げばると処女

エピソード6 青晶蜥神救世主の不在

前篇

 

【訃報】

 褐甲角王国赤甲梢輔衛視チュダルム彩ルダム付きの女官カロアル斧ロアランは、ウラタンギジトにおいて立場が極めて弱くなっていた。

 そもそもメグリアル劫アランサ王女の退去に従って下界に降りるところ、連絡係としてそのまま留め置かれた。だが褐甲角王国の交渉窓口は衛視統監ガダン筮ワバロンに統合されたので、一介の女官の出る幕は無い。
 当然にガモウヤヨイチャンと対面する機会も消失した。彼女はカプタニアのハジパイ王より間諜の役を仰せつかってもいたが、この任も果たせなくなった。

 身の振り方を考えざるを得ないそんな時、いきなり名指しで弥生ちゃんに呼び出される。
 アランサ王女が居た時でも、こんな扱いを受けた事は無い。自分一人の判断では決めかねるので、命令系統の極めて遠い責任者であるガダン筮ワバロンを廊下で捕まえて指示を仰いだ。
 衛視統監にしても配下が私的に弥生ちゃんと交渉を持つのはおもしろくないはずだ。だが彼は腹の座った度量の大きい人物であるから、快諾する。女官如きが交渉に及ぼす影響など無い、と見切ってもいるのだろう。

 そして斧ロアランは単身で迎賓館の謁見の間に在る。

 下官の作法として石の床に跪く彼女の前に、老人が端正に座る。アランサ王女が居る時に少し見掛けた人物で、金雷蜒王国の秘密機関の責任者だと記憶している。
 彼と斧ロアランは弥生ちゃんが来るまでしばらく待たされた。表情一つ変えない老人を見ているだけで息が苦しくなって来る。黒甲枝の家に生まれた者として、こここそが踏んばり所だと必死で沈黙に耐えた。

 耐える内に別の思案も生まれて来る。ひょっとして自分がハジパイ王の間諜である事がバレたのか?
 確かに自分は間諜であるが、だからと言って赤甲梢敵領侵攻等の重大な秘密は流していない。

 彼女が受けた命令は、弥生ちゃんの人となりを身近で観察して詳細に送れ、というものだ。交渉相手の出方を見極めるのに最も重要な情報は、その人物がいかなる性格でいかなる思考形態を持ち、いかなる趣味嗜好があり何を以って重きを置くか、のまったくに人間的な観察から得られる知識だ。軍事・外交機密などはこれに比べると畑の泥に塗れる藁程の価値しかない。
 だから斧ロアランは自分が果たした役目にいささかの自負を持っている。戦争をするにしても平和を築くにしても、自分がもたらしたガモウヤヨイチャンの姿は決して無駄にはなっていないはずだ。

 だがそれは、ガモウヤヨイチャンの側からすれば重大な裏切りと看做せよう。見抜かれたとなれば、人知れず謀殺され闇に葬られてもなんの不思議も無い。

 弥生ちゃんは未だ来ない。
 静まりかえった謁見の間に時折聞こえる遠い声は、神官戦士のものか。アランサ王女の退去に続いて、救世主の一団もウラタンギジトを出て下界に戻る準備を進めている。

 冷汗が額から滴り落ち、革の女官服を濡らす。老人の視線は微動だにしない。
 ようやく案内のゲジゲジ巫女が弥生ちゃんの入室を告げる。

「ガモウヤヨイチャンさまがお入りになります。」
「ごめん! 待たせた。」

 ざくざくと大股で歩いて正面に据えられた大机の席に着く。いつもは傍らに密着して従う蝉蛾巫女フィミルティも先行して下界に降り、今は秘書であるカタツムリ巫女とトカゲ巫女しか居ない。老人も向きを換え、救世主に額ずいて礼をする。

「ハキルのガァメリ、始めて。」

 弥生ちゃんは遠くから命じ、老人は改めて礼をして斧ロアランに向き直る。彼は神聖首都ギジジットの主である金雷蜒王姉妹に仕える暗殺集団『ジー・ッカ』の一員で、弥生ちゃんの下では烽火台を利用した光通信網の管理責任者を務める。

 歳とは思えぬ透明な声で、彼は告げる。斧ロアランは言葉の意味を理解するのに随分と時間が掛った。感情の揺らぎとして自覚出来たのは、謁見の間を退出した後だ。

「去る廿五日ベイスラ県南部ヌポルノ村東の林の中で行われた戦闘において、カロアル斧ロアラン殿の御父君兵師監カロアル羅ウシィ様が御討ち死なされた事をお伝えいたします。また同日の戦闘においておなじく御兄君小剣令カロアル軌バイジャン様が未帰還との報も併せてお伝えいたします。」

 

【ととや】

 金雷蜒王国衛星外交都市ウラタンギジトは陶芸の町でもある。
 周辺の森林から燃料を調達してギィール神族の指導の下陶工達が高級陶器を製造し、褐甲角王国の上流階級に販売して外交費用の幾分かを賄っていた。神祭王も暇つぶしに自ら彩色して実に見事な文様を描き、好事家の蒐集対象として人気を博している。

 それ故に彼らは気がついた。ガモウヤヨイチャンには妙な嗜好がある事に。
 弥生ちゃんは手捻りの歪んだ陶器を妙に愛用する。ウラタンギジトにはちゃんとロクロで成型した端正な器が溢れているにも関わらず、安物いや貧民の具とも言えるこれらを使用する。
 ただどれでも良いわけではなく、或る一定の法則に基づいてそれらは選ばれているらしい。

 彼らは首をひねる。トカゲ神救世主のする事だ、なにか深い理由があるのだろうが、どうにも解せない。
 根性がひね曲がっているから、というのは誤りのようだ。弥生ちゃんは工房を視察し自らロクロを回してみても、実に見事に繊細な器を仕上げてみせる。そもそもまっすぐとかきっちり丁寧等の言葉を彼女専用にして良いほどのちゃんとした性格だ。いい加減と後ろ指指された事は生まれてこの方無い。

 ついでに言うと、陶器のみならず木の器も愛用する。これまた安物なのだが、喜んで自ら市場に買いに行き人々と触れ合っては楽しんでいた。

 ひょっとして生来の貧乏性ではないか、との結論に達したが、おそれ多くて誰も確かめられない。千年に一度の救世主、神の王国の支配者であればもっと高級な器を用いてもらいたい、いや諫言してでも改めさせるべきだ。
 皆が躊躇して機会を窺って居る中、遂に見かねて一人のギィール神族が弥生ちゃんに直接質問した。
「何故貴女はそのようなみすぼらしい器を用いるのか」

