げばると処女

エピソード6 青晶蜥神救世主の不在

後篇

第八章 青髪白鯣の呪い

 「ゲルタ売りの少女改めイカの女王」トゥマル・アルエルシイ(15歳)は、朝起きると髪の毛が真っ青になっていた。

「お、おじょうさまその御髪はいったい!」
と叫ぶ婆やのメショトレに、なにを大袈裟なとねぼけまなこで起き出して、東金雷蜒王国製の大きな鏡の前に立つ。

「?、…?、夜中になにか、…青い塗料がかかったの??」

 十二神方台系の人間の髪の毛は、幼いときは皆等しく黒く、アルエルシイの歳あたりから急に色が褪せて赤から茶色・黄土色になる。
 裕福で肉をよく食べる者は赤に、貧しくゲルタばかり食べる者は黄土色になる。歳を重ねるに従いだんだんと薄く白くなり、50歳に達するとほぼ真っ白になる。
 ただ高位の神職に有る者は精進潔斎して肉魚の類いを食べられないから、かなり早い時期に白くなる。
 さらに大病すると急に色が褪せる。アルエルシイの年長の友人ヒッポドス弓レアルは幼い時分に病を得て、今はすっかり健康を取り戻したが年に似合わぬ薄紅色だ。

 だが青い髪というものは、物語でも聞いた事が無い。

「あ、青い?」

 一本引っこ抜いて確かめる。幼いままに漆黒であったアルエルシイの髪、ようやくに美しく色が変わるかと期待していたので注意深く観察していた。
 昨日までは何事もなく、数本が赤く変わり始めていたというのに。

「青?」

 抜いた髪の毛は、単に青いのではない。中が透けて透明になっている。青い硝子の糸に見えた。
 鋏で切って切り口を見る。確かに中まで透明だ。

「あおいじゃない!」
 今更に叫ぶが、青いものはあおい。何故こんな色になるのか、心当たりが全く無い。

「おじょうさまおじょうさま、ああどうしようこれは呪いだ。トカゲ神さまの呪いに違いない。」

 メショトレはおろおろとするばかり。アルエルシイの髪に触れようとするも、恐ろしくて手が出せない。
 うろたえる他人の姿を見て、逆に本人は冷静になる。

 呪い? トカゲ神の? 青晶蜥(チューラウ)神はたしかに青色を象徴とする神様だが、天罰で髪が青くなった人の話なんて知らない。
 また青晶蜥神の御使いの髪が青いとも聞かない。現に青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンさまの御髪は、見事なまでに黒いと伝えられる。

 アルエルシイはメショトレをなぐさめ落ち着かせる為に、声を抑えて言った。

「呪いというよりは、これは見入られたと考えるべきではないのかなあ。トカゲ神が私になにかお告げを下された、とか。」
「いーや、これは呪いでございます。そうだ、トカゲ神とは限らなかった。おじょうさま、これはひょっとしてタコ神さまの呪いではないですか。」
「紅曙蛸(テューク)神? あー、…イカの呪い?」
「そうでございますよええきっとそうです。ティカテューク(イカ)はテューク(タコ)の仲間ですから、きっと罰が当たったのです。ああ恐ろしい。」
「イカの罰ねえ。」

 もちろん無教養のただのおばさんであるメショトレの言を鵜呑みにはできないが、イカのせいとする考えは少しうなずけた。
 なにしろアルエルシイはイカ事業拡大の為にカプタニア中を走り回り、日夜イカ料理を勧めて来た。毎日イカばかり食べていた。
 おそらく自分は、カプタニアに生きた人の中で最も多くイカを食べている。身体に影響があって不思議はない。

「そうか、イカか。」

 

「そりゃあ、イカのせいだろう。間違い無い。」

 病気であればトカゲ神殿に御参りするべきだが、かなり大事になりそうなのでやめた。代りにカプタニアでも指折りの博識を誇る学者に意見を聞きに行く。
 白髪の老学者は70歳の高齢だが足腰も目も確かで、声も大きかった。アルエルシイが髪を隠してきた頭巾を外すと、即座に断定する。

「それは紛れもなく、イカを食い過ぎたせいだ。」
「はあ。やはりそういう例がございますか。」
「いや無い。」

 戸惑う少女を放って、老学者は部屋一杯に詰め込まれた本を漁り出す。何千冊もの封板の列の中から、これまた分厚い大きな本を取り出した。
 葉片を横4枚綴った大きな頁が開かれる。ところどころ絹の布に描かれた絵も収められる事典だ。
 皺のよった指が示すのは、まさしく「イカの章」。

「イカを食うと髪が青くなる、そんな例は記述されていないが、可能性は高い。何故ならば、」
「何故ならば?」
「イカの血は青いからだ。」

 アルエルシイは宙を眺めて考える。
 イカを商っているとはいえ、自分が見るのは平たく伸ばされたノシイカばかりだ。生きたイカは見ないし、その血がどんな色をしているか考えもしない。そもそもイカって血があったのか?

「イカの血を先生は御覧になりましたか?」
「いや無い。食った事も無い。」
「…後ほどお届けいたします…。」
「だが学問とはそういうものだ。自分では直接に触れていなくとも、文字により知識を共有し多数の知恵を寄せ集めて考える。第一だ、」

 老学者はアルエルシイをぎろりと見る。彼の孫、いや曽孫の歳になるアルエルシイは彼が生涯を賭けて溜め込んだ知識の量を推察も出来ない。

「おまえさん、歳は15と言ったな。髪の色が変わる頃だ。」
「はい。」
「ではどうして、人は歳を経ると髪の色が変わるのだ?」
「え? えーそれはー、考えた事もありません。」
「ほれみろ。自分が毎日頭にのっけているものですら、その有り様だ。身近というならば、若い娘は自分の髪を毎日弄っているだろう。それでいて何も知らない。」
「反省いたします。」

 確かに自分は何も知らない。知識の権化たる彼にしてみれば、赤子同然に思えたのだろう。
 たとえ生イカを食べた経験が無くとも、偉い大先生の言葉は尊重しなければならない。

「現在の科学の解答ではな、髪の色は本来一種だと考えられている。生まれた時の黒一色だ。」
「はあ。」
「で、これが年を経ると劣化して色を失っていく。つまり子供の時にだけ色が作られるのだな。」
「はあ。」
「食べるもので人により色が変わる。つまりは食べ物の影響を受けてその色素が変化する。古今の歴史を紐解いても日常の観察からでも、肉にのみ反応するようだな。魚ではない。」
「えーつまりは肉を食べると赤くなるのが特別で、本来はゲルタ色ですか。」
「うむ、肉に含まれる栄養こそが髪の毛の色を変える要因だ。穀物にも野菜にも果物にも乳にも、髪の色を変える力は無い。漁師町の人間の髪はゲルタ色だ。魚を腹一杯食べても赤くはならない。」
「なるほど。」

 青い髪の話にはなかなか進まないが、老学者の講義を大人しく聞く。なにせ彼に会うのに結構なお布施が必要だったのだ。代金分の元は取って帰らねばならない。
 大先生さまは引っこ抜いたアルエルシイの髪を新しい葉片に糊で貼り付ける。本人の同意も無しに標本にされてしまった。
 さらに不思議な硝子の玉で透かして見ている。

「おお、これが気になるか。これはガモウヤヨイチャン様が方台にもたらしたもうた「眼鏡玉」というものだ。目の悪い人の視力を回復させ、小さなものを大きく見せる働きがある。2枚重ねて使えば遠くのものが手に取るように近くに見えるとも言うな。」
「それは神宝ですね。どのように御入手されましたか。」
「仔細を聞いて、儂が作った。」
「はあ。」

「これで見ると、まさしく中身が無いな。氷のような透明さだ。」
「はあ。」

 アルエルシイも自分の目玉で確認した事実だ。神宝も役に立たない。

「このような髭を持つ魚やカタツムリが方台にも棲息している。ものとしては不可思議というほどではない。人間には過去例が無いだけだ。」
「はあ。」
「鑑みるにこれは髪の色素、赤とか茶になったりする奴だな、これが無いと推察出来る。」
「青くなったのではないのですか?」
「違うと思うな。本来有った色素が破壊されたと考える。無論今後の研究は不可欠だが、儂の勘は当たるのじゃ。」

 勘ときたかあー、とアルエルシイは卒倒しそうになった。これでは当然、解決策など絶対出て来るはずが無い。
 大先生さまの話は続く。

「要するにイカの肉には人間の髪の色素を破壊するなんらかの物質が存在するのだな。なにか他に体調の異変は無いか?」
「私はありませんが、ネコに与えたところ死に掛けたとか、」
「当たり前だ。ネコになぞそんな高価なものを食わせる方がどうかしている。」
「…。」

「本を読んだところでは、髪が青くなる事例は本当に無いな。イカを常食する漁師町であれば一人くらい居そうなものだが、本当に記述が無い。」
「ではイカではないのですか?」
「だが漁師町の人間はノシイカなんぞ食べんからな。生のイカはノシイカを戻したものなど及びもつかぬ美味だそうだ。イカを食うならば漁師町に行け、と「献立事典」のペトレハイム王子も言っておる。」
「はあ。」
「方台の歴史上、そなたほどノシイカを食った者が居らんのだ。体調がどうなるか想像も出来ん。」
「はあ。」

 結局何の役にも立たなかった。諦めて帰ろうとするアルエルシイに、だが老学者は極めて賢い言葉を贈った。

「良いではないか。イカを食ったら髪がトカゲ神の色になる。これほどイカ事業の援けになる宣伝は無いぞ。」

 

 まったくもってそのとおりである。

 ダメ元でトカゲ神殿に治療に行くと、神官巫女は驚き崇め、アルエルシイはそのまま祭壇に連れ出されてしまう。
 カプタニア中の善男善女が集まる中で自分の青い髪が披露され、驚く人の顔と声に宣伝効果は万金をも上回ると肌で感じる。

 そのまま御輿に乗せられて東街の通りを連れ回された挙げ句に、ガモウヤヨイチャン御帰還の祈祷に連れて行かれた。
 ボウダンの地で天空に消えた弥生ちゃんを、全ての人が心配している。ありとあらゆる手段で取り戻そうと試みる。
 アルエルシイの青い髪は、いまだ青晶蜥(チューラウ)神が人間を見捨てていない証拠だと確信させる力が有った。

 その夜、また例のようにイカ料理推進の宴に出席したら、昼間の騒ぎを聞いた人にアルエルシイはもみくちゃにされる。
 特に若い淑女達に青い髪は大人気で、皆髪の毛を直に引っ張って染めたのでないと確かめ、羨望の溜め息を漏らす。
 或る金翅幹家の姫君は特に念入りに髪を確かめ、くやしいくやしいと零していた。翌日、彼女はトゥマル商会の本店店舗に直に足を運び、ノシイカを1箱分も買って行ったという。

 

「なにか釈然としないけれど、いいのかな?」

 体調はまったく問題ない。むしろイカを食べる前よりも元気なくらいだ。
 無尾猫が草むらから飛び出していきなり引っ掻こうとするのを除けは、イカは彼女に富と名声以上のものをもたらしてくれる。

「しかしまた、本当に不可思議な色でございますねえ。」
「うん、見る方向によって微妙に色も変わるのよ。中が透明だから、光が不思議な色になるのね。」
「ほんとうに素晴らしい御色で。」

 やっと暇を見付けてヒッポドス弓レアルの家に飛び込んだアルエルシイは、ほっと息を吐く。
 弓レアルの家庭教師ハギット女史も、改めて青い髪の実物を見て驚いた。この人を驚かせるのはなかなか難しいので、アルエルシイはちょっと嬉しい。

「で、レアルさまは?」
「茫然自失、というところです。」
「やはりまだダメですか…。」

 婚約者カロアル軌バイジャンを失った弓レアルは終日自室でぼーっと空を眺めるばかりだ。庭の草木は荒れ放題、ネコ達の噂話にも耳を貸さずこの世の全てから関心を無くしたに見える。

「ですが、午後になると気を取り直してカロアルの奥様をお慰めにお出でになるのです。お嬢様は頑張っておいでですよ。」

 ハギットの言葉はむしろ痛ましい。黒甲枝カロアル家では当主と後継者を共に失い、悲しみはなお深い。弓レアルは必死で義母となるはずであった人を支えているのだが、それが許されるのもさほど長くはなかろう。

「でもカロアル様はどうなるのでしょう。聖蟲を返上しておしまいになるのですか。」
「兵師監まで務められた御家をそんなに簡単には潰せません。御令嬢の斧ロアラン様が婿をお取りになり家を継ぐ事となりましょう。」
「斧ロアラン様といえば、デュータム点とウラタンギジトでメグリアル王女 劫アランサ様にお仕えしたと聞きました。カプタニアにはいつ御戻りになります?」
「まもなく、と聞いております。ガモウヤヨイチャン様が失踪なされたのでデュータム点に留まる必要も無くなりましたから、すぐに。」
「婚約の正式な解消はその時ですね…。」

 深く同情するアルエルシイだが、しかしハギット女史の様子が気になった。
 家庭教師の定番衣装である地味な濃紺の長い裾を引き、ハギットは窓辺に座る弓レアルを見る。いたわりの気持ちは伝わって来るが、なにか普通だ。
 彼女は以前と変わらぬ視線で弓レアルを見守っている。

 無遠慮ながら確かめた。

「もしや、次の縁談が決まっているのですか。」
「まさか。…ああ、アルエルシイさまはもう少し喪に服する態度があるべきだ、と御考えですね。」
「普通はそうするでしょう。」

「そうですねえ。でもお嬢様は不思議なひとですから。」

 なにが不思議なのかは教えてくれない。だが弓レアルが自分で腰を上げるまで、ハギット女史もじっくりと待つ気らしい。

 

 

 その夜もアルエルシイは宴会の席に居た。
 最初は王国を動かす金翅幹家や黒甲枝の格式と威厳に眼を見張るばかりだったが、慣れてしまうと別の側面も見えて来る。
 特にガモウヤヨイチャン失踪を受けての会話や密議を漏れ聞くと、これが正義と信義の王国かと疑うばかりだ。

 アルエルシイが理解するところでは、褐甲角王国は今非常に難しい状況に有る。
 弥生ちゃんが在ればこそ金雷蜒王国との和平も考えられたが、失踪し仇敵同士が直接顔を突き合わせるとなれば、王国の真価が問われてしまうのだ。

 これまで幾重にも覆い隠して来た褐甲角王国の真実の姿、それは人間の限界と言って良い。
 聖蟲を戴く者でなければ無知蒙昧の民衆を善く導き得ない。だが褐甲角王国は人間が善なる存在、知恵有る判断が出来る前提で成り立っていた。
 この矛盾が至るところで噴出する。弥生ちゃん降臨を受けて、箍が外れたかに暴れ出した。

 愚か者が自らの姿を見たくなければ、鏡を割るしかない。
 だから宴会に集まっている金翅幹家の家令執事や黒甲枝の官僚、軍人は、鏡を突き付けた弥生ちゃんを陰ながら恨んでいる。
 天河の計画に基づいて働く救世主を密かに排除する算段すら繰り広げる。

「うぷ。」

 飲みつけない酒を無理に呷って、アルエルシイは迷いを晴らそうとする。が、余計気持ち悪くなった。
 おそらく自分には陰謀に対する耐性が備わっていない。これは家系的な、血によって伝えられて来た謀略の経験の差なのだろう。
 3代前まで漁師をしていた自分の血筋ではこの空気に順応出来ない。

 黒甲枝への嫁入りの話はほんとうに取り止めてもらうべきではないか、そう感じ始めている。
 しかしながら、別の理由で難しくなった気がする。

「アルエルシイ様、あなたのそのお髪はやはり、青晶蜥神に見込まれてのものでありましょう。」
 黒甲枝の家の少し年配の女性からいきなりそう切り出されると、若輩者は反論出来ない。

「は。はあ、やはりそのようにお考えになりますでしょうか。」
「なにしろ青ですから、無意味と受け止めるのは難しく思えます。」
「ではやはり、なんらかの御奉仕をするべきでしょうか、私も。」
「そうです。いえ、時節柄重要な任務を天から与えられたと信じるべきです。きっとガモウヤヨイチャン様の御役に立てるでしょう。」
「はあ。ですが商人の娘という卑しい身であれば、それほどの大役を担えるとも、」
「巫女におなりなさい。トカゲ神殿に行って明日にでも大神官に帰依をお誓いなさい。」
「いやーそれは、それは、」

 逃げるしかない。あまりにも正論しかも有意義な勧めに見えるから、逃げる以外の手を思いつかない。
 慌てて柱の陰に隠れて酔いでぼーっとする頭を休めていたが、すかさず次の攻撃を受けた。

「アルエルシイ様、いまや王国も非常の時です。婦女子といえども忠節を尽くしいささかなりとも貢献をせねばならないと、妾は考えます。」
 金翅幹家の姫はとにかく頭がいい。ヒッポドス弓レアルのとんでもなく高い教養にアルエルシイは絶望的な差を感じたが、彼女達にとってはこれが標準なのだ。

 ちなみに金翅幹家の姫と黒甲枝の姫は、見た目で大きな違いが有る。
 金翅幹家では山蛾の絹を潤沢に使い黄金の飾りをあしらった華やかな装い、流行の最先端をしっかりと抑えている。行動も派手で、男性に対しても物怖じせず高飛車に話し掛ける。
 他方黒甲枝は裕福さに関係無く地味ですっきりとした姿で宴会に登場する。装飾も銀や鉄の渋い細工物しか用いないが、どこか一点必ず革製品を携えている。そして例外無く小刀を吊っていた。

 アルエルシイら民間の富豪の娘は、基本的に上着一枚のみしか絹を許されない。使う色も制限される。だから青い髪に合う服を探すのは大変だった。
 そもそも青は禁色なのだ。
 次の救世主がトカゲ神で聖なる印が青色と定まっていたから、青は特別なものとなった。みだりに使う者は偽救世主として捕まり火刑に処される。
 ガモウヤヨイチャン降臨前に髪が青くなっていたら、おそらくはアルエルシイも大路の真ん中で火焙りにされていただろう。

 そう考えると改めて身震いがする。あまりにも遠くに自分は来てしまった、と振り返るのが怖くなる。
 今だって目の前には金翅幹家の姫が居る。本来なら一生顔を見るはずも無かった人だ。
 すごく、こわい。
 深窓の姫君はもっとおだやかに物静かに暮らして居るとおとぎ話で聞いていたのに、並のごろつきよりよほど迫力が有る。

 かろうじて声が出た。

「み、巫女はごかんべんを。」

「巫女? 巫女などは神殿に任せていればよいのです。貴女は商人の娘なのですから、それらしく振る舞いなさい。」
「ははい、それはもう卑しい身分のわたくし如きが王国の御役に立てるのであれば、粉骨砕身、」
「妾が思うに、一般庶民はこの状況に至るも何一つ備えが無く覚悟も薄い。王国とは民有ってこそ、民が自らを援ける気持ちがなければ如何に黒甲枝が働こうとも、無意味です。」
「仰しゃられるとおりでございます。」
「故に、民間の婦女子をまとめ献身する組織を作るべきなのです。富豪の娘にして青い髪を戴く貴女であれば、まさに娘達の頭領にふさわしい。」
「ひい、ごかんべんを。」

 偉いひとの傍に居ると必ずこのような目に遇うから、給仕をする女達やカエル巫女の中に逃げて来た。
 ニワカでない本物のカエル巫女は男性の心を揺さぶる誘惑の専門家で、トゥマル商会はイカ推進宴会の際にはかならず何名か借り出している。
 経費がばかにならないとアルエルシイは頭を痛めていたが、このような事態に陥って彼女達の有り難みが身に凍みる。

「アルエルシイ様。」
と、一人が話し掛ける。

 カエル巫女は傾城とも呼ばれ、世の男性を篭絡し財をはたいて貢がせ破滅に追いやる憎むべき敵、などと母親連は娘に諭す。
 間近に見ればなるほどそれも当たり前、と納得せねばならなかった。

 こう言ってはなんだが、アルエルシイも外見には結構な自信がある。
 にも関わらず洗練された彼女達の身のこなし、顔の表情、立ち上る香気、囁く甘い声色に度肝を抜かれた。
 清楚妖艶を同時に醸し出す不可解な色気には気圧されるばかりだ。同じ人間とは思えない。

 衣装は薄く肌の透ける紗で、紫もしくは深い緑が基調となる。王国の規制もあって色は制限されているが、にも関わらず千差万別色とりどり、誰一人同じ色味の者が居ない。
 十二神方台系ではカエルは美の象徴の一つだ。千を越える種が棲息するとされるがどれもが鮮やかな色と模様に身を包み、自然を芸術に昇華させる。
 カエルの神に仕える彼女達が人を色に溺れさせるのも無理は無い。

 男ばかりでなく、女も惹かれてしまう。それが本物のカエル巫女だ。
 アルエルシイも彼女の言葉に思わず首を伸ばして耳を傾ける。

「アルエルシイ様、ひとつお願いがあるのです。」
「なんでしょう。私に出来る事でしたら可能な限り叶えてさしあげますが、お仕事に関してですか。」
「いえ、お髪を少々頂きたいのです。」
「え? 髪。」
「はい。アルエルシイ様の青いお髪は、どう見ても天河の神様の思し召しです。これはおそらく、北方へ失踪なされたガモウヤヨイチャン様を呼び戻す呪力を秘めていると存じます。」
「じゅ、呪力?」
「御祈祷の神火にこれをくべて天に願えば、必ず想いは届きます。救世主様を方台に呼び戻す事が叶うでしょう。」
「は、はは。それはそれは、」

 アルエルシイは否応なく、自分が只の人ではなくなったと思い知らされる。

 

 どんより疲れて宴会場を後にした。髪が青くなってからは以前より精神的に堪える。
 時刻はとっくに夜更け過ぎ、若い女の出歩く時間帯ではない。しかし今日は疲れた。自分家に戻って休むと決めた。

 時節柄カプタニアも騒然としているが、王城の西街は裕福な市民が暮らす街で、金翅幹家の邸宅も多い。警備も厳重だから夜歩いても大丈夫とされる。
 それでもアルエルシイの父は心配して、護衛を5人も付けてくれた。交易警備隊出身で信頼の出来る者と聞く。
 確かに強そうだが、ちょっと物々し過ぎると感じてしまう。下女下男合わせて10名を越える大行列が松明を抱えて練り歩く。まるで王族の重要人物みたいだ。

「おじょうさまはそれだけ世間様から注目されているのですよお。」
 婆やのメショトレは言う。彼女も最初は青い髪に大いに驚いたが、今では神様に見込まれたものと朝晩拝むまでになっている。

「ちょっと重荷。」
「でもこのまま行くとおじょうさまは王様にだって会えるかもしれませんよ。」
「うう、それはほんとにそうなりそうでコワい。」

 一行は瀟洒な建物が並ぶ住宅街に入る。ここまで来れば心配ない。通りごとに木戸があり、不審者の進入を食い止める。

「月が暗いわね。」
 辻の柱に記される通りの名を読もうとしたアルエルシイは、松明の灯が届かないのでいらつく。最近はなぜか月の光が弱い。新月並の暗さになる。

 方台の常識では、白の月は夏は光が淡く、冬になると煌々と照らすと決まっている。
 しかし今年は夏場に急に明るくなったかと思えば、いきなり真っ暗になる。自然の法則が狂ってしまっていた。

「やはりガモウヤヨイチャンさまの失踪と関係あるのだわ。コウモリ神の黒い翼が天を覆っているのかも。」
「恐ろしいこと言わないでくださいましおじょうさま。」

 道を急いで角を曲がる。砂利道にざくざくと足音だけが響く。見覚えのある庭の立ち木が見えた。

「おじょうさま着きましたよ。」

 

 がきょおおん。

 いきなり先頭を歩いていた護衛がばっさり斬られた。身構える暇も無く、気が付いた時には既に両断されている。
 悲鳴も出ない。
 アルエルシイはなにが起きたのか分からない。ただいきなり倒れたとしか見えなかった。暗いから吹き出す血も目に映らない。

「なに?」

 ばしゃああ。
 今度は横に薙ぎ払われて別の護衛の腹が断たれる。上半身がごとりと落ちる。

「え?」
「トゥマル商会のアルエルシイ嬢だな。」

 闇の中から声がする。太い重い禍々しい、しかし人を斬ったなど知らないかに静かに喋る。
 声の後ろから人が出て来た。2人5人、まだ出て来る。

 ここに至ってアルエルシイの護衛はようやくに反応した。彼らも長年武芸で飯を食って来た身。状況を冷静かつ合理的に捉え、最善の策に従った。
 すなわち、アルエルシイらを置いてすたこらさっさと逃げ出す。

 彼らは自分の技量や強さを熟知している。十分に警戒し危険を探りながら進む隊列の先頭を身構える隙すら与えず叩き斬る腕は、並の敵ではないと見切る。
 強い武者には人が従う。求めずとも彼を頭領に祭り上げ、その威を借りて仕事する輩が集まる。
 これほどの強さの漢ならば、手下も20人は居るだろう。
 勝てる道理が無い。

 勝ち目が無いと悟れば、全力で逃げる。これぞプロフェッショナルの仕事。
 相手はアルエルシイの名を聞いて来た。身代金目的ならば後でいくらでも帳尻合わせが利く、とするのも交易警備隊の常識だ。

 残された者は呆然と立ち尽くす。抵抗どころか声も出ない。
 闇の中から再度尋ねるのに、アルエルシイ自らが答えるしかなかった。

「な、にか、御用ですか。」
「うんん、青い髪のアルエルシイだな。」
「わたしに、御用ですか。イカですか。」

 ハハハ、と空気が震える。声の主は闇から前に出て、松明の灯に姿をさらす。
 大きな、横に幅の広い男だった。半裸にいかつい革の防具を纏い、盛り上がる筋肉に剛毛が逆立つ。
 携える得物がまた尋常でない。2メートルほどの棒の上に、通常よりはるかに幅の広い刀が付いている。人間を縦横に断ち割る「方判刀」という武器だ。
 交易警備隊は法令上刃渡り40センチ以上の刃物を持ってはならないと決まっている。彼らが逃げ出したのはまさしく正解であった。

 男はアルエルシイだけを相手に喋る。メショトレや下男達が口を開こうとするのを威圧し沈黙を守らせる。

「トゥマル商会はイカで大儲けしたらしいな。結構なことだ。」
「お、お金でしょうか。生憎と今は持ち合わせはなく、後日お届けすることとなりますが、」
「金はいい。金は要らない。」
「いえ、お金をどうぞお納めください。」
「金は要らないのだ。青い髪のアルエルシイ。」

 吹き出す瘴気にも似た独特の臭いに、彼らの正体を理解する。
 人喰い教徒だ。
 彼らはただのならず者ではない、むしろ或る程度の教養を持つとされる。人肉を食らうのも不老不死の肉体を得んが為、人間の規を越え神秘を探る手段なのだ。

 実際彼らはなんでも食う。世に稀なるものを腹に納めれば、それだけ神に近づけるとする教義がある。
 故に神官や巫女、黒甲枝、ほとんど不可能だが聖蟲を戴くギィール神族や褐甲角の神兵にまで食らいつく。

 北方ボウダン街道に滞在した青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンも、彼らに度々狙われた。百回以上も襲撃し、時には姦計謀略を用いて食おうと試みるもことごとく見破られ撃退されたと聞いている。

「わ、わたしは、食べてもおいしいとは、おいしくないです。」
「不味い肉は喰い慣れている、心配するな。」
「か、髪が御入用でしたら今切ります、切ります差し上げます。」
「あるえるしい〜。」

 男がするどく尖った歯を剥き出しに笑う。生まれてこの方歯なんか磨いた事が無い、と見受けられる。

「青い髪の生える頭は珍しい。首は干物にして長く飾ってやる。肌身離さずな。」
「え、えーそれそれそれはそれ、」

 男の全身には細い骨を幾つも繋いだ飾りが幾重にも巻きついている。隣には骸骨をクビから下げる者も居る。
 アルエルシイの頭もちょこんとぶら下げられるのだろう。
 その光景が生々しく想像出来て、震えが自然と沸き起こる。歯の根がガチガチと鳴り出した。

「む!」
 闇から飛んで来たなにかが人喰い教徒の1人を襲う。胸を貫き、矢が心臓を抉っていた。即死。

「ほおう、罠に嵌められたか。」

 男はアルエルシイを置いて走り出す。人喰い教徒は20名も居たが、それらを置き去りに男だけが闇に跳ねた。
 残された連中は再び飛んで来る幾本もの矢を避け、地に伏せる。

「人喰い教徒ども、武器を棄て神妙に御法の縛を受けよ。」

 高く声が上がり、多くのクワアット兵が姿を見せる。龕灯がこちらに向けられ、人食い教徒達を照らし出す。
 もちろん人喰い教徒は降伏しない。捕まれば死罪しか道が無いからだ。刀や手槍を振りかざし、トゲの生えた鉄鎖を振り回し血路を開かんとする。

 闇の中、双方入り乱れての斬り合いが始まる。アルエルシイはメショトレに腕を引っ張られて近くの薮に逃げ込んだ。

「どうして、こんな。」
 それはどうして助かったのかでもある。不意に襲われた自分達が、何故クワアット兵によりすんでの所を助け出されたのか。

 ぎんぎんぎりん、と鳴り響く鉄の打ち合う音に耳が痛くなる。騒乱に近所の家々の窓が明るくなり、人の声が大きくなる。

 葉陰から覗く血闘の様は、しかしアルエルシイの不安を拭い去るものだった。
 クワアット兵は強い。実際に闘う姿は本当に強い。安心して見ていられる。
 一般人は実戦を見る機会など無いから、褐甲角軍の強さを実感できない。目の前の光景に評判が本当であったと安堵する。

 クワアット兵の刀は通常刃渡り60センチ。よく鍛えられ折れにくいが、迫力としては先程の「方判刀」には劣る。
 一方人喰い教徒は手槍や棒など長い武器も持ち、いかにも兇悪禍々しい姿の刃物を構えている。刀も無闇と長い。
 だが扱う人間の質が違った。

 武器の長さの差など無いかに、クワアット兵は難なく人喰い教徒を切り伏せて行く。長柄の武器は柄を切断し、人の背丈ほどもある刃も強く弾いて、体勢を崩した男を地に蹴倒す。
 そもそもがクワアット兵はちゃんと組になって格闘する。それぞれの役割を心得て、効率良く敵をさばいて行く。
 バラバラに闘う人食い教徒の勝てる相手ではなかった。

 

 「御無事ですか、アルエルシイさん。」

 あらかたの賊を斬り生き残りは捕縛して、クワアット兵の剣令が薮の中に話し掛ける。優しく呼ぶ声に聞き覚えがあった。
 がさがさと、自分でもかなりかっこ悪いと思えたが、アルエルシイは急いで薮の中から抜け出て来た。

「あなたはもしや、」
「覚えておいででしたか。いつぞや、そう東街の大火の夜にお会いした小剣令デズマヅ琴ナスマムです。」

 かってイカ販促宣伝に催した宴に見えていた、高級将官の接待糧食担当だった凌士監だ。
 あの夜は難民街から火の手が上がり、ついで湖から紅曙蛸巫女王テュラクラフの乗るテュークが現れ一帯を消し炭に変え、おまけにカプタニア山の聖なる森にまで燃え移った為に、二人はろくな挨拶も出来ないまま別れてしまった。

 アルエルシイは急に恥ずかしくなる。どうせならもっとちゃんとした、こんな薮の小枝に引っかき傷を作ったり泥に足を突っ込んだりしていない状態で会いたかった。
 というよりも、こんな物騒な状況でなく…。
 そういえば目の前で人が何人も死んだのだった。

 急にふらりと来る。足元がおぼつかなくなり、姿勢が揺らぐ。
 図らずも彼の腕の中に転がり込み、抱き留められた。

「無理もない。よほどの恐怖を覚えられたのでしょう。」
「え、いえ、立てます。自分で立てます。」
「無理をしない方がいい。」

 なんだかわざと抱きついたみたいで、アルエルシイは自分のあまりのあざとさに呆気と驚嘆を覚えた。

「お家までお送りしましょう。どちらです。」
「いえもうそこですから。それよりどうして、」

 どうして彼は、自分を見張っていたのだろう。これほどの人数で折り良く駆けつけるなど、最初から計画していなければ出来ないはずだ。
 アルエルシイは偶然がおとぎ話みたいに都合よく働かないと知っている。

 彼もまた説明の必要を感じた。

「実はこのほど配置替えになり、重要な王族の身辺警護を任されました。」
「まあ。それはおめでとうございます。」
「はい。これまでは後方担当だったのが、やっと兵事で働けます。その御方の安全を図る為に王都に潜伏する不逞の輩をあらかじめ排除していたのです。」

「それで人喰い教徒を、」
「アルエルシイさんが襲われると密告の投書がありまして、この2日ひそかに身辺を警護しておりました。もっと早くに打ち明けるべきでしたが、敵が尻尾を見せるまではと。お許しください。」
「いえ、命有ってこそです。御礼をさせてください。父にも、」

 彼は同僚の剣令と少し会話をして、クワアット兵の指揮を委ねる。捕縛した者を引き立てる中、市中警備の巡邏が多数到着し死体の片付けを始めた。

「アルエルシイさん。それでは家までお送りして、夜が明けましたら父御にも説明に参ります。」
「はい。」

 まだ現実感が戻らない。ひょっとしたらこれは夢なのかもしれないが、しかし割といい夢だな。
 アルエルシイは手を引かれるままに、松明の灯に浮かび上がる凛々しい武者の銀色の兜を見上げた。

 

 

 なんだかんだの大騒ぎが続き、ようやく暇になったアルエルシイは先日来の依頼を受けて蜘蛛神殿に訪ねて行った。
 もちろん青い髪はすでに王都で知らぬ者が無く、加えて人食い教徒にまで狙われたとくれば注目を浴びない道理が無い。
 蜘蛛神殿ではアルエルシイ特集と銘打って関連情報を集めた特設展示場まで作る。
 肖像画も飾られるが、一般庶民の絵姿が展示されるなど滅多にある事ではない。

「やっぱり只の人ではいられないわよねえ。」

 頭巾で髪を隠したアルエルシイは、自分の肖像画を見る人の群れを後ろからこっそり見物した。
 たいていの人はほんとうに青い髪なんかあるのかといぶかしむが、2割ほどはトカゲ神さまの御力だガモウヤヨイチャン様の霊験だ、と拝んで行く。

「全部というわけにはいかないけれど、一房くらいはトカゲ神殿に奉納しなければ済みそうにないわね。」

 カエル巫女が言っていたとおりに、祭壇の神火に奉げ物を投じる祈祷の方法は古来より方台に伝わる。人間を生贄とする事もあったらしいから、このまま弥生ちゃんが戻らなければアルエルシイも火の中に放り込まれるかもしれない。

 

 実際後の世、創始暦5555年には、時の青晶蜥神救世主星浄王十三代カマランティ・清ドーシャが自らの身を火中に投じる捨身祈祷を行い、弥生ちゃんの再臨を請うた。
 ちょうどお昼の焼きそばパンを食べようとしていて呼び出された弥生ちゃんは、烈火の如く怒り狂い再び訪れた十二神方台系に粛正の嵐を巻き起こす。
 弥生ちゃん本人により炎の中から助け出されたカマランティ・清ドーシャ(当時32歳)は、初代降臨の歓喜と法悦の中、食い物の恨みの恐ろしさを叩き込まれるのだが、それは章を改めて描くとしよう。

 

 円形の黄色い蜘蛛神殿をぐるりと回り、文書館に足を伸ばす。
 途中の庭園の樹の下には無尾猫が数匹居て、アルエルシイの顔を冷たい瞳で睨みつける。こいつらに背中を見せるのは危険だ。
 じーっと眼を離さずにネコ達の傍を通り過ぎ、文書館の裏手に有る学匠の控え室を覗いてみる。夏前には何人もの学匠がここに詰めて勉強しており、その中には。

 誰も居ない。
 国家の禄を食む彼らは大審判戦争にあたって各地に駆り出され、それぞれの専門分野で貢献しているはずだ。

「戦争は終ったから戻ってるかと思ったんだけど。」
「今日は花の香りはさせていないのですか。」

 聞き覚えのある声が背後から投げ掛けられ、びっくりして振り向く。居ない、が見上げると屋根に人影がある。
 蜘蛛神殿はぐるぐると螺旋を描いて登って行く構造で、屋根の上もまた庭になっている。この庭でアルエルシイは、かって大山羊に髪を齧られそうになった。

「シバ・ネベさま! よくぞ御無事で。」

 久しぶりに会った彼は学匠の衣装ではなく作業着に近い飾り気の無い服を着ていた。
 笑ってはいるが少し雰囲気が違う。ちょっとだけ、15歳のアルエルシイが言う台詞では無いが、ちょっとだけ大人に見えた。

「アルエルシイさんも御無事で何よりです。アレは間に合いましたか。」
「ではクワアット兵に密告したのは、あなたですか。大丈夫なのですか、人食い教徒の秘密を明かして。」
「わたしは人食い教に義理を持たないので。」

 アルエルシイの背の高さから無造作に飛び降りて来る。
 ちょっと違う、と感じる。前はもう少し丁寧だった。がさつではないが、思い患うのを或る点で諦めた、そんな気配が漂う。

「見せていただけませんか、青い髪というのを。」

 学匠は何より珍しいもの不思議なものに興味が向かう。これは前と変わりが無い。頭巾を取って、彼にすっかり変わってしまった髪を見せる。

「おお、青いというよりも透明な、硝子の青さですね。」
「染めたんじゃありませんよ。」

 ちょっと気恥ずかしい、まじまじと見られると頬が赤くなる。よろしいですか、と尋ねられ髪に手を触れるのも許してしまう。

「あの…。」
「はい。」
「あの、出発前に仰しゃっていた、カプタニアで起こる素晴らしいこと、というの。」
「ああ、あれですか…。」

 シバ・ネベは少し疲れているらしい。青い髪を確かめると、そのまま近くの石の長椅子に座ってしまう。

「カプタニアでは予想以上に上手くいったようですが、それも無意味となりました。」
「火を噴いて飛ぶ槍、あれがそうですね。でもその後のテュークは、」
「人間は不思議には勝てないんです。私も痛感させられました。ガモウヤヨイチャンが正しい、まったく正しい。」

 両手で顔を覆い、汗でも拭くかの仕草をする。アルエルシイが心配そうに立つのもそのままに、語り続ける。

「私はミンドレアの城砦の補修作業を手伝っていました。ゲイル避けの装備を多数用意して万全だったはずです。しかし、
 神兵の加護を受けないのが如何に致命的か、ようやく理解しました。毎年襲い来る寇掠軍と、大審判戦争のゲイル騎兵はまったくの別物です。なんの役にも立たなかった…。」

「しかし御無事だったのでしょう。どこもお怪我なさっている風には見えませんが。」
「身体は大丈夫です、右往左往していただけですから。ですが頭の中に組み立てていた全てが瓦解したのです、すべてが。」

 督促派行徒が現実を見ず観念的に過激思想に走る、とはよく知られている事実だ。彼も現実に直面して、ようやくこの世の成り立ちを知ったのだろう。
 ただ社会の変革と民衆救済の理想を棄てたとも思えない。ほんとうに全てを失ったのならば、カプタニアには戻らなかったはずだ。

「でも督促派行徒は、」
「そんなものはもうどこにもありませんよ。」

 ちろ、と見る冷たい瞳にアルエルシイはどきっとした。やはり前の彼とは違うんだ。

「あれほど人が変わり易いものとは、まったく知りませんでした。督促派行徒と呼ばれた者達は今、無体神の虜となっています。」
「なんですかそれは。無体神なんて神さまは聞いた事がありません。」
「ピルマルレレコのことですよ。天河十二神の神威に勝てないと知って、新しい神の力にすがるのです。なんとも情けない。」

 弥生ちゃんの胸に描かれる「神殺しの神」ピルマルレレコ。
 トカゲ神救世主の王旗の図案ともなっているこの神は、方台で着実に信者を集め組織が立ち上がり始めている。
 既存の権威に刃向かい玉砕した督促派行徒は、今度は天河十二神を凌ぐ権威としてピルマルレレコに乗り換えたのだろう。

 アルエルシイはシバ・ネベとの間に急速に溝が深まるのを感じる。自分が既に只の少女でないように、彼もまた以前の学匠では居られないのだ。

「これからどうします?」
「どう、ですか。いえ学匠をクビになったわけではありません。また勉学に励み研究を続けますよ。」
「いえそうではなく、」

「そうではなく?」
 シバ・ネベは笑った。彼も目の前の青い髪の少女が何を求めているか、知っていた。

 

「そうですね。貴女を救ったように、他の人も救えるかもしれません。それも悪くない。」

 

【弥生ちゃん存在証明】

 青晶蜥神救世主蒲生弥生ちゃんの実在の否定、もしくは隠蔽は、創始暦5009年の方台退去後まもなく始まった。
 同時代に生き救世の聖業に立ち会った人々がそんな事をするのも不思議ではあるが、動機は非常に切実だ。

 弥生ちゃんが去った方台を改めて振り返ると、既存の秩序が根こそぎひっくり返っている。誰も想像し得なかった新体制が厳然と聳え立つ。
 こんな事が人間の手で出来るはずが無い。

 誰もが抱く感想は勿論、実際に聖業の現場に居合わせた人により訂正される。
 しかし交通手段や通信手段に乏しく、写真もテレビも存在しない方台においては、降臨4年後でも弥生ちゃんの存在を知らない人が多数居た。
 実際に会った人でもほんの数秒しか見ていない等が普通で、改めて問われると正真に実在したのか記憶も確かではなくなってしまう。

 そこで聖山神聖神殿都市の究理神官や各国の歴史家は、弥生ちゃんの神格化を始める。弥生ちゃん自身が神であったと唱えた。

 人の仕業とするには余りに常識を外れている、物理的に不可能だ。神であれば、自然に奇蹟を発生させられる。
 弥生ちゃん自身、星の世界に住まうと公言していたし、神様ですかと尋ねられても否定しなかった。
 神と同じ力を行使する者は、やはり神と呼ばれても仕方ないとの意味だろう。
 であれば、弥生ちゃんは神である、と定義して何の不都合があろうか。

 だが思いもよらぬ場所から異議が唱えられる。
 弥生ちゃんにより癒された病人達だ。彼らは皆等しく、弥生ちゃんは確かに人間である、と証言する。いや主張した。
 これには究理神官も困惑する。
 彼らはまさしく神の力による奇跡を施されたのだから、誰よりも弥生ちゃんを神と信じて当たり前だ。
 にも関わらず、断固として弥生ちゃん神説を否定する彼らの表情は真剣で妥協が無い。

 一方病人達は、弥生ちゃんを人以外の者とする神官達の言葉こそ、信じられなかった。
 人間で無い者がどうして、あれほど親身になって自分達の話を聞いてくれるだろう。
 人間で無い者がどうして、人の痛みを自らのものとして分かち合い、共感してくれるだろう。
 ハリセンが発する青い光の神秘的な治癒よりも、病に苦しむ貧しい自分達と同じ目線で語ってくれた弥生ちゃんを、彼らは喜んだのだ。

 あまりの強硬さに究理神官も断念する。
 退去後3年目、青晶蜥神救世主星浄王二代メグリアル劫アランサにより「弥生ちゃんはまさしく人間であった」との宣言が出され、この問題は終息する。

 

 しかし弥生ちゃんがただの人間であるのなら、今居る我々は何だろう?

 彼女はあれほどの功績を僅かの期間でやってのけた。一方方台に生まれた人間は、5千年を費やしても未だ赤子同然だ。
 己の無能を突き付けられ、挫折感焦燥感に苛まれる。
 弥生ちゃんは人間であったとしても、特別な存在に違いない。そうでなければならない。

 そこで究理神官は、2つの要素に分けて考える。
 神としての属性を「ピルマルレレコ」に仮託し、優れた人間としての属性を「聖女弥生ちゃん」として別に祭ろうと試みる。
 実際弥生ちゃんは聖女と呼ばれるにふさわしい行いを幾つも成した。治癒を求めて不在の弥生ちゃんを崇める者は今も多数有る。
 一般民衆も今度は反対しないと考える。

 だがやはり、これも人々に受入れられなかった。
 究理神官達は見落としていたのだ。彼らが定義を欲するように、一般民衆も独自の定義を行っていると。
 弥生ちゃんは民衆のものだ。民衆の求めに応じて、天から遣わされたのだ。
 その属性はあくまでも庶民の味方としてある。親しみ易く、人の痛みを分かち合い、不正を許さず虐げられる者を救い悪を断つ。なおかつ明るく楽しく可愛らしい。
 ここでも理想化は行われている。究理神官が提示した像は受入れられるものではなかった。

 また神官戦士や交易警備隊、兵士達の間でも、独自の弥生ちゃん像が存在していた。
 巨大なゲイルに無敵の神兵、神の差し向けた怪物といった強大な敵の前に敢然と一人立つ姿は、ピルマルレレコの王旗と共に強く瞼に焼きついている。
 青い光をたなびかせ鋼鉄をも断つ佩刀『カタナ』は、激闘の記憶と共に武人の永遠の憧れとなった。
 単純に女としての属性を強調する『聖女』像は、強い反発を受ける。

 星の世界の文物知識をもたらした文化英雄としての側面を強調する者もあり、厳正なる裁きを下し改革を推し進める為政者としても無視出来ない。
 『聖女』化の試みは頓挫した。
 究理神官や歴史家は額を突き合わせて、如何に位置付ければ良いか大いに悩む。

 では二代目の救世主メグリアル劫アランサは、その点をどう克服していたのだろう。
 彼女にとって弥生ちゃんは、弥生ちゃんそのものでしかなかった。既存の型に当てはめて考える方が愚か、在るものをそのままに受入れるだけだ。
 三代目以降の救世主の教育も知識や教本によらず、剣術の稽古を通じて身体に在り方を叩き込んで行く。
 自ら初代と合一していく過程に、知性による分析・分類は不要だ。

 方台中どこでも自分達の望む弥生ちゃん像を抱えて他に譲ろうとしない。
 一面的な定義の提示は、誰が行っても強い反発を受けるだけだ。
 複数の側面と矛盾を持つ人格、それが弥生ちゃんだと悟り、究理神官は諦めた。同時に、何故方台全土が「してやられた」かも理解する。
 以後定義に関する研究は停止され、事実のみを淡々と記録する事に務める。
 論評は禁止され、ほとんど記号的にしか記述しなくなった。

 すると、面白い事が起こる。
 方台の人の間で急速に弥生ちゃんの記憶が曖昧になってきたのだ。
 どこか中央で一元的に定義付けを行えば、反発する者のイメージも鮮明となる。が、行われないと自分達だけの弥生ちゃん像に耽溺して、実体からは遠ざかる。
 図らずも究理神官は望ましい姿を手に入れた。救世主の虚像を操作可能なものに変換し得た。

 イメージが薄らぐと同時に、弥生ちゃんを主人公とする偽の逸話やおとぎ話、弥生ちゃんに仮託した説話が多数発表され始めた。
 自由な発想をもって弥生ちゃんを活躍させ、世の不正を告発する手段や願望の表出、再臨への期待を表現したのだ。
 歴史家達はこれら虚偽の氾濫に対策を行わず、野の草が伸びるに任せる態度を取る。
 実際に起きた事件に比べればどれも規模が小さく展開も稚拙で、陳腐な想像でしかなかったからだ。それほど事実は面白い。

 弥生ちゃん伝説はますます増殖し、反比例して本物のイメージは霞んで行く。

 

 方台各地で語り継がれた伝説は、200年ほど後に集大成され書物としてまとめられ、増殖を停止する。
 そして完全な虚構としての娯楽作品に転化した。
 当時ようやく紙の生産が軌道に乗り、一部の特権階級のみに許される高級品から庶民の手の届くものへと下がって来た。
 印刷技術を用いた書籍の出版が盛んに行われ、小説の市販も開始される。
 市場拡大の原動力となったのが、「弥生ちゃん物」だ。

 数多出版された「弥生ちゃん物」の決定版と呼べるのが、5238年に刊行された『青い星から来た少女』だ。
 この物語は他と異なり、事実に基づく歴史的に正しい記述が大半を占める。しかし他を圧する決定的な虚構を持っていた。
 すなわち、弥生ちゃん最大かつ最悪の欠点「色気が無い」部分を補い、史実ではまるっきり欠落する恋愛の要素を多分に加味していたのだ。

 以後恋愛小説は爆発的人気を呼び、無数の作家が「恋する少女・弥生ちゃん」を描いた。
 当時接触しただろう歴史的人物、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンや赤甲梢頭領シガハン・ルペ、神聖王ゲバチューラウ、麗人「ジョグジョ薔薇」、最初の狗番ミィガン、”快男児”レロン・ゥエンゲなどと恋愛関係に陥ったと創作される。
 或る研究者が数えたところ、147名の人物と愛を交わしたとなった。

 当然副作用として、女の子の属性が強化される。たおやかであったり感受性が強かったりと架空の性格が附与され、美化が進む。
 男性中心社会にあって抑圧される少女達の独立心を喚起する偶像として、自由に活躍し恋をする弥生ちゃんが力を持った。
 その裏で、本物のイメージは完全に葬りさられてしまう。

 方台全土が不況に突入し暗い時代が続く5311年刊行の『竜を駆る星』は、まったく違う「弥生ちゃん物」だ。
 そもそもこの物語は弥生ちゃんを主人公としない。象徴的な特徴である長い黒髪青い服、背が低く可憐な外見を持たない、大柄な少女がヒロインだ。
 名は「ゲワルトシホミ・チャン」、史実として記述される「天からの刺客」相原志穂美をモデルとし主役にすり替えた、少女武侠小説だ。
 この作品では弥生ちゃんの破壊神としての属性が思う存分表現された。
 既存の「恋する乙女」のキャラクターから解放され獅子奮迅の活躍が描かれる。

 元々は週間新聞の連載小説であったこの作品は人々に熱狂的に支持され、3年半28話も続いた。
 内容は当時の世相を反映し方台処々に蔓延る悪、その多くが実際の事件を下敷きとし実在の人物も槍玉に挙げられる、を痛快にぶち殺して行くものだ。
 過激さ故に発禁処分を食らうも幾度も復活し、数々の公的私的な妨害を受け掲載紙を乗り換えても連載は続く。
 人気絶頂の中、著者が暗殺されて巳む壮絶な終わりを遂げる。

 以後弥生ちゃんは「恋する女の子」と「闘う少女戦士」の二つに分裂したイメージを抱えて表現されていく。
 娯楽小説は衰退と繁栄を繰り返し、同じ題材を用いては飽きられ数十年後には復活し歴史を重ねた。
 「弥生ちゃん」ブームも幾度か訪れ、その度物議を醸している。

 5498年に刊行された『フダラクから還る』は最後の「弥生ちゃん」ブームを象徴する作品だ。
 この作品は史実と関係無い完全にオリジナルのエピソードが綴られる。東の海に去った弥生ちゃんが今戻って来たらどうなるか、の仮想歴史小説だ。
 救世主の帰還を描く物語は珍しくないが、この小説は社会に特別な影響を与える。
 宗教的に埋没し一般社会への指導力を失った青晶蜥神救世主を糾弾する内容を含んでいたためだ。
 また救世主神殿の没落を補う形で勢力を伸張させる、無体神ピルマルレレコを崇める救世主教会に疑義を突き付けるものでもある。
 「真の弥生ちゃんとはいかなる存在か」、「弥生ちゃんを継ぐ者はいかに在るべきか」を問い掛けた。

 作品の結末は、方台を粛正した弥生ちゃんが再び海の彼方に去って行く。
 500年前弥生ちゃん本人が目的地として示した「フダラク」へ、神が住むとされる理想郷に帰るのだ。

 この小説が流行して間もなく、救世主を追って小舟で海に乗り出す者が多数出現する。
 生きては戻れぬと分かっていながらも、「ガモウヤヨイチャン様をお迎えに行く」と称して船出を繰り返す。
 それほど当時の世相は押し潰される閉塞感に満ちていた。
 悪政に虐げられず食糧に不足は無く職だってちゃんと有る、にも関わらず誰もが窒息しそうな胸苦しさに襲われ、振り払うように犯罪や暴動に及ぶ。
 「故無き反抗」と呼ばれる一連の事件の一つとして、「フダラク渡海」は厳しい取締まりを受ける。
 同時に「弥生ちゃんもの」の出版も規制を受け、娯楽小説は急速に衰退する。人々は虚構に遊ぶよりも実行を求めたのだ。

 

 そして創始暦5555年、弥生ちゃんの再臨を求めて時の青晶蜥神救世主星浄王十三代カマランティ・清ドーシャが、自ら焔の中に飛び込む捨身祈祷を敢行する。

 

【見果てぬ夢】

 いずれの御時か、弥生ちゃんが数多の武者を引き連れ干弦の遊びをなされた折、山中にて「蒟蒻芋」に極めて良く似たものを掘り出した。
 このようなものを見せられると「おでんが食べたい」と思うのが無理からぬ人情。されど蒟蒻の製造はなかなかに手間が掛る為に、この時は泣く泣く諦めた。

 青晶蜥王国もめでたく成立し、ちょっとは暇も出来たかなという頃合いでにわかに野心が立ち騒ぎ、「蒟蒻製造プロジェクト」をぶち上げる。
 無論十二神方台系の人間は誰一人「蒟蒻」を知らない。
 蒟蒻なんか食わなくても困らない。ただの食物繊維の塊にさほどの栄養的意味が無いのは、やってる本人も心得る。

 完全に弥生ちゃんの我儘なのだが、見抜いた者は誰も居なかった。

 皆愚直に救世主の下知に従い、黙々と土を掘り返す。たちまち100個以上を堀り当てて、山と積む。
 小さく肩を震わせほくそ笑む弥生ちゃんを、誰もが見て見ないフリをする。いや、これほど喜んでもらえるのなら、たとえまるっきりの無駄でも苦労した甲斐があった。

 さて蒟蒻だ。
 「蒟蒻」という食べ物はやたらめったら手間が掛る。それは石を食べるにも似た多大な努力の結晶だ。
 しかしながら弥生ちゃん、十二神方台系の食物精製技術が極めて貧弱であるのに強い不満を抱いていた。
 なんとなれば、それは生きる努力の結晶、歴史の叡智であるからだ。

 人は食べ易いものばかりを食べていてはいけない。そこに文明の萌芽は無い。
 一見して食べられないものを必死になって考えありとあらゆる加工を施し、ようやくに口にしてこそ進歩。勝利と栄光がある。
 にも関わらず、方台の人間はそんな面倒くさい食品を食べようとしない。
 団栗粉でさえ、地球では殻を割って粉にして水で晒して灰汁を抜いてと大変な労力を投入するのに、ここでは栗や胡桃に等しい簡単に食べられる優しい実りが落ちている。

 過保護だ、と弥生ちゃんは思う。
 気候の変化ですぐ全国的な飢餓に陥るのも、安定して収穫出来るが食用には手の掛る作物を栽培しない為と看破する。
 故に蒟蒻を作らねばならない。
 生きる事、食べる意味を今一度教える為に挑戦せねばならない。救世主としての自分に与えられた歴史的使命だ、と固く信じる。

 

 さりながら、作業を始めてすぐ分かったのだが、これは蒟蒻芋とはまるで異なる物体であった。
 「これは食えない!」
 直感がそう告げるも、弥生ちゃんは留まらない。強い使命感と、より強い意地とに裏打ちされた熱情に、作業に駆り出された者も居住まいを正して不毛の研究に没頭する。

 学匠が数十人も集まってああでもないこうでもないと実験を繰り返す。
 粉にし、磨り潰し、スライスして天日に晒し、水で溶き、薫煙し、塩で洗い、灰をぶち込み、酢で、油で、壷に詰めて発酵させ、塩酸硫酸で処理してみて。
 研究は昼夜を分かたず連日続く。何人も徹夜にぶっ倒れ、そして遂に、

 糊が出来た。

 極めて強力な糊だ。空気中に晒していてもなかなか乾かない。しかし一度モノに付着すると頑強な接着力を示し、引き離すのはほとんど不可能となる。
 腐らず接着力がいつまでも失われないし、接着物を腐食しない。
 水に溶けない。ゴムに似て弾力が有り防水・気密機能を持つが、臭いは無い。

 そして、そしてこれが最も重要な点であるが、決して食べられないものだった。

 弥生ちゃんは呆然と立ち尽くす。

 学匠達はよく頑張った。彼らは弥生ちゃんの指し示すままに最大限の努力をし、立派な成果を得た。
 初めから糊を作ろうと考えたのであれば最上級に誇り得る代物だ。
 だが蒟蒻とは似ても似つかぬ。食ったら死ぬ、胃液にも分解されないからだ。

 弥生ちゃんは泣いた。泣きながらこう言った。
「これ使うと、空飛べるよ。」

 千年に一度の救世主の言葉である。
 以後この糊を用いて空を飛ぼうと試みる者は後を断たなかった。
 何人もが鳥の羽根をくっつけて翼を作り、自ら羽ばたいて飛ぼうとする。実際羽根が脱落しない、見事な翼が出来上がる。
 しかし飛べる道理は無い。

 手製の翼を背や腕に括りつけて、屋根や丘、崖から飛び降りて死んだ者は100人を越える。
 あまりにも危険な行為が続く為、時の青晶蜥神救世主が幾度も「飛行禁止令」を出したほどだ。

 彼らが熱気球の概念に辿りつくまで、実に400年の歳月を要した。

 

 さて弥生ちゃんだが、本人はあまり糊に興味を示さなかった。失敗作だから仕方がない。

 折角出来たものだからと、灯木の薄い小さな板に塗って天井から吊るしておく。蝿取り紙の代わりなのだが、これがまた良く効いた。
 一日何十匹もが糊の餌食となり、弥生ちゃんは食事時に蝿に悩まされる事が無くなった。
 方台の衛生状況を改善するのに、「蝿取り板」は八面六臂の活躍を見せる。穀物倉のネズミ退治にも絶大な威力を発揮する。
 人々は弥生ちゃんの深謀遠慮に驚き、感謝を忘れなかった。
 市販される糊の容器には必ず「ガモウヤヨイチャン様の御神徳に敬意を表わすべき」と記されている。

 蝿のくっつき具合があまりにも見事なので、人はこれを兵器に応用しようと考えた。
 甲冑武者をこれで引っつければ、無力化して捕虜と出来るだろう。
 実際にやってみると、しばしば成功する。場合によっては無敵を誇る褐甲角の神兵をすら虜に出来た。

 青晶蜥神救世主の御代千年で十二神信仰が徐々に影響力を失って行ったのも、「蝿取り板」の影響を無視出来ない。と歴史学者は説いている。
     (干とはふたまたになった武器、弦とは弓のつるを表わす。)

 

第九章 ゆめのかよいじ、うつつのよみじ

 黒甲枝レメコフ誉マキアリイは兵師監を拝命した。

 特に不思議は無い人事だ。もしもヒィキタイタン事件が無ければ、4年前になっていた。
 大審判戦争に望んでは兵師大監にまで昇進し、一軍を率いて金雷蜒王国と戦っていただろう。
 それも、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンの指導の下で。

 運命の皮肉にマキアリイはふっと頬を緩める。追捕師としての任は棚上げされているが、最終的にはヒィキタイタンを討たねばならない。

 タコリティから円湾に移動した新生紅曙蛸王国への攻撃はいまだ机上の案に過ぎないものの、現実味は日一日と増している。宰相を務め実質最高責任者となった彼が敵将として褐甲角王国と対峙する事となろう。
 マキアリイがその先陣を承るのはほぼ確定だ。責務であり、また栄誉でもある。一番槍は彼にのみ許される。

 その前に、今回の騒動の元凶になんらかの解決を与えねばならなかった。

 イロ・エイベント県はほぼ全域に渡って混乱の最中にある。にも関わらず、それを鎮めるべきイローエント軍政局は凍結の憂き目に遭っていた。

 難問は山積する。
 脹れ上がるばかりの難民暴動と地元住民との軋轢は、すでに内戦の様相を呈している。加えて新生紅曙蛸王国に参加しようとする信者の流入も続く。
 無法都市タコリティは今や一個の国家として独自の王権を主張し、武力を用いて権益を確保する。海賊船がぞくぞくと南海に集結し、漁船ですら出港できないほどだ。
 この流れを助長せんと西金雷蜒王国の暗躍も見られるし、混乱する世情に救いを求めて青晶蜥神救世主にすがろうとする者も市を騒がせる。

 すべて軍制局の凍結を境に暴発したかに見える。だが復帰は難しい。
 イローエント軍政局衛視局その他官・軍の全部署で、人喰い教団『貪婪』の関与を示す様々な証拠が次々に見つかった。
 内応者などという浅薄なものではない。まるで軍政局全体が人喰い教団に奉仕しているかの惨状が調査により浮かび上がって来る。

 あまりの事態の深刻さに武徳王は元老院に特別監査使を任命し、配下として監査士団を組織した。
 レメコフ誉マキアリイは士団の指令官として昇進した。剣令や衛視のみで結成されるが、一軍の指揮を執ることとなる。

 容疑者は軍制局衛視局に所属する全員。イロ・エイベント県司令官までもが含まれ、連日尋問が続いている。

 凍結されたイローエント軍制局に代わり、県全域の行政と治安維持は駐留する南海軍が行う。難民鎮撫に陸戦隊も派遣した。
 だが海軍が都市機能維持を行うのは困難で、イローエント市民の不満は高まるばかりだ。暴動が治まる気配も無い。

 一刻も早い捜査の終結が望まれるが、先行きはまったく読めない。

 

「なんだこれは?」

 マキアリイの手元には、『貪婪』の新興分派から提供された「名簿」が有る。
 過去教団に便宜を図った人物と工作の全容、複雑に関連する目的から成果まで記した詳細なものだが、これが曲者だった。

 記述に従い調べて行くと、確かにその通りの事例が存在する。人喰い教団への便宜供与と看做しても差支えない不条理な処分や物資の供与が認められる。
 にも関わらず、当事者はそれを認めない。正規の規則と命令に従っての通常の処理だと主張する。
 人喰い教団などまったく知らないと否定し、不当な尋問だとカプタニアに抗議の書簡を次々に送る。
 誰一人崩れる気配を見せはしない。

 本来黒甲枝は善悪の観念に非常に敏感潔癖で、不正に関して病的とも言える嫌悪感を示す。
 疑われるだけで職を辞す、自ら命を断つ。神兵であれば聖蟲の返還までする。
 にも関わらず今回は誰も非を認めず、武徳王や褐甲角(クワアット)神に誓ってでも無罪を主張する。

 火の無い所に煙は立たぬ。実際火の手は見えているのに、毛ほども悪の臭いがしない。

 潔癖と言うならば、カブトムシの聖蟲ほど悪に厳しいものはない。
 自らを戴く者にいささかでも汚点を見出せば、無慈悲にも空高く飛んで行く。宿主を見捨てるのに躊躇しない。
 彼らが無実であることは、額の上に鎮座する聖蟲がなにより証している。
 マキアリイの目にも、完全無欠の神の戦士に見えた。

 では、この「名簿」はなんだ?

