかなかに野蛮な時代がやって来る。

 歯医者用麻酔としてもカエル毒は盛んに研究され、がりがりと鑿や鑢で削る暗黒の世紀に突入する。芋から砂糖を作るなんてアホなことを始めたトカゲ神救世主を恨むべし。

 

 要するに、弥生ちゃんが全部やってしまってはいけないのだ。
 方台に住む人が、研究者が人体の仕組みに対する飽くなき探求心を持ち、長年の模索と試行から解決策を導き出す。真摯な努力こそが未来に繋がる。
 その為には人体解剖が、場合によっては生体解剖や人体実験も必要となる。致し方ない。方台にはサルが居ないのだ、人間は人間を調べるしかない。

 結局、汚い研究は人食い教団やスガッタ教団がやってくれた。医学の研究を進めれば人体の解剖に結局は突き当たり、先行者と交流せざるを得なくなる。
 特にスガッタ僧は仲間の遺骸を解体して修行の効果を確かめる習慣を持つ。
 体内における各臓器器官の働きを生きたまま確かめる為に、自らの身体を開く犠牲的献身が多々有り、方台人類の健康に大きく貢献した事を特筆せねばなるまい。
 だが人体の構造と機能が解明され医学として公開されるのと同期して、彼等の神秘も剥ぎ取られ衰退していったのは歴史の皮肉だ。

          **********

 なおハリセンや神剣を用いての治療も、青晶蜥王国が存在する間は熱心に続けられた。
 ハリセンは絶大な救命治癒能力を持つが、存分に行使出来たのは弥生ちゃん以外では救世主三代来ハヤハヤ・禾コミンテイタムのみである。
 ハリセンの真の機能は人体を分解しての手術であるから、人体の仕組みを熟知しなければ為し得ない。無理も無い話だ。
 が、ものによっては医術では不可能な症例でもぶっ叩くだけで全快させられるのも事実。
 最後の希望として、青晶蜥神救世主は長く人々の崇拝の対象で有り続けた。

 神剣の行使者たる「剣の巫女」は若年のトカゲ巫女より特に意志堅固、強情なる者を選んで授けられ、3年を限りに奉仕した。
 青く光輝く神剣を長年使えば行使者本人にも影響が及び、人体内で成長と老化を司る訣臓と呼ばれる臓器の機能が衰える。不老長寿になってしまうが妊娠も出来ない。
 3年の短い期間であっても神剣の光を浴びた巫女たちはいずれも80歳を越える寿命を得て、トカゲ神殿を支える柱となったという。

 青晶蜥神の神威を与えられた護符も、富裕層が広く求めるものとなる。
 護符は親指ほどの大きさの四角い七宝、陶器あるいは骨を削って作られたもので、表面にピルマルレレコ神の顔が描かれるのが通例だ。
 効果はまちまちで、神威を与えた救世主の力によって変わる。無論弥生ちゃん本人がこしらえた護符が最強の力を持つ。
 弥生ちゃんは数年の在位期間中に百個ほどを作り、大枚の黄金をはたく富豪に売りつけて救世主神殿運営資金を確保した。
 百年後、残存するのは15個のみ。青晶蜥神の力の通路である護符は、強く光を発すれば崩壊してしまう運命を持つ。
 この15個は以後は宝物として扱われ、個人が用いるものではなくなる。
 方台各地のそれぞれの王が位を継承する際の徴の一つ、弥生ちゃんが定めた新秩序への参加の証しとなり、治癒には使われなくなった。

 護符作りの名人であったのは、やはり三代来ハヤハヤで千個は世に残している。
 彼女の護符は材料を吟味し高密度で焼き固めた陶器に施したのが特徴で、とにかく丈夫で長持ち。効果も確かで、通常青晶蜥神の護符と言えば彼女のものだ。
 それ以外の救世主星浄王の護符は、在位中存命中の効果は保証されるものの、時を越えては機能しないとされる。

 例外として、弥生ちゃんと二代メグリアル劫アランサが用いた手裏剣や作業用小刀も護符として認められる。
 特に劫アランサの手裏剣は降魔の法具としての能力が高い。
 本来褐甲角神の王女であった彼女には、後世の歴史は武神としての威徳を期待する。
 邪悪な魔法に対処するには彼女の手裏剣を入手する事が必要とされ、多くの物語の主役となった。

 

 また弥生ちゃんはもしもの時の為に、切り札と呼べる薬を作っておいた。
 頭の上でちょろちょろ遊んでいるカベチョロの聖蟲。こいつは定期的に脱皮したり、気分で尻尾を切り離してみせる。
 思いがけず手に入る聖蟲の副産物を、酒に漬けてエキスを絞り出す。「トカゲ酒」だ。
 霊験あらたかにして万病に効き不老長寿が授かるという。飲んだら別嬪になり頭も賢くなる、てところはおそらく気のせいだろう。

 とりあえず「トカゲ酒」は救世主神殿青晶蜥王宮の最高機密にして最終奥義となる。
 これを飲める者の資格も厳密に定めておいた。「王」だ。
 武徳王神聖王紅曙蛸女王は元より、ソグヴィタル・メグリアル王またギジジット央国に対しても認められる。
 「方台新秩序が認める領国の支配者」、が資格だ。しかも一代一回限り。
 ちなみに黒甲枝諸侯国には王は無く形式上の盟主があるだけだから、除外される。

 資格に関しては、誰も文句を言わない。
 不平等なのは確かだが、しょせんは量に限りの有るものだ。カネに飽かして大富豪が分捕るのに比べれば、遥かにマシと言えよう。

 また歴代の王達はトカゲ酒を王位に就いた直後、最初の国際会議に出向いて青晶蜥王宮を訪ねた際に頂いた。
 健康を損ねた後に青晶蜥神救世主を頼るのは、額に戴く自らの聖蟲の沽券に関わる。
 何の障りも無いまっとうな状態で権利を浪費する事で、誘惑から開放されるわけだ。

 故にトカゲ酒は「王漿」の名で呼ばれる。
 王漿を飲むこと自体が即位の儀式と化し、逆に飲むことで王と成る、と転化した。

 青晶蜥時代後期、民衆王国が次々に立ち上がり神聖秩序からの独立を果たす。
 名目上は民衆の投票によって選ばれたとする首領達は、青晶蜥王宮に乗り込み救世主星浄王に王漿を求めこれを飲み、初めて王を名乗った。
 聖蟲を持たずとも王として認められる手続きとなったわけだ。

 

 創始暦5985年に方台統一政府が成立し、全土が完全に天河十二神信仰から独立した民衆主義による体制へと移行する。
 青晶蜥王国も活動を終了し、救世主神殿を残すのみとなる。

 方台統一政府首領は全民衆の総意と称して救世主神殿に乗り込み、青晶蜥神救世主に対し「王漿」の引渡を迫った。
 これよりは民衆により選ばれた代表者が全権を掌握し、支配者の認定を誰からも受ける謂れは無い。
 既に王と呼ぶべき実体を持つ者は無く、王漿の必要も無くなったと主張する。

 時の青晶蜥神救世主星浄王は、王漿の意義は既に失われたと宣言。だが方台統一政府への引渡を拒む。
 彼女は、飲んべえであり不屈であった。
 当時、わずか十数名にまで減っていた金雷蜒神聖王とギィール神族、紅曙蛸女王はそれぞれの国を放棄し、青晶蜥王宮に身を寄せていた。
 彼等聖戴者と共に酒盛りを開き、王漿を飲み干してしまう。

 不老長寿の妙薬が失われたと知った首領は地団駄を踏んで悔しがる。どうやら彼は自ら王に、神になる気であったようだ。
 以後救世主神殿に対して様々な嫌がらせや弾圧が加えられる。
 そのせいかは分からないが、5998年に青晶蜥神救世主星浄王と金雷蜒神聖王、およびギィール神族は聖山の大洞窟からいずこへか去り、歴史的使命を終えた。

 『王漿尭坐』と呼ばれる、十二神信仰最後の奇蹟である。

 

第七章 姫一刀奥義斬

(6日前)〜都合により割愛〜
  東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウの護衛指揮に前紋章旗団司令アスマサール幣ガンゾヮール兵師監を迎え、赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ王女は行動の自由を得た。
  武徳王大本営を通らねばならぬ街道を避けて毒地を兎竜で渡り、前総裁で叔母のキスァブル・メグリアル焔アウンサ王女の暗殺現場に直接赴く。

(2日前)〜都合により割愛〜
  メグリアル劫アランサ王女は、輔衛視チュダルム彩ルダムと4名の赤甲梢神兵を随員として兎竜にて毒地の草原を渡る。
  一度金雷蜒軍の支配地に入り、無用の衝突を避けながら進み、西の最前線傭兵市『ラグノーブ・モン・ファンネム』に辿り着く。
  この地に集うギィール神族にゲバチューラウからの親書を手渡し、軍事行動を促した。
  彩ルダムは神族相手に大身の槍を振るって大活躍。

 

【チェス・クイーン】

 創始暦5006年夏、キルストル姫アィイーガは暇だった。
 案内人は目的地に着いてしまうと用が無い。
 デュータム点までは交渉事も任されたし、直接に槍を振るって群がる刺客と戦う時もあったが、ウラタンギジトに入ると本当にやる事が無い。
 まあ正確には、”妃縁”と呼ばれる新たな位を授かって国家機密を閲覧する権利を有したから、色々勉強は出来たのだが、
それでも面白くないものは面白くない。

 そこで彼女は弥生ちゃんに言った。
「星の世界の暇潰しの方法を教えてくれ。」

 弥生ちゃんを救世主として崇め、世の為人の為の御働きを期待する人々は、一様に呆れる。なんという不謹慎な。
 だが弥生ちゃん本人は違う。
 実のところ今現在の人間を何千何万人病から救おうとも、大して歴史に影響を与えないのだ。
 奇蹟は世の理とは別の理屈で実現するものであるからこそ奇蹟であり、であればどんなに大きな成果を挙げたとしても、歴史的意義は薄いのだ。

 アィイーガの要請は、弥生ちゃんの思いに適うものだった。
 喜んで囲碁や将棋オセロ麻雀花札トランプビー玉人生ゲームに野球盤まで作って暇潰しのレクチャーをする。
 弥生ちゃんはそのいずれにおいても、チャンピオンであった。

 大体「かんぺきゆうとうせい」であるのだから、頭を使ってやる遊戯はめちゃくちゃ強い。加えて運も強ければハッタリも利く。手先も器用だ。
 あまりにも強過ぎて小学校の頃から「弥生ちゃん禁止」になるほどだ。
 特に囲碁将棋は爺ちゃんの相手をする為に徹底的に鍛え込んだ。爺ちゃんも強いが、爺ちゃんの友達の強豪を訪ねて渡り歩き、いずれにも勝利する。
 この娘は是非プロに! という声も大きかったのだが、なにせ勉強の分野でも社会活動でも抜群の功績を上げていたからには、推薦者も渋々諦めざるを得ない。
 隠れた達人として「蒲生弥生」の名を知る人ぞ知る。

 その弥生ちゃんが根性入れて鍛えたのだ。アィイーガは、自分が言い出した話ではあるが、「こいつぁしまった」と後悔する事頻り。
 夏が終る頃にはどの遊戯でも達人に仕立て上げられてしまう。

 

 ここで問題なのは、十二神方台系の人間の気質だ。
 彼等の特性として、二つが挙げられる。

・対戦型ゲームをやる習慣を持たない
・賭博が嫌い。大嫌い

 対戦型ゲームをやらないのは、そういうゲームが存在しなかったからでもある。しかし暇人が二人きりな状況は歴史上幾らでも有ったろうから、発明されなかったのも不思議。
 対戦を好まない気質を持っている、と看做すべきだろう。
 事実ゲームらしいものは1種類しかなかった。

 「ダル・ダル」と呼ばれる双六だ。駒が複数あり、双六の升目を切られた楕円形のコースをひたすらに回って行く。競馬ゲームと見た方がよいかもしれない。
 或る特定の条件を満たすと、駒は一つ内側のコースに移る事が出来、最終的に中心に辿りついた駒が勝者となる。

 このゲームの創始者はタコ女王四代ッタ・パッチャと伝えられる。女王はゲームの達人であり、広場に巨大なコースを描き、人間を駒として楽しんだという。
 だが本来のルールは非常に繁雑で高度な計算を必要とし、算術や文書管理に秀でた番頭階級を以ってしても習得が困難で、結局女王無しでは不可能であった。
 もっと単純に一般人にでも出来るように簡略化したのが、「ダル・ダル」だ。方台古語で意味は「ぐるぐる」、文字どおりにぐるぐる回る。

 「ダル・ダル」は、一応勝者が決定するゲームであるから、商品や金を賭ける事も可能だろう。
 だが賭博を行うのを方台の人間は許容しない。
 「論理的ではない」と言うのだ。
 ゲームの勝敗と現実社会の物事とに因果関係は無く、故に金品のやり取りや特典の授与が行われるのが理解出来ない。

 救世主神殿の事業資金を賄う為に宝くじを発行する際にも、これが問題となった。
 なぜに1枚のお札を買っただけで、大金がもらえるのか理解出来ないのだ。
 紆余曲折の挙げ句に、「いきなり舞い込んだ大金の誘惑に負けず、ガモウヤヨイチャンさまに全額を寄進できるか、信仰を試す」という理屈に落ち着いた。

 

 対戦型ゲームをする際にも、ただ面白いだけではやる気が起きない。
 賭け事が嫌いな人間をどのように釣れば良いか考える、理不尽な労苦が発生した。

 弥生ちゃんはかくの如くに解決を見出す。
 アィイーガをこてんぱんに完膚なきまでに無惨に負かしたのだ。屈辱汚辱の中に叩き込む。ギィール神族の涙目なんて初めて見た。
 そして言い放つ。「これが試練だ」

 他の神族に対しても行った。
 本来金雷蜒の聖蟲を持つギィール神族は智において他に譲るのを恥と思う。それが知的ゲームで敗北する。
 全人格を否定されたかの衝撃を受け、この恥辱を晴らすには勝つしかないと思い定める。

 無論聖蟲の力を用いればかなりの支援が期待できるはずなのだが、頭の上のゲジゲジは知らんぷりをする。
 弥生ちゃんが頭のカベチョロに頼んで、ゲジゲジ達にそういう風にやってくれと伝えたからだ。
 ゲジゲジは心良く引き受け、以後対戦型ゲームを手伝わない。

 この措置は、普通の人間がゲジゲジを戴く神族に勝つ場を作り出す。絶対の権威である聖戴者を屈伏させる機会が生まれる。
 一般人に対してもゲームに挑戦する動機を用意したわけだ。

 ちなみに弥生ちゃんは、ゲジゲジが神族を支援する状態で戦った。
 生体コンピュータでもある聖蟲付で勝てるとは思わなかったのだが、知らないゲームに適応するのは容易でなかったのだろう。
 連戦して一度も危ういと思うところが無かった。

 

 カブトムシの聖蟲は知的には人を支援しないが、妙にツキが有る。囲碁将棋よりもトランプや麻雀の方に向いている。ビギナーズラックという奴も炸裂した。
 例えばメグリアル劫アランサ王女は、初めてやった麻雀の第一局でいきなり「国士無双」を「天和」で上がる。
 思わず「お前は脱衣マージャンか」と叫んでしまうが、無論その場の誰もなんのことやらさっぱり分からない。

 偶然性に頼る要素の大きいゲームでは弥生ちゃんもしばしば負けそうになる。
 が、やっぱり百戦して譲らない。

 ちなみに麻雀牌はもちろんめんどくさいから作っていない。
 紙が無いからトランプ花札も作れない。薄い板に絵を描いてなんとかした。職人が美麗なものをこしらえてくれる。
 麻雀は、こうして作られたトランプと花札を混ぜて牌の種類を揃えて行った。
 だからカードゲームの一種と方台の人は考える。

 

 さてアィイーガだ。彼女は主に将棋と囲碁を好んだ。故にこの2種の道具は立派なものを用意する。
 木切れに字を書いただけの将棋の駒は、方台の人間に受けが悪かった。「ダル・ダル」の駒はちゃんと人形だからだ。
 やむを得ず、チェスの駒に類似する立体的なものを職人に作ってもらう。ひっくり返して「成る」事が出来ないが、仕方ない。

 だが別の問題が発生する。持ち駒を打つ行為が裏切りを思わせて、良しとしないのだ。
 チェスであればそれでいいのだが、将棋から持ち駒の概念を抜いてしまうと魅力が半減する。
 弥生ちゃんは神族や神兵、剣令に交易警備隊員といった戦争のプロに意見を聞き、妥協案を編み出した。

 将棋には偉い駒と「歩」雑兵の駒とが有る。後列に並ぶ偉い駒が造反するのは許せない。
 だが雑兵が寝返るのは戦場では日常茶飯事。形勢を見ていきなり主人に刃を向けるのも傭兵の慣わしである。
 この2種を同列に扱うのは確かにおかしい。雑兵の駒を取っては打つルールは現実的であり許容せねばならないだろう。
 こうして「歩」だけは持ち駒として任意の場所に打つ事が認められた。もちろん「二歩」は禁止である。

 彼我の陣営を色で塗り分ける事とした。赤と黒、そして「歩」雑兵が白である。いつでも裏切る雑兵は両陣営どちらにも属さぬ共通の色であるべきだ。
 アィイーガは赤を「金雷蜒(ギィール)」、黒を「褐甲角(クワアット)」と呼ぶ。また駒の造形もそれに応じたものに変更させる。
 出来上がった盤と駒をウラタンギジトを統べる神祭王の元に持って行くと、彼は直ちに赤い駒に金箔を貼ってしまう。
 以後、ギィール神族が用いる将棋の駒は金色に、それ以外の者が遊ぶのは赤黒の駒にと分かれた。

 駒の種類は、「歩兵」=「雑兵」
 「香車」=「槍手」、「桂馬」=「イヌコマ」、「銀将」=「剣匠」、「金将」=「近衛」、「王将/玉将」=「神聖王/武徳王」
 「飛車」=「神族/神兵」、「角行」=「ゲイル/兎竜」
 ちなみに「イヌコマ」とはイヌコマ軽走兵を指す。イヌコマに重い武具を乗せて自身は軽装で伴走する、機動力の高い兵種だ。伝令にもよく使われる。

 敵陣に自分の駒が入ると「成る」ルールは、人形の駒では難しい。
 一応最初から、「雑兵」は「金」と同じ動きをする「凌士」という駒に成るルールは作っておいた。ステータスの違いは、どうせ頭の良い神族と遊ぶのだから覚えていてもらおう。
 だが端で見ていたゲジゲジ巫女が許さなかった。
 彼女達は錦の端切れで可愛らしい小さなタスキを作り、成った駒に掛ける事を提案して了承される。

 「香車」=「槍手」、「桂馬」=「イヌコマ」の駒も成らねば行き手が無いのだが、これにも特別ルールが用意された。
 自陣に「雑兵」の持ち駒があれば、敵陣に入った「槍手」「イヌコマ」の駒と交換して「凌士」に成る事が出来る。
 交換した「槍手」「イヌコマ」は元々自陣の駒であるから、再利用するのにやぶさかではない。持ち駒として任意の場所に打つ事が許される。

 

 こうして可能な限りオリジナルに近い将棋が完成し、アィイーガは徹底的に鍛え込んで方台最初のチャンピオンとなった。
 とはいえ、好みに合ったのは囲碁の方である。こちらは白黒の石に将兵のイメージを投影する必要も無く、まったくにそのままで受入れられた。
 彼女は囲碁は気の合った友達とお喋りをしながら楽しみ、相手を叩きのめすのは将棋でやる。

 創始暦5023年、この年アィイーガは天下分け目の決戦とも呼ぶべき将棋の大勝負を行った。
 「ギジジット央国」の主である彼女に、ギジシップ島でゲバチューラウの寵愛を一身に受ける神姫が挑んだのだ。
 博打である。ギジジットの覇権を譲れとねじ込んで来た。

 もちろん彼女も将棋の名人であった。アィイーガが初代チャンピオンであるから、敢えて得意のゲームで挑戦する。
 人の神経を逆撫でするのがギィール神族の習い性だ。周囲も敢えて反対はしない。
 ゲバチューラウの許可を得て、双方に中立な土地ベギィルゲイル村をわざわざ借り切って7日間の対局を行った。

 結果は4勝3敗でアィイーガの辛勝である。王者の貫禄で受けきったと看做すべきであろうか。
 棋譜は方台全土に伝えられ、同好の士は皆唸った。
 どちらも次元の違うレベルで相手の手筋を読み切っている。なまじの棋士であればその場で血反吐を吐いて死ぬような激戦だ。
 挑戦者の神姫は敗北を屈辱として、自ら命を断った。
 おかげでアィイーガはゲバチューラウに苦情を言われたのだが、男の口出しすべき問題ではない。

 以後女人が将棋をするのは禁忌となる。皆仲良く「ダル・ダル」を楽しむべきなのだ。

 

第七章 真・姫一刀奥義斬

 メグリアル劫アランサ王女は、赤甲梢前総裁の暗殺現場を望む。

 ミンドレア県のちょうど真ん中辺り、王都にも数日の近距離。
 スプリタ街道の脇で人通りも多く、クワアット兵も近くに駐屯し防衛も十分に為されていたはずの村だ。

 なのに敵は村から人を追い払い、100名ものクワアット兵や壮丁を皆殺しにするだけの戦力を結集した。
 加えて獣人を4体までも投入する。
 金雷蜒王国でしか育成できないはずの獣人が中央近くで用いられ、王族を害する。

 あってはならない、いや有り得ない事件だ。

 毒地の草原を兎竜で抜け、直接に村に入るアランサの一行は、まず警備の兵に留められる。
 昨年の事件以来、未だに軍が村に留まり現場を保存している。それだけ注目度も重要性も高い。
 すぐに責任者の衛視神兵が呼ばれ、兎竜の背に在る王女に尋ねる。
 王女と同じ兎竜に乗る輔衛視チュダルム彩ルダムが応じた。

「その軍旗は赤甲梢総裁のものとお見受けしますが、メグリアル王女 劫アランサ様に相違ありませんか。」
「いかにも、王女であられる。前総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女暗殺の現場を検分に参られた。案内をされよ。」
「手続きがございます。金翅幹元老員が駐留なされて全て取り仕切っておられます。まずはそちらにお出でになられ、改めて輿にて御運びください。」

 さすがに王女暗殺ともなればメグリアル王家に赤甲梢の名を以ってしても、自由には出来ない。
 また兎竜の進入も拒まれた。
 純然たる兵器である兎竜を、それも5頭を犯罪現場に持ち込むのはさすがに問題がある。
 兎竜の生態を一般人は、クワアット兵や黒甲枝も知らない。この巨体であればそこら中の草を全部食べてしまうのかも、と懸念もする。

 金翅幹元老員の事務所は隣村に設けられた。
 現場の村は家屋が全て焼け落ち、捜査の為にも帰還を認めていない。やむなく村人はこちらに移っている。
 住民が倍に増え、その上軍や衛視に元老員と大人数が間借してごった返している。

「おお、あれがメグリアルの、」
「劫アランサ王女様です。方台で唯一空を飛べる。」
「ガモウヤヨイチャンさまに空の飛び方を教わったとか、」
「なんとお美しい。」
「兎竜の背から降りて下さらぬかのお。」

 王女であれば人に注目され口々に勝手な評をされるのも慣れている。
 ただこの地の人間は主要街道であるスプリタ街道に住み、南北に行き交うクワアット兵や神兵、さらには近衛と武徳王本人の行列にも遭遇している。
 神兵慣れしているのだ。
 彼らにして、アランサとその随員の目の醒める美々しさに驚嘆する。

 まずは兎竜が珍しい。軍は行き交い重甲冑翼甲冑も目にしたが、草原を主戦場とする兎竜隊はここまで入って来なかった。
 肩までの高さは4メートル、夢の中の霧のように純白の毛並み、細いが剛い長い脚、ゆったりと前に伸びる首は天から人を見下ろし獣でありながらも知性すら感じさせる。
 およそ人の世の穢れを受け付けぬかの神獣に、天より選ばれた王女が乗るのだ。

 次に赤甲梢が珍しかった。兎竜は5頭。先頭の1頭には王女と彩ルダムが乗るが、続く4頭には護衛の神兵が深紅の甲冑を煌めかせて周囲を睥睨する。
 翼甲冑は今次大戦で順次他の部隊にも導入されたのだが茶褐色に塗られ、やはり紅の鮮やかさには及ぶべくもない。
 草原を疾駆し群がり来る巨大な死神ゲイルを圧倒した兎竜部隊の名は天下に鳴り響く。

 護衛は兎竜隊青旗団長メル・レト・ゾゥオム中剣令以下若手の神兵4名。あえて階級の低い者ばかりを連れて来た。
 いずれも前総裁に従い電撃戦に参加し、激闘を潜り抜けた勇者である。
 敵国領内深くに侵入し首都島、神聖王ゲバチューラウの御座所である神聖宮殿に到達し和平を成し遂げた赤甲梢の武勲は今次大戦で随一。人の誉めそやす所となる。

「これがあの、赤甲梢か」
と見上げるのは民ばかりではない。
 クワアット兵も邑兵も、黒甲枝神兵であっても、王国の悲願を達成した彼等の雄姿に羨望の眼差しを投げる。

 またアランサと彩ルダムの甲冑が、聞いた事も無い様式であった。
 極めて小さな鋼の輪をタコ樹脂の糸で連ねた鎖帷子の領巾を幾重にも重ね、風に流れる姿だ。女性的な柔軟が特徴で固さが見られない。
 運動性と快適性を高める為に板金を用いぬが、繊細緻密な鎖は十分な防御力を発揮する。鎖帷子であれば苦手な矢でも、柔軟性を生かして難なく受け止めた。
 アランサが薄紅と金色を、彩ルダムが青紫を基調として彩られ、互いの性格をよく表現していた。
 王女の聖性を際立たせ、輔衛視の確かさで実力を裏打ちする。

 この甲冑はゲバチューラウが随行する職人に命じて組み上げさせた。二人に合わせた特注品である。
 同じ様式の甲冑は、ウラタンギジトの神祭王が弥生ちゃんに贈った品だけだ。金雷蜒王国においても最新の、これから流行る様式であろう。

 敵国の王から武器を貰う。これを妙に感じる者は方台には居ない。
 ギィール神族は匠の神であり、彼等の手に成る器物のみが宝と認められる。
 褐甲角の神兵も天河の計画を遂行する為に遣わされたからには、用いるべきは神族の鍛えし武具。
 たとえ敵であっても供するにやぶさかではない。いや、無敵剛力の神兵にのみ使いこなせる武器を作るのも、匠の喜びである。

 

 金翅幹元老員が村の外で出迎える。兎竜はさすがに村には入れない。

「これは。」

 元老員は彩ルダムもよく知る人だ。
 アランサも知っているべきなのだが、なにせ叔母は奔放過ぎて実家メグリアル王家では「近付いちゃいけません」的扱いを受けて居た。
 その伴侶と疎くなっても罪とは言えまい。

 二階屋と同じ高さの背から兇悪な大身のチュダルム槍を片手に、彩ルダムは飛び降り元老員の前に頭を下げる。
 鎧の裾を翻し舞い降りる凛々しい姿、またすぐにでも戦闘に臨める気迫に、見守る村人も兵士も息を呑んだ。

「キスァブル様、御久しゅうございます。」
「チュダルム殿、息災で何よりです。」

 焔アウンサ王女の3番めの夫、キスァブルだ。結婚して6年になる。
 金翅幹元老員であるが、芸術家肌で政治にはそれほど深く関与しない。方台全土を飛び回って美の探求に務めるので、妻ともなかなか会う機会を持たなかった。
 互いに気まぐれで忙しい。二人の結婚生活が長続きした理由と言われている。

 彩ルダムが手を挙げてアランサが降りるのを助けようとする。断って、王女はふわりと浮いた。
 これが空中飛翔者か、と人は皆口を開いて上を向く。
 家の屋根ほどの高さにアランサはしばし留まった。ゆっくりと降下する速度に従って、山蛾の絹衣も風になびく。
 たっぷりと10秒を費やして、大地に足を触れる。
 そのまま裾を大気に膨らませ、花が開くかに優雅に礼をする。ゲバチューラウから拝領した甲冑は、この姿勢の時に最大の美しさを発散する。

「メグリアル王女 劫アランサにございます。お初にお目にかかります。」
「噂には聞いていたが、これは天から授けられた宝ですな。大地に千年一度の花が咲いたかの感動を覚えました。
 金翅幹元老員キスァブル肖スディメリオです。王女の御来訪を歓迎いたします。」

 この人は少し違うな、とアランサは感じた。
 赤甲梢の幹部は顔で選ぶ、とまで言われるほどに美形が揃っていたのだが、もちろん例外は多々有り目立つ美形が数名居ただけの話だ、叔母が伴侶に選んだ人はむしろ冴えない外見であった。
 覇気や行動力を表に見せる事が無く、元老員として偉ぶりもせず、多勢の前に飄と立っている。

 彩ルダムに聞かされた所では、彼のその態度が武器なのだ。髪を整えて額の聖蟲を隠し、民衆の間にこっそりと忍んでしまう。
 世間一般の民が育む生業の中に潜む美を収集して回るのだという。
 彼に接した人はなんとなく頼りない姿につい親切心を出してお節介を焼き、帰り際にふと額の上に金色に光る蟲が居るのを見て、はてアレはなんだったのだろうと首をひねる。

 政治的野心は持たぬが、実は武徳王に民のありのままの姿を直接に伝える重要な任務を負う。
 武徳王の傍には一般人の大臣達が揃うが、彼等は職責を果たすだけの優れた能力を備えた、要するに常人ではない。政治的な立場や支援する勢力も有る。
 実際の庶民の姿を説くには障りがあった。故にキスァブルに命じられる。
 世間から幾重にも隔てられる武徳王に美という名の風を届ける、彼は得難い才能だ。

「まずは宿舎を御案内いたします。アウンサの陵には明日、王女の行列を整えて参りましょう。」

 赤甲梢の神兵も地上に降り、1名が兎竜を預かった。兎竜は常人の手では制御できず、神兵の怪力が必要なのだ。
 だが5頭もの兎竜を一人で世話するのは無理がある。7名のクワアット兵が跪く。
 彼等は赤甲梢の兵だ。アランサが前総裁終焉の地を訪れるのは分かっていたから、去年の内から配置しておいた。

 もちろん兎竜を世話する為ではない。いずれも探索の能力を持つ者で、デュータム点の赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダの配下である。
 武徳王暗殺未遂事件のあおりで神兵の活動が難しくなった為に、名目上は「劫アランサ王女出迎えの先乗り」として遣わせていた。
 報告はベギィルゲイル村にも届けられたが、結果は芳しくない。

 彩ルダムは歩きながらもキスァブルに尋ねる。

「下手人の探索はどうなりましたか。」
「人食い教徒なのは間違いありません。ですが、襲撃の意図が不明瞭です。裏の世界にもはっきりした指揮系統が有るのですが、彼等はどこからも外れているらしい。」
「命じた者が分からないのですか。」
「言い直しましょう。襲撃者は金雷蜒軍に奉仕する傭兵です。人食い教団との関連は深いものの、表の存在です。だが主人が居ない。何者かの圧力で襲撃を強要された、そんな感じです。」

「つまり襲撃者は望んで叔母を攻撃したのではない?」
「そこ知れぬ闇を感じます。彼等もむしろ被害者なのかも。人食い教団の上層部にとっては不都合な集団であり、使い潰す為に敢えて困難な作戦に投入された。そう推定します。」

 アランサは事件が思ったより根が深いのを改めて認識する。探索の兵の報告が混乱するはずだ。

 

 キスァブルの事務所、暗殺事件専任捜査部の指揮所は村長の家が当てられる。
 アランサはここで2村の村長の出迎えを受けた。特に事件の有った村の長は跪き地にひれ伏して謝罪する。
 事件の経過の報告では、村人の依頼で護衛の神兵が離れた隙に襲撃されたのだ。奸計に嵌められたわけだが、道具として使われた村人が責任を感じるのも仕方ない。

 聞けばメグリアル王家の代表としてアランサの2番目の兄が村を訪れ葬儀を行っている。この時も謝罪して許されているのだから、アランサが罰を与える道理は無い。
 だが赤甲梢の総裁として、叔母の意志を継ぐ者として村長は許しを乞うのだ。
 キスァブルが助言して、王女の許しと祝福を与える。また村の女達を出して翌日の行列の手配を命じた。

 焔アウンサ王女の陵に慰霊に訪れる。男の王族や金翅幹元老員であれば兵を随行させればよいが、王女ともなれば女官侍女を従えるのが礼法だ。
 鄙にて人数が無くて行列を仕立てる場合は、現地の女人に正装をさせて伴う。
 或る意味、女達にとっては一世一代の晴れ舞台だ。行列への参加でようやくに村人は赦免を天下に認められよう。

 この恩恵に感謝して宴が捧げられる。
 慰霊の旅であるから大袈裟なものは控えられるが、断るとまた村人が残念に思う。
 焔アウンサ王女への供養でもあるのだ。
 アランサはしばし考え、自らの名代に護衛の神兵メル・レト・ゾゥオム中剣令を立てる。
 赤甲梢総裁と言っても、自分は叔母がどのように働いたかを知らない。やはり傍近くに仕え電撃戦にも参加した神兵の言葉にこそ重みが有る。

 彼に宴を任せて、アランサと彩ルダムは捜査記録の閲覧を求めた。
 キスァブルは事務所脇の納屋を改装した資料庫に案内する。

「暗殺に使われた獣人の、これは毛皮ですか。」
「はい。どこで育成されたものか調べる為丸のままで保存したかったのですが、腐敗を始めたので皮を剥いで乾かしたのです。」
「獣人を識別する印が有るのですか。」
「通常では刺青や傷痕で記されますが、これにはありません。つまり金雷蜒王国が正式に育成したものではないのです。」
「……。」

 殺害された者の遺体の状況も事細かく図面に残してある。焔アウンサ王女の護衛の半数が獣人との格闘戦で死んでおり、酷い傷の記録は目を覆わんばかりだ。
 一方襲撃者側は、獣人はクワアット兵により全身を切り刻まれて死んでいるが、30数名もが一刀の下に鮮やかに斬られていた。
 太刀筋から王女が自ら手を下したもので、敵を全滅させるまでまったく危なげ無く駆抜けたと見受けられる。

「そしてこれが、アウンサの記録です。」

 一枚だけ絹布に検死記録が描かれる。焔アウンサ王女の遺体はなかなか見付からず、3日後火災で崩れた屋根の下に隠された井戸から発見された。
 長い刃物で心臓を一突き、その後抜かずに左肩を切り上げて刃を身体から外している。
 尋常の使い手ではない。
 井戸の底に身を潜め、王女が覗き込む瞬間に致命の攻撃を果たしている。

 額にカブトムシの聖蟲を戴いているのだ。多少遅れを取ったとしても、刃が肉に食い込む瞬間に逆撃を食らわす事も、神兵には可能だ。
 また聖蟲は風を巻き起こして宿主の身体を護る。なまじの攻撃では不意を衝いても命を落すまでには到らない。
 稲妻よりも早く鋼鉄をも貫く強烈な刺突を、井戸の中から真上に行う。

「アウンサさま……。」

 彩ルダムは図面に記される人型の墨の線に涙を零す。彼女が王女のおよそ唯一の親友であったのだ、夫よりも深くに悲しみに耽る。
 アランサは引き続き元老員キスァブルに説明を受ける。

「急を聞いて私が駆けつけたのが、事件から9日後です。既にアウンサの遺体は発見され、殯屋に安置されていましたが、おかしかったのです。」
「死因になお不審があったのですか。」
「いえ死体そのものに異常がありました。心臓を抉られ確かに即死しています。長時間冷たい井戸水に浸かり、氷のようになっていても自然です。
 なのに、まるで生きているかに柔らかく、頬に赤味までもが有ったのです。」

「それはいかなる現象でしょう?」
「分かりません。また抉られた心臓も不思議です。確かに背にまで開く穴が開いているのに、血液が流れ出した形跡が無い。井戸をさらった者の証言でも、中に流血の痕跡が無い。多分、身体の中に血が留まった為にあのような不思議な遺体になったのです。」

 しばし考える。キスァブルが言う死体は確かに異常だ。だが、自分が知らないものではない。
 あれはデュータム点に居た時か、ウラタンギジトでの出来事か。弥生ちゃんを暗殺せんと日毎に刺客が訪れて、何人もが警護の網に掛かり命を落す。
 アランサは警護責任者として死体の状況を一々確かめた。
 あの中に、同じ状態を示す死体が、

「…まさか!」
「なにか心当たりがございますか。」
「いえ、…いえ、そんな、まさか、……有り得ない事です。いえ有ってはならない事です。」

 青晶蜥神の力を宿し青い光を放つ刀剣、アランサが今も腰の後ろに吊るしている。これで人を斬り殺すと、キスァブルが言うような死体が出来上がる。
 キルストル姫アィイーガの2人の狗番は自らの刀に神威を授かった。彼等が手を下した死体が、確か。

 暗殺者は、神剣神刀を携えている。

 

 翌早朝。まだ日も昇らぬ内にアランサは起き出して、宿舎の脇で神刀を振るう。
 衣川家伝一刀流。弥生ちゃんから直々に習った星の世界の剣術だ。
 だが今日はいつもの朝稽古と違い、雑念が入る。

 叔母、前総裁 焔アウンサ王女を斬った者は青晶蜥神の神剣を用いる。
 だが神剣は邪なる手に握られるのを厭い、柄や鞘に触れただけでも指が斬り落ちると聞く。

 つまり神剣神刀を用いる事が許されるのは、天に選ばれた者。天河の計画に則り、赤心より民の平和と安寧を望む者と証される。

 分からない。誰なのだ。暗殺という卑劣な真似をしながら、神に見放されないのは。
 弥生ちゃんだとて言っていた。「自分がバカなコトをすれば、頭のカベチョロは遠慮無く逃げちゃうよ」と。
 それが聖蟲だ、神の審判だ。金雷蜒褐甲角両神の使徒だとて、堕落すれば直ちに聖蟲を失ってしまう。

 自らの正義を疑わず、天道に適うからこそ、神の化身を戴いて許されるのだ。

 振るう刀にたなびく光が、青から緑、薄橙へと心の葛藤を映して色を変える。
 後の世に「易鮮の刀」として伝わる、アランサ専用の神刀だ。人を癒すでなく、人を斬るでなく、彼女は自らを戒める為に振るう。

「アランサさま。」
 迷いを断ち切り青い光のみにまで純化して、ようやく納刀した王女に輔衛視として彩ルダムが話し掛ける。

「今日のアランサさまの慰霊を最後に襲撃現場の保存を終了し、村の再建を始めるそうです。」
「よかったです、春に間に合って。」

 これがアランサ訪問の最終的な目的でもある。赤甲梢として正式に検分をしなければ事件を終らせる事が出来ず、現場がいつまでも凍結される。
 いたずらに民に難儀を強いるので、軍は速やかに撤収し衛視に捜査を任せるべきなのだ。

「村を焼かれた人達への補償はどうなりますか。」
「メグリアル王家、また陛下から御下賜金が贈られました。以後村の者にアウンサさまの陵を守ってもらいますから、その分も含めてですね。」
「では赤甲梢が何をする必要もありませんか。」
「何かを残していきますか?」

 少し考える。青晶蜥神救世主である弥生ちゃんの降臨するこの時期に、救世主の手解きにより飛翔が可能となったアランサが記念となるモノを残す。
 村人は喜ぶだろう。しかし、政治的には上手くない。
 アランサが独自の立場を確立するのを厭う向きは、カプタニアにも大本営にも居る。
 弥生ちゃんの扱いにも微妙な影響を与えるだろう。

「この地には電撃戦を敢行した赤甲梢総裁の亡骸が眠るのです。それでよいではありませんか。」
「…そうですね。それが一番の記念ですね。」

 彩ルダムはひょっとしたらこの地に住みたいと言い出すかも知れない。今ではないにしても数十年後には。

 

 失われた村は4里(キロ)ほど離れている。半刻(約1時間)を費やして行列を連ねて行った。
 アランサは村人が担ぐ簡易な輿に乗り、前後に着飾った村の女達が付き従う。
 まさかとは思うが赤甲梢総裁を標的とする再度の襲撃が行われるかも知れず、クワアット兵の護衛が険しく目を光らせる中静々と進む。

 春のスプリタ街道は美しい。毒地からの害有る風が吹かないので、例年にも増して色とりどりの花が咲き誇る。
 そして、村人達の懐かしい家が見える。焼け落ち黒く焦げる柱、土の壁の崩れた様、防風林も梢が燃えていつものようには緑の葉は伸びないだろう。
 だがここが故郷だ。
 ようやくに村を再建出来ると聞かされて、喜びの歌が知らずに口から流れ出た。

 慰霊の行列であるから不謹慎な、と咎める声も有るが、アランサは彩ルダムに命じてそのままにさせた。
 叔母も辛気くさいよりは明るい方が嬉しいだろう。もう少し贅沢に行列を飾れば更に良いのだが、そこは勘弁してもらおう。

 村警備のクワアット兵の敬礼を受けて、輿から降りたアランサは案内のままに叔母の遺体が発見された井戸へと向かう。

「当日は村中が火事でありましたが王女の身に火傷は無く、火に追われて井戸に逃げたわけでは無いようです。」
「手を洗いに行ったのでしょう。」

 昨日読んだ死体の検分書、敵方の傷の様子を見れば、焔アウンサが自ら手を下したと思われる者が多数有る。
 30を越える人数を斬ったのだ、全身血みどろになっただろう。
 崩れた屋根が被さって、発見が遅れたと聞く。覗き込んで見ると井戸はかなり深い。遺体の回収にも随分と苦労したらしい。

 案内の者に、敵がどのように攻めて来たかも教わった。わずかに生き残った兵の証言から、襲撃は極めてまっとうな軍略に則った奇襲であったと知る。
 であれば、兵数において優る叔母の護衛は有利に戦いを進めただろう。
 獣人さえ無ければ。それも神兵の1人でも残っていれば、大過なく迎撃できたに違いない。

 街道に出て、獣人の襲撃の詳細も聞く。
 電撃戦の最中、赤甲梢は東金雷蜒王国首都島ギジシップにて、本物の獣人の部隊と遭遇した。
 この地に現れたものと比較して戦闘力を推定させると、直接に戦ったと言う神兵は首を横に振るだけだ。出来ははるかに劣るらしい。
 それでも4体でクワアット兵100を相手取る。

「おそらくは、デュータム点のメウマサク神官長が関係するのでしょう。」
「?、なんですかそれは。」

 彩ルダムや赤甲梢は、弥生ちゃんを暗殺する為に双子の娘を獣人化したメウマサク事件を知らない。
 アランサは自身が処理に当たったから、まずこれを思い出す。
 キスァブルや捜査に当たる衛視も皆その結論に達している。人食い教団の関与が明らかであるから、疑いようも無い。

 ただ、メウマサク本人が襲撃に使われた獣人を育成したとは考え難い。
 人の倍もの巨体を持つ獣人を食わせるだけで、相当な経費が掛るはずだ。人目を避けて飼う場所も用意せねばならない。戦闘訓練もだ。
 褐甲角王国内に獣人の育成施設が有るに違いない。それも十分な財政的裏付けを持つ組織が運営する。
 再度の襲撃が予想される。一刻も早く探し出し、潰滅させねばならなかった。

 

 一通り戦闘の跡を確かめた後、焔アウンサ王女の陵に参る。共に逝った護衛と共に、火を被らなかった森の一角に葬られている。
 薄葬だ。
 褐甲角王国では戦場で斃れた者は、近くにただ埋めるだけの葬儀となる。王族とて例外ではない。
 逆に言うと、王族が薄葬にされるのは戦死の場合に限られる。武を以って成る国の王族であれば、それは最高の名誉と言える。

 直径5メートルの土盛りだった。飾りが何もない、土の山だ。
 周囲に1メートルほどのが10個有る。小さいものは10人ずつを埋めてある印で、おおよそ身分ごとまた性別で分けられる。

 まずアランサが前総裁の前に跪き、額を土に押し当てた。聖蟲を戴く頭を下げる、これより尊い礼は方台に存在しない。
 続いて彩ルダムが跪き、花を捧げる。彼女が焔アウンサ王女に最も近しい友である事を鄙の村人も知っており、涙で見守った。
 ついで、赤甲梢の神兵が蟲の顔を持つ兜を左の脇に抱えて礼をする。また隊長であるメル・レト・ゾゥオムが大剣をかざして陽の光を陵に当てる。

 これを小さな土盛りにまでそれぞれ行う。
 下には死体しか無い。甲冑や武具は回収され再利用される。
 王女とて例外でなく副葬品も驚くほどに少なく、ただ王女であった証明として褐甲角神の護符を抱くだけだ。
 コウモリ神官のお祓いも蝉蛾神官の惜別の歌も無い、極めて簡素な戦場の礼である。

 焼けた村に戻ると、金翅幹元老員キスァブルが衛視を率いて待っていた。
 衛視は2人ともに完全装備、重甲冑を纏って王女を迎える。捜査の為に派遣された彼等が武装を用いるのは不可解なことだ。

「これはどうした理由ですか。」

 輔衛視である彩ルダムが王女に代り問い質す。彼女はもちろん衛視の資格を持ち、王都カプタニアで数年働いた経験が有る。
 このような場所で、それも王族の慰霊の時に対ゲイルの完全装備で迎えるなどなんて非常識な。

 衛視に代わってキスァブルが答える。彼は部外者ではあるが、金翅幹元老員として政治的意味合いを持つ場合は関与を許される。

「カプタニアより令状の執行を示唆されたのです。あらかじめ彼等は持たされ、赤甲梢の責任者が到着した際に行使するようにと命じられています。」
「どのような用件です。いえ、この場でしなければならない事ですか。」

 確かに王女が腰を落ち着ける場所も無い焼けた村で、民人が大勢見守る中でやる話ではないだろう。
 彩ルダムが衛視を睨むと、彼等もやり過ぎであると理解するのだ。重甲冑の分厚い装甲の陰から、困惑する瞳をキスァブルに返す。
 キスァブルは進み出て、王女と彩ルダムに顔を近付け内緒話をする。

「王女はこちらにお出でになる際に毒地を直接に突っ切って来ましたね。」
「ええ。アランサさまが大本営にお寄りになれば必ず足留めされますので、やむなく街道を通らず毒地の草原を抜けました。」
「その時、金雷蜒軍の補給地に近付きましたか?」

「なにか、ございましたか。」
「ヌケミンドルの防衛線に今朝ゲイル騎兵が大挙して押し寄せたとの報告が入りました。戦闘を仕掛けて来る気配はありませんが、それでも100に近い数の神族が結集して緊張を高めています。」

「ああ、それは。」
 王女自らが答える。

「褐甲角王国に最も近い西の傭兵市『ラグノーブ・モン・ファンネム』の神族に、ゲバチューラウ陛下よりの親書と命令書をお届けしました。」
「命令書を?、敵国の王女に神族への命令書を届けさせたのですか。」
「ええ。断る事もできましたが、もう一通カプタニア中央軍制局への親書も頂きましたので、そちらをお断りするわけにもいきませんでした。」

「失礼ですが、内容をお確かめになられましたか。神族に届けられたものは、」
「『ラグノーブ・モン・ファンネム』の神族に対しては、「再び軍勢を押し出してヌケミンドルの国境線に赴き、武威を示してソグヴィタル王の裁判に圧力を掛けよ」です。」
「ああ!」

 キスァブルも流石に金翅幹元老員だ。この命令の政治的意図に納得した。
 南海円湾での戦いで拘束されたソグヴィタル王 範ヒィキタイタンの再審理では、当然のことながら共犯者としてキスァブル・メグリアル焔アウンサ王女も問われる。
 以前より王と親交の深い赤甲梢の総裁として、また東金雷蜒王国侵攻計画を共に図った企画立案者として、さらには大審判戦争において連携し電撃戦を行った同士として。
 ソグヴィタル王の南海での活動が王国への叛逆と看做されるのであれば、焔アウンサも連座する。

 だが彼女は既に地上に居ない。代りに現在の総裁であるメグリアル劫アランサ王女が引き継ぐ。
 知らなかったでは済まされない。公式には大戦の直前に総裁職はアランサへと引き継がれ、焔アウンサ王女は総裁代理兼助言者として部隊の指揮を執った。
 焔アウンサの行為の一切は、すべてアランサが責任を取らねばならない。

 それを知ったゲバチューラウが、アランサを護る為に敢えてゲイル騎兵を押し出したのだ。
 再度金雷蜒王国の脅威を呼び覚ます事で、ゲイルに唯一有効に対処出来る兎竜騎兵の存在を強調し、赤甲梢の有用性を引き立てる。
 赤甲梢総裁の政治的立場も強化されるわけだ。

 無論、ソグヴィタル王の裁判を通じて褐甲角王国内部を揺さぶり、方台新秩序構築の場で優勢を得るのが主目的である。

 令状の執行が衆人環視の中で行われるのも、それに対抗する為であろう。
 一種の見せしめであり、状況は直ちに王国全土へと伝えられる。アランサがゲバチューラウのお気に入りであるのは、演劇を通じて世に広く知られていた。
 たとえ王女であろうとも、空中飛翔者であり弥生ちゃんの友人であったとしても、敵国の王と通じての政治的策謀は許さない。
 断固たる姿勢を内外に示すのが目的だ。

 

 いかにもカプタニアの元老院らしいやり口である。やらされる衛視もたまったものではない。
 ただ彼等が持たされた令状は、もうすこし悪辣なものだ。

 内緒話は衛視の耳にまで届いている。額にカブトムシを戴く人は五感を強化され地獄耳にもなる。

「キスァブル様、お言葉ではありますが、我等が預かる令状はメグリアル王女 劫アランサ様を対象としたものでは有りません。」
「うむ? では誰に対してだ。」
「第一義的には前総裁メグリアル王女 焔アウンサ様ではありますが、共犯として赤甲梢の幹部にも適用されます。輔衛視チュダルム彩ルダム様に対しても、やはり。」

「共犯と言いましたか、今。」
「はい。」

 彩ルダムの顔に血の気が上がる。共犯、つまり犯罪行為があり焔アウンサ王女が罪に問われる。
 叛逆ではない。叛逆ならば国事犯だが、この令状は刑法犯に対してのものだ。
 故人の名誉を傷付けることなお著しい。

「罪状は?」
「公金横領です。ですが、」

 彩ルダムは噛みつこうとした寸前に気勢を止められる。ですが?