 だが彼は想像もしない驚くべき答を得た。

「私の国の軍隊が海を渡って隣国に攻め入った際、その地で得た最も貴重な財宝は、そこらへんの民家の井戸端で使われていた安物のお椀だったのだよ。」

「…その器はなにか特別な謂れの有る代物だったのか?」
「いや普通に安物として作られた、安物として使用されて居たお椀だよ。でも見る人が見ると一国を傾けてでも手に入れたい逸品に化けるのだ。」
「理解に苦しむ。」
「でしょうね。ただ美というものは整った人工の極にのみ宿るわけじゃあない。ただの土塊のお椀であっても天地自然の息づかいを湛える、深い精神性を盛る事ができるってもんだ。」
「ううむ、では我らの整えた真円の器にそれは無いと仰しゃるのか。」
「いやちゃんと美しい。万民が称える普遍的な価値がそこにはちゃんとありますよ。でもそれだけが美の世界ではないってこと。」

 改めて弥生ちゃんの使っている器を彼は手に取って観た。2メートルの巨人の手にはいささか小さな器だが、しっくりと馴染みほのかな温もりを感じさせる。

「ロクロを使ってはならないのか?」
「いえそんなことは。ただそこになにか、魂の息吹とも言える特別な徴を授けるべきじゃあないでしょうか。ほんの少し心の動きを器に留め、読み解く人に問い掛ける。」
「なるほど、判じ物でもあるわけだ。冷たく律せられた真円や正方の器には、それは窺い知るものが無いな。」
「方台の人の受入れるところとなるかは、まあ知った事じゃないんですけどね。」

 おまけに、木の器は弥生ちゃんの国では葉片ほどに薄く繊細に削り出され、樹液から取った塗料で美しく塗られ金銀箔を用いる繊細優美な絵画や文様、貝殻を削って埋めこむ等の高度で芸術的な装飾を施され、黄金よりも高くに取り引きされていると教えられた。

「私の国の特産品です。」
「そうか。ではそなたの目には、方台の器はかなり遅れた産品だったのだな。」
「まあ、美しいものには違いないのですがね。」

 彼はしきりに感心し、新しく得た星の世界の知識として如何に応用すべきかを脳裏で走らせていたが、為に気がつかなかった点がある。
 それは、どう考えても若く幼くも見える少女の趣味ではない事を。

 弥生ちゃんは爺いっ子だ。

 

【奈落】

「ソグヴィタル王殿下、折入ってお話ししたい事がございます。」

 方台全土で悪名高い金貸しにして史上初の銀行家とも呼べるジューエイム・ユゲルが面談を求めて来るのは、特に不思議ではない。
 新生紅曙蛸王国を運営する資金の大半を供給する彼が、現今の情勢に怖じ気づき引き揚げようと考えるのはむしろ当然だ。だが、そんな胆の小さな男なら最初から金を貸したりしない。

 ソグヴィタル範ヒィキタイタンの執務室に、彼は護衛を一人伴って入った。その護衛、目付きが怪しい。ジューエイム・ユゲルを監視している風にも見える。

「殿下、」
「いや、紅曙蛸王国の職位に従ってここは閣下と呼んでくれ。」

 ヒィキタイタンは未だ額に黄金のカブトムシの聖蟲を戴き、王位も返上した覚えが無いから殿下と呼ばせて問題は無い。が、ここ円湾の新生紅曙蛸王国において暫定的に執政を務めるからには、役職に応じた敬称を用いるべきだと周囲の者に絶えず注文する。

 執務室は大きな窓から円湾の全景を眺む。中央に置かれた革の大椅子を勧められ、ユゲルはヒィキタイタンと向かい合って座る。ユゲルの背後にぴたりと護衛が位置取りした。
 これは暗殺者だな、とヒィキタイタンは察する。ユゲルが雇い主に不都合な発言をすれば、瞬時に椅子ごと突き殺すのであろう。
 背後に突き付けられる刃を気にすることなく、ユゲルは話し始めた。

「では執政閣下。実は私、少々危うい立場となっております。」
「金主が資金を引き揚げよ、と言って来たな。」

 正体不明の銀行家であり個人が保有するのが信じられない莫大な資金を運用する彼だ。眼の効く者であれば原資の出所が隠されており、胡散臭い闇の財産だと簡単に見抜く。

「当ててみよう。お前の金主は人喰い教団だろう。」
「やはり御分かりになりますか。」

 護衛の眼が冷たく光る。ヒィキタイタンの後ろに控えて居た忠実な友であり独立武器商人のドワアッダは、執務室に残って居た秘書官を退室させる。

「現在イローエントからタコリティに掛けて、褐甲角王国が大規模な人喰い教団狩りをやっているからな。撤収する算段となったか。」
「この一斉取締まり、実は教団内部の対立に褐甲角王国が巻き込まれたものでございます。新興勢力が教団の実権を握る為に構成員の名簿を当局に渡し、旧来の支配層を駆逐せんと試みているのです。」

「お前の金主はどっちだ。主人に忠義を尽くさねばならぬのだろう。」
「生憎と私の教団内部での階級は最下層の下僕にして、人の数には入りません。勝った方の命令に忠実に従うだけでございます。どちらが勝ちを収めたところで、金は金ですので。」
「ふむ。」

 革の長衣を纏うユゲルは、痩せてはいるがそれなりの修羅場を潜った者が持つ特有の圧迫感を発している。何の背景が無くとも一代で財を為すに違いない才能と度量を持つから、教団から放り出される方がむしろ彼の為となろう。

「して、その護衛はどちらの側だ。新興か旧来の支配者か。」
「この者は、」
と、ユゲルは笑う。背後から貫かれてもおかしくないのに、余裕だ。

「この者は私と同じにどちらの側にも入らぬ小物で、勝った方の命に従うのみです。」
「なるほど、ではそのように殺気を漂わせずともよい。人喰い教団の関係者だからと処罰することは、現在の紅曙蛸王国には無い。」
「ありがとうございます。ですが、今回のお願いはそこなのです。」