 衛視の一人、彼もまた尋問される側の人間だ、が面白い見方を示す。歴然たる証拠として突き付けられた葉片の束に目を通し、言った。
「この名簿は、人喰い教団が我らを使役する為の手引書ではないだろうか。」

 つまりは操作マニュアル。イローエント軍制局を自らの意のままに使役するには、誰に何をするべきかが定められている。
 最初から機械的に決まっていれば、善悪の判断を越えて組織は勝手に動いて行く。行為の結果を想像する必要は無く、監査の網にも掛らない。
 そう考えれば、個々人は何も心得ずとも自然に人喰い教団の為に働いているのも説明出来る。

 であれば、

「イローエント軍制局、いやイローエント市全体が人喰い教団の持ち物、なのか…。」

 それは蜜蜂の巣箱に似ている。イローエントという用意された箱にクワアットの神兵が喜んで巣食い、箱の持ち主の為に蜜を集めて回る。

 非常に不愉快な想像だ。
 第一イローエント市の軍と行政・司法の構造は、独自のものではない。褐甲角王国のどの県においても同様、王国中枢も発展した類似の構造を用いている。
 それら全てが人喰い教団の仕掛けに乗っているのか。

 否定するにもあまりに手掛かりが無さ過ぎる。軍制局を幾ら調べても、手蔓はどこにも見付からない。
 鍵は外部にある。必ず誰かに意図が収斂するはずだ。
 人喰い教団の最高責任者を探し出さねばケリが付かない。

 監査士団は黒幕を探してイローエントの市中はおろか動乱続く難民街、果ては廃墟と化したタコリティにまで、強行で捜査を続けている。

 

「はかばかしく無いようですね。」
「うんー。」

 砦も兼ねる政庁内に設けられた監査士団本部を訪れ、久しぶりにマキアリイに会ったカニ巫女クワンパは率直に批難してみせる。事実であるからマキアリイもうなずくしかない。

「王国の密偵も協力者の筋も、まったく手応えが無いのですね。」
「さすがにカニ神殿はよく御存知だ。その通り、人喰い教団に繋がる蜘蛛の糸さえ見付からない。正直お手上げだ。」
「それはそうでしょう。」

 そもそもがタコリティが人喰い教団と深い関係に有るのは周知の事実だ。
 隣接するイローエント衛視局は何百年も昔から密偵を送り込み、全貌を探ろうと多大な労力と資金・人命を費やしている。

 その努力がまったく意味が無かったと証明されたのが、今回の一件である。既存の密偵を使うしかない監査士団に何が出来る道理も無い。
 また民間の協力者も多数存在する。裏社会に通じた彼らから情報を収集するが、カニ神殿も同じ人物と接触する。
 監査士団がまるっきり成果を上げていないと、すっかりお見通しだ。

 白い巫女服に緋の袴、カニの手足を摸す飾りが付いた白帽を被り長い棍棒を杖にした巫女は、ふうっと溜め息を吐く。
 相変わらず化粧っ気の無い面に怒りを匂わせて、マキアリイに向き直る。追捕師の任務にいつまで経っても復帰出来ないので、正直彼女も苛立っていた。

「なんとかして差し上げましょうか。」
「う? できるのか、カニ神殿では」

 マキアリイは目を剥いた。
 ここ2ヶ月数百人を動員してまるで歯が立たない問題を、一介の巫女がさらりと解く。カニ神殿に偽りは存在しない、根拠が確かに有るのだ。
 立ち上がり、賜軍衣に身を包む端正な姿を示す。事務机に着いたままでは彼女と腹を割った話が出来ない。

 晴れがましい兵師監の姿に、クワンパはちょっと眉をひそめた。賜軍衣は王国の高官としての彼の身分を如実に表し、ヒラの巫女には眩し過ぎる。
 しかし身分の差に拘泥せず直言するのが、カニ神官巫女の特権だ。

「少々荒っぽく危険な策で、カニ神殿では手が出せません。」
「無論危険は我らが受け持つ。して手立ては。」

「青晶蜥(チューラウ)神救世主の御使いとして、青い服を着た男が各地に出没しているのを御存知ですか。」
「聞いている。ガモウヤヨイチャンの業績を面白おかしく伝える連中だな。派手な衣装に目立つ振る舞い、顔容美しくまるでカタツムリ神官(俳優)のようで、中々の武芸の達者らしいな。」
「カニ神殿が確認しただけでも、イローエント近辺に5人居ます。彼らには1人ずつ杣女なる美しい女が従っています。」
「うん聞いた。それで。」

「彼らがどこから来たのかは謎でしたが1人、カニ神殿で顔を見知った者を発見しました。彼らの所属は『ジー・ッカ』です。」
「ジー・ッカ! そうか、王姉妹の手の者だったか。」

 神聖金雷蜒王国の封じられた都、金雷蜒(ギィール)神の地上の写し身が棲む人工都市ギジジットは神聖王の同胞、王姉妹によって統べられる。
 『ジー・ッカ』は王姉妹の手足となり方台各地に身を潜め、敵対者を排除暗殺する組織だ。
 彼らとも、褐甲角王国は長年暗闘を繰り拡げる。

「青晶蜥神救世主はギジジットにて金雷蜒神の巨大な化身を討滅し、神本来の姿に戻したと聞く。王姉妹は以後彼女に従うとされるな。」
「ジー・ッカは王姉妹様に絶対の服従を誓います。ガモウヤヨイチャン様のお指図も、等しく彼らは受領するでしょう。」
「うん、納得出来る話だ。」

 マキアリイは先を促す。部屋には椅子がちゃんと有るのに二人とも立ったままなのを、士団に勤める衛視は不審げに見た。
 だが彼らの使命は辻大路に立ってこそ果たされる。役所の奥に構えていては何も進まない。

 クワンパは調子を整える為に、右手に持つ長棍で床をとんと叩く。カニ巫女が説教する時の癖だ。

「ジー・ッカと人喰い教団は寄り添うように生きて来ました。同じ暗黒に暮らす者として便宜を図ってきたのです。」
「うん。」
「ですが現在ジー・ッカはガモウヤヨイチャン様のお指図に従い光の中を歩きます。その証しが青服の男です。」
「うん、うん。」
「反対に人喰い教団は幾度もガモウヤヨイチャン様を襲撃し、最早ジー・ッカの許さざる所となっております。ですが長年の付き合いから、表立って対立はしていません。」
「分かった。ジー・ッカの筋をうまく手懐ければ、人喰い教団の中枢部に忍び込む事も可能と言うのだな。」

「無理ですよ。」

 クワンパの言うところは現実味に乏しい。『ジー・ッカ』がいかに人喰い教団に愛想を尽かせていたとしても、褐甲角王国に協力するはずが無い。
 しかし、

「無理だな。だが試してみる価値はある。青服の男と繋ぎは取れるか。」
「取れません。彼らは神殿組織とは無縁です。トカゲ神殿とも連絡を持ちません。」
「うん、救世主から直接に指令されているのだな。分かるぞ、だが。」

「やはり、市中で彼らを捕まえるしか手はございません。」
「その方法は。」
「自ら市に立つしか無いでしょう。」

 勢い込んでいたマキアリイもぴたと停まる。人に溢れる市の真ん中に立つだけでよい、訳が無い。
 青服の男が接触して来るだろうなにかをするはずだ。

「嫌な事を思いついた。」
「なんでしょう。」
「先日の探索ではおまえと一緒に、交易警備隊の隊長の格好をして市に出た。」
「そうでしたね。」
「青服の男が寄って来る服装といえば、やはり…青服だろうな。」
「だと思います。」

「俺が着るのか。」
「カニ神官は嫌がります。」
「着るだけではダメだな。」
「踊りや芸も見せねばなりません。ガモウヤヨイチャン様を称えて歌わねばなりません。」

 マキアリイは顔を右手で覆ってその場にしゃがみ込む。ちょうどクワンパの目線辺りに黒褐色の甲羅を持つカブトムシが下がって来た。
 いかにカニ巫女でも聖蟲に対しては最敬礼をせねばならぬ。うやうやしく礼をする彼女に、尊いカブトムシは応えるかに左前肢を上げた。
 顔を伏せたままマキアリイは問う。

「俺に出来ると思うか? 人前で青服の男と同じ芸が。」
「やらねば事態の解決には至りません。」
「お前、面白がっているだろう。」
「カニ巫女は遊びは嫌いです。」
「青服はどこで調達する?」
「タコ神殿で舞衣装を作ってもらいましょう。形は既に調べて来ました。救世主様の御尊顔を描いたハリセンも作らねばなりません。」

「これから円湾に行って、ソグヴィタル王と斬り合うのはどうだ。」
「わたしはそれでも一向に構いませんが、監査はそれでは済まないでしょう。」
「うん。」

 

 2日後、二人はイローエント郊外の難民街に居た。
 頭からすっぽりと砂色の合羽を被っている。この姿は長旅の巡礼や難民の格好に似て、人の注目を浴びない効果がある。
 派手な衣装を隠して歩くのに非常に都合が良かった。

「レメコフ様、わたしが居る必要は無いのでは?」
「青服の男には杣女が付き物と言ったのはお前だろう。」
「ですが、」

 確かにクワンパは杣女の役が似合わない。あんまり美しくないし、踊りも歌も出来ないからだ。
 衣装を作ったついでにタコ巫女を借りて杣女にしようと案を出したが、マキアリイは首を縦に振らなかった。
 イローエントに勤める者は神官巫女誰一人として信用ならない。まして人喰い教団やジー・ッカと接触するとなれば、絶対信用出来る相棒が必要だ。
 その点クワンパは本来カプタニアのカニ神殿に所属する者だ。

 日頃直射日光を浴びて化粧乗りの悪い肌に目一杯白粉を塗りたくる顔を覗き込んで、マキアリイはにいと微笑む。

「”ゲルタにも塩”と言うからな。」
「うう。」

 二人が長々と喋り続けるのは、つまり踏ん切りが付かないからだ。
 クワンパもマキアリイもその目で直接青服の男を見た事が無い。彼らがどのように人を集め宣伝するか、まったく分からない。
 勢いで人の溢れる通りに出てしまったが、本番となれば正気に返る。

「レメコフ様。」
「分かっている!」

 黒甲枝は王都にあっては種々の行事祭礼に駆り出され、さまざまな役を承る。踊りや謡いも基本的な教養として身に着けている。
 やれと言われればなんとかなるはずだ。
 しかし、道行く殺気立った人の波を振り向かせ意のままに操るのは、さすがに手に余る。

「行くぞ!」

 ばっと合羽の前を開いて青い服を晒してみせたレメコフ誉マキアリイは、そのまま猛烈な速度で通りを駆抜けて消えた。
 クワンパは何が起きたのか分からない。左右の人の顔をきょろきょろと見回して、マキアリイの消えた先をとことこと追いかけて行く。
 大路から外れ、左右を土壁に挟まれた人一人がやっと通れる路地のゴミ箱の裏に、兵師監はうずくまって隠れている。
 クワンパは仁王立ちして冷たく言う。

「逃げましたね。」
「すまん、つい身体が勝手に動いた。」
「しょうがない人ですね。武器を持っていればだいじょうぶですか?」

 と、携える頭陀袋から短い割棍を取り出した。
 刀剣類を持っていれば人に怪しまれるが、40センチ弱の棍棒に刃の無い鉄の塊を括りつけたこの武器ならば、それほどの警戒はされない。出来の良い石斧みたいなもので薪割りにも使え、一般人の護身用としても普及している。

「う、うん。割棍か、こんなものでも無いよりはずっと心強い。」
「ではもう一度やりますよ。」

 有無を言わさず袖を引っ張って大路に連れ出す。頭に聖蟲を乗っけているのに、子供みたいに手が掛る。

 

「やあやあ皆の衆、御存知かな。方台に遂にトカゲ神救世主様が現れた事を。」
 今度は覚悟を決め、大きな四角い袖を拡げたマキアリイは堂々と人の前に立つ。右手に握る割棍で傍の店の看板をかんこんと叩いて人を呼び止める。

 自分でやって初めて知るが、この青服は異様に目立つ。
 青というよりも色の抜けた紺なのだが、ここ100年ほどは偽救世主防止策として規制してきたから、街に同じ色が無い。
 大きく拡げる袖は方台には珍しく、座布団を左右に吊るした様。風を孕んで翻り、トカゲ神救世の御手の到来を否が応にも印象付ける。

「…あー。」

 いきなり切り出したは良いが、次の言葉が見当たらない。多数の目が集中する中、マキアリイはあがった。
 これはいけないとクワンパは自らも前に出て、ちゃかぽこと木のお椀を打ち鳴らす。何故杣女はお椀を用いるのか、これも謎だ。

 拍子を取って間を開けたおかげで、マキアリイは台詞を思いつく。事前に脚本を書き練習も多少やったのだが、実演する段になると全部頭から消し飛んだ。

「あー皆の衆、今方台は驚くべき事件の真っ只中にある。デュータム点より東に3日、ボウダンの草原にて行われた三神救世主の会合の顛末、御存知であろうかな。」

 最新のニュースであるから、人は首を伸ばしてマキアリイを見る。弥生ちゃん失踪は既に多くの人が知るが、詳細はさすがに遠い南海にまで伝わっていない。
 ちゃかぽこかんかん、と音を鳴らす。

「世にも不思議な物語、豈図らんや四人目の、神の御使が現れてガモウヤヨイチャン様にお尋ねになる。」
「おおお!」

 人の流れが堰き止められて、どんどん見物が増えて行く。マキアリイもクワンパも最早後戻り出来ないと悟る。
 ちゃかぽこ。

「誰々あるか、誰が来た。御当地南の守り神タコの女王のお出ましか。いやいや違うそれはまた、次の不思議に控え居る。」
「もったいつけずにさっさと喋ろ!」
「聞きたいか? 聞かぬが良いぞ驚くぞ。吃驚仰天目の玉がくるりと回ってあの世行きだ。」

 わいわいと騒ぐ声と重なる頭とで、マキアリイ必死の芸が見難くなる。押すなと下がれの怒号に、なんだこらと応じる馬鹿も出る。
 このままでは肝心本物の青服の男に届かない。左右を見渡すも、ちょうど良い舞台などは無い。
 もっと見晴らしの良い、向こうからもこちらからも見て取れる場所は無いか。

「あった。」
「どうしました? うわぁきゃ!」

 マキアリイはむんずとクワンパを抱き寄せて、ぽんと跳ねる。人の波の前から瞬時に消える。
 あまりの素早さに誰もが事態を理解出来ない。これこそが青服の男の手品かと、わあと歓声を上げる。
 再び姿を現わしたのは、なんと屋根の上。土壁3階造りの商家の屋根に、クワンパを抱きかかえる雄姿が見える。

 「ご説明いたそう。ガモウヤヨイチャン様失踪の真実を!」

 辺り一面通りの隅まで溢れる人の歓声に、マキアリイ手に持つ割棍を振って応える。
 この男ノリノリだ、とクワンパは目を見張る。さすが黒甲枝はやると決めたら度胸が違う。
 高い所に上がったから、マキアリイの顔もはっきり見える。 聖蟲を隠す小さな四角の帽子、兜巾を載せる涼やか男前の容貌に、若い女子が嬉しげな悲鳴を上げた。

 マキアリイは思わずクワンパに囁く。

「青服の男というのは、なかなか良い思いをしているようだな。」
「で、これからどうします。」
「それは勿論!」

 未だ合羽で身を隠すクワンパの外身を剥いて、艶やかな杣女の衣装を露にする。
 桜色の地に黄色柿色の花弁が散る可憐な衣は、男の青服と対比してより女らしく色っぽく映る。
 女は得だ。白粉塗ってりゃ美人に見える。

 仕方なしにクワンパは、かねて用意のハリセンをぱたぱたぱたと開く。折り畳み可能の扇は方台には無い道具で、鳥の羽根が開いたかと人がびっくりする効果もある。
 扇面に描かれるは、蒲生弥生その人だ。弥生ちゃん直筆マンガ調の似顔絵を、蜘蛛神殿経由で入手した。
 それをそのまま描き写す。扇の裏はもちろん青く輝くピルマルレレコの人頭紋だ。

 青晶蜥神救世主の御姿御紋章に、道に立つ者すべてが地に跪いて拝礼する。
 以後クワンパは弥生ちゃんの役をする訳だ。

「さて皆の衆。ガモウヤヨイチャン様が如何にして方台からお消えになられたか、その真実を今明かそう。

 遠き星の世界より呼び渡させ給いし救い主は、並ぶ者無き優れた御方。見目麗しく知恵にも溢れ、おまけに無敵と来たものだ。
 これほど優れた御方なら、全てを任せて誰に不安があろうや。

 ところがどうして異議を唱える者がある。金雷蜒神聖王陛下か、褐甲角武徳王陛下か、いや違う。もっと上、もっと尊い、最も有り難き御方だ。
 なんと!」
「うん!」
「なんと!」
「うんうん。」
「おっとここまで。これ以上は口が裂けても言えない、イローエントの衛視局が絶対禁止と決め込んだ重大結構な機密事項だ。」

 抗議の怒声が沸き起こる。それはそうだ、ここまで引っ張ってそれは無い。
 声が一回りしたところで、マキアリイは割棍を振り上げ制止する。食い入るように見つめる人の中に、果たして青服の男は居るか?

「聞きたいか、どうしても聞きたいか。ならば語らずには居られまい。驚く勿れその人は、遠き昔に生を受け今の世にまで在り続ける不死不滅の神人さま、コウモリ神の御使いだ。」

 ぎゃあああと誰からともなく悲鳴が飛ぶ。さすがに誰でも知っている。
 コウモリ神は死を司る神だ。死者の魂を天河の冥秤庭に誘い道中を護る神と心得る。
 その神が弥生ちゃんの前に現れたとなれば、意味するところは一つしかない。

「御命頂戴!」

 マキアリイは高くかざす割棍ををそのままゆっくり「弥生ちゃん」役のクワンパに振り下ろす。
 クワンパはハリセンを振るって割棍を跳ね返す。四角の両袖を大きく風にはためかせ、マキアリイは大きく屋根を飛び下がる。
 高いところ足場の悪い屋根を無造作に飛ぶ彼に、女の子達がきゃああと叫ぶ。
 さすが額にカブトムシを持つ者だ、並の人間のざっと3倍は跳ね上がる。近くで見るクワンパの方が心臓が躍るも、本人は涼しい顔でひらりと舞う。

 かんかんかきん、と擬闘を繰り返し、「コウモリ神人」役のマキアリイは「弥生ちゃん」クワンパを追い詰める。
 弥生ちゃん危うし!

 大きく弓なりに割棍を受け止めるクワンパの身体が、その時光った。陽光に煌めく光の粒が周囲を舞い、まさに神威の発動だ。
 なんのことはない、手品の種に持って来た雲母の粉をバラ撒いただけだが、効果は絶大。
 固唾を呑んで見守る人は、あっと声を上げる。

 クワンパの反撃だ。ハリセンが破れるのも構わずにばしびしとマキアリイをぶっ叩く。
 カニ巫女だから人を叩くのも堂に入ったもので、青服の男は芝居を越える本当の打撃を受けて閉口し、じりじりと下がって行く。
 辺り構わず叩きまくるクワンパは、知らない内に頭に被る兜巾も直撃する。中身は尊い聖蟲なのに、すっかり忘れていた。

 青服のマキアリイなんで堪ろう、屋根に葺いた木の板を踏み抜いて、3階の部屋に落っこちる。
 屋根の上でどたばたするのはなんじゃいなと調べに来た家人が2人、目を丸くして見詰めていた。
 マキアリイ、さすがにバツが悪い。
 や、と二指を額に揃えて挨拶すると、とんと床を蹴って破った屋根の大穴から飛び上がる。人間を遥かに越える跳躍力に、残された者はただ唖然。

 屋根から飛び出た彼は、さらに蹴飛ばし高くたかくに舞い上がる。
 下で見守る群集の視線の先でくるりと回り、最後の説明を宙で語る。良く通る声が南北東西の路を渡る。

「いかに千歳二千歳齢を保つ神人様でも、星の世界で鍛えし電光の剣技に敵うはずも無し。もはやこれまでと思いを定め、苦し紛れに最後の手段を繰り出した!」

 マキアリイ、ばっとクワンパを抱きかかえる。大きく拡がる四角い袖が蝙蝠の翼と化して、麗しの救世主を包み込む。
 そのまま屋根を大きく蹴飛ばし、葺いた板が何枚も弾け飛ぶ。通りを隔てる向かいの屋根に二人はそのまま飛び移り、姿を消す。

 ああ、あれよ、と言う者も、何が起きたか分からない。いきなり青服の男と杣女はどこかに消えた。これでお終いか?
 いや、元居た屋根の上、板がぼろぼろに吹き飛んで空の青さが目にしみる大災難を被った店の上に、再び青服の姿が有る。
 手品の種は簡単だ。皆が上を向いてる隙に、こそこそと背を屈めて通りを戻って来ただけだ。

「さてこれが、ボウダンの野で行われた三神救世主の邂逅、ガモウヤヨイチャン様失踪の顛末だ。
 これより先は人の目では定かならず。北の彼方へ去られたというが、生きたか死んだか分からない。
 だが皆の衆ご安心召され。
 金雷蜒神救世主神聖王ゲバチューラウ陛下は仰しゃった。「ガモウヤヨイチャンは死んではいない。」
 褐甲角神救世主武徳王カンヴィタル陛下も仰しゃった。「青晶蜥神救世主は御無事である」と。」

 おおおと地を揺るがす群集の安堵の声。皆これが聞きたかった。これこそを求めていた。
 救世主弥生ちゃんは確かに生きて此の世に在る。未だ迷える民衆を見捨てていない。

「二神の救世主が確かと証すに、誰が御無事を疑おう。信じていれば必ず帰る、ガモウヤヨイチャン様は再びタコリティの地にお戻りになるぞ。」

 大歓声で家々の窓、屋根までもが震えを見せる。余りの反響の大きさに、マキアリイちとやり過ぎたかと内心反省する。
 遠くを望むと、イローエントの城砦から多数の兵が走り出るのが目に映る。
 これだけ人を集めれば、それは規制に来るだろう。ただでさえ連日の暴動や騒乱でぴりぴりしているのに、青服の煽動を許すはずが無い。
 事前にマキアリイが偽青服をする、とは誰にも言って来なかった。人喰い教団にばれては困るから仕方ない。

 多くの人が手を振り腕を振り、屋根の上にて様子を窺う青服の男に「もっと」と弥生ちゃんの話をせがむ。
 またの機会にと、女達の黄色い歓声に一々応えて愛想を振り撒き、マキアリイは四角の袖を左右揃えて大きく拡げ、頭も深々に礼をする。

「では皆の衆これにて失敬。」

 すっと、消える。それきりだ。破った屋根の穴から下の部屋に降りて行く。
 先ほど目を丸くした店の者が、今度はなにが起きたか完全に理解し、ひたすら両の掌を打ち鳴らし、マキアリイを誉め称える。
 これまた失敬、と先程と同じ二指を揃える挨拶をぴっと決めて、クワンパを置き去りにした向かいの家にこっそり飛び移る。
 クワンパは飛んだ衝撃で目を回し、床の上で一人大の字にのびていた。

 後は兵達巡邏達が群集を追い散らす居丈高な怒声のみが通りに満ちる。騒動の元、青服の男も探すが見付かる道理は有りはしない。

 

 クワンパの頬を軽く叩き意識を取り戻させると、拾った合羽を急いで被せ、二人は一目散に逃げ出した。
 ざっと半里(500メートル)を駆抜けて、井戸端の木陰に飛び込んだ。はあはあと息を弾ませる。聖蟲を持つマキアリイでさえも、運動ではなく羞恥心と演劇の興奮から喘いでいる。

「いやちょっと、やり過ぎたかな。」
「どうでしょう。これ以上無いくらいにはやり過ぎましたが、」
「これで本物の青服が出て来ないと、かなり困るな、これ以上の芸を見せねばいかん。」
「しばらく様子を見ましょう。しかしレメコフ様、なんと芝居のお上手な。」
「黒甲枝たる者、これくらいの度胸は無いと務まらんからな。とはいえ二度と鏡は見たくない。己の姿を平静では見られないぞ。」

 ハハハアハハと笑い合うと、井戸で水を汲み上げて手足をじゃばじゃばと洗う。さすがに直接生水を飲むのは危ない。イローエントもタコリティも水が悪いので有名だ。
 どこかで飲料を買うしかないか。

「酒屋でも探しますか。」
「そうだな。ついでに先程の芸の評判でも確かめて来よう。」

 屋台で水と穀餅を買い求め、難民の作法道理に歩きながら食べる。
 脹れ上がる難民の数に食糧の供給は公式には逼迫するばかりなのだが、どこからかヤミの物資が溢れ出す。
 イローエント軍制局の奢侈禁止・統制が不可能となった今では、金さえあればむしろ前より豊かに暮らせるほどだ。

「不思議なものだな。多くの難民は餓えに苦しんでいるのに、大豊作よりもさらに街が賑わっている。」
「なにかが間違っていますが、どういう仕組みなのでしょうか。私にはさっぱりわかりません。」
「むしろ罠の存在を感じるぞ。この物資がいきなり引き上げられたらどうなるのだ? 出所が分からねば、いつまで供給が続くかも定かではない。」
「はい。」

 人込みの中を歩く二人は、尾行の気配を感じる。クワンパですら感じるほどだから、さほど上手いやり方でつけられているのではない。が、巧みに追い込まれているとも見える。

「む、前にも人が居るな。」
「前ですか。こちらの行き先を事前に察知する尾行は、素人では無理です。」

 カニ巫女は尾行はあまり行わないが、自分達がつけられるのは慣れている。ヤクザ等が巫女や神官が一人になったところで、報復に来るのだ。備えは常に怠らない。
 マキアリイは頬を弛ませる。ありがたいことにちゃんと青服の芸はそれなりの人物の目に留まったようだ。

「クワンパ、どこか人気の無い所に行って、彼らと対面しよう。」
「そうですね、ここからでは「廃園」が近いと。」
「廃園か。暴れるのに邪魔の入らないところだな。気に入った。」
「では、誘い込みましょう。」

 「廃園」とは、旧ギィール神族の邸宅でその後活用されなかった土地だ。通常樹が生い茂り、人が隠れ棲むのにちょうど良いが誰も近付こうとしない。
 なんと樹が紫色をしているのだ。樹皮はかさぶたのように脹れ上がり、自然の規則を無視した枝の繁茂が有る。葉も不自然によじれている。
 禍々しい雰囲気を発するので、鳥も寄りつかない。

 尾行者達に意図を気付かれぬよう慎重に道を選び、廃園の傍にさも偶然という顔で到達する。
 イローエント衛視局の封印の垣根を破って、紫の森に飛び込んだ。
 さすがに廃園は躊躇するのか、尾行者達は集まり相談して、改めて用心しながら二人の後を追う。

 廃園の中は狂気の庭だ。紫色の樹木の肌に、蛍光黄色の葉が繁る。葉は非常識に大きく、トゲも生えて通りすがりの生き物に襲いかかる。
 花が咲いている。幹の割れ目からいきなり。しかも花芯が粘ついて、蝿や昆虫が何匹も捕えられ溶けていく。樹が虫を食べている。
 此所には、自然界の優しい調和が微塵も見られない。これでも普通に植えられる庭樹と同じ種類なのだから驚く。

 かって神族が邸内で様々な薬品を使い土壌を汚染し、樹の根がそれを吸い上げて怪しく成長したと説明される。
 廃園に長く棲むと人間も動物も体調に変化を来し、化物に成ると信じられていた。
 兵器として使用される獣人は、汚染された土地や水に暮らした者の研究から生まれたと聞く。

 元がギィール神族の邸宅だから、マキアリイには廃園の構造が大体分かる。
 褐甲角王国でも古い神聖金雷蜒王国時代の建築物をそのまま官舎に使っている。石材はこの時代におおむね掘り尽くされ壮麗な建物と化したから、後代では泥を使うしかなかった。

 中心部に当たる石舞台の上に立つ。正面には大きな石段が聳え、崩れた母屋の玄関に至る。
 金雷蜒(ギィール)神の神殿も兼ねる神族邸宅の、ここが祭壇だ。
 マキアリイは足元を確かめて、はっとする。この舞台は彼が知るものと少し様子が違った。

 石舞台は1辺が12メートルの正方形、白灰色の花崗岩でなにも装飾は施さない。
 だがここの舞台はかすかに彩色の痕がある。赤と黒の禍々しい紋様がうねり、全体を覆い尽くす。

「お気づきになられましたか、レメコフ兵師監様。」

 振り返ると、石段の上に男が立つ。角袖の青い服を着たすっきりとした美男子だ。背丈は高く体格優美、鍛錬著しく武術の腕前も達者に見える。

「この紋様は人喰い教団の経典に描かれるものと同種だな。」
「さすが禁書にもお詳しい。この廃園の主は、人喰い教に帰依しておりました。」
「しかしさほど旧くはない。100年ほど前か。」
「褐甲角王国がこの地を治めて久しい御時、でございます。」

 舞台の袖から男達が現われる。青服は着ておらず武器も携えていないが、いずれも戦闘に長けた者と見る。
 二人は完全に囲まれたが、殺す気ならば姿は見せまい。
 マキアリイは合羽を脱ぎ捨てて、自分も青服を晒して見せる。

「話がある、というわけだ。」
「兵師監様からお呼びになられました。我らに御用とお見受け致します。」
「だが、ジー・ッカのお前達が褐甲角王国の頼みを聞くとも思えぬな。」
「事と次第によりますが、我らにも計画がございます。偽の青服に暴れられては、なかなかに迷惑。」
「なるほど、それは納得だ。」

 いやと言うほど目立ったのは、正解だったようだ。これでダメならもう2、3回やるつもりになっていたマキアリイは、少し残念に思う。

「では頼もう。人喰い教団への潜入の手引きをしてもらいたい。」
「さてそれは難しいお頼みです。我らも『貪婪』とは懇ろには付き合っておりません。」
「不可能ではないだろう。」
「我らに害が及ばぬように便宜を図るのは、かなりの難事。されど折りよく向こうから口を開けて参りました。」

「おお、それを頼みたい。」
「危のうございますよ。『貪婪』は用が済み次第、使者を殺す習わしを持っています。」
「それでいい。それがいい。」
「では。」

 

 本物の青服が語ったのは、人喰い教団のとある重要人物が重傷を負い彼らに薬品の提供を求めて来た、という話だ。

 弥生ちゃんが方台に降臨した後、トカゲ神殿が供給する薬品はごっそり入れ替わった。
 効能や毒性に関して飛躍的な改善がなされ、製法もより精妙に発展して、魔法薬と呼べるほどに品質が向上する。
 傷薬や化膿止め、毒消し等の戦傷に効く薬を青服の男達も商っている。人寄せ程度の販売ではあるが使い方を面白おかしく説明するので、彼らが薬売りである事は誰もが知る。

 マキアリイとクワンパは、薬を届ける役を引き受けた。
 おそらくは届けた先でそのまま殺されるのだろう、ジー・ッカにおいても対応を苦慮していたところに、渡りに船。厄介払いを押し付ける。
 危険は承知の上だ。額にカブトムシの聖蟲を持つ者であれば、むざとやられはすまい。

 2日後、二人はタコリティの廃墟に在る。
 市内はあらかた破壊されて居るが、石造りの神聖金雷蜒王国時代の建築物はそう簡単には壊れない。都市機能を維持する施設は無事のようだ。
 人もかなりが残り材木をかき集めて再建を始めていた。苦しいながらも普段通りの暮らしを営んでいる。

 ここにもやはり『廃園』が有る。古い毒の影響のみではなく、定期的に人喰い教団が薬品を撒いて毒の樹を栽培しているらしい。

「レメコフ様、これでしょう。」
 クワンパが指し示すのは、「三腕三面鬼」像。精霊信仰の小さな祠だ。

 方台の宗教といえばまずは十二神信仰。ついで人喰い教とスガッタ教が挙げられる。しかし、弱小とはいえ精霊信仰や祖霊崇拝も存在する。
 「三腕三面鬼」もその一つで、かなり人気が有る。
 3つの顔には喜び怒り悲しみを表し、3つの腕に武器・木椀・縄を携える。旅の危難を防ぎ、金儲けが出来て、良き伴侶と結びつける3つの御利益をいっぺんに授かる、お得な精霊だ。

 マキアリイが古ぼけた石像をことりと傾けると、どこかで掛け金が外れる音がする。とはいえ、自動で開く扉などは無い。
 石像も、訪いを告げる呼び鈴に過ぎなかった。

 しばらく待つと、爺ぃが石像を確かめに来た。なにも異常が無いと見極め、拝んで帰る。
 マキアリイとクワンパは彼の後に付いて行った。もちろん服装は合羽を被って青服杣女の衣装は隠している。大きな鞄に本物の薬を詰めて、武器はやはり割棍のみを忍ばせる。

 爺ぃはそのまま粗末な家に入る。小商い等を営む者の長屋で、人はかなり沢山住んでいる。子供が走り回って遊んでいた。
 いかにも母親らしい中年女が、爺ぃの後ろに続いて来た二人に話し掛ける。
「なんだい、あんたら。じいさんに用事かい?」

「そこの三面鬼についてお聞かせ願いたい。霊験あらたかにして救われた人も多数と聞いたが、まことにこちらであるか。」
「そうだよ。なんならあんたらもお祈りしてやろうか。」
「おお貴女が精霊の巫女か。」
「巫女だなんて大袈裟な、銭は有るかい?」

 クワンパが袋から褐甲角王国の大銅貨を出す。これは1金に相当する価値を持つが、女はふんと鼻で笑う。
「今時そんなものじゃねえ。」

 実のところ、精霊信仰の祈祷の謝礼として1金は高過ぎる。絶対あり得ない金額だ。
 この交渉自体が符丁であった。
 女の言葉に従って、また別の祠に行く。同じように石像を傾けるとやはり人が出て来て、その度モノを買ったり祈祷をしたりと銭を使う。

 複雑な手順はおそらく使い捨ての鍵だ。ジー・ッカに伝えられたものは今回限りで、2度はこれを使えないだろう。
 マキアリイは正確に手続きを進めて行く。
 たぶん、自分がこの仕掛けを用いるとしたら、あちらこちらに向かわせる間に陰から人物を見極めるだろう。一瞬たりとも気を抜けない。

 最後に買った物全てをとある店に預けると、店員が古家に案内してくれる。
 この男はまるっきり裏表無さそうで、単なる繋ぎと見た。親切心から引き受けた仕事でも、おそらくは後に殺されるはずだ。

 

 薄暗い部屋で待っていると、女達が現れた。目付きの鋭い、まるで潤いの無い女だ。
 彼女達は繊手を伸ばしてマキアリイとクワンパの合羽を剥ぎ取る。全身を探って武器や暗器の所持を調べ始めた。

 困ったな、とマキアリイは上を向く。女の手は男の陰部にまで伸びる。が、そこは問題無い。
 心配すべきは頭の上、青い兜巾の中に隠れている聖蟲だ。聖なる光を発するカブトムシが見付かれば、さすがに全てが水泡に帰す。

 クワンパもそれだけが心配だ。
 鞄の中に隠し持つ割棍はすぐに見つかった。裾の下に隠し持つ短刀もあっさりと取り上げられる。だがこれらは目眩し、本物のジー・ッカであれば当然持つべき代物だ。
 女の指はクワンパの下着の中にまで伸び、骨刃を引きずり出す。骨で作られた小刀で大きさは人差し指ほどしかない。
 ジーッカの暗殺者はこのような物ででも人を容易く殺すという。これも取り上げられる。

 クワンパの視線は最大の懸念にのみ集中する。
 女の指が、堂々と立つマキアリイの額に伸びる。髪の間をまさぐり、兜巾を持ち上げる。青服の兵師監はされるがままに任せている。
 ダメか? とクワンパは目を瞑る。
 しかし、

「どうした?」
 マキアリイは涼しい声でクワンパに話し掛ける。
 え、と目を開けても、女が調べる兜巾の中に何も無い。額の上にも尊い聖蟲の姿は無い。
 実は身体検査をされると察知して、聖蟲が勝手に頭を離れて行った。今は天井に貼り付いて女達が去るのを待つ。

 クワンパは聖蟲が宿主の額を自在に離れる事が出来るなど知らない。聖戴者以外でそれが可能と知る者も無い。
 女達は身体検査を終え二人の衣服を整えると、速やかに部屋を去って行く。
 聖蟲はぶんと翅を鳴らし、慣れた自分の神座に帰る。自分で兜巾の端を押し上げ、潜って行く。賢い!

「そんな事が出来るのですか…。」
「待て待て、まだ気を弛めるな。」

 この瞬間も誰かが監視して居ないとも限らない。二人は薄暗い部屋でじっと待つ。
 何も起きない。

 しばらくしてこつこつと下から叩く音がする。ぱかっと大きく床板が開いて石の階段が現れた。
「こちらへ。」

 誘われるままに下に降りる。人1人がやっと通れる狭い地下通路に案内された。天井は高いが、屋根として被せられる石には隙間が有りところどころ陽が覗く。
「これは排水溝か。」

 しばらく進むと、地面にぽっかりと穿った大きな穴に続く。旧い下水隧道だ。
 タコリティは紅曙蛸女王国から続く都で、神聖金雷蜒王国時代には大規模な建設工事で近代的な都市構造を付加された。

 下水道に水は流れていない。現在使われているものでは無いのだろう、からりと乾いている。途中の分岐で新しい時代の隧道に入り換え、案内の男はどんどん潜って行く。
 灯は彼が持つ龕灯のみ。蝋燭1本でしかないから、非常に暗い。
 が、ところどこにきらりと光るものが有る。黄金の小牌が石に埋めこまれており、標識となっている。

 井戸の縦穴に横から入り縄梯子で下り、別の隧道に入り替える。普通に探索しても、この井戸に水を張れば先は辿れない仕組みだ。
 地上から20メートルは下っただろうか、急に内部の空気が暑くなってきた。生物の呼吸に似た音がして、生臭い。

 ここから先が人喰い教団の本拠地。
 赤と黒の帯がうねる紋様が描かれた分厚い扉を開くと、狂気と熱情が迸る。

 目映い光に眼が焼けた。地下世界とは思えぬ光の乱舞に、マキアリイもクワンパも腕をかざして顔を覆う。
 真昼の明るさを実現するにはよほど大量の焔が必要なのに、熱くない。純粋に光だけが満ちている。
 小さな硝子の珠が壁面のあちらこちらに埋めこまれ、ちらつかない安定した光を発している。布や旗が近くに有るのに燃え移らないのは何故だろう。

 改めて室内の様子を確かめると、黄金と白骨とミイラが整然と並ぶ。大量の書物が納められた、そこは図書館だ。
 長く続く隧道の壁に決まった大きさの穴が幾つも穿たれ、立派な書棚が据え付けられている。葉片を閉じた無数の封板には、表の世界では失われたとされる書名も覗く。色絵を施した絹の巻物も整然と積まれている。
 人は居ないが、何人もの手を掛けねばこれだけの書物を管理できまい。全体に満ちる膿んだ暑苦しい空気には、ゲルタの粥の臭いも混ざる。

 白骨とミイラは、どれも身分の有る者と見受けられる。
 おそらくは黄金と荘厳な赤の衣装を纏うミイラは教団の指導者層「切配主」。白骨は彼らに奉仕する乙女であろう。色帯や薄絹、硝子の数珠で美しく装われている。
 ここには死は無い。彼らは永遠に生きている。場違いと言えば、脈打つ身体を持つ自分達であろう。

「無礼な!」
 いきなりクワンパが叫び、人を殴る。後ろから音も無く現れた男が不用意に彼女に触ったのだ。3人、4人と現われる。案内人の前方からも姿を見せる。

 もうそろそろ諾々と従うのはいいだろう。
 マキアリイは案内の男に初めて質問する。無論、青服の男として芝居気たっぷりに、だ。

「私はこちらにガモウヤヨイチャン様の御薬を届けに参ったのだが、病人怪我人はどちらであろう。」
「うむん、ここで受渡しをするか。」

 案内の男が振り向いた。輝く不思議な焔に照らされるのは、まったくに残念な顔だ。げっそりと痩せて肌も土気色、不健康で貧相な男だ。壁で眠るミイラの方がよほど血色がいい。
 なんの感情も無しにマキアリイと向き合い、抑揚の無い気怠い声で応じる。
 だが殺気は有る。ここで自分達を始末するつもりだろう。人殺しをこれほどまでに無感動に行う者がいるとは、人間はどこまでも奥が知れない。

 マキアリイは両腕の角袖を大きく拡げ、青い服を見せつける。男達はまだ分からない、これが暗殺集団ジー・ッカの新しい姿だと。
 闇に生きるのを終え、陽の光の中青い空の下に誇り持て立つ、新世界の住人だ。呪われた運命からガモウヤヨイチャンが彼らを解放した。

 マキアリイの拳が唸る。旧い掟に縛られる男達を殴り据える。
 ジー・ッカの者は人喰い教団に逆らわないと思い込む彼らは、したたかに新世界の秩序を教え込まれる。

「いささか、御用心に欠けますな。」
「うぐむぐふうる、な、このような、振る舞いをして、後でいかなる罰を食らうか、おぼえて、」
「ごちゃごちゃ言う暇が有ればさっさと怪我人の元に案内くだされ。間に合わなくても知りませぬぞ!」

 バカに法を説いても仕方ないと見極めたのだろう、手酷く顔面を殴られた男達は素直に道を示す。
 鉄拳制裁は思わぬ副産物も有った。以後の警戒手順をさっくり省略して、速やかに二人を通してくれる。
 図書館を抜け居住区を抜け、更なる奥深くに幾重もの詰め所を潜り抜けて進む。

 ここは全体が無数の隧道の連なりだ。アリの巣と同じに、幾つもの支道が縦横に交差し上下に繋がり、複雑な構造物となっている。
 道のどれもが家でもある。横穴を部屋として人が住み、倉庫に使い、牢屋まで有る。生贄として食われるのだろうか、金の鎖で繋がれる美しい女が切ない悲鳴をこぼす。
 地下世界はまるで一個の街、いや王国だ。

 最終的に案内された部屋は、また一段と豪勢な装飾が施されている。大きなドームとなり天井全体に小さな焔を散りばめ、無数の金属が煌めいて眼が痛い。

「祭壇、いや人食い教だから調理場か。」

 一つだけ青銅の器物がある。人間2、3人をまるごと茹でられる大きな鼎だ。この部屋は、鼎を中心に調度が整えられている。

 方台での食物の調理は通常金属の道具を使わない。煮炊きには土器の鍋釜を用いるし、石盤の上でものを焼く。包丁だって貧家では金物を避ける。
 金属はギィール神族がもたらした奇蹟の材料で神威を帯び、邪悪を討つ武器兵器にのみ用いるべきだ。とする信仰も未だ根強い。
 鉄の鍋の一般利用は弥生ちゃん登場まであり得なかった。

 にも関わらずここには金属の道具が溢れている。禍々しさと優美さを湛える、他に類例を見ない芸術が有った。
 神に近付く祭祀を彩る金銀の調理器具は、さぞ尊ばれただろう。

 首座と思われる一際赤の目立つ席に、先程のミイラと同じ衣装を纏う者達が集まっている。横たわる男の傍に跪いていた。
 「切配主」と彼らの長「天寵司祭」と見受けられる。薬を必要とする者は、おそらくこれだろう。

 顔面を腫らした案内の男は、青服のマキアリイに薬を速やかに渡せと命じる。

「されど、患者の容態を確かめねばどれを用いるべきか分かりませぬぞ。ちょちょいと塗れば即癒る、そんな都合の良いものはありませぬ。」
「うぐぅもっともだ。致し方ない、傍に近付き確かめるが良い。」

 勿体を付け丁寧に御辞儀をして切配主達に引き下がらせる。
 クワンパは抱えた鞄を開け、幾種類か薬を取り出した。薬は青服の男から提供された本物で、たしかに大審判戦争では傷付いた兵士を幾人も救った霊薬だ。

 「天寵司祭」と思しき男は年齢50歳ほどの堂々とした押し出しで、いかにも人を強引に率いて来た辣腕さが見て取れる。
 だが腹部に3箇所も傷を受け、既に膿んでいる。手当てはしているが傷が深い為に効果的には治療出来ない。方台医術の限界だ。

 当然のことながら、弥生ちゃんにあらざる黒甲枝マキアリイにこの男を救う術は無い。
 本物の青服であっても、医師であるトカゲ神官でも無理だろう。微かに息は有るものの誰の目にも手遅れは明らかだ。

 マキアリイは一通り傷を確かめて、後ろで見つめる「切配主」達に冷酷に宣言する。

「手遅れですな。」
「トカゲ神の霊薬でも、無理か?」
「今まで生きていられるだけで奇蹟に近いと存じます。これ以上は、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様がお持ちのハリセンで無ければ、とても。」

 言ってる端から横たわる男はぐぐぅーっと最後の唸りを上げ、息を引き取る。

「おお、教主様!」
「おお、御隠れになられた。」
「なんといたわしい。」

 神兵として数々の戦死者負傷者を見たマキアリイには、彼がどのようにして傷を負ったかよく分かる。
 大きな武器ではなく小刀短剣による傷、背中をまず刺され、振り返った所をさらに腹を刺された。これは裏切りの傷、人喰い教団内部での暗闘の結果だ。
 実行犯はとっくの昔に死んでいるだろうが、天寵司祭を囲む連中の誰かが裏で糸を引いているはずだ。

 用が済んだら使者は始末されるのが、彼らの流儀。先程の鉄拳の教訓に基づき、いきなり背後からでも襲い来るだろう。
 しかしながらマキアリイ、既に芝居を続ける意義を認めない。
 ここが人喰い教団の中枢部ならば、我が拳にて叩き潰すのみ。教団幹部もそっくり目の前に居る。

 先手必勝。
 とりあえず、先ほどぼこぼこにした案内の男を改めてぶちのめす。今度はちょっと強目に撫でたが、一撃で失神してしまう。

 事態を呑み込めない人喰い教徒達は、個々バラバラに逃げ惑ったり反撃を試みたりする。無論、褐甲角の神兵にろくな武装も無い人間が敵うわけが無い。
 マキアリイは素手でとにかく殴りつける。
 周囲には黒鉄光る調理具やら黄金白銀に飾られる宝剣など硬そうなものがいくつも転がるが、狭い空間であれば鉄拳ほど優れた武器は無い。

 そうはいっても対象は生身の人間だ。適当に手を抜かないと、殴った衝撃で頭が弾けたり腕がもげたりしてしまう。
 後で現場検証する為にも、流血は最小に抑えるべきだ。
 見れば、女や子供も居る。捕まれば彼女らも火焙りになるのだが、一応は情けを掛けるのも神兵の心得だ。

 容赦が無いのは、カニ巫女のクワンパ。マキアリイが女には手を出さないのを見て、彼女が殴り倒す。
 黄金の小髑髏が先端に付いた、実に人を殴り易い杖が麗々しく飾ってある。クワンパはこれを拝借して辺りかまわず振り回す。
 日頃でもモグリの売春宿に殴り込みを掛けるカニ巫女だ。店を叩き壊すのは得意中の得意。
 桜色の可憐な杣女の衣装を翻し、百金千金の値が付く貴重な宝物を床に放り投げた。

 いくらなんでもこのような暴風の如き乱闘に、生身の人間は耐えられない。早々に抵抗を諦め四方の通路に逃げ散った。
 後には「天寵司祭」の死体が残る。

「軍制局への介入の実態を尋問したかったが、残念だな。」
「レメコフ様、いかがいたします。この隠れ家はあまりにも書物が多過ぎます。証拠物件や事件の核心を記した書が紛れている可能性はありますが、分かりません。」
「後日改めて兵を差し向けて調べよう。それより、」

 「天寵司祭」の胸元を掴み引き上げて、顔を確かめる。タコリティの実力者の顔は今回の騒動であらかた調べておいたのだが、これは知らない。
 クワンパにも確かめさせるが、表では知られていない人物のようだ。

「これは本当に人喰い教団の教主だろうか。俺は少し疑問が残る。」
「身代わり、影武者とお考えですか。」
「こんなに簡単に潰せるものならば、2千年も前に滅びているだろう。解せぬ。」
「確かにもろ過ぎます。」

 クワンパは周囲を見回して死体の身元確認の手掛かりを探す。が静まり返る通路をしばし見て、或る事に気が付いた。
「反撃が無い?」

 マキアリイもクワンパの言葉に、首を上げる。

「戻って来ないな。人喰い教団の兵は獰猛残忍と聞くのに、反撃して来ない。」
「中心施設であるはずの祭壇を放棄したのです。であれば、」
「さして重要な部所ではない、真の中枢は別に有る。そういう事か!」

 ばっと走って逃げ散った先を調べると、既に手遅れ。
 複雑に入り組んだ通路はどこからでも遮断出来、梯子を切り石扉で塞ぐと追跡は極めて困難になる。隠し通路や侵入避けの罠が幾つ有るか、見当も付かない。
 本部が襲撃されても痛痒に感じない、業とも呼べる生存への執念で満たされている。

「折角青服の扮装までしたが、これまでのようだ。ここを検証するだけでも数ヶ月掛る。逃げられたな。」
「真の天寵司祭はこの下、最下層に身を潜めて居るのでしょう。悔しいです。」