「この令状は、御庫造兵統監ヅズ息トロンゲノム様が発行されたものです。」
「中央衛視局ではなく、御庫造兵統監から、ですか…?」

 御庫造兵統監、つまり武器庫の管理と武器製造を司る役職の最高位だ。実務は黒甲枝が行うが、金翅幹元老員「破軍の卒」ヅズ家に歴代任されて来た。
 彼は赤甲梢と縁が薄い、わけではない。
 そもそもが赤甲梢は新兵器開発の実験部隊として生まれた。
 新兵器の運用研究を行う為に苛酷な実戦での検証を必要とし、そのまま敵に対して使ったのが、赤甲梢が最強の実戦部隊となってしまう由縁である。
 当然のことながら兵器開発製造の部所とは連携が深い。御庫造兵統監の直轄と言ってもよいほどだ。

 そしてヅズ息トロンゲノムとも、焔アウンサは連絡を緊密に持っていた。
 「破軍の卒」は10家全て先戦主義派であり、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンが提唱する東金雷蜒王国侵攻計画に皆賛同した。
 特に兵器管理と製造を司るヅズ家の支持は絶対の必要が有り、また大規模作戦計画の立案に従って造兵予算が拡充されるから、双方共に利益となる関係だ。

 焔アウンサは兎竜によるゲイル騎兵迎撃戦術の確立に成功し、また翼甲冑の運用を実戦の最中で検証し配備に尽力した。
 ヅズ息トロンゲノムにとっては実に有り難い赤甲梢総裁であったのだ。

 その間の事情は彩ルダムもよく心得る。
 だからこそ、この令状は不可解だ。

「公金横領の詳細について話していただけますか。」
「は。赤甲梢前総裁メグリアル王女 焔アウンサ様は牙獣装甲車20両の製造の為に下賜された…、」

 彩ルダムはアランサの手を引いて、ぴゅーと走り抜けた。200メートルほど離れて止まり、衛視およびその他大勢を振り向く。
 この距離は盗聴防止の為である。が、静かな場所であればこれでも神兵の耳には届く。
 指で額の黒褐色のカブトムシを小突いて、彩ルダムは羽ばたかせた。ぶーんと鳴る羽音が声をかき消してくれる。聖蟲と宿主の関係が良好でないと使えない裏技だ。

 アランサは尋ねる。

「事実なのですか?」
「は、はあそれが、つまり牙獣が牽く車を作ると称して製造費を電撃戦の軍資金に充てたわけでして、あとハジパイ王からギジジット進攻計画の準備金も、」
「……事実なのですね。」

 溜め息を吐く。それはそうだ。電撃戦、神兵300名兎竜70騎イヌコマ500頭をも動員する作戦が、無一文で出来る道理が無い。
 どこからカネを調達したのか、考えてみれば不思議だった。
 金策の得意な人だから色々と怪しい手口を使っているのだろうとは思っていたが、こんな詐欺紛いをやらかしていようとは。

「いかにも叔母上らしい置き土産ですね。」
「は、はあ。ですが電撃戦の成功で元は取ったと思われますので、赤甲梢の幹部達は皆失念しておりました。」
「確かに成功がもたらした和平に比べれば些細な出費と言えなくはないですが、騙された御庫造兵統監は腹が立つでしょう。」
「ま、まったくですね。はは、ハハハ。」

「なにか面白いことをしているな。」
「きゃ!」

 足元から抑揚の無い間抜けな声がするので振り向くと、すんなりと伸びる真っ白い毛並みが有る。
 人の居る所にネコありき。天下を揺るがす暗殺事件の現場に、無尾猫が居ない道理が無い。
 ましてや今日は空中飛翔者として世に名高いメグリアル劫アランサが、お芝居では謀反人の誹りを受けながらも民衆を救わんとする正義の王女が、赤甲梢を長年率いて無敵と呼ばれ王国悲願である敵領内侵攻首都攻略を見事成し遂げながらも何者かの手に拠って暗殺された華麗で破天荒で世間で人気一番の叔母 焔アウンサ王女を慰霊する行列を仕立てたのだ。
 そりゃあネコが来る。

 襲撃の現場は事件直後からクワアット兵によって厳重に保存されていたから、ネコはたびたび追っ払われた。鬱憤晴らしにも今日は特ダネを仕入れて行くのだ。

 最早逃げ場が無い。3日の内には褐甲角王国全土に、焔アウンサ王女公金横領の噂は広まるだろう。
 いくら電撃戦の成功で帳消しに出来るはずと主張しても、名誉を傷付ける事著しい。
 なにか手を打たねば、とは思いつつも妙案は無い。ネコを連れたまま衛視の所に戻る。

 着くと同時に彩ルダムは口を開いた。

「総裁は一切預かり知らぬ事です。事情聴取は私が引き受けましょう。アランサさまに手出しはなりません。」
「彩ルダム、それでは私が納得できません。総裁代理の行為は総裁が自身で責任を取るのが筋です。衛視よ、私を連れて行きなさい。」
「いえ、王女はこのままカプタニアに御行列を仕立てて堂々とお出で下さい。縄目を受けるのは私一人で沢山です。」

 こうなると彩ルダムはテコでも動かない。剛直を以って天下にその名を轟かせる黒甲枝の屋台骨チュダルム家の一人娘なのだ。
 いかに重甲冑を纏う神兵であっても、荒れる婦人を穏便に取り押さえるのは苦労する。
 ちなみにこういう女人を扱う時は元老員キスァブルは実に有能なのだが、今回高見の見物だ。赤甲梢の護衛の神兵は4人も居るのにおろおろと見守るばかり。
 村人もクワアット兵も、どうなる事かと固唾を呑んで成り行きに任せている。

「えーいわたしを連れて行きなさいと言うではありませんか!」
 両腕を振り上げて暴れる彩ルダムを、2人の重甲冑の衛視とアランサは必死で取り押さえる。

 彼女の狙いは自分が暴れることでネコの注意を惹き、流される噂話を「彩ルダム白昼の暴行」へと書き換えるつもりなのだ。
 焔アウンサの名誉を今更に貶め傷付けるを許さない、揺るぎない決意が有る。
 だが、

「彩ルダム落ち着きなさい。」
「輔衛視殿、ここはなんですからアチラの事務所でお話を、」
「いいえイヤです!」

 ぽく。

 手が当たった。衛視の一人の重厚な兜に、アランサの手が思わず当たってしまう。
 いい感触がした。腹の奥から力が迸るかの、決して力んだり勢いを込めたわけでなく、自然な動きの中に全身の力が流れ込むかに、接触した兜に吸い込まれて行った。

 ぐらりと揺らぐ。
 重量300キロを越える重甲冑の武者が態勢を崩して後方にのけぞる。ゆっくりと、膝の支えが失われ、大木が倒れるかに仰向けに落ちる。
 大地を揺さぶる音がした。

「……、これは、……いい感じ、でしたね。」

 衣川家伝一刀流奥義『灯籠斬り』。
 文字どおり日本刀で石灯籠をぶった斬る技だ。本当に斬れるのだが、戦場で用いる時は少し様相が異なる。
 そもそもがこの技は、完全防備の甲冑武者を一刀で斬り伏せる極意。とはいえ鋼鉄で鎧われ殺意を持って向かう屈強の武者を、刀で倒すのはなかなかに難儀。
 そこで工夫されたのが『灯籠斬り』の奥義だ。

 石燈篭は継ぎ目の無い塊の石ではない。何個もの石を組み上げて作っている。崩すには倒してばらばらにすればよい。
 同様に、人間も骨格関節で成り立っており、ばらばらに崩せば容易に倒れる。
 『灯籠斬り』は、刀が接触した瞬間に力を流し込み、相手の骨格にそれぞれ耐え切れない方向の圧力を掛け、自ら倒れさせる技だ。関節技の一種とも看做せる。
 合気系の、あるいは発勁技法とも言われるが、どちらにしろ長年の鍛錬と工夫によってのみ成し遂げられる極意奥義には違いない。

 メグリアル劫アランサはわずか半年の修行によって会得する。如何に神の力添えが有ったとしても、快挙であろう。

「いい、感じでしたねえ…。」

 まぐれで無かったと確かめる為に、いきなりの珍事で戸惑い動きを止める彩ルダム、もう一人の衛視を狙う。
 すっと重甲冑の正面に立ち、大上段に手刀を振り上げると、先ほどと同じく軽く打ち当てる。

 ぬん、と伸び上がった鋼鉄とタコ樹脂で塗り固められた甲冑は、やはりゆっくりと後方に倒れて行く。

「出来た   。」

 額にカブトムシの聖蟲を戴く者が、神兵が女人に殴られただけで無様に倒れるなど聞いたこともない。
 いや、神兵同士が殴り合いをしても、そして稽古の時にはしばしば有る話だ、決して崩れはしない。
 神兵の怪力で振り回すには、稽古とはいえ只の木剣では強度が不足する。丸太、薪を用いて砕けるまで殴り合い叩き合う。
 たまに手元が狂って相手の顔面に当たってしまうが、それでも平気な顔をするのが神兵だ。

 カブトムシの聖蟲が発する風の護りによって、また身体内部から沸き上がる力が打撃を跳ね返すのだ。鋼の鋭角でなければ傷にもならぬ。
 にも関わらず。
 

 その場に居合わせた人は、現実の光景を頭で処理出来ず凍りつく。
 クワアット兵も、日頃神兵と共に有り無敵性を良く知る彼等だからこそ、目の前で繰り広げられた現象に戸惑った。
 王女は今、何をなされたのだろう。

 ネコも背筋の毛を逆立たせて飛び跳ねる。何か知らないが何か起きた。これは凄い。

 彩ルダムが信じられぬと顔面を白く引き攣らせて自分を見つめるのを、アランサは気持ちよく受け止める。
 思わず右の拳を握り締めた。

 

「行きましょう! カプタニアに。逮捕されに!」

 

 

【最後の使者】

 その女の印象は、”いかにも平凡”であった。

 髪の色は茶。これを後頭部でイヌコマの尻尾のように括っていた。成人女性としては極めて短い部類に入る。

 王族や神族、豪商は肉を常食するから髪は赤くなり、中流以下の階層は茶色から黄土色になる。十二神方台系の常識だ。
 だからこそ、茶の色具合には敏感となる。わずかでも赤味が交じれば或る程度の社会的信用を得る。
 女の髪は栗色に近い。世間一般では十分「お嬢様」と呼ばれる色合いだ。
 服装も飾り気は無いものの布地も縫製も良く、近年の流行も取り入れており、結構裕福な町家の娘と見えた。

 ではあるのだが、どうにも存在感が薄い。
 実のところ、顔形を見れば方台一般の相ではなく異人なのだが、警備に当る神官戦士たちの注意に留まらない。

「なにか御用かな?」
「聖神女ティンブットさまにお目通り願いたいのですが、御案内頂けますか。」

 無理だ。
 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンを最初に人界にいざない道行きを供したのが、流離いの舞姫タコ巫女ティンブットだ。
 また弥生ちゃんに従って円湾に赴き、巨大なテューク(大蛸)の化石の中から赤石に覆われた古えの女王を発掘する。
 紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ・ッタ・アクシ、臣下の騒乱を鎮める為に自ら姿を消した幻の救世主。もちろんタコ巫女が世のなによりも崇める人だ。

 この二つの奇蹟に立ち会ったが為に、ティンブットは聖山神聖神殿から「聖神女」の称号を授けられる。
 舞手としても当今最高の技量を持ち、金雷蜒神聖王ゲバチューラウの御前で死を賭して踊り、見事神族の称讃を勝ち取った。

 弥生ちゃん降臨以後、聖蟲を戴かぬ者としては最も優れた働きをする。生ける伝説と呼んでも差し支えない。

 今彼女は演劇団を率いて褐甲角王国西側を巡っている。
 方台西側には弥生ちゃんは未だ歩を印しておらず、人々の渇望は高まるばかり。このまま不在が続けば、彼等だけが天河から見放された事にもなりかねない。
 せめて、と弥生ちゃんの側近にして奇蹟の人ティンブットを待ちわびる。

 ”女”のような面会希望者は毎日幾万とやって来る。
 押し寄せる人の波を堰き止める神官戦士はいずれも礼節を重んじるが、正直、杖で追っ払いたいところだ。

「どなたかの紹介状をお持ちだろうか。」
「いえ、特には何も。」
「それでは如何ともし難い。どなたかの伝手を得て、再度お出で願いたい。」

 実際カネを積んで会おうと試みる者も多い。それでも、舞台袖の桟敷を確保するのが精一杯だ。
 直に面会して言葉を交わすのは、聖蟲を持たぬ者にはなかなか難しい。

 ”女”は残念そうに言った。

「この人集りでは仕方有りませんねえ。」
「ガモウヤヨイチャン様の御名代であられるから、余程の有力者の口利きが無いとどうしようも無いのだ。」
「そうですかあ。…それでは蝉蛾巫女フィミルティ様では?」
「あの御方も聖神女様と同格に扱われ、難しいな。」

「困りましたね。」

 女の背後からも押し合いへし合いしてやって来る。1人に関わっている暇は無い。
 だが大人しく引き上げてくれたので神官戦士は安堵し、忘れる。思い出したのは1刻(2時間15分)も後だ。

「またお願いにあがりました。」
「何度言われても困るのだ。」
「いえ。これをティンブット様にお届け下さい。」

 女が差し出したのは1枚の絹布だ。墨で文字が書いてあるが、読めない。テュクラ符ではなく、ギィ聖符でもない。

「これは、何と書いてあるのだ?」
「ティンブット様とフィミルティ様であれば、読めます。お届け下されば必ず御許しが出るでしょう。」
「う、む。」

 アノ手コノ手と奇異な手段を弄する者も少なくない。自分だけは特別な関係を持つから是非に、と警備を欺く輩を何人追い返したか。

「届ければよいのか。」
「一目見える場所に掲げてくださるだけでも、良いと思います。」
「うん、一目で分かる印ということか。誰かに頼んでなんとかしよう。」
「お願いいたします。」

 勿論女は神官戦士への心付けも忘れなかった。

 

 午後の部の公演終了後、彼は仰天する。
 聖神女とフィミルティ、最重要警護対象2人が血相変えて飛んで来たからだ。

 フィミルティが手に絹布をかざして問い詰める。とても綺麗な声だが、野外劇場を圧する声量で質問するから大迫力だ。
 弥生ちゃんに授けられたグルグル眼鏡が夕闇に燃える篝火を映す。

「この文をもたらしたのは、どの御方です!?」
「え、ええ。昼頃にお出でになった女人で、」
「今はどちらに!」

「やっほー」
と、手を振る女の姿が有る。日が落ちても明朝の部の場所取りをせんと気合い十分な群集の直中、物見櫓の上に立つ。

 ティンブットが豪奢な舞衣装のまま群集の中に踏み出し、慌てて神官戦士たちは輪となって人を斥ける。
 一目だけでも、衣の裾にわずかでも触れられればと伸ばす手の林に構わず、ティンブットは櫓の下に進む。
 そして優雅に頭を垂れて礼をする。
 王族、神族神兵にのみ捧げられる十二神の巫女の最高礼だ。

「どちら様かは存じませぬが、ガモウヤヨイチャンさまに縁の方とお見受けします。地上に降りては頂けませぬか。」
「いえ、わたしはそんな偉いヒトではなくて、えーと今下りますね。」

 するすると、だが不器用に引っ掛かりながら降り立った女の前に、ティンブットとフィミルティが改めて頭を下げる。
 フィミルティが手にする絹を拡げて見せる。

「これをしたためられたのは、貴女ですか?」

 墨痕鮮やかに”漢字”で「蒲生弥生」と書いてある。
 この文字が書けるのは方台広しといえども弥生ちゃん本人しか居ない。二人はしばしば弥生ちゃんの傍でこれが描かれるのを目にしたから、かろうじて知っている。
 そして、ココが大切なのだが、弥生ちゃんは漢字で書いた自分の名をモノとしてはどこにも残していない。
 いざと言う時の符丁として、極少数の近侍にのみ教えてあったのだ。

「この文字が書ける御方は、星の世界よりの希人に相違有りません。なにとぞ、なにとぞガモウヤヨイチャンさまの居所をお教えください。」
「聖神女ティンブット、蝉蛾巫女フィミルティに命じます。」

 女は背を伸ばし、威儀を正して告げる。
「蒲生弥生ちゃんは、まもなく方台にお戻りになられます。場所は、カプタニア。」

 おおおお、と大地が割れるかの声が周囲に轟いた。この日この時に居合わせた人は、世界中の誰よりも幸運と言えよう。
 フィミルティもガラスの目玉が涙に濡れるのを覚える。
 これこそが、これをこそ待ち望んでいた。だが、もう一声。

「時は?」
「陰月三月三日(春中月二日)以降数日。」

 すっと顔を地に近付け、二人の巫女の耳元で囁く。

「あの御方は最も効果的な場所と時を選んで降りられます。最も人が喜ぶ時に、です。ちなみに三月三日は弥生ちゃんの誕生日ですよ。」
「は、ははああ。」

 間違い無い。この御方はガモウヤヨイチャンさまに近しい人だ。救世主の性格を熟知する。
 女は改めて命ずる。

「急ぎこの地を出発って、救世主をお迎えしなさい。」
「は、ははあ。」

 居合わせる全ての者が頭を下げた。
 この人は神の使いだ。天河十二神は地上の人を見捨ててはいなかった。

 再び顔を上げた時、女の姿は無かった。為すべき事行うべきを済ませて、お戻りになったのだ。
 ティンブットは立ち上がり、右手を挙げて宣言する。山蛾の絹の緋の袖が夜風になびき、篝火の焔に揺らめいた。

「公演はお終い。荷物を畳みカプタニアに参ります。」

 再度歓声が上がる。群がる人のいずれにも、新たなる目的地が指し示された。
 カプタニア、武徳王の都に天河十二神の光が届く。1000年前、初代武徳王カンヴィタル・イムレイルが誓った救世の大願に歴史の審判が下される。
 見ねばなるまい。
 今の世に生まれた者の責務として、我が孫子に代わって、啓示が下される瞬間を眼に収めねばなるまい。

 カプタニアへ。カプタニアへ。

         **********

 

「……どなたですか?」
「それはこっちが聞きたいわ。お前は一体何者だ。なんであんな事を言いやがった。」

 夜の街をぶらりと歩いていたイヌコマ尻尾髪の女は、いきなり10数名の男に囲まれた。
 いずれも目に一丁字も無い輩で、知性やら教養やらとは無縁であると誰にでも分かる。凶暴で、下劣で、品性の無い、だが律義なのだ。

「ティンブット様の芝居行列は行き先がちゃんと決まっているんだ。向こう半年までは段取りに隙も無い。各地の親分衆が首を長くして待ってるんだよ。」
「ああ、ヤクザ屋さんでしたか。」

 興行演劇にヤクザが絡むのは理の当然。当たり外れの激しい商売であるから、どうしてもそちら方面の手が必要になる。
 タコ・蝉蛾・カタツムリ神官巫女は各地で行われる祭礼を追って方台を廻る。彼らの世話はもちろん神殿が行うのだが、観客を集めるのは土地のヤクザが受け持った。
 その意味では、連中も神に仕える者である。

「えーと、そうは言われてもティンブットさんもフィミルティさんも、弥生ちゃんの帰還を出迎えたいでしょう。」
「そういう事を言ってるんじゃねえ。」
「でもですねえ、」
「そういうことを言ってるんじゃねえと言ってるだろうが!」

 確かにそういう事ではない。ティンブットが出迎えなくても弥生ちゃんは帰るし、ティンブットが各地を廻れば金が動いて親分衆は大儲けする。
 彼等の生業であり、利によって厳然と支配される現実だ。
 なかばボランティアの弥生ちゃんの演出効果を高める為に二人の巫女を呼び寄せるのと、どちらが真剣であるか判断に悩む。

 女は言った。

「でも、もう言っちゃいましたし。」
「よくも言いやがったなあ。」

 彼等も分かっている。覆水盆に還らず、ティンブットのみならず随行する神官巫女も群集も、皆カプタニアに向かう事を。
 だからこそ腹が立つのだ。

「なんだか分からないが、お前を叩きのめさないと気がすまねえ。」
「うーん。」

 彼らの怒りは正当なものである。が、神妙に殴られてやるわけにもいかない。

 

「いいでしょう。」
 パンと、両の手を打ち鳴らして女は構える。前後左右を凶暴なヤクザに囲まれていながら、まるで怯む様子が無い。
 前に伸ばした右手の指を、くいくいと曲げて敵を呼ぶ。ととっと足を前後に入れ換えて小さく跳ねる。

 元ネタは彼らには分からない。が、挑発しているのだとは槌で頭を殴られるほどに明確に理解する。
「やっちまえ!」

 さて、女は身長が157センチ、十二神方台系成人女性では小さい方だ。標準的な体格であったとしても、3人も大の男が襲って来れば手もなく捕えられてしまう。
 誰も女が抵抗出来るとは考えなかったし、また女にも武張った気配は無い。
 そもそもの印象が”平凡”であるのだ。

 何も考えずに1人の大柄な男が前に出る。不用意に手を伸ばし上から被さり掴む。
 するっと抜けた。男の右脇に立っている。何時動いたか誰も分からなかった。
 男が顔を左右に振って探すのを、囲むヤクザは不思議に思う。何故このバカは女を見逃したのだ?

 仕方がないからまた1人男が進み出る。捕まえるでなく、ぶん殴りに行く。大きく右腕を振り上げて、
 またするっと抜けた。右脇に立っている。目標を失った男はたたらを踏んで止まろうと、
 ぽんと押された。女が振り向きざまに、軽く2番目の男を突く。
 痛くは無い。だが姿勢を崩した状態で押された為に、最初の大柄の男に倒れ掛る。

 3番目のヤクザが襲い掛る。続いて2人が女の動きを止めようとしがみ付く。
 気が付けば、3人とも地面に倒れていた。掴んだと思えばそれは地面で、顔から激突している自分をようやく理解する。

「な、なんだ? こいつ」

 女だからと手加減するのは止めて、本気で殺す。短刀を抜き棍棒を振り上げ革紐を巻いた拳をかざす。
 だが動いた者は皆、それぞれに仲間とぶつかって倒れていた。
 女は涼しい顔で絡み合うヤクザを眺めている。

 女の手口は簡単だ。先頭の男を脇に避けるとまだ接触を予想していない後続をさらに抜け、背後から突き飛ばす。押された者は仲間に激突して倒れるか、他の者が女に向かう障害物となる。
 まずは捕まえなければどうしようも無い。

「ちょ、ちょっとまてオマエラ。ばらばらに動くな、囲め!」

 ま、いいんだけどね。と女は思う。本来であれば隙を作って逃げるのが定石。無理やり相手を沈黙させる必要は無い。
 でも行き掛かり上ケリを付けてやらねば気が済まないだろう。

 右は浅い運河、左は長い塀が続き左右に動きが取れない道に追い込まれる。前後を男達に挟まれて、どう見ても絶対絶命。

「おい、急ぐなよ。ゆっくりと追い詰めろよ。」
 鶏を追い込むかに両手を拡げて、姿勢を低くして女に近付いて行く。前も後ろも男達の壁が迫り来る。
 なるほど、これは必勝の態勢。

「ちゅばらぶぎゃ!」

 女が殴らないと、誰が決めたんだ?何故に殴り易いように自ら背を低くしてやらねばならないのだ。
 調子に乗って真正面から腕を拡げていた、最初に襲って来た大柄な男が鼻柱をへし折られて血を吹きながら後ろに倒れる。

 女はいつの間にか短い棍棒を持っている。なんのことはない、ヤクザが持って来た武器を分捕っていた。取っていながら袖に隠したのだ。
 効果的に、魔法的に使うために。
 並んだ男達を順番に殴って行く。ルールがいきなり変わって対応出来ない。

「ちくしょおおー。」
と叫ぶも、依然人数に優るヤクザの方が戦力は上。とにもかくにも動きを止めれば良いだけだ。

「取ったあ!」
 女の着物の端を捕まえた。そのまま引っ張って地面に押さえ付け、殴る蹴るの狼藉を、

 飛んだ。

 着物を掴んだ男が宙を飛ぶ。女をぐいっと引っ張ったはずが、自分が逆に引き寄せられ、姿勢が崩れて投げられている。
 めげずに何人も腕でも肩でも掴もうとするが、するりと抜けて男同士顔面KISS。
 闇雲に突っ込んで来た者は、死角からぬっと差し出される棍棒に脛を酷くぶつけて転倒する。
 でもって、運河に蹴り落とされた。

「何故だ、なにがどうしたんだ。」
「わかんねえこの女なんなんだ?」

 足元から掬い上げようと地面低くに飛び込んだ男は、だが女はその更に下に居た。短く持った棍棒でかち上げられて顎が割れる。

「ぴぃげぇぇえええ。」
「ち、ちょっと待ておめえら、ちょっと退け。」
 戦略的撤退後陣形を整え直して再度攻撃、という知的プレイを行うも、気付くと女が居ない。

「おい、誰か見てなかったのか?」
「いや、見てたんだが、どこに行った?」
「逃げてないぞ、さっきまでそこに、」
「おい、おいこら、どこに、あ、…なんだ? どうした?」

「ぎゃ!」

 石が飛んで来てぽこぽこ頭に当る。それまでさんざんぱら男同士ぶつけ合わされて傷付いた顔に、石。
 とはいえ、殺傷力は無い穏やかな優しい石礫だ。物凄く手加減してくれている。

 女の明るい高い声がどこからかする。

「あーもちろんお分かりだとは思いますが、死んじゃうように投げるのも出来ますよ。」
「く、くそ、なんだこれ。てめえら、あーくそお。」

 恥も外聞も無くヤクザどもは逃げ出した。多少の怪我はしているものの、誰一人致命的損傷は受けていない。自力で動けない者も無い。

「おぼえてやがれ」
 十二神方台系であっても、負け犬の台詞は同じだった。

 

 女は、どうやればそんな狭いところに、と思う壁の隙間から姿を見せる。手にした棍棒を運河に放り投げた。水に浮いてぷかぷかと流れ行く。

 もう一人、女が現れる。
 先の女とまったく同じ格好同じ体つき同じ顔の、同じ女だ。イヌコマ尻尾髪までも一緒。
 なにを隠そう先程の戦いは、女は複数で戦った。2人組だったのだが、ヤクザはまったく気が付かなかった。

「いえ3人なのです。」
 また一人、まったく同じ女が姿を見せる。先の2人よりほんのわずかに幼い感じがする。光線の加減か、髪の色もわずかにちょっと赤い気もした。だがおおむね同一人物。
 彼女は格闘戦には参加しなかったが、石を投げた。河原で拾って袋に詰めて隠れて居たのだ。
 そうでなければそうそう都合よく形大きさの揃った石は見付からない。町はちゃんと整備され掃除しているのだ。

 女3人顔を見合わせて笑う。

 

「はっはっは、THIS IS 明美MAGIC!」

 

【人工動力!】

 弥生ちゃんにより構築された十二神方台系新秩序最初の仕事は、戦争であった。
 枠組みに未だ参加を表明しない西金雷蜒王国を屈伏させ、弥生ちゃんの前に神聖王ヱ゛グナーマを跪かせねばならない。

 普通に考えると東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウとギィール神族が反対抵抗すべきなのだが、今回状況が異なる。
 彼等は弥生ちゃんの協力者であり、新秩序構築こそが最大の敵褐甲角王国弱体化の手段であるのだ。
 とはいえ同胞が攻められるのを手をこまねいて見ているのも芸が無い。

 褐甲角王国からすれば、願ったり叶ったり。
 ここ20年は陸上での東金雷蜒王国との戦いは少なく、主戦場は西の百島湾での海戦であった。
 命じられずとも攻める。ただこれまでは毒地から寇掠軍がやって来て後背を脅かし、湾岸への戦力の結集を妨害して来た。

 西金雷蜒王国攻略戦において、弥生ちゃんが求めたのは、
・東金雷蜒王国の”国家としての”西金雷蜒王国支援の停止
・領土確定交渉が続く毒地での戦闘行動の停止
・南海における平穏と新生紅曙蛸王国の戦争への不関与
これだけだ。

 国家としての支援をするな、というのは、私的にはいくらでもやって良いとギィール神族は受け止める。
 実際これまでも海路を通しての支援を繰り返して来た。神聖王の命に拠らず、神族同士の会合で方針が決定される。
 毒地の寇掠軍で後方撹乱が出来ないのは不利だが、許容すべきだろう。

 毒地での撹乱が無いのは褐甲角軍は喜ばせた。これが為に、西金雷蜒王国との戦いに決定的な勝利を収められなかった。
 余人を交えず他に煩わされず、一大海戦で決着をつける。
 弥生ちゃんが褐甲角王国に与えた栄誉と恩寵と受け止める。全面的に肯定だ。人を喜ばすのが弥生ちゃんの美徳である。

 

 というわけで、褐甲角王国の注意は百島湾に振り向けられる。
 その間毒地では領土確定交渉が行われ、褐甲角王国分割構想が秘密裏に着々と練られていた。
 王国分割を黒甲枝が知れば反発するのは必至であるから、体の良い目眩しだ。
 弥生ちゃんは存分に政治的手腕を発揮し、悪党仲間と計画を練り上げる。

 さて戦争だが、褐甲角王国総力を挙げてとはいかない。
 停戦中とはいえ毒地の寇掠軍への警戒は怠れず、南海の防備も固めねばならない。それほどは信用出来るものではない。
 実質これまでどおりの体制で百島湾での戦闘を開始した。
 違うとすれば、本来寇掠軍として毒地を渡る東の神族が船に乗って加勢に来た点であろう。

 人口も生産力も小さな西金雷蜒王国は、やはり東の支援無しには戦えない。
 これまでは褐甲角南海軍の警戒が厳しくて軍船派遣が叶わず、勢力の均衡は取れていた。
 だが今回、陸上での緊張が和らいだ点と、新生紅曙蛸王国の成立という新たなる要素によって、警戒網が十分に機能しなかった。
 次から次へと金雷蜒海軍が方台南岸を回って百島湾に押し寄せ、戦闘にこそ加わらないもののたっぷりと軍事物資や兵器を供給する。
 大審判戦争で効力を確かめた新兵器をだ。

 これまで通りを予想していた褐甲角百島湾海軍は新兵器の投入に為す術が無く、敗退。軍船の多数を失う。
 占拠していた島々を半ばも奪われる羽目に陥った。
 非は自身に求められる。毒地の後方撹乱が無ければ、まさに海軍の力のみで勝敗が決する。
 悔しいが、技術的に劣る褐甲角軍が当然の結果を引き出した、に過ぎないのだ。

 

 戦いは青晶蜥神救世主の名において行われる。最終的な責任者は弥生ちゃんだ。
 百島湾海軍の敗北を受けて弥生ちゃんは、全方台挙げての侵攻を宣言する。
 東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウに、ギィール神族の参戦を要請。快諾を受ける。
 また戦力が激減した百島湾海軍の増強の為に、”ジョグジョ薔薇”こと金翅幹元老員ジョグジョ絢ロゥーアオン=ゲェタマに命じて、褐甲角王国南海軍を移動させる。
 南海軍の留守を衝かれない為に、新生紅曙蛸王国宰相ソグヴィタル範ヒィキタイタンに当該海域の警備を依頼する。
 当然のことながら、東の神族は今回西の支援には来ない。

 圧倒的な戦力差から、勝利は最初から疑いようが無かった。
 十分な食糧生産力を持たない西王国であれば、兵糧攻めという手段すら用いられる。
 もちろん弥生ちゃんは残虐な戦略を良しとはしない。
 求めるは勝利であり西王国の方台新秩序への参加だ。人死に用はない。古い戦争をここですっぱりお終いにしたいだけなのだ。

 もう一撃、敗北を際立たせる手段が必要とされる。戦わずして勝利する、万人が認める決定打だ。

 

 弥生ちゃんはギィール神族の有志を集めて、自ら密かに描いた図面を公開する。
 額に黄金のゲジゲジを有する彼等は一様に目をぎらつかせる。

「……人工・動力!」
「星の世界の技術の、ほんの拙い一例です。」

 地球での弥生ちゃんの友人、マッド・サイエンティストの気質を持つ八段まゆ子がまとめた「SFファンタジーネタ帳」。
 これに描かれていた図面を、弥生ちゃんは脳内から正確細大に思い出す。
 題して「ファンタジー世界でも作れる人工動力」、だ。

 前にも書いたが、蒸気機関は科学技術が未発達の世界では製造が難しい。また運用も大変に厄介だ。
 小さな機関は工作精度が問題となり、実現が不可能。蒸気圧で爆発も覚悟しなければならない。
 高圧蒸気を利用するコンパクトな機関は、鋼鉄量産の時代にならないと生れないのだ。

 出力の低い大きな機関しか作れないから、国中の鉄をすっかり総渫いする必要もあるだろう。
 製造の為また運用にも燃料が大量に要る。石炭を見出せれば良いが、方台には無い。木を切り出して禿山を幾つも作らねばなるまい。

 あまり大きくなくほどほどの出力で燃料にも苦労せず、工作精度も低いまま作れる機械は無いものか。
 有る、とまゆちゃんはいう。それが、

「焼玉(グロー)エンジン、です。」

 俗にいう”ポンポン蒸気”だ。「蒸気」の名が付くが、蒸気機関ではない。内燃機関、ディーゼルエンジンの先祖に当ろう。
 焼玉エンジンは簡単にいうと、シリンダーの中にある熱く焼けた玉に燃料となる油を吹き付けて爆発させピストンを往復させる。
 後のディーゼルエンジンやガソリンエンジンに比べて圧縮比が小さい為に、出力が随分と低い。20世紀の後半にはすっかり駆逐されてしまう。
 だがそれだけに工作精度を必要としない。点火装置そのものも単に焼けた鉄玉であり、技術上の問題点が存在しない。
 燃料も油であればなんでもよいという大らかさ。
 点火装置に火花発生器など用いないから、吹き付けられれば油の品質も問題としない。

 ついでに言えば、焼玉エンジンは始動時に弾み車の回転方向を逆にすることで、逆回転が可能となる。
 船の動力として用いる場合ギアボックスが必要だが、エンジンそのものよりもコレを作る方が難儀であろう。
 バックする際にはエンジンを一度止め、逆さに回せば完了する焼玉エンジンはまさに望みどおりの品だった。
 出力調整も簡単だ。早い話がこのエンジン、非力である。軍船として相応の大きさの船を動かすには1基では不足、3基を載せると決めた。
 運転停止再開が容易であれば、エンジンそのものを止めれば良いのだ。
 もっともクラッチは作らねばならなくて、これがまた往生する。

「船を動かすのに外輪とスクリューとありますが、どっちがいいですか? ちなみにスクリューは工作がとても大変です。」
「どちらが推進効率が良いのだ?」
「そりゃ、スクリューです。」
「じゃあそっちだ。」

 エンジンは鉄で作るのが本来だが、機械の性質上鋳造すべきだろう。小さいとはいえ船を動かす為のものだ、結構な重量になる。下手な鉄鋳造品だと割れてしまう。
 そこで「砲金」の製法も教えた。
 ギィール神族は青銅の鋳造を得意とするが、やはり鼎や鐘とは勝手が違う。大砲も火薬も無い十二神方台系においては、青銅に対してそれほどの強度や靱性を要求しない。
 焼玉エンジンに砲金を使うのはぜいたくな気もするが、どうせ今回一回きりだ出し惜しみはしない。もちろん適材適所で鋼も使う。
 ちなみに鋳造技術は褐甲角王国はお粗末の限りで、意味の有る製品はすべて金雷蜒王国からの輸入品だったりする。
 主に熱源の問題。「タコ炭」と呼ばれる燃料は高温を発するが扱いが難しく毒性も有り、常人の工人にはとても使えるものではない。

 ギィール神族の技術は確かに素晴らしいのだが、それでも所詮は中世レベルに比して、でしかない。
 端で見ているとハラハラする事も多く、遂には弥生ちゃんも魔法を使って手助けしてしまう。
 青晶蜥(チューラウ)神の神威を帯びて、鋼鉄でも青銅でもさくさくと熱も出さずに切削する魔法の彫刻刀は、まさに神族の夢。所在を厳重に把握していないとすぐ盗まれてしまう。
 またネジもこれで刻む。
 弥生ちゃんが伝えた「ネジ」の技術は、「人工動力船プロジェクト」を通して方台に根付いたと言って良いだろう。
 これがプロジェクト唯一の後世に残る成果である。他が残らなかった理由は後述するが、弥生ちゃんだ。

 

 かくして、人工動力軍船は完成した。といっても、手漕ぎに比べてそれほど早いわけでもない。
 出力の増強分を装甲に当てたからだ。また強弩を引くのにも焼玉エンジンの力を用いて、通常の3倍の発射速度で対艦攻撃が可能となる。
 漕ぎ手を必要としない分、戦闘員を多く乗せられる。超攻撃型軍船として仕上がった。

 ぽんぽんと黒い煙を吐いて進む新戦艦に、プロジェクトに関わった者は皆満足した、
 この技術を用いれば、十二神方台系は飛躍的な発展を遂げる。まさに「星の世界」からの賜り物だ。
 だが弥生ちゃんは渋い顔をする。

「まだだ。もっと強烈な、戦場を恐怖で支配する邪悪の戦艦をこしらえるのだ。」
 まゆちゃんのネタ帳を再び開く。そこには想像を絶する機関が用意されている。

 

 創始暦五〇〇八年夏初月七日、第二次百島湾制圧戦争が始まる。
 西金雷蜒王国の神族や海兵は、信じられないものを見た。

 快速小型軍船の後尾に金属の筒が2本付いている。なにやら操作をすると耳をつんざく唸りを上げて、船がするすると滑り出す。
 既に間諜の調べによって人工動力軍船の存在を知っていた西王国の神族だが、情報に無い機構を持った船だった。
 これは早い。どんどんどんどん早くなり、まさに鳥が飛ぶ早さで疾走する。
 凪いだ海面を、矢のように突き出される剣のように滑る。
 乗るのは褐甲角の神兵だ。強力な鉄弓で敵船上の兵士を次から次に射殺して行く。船のあまりの快速に、西王国の軍船は対応できない。

 やがて”ポンポン蒸気”を積んだ人工動力軍船が姿を見せ、南海軍を率いて混乱する艦隊に攻撃を開始する。
 だが西王国の海兵は百雷が続く轟音を吐いて進む高速軍船に怖れを為して、ただもう逃げるしか術を持たない。
 神族達も彼我の技術力の格差に絶望を感じて、やむなく首都島であるエイントギジェへ撤退。篭城する。

 この時点で戦争は集結した。どちらの海軍も実質的な被害はさほど無いのだが、「星の世界の技術」の恐ろしさが全てを圧倒して、歴史を定めた。

 新型に積まれていたのは、「パルスジェットエンジン」である。
 ナチスドイツがイギリスへの報復攻撃を行った「V1号」に搭載されていたエンジン。まゆちゃんはこれを選択する。
 原理は簡単だ。焼玉エンジンよりも簡単と言って良い。
 前面から吸気して蓋を閉め、油を噴射して火花で着火する。爆発した排気が後方から抜けて推力を産みだし、燃焼室が空になれば再び蓋が開いて吸気する。
 最初こそ空気取り入れ口から強制的に送風してやらねばならないが、速度が上がれば勝手に流入量が増え、また火花着火しなくても残り火的な熱で自然着火して爆発を断続的に続ける。
 こんなものでも空を飛び時速600キロメートルを叩き出す。航続距離は250キロと短いが、どうせ片道しか使わない。
 もちろん燃料はいい加減なものでよい。ナチスドイツより技術供与を受けた日本軍は、松根油で有人機を飛ばそうとした。

 弥生ちゃんは「人工動力船プロジェクト」に別班を設け、突貫でこれを作り上げた。
 パルスジェットエンジンに精密鋳造部品は必要無い。実のところ、開閉のタイミングの難しい前面の吸気蓋も要らない。単なるU字管で駆動するタイプが考案されている。
 銅板やブリキ板をひたすら叩いて整形し、筒に仕上げる。空飛ぶわけではないから重量制限無しでがっちり作る。
 燃えちゃわない限りは適当な材料でもいい、というのがこのエンジンの有り難いところ。どうせ使い捨てなのだ。
 ナチスドイツでは負けが確定した1944年6月から翌年3月までに実に21000発もぶっ放している。それほどまでに生産性が高い。
 まゆちゃんが選択した由縁である。

 ただ船を推進させるのにはあまり適してはいない。排気速度が早過ぎるのだ。
 そこで排気を受けて鋼鉄製の大きなファンを回し、これがプロペラとして補助推力を生み出す形式にした。外付けターボファンみたいなもので、燃えないように霧を吹いて冷却する。
 最終的に実戦に投入されたバージョンでは、初期駆動に神兵の怪力でふいごを動かしてエンジンを起動し、ファンを冷やして出た水蒸気も推進力を増強させる仕組みになった。
 弥生ちゃんとしては、排気を水中に持ち込んでパイプをぶくぶくとさせて推進するウオータージェットも考えていたのだが、さすがに実現しなかった。

 ちなみに火花点火装置は、アレを使う。ライデン瓶、平賀源内のエレキテルだ。ギィール神族は鍍金にボルタ電池を使うから、大してびっくりもしなかった。皆感電経験者である。

 

 戦争は、篭城した西金雷蜒王国がほどなく無血開城して終了する。掠奪も虐殺も無い、まことに静かな終戦であった。
 こうして西王国は方台新秩序に加入する。
 戦争の結果として、西王国は首都島エイタンギジェおよび直轄領である数島に加え、百島湾のほぼ7割にもなる島の領有を認められる。ほとんどが有人島であるから、もちろん西王国民として認められる。
 それどころか、百島湾に面する方台北部のグテ地を一部割譲された。戦争前は保有していなかった本土にも領地を得たわけだ。

 どちらが戦勝国か分からない、と褐甲角王国は反発するが、勝ったのは弥生ちゃんであり「星の世界の技術」である。
 誰も抵抗が出来なかった。
 弥生ちゃんの目的は単純で、百島湾を西金雷蜒王国に任せよう、それだけだ。海洋国である特性を伸ばして文化的に繁栄して欲しい。

 もちろん黒甲枝、神兵は納得出来ない。我慢出来ない。
 さらに言えば、潰滅した百島湾海軍に代わって回されて来た南海軍は母港イローエントへの帰還が許されず、そのまま百島湾海軍に配備された。
 イローエントは残されたわずか4分の1の艦艇だけに減らされ、事実上のリストラをされてしまう。
 これは褐甲角王国分割案に従うもので、南海軍を保有する事となるソグヴィタル王国の財政的負担を減らすのが目的だ。
 新秩序構想では、南海の治安は主に新生紅曙蛸王国が担い、南海軍は補佐的な役割を果たす。物流と治安を紅曙蛸王国が担い、武力紛争には南海軍が出動する。
 よって艦艇も兵数も神兵も従来の規模では要らない。不要艦艇を紅曙蛸王国に売り飛ばす。

 荒れる黒甲枝や海兵をなだめる役を押し付けられたのが、”ジョグジョ薔薇”だ。
 彼は弥生ちゃんに自らの有用性を認めさせ時代を動かす一人になろうと、金翅幹元老員として初めて青晶蜥王国への任官活動を行った。
 めでたく南海軍の支配を許されたが、ツケが一気に回って来たのだ。
 彼はリストラ策をなんとか黒甲枝有利なものに修正しようと試み、褐甲角王国建国の理念である「方台統一の悲願」を維持しようとする。
 だが運動は中央政界に潰され、遂に南海軍縮小案はカプタニア元老院で可決された。

 

 南海軍に属する黒甲枝の期待を一身に背負っていたジョグジョ薔薇だが、この敗北で政治生命も終ると思われた。
 だが処分に納得出来ない南海軍残党や、王国分割に対して公然と異議を唱える黒甲枝を糾合して、彼は独自の党派を作り上げた。
 後の「黒甲枝諸侯連盟」である。

 彼等は弥生ちゃんの方台新秩序に反旗を翻し、旧来の道への回帰を呼び掛ける。神兵は額のカブトムシを返上してまでも、武徳王の翻意を望んだ。
 だが歴史の波は覆らない。
 毒地開墾事業を実現させる為にも長期の平和な時間が必要であり、一体化した褐甲角王国の軍事力は脅威であった。
 平和と経済的繁栄に直結すると理解した民衆は弥生ちゃんを支持。王国分割は進行する。

 

 次第に追い詰められて行く「黒甲枝諸侯連盟」。実質的に率いるジョグジョ薔薇は打開の策を模索する。
 そこに黒衣長身の女が忍び寄った。
 弥生ちゃんの構想では、方台を分割支配出来るのは現状で領域を得ている者。であれば、貴方も領域を獲得すべきだ、と。
 この進言を入れて「黒甲枝諸侯連盟」はイローエントを中心とするイロ・エイベント県から南海グテ地を掌握する。そして自ら国を名乗った。

 武徳王やその他褐甲角王国の使者が説得するも頑として聞き入れず、食糧も乏しい土地に半ば篭城をする。
 新秩序側では「黒甲枝諸侯連盟」国の討伐を弥生ちゃんに進言するも、聞き入れられない。その内に方台各地から様々な反抗勢力が当地に結集する。
 中には怪しげな魔法を使う集団も居た。赤甲梢が東金雷蜒王国首都島ギジシップを攻略した際に遭遇した様々な怪物を率いる勢力も合流する。

 流石に黒甲枝はこれ以上の反抗勢力の増加で運動の本意がねじ曲がるのを怖れ、一線を画してイローエントに引き篭る。
 対して、責任者として逃げる術を持たぬジョグジョ薔薇はいつしか反乱の象徴に祭り上げられてしまう。
 彼としても暗黒勢力の権益を護る為に闘争するのは、意に反す。だが弥生ちゃんは力無き者を方台支配者の一人とは認めない、との思い込みから妥協の道を選べない。

 彼の前には目指すべきモデルがあった。
 ソグヴィタル 範ヒィキタイタン。
 褐甲角王国の政治を与る身にありながらも元老院に反逆し、王国理念に殉じようとして追われる。南海に到り自ら王国を打ち立て、聖蟲を属王位を剥奪されながらも、今では諸王から歴史の立役者の一人として認められる。
 波乱万丈の運命を楽しげに乗り越えた、千年も語り継がれる英雄だ。

 彼は、ソグヴィタル王に成りたかった。彼と並び立つ者と成りたかったのだ。

 

 ジョグジョ薔薇の思いを共有する者がカプタニアに居た。彼の婚約者であり、武徳王の末の姫であるカンヴィタル宇ナルミン王女。
 10歳も年の離れた二人を引き合わせたのは、ジョグジョ薔薇の亡き姉である。
 遠く離れた南海の地で悪戦苦闘する婚約者を案じたナルミン王女は、やがてすべての元凶が弥生ちゃんと知る。
 弥生ちゃんは方台の迷惑な勢力をひとまとまりにして片付ける策を巡らし、道具としてジョグジョ薔薇を用いていたのだ。

 怒りに震えるナルミン王女は、だが顔にはいささかも表わさず、弥生ちゃんの側近としてまた次代の青晶蜥神救世主と目されるメグリアル劫アランサ王女に頼んで、弥生ちゃんとの面会にこぎつける。
 デュータム点 青晶蜥王国仮王宮において行われたお茶会において、ナルミン王女はいきなり弥生ちゃんに斬り付ける暴挙に出た。
 如何に額に黄金のカブトムシを戴いたとしても、方台最強を誇る弥生ちゃんに只の王女が敵う道理が無い。
 もちろん手加減はしたのだが、弥生ちゃんが振るう神刀「カタナ」はナルミン王女の聖蟲を直撃する。
 不死不滅の聖蟲ではあっても、天河十二神より遣わされた救世主の一撃には耐えられない。甲羽が取れる重傷を負い、ナルミン王女も意識不明の重体になる。

 寝台に眠るナルミン王女の額から、傷付いた聖蟲から薄く透ける翅を取り去った者が有る。
 やはり黒衣の、だがこの世の人ならぬ悠久の時を生きる神人だ。
 ジョグジョ薔薇は神人から、自らの意志で自由に使える銀色の重甲冑の戦士13名を授かった。
 鉄面に顔を隠す戦士を操るのは、薄く透けるカブトムシの翅。由来を彼は知らない。
 自らの近衛兵を得たジョグジョ薔薇は、遂に弥生ちゃんに対して公開質問状を提出し方台全土に問い掛ける。

『この人は、真に救世主であるか、否や』

 無礼極まりない挑戦をデュータム点で聞いた弥生ちゃんはふっと笑い、ピルマルレレコの王旗を掲げるシュシュバランタのみを率いて単身城を出る。
 「売られた喧嘩を買って出た」のだ。
 一兵たりとも連れて行かないが、それで収まるはずも無し。禁衛隊である『神撰組』、また未だ体制の整わぬ青晶蜥王国軍、神官戦士や交易警備隊、腕に覚えの有る者が隊列に加わり膨らんで行く。
 見かねて仲裁に回ろうとする神兵や物見遊山のギィール神族に加え、南北を貫くスプリタ街道全域の一般庶民が、いや方台中から弥生ちゃんを慕う者が続々と集う。
 その数13万。

 ほとんどがずぶの素人、護るべき一般民衆だと知った「黒甲枝諸侯連盟」は参戦を拒否。ジョグジョ薔薇としても、こんなのとは戦えない。
 しかし彼の命令を無視して動き出した暗黒の集団は、我を忘れ人間を捨て凶刃を振りかざして無差別に襲いかかる。陽は闇に包まれ、昼と夜とが逆転した。
 善悪混沌とし正邪の判別が出来ない戦いが始る。世に言う『ジョグジョ薔薇の乱』の開幕である。

 この時弥生ちゃんは天空を指差し、空全体に拡がり白光にて闇を払う「高空の聖霊」ファイブリオンを呼び出した。
 地上世界の争いには決して関与せず、ただ絶対の正義を志向する存在と教えられた弥生ちゃん側の軍勢は勇気百倍。奮戦して邪悪の勢力を打ち破る。
 当然に付いて来たメグリアル劫アランサ王女に従う赤甲梢の神兵とゲイル騎兵が手を組んで、無敵の銀色重甲冑の戦士を撃破する。

 ジョグジョ薔薇も自ら剣を振るい戦うも、気付けば味方は戦場を逃げ散り、いつしか神兵神族兵士一般民衆の囲みの中に我一人在る。
 最早これまでと自刃して果てるジョグジョ薔薇は、しかし褐甲角王国建国の理念を誰よりも激しく追求した者として、神兵により手厚く葬られたのであった。
 以上余談。

 

 さて、百島湾の大勝利に貢献した2種の人工動力船だが、戦争が終ると即座に廃棄された。
 船体は焼き、エンジンはバラして炉に溶かし、まったくに詳細を伝えぬようあらゆる技術資料が火にくべられた。
 製作に協力したギィール神族は額の聖蟲に賭けて生涯の沈黙を約束させられる。一般の工人に対しても天河の意志として見たものすべてを忘れる神文誓約を強いた。
 残るのはわずかに、ネジの製法のみ。

 理不尽である。関係者全員が惜しいと思うが、弥生ちゃんの決意は変わらない。

 曰
 「これらの技術は、いずれ方台の人が自らの知恵と腕によって獲得するものです。獲得するまでの過程こそが進歩であり、その努力こそを学問と言います。」
 「それにしても、せめて外見の絵図だけでも残しておけば、試行錯誤の幅が小さくて済むのではないか。」
 「いえ、すべては伝説の中に葬りさるべきです。」
 「ならば最初から作らねばよい。」
 「当然です。でも、これこそが方台の人間が目指すべき未来。「星の世界」から来た私が真に伝えるべきものなのです。
  伝説でよい。まったく見当もつかないが、確かにこんなものが有ったと聞く。それだけで人は天空の高見に到達できるのです。」

 

「この人は、我々を過大に評価している。神の導き無しに、人が星まで登れるはずも無いだろう」
 神族の一人は、あまりの弥生ちゃんの頑固さに小さく零した。

 

【DUNGEONS & 弥生ちゃんズ】
 (都合により原稿用紙278枚割愛)

 

第八章 じいさまとねえさま

 トンネルを抜けると、真っ白なネコが飛び跳ねた。
「ガモウヤヨイチャン、なにか一言!」

 弥生ちゃんも「かんぺきゆうとうせい」と呼ばれた女だ。ネコの意図を瞬時に察する。

 このネコは、弥生ちゃんが人界に戻るのを大隧道の出口でずっと待って居り、帰還の第一報を今から届けに走るのだ。
 伝えるのは良いが、色が無いのは面白味に欠ける。
 人々は思うだろう。「弥生ちゃんは無事か、何をしていたのか、天河の神様に会えたのか、これからも我々を救ってくれるのか?」
 ネコは人々が安心する言葉を欲している。

 疾走するイヌコマの背で、弥生ちゃんは叫んだ。

「我蒲生弥生は、北方の地で天河十二神の代表と会見した。
 暴龍チラノンを打ち倒し、遥か天空の高見に昇り、聖霊ファイブリオンの護りを得る。
 地底の洞窟を抜け冥界の七煌子が繰り出す八卦の戦陣をことごとく破り、三毛寧公主の唐揚げ鍋の罠をからくも脱し、今ここに戻る!」

「か、カラアゲ?!」
「油で揚げられそうになったんんだ!」

「わかったー!」

 ピンピンと飛び跳ねて、ネコは全速力で森の中に消えて行く。
 人界に降りると仲間のネコに向かって、「弥生ちゃんがカラアゲにされかけた」と息急き切って伝えるだろう。

 3頭のイヌコマを止めて、周囲を見回す。森だ。
 うっそうと繁る木々は確かに十二神方台系のもの、それも北方の気候と推察する。少々寒くて口から吐き出す息が白く霧を作る。

「朝だ。」

 昏い隧道を抜けて昼夜の感覚が狂っていた。この肌触りは、目覚めたばかりの空気に間違い無い。
 振り返るとこんもりとおおきく盛り上がる半円形の山が視界を圧する。大隧道の出口は露出する岩肌に穿たれていた。

「ほお…」

 人工の山だ。いや、人工物の上を土壌が蔽い草木が生えている。直感した。
 「出口」なのだ。その為に作られ、それとして機能する。

 弥生ちゃんはイヌコマの背を降りる。よしよしよく走ってくれた、と鼻面を撫で、続く2頭の様子を確かめる。
 全頭無事、完走だ。あらかた400キロを6日間で走った事になる。

 長かった。大変だった。
 なにせイヌコマには戦闘力が無い。ダンジョン内部に巣食う怪物にしてみれば、御馳走がのこのこと鼻先を通っているに等しい。
 こちとら地理不案内でもあり、しばしば出現する脇道を一応確かめてみなくてはならない。
 天河十二神の代理人こと明美そっくりさんは一本道だと言ったが、どうして。地底の住人がそれぞれ勝手に道を作る。罠を仕掛ける。
 そのことごとくを弥生ちゃん一人で打ち破らねばならなかった。

 なにより辛いのが、寝られない点だ。
 イヌコマは賢い。不審な者が近付いてくれば警告してくれるのだが、対処は弥生ちゃん本人がせねばならない。”夜”はイヌコマを護る為、寝ずの番もした。
 道中乗ったまま寝るのもよいが、敵の攻撃は不意に訪れる。
 その度神刀「カタナ」を振るって切り抜けるが、理性も意識も無いままに腕が自動で動く有り様だ。小人さんありがとう。

 イヌコマも弥生ちゃんも、森の梢に差す眩い光に目をぱちぱちと瞬かせる。
 これが太陽であったかと感動することしばし。
 隧道内は光苔なりウィルオウィスプなり空中放電なりの淡い光しか無かった。
 かと思えば部屋中赤々と照らし出し顔を覆わねばならない燃える溶岩、角を曲がれば漆黒の闇と目まぐるしく変わる。
 闇の道では「カタナ」が発するトカゲ神の青い光で照らすのだが、完全単色光だとなんだか現実味が無くなってしまう。

 とるものもとりあえず、イヌコマ達にご褒美をあげる。明美から貰った餌も底を尽き、……しかしこの餌は便利だった。
 堅い軽石みたいなのだが、がんがんと石で叩いてほぐすとイヌコマ1食分の飼葉になる。栄養抜群でどの子も喜んで食べていた。
 一方弥生ちゃん本人の食事だが、これはかなり苦労する。
 簡単に言うと、途中で出くわした怪しげなクリーチャー共と平和的交渉をする際の手数料として使ってしまったのだ。
 やむを得ず、というか北に飛ばされて常にそうだったが、自給自足で済ませる。洞窟内の小動物を狩って食べた。
 競合する捕食者とかち合う羽目にもなったし、逆にイヌコマを食べられそうにもなる。

 様々な冒険があったのだが、まあそれは置いといて。

「ここどこ?」

 方台の北、だが人界ではない。おそらくここは、北方聖山山脈の、
 額のカベチョロを小突いて尋ねる。GPSの役が御前さんの仕事だろう。

『そのとおり、北方聖山山脈の東の端だな。俗に『ネズミ神の森』と呼ばれる所だ。』
「おお!」

 東金雷蜒王国に属する『ネズミ神の森』。来たことは無いが無縁ではない。
 ネズミ族の故郷、弥生ちゃんが手足耳目として大いに召し使う『ジー・ッカ』の連中が生まれた土地なのだ。
 彼等はタコ女王がもたらした文明を拒み、森の奥深くにネズミ神官時代の風習を守って今も生きている。
 金雷蜒王国の神聖王に不干渉のまま森に棲む勅許をもらい、代償に諜報員暗殺者として仕える契約をした。
 以来2千年。主に神聖首都ギジジットを治める王姉妹に従い、弥生ちゃんの毒地制覇に対抗して様々に妨害を繰り広げた。

 今では頼りになる味方として、方台の歴史を築く一翼を担っている。

 

「あ。」

 人の声がする。
 振り返ると森の木の脇から、年の頃なら22歳ほどの成人女性が籐籠を左に抱えて姿を見せる。中身は花と食糧、お供えだ。
 女は尋ねる。

「もしやあなたさまは、トカゲ神救世主のガモウヤヨイチャンさまではございませんか?」
「うん。」
「ほんとうに、ほんとうですか?」
「この額に冴える三日月尾っぽのカベチョロが目に入らぬか。」

 ちょっと冗談めかして言ったのだが、女は籠を放り出して森の下生えに跪き大きく手を伸ばして礼拝する。やり過ぎた。

「ごめん、ごめん。顔を上げて。」
「いえそんなおこがましい。天に遣わされし千年一度の救世主様に拝謁いたしまして恐懼の極み、御無礼いかようにもお仕置きを頂戴いたします。」
「困ったな。」

 女は真剣だがどうにもそそっかしそうだ。なんとなくティンブットを思い出す。そういえば彼女の生まれは聞いた事が無かった。
 神官巫女には森の奥深くの聖地の生まれが多いとも聞く。案外と町村からは出ないものだ。
 山は神聖な場所である。方台の人の共通認識だ。
 元来ヒトは山奥の洞窟にて神に養われ、コウモリ人に導かれて下界に降りて来た。その名残から、聖地には究理神官が居を構え深く思索し学問を極める。
 こんな草深い土地に住んでいても救世主への礼を心得るのは、それなりの教養を育む母体が有るはずだ。

「まあいいや。とりあえず村に連れてって。」
「は、はい。御案内いたします。」
「ところで、」

と、弥生ちゃんは再び大隧道の出口を振り返る。

「これは、あなた達の間では何と呼ばれている?」
「”ダクト”です。”換気ダクト”と呼ばれていますが、神代の言葉で意味は分かりません。」
「うにゅ。」
「言い伝えによれば、”ダクト”の中を駆け巡るのは英雄の証し。多くの者が挑むも遂には還らぬ、恐ろしい魔窟にございます。」
「うにゅ。」

 聖山の不思議については色々と聞いている。
 怪しげな大洞窟があり、中は巨大な人工のブロックで満たされる。予言をする魔物が棲むとも聞く。
 おそらくは長さ数十キロメートルになる地底構造物。
 ひょっとすると、と妄想するのだが、土の下に宇宙船の一つでも埋まっているのだろう。