 ふむ、とヒィキタイタンは革椅子の背もたれに大きく身を反らせた。180センチを越える発達した大きな身体は最近退屈を覚えており、そろそろ激闘を要求する。

「すなおに予想するに、教団内部の抗争は新興勢力側の勝ちになりましょう。ですがこの二千年、ギィール神族に黒甲枝と聖蟲を持つ方々の追求を逃れた非常にしぶとい組織です。破れた方も滅びる事はありません。」
「なるほど、下僕としては誰に忠誠を尽すか難しいところだな。」

「抗争は依然続きます。が、破れた時に備えて執政閣下の言質を取りつけておこうと、私に命が下ったのです。」

「まてまて、人喰い教団と知って匿うわけにはいかないぞ。そんな事をすれば金雷蜒褐甲角両王国を敵に回す事となる。」

 口を挟むのを控えていたドワアッダが、声を上げる。まっとうな国家体制を築くに際して、怪しい教団を庇護せねばならぬ道理は無い。
 特に第六代紅曙蛸女王テュクラッポ・ッタ・コアキを奉じる今は、暗黒面とは一切手を切らねばならぬ時期に当たる。そもそも人喰い教団の前身にあたる火焔教は、紅曙蛸女王時代に神官巫女を火焙りにして喰っていた憎むべき敵だ。

 ユゲルはにと笑う。

「さればでございます。新生紅曙蛸王国におきましても、人喰い教団に徹底的な弾圧を加えて頂きたく存じます。」
「そうか。こちらでも弾圧すれば数の多い新興勢力側の動きが封じられ、旧勢力は安穏に暮らせるのだな。」
「闇に隠れ潜むは人喰い教団の得意でございます。」

「いいだろう。こちらにしても拒む理由は無い。また公的にも私的にも支援を与えるには当たらないだろう。勝手にしろ。」
「有難うございます。」
「だがひとつ聞いておきたい。勝つと見込まれる新興勢力とは、いかなる存在だ。」

 ユゲルは背後に立つ護衛と顔を合わせ、なにやら密談をする。彼らの分を越える決断が必要なのだろう。
 ドワアッダがヒィキタイタンの耳元に顔を寄せ、注意する。

「旧勢力の司祭達よりも、新しい方がよほどの難敵と思われます。可能であればこれを討つ事も御考えください。」
「心に留め置こう。」

 相談がまとまり、ユゲルが振り返る。護衛は一歩下がって即殺す体勢を解いた。彼にしてもなんらかの規を越えたのであろう。

「…了解しました。それではこの場に居られるお二人にだけ、という条件でお話しいたしましょう。」
「秘密は守ろう。」

「人喰い教団こと『貪婪』において新たに生まれた分派を指導するのは、方台で最も高貴な血筋の生まれにして反逆者、天与の才にてあらゆる学問の奥義神秘の法を極めるも全ての教えを裏切り、闇に走り血を求め、たちまちにして教団内部に独自の地歩を固められた女王にございます。」
「おんなか。」

「教団四半万年の悲願である不老長寿を遂に神人様より与えられた、歴史の頂点に燦然と輝く存在です。しかし宿願を果し終えたからには、最早体制を必要とはしません。一方これまで教団を支えられて来た天寵司祭以下の切配主は、あくまでも教義の保存を最優先に考えます。」

「不老不死の神人にして闇の女王。自らを孕んだ母の腹を食い破らんとするか。名はなんという。」
「さてそれは。数多の名を戴いております故に、どれが正しいのか我らにもわかりかねます。」

「人となりは?」

「その御方はあまりにも大きく深く昏くなにより優しく、捨てられた子を拾って我が子となし養い育て慈しむ、と聞いております。方台に生きる人の苦悩を我が物とし、世を糺し悪しきを罰し正義を地上に顕さんと、日夜命を削って御働きになっておられます。」
「まて。それは、」
「青晶蜥神救世主をも凌ぐ、黄金の時代に世を導く女神と我らは確信しております。」

 ヒィキタイタンもドワアッダも腕を組み考える。ユゲル達二人もその女の同調者ではないか。語る口調は熱を帯び陶酔すら感じさせる。
 だが続く言葉になるほどと納得させられた。触らぬ神に祟り無し、だ。

「その御方は方台を丸ごと呑み込もうとしておられます。正邪の別無くあらゆる思想と宗教を、依って立つ正義と求める価値を、聖なる高みから俗悪の極みまで、人の手の届く全てを我が物に致さんと欲します。まさに『貪婪』が人の形を為したものと崇められております。」

「常人の受入れるところではないな。絶えず迫害を受けて来ただろう、その者は。」
「この度も天寵司祭様方より迫害を受けました。対して応分の報いを返されただけにございますが、その苛烈さに教団は耐え切れず分裂の憂き目に、」

「よくわかった。その者の敵となる事は控えた方が良さそうだ。」
「ご理解頂き恐縮です。」

 ヒィキタイタンは首を回して明るい窓の向こうに拡がる空を見た。円湾のどこかでは今日もテュクラッポ女王が遊んで居るだろう。
 その恐ろしい女がやる気になれば、若い女王を虜とし新生紅曙蛸王国を乗っ取る事も容易いだろう。或いは贄として我が身に同化するか。
 女王の身を護る為にも、より一層警備を強化せねばならぬ。だが昨今の情勢は、円湾に出入りする人の怪しさと来ては。

 

「ところでユゲル、実はこちらにも少々頼みがある。」
「戦費の調達でしょうか。近々イローエントの南海軍が円湾に攻めて来るとの噂がございますな。」

「今回東金雷蜒王国の支援が得られそうに無くてな。なにせ赤甲梢渡海を助ける為に、騒ぎを起こして艦隊を呼び集めたと思われている。」

「多少は色を御付けいたしますが、戦となると勝算が担保として必要となります。執政閣下はいかにして迎え撃つおつもりでしょう…。」

 

第一章 そして新章

 大審判戦争は未だ終っていない。

 開戦時期も定かではないが停戦が合意されたわけでもなく、現在の状況は単に金雷蜒軍が退いたに過ぎない。
 だが当事者双方は、赤甲梢の東金雷蜒王国突入と首都島ギジシップへの到達、それに対抗してのスプリタ街道での大攻勢を以って一区切りとするのを当然とした。