 下? 通路は地中に網目を張っているが、下はどうなのだろう。逃げるならば上に、隠すならば下へ、これが物事の大原則だ。

「クワンパ、下へ降りる通路坑道を探せ。ひょっとしたらまだ望みは有るかも知れない。」

 目印はやはり精霊だ。
 人喰い教は本来何者も崇拝しない。人肉を食らい自ら神に近付かんとする教義だから、崇めるのは自分自身。
 頼るにしても教団が成立する以前から有る紅曙蛸女王やコウモリ神人くらいしか超常の存在を認めない。

 それでも精霊の像は見つかった。罰を受けるかにみずぼらしく部屋の隅に刻まれ、黄金で飾られる邪悪の彫像に隠されていた。
 像を傾けてからんころんと鳴る仕掛けを調べ、通路の設計者の意図を探る。やはり縦坑を隠す扉が壁に偽装されている。
 人力ではいかんともし難い巨大な石板は、だが基本的には動くように作ってある。誰が使うのか取っ手も彫り込んでいた。
 カブトムシの聖蟲を戴くマキアリイにも流石にこれは大物過ぎた。渾身の力を振り絞り、ようやくに人一人が通れる隙間を作り出す。

 首を突っ込んで様子を探ると、信じられないほど深い穴だ。底が見えない。
 奥深くから腐肉から立ち上る生臭い風が吹いて来た。施設全体に漂う臭いの素は、一見の価値が有るだろう。

「降りる。」
「お供します。」

 常人のクワンパを伴うべきではないが、証人として十二神の巫女には信頼がある。これほどの事件、単独行動では逆に謀叛を疑われる。
 ただ彼女の身体能力ではやはり同行は難しい。背中に負って紐で縛り、マキアリイ単独の力で縦坑を降りる。

 間欠的に吹き上げる熱い吐息に抗して、マキアリイは岩肌を素手で降りて行く。クワンパは神兵を信じて任せるのみだ。
 巨大な生物の喉に似た奥闇の底に、微かに揺らめく焔が見える。無言で二人は潜って行く。

                             (後篇に続く)

 

【餅】

 十二神方台系の主食はなんといってもトナクである。
 弥生ちゃんが言うところの「ポップコーン草」で、生育するとぱかんと実が弾けて白い可食部が露出する、いかにも食べて下さいと見える植物だ。
 「食の王」と呼ばれるだけあって栽培面積も広く、方台経済の根幹を成す。
 そのまま焼いても食べられるが、調理法の筆頭に挙げられるものが「穀餅」で、粉に挽いて水でこね手のひら大の大きさを焼いて膨らませて食べる。

 しかし、純粋なトナク100パーセントの餅はよほどの金持ちしか食べていない。「正餅」「宝餅」と呼ばれ、一般庶民には憧れの対象だ。
 通常は他の穀物の粉や混ぜモノで量を増して、トナクを節約する。

 混ぜモノにも格が有り、ジョクリ「かたくり草」粉や団栗粉を混ぜるのは食感を整える為の正式な調合で、値段を下げる役には立たない。
 量を増やす為には豆か芋、大根を摺ったものが用いられる。方台では根菜類を区別しないので、芋と大根や蕪は同じ種類の作物だ。これは「豆餅」「芋餅」と呼ばれる。
 さらに水増しするには、葉物を混ぜる。「草餅」「葉餅」で、普通「穀餅」と言えばこれを指す。

 乾燥した果物を混ぜると、「菓子」と呼ぶ。方台には砂糖が無い為に、果物かハチミツが甘味付けに使われる。
 苔や藻も混ぜるが、「ヤムナム茶」が藻であるように種類によってはトナクよりも高価となる。風味付けの材料と考えよう。
 ネコ用ビスケットは100%トナクな上に、大鼠の乾し肉を叩いて刻んで筋繊維をほぐしたものをほんの少量臭い付けに使う。とんでもなく贅沢なお菓子だ。

 ここまでを「穀餅」として分類する。

 トナクが手に入らない者は、別の食材を利用して餅を焼く。
 豆や芋、大根を摺り潰したペーストを焼く「練り餅」、これに葉物を混ぜる「葉練り餅」。ジョクリ粉を足して「水練り餅」、団栗粉を用いると「固練り餅」になる。

 ただしジョクリ粉は片栗粉と同じで水で溶いて餡に掛ける、粥で食べるのが普通で、粥の中にそれらの餅も浮いている。「水練り餅」は一般的ではない。
 完全ジョクリ粉の餅「水餅」は日本の葛餅のように半透明、非常に繊細で日持ちがせず、その場で食べるデザートと考えられる。夏場によく冷やし、酢で伸ばしたハチミツで頂くととても美味しい。
 また水で溶いた粉を焼けた石板の上に薄く拡げ、クレープを作る。蜘蛛神殿で売られている「おみくじ」は、これだ。ほんのり甘く、子供のおやつに最適である。
 生産量の安定するジョクリ粉は、庶民の為の食材として広く親しまれる。

 森林地帯では団栗粉の比重が増す。団栗粉だけの餅はねっとりと粘り気が強く食べるのに苦労するが、腹持ちが良い。
 古代のネズミ神官時代は主食として用い、村ごとに団栗の保有量を誇り富を競った。
 その名残から団栗粉の餅は縁起物としても珍重され、都市部でも祭日には特別に食べる習慣がある。
 精を付ける為に新婚の夫婦が初夜に食べたりもする。「子作り餅」「力餅」だ。

 ここまでは「雑餅」であり、通常の食品である。

 まっとうな食糧を手に入れる事が出来ない者は、妙なものを口にする。
 まずは木の根、木の皮、木の葉を食べる。幸いなことに方台には食用に出来る木が幾種類か存在し、カロリーは低いがなんとか飢えをしのぐ事が出来る。
 次に草の根。山菜は普通に食されるが、山岳部では団栗を食せば良いのだから、主食となる事はまず無い。
 平野部の貧民が飢饉に陥った場合、草の根は最後の命綱として用いられる。

 精進潔斎の儀礼はもちろん方台にもあり、聖山神聖神殿都市の究理神官やスガッタ僧は、これら木の皮草の根を常食とする。
 故に「神餅」「神餞」と呼ぶ。
 神餅を食べる者は神域に生きるとされ、町や村に住む人は特別視してお布施を捧げるべきと決まっている。単なる貧民であっても、やはり神に仕える者と看做す。
 栄養的に貧しくはあっても、これだけを食べて60年以上を生きる者もあるので、それほど悲観すべきではない。
 むしろトナクによる贅沢病の方が心配だ。糖尿病に似た症例も方台にはちゃんと存在する。

 更に困窮すると、土石を食べる事がある。方台の人間「ウェゲ」には土を消化する機能があり、短期間であれば土中の有機物を栄養化出来る。
 無論後遺症が大きいので、本当に困った時にしか食べない。が、これも森林地帯の腐葉土等に限られ、平野部では無理だ。
 泥ならいいだろう、と河川の脇で食べる者もあるが、身体が受け付けない。死んでしまう。そういう風に出来ている。

 石を食べるのは、単に腹が膨れて飢えを誤魔化す為だが、案外と苦にならない。また簡単に吐き出せる。
 上古、人間となる前のウェゲは歯でも噛めない固い食物を消化する手助けとして、石を呑み込み胃の中で磨り潰す作業を行っていたと推察される。
 だがさすがに石は栄養にならない。

 「石餅」「土餅」は、災害や失政悪政を表現する常套句であり、為政者は忌み嫌う。
 遡ってネズミ神官時代の終期、人口が増大して狩猟採集のみでは食糧を賄えなくなった時代、人々は盛んに土を食い石を呑んだとされる。

 どうしても食糧が得られなかった人々は、ついに共食いを始めた。
 村内で老人や子供といった弱者を、あるいは他の村の人間を狩り、肉を削ぎ焼いて、磨り潰して「肉餅」にして食べていた。
 この風潮を憂い、ネズミ神官達が協議して止めさせる手段として用いたのが、「人肉食」の神聖化、宗教儀礼への昇華だ。
 村の最有力者のみが特別に人肉を口にする権利を有し、他の者には禁ずる。
 神の力を宿す聖なるネズミの熾した火で焙られた肉を食い、有力者は権力基盤を強固なものとする。
 当然食される人間の質も注目され、老人子供や病人を食べる事は無くなった。代りに高貴な身分や強い敵の戦士が贄となる。
 これが「人食い教」の発祥である。

 その後、初代紅曙蛸女王ッタ・コップが出現し人々に農耕を教えて人肉食の時代は終わるが、風習は闇の世界に残された。
 五代テュラクラフの失踪後の混乱に乗じて復活し、「火焔教」となって各地の有力者の権力の根源となる。「小王」の時代の始まりだ。
 複雑精妙な儀式を介して神火により調理される人肉は、宗教的権威を嫌が応にも高めよう。
 火焔教の司祭達の権勢は紅曙蛸女王をも凌いだと記録にある。
 この時代の書物には「肉餅」「骨餅」「皮餅」「筋餅」「血餅」「脳餅」「臓物餅」等々、人体をあらゆる形で食べた痕跡を示す言葉が見受けられる。

 一方で、獣肉の調理法もこの時代に画期的な進歩をした。
 一般庶民は人肉を食べる栄誉など与えられない。普通に獣、とくに大鼠の肉を食べていた。
 単純に焼く煮る蒸すだけでなく様々な調理法が考案されるが、これも火焔教の恩恵であろう。

 それとは別に、蛋白源として蟲も盛んに食べられる。
 十二神方台系の食の特徴として、多彩な蟲食品が挙げられる。大人も子供も大好きだ。
 「カプタ」と呼ばれる蟲の粉の調味料を初めとして、塩漬け酢漬けと味にアクセントを付ける副食に用い、大いに食べる。
 中でも特筆に値するのが、シロアリだ。
 蟻塚を壊せば無数に湧いて出るシロアリは、貴重な食材として珍重される。
 祭の日には村人皆で集まって大きな塚を崩し、総出でザルに掬い取り、大きな鼎に沸かした湯に漬ける。
 茹で上がったシロアリはまるでトナクのようで、「歩く穀物」とさえ呼ぶ。ぷちっと口の中で弾け、滋味に満ちた体液の甘い味が舌を蕩けさせる。
 もちろんこれも磨り潰し、餅にする。「蟲餅」だ。真っ白なすばらしく柔らかい御馳走が出来上がる。

 

 日本人である弥生ちゃんにとって、「蟲餅」は敷居の高い食品ではあった。
 だが一口食してみて、こう評する。

「一見してはんぺんだが、まったりとして香ばしく口の中で淡雪のように溶け、ほのかな甘味と爽やかな酸味が混然として云々…。」

 

(九章後篇)

 暗獣の喉をくぐって胃袋に着底した二人には、訪れるべき部屋はひとつしか無かった。
 直径が20メートルと広い空間に灯はそこしか無い。他はまったくの行き止まり、大きな滑らかな襞を持つ石の壁に阻まれる。
 襞の奥にはどくどくと脈打つ流れが掌の感触で察知出来た。この壁は生きている。濡れてはいないがしっとりと肌に吸いついて、もたれ掛かると呑み込まれるかもしれない。

 マキアリイとクワンパは意を決して、灯に向き合った。
 鉄で補強された頑丈な木の扉の四隅から、光は漏れて来る。これだけが人工物で、周囲の襞と比べると非常に場違いな印象がした。

 中に居るのは人食い教徒、それも天寵司祭であろう。彼を護る獰猛な戦士が何人も控えて居て、なんの不思議があろうか。
 だが褐甲角の聖蟲を戴く青服の男はひるまない。
 カニ巫女に横に退くように指示すると、扉の前で深呼吸する。熱く生臭い空気が胸腔を満たし、自然闘争心が湧いて来る。

 武器は持たない。だが筋骨の発達した腕脚は甲冑を纏う戦士を軽く薙ぎ倒す。
 予備動作無しにいきなり、重厚な扉を蹴破った。
 大の男の2人分の重さを持つ扉がそのままの姿で室内に飛んでいく。待ち伏せを期していた者があれば、巻き添えを食って撥ね飛ばされたろう。

「…。」

 声は上がらない。反撃も無い。人の潜む感触も無いが、マキアリイは十分に警戒しつつも大胆に踏み込んだ。
 眩い光に瞼が歪む。先程の調理場祭壇にも増して明るく、かなり広い。

「…円形の、?。なんだ、これは。」

 造りとしては調理場祭壇と同じ円形の広い部屋で、やはり高いドームとなっている。
 円天井全体にさきほどの硝子の雫が無数に埋めこまれ光を発し、全天から降り注ぐ。おかげでどこにも影が出来ない。モノの立体感がよくつかめない。

 そして、部屋の中心に巨大な機械が据え付けられていた。非常に大きく薄い金属の輪が幾重にも重なり、手の届く高さで覆い被さる。
 差し渡しは10メートルを越え、それぞれの輪がぎりぎりとゆるやかに旋回していた。

「入りたまえ。褐甲角(クワアット)神の戦士よ。」

 位置は特定出来ないが、部屋の奥から言葉が飛んだ。若く張りのある男性の、マキアリイに脅威を覚えない声だ。人を見下す傲慢さも含まれる。
 戦うつもりは無いのだろう。
 機械は極めて精巧緻密で、わずかの狂いも許されない。この部屋での戦闘を声の主は求めない。

 首を左右に巡らし主を探すが、どこにも潜む場所は無かった。調度類も少なく、明るい灰色の壁が続くばかりで、

「ここだ。私だ。」

 入って来た戸口の反対側の壁に、ぽっかりと丸い口が開く。まるで生物の体孔を思わせるぬめ付いた真円は、よく磨いた貝殻に似る材質で閉ざされる。
 開いた。
 扉は上、左右下の三方に分かれる。鳥のクチバシ、いやイカやタコの口に備わるものと同じ鋭角が離れ、壁に呑み込まれる。

 薄桃色の孔の奥から現れた人は、だが姿が良く見えない。ぼやけている、それとも見る方の眼が霞んでいるのか、形がうまく分からない。
 ただ男であるとは認識出来た。
 兵士ではない。武器も甲冑も用いない。部屋全体の色調に合わせた淡い落ち着いた色の服を着ているらしい。

 マキアリイはいぶかしみ、目を細め正体を掴み取ろうと努力しながら尋ねた。

「『貪婪』の最高責任者、「天寵司祭」か。」
「まあ、そのような役職も兼ねている。」

 男の声は落ち着いており、尋常の交渉を求めると判断する。

 戸口の陰に隠れていたクワンパも、促され部屋に入って来る。桜色の薄い杣女の服は室内の乾いた空気にふわりと裾を膨らませ、心持ち浮いたと感じられた。
 上の通路で手に入れた黄金の髑髏が付いた棍棒を構えながら、慎重に歩を進める。突き刺さる光に目を覆い、一歩ずつ危険を確かめながらマキアリイの傍に寄る。
 二人は寄り添い前後を確かめながら部屋の中心部、機械が落す影の下に進んだ。

 巨大な機械は天体の運動を示す天球儀であろうか。金属の輪は絡み合い、相互に連関して微かずつ動く。
 細密な歯車が輪を支える根元に無数に集積される。これが機械の動力部であろう。
 輪の直径は最大のもので7メートルもある。薄く細い金属がよくもしならずに形を保てるものだ。
 表面にはびっしりと文字が刻まれている。テュクラ符でもギィ聖符でも無い、ネズミ神官時代に用いられた絵文字だ。

「その辺りで止まれ。機械に触る事はやめた方がいい。未だ解明できぬ機能も備えている。」

 だが頭の上に輪が回るのは、正直不安だ。いかにしっかりと作られていても崩壊し落下する想像を禁じられない。
 マキアリイは窮屈に首を曲げ、男の姿を追う。そして変化に目を見張った。

 二人がおそるおそる進む間に、殺風景とも思われた部屋の調度が段々と増えている。
 まるで折り畳まれた布が開くように、ぱたぱたと立体が組み上がる。箱が立ち上がり、細部がまた展開する。
 男の姿がはっきりとしないように、それらも目の錯覚かと思った。
 だが一度目を離し再び視線を戻すと、最初から有ったといわんばかりにしっかりと重々しく設置されている。

 妖しか。だが神像や書棚が揃っていく部屋は趣味が良く、狂気の陰は窺えない。上の調理場祭壇で見た兇暴優美な金属製の調理具もここには無い。

 やがて顔頭手腕を布で隠した女達が車の付いた台を押し、美麗な法衣を纏うミイラを搬入する。それぞれ定められた席があり、並べられた調度類は彼ら死人の私物らしい。
 女と知ってクワンパが反応する。目をきっと厳しく細め、正体を見極めんと視線を突き立てる。

「レメコフ様、この者達は人ではありません。臭いが。」
「ああ、呼吸をしてないな。衣服が一人で歩いている、そんな傀儡だ。」

 用意は全て完了し、女達は周囲に巡らす壁に下がる。ふわりと拡がりそのまま几帳に貼り付いて、只の衣服と化して掛けられた。
 据えられた香炉が一条の紫の煙をたなびかせ、部屋全体に芳しい匂いが立ち篭める。
 すっかり落ち着いた空気の中、中央の機械が間欠的に発する擦過音が時を刻んでいく。

 展開された魔法の光景に気を奪われた隙を衝くかに、さきほどの男が現われる。
 いきなり、見えた。
 霞んでいた姿が急に目の焦点があったかにはっきりと映る。あまりにも鮮明に見え過ぎたが為、マキアリイもクワンパも反射的に目を覆う。
 なにしろ彼が着る衣服の縫取りの一針が、布目の格子までもが突き刺さるかに目に飛び込むのだ。視力が急に10倍も高まったかと驚愕する。

 男は並ぶミイラの間にすっと立つ。若い。
 22、3歳に見えるが、雰囲気はもう少し老いている。髪は灰色で、聖山の神官と同じく精進潔斎しているのだろう。
 彼の衣服は、ミイラ達が纏う赤い法衣とかなり違う。灰白色ですっきりとして飾りが無く、王宮に出入りする学者を思わせる。

 ミイラが歴代の天寵司祭ならば、この男もそうなのか。しかし狂気は感じられぬ。むしろ人の肉など不浄と看做して触らぬ性格ではないか。
 マキアリイは青服の袖を左右に引っ張り折り目を正して、男に向き直る。

「今一度問う。本物の天寵司祭か。」
「上で何人の天寵司祭を見たかは知らないが、確かに私がそれに当たる。」
「『貪婪』が地上で行う悪事の責任を引き受ける自覚が、お前には有るか?」

「悪?」

 男は頬のみを引き攣らせて笑う。端正とも見える顔を覆う薄い皮膚が醜悪に引き攣り、魂の邪悪さを表現する。

「悪と来たか。ハハ、さすがにレメコフ家の兵師監だ。いや参った、そうだな。悪か。」
「笑うところではない、お前は罪を認めるかと聞いているのだ。」

「では逆に問おう。汝は正義なるか。」

 人喰い教団の信者はとにかく弁が立つ。監査士団でも、彼らをまともに相手をしていては韜晦され尋問が進まないと、経験上分かっている。
 マキアリイも出口の無い問答に付き合うつもりは無い。

「正義のなんたるかは、我らが決める。お前達の都合には従わない。」
「そうそれだ。褐甲角王国の正義は、褐甲角神の使徒が決める。だがその確信が持てなくなって、ここに来たのだろう。」

 さすがに闇に永く潜む邪教の長だ、すべてを見通している。ひょっとするとマキアリイの到来も計画の内かも知れない。
 敵の手にうかつに乗るのは危険だが、マキアリイに求められる第一の使命はイローエント軍制局の立て直しである。
 この際得られるだけの情報を引き出さねばなるまい。たとえ彼を取り逃がす羽目に陥っても。

「人喰い教団の教主様は、存外に喋りたがりと見受けられる。取り引きならば応じよう、条件を言え。」
「我らの腹中に潜っていながら、その台詞はいただけないな。どうすれば無事逃げられるか、命乞いをするべきではないか。」
「額の聖蟲の示す剛力を、試してみても良いのだぞ。」

「荒事はわたしは好まない。よろしい。では一席、『貪婪』の秘法について講じてさしあげよう。」

 誰を使役するでも無く、自分の手で椅子を持って来てマキアリイ達の前に座る。
 人に仕えられるのを当然としない態度に、やはり疑問を覚える。組織の頂点にあれば、自分ではなにもしない事を望まれるものだ。
 不安に駆られ、再度確かめる。

「お前は本当に教団関係者か。」
「うん? 生の人肉に齧り付き、口から血を滴らせていなければ人喰い教徒には見えぬか。」
「ありていに言うと、それに近い印象を他の教団関係者からは得ている。しかし、お前は違う。」

「ああ。それは薬が効き過ぎた、という奴だな。今説明するから気を長くして話を聞け。

 そもそも『貪婪』は、紅曙蛸女王国時代後期に現れた『火焔教』の分派の一つだ。
 火焔教の教義の根幹は祭祀にある。人前で大々的に行われる祭祀こそが、教えの核心にして生命だ。
 その点、『貪婪』は闇に隠れ細々と祭祀の式次第を伝えるのを使命とし、祭祀自体を人目にさらそうとしない。出来の悪い息子と思ってくれ。」

「他にも分派があるのか。」
「ある。だが既に滅びた。火焔教の教えは祭祀により人を支配使役する事を本分とする。信じる者が居なければ成り立たない。
 この点、十二神信仰と隔絶して異なる。天河十二神は別に人に崇められなくとも存在するが、火焔教は人が祭祀を行わねば死ぬ。
 『貪婪』はこの祭祀を細々と伝え、信者もそれで良しとする。表に出ようとしない。
 それに飽き足らず、表の世界に覇を唱えようとする者が幾人も現れ分派を起こし、その度潰されていったのだな。」

「現在闘争中の、神人の女を核とする新興分派もそれか。」
「あれは神人というまったく新しい要素を抱えてはいるが、仕組みとしては同じだな。おそらくは彼らも滅び、神人のみが残る。『貪婪』の側から見れば、いつもの話だ。」
「神人が生まれるのはありふれた事件なのか。」
「そうは言わない。だが神人を自称する者はかって幾度も現れ、組織を割ろうと試みた。大概の者は1年もせずに死ぬが、今度の神人は既に齢が百歳に届く。本物だ。」

「本物の神人に対して、『貪婪』はどう遇するのだ。」
「今言っただろう。人喰い教団は本物の神を必要としないのだ。重要なのは祭祀であって神ではない。祭祀を行う人こそが、火焔教だ。」

 それは宗教ではない。
 マキアリイは戸惑い、後ろのカニ巫女クワンパを振り返る。
 彼女も理解できず困惑した顔をしている。カニ巫女は教養豊かで頭脳明晰というものではなく、むしろ愚鈍で頑だ。屁理屈を解さず掟を曲げないのが資質と言える。

 

 色々問い質したい事は多い。が、マキアリイが求めるのは、イローエント軍制局への人喰い教団の関与だ。これに焦点を絞って問い直す。

「軍制局への関与について質問したい。我らが入手した名簿、どのように軍制局に関与し便宜供与を受けたかの記録だが、知っているか。」
「ああ。そなた達が入手したのは近年の分だけだろう。褐甲角王国成立以来の記録が、どこかその辺りに転がっているはずだ。欲しければ持っていけ。」
「!、私が知りたいのは、どうしてあのように黒甲枝が易々と動くか、それを教えろ。」

 男は首を傾げ天井を見る。部屋のそこかしこに埋めこまれた硝子の雫から零れる光に目をやった。
 この硝子もまた不思議の一つだ。何故火を使わず、燃料も無しに燃える。

 天井を見詰めたまま、男は語る。

「レメコフ兵師監、そなたは阿呆か? 先祖の事績を覚えていないとでも言うのか。
 『武徳聖伝』に記されているだろう。「破軍の卒」としてタコリティに落ち延びたカンヴィタル・イムレイルの一行が、人喰い教団の支援を受けたことを。
 そなたの先祖レメコフは未だ若造で、皆の食事をひとりで食ってしまい槍組頭テュダルムに殴られた話もだ。あの糧は誰から差し入れられた?」
「う。」

 まさにそのとおりの話が、褐甲角神救世主初代武徳王カンヴィタル・イムレイルの伝記『武徳聖伝』には描かれている。
 神聖金雷蜒王国に対する最初の大規模な反乱は惨敗に終り、カンヴィタル・イムレイルと12人の戦士は無法都市として知られるタコリティに逃れ、土地の有力者の支援を受けて再起した。
 タコリティが人喰い教団の強い影響下にあるのは、当時から公然の秘密である。
 褐甲角王国がその成立の当初から人喰い教団の支援を受けていたのは歴史にまぎれもない。

 不本意ながらマキアリイも認めざるを得ない。

「しかし、人喰い教団とはごく初期に手を切ったはずだ。少なくとも、教団に対して利便を図った事は王国の歴史において一度も無い。」
「それは事実だが、すこし違う。カンヴィタル・イムレイルと褐甲角王国は、人喰い教団にとって遊戯の駒だ。自らは冒されなくとも、動く舞台はすべて我らが設えていた。」
「戯言を。」
「だがそう考えねば、そなたがこの部屋にまで来た意味が分かるまい。千年の昔からずっと同じことが続いているのだよ。」

 男は満足そうな笑みを向けて来る。自分はお前達よりも上位に居るのだと言わんばかりだ。
 マキアリイは核心に迫っている事は感じ取る。だから恥を忍んででも、話の続きを聞かねばならぬ。

「その方法は。」
「知恵だよ。頭の中にまで筋肉の詰ったカンヴィタル・イムレイルに国が作れる道理が無い。
 彼の元に集った賢人や官吏、国を建てるのに必要な人材を遣わせたのが、人食い教団だ。
 無論すべての者が教団の意に従った訳ではない。
 だが彼らが学んだ知識を育んだ者は、誰かな。彼らの師、そのまた大本の学識の根源は、どこに緒を有するか。」

「…番頭階級、か。小王の時代に火焔教と共に栄えた、文字を操り数を数えるあの忌まわしい連中が学問の祖と言うのか。」
「事実を曲げるわけにはいくまい。そうだ、火焔教は番頭階級を取り込んで学問の殿堂と化した。『貪婪』はまさに知識の貯蔵庫。上の通路でお前達も見ただろう。アレは教団が蔵書の一握りに過ぎないぞ。」

 男が学者然としている理由をようやくに理解する。人など食わずとも、彼は人外の境地に立つ。
 そしてまた、マキアリイは人喰い教団がこれほどに人を惹き付ける理由を知る。
 真理を求めれば、方台においては必ず人食い教団に突き当たるのだ。

 男は立ち上がり、椅子の後ろに回って背もたれに手を掛けた。講義はさらに延長される。

「褐甲角王国のこの千年における成果とはなんだ。レメコフ兵師監。」
「知れたこと、正義と公正の実現だ。」
「…。自分でも信じていない台詞を吐くものではない。それが正解なら、地上世界で難民の反乱は起きない。
 もう一度答えたまえ。」

「むう。
 …褐甲角王国は、金雷蜒王国に対し科学技術の面においては常に劣ってきた。故に、それを補う為に社会制度の整備を進め軍学を起こし、組織的合理的に兵を鍛え、王国全土が連動しての軍事行動を取れる指揮命令・連絡制度を確立する。また兵站、物資の確保と輸送に関しても研究が進められ、ギィール神族が私的財産で行っていた動員をはるかに凌ぐ効率と規模を獲得した。
 その成果は民生にも応用され、公正を社会活動にもたらす為に衛視の職を新たに作り、成文化された法に基づき厳正中立な立場での裁判を行い恣意による仕置きと絶縁した。」

「ハハすばらしい。さすがに兵師監だ。そう、褐甲角王国の千年が十二神方台系にもたらした恩恵とは、まさに法の支配の確立である。
 だが敢えて尋ねよう。法とはなんだ。何故に人は法に従わねばならぬ。」
「分からぬ事を言うな。法に従って行動するからこそ、社会は整然と動いていく。人の気まぐれであやふやな判断から離れ、機械的自動的に最善を求めて組織集団が活動できるのだ。」
「では法のみがあればよいのか。」
「愚かな。法はそれを執行する政治体制と、服する人民とが居なければ、」

 はっ、と気付く。マキアリイは彼が何を語っているか鋭敏に察知した。
 神を必要とせず、祭祀を行う事のみで成り立つ火焔教、人食い教団。その在り方は、法に支配される褐甲角王国の姿に酷似する。

「しかし、しかし褐甲角王国は褐甲角(クワアット)神の聖蟲の存在からは離れられず、法の支配の裏付けとして神兵の志操堅固なるを条件とし、」
「人を諭し導くのに神の力は必要ではない。聖蟲のもたらす怪力を人を従えるのに用いて来なかった神兵の節度を、私は高く評価するぞ。」

 クワンパには、マキアリイが何に戦慄しているのか分からない。ただ人喰い教徒は弁が立ち、人を容易く翻弄すると知っている。
 カニ巫女の美点は、なにが迫ろうともその姿勢がぶれないところだ。

「レメコフ様、兵師監さま! 奴の言葉に耳を貸してはなりません。当初の目的を見失っては、」

「カニ巫女か、そなたにも聞こう。そなたが従うのはなんだ。」
「知れたことカニ神殿の掟だ。」
「その掟は誰が定めた。」
「神官最高位シャチャタロク様に決まっているだろう。すべてのカニ神官巫女は、最高神官様の定めたもうた掟をのみ受入れ、盲目的に従うのみ。」

「聞いたか、レメコフ兵師監。褐甲角王国よりもカニ神殿の方がよほど筋目が正しい。
 そうだ、人は人にのみ従う。法ではない。法を唱える人に従うのだ。
 では尋ねよう。褐甲角王国の法は、誰の言葉だ。」

「武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァク陛下の名を以って、すべての法は公布される。」
「だが、それ以前の武徳王の名で公布された法も多数存在する。それらすべてを現武徳王は審査したのか。」
「いや。法の見直しは金翅幹元老院においてのみ行われ、陛下はそれに許可を下すのみ。実質法を定めるのは元老院、それも多数派を握るハジパイ王だ。」
「ハハハ。大審判戦争の開始により、ハジパイ王の唱える先政主義派の拠って立つ条件は崩れたぞ。」

 男は、マキアリイが彼の言葉に侵食されていくのを満足げに見詰めている。

 だが当の兵師監は、すでに先に進んでいた。
 彼は衛視の資格を持ち、法学もしっかり勉強した。国家の中枢が実際は空白である、とする理論にも聞き覚えが有る。
 もし王国の法体系すべてに人喰い教団の息が掛っているのであれば、自分はなにをするべきだろう。
 それを考える。
 男を捕縛してカプタニアに引き出すべきか。それとも全てを無かったことにした方が良いか。

「一つ伺いたい。人喰い教団が褐甲角王国に深く関与していたとして、何を望み実現して来た。」

「ああ。支配に我らが手を出したか、それが気になるか。うん、なるほど。実害があったのかは知らねばなるまいな。
 だが、その問いは無意味だ。褐甲角王国の治世はすべて成功したわけでなく、年により出来不出来がある。
 失敗は自らの能力の不足の表れであり、別に人食い教団が画策したからではない。
 逆に、妙なる善政の時代の実現に、我らの力添えがあったなどは信じぬであろう。」

「人食い教団が善政に力を貸す、と。」
「不思議ではなかろう。国土がよく治まり人の暮らしが楽になり、経済が拡大し富が増大すれば、我らにも益する。
 こうも言える。褐甲角王国は成立の根幹に戦争を指向する性癖を持つ。これを良く御して平和を追求したのは理性の担い手である我らだと。」
「それは先政主義派の主張ではないか!」

 男は笑いながらマキアリイに近付く。不用意に手を伸ばし、兵師監の顔を撫でる。
 マキアリイも額の聖蟲も、男の接触にまったく反応を示さない。聖なるカブトムシは宿主の戸惑いをそのままに反映している。
 クワンパは事態をよく理解できないまま、心臓の拍動が高まるのを知る。この場所は良くない。機械が発する間欠的な金属音が、神経をささくれ立たせる。

 男は再び椅子に座り、頭上の細い影を仰ぎ見る。複雑な構造を持つ幾重もの金属の輪は、天体の運動を司る法を可視化したものであろうか。

「無力を覚えたとしてもレメコフ兵師監が気に病むことはない。単に褐甲角王国の限界はそこだ、という意味だ。
 その点、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンは凄いぞ。アレは、我らの2千年の研鑽を軽く飛び越える。
 そなたはデュータム点において建設中の「青晶蜥神救世主の玉座」を知っているか。」

 いきなり話が換ったので、マキアリイも首を上げる。
 ガモウヤヨイチャンがデュータム点を拠点に青晶蜥王国建国を進めているのは知る。だが「玉座」とはなんだろう。

 知らぬと見て、男は説明を開始する。よくよく人にモノを説くのが好きなようだ。

「玉座とは、王が臣下に謁見する時に用いる儀式用の椅子のことだ。王の身柄を御神体として、祭壇に相当するものだな。
 これをガモウヤヨイチャンが作り始めたと聞いて、我らは笑った。星の世界から来ていながら、虚仮威しを用いねば人を従えられぬかと。
 だが違う。玉座とは恐ろしい力を持つ装置なのだ。

 構造はこのようになる。装飾をまったく施さない巨大な石の壁に一つ席が刻まれる。これが玉座だ、ガモウヤヨイチャンが座る。
 その前に壇が築かれ、壇の下に黄金の椅子が据え付けられる。ガモウヤヨイチャンに代わって方台を統べる者の席だ。
 何故席を二つに分けねばならぬか、兵師監は想像が付くか?」
「いや…。」

 彼が聞いた話では、ガモウヤヨイチャンは人に神威を強調したり、権威で服従させるなど無い人物だ。
 仰々しい大きな椅子は、小さな身体にむしろ不似合いだろう。それも冷たい石の椅子など。

 ふと気が付いた。このような形式の建築物を彼は知っている。
 それはカプタニアの神聖宮に奉仕に上がった時に見た。また旧い町に残る紅曙蛸女王時代様式の洞窟祭壇で、あるいはギィール神族の居館の遺跡。
 カンヴィタル・イムレイルを初めとする代々の武徳王の墓所にも、このような設備が有る。

「それは、ガモウヤヨイチャンの墓、なのか。」

「彼女が死ぬ存在かも定かではないが、さほど長くは方台に留まらぬと、見識有る者は皆心得る。
 玉座はそれを補うものだ。不在の席に人は彼女の姿を見出し、決して忘れぬであろう。
 黄金の椅子に座る実際の支配者も、絶対の権威とは看做されぬ。あくまでもガモウヤヨイチャンの代理として君臨する。
 そして法だ。

 青晶蜥王国が発布する法はすべて、ガモウヤヨイチャンの名において施行される。ゆえにそれは、彼女の言葉だ。
 法は現世の人の叡智の結集であり、現在の状況において最適と判断される社会の指針となるべきだ。すべての権威権力に超越する至尊の位に座さねばならぬ。
 だが青晶蜥王国では、法がガモウヤヨイチャンにより制限を受ける。
 彼女の人格に相応しくない、彼女が立ち会えば許さぬであろう法は、決して用いられることは無い。
 彼女の人間的限界が法の上に厳として聳え立ち、人々の安寧と繁栄を保証する。
 法の不備も許さない。もしも不都合が有ったのならば、それはガモウヤヨイチャンが気付かなかっただけだ。気付いた後は改めるに如くはない。
 たとえ法の施行以前の事態であっても、遡及して処分が下されるであろう。人は救われる。」

「それは、法の理論に反しているのではないか?」
「いや違う!
 これから先の千年、目まぐるしい変革の嵐が幾度も方台を襲う。怒濤のごとき社会の変動に、誰も抗することは出来はしない。
 無論、法が人を救済するなど無い。法は畢竟、知らないこと経験の無いことを縛れぬからな。
 激動の波が引いた後、振り向けばそこには傷付いた人が数多有る。彼らを救わんとしても、法は無力を噛み締めるだけ。しかも次の変動の波が迫って来る。

 これが青晶蜥神のしろしめす世界だ。
 ガモウヤヨイチャンは法が絶望しか見出せぬ時代において、人を救う術をあらかじめ用意する。
 なんと無慈悲にして御恵み深い神の計画だ。いや、ガモウヤヨイチャンは神をも超えるのやも知れぬな、ハハハ。」

 マキアリイの目には、男が興奮していると見えた。
 青晶蜥神救世主は地上の人の希望の星だが、地下世界においても救いをもたらす。少なくとも彼にとっては、新世界を拓く女神なのであろう。

 

 突然、部屋の中央に設置されている機械が動く。がちゃりと歯車が噛み合う音がして、幾重にも重なる金属の輪が振動し相互に干渉して唸りを上げる。
 驚く二人に、男は言う。

「うん、一応紹介しておこう。今動いた機械は、時間を計る為のものだ。「時計機」だな。」
「時は水や太陽の影で計るものではないのか。」
「これはカラクリによって厳密に正確に時を分割計測する。レメコフ兵師監、覚えておくとよい。次の千年期を統べる法は、”時”だ。」

 さっぱり分からない。法の虚構性については事前に教養を得ていたマキアリイだが、”時”が世界を支配するとは何だ。
 男は相変わらずの尊大な笑みを浮かべて見つめる。おまえはちゃんと知っているだろう、そんな顔付きだ。

 確かに、カプタニアの王城では水計りで時を数え日に6度鐘で報せて、官吏はそれを合図に仕事をする。だがあくまでも、城という閉ざされた組織の中だけだ。
 一般人、特に農村では時といえば日が昇り沈むを知れば上等。
 時が支配する世紀など想像もつかない。

 男は得意満面に言葉を続ける。

「この機械はまた別の機能も持っている。予言だ。

 それぞれの輪の上に小さな人形が乗っているだろう。それは十二神だ。森羅万象の変化を表わす。
 他に三つの人形が有る。一つはウェゲ、人間だな。人間世界の動向を示す。今はトカゲ神に重なっているのが分かるな。
 もう一つは正体の分からない存在、おそらくは十二神にとっての敵を意味する。
 最後のは天河の計画自体の進行を示す。
 15個の人形の配置を知り意味を読み解けば、未来が識れる。」

「たわごとを。」
「これと同じモノが、聖山神聖神殿都市に有る。もっと簡素で人間の手で動かされるが、機能は同じだ。時折聖山より「予言の啓示」として公布される文書を、よもやレメコフ家の者が知らぬとは言うまい。」
「う、うむ、メグリアル王を通じて黒甲枝にも知らされる。あれは、このような機械を用いて導き出されるのか?」

「聖山では”ゲキの声”と呼ばれ、円環の上を進む駒の動かし方を特別な巫女の力で聞き取る。指し示すがままに進めると、未来に起こる事象が分かるのだ。ここに有るものほどの精度は得られないがな。」

 

「人食い教団の未来は予測出来ないのか。」

 マキアリイはいきなり動き、機械の中枢部に歩み寄る。
 これ以上の茶番は沢山だ、機械をぶち壊し男を逮捕してこの場を離れよう。
 男は自分が喋り過ぎたと今更ながらに気付き、声を上げる。さすがに狼狽した。

「待て、触るのは止めよ。駒の位置を操作することで運命を任意に改変する機能があるが、誰も成功しなかった。下手に輪を動かせば災いが巡り来る。必ずだ!」
「今以上の災害があるとも思えない。青晶蜥神救世主が失せた今だからこそ、呪わしき時計機を破壊すべし。」
「待てやめろ、それには自己防衛機能があり、部屋全体が、」

 マキアリイは歯車の絡まりを良く見極め、どれが真の中枢か調べる。
 カラクリモノはギィール神族の得意で、巧みな者であれば生きた動物と寸分違わぬ動作をする人形も作るという。
 黒甲枝でも上層部に位置するレメコフ家では、敵の科学技術を知る為と称して幾つかを蒐集している。
 幼少からこの手のものには慣れているが、彼の経験からしても「時計機」は想像を絶する複雑さを備え、人の手に成る物とは到底思えない。

「これはー、完全な機械ではないな。原動力となるのは魔法の品、か。」

 機械の中心に存在するのは無垢の金属の六角柱で、これが自らひねりを出す事で全体が駆動するらしい。

「自ら曲がる金属か。」

 太さはマキアリイの拳ほどある。長さは指先から肘までと同じ。いかにカブトムシの聖蟲の怪力を以ってしても、これを損なうのは難しそうだ。
 柱の中心に穴があり、硝子窓となっている。中にはさらに機械が詰め込まれているのか。

「この六角柱はなんだ。」
「さ、触るな。我らは「運命の六木」と呼んでいる。」
「六木だとお?」

 六木とは、方台におけるサイコロだ。木で出来た六角柱を転がし、どの面で停まるかで数を決める。
 主に双六遊戯で使われる。人食い教団では、この大袈裟な機械を運命の双六と看做しているのだろう。

「人間を、馬鹿にして。」

 マキアリイはつま先立ち、六角柱の中心に開けられた窓を覗く。この中に納められるものこそが、茶番の元凶か。
 足場を見付け身を乗り出し、窓に顔を近づける。硝子には色が入っている為に、あまり鮮明には中が見えない。
 硝子の面に自分の顔が映る。覗かんとする自らの眼を覗き、暗い奥まで透かすと、

「う、うわああああ。」

 マキアリイは歯車の集合から飛び離れ、後ろで心配そうに見守っていたクワンパを巻き添えに倒れた。聖蟲を戴く者としてあるまじき取り乱し様だ。
 大の男の下敷きになったクワンパは、必死で身を起こし尋ねる。

「なにがありました!」
「眼が、あの中に人の目があり、こちらを覗いている。」

 クワンパは天寵司祭を名乗る男に振り向く。説明を無言で求めた。
 だが彼も答えを持っていない。

「知らぬ、知らぬぞ。六木の中に潜むのは此の世のものではない!」

 ぎ、ぎ、ぎ、と歯車が急に進み始める。空中に重なる金属の輪がびりびりと振動し、端が大きく波打ち振れ始める。
 異常な動作に男は慌てふためき、室内を駆け回る。赤い法衣を纏うミイラを一つ、蹴倒した。

「すぐに離れろ! その機械は人知を超える。止められないのだ。ああお終いだ、ここはもうダメだ。逃げねば、早く逃げねば。」

 高い円天井の全面に埋めこまれた硝子の雫が不規則に瞬き、闇と光を織り出した。滑らかな壁面が揺らぎ、部屋の外と同じ臓物の襞に似た褶曲を開始する。
 現れた時と反対に、整然と並べられた調度類がばたばたと不規則に畳まれていく。人の手を借りずに仕舞い込まれる。

 これは本格的に危ないと、マキアリイは撤退を決めた。クワンパを小脇に抱きかかえ、脱出口を探す。
 入って来た戸口は既に斜めに歪み潰れ、どろりとした粘液が侵入する。光の点滅に目を灼かれながら、必死に出口を探すと。

「おお、あちらに道が穿たれている。」

 男が現れた滑らかな真円の孔が目に入る。この奥は未だ塞がれていない。
 走るマキアリイに、男は叫ぶ。

「違う。それは、人の身には許されぬ聖なる小径。行けば死ぬぞ。喰い殺される。」
「ではお前はここで死ね。」

 道は仄かな光を発する壁面を持つ滑らかな管だ。足で踏むとぼむぼむと空洞の響きがする。石で出来た腸に思えた。
 行く手には何の障害物も無いが、只の人では確かに通り抜けられなかっただろう。
 疾走するマキアリイの背後で、通路が急速に遮断される。
 彼が走り抜ける度にがしゃんがしゃんと閉ざされる音がして、嫌が応にも前に駆り立てる。ほんの少しでも速度が鈍れば、身体を挟まれ剪断されるだろう。

 マキアリイの左腕に抱かれるクワンパは後ろを振り返り、恐怖に身の毛を逆立てる。
 三枚の薄桃色のクチバシが石の襞を突き破り、わずかに黒い鋭角の先端をこちらに向ける。
 衣の裾が触れる近さでぴったりと噛み合い、通路を絶対の厳密さで塞ぐ。走るマキアリイの1歩後ろか。
 これが何度も何枚も続いていく。わずかにつまずけば容赦なく死が訪れる。たとえ鋼鉄の甲冑を着ていても、何程の抵抗も無く分かたれてしまうだろう。

 走れ、走れ。クワンパはひたすらに祈る。
 何も考えず、ひたすら前に進め。出口があろうが無かろうが、行着く末まで突っ走れ。

 いつしか道は人間の手が穿った坑道へと変わる。壁面から発していた淡い光は消え、闇を突き進む。
 神兵の視力が夜に強くとも、これでは先が分からない。幸いなことにマキアリイの額の聖蟲が甲翅を開いて、輝く黄金の薄翅を拡げる。道は神の光に包まれた。

 背後で閉じるクチバシは変わらない。岩を砕き貫いて、二人を啄ばみ食わんとする。
 既に不思議の結界を抜けたにも関わらず、黄泉からの帰還を許さぬかにひたすら顎を噛み合わせる。
 だが神兵の早さはすこしも弛むぬ。むしろ楽しげに軽やかに、冒険に身も心も解放されるかに暗い道を駆抜ける。

 石組みの壁面に陽の光が漏れ出した。地上だ!
 彼らを追うクチバシは消えたが、今度は坑道そのものが壊れていく。天井を支える材木が転げ落ち、積んだ石が左右から倒れる。
 道が急に曲がる。ぐるぐると上に、螺旋を描いて上昇する。
 塔だ。石造りの塔の中を二人は駆け登り、そして。

 

 ばん、と蹴破った扉の先に拡がるのは、どこまで続く藍色の波。海の絶景と厳しく照りつける南の陽光だ。
 風が吹いている。暗黒に塗れた二人の身体を洗うかに、潮の香りを含んだ爽やかな風が青い衣桜色の衣の袖と裾をはためかせる。

「ここは?」
「来たか。マキアリイ。」

 親しげに名を呼ぶのは、懐かしい声だ。マキアリイはしっかり抱きかかえたクワンパを石の床に下ろし、ゆっくりと右に顔を向ける。

 太陽の下、まさに彼にふさわしい一点の曇りも無い青空を頭上に頂いて、その男は微笑む。

「ソグヴィタル王…。」
「ヒィキタイタン、と呼んでくれ。俺とお前の仲じゃないか。」
「何故ここに。」
「それはお前も同じだろう。人喰い教団の中枢を自ら調べに乗り出し、最後はここに辿りつく。」

「ここは、どこだ。」
「タコリティに古くから有る灯台の一つだな。現在も使用中だ。」

 振り返り背後を見上げると、篝火の燃え残りの炭が上の階に転がるのが映る。昨夜も誘導灯が焚かれたのだろう。
 飛び出して来た戸口を覗き塔の内部を確かめるが、崩れた跡もクチバシが啄ばんだ傷も無い。数十年変わらぬ静けさを湛えている。

「下に降りても、通って来た道は無いぞ。探したが無駄だった。」
 声に促され覗くのを止めた二人は、あらためてソグヴィタル王 範ヒィキタイタンを見る。

 荒く積んだ石の手すりにもたれる王は悠然と寛ぐ。追捕を受ける身だなどと、まるで忘れていた。
 豪奢な紅い髪の中央には黄金のカブトムシが輝き、高貴な身分を隠そうともしない。

 身には革の防具も用いず、ギィール神族の平素と同じ白の服を纏うのみ。武器も左の腰に下げる剣だけだ。
 あまりにも無防備で、兇暴残虐な人喰い教団の探索に来たとはとても思えない。
 が、ヒィキタイタンは王族の生まれでありながら異常に腰が軽く、下賎の民、闇に潜む賊の棲み家にでも気軽に出掛けていく。
 何度も禁を破る手伝いをしたマキアリイは、大胆な彼の行動に慣れ親しんだ。

 ヒィキタイタンは追放劇が演じられた5年前と変わらぬ口調で、親しげに話す。

「今見たことを、現実だと思うか?」
「なに? アレが幻覚だというのか。」
「お前はあそこで一体何を見た。天寵司祭か野蛮な戦士か、はたまた毒酒を捧げる妖艶な美女か。」

「な、なにを言っている。あそこは真実人喰い教団の心臓部に当り、…貴方も見たのか。」
「おう。天寵司祭を2人ほど斬ったぞ。」
「む、どの天寵司祭のことを言っている。」

「俺が斬ったのは、とんでもなく老いぼれた爺さんと、頭のとんがった中年の小男だ。お前は。」
「俺が遭遇したのは、まだ若い学者風の男だ。あと調理場の祭壇で、いかにも組織の重職と見える初老の男も死んだな。あれはすべて、偽物の天寵司祭だったのか。」
「どうだろう。ひょっとするとすべて本物かも知れない。あるいは最初からそんな奴は居ないのかもな。」

 ヒィキタイタンは左の腰に吊る剣を半分抜いて見せる。
 元がギィール神族の匠による名剣なのだが、弥生ちゃんが念入りに神威を施していったから、青い光が陽光を凌ぐほどに迸る。

「俺にはこれがあるから、まやかしを見破る事が出来た。かなり悪質な幻だぞ、聖蟲の目までも欺くのだから。」
「そんなことが人間に、…いや、あれは人間が作ったものではない。一体なんだったのだ。」
「マキアリイ、おまえは何の話を聞いた?」

 隠してもしょうがない。元々ヒィキタイタンに嘘を吐くつもりもなく、ついたところで益も無い。
 正直に掻い摘まんで話すが、聞く方はけげんな顔をする。

「俺が聞かされた話とはかなり異なるな。法はともかく王国の成り立ちについて、もっと面白いのを死に損ないの爺いから聞いた。」
「なんだ。」
「恐怖だ。

 紅曙蛸王国時代、彼らは女王テュラクラフを自らの責で失う最悪の事態を招来した。
 以後500年、神の手から離れて生きざるを得なかった人間社会がどれほどの恐怖に襲われたか。今の我々には想像も出来ないな。
 知っているか、テュラクラフ女王失踪前まで方台には宗教なるものは存在しなかったのだ。空気と同じに神の御手は常に傍にあり、人を優しく力強く導いてくれた。
 その有り難みを初めて知ったのが、つまりこの時期だな。女王を失ったが為に神を仰ぎ見る事を覚え、信仰が芽生える。

 だが反面、人は自ら立たねばならぬと悟った。
 褐甲角王国の御代で誇るべきは法の支配だが、紅曙蛸女王時代に人間が成し遂げたのが、宗教に基づく支配体制の確立だよ。

 マキアリイが所詮は黒甲枝、軍人としての枠に縛られた思考しかできないのに対して、ヒィキタイタンは遥かに広く高い見識を持ち、歴史にも造詣が深い。
 不思議に接しても動じないのは、十二神信仰の経典に親しみ諳じ良く理解するからだ。

 王は左手を上げて、赤い髪の間に座す黄金のカブトムシをそっと撫でる。聖蟲は宿主と同様泰然と、下から吹き上げる強い潮風を心地好さげに喫している。
 聖蟲に助けられて方台を支配して来たギィール親族、褐甲角の神兵はほんの一瞬たりとも神の実在を疑わない。

 黒茶色のカブトムシを持つマキアリイも、遭遇した学者風の男の話を振り返り、思い当たる節があった。
 あれほどまでに法の架空性を説く必要がどうしてあるのか。何故人食い教団がそれを成したと、大きな声で主張せねばならないのか。

「恐怖、か。」
「ああ。そもそもが人喰い教団の秘蹟である『人肉食』でさえ、ネズミ神官達が人食いの悪習を改めさせる為に説いた、いわば偽りの遊戯だ。
 神の使いたる導き手を失った人類は、母を必死で求める幼児のようにもがき叫び訴え、天に届けと過激な儀式を作り上げ、ひたすら繁雑複雑化して誠意を証そうとする。声が届かぬと知るや、自らを権威と為し救世主を僭称し超常の力を唱えて人々の前に立つ。真実の神を失った恐怖を誤魔化す為に、だな。」

 マキアリイは深く考える。ここに来てようやく、人喰い教団の行動原理が読めて来た。
 彼らは人を導いたり支配するつもりは無いのだ。イローエントの軍制局への介入にしても、遠大な計画に基づいて方台を征服するなどではない。
 ただ恐怖なのだ。

 彼らがテュラクラフを失った時の恐怖、これを人に理解させる。聖蟲に導かれる今の世に古の悔恨を訴える。
 救世の聖業の背後に巣食い、虚構性を確認してただ納得する。それ以上を望まないし、それこそが至高の知恵、彼らの真実なのだ。

 神の居ない世界。神が世を導かない、見捨てられた人間の世界。

「哀れな、連中だな。と言って良いのだろうか。俺は、俺に彼らを笑う権利があるのか、よく分からない。」
「笑って良いのだぞ、マキアリイ。ガモウヤヨイチャンも言っていた。神が現に存在するのに拝まないのは愚か者だ、とな。」

 ヒィキタイタンは腕を組み、再びてすりにもたれる。背後に拡がる海と同じ大きな安心感が彼には有る。
 どうして今、彼は褐甲角王国の為に働いていないのだろう。これほどの人物が何故歴史の隘路に嵌まってしまったのか。

 

 気が付くと、傍らのカニ巫女がすごぶる不機嫌だった。マキアリイは己の責任を思い出す。

「ああクワンパ、忘れてはいないぞ。俺はソグヴィタル王に裁きを下す追捕師だった。」
「レメコフ様。」
「うん。そのとおりだ。マキアリイには俺を殺す十分な理由と責務が有る。今ここでそれを果たすか?」

 だがマキアリイには監査士団の役目もある。今果たし合いで滅び、人喰い教団について得た知識認識を無にするのは許されぬ。
 第一剣も刀も持っていない。剣士としても抜群の技量を持つヒィキタイタンと戦うのは欣快の至りだが、さすがに不利は否めない。

「いや、やめておこう。」
「そうか、残念だな。先日の決闘はなかなかにおもしろかったからな。」
「雌雄を決するのは、円湾を討伐する時まで延ばそう。だが困ったな、人食い教団の真実がこのようなものであれば、どうやって決着をつけるべきだろうか。」

「監査なんかやめてしまえ。どこまで探っても終わりの無い堂々巡りを繰り返すだけだ。」
「そうもいかない。けじめを付けねば、陛下も中央軍制局も、取り調べられている本人達も納得しないだろう。」

「さればさ。」

 ヒィキタイタンはぐいと身を乗り出す。今は敵の首魁と成り果てても、彼の本質はあくまでも褐甲角王国と共にある。

「監査なんか止めて、戦さの場に彼らを誘え。千万の言葉よりも一時の武勲の方がよほど雄弁に彼らの忠誠を証明する。」
「いいのか、それで。紅曙蛸王国の宰相なのだろう?」
「負けが最初から分かっている戦さだからな、早く済ませて人死にを抑えたい。本番はむしろ負けた後、この俺の裁判の場になる。」

 ソグヴィタル範ヒィキタイタン。
 武においても抜群の技量を持ち、兵を用いるにも才溢れ、一国を率いるに十分な器量を備えるが、元老院で育った彼は根っからの論客だ。
 裁判の場において孤軍奮闘、自らの舌鋒で反撃を試みるのは、むしろ愉快とさえ覚えるだろう。

 マキアリイは腕を伸ばして、背後に立つカニ巫女の肩をぐっと掴んだ。抱き寄せて、ヒィキタイタンに向き合わせる。

「裁きの場、処刑の場。いずれにおいても、私達以外の者には指一本触らせない。約束する。」
「恨まれるぞ。出世に響く。」
「ソグヴィタル王に剣を着ける以上の栄誉は、この先絶対にあり得ないさ。」
「おう。楽しみだな。」

 手すりから身を乗り出し、塔の外側に螺旋に絡み付く階段を確かめてヒィキタイタンは頬を緩めた。
 遅れ馳せながら、人食い教団の刺客が秘密を知った者を抹殺に来たらしい。もうしばらく楽しめそうだ。

 加勢を申し出るマキアリイを抑えて、彼は行ってしまう。間も無く下から男の絶叫が聞こえた。

「困った王、いや宰相閣下だな。」
「いいのですか?」

 問題無い、と言おうとしてカニ巫女の顔を見たマキアリイは、彼女が危惧するのはヒィキタイタンの身ではないと気付く。
 再度、彼女は尋ねた。

「いいのですか、あんなに簡単に戦さを決めてしまって。」
「うん、やはりカニ巫女には理解出来ないだろうな。大方の場合、戦争というものはこのように気軽に簡単に始まるものだ。」
「そんないい加減な。」