 ”換気ダクト”、うむなるほど。その名は英雄と共に語り継がれる。

 

 3頭のイヌコマを曳いて、弥生ちゃんは女の案内を受ける。
 森は自然のものではあるが、そこかしこに人間の息吹が見受けられる。相当数が住んでいるらしい。
 不審が一つある。

「ネコが、1匹しか居なかったけど、」
「はい。ネズミ族の村にネコはあまり居ません。」
「ふむ。変だな。」

 ネコは弥生ちゃんがここに出現するのを知っていた。であれば、1ダースくらいで押し掛けても不思議じゃない。
 あるいは1匹にだけ特別に教えたのか。明美のそっくりさんの仕業だろうか。

 村はかなり不思議な光景だ。
 強いて言うなら縄文時代の竪穴式住居であり、材木を使わずに細い枝や草を積み重ねて作ってある。ただ、大きい。木造2階建と拮抗する高さを持つ。
 立ち木をそのまま柱に用いている為だ。枝葉を取り払って細い木を渡し、屋根を掛ける。だから内部には階層も作れる。
 覗いてみると床は土、中二階が網になっていて荷物がしまってあった。結構小綺麗にまとめてある。

 なにか足りない、と思った。くるくると見回して、色んな道具を見て、気付く。
 板が無い。棒は有っても木の板が無い。
 蔓を編んで作った籠や箕を板代りにして、随所で用いている。扉も編んでいる。

「……そうか、のこぎりが無いんだ。」

 弥生ちゃんの知識では、ネズミ神官時代は旧石器時代後期と同程度の技術を持っている。下界でまとめられた歴史書を読むと、そんな感じであった。
 紅曙蛸女王初代ッタ・コップはいきなり新石器時代の先進文明をどんと方台にもたらした。
 目が眩むばかりの高度な技術に怖れを為した人が山に逃げ込み、ネズミ神官に今までどおりを頼んで隠れ暮らしたのが、ネズミ族と言われる。

 もちろん下界のいいかげんな学問を信じるほど、弥生ちゃんはお人好しではない。
 ネズミ族は必要と考えるから山に留まり、原始的生活スタイルを維持し続けた。
 おそらくは天河十二神の命によって。文明発達の試行が失敗した場合、途中からやり直す為のセーブデータだ。

 ではあるのだが、人の衣装はなかなかにカラフル。どう見ても下界で買って来た品を随所に用いている。あくまでも飾りとしてだ。

「これは下界に働きに出ている人の、お土産?」
「はい、よく御分かりで。やっぱり女には着るものが、子供にはおもちゃやお菓子が喜ばれますね。」
「出稼ぎするとこは皆一緒か。」

 じーっと眺めると見えて来る。下界の美麗な産物の下に、村で作ったものを纏っていた。
 ネズミ神官時代の技術に織布は無い。撚り紐を結んで網を作る。透け透けであるが気にしない。
 革の衣と網の服で、別に不自由は無さそうだ。

「文明って面白いなあ。」

 どんどん人が集まって来る。女子供が多く、男は少ない。狩りか出稼ぎにでも行っているのだろう。

 村の広場の中央には竃がある。村人はここに集まって一斉に食事の用意をする。
 ネズミ神官時代の特色は、火を起こせるのが額に白ネズミの聖蟲を持つ神官のみ、というところだ。白ネズミが口から吐いた神聖な焔を生活に利用する。
 竃が一つしか無いのはその名残だろう。神官が起した火の管理をする者が村の有力者という仕組みだ。

 雨が降ると困るから、竃の傍に小屋が有る。火の保管所で雨天の調理場でもあるらしい。
 大きなな平石はフライパンだ。肉や魚の油が染み込み、よい具合の艶を見せる。下界でも焼き物は平石を使うから、弥生ちゃんも知っていた。
 5メートルほどの円を描いて丸い石が幾つも並んでいる。これは焼石で、火の中で熱して大きな葉に包んだ食材に乗せて蒸す。溜め水に放り込めば湯も沸く。

「鍋は、と。……ううむ」
 土器を持たない。窯業もッタ・コップが教えたと伝わる。しかし、

「か、カーボンですかぁ。」
 真っ黒な炭素の固まりが丸木の飼葉桶形状で存在する。よく見ると、焦げだ。
 丸太を切って半分に割り、燃える焔で中心を焼いては削り、水を溜められるようにしたものだ。焼石を放り込むと鍋自体も焦げる。
 長年使う内に全体真っ黒になり、それをまた石で擦って滑らかにしている。

「これは、ヤカンなのか?」
 平石の表面を少し削り窪みを作る。これを少し斜めに火に掛けてちょろちょろと水を流すと、右から左に流れる間に湯になって草のコップに流れ込む。一種の瞬間湯沸かし器だ。
 賢いのか原始的なのか分からない。空気が薄くて沸点の低い十二神方台系であれば、これがベストなのだろうか。

 呪い師ぽい婆さんが毛虫みたいに紐が付いた棒をかざして必死に弥生ちゃんを拝んでいる。この人はおそらく最初期の巫女の姿を伝える者だ。
 そして村長が姿を現わす。40歳程度でなかなか精悍な顔をしたおっちゃんだ。
 お供に付いている男達も屈強で、どう見ても戦士である。ネズミ族は金雷蜒神聖王に密偵や暗殺者として仕えるから、村で戦闘訓練もするのだろう。

 村長達は弥生ちゃんの足元にばっとひれ伏す。この作法は神聖首都ギジジットで何度も遭遇した。
 彼等は間違いなく十年以上も下界で働いて来た者だ。

「”彦”のゥガムにございます。救世主様の御来駕を賜り恐悦至極、村人を代表して寿ぎ申し上げます。」
 想像通りにちゃんと礼法に適った挨拶だ。弥生ちゃんとしてはもっと古代めいたものを期待したが、無理を言ってはいけない。

「うん。私がこの地に現れることを、あなた方はどうして知りましたか?」
「は、”髭じいさま”より聞かされておりました。」
「髭じいさまという人は、ひょっとして頭に、」
「は。御明察のとおりに、額に白ネズミの聖蟲を戴く我等が長太老にございます。」

 聖なる白ネズミを頭に乗せたネズミ神官は、ッタ・コップ降臨後は聖山の奥地に去ったと聞く。
 今の世にまで残るとは下界の書物のいずれにも書いていないが、ネズミ族の風習は謎が多いので、ひょっとするとと思って居た。

「私は天河十二神の代理人から、こちらで待っている人が居ると聞かされたんだけど、おそらくその方でしょう。」
「髭じいさまは長年救世主様の御到来をお待ちしておられます。」
「案内を。」

 

 洞窟であった。幾つも入り口が有り、いずれにも出入りを防ぐ柵や障害が設けてある。
 開いているのは唯一つ。村長が先頭に立って弥生ちゃんを導いた。

「うわあ。」
 太陽の光が届かぬ境目は暗いが、奥まで進むと光り輝いている。まるで昼の明るさで岩肌が照らされ、壁面には、

「これが歴史書にいう”ネズミ神官文字・文書”かあ!」

 丸い天井から床まで、足元を除いてびっしりと細かい絵が描かれる。記号化したものもあれば具象的なものも混ざり合い、全体として文章を綴っている。
 壮観な光景にさすがに弥生ちゃんも足を止める。

「これを書いたのが、髭じいさま?」
「いえ、じいさまはもう動けませんので、我等が指示を頂いて描いております。」
「洞窟は幾つもあるけど、掘ったの?」
「はい、洞窟というよりは書庫ですので、描くのに都合の良いものを穿っております。」

 ただ思いつくままに描くのではない。組織的計画的に記録を保存しているのだ。
 描かれるのは人界の諸相。人の世と神との交流をとこしえに受継ぐ為に刻んで行く。
 これが方台の正史である。

 外の岩壁にはざっと見るだけでも20本の入り口が有った。一つの洞に描かれるのは何年分の事象だろう。

 洞窟を見回して、光の元を発見した。
 脚の長い梟だ。目を大きく見開き、金色の瞳から眩い光を発している。
 方台の怪談には、夜森を歩くと金色目玉の巨大な梟に喰い殺されるという話が有るが、その妖怪は実在する。

 村長は梟に小さな肉片を差し出した。ぱくっと喰い付くとあっという間に呑み込んで、けっけけっけと叫ぶ。
 洞窟の奥深くにまで怪音は響き、やがて同じ声で答えが帰る。梟は何羽も居るのだろう。
 弥生ちゃんに振り向いて、村長は言った。

「髭じいさまがお許しくださいました。どうぞこのままお進みください。」

 これより先は禁域で、表の者は入れない。洞窟奥から出て来た中年男に案内を引き継ぐ。彼はすなわち後の世で神官と看做される者であろう。
 してみれば、白ネズミを戴く者を「ネズミ神官」と呼ぶのは間違っている。「ネズミ神族」と言うが正しい。

 洞窟内には4人の男が居る。いずれも簡素な服で、手や顔に顔料が着いている。
 髭じいさまの言うがままに洞窟壁面に絵を描き続けているのだ。

 男達はやがて壁面の一部で立ち止まった。珍しく何も書いてない平坦な岩肌だ。

「じいさま、ガモウヤヨイチャン様がお出で下さりました。」

 うおんともぬーとも取れぬ低い小さな唸りが聞こえる。人の声か。

「かなり驚かれるかと思いますが、御心の準備をなさってください。」
「うん。」

 男が2人壁の両端に手を当て、岩肌を押して揺すり始める。それまでぴったりと継ぎ目無く見えた壁に溝が入り、やがてぱくっと外れた。
 まるで忍者屋敷に思われる。
 促され、隠し部屋に入るとそこは、毛であった。
 真っ白な毛、長い髪の毛、驚くほどに長い白髪が部屋全体を埋め尽くし足の踏み場も無い。
 これが髭じいさまか、と弥生ちゃん納得する。髪の毛ではなく髭なのか。

「…お、おお、おおう。おおお若いのよお来なすった…。」
「ネズミ族の最長老様でいらっしゃいますか? トカゲ神チューラウより救世主の任を授かった蒲生弥生です。」
「おお、やっと来てくれたありがーたいやっと、やっとなのじゃな。」

 髭ばっかりで本体が見当たらない。部屋の広さは10畳ほども有るが、よくもまあこれだけ伸びるものかと呆れてしまう。

「あなたは神人なのですか? 千歳の寿命を授かったのですか。」
「そうじゃのお千では足りぬ、2千でも足りぬ。儂が一番最後にネズ公を授かったからの、ッタ・コップ様がおいでになられた頃じゃから、2987年と16歳じゃなあ。」

 3千歳ではあるが数字にはしっかりしている。さすがは神人。

「ではネズミ神人様とお呼びします。」
「いや、それぁはやめておくれ。儂は髭じいさんでじゅうぶんじゃじゅうぶんじゃよ。寿命が長いのは、ネズミの皆が分けてくれたからでのお、儂が偉いわけではないのじゃ。」

 発見した。目だ。らんらんと赤く光る小さな双つの眼を見付ける。
 白ネズミの聖蟲だ。大きさはほんとうにハツカネズミほどしかなく、白い頭がほんの少し髭の中から覗いている。
 胴体はやはり髭の海に隠れ、そうじゃない、ネズミの身体から毛が伸びているのだ。
 宿主と聖蟲と、どちらの毛か分からないが3千年を共に生きて来たのだ。どうでもいいじゃないか。

「えーと、じいさまの御顔は、こちらですか。」
「おお、おおぅ。」

 髭を掻き分けて老人を発見する。戸口の後ろで見ていた男達がほっと安堵の息を吐く。
 じいさまはなんだか元気そうだ。肌艶も良く皺の数も想像よりは遥かに少なく、どう見ても200歳よりは若く見えた。

「お初にお目に掛ります。私のことは「弥生ちゃん」とお呼びください。」
「うんう、うんう。」

 早速だが、とじいさまは話し始める。3千年を生きた人だが、時を失ってはならないと弥生ちゃんを諭す。

「儂が伝えるべきはひとつ、タコの女王さまのことじゃ。ヤヨイちゃんが蘇らせた5番目の女王はそれは悪い女子でな、天から与えられた役目をそのままおっぽり出して逃げてしもうたのじゃ。」
「はあ。まだテュラクラフ女王には会った事が無いのですが、そんな悪い奴でしたか。石像叩き壊しておけばよかった。」
「それはまた困るのじゃぁ。5番目の女王は「滅びの貝柱」を持っておって、地面に棲むわれらを一息に皆殺しにできるのじゃよ。」

 物騒な話。なるほど、じいさまが弥生ちゃんを呼ぶはずだ。

「どのような力なのですか?」
「この儂らが住んどる地面の下に、大きなタコがたくさん居るのは知っとるかの? タコを敷き詰めた上に石を積んで、土を被せてこしらえたのじゃ。」

 南海円湾で化石となった巨大なテュークを見た。その一つを切り裂いて、弥生ちゃんはテュラクラフ女王の赤石と化した姿を発掘したのだ。

「このタコたちは普段は大人しゅうしておるが、「滅びの貝柱」の力で目を覚ますのじゃ。そして、地面を支えておる自分の身体をぺたんと平らにして、海の底に沈めてしまう。儂はネズ公からそう教わったのじゃ。」

 おそろしく長い毛を引きずる白ネズミは、自分が呼ばれて口から小さくぼぼぼと火を吹いた。
 弥生ちゃんの真っ黒艶やかな髪の分け目に居るてらてらと金属色に輝くカベチョロが、答礼とばかりに氷の息を吹く。

「そんなことをされては、方台に住む人は皆死んでしまいます。でも何故タコ女王はそんな物騒なものを持たされているのです。」
「天の上の神様が、どうしてもこれが必要じゃとしたのじゃ。博打であったのじゃろうのお。要らぬ知恵を次から次に与えて、終いにはタコの女王でも人が止められぬようになってしもうた。」
「では、五代テュラクラフ女王は人を滅ぼさねばならなかったのですか?」
「滅ぼすと言ってもじゃな、ほんの一瞬だけタコたちにぺたんとさせれば、おそれおののいて皆言うことを聞いたはずなのじゃ。
 ところがあの女王は、「バカどもに永久に消えぬ恐怖を授けてやるのじゃがははは」と言って、姿をくらましてもうた。
 何時世の中が終わりになるか分からんで、残された者は皆大迷惑じゃ。これは前の女王達にも予想外のことでな、以来何百年も説得するが言うことを聞かず、やむなく石に封じて「貝柱」を使えぬようにしておいたのじゃ。」

 あー、と弥生ちゃんは後悔する。それはしまった。そんな経緯であればテュラクラフ女王を蘇らせるのではなかった。

「やはり、その「滅びの貝柱」をテュラクラフ女王から奪わねばならないのですね?」
「いや、実は貝柱は今はもう6番目の女王に譲られた。それにじゃよ、あんたぁがうまくやってくれたので、天の神様は人を滅ぼす必要がのうなったのじゃ。もう貝柱はいらぬ。」
「ウェゲの真の姿を蘇らせたから、ですか。」
「うんそうじゃ、そうじゃ。儂が生きとる内にようしてくださった。ありがたいありがとうのお。」

 皺に覆われた枯れ木の手を伸ばし、弥生ちゃんの右手を握る。ぱきんぽきんと指の関節が鳴るが、3千歳とは思えぬ結構な握力だ。
 このじいさま、あと千年は生きるのではないか。

「あんたぁに頼みたいのは、6番目の女王によくよく言い聞かせて、貝柱を上手く使うようにしてもらいたいのじゃ。全部のタコがいっぺんに動かなくはなったが、まだ数十匹は自由にうごかせるでなあ、人がいくらでも殺せるのじゃよ。」
「大丈夫ですよ。方台の人間はそれほどバカじゃないから、自分で自分を傷付ける真似はしません。」
「うんうん。そうじゃのうそうなのじゃよ。だが一応は言うておくれ。」
「はい、心得ました。」

「それからじゃ、  。」

 弥生ちゃんは知っている。この老人の用はもう一つ有る。
 さきほどから彼は、弥生ちゃんの左の胸に描かれる紋章に注目する。
 青い半円の髪を持ち黄金のアンテナを左右に伸ばした、女の顔。弥生ちゃんが自らの王旗にも用いるその図像は「ぴるまるれれこ」、神殺しの神だ。

「それからじゃ、儂のネズ公をじゃな、そろそろ天に返して貰いたいのじゃよ……。」

 

 

「よう、ネコ。」
「よう、ガモウヤヨイチャン。元気か。」

 洞窟を出ると、ネコが2匹待っていた。最初のネコの報せを聞いて駆けつけた取材陣だ。
 だが顔が引き攣っている。弥生ちゃんもネコとは随分の付き合いになるから、無表情ではあっても彼等が緊張しているのは分かる。
 これは東金雷蜒王国に上陸して毒地に突入した時と同じ。無尾猫決死隊の顔だ。

「なんでそんなに緊張してるのさ。」
「ガモウヤヨイチャンには分からない。この村の連中は、ネコを食べるのだ。」
「!、あーなるほど。」

 道理でネコが寄りつかないはずだ。
 そう言われてみれば聞いた事が有る。
 ネコが人語を喋るようになったのは、初代タコ女王ッタ・コップが出現する3日前。言葉を喋る前までは、ネコは人間に狩られる存在であった。
 ネズミ神官時代の習俗を今に受け継ぐこの村で、ネコが食べられるのは至極当たり前である。

 気が付くと、弥生ちゃんがネコと会話をしているのを、子供たちが遠巻きに眺めている。
 指をくわえて、舌なめずりしながら。自分達も仲良く楽しくお喋りしたいなー、というメルヘンな空気は漂っていない。
 ココは敵地だ! 2匹のネコは改めて白い全身の毛を逆立てる。

 弥生ちゃんは最初に会った女に案内されて、日除けの屋根を持つ明るい場所に落ち着いた。盛大におもてなしを受ける。
 だが大人たちは弥生ちゃんどころではない。
 伝えられた髭じいさまの意志をどう受け止めるべきか、大論争に及んでいる。

 皆必死だ、無理も無い。
 髭じいさまはネズミ族の心臓だ。彼が居るからこそ、部族はこの時代まで大過無く暮らして来れた。歴史の闇に溺れること無く自分らしく在れた。
 その核を失えば、どうなるか。
 間違いなく村は四散する。部族が絶滅する可能性も小さくない。
 下界の進んだ文明に目が眩み、これまで通りの原始の生き方を続ける者は居なくなるだろう。

 女は尋ねる。彼女は名を”媛”のサリュウといい、”彦”のゥガムの娘である。
 ”彦”とは、歴代正統の嫡子によって受継がれて来た村長を意味し、事実上は部族の王と看做してよい。つまりは彼女はお姫様だ。

「ガモウヤヨイチャンさま、どうしても髭じいさまは死なねばならないのですか?」
「いんや、別に天が定めたわけじゃないよ。」
「では、」
「あくまでも本人の希望なんだ。そして、じいさまは自分の力では死ぬ事ができない。私は、二度は来ない。」

 ”媛”は押し黙る。高度に神学的な問題なのだ。

 弥生ちゃんは地面に葉片を200枚も拡げて見入っていた。自分が不在の間に方台で起きた出来事が書いてある。
 髭じいさまの指示で村人が下界に使いを出し、情報を集めてくれて居たのだ。

「カプタニア、か…。それに、武徳王が、眼を患っている、のか。」

 弥生ちゃんの傍には2匹のネコと子供たちが居る。本来救世主様の御為の御馳走を、本人が葉片に取り組んで忙しいから代りに片付けてくれていた。
 諭されてネコは食べ物でないと理解するが、小さい女の子が耳をかじかじしようとする。鬱陶しそうに前足で追っ払った。

 おばさんが例の瞬間湯沸かし器でお茶を煎れて持って来た。この土地のお茶は普通に草葉を煮出したもので、青臭いがそこそこいける。
 ”媛”は下界で購ったと思われる小さな木の宝箱から、葉を何枚か取り出した。蓼、に似ている。

「これは?」
「髭じいさまが、ガモウヤヨイチャンさまが探し求めているのはこれだ、と教えてくれました。このあたりでは”胃薬の葉”と呼ばれます。」
「これをどうすればいいの。」
「呑み込まず、口の中で噛んでください。少し苦いですよ。」

 蓼か。タデであれば、なるほど弥生ちゃんが方台で探し求めていた香辛料の代りになるかもしれない。
 言われるままに口に含み、3度ほど噛んでみる。唾液に葉の汁が染み出し、

「…………!!!!」

 両の手を天に突き出し、拳を宙に振り回す。目玉が裏返り、舌が電極に繋がれたかに硬直する。
 いきなり七転八倒を始めた弥生ちゃんに、子供たちが笑う。”胃薬の葉”は苦いのに、あんなに沢山食べるからだ。
 方台の出来事が記された葉片を蹴散らして、御馳走が乗った篭や葉の皿は子供たちがみんな周囲から避けてくれた、地面をひとしきり転がってようやくに息を吐く。

「……!。これだ!」
「ご満足頂けたのでしたら、幸いです。」

 おばさんが差し出す茶を、今度はほんとうに喜んで飲む。あー辛かった。大満足だ。
 それにしても髭じいさまは心配りが行き届いている。このような知恵有る人を失うのは、方台にとっても損失であろう。

 ”媛”は改めて弥生ちゃんに尋ねる。

「髭じいさまは、どうしても死にたいのですか?」
「それが責任でもあるのだよ。
 神様は無謬だ。間違いを犯さない。それは髭じいさまを見れば良く分かるね。」
「はい。」
「神様は故に、失敗しない。失敗しないから後戻りもしない。完全だ。」
「はい、そうですね。」
「完全であれば、終る必要も無い。いつまででもそのままで居られる。永遠の存在と呼ばれるわけだ。」
「はい。間違い有りません。」

「だが人は、生き物はそうじゃない。間違いながら失敗しながら、無数の死を積み重ねて生きて行く。やがて、それら全てを呑み込み乗り越える。」

 ”媛”はすこし考える。草深い山奥に住めば、草木や虫が様々な異変を包み隠し食らい尽くして生きるのを目撃する。

「生きるというは貪るとも言いますから。」
「うん、それが”劫”と呼ばれる概念だね。生命は”劫”から成る。
 故に人は、神様をも貪り尽す。神の定めた理を覆い隠し、自らの世を築いて行く。それが歴史というものだ。人間の進歩だね。
 しかし、では貪られた神様はどうなるか?

 無論その程度では死なない。永遠不滅の存在であれば、それもまた良しとするでしょう。
 でもそれは、神ではない。自然になってしまう。
 天河十二神はさまざまに人に手を貸すけれど、最終的には支え無しで生きていける事を望んでいる。

 また土台が揺らがないのであれば、人は何時まででも留まり続ける。それでは次の歴史が紡げない。」

「髭じいさまは、我等にこの土地を出て行けとおっしゃるのですか。」
「簡単に言うと、そうだね。より正確には、天河十二神はもはやネズミ族が原初の姿を留めておく必要を認めなくなった。変わる事を許されたのだよ。

 だが変わるのに障害が有る。」
「いつまででも生き続ける、髭じいさま。ですか……。」

「ねえヤヨイチャン。髭じいさまは死んじゃうの?」

 子供たちは難しい話に、だが髭じいさまについて話しているのを知っているから必死になって聞き取ろうと努力している。
 どの子も髭じいさまが大好きだ。
 洞窟の奥深くに居て会えないが、村の隅々にまでじいさまの声が届き、じいさまの御力で平穏無事に暮らして行ける。

「ヤヨイチャンさま、じいさまを殺さないで。」
「じいさまを連れて行かないで。」
「ヤヨイチャン、じいさまはみんなが好きなんだよ。」
「じいさまとっちゃやだー。」

 泣き出す子も出て、”媛”は慌ててなだめに行く。さすがに救世主様に失礼だろう。
 だが考える。

 この子達はこんなにもじいさまを愛している。じいさまも子供たちを、村の皆を、方台全土に散らばったネズミ族を愛してくれる。
 じいさまは柱であり、山である。じいさまにすがって皆生きて来た。
 それが失われるのは耐え難い苦痛に違いない。何物に代えても留めたいと思う。

 でも、じいさまはどうなのだ?
 それほどまでに愛してくれるじいさまは、子供たちが毎年居なくなる、死んで行くのをどう思って来たのか。
 誰もがじいさまの子供である。でも命は短くいつかは死んで行く。永遠の命を持つじいさまは、ただ見守るしか無い。

 たった一人が失われるのが、こんなにも哀しいのだ。
 毎年毎年愛しい子供を失って、それを3千年も続けて居る。じいさまはどんなにか哀しかったろう。
 生まれて来る子には名を付け、結婚する時には祝福を下さり、下界に働きに出れば生きて戻れるお知恵を授け、死んだ者の名を洞窟に描いて留めてくれる。
 ぱっと咲いてぱっと散る花のような子供たちに、これほどまでに良くしてくれる。
 じいさまが、じいさまが、

 

 弥生ちゃんは強くたしなめる。
「大人は泣かない!」

「はい。はい、でも。……じいさまああああ。」

 ”媛”はとうとう大きな声で泣き出した。子供たちもつられて声を上げる。たちまち涙の大合唱だ。
 ネコも弥生ちゃんも肩をすくめる。これでは私は大悪人だ。

 ”媛”はふらふらと立ち上がる。この哀しみをどうにかしてくれるのは、おとうさんしか居ない。
 父である”彦”は村長として何人もを弔い、また下界に出て戦いに臨み戦士の死にも耐えて来た。
 あの強い父ならば、じいさまの死も、じいさまが、うあああああん。

 

 ”彦”のゥガムは苦戦している。

 弥生ちゃんに聞かされた髭じいさまの希望をどのように村人に説明するか。誰だってじいさまが居なくなるのは耐えられない。反対しない者など居るはずが無い。
 そうは言っても、じいさまの言葉は神の声だ。深い智慧が隠れており、計り知れない慮りが有る。
 今回のコレだって、村人全員にとって本当は良い話なのだろう。じいさまが間違った事は一度も無い。
 ではあるが、

 険悪な雰囲気の広場に、大人たちの輪を割って”媛”が泣きながら入って来る。
 もういい年であるのに、そんな子供みたいに泣き喚いて。まだじいさまだって生きているのだ。

 だが抱きつかれ話を聞く内に、彼の表情も変わって行く。
 娘が得た哀しみと悟りとを共有し、じいさまの心境に思いを到らせれば、自然と…。

 ”彦”のゥガムは泣き出した。幾度も死線を越えその度豪胆さで乗り切って来た男が、大泣きに泣く。
 誰憚ることなく、何物からも自由に、ただじいさまの為に泣く。

 遠くから子供たちと共に様子を覗いていた弥生ちゃんは、豪快なまでの泣きっぷりに腕を組んで感じ入る。
 男がこれほどまでに熱く泣く姿を、自分は始めて目にする。

 良いものを見た。

 

 

 結局他に手は無く、翌日には洞窟の中から髭じいさまを引っ張り出す事となる。

 村中全員に加えて、急遽駆けつけた近隣の村の長も合わせて500名での大仕事となる。
 伝令を受けた他の村では取るものもとりあえず夜通し森を駆けてすっ飛んで来た。ネズミ族全体にとって最重要な事件だ。
 もしも数日を準備に許されるのなら全村の全員が、いや下界で奉仕中のすべてのネズミ族が集って、髭じいさまを送っただろう。
 弥生ちゃんににわかの儀式を頼むのも、それを避けての配慮なわけだ。

 髭じいさまはごく普通の爺さまのように、火が消えるかに静かに世を去りたいのだ。
 さすがに弥生ちゃんはこう忠告した。

「とりあえずは、お日さまの下でやりましょう」

 洞窟から地上に姿を見せるのは、実に100年ぶりとなる。古い洞窟を描き尽くして新しいものに換えて以来、だ。

 じいさまが洞窟に住むのには理由が有る。さすがに長く生き過ぎて、寒暖の激しい表では体調を壊すのだ。
 また洞窟内に多くの人を入れると、カビなどで壁画が破損してしまう。
 限られた助手以外は男は成人の儀式を無事務めた時、女であれば最初の子供が生まれた時に対面が許された。

 この禁ももうお終い。男達が潜ってじいさまの部屋に入る。みんなで担いで引っ張り出すのだが、髭が重い。
 おそらくはじいさまの体重の5倍10倍有るだろう。人手が足りずにどんどん入って行く。もちろん壁画を壊さぬように慎重にだ。

「これは大事だ」
と、”彦”のゥガムは自らも潜り、髭を担ぐ。各村の長も徹夜で森を駆抜けた疲労もなんのその、表で見守る弥生ちゃんに一礼して洞をくぐる。

 女達は固唾を呑んで見守るだけ。

「長くなりそうだな。」

 外で待つ間も、ひっきりなしに人が訪れる。どんどん他村の者が駆けつける。
 皆駆け続けで息を切らせ、眼を真っ赤にして弥生ちゃんの前にひれ伏し、髭じいさまの助命を嘆願した。
 「神殺し」の悪名は天下に鳴り響く。詳しくは事情を知らないが、天河の神の命令で弥生ちゃんがじいさまに死を強いた、と理解されている。

 自分で弁解するのも馬鹿馬鹿しい。
 ”媛”のサリュウに命じて、これがじいさまの希望でありネズミ族の今後の発展の為の決断であると説かせている。
 何人も何人もが異口同音に嘆願し、何度も何度も説得する。

 弥生ちゃんの傍で自らの身を警戒しつつ全てを見覚えるネコ2匹が、言った。彼らは他村の者に食べられないよう必死だ。

「ガモウヤヨイチャン、色々と辺りを見回りたいのだけど、どうにかならないか?」
「そうだねえ。ネコを洞窟の中に入れたいところでもあるんだけどねえ。」

 ネコの記憶力であれば、この天下の一大事を人が語り継ぐよりも精確に記録できる。しかし、ネズミ族の人は許してくれそうにない。

「おお、髭だ、しろいひげだ!」

 洞窟の入り口に声が上がる。じいさまを担いだ男達が、ついに洞窟の入り口まで運んで来た。
 待ちかねたとばかりに弥生ちゃんの周囲で控えて居た女子供が駆け出した。”媛”も弥生ちゃんを放り出して、じいさまの傍に走る。

「じいさま」「じいさま」
「じいさま、お懐かしゅうございます」
「じいさま、これが私のこどもたちの、」
「砂ささくれ村の長ジャガンでございます。じいさま、此の度はなんという、」
「カリノのメメタにございます。じいさま、じいさまああ」

 皆じいさまの髭に触れようと手を伸ばす。まだ本人の身体は洞窟から出ていないのに、口々に我が名を叫び姿を見せようとする。

「やあ、眩しいのぉ」
 地面の下で聞いた声がして、人々は皆歓声を上げた。じいさまだ、髭のじいさまがお日様を見たぞ。

 村人全て、男も女も老いも若きも、子供たちも、皆手にじいさまの髭を握ってしずしずと進み出る。村の広場にじいさまを案内する。
 全身をこうして見ると、髭の塊でしかない。人間の身体がどこにあるかさっぱりだ。
 左右に長く綺麗に伸ばして、長さは実に30メートルもあった。
 大事に大事に、手に手にひっぱられる髭の下を潜って、男達がじいさまを慎重に運んで安置する。

「ふぅあ、喉が渇いたの。茶などいっぱいおくれ」
 笑い声と、泣き声と、どちらともつかぬ声とが混ざり合い、空気が揺れた。

 

 弥生ちゃんにとっては、実に不快な時間が続く。
 村の者は昨夜の内に済ませたことを、後からやって来た者が何度も何度も繰り返す。
 じいさまを取らないでくれ、じいさまを我等からうばわないでくれ。
 そんな事は分かり切っている。自分だってやりたくてやる訳じゃないのだ。

 ”彦”のゥガムと”媛”のサリュウは必死で彼等を説得する。いや、髭じいさまの思いを伝える。
 そして、誰もが分かるのだ。分かって居ながら、どうしようもない。
 或る者は弥生ちゃんを殺して自分も死ぬ、などと言い出した。気持ちは分からぬではないから複雑だ。

「ま、たしかに私をぶち殺すのは良い手かもしれない。」
「申し訳ございません。皆誰も納得出来ないのです、御許しください。」

 戻って来た”媛”も憔悴している。彼女だってこんな役回りはたくさんだ。女達に混ざって髭じいさまとお話をしたい。
 あとほんの僅かの時間しか一緒に居られないのだ。

「これはトカゲ神救世主としての言葉だ。夜露はじいさまの身体に悪い。不死ではあっても体調を悪くすることも有る。日の有る内に済ませた方がいいよ。」
「ですが、……。」

 

 他村の長達を連れて”彦”のゥガムがやって来た。皆思い詰めた表情で、納得出来ぬが良い知恵も無い、そんな感じだ。
「ガモウヤヨイチャン様、申し訳ございません。我等ではどうにも決められませぬ。」

 そりゃそうなのだろうが、どうにも困る。
 ただ弥生ちゃんは救世主である。人を救うにあらず、世を救う。そんな者だ。
 腰の後ろにたばさむハリセンを抜いて、彼等に示す。

「私は、天河の計画に従う。文句が有れば後に復讐を受け止めよう。今はただ、髭じいさまのお言葉こそが天の命令だ。」
「救世主さま!」

 決然と立つ救世主に、男達は手を伸ばして止めようとする。だが、届かぬ。少女の覚悟に迷う男達は敗北する。
 髭じいさまに近付く弥生ちゃんの姿に子供たちが悲鳴を上げる。やめて、じいさまをつれていかないで。
 女達が両手を開いて立ち塞がるが、救世主の強い瞳に皆背後に下がってしまう。この人は正しいことを行っている、その直感には逆らえない。

「じいさま、じいさま。」
「おおぅ、もうやりまするか。」
「もうしばらく、皆がお別れを言うのを許してあげてください。」
「そうだの、儂がもういいというたら、来てくだされ。」
「はい。」

 

 いいかげん、弥生ちゃんも焦れて来る。全員飯を食べるのも忘れてじいさまにつきっきりなのだ。
 それどころでないのは確かだが、しかしさすがに腹が減った。子供たちもおっぽり出されたままで、小さい子は泣き出す始末。
 「しかたない」と腰を上げる。
 この蒲生弥生、「かんぺきゆうとうせい」の名をほしいままにする者だ。いかに不慣れでも一度見れば調理器具の使い方、料理の手順を覚えてしまう。

 村の女達が気付いた時には、弥生ちゃんは怪しげな芋の煎餅とセミの幼虫入りスープを作って、ネコと子供たちと食べている。
 ”媛”が飛んで来て、土下座して謝罪する。

「も、もうしわけございません!!!」
「いいけどさ、でも。」

 時刻は残六刻(午後4時)まであと少し。山の日が落ちるのは早く、聖山の陰に早くも隠れて涼しくなって来る。
 ”彦”のゥガムも、他の村長達も立ち上がる。気温が下がれば、じいさまが体調を悪くしてしまう。

 意を決して”彦”のゥガムは弥生ちゃんの前に跪く。「これまで」と。

「じいさまじいさま。」
「おお、もうこんな時刻じゃな。そろそろ行くとするかな。」

 遅れて村に辿りつき、「間に合った!」と涙ながらにじいさまにしがみ付く毛むくじゃらの大男が、村長達、その背後に立つ青い服の少女を見る。

「いま、から。これまで、なのか…。」

 男はいきなり弥生ちゃんの脚にすがりつく。筋肉丸太の腕で力一杯スカートごと抱きしめられて、さすがに救世主も転ぶ。
 抱き起こす”媛”。”彦”のゥガムは大男の肩を強く握って、引き離す。

「”大元”どの、じいさまの願いなのだ。こらえてくれ。」
「”彦”、終りなのか、ネズミの一族はこれまでなのかあぁ」

 まるで子供のように泣きじゃくる男から離れて、弥生ちゃんは爺様の顔の辺りに近付いた。

「よろしいですか?」
「すまんのお、いやな役を押し付けてしもうて。」
「これが私の役目ですから、お気遣い無く。」

 右手に持ったハリセンを、ぱんと開く。扇面を横に倒して、じいさまの額に居座る白ネズミの前に差し出した。
 ネズミは口からぼぼぼと赤い焔を小さく吐く。

「ネズ公よぉ、ずいぶんと頑張ってくれたのお。天の河原に行ってたら仲間のネズ公と楽しく遊ぶのじゃぞ。」

 もう一度、ネズミは口から焔を吐き、のそのそと長い毛を引きずって青く透けるハリセンに移る。
 ああ、と誰かが声を洩らす。じいさまの頭の上にしか居なかったネズミが、じいさまから離れて、

 ネズミはくるくると周囲を見回す。地上はこれが見納め、と人間達の顔を拝んで行き、最後に弥生ちゃんと頭のカベチョロと対話する。
 いきなり声が弥生ちゃんの頭蓋に轟く。低い男の声だが、カベチョロとは違い若い響きがする。

『ハリセンを門として、直接に天河十二神の所まで飛ぶ。』
「どうぞ。」
『少し痛いかもしれない。力がそなたの肉体を通って作用する。』
「だいじょうぶです。もう慣れています。」
『それから、じいさまに代わって私からも御礼が言いたい。ありがたう。』

 ネズミはハリセンの上を白い毛を引きずってピョン、と跳び、扇面を水面のように潜って消えた。
 長い毛がずるりとハリセンに呑み込まれ、いつまでもいつまでも連なって入って行く。30メートルも有るから、全部消えるまで数分を要した。

 毛が消えれば、下に隠れていたものも露になる。
 残されたのは、ただ老いさらばえたじいさまの肉体のみ。網の服を一枚巻いただけのしわがれた、枯れ木のような身体だ。
 皆あっと驚く。
 これまでじいさまの毛、と思っていたものは全部白ネズミの毛であった。顎から伸びるのはまさにじいさまの髭であるが、頭はつんつるりん。見事に何にも無い。

「いやー、あたまが軽くなったのお。ほおほおぉ」

 それが髭じいさまの最後の言葉だった。

         **********

 

「助かります。」

 洞窟に入った弥生ちゃんは、壁画を描いていた男達に案内されてじいさまの部屋の前に行く。

「じいさまが居なくなったと同時に、金目フクロウ達が言うことを聞かなくなりまして、難儀しました。」
「あれはネズミの聖戴者にのみ従うよう作られているから、私が去ると同時にどこかに行っちゃうよ。諦めてくれ。」
「それならそれでよいのです。我等は所詮じいさまの代りは出来ませんから。」

 洞窟内を照明していた梟達も、じいさまの逝去と同時に動作が怪しくなる。目を伏せ瞬き光が陰り、肉を差し出しても食わず、このまま留めるのは最早不可能だ。
 それでもじいさまの部屋に壁画を描くのを助けてくれた。じいさまが長年寝ていた10畳ほどの石室は、前後左右にじいさまの最期を伝える絵文字で埋め尽くされた。

 その間3日。じいさまの葬儀が大々的に行われる。
 じいさまの希望で、墓は皆と同じのただの土まんじゅうとされた。なにも飾る所が無く、すぐに忘れ去られてしまう、ただの爺ぃの墓だ。

 弥生ちゃんはというと、ずっと忙しかった。
 じいさまの臨終に間に合わなかった男達が嘆き哀しみ、仇と石斧や石剣を振り上げて襲って来る。
 八つ当たりもいいところで、”彦”のゥガムらが身を挺して庇ってくれるが、何度も護りをすり抜けて肉薄する。
 さすがにネズミ族、暗殺者の村だ。長達はなかなかの技量。方台最強を謳われる弥生ちゃんでなければ、危うかった。

 これもじいさまの配慮なのだろう。弥生ちゃんが復讐の刃を受け止めてくれるから、彼等も諦められる。
 逃げない仇は尊敬されるものだ。

「こちらです。」
 じいさまの部屋が閉じられ、最初に見た時と同様に何の継ぎ目も無い石の壁が現れる。ここだけは絵文字を描いていない。

「ここに?」
「はい。ガモウヤヨイチャン様に最後に描いていただきたく存じます。」

 この洞窟は、じいさまの死と同時に閉鎖され保存される。そもそもが百年に1本を描き尽すといい、ちょうど潮時だったのだ。
 壁面にはここ百年に方台で起きた事象が無数の絵文字で記される。
 その掉尾を飾るのがトカゲ神救世主の降臨であり、弥生ちゃん本人の筆によりて締め括られる。

「では、まず。私の紋章であるこれを描いてちょうだい。」
「かしこまりました。」

 左の胸の刺繍がお手本となり、ぴるまるれれこの顔が男の手でするりと描かれる。アンテナ状の黄金の角は金泥で描かれ、まったくに刺繍と同じに仕上がった。
 その下に、

「筆を。」
 墨は青黒い。弥生ちゃん本人の希望でこの色を調合した。青晶蜥神救世主の手であるのだから、青い文字でなければならない。

 梟が瞬いて光がしばし途切れる中、弥生ちゃんは瞑想して精神を統一した。
 一気に、書き上げる。漢字だ。

『青晶蜥神救世主蒲生弥生、北辺一遊シテ此地ニ到リ、白髭鼠翁ヲ餞ル。快晴也』

「なんとお書きになったのですか?」
「私がここに確かに来た、それだけだよ。」

 

 洞窟を出ると、村の人が全員で出迎えた。今日で弥生ちゃんともお別れだ。
 ”彦”のゥガムが村人、ネズミ族を代表して礼を言う。

「ガモウヤヨイチャン様、数々の御無礼をお許し下さい。髭じいさまは貴女様から頂いた御恩を決して忘れるでないと、我等に言い残して行かれました。」
「うん。」

 背後では洞窟の入り口が木の枝を重ねて閉じられる。封印を施し、後の世に送り届けるのだ。

「新しい洞窟を掘るんだ。」
「はい、そうなります。ですが、」

 そう。髭じいさまの居ない洞窟にどれほどの価値が有るだろう。方台の歴史を描き記す事に、どれほどの意義を認めるか。
 すべてはじいさまが居たからこそ。これより先壁画を描く仕事を、ネズミ族は何時まで続けられるか。

 弥生ちゃんは言う。

「世が変わるのに従って、風習が途絶えるのは仕方の無いことです。ですが、洞窟を損なうのは許しません。
 青晶蜥神救世主としての命令です。ネズミ族の者は、その最後の一人が死に絶えるまで壁画の洞窟を保存し、髭じいさまの遺産を護りなさい。
 またそれが難しくなるのであれば、私の意志を継ぐ者の所に参って協力を仰ぎなさい。何時でも力になりましょう。」

 村人、またネズミ族の長達は皆弥生ちゃんの前に跪き、永遠の服従を誓った。この人の言葉がネズミ族のこれからの力となる。

 

「こちらでございます。」

 と、”媛”が案内するのは、村から随分と離れた森の中。村人もめったに近付いてはならないと定められた禁域だ。
 弥生ちゃんはこの地を離れるに当って、”彦”のゥガムから思い掛けない言葉を告げられた。

 救世主が人界に戻る為の乗り物を用意してある、というのだ。これもまた、髭じいさまの遺言である。

「こちらです、トカゲねえさま!」
「と、とかげねーさま?」

 ”媛”の不用意な言葉に、弥生ちゃんをはじめ全ての人が凍りついた。言った本人もその場に硬直し、見る見る蒼ざめていく。
 土下座した。

「申し訳ございませんー! 実のところ私たちの村では、救世主様のことを”トカゲねえさま”と呼んでおりました!!」
「うにゅ、うむ、まあいいや。髭じいさまがそう呼んでいたんでしょう。」
「御明察おそれいります。」

 トカゲねえさま、か。
 なるほど、救世主などと呼ばれるよりはよほど実態に合っている。ネズミを戴く神人が”髭じいさま”ならば、自分は”トカゲねえさま”で上等過ぎる。

「それで、ここになにが? ……おお!」

 丘から下を見て、思わず声を上げる。
 黄金に輝く巨大なカブトムシが、全長7メートルは有る大物が控えているのだ。
 これはカプタニアの聖なる宿り木に棲むと聞く、褐甲角(クワアット)神の地上の化身。

「お待ちしておりました、ガモウヤヨイチャン様。」

 礼儀正しく迎えるのは、下界の平民が着る粗末な「布」の服を纏い、だが剣だけはとても立派なモノを帯びる人品賎しからぬ男性。
 髪は精進潔斎にして薄い色。その中央に緑金の甲羽を持つカブトムシが鎮座する。

「褐甲角王国カプタニア神衛士ノコオーン晶ザリメィフでございます。神聖神殿より派遣され、神の地上の御身体を護っております。」
「そうですか。でもいいの?」

 カプタニア神衛士、褐甲角の神兵が他の神に仕える者が神様に乗るのを許すとは思えない。
 戦うのもなんだし、そもそもイヌコマに乗って人界に戻っても良いのだが。

「全ては髭じいさま、ネズミ神官殿のお指図です。我等はそのお言葉によりて、神の御姿を発見できました。
 また我が額に戴く緑金の聖蟲は距離を超えて武徳王陛下と直接に繋がり、陛下も事情をご理解になっておられます。
 ガモウヤヨイチャン様は神の背に乗りて速やかに人界戻り、天河の計画を民人に御示しください。」

 振り向いてネズミ族の顔を見る。彼等も皆、弥生ちゃんを喜んで送り出そうとする。
 天の与うるを取らざるは逆らうに等しい。
 観念して、大きなカブトムシの傍に近付く。角は有るのだからこれはオスだろう。だが、なんとなく女性的な感触もある。

「えーと、どこに乗ればいいのかな? 羽ばたくのに邪魔になるだろうし。」
「お待ち下さい。」

 神衛士は、神に対して祈る。額の聖蟲が仲介して、彼の言葉が伝わった。
 黄金の神は甲羽、薄翅を拡げて、背を弥生ちゃんに示す。最初から開いた状態で乗れと言う。

 勧められるままに、乗る。少女1人にしては広過ぎる背中は、だが掴まる何物も無い。落っこちそうで危険だ。
 いきなり羽ばたきを始める。待った無し。

「じゃあ行きます。私が連れて来たイヌコマは、あれは特別な奴だから、食べちゃダメですよ。
 それから、ネコは食べないで。子供がネコの耳をかじかじするのはやめさせて。」

「心得ました、ガモウヤヨイチャンさま。」
「じゃあ、行きます。ありがとう。」

 ぶぅおおおおんと薄翅は唸りを上げ、すっと1メートルほど宙に浮く。
 何の支えもなしにこんな大きなモノが浮くなんて、と不思議に思うのも束の間、いきなり森の樹の高さを越えた。
 カブトムシ神に躊躇ナシ。

「ネコ食べちゃだめですよおー」

 それだけを残して、トカゲねえさまはネズミの森を後にした。

 

【青服の男】

 弥生ちゃんの使いとして民衆の前に現れる青い角袖の服の男達が何者であるかは、ずっと謎であった。
 正体が判明するのは500年も後の歴史研究者の論文中である。

 「賎の醜夫」と呼ばれる山岳民、方台各地に点在する聖地の住人がそれだ。と結論する。

 では「賎の醜夫」とは何者か。件の論文の真価はそちらに由来する。
 そもそもが、この名前だ。普通の人であれば、とんでもない田舎者で醜い不器用な蛮人を想像するだろう。
 反対だ。
 「賎の醜夫」は見目麗しく知性に溢れ、様々な技芸に通じ、そして天河十二神の計画を熟知していた。だが名前に騙され地上の民は実態を見誤る。
 彼等の女性は「杣女」と呼ばれるが、千変万化の魔法使いだ。年齢不詳で老婆にも男にでも変身出来る。
 「醜夫」も同様に、人界に降りる時は変装をしていたのだろう。謎のはずだ。

 歴史研究者はネズミ族の洞窟壁画の、それも最も古い記述を調べていて彼等の起源を発見した。

 ネズミ族とは紅曙蛸神の女王に従わなかった者だ。
 紅曙蛸女王初代、最初の救世主であるッタ・コップのもたらした、新石器文明に相当する高度な技術に基づく新しい時代。
 だが文明に浴するのを良しとせず、あくまでも古い習俗にしがみ付き森林の奥深くに隠れて生きる一族である。

 前世紀、人間をを指導したのはネズミ神官と呼ばれる額に白ネズミの聖蟲を戴く人物だ。何人ものネズミ神官がそれぞれ人を率いて、方台の各所に定住を果たす。
 白ネズミは口から焔を吐く超能力を備え、神火を利用してさまざまに生活を豊かにした。
 やがて人口が殖え、狩猟採集では食糧を賄えなくなり、村同士が狩り場を巡って争い殺し合う末世に到達する。
 遂には人を食らうまでに陥り、収拾が付かなくなった。

 その時現れた救世主こそが、額に真白きタコを戴くッタ・コップだ。

 ネズミ神官は彼女を”全ての人の上に立つ存在”=「王」に推戴し、民人を導く責務を托す。
 役目を終えた彼等は順次姿を消したが、ネズミ族はあくまでも彼等の教えを守り抜く。

 同じことが、太古にも起った。
 最初に人間を地上に連れ出し教え導いたのは、コウモリ人と呼ばれる獣に変身をする怪人だ。神そのものでもある。
 数百年後コウモリ人は任務を終える。
 優れた資質を持つ人間を選び白ネズミの聖蟲を授けて人を導く役割を交代し、順次北の聖山に戻って行く。
 だが少数が人界に留まり、かって庇護した人間を遠くから見守って居た。
 これが人間の自主性を育てる障りとなるとして、ネズミ神官達は協議し白ネズミが吐く焔の力でコウモリ人を駆逐した、と神話は伝える。

 「賎の醜夫」はこの時、あくまでもコウモリ人に従った人間だ。だがネズミ神官との約束でコウモリ人は夜の闇に隠れ、彼等に対しても姿を見せない。
 だから追う。コウモリ人を求めて方台を巡り歩き、あくまでも古い生活を維持し続けた。

 結果として方台の人間は二つに分かれる。
 ネズミ神官に従い決まった場所に定住して徐々に人口を増して行く民と、あくまでもコウモリ人を追い求め漂泊する民とだ。

 コウモリ人は積極的には彼等と関わらない。時折、大規模災害で人が苦難に喘ぐ時助けに来るのみ。
 だから彼等は方台各地を巡り歩き、コウモリ人が出没しそうな場所に網を張って待ち構える。
 様々に調べて、特に怪しいとされる場所を発見した。超自然現象が発生する渓谷、尋常の力を越えた奇蹟によって形作られる山、直線で区切られるいかにも人為的な構造物。
 後に「聖地」と呼ばれるそれらの土地は彼等の拠点となり、いつしか定住も試みた。
 だがあくまでも本分は漂泊だ。コウモリ人を追い求める事こそが生きる道である。

 土地土地を流離い歩く内に、定住民と交渉し糧を分けてもらう術を身に付ける。
 歌舞音曲演劇の技、方台各地の諸事情の語り、天文気象観測、医術武術、さらには商業までも。
 後にッタ・コップが神殿が司るべき聖業と定める様々な技が、彼等によって見出された。

 そもそもがッタ・コップ自身が「杣女」の祖と伝えられる。恐らくは逆で、彼女は漂泊民の中から生まれた最も強力な杣女であろう。
 紅曙蛸女王国時代は、コウモリ人を信奉する漂泊民がネズミ神官に従う民に対して復讐を果たした時代、とも言える。

 だがそれでも、あくまでもコウモリ人を追い求める一派が有った。
 紅曙蛸女王体制に組せず、使命に固執し山中の聖地に籠って人界の発展からは身を遠ざける。人に見られるを避け、已む無く降りる時は正体を隠す。
 「賎の醜夫」と自らを名乗った。

 

 そこで疑問が生じる。創始暦5000年頃、未だ彼等はコウモリ人・コウモリ神人の信奉を止めていない。
 だのに何故、弥生ちゃんに従うのか。幾度と無くコウモリ神人と戦い、互いを傷付け合った青晶蜥神救世主に協力せねばならないのか?