 息が続かなかった、と言える。それだけ双方とも緒戦に投入した兵力が大き過ぎた。
 褐甲角王国は聖蟲を戴く神兵を1200クワアット兵42000、邑兵他役夫も合わせて12万を越える人数を動員した。総人口が150万であるから、社会の形成をも脅かす大人数を投入した事になる。
 対して金雷蜒軍はギィール神族1300ゲイル1000体、兵は15000に過ぎないが毒地全体に補給を行き渡らせる為に3万近い役夫を動員した。こちらも総力戦と呼ぶにふさわしい数だ。

 これだけの人数を事前の準備も無しに一気に用いたからには、反動も大きい。補給が滞る寸前にこの節目を迎えたのは双方共に幸運であった。

 幸運。だがそれは死者を振り返る余裕を得たに過ぎない。
 数え直してみると、彼らは百年前の大戦争を倍も上回る戦死者重傷者が出ているのに気付き慄然とした。この調子で戦闘が続けば、冬を越した頃には両軍共に地上から消滅していただろう。

 褐甲角軍の戦死者は神兵138クワアット兵5200邑兵他6300名。再起不能の重傷者も含めて25000もが戦場から消えた。深刻というも愚か、今後の防衛体制をいかに保つか絶望する数だ。特に金雷蜒軍が攻撃を集中したクワアット兵の損害が著しく、軍の再構成には十年以上も必要と見込まれる。

 金雷蜒軍の戦死者は逆に神族に多い。戦死者257名に重傷者200余名、この時代の方台の医療技術では重傷者の4割は確実に命を落とす。ギィール神族の8人に一人がこの戦争で死ぬ事となる。加えて騎乗兵器ゲイルが300も失われた。東金雷蜒王国が保有する戦闘用ゲイルは2000弱だから、こちらも防衛に致命的な損害を被っている。
 半面兵の損失は大した事が無い。死者2000重傷者1500。だが奴隷兵ではなく専門戦闘員の損失であるから、痛手には違いない。加えて、兵站に携わっていた奴隷が多数夏の熱気に当てられて命を落している。

 冷静に見極めれば、どちらが勝ったと断じ得る決定的な差は生じていない。為に、両王国共に兵を収め戦の終結を図ろうとは考えない。機を得たから仕切り直すだけだ。

 

 民衆の考える所は異なる。苛烈な戦闘は、動員される人員は、浪費される物資はことごとく彼らの生活に跳ね返って来る。これ以上の労力の供出は社会の存続に多大な支障を引き起こし、日常生活に困難を覚える。
 不満が確実に深まる時期に湧いて出たのが、ガモウヤヨイチャンの仲介による両軍の和平、東金雷蜒王国神聖王が褐甲角王国にまで出向き終戦交渉を行う、という噂だ。

 そして主に東金雷蜒王国において奇妙な唄が流れていた。誰が唄い始めたかは知れないが、口伝いに広まっていく。

『夏が終って冬が来る、その前少し月は無い、聖なる星の集う時、闇世が終り日が昇る』
 具体的には秋初月の終り頃に、神聖王と武徳王それに青晶蜥神救世主が一堂に会する時、世界が終るという唄だ。

 赤甲梢総裁代理、いや東金雷蜒王国攻撃軍司令と呼んだ方が適切であろうキスァブル・メグリアル焔アウンサ王女は、この唄をギジシップ神聖宮の彼女に与えられた邸宅で聞いた。

「世が終る、とはどういう意味だろう。」
「それはー、アウンサさまの方がよくおわかりでは。」

 神聖王との対面が叶って10日が経つ。唄の通りであれば、今すぐにでも出発せねば月の無い夜に武徳王と会合出来ないはずだ。
 アウンサは副官であるカンカラ縁クシアフォンを前に悠然とヤムナム茶を喫していた。さすがに神聖宮で供される茶は褐甲角王国のものと品質が隔絶して違う。もはや天露と呼ぶべきだろう。器も華奢で繊細、これに比べるとアウンサの茶器コレクションなどは泥に等しい。

 縁クシアフォンは卓を挟んで立ったまま総裁の相手を務める。
 彼に欠点があるとすれば、その丈高い無骨さが可憐で瀟洒な宮廷には馴染まないところだ。翼甲冑は身に着けていないが白亜の邸宅にまるでそぐわない。

「神聖王陛下の御意志は固い。褐甲角王国入りは間違い無いのだが、その時期が問題。唄が示す頃が我々にとっても最適と言えるだろう。」
「一月ありませんがそれでも? 行列の進行速度を考えると今発ってもぎりぎりとなりますよ。」
「遅れれば、先政主義派が息を吹き返す。受入れを拒否する事態も発生する。政治的に麻痺状態の今が好機なのだよ。」

 先政主義、カプタニア元老院におけるハジパイ王の勢力は金雷蜒王国との間で停滞的敵対関係、緊張状態を保ちながらも実質的な戦争は回避し交易によって互いに利益を得る方針を崩さないだろう。彼らはいきなり勃発した大審判戦争で立脚する条件を失い発言権を封じられていたが、和平となると俄然出番となる。
 アウンサの悩みもそこにあった。

「論ずべきは次の一手だ。先政主義派が交渉に関与するのは避けられないが、彼らはむしろ和平を望まない。均衡した対立こそが王国存立の基盤と考えるからな。」
「ですがアウンサさま、正直に述べますが私はこの和平がなったとしても戦は断続的に続くと考えます。ギィール神族はまたぞろ寇掠軍を組織して国境を襲うでしょう。」
「違いない。」

「では和平とは何をもって満足すべきなのでしょうか。」

 縁クシアフォンは愚鈍な猪武者ではなく、むしろ智によってアウンサに取り立てられた者だ。その彼にしてこの意見しか持ち得ない。人は、時代を超越しての意見や構想には決して到達できないのだ。
 アウンサとて同じだが、彼女にはひとつの信仰がある。

「そこでガモウヤヨイチャンだ。実は私は、唄を広めたのはあの小娘だと考える。」
「まさか!」

「いや、理を重ねると当然にそう思うさ。
 アレはトカゲ王国を立てねばならないが、領土は既存の王国を切り取らねばならぬ。領民とて同様、金や産業も分捕らねば暮らしていけない。」
「…ではこれから青晶蜥神救世主は、褐甲角王国の敵となりますか。」
「最初から敵なんだけどね。だが武力で褐甲角王国は打倒出来ないし、彼女には兵も無い。となれば策略でぶっ壊すしかないだろう。神聖王の西幸はその為の道具と呼んで差支えない。」