「いや、実はこれが正しいのだ。庶人であれば言葉を尽くし交渉を重ね万策尽き果てた末に、軍事力に訴えると考えようが、違うんだ。
 戦さは、双方が一戦交えるかと肌で感じるからこそ始められる。戦う以外選択肢が無い状況に陥って初めて、戦争回避の交渉が開始されるんだ。」

「それではそもそも和平なんかあり得ないではありませんか。」
「そうだ、和平なんか幻想だ。戦さは双方勝手な都合のままに行われる。今やるべきだと直感するからこそ、人の命を棄てる決断が出来る。理性ではとてもそんな計算出来ないぞ。」

 クワンパは苦虫を噛みつぶす表情を作る。場末の喧嘩と同じ動機で国政の最高位の決定が下されるのに、納得し切れない。
 が、群青の空を背景に立つ青服の兵師監を見て、考えを換えた。彼は実に爽やかに天を見上げる。

 思えば千年に一度の大戦の機会を得、武人として最も望ましい力を持ちながらも、彼は前線に立つ栄誉を与えられなかった。
 鳥に翼が有るのなら、羽ばたくのを妨げる訳にはいくまい。
 これが気分か、とクワンパも了承する。頭で考えるよりも早く、心は戦場に踊り出る。

 人は倦むまで戦いを止めることが出来ない。

 

「戦さか。悪くないな。」

   ***

 円湾の神殿船に戻ったヒィキタイタンは、着替える暇も惜しんで紅曙蛸巫女王六代テュクラッポの姿を確かめに行った。
 若き女王はすぐ人の目を盗んで遊びに出掛ける。
 いかに不可視の魔法を用いるとはいえ、敵味方の暗躍する陰謀の坩堝に飛び込むのは、許容し難い。

 まあ、宰相たるヒィキタイタン自らが剣戟の巷で遊んで来たのだから余り強くは責められないが、理不尽ではあっても大人として咎めねばいけない時もある。

 案に相違して、テュクラッポは自室で何時間も化粧をして暇を潰していた。侍女たるタコ巫女の言葉に安堵はするが、不審も覚える。
 部屋を覗くと、東金雷蜒王国製の大きな鏡の前に胡坐をかいて、なにやら宝石を弄っている。

 少し違った。彼女は先代の紅曙蛸女王テュラクラフより譲られたと称する、曙色のタコ石の頭冠を色々と確かめている。
 特に、正面に飾られる大きな水晶の奥を覗き込む。
 あまりに熱心なので、ヒィキタイタンはしばらく声を掛けるのを忘れて少女の座姿を眺めていた。

 背後からの視線に彼女の額の上の小さなタコが気付き、繊細な触手で髪を軽く叩き注意を促す。
 テュクラッポは振り返る。流暢なギィ聖音(ギィール神族のみが用いる難解な言葉、神の言語とされる)で宰相に尋ねた。

「(至極面白い遊びをしてきたのですね。)」
「ああ、久しぶりにいい運動が出来た。立場上会えない友にも会えたしな。」
「(好日上々。)」

「それは即位式で戴いた頭冠だな。中になにか見えるのか?」

「(うん。色々。)」

 と、左の眼を近づけて透明の珠の奥を覗く。その向うに、まるで未来が見えるかに。

 

第十章 ひまなひとびと

 

 ゲルワンクラッタ村ことベギィルゲイル村は、東西を貫くボウダン街道と神聖首都ギジジットから延びる古街道との交点にあたり、繁栄する条件を元より備えている。
 弥生ちゃん失踪を受けて東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウは、一時撤退すべきとのギィール神族達の要請を退け、あえてこの村に留まった。
 理由はいくつか有る。

 まず、ゲバチューラウの今回の行幸の目的はあくまで和平交渉であり、成果が未だ得られない。これは第一に挙げられる。
 また和平交渉を通じて褐甲角王国の体制を揺さぶり、来るべき青晶蜥神の御代において金雷蜒神の勢力を伸張させる必要があった。これも現在良好に進行中である。
 さらには、純軍事的に見てもベギィルゲイル村は毒地に参集するゲイル騎兵の応援を受け易く、褐甲角王国への外圧として極めて有効である。

 だがゲバチューラウが最も重視したのは、この場所がガモウヤヨイチャンに縁が深いことだろうか。
 彼が心に想うキルストル姫アィイーガは、弥生ちゃんの代理として救世主とトカゲ神を崇める信者達の統率を行い、ボウダン街道上デュータム点近辺に留まる。
 彼女との連絡を密に取る為にはあまり遠くに離れられない。

 ベギィルゲイル村はまさに最適の地であった。

 神聖王の機嫌がすこぶる良好であるので、側近が離宮を建ててはと提案するが、
「この地の風情を損ねるべきではない」
と、ゲバチューラウは鄙びたままののどかな景観の保存を求めた。ただし、褐甲角王国との和平が成った暁には使節館を設けて外交の表玄関とする旨を明かす。

 滞在が長くなりまた軍事的に閉鎖されないと知った人々は、勇んでベギィルゲイル村に押し寄せた。
 志有る者ならば誰しも、千年いや2千年に一度の好機になにがしか歴史に足跡を残そうと思う。ましてゲバチューラウは和平を求めて敵国に乗り込んだ。
 この機を逃して、いかなる名誉も見識も有るものか。

 東西南北あらゆる方向から人が詰め掛ける。名の有る者ばかりだ。
 賢人義人、武者知者富者、かって亡命したギィール神族の子孫とその家臣、旧時代の貴族と呼べる小王の末裔や番頭階級の流れを汲む者。
 彼らとの対話は褐甲角王国への圧力として機能する。ゲバチューラウの側でもかなり好意的に応対した。神聖王自ら清談を交わしたとの噂は、さらに人を呼び集める。

 彼らを当て込んで商人も勇み立ち、倉庫を空にして様々な品を運んで来た。
 出自に自信の有る者はゲバチューラウの関心を惹かんと高価な物品を買い求める。貢ぎ物のみならず、自らを飾る衣服や武装、天幕、輿に羽や珠。宴会の用意も承る。
 日頃は経済に余裕が無くとも、ここが見栄の張り所だ。

 村の外の草原にたちまち市が立ち、ゲバチューラウの随員はありとあらゆる品を購入出来た。王侯が用いるべき稀なる宝も難無く手に入る。

 当然、商品を運ぶ人足が入用になる。
 元々ボウダン街道周辺の百姓農民は、褐甲角王国と東金雷蜒王国の交易の荷運びで益を得ていた。畑を耕すよりも遥かに儲かる。
 今回にわかな景気に刈り入れも早々に切り上げ、皆荷の担ぎ手となった。

 

 その中に一人、男が居る。

 名はテュゴサク、ベギィルゲイル村から西へ5日の村に住むごく普通の農民だ。
 容貌は、人に威張れるほどではない。背は標準より低く肉づきはがっちりと、農作業や荷運びで人に遅れを取ることは無い。働き者と呼んでよいだろう。
 問題があるとすれば、20代を半ばも過ぎたというに未だ独り者であるところ。女にてんで縁が無い。

 彼は大審判戦争で兵に取られることも無く、寇掠軍にも遭わずに済み、まずは無事に命を長らえた。
 ガモウヤヨイチャンが命じた神聖王歓待の準備の行列に目をみはり、ゲバチューラウ滞在の噂を聞いて村人皆で相談し一儲けしにやって来た。
 なるほど街道を行き交う人の波は例年の倍を優に越え、荷運び人足の職は選り好みするほど溢れている。給金もうなぎ上りで誰もが大満足。

 多少のケチをつけるとすれば、ベギィルゲイル村は鄙びた普通の村だから歓楽街が無い点か。
 懐に余裕の出来たテュゴサクは、次の仕事を控えてぶらぶらと市を遊んでいた。
 市の賑わいはデュータム点やギジェカプタギ点を思わせる。いや身分有る者が多数見受けられる分、それら大都市よりも格が上だ。
 右を見ても左を見ても立派な人が歩いている。背の高い人はギィール神族の血を引く方か、豪奢な衣装に包まれるあの美人はどこのお姫さまだ。

 家に残った母親への土産話に事欠かない。ほとんど不審人物と見えるほどに首を回す彼は、やがて”女神”を発見する。

「な、なんちぁ美人だ。アレぁ天から降って来た神さまの御使いか!」

 一際目を惹くのも無理は無い。ゲバチューラウに付き従い傍近くで奉仕するゲジゲジ巫女だ。
 元々がゲジゲジ巫女は、キラキラとトゲの有る美貌と知性を売り物とする。
 ましてや首都島ギジシップの神聖宮に仕える者だ。

 妓女を抱えるカエル神殿すら青ざめる美貌の君が5人も並び、露店の品を確かめる。その一人にテュゴサクは魅入られた。

「あ、アレ、アレ、アレが、アレ。」

 テュゴサクの連れの村人も、病に罹ったかとびっくりするほどの狼狽えぶり。このまま草原にひっくり返って小便垂れ流して死んでしまう、と心配する。
 さすがに病人は困る。市に集まる人はテュゴサクの周囲を空け、彼一人がますます目立つ。
 当然に、件の巫女もこちらを見た。

「き、きたあたあああたぁぁほああ。」

 もんどりうって感激するテュゴサクは、まさに悪疾に取憑かれた廃人にしか見えぬ。麗しの巫女は仲間と連れ立ってさっさと人込みに消えていく。

「あ、まってくぃ。名前、名前ぉおしぇーてくれー。」

 叫ぶ言葉は獣の雄叫び、不審に感じた警備のクワアット兵が駆けつける。騒ぎに紛れて、巫女の姿を完全に見失う。

「いがったああ、あれはぁいい。アレがおっかあになってくれたら俺ぁもうおっ死んでもいい。」
「バカかお前ぁ。アレぁゲジゲジ巫女じゃないか。お前みたいなむさくるしい奴相手にするわきあないだろ。」
「いやあアレはいい、アレはきっと天河の神様のお告げてへやつだ。なにしぉここにはゲジゲジ神の王さままでいらっしある。もう決まったアゃあ俺の嫁だ。」
「頭ぶん殴って、うめていくか。」

 連れの村人は誰一人まともに取り合わぬ。当たり前の反応だが、モノに憑かれた人間の恐ろしさを知らない。
 正気に戻ったテュゴサクは、荷運びの仕事を投げ打って巫女の姿を追い始める。
 なにせ頑な百姓だ、こうと決めたら誰も止められない。抑える手も振り切り再び市に戻り、誰彼構わず巫女の行方を尋ね始める。

「おしえてくろ、おしえてくれぉ。」
「わかったわかっわかったから、そう引っ張るな。あー昼間来ていたゲジゲジ巫女だな。あれはーもちろん、」
「もちろん!」
「だから引っ張るな。もちろんゲジゲジ巫女といえば今はゲバチューラウ様にお仕えする者に決まっている。」
「げ、げばげば!」
「そうだ、東金雷蜒王国は神聖王陛下、ゲバチューラウ様だ。聖上だよ。」
「げ、げばばあ。」
「だがら、巫女は村の中に居る。」
「村だな、村にあの御人が居ら!」

「ちょっとまてちょっとまてどこに行く。」
「む、むらあああ!」
「ばかかお前は、というかバカだお前。尊い御方がいらっしゃる所に、滅多な者が入れるわけ無いだろ。」
「げばあ。」
「そうゲバチューラウ様だ。今は神聖王陛下の身を護る為に、赤甲梢の神兵がまるまる100人もぐるっと警備しているぞ。クワアット兵が1000人に東金雷蜒王国も1500人で守っている。」
「げ、ば。」
「だから引っ張るな首を絞めるな。おそらくは御行列で入用の品を巫女が買いに来たんだよ。だからこのまま市に留まって待ってれば、いずれまた会える」
「げ、このまぁ待つ?」
「そうだ、だからもう離せ、しごとにならん!」

 頭に血の上ったテュゴサクが、何時とも知れぬ再訪を待てる道理がない。とにかく村だ、村に行く、村に行けばあの人が待っている、微笑んで迎えてくれる。
 なぜそう思えるのか誰にも説明できないが、ひたすら前進。村を囲む防風林に突入した。

「む、むらむら?」

「不審人物を発見、捕獲しました。武器は持っていませんが、物凄く暴れます。「げばげば」と叫んでおりますが、」
「刺客かも知れぬ。厳重に縄を掛け、両足に枷を付けてひったてよ。」
「は!」

 たちまちクワアット兵に捕縛されたテュゴサクは、見事村の中心部に潜入した。
 ここには先日まで凶賊「薮隠れのバゲマゲ」が収容されていた牢屋が有る。恋に狂った百姓は、後世までに語り継がれる大盗の後継者となる。

「げばげばぎっちょん。」

「大体言いたいことは理解した。今後は重要人物のみならず、ゲジゲジ神官巫女にまで護衛を付けるよう。」
「は。」
「あと、この男はー、…どうするかな?」
「2、3回杖で叩けばどうでしょう。」
「そのくらいではいかれた頭には堪えないだろう。さて?」

 

「私が説いて差し上げましょう。」

 埃っぽい土間の取り調べ室に、似つかわしくない女の声がする。クワアット兵の剣令も、声の主に立ち上がって応じる。

「こ、このような場所に、どうして。」
「その方ですか、聖上を暗殺しようと試みたのは。」
「い、いえその嫌疑は晴れましたが、より深刻な問題が発生いたしました。実は。」
「聞いています。”げばげばむちゅーん”ですね。」

 男ばかりが詰め込まれた部屋に、女人は静々と入って来る。被り物で顔までも隠すその人の発する気配に、縄を打たれて跪くテュゴサクも違和感を覚えた。
 ボウダン街道は聖山神聖神殿都市への巡礼路でもある。
 街道に住まう者として、テュゴサクも神官やスガッタ僧など神域に住まう人にしばしば遇う。巨大なゲイルに乗るギィール神族も見た。
 その経験が教えてくれる。この女人は只の人ではない。

 被り物の端を開いて彼女は眼を出し、テュゴサクの顔を見る。白目が無い、黒曜石そのままの瞳だ。
 恋に狂った百姓も、全身の血の気が下がる音を聞く。声の上ずりも癒り、まともな言葉が戻って来た。

「あ、あなたさまは。」
「トカゲ巫女チュルライナです。」
「み、巫女。ガモウヤヨイチャンさまの。」
「あいにくと未だ救世主様のお目見えに与っておりませぬ。」

 チュルライナはクワアット兵を促して、テュゴサクを拘束する縄を解いた。
 剣令はいまだ危険性があると主張するも、彼女が身元引受人になると申し出れば引き下がらざるを得なかった。

 ここベギィルゲイル村の治安警備体制は複雑な様相を呈し、命令系統が錯綜する。
 基本的に、金雷蜒王国側の出来事に褐甲角王国は関与出来ない。また神族や王族が関係する事象は、ベギィルゲイル村一村守護の管轄を離れて、赤甲梢に掌握されている。
 さらには、元々が神殿関係の内部事情に世俗の権力が口を出すのは、よほどで無い限り慎まれている。
 騒ぎの元がゲジゲジ巫女のしかも色恋沙汰となると、褐甲角軍がどこまで関わって良いものか判断に苦しむ。

 テュゴサクは確かに迷惑極まりない男だが、神聖王に危害を加えるなどは有りそうに無い。
 遺憾ではあるものの、身柄はチュルライナに引き渡される。ただし東金雷蜒王国の兵が1名、村に滞在中は常に監視するとの条件を付けた。

「あ、あのぅもうし、もうしわけございません。」
「いえ、分かれば良いのです。」
「あの、でもなんで。」
「さあ。    」

 チュルライナは被っていた豪華な縫取りの有る絹の頭巾を脱いだ。テュゴサクは、彼を救ってくれたのが正真に人でないと知る。

「な、ぁに、あなたさまは、なにです、か。」
「怖いですか? そうかも知れません。」
「ぬめ、ぬめと髪が紺色の、顔色も青白くて、そなぁ。」
「鱗です。」
「う、うろこです。はい。」

 顔の正面にはさすがに無いが、耳から首筋にびっしりと鱗が生えている。色は肌と同じ青味がかった白だが、つやがあり薄片の縁の鋭さが目にもくっきりと映る。

「神さま、ですか。」
「違います。まったくに。人より劣る生き物でしょう。」
「しかし。」

 ゲジゲジ巫女どころの騒ぎでは無くなった。テュゴサクは、とんでもない人に見込まれたと我が身の不運を嘆く。
 しかし何故自分のような卑しい身分の男に眼を止めるのだ?

「あの、ひとつおうかがいしてよおございますか。俺にぃなんでお助けくださりました。」
「珍しいから。」
「はあ、めずらしい。」
「ほんとうに、神聖宮では見られないヒトです。あんなに自分の感情をはっきりと口にする。」

 神聖宮とはゲジゲジ神の救世主さまがお住まいになる宮殿だ、くらいはさすがに田舎の百姓でも知っている。
 この方はやはり尊い身分の方なんだあな、と納得する。下々の卑しい振る舞いを興味深く覚えただけだ。

「どの巫女です。」
「へ、へええ?」
「ここから覗けば、ゲジゲジ巫女の詰め所が見えます。あ、頭は出さないで。それから”げばげばむちゅーん”などと叫ぶと、喉を掻き切りますよ。声は出さないで。」
「は、はあへえ。」

 葉陰からゲジゲジ巫女が集う建物を覗き見る。どの巫女もきらきらと輝き天女に見えるが、

「居ません。」
「では午後の御番の巫女ですね。なるほど。」

 これ以上潜めば怪しまれる、と3人はいそいそと立ち去った。ゲジゲジ巫女は気性も荒く、下手な真似をすればカミソリが飛んで来る。
 ベギィルゲイル村本来の村人が集う場所に来る。チュルライナは絹の頭巾を被って素顔を隠すも、正体はもはや人の知るところで、皆うやうやしく頭を下げる。

「み、巫女さま。やはりあなたさまぁえらい方では。」
「偉いというのをどのように考えるか。ガモウヤヨイチャン様より畏くも尊い御方は、此の世にはいらっしゃらないのですよ。」
「そ、それぁそうですかもですが、でも偉い御人でしお。」
「でもテュゴサクさんはそんな風には思わない。違いますか。」

 テュゴサクは首をひねって考える。
 確かにチュルライナは人間を超えた偉い巫女であろうが、しかし納得しきれない。意外と自分の村の近所でも見掛けそうな気配が感じられる。

「俺は学も無いどんくさい土を弄るしか能の無い、だめなぁおとこですが、チュルライナ様にもなにぁ土の臭いがします。」
「土。なるほど、さすがですね。私は神聖宮では土ばかり弄ってました。」
「巫女さまの土弄りたぁ、なんです。百姓みたく畑耕したりはしないでしゃぁ」
「いえそのまんま、土を耕し種を播き雑草を抜いて草花を育てます。それが私の仕事です。」
「特別な、神さまの草ですか。」
「うーんそうですね。その葉を食べるのは、尋常のモノでは無いですね。」

 この人はあんまり幸せじゃないな、と感じた。鱗を持つ人間なんて他には居ないだろうから、ひとりぼっちなのだ。
 親兄弟は居るのだろうか、その人たちも鱗が有るのか。鱗を持つと人からなにか言われないのか。あの真っ黒な瞳で見ると世界は何色に映るのか。

「あ!」
「!、叫ばない!!」

 テュゴサクが遠目に人を発見し大口を開いて叫ぼうとするのを、チュルライナと兵士は素早く止める。そのまま家の陰に連れ込んで、こっそりと様子をうかがう。

「ぁの巫女さまですーうーうるるうる。」
「今右を向いた巫女ですね。ィゲルキィテか。たしかに綺麗な女です。」
「あ、あの人はあのひとはぁ、だれか旦那が居るですかいないですかいるはずもないですかぁ。」
「神聖宮の巫女、あの衣装を纏う者はもちろん独身です。神聖宮に勤める巫女はほとんどがそうです。」
「じゃあ!」

 大声を上げようとする口を、チュルライナが手で塞ぐ。つるつると冷たい指が口に入って唾液に塗れた。
 後で考えるとテュゴサクは、尊い人になにか凄い事をされてしまったと気付くのだが、その時は興奮し過ぎて分からない。

「ど、どしたらぢぢどしたら嫁になって、くれ、くれない。くれないですぁ。」
「まあ無理です。いずれ聖上に従ってギジシップに帰りますから。」
「おれ俺はらどしたいいです。このまま村に帰へなてそなくしゅん。」

 ゲジゲジ巫女ィゲルキィテ等が詰めていた建物は、神聖王の警護の総責任者神剣匠ゥエデレク峻キマアオイが用いる事務所だ。彼も王国の高官の一人として、ゲジゲジ巫女の奉仕を受ける。
 だが出て来た彼女たちの素振りがおかしい。当惑と混乱が見て取れた。
 巫女は互いに相談し、四方に飛んで走る。テュゴサクの女神さまもぴゅうと走り去ってしまう。

「なにか起きたみたいだわ。参りましょう。」

 隠れて居た物陰から身を起こし、チュルライナは二人を引き連れ近付いた。当然、テュゴサクは兵士に厳重に拘束されている。
 頭巾で顔を隠したままでも誰何されないのは、チュルライナだけの特権だ。警備の兵を統率する金雷蜒側の剣令が、彼女に対しても恭しく礼をする。
 彼女が聖蟲を戴くギィール神族に準ずる位を持つと、改めて知る。

「なにごとです。」
「今ゥエデレク様は赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ様の御訪問を受けられています。」
「揉める交渉をなさっているのですか。」
「漏れ聞くところでは、赤甲梢に対する殿様方の挑戦を一時控えていただきたいと、そう申し込まれたようです。」
「ああ、27連敗でしたね。神族の挑戦は。」

 赤甲梢は東金雷蜒王国に電撃戦と称して突入した際に、幾人ものギィール神族を殺した。
 金雷蜒王国側も褐甲角領でさんざ人を殺したから恨む筋合いは無いのだが、首都島までの独走を許して傷付いた神族の誇りに道理は通じない。
 ゲバチューラウの行幸に従って帰還する際にも復讐の危険が付きまとい、道中そのまま戦になる可能性も高かった。

 これを防ぐ為に赤甲梢では、望まれれば何時でも、ただし小規模数名での決闘を受け付けた。
 昼日中公然と勅許を得ての果たし合いであれば、神族側も矜持から伏兵奇襲は仕掛けられず、全軍戦闘になるのを回避出来る。そういう算段だ。
 無論こんな策を用いるからには、赤甲梢には絶対の自信が有る。
 神族の側にしても、だからこそ挑む価値を見出すのだ。

 とはいえ、実に27回。中には赤甲梢の側が著しく不利な条件の戦闘もあったが、ことごとくで神族は敗退を重ねる醜態を演じてしまう。
 本気で殺しに来るのだから、赤甲梢も手加減出来ない。
 神族は死者重傷再起不能と30名以上の犠牲を出すも、赤甲梢には大きく手傷を負わせる事すら叶わない。

 このまま勝ち逃げしようなど、東金雷蜒王国で最も優れた戦士である神剣匠ゥエデレクが許せるはずもなかった。

 チュルライナは事務所から出て来た二人の身分の高そうな女人の傍に急いで寄っていく。兵士が背中を抑えた為、テュゴサクは身動き出来ない。
 遠目に見るに、その偉い女人の額には黄金に輝く蟲の姿が有る。

「、あ。アレはカブトムシ神さまの、」
「そうだ。褐甲角王国メグリアル家の劫アランサ王女様と、輔衛視チュダルム彩ルダム様だ。」
「しゃ〜。」

 テュゴサクを見張る兵士はギジシップ島から従って来た選りすぐりの重装歩兵だ。聖蟲を戴く人には分け隔て無く最大限の礼儀を捧げる。
 ゲジゲジ・カブトムシの両方の聖蟲はどちらも等しい価値を持つ。神の御使いに違いは無い。

「メグリアルの王女さまというと、アノ空をぐるぐる飛び回るては噂の。」
「そうだ。世界で唯一、聖上の頭上を進むのを許される御方だ。」
「しゃあぁ。」

 一介の農民百姓が聖蟲を戴く人を見るなど、めったに機会を持たない。一村守護の神兵が駐屯する村もあるが、それでも普通は会えない。
 なのに王族王女ときたものだ。黄金の聖蟲など、直視したら眼が潰れてしまう。
 チュダルムという名にも聞き覚えが有った。王都カプタニアで一番偉い将軍さま、と無知無学の庶民でも覚えている。

「ここは、ほんとに王さまがいらさる所なんですなあ。」
「だからめったな真似をするでないぞ。」

 見ると、チュルライナは輔衛視チュダルム彩ルダムと直接に話をする。王女のすぐ傍に近付いても咎めを受けない。
 ほんとに偉い人なんだなあ、と口をぽかんと開けて眺めていると、チュルライナがこちらに気付く。つられて彩ルダムと、なんと王女さままでもが自分を見る。

「ひぃいい。」「バカ、頭を下げて礼をせよ。」

 兵士の命ずるままに深々と御辞儀をして、それでも足りないかと地面に手を付いて半分腰を浮かしたまま、頭を擦り付けるばかりに下げる。
 いくらなんでも変な格好過ぎて、周囲の人がくすくすと笑う声が聞こえた。
 やがてチュルライナが戻って来る。

「大変な事になりました。彩ルダム様がゥエデレク様と槍の試合をなさいます。」
「へえ。」
「えっ!」

 テュゴサクにはなんの事だか分からないが、兵士は大層驚いた。声を聞きつけて先程の警備の剣匠も近付き話を伺う。

「チュルライナ様、如何なる仕儀にてそのような話になったのです。」
「なんでも毒地内に留まる神族の方々の間に、彩ルダム様のお噂が広まったらしいのです。金雷蜒の聖蟲を持つ方であればどなたも魅了される奇蹟の美女がいらっしゃると。」
「それはなんの事でございますか? まるっきり我らには通達が。」
「でもそうなのです。これまでは極秘とされていましたが、一所に留まって触れ合う方が多くなれば、当然に露見します。」

 チュルライナは溜め息を吐く。彼女がゲバチューラウから課せられた役目は彩ルダムの隠れ蓑となる事で、トカゲにも似た怪異な容貌にて神族の眼と鼻を幻惑してきた。

 テュゴサクは何の話か分からないが、一つだけは理解する。
「あの彩ルダムてひとが、槍で試合するですか。」

「そうです。女人といえども彩ルダム様は槍の名手とうかがっておりますし、そもそもが額にカブトムシの聖蟲を戴きます。並の兵士が束になっても敵いませんが、」
「はい。神剣匠ゥエデレク様は戦場で幾人もの神兵を屠ったと聞き及ぶ、世の理をも覆す武神でいらっしゃいます。いかにチュダルムの嫡流を汲む方といえども、さすがに。」

 戦闘やら格闘の話には、テュゴサクまったくついていけない。だが一つだけ、言わねばならぬと思い定める。

「女のひとがぁ闘うのは、そりゃあだめです。お止めしなけりぁ。」
「そうですね。…しかし一度動き出してしまうとこの手の話は聖上でさえもお留め出来ないもので、どういたしましょう。」

 

 何故こうなってしまったかは、かなり複雑かつ単純な理由がある。
 要するに、ギィール神族の側が勝つ為の方策を考えついたのだ。手段は簡単、殺すのではなく虜にする戦術で赤甲梢の神兵と対峙する。
 これまでは復讐を名目の挑戦であったから、神族は敵を殺すつもりで掛かって来た。当然赤甲梢も殺で応じる。
 だが神兵を捕虜とする狩猟の要領で対処すれば、単純に技術の比べ合いとなり、死人は減るし付け入る隙も多くなる。

 赤甲梢の敗北は、実は神剣匠ゥエデレクにとって望ましくない事態だ。
 今は赤甲梢の武力と武名で、ベギィルゲイル村への神族の介入を防いでいる。遠慮させている。
 だが勝ってしまえば大手を振ってゲバチューラウに謁見し、政戦両略に関与を試みるだろう。ギィール神族と神聖王は対等の関係に有る、これが金雷蜒王国古来よりの秩序だ。

 まして彩ルダムの件がバレてしまった。新たな景品の出現は、神族の闘争心競争心の火に油を注ぐ。求婚者共は互いに殺し合いを始めるかもしれない。

 策を講じるべきと探っていた矢先に、赤甲梢の側から挑戦終了の申し入れだ。
 赤甲梢の側でも27連勝は勝ち過ぎたとの悔いが有る。負けるわけにはいかないが、勝てば勝つほど研究され弱点を暴かれ、後に実戦に及んだ際には必ず支障を来すだろう。
 また連勝の重みが神兵たちの肩に降り積もる。最初に負けた者は赤甲梢の名折れ、不名誉の極みと誹られよう。
 彼らも、追い詰められていたのだ。

 双方の意見がぴったり合わさり、掉尾を締めくくる大戦さにて神族の挑戦を諦めさせよう、と話は進む。
 東金雷蜒王国最強の戦士神剣匠ゥエデレクと、赤甲梢神兵頭領シガハン・ルペの頂上決戦でまとまるはずだった。
 それが何故か、

 

「チュダルムと言えぁ、チュダルムさまでございしょう。あの姫さまですか。」
「テュゴサクさん、彩ルダムさまを御存知で。」
「こっちに住んでる者ならみなぁ知ってます。カプタニアには鬼より怖いチュダルムの姫さまがいらっしゃるて。」

 チュダルム彩ルダム、王都にあってはメグリアル王女 焔アウンサの被害者としてよく知られる。王女によって許嫁を奪われ傷心のあまり婚期を逸したと。
 が、当局の規制が弛む地方には、もう少しおっかない真実が伝わっている。

 焔アウンサに許嫁を盗られた彩ルダムは怒り心頭。とはいえ王族であり姉のように良くしてはくれる人に反旗を翻すわけにもいかず復讐も出来ず、日夜悶々とする。
 怒りに突き動かされる肉体を抑えきらず、チュダルム家伝の槍術に専念し日夜大暴れしていたところ、気付けば周囲に人が居ない。
 当時彩ルダムは聖蟲を戴いていなかったが、チュダルム槍と呼ばれる武器を使わせては王都で一番。クワアット兵の剛の者ですら退ける豪傑となってしまった。
 チュダルム槍は別名首刈り槍とも呼ばれ、穂先が滅法大きく首を落すのに最適な、恐怖の対人兵器だ。
 そんなモノを振り回しては、さすがに男も寄りつかない。というわけで彼女は婚期を逸してしまう。

 その後、父チュダルム冠カボーナルハンは娘に婿を取るのを諦め、聖戴を武徳王に奏上してめでたく尊いカブトムシを額にのっけることとなる。

 

 チュルライナはふうと溜め息を吐いた。
「そうなのです。道中にて彩ルダム様と前の赤甲梢総裁メグリアル王女 焔アウンサ様の関係をつぶさに見ましたが、御二人は無謀さにおいて良く似ておいでなのです。」

 ゥエデレクがうっかり軽口を叩いたらしい。
 彩ルダムの槍術を一度見たいものだと。それほどの腕が有るのなら、神族の求婚者を槍にて突き殺してしまえばよい、と。
 それを彼女は侮辱と感じた。チュダルム累代の誇りを傷つけられたと、ぷっつり理性の糸が切れてしまう。

「カブトムシの聖蟲を戴いていれば滅多なことはないでしょうが、」
「やはり、無理にでもお止めした方がよろしいと存じます。」
「そうですね。」

 再びチュルライナは彩ルダムの宿舎に走っていく。残されたテュゴサクと兵士はしばらく待たされた。

 阿呆のように突っ立って、慌ただしく動く村の様子を観察すると、なんとなく仕組みが見えて来た。
 つまり、この地では誰が一番偉いか決まっていないのだ。
 もちろん東金雷蜒王国の神聖王ゲバチューラウが位階的には最も高い。が、ここは褐甲角王国領だ。さらには赤甲梢と地元守護の神兵で指揮権が錯綜する。
 複雑怪奇にそれぞれの面子が衝突した。

 あちらこちらで色の違う旗を掲げた兵隊が右往左往する。村に留まる賢人も表に出て、眉をひそめながらひそひそと論じ合う。
 だが誰一人、馬鹿げた決闘を止められない。

 自分よりずっと賢く学問を沢山積んでいる人がこんなに困る姿を、テュゴサクは見た事が無い。
 女の人と男がマトモに闘い合うなど、常識で考えれば有り得ない。頭のいい人がそんなことも分からないなんて。
 なんでこんなことになるのだろう?

 やがて周囲の空気が替わる。
 通達が行き渡ったのだろう、兵隊は険しい表情でざくざくと足並みを揃えて走る。村人は家から飛び出して一つ所に向かう。

「なにがぁありますか。」
「どうやら、決闘を聖上が御覧になられるようだ。」

 テュゴサクを見張る兵士も困惑する。なんで俺はこんな百姓の番をしなきゃならないのか、そんな顔だ。素直に済みませんと頭を下げる。
 やがて、婢女が一人やって来た。チュルライナの使いで、こちらに来て欲しいと伝える。
 婢女と言っても衣服は上等で、そこいらの百姓女よりはるかに洗練され美しい。ゲジゲジ巫女に心を奪われていなければ、テュゴサクはこの娘に恋をしたかも知れない。

 村の中心の広場には既に人だかりが出来ている。兵士が5歩おきに立っていて、不審者が紛れ込むのを険しい目で見張っている。
 テュゴサクなどはその最たる者だろう。兵士が同行しなければ警戒の中とても進めなかった。

「ああ、テュゴサクさん。やはり説得は無理でした。彩ルダムさまは試合をなさいます。」
「でもたたかぅ言っても、本物の刀で闘ったりはしないでしょ。」
「聖蟲を戴く方々は、戯れをなさらないのです。」

 漆黒の瞳に困惑を浮かべて、チュルライナは広場の中心に特設された石の舞台を見る。
 ギィール神族の邸宅に備えられる石舞台と同じもので、ゲバチューラウ歓迎の様々な催し物がここで行われた。
 慣例に従えば、貴人の歓待には武芸者の模範試合も行われるべき。その意味ではちょうど良かったことになる。

「テュゴサクさんは、この中に潜んでいてください。あなたはテュゴサクさんが見付からないよう、堂々と立っているように。」

 潅木の茂みを指し示し、チュルライナはテュゴサクを押し込んだ。意味が分からないが親切な巫女さまの仰しゃることだ、素直に指示に従う。
 だが兵士は激しく疑問に思い、進言する。

「チュルライナ様、この男は村の外に追放しましょう。」
「いえ、これも星の御縁でしょう。きっと役に立ちます。」

「は? はぁあ、はあ。」

「チュルライナ様、なにをなさるのです。」
「たぶん、いえ私の勘は当たります。今日の奉仕の御番を考えても、おそらくは、」

 何事かむさ苦しい百姓男に期待しているのだろう。だが兵士はとんでもなく危ういと感じる。

 チュルライナは念を押して小さく膝を抱えるテュゴサクに言う。
「決して大声を出さず、暴れず、でもしっかりと眼を開いてよく周囲を見てください。それと、私の言葉には必ず従ってください。」

 

 まもなく赤甲梢のクワアット兵が十数名押し寄せて、近くを厳重に警備する。あらかじめ潜んでいなければ、とても近づけなかったろう。
 テュゴサクは金雷蜒軍の兵士が傍に立つことで誤魔化され、見付からない。

「う、うわ。」
「声を出すな。とはいえ、ううむ。」

 直立不動で立つ兵士もテュゴサクと同じモノを見て、感に堪えぬ様子だ。

 赤甲梢神兵頭領シガハン・ルペ。
 猛者ばかりのそろう赤甲梢において最強を謳われる男が、総裁メグリアル劫アランサ王女の安全を確認する為先んじて広場に乗り込んだ。

 半透明な翅を背に負う深紅の甲冑は俎板の厚さ、常人が斬り掛かったところで傷も付かない。額の赤い甲虫が授ける神秘の力無しでは、とうてい動けぬ重量と聞く。
 これを纏った神兵は東金雷蜒領に部隊単独で突入し、立ち塞がる敵をことごとく斬り伏せ、見事首都島ギジシップに乗り込んだ。
 武名は方台全土に轟き、あらゆる武人兵士は羨望と共に彼らの勇気を誉め称える。
 今回のゲバチューラウの行幸にも同行し、道中ギィール神族の挑戦を受けること27度、未だ負けを知らない。

 その偉大な戦士が手が触れんばかりの距離に立つ。

「す、凄い。」
「なにか、背中の翅がぶるぶる震えてます、アレはなんですなんです。」
「いや私もよくは知らぬが、これで飛ぶような早さで動くと聞く。」
「凄いしゃ、飛ぶですか。なんかぁごつい剣を持ってますが。」
「う、うむ。あれは巨大なゲイルでも分厚い城門でも一刀の下叩き斬る、神兵のみが使える大剣だ。」
「死にますか。」
「うん、人なら2、3人まとめて斬る。」
「ひゃあああ。」

 テュゴサクただ目の玉を丸くするばかりだが一点、シガハン・ルペの髪が赤くないのに気がついた。自分たちとほぼ同じ黄土色だ。

「赤甲梢のおサムライと言ぅても、あまり美味いものは食ってないよだな。」

 赤甲梢に続いて一村守護の配下にある兵が集合し、さらに神族の狗番や家臣が乗り込んで主人の場所を確保する。
 詰め掛けた人は千人以上。余所からやって来た身分有る客も多数混ざり、新春を祝う祭のように華やぐ。

 どがんどがんぶわあああ、と太鼓角笛の音がして、人々は広場中央に据えられた石の舞台に注目する。
 ベギィルゲイル村にはギィール神族の居館様式の石造りの建物は無い。神殿にも擬せられる高い石の階段も無いし、前に拡がる石の舞台も無い。
 が、弥生ちゃんの配慮によって乗り込んだ歓迎部隊は突貫工事で舞台を作ってしまった。

 土を盛り高さ1メートルにした上に凝灰岩の板を敷いた、一辺12メートル正方形の舞台。木造ではあるもののしっかりとした階段を備え観覧席を設える。
 ゲバチューラウが村に乗り込んでより今日まで、幾度も歓迎の式典や舞演劇、祭祀が行われた。

「わ、わああうぎゅぶ。」
「こら興奮するな!」

 神聖王の入場に先立って、神剣匠ゥエデレク峻キマアオイが舞台に上がる。
 常の武装ではない。片肌を脱いで黄金と白銀の輪を交互に継ぎ合わせた鎖の帯を身に巻いている。手甲脚絆はれっきとした甲冑の装具だが、腿は素のまま晒し男性的魅力を振り撒く。
 身長2メートルのこの人が半裸のタコ巫女数名を引き連れ場内に踊り入るのだから、注目を浴びないはずが無い。
 鮮やかな肉体の乱舞に、群集は頬を叩かれたかに目を見開き、顎を上下して姿を追う。
 テュゴサクも口をぽっかり開けて涎を垂れ流しながら、舞姫の姿に魅了された。だが例の女神さまほどには入れ込まない。
 何故ならば、彼女達の頭上では、長大な武器がぶんぶんと振り回されているからだ。

 神剣匠が担ぐのは、ギィール神族が最も得意とする黄金の長槍だ。
 長さが5メートルも有り、全長をタコ樹脂の皮膜で覆い鋼鉄の剣でも容易に斬り折る事が出来ない。穂先も神族の匠による名品で素晴らしい切味を誇る。
 なにより優れているのは、非常に高い精度で作られている点だ。
 神族の精妙な槍さばきに忠実に従い、十分なしなりを持つにも関わらず不用意な振動や意図せぬ跳ね返りが無い。
 5メートルともなると槍の先端は制御困難だが、神族の達者なら飛ぶ蚊の眉間を貫いて見せる。

 ゲジゲジの聖蟲と眼が合わないよう必死で顔を手で覆いながらも指の間に垣間見て、テュゴサクは叫ぶ。

「こ、この人はつよいっです。あの胸の筋肉はなんですか。もりもりっと、きぴきぴっと。」
「お、おおお確かに素晴らしい。あれ程の肉体を持つ人が地上に居るなんて、想像を絶する。」

 常に暗殺の脅威にさらされるギィール神族としては、不用意ともとれる武装だ。全身の筋肉を故意に露出させる。
 通常ギィール神族は筋肉の過剰な発達を望まない。精度の高い動きを実現するには、或る程度絞っていた方が良い。
 にも関わらず、ゥエデレクは筋肉にこだわった。聖蟲の怪力を振るう神兵と互角に渡り合う為だ。

 盛り上がる光沢に人は息を呑む。男も女も人体の完成の極みに感歎の声を上げ、次には言葉を失った。

 不意に楽がぴたりと止み、曲を換えて静やかな曲が奏でられる。しばしの時を置いて、一人の歌声が響いた。
 歌姫である蝉蛾巫女が戦いに臨む戦士の詩を高く天まで届けと声を張り上げ、居並ぶ人の頭上を制する。荘厳な空気が石の舞台を包み、神剣匠も槍を留めて待ち受ける。

「ちゅ、ちゅダルムの、あれが姫さま。」

 鬼が来た鬼が来た。明らかにその女人は怒っている。
 貝紫の衣を革紐でぎりりと絞り上げ、袖裾が絡まぬ戦支度に整える。髪は後ろにくるりと巻いて茜色の紐で八重に縛ってある。
 兜は被らぬが鉄の鉢巻を締めて、ついでに鉄の角まで生えていた。2本の角の間に座す聖なるカブトムシは六肢を踏んばり、周囲を威嚇する。

 手にする得物は長さ2メートル半の短槍だ。しかし穂先は長く、刃長は60センチ。普通の長剣に長柄が付いている。これがチュダルム槍だ。
 使い方もまさに剣で、渾身の力を込めて刃を振り回す蛮勇剛力必須となる。

 供するクワアット兵を振り切り人の波を蹴散らして、単身広場に駆け込んだ。刃に追われた人が必死で飛び退き折り重なって転ぶ。
 舞台に飛び上がる際、白い腿の奥が裾を割ってちらりと覗く。鬼には関係無い。

 ぱあんと槍の石突を床に突き立て硬い音を響かせ、蝉蛾巫女の声が止む。
 殺気に満ちた刃から銀の光が迸り、いきなり神剣匠に食らいつかんとする。まだ舞台上にはタコ巫女が居るのにだ。

 

「彩ルダム、しばし待ちなさい!」
 劫アランサ王女の制止が無ければ、そのまま死合いが始まったろう。

 東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウ、その側近と共にメグリアル王女 劫アランサも入場してきた。
 身長が2メートルの神族に囲まれ一人だけ背の低い王女は、だが身から発する気迫で荒れ狂う彩ルダムを抑え込む。
 全身純白の山蛾の絹で覆われた王女は左右の肩に大きく領巾をたなびかせ、今にも空に飛び立ちそうだ。黄金のカブトムシがきらりと光る。

 ゲバチューラウに礼をして、赤甲梢が護る観覧の席に移って来る。テュゴサクの潜む潅木から良く顔が見えた。

「これがぁ空を飛ぶ王女さまですかぁ。」

 眩しく映える白い顔、薄い乳色のふわりと拡がる長い髪で、輪郭がはっきりしない。その場所だけ現実ではなく夢が漂う感じがした。
 しかし視線は厳しく、舞台の上の二人の鬼に注がれる。

「彩ルダム。神聖王陛下の御望みにより、試合の形式は「衝立戦」と相成りました。」
「! 衝立、ですか。」

 さすがに彩ルダムも驚いて槍を下げた。
 衝立戦は、十二神方台系の武術の練習でよく使われる実戦的試合形式だ。文字どおりに試合会場に衝立が置いてあり、自由に武器を振るう事を妨げる。
 ただ、ギィール神族が行う「衝立戦」は少々異なる。
 彼らは衝立に生身の人間を用いる。1人か2人の奴隷が立つ間を潜って槍を振るう、剣を交える。
 ものの弾みで奴隷に刃が当たり死んでしまうと、その者が負けとなる規則だ。
 しかし神族同士の試合は暗殺謀略の場と化し易く、奴隷の生命を惜しんでいては自分の身が危うくもなる。
 衝立の奴隷は殺すべし。但し、時を見計らい効果的にだ。

 そのような蛮行を、慈悲深きメグリアル王女が受入れる。頭に血の上った彩ルダムを現実に引き戻す十分な驚きを与えた。

「しかし何故。」
「陛下は、褐甲角神の使徒が標榜する民衆の守護者を、その眼で直に確かめたいと仰せになられました。」

 ほとんど嫌がらせに近い申し入れだが、彩ルダムがあまりに怒り前後の見境も無くなったが為、わざと苛酷な条件を出したのだろう。
 神剣匠ゥエデレク峻キマアオイは武術において方台に並び立つ者無しと謳われるが、神兵相手に手加減出来るほどには超越していない。
 彩ルダムが正気を失い殺戮に狂えば、殺さずには留められない。また躊躇無く殺せる男だ。

 ゲバチューラウにしても彩ルダムを失いたくはない。それに彼女の槍の腕前は確かに優れたものと、識者から意見を聞いた。
 尋常まっとうな槍の技術比べならば、彼女が勝つ可能性は決して低くは無かった。

 ゲバチューラウ直々の指示で伺候するゲジゲジ巫女が2名、前に進み出る。いずれも目が覚めるほどに美しく、才に溢れ知に優れた者だ。下賜された黄金の装身具がきらきらと光を放ち、格の高さと信任の篤さを誇る。
 その一人を見て、テュゴサクの頭の線が切れた。

「こ、あ、くけっ、げばげべ。」
「あ、コラちょっと待て。」
「あ、あげぁあの巫女さぁが、なぜ舞台に上がるですか。」
「あ、ああ、衝立戦というから、衝立になるのだな。」

「ついたてになると、危ないですぁ?」
「うむ。この場合普通、死ぬ…か。」
「ぐげぇつ。」

 兵士の渾身の力での制止を振り切り衣を破いて逃れたテュゴサクは、舞台を守る兵も追随出来ぬ速度で駆け上がり、女神さまの前に飛び出した。

「こ、こにゃこなあ、このひとはしんじゃならな!」
「何者じゃ! 離れよ、誰か、」

「おお何やら獣が飛び出したな。チュダルム殿、我は瞬きの間に9度この男を貫いて見せよう。どうだ。」
「下がりなさい! 誰か、この下郎を舞台から引きずり下ろしなさい!!」

 舞台の上には必殺の槍を持つ二人が居たが、互いに視線を外せずにテュゴサクの乱入を許してしまう。最早死合いは始まっていた。
 警備の兵が二人の殺気に恐れ入り、容易に舞台に上がれない。ぽっかりと空いた時間の中、狂った百姓は牙を剥いて女神さまを護り続ける。

 このままでは尋常に試合が進められないと、ゲバチューラウの狗番が自ら排除しようと進み出る。
 その時、冷たくも高らかな声が上がる。

「聖上に、青晶蜥(チューラウ)神が巫女チュルライナが慎み畏み申し上げます。
 唯今無礼を働きました下郎は、ボウダン街道に住居するまったくに只の百姓にして名をテュゴサクと申します。
 この者不埒にも聖上に奉仕する巫女に懸想致し、前後も弁えず御前に飛び出だしたるも恋の盲目故の愚行にして、決して玉身を損なうが為にはありませぬ。
 何卒命ばかりは永らえさせ給い、もって方台の土を耕し奉仕の責を務め参らせませ。」

 狗番がチュルライナに問い返す。彼もまた武人としては超一流の腕を持ち、目前で行われんとする至高の決闘を妨げるつもりは無い。

「この者の身元引受人はチュルライナ殿か。無礼の段、死以外に責任は免れぬ。如何にせん。」
「されば、でございます。衝立にこの男を御用いくださいませ。また私も罪有りとて同じく舞台に立つ御許しを頂きとうございます。」

 ゆっくりと舞台に上り、頭巾を取って紺色の長い髪鱗の有る肌を露にしたチュルライナに、神族も神兵も居並ぶ人皆が息を呑んだ。
 青白い貌がほんのり上気し、漆黒の瞳が異様に輝く。魚のように細い身体の奥底から湧き上がる魂が双眸から光となって迸る。
 誰も彼女から眼を離せない。聖蟲すら圧する壮絶な美に、神剣匠ゥエデレクもふっと頬を緩め、自ら構える槍を引いた。

 狗番はちらりと後方を振り返り、主人の指示を読み取った。ほんのわずかな指先の動きで、彼には十分だ。

「許す。そこな男、立派に衝立の御役を務めよ。」

 なにがなんだか分からない内に、テュゴサクはチュルライナと共に舞台の中央に立つ。二人両の手を大きく拡げ、前後逆を向いて横に並ぶ。
 テュゴサクはゲバチューラウに背を向ける事となる。真っ正面からゲジゲジの王さまなんか見つめたら、眼が灼ける。

「あ、あの巫女さま。」
「テュゴサクさん。こうなった以上決して逃げたりしゃがんだりしてはなりません。眼を瞑ってもダメです。
 もしそのようなことをすれば、あなただけでなくあなたの好きなィゲルキィテも命を落します。一人死ねば良かったものを、二人に増やしただけとなりましょう。」
「で、でもすごくぁ怖いです。」
「舞台に飛び乗った時に斬られなかったのが奇蹟ですよ。いいですかもう一度言います。槍が刺さろうが首が飛ぼうが、最後まで立ち続けてください。」
「ぃしーーーーー。」

 1辺12メートルの舞台の中央に2名の人間が衝立になる。避けて戦えばよいとはいえ、長い槍を用いるにはどうしても領域が広く必要だ。
 夢中で応戦していつの間にか衝立に追いやられる、あるいは追いやらせて体をかわし逆に相手に突き殺させる、槍を振り回せぬよう衝立の間に入るなど、様々な応用が考えられる。
 2メートルの長身に5メートルの槍を使う神剣匠が不利だ。しかし衝立の生命に執着しない覚悟の分、彩ルダムよりも優位と言えよう。

 貴重で稀なトカゲの身体を持つ巫女と、どこにでも居るその他大勢の百姓男。どちらの命を優先するか、ゲバチューラウは彩ルダムに矛盾する問いを投げ掛ける。
 神剣匠ゥエデレクも神聖王の意図を理解する。ギィール神族は元々矛盾する問いを投げ掛け存在しない解を要求することが大好きだ。

 すっと槍を伸ばし、百姓の脇腹に槍穂の根元を当てる。ぐんと手首を返すと、凄まじい力でテュゴサクは押し出される。

「き?」

 衝立戦は通常、衝立の位置は変わらないものだ。
 しかし押し出されたテュゴサクはそのまま彩ルダムに走っていく。手を拡げたまま、自分の意志とは関係無しに足がつつと動く。彼に出来ることは転ばないよう必死で足を運ぶだけだ。
 その陰から神剣匠は槍を走らせ、褐甲角の女を襲う。

「このくらい、予想の内だ!」

 彩ルダムは流石チュダルムの槍術の奥義を極めた者だ。百姓男を楯とし、しなる槍で縦横に攻め来る敵に、的確迅速に刃を返す。
 チュダルム槍は槍穂が重い。不用意に振り回すと末端重量故に遅れをとるが、小脇に抱え込み腰で操作すれば至近の連撃を十分凌げる。

 ただしテュゴサクは、目の前でばかでっかい鋼の刃がぐるんぐるん振り回される地獄を見せられるわけだ。

「ひ、ひぃひっひひひ、しぃしげ、か、かかあかかかか、っ。」

 耳元には燕が飛び交う長槍の風、目の前は銀が輝き視界を覆う大きな剣の嵐が巻く。不精髭を剃り落とす近くに切先が迫る。
 逃げるなしゃがむなと言われたが、身動き一つ出来はしない。気絶し身体が揺らぐことすら許されない。

 ぼんと蹴られ、前に飛び出した。いかに彩ルダムが達者でも、この不意打ちでテュゴサクを無事には止められない。神族であれば、衝立を貫いて刺し返す技を使う。
 女の額の黒褐色のカブトムシが甲翅を開いた。黄金の薄翅が拡がる。

「喝ぁあああああああああああああ!」

 どん、と空気が揺らめき、テュゴサクは見えない壁にぶち当たる。彩ルダムの一喝は物理的な障壁と化し、迫る肉体を食い止める。
 そのまま後ろに吹き飛んだ。

「おお、そんな技が有るのか。初めて見た。」

 神剣匠は喜び、槍でテュゴサクを撥ね除け元の舞台中央に走らせる。
 これ以上邪魔は要らない。純粋に武技の優劣を比べん。
 開いた空間で二人は存分に槍を振り、斬り合った。

 激しく巻き起こる旋風、刃が宙を裂く高い唸り、凄まじい撃音。にも関わらず見る人は優雅と感じる。
 神剣匠の技は華麗にして繊細優美、込められた剛力を微塵も感じさせない軽やかさで長大な槍が踊る。
 対して彩ルダムの槍は荒々しく力強い。歴代のチュダルムが戦場で磨いた無駄の無い動き、身体からぶつかる必殺の勢いが颯爽と吹き抜ける。

 だが彩ルダムは未だ神兵としての力を使ってはいない。チュダルムの槍は本来聖蟲を持たない者の技だ。

 カブトムシの聖蟲が与える力を以ってすれば、重い槍でも萱棒の如くに軽く振り回せる。事実、神兵は斧戈大剣をそのように用いる。
 これの相手は、神剣匠ゥエデレクは慣れている。重い槍を大きく早く振り回せば自然と軌道は定められ、細かい制御は効かない。付け入る隙は幾らも有る。
 対してチュダルムの槍は本来強力を持たない只の人が用いるだけあって、無用の力に頼らない。
 無理なく自然に油断無く、しかし力強く身体と共に槍が走る。付け入るのは中々難しい。

 なんとかして聖蟲の力を彩ルダムに使わせねばならない。決定的な勝利を収め無傷で虜とするには、彼女の怒りを掻き立てねばならなかった。

 

 一瞬は静けさを保った舞台中央で、テュゴサクは必死で息を吸う。はっはっすー。先程の激突のど真ん中に放り込まれた時は、息一つするのも不可能だった。
 彼らの目の前では、金の線と銀の光が禍々しく鮮烈な火花を散らし飛び交った。早過ぎて何をしているか分からない。
 ただ気になるのは、隣に立っているはずのトカゲ巫女のことだ。
 首は緊張に固まって左右に振れず、視界が制限される。チュルライナの様子が見えない。

 あのヒトは、何故こんな恐ろしいところに自ら飛び込んだのか。槍が耳の傍をすり抜ける音が恐くないのか。
 声は向こうから優しく投げ掛けられた。

「テュゴサクさん、だいじょうぶですか。」
「はっはっはっ、すーは、は、」
「死んでないなら、大丈夫。来ますよ。」

 ぶんと羽音がして、なにかが突き抜けた。右の鼓膜が真空に震え、しばしの間聞こえない。
 ついで鋼がじゃりりと顔の前で組み合わされ、また抜けた。テュゴサクには分からないが、顔に一筋傷が走り血が吹き出る。
 2枚の衝立の間を神剣匠は8の字に走り抜ける。彩ルダムを誘い込み、衝立に刃を向けさせる挑発だ。
 時折本気でテュゴサクに斬り掛かるから、彩ルダムも追って防がねばならない。

 チュルライナには手を出さない。しかし彩ルダムを追い込むには、こちらを使うのもまた上策。

「 。」

 長槍をぐんと後ろに振りかぶり、チュルライナの身体を引っ掛ける。細く軽い彼女なら、槍で宙に持ち上げるのも容易い。
 傷を付けるつもりは無いが、鱗が有っても所詮は只の女に過ぎない。神族の見極めは残酷な程に冷徹で、固定観念に縛られず常人の思考の枠を越える。
 先ほどと同じくチュルライナを楯に突き飛ばし、テュゴサクとの間に挟み込む。

 流石にこれは逃げるしかない。彩ルダム跳ねるも、長槍で操作される男女が駒となり走り寄る。
 殺せないだろう、と甘く見られるのも流石に堪忍の度を越える。兇暴な憤怒が腹の底から沸き上がり、女を再び鬼に変える。
 額のカブトムシが再び翅を開く。

 どん、と踏み込んだと同時に姿が消える。いきなり神剣匠の後ろに現れた。
 神兵必殺技「吶向砕破」の応用で、瞬時に間合いを詰める技だ。踏みつけた舞台の石が割れ飛び散り、観衆の頭上に降り注ぐ。

 だが、読んでいた。
 神剣匠ゥエデレクは神兵と直接槍を交えること数十度。「吶向砕破」を仕掛けられた事も少なくない。
 重甲冑を纏う神兵が一瞬にして姿を消し目前に現われると、十分思い知らされている。

 延びる槍先に逆に彩ルダムは胸元を引き裂かれる。回天逆襲の技が却って窮地を呼び込んだ。
 ばっと飛び下がるも、舞台の端。もちろん落ちれば面目は無い。負けではないが、舞台に上がる間槍を納めさせるのは、憐れみを乞うに等しい屈辱だ。
 やむなく聖蟲の力を借りて、舞台の端を飛ぶように走る。聖蟲が纏う風の膜に支えられ、かなり無理な姿勢が可能となる。

 戻った先は、チュルライナとテュゴサクが立つ反対側となる。再び二人を危険に曝すが、やむを得ない。

 彩ルダムは生身の力だけでは神剣匠に到底勝てないと悟り、聖蟲の剛力にすがる。
 元より女の身であれば長時間の戦闘は不可能で、これまで疲れを覚えずに戦えたのも聖蟲の助けあればこそ。チュダルムの槍には無い術だが、用いねばもう後が無い。

 巨大な穂を持つチュダルム槍がぎゅんぎゅんと旋回を始める。見る人は彩ルダムがとうとう本気を出したと覚えるだろう。
 神剣匠は惑わない。彼女が自ら敗北への道を踏み出したと知る。
 最早策を弄さず、正面から踏み込んでいくまで。ただそれでも無傷で勝つ確率は五分でしかない。相討ち覚悟でなければ彼の技量を以ってしても制せられない。

 翻車と化したチュダルム槍の巨大な刃が、2枚の衝立の間を飛び回る。雷よりも疾い黄金の線が脇や首筋を潜り抜け、髪や衣服を切り裂いた。
 どちらも最低限の安全は講じている。肉体にはかすらぬよう細心の注意を払っている。
 しかし手加減出来る境地を超えた。わずかでも心が揺らぐと、己が身も衝立の命も消し飛んでしまう。

 テュゴサクは瞬きを忘れた。睫毛がちりちりと削られていくのに眼を瞑ってもならないとは、これぞ生き地獄。
 一方のチュルライナは長い紺色の髪を幾筋も奪われた。肌の鱗がしばしば弾けるのが皮肉だ、これが無ければ血が吹き出していただろう。
 切り刻まれる衣服が剥げ落ちる度に、呪われた姿が人の目に晒されていく。
 そして。

「……、ぅわ、わら、笑ってイる?」

 必死で動かしたテュゴサクの瞳の先に、長い髪がばらりと掛る青い顔が有った。薄い唇が歪んで笑っているかに見える。

 剣風が凹凸を探るかに肌の上を走り回る中、百姓男は不思議に思う。巫女さまは、こんな場所に立たずとも良いはずだ。何故自分と同じく生命を無駄にするのか。
 名誉とか使命だとか責任感なんてものには縛られてはいないと思う。テュゴサクの為に死ぬはずも無い。
 死にたがっている? 違う、それならあれ程激しく瞳が輝くはずが無い。

 無学文盲の男だが、勘は案外と働く。鼻はそれ以上に効いた。
 疾る鋼に切り裂かれ血と鉄の臭いが舞う中に、不思議と爽やかな香りが混ざる。水のような湖の近くのような、聞いたことだけは有る遠い海を思い起こさせた。
 なにかが巫女さまの中で起きている。それは多分、神さまに関係するなにかだ。

 槍の風刃の唸り、周囲で瞬く聖蟲の光、遥か遠くからかすかに聞こえる人の声。
 降り注ぐ晩秋の陽は淡く身体を包み、どくどくと冷汗が全身から溢れ出る。傷は至る所に赤い筋を引き、現実味の乏しい中唯一の理を示す。
 足は長く爪先立ちを続け感覚を失い、立っているのか転倒しているのかあるいは空を飛んでるのか、自分でも分からない。
 耳元で繰り返される撃音に鼓膜が痺れ、強いられた沈黙の中圧倒的な孤独が魂を鷲掴みにする。

 ぞわあ。

 テュゴサクの視線の端で残酷な光景がちらついた。
 彩ルダムが槍の操作を失敗して、いやちゃんと配慮はして肉体は巧みに避けたのだ、だが風に巻き上げられたチュルライナの長い紺の髪を巻き込み、聖蟲の怪力で頭皮ごと引き剥がしてしまう。

 視界全域を覆う細い線の群れ。一本一本に恨みが篭り、死がへばりついている。
 テュゴサクは声を出さずに泣いた。見開き続けた目は渇き涙の一滴も出ず、呻き叫びは喉の奥深くでごろごろとくぐもるが、無言で泣き喚いた。ただ優しかったチュルライナの姿が脳裏に閃く。

 

 動揺したのは彩ルダムも同じだ。
 いかに神兵とはいえ、無垢な人を殺めれば心が痛む。まして事故で巻き込んで生皮を剥ぐなど、尋常の精神状態であればその場で吐いてしまうだろう。
 犠牲者チュルライナの状態を確かめたかった。だが神剣匠の黄金の槍は容赦なく襲い来る。
 積極的な攻勢を放棄したチュダルムの槍に何の力があろう。2合打ち合って致命の王手を取られる。

 彩ルダムはテュゴサクを背後に置き、真正面から鳩尾に突かれた。水平に振り上げた槍の柄は刹那には戻れず、一瞬の死点を抉られる。
 道は一つ、避けるしかない。聖蟲に頼り翅の力を借りたなら、身をよじってかろうじてかわせよう。
 だがそれでは背後に立つテュゴサクが貫かれる。二人の間隔は拳一つも開いていない。

 試合の規則に則れば、それは悪手ではない。
 衝立となる者を殺せば自動的に敗者となる。彩ルダムの失敗ではない、そんな危険の有る所で突いた神剣匠が馬鹿なのだ。

 それで、いいのか?