 考えてみれば自明である。
 弥生ちゃんの所に、コウモリ神人がやって来るのだ。弥生ちゃんの傍に居れば必ず対面出来る。

 とはいえ、「神殺しの神」を標榜する弥生ちゃんだ。肝心のコウモリ神人が害されては、彼等も困るだろう。
 心配は要らない。コウモリ神人の無敵性こそが信仰の対象だ。
 コウモリ人は原初、人を護り自ら強大な野獣と戦い牙と爪で勇敢に屠り、肉を食糧に皮を衣服として分け与えたという。
 闘神なのだ。

 闘う神が顕現するのは、もちろん戦いの場。それも敵が強ければ強いほど、神威は激しく発動する。
 だがゲジゲジを戴く神族も、カブトムシを戴く神兵も、コウモリ神人の敵としてはいささか矮小に過ぎた。
 もっと強く、もっと大きな力を発揮する神人は居ないか?
 「賎の醜夫」は理想的な敵を発見する。弥生ちゃんだ。

 巨大なテュークの化石を一刀の下に斬り払い、神聖首都ギジジットでは宮殿を丸ごと巻くゲジゲジ神の地上の化身を打ち倒し、褐甲角王国最強を謳われる赤甲梢の神兵200名を一喝して跪かせる。
 これほどの強さを持つ者は、長い方台の歴史でも聞いた事が無い。ネズミ族の洞窟壁画にも描かれていない。

 この人であれば、この人の強さであれば、コウモリ神人は真の強さが発揮出来る。
 地上最強の戦いをこの眼で見られる。

 神を呼び込むには世界が大きく動揺せねばならない。コウモリ神人の力でなければ抑えられない動乱が起きねばならぬ。
 幸いにして弥生ちゃんは治に在りて乱を起すのを好む、困った性格だ。新たなる時代を拓く為には、安定し硬直した人の世を覆さねばならぬと知っている。
 さればこそ「賎の醜夫」は従った。青晶蜥神が導く新たなる世の幕開けを、自ら煽動して回る。

 その努力は十二分、いや二十分に報われた。
 三神救世主会合の場での大怪獣空中戦。また「ジョグジョ薔薇の乱」での群怪の乱舞、続く「神刃一〇八振の戦い」。
 どちらでもコウモリ神人は持てる力の全てを地上の人に曝してくれた。
 弥生ちゃんも全力を振り絞って戦い、コウモリ神人を大きく傷付け怒りを呼び覚まし、天地が割れるほどの苛烈な激闘の末に遂に完全なる勝利を得る。
 「神殺しの神」としてコウモリ神人の役目を解き、天河に帰したのだ。
 
 「賎の醜夫」は満足する。
 なるほど地上からコウモリ神の化身が去るのは寂しい。だが何時までも燻り続けるより、激しく燃え落ちる方が神にはふさわしい。
 また弥生ちゃんもハリセンを破壊され、身体が透けるほどの霊的な重傷を負った。自らを癒す為に方台を去り西の海の彼方へと赴かねばならない。
 コウモリ神人の力の絶大な事を、身を以って示してくれたのだ。
 これ以上何を望むべきか。

 

 弥生ちゃんの方台退去後、彼等の姿はどこにも見られなくなる。
 正確には、青色角袖の服が弥生ちゃんの使徒の証しと認められ、様々な人がてんで勝手に着るようになった。
 ホンモノは、数多の青服の中に潜んで消えた。隠れ潜むのが彼等の特性であるから、非常に都合の良い時代になったわけだ。
 偽の青服ばかりとなって、ホンモノの正体を知ろうとする者も絶えた。

 ただ「青服の男」のイメージは残され、伝説として、小説で、お芝居の中に、弥生ちゃんの従者として必ず現れる。
 彼等は自ら戦ったわけではない。
 が、「神撰組」の勢力が強まり特権を主張するようになると、対比する形で青服の男達が真の使徒として注目された。
 救世主に代わって悪を懲らしめる正義の味方に描かれ、庶民の喝采を浴びる。

 そんな風潮の中で提出されたのが、彼等の正体を明らかにする論文だ。
 にわかに「青服の男」ブームが起こり、山中の聖地を訪ねて彼等を探す旅が流行した。
 聖地で目にしたものは、

 ……敗残者の群れであった。
 老人や病人、貧困者、破産者、はては廃止されたはずの奴隷までもが在り、山奥に逃げ込んで集落を作っている。
 聖地はまさに、虐げられる者の聖地として機能していた。

 

 青晶蜥神時代となって急速に進展した貨幣経済。方台の流通は促進され、産物は自由な往来を遂げ、街は活気に溢れている。
 だが繁栄の裏では金銭にまつわるいざこざが一般庶民をも襲い、特に高利貸しによる苛酷な取り立てが横行した。
 貧富の差は拡大し、一度貧困に落込むと何代にも渡って抜け出せず、事実上の奴隷状態が出現する。
 貧しき者を助けるはずの十二神神殿も、新興宗教「ぴるまるれれこ教」に活動資金を奪われ、十分な機能を果たす事ができない。
 聖戴者の数も大きく減り、それぞれの王国を運営するのは普通の人間となる。彼等は当然に富裕層と結託して、彼等自身を肥やすのに専念する。
 文化は大きく発達するも、踏み台にされる者が多ければこその偽りの宴であった。

 頼るべきは青晶蜥神救世主のみ。社会的公正を実現するのは、救世主の使命に相違ない。
 さればこその「青服の男」ブームである。

 だが複雑に発展した現代社会の特に経済問題は、宗教的権威の指導力を以ってしても是正は困難。下手に手を突っ込めば市場に混乱を来して、却って民衆を苦しめてしまう。
 金雷蜒褐甲角の聖戴者に知恵を借りて様々に対策を行うが、改革は遅々として進まない。

 いや、今や救世主神殿の主は「神撰組」となっていた。
 悪いことばかりではない。「神撰組」はヤクザによる苛酷な借金取り立てを防止し時には不正な貸し金業者を強襲し、民衆の借金を棒引きにして人気を博している。
 だがそれは一部業者を見せしめとして、「神撰組」に資金協力をさせる為の演技であった。
 追い払われたヤクザもいつの間にか戻り、また元のように商売を続けている。抜本的改善は何一つ行われない。

 救世主神殿がアテにならないと見定めた民衆は雪崩れを打って「ぴるまるれれこ教」に入信する。
 彼等の願いはひとつ、弥生ちゃんの再臨である。
 だがここも救いを与えてはくれない。「ぴるまるれれこ教」は信者に対して、一種のネズミ講的な階級制度を導入していた。
 教団内での地位を上げる為には新しい信者を獲得して入信費を上納しなければならない。信者を多く獲得して階級が上がれば、自身にも下位の信者からの入信費が入って来る。
 行着く先は幾何級数的な信者の増大と破綻であると誰の目にも明らかだが、止められない。

 教団に搾り取られる浄財は、本来ならば十二神神殿に回って各種の公共サービスを提供するものである。
 だが資金に行き詰まり、多くの街で神殿は開店休業状態になる。富裕層は神殿の代りに自らのみに使役する同種の業者を立ち上げ、ますます人気が絶えた。
 神官も拝金主義に囚われ不正が横行し、人は寄進を拒んで貧困層への奉仕活動は停止した。

 実のところ、ネズミ講無限連鎖商法を防止する法律を弥生ちゃんは500年前から残している。
 だが早過ぎた。そもそも悪事自体がまだ発生していないのに、取り締まる法律だけが有るのは不自然だ。
 第一この法律、例として犯罪のやり方を詳細に記してあり手引書にすら成り得る。故に法務当局の奥の院で厳重に隔離してあった。
 時の流れに埋もれ、誰からも忘れられた後に悪が春の新芽のように顔を出す。
 一度失われた知恵を取り戻すのは難しい。ましてやそれが宗教や統治機構と一体化していれば、なおさらだ。

 

 時の青晶蜥神救世主星浄王十三代カマランティ清ドーシャは若くして見出され、神剣を携えて方台全土を巡幸する。
 土地土地で貧困や差別を目にするが、我が身の拙さを思い知らされるだけであった。
 募る救世への強い想いと現実の厳しさに心身を磨り減らし、しばしば病床に伏せった。
 治癒を司る救世主が自ら寝込むとは何事か、と批判の声は高まるが、悪い事に次の救世主候補が居ない。
 青晶蜥神救世主は、救世主自身が方台を巡って候補者を探し出す。通常は即位する前に発見出来るのだが、清ドーシャは20年を掛けてもなお見付けられない。
 この人は、救世主として失格だ。との声がそこここで囁かれ、救世主神殿は鬱屈した空気に淀む。

 そんな時に現れたのが、「真人」を名乗る黒衣の女。
 彼女は清ドーシャに対して古の火焔教の秘術である「捨身祈祷」を勧める。燃え盛る焔の中に自らの身を投じて天に願いを届ける、究極の秘法だ。
 常であれば青晶蜥神救世主が迷信邪教にすがるなど有り得ない。
 ただ、黒衣の女は特別だった。彼女はあたかも弥生ちゃんが居た当時を生きたかに親しく話す。懐かしい人を思い出すかに、昔話を語って聞かせる。
 催眠術に操られるように清ドーシャは自らを火に投じる儀式を定めた。

 民衆はこの報に大きく期待し、また「ぴるまるれれこ教」の信者に対しても今一度十二神信仰に振り向かせる事に成功する。
 もはや後戻りは出来ない。
 数多の人の、特に未だ存命中である前任の救世主星浄王の制止を振り切り、黒衣の女に手を取られ、決行した。

 時に創始暦五五五五年。
 燃え盛る焔に身を投げた清ドーシャを抱え憤怒の表情で現れたのは、つい5日前に主観時間30年にも渡る救世主の任から解き放たれたばかりの弥生ちゃんであった。
 星の世界(地球)と、十二神方台系の有る惑星とは時間の流れが違う。
 弥生ちゃんは一瞬のうたた寝の中で、極めてリアルな救世の旅の時間を過ごす。それが天河十二神の力だ。

 方台の人は500年ぶりの降臨に涙を流すが、弥生ちゃんからすればこんなに早くギブアップするとはなんて情けない奴らだと腹が立って仕方ない。
 お昼ご飯の焼きソバパンを今まさに口に入れようとした時の召喚であるから、なおのこと許せない。

 食い物の恨みは恐ろしい。カマランティ清ドーシャは弥生ちゃんの過激な打擲に随喜の涙で悶え苦しみ、また快哉を叫ぶ。

 

 「青服の男」達が未だ健在であると証されるのは、その3日後であった。

 

第九章 還って来た酔っぱらい

 ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンのカプタニアへの移送。
 口で言うのは簡単だが、実行には様々な困難が発生する。

 そもそもが大方の神兵黒甲枝、クワアット兵はソグヴィタル王の処罰に反対なのだ。
 王が提唱した東金雷蜒王国侵攻作戦は大審判戦争という形で実現した。もしもあの計画が無ければ、今次大戦がどのような混乱に陥ったか。
 第一等の功績はソグヴィタル王に有る。全ての罪を償って余り有るだろう。

 ソグヴィタル王は初代救世主カンヴィタル・イムレイルの聖なる誓いの実現の為に、敢えて我が身を犠牲にして王国の全員に訴えたのだ。
 青晶蜥神救世主の審判が迫り来る中、日々を平穏に大過無く送れば良いとした先政主義派、ハジパイ王こそ問責されるべき。
 今王国が弥生ちゃんと対等に交渉出来るのも、ソグヴィタル王が救世の道筋を弥生ちゃんに説いてくれたからである。
 これほどの愛国の士が他に居ろうか。

 真っ向から正論をぶつけられてはイローエントの軍制局も当惑する。
 司令の兵師大監だとて黒甲枝だ、ソグヴィタル王の支持者だ。
 だが現在武徳王に代わって王都を預かるハジパイ王は、ソグヴィタル王の帰還と同時の処刑をすでに公表している。処分を決していた。
 この場合悪役となるのは、移送を司る者だ。
 つまり彼こそが天下の趨勢も見極めず盲目的に命令に従い、ソグヴィタル王を殺した、ことになる。

 これはまずい。

 考えれば考えるほどに問題は複雑化する。
 移送中のソグヴィタル王を奪還せんと目論む者、またそれに先手を打って王を始末しようとする者。両派にもまた幾つも立場を違える勢力が有る。
 人選を間違えば襲撃者が移送を担当する例も考えられ、疑心暗鬼ともなる。
 前赤甲梢総裁 キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女暗殺の記憶も新しく、どこからどんな手で襲われるか知れたものではない。

 加えて新生紅曙蛸王国 六代テュクラッポ・ッタ・コアキ女王も付き添ってカプタニアに行くと言い出した。
 直径100メートルを越える巨大なテュークに乗って静々と進む絢爛豪華な大行列など、警備の悪夢であろう。

 

 こういう場合最適な方法は、本人に聞いてみる事だ。
 ヒィキタイタンはしばし考え、とんでもない策を思いつく。

 まずは女王テュクラッポをカプタニアに送り、これを人質に自分に「自発的に」来てもらう。
 つまりはヒィキタイタンが必ず行かねばならない状況を作り出し、仕方なしに死をも省みず赴く形を取るのだ。
 王が拒めば脱走を前提とする勢力は手の打ちようが無いし、暗殺者など恐るるに足りない。
 円湾では並み居る神兵をことごとく退けた剣客だ。女王という重石が無ければ、自由にのびのびと戦える。

 言うは易いがテュクラッポ女王が承諾せねばこの策は成り立たぬ。どう口説いたか?

「女王陛下、カプタニアまで遊びに行きましょう。王都の前には方台で最も大きなアユ・サユル湖が有り、テュークを泳がせるのに最適です。」

 これに乗った。
 歳若い女王は一人で遊び歩くのが大好き。たまにはヒィキタイタンの目の届かぬ所で暴れるのも楽しいものだ。

 説得に当ったのは、もちろん頭の固い黒甲枝ではない。金翅幹元老員でもない。
 ギィール神族ゲジゲジ乙女団の”カエル姫”、三荊閣ミルト宗家の末娘ミルト佳ストパタラ=リュゥンだ。
 彼女の思惑は唯一つ。ゲジゲジ乙女団のおねえさま方が、自分達最年少神族を難民のお守にしてカプタニアに遊びに行くのを阻止する事にある。
 円湾の戦いでは留守番を強いられた彼女が、今度こそ遊ぶのだ。

 もちろん女王の護衛も自ら引き受けた。巨大なゲイルで左右を囲み、7里(キロ)内の全てを知る神族の警護があれば、どんな陰謀も通じまい。
 大体タコの女王が自身の足で歩くはずも無い。テュークの頭に乗って街道を進むのだ。
 いかに神兵の剛力が有っても、巨蛸は如何ともし難い。ゲイルの速度と大きさが適しているのは確かだ。

 女王が承知したと聞かされたヒィキタイタンは大きく驚き、額に皺を寄せ深刻な顔をする。本人口から出まかせの軽口で、まさか採用されるとも思ってなかった。

「心配だ、たいへんに心配だ。いや女王の身柄がではなく、警備に当る黒甲枝やクワアット兵の苦労を思うと、気の毒でならぬ。」

 無論彼も許される限りの速度で街道を追う。あんな悪戯者の小娘を放っておけるわけが無い。

 

 というわけで、女王テュクラッポはアユ・サユル湖の上に在る。まあ楽しい旅であった。
 そもそもがギィール神族は人を人とも思わぬ輩で、王も救世主も見境が無い。なにせ自分達こそが地上で最高と思って居る。
 だから敬語も礼も同輩に対してのものしか使わない。
 これが新鮮であった。額に白いタコを戴いて以来13歳の彼女に大人達が謙るのに、内心飽き飽きしていたのだ。

 ギィール神族はイイ。ちゃんと対等の友達になってくれる。
 とはいうものの、乗り物が違う。タコは水の上を進めるが、さすがにゲイルは泳げない。
 テュクラッポ一人が水上を行くのを、誰も咎める事が出来なかった。

 そのタコだ、テュークだ。
 テュクラッポは2体のテュークを今回用いている。出立前にヒィキタイタンに諭された。
「あんまり大きなモノを使うと人に迷惑だろうから、ほどほどのものを使いなさい。それに乾いた街道を行くのだ。水場の大きさというのも考えねばな。」

 たしかに、直径100メートルを越える成長したテュークは陸路に使うのは無理だろう。またゲイルの高速に追いつくには、若くて軽いタコでないと。
 そこで頭部(頭足類では胴体であるが)直径が10メートルに過ぎない小さなものを選ぶ。
 また、普段遊びに使っている2メートル径の子タコも連れて来た。中タコの上に子タコを乗せて、長くは保たぬが時速は40キロほども出る。

 長旅で中タコの方が少しくたびれた。今はアユ・サユル湖の南岸で休んでいる。行列も一時足留めだ。
 ここは既にヌケミンドル県に入っている。湖岸の街道を回ればそこがカプタニア。歩いて5日の距離である。
 ヌケミンドルは今次大戦においては激戦地となり、今も神兵クワアット兵がうようよとする。完全に敵としてゲジゲジ乙女団を警戒する。
 一方女王に付いて来た女神族達は皆余裕シャクシャクで、遊びがてらに神兵をからかってみようと試みる。

 神族の中で最も理性的なイルドラ丹ベアムがテュクラッポに言った。
「我等は先日までここら辺で戦っていたから、慣れたものです。女王陛下もお楽しみをなさってはいかが。」

 お言葉に従ってテュクラッポも一人で遊びに行く。透明化の魔法を使われては、女官や巫女が止められる道理も無い。

 出歩くのには子タコが便利。ただこれを使うと怒られるのだ。
 テュクラッポにも独自の護衛兵が居る。蕃兵と呼ばれる裸族の戦士で、全身に魔法の刺青をして透明になる。
 表には出ないが常に女王を護り、行き過ぎた振舞いがあれば襟首引っつかんで回収して来る。
 彼等は自分の出身部族である。だから遠慮が無い。
 大人だからなかなか我儘を聞いてくれない。

 さすがに湖の上までは彼等も追っては来なかった。今は舟を調達しようと奔走しているだろう。

『さてどこに行くかな?』

 愛らしい唇からギィ聖音の言葉が出る。ギィール神族同士が語る時に使われる天上の言語、聖蟲の言葉とも看做される。
 部族の皆は誰も使わないのに、自分は生まれながらに知っていた。おかげで様々に苦労をさせられる。

『一足先にカプタニアの街でも覗いてみよう』

 アユ・サユル湖は南北に百里(キロ)も有り、湖岸を回って街道を進めばカプタニアまで5日も掛る。
 だが水上を行けば早い。3時間もあれば渡ってしまう。子タコの水中速度は大いに満足できるものなのだ。

 宵の街が遠くに見える。カプタニアの大山が残照に染められ東は真っ暗、麓の街にはちらちらと灯が入る。
 カプタニア城は湖岸の街道の真上にあり、関所としても機能した。
 方台中央で東西を繋ぐ唯一の街道、ここを通らねばデュータム点まで大きく迂回せねばならない交通の要所である。
 もちろん関所は湖上交通も制限する。西側の岸には城壁が有って直接には上がれない。東の港に一度上陸して、陸路を運ぶのが通常だ。
 この通行料だけでもカプタニアは成り立つほどに、物資や人の往来で賑わっていた。

『夜だというのに騒がしい。祭りでもあるのだろうか』
『おお、ネズミ街が有るのだな。人が大勢繰り出している』
『いい匂いがする。香ばしい、お腹空いた』
『なるほど、これは住民では無く旅人か。しかし、それにしても多いな。ヒィキタイタンはまだ当分来ないと言うのに』

 少女の額の白い小さなタコが、うにょろにょろと触手を蠢かせた。これを通じてテュクラッポは子タコを操っている。
 タコの聖蟲は虚空からなにかを引き出すそぶりをする。もちろん物質が出現するわけではないが、

『なるほど。トカゲ神救世主が近々降臨するとの噂に、人が呼び寄せられているのか』

 初代ッタ・コップ以来タコの女王はなんでもを知ると噂される。明日雨が降るか、隣村で人は何をしているか、どこの地の底に宝が埋まっているか。或いは、誰が裏切るか。
 しかしあまり政治には用いない。
 臣下の上奏をよそ見をしながらいい加減に聞き、要所に釘を刺すかの鋭い洞察を示す。巧みに隠された不正も千の報告書に記された項目から暴き出す。
 タコ女王は千里通だから怖れられるのではない、その聡さにひれ伏すのだ。

 人が多いのは面白い。ただ、多過ぎるのは閉口する。子タコとはいえ結構な大きさが有るのだ、上陸すればいかに透明の魔法を用いても騒動となろう。
 カプタニアで遊ぶのは今回は諦めた。ゲジゲジ乙女団と共に乗り込んだ方が大騒ぎとなって楽しかろう。
 それに、

『湖上通行にも規制があるのだな』

 湖の舟にも秩序が有り、交通整理と警備の軍舟が浮かんでいる。もう暮れるから、灯を焚いて不審な舟を見張っている。
 この灯の配置が気になった。
 連ねて行くと、東と西に1本ずつの道が出来る。そして巧みに中心部への進入を阻んで居た。
 湖の真ん中になにかが有る。

『こちらが面白そうだ』

 子タコの進路を南に向けて、紺色の水面を進む。タコも女王も姿は見えぬが、白い航跡がすーっと長く背後に伸びる。

 

 乗り物としての子タコは実に快適だ。小回りが利き速度があり、融通性に富む。高い城壁を登るのだって朝飯前だ。
 2メートル径の頭部も柔らかく変形して、人間が行けるところなら大抵は忍び込める。
 武装は無いものの、8本の触手は柔軟にして強力。特に硬い殻をこじ開けるのを得意とする。褐甲角の神兵が用いる重甲冑であれば、ぐるりと巻いて無力化し締め割ってしまう。
 自ら状況を判断し、或る程度の論理的未来予測を行う。人語こそ使わないもののとても頭がイイ。

、これさえ居ればテュクラッポがコワイと思う場面は無い。
 だから大胆に警備艇の傍にまで近付いて行く。

 湖の中心部には、やはり特別な警戒網が敷かれている。
 警備の舟は黒塗りで灯も点けずにひっそりと、厳重に見張っている。乗るのは神兵で暗夜でも目が効いた。
 ただ目的が少し分かりづらい。湖の中心部に行くのを妨げるか、中心部から出て来るのを封じるのか、動きに相反するものが見える。

 怪しい。とても怪しい。この先に何が有るのか。

 軍舟が近付いて来る。明らかに自分目指し進んでいた。
 気づかれたか? だが、乗る神兵に殺気は無い。
 何事か気に掛かり、確かめに来た。その程度と推察する。だから、逃走せずに浮いたまま留まり迎える。

 警備艇はわずか3メートル脇を進む。神兵は水中で泳ぐ事も出来る丸甲冑を纏い、まっすぐにテュクラッポを見る。
 気づかれてはいないと知っていても、やはりドキドキする瞬間だ。特に神兵は勘に優れるから、子タコと二人身動ぎせずに舟が過ぎるのを待つ。
 丸い兜を左右にゆっくりと振って神兵は異常無しを宣言。黒い警備艇は去って行った。

『ほぉ。そうか、タコの引く波を遠くから見たのだな。なるほど侮れない』

 子タコに命じて慎重に波を抑えて進む。水中にも杭や網などが仕掛けられているがなんなく潜り抜け、謎の核心に迫る。

 島だ。木々は繁り、こんもりと葉が盛り上がる。あちらこちらにわずかに灯も覗いていた。
 人の住まう島だ。
 かなり大きく、2キロほどの直径が有る。とっぷりと暮れて全景が見えないが、タコの女王は夜目も効く。なにせ夜遊びの常習者だ。

『素敵ー!』

 島全体が庭園のように美しく整備されていた。植える種類も吟味され四季折々に花が咲き誇る。なかなかの通人が管理者であろう。
 諸所に立ち並ぶ家は優美繊細な石造り、神聖金雷蜒王国時代の様式だ。この様式の建築物は適当な石材を使い尽くして、今ではなかなかお目に掛かれない。
 つまりこの島は余程に贅沢な造りとなっている。おそらくはカプタニア城最上部、武徳王が住まう神聖宮殿よりも。

 ぐるりを回って上陸し易い場所を探す。どこからでも構わないのだが、よく見ると様々に侵入者避けの設備が有る。
 ほとんどは単なる警報装置ではあるが、それに気付く手練れには致命の罠が待ち受ける二段構えとなっていた。
 しかもどれ一つとして同じ仕組みが無い。

『凝り性だな。ほんとうに侵入者が有るのではなく、色々考えたのを作ってみただけだ』

 船着き場は避けて、僅かにある浜辺から上がる。ここは大型の木材などを揚げる為にわざと斜面のまま残していた。警戒装置も無い。
 無いということは、ここが最も警戒が厳重な場所。住民の直接の監視が有るはず。
 だからこそ透明魔法は効果的に機能する。

 果たして、闇の中から橙色の灯が揺れて近付く。硝子の堤燈をぶら下げて現れたのは、ひときわ丈の高い男。年配で髪は白い。

 テュクラッポは呼吸を整え男と同期させる。
 透明魔法の極意で、観測者は自身と同期した呼吸の者を感じ取れなくなる。自身の気配が反射しているに過ぎないと思ってしまう。
 そもそもが透明と言っても姿がまったくかき消されるのではない。
 輪郭がぼやけて非常に見難くなり物体として認識できなくする。方台の人間の認知機能の特性を利用した錯視だ。
 だから気配を消すのが重要となる。なにも無いと思っているところには、人は不快を乗り越えて注意を振り向けたりしない。

 男は言った。ギィ聖音だ。
『よくぞ隠れたと言いたいところだが、湖面に引いた航跡の波までは消せていない。金雷蜒の聖蟲にはすべてお見通しだ』

 注意したはずだが、繊細微妙な水面の盛り上がりを手で触るかに確かめるギィール神族には通じなかったようだ。
 大した認知能力だ。ゲジゲジ乙女団の神族ではこうはいかない。よほど精神に修錬を積み、聖蟲の能力を引き出す技術を持つのだろう。

 だがテュクラッポは反応しない。男の能力を試すかに、魔法の力で挑んでみる。
 男は堤燈を掲げて周囲を照らす。子タコと女王の影も当然出来るのだが、とんでもなく離れた位置に屈折投影される。常人には関係性を理解できない。

『紅曙蛸女王六代テュクラッポ・ッタ・コアキ殿であろう。あちらにささやかな宴を用意してある。我等の歓迎を受けられよ』

 さすがにここまで言われては姿を見せぬ訳にはいかぬ。
 テュクラッポは両手を顔に当ててぼっと焔を走らせた。顔面に施した化粧を消せば魔法は終り、姿が露になる。
 焔を操るのは紅曙蛸女王固有の能力だが、額の上の白いタコはこれをやられると大きく驚き腕を振り上げて自身を庇う。おまえの力であろうに、迂闊な奴だ。

 姿を見せた少女に男は軽く頭を下げて礼をする。乳白色の髪の中にきらりと光る金色のゲジゲジが赤い目で睨む。

『なるほど、透明になる魔法には焔が関わっているのか。さしずめ陽炎の業かな』

 テュクラッポの全身を覆う紋様が一瞬煌めいて只の刺青、あるいは何も無い膚に戻る。
 彼女がほぼ全裸なのを見て、ギィール神族は毛織りの肩掛けを外し、掛けてくれた。
 こういう親切はやめてもらいたいなあ、と思う。

 彼女の生まれた部族は全員がほぼ全裸で一年を過ごし、衣服を用いない。だが下界に降りて女王に祭り上げられた後は、皆が毛織りや布で包もうと必死になって追い回す。
 寒くも無いのにそんなものを被っていては、皮膚が怠惰になって風邪を罹いてしまう。
 そもそもが額にタコを乗っけてからは始終身体の奥底から沸き上がる焔に焙られ、居ても立っても居られないのだ。

 タコの女王は焔の神である。大地を焼き草々を芽吹かせ、泥を石に、砂を硝子に、溶岩を金に変える。千変万化の魔法使いだ。
 今の人はそんな常識を忘れてしまっている。

 少女は尋ねる。

『ここはマナカシップ島、褐甲角王国に亡命したギィール神族が隠れ住む域であろう』
『城であり、牢獄であり、工房であり、憩いの里だ。だがそれももう終り、よくぞ最後の宴に参られた』

 公然の秘密というものだ。褐甲角王国にはギィール神族が何人も亡命し、一ヶ所に集めて匿われ武器製造等の協力をしている。
 それがマナカシップ島。黒甲枝は元より、ちょっと両国関係を調べた人なら容易に辿りつく話だ。

『終りとは如何なる事態なのだ?』
『何のことはない。我等はそもそも亡命などしておらなかった。金雷蜒王国内の一部に居を移しておっただけで、余所の国になど来てはいなかった』

 そういう理屈である。これまで金雷蜒王国はあくまでも方台全土を統べる唯一の王国で、褐甲角王国は単なる叛徒の群れ、武徳王は王にあらず僭称するのみ、というのが公式見解だった。
 神聖王ゲバチューラウが武徳王カンヴィタルを自らと対等の者と認め、褐甲角王国を正式に国家として認識した為に、亡命罪も遡って発生する。
 その赦免状を、ゲバチューラウは王都に向かう赤甲梢総帥メグリアル劫アランサ王女に托し、カプタニア中央衛視局に届けさせた。
 つまり彼等は最早隠れ住む必要も無く、褐甲角王国が保護する責任も無くなった。

『ゲジゲジ乙女団を名乗る女どもが我が物顔で敵領内を走り回る時勢だ。マナカシップを解放しても良い頃合いなのだよ』
『ふむ。だがこれほど美しい島を放棄するのは惜しいな』
『我等500年も掛けて整備したからなあ。一個の王宮とも呼べるのだ』

 

 左右の道に瀟洒な建物が並ぶ。戦に焼かれる事など微塵にも思わず、盗賊の侵入にも警戒せず、ただ美しさばかりを誇っている。
 人が居る。普通の背の人だ。
 ギィール神族ではないが、とても美しい男女が女王を出迎える。まるで王族の気品を湛え、物腰は優雅。完璧な礼法に則りテュクラッポに敬意を捧げる。

『我等の子だよ。この島に移り住んで後に儲けた。神族でもなく人でもない、この島の外を望まない幻のような者だ』

 広場の上には紐に吊るした堤燈が幾つも並び、周囲を明るく照らし出す。
 20名に近い巨きな人が女王を出迎え、彼等と共に卓に着いていた老人が2人立ち上がる。本日の主賓は彼等であったのだろう。
 白い髪の上に座すのは、カブトムシの聖蟲。

 老人は頑張ってはいるが発音が少々怪しいギィ聖音で挨拶する。

『紅曙蛸女王六代テュクラッポ・ッタ・コアキ様ですな。我はハジパイ嘉イョバイアン。武徳王陛下より政務を司るを命じられた属王にございます』
『私は金翅幹元老員「破軍の卒」ヅズ息トロンゲノムでございます。褐甲角王国側の、この島の管理人です』

『なるほど、兵器を開発する御庫造兵統監であれば、当然にギィール神族の匠の腕を借りるであろうな。そうか、島もそなたに任されておったか』

 ヅズ息トロンゲノムは歳若い、いや子供に見える女王が自分の役職と島との関係を正確に言い当てたのに驚いた。噂通りに、これは只のヒトではない。
 ヅズの額に在る聖蟲は、金翅幹元老員の通例とは異なり金色ではない。黒い甲羅に金色の縁が入った、武徳王と同じものだ。
 この聖蟲は初代カンヴィタル・イムレイルが戴いたものと同じと伝わる。彼はそれだけ武徳王の信頼が厚い。
 褐甲角王国がマナカシップ島をどれほど貴重に考えるかの証明である。

 女王は神族の女人に促され、聖戴者が囲む卓の客となった。色とりどり春を彩る料理が並べられ、空腹の少女に耐え難い攻撃を加える。
 召し使いと思しき者も皆美しく、身分の違いがあるのではなく、ただ役割上給仕をするのだと知る。
 狗番も居ない。いや、狗番らしい人は居るが、神族は対等に話をしている。
 この島に身分の差は無いのだ。誰もが平等で聖戴の別も無く、ただ敬意のみが有る。

 楽園というならば、まさにここの事であろう。外界には抜きがたい身分の差、立場の違いが有り、衝突を余儀なくされる。
 他人事ながら、テュクラッポは心配になった。

『失礼だが、この人達は外の世界では生きられない。皆そなた等の子供であろう。どう始末を着けるのだ』
『さればでございます』

と、ハジパイ王が提案する。

『マナカシップ島を紅曙蛸女王テュクラッポ様に献上いたします。カプタニアに御滞在される離宮となさってください』
『ああ!』

 ハジパイ王の提案に思わずテュクラッポは笑った。彼の意図する所は単純で、テュークを王国の民の前に晒さないで欲しいというわけだ。

『褐甲角王国は決して紅曙蛸神の女王に敵対するものではございません。互いに友誼を深め、共に方台を平和と繁栄に導きたいと存じます』
『その言葉にいささかの疑いも持たぬが、今力を持つのは青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンであろう。彼女に与えた方が良くはないか』
『ガモウヤヨイチャン様は北方のボウダン街道を拠点と定め、古の紅曙蛸王国の都テュクルタンバを配下に命じて占拠しております』
『ふむ、彼女を牽制する為にも、真正のタコの女王を掌中に納めておいた方が良いか』

 不快と当惑。
 テュクラッポは卓に着くギィール神族達の視線が、彼女が予想するものとかなり違うのに戸惑いを覚える。
 これまでの道中自分を警護してきたゲジゲジ乙女団の神族と、どうにも空気が違うのだ。
 穏やかであり、静かで、ささくれ立った言葉を好まない。およそ神族らしくない。
 疑問を率直に伝えると、最初に案内した年配の神族が答える。彼が神族の長らしい。

『このマナカシップ島には、ギィール神族特有の神経を磨り減らす探り合いが無いのだ。金雷蜒王国にあれば常に休まらず、夜寝る時も甲冑を身に纏い武器を枕に隠し、毒薬や罠に注意を払う生活が嫌で逃げ出した者ばかりなのだ』

 そういう事か、とテュクラッポは納得する。
 神族といえども所詮は人だ。ぎすぎすと隙を狙い陰謀を巡らし暗殺の手段を笑いながら掛け試す習慣に耐え切れず、逃げ込んだのが敵領内。マナカシップ島は彼等が唯一見出した安息の地なのだ。
 若く怖いもの知らずのテュクラッポには、正直理解し難い。ただ、彼等は自分に助けを求めている。

『……そのような理屈であれば、ギィール神族であっても誰でもをこの地に招くわけにはいくまいな』
『人は選びますな』
『両国が互いを認め合った結果、貴公等には選ぶ権利も無くなったわけだ』

 傍若無人の神族は、そこが神族の地と知れば躊躇無く訪れ楽園を破壊するだろう。褐甲角王国は立場上神族同士のいさかいに介入出来ない。
 別の論理で選別する方法を考えれば、金雷蜒神よりも優先する紅曙蛸女王の格式がふさわしい訳だ。
 また多額の維持費を褐甲角王国が負担し続ける大義名分も必要だ。

 自分は体よく言訳に使われる事になるのだが、

『この島、妾がもらっておこう』
『有難うございます』

 女王の言葉に人々はほっと胸を撫で下ろす。給仕に当る男女も目に見えて緊張を解いた。宴が再び華やかさを取り戻す。
 人々は列を作って新しい島の主に挨拶をする。テュクラッポに対して女王への礼は保ちつつも、歳相応の少女として接してくれる。
 酒や料理に人々は遠慮無く手を伸ばし、楽の音が軽やかに流れ、時間は楽しく流れて行く。

 

 しかしながら時を無駄にするのは許されない。タコの女王はあくまでも現実の淀みに棲む。
 そもそもがテュクラッポは人質としてカプタニアに参り、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンを刑死へと導かねばならぬ。

 彼女の目の前には当の張本人、ヒィキタイタンの政敵ハジパイ王が座っている。神族と談笑をしている。
 王と話を付けるなら今しか機会は無いだろう。

 だがやめた。宴の空気がテュクラッポに自重を呼び掛ける。それに、これはヒィキタイタンの喧嘩だ。ハジパイ王とソグヴィタル王が互いの命を質に遊ぶ賭け事なのだ。
 子供の出る幕ではない。
 むしろ面白いのは。

『左様。巷間伝えられるように、メグリアル王女殿下を逮捕したのもワタクシの差し金です』

 テュクラッポはヅズに、赤甲梢総裁メグリアル王女劫アランサ逮捕の一件を尋ねる。
 世間の人はこの事件をハジパイ王の嫌がらせと捉えるが、実は無尾猫はちゃんと前後の事情を伝えている。
 「御庫造兵統監ヅズ息トロンゲノム」が発行した令状は前総裁 焔アウンサ王女及び赤甲梢幹部を対象とし、アランサ王女はとばっちりを喰っただけなのだ。

『この状況で劫アランサ王女を捕らえるのは、やはりヒィキタイタン裁判への影響を考慮しての措置か』
『う〜むさて』

 ヅズは58才。ハジパイ王よりは10才も若いが、さりとて十二神方台系においては十分な年寄だ。
 聖蟲を戴く人はなかなか歳をとらないものだが、彼は一般の人と同じように老け、痩せている。
 宴に供される酒は神族自らが醸したもので、他では味わえない逸品。ヅズは美酒に酔い痴れ、いささか口が軽い。

『実はですな、私はメグリアルの焔アウンサ王女が好きだったのです』
『ほおほお』
『いや20才も歳の離れた王女に懸想したというのではありませんぞ。だが、アレはたしかに恋と呼んでもいいようなものですな』
『ほおほお』
『華やかで破天荒でやることなすこと全てが楽しく人を驚かせ、まさに王国に咲いた大輪の花でした。私は立場上彼女の上司となり、随分と楽しい思いと、その尻ぬぐいをさせられたものです』
『他人の人生であっても、自分が幸福になる事もあるのか』
『幸福、いやこれは幸福などという言葉ではとても語り尽くせない。やはり恋としか言い様がありませんな』

 テュクラッポが知りたい話とは随分と離れている。が、ヅズの中ではちゃんと繋がっているようなので、しばらく付き合う。

『王女が暗殺に倒れたと聞き、私は悲しみませんでした。それ以上に惜しい、このままこの程度で終るのは残念だ、そういう思いとなりました』
『あれほどの器量を備えた者であれば、ガモウヤヨイチャンの下では王国を一つ手に入れたかも知れないな。たしかに早世を惜しむべきだ』
『私は考えました。メグリアル焔アウンサ王女、このまま死んでよいものか。どうにかして彼女を生き返らせられないか』

『生き返らせる?』

『そう思って調べていたら、ありましたよ。王女が私の為に残して行ってくれた、最後の贈り物です。詐欺の証文がごっそりと出て来ました』
『そなたは欺かれて資金を焔アウンサ王女に巻き上げられたのだろう』
『金とは面白いものです。或る種の人にとって金とはすべてであり、同時に彼自身ともなります。世間は人格ではなく、金を見る。金こそが人とも考える』
『うむ、それは有る』
『この公金横領はまぎれもなく王女の痕跡であり、盗まれた金はそのまま彼女が生きているに等しく王国に騒動を巻き起こします。彼女はまだ生きているのです』

 うーん、とテュクラッポは首を傾けた。
 やはり年寄は考えることが違う。長く人の生き死にを見て来た眼には、命がまた別の姿で映るのであろう。

『そこで、生きているとおりに金に動いてもらいます。赤甲梢を揺り動かし、劫アランサ王女に行動を促す。まさにその鍵となるものです』
『確かに汝の思惑どおりに世は動いた。その先はどうなっておる?』

 ヅズはタコの女王自らの酌を喜んで飲み干した。離れた場所ではハジパイ王が心配してこちらを覗く。
 彼が手の内を明かし、ヒィキタイタンに伝えられるのは確かに困るのだろう。見ての通りにタコの小娘女王は侮りがたい。逆転の秘策を考えつくかも知れない。

『はは、ハジパイ王はよろしいのですよ。王はヒィキタイタン殿を殺すおつもりは毛頭無い』
『だがカプタニアに着いたと同時に処刑すると言っておる』
『方便ですよ。こう言っておけば、道中ヒィキタイタン殿を殺そうとする者は居なくなる。速やかにカプタニアに導けば自然と死ぬわけですからな』
『ハジパイ王は、ソグヴィタル王を害そうとは考えないのか?』
『ここで死んでもらっては困るのです。”イル・イケンダ”を御存知か。アレはそもそも実在の人物かも定かならぬ幻の救世主です。しかしながら人を動かす力を持つ。何人もの督促派行徒が彼の言葉に従い、世を混乱に陥れる』

 黒甲枝の重鎮「破軍の卒」も、すっかり酔っぱらいの爺さんだ。しかしながら不快ではない。
 テュクラッポは生まれた村に居た時分も大人たちの中にあって、酔っぱらいの相手も随分と務めた。むしろおじさん好きだ。

『ヒィキタイタン殿も”イル・イケンダ”になられては困るのです。死んだ者、特に自らは正しいのに世に潰された者の名は実に厄介。王国支配の障りとなります。
 追慕する者は永遠に心変わりしない指導者を得て奮い立ち、報われぬ戦いにも決して絶望しません』
『なるほど。ハジパイ王は流石に賢い』

『そこで私の出番です。ヒィキタイタン殿の強さは黒甲枝の支持にあり、これを剥ぎ取らぬ限りは如何ともし難い』
『ほおほお』
『ではどうすればよいか。メグリアル劫アランサ王女に一働きしてもらうのです』
『ほおほお』
『亡き焔アウンサ王女の罪を被り、高塔に幽閉された劫アランサ王女。お気の毒でしょう』
『そうだな』
『赤甲梢は姫を救わずにどうしますか。憎っくきハジパイ王の謀略を打ち破り、王女を塔より解き放たずしてなにが神兵でしょうかな』
『反乱を使嗾するのか、そなたは』
『はいそそのかしますよ。そして彼等はヒィキタイタン殿の下に結集して反旗を翻すのです。ソグヴィタル王こそが彼等が王と仰ぐべき御方』

『……そちはワルじゃのお』

 テュクラッポは呆れた。
 ヒィキタイタンは決して武徳王に取って代わろうなど考えない。だからこそ黒甲枝の支持を得る。
 だが彼に対して、反乱軍の将にと仰ぐ兵を差し向ける。良識有る者は眉をひそめ、無制限の支持を与えてはならないと考えるだろう。
 結果としてヒィキタイタンの信望は地に落ちる。本人に何の落ち度が無くとも、周囲が引きずり下ろしてくれる。
 悪辣にして穏当な罠だ。

 この反乱、特に成功しなくても良いのだ。人一人死ななくとも、いや実際に反乱を起さなくとも「動いた」との噂だけで効力を発揮する。
 陰謀は、計画された時点で既に成功だ。
 餌としてメグリアル劫アランサ王女は使われる。

『だがそなたはそれで良いのか? メグリアル焔アウンサ王女は役割を果たせば死ぬるであろう』
『死にますな。王国での役割を終えて、ようやくに土に帰ります』
『それを良しとするのか』

『否。私は良く知っているのですよ。焔アウンサ王女は幾重にも仕組まれた王宮の罠を、政治的陰謀を巧みに軽やかに受け流し生き残って来たのです。
 もしもこの罠を破る事が出来れば、天の河原から戻ってきてくださります』

 ヅズの焔アウンサ王女への想いは、まさに信仰の域にある。いや、恋慕の情は信仰をも凌駕するのか。
 彼はこの陰謀を楽しんでいる。蘇りの儀式として、必ずの帰還を確信している。

 テュクラッポは焔アウンサ王女に会いたくなった。さぞかし面白い女であろう……。

 

 神族の長が女人を2人伴って、卓の脇に潰れたヅズと女王の傍に歩み寄る。女人は共に彼の娘だ。

「タコの女王殿は御酒を召し上がられたのか。」
「さてどうでしょう。香りだけでも効いたのかもしれません。」
「随分と良くお休みだ。お前達、寝所に案内して差し上げよ。」
「はい。」

 

 

 翌早朝。島の人が止めるのを振り切って、テュクラッポは子タコで湖に乗り出した。
 いくらなんでも朝帰りはまずい。せめて日の出時にはちゃんと寝床で寝たフリをしていないと、色んな人に怒られる。
 だがもちろん、人が言うように体調が回復してから戻るべきだった。
 子タコが泳ぐ揺れでなんとなく気分が悪くなってくる。吐き気がして、…やっぱり吐いた。 
 自業自得だから仕方ない。

 もちろん方台の大人達は子供に酒など飲まさない。道徳的と言うよりは、勿体ないから。ものの値打ちの分からぬ者が飲むべきではない。
 実はそれが、彼女が年寄の酔っぱらいが好きな理由である。どうしても反応が鈍くなる年寄の、眼を盗んで、

『あたまいたい〜』

 行列が留まる湖の南岸に近付くと、左右から人の乗っていない小舟が寄って来る。櫂は動いて進んでいるからには、不可視の漕ぎ手が居るわけだ。
 まいったなあ、と頭を抑えながら尻の下の子タコに命じて速度を落す。舟よりタコの方が早いから、置いてけぼりをしない為だ。
 やがて岸が見えて来る。見えない護衛はこれまでと、小舟はまた左右に別れて去って行く。
 あくまでも彼等は脇役黒子に徹する。
 見えない事こそが彼等の力。どれだけの人数が居てどれだけの能力を持つか明かさぬから、敵対者は勝手に彼等を神格化する。抑止力が働いた。

 岸辺で待つのは、女官侍女巫女、神兵兵士。大人数の左右に立ち上がる高い白骨の林は巨蟲ゲイル、背の騎櫓に槍を構える黄金甲冑の姿が見える。
 ゲジゲジ乙女団の最年少神族”カエル姫”と”イルドラ姫”だ。
 二人は女王の警備責任者であるから、怒るだろう。いや怒る。聖戴者にも救世主にも遠慮の無い女達だ。
 マナカシップ島の穏やかな神族が懐かしい。

 もうすぐ到着という距離で、テュクラッポは一人の神兵が全員の前に立つのを知る。
 茶褐色の翼甲冑を纏い、蟲の貌の兜は脱いでいる。深紅の髪の中央に座すのは朝のもやにもくっきりと映える金色の蟲。

 これはしたり。
 自分が心配で、あの人はスプリタ街道を駆けて来たのだ。
 正体が妨害者にバレないように翼甲冑を着て他の神兵に紛れて、背の翅を震わせる快速で走り抜ける。
 計画であれば到着は10日も後になる。だのに、それほどまでに自分は信用が無かったのか?

 いや、この有り様を見れば杞憂でなかったと、万人の目に明らかな。

 岸に子タコが頭を着け、草の間に触手の橋を掛ける。
 テュクラッポはふらつく足で立ち上がり、へっぴり腰で陸に這い上がる。いつもならぽんと一跳びするところを千鳥足で踏み外し、泥に片足突っ込んだ。
 誰も手を貸してくれない。翼甲冑の貴人の命で、手助けを許してもらえないのだ。
 無論彼はまったく正しい。教育的にも歳若い女王に遠慮をしてはならない。大人は厳しくあらねばならぬ。

 ようやくに少女は男の前に立つ。まっすぐに立つつもりではあるが、草の上を裸足で踏んで、なんだか左に身体が傾ぎ、ととっと小さく3歩脇にずれた。
 男は大きく息を吸い込む。

「テュクラッポ!」
 うひゃあ、と少女は背をまっすぐに伸ばす。これまで何度も彼には怒られたが、今回が一番だ。

 男はつかと歩み寄り、甲冑の手で少女の肩を抱きしめる。固いような温いような、不思議な質感を持つタコ樹脂の指。

「今日はゆるさん。いくらなんでも朝帰りとは子供のする事ではない。それに、……酔っているな?」
『酔ってない、まったくそれは誤解だ』
「口答えをするな! これだから一人でやるのは反対だったのだ。それにしても、この方向ならマナカシップか。あそこの連中はまったくに、もう。」

 いささか乱暴に抱え上げられ右の肩に担がれて、でもなんだかいい気持ち。人より少し背が高くなり、頭がほとんどの人を越える。
 よおく見える。彼の歩みに合わせて左右に人が別れ、道を開く。
 女王にではなく、彼の為に。

『ヒィキタイタン。』
「なんだ。」
『なんでもない』

 なんでもないのだ。ただちょっと、父親の背に負ぶわれるような、そんな安心感が眠気に代り……。

 

 もちろん、眼が醒めた後はしたたかにお仕置きを食らう。
 ソグヴィタル範ヒィキタイタン、子供を躾るのに容赦無しだ。

 

【一方その頃カエル姫は、】

「ホホホ、チュルピー(姫の愛蛙の名)、楽しいか? アユ・サユル湖は面白いか、嬉しいか?
 そうだろうそうだろう。こんなに大きな湖はまさに蛙の為のもの。チュルピー、思う存分に泳ぐが良い。ホホホホホ、ハハハハハ。」

 春はカエルの季節である。寒い時期を泥の繭の中で過ごした姫のカエルは、温くなると同時に眼を醒まし、今はすっかり元気に跳ね回る。
 カエル姫は彼の為に道中水場を確保しては思う存分に遊ばせるが、さすがにアユ・サユル湖は広い。カエルも沢山居る。葦の林でげこげこ五月蝿く鳴いている。
 もちろん愛蛙を見失う事は無い。そもそも愛玩用の「嬰媽」と呼ばれる種は希少で、またかなり大きい。50センチも有る。
 頭にちょこっと緑色の髪を持ち、くりくりとした瞳が人間の男の子を思わせて、どうにも愛らしい。湖が嬉しいのかしきりに高く「みぴゃあ」と鳴く。

 カエル姫が夢中になるのも分からぬではないが、

「これ、ミルト殿。しばし待たれよ。なにか変だ。」
「イルドラ殿、無粋を言うでない。今妾は忙しいのだ。」
「いや、…額の聖蟲で調べてみたが、どうにもテュクラッポ女王の姿が無い。」

「女王が居ない? ああ、また姿を隠してどこそで遊んでいるのであろう。驚く事も無い。」
「いやそのくらいは私にも分かるが、ここは既にヌケミンドルだ。敵の本拠地と呼んで良く、一層の警戒が必要であろう。」
「ならばイルドラ殿が探しに参ればよかろう。妾はチュルピー、ああそれだ、賢いぞチュルピー!」

「困った仁だな。」

(注;”チュルピー”とは、幼児語で「可愛いもの、子供」もしくは幼児が自らを指して言う)

 

【朗読会への招待】

 もう一つの赤甲梢、近衛兵団所属紋章旗団 団長ィエラースム槙キドマタは1通の招待状を受け取った。

「またか。」
 最近はこのような祝宴への招待ばかりで閉口する。

 

 紋章旗団は東金雷蜒王国首都島ギジシップより帰還した後、赤甲梢と別れて王都カプタニアに凱旋した。というよりは、凱旋させられた。
 大審判戦争は勝敗の決着が定かならぬ曖昧なままに一時停戦となった為に、双方が勝ちを名乗る。
 多数の戦死者犠牲者また多額の出費労役に見合う成果を国民に示さねば、王として許されないのだ。

 紋章旗団は戦勝の顕著たる証として、王都に凱旋する責務を負わされた。
 もちろん赤甲梢総裁代理 メグリアル王女焔アウンサより切り離し、東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウに味方する者を減らすのが第一の目的だ。

 赤甲梢が現場に残り和平交渉の警護という大役を任されるのを名残惜しく振り返りながら、紋章旗団は渋々命令に従う。従わざるを得ない。
 なにより損害が大き過ぎた。
 電撃戦に参加した神兵は50名、帰還したのは38名。その半数が戦闘に支障を来すほどの重傷を負った。
 ギジシップ島で手厚い看護を受けたとはいえ、帰還時には戦闘任務を果たせない状態にあった。

 損害と言えば赤甲梢本隊も大きく犠牲者を出したのだが、大半がギジシップに渡る途中の海に沈む。
 渡った後に先鋒を務めた紋章旗団は彼等の為にも勇躍奮戦し、敵の罠に敢然と踏み込み、当然の被害を出したわけだ。

 

 王都に帰還した紋章旗団はまずは療養をせねばならなかった。
 カブトムシの聖蟲を戴く者は元々傷付き難く、また癒り易い。程無くして全員が元の体力を取り戻す。
 だが戦場に戻るのは許されなかった。
 代りに与えられた任務が、祝賀会への参加。連日の饗宴に大戦の英雄として華を添える役目だった。

 政治宣伝の効果の重要性は理解する。
 また彼等は敵国中央に突入し、金雷蜒王国の真実をその目で確かめたのだ。神聖王ゲバチューラウの人となりについても、或る程度を間近で知る。
 カプタニアの人が、王族から一般人に到るまで誰もが話を聞きたがる。
 どの祝宴に行っても引っ張りだこになる定めだ。

 団長ィエラースム槙キドマタは、そんな自分が許せない。

 赤甲梢は今も北方ボウダン街道に留まり重要な任務を果す。比べて自分達は、身の腐るような安穏を貪って良いのだろうか。
 その想いは、ガンガランガの三神救世主会合、および弥生ちゃんとコウモリ神人の激闘の報せを聞いてなおさら深くなる。
 世界は動いている。刻一刻と天河の計画は地上に示される。
 額に聖蟲を戴く者として、こんなところで酒など飲んで居られるか。

 続いて示されたのが、敬愛する赤甲梢前総裁 いや永遠の総裁であるキスァブル・メグリアル焔アウンサ王女の暗殺事件だ。
 紋章旗団は一丸となって暗殺現場に赴き、犯人の探索と復讐を果たそうと試みる。
 だがカプタニアの城門を出ることさえ許されなかった。

 カプタニア中央軍制局および金翅幹元老院は、総力を挙げて彼等の行動を制止する。
 神兵同士が城門前で衝突しかねないほどの激しい睨み合いを繰り広げるが、槙キドマタは退かざるを得なかった。
 紋章旗団は近衛兵団に属し、武徳王への忠誠を誰よりも篤く示す立場に有る。武徳王と同じカブトムシの紋章旗をさえ与えられる。
 その彼等が、こともあろうに武徳王の留守の王城で騒乱を起こすなどありうべからざる行為だ。

 無念の思いで解散した彼等に、衛視局の監視が四六時中付くこととなる。動きを掣肘するつもりであろうが、元が戦闘部隊であれば平時には所詮何も出来はしない。
 幸いにしてデュータム点に駐留する赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダ中剣令と連絡が付く。
 彼は大審判戦争には参加せず現総裁メグリアル劫アランサ王女を補佐し、同時に赤甲梢の諜報員を預かっていた。
 諜報員を数名借りて暗殺事件の詳細を知る。

「闘っておられる。総裁も闘っておられるのだ……。」

 思わず知らず涙が零れる。その場に自分達の只一人でも従っていれば、悲劇は防ぎ得たのだ。
 目と鼻の先のあんな近くに居られたのに、どうして自分達は祝宴などで時間を浪費していたのか。

 その後の彼等は抜け殻も同然であった。
 紋章旗団は一度解隊され、団員は大審判戦争で戦死し後継者の絶えた黒甲枝家に養子として入ると定められる。何の感慨も沸かなかった。
 彼等に必要なのは戦場だ。鬱屈した想いを吹き払う鉄血の嵐こそが、傷付いた心を癒す。だが決して与えられない。
 南海新生紅曙蛸王国討伐に赴く兵を虚しく正装で見送るのが、紋章旗団最後の任務であった。

 

 そして春。
 旧団員に招待状が届けられる。

「またか。」

 南海イローエントで行われた聖戴者観劇会の成功が伝えられると、方台各地で同様の試みが幾つも催された。
 主体となるのは民間の有力者だ。聖戴者、この場合は神兵のみと考えていいだろう、を多く招く財力を誇示し、同時に彼等の尻馬に乗って禁制の演劇を楽しむ。
 衛視局も聖戴者同席であれば許さざるを得ない。なにしろ彼等自身が劇の内容を自らの目で確かめねばならないのだから。

 紋章旗団の彼等も何度も招待される。だがどれも断った。断るべきなのだ。
 禁制の演劇とは、すなわちボウダン街道に留まるゲバチューラウの近辺を描いた物語だ。警備に当る赤甲梢の姿も描かれる。
 漏れ聞くところに依ると、現総裁メグリアル劫アランサ王女が若輩の身でありながらもゲバチューラウと伍して和平の推進に務めている。
 幾度もの危難を賢明にも避け、評価はますます高まるという。

 今も戦い歴史に確たる足跡を残しつつある赤甲梢の姿は、自分達の目には眩し過ぎる。
 また衛視局の監視も有る。不穏な内容の観劇会に紋章旗団の団員が参加したとなれば、より一層の不自由を招くだろう。

「しかし、…この招待状、見過ごしには出来ぬ、か。」

 縁を刺繍で綴った純白の絹布。文字も見事に縫い上げられている。この1枚だけで十分に宝物と呼べるだろう。
 観劇会を催す者の財力の程が知れる。
 注目すべきは招待状の最後に記された、一文。

『メグリアル王女は貴殿等の救いを必要としております』

 これはなんだ? 何故観劇会で王女が助けられるのだ?
 いやそもそも不穏な文章を記して衛視局の検閲を逃れられるはずがない。どうして自分の元に届いた。

 絹布を挟んでいた封板を確かめて驚く。「衛視局検閲済」の判が無い。正規の手順を踏まずに届けられた書簡なのだ。

「ネコ、か。」
 あらゆる妨害を潜り抜け密書を届けるのは、無尾猫の副業の一つ。ただし神兵の目を掠めるのはさすがに彼等にも命掛けだ。余程の駄賃を弾んだのだろう。
 送り主の覚悟が知れる。

「出ずばなるまいな。」
 多分、カプタニアに残る団員全てに届いているだろう。もう一度だけ彼等と顔を合せるのは、悪くない。

          **********

 

「団長、やはりお出でになりましたか。」
「おお。君達の所にも来たか。」

 ィエラースム槙キドマタは招待状に従って、カプタニア東街の指定された場所に向かう。
 東街は中・低所得者が主に住む街で、ツテの無い旅行者や商人・人夫も大半がこちらに泊る。猥雑で歓楽街も有り、巡邏当局の目も届き難い。
 秘密の観劇会が東街で催されるのは理の当然である。

 指定場所に来たのは5人の紋章旗団の神兵。いずれも聖戴者とは分からぬように変装している。
 のだが、黒甲枝で神兵ともなればみっともない格好をするわけにもいかず、自然特定の型に嵌まった服装となる。
 特に額の聖蟲を隠す帽子がお揃いだ。大きな鍔が顔の前で三角に合わさり、赤翅のカブトムシがこっそり顔を覗かせる。