 縁クシアフォンは渋面を作った。
 
「…総裁。総裁はその事に何時からお気づきでしたか?」
「会った時、電撃戦の構想を示された時からちゃんと知ってたよ。」
「知ってて口車に乗ったのですか!」
「そりゃ乗るさ。お前達も喜んで食いついたじゃないか。」

 しれっと言ってのける総裁に、忠実な手下は開いた口が塞がらない。だが怒られる前に彼は考えた。アウンサの前で脳の足りない所を見せるのは赤甲梢では厳禁なのだ。上級幹部は皆アウンサの怒号の洗礼を受けて、対策を習い覚えている。

「ガモウヤヨイチャンは和平を何に使うのでしょうね。」
「ふうむ、それだよ。戦争は決して根絶出来ない。だが千年続いて来た褐甲角神の時代は幕を閉じ、我らの戦いも終る。新しい形態の戦が始まるのではないか。」
「青晶蜥神救世主の考える戦争の形態、ですか。」

「昇る日は、暖かいだけのものとは限らないだろう。」

 

 戸口に控えるゲジゲジ巫女が、ギィール神族の廷臣の訪問を告げる。出立計画の概要が定まったらしい。
 アウンサは立ち上がり、自分の頭よりも高い副官の肩を叩いた。

「神聖王も共犯者だよ。彼もガモウヤヨイチャンの口車に飛び乗るんだ。」

 白い長衣を緩やかに着る神族は、だが予想に反して政治家ではなく、神聖王の私的な友人としてアウンサを訪問したのだった。

「メグリアル妃に内々に依頼したい事がある、と聖上が仰しゃっている。」
「何でしょうか、私に可能であればこの身を惜しみません。」
「それが、…チュダルム彩ルダム殿に聖上がいたく御執心で、宮室に迎えるのにご尽力頂きたいと。」

「は?」
 アウンサの幼少よりの親友彩ルダムを、神聖王の妃に迎えたいと言う。赤甲梢の二人は眼を点にした。

 

 

「左様。聖上にあらせられてはチュダルム彩ルダム嬢をいたくお気に召し、願わくば婚姻を取り交わし以って両国和平の象徴としたいと御考えです。」

 東金雷蜒王国宰相ウリヤッチ・ヴェボースクは49歳。彼もまた神聖王の奴隷ではあり、先代ガトファンバルよりひき続きこの職に留まって居る。

 神聖王ゲバチューラウ西幸の計画は神聖宮の一般人閣僚によって草案を練られ、神族廷臣の合議によって定められる。
 赤甲梢に対してはギィール神族ではなく聖蟲を持たない宰相や大臣が説明に当り、了承を求めていた。

 アウンサに代わり、赤甲梢神兵頭領シガハン・ルペと金翅幹元老員出身で学識も厚いスーベラアハン基エトスが窓口となり、ウリヤッチに説明を受ける。
 その席上で和平の手段の一つとして自然と、輔衛視チュダルム彩ルダムへの神聖王の求婚が取り上げられた。

「お待ち下さい! その儀は我らには権限どころか関与する資格すらありません。アウンサさまに、いや彩ルダム殿御本人の意志こそが、いやいや本国に伺って御父君チュダルム兵師統監に更には武徳王陛下のお許しが!」

 こんな無茶な話には為す術も無いシガハン・ルペに脇腹を小突かれて、基エトスが必死に訴える。
 和平となれば政略結婚という定石はもちろん十二神方台系においても有効だが、それにしても異なる聖蟲を戴く者同士が、それもいきなり神聖王の妃にとは、いかに神算のアウンサといえども想像すらしていない。

「チュダルム彩ルダム様は黒甲枝の重鎮チュダルム家の跡取り娘でありその父兵師統監チュダルム冠カボーナルハン様は武徳王陛下の信任も篤い褐甲角王国最大の功臣であられる。チュダルム家は褐甲角神救世主カンヴィタル・イムレイルの聖業の最初期からの盟友で、格式はメグリアル、ソグヴィタル、ハジパイ王家をも上回ります。
 その御令嬢が聖上の左に立たれても何の不思議も無いでしょう。いささか薹が立ってはおられるが。」

 彩ルダムは28歳、とっくの昔に適齢期を過ぎている。原因はアウンサが彼女の婚約者を奪って2度目の夫にしてしまった事で、その衝撃と心痛を癒す為衛視としての職務に邁進し、そのまま婚期を逸してしまった。王都カプタニアにおいて彩ルダムは、焔アウンサ王女の御乱行の度々の被害者として広く知られている。
 無論、そんな経緯は婚姻を拒絶する理由にはならない。客観的に見ても未だ彩ルダムの容貌は並以上であり、恋に落ちる異性があったとして不思議は無い。

 しかし。

 基エトスは無い知恵を絞って考える。彼は恋愛に関してはほとんど関心が無い。妻帯してはいるが実家から送って来た女房をやむなく受入れたに過ぎず、シガハン・ルペみたいな恋愛結婚ではないのだ。
 と気付いて、基エトスは赤甲梢頭領を小突き返す。これはお前の仕事だ。ルペは代わってウリヤッチに応ずる。

「和平の手段としてならば、むしろ王族の姫をこそ望まれるべきではありませんか。真摯な話し合いがなされればおそらく武徳王陛下は御自身の姫君を御遣わしになるでしょう。」
「私とてもそのように進言はいたしました。その策は会談の席上でこそ持ち出すべきだと。ですが、」

 ウリヤッチも迷惑そうに眉をしかめる。彼は政治家としての才能と経験に溢れ、無理無体を押し付けるギィール神族をなんなくあやす名人である。その彼にして、此度は困惑し手立てが思いつかない。

「聖上のみならず神族廷臣の方々、王姉妹様までもが何故かチュダルム嬢に眼を奪われるのです。貴方がたはあの御方になにも感じませぬか?」
「なに、と言われても。」

 赤甲梢に彼女が来てもう三月になるが、恋愛沙汰が噂に上った事はない。アウンサさまにいじめられてかわいそうだなあ、くらいで確かに美しくはあるが年齢的に対象とならないのだ。赤甲梢の上級幹部はアウンサのお節介もあって皆妻帯しているし、若手ならもちろんもっと若い方がよかろう。