 

 がん、がらん、がらんん。

 チュダルム槍が石の舞台に転がり、乾いた音を高く立てる。見守る人は誰も、彩ルダムの敗北を知った。

 テュゴサクは、舞台に顔から突っ伏して居る。鼻が潰れて血が吹き出したが、槍の穴は穿たれていない。
 彩ルダムの尻に突き出され宙を飛び、顔面から落ちたのだ。槍は彼女が受けた。
 只突かれたのではない。
 神剣匠ゥエデレクの槍は彼女の身体を貫いて、テュゴサクまでも刺し徹すおそれが有った。故に彼女は槍を捨て、両の手で黄金の槍を掴まえる。

 もしも槍の速度が落ちなければ彩ルダムは腹を刺され、だが神剣匠も滅びただろう。
 カブトムシの聖蟲を持つ者は腹を抉られ臓器を引きずり出されても、そう簡単には死ねはしない。心臓を直接に抉るか、首をすっぱりと斬り落とさねば即死しないし止らない。
 死んだはずの神兵に最期の吶向砕破を食らって命を落とした神族は戦史上無数に有る。

「…あなたの勝ちです、ゥエデレク峻キマアオイ。この瞬間に槍を止められるのならば、身をよじって避けても槍先が追いついたでしょう。」
「遠慮無く勝利はいただこう。だが気付いてくれて良かった。相討ち共倒れは望むところではない。」
「ええ、自ら槍に身を投げる手もありました。」

 彩ルダムの繊手に包まれる黄金の槍が、タコ樹脂で覆われ鋼鉄の刃を受けても斬り折れない柄が、びしばしと悲鳴を上げて砕けていく。
 思わず込めた力で握り割ってしまう。

 ざわざわと声がして、何人もが舞台に上がる。テュゴサクも正気を取り戻し、頭を振って叫んだ。

「み、巫女さみゃあ?」
「だいじょうぶですよテュゴサクさん。」

 気遣う男に、チュルライナは案外と平気な声で応える。テュゴサクは恐る恐る、声のする方を見上げた。

「ひぃい。」

 確かに無事ではない。ずるりと剥けた皮が垂れ下がり顔を覆い、胸のあたりでびろびろと揺れている。
 血は出ていない。不思議と血は無いが粘液で衣がしっとりと濡れている。
 彼女の身を案じて駆けつけた同僚のトカゲ巫女たちも、どのように手当てすれば良いか分からず顔を見合わせるばかりだ。

 彩ルダムも傍に寄り、立ち尽くす女たちを退け自らの被害者に尋ねる。

「チュルライナ、そなた本当に無事なのですか。」
「ええはい。このような事は数年に一度起こるのです。たまたま今日起きて、それにより命が助かったのは青晶蜥(チューラウ)神の御加護が有ったのでしょう。」

 ずたずたに切り裂かれた衣の袖から腕を抜いて、上半身裸になる。皮はずるりと首から胸まで剥げ、余りの悲惨さに誰もが眼を背ける。
 しかし彼女は、自らじゅるりと皮を引き裂いた。胸の皮を引き剥がし無事な腹まで破いていく。肩も無傷だが首からの繋がりですっぽりと脱げる。

「…、だ脱皮、ですね。」
「ええ。鱗を持つ身に生まれたからには、このように全身の皮を脱ぎ換えることも有るのです。」

 上半身背中まで皮を脱いだチュルライナは、元と同じ完全な姿で立っている。新しい皮膚はつやつやと光を照り返し、鱗は粘液に濡れて薄く柔らかそうに見える。
 ただ髪は紺の色が抜け透明だ。空の青を映している。乾くに従って色が戻ると彼女は言った。

 神剣匠ゥエデレクが近付き、ゲジゲジ巫女が奉げ持つ衣をチュルライナに掛けた。彼は脱皮の秘密を知っているが、さすがにこれほど上手く働くとは思わなかった。

「ほんの少し時期がずれれば、真に生命を落すところだった。これもガモウヤヨイチャンの影響の強い地ゆえの奇蹟であろう。」
「はい。天河の神は絶えず地上を見配り、時に応じて形を変え様々な御恵みを賜ります。神剣匠様にも感謝を。」

 テュゴサクなんだか分からない。舞台にべちゃっと座り込み腕で身体を支えながら、取り敢えずチュルライナが無事と理解し安堵する。
 やがて後始末が終り、舞台に整列して神聖王ゲバチューラウの評を受ける。
 この段に到るもテュゴサクは尻餅を着いたままだ。鼻血は止まったものの石の床に激烈に顔をぶつけた為、腫れ上がり凄い面相となっている。
 チュルライナが近付き、左手で引いて立ち上がらせる。

 先程の狗番が再び主の命を受け、舞台の正面に立つ。通常狗番が居る時は神族は自ら喋らないものだ。

「神剣匠および赤甲梢総裁輔衛視チュダルム彩ルダム。両人の槍の妙技しかと見た。方台を代表するにふさわしい、まさに両王国の宝と称えるべきものである。
 以後チュダルム彩ルダムに求婚する者あれば、神剣匠に勝ちて後とするを勅令によって定む。」

「有り難き御諚、謹んで御受けいたします。」

「またこの戦を以って赤甲梢への神族の挑戦を終了する。以後の私戦は余の政略に障りと見做し武力にて排除するにやぶさかでないと、毒地に集いし列侯に伝えるが良い。」

「御配慮感謝いたします。」

「青晶蜥巫女チュルライナ、見事衝立の任を果したる事天晴である。褒美を取らすが、望むものを言うが良い。」

「されば先ほど無礼を働いた、ここに控えし百姓テュゴサクの命を永らえさせ給え。」

「聞き届けたり。また何をも弁えぬ身ながら死を怖れず最後まで立ち続けたるは、胆の座った見事な振る舞い。テュゴサクとやらにも褒美を取らそう。
 何を望む。」

「テュゴサクさん、聖上よりご褒美を頂きます。アレで良いですね。」
「へ、は、は、へへええええ。」
「聖上に申し上げます。テュゴサクは巫女ィゲルキィテに想いを寄せます。されば、」

「聞き届けたり。」

 狗番は背後を振り返り、主人の指図を待つ。指先の動きは常とは異なり、少し長かった。
 再び正面に向き直り、黒い山狗の面を被る男は声を発した。

「聖上の詔により、ィゲルキィテを汝に下げ渡す。されど、巫女がそれを望めばだ。」

 いきなり指名されたゲジゲジ巫女ィゲルキィテは、ずたずたに切り裂かれた衣をぶら下げ腰を曲げて不格好に立つ、むさ苦しい冴えない男を見る。
 視線は厳しい。見下すような冷たい眼だ。
 ゲバチューラウの命令であれば、彼女は一も二も無く彼を愛す。そういう事が出来る訓練を積み重ねるのが、神聖宮に仕える巫女の教育だ。

 だが今日の命令は、彼女の自由な意志に従えと。

「ぷい。」
「無い。」

 ィゲルキィテはそっぽを向いた。

 

 

「残念でしたね、テュゴサクさん。」
「いや、なにぁなんだかさっぱりわかなくて。あの、なんでしょうぁ。」

 ゲジゲジ巫女は貰えなかったが、代りにちゃんとした衣服と絹を1反、ついでに蜜柑も手土産に、テュゴサクはベギィルゲイル村を出る。
 チュルライナと兵士が村の外の防風林まで送ってくれた。
 トカゲ巫女の髪はすっかり元の暗い紺色に戻っている。

「ィゲルキィテのことはよいのですか。」
「は、へ。なんと言うか、俺たちらとぜんぜん違うとこに住んでんだなと、それで仕方ないぁと、ざんねんてよりほっとしたよなこれで良かったのがなと。」
「そうですか。御力になれずに申し訳ありません。」
「ぇええいえそんな巫女さまがそなぁこと言っちゃいかません。」

 でもだがねぇ、とテュゴサクは尋ねた。あなたさまはあの時舞台の上でなにを考えてんさったか。
 しばらくチュルライナは考える。何故あんな真似をしたのか、自分でもよく分からないのだ。

「テュゴサクさんは、聖蟲を持つ人がふたりも居る舞台に、なにを考えて飛び込みました?」
「それがまったく覚えてなぁて。どうしてあなことしてしまったか幾ら考えても分からんです。」
「私も同じですよ。何も考えずについ口が開いてしまったのです。」

 笑うチュルライナの黒い瞳は夕陽の陰に隠れる。泣いてるようにも怒っているようにも、助けを求めているようにも見えた。
 テュゴサクは彼女になにを言えば良いのか、自分の内で探したが見付からない。
 でもこの人に必要なものは、勘で分かる。たぶん。

「あの巫女さまぁ、もし暇があればあ、もしですよ、もし気ぃがぐるぐると向いたら、俺の村に遊びに来てください。村の衆みなでおもてなししますから。」
「それは面白そうですね。」

「ぜったいですぜったぃ来てくださぁ。」
「ええ。絶対ですねぜったい。」
「ぜたい。はい。」

 

 テュゴサクは夕陽の中、同じ村の仲間が待つ毒地の市の宿屋に戻っていく。
 何度も何時までも、時々振り返りチュルライナに挨拶した。姿が砂粒ほどに小さくなっても、やっぱり御辞儀した。

 それほど長い時間を彼女が見送ったからだ。

 

【ひまなひとびと 『戯』】

「というわけだ。賛同いたすであろうな。」
「どういうわけだかしらないが、説明も無しに返答の有るはずも無かろう。」

 三神救世主が会合したボウダンの野より南に7日、未だ機能する東金雷蜒軍の補給地「ラグノーブ・モン・ファンネム」。
 ギィール神族の少女イルドラ丹ベアムは此所に有る。

 

 「ラグノーブ・モン・ファンネム」は三荊閣の一ミルト家により、撤退時の支援の為に作られた。
 しかしながらゲバチューラウの行幸で第二戦があるやもと思い直した神族は、再度兵力を集中する。
 夏のような大規模な軍勢は必要ではないが、ゲイルの高速を利した強襲を企図し日々訓練を重ねている。

 また前線で傷付いた神族や兵士が休息する場所としても、設備や人員を整えていた。
 戦傷を負った神族は思いの外多く、ここで亡くなる者も少なくない。

 北上しボウダン街道に到れば、ガモウヤヨイチャンが与えた青晶蜥(チューラウ)神の光を発する神剣での治療も望める。
 だが、金雷蜒(ギィール)神の使徒たる神族にそんな真似は出来ない。
 命長らえる道が有りながらも虚しく死んでいくのは常人には理解し難いが、それが方台の論理だ。

 また弥生ちゃんの力は神剣のみではなく、効能顕著な新たなる薬品を示し恩恵を確実に授けている。

 ベイスラ県で重傷を負った兄イルドラ泰ヒスガバンも、新しい薬や療法を教えられたトカゲ神官巫女の力でなんとか命を取り留めた。
 とはいえ帰国するには未だ体調は不十分で、今年の冬はこの地に留まると決めた。

 神族と言っても金が無ければ右にも左にも首が回らない。
 東金雷蜒王国を支える神族の3つの連合「三荊閣」は低利で戦費を貸し出すが、どの神族も出発前に既に借りており追加融資はなかなか難しい。
 三荊閣に属さぬ諸派のイルドラ家では、特に担保を提示せねばならなかった。

「傭兵か。」

 意に染まぬが致し方ない。融資の代償に神族の多くが三荊閣の組織するゲイル強襲部隊への参加を承諾した。
 これはかなり異例の譲歩だ。
 神族はそもそも他人に指図されるのを良しとしない。寇掠軍であれば一応年長者を上将に置くが命令は受け付けず、合議制で作戦行動する。

 「ラグノーブ・モン・ファンネム」を運営するミルト家は100の神族とゲイルを確保して部隊を結成した。
 イルドラ丹ベアムも覚悟を決めて、集団戦闘の演習に参加する。
 これ自体はむしろ楽しいもので、草原を100騎のゲイルが列を連ねて走る壮観はなかなかに満足のいくものだ。

 この地に留まる間に、彼女の髪は大人の色に鮮やかに染まる。艶やかな直毛が赤い焔のように、ゲイルの疾走の風になびく。

 

「兄上はいかがお考えですか。」
「そうだな。ミルト家は褐甲角王国と敵対するのを喜ばぬ家だ。状況に応じて利益確保に走るだろうが、全面的な攻勢はまず行わぬな。」

 イルドラ泰ヒスガバンはこの地での療養でかなり顔色が良くなった。もう2月も休めばゲイルに乗れるまでになるだろう。
 弥生ちゃんが旧来の薬品を排し新たに定めた処方の効き目は素晴らしく、夏前の診断であれば確実に死ぬとされた者も続々と甦っている。
 これだけでも救世主の名をほしいままにするのだが、

「トカゲ神救世主は人を癒すのみでは満足しないようだな。」
「失踪、の件ですか。」

 寝台の上で無為の時を過ごすのは、聖蟲を持つ者には耐え難い。少々頭が痛んでも、妹を手足に使い方台中の情報を集め、時代の行く末を見極める。
 深い思索を好む泰ヒスガバンには、案外とこの状況は向いている。

「ガモウヤヨイチャンの失踪は偶然ではない。コウモリ神人との決闘の結果を受けて、新たなる使命を天河十二神より授かり戻るだろう。」
「一種の関門であったわけですね、決闘は。」
「そうだ。コウモリ神人を超える存在になったか、十二神は試してみた。そう解釈すべきだ。」

「決闘に居合わせた神族は皆口を揃えて、救世主が勝った、と言いますね。」
「あるいは彼女は、ここで負けを認めた方が良かったのかも知れない。弱さを見せれば、コウモリ神人の助勢も受けられたはずだ。」
「コウモリ神人は弱き者、脆弱なる人間の永遠の護り手、と伝わります。」

「だが彼女は勝った。故にコウモリ神人は人界からの排除を決め、北方に飛ばされる事となる。」
「歴史がここで変りましたか。」
「ああ、天河の計画も修正を余儀なくされる。その修正分を授かるのだ。」

 丹ベアムも考える。
 天河の計画の修正は、直接に地上の騒乱に関わって来る。本格攻勢を考慮していない強襲部隊の運命もいきなり変わるやも知れぬ。

「そこで我らが何をなすべきか、だ。ベアム」
「はい。」

「天河の計画の修正、それはおそらく彼女が完全なる勝利者となる事を認めるものだろう。」
「完全なる勝利とは、金雷蜒褐甲角両神の使徒に対する勝利、ですね。」
「うむ、我らは彼女に臣従するか、撃滅されるかの道しか与えられない。対等なる権威の並立は不可能となる。」

「我らが選ぶべきは、そのいずれとなりましょうか。」
「ガモウヤヨイチャンはギィール神族に対してかなり好意的だ。逆らう動機が見当たらないな。さりとて臣従はさすがに体面に関わる。」

 

 弥生ちゃんの好意の証明が、現在信者達を束ねる救世主代行キルストル姫アィイーガだ。
 イルドラ兄妹にとって彼女はかなり親しい存在だ。在所が近く、神族同士の交友の枠も同じくし、泰ヒスガバンとの婚姻の話が勧められた事もある。

「臣従、いや盟友としてすべての神族の先駈けとなるのが、キルストル姫アィイーガ殿ですね。」
「ああ、彼女に倣うのも良いかもしれない。女は女同士、という手もあるか。なにか新しい情報を聞いていないか?」

 聞いている、どころではない。

 ここ「ラグノーブ・モン・ファンネム」は、ボウダンの真南に当たり、動向を伝えられる最短に位置する。
 「救世主の勢力を乗っ取らんと試みるアィイーガ」を支援すべきではないかと、神族の間で議論が高まっていた。
 加えて、

「あの人は、ゲバチューラウに言い寄られているようですね。」

「ほお、それは面白い。ボウダン街道に留まり続ける妃とあれば、これは色々と意義深い。」
「彼女は未だ婚姻を承諾してはいませんが、結びつけるべきでしょうか。」
「間接的ながらガモウヤヨイチャンとも東金雷蜒王国が絆を結ぶ事となる。進めるべきだな。」

 その結論に達した神族の集会も有る。
 丹ベアムも、神族の結婚にしては政治色が薄いのにいささか物足りなさを感じるが、基本的には賛成だ。ミルト家に働き掛け、毒地からも祝福を送るべきと主張する。

 兄は寝台の上に拡がる天幕の放射状の桁を見上げ、巡り合わせに苦笑する。

「そう言えば、結婚を司るのは褐甲角(クワアット)神であったな。婚儀には是非とも武徳王の立会いを望むべきだ。」
「和平の象徴として、この上無いものとなりましょう。」

「しかし不思議なものだ。彼の女人は、私と婚姻する可能性も有ったのだ。」
「私の姉となるかも知れませんでした。」
「我ら兄妹、ここは私的にもキルストル殿を支援すべきであろうな。無論本人の意向とは無関係に。」

 笑った兄が少し辛そうな表情をしたので、丹ベアムは後ろに控える狗番に白湯を求めた。最近毒地の気温が下がって来て、汲み置きの水は病人には冷た過ぎる。
 狗番は一礼し、天幕を出て外の竃に湯を求めた。
 イルドラ家の他の狗番は、丹ベアムが午後にはまたゲイル騎兵の演習に出るので準備に忙しい。

「だがな、ベアム。」
 胸を抑えて泰ヒスガバンは少し身を起した。丹ベアムは手を貸し兄の背を支える。

「和平を望まぬ者は、敵味方どちらの王国にも多数有る。トカゲ神カブトムシ神の救世主に見守られる婚儀は、なるほどめでたかろう。妨害者にとっても格好の舞台となる。」
「確かに有り得ます。」
「婚儀を餌にそれらを釣るのもまた一興。強襲部隊の望みのままに、出番が有るやもしれぬ。」

「兄上、私が望むものは、」
「うん?」

 丹ベアムは腕の中の兄を見つめる。栗色からすっかり赤く変わった髪が一房、兄の顔に掛る。

 

 強襲部隊の合同演習に参加した丹ベアムは、だが一人だけ呼び出され10騎ほどのゲイル騎兵に囲まれる。
 全員女だ。しかも若い。
 20代前半までの女性神族のみの集団を率いるのは、ミルト宗家の姫だ。帽子のような丸く平たい鍔を持つ兜を被る。

「久しいな、イルドラ丹ベアム。神聖宮での聖戴式以来か。」
「そなたは、あれだな。戦場に愛玩用のカエルを持ち込んだ痴れ者か。」
「戦さとは己が正義と真善美を拡める為に行われる。カエルを持ち込むのは当たり前だろう。」

 二人は同年に聖戴の儀を受けた。共にその年の最年少神族として、東金雷蜒王国中に名を知らしめる。

 丹ベアムは、まあ風の噂に大体は聞いていたのだが、なにも知らぬ様子で問うてみる。

「そなたは女だけの寇掠軍を作るつもりであろう。何の為だ。」
「寇掠軍ではない。査察軍だ。」
「査察? 戦場市のなにを査察するのだ。ミルト家自身が運営しているだろう。」

 姫は左右の女神族と顔を見合わせる。こいつ何も知らないぞという風情だ。
 改めて姫は丹ベアムに申し入れる。

「これは女の神族のみに与えられる栄誉だ。冒険でもある。面白いぞ入らぬか。」
「面白い? 戦さよりも面白いものが有ると言うか。」

「ボウダンの地においてトカゲ神救世主ガモウヤヨイチャンが失踪した件、知らぬはずも無いな。救世主の後を引き継ぎ、神族キルストル姫アィイーガが今は信者共を率いている。」
「それがどうした。」
「元より神族の一人であるキルストル殿は、ガモウヤヨイチャンの意に諾々と従うつもりは無い。独自の道を歩もうと新たなる行動方針を策定した。」

「それが、女だけの寇掠軍か。」
「査察軍だと言っただろう。」

 さすがに丹ベアムも韜晦は止めた。キルストル姫アィイーガは今、褐甲角王国領に居るのだ。

「褐甲角王国内を査察するのか。その資格が我らに有るのか?」
「知れたこと。褐甲角神の使徒が標榜する通りの善政を民に施して居るか、それを査察し評価を下す。ギィール神族が行わずに誰がやる。」
「恨まれるぞ。フンコロガシの神兵に謀殺される。」
「だから冒険と言っておろう。察しの悪い女だな。」

 ミルトの姫は甲冑の上からでも透けて見える細い身体を傲然と反らし、丹ベアムにどうだと迫る。こんな面白い事他には無いだろう、と自信満々だ。

 確かに面白い。また歴史の上で意義も深かろう。
 兄の体調が万全ならば、一も二もなく飛びついたかもしれない。

「残念だが、兄が戦傷を負い手が掛るのでな。別を当たってくれ。」
「借金は棒引きだ。」

 ぬ、と丹ベアムは目を剥いた。姫の周囲の神族の女共を見る。彼女達も、大体わかるだろうという顔をして見返して来る。

「なかなか面白い条件だが、こちらもちゃんと金を返す事業の算段をを付けてある。」
「ベイスラ地方での戦闘の記録を絵物語にして出版するという奴だな。確かに面白い試みだ。私も1冊注文しているぞ。」
「う、うむ。期待には応えるつもりだ。」

「だがそれは、そなたがせずとも兄に任せれば良いだろう。戦さに出られぬ身とあれば、無聊の慰めともなろう。」
「う、うむ。そのような考え方も有るな。」

「ではこうしよう。我らは褐甲角王国領に査察に入る。その一部始終を絵物語として出版する事業を、そなたに譲ろう。」
「それは儲かるだろうな。」
「ベイスラに出征した南部の神族のみならず、方台全土の人が本を欲しがるぞ。どうだ。」

「乗った。」
「それでこそ、我と同じく最年少で聖蟲を戴いた神族だ。頼みに思うぞ。」

 ギィール神族とは本来好奇心旺盛にして、冒険と愚行を好む。丹ベアムとて例外ではない。
 心残りは兄の容態だが、残念ながらゲジゲジの聖蟲より与えられる智慧は医療に関してあまり有効ではない。狗番が居れば問題無い。
 ならば金を稼いで来る方が、家の為兄の為にも良かろう。

 但し、とミルトの姫に丹ベアムは注文を付ける。
 いかにトカゲ神救世主の威を借りるとはいえ、査察などと大上段から斬り掛かっては、向こうも受入れまい。策を講じるべきだ。

「その点に関しても既に用意されてある。
 キルストル殿はこの度、『青晶蜥神救世主の埋葬』という演劇を発表した。ボウダンの野で起きた事件の顛末を下民どもに知らしめるのだな。
 我らはこの演劇団を守りつつ、敵領内に進入する。民に真実を伝えんとする試みを妨害すれば、それだけでフンコロガシどもに正義は無い。」
「ふむ。」

 よわい、と感じる。査察を正面から押し出さないのは良いが、この名目では行く先々での行動がかなり制約されるだろう。
 強硬に査察を行うにはもっと強い、神族で無ければその役が務められない確固たる理由が欲しい。

「これは先ほど兄と話した事だが、ゲバチューラウがキルストル殿との婚姻を望んでいるようだな。」
「聞いている。それが関係するか?」

「兄は、婚姻を司るのは褐甲角神であるから、和平を成立させる一助として二人の婚儀に武徳王の列席を求めるべき、と言う。」
「ほお。」
「この認識を広める為に、褐甲角領内において賛同者を募るのはどうだろう。これならば神族のしかも若い女性が使者として立つのは自然なことと思われるが。」

 姫は少し考える。

「その話、ゲバチューラウの求婚をキルストル殿は既に了承されたのか?」
「私の与り知らぬところだな。」
「なるほど独断か。それはいい、それは面白い。」

 姫はハハハと笑う。その名目があれば、戦闘装備を最小限として敵地に赴く理由にも出来る。
 彼女は親から、危険な真似をするでないとあらかじめ釘を刺されていた。

「であれば、和平の象徴たる愛玩動物を同行させても問題は無いな。」
「カエルか、カエルは逃げると厄介だから止めよ。」
「いやよく言う事を聞くぞ。愛情ある飼い主であればな。」

「して、隊の名はなんと言う。良ければ私が授けてやろう」
「うむ、その名だがな。」

 ミルトの姫は、ここで初めて口篭る。隊の名になにか障りがあるのだろうか。
 寇掠軍結成時にはよく名で揉める。名は隊の思想や哲学を意味し、今後の目標を指し示すからだ。ここで果たし合いをして出征前に滅びる馬鹿も出る。

 そんな深刻な問題かと思ったが、姫の素振りでは違うようだ。彼女だけでなく、周囲の女神族も揃って恥ずかしそうな顔をする。

「実はな、隊の名はキルストル殿が既に定めて送って来ているのだ。」
「ほお。佳い名か。」

 次の言葉に、イルドラ丹ベアムは雷で撃たれる驚愕を覚える。他に良い名はいくらでもあろうに、何故誰も反対しなかったのか。
 だが試みても、これ以上強烈な印象を与える名は思いつかない。考えれば考えるほど、頭の中で名が踊る。

「我ら査察軍は、『ゲジゲジ乙女団』を名乗る。」

 

***********

 『ゲジゲジ乙女団』、歴史において燦然と輝くこのおかしな名前の命名者は、誰あろう弥生ちゃんである。

 本来の計画では、褐甲角王国領を査察する為ではなかった。
 弥生ちゃんは青晶蜥王国建国と相前後して、毒地中の神聖首都ギジジットも独立国家として政治の表舞台に出るよう画策する。
 ギジジット本来の支配者は王姉妹であるが、アィイーガを代理人として面倒の一切を押し付ける計画だ。
 当然アィイーガの手足となる神族廷臣幕僚が必要とされる。ギジジットは女の都だから、女だけの軍勢となろう。
 それがコードネーム『ゲジゲジ乙女団』だ。計画上の仮の名だから、意味がよく通るこれでまったく問題無い。

 だが構想を援用したアィイーガが、そのまま仮の名で押し通すとは思わなかった。
 彼女が何故かっこよい名称を授けなかったかは、不明だ。めんどくさかったから、というのが多分正しいだろう。
 だが怪しい名がむしろ幸いした。
 神族の若い女性は自分が佳い名を付けてやろうと思い立ち、ふらふらと加入していく。総勢50名もが参加を表明した。

 司令本部は弥生ちゃんの隊列から離れて、毒地中の草原に張った天幕に置く。ここにだけゲイルが蝟集して、一般信者はまったく寄りつかない。
 アィイーガ本人は運営に関わらない。上将はアィイーガの友人で南海海賊を業とする神族シトロメ純ミロームが務める。二人はほぼ同じ歳だ。
 天幕の外に机を持ち出し草原を渡る冷たい風に吹かれる二人は、雑談混じりに今後の方針を策定する。

「そなたは御苦労だな。ゲイルの背に有る方がよほど楽だろうに。」
「うんむ、そうなのだ。ガモウヤヨイチャンとは異なり、私には辛気くさい官僚や外交使が纏わり着く。とんだ貧乏くじを引いてしまった。」

 アィイーガは自らの身を半ば諦めて、甲冑を脱いでしまった。
 ギィール神族が自分の領地以外で武装を解くのは例外中の例外だ。常に神族同士の暗殺が横行する状況では、自殺行為にも等しい。
 しかし弥生ちゃんを取り巻く神官巫女その他大勢は、ほとんどが非武装で武術のたしなみも無い。
 もし暗殺が行われたならば、彼らが楯となって大量に死んでしまう。

 安全はこちらから積極的に確保せねばならない。最終的に自らの身はなんとかなる心づもりでは、逆に付け入る隙を暗殺者に与えてしまう。
 故に武装を捨て深緋の布をたっぷり使う衣を纏う。隠し武器も捨て、弥生ちゃんから神威をもらった剣のみ携える。

 潮風に身を洗われ肌も褐色に焼けるシトロメ純ミロームは、アィイーガの姿を見て感心した。

「ゲバチューラウの趣味はいいな。」
「むう。」

 さすがに甲冑を棄てると心許無い。
 アィイーガの2人の狗番ファイガルとガシュムも、主がここまで無防備だと気が気でない。彼らも甲冑を捨てて常の半裸の衣装である。楯にはなれない。
 一方純ミロームはがっちりと身を固めたままだ。彼女は南海の住人らしく紅曙蛸神を信奉し、金銀の兜はタコ(テューク)を象り鎧にも随所に触手をあしらう。

 無駄話は早々に切り上げ、純ミロームは話を進める。

「それで遠征の計画だが、50人がぞろぞろついて行くのは流石に褐甲角王国も困るだろう。神族は一組あたり6名が限度だな。分散して派遣する。」
「8組も演劇団を用意出来ないぞ。名の有るカタツムリ神官巫女を使うからな。」
「ボウダン街道、聖山ウラタンギジトに1組は問題あるまい。西部には2組を送り込みたいが、ゲイルは持ち込めまいな。」
「ガンガランガの武徳王本陣にも1組、可能であれば王都カプタニアにも出したい。」

「南部にも、出すか。」

 なにげなく出した純ミロームの言葉に、二人は顔を見合わせる。
 褐甲角王国南部は未だ動乱の渦中に有る。
 南海に面するイロ・エイベント県では難民が暴動を起こし未だ終息の気配が無い。そこに到るスプリタ街道沿いの全域も寇掠軍の被害甚大で、神族の査察団などとても受入れないだろう。
 アィイーガは少し考えるが、トカゲ神救世主の名を借りての行動だ。民衆が困窮する場所にこそ赴かねばならない。

「南部イローエントの動乱にこそ、まさに査察を入れるべきだ。ここは強硬に掛け合おう。」
「そうだな。上手くいかずとも余所で譲歩を引き出せる。では南海方面には10名の組を当てよう。」
「南から参加を表明した者が居たな、たしか。」
「ああ、ミルト家の蛙姫だ。ヌケミンドル攻略の軍勢がそのまま毒地に留まり、戦場市でこちらに参る準備をしていると文が届いた。」
「そいつらをイローエントに差し向けよう。最優先で交渉に当たる。これには演劇団の同行は必要無い。」
「そうだな。これこそまさに正面切って査察を申し入れよう。しかし。」

 ギィール神族は冷酷にして感情を捨て去る術を習い覚える。純ミロームは何の葛藤も無く、さらりと言う。

「こいつら死ぬかもしれん。」
「構わんよ。そうなればまた交渉の材料に使える。」
「そうだな。どうせなら全滅くらい派手でもいいか。」

「こちらで刺客を用意しても良い。褐甲角王国の所為に仕立て上げよう。」
「ふうむ、海賊連に二三心当たりはあるが、声を掛けておくか。」

 

*******************

 カタツムリ巫女ファンファメラが脚本を書いた神話劇『救世主の埋葬』の初演は、アルグリト点で行われた。
 この街は軍の物資集積所で民間の交易はさほど盛んではない。住民の気風は落ち着いた、あまり面白みの無い退屈さが特徴だ。
 衝撃的内容の劇を見ても熱狂して暴動など起さないと、初演の地に選ぶ。褐甲角軍の衛視による監視も受け易く、反逆や煽動を目的としないとの証明も得られるだろう。

 責任者は弥生ちゃん一の子分「聖神女」、いい加減なタコ巫女ティンブットだ。
 古典派最後の名姫と呼ばれた彼女は、神聖王ゲバチューラウの前で禁断の舞曲『双月叢雲に覗く』を演じて絶賛され、今や方台最高の舞姫と称えられる。
 タコ神殿でも彼女を高く遇すると定め、弟子となる若い巫女を5名も派遣した。絶滅寸前だった古典派もようやくに命脈を繋ぐ。

 弟子達の初舞台が、つまり『救世主の埋葬』だ。彼女達はたちまちに、何故古典派が衰退したかを思い知る。

「うーん、やはり夜逃げというのは、何度やっても身の引き締まるものねえ。」
「御師匠さまー、古典派とは常にこんなのですかー。」
「今回は楽な方よ。追手が掛る前に逃げたんだから。」

 早い話が、内容が過激過ぎた。仮にとはいえ救世主が死ぬと描写するのは、現在の方台では神聖秩序への背信と看做される。
 事実この劇を見た一般観衆の数名が、弥生ちゃんに殉じて自殺してしまった。
 もしデュータム点などの熱狂的信者の集う場所で演じていれば、どれほどの惨事となっただろう。

 隊列の第二責任者であり弥生ちゃん二の子分、ぐるぐるメガネの蝉蛾巫女フィミルティも、これほどまでに効果があるとは思わなかった。

「ティンブット様、この脚本で公演を続けるのは無理です。」
「その責任の一端は、あなたにもあるわよ。誰があそこまで恐ろしい悲鳴を張り上げろと言いました。」
「いえ私も、許されるのならガモウヤヨイチャンさまに殉じようと、いえ今でもああこのまま死んでしまいたい!」

「とにかく撤退です。デュータム点に戻りファンファメラに脚本の手直しと、アィイーガ様に劇団の保護をお願いします。」
「は、はい。」
「というわけで、走ります急ぎます。」

 タコ・蝉蛾・カタツムリと、公演に関係する神官巫女と荷物運びの弥生ちゃん信者計100名をも引き連れて、ティンブットは夜の街道を疾走する。
 さすがに彼女もこれほどの大人数での夜逃げは初めてだ。

 

********************

 件の問題劇を書いた弥生ちゃん三の子分、胸がぺったんこのカタツムリ巫女ファンファメラは、アィイーガの依頼で新たなる劇を執筆中である。

 昼間は弥生ちゃんに代わりありとあらゆる書類の決裁を行う。きまぐれなアィイーガの機嫌を損なわぬ細心の注意を払いながら、政戦神と複雑に絡み合う謀略を手がけている。
 特にめんどくさいのが、青晶蜥神救世主を押し立てて新王国を樹立しようとする者達だ。弥生ちゃん不在の今こそ、自分達の勢力を伸張させようと試みる。

「困りましたね。」
「いっそのこと、連中を一掃するか。」

 アィイーガはこの件ではまったく役に立たない。そもそもが東金雷蜒王国のしかも聖蟲を戴く神族であるから、新王国はむしろ敵となる身だ。
 また神聖首都ギジジットを独立王国と成し歴史の表舞台に出るのならば、邪魔ものを事前に始末する方が得となる。

「そうもいきません。ガモウヤヨイチャンさまは寛大な御方です。どのような腐れた根性の持ち主でも、鉄拳制裁をもって更生させて下さいます。」
「そうだなあ、あれのそういう点は閉口するな。もう少し自然に任せれば良いのに。」
「それでは救世主の御役が務まりません。」
「うん。」

 灯木の薄板がちりちりと燃える光の下で、葉片に骨筆を走らせる。乾いた葉の表面を尖ったもので削り取ると、下の黒い層が露出して字が書ける。
 しかし、今夜は思い通りに文章がまとまらない。

「…どうした。想が浮かばぬか。」
「はあ。」

 背の後ろで、聖蟲を戴く2メートルの女人が長椅子に寝そべって酒を食らいながら、仕事ぶりを監視するのだ。さすがに心臓に毛の生えたファンファメラでも難しい。

「あの、もうお休みになられてはいかがでしょう。」
「案ずるな。脚本が出来上がるまで起きている。」

 暇なのだ。

 弥生ちゃんの代理とはいえ、アィイーガに出来る事は信者達が望むものと大きく異なる。新王国樹立を望む者も、アィイーガ相手では話を進められない。
 一方「ゲジゲジ乙女団」はすっかりシトロメ純ミロームに任せて大安心。

 ファンファメラは後悔する。
 弥生ちゃんは自分でどんどん仕事を見付けて勝手に溺れる質だから、彼女はざくざくと大鉈を振るい仕事を減らせば良かった。
 アィイーガは逆なのだ。こちらからどんどん仕事を押し付けて、ざくざく片付けさせねばならない。

「アィイーガ様。」
「うん。」
「やはり神聖王陛下にはこちらから誘いを掛けるべきでしょう。誰ぞ使節を送りましょう。」
「向こうからひっきりなしに来るぞ。」
「判じ物など送って、その問いに答える形で対話なさってはいかがでしょう。その方が戯曲に書き易く存じます。」

「ああそうか、書くネタが無いか。そうだなー。」

 ファンファメラが書くのは恋の物語。東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウが、絶世の美女アィイーガを見初め、手練手管を用いて遂には意に沿わせる古典的な恋愛劇だ。
 これを各地で演じれば、アィイーガの名を世間に周知出来ると同時に、両王国和平の気運も高められる。
 なにせ庶民というものは恋愛話に目が無く、主人公を無条件にひいきするものだ。

「妾も一度くらいは死にかけた方がよいか?」
「それは物語定番ではありますが、現状実行は非常に恐ろしい事態へと発展しかねません。却下です。」
「うん。だが流血が無ければ恋愛は深まらぬものだろう。すべての恋物語はそう書いているぞ。」
「それは通俗低劣な物語です。額に聖蟲を戴く方の演じるべきものではございません。」

「ゴヴァラバウト頭数姉の物語は、それは血生臭いものだがな。アレには魔法の品も出て来るだろう、『ネズミ神の炎環』とやらが。」
「用いた人に永遠の恋人を巡り合わせる魔法の腕輪ですね。そのようなものが本当にあれば、確かに書き易くはなりますが。」
「夢物語だしな。現実的でない。」

 そういえば、とアィイーガは手元に置いた自分の剣を取る。抜けば青晶蜥神の聖なる光が迸り、暗い天幕の内を青く染め上げた。

「これを用いて、傷付いたゲバチューラウを癒すという手もある。」
「傷付くのは姫君であるべきではないでしょうか。」
「まあ、男が傷付き姫に癒されるのは、死ぬ真際と決まっているか。うむ難しいものだなあ。」

 さらさらと葉片に綴る文字を切り上げて、アィイーガに示す。何故かは知らぬが、物語が出来てしまった。

「出来たか。」
「申し訳ございません。アィイーガ様の恋物語は今日は書けません。代りに、」
「なんだこれは。『盗賊薮隠れの昇天』?」

「ゲルワンクラッタ村に収監されていた盗賊「薮隠れ」ことバゲマゲが、神聖王陛下の神餌人となってゲイルに喰われたそうです。
 その話がアィイーガ様の物語に使えるかと調べてみましたが、何故か独立した戯曲が。」
「まあ面白ければ良い。ゲバチューラウの身辺での出来事は、知りたい者も多いからな。」
「申し訳ございません。」

 アィイーガが葉片の束を確かめる間、ファンファメラはじっと待つ。
 天幕の隅には狗番ファイガルが胡坐を組んでじっと座り、主人の命を待っている。まるっきり身動きしないが、居眠りなどは決してしない。
 黒い山狗の仮面がこちらを見つめていると感じて、ファンファメラはぐびっと唾を呑み込む。
 狗番にもさすがに馴れたが、彼らは主人への害と看做せば知り合いでも女でも躊躇無く斬る。油断は出来ない。

 アィイーガは一通り目を通し、顔を上げた。明るい表情だ。

「面白い。」
「有難うございます。」
「なかなか渋好みにて、血も適度に流れて身の引き締まる、良い教訓話だな。特にバゲマゲの造型が良い。人を殺めて反省の一つもせぬ男なら、改心したとしてもふてぶてしさに変りはなかろうな。」
「既存の説教話の欠点はまさにそこです。極悪人が神威に触れて更生したとしても、いきなり神官みたいな抹香臭い台詞を吐いては興醒めです。やはり教養の無い者は改心しても単純な言葉で罪を悔い、口汚く我が身を呪ってみせる方が真に迫って感じられます。」

「しかしなんだな。お前は『葬式』は書ける、それも極めて面白くに。ガモウヤヨイチャンの埋葬も、この神餌人の場面もそうだな。」
「有難うございます。」
「だが、…恋愛の情景は無理ではないか? この『薮隠れ』には女が一人も出て来ないぞ。」
「え?」

 アィイーガに返してもらった原稿には、なるほど女の影が微塵も無い。むさ苦しい男共の汗と血と涙が臭う。

「こ、これは私とした事が。直ちに書き直します。」
「良い。それで十分面白く、人を感動させられる。ただ、」
「はい。」

「お前に恋愛ものを書かせようとした妾が愚かだった。」

 

*******************

 チュダルム彩ルダムさま。何故貴女はあそこまで怒りました?

「産着を送って来たのです。未婚の女に。」

 はあ、それは屈辱ですね。

「ええ、子の一人も産めずに何が女だと嘲笑う、極めて悪質な悪戯です。嫁に行けぬのは身体に欠陥があるからだと、言わんばかりです。」

 なるほど。ですがそれは、神剣匠ゥエデレク峻キマアオイ様がお贈りになられたものですか?

「え? 違うんですか。」

 差出人は誰です。

「いえ、私の寝所に届けられておりましたから。下女の誰かが届けてくれたものだと。そのような事をする人は限られます。」

 神剣匠ゥエデレク様は、以前にもそのような事をなさいましたか。

「花と酒、御馳走などを贈られた事がございます。いずれも私の予想外の機会を捉えてびっくりさせる形でもらいました。」

 それで産着も彼からの贈り物だと考えたのですね。

「違うのですか。」

 貴女の周囲には、そのような悪戯をなさる方は他にいらっしゃませんか。

「ええ今は。メグリアル王女 焔アウンサさまならばなさったかも知れませんが、今は武徳王陛下のお召しにより村にはいらっしゃらないので。」

 甘い!

「え!」

 

*********************

 ゲジゲジ巫女ィゲルキィテさん、一言お願いします。

「なにがなんだか、分かりません。」

 

【ひまなひとびと 『俗』】

 弥生ちゃんの禁衛隊「神撰組」は、キルストル姫アィイーガの命に従いボウダン街道北方に有る古都テュクルタンバに陣を張った。
 総勢200名。
 数こそ少ないが弥生ちゃんの大演習に参加して逃げなかった猛者ばかり。あの試練に耐えた連帯感が強い絆となって士気は高い。

 彼らを指揮するのはゥアンバード・ルジュ。褐甲角王国の田舎で武術教師をやっていた男だ。
 何故か弥生ちゃんは彼を”コンドーさん”と呼ぶ。故に彼は我が名に賜名を付け加えた。ゥアンバード・”コンドーサン”・ルジュだ。

「コンドーサンとは、どのような男であろうな。」
「ガモウヤヨイチャン様にお伺いしたところ、義に篤く忠誠心の塊のような武人らしい。出自は低いが乱にあっては唯一人時勢に逆らい義を貫き、敵に捕われて刑死したと。」
「うむ。羨ましい生涯を送ったのだな。」

 神撰組は集団指導体制を取る。弥生ちゃんの試練に8名が生き残ったが、それぞれに性格が違い自然と役割分担をして、すんなりと納まった。
 隊長の「コンドーサン」は無骨な融通の効かない男だ。組織の長としてあまり向いてはいない。彼を補佐するのが褐甲角軍剣令の出身「ミツヒデ」だ。

 弥生ちゃんは8名にそれぞれコードネームを振り当てた。いずれも日本史の主要登場人物から取っている。
 「ミツヒデ」「カモ」「ダエモン」「リョーマ」「サンダユウ」「イッキュウ」、それに「オッチャン」だ。

 「おっちゃん」の名を与えられた交易警備隊出身の歴戦の勇士、隻眼禿頭の中年男はがっくりと落込む。

「みんないいなあ。俺の名前の意味はそのまんま「おじさん」らしい。」
「いや、しかしガモウヤヨイチャン様は貴公の名を呼ぶ時異様に嬉しそうだぞ。なにか思い入れの有る名なのだ。」
「そうかな、そうだろうかなあ。ああ俺も星の世界の偉人の名が欲しかった。」

 高貴な神族の生まれで身体が大きく粗暴な戦士「カモ」も複雑な表情だ。

「私の名前もあまり良くは無いらしい。鳥の名を持つ男の名なのだ。」
「歴史上意味のある名ならいいじゃないか。「オッチャン」よりはなあ。」

 ぐじぐじと落込む「オッチャン」は、指導体制の中にあってはあまり役に立たない。学も無く頭も悪いと、早々に会議から下りてしまった。代りに彼は現場を引き受ける。
「汚れ仕事があればなんでも言ってくれ。ガモウヤヨイチャン様の御為ならばどのような卑劣な真似でもやってみせる」と宣言する。
 実際、今の神撰組に出来ることは少ない。地道な警備活動が精々だ。

 

 テュクルタンバは古の紅曙蛸女王が歴代都とした場所で、かっては交易の隊列が切れ目無く出入りして道を財貨で埋めたという。
 栄華の痕跡は、今はまったく見られない。
 なにせ2500年も前に滅びた都だ。しかも当時は石造りの家屋は建てられなかった。女王の宮殿も木造であったと伝わり、今に残る遺跡といえば自然の大岩をそのまま利用した『聖壇』のみである。
 『聖壇』とは宮殿中心部にあった石の舞台で、女王はこの上で舞い予言し政務を執り民衆と謁見したと伝わる。

 つまりテュクルタンバで護るべきモノとは、この岩しか無い。
 脇には申し訳程度のタコ神殿があるが訪れ参る者も少なく、神官の爺ぃが一人で管理する。

「お、これはタクリコン大神官殿。」

 タコ神官の老人は、一人の若い女に付き添われて神撰組の本部天幕にやってきた。
 女は「ダエモン」の妹だ。素晴らしい美女であるが、兄もまたカタツムリ神官並の美形である。これほど美しくとも二人は流転の身で、社会的には底辺を流離う。

「いやいやゥアンバード殿、お気遣いあるな。いやーしかしアレはほんとであろうかの。デュータム点にテュラクラフさまがお出でになられたのは。」
「うむ間違い無い。我らも人をやって確かめた。テュラクラフ様は現在救世主神殿の玉座の間に陣取り、褐甲角王国との間でなにやらの交渉をなされている。」
「有り難いことじゃ。儂が生きている間に五代様の御姿を拝めるとは。チュウチュウタコカイナ。」

 タコ神官は赤いタコ石の数珠を手繰って呪文を唱える。

 テュクルタンバは聖山からの寒風が直接吹き降ろす場所に有り、「チューラウの訪い」と呼ばれる寒波の襲来に遇えば凍死もしかねない。
 そこでタコ神殿の近くで木を切り突貫で兵舎を作っている。現在は天幕の数も少なく、全ての兵士が屋根の下で寝ることすら出来ない。
 伐採の許可や水、周辺住民への説得等便宜を図ってくれるのが、この老タコ神官だ。

 彼にしても、ここ2500年人気の無いテュクルタンバにいきなり多数が押し寄せて歴史の一幕を演じるのを喜んだ。
 若者達が存分に力を発揮出来るよう、また死んでも悔いの残らぬ為に出来る限りの援助をしてくれる。精神的に。

 

 火の傍に座り身体を温めるタコ神官に、「リョーマ」が尋ねる。

 未だ若い彼は雄大な体格と人懐っこい笑顔の持ち主で、抜刀術の達人。生まれは富商と聞くが、邑兵からクワアット兵になろうと武術修行の旅をしている内に憂国の人士と会い、天下国家を論ずるまでになってしまう。一種の遊び人だ。

「しかし爺さま、タコ神殿はなぜに人をこちらに寄越さない。いかに詣でる人が居ないとしても、爺さま一人ではさすがに手落ちもあるだろう。」
「あ、それはじゃ、この地はあまり嬉しくはない場所なのじゃ。なにせ人が沢山死んで、テュラクラフさまが御隠れになった土地じゃ。穢れておるとさえ言う者もある。」
「だがテュラクラフ女王は甦られた。おそらくはここにも来るだろう。準備なら急がねばならんよ。」
「おおそうじゃのう。」

「老人、アレはまことか?」

 「サンダユウ」がぎらりと光る眼で直截に問う。彼も商人の出身だというが、槍の達人。チュダルム槍と呼ばれる穂先の滅法大きな武器を自在に使いこなす。
 彼は神撰組の会計をかって出た。かなり怪しい出自で信頼がおけぬ、と「ミツヒデ」は止めたが、「カネをちょろまかすなら余所から持って来て、神撰組の兵どもを食わせてやる」と豪語する。

「アレとはなんじゃな。」
「知れたこと。紅曙蛸女王の隠し財宝がこのあたりに眠っているという伝説だ。無いのなら、自ら埋めて騒ぐのが人の業。真にあればこそ人を退ける。」
「ほほほ深いのお。だが爺ぃに在り処を知らせるほど、タコ神殿も馬鹿ではないぞ。」
「それもそうか。」

 「サンダユウ」は焦らない。テュラクラフ女王がやってくれば、嫌でも伝説の真偽は明らかになる。財宝があれば確実に陽の下に露となろう。
 それが為の神撰組の駐留だ。
 ぎりぎりの刹那でこの地に入るのは間に合った。僅か1日、いや2刻も遅れていれば褐甲角王国の規制に引っ掛かり排除されたはずだ。
 機を見るに敏な「サンダユウ」の進言で、彼らはここに在る。

「それよ。財宝が本当に有るのなら、一体いかなるものであろうか。金銀タコ石などのありふれたものではあるまい。」

 「ダエモン」は顔容は美しいが服装も華美にして、まったく尋常の身分とは思えない。裏社会の人間であるのは間違い無いが、であればどの筋の廻し者か。

 「ミツヒデ」がたしなめると同時に、訂正をする。彼は歴史の知識も深い。

「金銀などの金属の精錬は神聖金雷蜒王国に始まる。紅曙蛸女王の時代にはそのような宝は無いぞ。」
「いや後世の者が埋めたかもしれないじゃないか。で、どうなのだ。爺様。」

「さてどうじゃろうのう。儂が聞いた話だと、昔も金の粒はあったと言うぞ。溶かして塊にはできなくとも、叩いて伸ばして葉の形にして衣服にぶら下げたと言うな。」
「ほれ見ろ。昔にも金はあるんだ。」
「だがその程度のものは、女王様は宝とはなさらんじゃろう。なにせ火栄渡りの道中でいくらでも湧いて出たと言うからの。」

「魔法の具ではないのか。」

 陰気なスガッタ僧が口を挟む。「イッキュウ」だ。
 神の力にすがらず人間自らの限界に挑む彼が、なぜ弥生ちゃんの天幕に寄ったのかは誰も知らない。大演習において彼を見た者も少ないが、凄まじい運動で目にも留まらなかったのだ、と噂される。

「魔法か。」

 「カモ」もうなずく。キルストル姫アィイーガが直接に命じるほどだ。単純な金銭的宝物では無いだろう、と彼も予測する。テュラクラフ女王のみに許されるとなれば、それ以外には考え難い。

「ギィール神族が額に戴く聖蟲は、土の下までは見えぬからな。見付からなくとも不思議は無い。」
「だが神族は土の下の金属資源を聖蟲により知らされるというではないか、それはどうなのだ。」

 「サンダユウ」の言葉に、「カモ」は渋い面を向ける。残念ながら彼は聖戴を許されなかったから、ここに居る。

 