 ただ変装としてはどうだろう。
 この帽子を被っていれば十中八九聖戴者と見分けが付くから、化けた意味が無い。
 おまけに剣まで下げている。刀ではなく剣なのは、身分の高い印。黒甲枝に決まっている。

 指定の場所は倉庫街。昼天時(正午)あたりで荷物運びの人夫達も一服する頃、人の気配もまばらだ。
 変装した神兵達の傍に、割と大きめの商店の手代と見える身なりも整った男が近付いた。

「招待状をお持ちですか?」

 首肯くが、見せはしない。不穏な文章が書かれているからには、軽々に日の下に曝せない。
 男も心得て敢えて確認もしなかった。
 こちらです、と案内されて行く先は、運河の小舟。荷物運びに用いられる水路が東街には縦横に張り巡らされている。

 神兵促されて舟に乗り、男も乗り込むと船頭に合図をして漕ぎ出だす。
 どこまで、と思う暇も無く、橋の下に停まる。東街の運河は往来の邪魔とならぬように天井を設けられ、道となっている。半分地下水道なのだ。
 橋の下には扉が有る。これに入れと男は言った。なるほど、用心は念が行っている。

 木の扉を開けて、灯の無い通路をしばし進み階段を上がると、客室に出た。料理店だ。通路は秘密の会合を行う為のもの。
 神兵は店に待機して居た女達により、衣装を換えさせられた。あんな簡単に分かる格好をされては困るのだ。根っからの軍人はその機微が分からない。
 より華やかな衣装に、額の聖蟲も山蛾の絹で覆って遊び人の若様風にされて、店を出た。

 人が通りに溢れている。
 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンがカプタニアに再臨するとのお告げがあったとやらで、東西南北から人が多数押し寄せていた。
 もののついでに王都の色町カエル通りなどを冷やかそう、とするたわけも昼日中からうろついている。
 神兵は彼等に紛れて堂々と通りを進む。なるほどこの人込みなら衛視局の尾行がいたとしても誤魔化せるだろう。

 ここです。と指差されたのは大きな商会。3階建で間口も広く、よほどの身代と見受けられる。
 正面入り口ではなく通用口から店の裏に入り、蔵の前を抜け従業員の宿泊区である中庭を通り、塀を潜って出た先が。

「廃園か。」

 旧ギィール神族の邸宅跡だ。カプタニアも古くから栄えた町で、神聖金雷蜒王国時代の建物も多数有る。
 東街の邸宅跡は大抵が神殿になっているのだが、民間が抑えた場所も有ったのかと改めて驚く。
 聞くところによれば、イローエントでの聖戴者観劇会は神族邸宅跡の石舞台と階段を使って行われた。カプタニアでも同じ条件の場所を探して来たわけだ。

「団長!」
「団長。」

 既に紋章旗団の同士が揃って居た。何人かの組を作って別々の場所に集合させ、それぞれ違う道で案内されたのだ。
 数は30。既に黒甲枝家を継承し、新しい任地に赴いた者を除けば勢揃いした。

 副団長アルラァ中剣令が代表して正面に立つ。彼はそれまで伯父が聖蟲と家督を預かっていたものを、今回正式に譲り受け黒甲枝アルラァ家の家長となった。
 つまり、正式に紋章旗団を卒業だ。

「団長、招待状に書かれていたメグリアル王女が助けを求めるというのは、」
「うむ。皆用心するべきだ。」

 招待客がすべて揃った所で、舞台袖から何十もの人が現れる。
 揃いの暗い色調の服に身を包む、おそらくはそれぞれに身分も財産も有る者達だ。皆布の仮面を着け、年配の女性も混ざっている。
 今回の観劇会の資金は、彼等が分担して供出した。
 代表者は絹の派手な仮面を着けていた。顔は隠すが正体は一目で知れる。これまで何度も祝宴で会った大商人だ。
 半官半民の事業が多い褐甲角王国では、大商人はほとんど官吏に等しい。彼も出身は黒甲枝の子弟であったと記憶する。

「紋章旗団の英雄の方々、よくぞ我等の招きを受入れお出で下さいました。ささ、まずは一献。」
「いや遠慮する。今日は歓待を受けに参ったのではない。」

 代表は、それもまた予測の内と宴の用意を差し止める。同じく暗い色の衣装を着た美女達が周囲を覆う浅葱色の幔幕の裏に消える。

「単刀直入に申しましょう。今回の観劇会は政治的な色合いの極めて強いものでございます。紋章旗団の方々にとって一概には有益とは言えません。」
「覚悟せよ、か。心配は要らぬ、内容に怒って衛視局に告発したりはせぬ。遠慮無く毒とやらを披露してもらおう。」
「観劇会には違い有りません。どうぞごゆるりとお寛ぎ下さい。」

 有力者達はそれぞれに神兵を座席まで案内する。英雄である紋章旗団に奉仕するのが、また喜びであるのだろう。
 石舞台はかなり痛んでいるが、古色蒼然として趣は深い。
 中央に蝉蛾神官が現れて清めの歌で空気を整える。カプタニアでは名の有る歌い手だ。

 おもむろに始った劇は、ボウダン街道に今も滞在するゲバチューラウを巡る一連の物語の短縮版。かいつまんで見所だけを集めて再編集されている。
 カプタニア以外の土地では既に上演がされているが、さすがに王都にゲジゲジ乙女団の進入を許してはいない。
 役者を務めるカタツムリ神官巫女も主力となる者は各地に散って、今は若手のみが残っていた。
 演技力に不足はあるが、逆にこれだけの大舞台を任されて意気上がり熱演を繰り広げる。

 

 紋章旗団の神兵にとって、かなり心を傷付ける内容であった。
 要するに赤甲梢が今も歴史の表舞台で戦い続けている有り様を活写する。
 特に現総裁メグリアル劫アランサ王女が、自らが謀叛の汚名を被っても無辜の民衆を救わんとする姿に、酷く落込んだ。

 一方主催した有力者達も、いざ自分達の力で実現させてみると内容の恐ろしさに思わず唾を呑み込んだ。
 なにせこの舞台、主役善玉は劫アランサ王女と神聖王ゲバチューラウ。敵役はカプタニアのさる高官、といっても政務を司るハジパイ王以外に当てはまる者が居ない。
 真っ向から褐甲角王国を悪と描いているのだ。禁止されてしかるべき。
 ただ、彼等有力者は清濁併せ呑む日常を送っているのも確か。権力には常に裏面の暗さが付き纏うのも熟知する。

 あまりの現実感に彼等は思わず背後を振り返り、密偵が居ないか首を回して確かめる。

 短縮版であるから、わずかに2時間で幕が降りた。冷や汗と喉の渇きとで誰もが席を立って、美女が供する飲み物に手を伸ばす。
 神兵達も先程の団長の言葉には反するが、酒を貰って飲み干した。結局は軽い宴となってしまう。

「団長、」
 エイケン壬カポォ小剣令だ。ギジシップ島で槙キドマタが負傷した際、彼が担いで後方に下がり焔アウンサ王女が携える青晶蜥神のしっぽによる治癒を受けた。

「自分で乗っておいてなんですが、これは陰謀です。」
「あああからさまにな。連中は我等に方台の現状を見せ、なんらかの行動を引き出そうとする。」
「では、メグリアル王女が助けを求めているというのも、」

「ネコの噂は聞いてないか? メグリアル劫アランサ王女が総裁の暗殺現場を視察なさった際に、なんらかの理由で拘束されたという。」
「それを、我等に?」
「だが衛視局の職分に介入するわけにもいかない。どう転んで欲しいのか、判断に苦しむな。」

 再び主催者の代表が近付いて来た。宴の喧騒の中、手を口元に当て小声で注意する。

「次の出し物は朗読です。」
「うむ。」
「かなり演出が過激と聞いております。なにとぞご容赦のほどを。」
「朗読会で暴れるほど礼儀を弁えぬ者は、ウチには居ないぞ。」
「それでも神兵の方々にお命じください。」

 変なことを言う奴だな、と思うが神兵にそれぞれ状況を見定め軽挙の無いように指示して回る。
 答はすぐに出た。これは暴れるなと言う方がおかしいだろう。

 

 全身黒衣に身を固め長く黒髪をなびかせる美女が舞台上に現れた。身長は方台の女性の平均だが胸も尻も十分な迫力を持つ、まさに第一級のカタツムリ巫女。
 ただし、カプタニアではこんな巫女は見た事が無い。
 この迫力、自信に満ちた表情。聖戴者を前にして一歩も退かぬ度胸の良さ。只者では有り得ないが、誰も名を知らない。

 黒髪はもちろんカツラだ。髪の黒い大人が居る道理が無い。ただ弥生ちゃんの降臨以後、裏の世界では黒髪を用いる風習がひそかに拡がっているとは聞く。
 よく見ると髪は黒に緑がかっている。染めで黒くした尋常なカツラである証拠だ。酷いところでは、まだ幼い少女の髪を刈り取って商品にするらしい。
 つまり彼女は扮装こそ挑発的だが、きわめてまっとうな舞台人である。
 まっとうでないのは、

「!…。」
 会を主催した有力者達が、皆一様に緊張する。いや、魂を射貫かれたかに硬直し、為す術もなく座席に縛りつけられる。女性などは声の無い悲鳴を上げ唇をぱくぱくと蠢かせる。
 槙キドマタも思わず手にした剣を握り締める。

 黒髪の女は金色の華奢な鎖を手にしている。先に繋がれるのは半裸の巨人。禿頭で、顔も身体にも赤く黒く渦巻き紋様が描いてある。
 誰も見た事は無いが、誰もが知る。秘密の文書に記される魔法の紋様。禁忌の呪法。
 彼はまさしく、想像と等しい人喰い教団の戦士である。

 演劇で人喰い教徒の役が現れるのは珍しくはない。社会秩序の破壊者として、督促派行徒と同じく敵役の定番だ。
 しかしこんなに禍々しい姿に、役者が化けられるものだろうか。
 なんの説明も無ければホンモノと信じ、惨たらしく腹を裂かれ内臓を食いちぎられる前に自ら死を選びもするだろう。
 死の臭いが漂っている。殺人者特有の体臭がむんと客席にまで下りて来る。

「  団長。」
「しばし様子を見よ。」
「は。」

 近くに座る団員から指示を求められて、槙キドマタは抑える。彼等には分かるのだ。
 舞台上の男から発散される気配は、戦場往来の武者ならば誰もが心得る。自らの手で人を殺めた者にしか醸し出せない、真の狂気が宿っている。
 此奴は、ホンモノだ!

 

「お集まりのお歴々は何を恐れておいでだろう。」
 唐突に女が口を開く。声は涼しく、安定し、背後に牽く男の脅威を微塵とも感じさせない。この女は馬鹿か、頭から齧られても不思議ではないのだぞ。

「人喰い教徒が恐ろしいか? だが人を食えば怖いのか、怖いだろうがそれは山野の獣も同じ。隣に座る英雄に助けを求むれば大安心。」
 それは確かにそのとおり。神兵が30人も集うのに、何故に人喰い教徒に怯えねばならぬのか。

「恐ろしいには訳が有る。人喰い教徒、ただ人を食らうばかりで恐らるるにあらず。
 人として、明晰な意識を持ち、学識に優れモノの道理を弁え、哲学倫理を修めた者が、敢えて人を喰うから恐ろしい。
 彼には狂気と理性が同居する。人の世、この方台を統べる文明の姿そのものを体現するから、恐ろしい。」

 じゃら、と金鎖を引き、男は一歩前に引き出される。口をわずかに開き生臭い息を吐くのが、観客の目に鮮やかに刻み込まれる。
 女は左の手に一冊の冊子を携える。おもむろに胸の前に掲げ、封板を開いて頁を探る。

「星の世界とてまた同じ。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様が記されたこの書には、星の世界のもののふの心得が描かれる。
 そはあまりにも血生臭く、残酷で、また滑稽でもあり、人の魂を捕らえてやまぬ。

 紋章旗団の方々は御存知であろうか。」

 実は知らない。紋章旗団の神兵達は中央軍制局の厳重な監視下に置かれ、当の軍制局で流行っている弥生ちゃんの本に触れさせてもらえなかった。
 何名かは既に実家の継承を終え新たなる部所に配属されて、見ては居る。
 が、新参の身であるから貴重な写本を幾日も借りる機会を得ていない。

 会の主催者である大商人がここぞと立ち上がり、周囲の給仕達に合図を送る。
 給仕はそれぞれ盆に捧げる冊子を観客席の有力者達に渡し、彼等の手から神兵に差し上げる。
 この奉仕こそが、会の核心であったのだろう。ほっと安堵の息を吐く者も居る。

 槙キドマタは本を開いて確かめた。
 縁の崩れ易い葉片を絹布で補強した最高の品質。綴られる文字も一級の写本家に依るもので、一枚一枚に強い想いが籠っている。
 表紙の封板は革張りで、あろうことか弥生ちゃんの紋章「ぴるまるれれこ」が金絵の具で描かれる。
 地下出版物のくせにとんでもない贅沢だ。

 

 神兵全員に本が渡ったと見定めて、女が再び語り始める。

「ガモウヤヨイチャン様は天河の神が我等に遣わせし救世主。だが真に得難きは救世の御方針であろう。
 彼の方は、自らの手で人を救うを児戯に等しく思われる。人が、方台の人が自らを助けまた自ら他者を救うを以って上策とし、敢えて勇気を試される。
 大審判戦争はあくまでも人の戦い。ギィール神族と褐甲角の神兵と、それぞれが人として世に何を築いたか、自らの剣にて証す場を与えられた。
 有り難き、まことにもって有り難き慮り。

 ではそのお考えはいかにして育まれたか。星の世界に在りて、ガモウヤヨイチャン様は如何なる書物を学ばれたか。
 秘密がここに書いてある。アレ、ゴムタイナ。」

 ”are,Gomutaina”は方台に新たに生まれた一神教「ぴるまれるれれこ教」の祈りの言葉である。
 最新の流行であるから、敏感な人は大抵知っている。紋章旗団も顔を出した宴の席で、何度か聞いたことがある。
 してみれば、この女はぴるまるれれこ教徒か。

 集中する視線に、改めて女は礼をする。大きく腰を曲げて、長い髪を振り回すかに。姿勢を戻せば乳房も揺れる。

「申し遅れました、我が名はアクノメナ。皆様を焦燥と躍動に導く者です。
 所属するのはデュータム点の緑隆蝸(ワグルクー)神殿、王都カプタニアにてはこの公演が初となります。
 私は昨夏ガモウヤヨイチャン様の御元で末席にて奉仕させていただく栄誉を得ました。その喜びを皆様にお伝えいたしとうございます。

 さて皆様のお手元にございます御本は、救世主自らしたためられ、我が朋輩ファンファメラが改稿し方台人民に分かりやすく説き直したものでございます。
 幸いにして私は御本の講釈役として選ばれ、聞く方々に誤解無きよう特別の指導を賜りました。」

 デュータム点の巫女ならば、カプタニアの人が知らずとも無理は無い。
 だが客席の有力者の中には所用商談にて北方に参った者も少なからず。紋章旗団だとて赤甲梢が本拠とするデュータム点は馴染みが深い。
 誰も知らないデュータム点の巫女。疑問は未だ隣の席と共有されない。

 女は左手の本をすっと前に差し出す。つられて神兵達も自らが手にする本をめくる。

「御本はガモウヤヨイチャン様の御力の源を示す、実に興味深い内容を持っております。
 聞くところによればガンガランガに御わす武徳王陛下の大本営にて、神兵の御一方が御本に基づく星の世界の礼法による自害を遂げられたそうです。
 その御最期の見事さ、気高さ、潔さに立ち会われた神兵の方々、また元老院の御重役も称讃を惜しまず、されど為に彼に続くを禁じられます。
 話を聞けば必ず手本とし、あたら有為の若者が命を散らす誘いとなる。と危惧なされたのです。」

 すっと、頁を一枚めくる。
 本に書かれている文章を喋るわけではない。紋章旗団の神兵に、本の内容に注目するよう促すのだ。
 さりげなさに誘導であると気付かず、神兵達は女の言うとおりの記述を探す。
 なるほど有った。腹を割いての自害の方法だ。身分有る武者が許される名誉の作法。
 死すらも芸術に昇華する星の世界の文化の高さ。

「御本には幾通りもの自害の説話が簡潔にまとめられております。どれも皆心打つ。
 中でも注目されるのは、……そうですね。
 空を飛ぶ舟に乗り自らの命を御国を護る楯として捧げ、絶望的なまでに強大な敵に立ち向かう若武者の話も感慨深い。

 されど、本日は。」

 

 女は改めて姿勢を正し、音吐朗々と唱え始める。背はあまり高くない人だが、いきなり倍も大きく見えた。
 気魄、背後に聳える人食いの戦士をも凌ぐ。
 弥生ちゃんが記した内容を語るには、自身にも勁さが要求される。

 

「時はgenroku十五年、雪深々と降り積もる王都の大路を静と進む一団有り。
 先年理不尽にして非業の死を遂げた旧主の仇を報ぜんとする臣47士が姿である。

 天下泰平百年を安んず。大王tunayosiが御代は栄えに栄え、されど富貴に驕り人の心に濁りが見える。
 大王学問を好み名義を重んずるが、人の情けを解せず。裏にては寵臣政事を私し、士風衰え万事が金銭倨傲を許す。

 或る年大王神使を迎え、饗応役にakohが地の領主asanoを命ずる。
 asanoは武門の家柄にして理非を正しゅうするも、若年にして癇の質。富貴の風に反発す。
 礼法指南は老人kira、旧き血名門にして大王の信頼篤きを嵩に、饗応役に賂を求む。時流に従い賂年毎に嵩み、asanoが算を大きく越える。
 asano先代が例に習いて挨拶ばかりを贈りしをkira大いに不満を覚え、ことごとくの嫌がらせに走る。

 饗応滞り面目失いしasano、宮中にてkiraが嘲りを受く。諸侯官人環視の直中にて、『ゲルタじゃゲルタ、ゲルタ武者じゃ』。
 余りの雑言にasano我が心抑え難く、kiraが袖取りて下がるを阻む。右手は帯びし剣に伸びる。
 老人宣うて『その手はなんじゃ。宮中にて刃を振るえば御家は断絶、身は滅ぶ。さあ抜くか、抜くまいか。抜けぬかこのゲルタ奴が』

 おのれ、とばかりに宝剣抜き放ちkiraが額を断ち割るも、官人に阻まれ本懐を遂げず。
 神使を迎えし晴れの日に、この狼藉。大王大いに怒りて、調べも早々asanoに即日自害の裁きを下す。
 武門の慣わし、大王家が祖法に、喧嘩両成敗の理有り。されどkiraに咎めなく、唯asanoのみ己が腹切る。

 都より離れること6百里。通うに15の日を要するを、急を伝えるasanoが臣は5日にて領地の家宰kuranoの前に到る。
 息も絶え絶えに主が最期を伝うるに、我が殿なんぞ御家を見捨てられたと嘆くも城に臣を集め評定に及ぶ。
 皆驚き憤り、このまま領地を渡してなるものかと抗戦を叫ぶ者、城に籠りて迎え討たん、あるいはkiraが首取りて主に捧げんと主張する。
 kuranoいずれにも組せず、蔵を開きて領民よりの借入金を清算し、民に害の及ぶを避く。

 群臣怒りて城を捨て御家を離れるも、残る者数60。旧主に殉じる姿勢固しと見て、kurano初めて本意を明かす。
 都に上りてkiraを討ち、その首墓前に捧げんと。されどこの挙、復讐にあらず私戦にあらず。
 公儀のお裁き此の度は過ち也。両成敗の理に従いて裁きを正さねば、天下の仕置きに障り有り。士道歪みて歩む者無し。

 

 中略。」

 つらつらと流れる女の声がいきなり止まったので、神兵本を確かめる。
 なんということか、この物語ここで本当に(中略)されている。弥生ちゃんが書かなかったのだ。

 とにもかくにも艱難辛苦を乗り越え同士が幾人も脱落しつつも、最後に残った47名のasano家臣はkuranoの指揮の下kira屋敷に突入し、老人を木炭倉庫の中で発見、無事本懐を遂げたのであった。
 筆はここより復活する。

「世人皆義挙を称え、asanoが臣の助命を乞う。近年希なる忠義の士にて、我が家にて召し抱えんと希望する領主も多し。
 大王自身、忠義孝養を日頃勧奨する立場にて、彼等の裁きを如何にせんと御用の学者に下問する。
 賢人大いに論ずるも、公法に背きし罪を問う者有り、倫理は法をも越えると唱える者有り、まとまらぬ。
 またこの挙自体、公儀が両成敗の理を軽んじたが為の命を張った申し立て、認むれば大王が権威の失墜を招くと極刑を示す者も有り。

 大王悩むも解を得ず。高僧を呼びて尋ねるは、慈悲不殺を説く教えに寛恕を期待してのものか。
 されど高僧答えて曰『死を賜うべし』
 大王驚き問うに、人の命は生死の境に留まるにあらず。志有る所万代を越えて生き続け、世の光とならん。
 悪戯に生を与えて節を汚し此度の壮挙を地に落すは、大王治世の不徳なり。
 元より命はとうに捨てし者なれば、旧主に疾く見えさせ給え。忠義の願い叶うべし。

 大王先年の裁きの誤りを認め、asano、kira共々に等しく処分を下す。
 復仇を遂げし47名には、武者としての名誉を護るseppukuの作法を許し、asanoに殉ずるを命ず。
 春爛漫花咲く下で、士が預けられる各領主の庭にて、作法どおりの自害の儀を執り行う。
 まずは首魁のkuranoより。死に臨み世を辞す詩は『あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし』

 ぱたりと本を閉じ、女は踵を返して金鎖を引き、人喰いの戦士を従えて舞台を去る。
 残された観客呆気に取られ、今の朗読はなんだったのかと首をひねる。
 ガモウヤヨイチャンはこの逸話に何を求め、方台の民に何を訴えたかったのか。

 

 答は続く新作劇で明かされた。
 題名は『雪花落辯』。そう、メグリアル王女 焔アウンサ最期の1日の有り様だ。

 そもそもが百人の兵と神兵も2人まで伴う王女を襲撃するなど無茶な話だ。件の村に留まると決まったわけでもなし。
 行列の進行を緻密に制御して、あの日あの場所にて罠を仕掛ける周到な計画が有ったのだ。
 人喰い教団なんぞに出来るものではない。捜査の当初より政治的陰謀が噂されている。

 容疑者の第一は、またしてもハジパイ王。今日の出し物の構成から考えても、それ以外を想像できなくなっている。

 それはさておき、夜滞在する村に火を掛けられ雪の降り積もる街道に逃れてきた王女の輿を、獣人を擁する兵が襲う。
 一人また一人と倒れて行くクワアット兵の姿に、紋章旗団の神兵は切歯扼腕する。
 もしもその場に自分が居れば、誰か一人でも付き従っていれば、こんな話は有り得なかった。獣人などギジシップ島で幾らでも倒したのだ。
 座席のひじ掛けを渾身の力で握り、舞台から目を離さぬよう必死に耐える。

 カタツムリ巫女演じる焔アウンサ王女はあくまでも美しく、随員全てが討ち滅ぼされても悠然と輿を下り、細身の剣をすらりと抜く。
『メグリアル王女 焔アウンサ。人殺しは好まぬが、嗜む』

 王族にこのような真似をさせてはならぬのだ!
 武徳王は黒甲枝にクワアット兵に、敵を打ち砕く使命を託された。その契約の証に、自らは只望むばかりの姿勢を示される。
 方台はあくまでも人の手によって救われねばならぬ。褐甲角神の救世とはそういうものなのだ。

 やがて敵を皆殺しにした王女が燃える村に戻って来る。返り血に塗れた手と顔を井戸にて洗おうとするその時、
 先ほど朗読に現れた人喰いの戦士が山猫のように背後に忍び寄る。
 卑劣にも、そして不可解にも聖蟲を戴く王女の警戒を潜り、手にした蛮刀にて心臓を貫く。悶絶する王女を頭上に抱え上げ、井戸の水底に投げ入れる。

 よくぞ耐えた、と槙キドマタは自らを褒めた。こんな有り様を見せられて、紋章旗団の神兵が正気で居られるはずが無い。
 黙って左右に視線を飛ばし、激昂し舞台に飛び上がろうとする者を無言の圧力で抑え、ようやくに終幕にこぎつける。

 舞台は一転して、春。
 亡き叔母の追悼に赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ王女が、輔衛視チュダルム彩ルダムを伴って村を訪れた。
 だが待っていたのは、カプタニアよりの逮捕状を携えた衛視神兵。
 あろうことか、亡き焔アウンサ王女の罪を問わんとする。

 女人である彩ルダムを縄目の辱めに掛けようとする衛視に、劫アランサ王女の鉄拳が炸裂。神兵2名を殴り倒し、自ら縛を受け連行される。
 これもまた、カプタニアの陰謀か。

 

 舞台は終り、客席には放心する紋章旗団の姿のみが有る。
 会を主催した有力者達、また給仕をする男女も姿を消し、役者も下がり、ただ篝火のみがぱちぱちと音を立てて光を放つ。

 何をするでも促されるでもなく、一人ずつ席を立ち、古びた石舞台に上り、残された小道具の女人の輿を愛おしそうに確かめた。

「団長。」
「言うな! お前達分かっているか、我等は悪辣な奸計に嵌められたのだぞ。」

 そんな事は百も承知、と誰かが叫んだ。

「これは私戦ではない。王国の政治に疑義が有るのだ。」
「劫アランサ様までも謀略の犠牲にしてはならぬ。断じてならぬ。」
「そして今、為し得るのは我等しか居ない!」

 副団長アルラァは決然と言葉にする。折角相続した黒甲枝家の家督も、かなぐり捨てて惜しくない。
「団長、いやィエラースム槙キドマタ。メグリアルの王女は我等の救いを求めているのだよ。」

 ああ、これだ。槙キドマタは夜空を仰いだ。
 王都に戻って早半年、燻り続けた魂にようやく焔が燃え移る。

 額の赤翅のカブトムシが、ぶんと羽ばたき唸りを上げる。宿主の心気発する所に正義を認め、心地好く震えるのだ。

 

 周囲に張り巡らせた幔幕の陰から、顔を覗かせる者がある。
 貧相な男で身なりも粗末。店の下男というよりは、臨時の仕事で外から呼んだ風だ。
 男は言った。

「あの、旦那様がた、すいません。そろそろ片付けしてもいいでしょおか?」

 

【刀話】

 トカゲ神救世主弥生ちゃんが降臨し、彼女が触った刀剣は鋼鉄を易々と切断する能力を持つ、と聞かされた方台住民はさして驚かなかった。
 むしろ納得した。

 青晶蜥(チューラウ)神は雪と氷、水晶や硝子等透明なものを象徴とし、冬と寒さを司る。北壁の守護者、治癒者であると同時に、切断の神でもあったからだ。
 イメージとしては単純。トカゲの尻尾がすっぱり切れるところから来る。
 またガラスの切片は金属の刃が登場するまでは、最も良く切れる刃物として知られていた。ガラス製造はタコ女王の時代に始まるが、用途としてはカミソリもあった。
 鋭利な切断力を利用して怪我や腫物を切除する手術も行われる。

 というわけだ。弥生ちゃんが斬鉄剣を引っ提げて活躍する姿は、まさに神の力の顕れとして崇拝される。
 本人としても、人が望むのであれば刀剣類に対して特別な関心を示し、方台に新たなる刃物の歴史を築こうとも考える。
 元来律義な質であるから、ファンタジー世界に来たからには日本刀を作らねばならぬと思い定めた。

 

 そこで刀工を呼んでみる。ギィール神族は誰もが道具作りを得意とし刀剣類も見事なものを鍛えるが、今回は一般人の匠だ。

 結果として、あんまり有益な技術交換は出来なかった。
 まず鉄が違う。
 十二神方台系は人工の大地だ。海に巨大なテューク(大蛸)を敷き詰め、石を並べ土で覆って造成してある。当然鉱脈など無い。
 金属資源はテュークが持っている。内臓に様々な物質を抱え込んでおり、地に潜って取って来る。硬い殻を割っての作業だ、とても大変。

 そして得られるのが、鉄粒である。砂鉄ではなく米粒ほどの大きさの鉄の塊で、これが曲者だ。
 鉄粒というからには、これ自体が既に鉄として人に認められる。金属である。赤く錆びたり黒くなったりしていない。
 合金なのだ。
 高温で溶かして打ってみると、形はなるほど出来上がるが、それは鉄鋼ではなく合金の道具である。硬くない。
 と言うよりは、そもそも高温自体が得られない。木炭をフイゴで吹いたくらいでは十分な熱が得られない。故に有毒のタコ炭を用いる。

 どちらの材料も、ただの人が用いるには難し過ぎる。聖蟲から精錬法を伝えられたギィール神族のみが鉄器を独占し得た。
 時代が下って、ギィール神族は生産量拡大の為に一般人の匠でも精錬出来る方法を考案し、下請けに出し始めた。
 神聖金雷蜒王国時代後期には官炉が築かれ奴隷を大量に使って金属を製錬し、各地の神族に供給する仕組みが整った。
 対価として神族は高度な技術を用いた産物を収め、差額を税の代りとする。

 官炉の精錬法が流出したのが、褐甲角王国の鉄鋼生産の元となる。
 この方法であると、刀工に与えられるのは最初から鋼だ。だから、形を整えれば刀剣が出来る。焼き入れをして刃先を硬くすれば完成。簡単だ。
 簡単過ぎて進歩が無い。一般人刀工はギィール神族が鍛えた刀剣に決して及ぶことが出来なかった。

 要するに材料が良過ぎるのだ。幾らなんでもこのような事態を解決する方法を、弥生ちゃんは知らない。ファンタジーネタ帳にも書いてない。
 しかし完璧優等生と呼ばれた女だ。たちどころに策を導き出す。

「混ぜ混ぜしましょう。」

 鋼とくず鉄を混ぜろと言う。要するに鋼の成分を自分でコントロールする技法を開発せよと命じる。
 呼ばれた刀工、名はスハイツ、はあまりに無茶な命令に絶句する。
 ギィール神族の時代から一度精錬された金属は純粋なもの、手を加えてはならないと定めがあったし、混ぜて好ましい結果を得た事も無い。
 だが弥生ちゃんの要求に応える為に試行錯誤をくりかえした結果、最終的にはそれ以外の方法は無いと結論づける。

 また成分が違う鋼を組み合わせて刀身を構成するアイデアも授けられた。弥生ちゃんは素人だから単に「割り込み」を教えただけだが、彼は感心すること頻り。
 そして最も有益だったのが、この言葉だ。

「あー、そうねー。合成砥石でもあればいいのにね。」

 合成砥石、つまりは砥石までも自分で作れ。スハイツは雷で撃たれたかの衝撃を受ける。そうか、その手があったか!
 十二神方台系は上記したとおりに人工の大地だ。石も余所から持って来たもの。地層は無い。当然石材の層も無い。
 方台を築くのに積み上げられた岩や石をそのまま砥石として用いていた。

 だが刀剣の切味は砥石の質に比例すると言ってもよい。良い砥石の取れない地域では切味の追求がほどほどで終了して、レベルが低いままに終るのだ。
 何を隠そう、ギィール神族の刀剣作りの秘訣もここにあった。彼等はまず煉瓦を焼く。
 砂や粘土をよく吟味して、砥石として使えるものをこしらえる。それから作刀に移るのだ。

 

 わずかの時間であったがヒントをもらい、スハイツは弥生ちゃんの頼みを引き受けた。
 『日本刀とおなじ形の刀を打上げる』。寸法の図までも貰い受けて、故郷の工房へと帰って行く。

 翌年、スハイツは弥生ちゃんの元に刀を届ける。数々の試行錯誤を繰り返して完成した日本刀第1号だ。
 弥生ちゃんは霊力を用いず素で巻藁を斬ってみて、若干の注文を付ける。反りの曲線が思ったものと違って、切先側がより大きく曲がっているのだ。
 微妙な差ではあるがオリジナルに合せないと意味が無い。
 スハイツは再び故郷に帰る。

 半年後、新刀を持って再び参内する。弥生ちゃんは刀の外見には合格を出し、試し切りでも欠点を見出せなかった。
 そこで刀術に秀でた神官戦士に命じて、撃剣の荒試しをする。槍や薙刀、金棒といった武器や、鋼の甲冑、楯など戦場で遭遇するあらゆるものにぶつけてみた。
 神官戦士の結論だと、もう少し長い方が使い易いとなる。方台の人間は昔の日本人より背が高いから、刃渡り70センチは少々短く感じられた。
 また強度に関しても更なる工夫が必要になる。スハイツも、このような試され方をするのであればと、より剛剣を志す。

 

 2年目にしてようやく弥生ちゃんが満足する刀が出来上がった。
 「蜥蜴刀」と命名し、神威を与えて禁衛隊「神撰組」隊長ゥアンバード・ルジュに授ける。

 弥生ちゃんが日本刀を必要としたのはこの為だ。トカゲの聖蟲を授けて独自の神族を作らない代りに、神威の宿った刀剣を身分の証とする。
 ”近藤さん”ことゥアンバード・ルジュは大いに喜び、弥生ちゃんと同じく左の腰に吊るして威勢を示した。
 いずれ手柄を立てた者には同様に神威を帯びた刀が授けられよう。いや神威は無くとも、この形の刀は特別な存在になる。

 一方で弥生ちゃん自身は愛刀『カタナ』を手放さない。この刀は方台に降臨して間も無く手に入れ、以来幾度もの危難を潜り抜けた弥生ちゃんの分身だ。
 世間でも勇名は轟き、天下第一級の武器として崇められる。
 だが折角日本刀の用意が出来たのだから、とスハイツに自分用のも作らせた。ただし神威は込めない。

「見てみて。」
と呼ばれるのは、メグリアル劫アランサ王女。青晶蜥王国が立ち上がった後も救世主の傍に有り、時には名代も務める。
 人は、いずれ彼女こそが弥生ちゃんの後を継いで二代目となると見込んでいた。

 なんですか、と寄って来る王女に弥生ちゃんは、青晶蜥(チューラウ)神の秘密をこっそりと教えてくれる。

「見てみて。」

 右手には新しい蜥蜴刀が有る。未だ神威を帯びていない。
 やがて、弥生ちゃんの右腕をなにやらちょろちょろと青い光が走る。まるで小さなトカゲが皮膚の下を発光しながら走るみたいだ。

「それは、聖蟲ですか!?」
 うなずく弥生ちゃんは、皮膚の下のトカゲをそのまま刀に導いた。刀身の鋼の内部をちょうちょろと走り回った光は、やがて消え、今度は刀全体が光り出した。

「聖蟲が神刀には宿っているのですか!」
「というわけなのさ。」

 むんと、気合いを入れると刀に取り憑いた光がまたトカゲの形を取って、ちょうちょろと腕に戻って行く。
 神威を与えるも剥奪するも、弥生ちゃんの思い次第なわけだ。

 この刀は主に巻藁を斬るのに使われた。神威を帯びたカタナであればどんなものでも斬れてしまうから、練習にはならない。

 

 だが遂に実戦に用いられる機会が訪れる。

 ジョグジョ薔薇の乱の後、弥生ちゃんは残された黒甲枝諸侯連合と交渉を持った。
 戦で敗れたのは彼等ではないが、なんらかの罰を与えねば方台全土が納得しない。
 だが弥生ちゃんはこのまま南海グテ地を任せ、独自の王国を経営させようと考える。

 連合の神兵達と話し合った結果、彼等が王を望んでいないと知る。つまりは神兵誰もが対等の立場となり、合議で国を動かして行く方法を模索していた。
 新し過ぎる発想で、弥生ちゃんの口添えがあったとしても各方面に理解を得るのは難しい。

 最も困難なのは、聖戴権の継承問題だ。
 武徳王のみが持つカブトムシの聖蟲を授ける権利。別の国となった者に与える訳にはいかない。
 彼等は聖蟲を剥奪されるのも覚悟していたが、神兵神族どちらも無い国が存続していくのは難しいだろう。

 さすがに弥生ちゃんの手にも余る問題だ。
 一旦預かり任せよと申し出たが、連合側も完全な信頼を置くわけにはいかない。
 武徳王は聖蟲を剥奪する権利も持ち、元老院で決すれば直ちに行使せねばならなかった。一度失えば、再度の聖戴は有り得ない。
 カプタニアで交渉する間は処分を保留させる担保として、弥生ちゃんは大いなる決断を必要とした。

 即ち、神刀『カタナ』の連合への貸与である。天下の至宝を預かる者として、神兵の力は欠かせない。
 そういう理屈で聖蟲の保存を主張したわけだ。
 後にこの理屈は発展して、武徳王より授けられ弥生ちゃんによって神威を与えられた『契約の大剣』の守護者として、一国の領有と聖蟲の継承が認められる事となる。

 連合の本拠地イローエントに『カタナ』を置いてカプタニアに向かおうとする弥生ちゃんに、西の荒野で怪しげな光を見たとの報告が届く。
 天河十二神に由来する奇蹟と見定めて、神兵や神族を含む軍勢で訪れた。
 どこまでも続く乾いた平原に待ち受けるのは、漆黒の巨大なコウモリ。コウモリ神人が真の姿を曝して最後の戦いを挑むのだ。

 弥生ちゃんは怪物退治の定番、神秘のハリセンで応戦。だが神人はこれをこそ狙って居た。
 天河十二神より力を与えられる弥生ちゃんだが、神そのものを打ち倒すにはハリセンの超能力を用いねばならない。
 逆に言えば、ハリセンを失った弥生ちゃんはコウモリ神人の敵ではない。

 狙いを悟られないよう周到に狡猾に戦いを進める神人は、遂にハリセンそのものに攻撃を加え大きく破損させるのに成功した。
 瞬時に腰の刀を抜く弥生ちゃん。だが帯びるのは『カタナ』ではない。
 神威を込めてコウモリの爪を防ぐも、わずかに一合で断ち折られてしまう。見守る兵は弥生ちゃんの死を覚悟する。

 だが獣の身体に無数に存在するエネルギーの交点を看破した弥生ちゃんは、敢然と近接格闘戦に突入。
 折れた蜥蜴刀を急所にぶち込んで、蹴りで体内深くに押し込んだ。

 一度兵の元に戻った弥生ちゃんは、今回手加減も援護も出来ないから1里(キロ)以上の退避と、彼等が帯びる刀剣類を残して行くよう命じた。
 失われた刀の代りに用い、数で対抗するのだ。
 これまでに無い苦戦を理解したギィール神族や神兵は、それぞれの腰にある名剣を鞘より抜いて地に刺して、健闘を祈る。
 兵士達も自らの刀や槍を突き立て、遠くに離れていった。残って加勢をしたいのは山々だが、居れば邪魔になるばかり。

 改めて仕切り直された戦いで弥生ちゃんは刀剣を両手に握り、左を爪に砕かれながら右手の刃で急所を抉り、わずかずつのダメージを与えていく。
 何本突き立ててもコウモリ神人は停まらない。決定力が不足する。

「カタナが無いから、勝てないのだ…」

 見守るギィール神族は遠く離れたイローエントまで、額のゲジゲジの聖蟲を使って合図する。赤い光条が荒野を走り、光通信の暗号が飛ぶ。
 通信を受け取った青晶蜥王国の連絡員が、イローエントで待機する劫アランサ王女に報告する。

「ヤヨイチャンが危ない!」
 連合に預けた『カタナ』を請け出し、宙を舞い戦場へと急ぐ。

 弥生ちゃんは懸命に戦い続けていた。
 巨大コウモリの急所に剣を打ち込む度にエネルギーが弾け、高速の重粒子が飛び散り、弥生ちゃんの肉体に重ね合わせて組み込まれた褶曲場空間エネルギー回路を貫通する。
 天河より降り注ぐエネルギーこそが弥生ちゃんの奇蹟の源であるから、この回路が破壊されれば機能は止まり、人体を構成することさえ不可能となる。大爆発の危険すらあった。
 無論激痛も伴う。そもそもが体内を大出力のエネルギーが通り抜ける際には、弥生ちゃんは苦痛を覚える仕様となっているのだ。

 耐えに耐え、執拗に丁寧に正確に急所を狙い鋼の剣を打ち込んで行く。
 ついには全身108箇所を破壊して復元機能を停止させ、巨大コウモリを地に打ち倒した。
 弥生ちゃんの疲労も激しい。青い衣も灰色のスカートも千切れ飛び、先細りのする長い黒髪も半ばで切り落とされ、半裸となり肌に無数の傷を負い、
    だが立っている。手には剣を握っている。

 ようやく到着し天空より舞い降りる劫アランサ王女は、地に伏す獣の大きさに驚き、それ以上に救世主の姿に肝を潰した。
 これほどの激戦、これほどに打撃を受けた弥生ちゃんは見たことが無い。

 やっぱり来たな、と微笑むと王女が差し出す愛刀の柄を握り、すらりと引き抜き日にかざす。
 南海の強い陽射しをも凌ぐ青い霊光が世界を塗り替え、避難していた兵達を呼び戻す。

 カタナを右手に提げ、劫アランサ王女を伴って、横倒しとなった獣の顎の傍に立つ。
 神人と最後の会話を交わす弥生ちゃん。そして、留めを刺す。

 黒い獣は胸が裂け、黄金に輝く心臓が宙に解き放たれる。
 天空高くに舞上がるコウモリ神人の魂に、弥生ちゃんは最高の礼を捧げる。
 見守る兵、神兵、神族に方台人類の護りの親、闇の照らし手、幼子を世界に導き我が身を削って育くんでくれた最も親しき者への別れを呼び掛ける。

 すべての兵の敬礼を望みながら、コウモリ神人は地上での責務を終え天河に帰っていった。

 

 これが世に言う『神刃一〇八振』、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン最強最後の決闘である。

 被害は甚大だ。
 弥生ちゃんは全身に傷を負い、身体が透けて見えるほどに人間離れしてしまった。
 エネルギー回路の損傷は致命的で、このまま方台に留まれば大地の半分を抉り取るほどの爆発を引き起こす。
 修復には膨大なエネルギーの投入が必要だ。地上にあっては不可能、遠く誰一人居ない海上でのみ実行出来ると、額のカベチョロは処方を出した。

 十二神方台系を去るべき時が来たのだ。

 7ヶ月後、弥生ちゃんは特別にこしらえた小舟に乗って、百島湾の港より西海に旅立つ。
 この海の向うになにも無いと考える人々に対して、神以外は訪れる事を許されない「フダラク」と呼ばれる楽園が有るとなだめすかす。
 そうでも言わねば、多くの人が船を仕立て付き従って行くだろう。

 十二神方台系における弥生ちゃんの任務は終了する。
 傷付いた身体と、砕けたハリセン、方台の産物と言えば只『カタナ』のみを携えて去って行く。
 人々は救世主に対して何も報いる事が出来なかった、と嘆くばかりだ。
 そして再臨を強く願う。「必ず帰る」との弥生ちゃんの言葉に、だがそんなことは有り得ないと誰もが知っているのだ、一縷の望みを託すだけだ。

 

 『神刃一〇八振』の話を聞いたスハイツは手にした槌を投げ棄て、地に伏し頭を土に擦りつけて自らの無力を弥生ちゃんに侘びた。
 彼の鍛えた蜥蜴刀に十分な力があれば、救世主を失わずに済んだのだ。

 精進潔斎し数多の工夫を凝らして新たなる、そして二度と負けない蜥蜴刀の製作に励んだが、遂に弥生ちゃん方台退去には間に合わなかった。
 彼は死の真際まで刀剣製作に携り、ようやくに自らも納得のいく一振を産み出した。
 最早長旅に耐えられず代理を仕立ててて青晶蜥王宮に奉納したのは、救世主星浄王四代”ピルマルレレコ”・セイヤ春ミスカモゥネの時代である。

 スハイツが産み出した蜥蜴刀は青晶蜥王国の勇士が帯びる利器として広く知られ、名刀の名をほしいままにした。
 製法の伝授は200年も続くが、残念な事に失われてしまう。
 この頃にはギィール神族の数が目に見えて減り、ゲイルを敵とする神兵の出番も無くなった。高水準の刀剣の需要が消滅したのだ。
 人間同士が殺し合いをするのに、神族の剣もスハイツの剛刀も必要無い。

 また創始暦五三〇〇年代には火薬が発明され、銃砲の利用も始った。
 最早刀槍の時代ではない。近世の戦争が姿を見せ、早足で大量殺人の世紀へと突き進んでいく。

 弥生ちゃんに捧げられた名刀もいつの間にか王宮より紛失し、市中の好事家の間を転々と渡って行った。

 

 時は流れて創始暦五五五五年。
 十三代救世主カマランティ・清ドーシャ焔の捨身祈祷に応じて再臨を果たした弥生ちゃんは、自らが帯びるべき刀剣を求めた。

 禁衛隊「神撰組」の幹部が帯びる蜥蜴刀はいずれも華美流麗な逸品であるが、形ばかりのものにして弥生ちゃんの蛮用に耐えない。ことごとくが木刀にへし折られてしまう。
 嘆かわしいと一度は諦める弥生ちゃんの元に、とある富豪の裔が現れた。
 彼の祖父は刀剣の蒐集家にして、富の全てをなげうって方台全土から優れた作品を多数集め蔵に納めた。
 死後大多数は手放したものの、最も優れた一振だけは決して手放してはならぬ。弥生ちゃん再臨の日まで預かるのだ、と遺言を残す。
 これこそが老スハイツが最後に奉納した、まさに弥生ちゃんの為に鍛えられた究極の蜥蜴刀。

 鞘から抜いた瞬間、弥生ちゃんはうむと首肯き「スハイツよ、やったな」と誉め称えた。
 再び『カタナ』と名付けて腰に吊り、乱れる世の粛正に乗り出す。

 2度目の救世は半年ばかりで終り、弥生ちゃんは星の世界に帰る。
 うららかな心地の良い、世の淀みが全て吹き払われ希望に満ちた新しい方台の午後に、清ドーシャと茶を楽しんだ弥生ちゃんは静かに消えてしまう。
 席に残されていたものは、ただ『カタナ』ばかり。
 清ドーシャは弥生ちゃんの形見を抱きしめ、3度目の招きはせぬと天に固く誓う。

 

 

第十章 振り出しに戻る

 赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダ中剣令は、カプタニア城内庭の門に立つ。
 旅装で背には大きな鎧櫃を担ぎ、今着いたばかりの土埃まみれだ。

 高い土壁で囲まれる内庭は、門も泥土を塗った巨大なアーチ。雨季が終ると住民総出で塗りたくり修復するのが恒例の年中行事だ。
 女も子供も、ウェダ・オダも幼い日に泥を両手に駆け回る。
 この十年、何度も夢に見た光景だ。

「帰ってきてしまった……。」

 内庭とは黒甲枝の集合住宅が有る場所で、ディズバンド家も数年前までここにあった。

 今は弟が家督と聖蟲を継いで任地に家族ごと転出し、父母は西街に屋敷を構えて移ったという。
 だいたい内庭に住む黒甲枝は財産が無く、富裕層の住む西街に引っ越すのは累代の夢だ。
 先祖代々留まって居たディズバンド家がめでたく脱出できた。そうは見えないが、父に蓄財の才があったのだろう。

 だからウェダ・オダにはこの場所に来る理由が無い。にも関わらず、足が向いてしまった。
 いや、父母が居ない今だからこそ戻る事が出来た。
 自分勝手に家督を放棄した身であれば、敷居が高いのも致し方無い。

 

「さて困ったな。どこに落ち着くべきか。」

 あり体に言うと、彼は逃げて来たのだ。
 カプタニアに到着した神兵・剣令は必ず中央軍制局に出頭して登録せねばならない。
 デュータム点から武徳王の大本営を避けて西回りの街道で来たウェダ・オダも、まずはカプタニア城に入る。

 状況は最悪だ。なにせ総裁のメグリアル劫アランサ王女が衛視局に捕まっている。
 ウェダ・オダが王女の補佐役であった事は、もちろん当局も把握する。のこのこと顔を出せば確実に禁足を食うだろう。
 赤甲梢の証である赤翅のカブトムシを巧みに隠して申請書に署名をし、身分に気づいた係員が対応に走り回っている隙に逃げ出した。

 逃げるのは良いが、行くアテが無い。
 カプタニアにはもちろん赤甲梢の事務所が有るし縁の金翅幹元老員の館、メグリアル王家の離宮に身を寄せても良い。
 ただし彼はいささか怪しからぬ事を目論んでいたから、迷惑の掛る所には泊まれない。

 さてどうするか。

「あ! 貴様!!」

 いきなり背後から怒声が飛ぶ。聞き覚えのある、そして絶対に出会ってはならない人の声だ。
 そもそも聖戴者をいきなり怒鳴りつける人物など滅多には居ない。
 ウェダ・オダはなかなか感心しない汚い服装をしているが、見る人が見れば聖戴者と分かる。
 鎧櫃を担いでいれば軍務に有ると知れるから、たとえ王族であっても酷い言い方はしない。

 こんな台詞を吐ける者は。
 つかつかと足音高く近付く人は。

「貴様、ディズバンド家のバカ息子だな。なんだそのナリは、王都に入ったのならきちんと賜軍衣を着けぬか。」
「は! 申し訳ありません。兵師統監様。」

 黒甲枝の重鎮、中央軍制局の最高峰兵師統監、「破軍の卒」、最初期からの神兵で高い身分にありながら今もなお軍務に従う先祖代々の武辺者。
 チュダルム冠カボーナルハン、59才。劫アランサ王女の輔衛視チュダルム彩ルダムの父でもある。

 チュダルム家は財産に不自由は無いが、頑に内庭に留まる。狭くて不自由なのもまったく気にせず、周囲の迷惑も省みず、黒甲枝のヌシとして君臨する。
 救世の聖業の一兵卒として戦い続けるのだ。

「貴様、自分の家がもうここには無いことを知らぬのか。」
「いえ知ってはいますが、なんとなく足がこちらに向いて、」
「うむよろしい。儂の家に来い。」
「あ、いや、おかまいなく。」
「うるさい、ちょっと説教してやる。どうせ行くアテも無いのだろう。」
「あります、外庭に又従兄弟が、」
「いいから来い。」

 一度決めたら絶対に譲らないのがチュダルム家の気質である。兵師統監自らが先導するのに、一介の中剣令が逆らえるはずも無し。
 チュダルム家の従僕が気の毒そうな顔を向ける。今日の生贄がさっそくに手に入ったと、安堵もしているようだ。

 

 土壁の縦に細長い家が立ち並び、細い路地が迷路のように入り組む内庭はウェダ・オダが覚えているのと何一つ変わらない。
 ここに住んでいたのは10才までだ。黒甲枝の男子は兵学校に入り神兵となる教育を受ける。実家に戻るのは月に1度も許されない。
 最後に自分の家に帰ったのは何時だったろうか。小剣令として最初の任地に赴く前日、わずかに1日だけ泊まってそれきりか。

 兵師統監が顎で示すので、致し方なくチュダルム家に入る。
 内庭の黒甲枝家はどこも同じ造りだ。3階建で内部に吹き抜けが有り、屋上に天水桶が有る。
 1階は従僕が暮らし倉庫もある。篭城に備えて食糧他を備蓄する。
 2階が家長の部屋であり武具が貯えられる。3階は家族が暮らすが、実際は家長である神兵は滅多に家に居ない。妻が事実上の主人だ。

「それは赤甲梢の翼甲冑だな。」

 兵師統監が尋ねるのは鎧櫃の中身だ。重量が120キロに加えて大剣・鉄弓が備わって150キロにもなる。
 当然ただの人間には担げない。だが重甲冑に比べれば思い切った軽量化がなされているのだ。

 神兵が主に使う重甲冑は装備重量300キロ。輸送する際には分割して3輌の荷車に載せねばならない。要員も10名を必要とする。大袈裟極まりない。
 最も簡単な輸送法は、神兵が自分で着て歩くことだ。随員が2名もあれば済む。
 聖蟲を継いだ若い神兵の最初の任務が、この重甲冑輸送である。聖蟲が与える怪力の使い方を覚え重甲冑に慣れる為に、ひたすら方台中を歩き続ける。
 1日30キロほどを移動し、宿泊する村や町で黒甲枝として訴訟や陳情を受け付け解決を図る。
 すべて神兵の修行なのだ。

「それにしても、その姿はなんだ。」

 兵師統監は勝手に座り、ウェダ・オダには椅子を勧めない。目上の者の許可無くして座るわけにもいかないので、立ったまま応じる。
 心なしか自分を見る目が和らいだように感じる。

「貴様はディズバンド家の継承権を捨てて、ただのクワアット兵として生きるはずだろう。なのにその額はなんだ。」
「は、はあ。どうにも自分の考えた通りには人生はいかなくて、」

 ウェダ・オダの母は、父よりもかなり歳上の女だった。しかも黒甲枝に釣り合う身分ではなかったらしい。
 だが恋愛沙汰に分別は無い。結婚しないままに彼を身篭り、出産して、死んでしまった。今の母は彼をを養育する為に急ぎ迎えられた人だ。
 無論出生の経緯は幼い彼には伏せられる。だがこの類いの話はバレてしまうものだ。
 弟が生まれた後、家の外の大人たちの言動にわずかに不審を覚え、自ら調べて突き止める。母が、実の母でないのはさすがに衝撃を覚えた。

 知った事実に基づいて行動を起したのは、10年後だ。正しい生れの黒甲枝である弟に継承権を譲る。と、自ら決めたわけではない。
 ただ父親と同じ道を選んでしまう。彼が愛したのは、黒甲枝と釣り合わぬ家の娘だ。
 自然に任せて行動すれば、聖蟲を放棄する事となってしまった。
 以来、家に帰るのを諦めた。

 兵師統監はむすっと顔をしかめ、深く鼻息を吹く。

「聖蟲を捨てた者が、何故に赤いカブトムシを載せている。」
「は、はあ。これもまたなんとなく、」
「愚か者奴が。普通にやっていれば普通に神兵になり、誰を傷付ける事もなかったのだ。大回りして元に戻っただけではないか。」
「自分でも、なにをやっているのだろうと思わないでもありません。」

「聖蟲授与式の時も、家には帰らなかっただろう。」

 聖蟲を授ける権利は武徳王にしかない。赤甲梢といえども、武徳王の前に出てカブトムシを戴く儀式を受けねばならぬ。カプタニアに参じねばならない。
 この時、ウェダ・オダも一度帰ったのだ。
 だが実家に顔を出すこと無く祝宴の内に留まり、遂に父母の顔も見ずガンガランガに戻ってしまった。

「あの時の親父殿の喜びようを貴様は知らぬだろう。一度失った息子を再び取り戻せたと、儂に涙で語ったわ。」
「……もうしわけ、ございません。」
「儂に謝ってどうする。」

 

 ウェダ・オダを家に伴ったのは、別に困らせる為ではなかった。
 その間に使いを走らせて、中央軍制局に掛け合っていたのだ。禁足の処分にされない手続きをしてくれた。
 情勢の微妙なこの時期に赤甲梢の神兵が行動を制限されるのは、理の当然。兵師統監自身の命ずる所だ。
 だが敢えてウェダ・オダを自由にした。

「どうせ拘束された赤甲梢総裁を探すのであろう。あまり派手にやるなよ。」
「有難うございます。」
「儂としても、ああいう見え透いた策には賛同できん。食い破る者が一人くらい居ってもよかろう。」
「は?」