「そうですか。聖蟲を戴く方々の御業は我らには分かりかねるのですが、どうも金雷蜒(ギィール)神の聖蟲を戴く御方にはチュダルム嬢から発せられるなんらかの気配が非常に大きく働いているようなのです。」
「魅力的に感じられる、ということですか。」
「聖上が結婚を持ち出されたのも、神族廷臣の間で密かに争奪戦が繰り広げられているとの噂を聞きつけられ、」

 基エトスもシガハン・ルペも椅子から放り出される衝撃を受けた。まぎれもなく異常事態だ。
 シガハン・ルペは或る事に気がついて尋ねる。

「アウンサさまは、メグリアル妃からはその気配は発せられないのですか?」
「無いようです。多少は感じられるのかもしれませんが、隣にあの方がおいででは霞んでしまいとても。」

 褐甲角(クワアット)神の聖蟲を額に頂いたとしても、肉体の変容が起こるわけではない。見る者を圧倒するオーラが吹き出すとも言われるがそれは心理的に作用するのみで、物理的には少々カブトムシ臭くなるだけだ。

 ウリヤッチは明確な説明を得られないのに少々失望を覚えながらも、話を続ける。

「実は我々は最初からチュダルム嬢には注目しておりました。あの御方は本来次の赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ様の輔衛視を勤められる御方です。メグリアル姫は青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンに大層御気に入られ、人によっては第二代の救世主として迎えられるのではとも噂します。その御方を支える立場のチュダルム嬢を政治的に取り込むのは、我らの益となるはずでした。」
「なるほど、それは興味深い。東金雷蜒王国ではガモウヤヨイチャン以降の方台の体制にまで思案が及んでいましたか。」

「しかし、大幅な変更が必要なようですな。」

 

 

 そのチュダルム彩ルダムは、神聖宮内宮にて驚くべき体験をしていた。
 王姉妹に導かれ、金雷蜒(ギィール)神の聖蟲の繁殖所を案内されている。ギィール神族はおろか神聖王ですら滅多に足を踏み入れない神域に、何故か彼女は立っていた。

「そなたにここを見せるのは、メグリアル劫アランサ王女に方台がこれから迎える未来を伝えたいからだ。」

 王姉妹の長、ガトファンバル崇王姉自らが説明する。金雷蜒王国においては、聖蟲の繁殖に常人の神官巫女を用いない。力仕事や土いじりまで王姉妹が自力で行っていた。
 一面に咲き誇る茨の苑、その根元を走り回るのがギィール(ゲジゲジ)の姿を借りて地上に降り立った金雷蜒神の分身だ。

「このように沢山。」
「生まれる数は多い。だがギィールは本来肉食の蟲であるから、蟲を餌食とせねばならぬ。聖蟲が食べるべき神の力を持つ蟲は地上に一種しか居ないが、これは得られない。」
「褐甲角(クワアット)神の、」

「仕方がないので自然に任せてある。千の卵から孵った聖蟲は互いを食い合い成長し、神威を身につけて初めて黄金や銀玉粥を消化できるようになる。」

 彩ルダムは足元で突如響いた硝子を擦り合わせるに似た悲鳴に驚いて振り返る。
 小さな、まだ金色を帯びていない幼蟲が他の幼蟲に喉元を噛み砕かれている。蟲が集い、滅びた仲間を引き裂いて奪い合う。

 これが二千年方台を治め続けてきた金雷蜒王国の神秘の原点。彼女を思わず口元に手を当てた。なんと酷い。

「同情するには及ばない。この段階では未だ心を持っておらぬのだ。黄金を食むようになって初めて自我が生まれ論理的思考力を獲得する。」

 崇王姉と共に額の黄金のゲジゲジが彩ルダムの顔を見る。金雷蜒神の聖蟲の赤い瞳には確かな知性が宿り、明らかに足元の蟲とは異なった。
 そうは言われても足の運びをより一層慎重に、幼蟲を踏まぬよう確かめながら移動する。彼女の額の黒い甲羅を持つカブトムシもしきりに翅を震わせて、幼いギィールを威嚇する。

「そうか。そなたの聖蟲を食べんとする幼蟲も居るかもしれぬな。クワアット(褐甲角)神の聖蟲に勝てる道理もないが、無駄に命を落とすのも不憫。あちらで話をしよう。」

 農機具が納められた白い飾り気の無い倉庫の脇で、ふたりは丸い卓を挟んで座る。ゲジゲジ巫女の奉仕が無いので、卓の上にはお茶もお菓子も無い。

「王姉妹は本来不自由な暮らしを強いられる。外界の者は横暴に振る舞う思い上がった女共と感じているだろうが、それは逆。自由奔放に振る舞えるギィール神族への妬みと羨望に常に身を焦がしている。」

 ガトファンバル崇王姉、現存する最高齢のギジメトイス神聖王の娘は驚くほど普通の感覚の持ち主で、彩ルダムとの応答にも狂気を臭わすなにも示さない。王を支える者としての威厳と己を虚しゅうして王国に奉仕する諦観とを共に十分感じさせながらも、ほとんど一般人の心境を保って居る。
 額の聖蟲とはもう50年も共にあるのだろうが、神威の影響から自由で居られるのは奇跡と言えよう。

「それほど不思議か? いや、不思議であろうな。聖蟲を戴いて変らぬ道理がないからな。だが我らが始祖、金雷蜒神救世主ビョンガ翁も変らぬ人だったと聞いている。カンヴィタル・イムレイルのように救世の熱に浮かされたりしない。」

 彩ルダムは一瞬頬を赤らめた。褐甲角神救世主初代武徳王カンヴィタル・イムレイルはたしかに軽率な、だが若々しい情熱に溢れ人を救わんと無謀な戦いに身を投じる快男児だ。客観的な評価をすれば崇王姉の言うままの痴れ者となろうが、面と向かって言われれば多少腹が立つ。

 崇王姉は表情も変えずに話を続ける。韜晦や衒学、当てこすりといったギィール神族特有の会話の技巧も、彼女には見られない。

「そなたには理解してもらわねばならぬ事がある。青晶蜥神救世主の次代を担う者にとって欠くべからざる知識だ。」
「お待ち下さい。それほど高くにメグリアル劫アランサ王女を評価なさる、その理由をお聞かせください。」