「いずれにしろ、」

 ゥアンバード・ルジュは議論を打ち切るかに声を上げる。もしも宝があったとしても、彼らが私するわけにはいかない。
 キルストル姫アィイーガ、もしくは弥生ちゃんに渡すまで守り抜くのみ。群がる略奪者を如何に防ぐか、それこそが肝心だ。

「テュクルタンバに砦を築かねばならん。タクリコン大神官殿においでを願ったのも、その位置を定めるに障りのある古事古伝を伺う為だ。」
「そうじゃのう。掘ればなにかが出るかもしれんからのう。宝ではなくとも貴重な品が。最近は歴史の研究が進んで、無闇と掘ってはいかん禁令も出ておるぞ。」
「ハジパイ王殿下の御指図ですね。彼の御方は小王時代の事物に深く関心がお有りで、研究を支援していると聞きます。」

 「ミツヒデ」の言葉は一々癇に触る。
 「カモ」はそう感じる。粗暴ではあるものの彼も学識が薄いわけではない。聖戴に失敗するまでは神族になると自らを疑わなかったのだ。

 生憎と築城術を心得る者は、神撰組には居ない。最高機密に属する技術がそうそう流出する道理が無い。
 「ミツヒデ」は指摘する。

「ガーハル流の軍学者が必要です。あるいは、神族の下で長年働いた工人が。」
「どちらも無理だ。また資材や武器も規定のものが揃わぬだろう。」
「カネも無い。」

「ならば!」

 「リョーマ」が明るく声を上げる。砦に篭って戦うのは、どだい無理が大き過ぎる。褐甲角軍が攻め寄せて来ればひとたまりも無い。

「神殿を立て直しましょうぞ。敵は必ずまずここに押し寄せます。野戦にてあるいは伏兵にて迎撃するとして、敵の目標とすべき場所を明確に仕立てておけば誘導し易いでしょう。」
「囮、ということだな。」
「はいそうです。」

 「サンダユウ」も賛同する。掘っ立て小屋でもやはり長くは滞在できない。ちゃんとした建物が無ければ、いずれ部隊に致命的な崩壊が訪れるだろう。
 タコ神殿の改築であれば資金の調達も容易い。褐甲角王国から寄付を引き出す事すら叶うはずだ。

「おおおお、そなた若いながらも見識があるのお利発じゃのう。どうじゃなゥアンバード殿。」
「なるほど。テュラクラフ女王様をお迎えするにしても、この有り様ではさすがに恥ずかしゅうございますな。」
「うんうん、恥ずかしいのお。」

 

 こうしてボロ屋同然のテュクルタンバの神殿は立て直されると決まる。
 まさか床下から、あのような秘宝が簡単に見付かるとは、彼らの誰も知らなかった。

 

【マヨネーズ中毒】

 過日弥生ちゃんはマヨネーズを作った。
 卵に酢と油を混ぜれば固まる、くらいは十二神方台系の人間も知っている。ただ卵自体がけっこう高級品である為に主菜として考えられ、調味料として用いる事は少ない。
 故に、「このような使い方もあるのですね」と納得する程度しか驚きは無い。

 しごく簡単だから、弥生ちゃんは色んなところでマヨネーズを作る。
 胡椒が無いので思い通りの味にはならないが、香草やらカプタ(乾した虫の粉)等の調味料を混ぜて様々に試してみる。
 料理人の間でこれを用いた「星の世界風」献立が流行し、また一般民衆にも何年も掛けてゆっくりと広まっていく。
 方台でもマヨネーズは「マヨネーズ」と正しく発音された。

 ここまでは何の問題も無い、ささやかで幸せな変化である。
 だが、

 カプタの中に珍味とされる「アレグラス・カプタ・レーヌト」なるものが有る。「冬虫夏草」粉だ。
 この調味料は、卵には合わないと知られる。混ぜると舌が痺れて食べられない。利用は肉・内臓料理に限定される。

 どこのバカだか知らないが、これをマヨネーズに混ぜてみた。もちろん苦いがハチミツやら酒精で誤魔化し、妙な食材を作り上げた。
 舐めてみると、もちろん舌が痺れる。が、不快感は無い。緊張が和らぎ、日頃の憂さがどこかに飛んでしまう。
 食材ではなく嗜好品として上流階級で密かに広まったが、もちろん毒性などは無い。
 常習性が有り、ぺろぺろ舐めるのがみっともないだけだ。

 マヨネーズだから、常温でも意外と保存が利く。
 後に水鳥の人工飼育が始まり卵の量産が可能となると、マヨネーズも大山羊の胃や腸に詰めて携帯可能な形で市中で売られ始めた。
 「アレグラス・マヨネーズ」もこの形で広まっていく。
 たちまち中毒患者が出た。「アレグラス・カプタ・レーヌト」が高価な為に似て非なるキノコを使い、しばしば毒を持つものが混入されたからだ。

 若者達の間で、「アレグラス・マヨネーズで宙を飛べる」との噂が広まり、敢えて毒キノコを混ぜる者も現われる。
 死人まで発生したので、治安当局は取締まりを始める。しかしマヨネーズ自体に毒は無く、自分で毒キノコを混ぜるのまで規制するのは難しい。
 肝心な毒キノコは少量で大金が儲かる宝と化し、犯罪組織が流通から生産にまで携わる。
 闇市場が形成され莫大な金が動き出す。

 創始暦5100年頃の治安状況は、「マヨネーズ戦争」と呼ばれる混乱に陥った。

 だが間も無く「アレグラス・マヨネーズ」の流行は終焉する。
 高価な植物油ではなく、油ゲルタから搾った魚油が大量に供給され、マヨネーズにも使用され始めたからだ。
 魚油を用いたマヨネーズは腹持ちが良く、キノコを混ぜるとどうにも身体が重くなる。
 もともと何がどのように作用して精神的効果を与えるかは判明していなかったので、ゲルタ油マヨネーズが主流になると、闇市場は衰退せざるを得なかった。

 その後マヨネーズ禍が問題になる事は無かったが、戦場で兵士の不安や緊張を和らげる為に正規の「アレグラス・マヨネーズ」は長く用いられた。
 「マヨネ匪」なる、戦場帰りのならず者を指す言葉も生まれる。

 

第十一章 王女殺害事件

 

「赤甲梢の処遇に関しましては、その設立の目的を果し終えたと理解し部隊を発展的に解体、特に兎竜部隊の独立は当初の予定に変更を加えて新年度より、」
「まて。」

 キスァブル・メグリアル焔アウンサは、中央軍制局から報告に訪れた神兵中剣令を差し止める。28才、端正な容貌を持つアウンサ好みの神兵だが、話す言葉は穏当ならぬ。

 

 赤甲梢の帰還に成功したアウンサは三神救世主会合ではゲバチューラウに随伴し、その後武徳王の本陣に合流。ついで元老院への報告の為王都カプタニアへ向かう。
 武徳王は王女を手元に置きゲバチューラウとの折衝での助言を求めたが、元老院は強硬に査問を要求する。
 中央軍制局をも欺いての敵国単独侵入は、まさに抜け駆け。しかも青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンと図って独断でとなれば、反逆罪も問われかねない。

 さすがに武徳王も庇いきれずやむなくカプタニア行きを許したが、これはアウンサ当初よりの計画であり、今後の布石も兼ねている。

 彼女の計算によれば、まもなく円湾を拠点とする新生紅曙蛸王国に対する懲罰戦争が始まるはずだ。
 和平が成り立つ前に、自国の勢力圏を可能な限り拡張しておかねばならない。まして今回、金雷蜒王国側は円湾に救援の手を差し伸べない。
 天の与うるを取らぬは、これ罪なり。
 ましてや、彼の地には聖なるタコを戴く少女が在ると聞く。タコ、トカゲの両神の御使を掌中に収める事の無益な道理が無い。

 また新生紅曙蛸王国の宰相は、かってカプタニアにて先戦主義派の盟主と仰がれたソグヴィタル王 範ヒィキタイタンだ。
 彼はガモウヤヨイチャンとも親交が有り、野放しにしておけば必ず新世界秩序の構築に関わって来る。発言権を封じるには、今討たねば機会が無い。

 戦略上ヒィキタイタンは必ず負けるが、法に従いカプタニアに連行されて来る。
 弁舌を以って劣勢を覆すのが、彼本来の闘いだ。公正な裁判を進める為にも、アウンサはカプタニアに居なければならない。
 勝算は高い。現在の状況はまさに彼の唱えた世界そのままであるから、裁判や査問会がどう転ぶか。裁きを求める先政主義派の元老員ですら展開が読めぬであろう。

 何を隠そうアウンサも、赤甲梢総裁として常に主戦論を唱える先戦主義派の頭目の一人だ。
 先戦主義派の両巨頭が揃って裁判を受けるとなれば、これは結構なお祭りだ。王国がひっくり返るかもしれない。

 それにカプタニアには、アウンサの夫キスァブルが待っている。
 元老員である彼も当然に査問の場に臨むだろう。色々と愛情を表現する策を巡らせてくれるはず。

 

 このような算段を抱いて、アウンサは草原を離れた。
 どうせ和平などすぐにはまとまらぬ。3つの勢力がそれぞれの思惑で会議を引っ掻き回し、ずるずると長引くに決まっている。
 そもそも弥生ちゃんが居ないのだから、どうしようもない。
 和平を形成する最後の鍵が、未だ欠けているのだ。だからこそ褐甲角王国は円湾に出兵する。

 意気揚々でボウダンの野からガンガランガを貫くスプリタ街道に入ったところで、妙な噂を聞く。
 デュータム点に出現した古の紅曙蛸女王テュラクラフが相当の曲者で、現地の神兵ではあしらいかねるらしい。
 今更に新たな要素が介入しては、和平も戦も展開に苦しむ。武徳王直々の指名でアウンサも大本営に呼び戻された。
 が、本陣周辺にたむろする元老員達は軍の秩序を改めて確認する為と称して、あくまでも査問を優先する。

 困り果て考えあぐねた末に、結局はガンガランガの街道に留まれとの中途半端な結論に落ち着いた。

 落ち着かされたアウンサがいい面の皮だ。
 大富豪の友人である”紅”ことシュメ・サンパクレ・アの屋敷に逗留する彼女は、なんにもする事が無くなって自ら書簡を書き、カプタニア中央軍制局と元老院に送りつけた。

 どうせそちらでは勝手に赤甲梢の処分を考えているのだろう、処罰も色とりどりに用意しているはず。
 時間を無駄にするのは癪に障るから、ここに案件を持って来い。なんだったらハジパイ王御本人がお運び頂いても結構でございますことよ。
 などと書かれた文を読めば、それは使者の一人も送らねば済まされまい。

 使者と言うよりは生贄として、彼デズマヅ琵マトレアツ中剣令が差し向けられた。
 いい男である。うっとりする。さすがチュダルムの爺さんだ、人の心が分かっている。
 存分にいたぶって進ぜよう。

 舌なめずりするアウンサに、だが彼も中々胆の座ったタマである。

 デズマヅ家は黒甲枝でも古参に当たる家で、軍の重職に就く事も多い。
 自然元老院金翅幹家への出入りも多く、人間的に成長させられるそれなりに恐ろしい党争にしばしば巻き込まれる。
 ましてこの美貌であれば、姫君連が放ってはおかぬ。
 貴婦人方の暴虐に曝されて、すっかり悟りを開いてしまった。

 黒甲枝はあくまでも黒甲枝であればよいのだ。下手に出世や大義への献身などを考えず、巌の如くに不動であれば事は足る。
 剛直さを見込まれての今回の任務だ。

 覚悟を決めてこの場にあれば、ゲイルの突進よりも破壊力を持つ王女の舌鋒にも見事耐える。
 ただ、突き放してもならぬのだ。
 王都カプタニアで軍事を統括する兵師統監チュダルム冠カボーナルハンより、なんとか王女の機嫌を取り結べと、言い含められている。

 

「、。
 新年度よりスプリタ・ボウダン両街道高速警備隊として配備されると決定いたしました。なお兎竜の減数分は赤甲梢兵獣飼育場にて既に育成を開始しており、2年の内には定数を揃える事が出来ると見込まれております。」
「あーわかった。続けろ。」

 焔アウンサ王女は極めて有能な人間である。その気になれば一軍を預かってどこなりと攻め滅ぼして来る。事務処理会計資金繰りなども朝飯前。
 その有能さを全力で発揮すれば、彼の任務など着いたその日の内に終了させてしまう。
 空いた時間でたっぷりと、という策であれば、彼も抵抗のしようが無い。

「貴公、近衛兵団でも無いな。前線には出てないのか。」
「は。百島湾にて海軍陸戦隊を、聖戴前は務めさせていただきました。」
「ほおう。」

 赤甲梢で神兵に特別昇格した者の多くが、百島湾海軍の出身である。
 現在の武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクの治世は、先代の大敗の後片づけから始まる、故に積極的な攻勢には出ない。
 その間最前線として機能したのが、百島湾海域での西金雷蜒王国との紛争だ。小規模ながらも激闘が繰り広げられ、多彩な英雄を輩出する。

 軽く上げた称讃の声に彼は律義に礼をして、再び文書を読み上げる。

「恐縮であります。

 街道高速警備隊は、赤甲梢ではなく紋章旗団の指揮下に置かれ、兎竜隊に所属する赤甲梢神兵も同時に移籍いたします。
 その他神兵に関しましても、全員に軍家格を授け正式に黒甲枝と成し、改めて各部署に配属すると定まりました。御異存は、」
「無い。」

 二人が今用いる部屋は、華麗な調度に彩られる豪奢な客間だ。神聖金雷蜒王国調、つまりはギィール神族好みの繊細な彫刻が部屋の随所に施してある。
 ではあるが、二人の前にヤムナム茶の一杯も無い。単に報告を受けるとはいえ軍務であるから、潤いは抜きだ。
 昼間から酒を食らうわけにもいかないが、必要とするほどに不快な話ばかりを突き付けられる。

 中央軍制局は、とどのつまりはアウンサの影響力を完全に排除する。赤甲梢を地上から消滅させ、神兵をそれぞれ個別に引き剥がす。
 アウンサの意に従う者が集団で動くのを許さない。

 戦争前からその方針であったと、彼女も知る。
 「先戦主義派」最後の首魁でもあるアウンサの排除は、元老院ここ5年の宿願であり、中央軍制局も従う。
 そもそもが女が実戦部隊を掌握し、しかも戦術指導までするなどあってはならぬ事だ。
 メグリアルの王女というものは慎ましやかにも凛々しく神々しく、兵の仰ぎ見る理想の乙女であらねばならない。臭い獣の背に跨がり自ら弓を引いて敵を射殺すなど、言語道断。

 20年の長期に渡り赤甲梢総裁の席を許したのが、そもそもの間違い。通例であれば5年も務めれば皆喜んでエイタンカプトのメグリアル王宮に帰っていく。
 毒地傍の草原でむさ苦しい血生臭い男共に囲まれては、普通の神経の姫君であれば、それはさっさと逃げ出すだろう。
 アウンサがいやな役を嬉々として引き受けるのを良いことに、メグリアル王家の者はすっかり赤甲梢から離れていった。
 これが、今回の敵国単独侵入への第一歩であったのだ。

 見せ場を持っていかれた中央軍制局、近衛兵団がどれほどきつくほぞを噛んだか。歯が何本欠け落ちたか。
 復讐ではないが、この際目障りな赤甲梢はさっくり潰してしまおうと考えて不思議は無い。

 またアウンサにしても彼らの悔恨と無念が分かるから、部隊解散を受入れる意向だ。なにせもう、やり終えた。
 だから自分の護衛に赤甲梢の兵を使わない。神兵の誰かをカプタニアまで供に付けると現総裁メグリアル劫アランサは申し出たが、笑って拒絶する。
 カプタニアでの戦いは、むしろ赤甲梢の力を用いない方が有利に進む。一度すべてを御破算にした方が、動き易い。

 

「すっかり空になった赤甲梢はどうなる。」

「クワアット兵への剣匠・剣匠令資格授与の訓練部隊としては、これまで通りとさせて頂きます。されど赤甲梢単独での作戦行動は行われず、聖蟲授与の上奏もありません。」
「部隊から神兵が居なくなる、そういう事か。」
「クワアット兵から神兵への昇進は、王国運営上非常に意義深い褒賞であります。されど今後は兵師監を越えて、兵師大監の権にすべきと議論がまとまりつつあります。」

「メグリアル劫アランサ王女には、上奏の権限が無いわけだ。」
「そのようになります。」

 大審判戦争の結果、兵師監の位階の重みが暴落した。
 夏前までは、兵師監は一つの県を預かる最高指揮官であった。が、今は兵師大監の位を要する。
 アウンサも総裁の職に在っては兵師監と同格であったが、帰ってみれば事実上の格下げだ。現にこれほどの重要事を、たかが中剣令に報告させている。
 まあ、既に引退した身なのだが。

 アウンサはじっと中剣令を見る。端正な顔立ちに顎髭を整えて、もう少し穏当な場で出会ったならば手を出してみたくなる男前だ。
 このような面白くない任務で遭遇するのは、あるいは彼にとっては幸運であったのかも知れない。

 彼を見ていると、アウンサはもう一つの赤甲梢を思い出す。
 名門れっきとした黒甲枝の正嫡でありながら様々な理由により家督の継承が行われず、聖戴の栄に浴さない若手に授けられる赤翅の蟲。
 紋章旗団だ。

 デズマヅ家でそのような事態が起きれば、優先的に入隊させられるはず。

「紋章旗団の性格も変るわけだな。」

「現在紋章旗団に所属する神兵は元々が継承すべき家をそれぞれに持ちます。今次大戦で各家で様々に変動が生じ、順当に家督相続が叶う者も多くなりました。」
「めでたい話だ。権力の席が渋滞すれば、それだけで王国の気脈が腐るからな。」

「権力でございますか。」
「そうだよ。黒甲枝とは権力を独占する、貴族だよ。下民は皆そう見ている。」
「困りましたな。我らは民衆の下僕であるものを。」

 こういう所は、黒甲枝は常識を欠いている。
 誰がどう見ようと、神威を頂いて地上に不思議の怪力を示すなら、特権階級以外の何者でも無い。
 いかに黒甲枝がクワアット兵が国防と大義に命を捧げ、民の自由と幸福の為に弊履となって打ち捨てられたいと願っても、それは無理だ無茶だ。

 カプタニアに帰ったら、まずそこのところを教育し直そうと、アウンサは考える。
 現実を在るがままに受入れられずに、なにが黒甲枝だ。偉い奴は偉そうにすべきであろうよ、自分みたいに。

「これは兵師統監よりひそかにお伝えせよと命じられたのですが、近衛兵団に次ぐ神兵団として紋章旗団を拡大する方針で調整を行っています。」
「赤甲梢に代わって、だな。出自が低い赤甲梢神兵と異なり、由緒正しい黒甲枝を前面に押し立てる。構想としては悪くない。ただ、」

「平民出身の神兵は、今後認められる事が少なくなると思われます。聖戴の基準が厳しくなり、ほぼ無いと。」
「ハジパイ王の考えそうな話だ。」

 平民がクワアット兵を経て神兵にまで昇進するには、当然目覚ましい武勲を必要とする。激烈な戦闘と流血が天河に届く栄達をもたらす。
 その戦自体を今後は控えようと考える。
 トカゲ神救世主の降臨によって和平の気運が高まるただ中で、結構な思し召しだ。

 だがハジパイ王もやはり、黒甲枝が特権階級である事を見誤っている。権力の座が滞る策はいずれ腐敗堕落の路を辿り、青晶蜥神救世主に討滅されるだろう。

「行こう。」
「は。…、どちらへでございます?」

「カプタニアだ。元老院に顔を出さねば、愚痴の一つも言えぬと見た。毒地の情勢に後ろ髪を引かれるが仕方がない、くたばる前に爺ぃの面を拝んでやる。」
「陛下に御許しを頂かねば。平衡状態にあるとはいえ、何時武力衝突が起きるか分かりませぬぞ。」
「さればこそのカプタニア行きだ。どうせ南で大戦さは避けられぬ。そうだな、今度はイローエント南海軍を率いてやろう。」

「いや! それは、」

 慌てる中剣令を尻目に、アウンサはさっそく葉片を広げ上奏文を綴り出す。許される確率は極めて高い。

 現在ゲルワンクラッタ村に滞在する神聖王ゲバチューラウとの交渉は、外交司が行う。異分子であるアウンサの介入は望ましくない。
 だが王女はゲバチューラウのお気に入りでもある。近場に居れば呼び出されもしよう。
 可能な限り遠くに追い払うのは、武徳王周辺の元老員の利益に適う。
 一方カプタニアには、留守を護る元老員が手ぐすね引いて待って居る。のこのこと飛び込んで来る餌食に、便宜を図らずなんとしよう。

 だがこれは、アウンサの罠だ。
 円湾新生紅曙蛸王国との戦いでは、かなりの数の元老員がイローエントに赴き監督せねばならない。
 敵の大将は、あのソグヴィタル王だ。高度な政治的判断が必要になる。
 第六代紅曙蛸巫女王と称される少女を保護する役目も、元老員でなければ務まらない。

 王都は間も無く空っぽになる。
 アウンサが暴れるのに十分な舞台が整う。

 その計算は、デズマヅにも読めた。
 治にいて乱を起す王女の気質は十分教えられたし赤甲梢の噂でも聞いたが、なるほどこれは剣呑と改めて覚悟を強く持つ。

「ほれ、届けて参れ。」
「それでは早速使者を送りまして、」
「小剣令が居たであろう、そなたの弟だ。彼に任せよ。」

「は。早速に我が同胞を見知りおかれて頂きましたか。有難うございます。」
「人を覚えるのは得意だ。赤い甲冑で身を固めると誰が誰だか分からなくなるから、動きで見分けを付ける。そなたの弟はちと武芸の錬りが甘いな。実戦部隊には居なかったろう。」
「御慧眼恐れ入ります。王都にて糧食を担当しておりました。」
「なんだつまらん。妾が鉄血の宴に招いてやろう。」

 

 使者が戻る数日の暇、アウンサはのんびりと過ごして居る。
 男前をからかうのは面白いし、シュメ・サンパクレ・アの幼い息子カマンティバゥールは可愛いし、護衛のクワアット兵を並べて赤甲梢流の教練などもやってみる。
 敵国中枢に単身斬り込んだ英雄姫を一目見ようと、近隣の街村から民間人もやって来る。彼らとの面会も愛想良く受けた。

 アウンサは無理に赤甲梢を準戦闘態勢に保つ為に、自ら民間に働き掛けて運用資金を工面した。
 褐甲角(クワアット)神初代救世主カンヴィタル・イムレイルの聖業に、一般庶民も参加するとの名目でお布施を分捕って来た。
 今回の電撃戦はその結実と呼べるもので、アウンサとしても彼らに報告し共に喜び、また後の資金繰りに繋げる算段がある。

 詰め掛ける人が特にと懇請したのが、刀剣の鑑定だ。

 一般庶民の刀剣所持は法により厳重に制限されるが、無論富豪は埒外に居る。
 武を以って成る王国の民であれば、兵法武術への理解を示すのも教養の一。名を知られる富豪であれば、食客として武芸者の一人も抱えている。
 自らは用いずとも、それら達人に与える武器は富の指標として機能する。名品で市場は賑わった。

 十二神方台系で名剣名刀といえばギィール神族の手に成るものだが、褐甲角王国も負けじと作刀に力を入れる。
 褐甲角王国産は実用に重点を置いた「戦場物」として評価されるが、問題は価値の鑑定だ。

 武神たる黒甲枝神兵に刀剣の質や性能のお墨付きをもらえば、値段はぐっと跳ね上がる。
 実戦部隊として数々の武勲に輝く赤甲梢なら、更に倍。総裁の鑑定であれば最高の権威と看做されよう。
 敵国単独侵入の偉業を成し遂げたアウンサによるものであれば、伝説さえ付加される。
 王女の手が触れた、その一事に大金をはたく者を募れよう。

 宿を貸すシュメ・サンパクレ・アは紅曙蛸王国時代後期に栄えた小王の一人を祖とし、2000年の長きに渡り名門の誉と富に輝く。
 当然名器も多数蔵し、押し寄せた人に披露して大盛況となった。
 アウンサは100枚も鑑定書を発行し、かなりの金額を集める。さすがにデズマヅ中剣令も苦言を呈す。

「姫様。中央軍制局の立場としましては、王族の方がこのような商売をなさるのは由々しと考え、御自重をお願い致したく、」
「そんな台詞は20年前に言え。当時メグリアル王家がどれほど困窮していたか、そなたは知らぬであろうな。」
「申し訳ございません。されど今は昔。誤解を招きかねぬ軽挙は御慎み下さい。」

「それにしても、最近の金持ちは面白いものを置いていくな。」
「…ほおぉ、それはガモウヤヨイチャン様の金貨でございますな。」
「なんだそれは。」

「星の世界の貨幣には人の顔を刻印するそうで、伝え聞いたギィール神族がガモウヤヨイチャン様の御尊顔を刻んで鋳造し、今次大戦にて王国内に広くばらまきました。」
「それが正規の通貨として流通しているのか。」
「1枚が5金として相場が出来ております。衛視局で取締まりを行っていますがなにせ出来が良いもので、王国の大銅貨と比べるとこちらを喜ぶ者が多く困っています。」
「あれに比べると、ねえ。」

 金雷蜒王国の通貨は秤量貨幣で金属の重さで取り引きをするが、褐甲角王国は大中小の青銅貨を使用する。
 この銅貨の品質は極めて劣悪。木の床に落として割れない、模様が崩壊しないぎりぎりの硬さに保つ奇蹟の配分で作られている。ぶつけ合うと、むのんと曇った間抜けな音がする。
 偽造しようにも劣悪過ぎて余人には不可能、崩壊しない為に金属の比率を変えると良い音がしてたちまち露見してしまう。
 「悪貨が良貨を駆逐する」法則を逆用して、褐甲角王国の通貨制度は成り立っていた。

 元々民間の間では、ギィール神族が偽造した「品質の良い」貨幣をわざわざ選んで結婚式の引き出物にするくらいだ。
 鍍金とはいえ黄金に輝く、しかも青晶蜥神救世主の顔まで刻まれた真円の貨幣に飛びつかない道理が無い。

「これなどは素敵だな。青い硝子に顔を浮き彫りにして、周囲に金の輪を嵌めている。」
「おお、手が込んでいますな。これは作るのにかなりの手間が掛るでしょう。」
「作った奴は大損だ。ギィール神族はバカだなあ。」

 

 7日後に大本営に遣わした使者が戻り、アウンサのカプタニア行きが許可される。ついでに官職が贈られた。

「”参見使”なんて役職は初めて聞くが、なにをすればよいのだ?」
「さてこれは、王国の法に無いものでございますな。焔アウンサ様の為に特別に作られたものでございましょう。格としては兵師監と同等、10人までの神兵1000のクワアット兵を指揮出来る、とあります。」
「軍を率いて戦え、と言うのかな。」
「それはありえません。」

 きっぱりと言う中剣令に、アウンサはくすりと笑う。

 直ちに行列が組み直され、屋敷を後にする。当主シュメ初め近隣の者がこぞって旅立ちを見送る。
 行列は神兵2クワアット兵100随員30と、通常の王女の行列の3倍の人数を持つ。
 和平の交渉中で寇掠軍の浸透は無いにしても、スプリタ街道にはしばしば難民や残兵が転じた盗賊が出る。用心に如くは無い。

 護衛の神兵はデズマヅ琵マトレアツ中剣令と、若い小剣令が務める。
 名はシミトヰ漣カントー。今次大戦で聖戴初陣を飾った者だ。敵国中枢侵入を成し遂げた王女の護衛を任じられ、大層張り切っている。

 両名が着装するのは新配備が進む茶褐色の翼甲冑だ。重甲冑の防御力に疑念が持たれる中、機動性に飛んだ翼甲冑へと順次転換を進めている。
 前線でも数が足りず各部隊で奪い合うが、赤甲梢総裁を務めたアウンサの護衛には優先的に支給された。
 翼甲冑の運用法を定めたのもアウンサである。シミトヰは無様を見せぬ為、なお気を引き締める。

 

 ガンガランガからミンドレアに入るまで、何事も無く過ぎる。途中滞在した村や町で熱烈な歓迎を受けるが、アウンサは敏感に悟った。

「ミンドレアの民は、徴用で疲弊しているな。」
「然様でございますな。ヌケミンドルの要塞群を避けて、ミンドレアやベイスラに寇掠軍が殺到したと聞いております。北部のミンドレアは赤甲梢兎竜掃討隊の活躍により寇掠軍の浸透をなんとか防げましたが、ベイスラでは兵師監までもが討たれる惨状でございます。」
「兵師監が? うむ。」

 ベイスラで兵師監カロアルが戦死する大攻勢を誘発したのは、まさしくアウンサ率いる赤甲梢の電撃戦だ。間接的に彼女が殺したと言えなくもない。

 

 創始暦五〇〇六年秋旬月四日。
 その日の昼に到着した村は、人気がまるで無かった。家や倉庫に損傷は無いので、村人全員が疎開したと見る。
 だが戦闘の停止した今でも無人とは、さすがに異様だ。

「いましばらく村の外でお留まりを。」
「うむ。」

 クワアット兵の小剣令が数名の兵を率いて村中を探索する。これがデズマヅ中剣令の弟デズマヅ琴ナスマムである。
 25才。小剣令に加えて凌士監という軍官僚の位も持つ。デズマヅ家は兄が家督と聖蟲を相続したので、弟は官界にて出世を図るのであろう。

 まもなく戻った彼は、かなり驚く報告をした。

「村長の家の扉に、”人食い教徒が跳梁して犠牲が多く出た為に、一時村を離れる”と書いてありました。」
「なんと。このような王国の中心近くで、それか。」

 この村は不吉である。が、100の兵と神兵までが有って怖れるべき敵でも無い。
 静々とアウンサの乗る輿を村に進める。随員の女官侍女は不安な顔を左右に向ける。

「水を確かめよ。井戸に毒が投げ込まれているかも知れぬ。」
「薪の備蓄を借用してもよいが、硫黄を仕込んでいる可能性もある。十分気を付けよ。」

 村長の家を開いて休息所に当てよう、との提案はアウンサに拒絶された。いかに王女であろうとも、わずかの暇の為に留守宅に上がり込むのは褒められた所業ではない。
 アウンサは長年赤甲梢と共にあり、天幕と簡素な寝台で十分満足する暮らしを送ってきた。貴族の贅沢と兵の質素と、両方の顔を持っている。

「デズマヅ様!」

 休息中の行列に、昨夜泊まった砦から急使が走って来た。大本営から重要な書簡が届けられたという。
 アウンサは葉片の文字を確かめて、中剣令に渡す。

「面白いことになった。ギィール神族が褐甲角王国領を査察するそうだ。」

「は? それは如何なる事でございますか。敵に内情を見せるなど有り得ぬ話です。」
「無碍にも断れんのだ。話の元は青晶蜥神救世主の代行ギィール神族キルストル姫アィイーガで、褐甲角(クワアット)神の大義を真に我らが成し遂げているか、他者の眼で確かめねばならぬとぶち上げたそうだ。神兵に対立するギィール神族こそその任にふさわしいとし、さらには平和的に女人の神族のみを送り込む計画だ。」

「なんとも迷惑でございますな。」
「だが褐甲角・青晶蜥(チューラウ)両神を持ち出されては、真っ正面から向き合わねばならぬ。妾はキルストル殿とも面識が有る。当然に応対させようと考えるな。」
「では大本営に戻られますか?」
「うんん、査察は王都カプタニアにも入りたいと書いてある。ミンドレアで待ち受けた方がよいのかも知れぬ。」

 書簡はもう一通有った。アウンサが宿泊する予定の町に先着した者が居る。

「う。」
「どうなさいました。」
「ジョグジョ薔薇だ。」
「うう、それは拙うございますね。」

 金翅幹家ジョグジョ絢ロゥーアオン=ゲェタマ。金雷蜒神聖王の血を引く例外中の例外の元老員だ。
 若年よりその美貌と知性、派手な言行で庶人の注目を一身に浴びる人気者で、他の元老員や黒甲枝から煙たがられる。
 院での会派は先戦主義、「ヒィキタイタン事件」でほぼ一掃された先戦主義派の中で唯一今も高らかに東金雷蜒王国打倒を唱え続け、百島湾海軍に左遷されていたと聞く。

 メグリアル王女 焔アウンサは彼に匹敵する有名人だ。だが二人のソリは最悪、どちらも相手を避けて通して来た。
 同じ先戦主義派とはいえ、実戦部隊を掌握するアウンサと、院内で言論を弄する彼とでは立場が大きく異なる。
 加えてジョグジョ薔薇は自らの出自から裏切り者呼ばわりされるのが常で、疑念を払拭する為に過激な攻勢を主張する。
 一応は王女であり年長のアウンサを彼は立てるが、隙あらばと赤甲梢の指揮権を奪取する画策を幾度も行った。まぎれもない「政敵」である。

 その位の事情を、アウンサの護衛を務めるデズマヅが弁えぬ道理が無い。
 王女の権威を振りかざして押し通るのが無難だが、神聖王ゲバチューラウが王国内に居る現在、ジョグジョ薔薇の重要性と危険性は極めて大きい。
 機嫌を損ねて無用の騒動を巻き起こすのは是非とも避けねばならなかった。

 じろおーっとアウンサに見つめられ、デズマヅは決意する。

「私が行って、いずれかの先行を申し入れましょう。」
「ならば向こうが先だ。今言ったギィール神族の査察の件を彼にも教えてやれ。陛下の下に飛んでいって、担当を願い出るだろう。」
「ジョグジョ様に御譲りになられますか。」
「アレが元老院に居ないのは、なにかと好都合。いやめでたいばかりだな。」

 早速に、とデズマヅは村を立つ。人食い教徒は心配だが、さりとて100のクワアット兵に対抗し得る戦力を揃えるなど聞いた事も無い。

「明日早朝には戻る。それまで頼むぞ。」
「は! お任せ下さい。」

 神兵小剣令シミトヰは全力の気合いで返答する。
 まだ若い彼に王女の護衛を任せるのは不安だが、クワアット兵を率いる一般中剣令は経験豊富にして思慮も深く、問題があるとは思えない。
 いざとなれば、焔アウンサ王女とて額に聖蟲を戴くのだ、走って逃げてもらえば良い。

 襲撃の心配よりは、ジョグジョ薔薇の脅威の方がはるかに大きく深刻だ。
 弟の小剣令に無言で合図し、デズマヅは背の翅を震わせて街道を走って行った。

 今宵は村で一泊すると決まり、封じられた家々の扉を開き用意を整える。
 しばらくすると、村人が3名現われた。避難しているとはいえ、遠目から村の様子を窺っていたのだろう。物音に不審を覚えて調べに来た。

 神兵の姿を見て、彼らは地面に平伏する。

「これは、王国の御用でございましたか。有り難い事でございます。」
「汝らはこの村の者であるか。村人はどこに避難している。」

 シミトヰが直々に尋問する。額の聖蟲の威力は絶大で、庶人は神の化身を直視してはならぬとひたすらに頭を下げる。

「は、大部分は隣村に入りましたが、村長さん方は森の奥の団栗小屋のところに隠れています。俺らもそこに。」
「人食い教徒が襲って来る、と書き置きがあったが。」
「はいそれはもうおそろしく、娘っ子が2人も森で食べられてしまったです。」
「なんと! 王国の巡邏や警備の部隊に連絡したか。」
「したはしたですが、何分にゲイルを防ぐのに忙しくて構っていられないとかで、やむなく村を空けました。」

「こちらはメグリアル王女 焔アウンサ様の御行列だ。村の窮状を必ず担当の部所に伝え善処してやろう。」
「ははあ、もったいのうございます。」

 再び額を地面に擦り付けて礼をした村人は、顔を上げると互いに見合わせた。
 不審に思い、シミトヰは尋ねる。

「いかがした。」
「それがーでございます。その団栗小屋の方で、実は人食い教徒を1人捕まえたのでございます。」
「む。生きているのか?」
「は、はい。背が天まで届く大男で毛むくじゃらで、全身に気味の悪い刺青を黒々と顔まで描き入れて、恐ろしいやら生臭いやらで。」

 人食い教徒は単なる猟奇犯罪者ではない。一般庶民は魔法使いの一種と認識する。
 捕まえても下手に殺してしまったら村全体が呪われる、幽鬼となって人を襲う、赤子に魂が取り憑いて復活するなどの迷信が蔓延っている。
 呪いを打ち破るにはやはり神の力、ギィール神族や黒甲枝の神兵による処断が必要と考える。

「あの、もしよろしければ聖蟲をいただく御方にお出で願って、なんとかしてもらえないでしょうか。」

 いかに神兵といえども経験の少ない小剣令では判断に苦しむ。クワアット兵を率いる一般中剣令に相談してみると、やはり王女の護衛を優先すべきだと言う。
 だが伝え聞く人食い教徒の風体を考えるととても下っ端とは思えず、見過ごしにも出来ない。
 やむなく王女の判断を仰ぐと、

「距離はどのくらいだ。」
「1刻(2時間15分地球時)あれば往復可能だそうです。」
「尋問は要らぬ。ざっと斬って参れ。」

 日没まではまだ2刻以上ある。明るい内に帰って来るのであれば問題は無い。
 シミトヰはクワアット兵3名を連れて村人の案内に従った。

 

 だが2刻経っても帰って来ない。
 既に陽は西のカプタニア山脈に隠れ気温が下がり、北からは厳しい風が吹きつける。余りの冷たさに皆身を縮め噂した。

「今日あたり、お出でになるのではないか?」
「ああ、チューラウ神がお下りになる。」

 十二神方台系は秋の終りに北方の聖山山脈から一気に寒気が下り降り、一夜にして毒地を霜で真っ白に覆う気象現象が起きる。
 これを『チューラウ(青晶蜥神)の訪い』と呼び、冬の日の初めと定める。今年は例年に比べて遅いが、その分寒気が強いと予想される。

 クワアット兵を率いる中剣令は、一向に姿を見せぬ神兵シミトヰにかなり心を乱された。
 確たる理由は無いが、厭な予感が頭を離れない。
 アウンサに上奏しようかと迷う内に、当の王女から呼び出された。宿舎に当てられる村長の家には火が入り、急な暖気に包まれて鋼の鎧が汗をかく。

 アウンサの言葉に、中剣令ははっと目を見張る。
 褐甲角神の聖蟲は、戴く者に特別に強化された感覚と直感を与える。特に危難には敏感だ。

「…肌に突き刺さる視線を感じる。防風林の外に、妾の様子を窺う者が居よう。」
「! 私も穏当ならぬものを感じておりました。この村に留まったのは誤りであったかと存じます。」
「シミトヰはまだ帰らぬか。」
「遅れておられます。ですが、もしや」

「姦計に陥り、妾の傍から引き離された。そう考えるか。」
「御明察恐れ入ります。」
「そなたの考える敵の策は、なんじゃ。」
「火ではないかと、」

「火攻めか。」

 村全体が空き家である。ここに火を放たれ冬の強い風に煽られれば一気に燃え上がる。
 如何に聖蟲を戴く神兵であろうとも、さすがに火には勝てぬ。また村の中心が明るく燃え上がれば、防風林に隠れて狙撃するのも容易いだろう。

 アウンサは中剣令の懸念に異見を挟まなかった。
 王族は軍事に関しては神兵クワアット兵にすべてを任せる決まりを持つ。それがカンヴィタル・イムレイルの血を受継ぐ者と彼らの契約だ。

「そちの存念を最後まで申してみよ。」
「既に陽は落ちて、これより街道に戻るのは更に危険を増します。ですが村に留まれば火攻めにより滅ぼされる可能性が高く、やはり危うく存じます。」
「人食いの仕業ではないな。目的は妾の暗殺だ。」
「然様であれば、敵は組織的秩序だった攻撃を仕掛けて来ると考えます。迎撃を行うに当たり、姫様には不自由をお願いいたします。」

「うむ。具体的には。」
「目立つ歩哨を立てず、隠伏して敵を見張ります。村の1ヶ所に非戦闘員と姫様に御移り頂き、撤退路をあらかじめ開削し万一の場合にはただちに街道に御逃げ頂きます。」
「伏兵があろう。」
「待ち伏せはクワアット兵の得意なれば、五分の戦が望めると存じます。」
「敢えて敵を引き付けて出血を強いる策だな。」

 中剣令に善き哉と許しを与え、アウンサは村長の家を出る。あくまでも計略に感付いていないと見せ掛ける為に、家々には暖かく火を灯す。

 その間クワアット兵は密かに集合し連絡を取り、臨戦体制を整える。防風林と街道の間を抜ける道から障害物を取り除き、2名の組が所々で薮に隠れ敵の接近を監視する。
 森に隠れ潜み寇掠軍を迎え討つのは、クワアット兵規定の戦術だ。それに沿った訓練を全員が積み重ねている。

 

 夜襲であれば対象が寝静まる深更を機とすべきであろう。だが神兵シミトヰが帰還しては僅かの隙さえ望めない。
 襲撃は暗くなると同時に始まった。

 敵は手練れで物音一つ立てずに防風林に忍んで来る。闇で風体は見えぬが人食い教徒のやたらと派手な扮装ではなく、無音での襲撃に適した装備で揃えているらしい。
 これだけで敵の正体が知れる。無秩序な人食い教徒や難民ではなく、高度に訓練された兵もしくは『ジー・ッカ』や『スルグリ』などの暗殺者集団であろう。

 敵は警戒を見せぬ村の中心部の姿に意を強くして前進した。
 果たして中剣令の読み通りに火矢を用意する。油と酒精を混ぜた瓶を結わえた焼夷矢で、爆発的に燃え上がる。

 ひゅっと鋭い笛の音が林に響き、薮に潜んだクワアット兵が攻撃を開始した。たちまち数十本の矢が飛び交い、襲撃者を貫く。
 だが怯まない。これも想定の展開であるのか、整然と後退し弓で応戦する。地面に落ちた焼夷矢はぱあっと明るい焔を吹き上げ、林に燃え移る。
 襲撃者の後列から火矢が飛ぶ。やはり完全には防げない。

 褐甲角王国の普通の村では、防火対策は無いも同然。壁は土だが屋根は柴を葺いており、村長の家ですらただの板張りだ。
 10分も立たぬ内に村中が炎に包まれる。
 中剣令は決断して、焔アウンサ王女と随員に村からの撤退を進言する。

 アウンサは輿に乗り、壮丁に担がれて村を出る。
 この輿は強靱なタコ樹脂を薄く板に塗って防矢の楯とする装甲輿だ。重量もそれほどではなく6人居れば速やかに運べる。敵の待ち伏せに遭った時は、周囲の者もこの陰に隠れれば無事で済む。
 撤退路の防備はデズマヅ小剣令の小隊20名が受け持っていた。敵の伏兵は少数でたちまちに射殺し、速やかに輿を街道に脱出させる。
 道は広く開け、見通しが良い。射撃戦であれば弓術に優れたクワアット兵を凌ぐのは難しい。闇夜でも眼の利くギィール神族にも対抗出来るよう、定められた方向に正確に矢を集中する技術を備えている。

 村で応戦していた本隊が合流し、北に向けて撤退を開始する。輿と非戦闘員を守り左右の闇に潜む敵を探りながら、防備に適した場所を選ぶ。
 燃え上がる炎を見れば、シミトヰ小剣令もすぐに駆けつけるだろう。朝にはデズマヅ中剣令も戻って来る。今夜一晩耐えれば、間違いなく。

 風が強い。本格的に北から寒風がなだれ込んで来る。急速に気温が低下し、草木に霜が降る。
 『チューラウの訪い』だ。
 夏の疲れから大地を守り癒し次なる恵みへと繋げる、青晶蜥神の白い手がスプリタ街道を覆っていく。

「弓を仕舞い、抜刀せよ。」

 強風に矢が狙い通りに飛ばない。敵も味方も弓を使えず接近戦を挑むしか無くなった。
 クワアット兵は剣闘においても強力だ。刃長60センチの正式刀は短くはあるが集団戦に適しており、個人技でなく連携を用いて敵を討つ。

「む。」
 輿に揺られるアウンサは、楯板に矢が当たる音を聞く。この風の中をまっすぐに抜けて来るのは、余程重い矢だ。例えば神兵が用いる鉄弓の。

 兵の絶命する声が続く。甲冑に身を固めるクワアット兵は普通の矢ではそう簡単に射貫けない。やはり強力な矢が飛んで来るのだ。
 弩車ではない。矢の頻度から見て、常人を越える怪力を備えた射手が複数居る。
 敵が神兵でなければ、おそらくは東金雷蜒王国首都島で遭遇した、アレだ。

「そういえば、デュータム点のなんとかというトカゲ神官が、獣人の処方を人食い教徒に流していたと聞くな。
 妾を随分と高く買ってくれたわけだ。」

 風の中に氷が混ざる。吹きつける白の粒子に視界が霞む。大きな翳がゆらりと歩み、近付いて来る。2、3、4体を数えた。
 中剣令の叱咤する声が飛ぶ。

「槍を持つ者は前面に出よ。我らはギジシップで獣人と戦われたメグリアル王女をお護りするのだ。赤甲梢の誉れを我が物とせよ!」

 

 地に据えられた輿の中で、アウンサは音だけを聞いていた。研ぎ澄まされた聖蟲の聴力で、周囲の状況が手に取るように知れる。
 敵は獣人4体を主力として、総数は50程度。よく訓練されてはいるが、正面から戦えばクワアット兵の敵ではない。獣人さえ始末すれば危なげなく切り抜けられるはず。
 だが剛力を備え荒れ狂う獣人を留めるのは難しい。肌に直接鋼の板を縫い込んで護る為、クワアット兵の刀で致命傷を与えるのはほぼ無理だ。
 出ると知っていれば長槍を主体に集団で突き伏せる所だが、残念ながら手の打ちようが無い。
 あるとすれば、

「…姫様、焔アウンサ様。」
「隊長か。」

 輿の傍で中剣令の声がする。状況の難しさは明らかで、被害は甚大。これ以上戦線を支えられない。

「まことに残念でありますが、この場に留まられては御身をお護りできません。何卒姫様のみで逃れてください。」
「獣人はいかがした。」
「1体を仕留め、更にもう1体に重大な損傷を与えました。しかし敵兵を輿に近づけさせぬのは、これ以上無理と存じます。」

「妾が手を貸そうか?」

 聖蟲を持つアウンサであれば、獣人を相手にしても有利に戦いを進められよう。その隙に生き残った兵を再編して当たれば、決して逆転は不可能でない。
 だが、

「姫様。その儀は平にご容赦ください…。」
「そうか。ならば妾もここに留まる。」

 褐甲角神の王族は、神兵クワアット兵に戦闘の全てを委ねる。たとえ自らの身に重大な危険が迫っても、矢一本避ける真似をしてはならぬ。彼らが闘う意志を見せ続ける限りは。
 それが契約だ。褐甲角(クワアット)神の名を冠せられる兵と結んだ血の誓約だ。

「勿体のうございます。」

 それきり残して中剣令は再び闘いの中に身を投じ、戻らない。アウンサは輿の傍に身を屈め震える女官侍女に声を掛ける。

「お前達は逃れるべきであろう。」
「われら、身命を賭して、王女様をお護りいたします…。」
「無理はするな。」
「いたします。」
「強情な奴らめ。」

 アウンサは指示して、手持ちの松明に火を点けさせた。矢の的になるから控えさせて来たが、ひょっとすると神兵シミトヰの目に止まるかも知れない。

「火があれば少しは温かろう。」
「はい。暖かく存じます。」

 再びアウンサは音の牢獄に閉じ篭った。狭い輿を閉ざす矢楯を見つめ、彼女の兵が斃れていく声を聞く。
 誰一人逃げ出さない。愚直に強力な敵に立ち向かい、命を捨てて僅かずつ打撃を与えていく。

「…3。」

 常人の兵との闘いも続く。数的に劣勢に陥りながらも、奮迅の働きをして効果的に敵を削っていく。だが、最後まで的確に指示を下していた中剣令の声が途絶えた。
 なおも喚声は続く。輿を担ぎ荷を運ぶ壮丁達も武器を取り最後の楯と成らんとする。
 骨のひしがれる音が重なり、だが鋼を打ちつける響きが高く闇を切り裂く。砕けた角笛が震えるに似た低いしわがれた唸りが長く続き、重量物が落ちる音と共に終る。

「4。」

 女達の接近を制止する声が重なり、ことごとく断ち切られる。アウンサの名を呼ぶのがかすかに聞こえた。
 最後には、輿を取り囲む得物の金属音、荒い出入りを繰り返す幾重もの呼吸が空気を埋めた。

 左肩に立て掛けていた黄金造りの細身の剣を握ると、輿を護る矢楯の扉を殴り飛ばし、王女は外に出る。

 甲冑は着ていない。緋色の糸で華麗な刺繍を施した冬着を羽織り、裾に引く薄桃色の山蛾の絹が寒風に翻る。
 冷たい空気を鼻腔が吸い込み、鋭い痛みが脳まで痺れさす。黄金の聖蟲は紅の髪の中で微動だにしない。聖なるカブトムシは寒いのは苦手だ。

 空中に幾重もの斜線を描いて氷の粒が走り抜け、夜を淡い灰色に塗り込める。暗くはない。

 地に足を着く。剣を手にする王女に群がる兵も対応を決めかね、息を呑んだ。
 足元に転がる女官の骸を見やり、目を上げ野に散らばる甲冑の光を数える。
 誰が寄せ手の隊長かは知らぬが、正面に立ち塞がる者を傲然と見据えて静かに話し出す。

「まずは見事な計略、と言いたいところだが、虎の子の獣人は我が兵によりすべて討ち取られたな。残存も30余りと、神兵を相手にするにはちと足りぬ。」

 問答無用に斬り掛かろうと長柄の武器を振り上げる武者に、鋼の勁さの視線が飛ぶ。魂を刺撃され、男は凍りついた。
 誰も動かない。背後を囲む兵も、後列で弓を構える者も、アウンサが下す審判に耳を傾ける。

 紅を引いた唇が斜めに歪み、笑みに変る。怒りではなく、嘲弄が色に浮かぶ。
 黄金の鞘からするりと剣を抜く。ギィール神族の手になる宝剣だ。細身で流麗だが、3人ほど斬ってみても刃毀れ一つしなかった。

「メグリアル王女 焔アウンサ、人殺しは好まぬが、嗜む。」

 

 …気がつけば、元の村だった。燃え上がる焔が防風林の奥で赤々と輝き、凍えた身を自然と吸い寄せる。

 アウンサは右手に提げる剣を見る。切先から柄元まで、全長が血に塗れ鋼の輝きを見せる部分は無い。
 33名を斬ったのだ。返り血でアウンサ本人も深紅に染まり、素の表情も窺えぬ。
 高揚感は失せた。身に滾る熱いものが鎮まると、急に寒さが凍みて来る。カブトムシの聖蟲は寒さに弱く、神兵も常人とその点は変わりない。

 街道を振り返る。輿の傍に燃える松明は、1里(キロ)も離れていない。

「戻って、生存者をこちらに連れて来ねばならぬな。まだ何名か息があったはずだ。」

 だが疲れた。力を使い果たしたのではない。魂が張りを失った。
 大量に人を斬る、それも傍若無人な強さで無抵抗に等しい者を斬るのは、心に重い悔恨を刻む。たとえ我が兵を損ねた者でも、我を殺さんと襲いかかっても、神兵の力はそれほどまでに隔絶している。

 降り積もる氷と身を切る風とで、全身に浴びた血液と脂が凝り始めた。いくらなんでもこのままでは動きが取れない。
 一度洗って衣服を替えてでないと、なにもする気にならない。

「急がねばならぬ。火の傍に連れて来れば助かる者も居るかもしれぬ。」

 だが思いとは裏腹に、足は少しも進んでいない。アウンサはそれを疲労によると誤解する。未だ鋭敏な直感が危険を報せているのだと、気付かなかった。

「村長の家の裏手に、石造りの倉庫が有る。替えの衣服はその他の荷物と共に納めてあるから、火を免れただろう。早く、」

 井戸が有る。四方の炎に照らされる中、そこにだけは水が有る。アウンサは手と顔を洗おうと、ふらりと傍に寄る。
 釣瓶は井戸端に転んでいる。昼間クワアット兵が使って、その後の混乱で散らかしたままだ。
 自分で水を汲まねばならない。
 剣を置き、右手を開いて火の明かりに照らして見る。ほんのわずかの掌だけが血に染まっていなかった。

 重い釣瓶を抱えて、井戸の縁から底を覗く。揺らめく水面が天を焦がす炎を映し、火の粉に煌めきながら、

 眼が合った。

 井戸の中に女の顔が有る。アウンサは瞬時、自分を見たと思う。
 殺戮の喜びに口が耳まで裂け瞳は炎を越える輝きを発し、罪悪感に揺れる魂を直撃した。これは私だ。人殺しの貌だ。

 ずるり、と漆黒の髪がアウンサに絡み付く。長い黒髪が蛸の触手の如くに自ら蠢いて、血に凝る王女の身体を井戸に引きずり込む。
 井戸の縁に手を掛けて抵抗したが、指が滑り坑に落ちる。
 顔はますます近付いた。子供のように黒い髪を持つ美しい、高貴な顔立ちの、だが禍々しい女だ。

 光が溢れる。暗い井戸の底から、青く眩しく。青晶蜥神の力を秘めた聖なる光が、剣の形を取り。

 

 

 最初に異変に気付いたのは、遠くカプタニア王宮の頂上、神聖神殿の夜勤の巫女だ。
 黄金の聖蟲の飛来に驚き、直ちに神母クメシュを呼び出す。
 おっとり刀で「文字の間」に飛び込んだクメシュは、甲虫がメグリアルの門をくぐるのを見て、誰が滅びたかを明確に知る。

「アウンサが、あの娘が死にました…。ああ!」

 

 早朝、一面霜に覆われた街道を戻った神兵デズマヅは、村の前にうなだれて座る若き神兵の姿を見る。3名のクワアット兵も同様に打ちひしがれて居た。
 木の焦げた臭いに遠くからも状況は察していたが、敢えて尋ねる。

「アウンサ様は、姫様はどうした。」
「いらっしゃいません。どこにも、焔アウンサ様だけが見付からないのです。」
「なんと、…。誰か生存者は、事情を知る者は残ってないか?!」

「弟君が、かろうじて命を留めておられます。気を失って霜に覆われて居ましたので、今は火の傍で回復を待って、います。」
「やんぬる哉!」

 生存者は3名のみ、重傷者の多くは寒風に晒され凍え死んだ。
 敵に生き残りは無く、所属を知る手掛かりもまったく持っていない。肉塊の山と化した獣人が、夏に起きたデュータム点のガモウヤヨイチャン暗殺未遂事件に関りがある、とだけ証す。

 近くの砦から応援を求め王女の姿を必死で探すも見付からず、3日後炎に崩れた家屋の残骸に隠された井戸の中から骸が見つかった。
 惨い遺体だ。心臓を抉られ背まで貫き、左の肩口を切り裂いて刃が抜ける。それ以外の傷が無いのは不意打ちだった為と、襲撃者が一撃で目的を果たして引き下がる熟達である事を示している。
 ただ、全身の肌に細かい筋が幾重も残っていた。凄まじい力で縛られ井戸に引き込まれたのだが、神兵をも凌ぐ力の持ち主とは何者であろうか。

 意識を取り戻した弟から、デズマヅは事件のあらましを聞く。琴ナスマムは寝台に臥せたまま、涙を流して兄に詫びた。

「もうしわけ、申し訳ございません。兄上。」
「言うな、もう何も言うな。死んではならぬぞ、陛下の御前にて焔アウンサ様の最期をお伝えするまで、死んではならぬ。いいな絶対だ。」
「あにうえ…。」

 だがデズマヅは誰かが責任を取らねばならぬと知っている。弟を、若いシミトヰを救うには、やはり。

「お前は死んではならぬぞ。いいなこれは命令だ。神兵中剣令が命ずる。黙って服せよ。」
「あにうえ。」

 

第十二章 普通の人々

「やっと見付けた。苦しかったろう痛かったろう、こんな暗い部屋に押し籠められて。
 でも大丈夫、わたしはお父さんの友達だ。君が悪い人に捕まったと聞いて、助けに来たんだ。
 さあ行こう。君はお父さんの遺志を継がなくちゃいけない。いいや、そうじゃない。君が、お父さんの夢なんだ。
  おじさんが手伝ってあげよう。お父さんの名誉を回復する、うん、君なら出来るんだ…。」