「それとだ。紋章旗団の連中には近付くな。火傷するぞ。」

 意味が分からないが、チュダルムの親父様は自分に好意的だとは理解する。
 また劫アランサ王女が拘束されたのはなんらかの大きな策謀の一環で、彼が必ずしも賛同していないと知る。
 紋章旗団か。あそこは単純な奴が多いからな……。

 最後に一つ、耳の痛いことを言われた。

「王都に居る間、一度くらいは父母の元に帰れ。これは命令だ。」
「は、  。」

 

 

 腹が減った。
 チュダルム家を早々に辞して飛び出したウェダ・オダは、再び元の問題に直面する。どこに行くべきか。
 神兵とて腹が減る。行くのであればちゃんと食事の出る所にしよう。

「あーさっき思わず口から出たが、外庭のヒッポドス家にまずは行こう。」

 カプタニア城外庭は高級官僚が住む地域だ。
 ヒッポドス家は元は東金雷蜒王国神聖宮殿の廷臣で、財務に明るい。財務大臣級の役職を務めた事があるし、大審判戦争でも急遽取り立てられて税務を担当した。

 ディズバンド家とヒッポドス家はそれほど親しくはないが、一応血縁は有る。
 またヒッポドス家の令嬢弓レアルの婚約者の妹が、昨年女官として輔衛視チュダルム彩ルダムに従い赤甲梢に着任した。その際親戚であるウェダ・オダは宜しくと頼まれる。
 彼女、カロアル斧ロアランはその後劫アランサ王女付きとなり、夏中ずっと一緒に居てなにかと面倒を見てやった。

 うん、飯くらい食いに行ってもよいだろう。

 

 外庭も城の一部であるから防火の為に泥土塗りで、色合いだけは内庭と変わらない。石造りの豪邸を期待して訪れた者は皆嘆息すると聞く。
 だが内部の調度がまるで違う。それに割と広い庭が有る。敷地面積に余裕があるから、家屋の配置を大胆に変更出来る。
 外庭も内庭も総面積に違いは無い。貧乏な黒甲枝家より、高級官僚を輩出する家の方が少ないわけだ。

 ヒッポドス家の家令に案内を乞うて、しばらく待つと弓レアル嬢の家庭教師が現れた。
 女性で年齢はウェダ・オダと同じくらい。痩せて地味な外見だが声に張りが有り才気がよく表れる。

「これはディズバンド様、よくぞお出でくださいました。今御着到でございますか。」
「うん、軍制局には届けは出して来た。荷物を置く場所を借りたい。」
「甲冑でございますか。」

 家庭教師は目を細めて懐かしそうに鎧櫃を見る。彼女の実家は黒甲枝家の従僕と聞くから、幼い時分に見る機会もあったのだろう。

「えーと、ミア殿であったかな?」
「ミア・ハギットでございます。お嬢様がディズバンド様に御礼を申したく、またカロアル様もお出でになっていらっしゃいます。中庭へお進み下さいませ。」
「おお、斧ロアラン殿も一緒か。」

 鎧櫃を置き埃避けの外套も脱いで、案内されるまま身一つで階段を上がる。
 開いた扉から涼しい風が吹き抜けた。花の香りと共に、ウェダ・オダの目に飛び込んで来たものは、

 鉄仮面の少女だ。

「おお。」
「これは、神兵の方でいらっしゃいますか。」

 立ち上がる少女は頭の兜が重くてふらふらしている。聖戴者に礼をしようと腰を屈めると、そのまま突っ伏しそうだ。
 ウェダ・オダも見かねて手を出し助け起こす。

「その鉄仮面はなんですか。」
「これはですね、ネコが鼻を引っ掻こうとするもので、仕方なく。」

「その方は、トゥマル商会のトゥマル・アルエルシイさまです。お嬢様の御友人です。」

 背後からハギット女史が紹介する。しかし何故にネコに恨まれ引っ掻かれるのか。
 再び席に着いて、話せば長いことながらと掻い摘まんで説明するアルエルシイ。
 聖戴者を目の前にして、しかも今評判の赤甲梢の赤翅のカブトムシがこんな近くにあって、大緊張。だが兜の重いのはどうにもならない。

 経緯を知ったウェダ・オダは、少し考えて言った。

「用心棒を雇ったらどうですか?」
「用心棒ですか。でも下男に棒を持たせて従わせても、ネコの襲撃にはまるで役に立たなくて、」
「ヒトだからですよ。イノコを連れて歩けばどうですかね。」
「! イノコ、イヌですか!!」

 鉄仮面の下でくぐもった声を高くするアルエルシイ。なるほど、ネコの天敵を用いる手があった。

「いま、男の方の声がしたのですが、…まあディズバンド様!」

 声に誘われてカロアル斧ロアランが姿を見せる。女官姿でない服装を見るのは、ウェダ・オダは初めてだ。

「まあディズバンド様、よかった。実は劫アランサさまが、」
「うん聞いている。だが、そなたはどこでその話を聞かれた。」
「ここです。弓レアルさまはネコの噂をよく御存知で、詳しいお話が聞けるのです。」

 庭を眺めると、花々と緑の葉の間に無数の白い毛並みが置物のように転がっている。のんべんだらりと寝転ぶ無尾猫だ。
 中心にある茶卓に座るのが、ヒッポドス弓レアル。ウェダ・オダの又従妹にあたる。

 弓レアルは立ち上がり、こちらに近付いて丁寧に挨拶をする。聖戴者はどこにあっても最大級の礼を捧げられるべきだ。
 彼女につられて、女達は皆腰を屈めて礼をする。無骨な赤甲梢では滅多に遭遇しない事態に、ウェダ・オダ流石に冷や汗を流す。
 姿勢を戻し、弓レアルは言う。

「ディズバンド様。実は貴方に是非ともお伝えしたい事がございます。メグリアル王女 劫アランサ様の消息です。」
「おお、それだ。これほどネコを召し使うのであれば居場所もすぐに知れるだろう。で、今どこに。」

「その前に、お一方紹介したく存じます。ゲワォ様。」

 呼ばれて、植え込みの陰から男が姿を見せる。低く見えるが背を大きく屈めているからで、筋肉の発達したカニのように横に広い男だ。
 ウェダ・オダはぴんと来る。この男と似た気配を持つ者に、昨夏ずいぶんと沢山遭遇した。密偵だ。

「ゲワォ様はハジパイ王殿下にお仕えする御犬番です。斧ロアランさまも以前なされていましたね。」
「ハジパイ王の…。」

 これは困った。
 実のところ、カロアル斧ロアランがハジパイ王の廻し者であることは、とっくの昔に知れていたのだ。
 弥生ちゃんが一瞬で看破し、劫アランサ王女に伝えている。調べてみると案の定で、それとなく重大な情報からは遠ざけていた。
 密偵というのは探られる方にとっても便利なもので、伝えたい情報をそれとなく教えると、派遣元で面白いように反応が有る。
 斧ロアランには赤甲梢の電撃戦の意図を隠すのに随分と役立ってもらった。

 だが、まだ続きがあったのか。
 ゲワォが改めて自己紹介をして、赤甲梢に斬り込んで来る。

「ディズバンド様、実は貴方様がこちらにお出でになるのを、私は待っておりました。いや、弓レアル様にお頼みしてお出でいただくつもりでした。」
「ほお。」
「ハジパイ王殿下は赤甲梢の敵ではありません。またメグリアル王女 劫アランサ様を拘束なされたのも、殿下とは直接に関係しません。」
「そうは言われてもだな。」
「現在進行中の謀略はソグヴィタル王を標的とするものであり、しかも穏健です。人死にの出ないように十分注意を払っています。」

「待て! 謀略と言ったか。」

 どこの世界に謀略をぺらぺらと喋る密偵が居るものか。
 この男の目的はなんだ。
 いや、この男はハジパイ王の何なのだ。ただの密偵であればこれほど饒舌に喋るまい。真実を隠すのが密偵の仕事、才能が違うのだ。
 強いて言うなれば、彼は謀略を計画する方の人間だ。末端で手足に使われる人材ではない。

 彼の経歴について、ハギット女史が説明する。

「ゲワォ様は元は王国の官僚の家に生まれ、賢人ギョラン・ギョンギョ様の下で学ばれた御方です。ギョンギョ学堂で私とも知り合いました。
 人物は高潔にして律義、正義を愛するもののいささか短気にして、表の舞台での栄達を望めなくなりました。」
「つまりはそれなりの人物であり、ハジパイ王に謀略の実行を任されるほどの男ということか。」

「その謀略でございます。」

 

 深い話となるので、アルエルシイが座って居た円卓に着いて話を聞く。腹が減ったのもどこかに吹っ飛んだ。
 ウェダ・オダ、弓レアル、ゲワォ、ハギット女史に斧ロアラン。関係無いアルエルシイまでもわくわくしている。

「……つまり紋章旗団をそそのかし、劫アランサ王女を救出させてソグヴィタル王と合流させる。謀叛を黒甲枝に見せつけることでソグヴィタル王の復権を認める危うさを宣伝する、という策か。」
「黒甲枝の支持の厚いままでは、ソグヴィタル王の仕置きはなりません。しかしながら罪を問うには元老院の状況が悪過ぎます。」
「先政主義派の主張の前提条件が、天地逆にひっくり返ってしまったからな。ソグヴィタル王の先見の明の正しさのみが光り輝くわけだ。」

「この策であればソグヴィタル王になんの落ち度が無くとも、黒甲枝の支持を引き剥がせます。誰も傷付かずに状況を改善出来ます。」
「なるほど。だがハジパイ王殿下が反対なのは、何故だ?」

 ゲワォはここで口篭る。赤甲梢前総裁 焔アウンサ王女暗殺の真相をウェダ・オダに明かすべきだろうか。
 伏せると決めた。

「第三者の介入を恐れておいでです。なるほどこの謀略が上手く進展すれば、王殿下のお立場は良くなります。
 しかしながら、たとえば紋章旗団がソグヴィタル王の御元に参って謀叛を呼び掛け、王が拒絶なされたとします。」
「とうぜん拒絶するだろう。」
「ですが、ここで第三者に王が謀殺されたとすれば。」

 ウェダ・オダも奥歯を噛み締めて、ゲワォの言葉を反芻する。
 ハジパイ王の懸念も尤もだ。好事魔多し、どんなに都合の良いように謀略を進めたとしても、逆用される心配があるわけだ。
 この台本でソグヴィタル王が暗殺されれば、黒甲枝の支持はそのままでハジパイ王先政主義派の立場はより悪くなる。
 ソグヴィタル王の衣鉢を受継ぐ者に黒甲枝の支持は移り、王国の今後を決定づける大きな力を持つだろう。
 その者はソグヴィタル王ほどの柔軟性を持たず、あくまでも古い大義を体現し硬直化した政策に邁進する。

 青晶蜥神救世主が作る新たな世紀において、褐甲角王国は新秩序構築を妨げる大いなる敵となるだろう。

 現実主義、融和的な外交政策を進めて来た先政主義派にとって、最悪の未来だ。
 かってギィール神族を民衆の敵とした黒甲枝が、攻守所を換え石で追われる立場になってしまう。

「……そのような策を考え実行できる者は、只人ではあるまい。救世主に匹敵するほどの器量を持つ化物だな。」
「ハジパイ王殿下はよく御存知の御方です。」
「ゲワォ、お前もだな。王とお前しか知らない人物なのだろう。」

 しばし座の空気が淀む。
 深呼吸をするように、弓レアルが言った。

「百舌城です。」
「ん?」
「メグリアル劫アランサ王女が軟禁されているのは、ユイット近辺の百舌城です。城の高塔の頂上のお部屋にいらっしゃいます。」

 さすがにネコの長者である。極秘情報をなんなく暴いてみせる。
 ユイットはカプタニアより20里(キロ)ほど東に離れた宿場で、しばしば軍事・政治的理由で閉鎖される王都への待合室的役割を持つ街だ。
 護送されてきたソグヴィタル王 範ヒィキタイタンも、今はこの地で待機する。

 百舌城は、街の北1里にあるソグヴィタル王家縁の砦だ。ヒィキタイタンも先戦主義派を率いて盛んに論戦していた時分は、ここで秘密の会合をよく持った。
 ヒィキタイタン追放後はハジパイ王家の管理に移る。
 元が王家の所有であれば、貴人を監禁する座敷牢も備わる。王女が軟禁されるのに全く以ってふさわしい場所だ。

 問題はこの城が十分な軍事能力を持つ点だ。兵糧や資金、武器兵器も貯蔵され、兵士が長期間籠ることも出来る。
 紋章旗団は組織的基盤を今は持たない為に、叛乱を起こすにも武器すら無い。神兵用の甲冑も貸与であるから手元に無いはず。
 百舌城を襲撃すれば王女の身柄を奪還出来ると同時に、叛乱の為の諸条件が一気に調う算段だ。

「あからさまな陰謀だなあ。」
「こんなものに引っ掛かる方もどうかと思いますが、引っ掛かる時は引っ掛かるのです。」
「だがどうやって止める? こんなものに引っ掛かる輩は説得出来ないぞ。」

「劫アランサ王女様にお止めいただくしか無いでしょう。」

 弓レアルの言葉に、ハギット女史も首肯く。
 これが、ゲワォがウェダ・オダを待って居た理由だ。ハジパイ王からの廻し者が王女を説得できるはずも無し。
 信頼する補佐役のウェダ・オダであれば、王女も聞き入れてくれるだろう。

 だが神兵は躊躇いを見せる。

「直接に総裁に会うのは、まずくないか? 紋章旗団と赤甲梢が共に同じ場所に居るのは、言訳のしようがないぞ。」
「たしかに。ハジパイ王殿下は納得しますが、それ以外のあちら側の方はこれ幸いと赤甲梢も謀叛の仲間に組み入れてしまうでしょう。」

 

「あの!」
 カロアル斧ロァランが立ち上がる。これまで発言も無かったが、王国の危機であるとよく理解した。

「劫アランサさまへの使者は、私が務めます。ディズバンド様のお文を届ければ分かって頂けるでしょう。」
「だが、文だけでは。」
「いえ私がハジパイ王殿下の密偵であると、王女様も御存知なのでしょう。ならば逆に、王殿下の意向を伝える説得力があります。」

 ゲワォも首肯いた。ウェダ・オダも、これが最善と考える。

「だが冒険となるぞ。なにせ城に忍び込むのだ、いきなり矢で射られるだろう。それでもやりたいか。」
「やります! やらせてください。」

 黒甲枝家の娘は、言い出したらテコでも動かない頑固者だ。
 ウェダ・オダはぱんと手を叩く。決まりだ。

「そうとなったら腹が減った。ミア殿、なにか食べるものは無いか。」

 

第十一章 ざっつえんたていめんと

 ミンドレア県で拘束されたメグリアル劫アランサ王女と輔衛視チュダルム彩ルダムは、……特に不自由はしていない。

 二人とも輿に乗せられカプタニア近くの宿場街ユイットに連れて来られた。
 ここはカプタニアへの待合室的な役目を持つ街で、東部全域の軍を指揮する司令部も有る。ヌケミンドルの最前線防衛網の後方支援を司る。
 行政や司法の役所が幾つもあり監獄も用意されるが、王女達は1里(キロ)北の通称”百舌城”に押し込まれた。

 快適である。
 そもそもがソグヴィタル王家の所有となる城砦で、王族や金翅幹元老員の宿舎としても使われる場所だ。
 調度は豪華、侍従侍女も揃っており、一流の腕を持つ料理人が三食豪華な食事を作ってくれる。
 アユ・サユル湖の近くであるから新鮮なお魚や水鳥の卵がふんだんに使われる。甘いお菓子も付いて来た。

 こう言ってはなんだが、メグリアル王家の実家に居るより3倍は豪華な食生活を送っている。
 質実剛健なチュダルムの娘も状況は同じ。

「けっこうなお味で。」
「ですが、私たちは虜なのですよ。彩ルダム。」
「申し訳ございません、総裁。」

 基本的に罪人は彩ルダムの方で取調べも彼女のみ。それも形だけだ。衛視局としても公金横領の件を下手に突いて政治問題化するのを避ける算段らしい。
 アランサには神兵2名をぶん殴った公務執行妨害があるが、なにをする素振りも見せない。
 単純に王女を捕まえていればよいらしい。

 城の最上階。高い石塔の上が王女の牢獄だ。
 鍵はあるが、カブトムシの神兵の力に抗するほどの強度は無い。そもそもがアランサは空を飛べるのだ、窓を開ければ幾らでも逃げられる。
 逃げた後の政治的状況を考えると動けないだけだ。

「取調べの衛視に聞きましたが、ソグヴィタル王の御一行もユイットに到着した模様です。紅曙蛸(テューク)神の女王を伴い、なんと金雷蜒(ギィール)神族の護衛付きですよ。」
「褐甲角(クワアット)神の聖蟲を戴き、青晶蜥(チューラウ)神の神威を授かる剣を帯びられる。ソグヴィタル王はすべての神に愛された御方なのですね。」
「実際問題として、このような御方を単に法に則って裁くなど、ありえないでしょう。」

 彩ルダムも衛視の資格を持ち実務にも携ったから、なおよく分かる。法で決着がつけられる問題は些細な話なのだ。
 本当に重要な事は政治でしか処理出来ない。
 だが往々にして単なる勢力争いに堕して、最重要の案件が片付けられてしまう。
 今回の裁きも、おそらくはつまらない形での決着がなされるだろう。王国の先行きが案じられて仕方ない。

 目の前でイカの山羊乳煮を口に運ぶ輔衛視に、王女は尋ねる。
 ちなみに劫アランサ王女はメグリアル王家の姫として精進潔斎を常とするから、献立の組み立てがなかなか難しい。材料を制限される中いかに喜ばせるかに、料理人の腕が掛かっている。
 新たに流行するイカの料理は、元々が神に捧げる品でしかも弥生ちゃんの大好物だと知れ渡ったから、神職を勤める者にも可だ。

「彩ルダム。」
「はい。」
「我らは公金横領の天下の大罪人です。武徳王陛下を騙して軍資金を巻き上げたことになります。」
「まあ、嘘とは一概に言えません。バレてしまったからには罰をいただかねばなりませんね。」

「その我らがソグヴィタル王のお傍に留め置かれるのです。おかしくはありませんか?」
「それはとても怪しいです。陰謀が仕組まれていると考えるべきでしょう。」
「どうしますか。」
「焔アウンサさまであれば、陰謀にわざわざ乗って火を大きくしてから、他人に責任を押し付けます。ここは様子見でしょう。」
「でも私は叔母上ではありません。」
「はい。取調べの最中に衛視にさまざまな探りを入れていますが、なかなか尻尾を出しません。もうしばらくお待ち下さい。」

「急いでください。」

 悪い予感がする。だがカプタニアにはアランサの力となってくれる者が居ない。助けはどこからも来ない。
 自力で動かねば、だが何をするべきだろう。

 こんな時に弥生ちゃんが居てくれたら即座に解決策を教えてくれるのに。
 いや、それではいけない。自分で動き、自分で責任を負うべきなのだ。メグリアル劫アランサ、もはや只の小娘の役は許されない。
 考えるのだ。

 

***********

 赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダは、衛視局の目を盗んで約束の場所を訪れた。
 賜軍衣は用いず、一般クワアット兵の軍衣。剣ではなく刀を帯び、頭には籐笠を被っている。伝令によくある格好だ。
 聖戴者であると見破られず警戒網を潜り抜けるのに随分と苦労させられる。弥生ちゃん再臨の噂で王都は厳戒体制にあり、交通も滞りがちだ。

「ディズバンド殿!」
「おお、ィエラースム殿。」

 ウェダ・オダは赤甲梢においては一般兵の指揮と訓練を担当した。赤甲梢のクワアット兵は個人の戦闘技術に優れ、少数での敵勢力内への浸透を得意とする。
 装甲神兵団である紋章旗団との連携訓練で、案外とウェダ・オダは付き合いがある。

 紋章旗団の神兵が15名、飼料倉庫に集まっていた。
 現在紋章旗団は解隊され、事務所も兵営も無い。集合する場所を探すにも苦労した。
 団長ィエラースム槙キドマタ中剣令は、此度の企てに突入して初めて理解者となれる人物と巡り合い、安堵の息を吐く。

「ディズバンド殿、実は我ら旧紋章旗団は、」
「皆まで言うな。赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ王女が中央衛視局に拘束され現在行方不明である。それを探索し救出する企てだな。
 謀叛となるぞ。」

「分かっている。だがそれでも立たねばならないと、我らは合議して決したのだ。」
「挙兵の出口はどうなっている。王女を助け出したとしても、政治的正統性を主張出来ねば犬死にだ。」
「ソグヴィタル王の元に参って現在の王国政治の疑義を晴らすよう求め、陛下のお戻りまでは御身を守護するつもりだ。陰謀が元老院中枢の、おそらくはハジパイ王より発するものであれば、対抗できる方は他に居ない。」

「それで王女の監禁場所は判明したのか?」

 知ってはいるが尋ね、ついでに団員の様子を確かめる。
 彼等は意気こそ盛んだが装備も支援する兵も無い。資金だとて無いだろう。長期間の作戦を遂行する能力に欠けている。
 そこをどう乗り越えるのか、アテはあるのかを知りたかった。

 彼等はほぼ平服で腰に下げる剣のみが武装だ。
 紋章旗団は組織こそ無いが、実家である黒甲枝家はカプタニアに有る。私物の武器や甲冑を用いるつもりだろう。
 だが黒甲枝家からの応援は期待出来ない。家族に類が及べば厳しい処分を下される。
 挙兵に及んだからには、勝たねば明日が無いのだ。

「ユイットの百舌城に囚われていると聞く。確かな情報だ。小者を使い探らせ、同士が2名先行して衛視の出入りを確かめた。また周辺住民からも王女らしき輿を見たとの証言を得る。」
「うむ。」
「ダメ押しとして、ネコも使ってみた。1匹捕まえて城に放り込んだ。間違い無い。」

 このくらいの能力はさすがに有る。まがりなりにも赤甲梢に属し、焔アウンサ王女の薫陶を受けたのだ。無能であれば亡き総裁が泣く。
 だが王女の部下であれば、これは気づいていなければならない。決意に水を差すが、敢えて問う。

「ユイットには現在ソグヴィタル王も滞在されており、警戒も厳重だ。ここに総裁が監禁されるのは陰謀とは思わないか?」
「陰謀であることは、我ら承知の上だ。だが逆に好機とも受け止める。」
「ふむ。」
「今必要なのは行動だ。ソグヴィタル王の処刑を法に基づいて粛々と執行させるのは、国家千年の計を損なう暴挙でしかない。カプタニアを二つに割ってでもソグヴィタル王を救い出し、すべての黒甲枝クワアット兵に今一度何を為すべきか改めて考え直させ、最終的には武徳王陛下の聖断を仰ぐ。これしかないと見定めた。」

「そうか。」

 論陣を張って黒甲枝や元老院を二分する。これ自体はヒィキタイタンも望んでおり、最初からの計画だ。
 紋章旗団が武力による裏付けを与え、黒甲枝の改めての支持を表明する。大きく揺らげば、裁判の行方は分からない。
 弥生ちゃんの再臨が有れば、正反対の結果にもなるだろう。

 思惑は分かるが、さすがに弱い。さらに積極的な力を与えるには、

「いいだろう。皆が心を決めているのであれば赤甲梢も紋章旗団の挙兵に応じて行動し、カプタニア中央政界の見直しを訴えよう。」
「おお!」

 ウェダ・オダが連絡を取って以来、紋章旗団はどうにかして挙兵に彼を巻き込もうと様々に画策した。
 これほど明確な解答を聞けるとは思わず、皆喜びに顔を弛ませる。涙がにじんでいる者さえ有る。それほどに心細かったのだ。

「だが条件は付けるぞ。まず赤甲梢はあくまでも総裁メグリアル劫アランサ様の御下知に従う。総裁の命令が無ければ、決して動かぬ。」
「…尤もだ。」
「故に、諸君らはまず総裁の説得に当らねばならない。これには自分は関与しない。」
「なるほど。紋章旗団自身の意志を王女に認めさせねば赤甲梢は加勢できない、のだな。」

 当然の理屈で誰も反論しない。
 また王女を説得できねば、そもそもの挙兵が成り立たないのだ。
 王女への処分自体が王国政治の異常を表わす。だが救出を拒まれれば、行動は宙に浮いてしまう。

「さらに一つ。ソグヴィタル王殿下への挙兵呼び掛けは、総裁の説得後に行うべきだ。総裁の同心が無ければ挙兵は王殿下のお立場を悪くするだけだ。」
「もちろん理解する。手順を間違えてはならない。だが事前に打診しておくのはダメか?」
「その役は、私が受け持とう。」

 再び神兵達は感嘆の声を上げた。ディズバンド殿の我らへの協力の意志は固い。

「諸君が動くよりは、私の方がソグヴィタル王に近付くのは容易かろう。他に赤甲梢も居らず単独での行動だからな。」
「しかしソグヴィタル王はあくまでも罪人として扱われる。一般の神兵では面会出来ないぞ。」
「秘策があるのだ。でなければ挙兵に加わったりはしない。」

 さすが、とウェダ・オダを称える声が上がる。赤甲梢の諜報部隊を預かるだけのことは有る。
 まさか口から出任せとは誰も思わない。
 だが可能なのだ。弓レアルの屋敷で会ったハジパイ王の密偵に頼み、ソグヴィタル王との面会状を発行してもらう。
 紋章旗団には言えない点において、まさに秘策だ。

「最後の条件は、これも当たり前の事だ。総裁の説得に失敗したら素直に断念し、総裁の御指示に従え。他に諸君らが生きる道は無い。」
「……赤甲梢総裁の説得も出来ないようでは、なにを成し遂げるも叶わぬ、か。」
「むしろ私はこれを伝える為に来た。第三者的には止めた方が良いと思うが、焔アウンサさまの兵にそのような利口者は要らぬ。
 止めて止らぬものであれば、行着く所まで行くが良い。」

「ディズバンド殿。」
 ィエラースム槙キドマタはウェダ・オダの手を取った。やはり赤甲梢の者は違う。我らの心を分かってくれる。

「貴君の配慮に感謝する。もし失敗した場合でも、赤甲梢に類を及ぼす事は無い。それは信じてもらいたい。」
「健闘を祈る。だが敵を間違えるなよ。王国の民、一般の兵は神兵の守るべきもの、軽んじては大義が損なわれる。」
「うむ。我ら紋章旗団、額の聖蟲に賭けて後ろ指を指されるような真似はせぬ。」

 神兵は団長の誓いの言葉と共に一斉に聖蟲に右手をかざした。褐甲角神の使徒にとって最も重い約束を交わす印だ。
 ウェダ・オダも敬礼を返し、飼料倉庫を出る。

 さてここからが大問題。劫アランサ王女は、この石頭どもを如何にして説得するか。
 彼にも方法が分からない。

「……まあ、ガモウヤヨイチャン様が総裁に与えられた数々の難題に比べれば、大したことは無いか。」

 

************

 カロアル斧ロァランとゲワォは東街に買い物に来ている。作戦に必要な道具を入手する為だ。
 ロァランは王宮の女官姿、ゲワォはその従者という風体。どちらも本職であるから、警備の巡邏に見咎められる事も無い。

「魔法屋、ですか?」
「カロアル様は御存知無いでしょうが、カプタニアにもそういういかがわしい店が有るのです。10年前から潰れていなければ、ですが。」

 自分でいかがわしいと言うだけあって、どんどんと怪しげな通りに進んで行く。無論黒甲枝の子女の訪れるべき場所ではない。
 が、ロァランはちっとも怖いとは思わない。
 知らない間に度胸が座って多少の事では驚かない自分を発見する。暗殺者や密偵、死体などもデュータム点ウラタンギジトで多数遭遇した。

 その余裕を感じ取るのだろうか、通りの人はこんな場所にありえない女官を見て左右に道を開ける。

「お、ゲワォか?」
と声を上げる男も居る。彼はこの界隈では結構な顔であったらしい。

「ここです。」

 指差すのは、ろくでもない安物しか揃えていない土器屋の隣だ。なんの神様か分からない祠の奥に、階段が有る。
 さすがにいやだなあとは思ったが、仕方ない。えいと思い切って自分が先頭で飛び込んだ。
 蜘蛛の巣だらけの半地下の通路を抜けると、洞穴のような店に出る。人がすれ違うのも困難な狭い部屋だ。

「あれゲワォさんだ懐かしや。」
「婆さん元気だったか。」
「あんれーこんなとこうろついてて大丈夫かね。こちらのお嬢さんも。」

 店番はボロを被った老婆だ。何種類ものお香の臭いが染みついて人間の気配がしない。婆の燻製というところ。
 10年ぶりとなるのだろう、ゲワォの顔に震える指を伸ばすので近付いて触らせてやる。ロァランは彼と前後の位置を入れ換えるのに身体をよじって苦心した。

「あの時は悪いことしたねえ。あれからどうしてなすった。」
「方台各地の聖地に行って来たよ。カプタニア山も聖山もコウモリの塒やネズミ森、金雷蜒王国にまで忍び込んださ。」
「おおー、わしの故郷にもいきなすったかい。」

 放っておけば何時まででも話をしそうなので、ロァランは小さく咳をした。ゲワォという男、人と話しをするのがとても好きで、注意しないと本題に入ってくれない。

「そうだった。婆さん、ヌタカエルは有るかい。」
「あるよお、なんに使うんだい。へえへへ、やっぱり秘密だわな。」

「ヌタカエルってなんですか?」
 婆さんが奥に引っ込んでカエルを探しに行く間、ロァランは尋ねる。

「東金雷蜒王国の大河の流域に住んでいる特別なカエルです。凶暴な奴でして、数十匹が集まって大山羊やらイヌコマを狩るのです。人間もひとたまりもありません。」
「まあ。」
「こいつらの狩りが特別でして、一匹が獲物の前に出ていって、踏み潰されるのです。すると身体中からねばねばとくっつく粘液を出して足に絡みつき、身動き取れなくするのです。
 そこに仲間のカエルが跳びついて歯で齧り付く。」

 想像するだに気持ちの悪い光景だ。しかし、そんなカエルを何に使うのだ。

「ゲワォさんあったよカエル。ちょっとお腹空いてるけれど、魚でも喰わせてやれば元気になるよ。」
「痩せてるとあまりくっつかないかい?」
「そんなことないよー。野生の生き物はいつも腹ぺこだしねえ。」

 20センチ角の粗末の木箱の中に、醜悪なカエルが横柄な面を曝している。ロァランが顔を近付けると、ぺろと舌を伸ばして来た。
 ゲワォはその他細々とした注文をする。老婆は笑った。「ヒヒヒ、どろぼうだね」

 最後にカプタニア周辺の状況を聞いてみる。魔法屋で聞く話だ、不思議な事ばかり。

「…つまり、目に見えない人間が街中をうろついて、色んな所を調べていると?」
「こわいよお。逆らうといきなり喉をすっぱり斬られるんだ。見えない人がやってきたら、通り過ぎるまでじっとしているんだね。」
「人喰いは?」
「なにせこのところ人が沢山入ってるからねえ。…そうそう、アノ御方もお出でになっているみたいだよ。」
「おお! まあ、ソグヴィタル王の裁判には顔を見せるだろうな、やっぱり。」
「ゲワォさんは無茶をするから心配だよ。逆らっちゃいけないよ、アノ方には。」

 

 魔法屋を後にした二人は、そのままカプタニアを出てユイットに向かう。
 関所を出る名目は、「ハジパイ王の飼う大狗サクラバンダの生餌を探しに行く」というものだった。鑑札も正しく、役人も疑いはしない。
 疑われたところで、尋問されてもまったく困らない。
 そもそもがゲワォは本当にハジパイ王の狗の番だし、ロァランもそうだった。王宮内部や王殿下の御様子までもしっかりと記憶して、答えに淀むところが無い。
 調べる者よりよほど宮廷人らしい。

「重いでしょう…。」
「いえいえ。」

 大きな背中をカエルのように屈めて、ヌタカエルから縄から鉄の滑車から鳥兵(凧)までも、すべて一人で担いでいる。
 自分の着替えしか持って行かないロァランは悪い気がした。

 ユイットの百舌城は広大な林の中に聳え立つ。森というには密度がまばらで見通しが良く、樹々の間に見える高塔は幻想的な風景だ。

 この城は神聖金雷蜒王国時代に建てられた石造建築で、元は大きな館であった。カプタニアの旧城と対になる形で街道を守る。
 と言っても砦ではなく軍司令部として使われ、居住性に主眼が置かれている。
 千年前、褐甲角神救世主初代カンヴィタル・イムレイル降臨後に、急造で高い石塔を築き物見櫓とした。
 現在はゲイル避けの土壁で囲って軍事拠点としても使えるようになっているが、基本的には元の通りに居住施設だ。

 ロァランとゲワォは城の周辺をぐるぐると歩き回り、様子を確かめる。
 劫アランサ王女は塔の天辺に軟禁されるというから、よじ登る方向を探した。
 無論、不審人物が周囲を動き回れば、警備が飛んで来る。

「御苦労です。」
 ロァランの平静な声に、兵も拍子抜けする。ハジパイ王の使いと聞けば丁寧な応対をするしかない。

 百舌城の警備は兵50、用人も男女50名。これが通常の体制だ。管理の神兵は2名詰めている。
 加えて中央衛視局の神兵が3名に役人が10、王女護衛の兵100を伴って、それなりに固い護りとなる。
 二人を取調べたのは衛視局の神兵。ハジパイ王の指令を彼らは待ち望んでいた。

 配役では、ロァランはただの女官であり目眩し、ゲワォが真の密使だ。ロァランは城に劫アランサ王女が囚われるなど知らない設定になっている。

「うむ。」
 ゲワォから指令書を受け取った衛視神兵は首肯いた。

 謀叛を起すのは紋章旗団の神兵30余名。クワアット兵は無し。百舌城をまず攻略して後にソグヴィタル王に決起を呼び掛ける計画となる。
 これに対するに、神兵同士が争うこと無く速やかに明け渡し、城を謀叛の拠点とさせる。
 討伐隊はソグヴィタル王護衛の部隊を改めて送るので、守備隊は速やかに合流せよ。

 城砦攻略に長けた赤甲梢仕込みの神兵団を相手にせずに済むのは、有り難い。

「お連れした女官は何も存じません。王女が城に居ると悟られぬよう、平常通りで願います。」
「分かっている。して、紋章旗団の襲撃は何時になる。」
「今晩か、明日未明かと。警備は通常で特別な警戒体制などは取らないでください。」
「心得ておる。」

 

 二人は宿舎を与えられ、夕食を美味しく頂いた。
 ロァランは木箱に入れたカエルに虫餌をやらねばならないと、夕暮れの林に外出する。誰も咎めはしない。
 振り返ると城の各所で篝火が焚かれる。紅の空に聳え立つ大きな影に小さな光が瞬き宝石のよう。
 塔の高さに目が眩む。50杖(35メートル)はある石造りの塔に、これから彼女は登るのだ。

 取決めた場所に既にゲワォが待つ。カエル以外の装備を木の根元に埋めて隠していた。

「しかし鳥兵(凧)で綱を上まで届けるなど、考えもしませんでした。」
「結構ありふれた手ですよ。ヌタカエルを使うのも、その筋では当たり前です。」
「あなたはこんなことを前にもやったのですか?」
「まあ、色々ありましたから。」

 ちゃきちゃきと準備を進めるゲワォはどう見ても熟練した手付きで、安心は出来るが逆にすごく間違った事をしているのかもと不安になる。
 ねとつくカエルも紐の篭に閉じ込めキュッと縛り、逃げられないようにする。凧の下によく油を差した滑車と共に吊り下げる。

「このカエルは、死ぬのですか?」
「死にます。」
「可哀想ですね。」
「こいつらが狩りをしている所を見たら、そんな台詞は絶対出て来ませんよ。」

 カエルがぶら下がる凧を両手で抱えてロァランは立つ。ゲワォが長く糸を伸ばして風向きを確かめる。

「夕暮れ時に、湖から吹き上げる風が来るはずです。……来た!」

 林の梢がざわついて、風の訪れを告げる。ロァランも髪が突風に煽られて乱れるが、凧を放せないので整えられない。
 ゲワォの指示で風に方向を合わせて動き回り、樹に引っ掛からない位置で頭の上に高く凧を掲げる。
 カエルが丁度顔の位置にぶら下がり気持ち悪い。

「行きます!」

 ゲワォの声と共に、凧が手からすっと離れた。
 鉄の滑車とカエルの重りをぶら下げていながら、凧はぐんぐん上がっていく。
 だがあまり風が強過ぎると糸が切れてしまうのだ。慎重に、大胆にゲワォは凧を操る。

 凧が「鳥兵」と呼ばれるのは、戦場で敵味方の凧をぶつけ合って糸を切り落すからだ。
 毒煙筒が使える方台では、上空からの攻撃は時に勝敗の行方を決める。なかなか重要な戦力だ。
 巧みに操って、塔に近付ける。最上階の王女の部屋に縄が届くように、良い位置に滑車を据え付けねばロァランが昇れない。
 塔の近くでは風が巻き、乱流が発生する。凧が大きく揺れカエルがぶらんぶらんと振り回される姿に、ロァランは唾を呑み込んだ。

 高度は十分。2度ほど凧を振って試してみて、ヨシと心を決める。
 ゲワォは糸を大きく引き、決行した。

 ぶぎゅる。

 成功だ。

「糸を滑車に掛けて引っ張り、縄を上げて行きます。まず糸が切れない軽い紐で、次に縄を垂らしますからしばらくお待ち下さい。」

 ロァランがやることは何も無いが、その縄に自分が吊るされる。ゲワォの作業を一生懸命に見つめ、高い塔のカエルの貢献を大きく仰ぎ、首が痛くなる。

「人間の重さをぶら下げて、カエルの粘液は保つのでしょうか?」
「ロァラン様の倍の大きさの獣が渾身の力で暴れても、カエルの罠からは逃れられないのです。大丈夫です。」

 信じるしかない。
 滑車から戻って来た縄をロァランの腰に縛りつける。すっぽ抜けると困るから、左の腿にも絡める。股が痛い。
 やめますか、との問いに首を横に振った。
 ここまで来ては後戻り出来ない。失敗して縄が切れれば、ロァランも王女と同じ空中飛翔者となるまでだ。

 

****************

 メグリアル劫アランサ王女とチュダルム彩ルダムは、塔の頂上の部屋に居る。
 身分の違いから彩ルダムは下の牢獄を希望したのだが、チュダルム兵師統監の一人娘だ。粗略には扱えない。
 なにせ取調べに当る衛視も黒甲枝だ。
 遠くのメグリアル王よりも、近くのチュダルムのおやじさまの方が恐ろしい。

 取調べから戻った彩ルダムは部屋に詰める侍女を追い出し、王女の耳元に顔を寄せる。

「何が起きました?」
「まだです。が、兵や侍従の動きがおかしい。撤収を考えているようです。」
「撤収ですか。私をここから動かしますか。」
「そうとも限らないのです。この動きは、…勘ですから確かではないのですが、逃げ支度、ですか?」

 単なる勘とバカにしてはならない。額にカブトムシの聖蟲を戴く者は超常的な直感を働かせ、目には見えぬ真実を抉り出す。
 アランサは根拠を尋ねる。

「そうですね、強いて言えば金目のものを片付け始めたところでしょう。」
「持ち出しですか。」
「いえ、目につかない所に仕舞っているのです。しばし家を留守にする時、出来るだけ見付からないようにする、そんな感じです。」
「短期の逃げ支度ですね。」

 だが何に襲われるのか。
 ユイットはカプタニアに近く応援を呼ぶのも容易い。
 それどころか街にはソグヴィタル王の護衛の為の大軍勢が集結している。クワアット兵だけで3000は居るから、ゲイル騎兵の100でも来なければびくともしないだろう。

「彩ルダム、これが陰謀というものですか。」
「ひょっとすると総裁を何者かの仕業として謀殺するつもりかも知れません。実行部隊と守備部隊が交代して、焼き討ちなど。」
「でも私、空を飛びますよ。」
「…そうですね。」

 ふと耳をそばだてる。
 カブトムシの聖蟲を戴く者は感覚も鋭くなる。塔の外で妙な音がするのに気がついた。
 この音は特別に癇に触る。空中を飛ぶモノが風を切る音だ。
 カブトムシであるからこの手の音は特に敏感で、眠っていても聴こえて来る。代表的な音源は、飛ぶ矢。

 王女も同じ音を聞き取り、互いに首肯く。だが矢ではないだろう、ここは塔の上、鉄弓でもなければ到底届かない高さにある。
 窓は開けない。
 この部屋に軟禁されて以来一度も開けてない。空中飛翔者であるアランサにとって、空は自由な逃げ道だ。
 しかし政治の枠に囚われる身には逆に謀略の元となる。逃げる素振りを見せない為に、窓を開くのを禁忌とした。

「しかし、気になりますね。私が総裁に代って開けるのであれば、言訳は立ちますが。」
「もう少し様子をみましょう。」

 言葉が口を出ると同時に異変が起きる。
 ごん、となにかが屋根にぶつかり、ぶぎゅると液体を詰めた革袋が潰れる音がした。
 すわ攻撃か、と身構えるが、続きは起きない。
 飛行音は消えたので、ぶつかったモノが音源だ。ただし、きゅらきゅらと鉄輪の回る音が続く。

 彩ルダムは階下の衛視を呼んで確かめさせるべきかと思う。だが下の人間は誰一人として信用出来ない。
 王女謀殺などは企てまいが、いずれもハジパイ王の手の者だ。あちら側の行動なら頼んでも何もしないだろう。

 きゅらきゅらと音は続く。滑車でなにかを吊上げているのだ。
 アランサは思い当たり、言った。

「ひょっとすると、我々の側の人間、かも知れません。たとえばディズバンド中剣令。あの者は自由に動けます。」
「ああ! それは最悪の展開です。赤甲梢の神兵が王女を助けに来れば、赤甲梢全体が謀叛に問われます。」
「そうですね。でも赤甲梢が私の救出に動いているのは有り得る話です。」
「そうか……、陰謀はそれですか。
 総裁、もし赤甲梢とソグヴィタル王が結託して謀叛を起こすとなれば、いえそういう風に見せ掛ければ元老院において。」
「なるほど、天下の一大事です。」

 きゅらきゅらが、ごろごろという重い音に変わる。重量物の引き上げに移ったようだ。
 窓は依然として開けない。厚く閉ざされた木の戸は一筋の光すら徹さず、まったくに強固な造り。常人では外からも破れないだろう。
 ごろごろは長く続き、聞く方が疲れてようやくに停まる。荷物の引き上げは完了したようだ。

 何も起きない。
 何も起きない。

 業を煮やした彩ルダムが窓戸を開く。誰が何を吊るしたのか。
 開いた窓から夜の冷たい空気が強く吹き込んだ。夕暮れ時に吹き付けるアユ・サユル湖からの特徴的な風だ。
 袖で防いで顔を外に覗かせ、見付けたものは。

「…………。」
「どうしました彩ルダム? ……。」

「ああ! 王女さま、お懐かしゅうございます!!」

 女官姿の16才の少女が地上50杖の屋根から宙吊りになっている。昇ったは良いが、ひさしから窓までの距離で手が届かず、なんとも出来ぬ状態でぶら下がる。

「カロアル斧ロァラン! なにをしているのです!?」
「あの、お早く回収を願います。下の人の力がもう保ちません。」

 彩ルダムが手を伸ばし、少女を思いっきりひったくる。神兵の力で片手で吊っても問題ない。

 

「というわけです。」
「なんと恐ろしい陰謀でしょう。」

 ロァランから仔細を聞いたアランサと彩ルダムは、第一の陰謀の狡猾さに舌を巻くと同時に、それを上書きするハジパイ王ですら恐れる闇の構想に驚愕する。
 彩ルダムが当然の疑問を持つ。

「斧ロアラン、計画は少なくともソグヴィタル王を暗殺できねば成り立ちません。神兵にすら勝ちを譲らない剣の達人に、どのような手段を用いるのです。」
「存じませんが、その者は焔アウンサ王女殿下の暗殺にも関与していると思われます。」

「叔母上を殺せるほどの存在、ですか……。」

 具体的に例示されると、敵の力の程が見えて来る。なるほど、不可能ではないのだ。
 だが好機でもある。謎を深めるばかりで正体を掴めぬ焔アウンサ王女の仇が、向こうから現れてくれたのだ。
 彩ルダムの目の色が変わる。

「総裁、この陰謀は乗るべきです! 紋章旗団を率いてソグヴィタル王と合流し謀叛を演出して、仇敵の出現を待ち受けましょう。」
「落ち着きなさい、彩ルダム。貴女はまんまと術中に嵌められてます。」
「…、はっ! そう、でした。落ち着け、頭の血を鎮めろ。私。」

 両手で頬を何度も叩き、正気を取り戻す。その程度で尻尾を出す輩なら、捕まえるのに苦労はしない。

「それで、ウェダ・オダは私になにをせよと。」
「総裁の思うがままに善きように、との事で具体的には仰しゃられませんでした。」
「そうですか。」

 確かにこれほどの高度な政治的対応を、一介の剣令が総裁に指図するのは筋違いだ。ウェダ・オダは王女の傍に居て成長もよく心得る。
 自分ならなんとか出来るとの信頼を示してくれたのだ。

 彩ルダムが窓から吹き込む風に耳を向け静かに音を聞く。高い塔の上には周辺の状況を示す様々な音が集中して、褐甲角の神兵なら手に取るように知れる。

「総裁、兵が城の周辺に参っております。数が、…2個小隊程度と思われます。タコ樹脂甲冑の音ではありません。」
「紋章旗団の方々は神兵用甲冑を用いてはおられません。私物の武器のみで武装されています。」
「来ましたか。」

 斧ロアランはそのまま部屋に留めて衛視が上がって来るのを待つ。
 紋章旗団は城砦殴り込みの装甲神兵団だ、百が千でも只の兵の敵うところではない。抵抗を放棄し守備勢を城から撤退させて、王女の奪還を許すだろう。計画どおりに。
 衛視はただちに劫アランサ王女が紋章旗団と結託して謀叛を企んだと”確認”する……。

 アランサは迷う。ここまでがっちり組み上げられた罠から、逃げられるものか。

 彼らが自分の元に到着した瞬間に、すべてが決まる。
 それまでに対応を考えねば。

 

****************

 百舌城を守備する城代は閑職と言ってよい。金雷蜒軍がここまで達するはずも無く、大軍勢を采配しての戦闘は有り得ない。
 代りに要人警護の指揮能力が求められる。様々に工夫をこらして忍び込む刺客密偵を見破り、賓客になんの不安も感じさせずに処理する。地味な割には難しい役職だ。

 今最も政治的に難しい赤甲梢総裁を受入れた時から、このような事態は想定済みである。
 敵が大戦の英雄紋章旗団とは想像を越えたが、対処は最初から決まっている。
 クワアット兵を集合させ、3つ有る城の門を固めさせ、自身は重甲冑を纏って正門前に立つ。

 これでは赤甲梢仕込みの攻城術には意味を持たない。赤甲梢は単身で城壁を登り群がる敵に斬り込むのが設立当初からの戦術だ。
 迎撃などもってのほか、まず交渉だ。

「責任者は正面に参られよ。話がしたい。」

 紋章旗団は本来纏うべき赤い翼甲冑ではなく、私物の礼装甲冑や訓練用の革鎧を用いている。一見防御力は低そうだが、神兵用甲冑はもともと対ゲイル用の装備だ。
 人間を相手にするのに大仰な備えは要らない。
 くすんだ銀色の鎧に兜は被らない神兵が先頭に歩み出る。額には篝火に輝く赤翅の甲虫。

「旧紋章旗団団長ィエラースム槙キドマタ中剣令であります。城代大剣令殿にはこのまま城から撤退していただきたい。」

「これは謀叛であるぞ。武徳王陛下への叛逆である。よく思案なされたか。」
「陛下の御威光をかさに政治を私し、国家の命運に関わる重要な方々を害せんとする勢力がございます。メグリアル王女 焔アウンサ様御落命の件は御存知でありましょう。
 今また赤甲梢総裁メグリアル王女 劫アランサ様、さらにはソグヴィタル王 範ヒィキタイタン様の身に理不尽な危害が及ぶ可能性がございます。
 我ら紋章旗団は王国政治の正常化の為に暗殺の謀略を阻止し、武徳王陛下御帰還の日まで現状を保存するを目的といたします。」

「退けぬか。」
「既に不退転の決意で行動に移っております。」

 城に神兵は5名居るが、衛視神兵は戦闘の用意が無い。また彼らは元老院中枢より独自の命令を受けており、この叛逆を誘発するのを目的とする。
 わずか2名で東金雷蜒領を突破した勇者を押し止めるのは、無駄。いたずらに兵を死なすに過ぎない。
 やむを得ぬ。

「百舌城の守備隊は城を脱して、紋章旗団に明け渡す。兵および非戦闘員の安全を保証されよ。」
「聖蟲に賭けて皆様の安全を保証いたします。」

 槙キドマタは腰の長剣を抜いて正面にかざす。
 これを合図として、城門の内外で動き始める。守備隊のクワアット兵が左右に並ぶ間を城の用人が小走りに出て行く。
 また他の門も開いて兵が脱出する。

 その間、紋章旗団38名は整列し微動だにせず見守り続けた。ここまでは問題ない。
 最も大変なのは、劫アランサ王女の説得だ。

「赤心を明らかにする以外に方策は無しか…。」
 林を吹き抜ける夜風が家伝の甲冑を巻くのを感じ、槙キドマタは高塔を仰ぐ。

 メグリアル劫アランサは大戦前までは特に噂に上ることも無い、普通の王女であった。
 だが青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの薫陶を受けて空中飛翔者となり、次の救世主と目されるほどの大きな飛躍を遂げる。
 この冬は東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウをよく守護して、政治的にも重視される存在となった。
 それだけに身を慎むと聞く。
 説得は難しいだろう。だが退くわけにはいかない。

 王女およびソグヴィタル王の身に迫る陰謀から逃れるには、行動しかないのだ。
 動かねば死有るのみ。理解していただかねば。

 撤退を完了した城代神兵が近付く。

「残るは王女を守護する衛視神兵3名のみだ。如何にする。」
「剣にて抗うとなれば仕方ないが、彼らには謀叛を見届け証言者となる役目がありましょう。戦闘は無いと考えます。」
「そうか。」

 続けて思わず「健闘を祈る」と言いそうになった。

 心情的には黒甲枝は皆ソグヴィタル王の処分には賛同しかねる。劫アランサ王女のもだ。
 だが法による支配、厳然たる指揮命令系統の確立こそが褐甲角王国が成し遂げた千年の成果。個々の神族がばらばらの思惑で動く金雷蜒王国とは違う。
 理不尽と思われても上層部、元老院の決定には己を捨てて従う。
 そうでなければ勝てなかった。勝つ道が見出せなかった。

 城代神兵は何も語らず振り返らず、城を後にする。紋章旗団の今後を案じれば闇しか見えぬが、神の加護を祈って。

 

 百舌城は長年ソグヴィタル王家の管理下にあり、今はハジパイ王が預かる。
 内部の調度は王家にふさわしいもので、一般の黒甲枝の生活からはかけ離れた豪華さだ。乱暴にして傷付けては国家の財産の損失となる。
 また照明がそのままに残っていた。灯木や高価な蝋燭が用いられ、随所で明るく燃えている。始末を間違えば火事になりかねない。
 慎重ながらも急いで階段を上がる。

 塔に上がる螺旋階段の入り口に衛視神兵が2名立って扉を塞いで居た。賜軍衣に剣を帯びるのみで、戦支度ではない。
 まず問うた。

「これで謀叛の勢は全てか。」
「紋章旗団はこれで全部だ。」

 他に協力する者が居るとも居ないとも言わぬ。無用の言質を取られては迷惑する人があるかも知れない。

「これより先はメグリアル王女 劫アランサ様の御居室となる。女人の部屋に無礼であるぞ。」
「されど我ら押し通る。妨げるとあれば武力にて排除する。」
「ううむ。」

 是非も無し。

「中央衛視局の名において、貴公らの行為は王国への叛逆、武徳王陛下に対する謀叛と認定する。速やかに降りて縛に付き、軍法の裁きを受けよ。」
「御役目大儀。」

 双方形式が整った。衛視は分厚い木の扉から離れ、道を開く。
 全員が上る必要は無い。槙キドマタは隊を4つに分け、武具兵糧の確認、城外周の警戒、場内不審者の探索に当てる。
 自らは5名を率いて王女の待つ塔の頂上へ向かう。

 

****************

 3人目の衛視は一足先に王女を軟禁する最上階の部屋に向かう。

 石造りの塔内の長い螺旋階段を上ると、分厚い木の扉に閉ざされる。
 鍵を掛ければ一般人では逃れようも無いが、王女は額に聖蟲を戴く。破壊するのにさほどの時間を要しない。
 王女も輔衛視も、自らの立場を考えて逃げないだけだ。

 許しを得て中に入ると、しまった!