「そうか。そなたはガモウヤヨイチャンに会って以降、王女から離れて居たのだったな。」
 神聖宮においては赤甲梢の動向、特にアウンサ周辺の人物を詳細に観察し分析が行われていた。誰が誰と繋がりどんな会話を交わしたか、信じられないほど精密に知っており唖然とさせる。

「神聖宮に住むすべての王姉妹と神族廷臣の一致する見解だ。第二代青晶蜥神救世主はメグリアル劫アランサに間違い無い。」
「そんな…。」
「ガモウヤヨイチャンは仮初めの、真の救世主を育てる為に遣わされた、いわば救世主の雛形だ。あれほど優れた人物に世界を指導させる事は、神の計画自体に反する。にも関わらず彼女が必要なのは、今の方台に住まう人間に決定的に欠落する要素を補う為と看る。」

 ギィール神族は智慧深き者と誰もが知るが、遠く東海の端にあっても彼女達は世界全体を透徹に見抜いている。
 その眼差しの深さに、彩ルダムは徹底的な敗北感を覚えている。このような人を敵としていては、褐甲角王国が千年戦っても打倒出来ぬはずだ。

「真の救世主は方台生まれの人に限られる。だが、ガモウヤヨイチャンの影を強く刷り込まれた者であるべきだ。正直に言って、劫アランサ王女の伝えられる逸話は芳しくない。空を自由に飛ぶ以外は、ガモウヤヨイチャンの下で汗水流して無理難題を必死にこなしているに過ぎぬ。だが、」

「それは、ガモウヤヨイチャン様が王女を救世主として鍛えている、と看做すのですね。」
「不器用に幻を求める者は、見る人に限りなく尊いモノを追っていると感じさせる。失敗こそが第二代救世主の要件となる。」

 褒められたのか貶されたのか分からない。が、黒甲枝に生まれた者ならば皆ある事に思い当たるだろう。
 褐甲角王国を戦いに駆り立てる原動力は、カンヴィタル・イムレイルの果たせなかった誓願を代わって成し遂げようとする意志だ。初代が成功し得なかったからこそ、今日の王国がある。
 青晶蜥王国も、ガモウヤヨイチャンが指し示す遠い平安の野に向かって空しい行進を続けるべきなのだ。

 

 崇王姉は自らの意図を確実に彩ルダムが理解した、と見て秘密の暴露を行う。方台の未来を示す最重要機密だ。

「この聖蟲の繁殖所では現在、年に10匹の聖蟲を供給する。」
「! 10ですか。」
「そうだ。」

 聖蟲の寿命はほぼ百年。褐甲角神の聖蟲は命有る限り黒甲枝の後継者に受継がれていくが、金雷蜒神の聖蟲は宿主であるギィール神族の死と共に母なる巨大金雷蜒神の身体に同化し消える。
 つまり、百年後の金雷蜒神の聖蟲は確実に千匹を下回るのだ。現在3000人居る神族が激減する。

「…金雷蜒神がしろしめす世は、間もなく終る。」

「なにやら、騒がしいな。」

 繁殖所を囲む垣根の外で、女達が騒ぐ声がする。崇王姉は立ち上がり、右手を上げて喙番を呼ぶ。
 女の狗番である鳥の仮面を着けた「喙番」は、乳房も露な軽武装で神族や王姉妹に奉仕する。彼女達は人間の数には入らないので、繁殖所に立ち入りが許される。

「何事か。」
「おそれながら申し上げます。王姉妹様方数名が武器を手に外宮に押し出す気配にございます。」
「武器を持って? なにが起きた。」

「それが、」
 喙番は仮面の覗き穴から彩ルダムに視線を送る。年齢は20代初めであろうか、固く尖った乳房は未だ処女である証だ。

 嫌な予感がする。

「王姉妹様方は神族の殿方よりチュダルム彩ルダム様をお護りせんと、自ら討って出た由にございます。」
「ならば致し方無し。必ず勝てと伝えよ。」
「は。」

 彩ルダムは顔面蒼白になる。この間から妙な雰囲気は感じていたのだ。額にゲジゲジの聖蟲を持つ人は、男も女もなぜか自分を熱い視線で射竦める。
 この内宮では、いや崇王姉だけは反応が違ったので安心していたのだが、やはり乱の原因は自分らしい。

 崇王姉は溜め息を吐き、再び座る。

「やはりそなたは、聖上に御召し上げ願った方がよいかも知れぬ。」
「な、なにごとでしょう。」

「気付かぬか、皆そなたに夢中なのだ。妾は鋼鉄の自制心にてかろうじて耐えておる。」

 

 

 王姉妹と神族が彩ルダムを巡って闘争に及び負傷者まで出すとなれば、身元引受人であるアウンサも腰を上げねばならない。
 だが王女にも赤甲梢の神兵にも、彩ルダム本人にも何がどうなっているのかさっぱり分からない。神兵に王姉妹が見向きもしないところを見るに、彩ルダムのみが何か異常な誘引力を持っているらしい。

 自分達だけでは解決不能なので、内宮に伺って神聖王ゲバチューラウの意見を求める。事態の深刻さは双方共に理解しているから、ただちに謁見は許された。

 しかし、なにかが違う。
 神聖宮外宮の絢爛たる迷路に入ったアウンサと彩ルダムは、最初それに気付かなかった。ただ常よりも軽んじられていると、皮膚で感じた。

「アウンサさま、なんでしょう。」
「視線が、…そうか、私達は見られているんだ。」

 基本的に聖蟲を持つ者をまじと見詰めるのは禁忌とされ、王宮においても一般社会でも視線を逸らすのが作法となる。これは神族神兵同士でも同じで、極力相手と視線を交わすのを避ける。無用の衝突を避ける為、あるいは聖蟲による呪いから身を守る為と、自然に発生したごく基本的な習慣だ。
 当然神聖宮に勤める一般人奴隷は礼に完璧に適応し、神族をうっかり見てしまう無作法をしでかさない。「影に頭を下げる」と、アウンサも女官の心得を聞いた事がある。