 

 大本営、武徳王の本陣は案外と神兵の姿が無い。
 必要無いと言った方がいい。

 武徳王を直接護衛する神兵は、カプタニア神衛士と呼ばれる。カンヴィタル王族の男子および黒甲枝の子弟より志操堅固なる者を選抜して、緑金の甲翅を持つ聖蟲を授ける。
 この聖蟲は特殊な能力を持っている。黄金の聖蟲に完全服従し、遠隔で操作が可能なのだ。
 ハジパイ王が大狗に授けているものと同じだが、人間が戴く蟲はさすがに少し違う。武徳王の聖蟲のみに反応する。

 もっとも、人格識見共に優れた武徳王がむりやりに神衛士を操作するはずも無し。もう一つの付随する能力が重要なのだ。
 つまり、緑金の聖蟲が見聞きした情報を、武徳王も同時に知る。遠隔で操作するのに必須の機能を、情報伝達のみに用いていた。
 もちろん四六時中感覚が繋がっているわけではないが、いざとなると十数名の神衛士の視点全てを同時に連結する。
 武徳王は司令塔となり、すべての神衛士が一体となって数以上の働きをする。

 ボウダンの大本営には神衛士は6名が従う。だが各部署に散り情報伝達の能力を利用して武徳王の名代を務め、直近の護衛は2名のみが当たっていた。

 傍近くには居なくとも、外周には神兵は多数居る。
 本陣をぐるりと囲んで近衛兵団が配置され、ゲイル騎兵や軍勢の攻撃には鉄壁の防御となる。強攻策で害するのはまず不可能。
 現に大審判戦争において100を越えるゲイル騎兵の一大集団が大本営に突入したが、近衛兵団に跳ね返された。

 常識的には姦計を用いるべきである。
 間者をしのび込ませて毒や煙、炎で害するのだが、これらを防ぐには力より数、なにより人手が必要だ。
 また武徳王の近辺には大臣や官吏、女官侍従侍女、神官巫女など多数の非戦闘員が従う。彼らを護るのも、神兵よりはクワアット兵が適している。
 クワアット兵の護衛は禁衛隊と呼ばれ、彼らが武徳王警護の主体だ。

 更には金翅幹元老員、中央軍制局の将官や衛視の神兵が随時侍っている。彼らも最終的な護衛を受け持つ。

 これら幾層にも重なる防御陣を突破して武徳王を暗殺するなどは、考えるだけ無駄であろう。
 一方で、武徳王の名代として各地の式典や祭礼にメグリアル王族が頻繁に遣わされる。
 旗印を倒して褐甲角王国に打撃を与えんとすれば、これを標的にする方が妥当で確実だ。
 事実、メグリアル王家の者は幾人も暗殺に倒れている。

 

「現今の情勢下において、メグリアル王家を標的にする意義はほとんど無い。カンヴィタル武徳王が直接陣頭に立ち神聖王ゲバチューラウと交渉なり戦争をするとなれば、」
「神聖宮殿奥深くに納まっているのに比べれば、はるかに成功の可能性は高い。」
「おお、まさに千載一遇の好機と呼ぶべきだろう。ここが先途。犠牲を惜しんではいけない。」
「聖蟲を戴かぬ普通の人間が方台の支配権を奪回する為に、避けては通れぬ道だ。」
「天河より遣わされし救世主を人の手で打ち破ってこそ、我らは天と対話が叶う。」

「ハハハ、お前達は呑気でいいな。夏以来何人の刺客がガモウヤヨイチャンに討ち取られたか、もう忘れたか。」

「他人事のように言うな、自分だけが生き残りおって。」
「だからこそ私には発言権が有る。聖蟲を持つ者を暗殺するのは無理だ。」
「…困難は認めよう。だが過去に例が無いわけではない。十分な策が必要という話だ。」

 誰もが興奮する。武徳王暗殺などつい先日までは口にする事すら憚られた。
 彼らも褐甲角王国に生まれた者だ。天地の理と同様に、王国の秩序を受け止める。
 人の上には救世主、カンヴィタルの武徳王が鎮座しなければ世界は覆る。かってギィール神族が人を遊戯の駒のごとくに闘い合わせ殺していた時代に逆戻りする。
 それなのにガモウヤヨイチャンの登場以降、急速に禁忌が剥ぎ取られる。神聖不可侵な存在から現実に生きる覇王へと、意味付けが変わってしまう。

 何故か、を問う者はもはや居ない。時代が変わってしまったから、それで十分だ。
 変わらないのは自分達、只の人にはなにも与えられない現実だけ。故に彼らは動かねばならない。

「”毒牙”は使えるのか?」

「使ってみなければわからない、のが正直なところだ。もう4季月も隔離し毒抜きの処理をされている。以前のようには動かないだろう。」
「陽の光の下で動けるのか?」
「それは問題ない。健康、と呼んでいいのか、とにかく体質の改善は進んでいる。このまま1年も毒を吐き出し浄化すれば、普通の人間と同じになると思われる。」
「それでは困る。」
「正直、今この駒を使うのが適当か疑問だ。能力を生かせる、もっと確実な標的に当てるべきではないか。」
「武徳王だから、意味が有るのだ。和平交渉が行われる今だから、やるのだ。」
「確かに。ガモウヤヨイチャンが帰還した後では、手遅れだろう。」

「今一度”毒牙”をガモウヤヨイチャンにぶつけてみるのは、どうだ。」
「ああ、それは愚人の考えだ。メウマサクも馬鹿だ。青晶蜥神の救世主にそもそも毒が効く道理が無かろう。」
「まったく。むしろ毒の臭いがしたからこそ、正体がバレたのだ。」

「臭いか。」
「白粉の香りで誤魔化すがな、かなり特徴のある臭いを出す。」
「それなのだが以前、つまりメウマサクに飼われていた時に嗅いだ臭いよりも、今の方がかなり強い。腐敗臭が有る。」
「毒抜きをしているのではないのか。」
「だからこそ、これまで慣らしてきた体内の毒が分解して、悪臭となって漏れ出ている。これがすっかり抜けきれば、獣人としての能力も失うだろう。」
「つまりは、今しか時が無い。」

 彼らは車座になって、布に記した武徳王本陣配置図を見る。
 現在武徳王は、ボウダン県西部のとある館を仮宮として逗留する。小高い丘の上にあり、麓に拡がる草原に近衛兵団1万が布陣する。

「近衛は無視して構わない。」
「禁衛隊だ、やはり厄介なのは。厳重という言葉が軽く感じられるほどに人モノの出入りを監視している。」
「悪臭を発する少女など入れる道理が無いな。」
「だが子供であるからこそ、隙を見出せる。近隣の町村から童子を数名招き入れ、神殿で奉仕に用いている。」
「計画通り。だからこそ”毒牙”を連れ出した。」

「水は?」
「井戸。排水設備はまあ溝に垂れ流しだ。」
「ここから入るのは、」
「無理。既に試した者が居る。『スルグリ』の刺客らしいのだが、簡単に見つかり矢で針山になってしまった。」

 一人、手を挙げる。彼の部所でなら臭いを誤魔化して入り込めると言う。

「漬け物の樽の中にソレを入れれば大丈夫だろう。」
「ゲルタ漬けか。」
「悪臭というのなら、アレに優るものは無いよ。」
「美味いのだがな。あれは陛下も召し上がるのか?」
「そりゃそうだろ。」

 ゲルタ漬けとは、野菜の塩漬けの事だ。塩のみならずゲルタの塩干物も同時に漬け込むので、この名を持つ。
 ゲルタはもともと粥の出汁に使われる。漬け物の味を引き出すにも欠かせない材料だ。
 だが本来悪臭を放つ下魚であり、臭いを抜く為海水をじゃばじゃば掛けられ干物にされて、塩を纏う。
 漬け物樽の中では海で泳いでいた生前を思い出すのか、盛大に発酵臭を放ち出す。
 その臭気が最も強烈な時分が、食べ頃だ。

「だがそれほどの悪臭を放つのであれば、連れ出してよくバレなかったな。カニ神殿の地下牢で厳重に監視されていたのだろう。」
「さすがにカニ巫女でも、アレには直接手を触れられなかったのさ。トカゲ神官が手当てする以外は、牢の外からしか接しない。」
「だが居なくなればさすがに、」
「身代わりに背格好の似た屍骸を置いて来た。それこそ悪臭を放つ薬品を掛けて、ああ顔も分からないように酸で溶かした。」
「その死体はどうした。作ったのか?」
「デュータム点ではその必要は無い。ガモウヤヨイチャンのところに押し寄せる病人が旅の途中でばたばた倒れている。哀れなものだ。」

「だが、アレはちゃんと言う事を聞くのか。メウマサクでないと操れないのではないか。」
「それはうまいことやっている。たかが子供だからな。」
「どうだかな。俺は獣人の処方を施される前の双子に会った事がある。8つだったが、非常に利発な子だったぞ。」
「5年も前の話だな。」
「メウマサクの調教方針には、知能の高さも重視されていたはずだ。金雷蜒王国の獣人は戦うだけの愚かな傀儡に過ぎないが、”毒牙”は暗殺用だからな。」

「話を戻そう。漬け物樽で武徳王の近辺にまで辿りつけるのか?」
「侍従の厨房までだ。そこから先は俺の手に余る。」
「宮殿ではなく、大きいとはいえ民間の屋敷だ。十分だよ。そこから先は私が導こう。」
「手があるか?」
「女だ。協力を承諾した者が居る。香炉を捧げる童子に化けて、武徳王の傍まで行けるだろう。」
「襲撃の日にその女が当番に就いているとは限るまい。」
「俺に任せろ。近侍の当番表をさりげなく小刻みに変更して、当日にそいつを配置出来る。」
「その女、信用できるか?」
「賢しい奴でな、いやそれほど胆の座った女じゃない。血を見る仕事には使えんが、毒ならば。」
「では樽から出すまでで、香炉の所にはその女の手引きで入る。」

「だが肝心の”毒牙”の効力はどうなのだ。毒抜きされて効力が失せてはいないか?」
「室内では甲冑を着けてはいないだろう。顔が出ていれば大丈夫だ。」
「爆裂筒を改良した。毒のみならず鉛丸を混入して弾けさせ、細かい傷を与えるのだ。傷から入った毒は確実に。」
「おおそこまでやるか。」

「それなら部屋に入った直後に爆裂させても良いのではないか。」
「そこまで甘くは無いだろう、神兵が居ないわけでは、」「いや案外、」「やはり至近で爆裂させねば、」「毒の種類が……………。」

 

 

 「チューラウの訪い」を受けた凍える夜。武徳王が行宮に用いる屋敷の厨房に、漬け物樽が持ち込まれる。
 身分の高い人々の為ではなく、侍従侍女の食事を用意する所だ。
 待ち受けたのは中年の料理人。樽を抱えた2人の男を密かに迎え入れる。

「これか。よくこんなモノに入れるな。」
「身体が小さいからな。しかし恐ろしいものだな、この中にはちゃんと漬け物が入っているのだぞ。」
「おいまさか、人間がそのまま漬け物と一緒に、大丈夫なのか?」
「おい、おい生きてるか。」

「…返事が無いぞ。おい。」
「だいじょうぶだ。”東天紅照過る闇”」
『”明けて蒼きは海原の、浮かぶ白帆になびく風”』
「ほら。」
「合言葉が無いと反応しないのだな。」
「輸送中ごつんごつんとぶつけるからな。叩いたくらいでは反応しない取決めだ。」

「おい、漬け物は苦しくないか。」
『なにもかんじない。』
「だが塩水に浸かっているのだろう、ほんとうに大丈夫なのか?」
「まあここまで持って来たのだから、案ずるのは手遅れだ。作業を進めよう。」

 樽は男が一抱えする大きさで重量は40キロ。イヌコマの背に乗る大きさだ。
 人間が入ると考える者はまず居ない。子供であってもぎりぎりの大きさで、さらに漬け物まで入れてしまっては息をするのも不可能だ。

「革の管を通して、外気を吸っていたのか。」
「おい、手足はちゃんと動くか。」

 漬け物と一緒に石の床に投げ出された少女は手足が小さく縮こまり、まるで卵だ。
 固まった腕脚をゆっくりと伸ばしていく。カタツムリが這う速度で、じわりと開く。

『動くみたい。』

 首をもたげる。灰色の瞳が揺れる灯木の火を力無く映す。さすがゲルタ漬けの悪臭を放つ粘液は、獣人といえども目には悪い。
 髪は短くまるで男の子だ。デュータム点で捕われた時毒を含む白髪は丸刈りにされて、最近ようやく伸びてきた。樽に入る前に毛染めを使ったので不自然に黒い。

「よし。おい、水で洗うぞ。見張りを頼む。」
「大丈夫だ、この時間はさすがに厨房に人は来ない。仕込みに俺が残って居るだけだ。」
「検査はいつ行われる?」
「日の出直後と残六刻(午後4時)の2回。」
「ではこの漬け物は隠しておけ。絶対に食べるな。恐らくは、これも毒になっている。」
「おい、そんなもの検査の役人に食べさせたのか! 死ぬぞ。」
「そこはうまくやったのだ。食べさせる分は別に袋に詰めていた。」

 少女は全裸で立ち上がる。背は10才の子供くらいで頭は少し大きい。13才と聞くが成長の痕跡が無く、子供がそのまま朽ちていく印象を与える。

「この肌の色は、漬け物のせいか。」
「そうじゃない、毒を仕込むと斑になるらしい。」
「触っても大丈夫なのか?」
「う、どうだったかあまり詳しくは、」

『触る手に傷が無ければ大丈夫。ガモウヤヨイチャンさまがそう言った。』
「そ、そうか。」
『男のひとに触られたくない。自分でする。』

 少女は自ら手桶の水で身体を洗い、用意された衣服に着替える。斑の皮膚を隠す為に白粉を塗らねばならないが、鏡が無い。

『鏡。』
「え?」
『鏡が無いと、うまく塗れない。』
「鏡なんて、無いよな。」
「厨房にあるわけが、…女官の部屋にならあるだろうが、どうしよう。」
『大きくなくていい。』

 残念ながら十二神方台系では鏡は結構な高級品だ。少女は自分が物質的にはかなり恵まれた環境で育った事を知らない。
 侵入の手引きをする男達は右往左往する。がさすがに古事には詳しい。

「そう、そうだ。昔、紅曙蛸女王時代には黒い石盤の上に水を張って鏡の代わりとしたと聞く。水ならいくらでもあるから、な。」
『…うん…。』

「おい、おい。女連れて来る時は鏡もなんとかしろ。」
「ああ。言っておく。」

 衣服は2着有る。今晩は動き易い服装で屋敷の隅に隠れ、本番では立派な童子の衣装を着けて、香炉を武徳王に奉じる。

「今晩は、この厨房か?」
「いやもっと見付かり難い場所が有る。肉吊り倉庫なら、臭いがきつくても見付からないだろう。」
「そこから出る時はどのように。」
「この衣装で普通に出ればいい。女を迎えに寄越す。これほど背が低ければ、普通に奉仕の子供と間違えられるだろう。」
「陽の詐術、という奴だな、うんそれでいい。」
「だが迎えの女と離れて、途中一人で抜けねばならない道が有る。ここで迷子になられると困るのだが、」

「おい、大丈夫だな。」
『武徳王の寝所謁見の間控えの間渡り通路武者隠し大臣の控え6室中央軍制局が陣取るのは西の離れ衛視局は厩の傍の大屋根、警護の兵士は廊下の角ごとに1人ずつ、扉は2人』
「建物の内部構造を覚えたのか。」
「言っただろう、頭は良いのだ。」

『ねえひとつ聞かせて。』

 水を張った桶を覗き白粉の塗りを確かめていた少女が、男達に振り向く。白い仮面にぽっかりと黒い眼が光る。

『警備に怪しまれたら、殺してもいい?』
「だめだ。武徳王の部屋に辿りつくまで絶対に怪しまれぬよう、身を慎め。どうしてもダメならば戻って来い。」
『簡単に殺せそうな人でも?』
「死体が見付かれば警戒の段階が変り、廊下が封鎖され身動き取れなくなる。そうなれば終わりだ。分かるな。」
『死体を隠せばいいのね。そう。』

 男達は決して人殺しではない。兵としての訓練も経験も無い。だから少女の言葉がよく認識出来なかった。
 警備に当たるクワアット兵は甲冑を身に着け、不意を衝いたとしても容易く倒せる相手ではない。男3人で掛かっても、1人も倒せないだろう。
 いかに獣人の力を持っていても、武器の無い彼女になにが出来るとも思わない。
 人殺しの簡単さを知らない故の、臆病さだ。
 非力な自分をものさしに物事を考える彼らが少し哀れに思えて、少女は笑った。声も出さず、暗い口を歪めるだけで。

 

「なにその顔、自分で塗ったの?」
『鏡が無いから、それに暗かったし自分の道具じゃないから。』
「まるで葬式に使う土のお面じゃない。仕方ないな、後で私が塗ってあげるわよ。」

 べっとりと固めた白粉に目だけが覗く化粧に、女は呆れて溜め息を吐く。
 一晩半地下の肉吊り倉庫に身を潜めた少女は、早朝女に連れ出された。服装の整った立派な身分を持つ女性だ。
 協力者なのだろうが、男達と様子が違う。彼女から染み出る自信が、立ち位置の違いを如実に示す。

『ねえ、ひとつ聞いていい?』
「なに。」
『あの人達、バカでしょう。』
「あんたをここまで連れて来た連中? まあ、ね。」
『バカの相手をするあなたは、やっぱりバカ?』
「一緒にしてもらいたくないけれど、そうね。」

『やっぱり違う。あの人達、自分がバカだと言われたら物凄く怒るよ。』
「だからバカなのよ。」

 年齢は20代半ば、いやもう少し若いかも知れない。精神年齢が実年齢より高く、年嵩に見えてしまうのだ。
 彼女を見ていると、或る人を思い出す。
 自分を牢に入れたトカゲの神様の救世主。あの人もやはり中身と外見に大きな差が有る。
 ただ黒髪の救世主は努めて実年齢に見える芝居を行っている。女のように知性をひけらかしたりしない。

 女は少女を化粧部屋に連れていった。
 女官や侍女が多数居る中、堂々と異形の少女を鏡の前に押し出す。白塗りのこどもに、女達はさっと身を引く。
 さすがに不審に感じるのか、一人が尋ねて来た。

「アクノメナさん、その子は誰です。」
「地元の有力者の子よ。奉仕させるよう頼まれたの。」
「でも、なんでそんなに白粉を塗るの?」
「変?」
「ええ、まるで正体を隠してるみたいに見えるわ。」
「ほら。ちゃんと自分で説明しなさい。」

 いきなり振られて、少女はびっくりした。ここは彼女が誤魔化してくれるはず。
 だが自分で答えた方がよほど真実味が有る、と理解する。なにせ少女は発育が遅く、ただの10才程度にしか見えない。

『わ、わたしは、その、神官の娘で、武徳王陛下にお仕えする、』
「そうじゃなくて、どうして白粉を塗ってるかよ。」
『う、…うわ、うわあああああん。』

「あ。ちょっと泣かないでよ。アクノメナさん、これは。」
「顔に痣が有るのよ。病気か生まれつきか知らないけれど、ちょっと人前には出られないくらいの。うん、少し傷も有るわ。」
「どうしてそんな子が、陛下に御奉仕をすることに。」
「だから、そういう子だからこそ、親は一世一代の誉れを欲しがるのよ。陛下が人界に下られるこんな好機は、普通有り得ない。」
「あ、…あーそういうことね。そういう、」

 奉仕とはいえ無作為に子供が選ばれるわけではない。
 僅かの間でも武徳王に仕えた体験は幾度も引き合いに出され、その子の将来に資するだろう。
 地元の有力者は大金を積んで子供を選んでもらう。仲介をする金翅幹家にもなかなかの謝礼が入る。

 女、アクノメナは武徳王には直接仕えない。金翅幹ゥドバラモンゲェド家の者だ。
 ”破軍の卒”の一、ゥドバラモンゲェド家は褐甲角神信仰の理論的支柱となる神学を表芸とする。はるか昔に聖戴権を返上し、聖蟲無しで王国に貢献していた。
 現当主 ゥドバラモンゲェド華シキルは女人ながらもきらびやかな才を誇示し、元老院において強い影響力を持つ。
 新たなる救世主の降臨、千年紀の幕開けに際し、王国の行く末を神学的に導く大役を担っていた。

 その侍女であるアクノナメも只者ではない。元は蜘蛛巫女見習いで、才能を見込まれてゥドバラモンゲェド家に迎え入れられた。
 黒甲枝でなくともせめて男の身に生まれていれば、軍でも官吏としても望むがままの地位を得られたろうと噂される傑物だ。
 男の身であれば。

「さて。」

 女官侍女に与えられるのは直径が20センチほどの丸い金属鏡だ。これを十数名で共有する。
 少女が傍によると、それまで支度を調えていた侍女が快く席を譲ってくれる。改めて自分の顔を見て、なるほどと納得した。これでは左官の壁塗りだ。
 アクノメナは濡れ手拭いで拭き取ると、自ら筆を取って化粧を施してくれる。手は早く確実で、少女がやるよりも遥かに上手に顔が作られていく。

「この斑紋、癒らないの?」
『10年毒を抜けば少しはマシになると、ガモウヤヨイチャンさまは仰しゃいました。』
「そうか。お腹空かない?」
『そう言えばそんな気もします。でも胃の中いっぱいですから。』
「ふうん。」

 漬け物樽に入る前に、爆裂筒を胃の中に納めている。これから延びる紐を噛み切れば爆発するのだが、生憎と歯を弥生ちゃんに斬られてしまった。

「その歯だと、ろくなもの食べられないね。」
『”入れ歯”ってのを使います。木で作った歯を上下に入れて噛むんです。』
「でも固いものはだめでしょ。」
『はい。』

 ぽんと肩を叩かれて、鏡を見る。そこには人形の美しさを持つ、人間とは別の生き物が居た。

『かなり、変。』
「綺麗じゃない。」
『これだととてもよく目立つ。困るんじゃない?』
「みんなに良く顔を見てもらいなさい。今日が限りなんだから。」
『そう。なのかな。』

 用意された童子の衣服を着付けて立ち上がると、その場に居た女達が手を叩いて褒めてくれる。気恥ずかしくなった。
 こんなに多くの女性の中を、少女は過ごした事が無い。
 父メウマサク大神官と少数の下僕、自分をここに連れて来た男達。合理主義一辺倒で、審美眼など持ち合わせていない。

「気に入らないところ、無い?」
『凄いです。素晴らしいです。』
「よし。じゃあ香炉を奉じる巫女のところに行こう。」

 化粧部屋の女達に送られて、少女は再び廊下に出た。向かう先は武徳王の御座所となる本館、拝殿。
 これより先は警備が倍も厳しくなる。クワアット兵が冷たい空気の中、厳しい表情で見張っている。
 彼らは皆一様に少女をまじまじと見る。白粉で固めた顔の異様さは自分でも知るから、努めて平静さを保つ。
 だが勝手が違う。
 今日は何故か、恥ずかしい。化物である己が身を探られるのとは異なる、心の表面を柔らかく撫で回される羞恥が有る。

「どうかした?」
『恥ずかしい…。』
「なにが。綺麗に整ってるわよ。」
『だから、恥ずかしい。』

 「火の部屋」に入る。
 武徳王の用いる火は、火打ち鉄を使わない紅曙蛸女王時代の熾し方をする。柳の小枝を強く擦る時間の掛る方法で、熾した火は竃の中で大切に保管されていた。
 香炉はその火を運ぶもので、美しく彩色された鉢に香木を燃料とする。

 「チューラウの訪い」を迎え、ボウダンの草原もすっかり白い霜に覆われた。
 冬の日の炎の奉仕は3000年続く宮廷行事であり、儀礼が厳格に定められ格調高く美しく、絵巻物にも擬せられる。
 香炉を運ぶ童子の姿は、詩に残された紅曙蛸王国の往時を慕ばせる。

 老人の多い大臣達の為に、拝殿はあらかじめ暖めて万全の温もりを得たところで入室を願う。
 武徳王が朝議を行う直前に、香炉を運び火を捧げる。

 火を司るのはネズミ巫女だ。かって額に聖なる白ネズミを戴く神官のみが火を熾す技を知り、人々に光と熱を与えたと伝わる。
 巫女は30代後半の中年女性で、美しく着飾る少女を上から抑えるかに睨む。

「この娘が、今日の奉仕を。」
「はい。身分はゥドバラモンゲェド家が保証します。」
「アクノメナ殿の御手配ならば問題は無いでしょうが、この白粉はなんですか。」
「病の為容貌に障りがあり、それを覆い隠す為のものです。世間一般の娘の幸せを得られずともせめて、と陛下の御神徳に縋る親心にございます。」
「まあ、それはお気の毒な。よろしい。そなた名は。」

 名は困る。メウマサクなどと答えてはたちどころに叩き出される。
 だが少女は父の同僚を幾人も知っている。当たり障りの無い、格の高い者の名を借りる。

『トカゲ神権之神官チャキルクが娘エントーサナと申します。』
「なんと権之神官ですか。聖山にて天の理を究める御方か。」
『さようにございます。されど人界にて民人を救う勤めを怠ったが為我が神罰を受けたと思しめ、聖山より降れとの命を授かりました。』
「そのような事情であれば、納得しましょう。ではアクノメナ殿、この娘お預かりいたします。」
「よろしくお引き立て下さいませ。」

 同じ十二神信仰の関係者と知ってか、ネズミ巫女は相貌を崩して笑った。いきなり人懐っこくなる。
 アクノメナの役目はここで終り。だが事を起した後は彼女にも類が及ぶであろう。
 他人事ながら心配になり、少女は小声で尋ねてみる。

『これからあなたは、どうするの。』
「そりゃ高飛びするわよ。今からすぐ。」
『最後に教えて。金翅幹家、それも一番偉いゥドバラなんとか家でしょう。これじゃあダメなの?』
「うーん。」

 女は伸び上がって、子供に対して何を語ろうか考える。かなり難しい質問だ。
 ゥドバラモンゲェド家に仕える事は、何の門地も持たぬ只の女の出世としては十分な高みと言えるだろう。物質的にも満足すべき待遇だ。
 それを捨てる動機を、少女は尋ねている。だが自分でも詳しくは語れない。

「強いて言うならば、見てみたいのね。誰が一番偉いかを。」
『変な動機。』
「人はやりたいことをやるべきなのよ。あんたにはそういうの、無いの?」

 去っていく女の背を、少女は怪訝な眼で見送る。
 やりたいこと? 今のいままでまったく思いつきもしなかった。
 考えてみれば、何の為に自分はここに居るのだろう。父の夢を叶える? だが既に父も妹も居ない。復讐? だがガモウヤヨイチャンを憎いと思わない。

 大きな陶器の香炉を渡される。子供の力でやっと持てる重さだ。もちろん獣人の力が有る少女には苦にならない。
 重そうにしないので、ネズミ巫女は不思議に感じる。

「大丈夫? もっと腕で抱え込んでもいいのよ。」
『力は有るのです。』
「それならいい。しかし、重いからと投げ出すのは絶対に禁止です。必ず跪いて、ゆっくりと床に置くのです。」
『はい。』

 ネズミ巫女は意地悪な人では無かった。明るく親切だ。子供の奉仕を支えるのだから当然である。ネズミ神は子供の神様、巫女は助産婦の役をする。
 少女は、しかし重いフリをした方がよいかと思い直した。
 非力な子供であれば警戒する者も無いだろう。香炉を運ぶので精一杯であれば、悪事を企むとも思わない。

「ほら、足元注意して。やっぱり重いわよね。」
『どうも、やっぱりちょっと重たいです。』

 中枢部に近付くにつれて、聖蟲を持つ人を多数見るようになる。
 武徳王は自らを民衆への奉仕者として位置付けるから、近侍には大臣初め普通の人しか置かない。だが黒甲枝神兵や金翅幹元老員が、朝早くにも関わらず多数詰めている。

 彼らの前を白塗りの少女が歩く。勿論目を惹いた。誰もが自分を怪しんでいる。
 神兵は感覚も桁違いに優れる。ほんの少しでも異常を感じれば、直ちに留められるだろう。

 背があまり高くない神兵が居る。甲冑ではなく特殊な革鎧を身に着けて、音も無く動く。
 額に戴くのは緑金の甲翅を持つカブトムシ。カプタニア神衛士だ。
 冷や汗が出る。この装備の神兵なら、速度も自分と同等に出るだろう。獣人の疾さを以ってしても逃げられないに違いない。
 彼に留められれば、万事休す。

「ご苦労様です。」

 ネズミ巫女の挨拶に、彼は軽く会釈して香炉を通す。
 少女はほっと息を吐く。アクノメナが仕上げてくれた化粧と衣装とが実に良く効いている。完璧な美が、ささいな異変を警戒の閾値以下に抑えてくれるのだ。

 何重もの玉簾を潜り、ついに武徳王の拝殿に入る。十二神の救世主は自身が信仰の対象である為に、謁見場は拝殿と呼ばれる。
 表面を滑らかに削った大きな角材を縦横に組み合わせた、他に例を見ない造りの部屋だ。真四角な室内なのに、森の感触と安心感がある。
 この屋敷は民間人の所有であるが、褐甲角王国の要人を迎えるための設備が整っている。これが正式な拝殿の様式だ。

 6人の老大臣は左方の壇に用意された席に着き、彼らが向かう正面の御簾の中に鎮座する影が見える。
 これが武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァク。二十三代目の褐甲角(クワアット)神救世主だ。

 甲冑は着装していない。背後に黒色重厚な一揃いが飾られて居る。服装は幾重にも重なる革衣で、黒褐色の地に赤茶色の縁が複雑な紋様を描く。
 額に戴くのは、やはり黒褐色の甲翅を持つカブトムシだ。一見すると黒甲枝神兵が戴く蟲と同じに見えるが、甲羅の縁が金色に輝く。
 これが原種。初代カンヴィタル・イムレイルが戴いたものと同じ形を留めていた。
 寿命も長くもう300年も生きている。通常の聖蟲はカブトムシもゲジゲジも100年の寿命であるから、極めて特別な蟲と呼べよう。

 すっきりと飾りの無い革衣を着るカブトムシ巫女が進み出て、ネズミ巫女から少女を受け取る。彼女の指し示すままに、香炉の火を室内の金鉢に移し変える。
 これまでは作法通り。
 隙を見付けて襲いかかろうと考えたが、部屋の中央で武徳王からは少し離れる。飛び出せば、どこへやらに潜んでいる神兵に取り押さえられよう。
 あと2歩、金鉢を仕切る柵の前に出なければ。だが環視の目は険しく、無駄な動きをさせてもらえない。
 躊躇する内に、やるべき儀礼を終えてしまった。

 困る。
 今回爆裂筒の起動は紐を噛み切るのではなく、引っこ抜いて始める。その紐は、見付からないように呑み込んでいるのだ。
 吐き戻すのにすこし時間が掛る。瞬時にとはいかない。

 気が付くと、自分一人が残された。先ほどまで指導してくれたカブトムシ巫女は下がり、ネズミ巫女は外に追い出されている。
 ぽつねんと、大きな部屋の中央に孤り立つ。
 振り返ると老人達が自分を見つめる。優しいとも隙が無いとも見て取れるが、明らかに自分を相手として構えている。

 爺の一人が口を開く。歯が無くふにゃふにゃして聞き辛い。

「よいかな。質問に答えなさい。」
『は? はい。』
「そなたの名を、教えておくれ。」
『わたしは、トカゲ神権之神官チャキルクが娘エントーサナと申します。』
「それではない。本当の名を教えてくれんか。」

 理解出来ない。これまで誰も自分を怪しむ様子を見せなかった。現に今も、武徳王の前に在ることを許される。
 正体がバレたのか。だが自分を取り押さえる兵も武器も見当たらない。

『…本当の名でございます。』
「父の名をたばかるのはやめよ。デュータム点のトカゲ神官長メウマサク。その双子の娘じゃな。」

 何故? 誰が密告したのか。
 いや、密告されているのに、何故自分はここに立って居られる?

『なにかのお間違えではありませぬか。そのような人の名を、聞いたことも、』
「嘘を吐かずともよい。すべてアクノメナが告発書に書いておる。まったくあ奴は、喰えぬ事ばかりし出かす。」

 自分をこの場所にまで送り届けた侍女アクノメナ、彼女がどうして密告するのか。理解できない。
 違う、そうではない。老人達の様子を見て判った。
 彼らがアクノメナの告発書に接したのは、たった今なのだ。葉片をそれぞれ回し見ている。
 どういう意図が有るのか、少女と書状を同時に部屋に送り届ける。

 でもそれならば、武徳王は真っ先に逃げるべきだろう。

『わたしが何者で、なにをする為にこの場に居るか。知っていらっしゃるのですね。』
「うむ。どのように陛下に害を為すのか、いかなる手順で起動するのかも書いておる。」
『何故殺しません?』
「儂は殺せと進言した。じゃが、…アクノメナは狡猾な奴でなあ、直ちに殺せぬ仕掛けを持ち込みおったのじゃ。」

 少女が背後の老人と受け答えしている間に、正面の御簾が上がり、武徳王が姿を表わす。あまつさえ立ち上がり、前に進み出る。
 障害物が無くなり、一気に飛び掛かる事も出来るだろう。
 その機を窺う少女は、武徳王の目に自分への敵意が無いと知る。
 刺客に対して憐れみさえ覚える眼差しだ。

『何故、わたしを殺しません?』

「そなたの命を救わねばならぬ、約束があるからだ。コトファーヘンよ。」

 はるか昔に忘れ去った自らの名を呼ばれ、少女は驚愕に表情を変えた。
 毒で麻痺する顔面を無理やりに動かし作った顔ではなく、心底より湧き上がる感情のままの素顔だ。

『その名でわたしを呼んでいいのは、亡き母上だけです。』
「コトファーヘン、美しい花の名を持つ娘よ。汝の命は軽く捨てて良いものではない。ガモウヤヨイチャン様より教わらなかったか。」

 武徳王が近付いて来る。二人の間には今や低い木の柵が有るだけだ。

「デュータム点において、そなたは一度ガモウヤヨイチャン様に成敗され、また命を救われ、今は人の姿を取り戻す過程にある。
 そなたを失えば我ら方台に住まう者は、如何にして星の世界の御使いに詫びれば良かろう。」

 これがアクノメナの仕掛けだ。告発書には一言「少女をお救い下さい」と添えてある。
 悪辣な罠だ。少女が何者でいかなる境遇にあるか、詳細を伝えて救世主としての有り様を問い掛ける。
 武徳王と褐甲角王国は、少女を殺せば弥生ちゃんに負い目を抱えてしまう。

「そなたの武器は、自身の死であると聞いた。だがそれで、そなたは良いのか?
 そなた自身の望みは何だ。余を害し復讐を果たすのが真の望みか。あるいはこの場に送り込んだ者の望みに従うか。」

 何の為に死ぬ。
 そう問われても、少女はそもそも生きるとはどういうものか、知らないのだ。

 彼女には眠りが無い。休息する時は心臓の鼓動自体を止める。恐ろしく稀な頻度で拍動させ、極力生体機能を低下させて休む。
 そうしないと、毒が活性化して身体を急速に蝕んでしまう。
 心臓が止まっている間も意識は有る。夢は見ない。何も覚えず何も考えず、身体から上る種々の感覚を遮断し、灰色の虚空に留まり続ける。
 生と死の狭間に漂い続ける少女に、それを失う哀しみを説いても響かない。

 だが望みが有るかと問われれば、考えざるを得ない。

『望み、』
「うむ。人の世に在る者は、生きる望みを持たねばならぬ。もしそなたが知らぬのであれば、決して死なすわけにはいかぬ。それが大人としての我々の義務だ。」
『義務。わたしが生を知らないから、殺せない。』
「そうだ。ガモウヤヨイチャン様はそなたに生命をお与えになられた。ならば余は、そなたに生きる意味を与えよう。」

『それが、褐甲角神の救世主としての、使命。』
「人を救う意志を持つからこそ、救世主と呼ばれる資格が有る。他の誰でも無い、武徳王カンヴィタルはそなたと対等に話がしたい。」

 それは違う、と思う。
 父メウマサクは、少女をこの場に連れて来た男達は、そんな風には考えない。
 人は、社会を形作る積み石の一つに過ぎない。誰が死んだとて損失は直ちに補われ、何事も無かったかに日常は進んでいく。
 生と死は共に無価値であり、どちらも現実の一側面を表わすのみ。苦痛と歓喜は移ろい行く記憶に過ぎず、歴史の織り糸の色でしかない。

 この世は永劫続く煉獄で、死だけが離脱を許す唯一つの方法だ。
 生と死のくびきから解き放たれた者をこそ、神と呼ぶ。

 神に近い存在として、少女は作られた。
 生きることに執着を持たず、死ぬことに恐怖を覚えず、時の流れにただ立ち止まり永遠を少女の姿で過ごす。

『永遠が、』
「うん。」
『永遠が、わたしの望みです。陛下はわたしに、永遠をお与えくださいますか。』

 ほあー、と背後から幾重にも重なる溜め息がした。
 老人達は問答の行着く先を知っている。この言辞を用いる者は、やがて或る一点に収束する。
 だが武徳王は諦めない。大臣達よりは幾分か若い王は、未だ運命の出口を求める。

「そのようなものを求めてはいけない。生命とは儚い、壊れ易く保ち難く、故に尊いものだ。二度と見える事の許されぬ客なのだ。」
『客?』
「うむ、魂とは己に与えられたものでは無い。天河十二神に遣わされた不可視の客だ。
 生有る限りにそれをもてなし、心ゆくまで現世を楽しんでいただき、何の悔いも無く天に再び還す。人の世とはそうであらねばならぬ。」

 二人が求めるものは同じなのかもしれない。

 だが武徳王の言葉に耳を貸しながらも、少女は慎重に爆発の機会を窺う。
 相手が十分に警戒しながらの攻撃であるから、ほんの毛筋も機を外せば、まったく効力を見られないだろう。
 父メウマサクにより、傀儡機械として振る舞うよう仕込まれている。元より理由など無くても死ねる。

 少女の説得が上手く進まないと見て、武徳王は大臣らに退室を指示する。老人達は離れるのを拒んだが、侍従に強引に連れ出される。
 がらんと空いた大きな部屋の中で、少数のクワアット兵のみが王に殉じる。
 少女の形をした美しい機械は、未だ結論を得ていない。カブトムシの兵隊の王が、自分に与えようとするものを見たいと思う。

『この場所は、永遠に近いですね。』
「生と死が交錯する現場は、常に永遠と隣り合わせに有る。だが生きてこそ、その意味を知る。そなたは生の意味を知りたくはないか。」

『ガモウヤヨイチャン様は、わたしに罰をお与えになりました。毒を奪われたわたしは、徐々に回復する神経の疼きに、生きる事が痛みと知ります。』
「それは罰ではなく救いだ。痛みの先に生の喜びが待っている。」
『誰が約束してくれます。わたしの知らない幸せが、必ず有ると。』

「では尋ねよう。ガモウヤヨイチャン様の与え賜うた痛みの世界は、そなたにとって地獄であったのか。」

 妙な事を聞かれた。痛みに苛まれる日常が不幸でなくて何だろう。
 だが少女は思い出す。毒を奪われ痛みが襲った当初、自分はそれを痛みと感じなかった。身体が分裂していく過程を観測する、そのように覚えた。
 精神が停止し思考が存在しない自分に、不幸も地獄もありはしない。痛みを否定的に評価する今こそが、人間回復の証明であろう。

『わたしは、…もう人間です。そうでなければ、このように語りはしない。』
「そうだ。獣でも人形でも無い。人であれば、他人と語り合い自ら望み、幸福を掴み取らねばならぬ。痛みを伴っても、生きるのだ。」

『だがもう止まれないのです。わたしに爆裂筒を仕込んだ人はお父様よりはよほど不器用で、筒を胃の腑の外に取り出せない。』
「大丈夫だ。学匠やトカゲ神官の力で必ずそなたを救ってみせる。青晶蜥の神剣の巫女も呼び寄せよう。」
『腹を二つに裂かれるのは、もうイヤです。』
「生きる事が望みとなれば、何度でも痛みに耐えられよう。必ず助けてみせる。」

 だが少女は知った。
 一度は痛みを受入れたが、再び毒を与えられ痛覚を消失されて気付いたのだ。これは、楽だ。
 ただの人間は、楽な道にたやすく溺れてしまう。

『永遠を、』
「む!」
『永遠はもう、わたしは要りません。あなたに、差し上げます。』

「待て!」

 爆裂筒を起動させるには、呑み込んだ紐を引き抜かねばならない。だがもっと簡単な手がある。反応が不規則で効果が完全ではないが、事は足りる。
 少女は自らの腹を拳で殴り、胃の中の筒をへし折った。
 2種類の薬品が反応して気体と化し、膨脹して臓器を突き破り、破裂して、

『…いたい!』

 

 

「陛下は。」
「お休みになられました。治療は一応終りましたが、どの神官も。」
「間近で弾ける毒の肉を浴びたのだ。御目が光を失う程度で済んだのが、むしろ不思議と言わねばなるまいよ。さて。」

 大臣の一人、「将軍」が武徳王に代わって暗殺未遂事件の裁きを下す。
 既に少女を陣屋に連れ込んだ者共は逮捕され、引き出されている。男達は予想外に早い捜査に対応しきれず、全員が捕まった。

「アクノメナは?」
「残念ながら、その女のみは逃がしてしまいました。最も近くに居たはずなのに、残念です。」
「あれは滅法知恵の回る女子じゃからの。」

「将軍殿。」

 元老員”破軍の卒”ゥドバラモンゲェド華シキルが、自らの侍女の起した犯罪に率直に詫びる。
 勿論彼女の不手際には違いない。
 だが低い身分から引き上げ、才能にふさわしい働きをなさしめ、王国中枢で用いて来たアクノメナに、これ以上何を与えれば良かったのか。

 将軍は自らの娘の歳の元老員に、複雑な眼差しを投げ掛けた。
 金翅幹元老員とはいえ彼女は聖蟲を戴かない。大臣と同じで、天より授けられる不思議は何も持たぬ。
 それが故の過ちであれば、人の限界としか言い様が無い。

「あの娘は賢し過ぎたな。金雷蜒王国ギィール神族の下で用いるべきであったかの。」
「申し訳ございません。必ず捕え裁きの場に引いて参ります。」
「まあ、それは巡邏衛視の都合。それよりじゃ、督促派行徒どもの仕置きに付き合うてくれぬかの。」
「はい。」

 本館の裏手の庭に設けられた裁きの場に、この事件に関わった男達が縛られ地面に座らされている。
 6名。直接に関わらずとも、これ以外の督促派の犯罪に協力した者もある。
 彼らが迅速に逮捕されたのもアクノメナの告発書に細かく記してあったからだ。

「アクノメナは、最初から彼らを切るつもりでしたか。」
「そうじゃのう。付き合うてみて、ゴミのような輩と思い知ったのじゃろう。」

 将軍は杖を尻の後ろに横たえて持ち、男達の周りを歩く。
 学匠、官吏、元老員の従者、料理人、伝令使、下級神官。
 督促派行徒は一般に知能が高く教養学識に深いと知られる。だが現実を弁えず空想的な理想主義に傾くとして軽蔑もされる。
 果たして彼らはいい年齢にも関わらず、共通の若さ稚さがある。
 社会の枠にがっちりと組み込まれて居ない、自由であるのだろうが、老人の目にはあまりに薄く見えた。

「…クワアット兵が居ないのは流石というべきであろうかの。」
「ゲイルを前にしては、理想などものの役にも立ちませぬから。」
「そなたが言うと、なにやら皮肉じゃのお。」

 ゥドバラモンゲェド華シキルは褐甲角王国の理想を組み立てるのが職務だ。或る意味、督促派に近い存在である。
 が彼女が隔絶して違うのは、空想を現実にねじ込む作業に歴代携って来た経験だ。生臭い政治の闘争が、鋼鉄の柱に彼女を変えた。

 一通り顔を眺めて、正面の椅子に将軍は座る。左の傍らに華シキルが立つ。
 王国最高の大臣と元老員でも首座を占める”破軍の卒”が裁くのだ。これ以上の格式は有り得ない。
 無論警備当局は彼らの手を煩わせるのを遠慮したが、たっての希望に已む無く処分を任す。

 老人は言う。

「すでにそなたたちの死罪は決した。言いたいことが有れば思う存分喋るが良い。尋問などはせぬぞ。これが遺言と心得よ。」
「将軍!」

 さすがに立ち会う衛視は慌てる。彼らを尋問して仲間の情報を得なければならない。
 デュータム点に厳重に確保されていた獣人を解き放ち、近衛兵団に囲まれる大本営中枢にまで潜り込み、武徳王暗殺の大事を企てたのだ。
 督促派行徒の組織力は端倪すべからざる厚味がある。本腰を入れて潰滅せねばならない。

「うわ、我々は、督促派などという愚かな連中では、無い。」

 地に跪く一人がいきなり話し始める。他の者は何を言えばせめて命は助かるのか必死で考える中、彼のみが攻勢に出る。
「我らは天河十二神の選抜を虚しく待ち続ける暇人では無い。時流を鑑み、今こそ立つべきと心得てこの度の義挙に及んだのだ。」

「続けよ。」

「我らは、問い掛ける。褐甲角王国がこの千年、一体何を成し遂げたのか。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの登場に到る今日まで、方台は長らく2つに分割されてきた。聖蟲を戴く2つの貴族にだ。お前達が何を言おうが、人間の分を超える力を弄び人を従えるのは特権貴族に外ならない。だがその力で何を成した、何を民にもたらした。」

「続けよ。他の者も言いたい事を言うが良い。」

「褐甲角王国が民にもたらした、いや押し付けたのは千年続く戦争だ。終り無き苦役の連鎖だ。知っているか、今では解放された民衆よりも金雷蜒王国の奴隷の方がよほど裕福な暮らしをしている。我らが汗水流して収穫したトナクを指をくわえて見送り、敵の商人に売り渡している。それで何を得ているか、武器だ鉄だ。敵から武器を買って戦争の真似事を続けている。遊戯を千年続ける口実が、褐甲角神の大義カンヴィタル・イムレイルの誓約だ。」
「我らは督促派行徒ではない。改革者だ、いや審判者だ。千年の偽善を暴き民衆を搾取する横暴傲慢な黒甲枝の真の素顔を民衆の前に曝け出し、道化芝居を終らせる。その為にこそ攻撃を行った。」
「だが我らの試みはこれで終ったわけではない。聞こえるか民の怨嗟が、懊悩に喘ぐ吐息が足元で聞こえるのが分からぬか。お前達が立つその下が、民の額だ。」
「心有る者ならば皆知っている。褐甲角神救世主の世が既に終わりを迎えたことを。世はまさに新世紀、青晶蜥神の救世主が統べる世界となる。だのに、何故お前達はまだ居座るのだ。新たなる救世主に方台の全てを捧げ、これまでの罪を明らかにし、民の苦しみを自らが生み出したものと認め、潔く罰を受けるべきであろう。それこそが褐甲角(クワアット)神の定める真の使徒、神兵の姿だ。兇悪重厚な甲冑の中に留まって素顔を陽の下に見せぬのは、自らを科人と知るからだろう。」
「救世の聖業は、カンヴィタル・イムレイルの子孫には不可能だった。既に答えは出た。冷酷なる現実を方程式が明らかにする。千年繰り返されて来た実験の全てが水泡と帰したからには、新たなる法則を用いるべき。その式に、黒甲枝の変数は無い。」

「続けるが良い。まだ核心を語ってはおらぬじゃろう。何故あの娘を凶器に用いた。」

「あれはメウマサクの作品だ。彼も督促派行徒ではない。」
「いや、あれは督促派よりもなお愚劣な奴だった。自らがトカゲ神救世主であると疑わず、自らの手で成らんと試みた。その為の道具があの双子だ。」
「双子は人ではない獣人だ。獣人とはなにか、人ではない人の形をした武器だ。心を持ち合わせていない、捨てたのだ。道具として効率的に働く為に不必要な弱さをかなぐり捨てる。毒にて精神作用の一部を抑制し、痛みも苦痛も覚えず不安や恐怖からも解放され、ただ使役者の命に従う。」
「人ではないのだ。故にあれに人格を認める必要はない。メウマサクは言っていた。獣人化の処方を用いられた者が元に戻る術は無い。全身が毒に冒され組織が置き換えられ、器そのものが人ではなくなる。人の肉体を持たぬ者に、人の心は宿らない。」
「それが道具であるのなら、使わぬ方が間違っている。いや、それが元は人ならば、獣人と化す志を立てたそのままに用いてやるのが最善であろう。供養である。」
「メウマサクは愚かだった。ガモウヤヨイチャンはトカゲ神の救世主だ。そもそもが獣人は薬物によって人体を獣化させる、方台医療技術の頂点に位置する存在だ。だが天河の高みに到底及ぶべくもない。毒で救世主が死ぬはずは最初から無かったのだ。」
「その点我らは懸命にも標的を換えた。褐甲角の聖蟲は毒と酸に弱いと、我らは知る。チューラウの訪いを受けて気温が下がった今ならば、無敵の機能も低下するだろう。神の授けしものとはいえ所詮は蟲だ、自然の環境には逆らえぬ。」
「冬を迎えたこの時期なればこそ、毒の獣は最大の効力を発揮し得る。つまり時節を正しく捉え、厳密なる計画に基づき躊躇無く実行したのだ。」
「選択が正しかった事は、武徳王が我らの前に居らぬことで証明される。効いたのであろう。獣人は正しく作動し、己が使命を全うした。」
「我らは勝ったのだ。」

「まだまだじゃ。そなたらは結局何を求め何にならんとした。言うてみよ。」

「我らは、ぐ、げほっげほ。」
「我らは救世主に成ろうとは考えない。そもそもが救世主が世を救い得ないのは、過去3件の降臨の歴史を見れば一目瞭然。」
「御使の降臨は、結局地上に退廃と混沌をもたらすのみ。久きに渡る理想郷など空想の産物にして、だからこそ千年を限りに使命は終る。」
「それはただ世の滞りを払拭するに過ぎない。知識技術をもたらすとは言われるが、確かに金雷蜒翁は科学技術の祖となったが、それとても人間に幸福を与えるものとは程遠い。」
「むしろその点褐甲角王国は、只の人の知恵にて支えられて来た。黒甲枝は関係無い。学問を高め発展させ実用に用いて来たのは、学匠であり官吏だ。兵は悪戯に物資と人命を浪費し、ゲイル騎兵と戯れていたに過ぎない。」
「無論防衛に関しての多少の貢献を認めるにやぶさかではない。だがカンヴィタル・イムレイルの降臨無くとも、神聖金雷蜒王国があのまま滅びたとも思えない。」
「無敵の神兵の投入は、方台に対立の構図を産んだ。人が望んでいたものはそれではない。賢人による公正かつ有効な治世だ。ギィール神族の狩りの悪癖を諌めるのに、神兵はなかなか大袈裟過ぎる。民人に負担ばかりを押し付け貧困のただ中に放り込む。」
「何にと問うたが、我らは結果を求める者。明らかに人命を損なう戦を司る武徳王は、悪と看做して差支えない。ギィール神族こそが諸悪の根源とする王国の見方も理解はする。聖蟲を戴く者は共に滅びるが定め。であれば、神族神兵のみにて殺し合うのが望ましい。」
「我らが大審判戦争の結果を知らぬと思うたか。最早褐甲角王国に尋常の戦をする力は残っていない。有るとすればそれは、神族神兵のみにて激突する神軍決戦。」
「ああそれこそが最終の審判なり。ここで和平など結ばれてはずるずると怠惰な緊張が続くのみ。衝突をせぬとなれば、滅ぼす隙を金雷蜒王国に見せねばならぬ。」
「つまりは、次なる審判大戦争にて我らこそが裁定者となる。金雷蜒褐甲角両神の無能を裁くは、只の人なり。」
「それこそが真の救世者。世を救うとは、人間の尊厳の回復を言う。神の力を借りねば成り立たぬとは、なんと情けない傀儡だ。」
「人の尊厳とは自由意志、自らが立ちて自らの手にて人を救うことを言う。」
「その点、ガモウヤヨイチャンは明らかに不適格。」
「そもそもがあれは人の子ではない。星の世界より降った部外者異端者だ。あんなものに人の気持ちが分かる道理が無い。」
「幻惑だ詐術だ人を驚かす手品師だ。虚仮威しの眩き光に騙される者のいかに多いことか。」
「人の病を癒すとな。それも神の力を借りてだぞ。自らはなにを行っていない。誰でも良い、誰でもが彼女と同じくトカゲの聖蟲を額に乗せ、神剣ハリセンを用いれば、あの真似が出来る。」
「メウマサクもそれを看破した。だからこそ双子を使って、自らの手にハリセンを奪取せんと考えた。」
「つまりはその程度のものでしかないのだ救世主とは。真に人を救わんと志す者あれば、人の知恵にて救いを成す。神の命じるがままに東へ西へふらふらと彷徨って、どこが救世主だ星の王だ。」
「人を救う為に我らがこれまでどれほどの努力をしたか。如何なる苦労を積み重ね、この日に備えて来たか分かるまい。」
「方台の人間こそが真に救世主足り得る。あの小娘ではない。そもそもがアレは、これまで何をした。ただ押し寄せる人の波に乗っただけだろう。」
「結局はなんでもよいのだ。褐甲角王国を打倒する契機となる、ぴかぴかと輝く玩具が必要だった。それだけだ天河に求めるのは。」
「なれど、最早それも失せた。小娘の手に余る仕事だったのだ。天河十二神も過ちを認め、新たな人形を選んでいるだろうよ。」
「我らの獣人と同じ、作られた道具だ。」

「なるほどのお。で、そなたらは民草を救う為に、何を成したのじゃ。」

「何と言って、今武徳王を損なっただろう。これこそが救いだ。」
「我らはこの日の為に日夜研鑽し策を定め試行し欠陥を洗い出し、最も有効な手を最適な日時に行う下準備を重ねて来た。」
「人を救うと言ってもこの方台に何人の百姓が居ると思うのだ。個別の者共を一々救い上げる手などあるはずが無い。ざっと世の中に変革をもたらすべし。」
「変る世に有って、人は自ら泳ぎ出す。溺れる者は水面に手を突き出し、救いを求める。その先を指し示すのが我らの仕事。」
「むしろ個々の民を救わねばならぬのは王国であろう。未だ滅びていないのであれば、口先通りの責務を果たすべき。餓えに苦しむ者があれば、国庫を開いて糧を出せ。」
「南海の難民の困窮と暴動は、王国失政の何よりの証し。我らは武徳王の近辺にありて警鐘を鳴らし、心有る者が集いて抜本的変革への礎とならんと欲し、」
「そもそもが戦を重ねる黒甲枝こそが悪。何もしなければ、餓える者など出たりはしない。」

 

「これが督促派行徒というものであるか。ふむう。しゅー。」
「将軍殿、ご老人!」

 元老員ゥドバラモンゲェド華シキルは、年老いた将軍がみるみる不機嫌になっていくのを心配げに見詰めている。余り興奮すると血の気が上り、脳の血管が破裂しかねない。
 だが、老人の怒りはよく分かる。

 つまりはこいつらは何もしていないのだ。
 世を変革すると称して、だが今日この時まで何をするでも無く、ただ頭の内でああでもないと空論を弄んで来た。
 その挙げ句が、少女を生贄とする暗殺未遂だ。
 自らは手を汚すことなく、既に先人に用意された手段を用いて、遠隔に、何時でも逃げ出せる支度を調え、犯罪を行った。

 更にはガモウヤヨイチャンに対する罵詈雑言、批難の言葉に激しく憤る。

 何故弥生ちゃんが救世主を名乗るのを、誰も疑わないのか。額にトカゲの聖蟲を戴くからではない。
 彼女が方台に降臨したその日から、己を省みず救世の使命に邁進するからだ。
 縁もゆかりも無い大地に降り立ち見知らぬ人を前にして、誰が救世など考えよう。
 だが弥生ちゃんは一日一刻も休むことなく、ただ方台人民の為に動いている。走り続けている。