 中に若い女官が1人増えている。昼間受入れた女官と従者は、実は女官の方がホンモノの間者であったのか。
 重い窓の戸が開き、夜風が冷たく吹き込んでいる。無謀にもこの高い塔を登ったのだ。

 王女が直接尋ねる。

「紋章旗団が参りましたか。」
「…は。賊の頭目は旧紋章旗団団長ィエラースム槙キドマタ中剣令と名乗っております。」
「あの方ですか、電撃戦の帰還時に会いました。して、城の対応は。」
「抵抗を放棄し順次撤退します。王女殿下と輔衛視殿も私と共に離脱いたします。」

 彩ルダムが冷たい顔を向ける。女官から謀略のカラクリをそっくり伝えられているようだ。
「衛視殿、そなたもここに留まりなさい。総裁が謀反人を諭して見せます。」

 だが説得して投降させるなど不可能だ。言葉で思い直す余地が有るなら、そもそも挙兵などしない。
 アランサは悩んでいる。

 ウェダ・オダの文が正しければ、手遅れなのだ。陰謀に嵌められているのも承知の上。そもそも紋章旗団は一本気で、態度を決めれば目移りしない。
 どうやって留めればよいか。

 狭く高い塔に声と武具が当る金属音が満ち、紋章旗団が上がって来る。
 王女と輔衛視は互いに顔を見合わせうなずき、衛視神兵を見る。ここはまず彼が筋を通し形式を整えねば。

 アランサはその僅かの時も考える。

 部屋を出た衛視が誰何し問答を繰り広げる。階下で行ったのと同じ応答で、すぐに道を明け渡す。
 女人の部屋に男性を招くものではない。アランサは彩ルダム、斧ロァランを伴って階段に出た。

 思ったより少ない。6名のみだ。他は下で様々に準備をしているのだろう。

「ィエラースム槙キドマタ。」
「は。」

 先頭の神兵が階段を単独で上がる。
 神兵専用の甲冑でなくクワアット兵のものでもなく、黒甲枝家に伝わる礼装甲冑だ。かなり古く実用には適していない。
 くすんだ鋼を身に纏い赤翅のカブトムシを戴く男が、王女の3段下で跪く。

 対峙する二人、次の瞬間こそが命運を決める。何を言い、何を伝えるか。

「ィエラースム、立ちなさい。」
「は。王女殿下、夜分にご迷惑をおかけして申し訳ございません。」

 顔を上げた槙キドマタは、眼前に王女の白く滑らかな顔が有るのに仰天する。
 長い裾を翻し、階段を飛び降りて瞬時に距離を詰めたのだ。

 

『卒首落し』
 キヌガワ家伝一刀流奥義「灯籠斬り」のバリエーションである。文字どおり、横に薙いで敵の首を斬り刎ねる技だ。
 頭部全体を頚椎の接合面と平行に移動させ、延髄に剪断効果を生み出す。

 本来は手刀もしくは掌で叩くのだが、理屈が分かっていれば拳でも可能。
 アランサにぶん殴られた槙キドマタは一瞬目の前が真っ暗となり、気付けば階段を転がり落ちて下の同士に助け起こされている。

 カブトムシの聖蟲を戴く者を、無敵の剛力を備える者を、ただの拳で殴り倒すとは。
 脇で見ていた衛視もミンドレアで殴り倒された口だ。改めて目にしても、なにがどうなったか分からない。

 

「たわけもの!」
 アランサ口から勝手に言葉が出る。自分が何を言っているか、あまり理解していない。

「ソグヴィタル王のお楽しみを、汝らの勝手な思い込みで潰そうとするか。絶対不利の苦難を遊ばれる、その御心が分からぬか。
 神より与えられし使命に生きる者が陶酔と未来への希望と共にあると、王祖カンヴィタル・イムレイルの言葉を忘れたか!」

 正直、紋章旗団の者も王女がなにを言っているか分からない。ただ自分達が極めて大きな過ちをしたと気付かされる。

「王女さま、」
「他の者も下に居るか。皆殴り倒してくれる。世紀の決闘を妨げるばかものどもには、妾が拳で上等だ。」

 ほんとうに階段を降り始めたアランサを、彩ルダムと斧ロアランが必死で押し止める。
 彩ルダムは下を振り返って叫ぶように指示する。彼女は電撃戦に参戦し、紋章旗団の神兵も良く見知っている。

「ィエラースム殿、団員を集めて王女の前に整列させなさい。」
「…は、はっ。」
「謀叛どころではない状況です。ただひたすらに王女さまに謝りなさい、早く!」
「は、ははあ。」

 

 よく分からないが、紋章旗団は階段を転げ降りて行く。彩ルダムに促され衛視神兵も後に続く。
 なんだか知らない内に謀叛が吹き飛んだ。
 陰謀が頓挫したとの直感と共に、螺旋階段を走り降りる。

 

*******************

 カプタニア城元老院ハジパイ王の執務室。
 王と「破軍の卒」ヅズ息トロンゲノムが、書棚の裏から報告するゲワォの声を聞いている。

「つまり、計画は成功し謀叛を誘発することが出来た。ただし結果はこちらの予想を越えるものとなった、か。」

 ユイットの百舌城を占拠した紋章旗団38名は、説得しようとした赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ王女に鉄拳の制裁を食らい、全員が城の地下牢で謹慎している。
 当然ながら、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンには何の関り合いも無い。赤甲梢も加担しない。
 王都に敷かれた戒厳網も一晩で撤収となり、空騒ぎを残すばかりだ。

 無論神兵の中からヒィキタイタンを担ぎ上げ謀叛を企てる者が出た事に、人は眉をひそめる。
 王に同情的だった黒甲枝の態度が微妙に変わるのも仕方ない。今ならば元老院が強硬な処分を決行しても、さほどの反対は無いのかもしれない。
 だが代りに声望を集めたのは、メグリアル劫アランサ王女。
 彼女が紋章旗団を一喝した「ソグヴィタル王のお楽しみを妨げるな」の言葉に、皆得心して改めて振り返る。

 これはハジパイ王とソグヴィタル王の決闘なのだ。
 褐甲角王国の今後の在り方を巡って、死力を尽くしての神経戦が今も熾烈に行なわれている。
 余人の介入すべきものではない。成り行きに不正が無いか、見守り続けるだけでよい。

 

「嘉イョバイアン殿、これは御身の出方に掛かって来ますな。大芝居ですぞ。」

 既に老人の域にあるヅズはハジパイ王を名前で呼べる間柄だ。
 だが先政主義派ではない。「破軍の卒」は十家全てが民衆救済の戦を是とする。

 先政主義派も変わった。
 弥生ちゃんの降臨によって激変する方台秩序に柔軟に対応して、来るべき新世紀も王国を賢明に運営しようと考える。
 逆に、これまでの王国の大義を墨守し、新時代においても褐甲角神の理念を追求する勢力に分かれた。

 ハジパイ王は後者の立場を取る。南海の難民処分やヒィキタイタンの即日処刑の命令など、古く頑迷な姿勢を殊更に見せ、若い人の失望を誘う。
 だが彼らが自由に飛び立てるのは、王があくまでも古い王国を守護する固い決意を見せるからだ。
 軸がぶれないからこそ、変わることに恐怖を覚えずに済む。

 それは「破軍の卒」の在り様と同じものだ。長年疎遠であったヅズがハジパイ王の元に通う道理である。

「儂が出て、大剣でも振るうしか無いかな。」
「それは面白い。白髪頭でもどれほど戦えるか、試してみましょうかな。」

 ヅズは浮かれている。年甲斐もなく興奮していると見える。

「劫アランサ王女がやってくれましたな!」
「あの小娘に歴史を見抜く眼があろうとは思わなかった。まるで焔アウンサ王女だ。」
「だから言ったでしょう。メグリアル焔アウンサは死なない、また生き返ると。」

「まったくだ。姪の身体を借りて再び下界に舞い降りおった。少々野蛮になったがな。」

 

 ハジパイ王も大机の前から立って、ヅズの傍に行く。
 互いの額の黄金のカブトムシを見上げる。長く乗せているが、聖蟲の力の極限までを絞り出したことは無い。
 王も彼もついに戦場に立つ機会に恵まれなかった。

 だが、神兵が不倒であるのはよく知っている。

「それにしても、神兵を殴り倒すとはどのような技を用いるのでしょう。右から殴るというから、こうですかな?」

「それでは効果がまるで望めぬな。こう下からではないか?」
「顔ではないでしょう。それなら手で防げます。」
「死角を衝いて、こめかみの辺りか?」
「或いは体重を乗せて、右足を踏んばり身体を回す、」

「こうか? だが女人の体重では…」
「いやいや、階段の高さがですな…」

 

【明美の部屋 〜ゲストにジョグジョ薔薇さんをお迎えしました〜】

「 るーるるらららるらあ〜。皆様こんにちは、明美の部屋の時間です。
 今日はジョグジョ薔薇ことジョグジョ絢ロゥーアオン=ゲェタマさんをお迎えしたした。ジョグジョさん、よくお出で下さいました。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしく。」

「ジョグジョさんは、金翅幹元老員であり当然聖蟲を頭に乗せて、しかも人も羨む美貌の持ち主。女の子にモテモテ大人気です。
 御苦労も多いでしょう。」
「いや、苦労と言うが、私はこれまで一度も本編に登場した事が無いのです。なにがと言われても困るなあ。」

「それには理由があります。ジョグジョさんは『げばると処女 II』の主役として予定され、今日まで温存されて来ました。ほんとに主役なんですよね?」
「おまけで色々書かれてますが、華々しく討ち死にする予定です。」
「「ジョグジョ薔薇の乱」と呼ばれる、弥生ちゃんに対する大反乱ですね。凄いですよ、本当に主役なんです。」
「私も期待しておりました。」
「だのに何故?」
「それは私に聞かないでください。執筆の都合で無くなってしまったのだから。」

「今はスケジュール的には、ソグヴィタル王の裁判、弥生ちゃんの再臨の直前なわけですが、あなたは何をなさっていますか?」
「大活躍です。元老院にて大演説を行いソグヴィタル王の無罪を訴えております。こういってはなんですが、私以上に王を擁護する方はいません。」
「ソグヴィタル王を尊敬なさっているのですね。」
「ソグヴィタル範ヒィキタイタンという人は私の永遠の憧れであり、いずれ凌駕すべき目標です。」
「ですが、…ちっとも描かれませんね。」
「無念です。もし元老院がちらとでも描写されれば私の雄姿で皆様も虜になってしまいますよ。」

「惜しいですねえ〜。しかしこうやって間近で見ると、ふらふらぁとわたくし倒れかかってしまいそうな色気でございます。あの失礼ですが、本当に男性なのですよね?」
「男ですね。」
「なのに、何故そんなに右脚だけを露出されるのです。これがまた無駄毛一本も無い滑らかな、いまにも齧り付いてしまいたいようなすべすべお肌です。」
「まあ、自慢の脚ですから、それなりに手入れはしています。」

「脚がきれいですねえ、これだけ見せて女性の脚ですよと言っても、皆さん騙されてしまいますよ。」
「有難うございます。自分で言うのもなんですが、確かに天与のモノで方台に他に比べられる人は居ないでしょう。この世には。」
「他に同じくらい綺麗な人がいらっしゃいましたか。」
「姉です。」
「おねえさまですか。やはりお綺麗な方でしたね。ジョグジョさんのおねえさまはジョグジョ綾ファーナオ=ゲェタマとおっしゃいまして、金翅幹家の姫でありながら神聖宮殿の女官として勤めておいででした。」
「美しく、誰からも愛される人でした。」

「残念なことにお亡くなりになられたのです。えーと記録によれば、フェビ(蛇)に噛まれて亡くなった王宮最初の人であると。」
「神聖宮殿、また神聖神殿も元老院いや王宮のどの部所でも、他に噛まれて死んだ者は今日まで一人も居ません。」
「事故、ではないのですか?」
「私は信じません。」
「根拠がございますか?」
「姉は誰からも愛される資格を持つ人でした。当然神聖宮殿に上がれば、武徳王陛下の御目にも止まる。当時元老院においては、何時姉が陛下のお傍に呼ばれるかの噂で持ち切りでした。」
「側室、ということですか。武徳王の正室側室はすべて金翅幹元老員の家より迎える仕来りですね。ですが、反対する方がいらっしゃったのです。」

「はい。我らが東金雷蜒王国神聖王ゲェタマの裔である事を問題視して、陛下と添うのを拒む勢力がありました。」
「実際はどうだったのですか。陛下のお誘いを受けたのですか?」
「それは、分かりかねます。陛下の末の姫カンヴィタル宇ナルミン王女に特に良く懐かれていましたから、案外と無い話だったのかもしれません。ですが、」
「ですが、邪推した勢力によってフェビを投げ込まれ、落命と。そう推定されるのですね。」
「有り得ないのです。姉は聖蟲を戴いていませんでしたが、幼い王女もまた同じです。花園は良く手入れされ、毒虫などは一匹も居ない。そんな所に、あのような怪物が紛れ込む道理が無いのです。」

「そこは警察当局の判断によりますが、ジョグジョさんは納得されなかったのですね。」
「今となっては致し方の無い話ではあります。」
「ですが、その宇ナルミン王女さまとご婚約なされたと。」
「あの御方は心優しい人です。私が姉を失い落込む姿を見かねて、父王陛下にお頼みになられたのです。有り難いことですが、10歳にも満たぬ童のことですからどこまで本気だったのか。」
「でももう15歳になりますね。今では本当の愛情に変わったのではありませんかね?」
「どうでしょう。姫も今夏には聖蟲を戴く事となります。そこで改めて婚約に関しては話し合いが持たれるでしょう。」
「いや、これほど美しい殿方を手放すとも思えませんが、まあ、それはさておき。

 貴方、変態ですね。」
「いきなりですね。まあ、そうです。」
「亡き姉の衣装を身に着け、鏡に映して陶酔すると聞きました。常に御御足を外に曝すのも、見られることで欲情してらっしゃいますか?」
「そこまで間抜けではありませんが、似たような感触ではあります。」
「女の子に成りたい?」
「私は男であることに誇りを持っていますよ。ただ余裕が有るから女の要素も兼ね備えてみるかと、趣味ですね。」
「女装趣味です。しかも、男性の恋人もいらっしゃいます。」
「友人ですよ。」

「しかもギィール神族の、これまたかっこいい方ですねえ。あ、ここ写真が出ています、視聴者の皆様には御覧いただけませんが。」
「銀板写真は十二神方台系にも有るのです。ガモウヤヨイチャン様がお作りになりました。ヒィキタイタン裁判のこの時期には未だですがね。」
「で、その色男の写真です。渋い、カッコイイ、なんですかこの濃厚に臭う危うい色気は。」
「まあ、それが取り柄ですからね彼は。」
「どちらでお知り合いになりましたか。ギィール神族ですから、尋常の手段では知り合いませんよね。」
「そうでもないです。私はしばしば聖山に登り、ウラタンギジトの神族達と対話をして来ました。そもそもが私が人に知られるようになったのも、ウラタンギジトで行われた詩の交流会です。
 メグリアル王を貶めようとする神族の奸計を、若干13歳の私が詩文にて阻止してからです。」
「一気にスターダムにのし上りました。素晴らしい才気です。」

「彼と最初に会ったのは、そこではありません。姉の死後、私は一時期西金雷蜒王国に渡っていました。」
「敵国へ、ですか。もちろん王国の許可を得てですよね?」
「いえ、密航です。」
「げ! 理由はなんですか。」
「ギィール神族はゲジゲジの聖蟲を授かる為に、7つの試練を受けねばなりません。未だカブトムシの聖蟲を授かっていない私は、その前に神族の試練をこなす必要を覚えました。」
「別に褐甲角王国ではそんなものを課していないのですよね?」
「はい、完全に個人の趣味です。私が神聖王の血を引くことの確認、でもありますか。」
「でも判定者は敵の神族ですよね。生命の危険は感じなかったのですか?」
「四六時中です。気を抜くと一気に刺し殺され、毒矢で射られ、また食物もまったく信用なりません。」
「よく御無事でお戻りになりましたね。」
「面白かったからですよ。神族にとって、私という人間が殺すよりも生かす方が価値が有る、と思わせることで生き残りました。」

「でも、その試練というのはとても難しいものでしょう?」
「第七の試練はゲジゲジの聖蟲に選ばれる事ですから、そもそも私には受ける資格も理由も有りません。実質6つです。
 この内一番簡単だったのが、第六の試練ですね、」
「第六の試練とは、数名の聖蟲を持たない賢人が矢継ぎ早の質問を繰り返し、これに瞬時に答え続けるのを日の出から日没まで続けるという奴ですね。一度でも間違えると終了する。」
「間違えてもいいのですよ。この試練は観客に6名以上の神族を呼び集め、彼らが失望して会場をすべて離れれば終了です。正解とは関係無い。」
「間違ってよい、というのは?」
「質問の中には答えの無いもの、質問自体が誤っているもの、答える事を許されないもの、甚だしきは賢人自身が間違って覚えて居る場合もあります。迂闊に答えてはならない。」
「引っ掛け問題ですね。」
「ええ。軽はずみに答えてしまうと、即神族にそっぽを向かれて終了です。
 私の場合は、まあ珍しがられて西王国200余名の神族の内183名までもが出席しました。日没終了時には157名が残りました。」
「それは凄いことですか。」
「最後には賢人が音を上げて、周囲で見守る神族自身が問う羽目になりましたからね。まあこれで優秀な成績を納めたからとて、聖蟲をもらえるとも限らないのですが。」

「一番難しかった試練はなんですか。」
「第一の奴です。これは神族の場合、幼少期それも物心付かぬ時期に行うものですから、大人には難しい。」
「えーと、……ゲイルの股くぐり…。」
「はい。巨大なゲイルの肢の間を歩くことです。無事通れたら合格、立ち止まり逃げ出せばダメですが、これに限っては何度行っても良いのです。
 但し、成長し物事を理解する能力を得てしまうと、怖くて通れない。5歳が適当で、6歳以上になると相当に豪胆な子供でないと無理らしいです。」
「それを、ジョグジョさんは17?」
「はい18歳がギィール神族の最年少聖戴です。それまでに試練をこなします。」
「ダメでしょう、それは。」
「私の場合、ゲイルを操る神族がまったく信用ならないですから。何時踏み殺されるか、気が変わって喰い殺そうかと思う中を通り抜けねばなりません。」
「どうやったのですか、それは。」
「どうしようもありませんよ。単に豪胆さで進めば、可愛げが無いとやはり潰されます。万事休すといったところですね。」
「では、どうやって?」
「挑発しました。殺すなら、ゲイルの最後尾の肢にしろと。一つの賭けですよ、私がそこにまで行着けるか、辛抱ならずに潰してしまうか。」
「通る最中に、それは恐ろしい目に遭ったのでしょう?」
「逃げ出せば即潰す気ですから、それはもうさんざんな嫌がらせです。」
「しかし乗り越えた。最後の肢の間は、」
「そりゃ走ります。ゲイルの尻尾に刺し殺されますからね。その決断も難しかった。」
「御苦労さまです。

 えーと、そこでお友達ができたと。ホモですね同性愛ですね。」
「何故そんなに目を輝かせて尋ねるのですか、女性のくせにはしたないですよ。」
「いえ、今の世はこれが正しいのですスタンダードです。」
「まあなんですか、愛の形は人それぞれと。それ以上はお答えできません。」
「答えなくても良いですから、えーとその、…えーのんですか?」

「卑しい人だな、君は。」

 

「るーらら、るらら。ちょうど時間となりました。明美の部屋、本日はこのへんで。
 提供は世界に冠たるテクノロジ、ピルマル理科工業。ゲストはジョグジョ薔薇さん、お相手は統合監視ユニット”山中明美バージョン02”でした。」

 

【ちょっとおさらい】

 十二神方台系の有る惑星は2つの月を有し、「白の月」と呼ばれる28日周期で満ち欠けするものを基準とする暦がある。
 「陰月」と呼ばれ1年を12に区切る、非常に分かりやすいものだ。
 天空の月の姿を見れば日が知れるので、「白の月」は時間の代名詞でもある。

 だが1年は333日、12陰月は336日。3日余る。年毎にずれていく。
 人はあんまり気にしない。通常は37日周期9月の太陽暦を使うからだ。

 陰月は神様の暦、12の神が当番で星空を守る。
 ちょっとずつずれて受け持ちが替わっていくことで、世界の運命も決まるのだ。
 弥生ちゃんの再臨が陰月で示されたのも、それが理由。

 

**********

 カプタニア城は関所である。方台中央で唯一東西を繋ぐカプタニア街道の真上に有る大城砦だ。

 直径が100キロメートルにも達する巨大なアユ・サユル湖はカプタニア山脈、ベイスラ山脈およびサユールの高地に囲まれ、このカプタニア街道しか通る道が無い。
 ここを封鎖されると東西交通が完全に断たれる。
 北方に迂回してデュータム点近辺を通るか、サユールの山道を登ってイロ・エイベントの荒地を抜けスプリタ街道に入る。どちらも1月以上を要する長い道程だ。
 特に軍の移動に不自由する。これほどまでに時間が掛かっては、勝機もへったくれも無い。

 褐甲角王国はここを押える事で、初めて金雷蜒王国に対して優位を得る事が出来た。また莫大な通行料により兵員の増強武装の強化も行える。
 まさに王国の心臓部。それだけに金雷蜒軍の攻撃も激しく、街道入り口となるヌケミンドルでは激戦が幾度も繰り返された。
 やがて十分に力を蓄えた褐甲角軍は反撃に転じ、毒地(当時は滑平原と呼ぶ)を抜け神聖首都ギジジットを冒すまでになる。
 ここに到って金雷蜒王国はカプタニア奪還を放棄。平原に毒を撒いて不入の地として金雷蜒神の地上の化身が在るギジジットを封鎖した。

 毒地はゲイル騎兵なら難無く進める。褐甲角軍は逆襲を防ぐ為にヌケミンドルに要塞群を構築。併せてカプタニアの恒久支配を目論み、大城塞の建築を始めた。

 設計思想は単純。カプタニア山脈の森林は金雷蜒軍は通れない。褐甲角の神兵とクワアット兵は森林での戦闘に絶大な自信を持つ。
 山脈を壁として、街道を大城壁で区切る。最も狭い場所には既に金雷蜒王国により旧カプタニア城が建築されており、これを基点として拡張を考える。

 だが旧城はあまりにも美し過ぎた。破壊して建材を流用するのは方台全体の損失と考えられ、そのままに残す。
 わずかに離れた場所に土を突き固めての壁を作る。高さ30メートル長さ800メートル。カプタニア山に直接に接触して迂回路を求められない。
 壁はゲイル騎兵が乗り越えるのを前提に設計された。
 巨蟲ゲイルは13対の肢を持ち、垂直面でも平気で登る。どのような形状の壁であっても、兵による迎撃が無ければ阻止出来ない。
 そこで張出を幾つも設け、互いに交叉射撃をして死点を幾つも確保する。矢数で近付くのを妨げるのだ。
 だが万全とは言えない。ギィール神族は知恵に優れ、想像もしない作戦を用いて突破するだろう。

 だから、城壁の裏は郭になっている。「兵庭」と呼ばれ、近衛兵団の兵舎を設けた。
 つまり神兵の巣だ。ゲイルが飛び込めば、たちどころに滅される。

 郭であるから裏がある。ぐるりと周囲すべてが壁である。
 郭は三つ。黒甲枝の集合住宅が有る「内庭」、高級官僚の住宅がある「外庭」。
 「内庭」「外庭」は南に面し、アユ・サユル湖からの攻撃に備える。
 そして「王宮」。山肌を削って作られた壁の上に有る。下層階が中央官庁、中層階に元老院議会、上層階に武徳王の住まう神聖宮殿、そのまた上が神聖神殿。
 もちろん防御施設である。

 カプタニア街道は大城壁で2つに分かたれ、本道は北側城内、仮道は南側湖岸を進む。
 つまり本道は「兵庭」「内庭」「外庭」「王宮」の間を抜ける。いずれも高所から射撃可能で、進入した軍勢は左右からの矢を浴びて鏖殺される。
 ゆえに本道自体を「死の庭」と呼ぶ。

 本道は最大幅員で300杖(210メートル)を越え、広場としても使える。出陣時にはここに兵を並べ武徳王の閲兵を受ける。
 本道の目的は、軍勢の移動だ。民間の人や物資の移動が規制され不通になる時も有る。
 そこで通常は南側湖岸を抜ける仮道を使う。

 仮道は湖に面した「内庭」「外庭」の足元を通り、最短で西側に抜ける。物資の輸送には丁度良い。
 本来は10メートルほどの幅しかないが、桟橋を道に沿って構え拡張している。ここも最大幅100杖(70メートル)と常識外れに広い。
 仮道の桟橋は湖からの上陸を試みる軍勢があれば、火で焼いて落すことも出来る。
 また西側出口の湖岸にも城壁が築かれて上陸を阻む。
 西側港は軍事用となっており、民間の貨物船が利用する事は許されない。東街で陸揚げして陸路を運ぶのが通例だ。

 二つの道が分かれるのが「双子門」。カプタニア旧城を要として、左右同じ形のアーチが掛かり、高さ10メートルの巨大な木製の門が備わっている。
 もっとも平常時にはこの門だけでは狭いので、横に設けられた鉄柵の門も開かれる。
 実のところ、門など要らないのだ。城全体の構造が敵の進入を効果的に防ぐ。これは軍事ではなく治安対策として設けられる。

 

 旧カプタニア城は神聖金雷蜒王国時代の建築、可憐で華奢な白亜の芸術品だ。四季折々に美しい姿を見せ湖畔を彩る。
 あまりにも美しい為に褐甲角王国も要塞に組み込むのを避け、褐甲角神本来の任務の神殿として用いている。
 すなわち、結婚式。
 王族の婚礼はこの城で行われ、民衆は花嫁が王宮から静々と下る姿を見ることが出来る。
 神兵に護られ多数の女官侍女を従えて進む行列は、カプタニアの少女の憧れだ。

 旧カプタニア城での婚礼は、王族・金翅幹家の利用や神事が無い時であれば一般でも可能。応相談。

 

第十二章 蟲占の儀

 陰月三月三日(春中月二日)、弥生ちゃんの帰還が示された最初の日。
 王都カプタニアは静かだった。

 全市に厳戒体制が敷かれ、人の動きも差し止められる。旅人は宿から一歩出るのも許されない。
 だが誰も逆らおうとはしなかった。
 今日、弥生ちゃんが来ないことは皆知っていたからだ。

 弥生ちゃんは人が最も欲し喜ぶ場所に現れる。今こそ必要と期待される時に訪れる。
 そういう者だと心得ているのだ。
 今日は違う。だが今日があるからこそ再臨の時が満ちる。

 

 追い詰められたのは褐甲角王国の上層部だ。
 後が無い。ソグヴィタル王の裁判は弥生ちゃん再臨の前に決せねばならなかった。もう遅い。

 審判が下る瞬間に、弥生ちゃんはきっと現れるだろう。誰にも止められない。
 彼らに許されるのは、どのような形で迎え入れるかだ。褐甲角王国の威厳を示し、ソグヴィタル王の処遇の決定に主体的な意志を見せる。
 如何にして?

 誰が考えても答はひとつ。
 いみじくも赤甲梢総裁メグリアル王女 劫アランサが諭したとおりに、『ソグヴィタル王とハジパイ王の決闘』しか無い。
 王国がこれまでどおりの褐甲角(クワアット)神の大義に従って戦い続けるか、ソグヴィタル王が我が身で示す他神との協調で方台を運営して行くか、剣にて裁きをつけるのだ。

 

「私が戦いましょう。」

 カプタニア城中央衛視局で行われる対策会議に出席した追捕師レメコフ誉マキアリイ兵師監が、並み居る重役の前に立つ。

 ソグヴィタル王の処分は法的には既に決しており、追捕師も定まる。ハジパイ王による「入城すれば即処断」の命令もある。
 中央衛視局の裁量で済ませられるのだが、それは全ての責任を被せられる事でもあった。
 王の名誉を傷付ける下手な対応を行えば反発は自分達に向き、紋章旗団が謀叛を起したように、黒甲枝の決起も予想される。

 順当かつ黒甲枝が納得する処分となれば、神兵の代表者1名を出して王と決闘させ、勝敗を天に委ねる。
 俗に『蟲占い』と呼ばれる方法だ。
 カブトムシが樹の上で互いの角を突き合わせて戦う姿に天意を問う。神兵同士の決闘もそう呼ばれる。

 だが誰が戦うのか?
 当然筆頭に上げられるマキアリイが志願するも、暗い顔が帰って来た。

「…君は一度、ソグヴィタル王に敗れている。」
「はい。」

「南海の円湾で見たとおりに、王の剣技は尋常のものではない。近衛兵団長スタマカッ兆ガエンド兵師大監でも敵わぬだろう。」
「そのように見受けられました。」
「にも関わらず、戦うと言うのか。勝算も無しに。」

「勝算はございます。」

 マキアリイは背後に立つ二人の巫女を紹介する。いずれも青晶蜥(チューラウ)神の神威を帯びた剣を背負っている。
 その一人、カニ巫女クワンパを左に招く。
 彼女が預かるのは、ソグヴィタル王が帯びる『王者の剣』。抜けぬように金鎖とカニ神の封印が施されている。

「ソグヴィタル王に本来の武器を渡し、これを用いて戦いに臨んでいただきます。」
「バカな!」

 弥生ちゃんから神威を授かった剣が鋼鉄をも易々と断つ事は、方台の誰もが知る。コウモリ神の地上の化身ですら撃退するほどに強力だ。

「この剣は地上最強の力を持ち、王の剣技と合わさればまさに無敵と呼べるでしょう。」
「……当然だ。何者も抗し得ない。」
「されど、これは神兵の用いるべき武器ではございません。」

 マキアリイの言葉に、重役達は改めて目を上げる。神兵、聖なるカブトムシを戴く者が用いる武器ではない?

「神兵の剛力を用いた戦闘に対応していないのです。」
「たしかにこの剣は元は王の私物であり、対ゲイル戦闘に用いる大剣ではないな。」
「この剣を用いる限り、ソグヴィタル王は聖蟲の力を無駄に浪費してしまいます。褐甲角神の加護を受けられない。」
「ム!」

「一方、こちらの武器が断ち斬られるのを防ぐ手立てがございます。」

 マキアリイは右手にもう一人の巫女を招く。若いトカゲ巫女で、新生紅曙蛸王国で臣下の筆頭フィギマス・ィレオが帯びていた『紅曙蛸女王従者の刀』を預かる。
 この神刀は人を癒す能力の活用を認められており、封印されていない。

 促されるままにトカゲ巫女は背に負う刀を抜き、胸の前にかざす。神の光が会議室を青く染め上げる。
 初めて見る神刀の力に、中央衛視局の重役達は息を呑む。ついでマキアリイの行動に胆を潰した。

 彼は背後に控える神兵から用意した大剣を受け取ると、両手で構え正面に突き出す。トカゲ巫女は神刀を大剣に重ね、刃を一度擦る。
 たちまちに大剣は青い光を帯び、神刀と同じく輝きを放つ。

「青晶蜥(チューラウ)神の神威は、移るのか?!」
「道中同行したゲジゲジ乙女団の神族より聞きました。わずかの時間ではありますが、神威が乗り移り鉄を断つ力を受継ぐことが出来るのです。」
「どのくらいの長さだ。」
「一戦闘の間、と聞いております。」

 十分だ。大剣で神剣と戦える。
 一人が呟いた。

「勝てるかもしれん…。」
「いや、まだだ。レメコフ殿、貴公の剣の腕でソグヴィタル王を凌駕できるか?」
「死ねば勝てます。」

 尋常の覚悟ではない。死を賭し己の生命の極限までも聖蟲に捧げれば、神兵として最高の力を発揮出来る。
 理論的には分かっているが、実際の戦場ではなかなかに難しい。

「死を覚悟した……いや、死を受入れそれでもなお大義の為に戦わんとする時、神兵は天空にはばたく、のだ。」

 近衛兵団で良く説かれる神兵武術の奥義伝だ。おもわず口から零れ出る。
 マキアリイはその言葉に微笑みで返す。

「ソグヴィタル王ほどの雄敵は、この先百年生きたとてお目にかかれるものではございません。
 またこのように晴れがましく王国の未来に繋がる戦場と巡り合う事も無いでしょう。」
「ううむ。」

 レメコフ誉マキアリイが追捕師に任命されたのは、「破軍の卒」レメコフ家出身という格式にも依るが、ソグヴィタル王と共に武術の訓練に明け暮れ手の内を誰よりもよく知るからだ。
 剣の腕でも近衛兵団や赤甲梢の猛者に比肩する。
 重役達はそれぞれに話し合い、次々に了承する。今から他を選んだとて、最良の討手は得られないだろう。

 だが最後に残る懸念が有る。必勝を期して死闘に送り出すべきところだが、彼らに課せられた決断はあまりに重い。
 ようやくに開いた口は弱気の言葉となった。

「……レメコフ殿、貴公が負けた場合王国はどうなるだろうか…。」
「その点に関してはあまり心配はしていないのです。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンという方は、すべての人の希望を叶える為に天より方台に遣わされました。」
「? どういうことだ。」
「彼女は必ずしもソグヴィタル王の味方ではないのです。もちろん褐甲角王国の味方でもないが、神兵すべての希望を叶える為にもカプタニアに降臨するのです。」

「貴公に何故それが分かる。」
「何故でしょうか。ソグヴィタル王を追って様々な体験をしたおかげ、ですか。」

 左手に仏頂面のままに立つクワンパを見る。
 二人で随分とおかしな目に遭った。様々な不思議と巡り合い、方台の生きた裏面をいやというほどに教えこまれた。
 もしこの頑固で愛想の無い巫女が一緒でなければ、マキアリイは自分を見失ったかもしれない。

 議論は決した。

「レメコフ誉マキアリイ兵師監、貴公にすべてを委ねる。」
「有難うございます。」
「あとはハジパイ王に了承を頂くだけだが、貴公は準備に取り掛かってくれたまえ。」

 マキアリイは敬礼して、巫女二人を連れて部屋を出る。
 会議室の廊下には多数の神兵や衛視が詰めて居る。重役達の側近であるが、神兵超常の聴力で内部で交わされる会話を盗み聞きしていた。
 すべてを聞いた彼らはざっと廊下の左右に分かれ、追捕師に道を譲る。

 マキアリイは自分のすぐ後ろを歩くカニ巫女に言葉を掛ける。

「どうやら、おまえの仕事もまもなく終るようだ。」
「有り難いことです。この任務は少し長過ぎました。」
「まったくだ。ちゃんとしたケリがつけられるとは思わなかった。」
「ですが、勝てますか?」

 相変わらず歯に衣を着せぬ可愛げの無い女だ。そこが彼女の良いところ、これまでずいぶんと助けられた。

「…そんな、気がする。」
「まったく貴方という人はいつもそうだ。肝心なところでは深く考えないのです。」

 怒っているような笑うような、呆れたような言葉が返る。マキアリイがこんな感じだから、クワンパも尻の叩き甲斐があったのだろう。

「勝って下さい。次の仕事に移りたいです。」
「同感だ。」

 

 翌日。ハジパイ王が承認して一気に動き出す。
 「入城すれば即処断」の命令が取り消され、ヒィキタイタンは城内に入る許しを得た。
 同時に「ソグヴィタル王が信任する者の力を借りて、万全の準備をするがよい」との通達も届く。紅曙蛸女王テュクラッポやゲジゲジ乙女団にも通行の許可が出た。

 ユイットの宿場に留まって居た一行は、ようやくカプタニア市街に進入する。華麗な大行列となった。
 なにしろゲイルが6体も付き従い、褐甲角軍の行動を監視するのだ。ゲジゲジ乙女団の神姫達が、ソグヴィタル王の裁判の公正を見届ける。
 さらには新生紅曙蛸王国の六代テュクラッポ女王が山車で往く。カプタニアのタコ神殿からの迎えに身を委ねる。
 学を奏でる神官、舞い踊る巫女に彩られ、行列は麗々しく進んで行く。

 だが本日の主役は、百人の重甲冑の神兵に護られて群集の前に現れた。
 これ見よがしに我が身を黄金の鎖で縛り、裸足で土の道を歩いている。
 ソグヴィタル王 範ヒィキタイタン。5年ぶりの王都への帰還だ。

 一行はカプタニア城門前の大きな広場に停止する。ここに天幕を張り、決闘に備えるのだ。
 宿泊の為の施設は勿論有る。ソグヴィタル王家の別邸すら使えた。
 だが敢えて、旅の姿のまま露天に泊まる。褐甲角王国に拠らない矜持を示す。

 夜が明けると、ヒィキタイタンは元老院から正式に招かれ、王宮に参内した。
 元老院では1ヶ月も前から熾烈な論争に及んでいたが、まったく結論を得られない。それもそのはず、最も重要で最も時代を理解する人物を欠くからだ。
 5年ぶりに壇上に姿を見せるヒィキタイタンに、金翅幹元老員達は目を見張る。

 そこに居たのは、かってのソグヴィタル王ではない。

 南海に自らの力で王国を打ち立てた、英雄ソグヴィタル範ヒィキタイタンだ。
 建国の理想と現実、繰り返される戦闘、何度も裏切る臣を敢えて信じ導いた、勁い漢の姿がある。
 陽に焼けた肌は以前に増して活動的で、空理空論を弄ぶ元老院に苦悩し虚しく青春を浪費した面影は微塵も無い。

 改めての武徳王への服属を勧める、かっての先戦主義派の同志も口をつぐむ。
 最早彼に王国の属王位は必要無い。

 日頃は議場に姿を見せぬ「破軍の卒」も、カプタニアに居る元老員はすべて揃いヒィキタイタンの言葉を聞く。
 現れぬのは、ハジパイ王ただ一人。

 

 議場は騒然とし、ヒィキタイタンが新たに提唱した王国の未来を論じ合う。
 やはりソグヴィタル王には元老院に留まっていただかねばならない、と大きな声が波打ち、改めての論戦が再開される。

 声を背中に、ヒィキタイタンは議場を後にした。
 ほっと息を吐く。かなり無茶な話をして議場総員で叩かれるかと思ったが、どうやら元老院にも危機感は十分有るようだ。
 なんとか義理は果たしたと自分を納得させる。褐甲角王国ソグヴィタル王としての責務は、これにて終了と看做して良いだろう。

「父上!」

 議場のすぐ外で高い声に迎えられる。警護の丸甲冑の神兵達の間に、小さな姿懐かしい顔が有る。

「父上!」「あなた、」
「おお、おお!」

 ヒィキタイタンの妻と一人息子、ソグヴィタル王太子 貞アダンが女官侍女と共に待っている。息子は、自分の記憶と照らし合わせて2倍の背丈になっている。
 5年か、子供にとっては永遠にも等しい時間ではないだろうか。

 警護に頼み、しばしの暇をもらう。彼らとて妻子との再会を拒むほど情けを知らぬものではない。

「アダン!」「父上!!」

 少年は父の胸に飛び込んだ。幼子を抱いた記憶と違う、強い激しい勢いだ。

「アダンよ、随分と鍛えたな。」
「はい、父上の教えの通りに毎日欠かさず武術に励みました。」
「いいぞ、うむ。10歳か。」
「はい、軍学校に通えます。」

 ソグヴィタル王家では、男子は10歳になると黒甲枝の子弟と混じって軍学校に入る。
 幼くとも公務が有るから全ての課程をこなせないが、それでも他と変わりなくクワアット兵の教官に厳しく鍛えられ軍務に親しむ。
 15歳になると王族は聖戴を受けるから、2年早くに卒業だ。
 それまでにヒィキタイタンは、他の生徒の倍の密度で全教程を受けた。鬼の教官が思わず止めるほどに激しく。

 黒甲枝に厚い支持を受けるのも、この年月があってのものだろう。

「あなた、よくぞ御戻りに。」
「うむ、苦労を掛けた。」

 左手を開いて妻を迎える。慎みを見せながらも近付き厚い胸に額を寄せる彼女は、相変わらずに美しい。
 折角戻って来たのだから二人の為になにかをしてやりたいが、未だに彼は罪人だ。

「二人とも済まぬ。明日にはまた永の別れとなるかも知れぬ。」
「はい。」「……決闘、でございますか父上。」
「犯した罪の報いは受けねばならぬ。負ける気は無いが、勝っても王都に留まれぬだろう。」

 息子と妻は互いに顔を見合わせる。もう3年も経てば、二人の背丈が逆転するはずだ。

「父上、もし南に御戻りならば、私もお連れください。」
「……それはまだ早い。お前はこれよりは兵と共に学ばねばならぬ。」

 父の南海での活躍、単身で国を立ち上げる武勇談を誇張して聞いているようだ。眼を輝かせて願う。
 ヒィキタイタンは息子を引き離し、改めて両の肩を抱いて向き合う。

「アダンよ、明日の決闘が終るまでは、何も期待するな。人の命は瞬きのわずかの時間でさえもさだかではない。」
「ですが、父上に勝てる神兵は今はカプタニアに居ないと聞いております。近衛兵団はガンガランガにて陛下のお供を、」
「慢心だ。戦には絶対は無い。」
「ですが、」

 いささか自分は英雄になり過ぎたようだ。誤りを正すには、おそらくは死なねばならぬ。
 警護の神兵に目くばせをする。彼はソグヴィタル王太子に責務を果たす。

「もうしわけございません。お時間でございます。」
「父上、」

「アダンよ、父が命ずる。明日の決闘は何があろうとも、決して眼を逸らしてはならぬ。たとえ父が討ち負かされようともだ。」
「勝ちます、父上が!」
「ならばその目に焼きつけよ。顔を背けてはならぬ。」

 妻が息子の首に背後から腕を回し、抱き留める。
 「覚悟」を教える者は、未だ彼の前に訪れていないのだろう。改めて5年の空白が悔やまれる。

「親になるのは、なかなかに難しいものだな。」

 ヒィキタイタンは一人ごちた。

 

***************

 さて、ソグヴィタル王が元老院で熱弁を揮っている間、東西の市街は凄まじいことになっていた。
 人、人、人だ。
 弥生ちゃん再臨のお告げを聞いて東西南北より押し寄せた人が街に溢れる。善男善女が東西どちらに行くべきか、迷い彷徨っている。

 東街にはヒィキタイタンに付き添いやって来たゲジゲジ乙女団と紅曙蛸女王の御行列。
 巨大なゲイルは一目見なくては、また女王は愛らしい小さなテュークに乗って市内見物をするという。
 トカゲ神殿も貧しい者の多いこちらに有り、弥生ちゃん無事御帰還を願って参拝の列が途切れることが無い。

 西街には、弥生ちゃんの側近である神官巫女が演劇団を率いて滞在中だ。
 救世主を人界に初めて導き、幻の紅曙蛸女王五代テュラクラフを発掘し「聖神女」の称号を得た稀代の舞姫タコ巫女ティンブット。
 救世主と共に毒地を制覇し、神聖首都ギジジットで巨大ゲジゲジ神との死闘を見届けた蝉蛾巫女フィミルティ。弥生ちゃん自らに教えられた星の世界の歌を唄う。

 カプタニアでは青晶蜥神救世主の事績を伝える演劇は法度となり、これまで誰も見ていない。
 だが聖神女の入都と共に禁はなし崩し的に撤廃される。
 演劇とは神代の人、古代の奇蹟をなぞり再現して、今の世に霊的な力を呼び戻すもの。祈祷の一種である。
 演じることで、弥生ちゃんをこの地に招き寄せるのだ。

 どちらも見たい、どちらも見逃してはならぬ。ああどうしよう。

 カプタニア城は本質的に関所である。東西を繋ぐカプタニア街道を堰き止め、敵金雷蜒軍の侵入を拒む。
 故に城自体が道を塞ぐ仕組みになっている。
 街道は2本。城内を抜ける本道は軍優先で規制が厳しい。城外湖畔を抜ける仮道が一般民間の往来に使われる。

 現在、本道は軍・公務のみで鑑札の無い者は通れない。
 民衆は仮道に殺到する。

 100杖(70メートル)はある広い道幅いっぱいに詰め込まれた人の列。延々数キロの渋滞が続き、城門の扉さえ剥ぎ取られそうになる。
 前後左右に身動きが取れず、自然心も逆立った。押すな触るな早く行け。
 足を踏む者踏まれる者、泣く子騒ぐ子迷子の子。喧嘩をする若い衆が、掏摸だ痴漢だかっぱらいだと喚く声が、じりじりゆっくりと押し出されて行く。

 あまりの混雑に道を管理する役人は怖れを為し、時間を区切って一方通行にする。それを知らぬ者が開けて通してと泣き叫び、混乱の火に油を注ぐ。

 

「いやもう死ぬかと思う程の人でしたよ。レアルさま、ゲイルですよゲイル。もう家よりも大きな骨みたいのががらんぐしゃんと音を立てながら歩くのです。」

 トゥマル商会のアルエルシイは東街に行った口だ。
 王室御用達である大ゲルタの燻製やノシイカは、ソグヴィタル王の一行にも供される。
 加えて、今回は紅曙蛸女王までも行幸している。イカ「ティカテューク」はタコ「テューク」の仲間であるから、今更とは思うが改めて女王に販売の許可を求めに行く。

 とはいえ、一介の商売人が女王やギィール神族に会えるはずもない。大きく役立ったのが、アルエルシイの世にも珍しい青い髪だ。

「この髪のおかげでお目通りが叶いました。ゲジゲジ乙女団の神姫様が手ずから御触りになりましたよ。」
と言うアルエルシイは、ばっさりと切って男の子のように短い頭をぽんぽん叩く。腰まで届く長い青髪を、この機に東街のトカゲ神殿に奉納した。

「ギィール神族イルドラ姫様に御忠言を頂きました。ガモウヤヨイチャンさまの御帰還を祈念しての奉納は、今しかできないと。まさに今です!」
「さすがに神族の方はお知恵に優れていますね。」

 弓レアルは微笑んでアルエルシイの度胸の良さを褒め称えた。

 ヒッポドスの庭に居るのは、弓レアル唯一人。ネコも市中の賑わいを取材する為に総出で飛び回り、今日は一匹も姿を見せない。
 鼻を引っ掻かれる心配が無いから、アルエルシイも鉄仮面を着ける必要が無かった。
 折角用心棒のイノコを4匹も連れて来たのに、ちょっとがっかりだ。

「でも、静かですね。」

 人も来ない。
 カロアル斧ロァランはあのままメグリアル劫アランサ王女の元に留まり、侍女として勤めている。
 ロァランはようやくに自らが落ち着くべき場所を見出した。もう悩み、弓レアルの所に来る必要が無い。

 赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダも来ない。こちらも総裁劫アランサ王女に従っている。
 王女は拘束を解かれ本来の職務に復帰する。ソグヴィタル王の決闘にも立ち会う事を求められ、今日はカプタニア城最上階の神聖神殿に参拝する。
 ウェダ・オダも供として城に上がっていた。

 ゲワォも来ない。彼はハジパイ王の下でまた陰謀に携っているのだろう。

 家庭教師のハギット女史ですら不在だ。ヒッポドス商会の業務には関わらない彼女だが、今は天下の一大事。
 先代に仕えた彼女の識見はこの非常時にこそ活かすべき、と旦那様に求められあちらこちらに飛び回る。
 おかげで家が静かでいい。

 そして、夕方近くになってアルエルシイが訪れた。封鎖されたカプタニア城に進入出来るのも、王室御用達イカ商売のおかげ。ガモウヤヨイチャン様々だ。

「お、アルエルシイが青い髪を切っている。」

 植え込みの陰からいつもの間の抜けた声がする。ようやくにネコが1匹訪れた。
 来たはいいが、イノコが怖くて近付けない。体長が半分しかないイノコは、それでもイヌ科であるから臆病なネコになど負けないのだ。
 紅い紐で繋がれるイノコの間合いからかなり離れて、弓レアルに話し掛ける。

「ヒッポドス弓レアル、いい話がある。今すぐ西街の蜘蛛神殿に行くといい。」
「話? いつものように教えてくれないの?」
「これは人間の出来事じゃない、ネコの体験だ。だから人間からお代をもらえない。
 でもヒッポドス弓レアルにとってはいい話だ。ネコはそう思う。」

「体験したネコが蜘蛛神殿に来ているのね?」

 アルエルシイの問いにネコはうなずく。ネコの仇ではあるが、髪も切ったしここいらへんで勘弁してやろう。イノコ怖いし。

「レアルさま、行きましょう。ネコがここまで言うのなら、それはきっと良い報せですよ。」
「でも城は封鎖されて、街道が、」
「御用イカの鑑札は無敵です。さあ行きましょう!」

 実際イカの納入は大忙しで、東西の街、宮殿、トカゲ神殿とひっきりなしに荷車を回す。こんなこともあろうかと、父の勧めに従って在庫を3倍増して大正解だ。

 弓レアルは迷う。なにを迷うのか、自分でも分からないが、迷う。
 迷っている内にアルエルシイに引っ張られ、勝手に着替えさせられ、家から連れ出された。

「じゃあネコ、案内して。」
「めいれいするな、アルエルシイ。」

 イカの通行証は効果満点。厳重に封鎖される城門もなんなく許可が出た。空荷ではあっても人足に荷車を引っ張らせて、この通り。
 弓レアルはなにを決める前に、もう西街に立つ。

「おお、あの青い髪は」
「アルエルシイ様だ! ガモウヤヨイチャン様御帰還の祈祷に、髪を神殿に奉納されたのだ。」

 東西の通行は妨げられるのに、噂だけは早くも西街に届いている。
 常とは異なり閑静な趣を失った通りに溢れる人が、自分を指差し拝んでいる。
 イルドラ姫様の御言葉に従って、大正解!

 弓レアルが街に来た、と聞いて白い毛並みのネコが次々に寄って来る。
 連中、今日はアルエルシイが鉄仮面を着けてないのを知り鼻を引っ掻こうとするが、用心棒に阻まれ虚しく「しっぽを巻いて」逃げ出した。
 いや、「青髪を弥生ちゃんに奉納したアルエルシイ」を引っ掻くと、ネコがヒトに叩かれる。これは得策ではない。
 ネコは賢明な生き物だ。

 むしろ用は、弓レアルの方に有る。

「いい話がある。」
「弓レアル、煎餅をくれ。いい話がある。」

「ほら、レアルさま!」

 おおむね20頭のネコ達が、異口同音に呼び掛ける。アルエルシイも確信した。
 これまで弓レアルにはさんざんに世話になったから、今日はようやく恩返しが出来る。やっと暗い気持ちを振り払える日が来ましたよ、姐さん。

 ぐるりと囲む円形の建物が、蜘蛛神殿だ。黄色の土壁が螺旋になって、ゆったりと上に巻いて行く。
 アルエルシイも蜘蛛神殿には久しぶりに来た。考えてみれば、この場所でも色んなことが有った。
 随分遠くの昔に思える。

 神殿の周りにはやはり沢山の人が押し寄せ、最新の情報を手に入れようと必死になって拝んでいる。
 いつも通りの掲示板に、字入りで食べられるおみくじ焼き。加えて弥生ちゃんが星の世界から導入した賽銭箱がちゃりんちゃりんと切れ目無く銭の鳴る声を響かせる。

 蜘蛛神殿の情報源は、ネコだ。巫女がネコの世話をして方台各地の情報を入手し、神殿に掲げて人を集める。記録に残す。
 ネコ達がのんべんだらりと怠惰に過ごす林が、神殿正規の施設として整備されている。
 弓レアルの目的地は、ここだ。

「弓レアル、来たな。」

 待っていたのは「飛び毛」だ。ネコ達の中で唯一、アルエルシイやハギット女史でも見分けの出来る個性的なネコ。背中の毛が1ヶ所ぴょんと跳ねているので「飛び毛」と呼ばれる。
 弓レアルは膝を折って、ネコと同じ目線になる。

「なにが有るの?」
「会わせたいネコが居る。」
「そのネコが、報せを持って来るの?」
「弓レアルが判断するといい。」

 傾き始めた夕陽に林の葉陰が重なる下、石で作った長椅子にそのネコは居た。ごろごろしてる。
 大きさ形は他と変わらないが、一見して異なる特徴が有る。額に薄紅色の三日月傷、の雄ネコだ。

「よお。」
「あなたですか、私に報せを持って来てくれたのは。」
「カプタニアのヒッポドス弓レアルはネコに良くしてくれる、という噂を聞いた。人を探しているがどこにも見当たらないと。」
「はい。ネコ達にお願いして色々な所を調べてもらいましたが、カロアル軌バイジャン様は見付からないのです。」

「そこで俺様はほかのネコには出来ない危険な調査に乗り出した。俺様はこの方台で最も勇敢なネコ、カニ巫女の杖でさえも何度も潜り抜けた歴戦の猛者だ。」
「そうですか、有難うございます。」
「なに、ネコに良くしてくれる人間はなかなか居ない。これは渡世の義理というやつだ。」

 ネコはごろりんと身体を横に一回転させて椅子から降り、弓レアルの前に綺麗に座る。
 言われて見れば、なるほど精悍そうな面構え。

「この世で最も恐ろしいのはニンゲンだ。今は少なくなったけど、ネコを取って食おうというニンゲンの村がまだ幾つも有る。」
「まあ!」
「連中の村で起きたことは、ネコは知りようが無い。誰も行かないからな。
 だが俺様は、南のエイベント辺りの難民の中にそういう連中が居ると聞いた。」

「はい。」

「去年の夏のベイスラの戦いに、そいつらも加わっていたのだ。で、帰りがけの駄賃に色々かっぱらって来た。村を襲って食べ物とか着る物とか、戦場で武具も拾って来る。」
「はい…。」
「そのついでに男も拾ったという話を、これは俺様がニンゲンから聞いたのだ。」
「ベイスラで、男の人を拾った、のですか…。」
「若い男で、武器を持っていたというから兵隊だろう。でも頭を強く打って自分の名前も分からないらしい。」

「あ、あああ。」

 弓レアルは知らず涙が頬に零れている。間違い無い、これはきっとまちがいない。

「そこで俺様は連中の野営地に侵入した。さんざんな目に遭った。」
「……男の人には、会えたのですか?」
「ざんねん。若い女に斬り付けられた。そいつの言うには、言葉を喋るネコの脳味噌を食わせれば無くした記憶が戻るらしい。迷信だな。」

「その方は、その女の方は誰ですか。」
「どうも男を拾った奴らしい。あんたよりは歳上だがけっこう若い。」
「それで、他にその方はなにか言っていませんでしたか?」

「いや、俺様もう頭ぱっくり切れてたからな。逃げるので必死だった。」
「そうですか…。」
「だが俺様は偉い。女が持っていた刀をちゃんと見ている。あれは間違いなく、クワアット兵が使っている奴だ。」

 弓レアルはネコに抱きついた。ありがとう、ほんとうにありがとう。
 背後で見ているアルエルシイも泣き出した。ネコ、へんなもの食べさせてごめんね。

 額に冴える三日月傷は、抱かれる腕がきついのでちょっと首を横に傾げる。

「よせやい、照れるじゃないか。」

 

****************

 創始暦五〇〇七年春中月五日。

 夜が明ける。物語が、終る。

 

最終章 最終回蒲生弥生ちゃんの大審判

 払暁。

 早速にクワアット兵が準備に走り出す。前日までに仮設観客席も組み上げて、後は貴人を呼び込むだけだ。
 双子門の大扉も開き、見物の一般人の進入を許す。先夜よりの行列組が我先にと進もうとし、兵に叩き返されゆっくりと「死の庭」に入って行く。

 決闘場となるのはカプタニア街道本道。幅員300杖(210メートル)を越え、軍隊が整列して閲兵を受ける広さを持つ。
 左右を「兵庭」「内庭」の高い壁に囲まれて、もし敵がここに雪崩れ込めば雨あられと矢が降り注ぎ、たとえゲイル騎兵であっても生きて抜けるのは叶わない。
 故に「死の庭」と呼ばれる。

 また公開処刑場でもある。一般刑法犯ではなく国事犯のみに適用され、民衆が見守る中残虐な手段での処刑が行われる。
 最も近い例が「ヒィキタイタン事件」。ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンが元老院の召喚を免れる為に人質としてカタツムリ巫女を置き、北方聖山に脱出。
 王に代って巫女ファンファネラが狗掛かりの刑により命を落す。

 ヒィキタイタンの追捕の理由は謀叛ではなく、背信だ。罪無き巫女が殺されると承知の上で脱出した事に対する道義的責任を問われる。
 無論巫女は死ぬのを承知で人質となった。元老院を覆す政変が未然に防がれ、王は絶体絶命の危機に立たされる。
 召喚に応じれば、死有るのみ。

 王宮で侍女の頭を勤めていたファンファネラは、ソグヴィタル王を姉のように世話したと伝えられる。
 青晶蜥神救世主の到来が間近に迫り政治状況の激変が予想される中、ここで諦めてはならない。たとえどんな犠牲を払ってでも。
 ファンファネラは自ら死を求め、王に未来を托したのだ。

 犠牲は十分に報われたと言えよう。ヒィキタイタンは南海で潜伏中に弥生ちゃんと会い、失われた古代の紅曙蛸女王テュラクラフを発掘し、自ら王国を建てる。
 今は囚われの身とはいえ、方台の新時代を築く有力人物としてカプタニアに戻る。
 懐かしい人の血が染み込んだ道に、ソグヴィタル範ヒィキタイタンは誇りを持って立つ。

 

 決闘は道の真ん中に30メートルほどの輪を描いて柵を巡らし、余人を交えずヒィキタイタンと追捕師レメコフ誉マキアリイ兵師監が戦う。
 この決闘は単に一個人の生死を決めるものではない。
 褐甲角神の使徒と、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの代理人としてのヒィキタイタンが、方台の命運を剣にて占うのだ。
 展開によっては、褐甲角王国の存立に深刻で致命的な打撃を与えかねない。武徳王不在の中で行うにはあまりにも重大過ぎる結果となろう。

 歴史に特筆される戦いを見届ける為に、方台各所より高い身分と格式を持つ人が集まった。
 最も重視されるのが、紅曙蛸女王六代テュクラッポ・ッタ・コアキだ。
 ヒィキタイタンと共に南海円湾の戦いで囚われたとはいえ、彼女を処分する権限を褐甲角王国の誰も持たない。行動を規制する法的根拠が無い。
 女王が求めれば全てを見せねばならぬ。ヒィキタイタンの後見として、決闘の公正を監視する。

 テュクラッポは敢えて仮設観客席に陣を取った。金翅幹元老員と共に観戦する。
 彼女は齢12に過ぎないが、政治的にも神学的にも豊富な知識と高い見識を持ち、只の少女として扱うのを許さない。
 2メートル径の小さなテュークを神座として、左右にタコ巫女を侍らせて悠然と構える。早くも神官に楽を奏でさせ、決闘を控えて緊張の走る民衆の気持ちを和らげる。
 まさに女王の貫禄。武力にて潰された新生紅曙蛸王国もいずれ復活する予感に狂いは無い。

 こうも言えるだろう。彼女を失望させる戦をしてしまえば、褐甲角王国もお終いだ。

 女王を護るのはゲジゲジ乙女団。神姫6名が付き添い決闘場へのゲイルの進入も要求する。
 方台の未来を定める決闘となれば、軍事の都合より神聖秩序が優先する。
 元よりギィール神族は知性に優れ弁舌に長け、論争に及んでは如何に金翅幹元老員であろうとも太刀打ち出来ない。
 警備当局も要求を呑まざるを得なかった。

 但し、進入するゲイルは2体のみ。周囲に完全装備の神兵100名を配置し、動きを封じ込める。

 ゲイルを駆る役となったイルドラ姫は涼しい顔で受入れた。まったく困らない。
 決闘場には多数の民衆やクワアット兵が密集して詰め込まれ、弓矢が使えない。ゲイルに神兵を飛び越えさせれば、どこからでも逃げられる。
 万が一の場合には、女王とヒィキタイタンを背に引き揚げて遁走だ。
 もう一方のゲイルに乗るミルト宗家のカエル姫には死んでもらおう。彼女はゲイルの操縦が拙く、跳ねる機動が使えない。

 

 通例であれば、女王の接待をする者は属王位ソグヴィタル王もしくはハジパイ王であるべきだ。
 が、今日はヒィキタイタンは主役。混乱を避ける為にハジパイ王も遠慮する。
 代って女王の隣に座ったのは、カプタニア神衛士団長カンヴィタル鮮パァヴァトン。武徳王の甥であり、次の武徳王にと見込まれていた人物だ。

 この人選は神聖神殿の長である神母クメシュの強い意向に基づく。
 彼女は青晶蜥神救世主に対して強い警戒心を持つ。弥生ちゃんの再臨が成った場合、神学的に対抗出来る人物を決闘の場に配置しておく必要を覚えた。
 常ならば下界には関与しないが今回に限り無理を願い、鮮パァヴァトンを押し込んだ。
 彼は夏には属王位を授かり、ソグヴィタル・ハジパイ、メグリアル王と同格になる予定である。位に不足は無かろう。

 また彼の手配で、民間の女性に桟敷が用意された。
 シュメ・サンパクレ・ア、紅曙蛸女王国時代後期の小王の流れを汲む古い家系の継承者。ガンガランガから行列を仕立ててやって来た。
 名目は、紅曙蛸女王六代テュクラッポへの拝謁だ。
 小王は失われた紅曙蛸女王に代り民衆を庇護するのを名目に支配権を確立した。女王の帰還がなればその足元にひれ伏すのが道理。

 本来であればデュータム点に出現した五代テュラクラフを先にすべきだが、いかんせん武徳王本陣にて妨げられる。
 弥生ちゃんの再臨も期待される中、カプタニアに参ったのも首肯ける。

 シュメの行列もまた人の話題となる。侍女100名に下僕が100、傭兵200の大人数を率いての道中だ。並の王族の供揃えを越える。
 小王とはこのような格式を許されるものだ、と主張するかの艶やかさ。諸所で神殿への寄進や貧しい人への施しも手厚く行う。
 行列が進むにつれて同じく小王の子孫を名乗る者、また紅曙蛸女王に仕えていた番頭階級の末裔、さらには野の賢人も加わった。
 彼らは弥生ちゃんが進める方台新秩序構築に参画しようとする者だ。
 褐甲角王国の支配が弛むのを待っていたかに、旧い時代の秩序が姿を見せる。サンパクレ家は彼らの代表、希望の星だ。

 

 赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ王女の席も用意される。
 ヒィキタイタンの処分が決闘に収まったのも、彼女が紋章旗団をぶん殴ったおかげであろう。王国の命運をここに賭けねばならぬ、と人々に眼を開かせた功績は大きい。
 元老院でも高く評価し改めて王宮に招き、審議を陪席見学する権利を授けた。
 王族であっても高い見識を示さねば議場に入る資格を得られない。陪席の許可は、金翅幹元老員に政治家として認められた証だ。

 当のアランサは激しく落込んでいる。穴が有ったら埋めてもらいたい心境だ。

 如何に不心得者とはいえ、男子の面体を殴るなど女人の道徳を大きく逸脱する。
 ミンドレアで神兵を叩いたのは、あれは良いのだ。剣術修行の一環でどうしても必要な、それに偶発的な事件であった。
 今回は違う。まるで弥生ちゃんが我が身に乗り移ったかに、拳が動いてしまった。

 だがアランサは知っている。弥生ちゃんは無抵抗の人間を権威を嵩にぶん殴るなど、決してしないのだ。
 弥生ちゃんが人を打擲する時は、相手にも手向かいを許す。互いに対等の立場で殺し合う中での激突だ。演習にあっても遠慮は無用と高言する。

 それなのにそれなのに、自分と来たら逆らうはずも無い紋章旗団を一方的に、気絶するまで。
 これは恥だ。メグリアル王家の名誉にべっとりと泥を塗りつけてしまった。父王さま母后さま、愚かで軽はずみな娘を御許しください。
 いやひょっとしたら、これは死んだ方が良いのでは。そうだ死んでしまおう。どこか遠く、なんならアユ・サユル湖に身を投げて。

 頭を抱えて赤面する王女を、輔衛視チュダルム彩ルダムは微笑んで見守る。
 あれは、あれが大正解だったのだ。結果がすべてを物語る。
 紋章旗団の神兵38名は深く反省の姿勢を見せ、百舌城地下牢で謹慎している。彼らの処分はごく軽くで済まされよう。懲罰ではなく譴責で、今後の出世にも影響しない。
 王女の殴打により救われたのだ。

 我が身を痛めてでも軽挙した神兵を救わんとする慈悲の心に、王国の兵は皆感服した。金翅幹元老員は、瞬間を捉えて躊躇しない確かな判断力を高く買う。
 また発した言葉が素晴らしい。もののふの心をよく理解し、誰もが上手く表現出来なかった鬱屈を一言で晴らす。混乱を爽やかに捌いて見せた。
 彩ルダムも大いに満足し、王女を誇らしく思う。

 そして新たな居場所を見出した安堵を覚えるのだ。
 あの事件を経て、初めて自分は劫アランサ王女の為に死ぬことを納得出来る。大義の為でなく、アランサ個人に命を捧げるのを惜しく思わない。
 紋章旗団も同じだろう。前総裁焔アウンサ王女が身罷り、赤甲梢も紋章旗団も忠誠を捧げるべき人を喪なった。
 王国の為に、褐甲角神救世の大義に殉ずるのは容易い。だが人は人にこそ従い、死んで行くべきものだ。

 焔アウンサ王女のような傑物に巡り合えるのは、一生の僥倖。死んで悔い無しと覚える出会いは、二度は来ない。
 それが、有り得たのだ。
 現場に居合わせなかったディズバンド迎ウェダ・オダ中剣令は残念がる。多分、歴史的瞬間であったのだろう。
 アランサが拳骨王女として伝説になる姿を見逃してしまった。惜しいことをした。

 侍女カロアル斧ロァランも誇らしい。この決断の困難さを彼女はよく心得る。
 なるほど所詮は弥生ちゃん流かも知れない。だが優れた人を見習い、方法を良く使い、正しい結論を得るのは凡人には難しい。
 ウチの姫様は出来る!
 ロァランは是非にと志願して、女官ではなくアランサの私的な侍女として召し使われる道を選んだ。

 

「おおお!」

 人のどよめく声がする。
 兵庭の近衛兵舎にて用意を整えたヒィキタイタンが、十数名の神兵と共に姿を現わした。
 神兵は不測の事態に備えて軽快な翼甲冑や丸甲冑を纏い、中心に黄金に輝く人を護って進む。

 ヒィキタイタンの甲冑に金翅幹元老員は小さく驚きの声を上げた。あれは紛れもなく、ソグヴィタル王家の鎧。
 ソグヴィタル王家は、もし王国に不穏な風が流れ神兵が二つに分かれて争う事態となれば、武徳王に代って鎮圧する役目を持つ。
 幸いにしてこれまで神兵同士の内戦は起こっていないが、最初の例がまさかソグヴィタル王本人となろうとは。
 この鎧は、ヒィキタイタン追放後はハジパイ王が封印管理していたはず。
 決闘に際して禁を解きヒィキタイタンに許したのは、悪質な嫌がらせでもあろうか。

 だが鎧の性能は折り紙付きだ。
 ギィール神族が用いる黄金の甲冑ネヴェイルを元に、東金雷蜒王国に特注して作らせた。
 背には最新の技術を取り入れタコ樹脂の翅を持つ。運動性機動性は翼甲冑と同等であろう。
 いやソグヴィタル王家の任務が神兵反乱の鎮圧であれば、この鎧は神兵を敵と想定して設計されている。他の神兵用甲冑が巨蟲ゲイルに対応するのとは異なり、決闘に向いている。

 決闘の条件としてヒィキタイタンと王国側が交わした誓約は、「互いに万全の装備を整え、正々堂々たる戦いをする事」だ。
 この甲冑を纏っては、敗北に如何なる言訳も通らない。己の未熟を恥じるのみ。

 ヒィキタイタンは柵内に2名の神兵と共に入り、2体のゲイルが控える南側に移動する。
 ゲイルの背を見上げれば、これも黄金の甲冑に身を固め仮面を下ろしたイルドラ姫の姿が有る。他方のミルト宗家の姫は、高い所から物見遊山で余裕を見せている。
 兜の内、自らの額に座す聖なるカブトムシの翅が震えて、ヒィキタイタンに語りかける。

「!」
『ソグヴィタル王か? 私だ、イルドラ丹ベアムだ。今我は、聖蟲を通じての会話を行っている』
「……ギィール神族はこのような技を持っていたのか?」
『なに、”雷”を用いてそなたの兜を震わせ、聖蟲に音を整えさせるだけだ。見掛けほど不思議なものではない。
 用件だ。万が一の場合、我がゲイルにて城を脱出する用意がある。逃げる時は私の方に寄れ。ミルト殿は撹乱して敵兵を引き付ける』

「テュクラッポは?」
『問題無い。女王には元より見えない護衛が付いている。上手く逃げて来るだろう』
「そうだったな。透明の魔法を使えるのだった。」
『では存分に死を楽しむが良い』

 

 ざわめきが止まる。北側王宮に続く道より、漆黒の重甲冑が現れた。
 一個小隊のクワアット兵が褐甲角軍の軍旗、王国旗、武徳王の名代王旗、追捕師、「破軍の卒」レメコフ家の紋章を印した幟旗を掲げ進み来る。

 決闘者レメコフ誉マキアリイ。

 背後には2名の「剣の巫女」を従える。こちらにも神官戦士の護衛が10名ずつ付いていた。
 復讐を司るカニ神夕呑螯(シャムシャウラ)。治癒と切断、次なる世紀を司るトカゲ神青晶蜥(チューラウ)の両神を表わす飾り杖を掲げて進む。

 会場の警備に当る神兵達が一斉に彼を向き、剣を抜いて正面に構える。広い街道ににわかに響き渡る金属音に、群集は身を縮め息を止める。
 マキアリイが決闘に敗れれば、それは褐甲角(クワアット)神が青晶蜥神に負けるのと同義。天河十二神の救世の計画に王国がもはや必要ないと証される。
 神兵が無用の者と成り果てる、まさに正念場だ。誰一人として真剣ならざるは無い。

 金翅幹元老員も立ち上がる。腰の宝剣を引き抜いて天にかざし、マキアリイに必勝の念を送った。
 神兵、元老員。いずれの頭上のカブトムシも興奮を抑えきれず、甲羽を開いてわずかに震える。

 柵の内に入ったのはマキアリイと剣の巫女。カニ巫女はそのまま真っ直ぐ進み、ヒィキタイタンの前に立つ。
 並び立つ神兵を前にしても、カニ巫女は決して怯えず卑屈にならず、昂然と顔を上げる。

「ソグヴィタル王であられますか。」
 言わずもがな、彼女とも南のイローエントからさんざん顔を合わせて来た。それでも確認するのがカニ巫女である。

「いかにもソグヴィタル範ヒィキタイタンだ。」
「神剣をお返しいたします。どうぞ御確認ください。」

 背に負い鎖で封じた「王者の剣」を取り、跪いて王に捧げる。
 ヒィキタイタンは右手で受け取り、鎖を解き封印を剥いで剣を抜き、天に掲げる。
 青晶蜥神の青い光が広い道全体を照らし出す。朝の光をも凌ぎ、人は思わず眼を閉じ顔を庇う。

 剣を左右にかざして状態を確かめたヒィキタイタンが念を送ると、発光が和らぐ。彼は神剣を自在に操る能力を既に身に着けていた。
 鞘に戻して左の腰に帯びる。だが改めてカニ巫女に問う。

「本当に良いのか? これを用いて戦えば、我は決してマキアリイに負けぬぞ。」
「追捕師レメコフ様よりの御伝言です。王はこの神剣のみを用いて戦い、他の武器を用いる事を許されません。」
「それは心得ている。」

 決闘の唯一の規制と呼べるのが、この条件だ。ヒィキタイタンとしては拒否する理由が無い。弥生ちゃんの神剣以上に強力な武器など、地上に存在しないのだから。
 カニ巫女はちらと目を上げ、王を見る。ヒィキタイタンは悟った。この巫女はマキアリイの敗北をまったく心配していない。

「されどこれを用いれば、王は褐甲角神の御加護を得られません。」
「む?」

 尋ね返すのを最初から受け付けぬ素っ気なさで、カニ巫女は王の前を下がる。
 ヒィキタイタンは呆れた。
 あの巫女はマキアリイにも終始あんな態度を通したという。災難だったな、俺のせいだ許せ。

 しかし神剣を用いれば如何に神兵重甲冑であろうともひとたまりも無い。鋼鉄でさえ瞬時に断ち切る神威を持つ。
 目を上げてマキアリイを見て、納得した。彼はもう一人の「剣の巫女」がかざす神刀に大剣を差し出し、青い光を乗り移させている。
 ヒィキタイタンは背後を振り返り、ゲイルの上の神姫を見る。

「教えたな?」
 だが甲冑の乙女は答えない。冷たくせせら笑うだけだ。

 マキアリイの大剣も、これで断ち斬られない。五分の条件というわけだ。
 ならばものを言うのは個人の力量、聖蟲の加護。だがカニ巫女は彼が褐甲角神の助けを得られないと言った。
 まだ何か陥穽を仕掛けてあるのだろう。
 褐甲角軍はすべてを見通すギィール神族に対して狡知や奇計を弄する無駄を知る。正攻法でも十分に厭らしい、辛辣な戦い方が有るものだ。

「つまりマキアリイ、お前は勝つ気なのだな。」

 ヒィキタイタンは中央を向き歩み始める。
 応じて重甲冑も重い足音を立てる。右に構える大剣が、青く燃える松明に見えた。
 わずかの距離だ。声を掛けるかと思った刹那、マキアリイは蟲の貌の面を被る。今更に問答は無用、語るべきは剣にて示せ。
 黄金の眉庇を下ろしてヒィキタイタンも眼を隠す。
 なるほど、殺し合いに言葉は要らない。

 

 戦闘は、大方の予想を裏切りマキアリイの打ち込みから始った。
 ヒィキタイタンの方が軽く、また神剣の使い方に慣れているから先手に出るとの読みは裏切られた。

 全ての神兵が驚き、口を開く。マキアリイの疾さは重甲冑の常識を越え、翼甲冑と同じ軽快さを見せる。
 何故と問うも愚か、彼の聖蟲が宿主に力を貸しているのだ。重甲冑の背中の翅は小さいが13対も有り、十分に推力を生み出す。

 ヒィキタイタンは慌てない。いかに早いとはいえ、こちらの方が軽く体を捌き易い。重甲冑は質量ゆえに急には停まれず、易々と背後を明け渡すだろう。
 左に飛び黒い巨岩を避け、止まろうとする動きに背後から追随すれば、

「おお。」
 思わず声を発した。ヒィキタイタンは自分が叫んだことさえ覚えない。

 切り返しだ。高速で突進した重甲冑が、その場で跳ね返るかに後ろを向き、下から大剣を振り上げる。まるで慣性が無いかに前進の勢いが消え、逃げる敵を追う。

「上手い…。」
 重甲冑に慣れた神兵が感嘆する。不思議でもなんでもない、重甲冑は人体各所に鋼鉄のバネを備え、全身連動させて衝撃を吸収する。
 突進の勢いで地面を蹴れば、その衝撃がバネに吸収され甲冑内部で処理される。後は反発力をどこに振り向け次に繋げるかだ。
 重甲冑は自身の重量を、歩行の衝撃を次の一歩の原動力として活かす設計が為されている。
 ちゃんと使えばマキアリイと同じく迅速かつ小刻みな運動が可能なのだ。

 これは重甲冑操法の手本となろう。一歩一歩の歩みが大剣を揮う腕に連動し、ヒィキタイタンに致命の斬撃を迫る。
 受けてはならない。ヒィキタイタンは神剣を持ちながらも攻撃を控え逃げ回る。
 大剣15キログラムの重さではない、全備重量300キロの鋼鉄塊が跳ねる速度で激突する。こちらにも聖蟲が有るとはいえ、一気に弾き飛ばされる。

「褐甲角神の加護を得られない…」
 カニ巫女の台詞が頭をよぎる。聖なるカブトムシの能力とは、一にも二にも怪力だ。重甲冑も大剣も剛力を最大限に引き出す為に作られた。
 自分はと振り返れば、なるほど弥生ちゃんの神剣は凄まじい。分厚い装甲でも当ればすっぱり斬れるだろう。
 だがマキアリイは相打ちを狙う。自身に刃が食い込んでも、構わず切り返し叩きのめす。

 この勝負、想像以上に利が薄い。南海で思う存分に神兵を翻弄したのと訳が違う。
 マキアリイの奴、アレで自分の動きを研究したのだ。星の世界の剣術を封じるには、神兵剛力の勝負に持ち込むべし。
 同時に、自分に聖蟲の力を用いさせない策を強いた。

 歯痒い。ヒィキタイタンとて額には黄金のカブトムシを宿す。
 神兵と同じく剛力にて剣を受け止めれば、

 ぐんん、…重いうねりが魂を揺さぶる。互いに青い光を放つ神剣同士が激突した。低いが澄んだ音が広場全体に籠り、人の頭蓋に染み徹る。

 ヒィキタイタンが遂に受けて立ったのだ。が瞬時に見極める、失敗だ。
 弥生ちゃんが神威を授けた刀剣は、あたかも無敵に見える。どのような敵でも斬り伏せ、いかなる攻撃も受け付けない。
 錯覚だ。神剣は鋼を切り裂く能力は持つが、強度までもを高めるわけではない。弱い剣は神威に耐えられず折れてしまう。

 彼の剣はギィール神族が鍛えた宝剣であり、方台でも有数の強度を持つ。故に今の衝突でも持ち堪えた。
 だが二度三度と打ち合えば、さすがに保たない。神剣が頑丈に見えるのは、敵を断って衝撃を流し、剣本体で受け止めないからだ。
 互いに斬れない神剣同士であれば、圧力をもろに被ってしまう。ならば強い方が勝つ。

 対策は簡単だ。こちらから斬って掛かればよい。元々神剣は超攻撃型、相手を防戦一方に回せば負担も掛からない。
 分かっていても、マキアリイが止らない。飽きも疲れもせずに途切れの無い斬撃を繰り出す。

 ぐぉむん、   2度目の激突だ。「王者の剣」が軋みを上げる。保たない!
 ヒィキタイタンは、弥生ちゃんがガンガランガでコウモリ神人と戦ったのと同じ状況に追い込まれた。剣の状態を常に監視し、砕かれぬように相手の刃を砕くのだ。

「死なねばならぬ、か。」

 マキアリイの強さの秘訣は分かっている。彼は死を受入れた。
 褐甲角の兵は己の命を捨て、死の運命を受入れ、それでもなお大義の為に戦わんとする時神の恩寵を得るという。勝利を授けられるのだ。
 対して自分は、未だ生を願う。

 これから先に起こる歴史の激動、新生紅曙蛸王国の再生、褐甲角王国の神兵達の行く末。弥生ちゃんが進める救世の大事業、方台新秩序構築……。
 死んではならぬ。面白いことが幾らでも待っている。男として、王として、聖戴者としてこんな素晴らしい時代に生まれた事を神に感謝する。
 マキアリイとの命を賭けての決闘も、やはり男子一生の喜びだ。だが死んではつまらぬ。

    俺は、こんなところで死んではならぬにんげんだ。

 

 ぶんと兜の下の黄金の聖蟲がはばたく。
 ぅおおお、と声が腹の底から沸き上がる。マキアリイの攻撃を紙一重で鎧に擦らせて避け、重甲冑の喉元に神剣を突き入れる。己が命など考えない。

 そうだ、死んではならない人間が死ぬからこそ決闘は価値が有る。面白い。

「よし!」
 見守る神兵達も拳を握る。
 どちらも死を受入れた。これからが本番だ。

 ヒィキタイタンは運動性の利点を捨てた。足を留めてその場で打ち合う。
 マキアリイの重甲冑操法の妙技はあれども、やはり自分の方が早いのだ。連撃、相手に主導権を与えずひたすら打ち込む、打ち込む。
 重甲冑内部に貯えられるバネの勢いは、この状況では働かない。マキアリイは手だけで振り回す羽目になってしまう。こうなると大剣の重さが災いだ。
 早い、早い、ヒィキタイタンの剣が走る。受けられない。大剣で弾く暇が無い。当たるを幸いに柄で手甲で払う。酷使される重甲冑の腕が軋む。

 まどろっこしい! 大剣を右手で高速回転させる。当ればいいのだ。
 これは敵わん。ヒィキタイタンも流石に剣を引く。下手をして旋回に巻き込まれれば剣を奪われる。こういう場合は、足だ。
 体をよじって下を狙う。腕を伸ばして翻車を避けて、下半身に剣を這わす。
 さすがに動かねば避けられない。足を捌いて攻撃をかわせば、大剣の回転にムラが出る。隙を狙って逆を突かれる。
 マキアリイ自分でも考えずに左で短刀を抜いた。神兵用短刀は単なる金属の三角錐、だが強度は抜群、タコ樹脂甲冑でも難なく打ち抜く。

 ぎりん、短刀に神剣の痕が刻まれ、二人は跳びずさる。マキアリイは再び大剣を両手で握りじりりと間合いを詰め、打ち込む打ち合う。
 神兵同士の決闘が恐ろしいのは、どちらも決して疲れない点だ。飽きるまで同じことを全力で繰り返す。
 どんどん加速する激突に、周囲の風が渦巻いた。
 双方の背のタコ樹脂の翅が小刻みに羽ばたいて、空気をかき乱す。拮抗する圧力が暴風となって吹き荒れる。

 やがて埃を巻き上げ旋風に変わる。舞上がる砂が決闘者を包み、姿を隠す。周囲で見る者の視界を奪う。

「うぷぁ、は。」
 呼吸にも困る砂嵐に、人は顔を覆って頭を下げる。戦う二人はどうなったのか。
 さすがにこれはまずかった。互いに姿が見えなくなる。しばし休憩、飛び離れ南北のそれぞれの陣地に戻る。

「このくらいか。」
 マキアリイは大剣を確かめ言った。さすがに青い光が失せている。10分よりは長く保つらしい。

 砂嵐が去り視界が戻ると、皆それに気がついた。青晶蜥神の神威が去れば、マキアリイはソグヴィタル王の攻撃を受けられない。勝負は有った。

『しばし待たれよ!』
 観客席からギィ聖音の高い声が飛ぶ。紅曙蛸女王テュクラッポだ。彼女は勿論ソグヴィタル王の味方である。

 女王は隣の神衛士団長と語り、宣言となる。
「追捕師殿は再び剣に神威を宿し、攻撃に備えよ。それが決闘に定められた規則「互いに万全の装備を整えよ」に該当する。」

 意外な台詞に民衆はどよめいた。女王はソグヴィタル王が死んでもよろしいのか?
 いや、決闘の公正を保つことこそ天河の求めるもの。女王は正しい。

 見届け人が協議し、準備時間を与えると決まる。見れば互いに甲冑に損傷が有る。このまま放置して戦えば脱落した装甲で動きが妨げられ、双方納得しがたい面白くない事態になろう。
 ヒィキタイタンは、黄金の甲冑を革紐で縛り直してくれる神兵に言った。

「俺にも大剣をくれぬかな。」
「それは…、規則に反します。」

 マキアリイの次の手が読める。砂嵐は二度はごめんだ、今度は決闘場を飛び回る。
 大きく動けば細かくは切り結べない。背中の翅を用いて走り、追いすがる。交錯する瞬間に斬り、すり抜ける。
 神兵同士の戦闘は、近衛兵団で詳しく研究していた。
 聖蟲の力を十分に活用出来る武術の達者が激突すれば、幾つかの定型に落ち着くのだ。足を留めての激しい打ち合いもその一つ。
 一撃離脱を繰り返す状況であれば、一発の重みが欲しい。弥生ちゃんの神剣はこの戦には適していない。

「褐甲角神の加護を得られない、か。マキアリイめ、うまくやりやがった。」

 

 陣地に帰って来たマキアリイを見て、クワアット兵も巫女達も驚いた。
 分厚い重甲冑の装甲に深々と穴が開いている。それも5つもだ。どれも即死のはず。

「いや、中の肉体にまでは達していないぞ。刺されて困らぬ所を突かせたからな。」
 涼しい顔で答える兵師監は、上の空。ヒィキタイタンを次はどうやって追い詰めよう、そればかりを考える。

 トカゲ巫女は顔色を青くして大剣に神威の光を移す。カニ巫女クワンパはいつもの通りに化粧気の無い肉の薄い面に、……動揺を浮かべていない。
 苦情を言った。

「砂嵐は何をやっているか見えません。追捕の任は万人に正義を見せねばならぬのです。」
「分かっている。あれは重甲冑の狭い視界にも害があるのだ。もうやらない。」
「おねがいします。」

 励ましたり労ったりしない。そんな二人にトカゲ巫女は不思議を覚えた。
 クワンパは態度は冷たいのに、同じ方向を並んで見つめる姿に親しみを感じる。互いを信じ合っていると見えて来る。
 ひょっとすると勝てるのかも知れない。根拠無くそう思えて来た。
 だがトカゲ神殿の方針から言えば、ソグヴィタル王が勝ってくれた方が弥生ちゃんの為には良いのだ。どうしよう。

 マキアリイは最後に一つ大きく息を吸うと、再び蟲の面を下ろす。
 激闘の再開だ。

 

「やっと時間が取れた。決闘の気に当てられたのではないか、シュメ。」

 カンヴィタル鮮パァヴァトンが休憩の時間を利用して、シュメ・サンパクレ・アの桟敷を訪れた。
 彼女の席は他と違い御簾や帳を巡らして直接に外を覗けない。高貴な女人であれば当然の慎みであるが、紅曙蛸女王や劫アランサ王女は陽に身を曝しているので、逆に奇異な印象がある。

 帳の中に入ると幾人もの侍女が頭を垂れる。いずれも鮮パァヴァトンとシュメの関係を知り、それでも表には悟らせない行き届いた者だ。
 他の席では用いていない豪華な籐椅子が見える。
 妻の返事が無いので鮮パァヴァトンは気を揉んだ。やはり決闘など女人の見るべきものではない、気分でも悪くしてはいないか。

 籐椅子の傍に立ち、顔を窺い見る。

「! お前は、」

 シュメではない。
 黒衣に身を包み、漆黒の髪を豊かになびかせる長身の女。全身に漂う香気は「死」と「狂奔」を銘とする。
 人喰い教団『貪婪』の覇者にして、方台暗黒面に燦然と輝く闇の女王。不死の神人。
 無数の名を持ち最も古きは「ゴヴァラバウト頭数姉」、今は「カラミチュ」と幼子に呼ばす。

 鮮パァヴァトンとシュメを結びつけた者でもある。

「なにを驚く。カマンテ(鮮パァヴァトンとシュメの息子)を放ってシュメが長旅をするはずが無いだろう。私が代役だ。」
「だが、昨日は確かに…。」
「女の影武者など幾らでもこしらえて見せる。男と違い化粧という味方があるのでな。」

 女は白い手を振り、侍女達を追い払う。椅子を勧めるが、神衛士団長は立ったまま右手を剣に触れたまま尋ねる。

「それにしても大胆な真似をする。今この周りには無数の神兵が居て、聖蟲の感覚で幾重にも警戒の網を張っている。不審者を見逃しはしないぞ。」
「だがここに居る。」

 婉然と微笑む。今日は機嫌が良さそうだ。
 自分だとてこの女に会うのは数年ぶり、3度目でしかない。だがカプタニア神衛士の情報網で活躍のほどは知っている。
 最近はガモウヤヨイチャンに手を出し小気味良くあしらわれ、また幾つかの謀略を手掛けたはず。
 或る筋からの情報では、赤甲梢前総裁メグリアル王女 焔アウンサの暗殺にも関与する。

「……隣の席にはメグリアル劫アランサ王女が居るのだぞ。よく決闘見物など出来るな。」
「だが見届けねばならぬ。なにせ私の作品だからな。」

 御簾の外に動く気配が有る。ヒィキタイタンとマキアリイが共に立って、再び中央に相見える。再開だ。

「作品、と言ったか?」
「この決闘は私の作品だ。手塩に掛けて育てたのだよ。まあ、私だけの力ではここまで立派には育たなかった。元の素材が良かったな。」
「何の話か、見えぬ。」

「ヒィキタイタン事件だよ。アレを仕組んだのは私だ。」

 驚愕する。ヒィキタイタン事件は元老院において未然に防がれた政変で、圧倒的な先政主義派ハジパイ王を覆そうとしたヒィキタイタン等は逃亡や追放を余儀なくされた。
 王国最高の政治問題が、全て女の手の内にあったとは。

 長い睫毛を上げて、鮮パァヴァトンを見る。深い闇を思わせる視線は、だが濁りは無くどこまでも純粋な魂を覗かせる。

「疑わぬのだな。」
「お前ならそのくらいはやってのける。今ここに居て愛おしそうに見守るのだ、間違いないだろう。」
「うん。」

 女は再び外を見る。決闘は、今度は丸い柵の内を両者が凄まじい速さで飛び回り、一撃を叩き込む形となった。

「聞いてもよいか。何故そんなことをした。」
「お前の為だよ。ソグヴィタル王の代りにお前を元老院に座らせる。いずれはハジパイ王をも凌ぎ王国の全権を掌握する。」
「…戯れ言を、」
「だが今、お前は席に就こうとする。」

 カンヴィタル鮮パァヴァトンが属王位を授かるのも、女の仕業ということか。
 いかにも腹の蟲が納まらぬ風情の彼に、女は微笑む。まるで母親が新しい料理を作って息子で味を試したかの余裕だ。

「無論、お前の為だけではない。他に頼む者が居たのだ。」
「誰だ、いや何を頼んだ?」
「その者は、ソグヴィタル王の身を案じて私に願ったのだ。王は宮殿の中に留まってはならぬ、もっと大きな世界で多くの人を救う器量を持つと。」

「属王位では不足と言うのか。」

「女は、王が元老院の虚しい闘争で疲れ果て、変わらぬ状況に焦り時を失う姿を見かねて、私に救いを求めたのだ。
 あの方を王国の鎖から解き放ち、自由を、己が身一つで世界を掴める器量にふさわしい冒険をと願ったよ。
 代償に自らの命を差し出した。」

 遠くを見つめる優しい目に、悟る。その人は、ソグヴィタル王の身代わりとなったカタツムリ巫女ファンファネラであろう。
 今決闘が行われるこの場所で、女は大狗の牙に裂かれて死んだ。

 黒衣の女は再び男を見る。

「シュメが願ったのだよ。」

 ソグヴィタル王に代り、鮮パァヴァトンを政治の舞台に送り出す。
 虚しくカプタニアの山中で生涯を埋もれさせずに、己の器量にふさわしい活躍の場を表の世界に得て、思う存分の働きをする。
 寝物語にシュメに語ったことだ。
 女は男の夢を叶える為に、闇に願う。

 だがなんという違いだ。ソグヴィタル王は王国の枠から解き放たれ、自らの手で国を掴む。
 対して自分はようやくに、王の捨てた枠に収まり満足する。なんと矮小なのだ。

 内心の屈辱を見透かして、女が優しく語り掛ける。

「己の器量を恥じることはない。ソグヴィタル範ヒィキタイタンは英雄だ、千載の歴史に名を残す人物だ。
 だが世界を動かすのは彼ではない。名も無く忘れ去られる小さな者達の営みだ。」
「私は、ちいさいか…。」

「ちいさな子供であるから、私は愛する。
 カンヴィタル鮮パァヴァトン、そなたはソグヴィタル王を真似てはならない。見習うべきはハジパイ嘉イョバイアン、まもなく人に忘れ去られる男だ。」

 

 がす、とひときわ大きく鈍い音が響く。
 剣を振るのも億劫と、甲冑の肩をぶつけ合ったのだ。

 両者飛び回り致命の一撃を窺うこの戦法は、いつまで経っても決着が付かない。やはり足を留め存分に打ち合わねば、身の内に滾る聖蟲の力が納得しない。

「三合戦だ!」

 蟲の面を捨てたマキアリイの叫びに、ヒィキタイタンも応じる。
 三合戦とは黒甲枝の剣術の稽古で使われる方法で、3合打ち合っては離れ、また打ち合う。闇雲に叩き合っても上達は無く、1回ごとに頭脳を使い技巧を凝らして攻防をせめぎ合う。
 飛び回るのを止めて双方中央に歩み寄り、剣を正面にかざして礼をする姿に、黒甲枝は沸き立った。
 三合戦か! これは技量の違いが露骨に出る。ソグヴィタル王の剣技と、マキアリイと、どちらが上かはっきりする。

 既に大剣の青い光は失せた。だが再度の神威を求めない。
 マキアリイは理解した。自らも神剣を振るってみて、その限界を知ったのだ。
 ヒィキタイタンが刃と刃をもろにぶつけ合う素人くさい戦い方をするので惑わされる。普通の剣でこんな真似をすれば、すぐに痛んで使えない。
 だが神剣は違うのだ。刃が最も強く、それ以外は脆い。いや神威を帯びる前と強度が変わらない。
 弱点が分かれば、無理に斬鉄の能力を借りる必要は無い。いつもの通りに刃を避け鎬をぶつけ合えば良いのだ。

 黒と黄金の甲冑がじりじりと間合いを詰める。
 どちらが先という決まりは無い。呼吸だ。互いに吸い寄せられるかに打ち合い弾き、交わして、戻る。
 神経を使う。黒甲枝武術の粋を凝らした高度な技法が発揮され、返し技が炸裂する。読み合いの勝負だ。
 いかに聖蟲を戴いても、三合戦で一般人の達人に遅れを取った例はいくらも有る。

 一見して地味な戦だ。短く打ち合ったと思えば互いに離れ、呼吸を探る。止まるかな、と思うとまた打って離れる。
 民衆にはこれまでの派手な戦いの方が受けが良い。だが黒甲枝はクワアット兵は息を詰め見守り続ける。
 ああまたレメコフ殿は大剣を飛鳥のように走らせて、脚に打ち込むと見せ脇に切り上げた。
 対してソグヴィタル王は誘いに乗らず、動きに合わせて神剣を2度も頭に落す。封じられたのはレメコフ殿が重甲冑に華麗な足捌きを使ったからだ。

 三合戦は1回ごとに間合いと呼吸を計り、策を巡らせて攻防を繰り返す。
 だが間隔が早まった。決闘をする本人達は気付いていないが、一息ほども開けずに次の攻撃に移って行く。
 動きも早く鋭くなる。間合いが離れ矢のように疾る。
 先程までの決闘場全体を使っての追い掛けっこと同じに大きく早く動いていた。

 聖蟲だ。褐甲角神の力で両者を後押しし、知らぬ間に飛ぶ勢いを与える。
 これが神兵本来の格闘か、と改めて神兵達は思い知った。いつもは人間の枠を越えずに戦っているが、互いの技量が拮抗し極限を覗けば、これほどまでを見せるのか。

 ゲイルの背で見るイルドラ姫他のギィール神族も、こんなもの相手には到底敵わぬとさじを投げた。
 褐甲角神はとんでもない力を下界に与えている。まともに発動すれば、金雷蜒王国を滅ぼして方台を統一するのも容易かろう。
 悲願が叶わなかったのは、偏に人間の限界だ。魂の無限を弁えず勝手に枠を定める愚かさ故に平穏無事の千年が保たれる。

 ガモウヤヨイチャンが起した奇蹟だ。彼女が居なければ、彼らもここまで戦えぬ。
 すべての人の願いを叶えるのが救世主の使命と心得る。
 神兵の願いとは、正にこの光景。

 それが証拠に。

 

 ぶうぅん、と決闘場に満ちる音が有る。二人の甲冑の背の翅が震える唸りだ。タコ樹脂の薄い板がカブトムシの聖蟲の霊力で振動して、推進力を生み出す。

 音が、道全体に溢れ出す。見守る多くの民衆を、警備の兵の頭上を越えて拡がり、熱い空気を揺さぶった。
 中心の二人だけではない。立ち会う褐甲角神の聖戴者すべての額で唸りが起こる。
 神威の極限までを引き出す決闘に、聖蟲が感じて震え出す。

 遂には「死の庭」全体が甲高い音に埋め尽くされた。
 これはたまらぬ、と耳を押える人々。だがすぐに手は離れる。
 バラバラに羽ばたく聖なるカブトムシが同調し、調律し、一つの歌を奏で出す。

 中心で戦う二人を指揮者として、数多の聖蟲がそれぞれの声を響かせた。カプタニアの城全体が楽器となり、巨大なアユ・サユル湖に美しい波紋を描いて拡がって行く。

「来るな?」
 鮮パァヴァトンと共に決闘の不思議な展開を眺めていた黒衣の女はつぶやく。
 人に見られるのも構わずに、帳の内より抜け出した。

 予感だ。誰もが理解する。
 帰って来る。皆が待ち望んだあの人が、カブトムシの歌声に誘われて王都カプタニアに舞い降りる。

 

「空を見ろ!」
 叫ぶ声が有る。だがどこに、

 目ざとい人が北の空、カプタニア山の上を指差す。光るものが小さな点となって、こちらを目指す。

「…鳥か。」
「カブトムシ、か。」
「空中飛翔者か?」

「いや、ガモウヤヨイチャンさまだ!!」

 7メートルも有る巨大な黄金のカブトムシが飛翔する。陽光を燦然と撒き散らし、カプタニアの隅々にまで照り返す。
 カプタニア山神聖神殿から失われていた褐甲角(クワアット)神の地上の化身だ。
 金翅幹元老員だけは不在の秘密を伝えられていたから、帰還に祈りを捧げて言祝いだ。

 カブトムシ神の肢の間に肥満した巨漢がぶら下がる。
 彼は旗竿を必死で抱きしめ、空から落とされないようひたすら耐える。
 はためくのは、青地に女人の顔の人頭紋。「神殺しの神」ぴるまるれれこの紋章。
 ガモウヤヨイチャンの王旗である。

 そして、背に在る人は。

「青い服、黒く先細りのする長い髪、小さな身体に世界を揺るがす力を秘めた無敵の少女。」
「ガモウヤヨイチャンさまの御帰還です。」

 人は我先にと走り始め、空を舞うカブトムシ神を追い始めた。もう決闘なんか見ている場合じゃない。

「御無礼。」
 仮設の観客席から歩み出たメグリアル劫アランサ王女は紅曙蛸女王、金翅幹元老員らに非礼を詫びて、宝剣を抜き舞上がる。
 褐甲角王国唯一の空中飛翔者だ。

 後方より衣をなびかせて追いすがる王女の姿に、人はまた熱狂した。
 王女の誘導により、弥生ちゃんは決闘場のすぐ傍にある旧カプタニア城、白亜可憐な神聖金雷蜒王国時代の屋根に向かう。
 巨大なカブトムシ神は丸屋根にしがみ付いて着地。弥生ちゃんを下ろす。

 「ネコと弥生ちゃんは高いところが好き」の格言は、これより生まれた。

 一足早くに城の物見台に落とされた旗持ちは大きく左右に振り、救世主の帰還を改めて宣言する。

 

 取り残された二人の決闘者も剣を納めるしかなかった。
 かなりの打撃を食らい変形した黄金の眉庇を上げて、ヒィキタイタンは中断された死闘を惜しむ。
 あっという間に人の注目をかっさらって行った弥生ちゃんに、誰にも聞こえぬ愚痴を言った。

「こいつは、卑怯だな……」

 

【グランド・エピローグ】

 下界に巨大カブトムシ神が顕現したのだ。神聖神殿からも神母クメシュ以下神官巫女がおっとり刀で飛んで来る。
 王宮からもハジパイ王が後れ馳せながら現れ、地に伏して拝む。

 旧カプタニア城に翻るぴるまるれれこ旗の下より、メグリアル劫アランサ王女が1本の巻き物を抱えて姿を見せる。
「武徳王陛下の御勅状です!」
 押し寄せる群集を前に、王女は宣言する。ガモウヤヨイチャンは武徳王よりの命令書を授かって、この地に降り立った。
 まずは内容を確かめねばならぬ。山蛾の絹の巻き物は、裏に間違いなく武徳王の紋章が刺繍されている。

 確かめるのは最年長の王族であるハジパイ王であるべきだ。だが決闘を司って居たのはカプタニア神衛士団長、武徳王の甥。
 カンヴィタル鮮パァヴァトンが読み上げる。
「武徳王陛下の御諚である。
 ガモウヤヨイチャンを陛下の名代に任じ、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンの仕置きにおいて全権を委ねる。また褐甲角神より直接の命を受け、聖蟲の授与剥奪の権を認める。」

 聖なるカブトムシを授け召し上げる能力は武徳王のみに許された。つまり弥生ちゃんは武徳王とまったくに同格となる。
 誰も逆らわず、異議を唱えない。褐甲角神の地上の化身に乗って空を飛び舞い降りたのだ。何人が抗えよう。

 城の丸屋根に仁王立ちする少女の声が轟く。「日本三大バカ声」を自称するだけあって、広場を埋め尽くす人を圧する迫力だ。

「ソグヴィタル王 範ヒィキタイタン!」
 以前に会った事の有る者は涙を零す。まぎれもなく、弥生ちゃんの声。
 侮りを受けるほど高からず、人を恐れさせるほど低からず。鐘が鳴るかに目を覚まさせ沈んだ意気を奮い立たせ、それでいて暖かく心を包み込む。
 史書には幾重にも美辞麗句を連ねて称えられるが、贔屓目の評価を抜いたとしても耳に心地の良い響きには違いない。

 到る所に傷を負い鋼が裂けた黄金の甲冑を纏ったまま、ヒィキタイタンは進み出る。人が左右に分かれ道を開ける中、堂々と進む。
 兜を脱いで跪き、天よりの声を授かる。

「ソグヴィタル範ヒィキタイタン、そなたの所業は王国の法を逸脱し甚だ許し難し。極刑を持って処するも理だが、武徳王陛下の御憐れみにより一命を留める。」
「有り難き御計らいに感謝いたします。」

「裁きを申し渡す。聖蟲の剥奪、属王位の剥奪。褐甲角王国よりの即刻の追放、以後無縁の者として扱う。」
「はっ!」

 ここまでは良い。想像の範疇で誰もが胸を撫で下ろす。名誉から言えば聖蟲の剥奪の方が死を賜るよりも重いのだが、今の方台情勢を考えれば甘受すべきであろう。
 続きがある。

「またソグヴィタル範ヒィキタイタンの妻子も同様に王国よりの追放、聖戴の継承権剥奪とする。」
 これは厳しい。いや、これを避ける為にヒィキタイタンの支持者達は努力して来たと言える。
 10歳となった王太子 貞アダンが次のソグヴィタル王位を継ぐ。長年続いた元老院の均衡を守る為に、是非とも必要な措置であった。

 屋根の上の弥生ちゃんは右手を伸ばし、掌を上に開く。
 ぶん、とヒィキタイタンの額の聖蟲が羽ばたき、宙に舞う。黄金の煌めきで線を描きながら城に向かい、弥生ちゃんの手まで飛ぶ。

 即刻の剥奪。群集はおろか金翅幹元老員ですら見た事の無い光景だ。
 そもそもが聖蟲剥奪の刑など10年に一度も起らない。処罰に使う特別の神殿が用意され、武徳王と神衛士のみが立ち合い執行される。
 人々はどよめいた。ガモウヤヨイチャン、容赦無し。

 驚くのはまだ早い。

「ハジパイ王 嘉イョバイアン!」
 声が届くと同時に、ハジパイ王の額の聖蟲までもが飛び立った。先ほどと同じに高く舞い、群集の頭上を越えて裁定者の元に向かう。
 掌に着地して、説明が一言述べられる。

「御苦労。」
 引退勧告だ。以後国政に関わるを遠慮する旨が申し渡される。
 ハジパイ王、いや既にただのハジパイ嘉イョバイアンは抗議もせず、ただ頭を低く伏せた。

 動揺したのはむしろ周囲の者達だ。特に金翅幹元老員は狼狽に近い無秩序な動きを見せる。
 政変とはもちろん敵味方あっての事。双方に等しく罰を下されるのであれば、加担した者にも当然の報いがあろう。
 天の声はまだ続く。

「ソグヴィタル王家とハジパイ王家は元は一つだと聞く。この場には居らぬがハジパイ王太子 照ルドマイマンはソグヴィタル王を名乗り、旧に復するを命ず。」

 決定的な処分だ。ヒィキタイタンとその血統を受継ぐ者は、決して褐甲角王国への復帰を許されない。カブトムシの聖蟲を戴くことは永遠に無い。
 これが裁定者、審判者ガモウヤヨイチャンか。

 粛として、万を越える人は身動き一つ出来ない。
 恐ろしい。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンは、恐ろしい人だったのか。
 「神殺しの神」、それが本質か。

 青い衣の腰の後ろに挟む神秘のハリセンを抜いて、剥奪した黄金のカブトムシを異次元に仕舞い込む。
 背後を振り向き巨大カブトムシ神にちょっと挨拶をする。
 屋根に止まる神は大きく薄翅を拡げて風を呼び羽ばたき震え、元の神座カプタニアの森に帰って行く。

 弥生ちゃんは屋根を飛び降り、旗持ちを従えて一度屋内に引っ込んだ。しばし後、正面玄関の扉を開いて美しい石段を降りて来る。
 人々は草が踏み折られるかに足元に跪き、救世主の帰還の喜びに震える。

 恐怖こそ神だ。正義だ。民衆の力だ。名も無き力無き人を救う、唯一の御手だ。
 世界が変革する強い実感と共に、異界の少女の名を呼ぶ。

 後はもう、大騒ぎ。

 

 数日後。
 東街を抜けてスプリタ街道に向かう老人の姿がある。供は一人、カニのように横幅が広く背を大きく丸めた男だ。

 ハジパイ嘉イョバイアンはただの人となった。ただの爺いであらねばならぬ。
 王都に留まれば金翅幹元老員以下様々な者が訪れ、彼の言葉を授かろうとする。政治の混乱を防ぐ為、背後より支えよと懇願する。
 それでは困る。後は若い者が頑張れば良い。
 激動する時代の流れに逆らうも従うも、己次第とするべきだ。

 イョバイアンは王都を逃げ出した。折角すべての責務から解き放たれたのだ、行きたい所は幾らでも有る。
 マナカシップ島の神族達が自分達の元に来いと誘う。それも良いが、見たいのだ。
 自分が50年を政治に費やした王国の成果、あるいは弊害。
 戦場にも行きたい。大審判戦争の跡を省みて、己の欠けたるを知らねばならぬ。

「お疲れではありませんか?」

 唯一人の供であるゲワォが翁を労る。引退したというのに皆が「王」「先王」と呼ぶのに閉口し、「ハジパイ翁と呼べ」と命令した。
 ゲワォは真っ先に順応し、以後は決して「王」とは呼ばぬ。だから連れて行く事にした。
 力持ちだし気が利くし、世情にも通じ人との交渉も上手い。これからの旅に重宝な僕だ。

「城市を出ただけというのに、もう足が棒のようになってしまったわ。はは、これが歳相応の老いというものだな。」

 カブトムシの聖蟲を額に戴いていれば分からない。年毎に衰えるとは思っていたが、真の老いをようやくに実感する。そうか、これが当たり前の人というものか。

「少し休みましょう。先は長うございます。」
「うむ、もう無理は効かないな。」

 街道の端に腰かけて、人の流れを見る。今日は東向きの流れは少ない。
 カプタニアでは、弥生ちゃんが西回りでデュータム点に出発すると大忙しだ。
 彼女は方台に最後に残された謎、蘇った紅曙蛸女王五代テュラクラフに引導を渡しに行くという。「神殺しの神」に休む暇は無い、御苦労なことだ。

 自然、東側の街道は人の行き来が少なくなる。
 旅立ちを今日に定めたのも、それが理由。手空きの日ならば大行列で見送る馬鹿が出るだろう。

 ゲワォが近くの出店に寄って水などを買う。その間翁は一人となるが、実はなんの心配も無い。
 来るなとは言ったが隠密で護る者が幾人も潜んでいる。彼らを如何に巻くかも旅の楽しみというものだ。

 それにしても、と改めて弥生ちゃんの裁きを振り返る。あの小娘は実に上手くやった。
 問題は、自分であったのだ。ハジパイ王 嘉イョバイアンをどうやって政界より排除するか、これが全てを解決する鍵だった。
 理を尽して論じても通らない。金翅幹元老員は総力を挙げて自分を擁護しただろう。
 だがあの場所で、ヒィキタイタンと両成敗で聖蟲を召し上げれば、誰が抵抗出来ようか。

 一瞬で褐甲角王国は次の時代へと装いを換えた。振り向く者は誰も居ない。
 ヒィキタイタンも王国より排除された。完璧にだ。わずかでも繋がりを残していれば、縋る者も出ただろう。
 彼はもう紅曙蛸王国の臣なのだ。妻子を連れて晴れて宰相の任を続ける。弥生ちゃんの後押しで、南海に自らの王国を再建しよう。

 これが天河の計画なのか? 何やら出来過ぎている感が有る。
 おそらくは弥生ちゃんの器量だろう。彼女でなければこんなに上手くは、手品のように鮮やかには成り立たない。
 青晶蜥神救世主はすべての人の望みを叶える。
 世人はそう評するが、まさにと納得する。なにしろこの爺の望みまでも見抜いて、成し遂げてしまうのだから。

 イョバイアンは前々より黒甲枝の在り方に憧れを抱いて来た。
 黒甲枝の神兵は軍務に適さない50歳前になると、自ら聖蟲を返上し息子に譲る決まりである。神兵はゲイル騎兵との戦闘を第一義とするから、当然の習慣だ。
 王族と金翅幹元老員は違う。15歳、18歳で授かれば死ぬまで手放さない。

 これは良くないと前々から思っていた。人間歳を取れば相応に老い弱るべきだ。
 カブトムシの聖蟲は老いを忘れさせ、いつまででも自分が生きて行けるかの錯覚を与える。政治にもそのつもりで参画する。
 千年変わらぬ世ならばよかろう。だが激動の時代には決定的な過ちを引き起こす。

「考えてみれば、年寄の望みというものを、儂は知らなんだな。」

 

 しばらく雲の流れるのを眺めていると、王都の方から珍妙な行列がやって来た。
 ネコだ。十数匹の無尾猫が真っ白な繭玉のように絡み合いながら、道を進んでいる。中央に立つのは若い女人。

「あ。」
 女は気が付いた。道の脇に座る妙に品の良い老人は、先のハジパイ王 嘉イョバイアン様。
 立ち止まり、衣の裾を優雅に捌いて王族への最敬礼を捧げる。先日王宮で見た通りの美しい所作だ。ネコも華麗な姿に目を細める。

「ヒッポドス弓レアル殿、それはやめてくれ。儂は今はただの爺いだ。」
「それではこれで。」

 弓レアルは通り一辺倒に頭を下げる。うむ、それならばよろしい。
 ゲワォも戻ってくる。王都を離れる事の無かった彼女が、何故街道を一人で行くのか。
 女は若い顔をほころばせ、喜びと共に答える。王宮で会った、ヒッポドスの中庭で会った時とはまるで別人のように華やかだ。

「ネコたちが見付けてくれました。カロアル軌バイジャンさまの居所が判りました。」
「おお!」

 翁とゲワォも喜びの声を上げる。それはめでたい。
 イョバイアンは女を優しく労う。

「長の心痛もようやくに癒されたな。良かった。」
「有難うございます。今から夫を迎えに参ります。」
「うむ。だがどちらまで行かれるか。」
「エイベントへ、いえ今はもう南の方に移動したと思います。ネコだけでなく、人を頼んで確認もお願いしております。」

「うん、うん。良かったな。では急ぐな?」
「はい。」

 立ち話もそこそこに、弓レアルは「ただの老人」に軽く頭を下げて再び先を急ぐ。心はもう南の海に泳いでいた。
 あっという間に遠くを歩むネコの塊に、翁は目を細めた。なんという速さ。浮き立つ心が足取りまでも軽くする。

「あれが若さというものだな。羨ましい。だが、女人一人で良いのか? ネコは人の世の助けとはなるまい。」
「あの方に付いている家庭教師は良く心得た気の利く者です。心配は要りません。」

 ゲワォも遠くに過ぎ去る弓レアルを満足げに見送った。大丈夫、ハギットはちゃんとやってくれる。

 よいしょ、と自ら立ち上がり、イョバイアンも旅を急ぐ。こちらは背後から死が忍び寄って来るのだ。ぐずぐずしている暇は無い。

 広い街道に戻った彼は、目を感じた。幾千もの視線が自分に集まり、次の動きを期待する。
 何者かは知らぬが、教えておいてやるのが親切だろう。

 イョバイアンは振り返り、口を開く。

 

「もうしばらく続くのだよ。」

 

   〜『げばると処女』EP7最終巻 了〜

 

『げばると処女』 APPENDIX

   【一方その頃弥生ちゃんは、無茶をしておりました】

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