 救世主であっても完全とは程遠く、戦は止まず人の全てを救えるわけではない。
 それでも誰も彼女の無力を誹らないし、不足を詰る事も無い。
 民衆の中に自ら分け入り言葉を聞き一つ一つに誠意を以って答え、全身全霊を傾けて世界を揺り動かす姿に、これ以上を想像出来ないからだ。

 救世主になるのは簡単だ。自ら思い至り、民の間に歩を進め、手の届く範囲の人を救えば良い。

 天が命じたのではない。神が選んで任じたのでもない。
 弥生ちゃんは自らを救世主と定めて実行し、全力全開で世界に光を投げ掛けている。自らに何の益も無いのに。

 遠く離れたカプタニアで聞いても、熱意誠意に頭の下がる想いがする。
 報いるに何を以って奉ずるべきか、馬齢を重ねても考えが及ばず恥ずかしいばかりだ。

 その救世主を悪し様に言う。許しておいて良いはずが無い。言語道断、人として人間として最も恥ずべき行いだ。

 怒りに震える老人は、椅子からすっくと立ち上がる。
 華シキルは思わず左の手で顔を被う。ああなんということか、罪人達は彼の怒りを理解しない。自らに何の咎があるか、まったく見えていない。

「もうよいじゃろう、のお。衛視どの、こやつらの首を刎ねてやれ。これ以上戯言は聞きとう無い。」

「されど尋問し彼らの組織系統を解明し根絶する為の調書を取らねばなりませぬ。短気のお裁きはなにとぞ御控え下さり、我らに。」

「どうせこのような輩がうじゃうじゃと出て来るのみじゃ。ああ五月蝿い。
 そうじゃのう。此度の事件にも善き面があるとすれば、じゃ。ガモウヤヨイチャン様にこのような奴ばらの雑言をお聞かせせずに済む事ではないかの、華シキル殿。」
「まったくに、将軍の仰しゃる通りにございます。
 裁きは決した。早々に処分いたせ。これは武徳王陛下の勅命に等しい効力を持つ。」

「はい…。御下命確かに承りました。」

 引かれていく彼らは何事か大声で喚いたが、老人の耳には人の言葉として届かなかった。
 傍らに立つ華麗な元老員に話し掛ける。

「結局はアクノメナは、ガモウヤヨイチャン様と陛下を比べてみたかったのじゃろう。」
「同じ獣人を、一人は救い立ち直らせ、一人は失ってしまいました。」
「あの女子は笑うておるじゃろうのお。じゃが儂は、陛下が間違いを犯したとは思えぬな。」
「少女を救えはしなかった。ですが、そもそも彼女は既に、死んでいたのでしょう。」

「トカゲ神の青き光でも、心の傷は癒せぬのじゃなあ。」

 

 その時、急使が彼らの前に現われた。本来なら武徳王が直接に報告を受けるところ、臥せっている為に大臣の元へ対応を伺いに来たのだ。

「何事であるか。」
「申し上げます。
 秋旬月四日夕刻、メグリアル王女 焔アウンサ様の御行列が人食い教徒と思われる一団に襲われ、全滅との事。」

「? まことの話であるか。」
「は。敵は4体もの獣人を擁し、これにて護衛の兵は潰滅。王女も自ら応戦なされたと思われますが、翌五日に捜索するも御姿が見当たらず、そのままの状況を報告に上がりました。」
「にわかには信じられぬ。華シキルどの、これはなにかの間違いではないか。」

「…。わかりました、元老員より誰か特使を派遣して、真相を究明致したく存じます。」
「うむ。安否のほどが確定した後に、陛下にはお伝えいたそう。

 焔アウンサ王女がお倒れになるなど、あってよいのじゃろうか。信じられぬのお。」
「あの方は七度剣で刺しても死にそうにありませんからね。なにかの、」

「間違いで、あってほしいのおー。」

 

 

 

最終章 日暮れてなお道遠し

 

 褐甲角王国王都カプタニアが面する方台最大の湖アユ・サユル湖。その湖畔に立つ二つの影が有る。
 すでに冬の寒さに葦の原は枯れ果て黄色く変じ、殺風景なそれでいて妙に清しい姿を見せていた。
 誰も居ない、居るはずの無い場所に、彼らは示し合わせて落ち合った。

 男は言った。

「生身で会うのは、何十年ぶりになるか。」

 女は応える。笑みを浮かべて。表情の複雑な女だが、この顔には懐かしむ歓喜がある。

「お前が臆病過ぎるのだ。いつも狗の声を借りて私と接する。女に対して無礼だぞ。」
「お互い気軽に会って良い立場ではないだろう。ましてお前は、何時牙を剥くか分からない。」
「聖蟲を持つくせになんだ。うんん、…或いは私は、お前に冒険と恐怖を授けるべきだったか。そうすれば更に広い視点で方台の行く末を考えたろう。」
「戯れ言を。儂が王国の規を一歩も踏み出さぬ人間と知って、近付いたくせに。」

 改めて男は女の顔を見上げる。彼よりも背丈が頭二つ分も高い。おまけに髪は黒々と、まるで幼子のように若く長く艶やかに揺れている。
 腕も脚も優美な曲線を誇り力強く、張りのある素肌はあくまでも白く輝く。豊かな胸広い腰を包むのは薄い黒の革衣で、寒さなど微塵も覚えぬ。
 対して男は、すでに老いさらばえ髪も色褪せ、分厚く纏う衣は痩せた身を包み肌が風に触れる事も無い。
 これで女の方が30も歳上など、誰が信じよう。

 ハジパイ王 嘉イョバイアン。
 褐甲角王国元老院にあって長く政治を司り、王国を導いて来た。平和と管理された戦争を巧みに織り交ぜ、この20年方台を安定した繁栄に導いた男だ。
 だがその任も間も無く終る。
 彼が主導して来た先政主義の立場はガモウヤヨイチャンの降臨で崩壊し、救世主の指し示す未来へ全ての人が怒濤と化して走り抜ける。
 昨日の善は今日の悪、敗者は勝利を、愚者が叡智の冠を頭上に戴く。
 残されるのは歴史の変動に追随できぬ老人ばかり。
 いや、自らを正義と信じ民衆を救わんと戦い続けて来た褐甲角の神兵こそが、時代の迷い子となる。

 王国の最期を看取るかに現われた不吉な黒い女に、彼は巷の老人に身をやつし自ら歩いてこの場所に来た。供すら居ない。
 聞きたい事が確かにある。確かめねばならない事が。

 白髪頭の上に座す黄金の翅を持つ蟲が、静かに男女の会話を見守る。

「儂が何を尋ねるか、心得ていような。二つ有る。」
「ああ、一つは確かに私の仕事だ。ミンドレアでのメグリアル王女暗殺。私がこの手で命を奪った。」
「もう一つ、ボウダンの暗殺未遂の件は。」
「計画が進められているとは知っていた。だが手は貸していないし、配下の者に協力させてもいない。妨げる責任も無い。」

 ハジパイ王はほうと長く溜め息を吐いた。予想していた通りの答え。正しく遂行された方が、やはり女の手によるものであった。

「何故だ、と尋くべきだろうか。焔アウンサ王女は、お前にとって関わりが薄かろう。」
「お前の為に、と言えば納得するか。」

 女はまた笑う。敵意や嘲弄は無く、むしろ慈愛に満ちた笑みだ。
 この女の最大の武器は笑いである。あらゆる表情を駆使し恐怖持て人を支配するが、微かに浮かぶ真実の笑みに無限の救済を奴隷達は見出す。
 彼女の笑顔を得る為に命さえも捧げる者は、時がうつろうとも尽きることが無かった。

「私は、だ。私はトカゲ王国の宰相にお前の息子を就けようと考える。その為の布石だ。」
「今は聖山の神宰官であったか。」
「ああ、父親に似て立派な政治家へと成長したよ。彼の為により大きな舞台を用意してやらねばならぬ。母親代わりだからな、私は。」
「息子の成長を願うならば、女親は早々に手を引くべきであろう。」
「うーん、それはいただけない。」

 方台人民のすべてが、彼女の子供とも言える。百年生きる者は方台広しといえども多くない。どの年寄も彼女には席を譲る。
 だが過保護とそしられるべきでもなかろう。なにせ彼女が子等に与えるのは、不愉快な試練なのだから。

「それが何故焔アウンサ王女の暗殺に繋がるのだ。」
「キスァブル・メグリアル焔アウンサ、ソグヴィタル範ヒィキタイタン。この二人は死なねばならぬ運命にある。
 二人がガモウヤヨイチャンと浅からぬ因縁なのは知っていよう。南海でタコの女王を蘇らせ、東海でゲジゲジの都に突き入らせたのも、救世主の差し金だ。彼らは手駒としてよく働いた。」
「それが気に入らぬか。」
「問題は次だ。星からの御使いは早晩この地を去る。再び方台で生まれた者のみにて運営される。その時人を従えるのは、誰だ?
 二代目の救世主はさておき、実質の政務を取り仕切るのは経験と人望に厚い者となる。二人が生きてその任を務めたら、」

「…好ましい話ではないな。褐甲角神の聖蟲を戴く者が、再び方台を支配する。」
「彼らに生有る限りトカゲ王国に何の憂いも無い。だがそれは偽りの王国だ。天河の計画に従って人が変革する妨げになる。」
「ガモウヤヨイチャンは、当然弊害に気付くであろう。お前が手を下すまでも無く。」
「あの小娘は中々辛辣な策を用いるからな。自らの手で樹を斬らず、腐朽して倒れるのを見せつける、などを考える。」

 デュータム点、ウラタンギジトに遣わせた密偵により、ハジパイ王も弥生ちゃんの人と為りを知る。
 確かに彼女であれば方台人民の覚悟を問う為に、そのくらいはしでかすだろう。
 先に待つものは。

「第二の審判か。それは恐ろしい被害を方台に強いるはずだ。救世主が許すことか?」
「第一の審判での人死には、さほど多くは無いよ。カンヴィタル・イムレイルの建国に比べれば遥かに少ない。その分、人に天河の計画は染み渡っていない。」

 女の言葉には詐術が有る。50年を救世に費やしたカンヴィタル・イムレイルに比する人数を、大審判戦争で弥生ちゃんは失わせた。
 衝撃の大きさは十分社会を変革に導くであろうが、まだ足りぬと言う。

「ソグヴィタル王が死ねば、防げるのか。」
「お前の息子が応えてくれる。人の変革をゆるやかに抑え、自ら目覚める援けとなる。」

 女の言に信を置くとしても、「自分の息子」なる人物がそれほどの才を持つか、分からない。
 いや誰が担ったとしても、新王国を育てるのは並み大抵の苦労ではなかろう。
 あるいは逆に乱を起して方台全土の体制をその都度揺さぶり、幾度も再構築した方が楽かもしれない。

 ハジパイ王は考えるのを諦めた。
 彼に許される時間はわずか。心残りがあろうとも、最早若い人材に托すべきである。
 たとえ危うくとも拙くとも、害を自ら引き受ける者が担うべきだ。

 改めて女に向き直る。
 初めて会った時から変わらぬ美貌。長い黒髪張り出す乳房。右手に長身をも凌ぐ杖を携えるところまで寸分変わらぬ。
 彼女を見ていると、自分が老いた事を忘れてしまう。

「わざわざ会いに来たのは、別に頼みがあるのだろう。何だ。」
「顔を見たかったのが一番の理由。暗殺事件について確かめたいだろうとも考えた。」
「親切なことだな。」

「実は心配だったのだよ。状況の激変にあってお前は急速に力を失っていく。避け得ない時の流れだが、ならばと踏み台にせんと企てる者もある。」
「自分の身は自分の力で処するだけだ。老婆心だな。」

「男を一人預かってもらいたい。身分は卑しいが、必ずお前の力になる。」
「人食い教徒は要らぬぞ。」
「義に厚く道理に明るく裏切らず真の勇気を持つ者だ。無論護衛には向いていない。聖蟲など無いからな。」
「そのように優れた者が、何故裏の世界に居る。」
「よんどころ無い事情で人を殺めた為だ。だが見所は有るぞ。ガモウヤヨイチャンの下に馳せ参ぜず、ハジパイ王を護る役目を担おうとする。」
「変り者だな。」

 枯れた葦束の陰から、ヒキガエルのように横に潰れた体躯の男が現われた。王と女の前に跪き、低頭する。
 身体頑健にして武芸の心得も有りそうだが、目の光が只の蛮人ではないと証している。
 顔を上げ、再度貴人の前に伏せ、名乗る。

「ゲワォにございます。姓はご容赦の程を。」
「なにが出来る。」
「は。難民の間にいささか繋がりを持ち、彼らの意志を代弁して東西を走り回っておりました。故に、」
「交渉と情報、連絡。なるほど南海で戦を行わんとする今、必要な者かも知れぬな。供する事を許す。」
「有り難き幸せ。」

 改めて頭を垂れる男に、女も言葉を与える。

「命を惜しむがよい。そなたの命はハジパイ王よりも重く、代わりの無いものだ。軽挙は許さぬ。」
「は。…ですが、しかし。」
「ハジパイは見殺しにしても良いぞ。」

「おい、それでは筋が通らぬ。」
「死んでも惜しくない半端者を、お前に貸すはずが無いだろう。」

 

 

 アユ・サユル湖は方台最大の湖で、カプタニアはその最北端に接しているに過ぎない。
 カプタニアが何故重要な拠点であるかも、また湖に由来する。あまりにも大きい為に迂回する道が無く、カプタニア周辺の湖岸を抜ける街道を通らねば方台西部に抜けられない。
 街道の重要性は遠く紅曙蛸女王時代から認識され、神聖金雷蜒王国時代には石造りの華麗な城が築かれ関門の役を果たしていた。
 現在のカプタニア城はこの旧城を拡大したもので、城内を広い街道が貫く特異な構造を為す。
 もしも敵軍がカプタニア城を攻略せんと試みても、城門を破ればそこは道。左右に高く設けられた郭からさんざんに矢を射掛けられ前進できない。故に道は『死の庭』と呼ばれる。

 ここはまた、褐甲角王国が公式な発表や供儀、裁判や処刑を行う場所でもある。
 ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンがカタツムリ巫女ファンファメラを人質に王都を逃れた際に、身代わりの処刑が行われたのもここだ。
 南海に新たに建った新生紅曙蛸王国を征服し、ヒィキタイタンを逮捕連行した際には、改めてこの場所で裁判が開かれるだろう。

 

 ハジパイ王が女「カラミチュ」と対面したのは、城から遠く10里(キロ)も離れた場所だ。ここからでもカプタニア山麓によじ登るかに築かれた城の姿がはっきり見える。
 湖岸を回る街道をハジパイ王とゲワォはゆっくりと歩き、城に戻る。
 健康上の問題はまるで無い。額にカブトムシの聖蟲があるのだから、疲れるほどの事も無い。

 だが頭巾を被って聖蟲を隠せば、世間はさすがに爺としか見てくれない。
 常識的には年老いた貴人が自ら歩くことは無く、普通に輿を利用する。一般人にも2人担ぎの輿は許されるから、身をやつすならこれを用いるべきであろう。

「殿下、自らお歩きになられますか。」
「若き時分は儂とても城を抜け出し、東街のカエル通り(色里)を覗いた事が有る。どれほどに市中が変わったか確かめてみるのに良い機会だ。」

 寒風が吹きさらし砂埃が舞う中、人が前後に走る。
 未だ大審判戦争の余波は収まらず、北には武徳王親征の陣が野に構えられ、東には神聖王ゲバチューラウが多数のゲイル騎兵と共に控え、南では難民暴動を抱えながらも円湾討伐が企てられる。
 人と物資とイヌコマとが連日王都の双子門を出入りし、扉を閉ざす暇も無い。

 街道の脇には一枚の布を屋根に張っただけの屋台がいくつも並んで居る。人の流れを商機と見做し露店を商う者が多く、結構な繁盛を見せていた。
 飲食物を供す店もある。ハジパイ王の姿を見ると、彼彼女らは必ず声を掛ける。
「じいさま、ちょっと休んでいきなされ。」

「どうも儂は、膨らんだ金財布が歩いている風に見えているらしいな。」
「そのように裕福そうな服装で、供が一人のみでございますれば、仕方ないと考えます。」
「うむ。往きは途中まで舟で来たからな。どうすればよい。」
「されば。」

 むく、とゲワォは背筋を伸ばした。いきなり身体が大きく見え、強そうになる。

「ほお、面白い芸だな。なるほど供は一人で十分と見せるか。」
「のみならず、強き男を従える曲者の爺に見えまする。」
「うん。まあ儂は掛け値無しにそれだからな。」

 さすがに今度は露店の者も声を掛けるのをためらった。ハジパイ王は面白がって、逆にこちらから冷やかしてみる。
 腹などは空かぬが、穀餅などを買い求め新しい供に授けた。

「価格が上がっておるな。儂の予想の倍も取られた。役人の報告書はこんなところが遅くて不正確だ。」
「モノが不足するわけではございません。おそれながら、王国が発行する貨幣の信用が落ちていると思われます。」
「ああ、戦費に空手形を乱発したから、民の方でも対応をしたか。」

 街道を進み関所をくぐり、王都東街に入る。
 カプタニア城の東側は直接金雷蜒王国の攻撃を受ける為に、昔から一朝事有る時は焼き払うと定めてある。当然重要施設は作っていないし、富豪や貴族の館も無い。
 低所得層を中心とした街作りがなされており、遊興街も備わった。
 こちら側に住む者は西街の富豪に対抗するかに、誇りを持って「庶民王国」を名乗ったりする。

「東街に住んでいた難民は、すべて南方に追い出したのであったな。そなたは仔細をよく知っておろう。」
「は。何度も衛視局や巡邏処に掛け合いに行きましたが、ことごとく追い返されました。」
「戦争勃発当初は、彼らが寇掠軍と呼応して街に火を放ち、軍の連絡と補給を遮断すると考えられたのだ。杞憂ではない。現に夏の終わりにはカプタニア山に火を掛けられた。」
「存じております。このような問題は、概ね悪い予測を実現するかに進展するものと心得ます。」
「気の毒には思うが、同じ条件が揃えばやはり同じ策を用いるだろう。さりとて一部の者が言うように、初めから王都近くに難民を入れさせぬのも不憫だ。」
「王都の職から弾かれては日常の暮らしが出来ません。叶うならば夏以前の仕置きに戻していただきたく存じますが、やはり当面は無理であろうと私も考えます。」

「そもそもが難民など存在するはずがない、というのが王国公式の立場だからな。民が民同士差別し合うなど、あってはならぬ事だ。」

 ゲワォも口をつぐむ。それが実態なのだ。
 褐甲角王国黒甲枝が難民を差別するのではない。王国の常民が、敵国から来た民衆を共同体に受入れず、同時に安価な労働力としてこき使う。
 民の自主性・自治に重きを置く国是であれば、これは止められない。いやむしろ、国防に関して民間の意識が染み渡っている証左でもある。
 だが格差を放置すれば確実に不満は高まり衝突が起き、国を二分する争いとなろう。既得権益を割いて新参に与えれば、軋轢が高まるのみだ。
 だからこそトカゲ神救世主への熱狂、南海イローエントでの暴動、新生紅曙蛸王国への帰依へと人は流れる。
 新しい時代、新しい社会の枠組みを求めて突き進む。

「ゲワォよ。そなたは何故ガモウヤヨイチャンに救いを求めない。老いぼれたハジパイなどに何が出来る道理も無いぞ。」
「ガモウヤヨイチャン様による社会の変革は、たしかに難民をお救いになるでしょう。ですが褐甲角王国が手をこまねいて滅びるとも思いません。王国も自ら変ると見定め、微力ながら助勢を志しました。」
「うんむ。」

 この男、元は褐甲角王国でそれなりの立場を持っていたのだろう。武徳王への忠義も篤いに違いない。
 アノ女の紹介で来たからには、ガンガランガで起きた武徳王暗殺未遂についても知らされている。情報封鎖をして黒甲枝の神兵にまでひた隠す中、真実を知っても決意が揺るがぬとは大した仁だ。

「ゲワォよ。しばし遊んでいこう。民衆の真の姿を知るには、遊ぶのが一番だ。」
「は、お供いたします。さすればまず何を。」
「遊ぶというはカエル巫女と決まっておる。気の利いた者を3、4人揃えて話でもするか。」
「なるほど、世情を知る早道にございますな。」

 

 華やいだカエル通りの木戸をくぐろうとする直前、二人は一団の兵に囲まれた。クワアット兵でも邑兵でもない。だが装備が整い立派な甲冑を纏っている。
 ゲワォはハジパイ王の盾となろうとしたが、相手の正体を知って腕を下ろす。

「私餞兵か…。」

 金翅幹家が金を出し合って養う兵だ。王国の兵制で定められていないので、私兵に当たる。
 通常は金翅幹関係の施設や倉庫の警備、式典での儀仗兵として働く。500名を擁し、武徳王出陣後は手薄となった王都の護りの一翼を担っている。
 当然実戦には出ないのだが、彼らのほとんどは元クワアット兵である。実力に差は無い。

 率いていたのは2名の武者だ。黒甲枝が用いる飾りの少ない礼装甲冑であるが、胸の徽章は金翅幹家を表わす。
 ハジパイ王の前に跪き、兜を脱ぐ。赤い髪の間には、黄金の甲翅を有するカブトムシが鎮座する。

「ハジパイ王殿下、お迎えに上がりました。」
「うん…。サブレイ殿とレスピリヲン殿か。」

 金翅幹元老員が自らハジパイ王を迎えに来た。さすがにお忍びがそういつまでも誤魔化されるはずが無い。

「貴殿らは南海への出兵準備で忙しかったはずだが、御苦労なことだ。」
「殿下こそ、このような場所で何をなさっておられます。今ほど殿下の御力が必要な時期はございません。」
「今だからこそ見ねばならぬものがあるのだ。王宮に閉じ篭っていては分からぬことが多々有る。」
「なれば十分な供揃えをなさって、堂々とお出まし下さい。」

 元より悪いのはハジパイ王だ。彼らが引き下がる道理が無いのだが、折角街まで出たのに何もせず帰るのも残念。

「サブレイ殿レスピリヲン殿、良き機会だ。そなたらが抱くこれからの王国の将来像を、忌憚なく聞かせてもらえぬか。」
「は? ここで、でございますか。」
「うん、近くに宴席を設けよう。ゲワォ、手配して参れ。兵の分もだ。」

「は。かしこまりました。」
「あまり上等な店でない方がよい。手近であるのが一番だ。」
「心得ました。」

 

 選ばれた酒場の親父は、有り得ない身分の客にただ目を白黒させるばかり。このような客に出す上等の酒も食い物も扱っていない。
 拒否しようとしたが、ゲワォに大銅貨を数枚つかまされれば首肯くしかない。どうなっても知らないぞ、と厨房に指示を出す。

 ハジパイ王に元老員、完全装備の私餞兵が詰めると、店は立錐の余地も無くなった。已む無く数名の兵が戸口を出て警戒する。
 酌婦は半裸とさえ呼べる破廉恥な服装だ。誰がどんな身分かさっぱり分からず、盆を抱えてうろちょろする。ゲワォに示され、一番偉い爺様の前に安酒の盃を置く。
 元老員2人もあまりに異例の事態に戸惑いはしたが、覚悟を決めて順応する。元より金翅幹家の者は度胸が座っているものだ。

「殿下。市中視察とはやはり、トカゲ王国建国後をにらんでのことでございましょうな。」
「難民の仕置きによって街が如何に変わったか、それが目的でございましょうか。」
「南海イローエント、また円湾への出兵は確実に王都へも波及するであろう。人の波が逆転するはずだな。」
「は。確かに十分な備えをせねばなりません。まして陛下のお具合が問題となれば。」

「しっ! 殿下、我らの存念と仰しゃられましたが、」
「うん。お二方はこのハジパイによく従ってくれたが、儂は最早政務より引退すべきと考える。これも時代の変遷だ。
 されば後を托す若き者の正直な意見を聞いておきたい。院では聞けぬ、本音がな。」

 元老員はそれぞれ安物の陶器の盃を握り、喉を潤す。これはひどい酒だ、水が7割混ざっている。

「されば、このような場でありますから遠慮を捨てて言上いたします。」
「うん。」
「方台の情勢は急展開を幾度も遂げ、なお留まる事を知りません。このような時に政治と軍権が分離して迂遠なる手続きを要するのは、はなはだ不都合。臨機応変の対処を妨げる元凶でありましょう。」
「然様。金翅幹家は軍事より手を引き、政治の面にて見識を活かせとのお定めでございますが、最早その余裕は失われたと考えます。黒甲枝とてもそれは同じ。軍事のみに携り、彼らの主張が直接政治に反映されない状況に不満を募らせております。」

「つまりは、古えの体制に戻せと言うのだな。千年の境に激動を経験すれば、誰もがそれを望むだろう。」
「は、まさに時に応じて国も姿を変えねばなりません。」

「だが。」
 ハジパイ王は丁度近くに寄って来た酌婦を呼び、傍に座らせる。あまつさえ腰にまで手を伸ばす。
 元老院では絶対に見ない姿に誰もが驚くが、老人の目の光の鋭さに抗議の声を停めた。
 話す言葉が真剣で深刻であればこそ、それが戯れ言だと韜晦する仕掛けを必要とするのだ。

「だがそれを為すには、神兵も元老員も多過ぎる。」
「は。さすがに100の元老員は多過ぎます。神兵もただ戦うのみなれば問題は無くとも、政治に口を出すまでになれば過剰です。」
「聖蟲を持つ者に本質的な区別はありません。黒甲枝と金翅幹家とでは単に歴史的に役割が違うのみにて、個々人の才能や適性に目を向けると混乱いたします。」

「削らねばならぬ。」
「はい。」
「削るのは無理でございます。分けて互いを牽制し合うのが精々かと存じます。」

 元老員が軍事や行政にまで手を伸ばせば、当然元老員同士のいさかいが起る。これまでは院内での論争で済んでいたものが、武力を用いる衝突へと発展しよう。
 褐甲角王国が分裂する。

 だが既に彼らは歩み出す。
 動乱の時代は現場から歴史が動く。宮殿の奥に留まっていてはすべてを失ってしまう。
 弥生ちゃんが開いた新時代は、否応なく人を駆り立てた。

 酌婦は何の話かまったく理解出来ない。そもそも下々の者は教育が無く語彙も少なく、上流階級の会話を解さない。このような場所での謀議がよく行われる道理だ。
 ただ、彼女はやるべき事は知っている。一番偉いだろう爺様に擦り寄り、豊満な乳房を押し付ける。
 さすがに無礼だろうと、元老員2人はこめかみを引き攣らせる。

「それで、そなた達はどのように対処する。」
「まずは円湾への出兵に、元老院から正式に関与します。軍事は黒甲枝に任せる法でありますが、新生紅曙蛸王国はそれでは済まぬ要素が多数有り政治力が必要となります。この件を突破口に軍事への関与を伸ばします。」
「イローエント周辺の難民暴動、これはどうする。」
「暴動鎮圧の最大の阻害要因は、まさに王国の救民の大義でございます。難民を損なわずに穏便に鎮めようとの温情に付け込む不逞分子の跳梁を許して参りました。」
「円湾への出兵は難民暴動の鎮圧が前提条件となります。されば方針を大きく転換し、強硬策を用いてでも早急に解決したく存じます。」

 居並ぶ甲冑の陰で顔は見えぬが、ゲワォがどのような表情を浮かべているか想像に難くない。
 なるほど、彼が自分の供をするのは理由有っての事だ。黒髪の不吉な女が自分に托したのも、これが為であったのか。
 自分をゲワォが護衛するのではない。ゲワォに連なる南海の難民をハジパイ王が護らねばならぬ。あべこべだ。

 老人は考える。これは極めて重大かつ困難な問題だ。
 大民を救う為に少数を犠牲とする政治の冷徹な論理に従うのは、容易い。だが救世主たる者、他者には見出せぬ蜘蛛の糸ほどの隘路を進み、奇蹟を演出せねばならない。
 そうは言っても、奇蹟など滅多に起きぬからこそ尊いのだ。古びて硬直した脳に浮かぶは、昔の物語ばかり。

 ふと気づくと、女の乳が有る。酌婦の香は宮廷内で嗅ぐ侍女や女官巫女とは異なり、安っぽく乳臭い。
 だが人を原初に戻す力を持つ。己一人が野に立つ雄々しさを発揮せよと、すっかり萎びた男にも訴え掛ける。
 腰に回した手を女体の線に沿って上げ、胸元を握る。指の間より零れる肉が、不思議と郷愁を誘う。

 行動と言葉と、まったく矛盾するハジパイ王に、元老員も戸惑った。

「王国の国是大義、民衆の解放と擁護は決して冒してはならぬ絶対の原則だ。非常時だからとて例外は許されぬ。」
「…は。」
「さりとて難民暴動を鎮圧せねば出兵は叶わぬ。非常の際には非常の策を用いるべきだ。」
「はい。」
「王国に従わぬ難民を鎮められるのは、方台に唯一人ガモウヤヨイチャンのみが有る。彼女の命であれば難民共も従い闘争を止めるだろう。」
「ですが今トカゲ神救世主は行方不明であり、南海の暴動は救世主に自らの存在を気付いてもらうが為の示威行動でもあります。」

 元老員の眼を、一人ずつ覗いていく。これから言う台詞に驚かぬよう警告を与える。

「ガモウヤヨイチャンが居らぬのであれば、代理を立てるべきだ。カブトムシの聖蟲でダメならば、ゲジゲジの聖蟲の持ち主に託せばよい。」
「あ、なんと。」
「殿下、それはいかなる、」

「聞け。強硬の策を用いるとしても、人を損ねてはならぬ。荒れる難民達にはガモウヤヨイチャンによる裁定を待てと言い含める。その保証となるのが、黒甲枝ではなくギィール神族の代理人だ。神族がガモウヤヨイチャン再臨までの間、責任を持って難民を保護する。」

「それは、それは非常というにも余りにも突飛な、」
「殿下、それはいけません。ギィール神族に膝を屈するに等しい、神兵の誰もが承服しかねる策でございます。」
「難民暴動は一度鎮まれば再発を防ぐ術をいかようにも講じられる。他の土地に人数を分けて収容する事も叶う。まずは鎮めることだ。
 その上で、これは極めて政治的に大きな決断であると内外に印象付ける。黒甲枝の器量を越えた、金翅幹元老員でなければ対処し得ない事態だと誰もが知る。」
「ですが、」

「幸いにして、ギィール神族が褐甲角王国領内の査察を希望している。デュータム点にてトカゲ神救世主を代行するギィール神族キルストル姫アィイーガよりの正式な申し入れだ。
 彼女の要請ならば、難民の説得も容易いだろう。神族が代行する大義名分も立つ。」
「ですが、」

「そこでそなた達に頼みが有る。今言った策に、儂は反対だ。ギィール神族の関与などあってはならぬ話。無論、難民を傷つける解決も許さぬ。」
「なんと。」
「分かるな。この策はそなたらが発案にして、金翅幹元老員の手により成るものだ。対して儂は王都より幾度も停止を命じる。だが一度動き出したものは止められぬ、止めてはならぬ。」
「恨まれますぞ。一身にて人の恨みを被りますか。」

「儂はこれまでの王国、これまでの大義を背負っておる。変革に取り残される者を引き受けねばならぬ。
 だがそれでは王国自体の存続が危うい。変るべき時に変わらねば、朽ちて死ぬるのみだ。まして陛下があのような状態では、立ち竦み時を失いかねぬ。
 生きるものは生き、死ぬべきものは儂が引き受ける。それで良い。」

 元老員二人は顔を見合わせる。にわかの、偶然にも設けられたハジパイ王との面談で、これほどの重要事を託されるとは想像もしなかった。
 だが王は国の行く末を深く案じ、金翅幹家に預けてくれると言う。
 彼らも真摯に応えねばならぬ。もしくは、決然と反論せねば。

「しかしギィール神族の助けを仰ぐなど、賛同する者が得られません。」
「それは歴史に暗いとしか言い様が無いな。国祖、初代武徳王カンヴィタル・イムレイルとて建国に神族の助けを借りたのだ。
 千年の時を越えて、今また当時に戻ったと思えばよい。むしろ神の御使いとして当然の責務を神族共に押し付けると考えても良い。」
「ではどうしても。」

「難民を殺してはならぬ。この一線を踏み越えれば、ガモウヤヨイチャンは我らを決して許さない。討滅すべき神敵とされてしまう。それだけは避けよ。」

 ハジパイ王は酌婦を促して、椅子から立ち上がる。首を回してゲワォを探した。
 ヒキガエルを潰したような男は、納得と完全なる信頼を捧げて主に応えた。
 頬に接吻を受けながら、爺は頭を垂れる元老員に言う。

「サブレイ殿、レスピリヲン殿。反対派に暗殺されかねぬ難業ではあるが、頼まれてくれ。」

「御意のままに。」
「王国の国是、命に換えても護ってみせます。」

 

 カプタニア城のハジパイ宮殿に戻った王は、老侍従から思いがけぬ寿ぎの言葉を受けた。
 現今の諸情勢は芳しいものが何一つ無い為に、目を見開いて問い返す。

「何事か。」
「殿下の愛犬サクラバンタがめでたく出産を終えました。仔犬が5匹生まれましてございます。」
「ああ! 今日であったか。」

 サクラバンタは只の犬ではない。
 緑金の甲翅を持つカブトムシを戴きハジパイ王の命によりどこにでも進み、見聞きするすべてを知らせる神聖な使いである。
 故に並の人間を凌ぐ格式を認められ、専属の飼育係や女官までもが付いている。

「どうだ、身体に障りは無いか。」
「はい。母子共に健康にして、滞り無く務めを終えました。」
「うん、めでたいの。」

 早速に犬館に見舞いに行く。

 ハジパイ王唯一の趣味とも言える大狗は、褐甲角王国の王族のみに飼育が許される。
 法で禁じるわけではないが、元が山野を走り回りイヌコマや大山羊を狩る猛獣であれば、聖蟲を戴かぬ常人には扱いかねる。
 緑金の聖蟲を授けるのも、貴重さを愛でると共に制御する為だ。
 ただ、夏には彼らを用いて残念な結果に終ってしまった。人ではないからと、元老員若手の無理な懇請に折れて貸出したのは失敗だった。

 犬館はつまりは温室だ。西金雷蜒王国より輸入した大きな板硝子で屋根を葺いた冬でも暖かい館の中に、人が住めるほど大きな狗小屋が設けられる。
 いかに主人であり聖蟲を戴くハジパイ王だとて、未だ野生味を残す大狗の出産直後には近づけない。戸口から覗くばかりだ。

「おお、おお! 動いておるの。」
「5匹が見えまする。いずれも元気そうで、これからの成長が楽しみでございますな。」
「うん、仲間が減ってしまったからな。彼らの生まれ変わりであろうか。」
「はは。ですが、」
「分かっておる。二度とあのようには使わぬ。若い者の口車に乗せられてしまったのだ。」

 大狗の飼育にはカブトムシの聖蟲の怪力が必要で、金翅幹元老員が大狗同好会を作って回り持ちで世話をする。
 彼らはまたハジパイ王を顧問とする若手政治集団であり、先政主義派の尖兵だった。
 弥生ちゃん降臨後は、褐甲角(クワアット)神の大義を護る為に独自の工作を行う。その最たるものが、大狗を遠隔操作しての暗殺計画だ。

 母狗は遠くに覗く主人の顔をじっと見る。なにか言いたそうだが、さすがに聖蟲を介しても狗と人間が意志を通わせるのは出来ない。
 あるいは彼女も、政治の道具として子供たちが使われるのを懸念するのだろうか。

「産後の肥立ちが良いように、食物には格別の注意を払ってくれの。」
「は。十分心得ております。お任せください。」
「この調子であれば、サクラバンタを再び市中に走らせるのも遠くないな。うん、善きかな。」

 ついで、と新たに召し抱えたゲワォを飼育係の職に就けておく。
 大狗の世話が職分には違いないが、その実彼らはハジパイ王が独自に抱える調査員工作員でもあった。
 この身分にしておけば、王都のいずれにでも入っていける。サクラバンタの歩みを留めることは黒甲枝にも叶わず、従う下人も制止されない。

 であるから、出自の知れぬ男が新たに加わったとて不審に思う侍従は無い。むしろ王自身が選んで連れて来た深い事情を持つ者として、特別に扱ってくれる。

 園芸植物の緑の葉陰に、男達が並ぶ。
 ヒキガエルに似た横に長い男の姿も有る。

 

【エピローグ 〜蒲生弥生観察報告その2〜】

「さあ実況を再開します。担当いたしますは統合監視ユニット01号、解説は統合監視ユニット01号裏です。裏さん、よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしく。」

「さあて、青晶蜥神救世主蒲生弥生の現在の状況であります。
 コウモリ神人との激闘の末に北方の大針葉樹林帯に飛ばされた弥生ちゃんは、現在天河十二神と接触する為に一路北へと向かいます。
 裏さん、この進路に問題はありませんか。」
「はい。彼女の頭のカベチョロの指示ですから、正解ではあります。ただ、かなり寄り道をしていますね。」

「現在救世主の一行は蒲生弥生、山無尾猫、それにウェゲの幼体です。このウェゲが問題ですね。」
「地球人の脳神経構造を一部移植された十二神方台系のウェゲとは異なり、この地に住むQ8系列ウェゲはより原種に近い、生存本能を持たない個体ですね。」
「生存本能が無ければ、生物として生きていけないのではありませんか。」
「はい。ですから彼らは通常、弥生ちゃんが言うところのカニカマ甲冑、カニと同種の構造を持つ生体甲冑内部に常時保護され、衣食生存のすべての機能を代替されています。」
「生物種としては欠陥がある、ということですか。」
「これはウェゲの再現に必要ななんらかの要素が欠落しての事故と考えられます。本来ウェゲは、後にゲキと呼ばれる宇宙を股に大活躍した超文明を持つ知的生命体へと進化するのですから、この段階でもアクティブな行動をしていなければなりません。すくなくとも地球の人間と同程度には動くことが発祥地惑星の発掘により確かめられています。」
「何が足りないのでしょうか。」
「わかりません。分からないから天河十二神は地球人の神経構造を移植して、生存本能を疑似的に授けるはめになりましたね。」

「さてそのウェゲですが、…なんと言いますか非常にめいわくですね。」
「弥生ちゃんがお気の毒です。」
「現在トカゲ神救世主蒲生弥生は、年齢12才男子というかなり大きなウェゲを背中に担いでいます。その場に放置すれば即死にますから緊急避難的措置でありますが、この状態を既に2週間も続けています。」

「方台名物『石抱き』ですね。生まれた直後の嬰児は、母親の乳房にしがみ付くとテコでも動かず離れない、という行動を取ります。このまま母親は数週間を過ごさねばなりません。弥生ちゃんはウェゲに丁度それをされているのです。」
「なんと申しますか、担ぐ弥生ちゃんとほとんど変わらない大きさですね。いくら地球人の方が力が強いとはいえ、これは迷惑。」
「ええ、しかも背中のウェゲは昼夜を問わず絶対に離れません。睡眠時も排泄時もです。」
「排泄、というとウンコとかオシッコとかですか。どうしているんですか。」
「ウェゲに意識が無いのですから、そのまま垂れ流しです。これは嬰児の場合と同じですね。」
「では弥生ちゃんは、その、」
「はい。背中の上でやられちゃっています。大災難です。しかもその状況でもウェゲに食事をさせなければなりません。咀嚼すらしませんから、樹液の蜜などを適宜喉に流し込んでやるのです。」
「酷いですね。実の母親だってここまではやりませんよ。」
「本来であれば3、4キログラムの嬰児の行動ですから大変とはいえ負担はここまでにはなりません。まあ弥生ちゃん本人がカニカマ甲冑を破壊してしまったのですから、仕方ないですね。」

「ここで視聴者の方からのお葉書を紹介いたしましょう。
 ペンネームぴよぴようさこさん、どうもありがとうございます。
 えー『どうしてアナウンサーの方と解説の裏さんは、蜘蛛に食べられたはずなのに生きてるんですか?』
 これはー、どうでしょうか裏さん。」

「わたしたち統合監視ユニットも弥生ちゃんと同じに、地球人の形を持っています。モデルとなったのは弥生ちゃんの学校での友人、県立門代高校3年4組『山中明美』さんです。」
「コウモリ神人が用いた救世主候補B号モデルも、やはり地球人で友人『相原志穂美』をモデルとするのですね。」
「『相原志穂美』と同様に、わたしたちのボディにも特殊能力が与えられています。その名も「カートゥーン・リザレクション」!」
「なんですかそのカッコイイ能力は。」
「簡単に説明すると、トムとジェリーみたいに敵の物理攻撃を受けて壊滅的ダメージを被ったとしても、次の瞬間ステータス完全回復で甦る能力です。」
「それはー無敵ですね。」
「なにせぜったい殺せないのですから、不敗です。監視ユニットには必要不可欠な能力ですね。」

「ぴよぴようさこさん、ご理解いただけたでしょうか。さて、で弥生ちゃんの状況です。
 あー、相当疲れていますね。」
「ウェゲをおんぶしたままもう2週間ですから。加えて全行程徒歩で、しかも刺客に狙われています。刺客というか、狩人ですね。」
「弥生ちゃんは捕まえたウェゲを元の居住地に連れていって保護してもらおうとしたのですが、その際に手違いがあって受け渡しできなかったのです。
 彼女がウェゲの村に行った時のビデオをご覧ください。」

じゃあ〜。

「あ、いま草葉の陰から弥生ちゃんが姿を見せました。既にウェゲをおんぶしています。山無尾猫の案内でウェゲの村に来たところです。」
「ウェゲを包むカニカマ甲冑は、狩猟に関して卓越した能力を持っています。動物の肉を取り込んでたんぱく質を含む流動食に体内で加工して、内部のウェゲに与えるのですね。」
「あ、カニカマが2体、5体、どんどん増えます。画面に見えるだけでもう30を越えました。」
「村ですから当然です。カニカマはウェゲを繁殖種族維持させる役目も受け持ちます。交尾の為には同種が近くに居ないと困るのですね。」
「まったく自発的運動を見せないウェゲが、どうやってセックスをするのでしょうか。」
「繁殖期この場合発情期と申した方が適切でしょう、この時期になるとカニカマ甲冑は甲羅を開いて内部のウェゲを取り出します。雌雄のウェゲを抱き合わせて結合させると、この部分だけは自発的に活動してめでたく受精が完了する、という仕組みです。」
「なんという隠微。これはテレビの前の御子様にはお見せにならないでください。

 さて弥生ちゃんですが、あ、かなり友好的に交渉を行っていますね。」
「なにせ背中にウェゲを担いでいますから、カニカマも攻撃できません。弥生ちゃん恐れ気もなく近付いて行きますね。」

「さすがにトカゲ神救世主、強大なカニカマと対峙しても一歩もひるみません。
 ちなみにカニカマ甲冑は身長250センチ横幅も2メートル近く有る怪物です。全身がタラバガニの甲羅に似た赤茶色のキチン質装甲で覆われており、随所から毛のように小さなカニの目玉が突き出しています。特徴的なのが頭部に相当する位置に有る巨大な一つ目、人間の目のような切れ長で幅が30センチ瞳も直径10センチ有ります。」
「この大きな目玉は実はレーザー光線を発生させて敵を破壊するのですね。ゲジゲジの聖蟲が発する「雷」と同じ装備です。」
「つまりカニカマ甲冑は生体パゥワァードスゥーツです。その戦闘力はカブトムシの聖蟲を戴き鋼鉄の鎧を身に着けた方台の人間と同等。強敵です。」

「さてそのカニカマですが、弥生ちゃんの背中からウェゲを受け取りますね。」
「非常に慎重かつ繊細な動作です。カニカマはウェゲを取り扱う際には、驚くほどの柔らかさ精密さを見せますね。」
「あ、でも取れませんよ。」
「既にウェゲは『石抱き』を始めています。これは物凄い力です。」
「弥生ちゃんが痛い痛いと言ってます。ウェゲのしがみ付く力は並み大抵ではありません。ほとんどエリックのアイアンクローです。」
「今時の人はフリッツ・フォン・エリックと言っても分からないのではないでしょうか。詳しくは『プロレススーパースター列伝』をご覧ください。」
「カニカマ、かなり焦っていますね。2体掛りで引き剥がそうとします。」
「いけませんね。無理やりに剥がすと、ウェゲを傷つけますよ。」

「あカニカマ諦めます。これ以上硬い甲羅を持つカニカマが触ると、肌に傷を付けかねません。」
「協議していますね。カニカマの怪人が車座になって超音波で喋っていますよ。珍しい光景です。」
「その間弥生ちゃんは地面に座って小休止、こちらも山ネコと相談しております。あ、食事の時間ですか。」
「ウェゲは定期的に栄養を補給せねば衰弱して死んでしまいます。ちなみに弥生ちゃんはウェゲを寒気から保護する為に樹の皮を剥いで乾かして作った簑を被っています。今はカニカマが引き剥がそうと努力した為に簑を外していましたが、冷えて体温が下がった為に一度被せて温める事にした模様です。」
「ウェゲを暖めるのも、弥生ちゃんの体温です。もうすべてがおんぶにだっこですね。」
「方台での食事は、主に樹液から取った蜜です。この北方大針葉樹林帯は凄まじい寒さとなりますので、樹は樹液に糖分を多く含み凍結を免れます。」
「これを舐めていれば死にはしないのでしょうが、もちろん糖分だけでは栄養に偏りが出ます。ウェゲにも長期間これだけを与えるのはお勧めできません。」
「しかしながら固形物はもちろん食べませんから、これしか無いのです。山ネコも手伝って器用に食べさせていますね。」

「心温まる光景です。あ、カニカマの相談がまとまりましたね。」
「超音波での会議の内容が分析できました。えー、『下で担いでいる人間をぶち殺して、しがみ付くものを取り払おう』…。」
「弥生ちゃんも異変を感じました。カタナを抜いて身構えます。」
「ネコの動きがいいですねえ。荷物を抱えてあらかじめ脱出しますよ。ウェゲを世話するのに結構な荷物が必要ですから、これはナイスサポートです。」
「対するカニカマが持つ武器は、これはーなんと形容しましょうか、石のこぎりですかね。」
「硬い木の板に尖った石を縁に並べて打ち込みぎざぎざにしています。これを見ても分かる通りに、カニカマは結構知能が高いですよ。」
「石槍を持っているものもありますね。ただ弥生ちゃんは背中にウェゲを負ぶっていますから、直接攻撃は避けねばなりません。

 あ、弥生ちゃん逃げます。一目散に逃げます。これは早い!」
「この判断は正解です。ウェゲの保護を他者に任せるのを諦める、この見切りの早さが救世主の資質ですね。」
「そうは言ってもこれではウェゲをいつまででも担ぎ続けねばなりません。
 あ、カニカマも結構速度が出ますね。トカゲ神の風のサポートがあるはずの弥生ちゃんに追いつきます。」
「トルクさえあれば、生体パワードスーツでも十分な速度が出るのです。自動車と同等に時速100キロくらいまで持っていけますよ。」
「いまちらっと映りましたが、網を持っているカニカマも居ますね。蔦を編んだものでしょうか、これで弥生ちゃんを搦め取るつもりです。弥生ちゃんピンチ!」

「正面に立ち塞がったカニカマを、ずばっと! あ斬りませんね。するっと足の間をすり抜けました。やはりカニカマ甲冑を破壊してはいけないと認識を改めたのでしょう。」
「カニカマを破壊してしまうと、また新たなウェゲを抱えてしまいます。ですがー、これは両者千日手に陥りませんか?」
「どちらの息が先に上がるかですね。だがこの勝負圧倒的に弥生ちゃんに分が無い。背中のウェゲは致命的なハンデです。」
「3体のカニカマが同時に仕掛けます、あこれは古の絶技ジェットストリームアタックだあ!」
「おお! さすが弥生ちゃん。先頭のカニカマを踏み台にしました。定石はきっちりと押えます。さすが。」
「しかしカタナでずんばらりとは斬れない、さあどうする?

 でたあ伝家の宝刀、冷凍光線だ!」
「これはめったに使わない技ですね。本来カタナではなくハリセンで出す技です。大気中より抽出した水を過冷却の状態にして相手にぶつけます。これを浴びた敵は身体の内部まで一気に冷却され凍結します。不均一な氷の成長による細胞の破壊が無く、解凍後も生のままみずみずしい状態を保てる新時代の冷凍食品技術です。」
「毒地を旅行中に遭遇した金雷蜒王姉妹の獣人を、これで一気に凍結させてキルストル姫アィイーガを救ったことが有ります。それ以来ですかね。」
「ですが、どうもカニカマには効いていませんね。」
「あ本当です。カニカマ一瞬動作が停まりましたが、すぐ復帰します、これには弥生ちゃんも首をひねります。」
「残念ながら、つかいどころがまずかったですね。ここは北方大樹林地帯。甚だしい時には零下50度にまで気温が下がります。カニカマ甲冑は極寒の環境においても問題無く活動出来る性能を備えている。」
「つまり寒冷地仕様のパワードスーツにとって、カエルの面にしょんべん、ですね。…あ、ただいま抗議のお電話をいただきました。番組上不適切な表現があったことをおわびします。このおちゃめちゃんメ。」

「ですが、時間稼ぎにはこの技けっこうイイです。単純な足留めでも距離が稼げます。」
「ああ、大きく引き離します弥生ちゃん。カニカマも一時諦めますか。」
「どうやら高速走行は内部に保護するウェゲに悪影響があるようですね。なるほど、予想に反して弥生ちゃんの方が追い掛けっこは有利です。」
「ですが、ウェゲを抱えるのはどちらも同じ。カニカマ甲冑内と背中に簑で覆われるのとでは、後者の方がよほど悪環境ではありませんか。」
「理解できませんが、どうやらウェゲは大丈夫らしいです。リプレイで確認してみましょう。
 ほらここです。走り出す前、弥生ちゃんはちゃんとウェゲの状態を調べてますね。ここで問題があれば無理な戦闘機動はやらないつもりです。しかしGOサインを出しましたから。」
「ほんとですねえ。弥生ちゃんが負ぶうゲキは特別に丈夫な個体なのでしょうか。」
「わかりません。今後の展開を待ちましょう。」

 じゃん。

「はい、10日前の映像でした。弥生ちゃんはあれ以降ずっと逃走中ですね。」
「ウェゲの村はあそこ一つでは有りません。逃走経路上で発見した村に立ち寄ってウェゲを渡そうとしては、同じ事態を繰り広げています。」
「バカなんでしょうか。最初から結論は分かり切っているでしょう。」
「それだけウェゲを担ぐのが重荷ということです。しかしさすがに諦めたようですね。このまま進路を真っ直ぐ北に、天河十二神へのアクセスポイントに向かいます。」
「しかし、カニカマからよく逃げられましたね。相手は夜間でも構わず活動できるのですね。」
「なにせあの巨大な眼ですから。暗視機能は標準装備、赤外線や残留熱で活動の痕跡を発見して確実に詰めて来ます。
 これに対応して弥生ちゃんは、ほとんど寝て居ません。1時間眠ると場所を換えて進み、また短く寝る。これを繰り返します。」
「しかもその間中ずっとウェゲをおんぶしたままですから、大変な労苦です。表彰ものですね。」
「あ、ここビバークしますよ。」
「はい。今山ネコが背負っていた荷物を下ろします。ここで小休止ですね。なるほど、安全の確認と追手の警戒はネコがやりますか。」
「ネコも増えてますね。3匹が近くをうろついてますよ。無尾猫は基本弥生ちゃんの味方ですから、これは心強い。」
「火を起します。敵に見付かるとは知っていても、やはり熱が無いとウェゲの健康が心配か。燃料はー、樹皮ですか。」
「カタナで樹皮を剥いで、フリーズドライにして一気に乾燥させこれを燃やすみたいですね。なるほどトカゲ神の能力を最大限に利用する。火種はどうやら持ち歩くみたいです。」
「ランタンですね、最初に破壊したカニカマ甲冑を材料にした。移動中ウェゲの体温が下がると随時これを用います。

 いま、手が動きましたか?」
「電光石火ですね。弥生ちゃん、なにか小動物を捕まえました。」
「ズームで確認して、あートカゲです。この地方は寒いながらもトカゲが結構居るんですね。」
「暖かい地方は両生類、カエルに占領されています。方台の爬虫類は寒冷地を生息場所として適応しているので、地球の冷血動物とはちょっと違いますよ。」
「さてこのトカゲをー、歯で引き裂いちゃいました。食べますか。」
「焙ってますね。食べますよ。」
「トカゲ神救世主であるにも関わらず、トカゲを食べます。なんという恩知らずの罰当たり。おや、ウェゲが反応を示しますね。」
「本当です。なにか、声を出して訴えている。驚きです、自発的活動を始めています。」
「カメラさん、もっとズーム。あ、背中越しにトカゲを欲しがっているようですね。宿主と同じものを食べたがるのですか。」
「自発的に食事したがるのですか、これは驚きです。生存の本能が芽生えたとしか言い様がありませんね。」
「これに対し弥生ちゃんはー、あ、口の中で十分噛み砕き唾液で柔らかくしたトカゲの焙り肉を与えますね。離乳食みたいなものでしょうか。」
「トカゲは鶏肉のようなあっさりとした味わいと聞きますから、赤ちゃんに与えても大丈夫なのでしょう。しかし驚きです、喜んで食べてますねウェゲは。」
「この行動はウェゲの養育に適切なのでしょうか。完全管理されているカニカマ甲冑の方が良いのではありませんか。」
「わかりませんが、唯一つこれは言えます。背中のウェゲに固形物を与えると、排泄時に酷い目に遇う。」
「あー弥生ちゃんまさに自らの首を絞めております。既に諦めモード全開か。

 お葉書をご紹介しましょう。ペンネーム「15才くらいの美少年をもっと出して下さい」さんから。
 『いつも楽しく拝見しております。ところでげばると処女では何故20代後半から30代の男の人ばかり出ますか?私はそれが許せません。若くてどこか陰の有る美形の男子がヒロインである弥生ちゃんを誘惑して乙女心が揺れ動くのがラノベの王道だと思います。その点この作品は失格としかいいようがない。舌噛んで反省して下さい。というか詩ね。』
 貴重なご意見ありがとうございます。」

「ラノベではないですねえ。ラノベというのはもう少し、むだなお喋りの台詞がずらずらと並んでいるものですよ。
 宣言しましょう。げばると処女は、人生です!」
「いや、それはさすがに問題が有る発言かと。第一それは某エロゲ作品に冠せられた、」
「エロゲと言いましたか、今エロゲと申されましたか!!」
「わああ、ここで一旦CMです!」

 宇宙に冠たるてくのろじ〜、ぴるまる理科工業〜。

「もう一通お便りを紹介いたします。
 えーいいのかな、、鶴仁波芽衣子さんからのお尋ねです。
 『蒲生弥生嬢が会おうとする天河十二神とは、一体なにものですか? 超絶テクノロジーを有し人間に好意的な宇宙人、と解釈してよろしいですか。』
 解説の裏さん、これは真面目なお尋ねですね」

「はい。ですがこの点に関しましては、げばると処女EP7にて大特集を行う計画になっております。乞御期待、としか我々には言えませんね。」
「芽衣子さん。申し訳ございませんが、この謎は本編にて明かされますのでどうか御辛抱なさって下さい。或いは姉妹作品『ゲキロボ☆』などを参考になさってもよろしいかと存じます。」
「ゲキに関してはそちらの方が詳しいですからね。ピルマルレレコの正体についても明らかになるでしょう。」

「では本日の放送はこれまでということで。ところで裏さん。」
「はい。」
「例のカニカマ甲冑ですが、あれは我々監視ユニットは襲いませんよね。」
「いえたんぱく質の塊である我々人間型作業端末は、磨り潰してウェゲの流動食に使えますから、十分捕食の対象です。」
「あの、放送ブースの後ろにお見えになられて居るのですが、どのように対処いたしましょう。やはりここはカートゥーン・リザレクション能力を信じるべきでしょうか。」
「しかしあの能力は敵の攻撃が一段落した後でないと発動しない特性が有り、すなわち。」
「すっかりやられちゃった後ででないと効かないわけですね、とほほ。

 それでは皆さんサヨウナラサヨウナラ。」

 

(エピソード7最終巻に続く)

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