 にも関わらず、二人は今しっかりと見られている。それも敵意が4割は混ざっている。

「アウンサさま、これはゲジゲジ巫女ですか。」
「うーん見ているな。おまえだけでなく私も。」

 にわかにギィール神族の心を捕らえ放さぬ存在が、女達の誇りをいたく傷付けたらしい。
 もとより神聖宮に奉仕する女奴隷や巫女は美人揃いでいずれも容姿に自信を持つ。しかし、物事の本質を見抜く冷厳な眼を持つギィール神族は上辺の美には惑わされない。彼女達の誰も神族の興味の対象とはならないのだ。

 その神族が、敵国から来た一人の年増女に夢中になる。剣を交えて相争うほどに求めている。日頃無視され続けた彼女達の心中穏やかなはずがない。

「ルダムちゃん、これはそのなんだ、私は慣れている嫉視という奴だな。」
「元老員の姫君は皆、アウンサさまの御乱行に眉をひそめていましたね、そういえば。」

 単に見詰められるだけではなかった。
 神聖宮の各所では、人に姿を見せぬ奉仕がある。例えば扉は近付くだけでさっと開く。御簾や幕も自然と上がる。奴隷が物陰に隠れていて、神族の癇に触らぬ絶妙の呼吸で開閉するのだが。

「手間取りますね。」
「やる気無し、というところだな。」

 極めて地味な嫌がらせが続く。無礼と看做されぬぎりぎりのところで、なんとなく不快を誘う嫌味な動き方を扉はする。通常風を巻いて傍若無人に歩む王女アウンサもちまちまと足を止められ、憤りに鼻を鳴らす。

「この歳になって新たな学習をさせられる。侍女女官達のささやかな抵抗運動の手法、覚えたぞ。」

 通常の3倍の時間を費やして、ようやく内宮を囲む華麗な装飾の鉄柵まで来る。堀を渡る丸橋を守る喙番もやはり女だが、さすがに毒のある視線を向けたりしない。
 橋を渡り終えた所に、カタツムリ巫女頭侍女のフェリアクアが待って居た。いつものとおりの人懐っこい笑みを浮かべる。

「お気付きになられましたか?」
「ゲジゲジ巫女は怒っているな。」
「彼女達は本来怒りっぽい性格ですので、どうぞご容赦下さい。」
「ああ、ゲジゲジ巫女たる要件はきらきらと刺を持つ不機嫌さ、だったな。」

 カタツムリ巫女はこんもりと丸く持ち上がった蝸牛の殻に似て温和な性格である。ようやくにまともに応対してくれる人を得て、カブトムシの聖蟲を持つ二人は安堵した。
 ちなみにカブトムシ巫女に求められる性格は、意固地なまでの頑さ、だ。黒甲枝に生まれた者は皆カブトムシ神の神官巫女に等しく、そういう躾を施される。アウンサも彩ルダムも同様だ。

 庭園を貫く白沙の径を進み神聖王の待つ小館に入った二人は、ものの20分で顔面蒼白のまま飛び出して来た。

「臭い、なのか。」
「ゲジゲジの聖蟲の超感覚は、私から幻の匂いを嗅ぎ取る、と仰しゃられていましたが、」
「という事は、すべてのギィール神族はおまえに首っ丈てわけだ。」
「に、逃げましょう!」

 しかしアウンサは考える。同じ聖蟲を持つ女なのに、何故自分からはそれが出ないのか?
 やはり彩ルダムが処女だからだろうか。彼女は聖蟲を戴いてもう5年になるが、その間男と交わらねば件の臭いを発するのか。

 なんとなく、なんとなく次の時代のルールが読めて来た。

「ともかくお前は新時代の女らしいな。ゲジゲジカブトムシ両神を繋ぐ。」
「いやです!」

 

 

 赤甲梢と神聖宮との和解が成立した後も、島外での戦闘は継続する。
 海中に没した装甲神兵隊黒紫幟隊の残存兵と、本土に残り兎竜を確保し続ける兎竜隊青旗団の消息は長く赤甲梢本隊には伏せられ、心配させ続けられた。

 ようやく、13日目にして吉報が届く。

「兎竜はかなり減らしましたが、青旗団の神兵に欠けている者は無いそうです。前日にギィール神族の討伐隊との間で停戦交渉を完了しました。」
「おお! 有り難い。」

 シガハン・ルペ、スーベラアハン基エトスの二人の前に立ち報告するのは、ギジシップ島の正面玄関である聖大門が一つ鉄城門を守る門監将軍の一人だ。
 ”ワトノバラメガリゾム”イン・ケムレル兵師大監。聖蟲を持たない一般人だが、神聖王に姓を貰った「賜姓功臣」として神族に比肩する格式を誇る。

 今回のゲバチューラウ神聖王の西幸に当たって、彼は禁衛将軍となり神聖王の安全を司る。
 それに先立って、同行する赤甲梢の全部隊を停戦させ集結するのに尽力して、何名もの神兵の命を救ってくれた。

「本土のギィール神族はどれも毒地への出撃準備を調えていた為に兎竜隊は辛酸を舐めさせられたようですが、人命が保たれたのは喜ばしい事でしょう。」
「有り難い。早速にアウンサ様に報告してお慶びいただこう。」

「これでようやく聖上が海を渡り褐甲角王国に進まれる準備が整いました。明後日には船が仕上がり、護衛の艦隊も集結を完了致します。赤甲梢の皆様も御出立の準備を進めて頂きたく存じます。」

「出立か…。」
 これをこそ求めて方台の東の果てまで渡った赤甲梢である。感慨ひとしおであるが、実際問題として障害がかなり大きい。
 なんとなれば、敵国中を敵の王と共に歩くのだ。左右はすべて今にも飛び掛からんとする完全武装のゲイル騎兵に包まれる。武装兵や暗殺者も多数取り揃えて待ち受けるだろう。

 さらに、こちらには負傷者も居る。カブトムシの聖蟲を戴く神兵は傷の癒りが早く、数名を除いて帰還に支障は無いのだが、甲冑を身に着けてというわけにはいかない。
 脱いだ翼甲冑を置き去りにするわけにはいかず、重傷者共々荷車を借りて運ぶ事となる。だがこれには役夫を貸してくれない、貸す法的根拠が無いと突っぱねられる。赤甲梢はやはり東金雷蜒王国領内では自力で活動せねばならなかった。

 基エトスが赤甲梢神兵頭領たるルペに言う。

「やはり神兵に牽かせるしかあるまい。武装していない者はすべて荷車に乗せ、自力では歩かないようにしよう。」
「体面の問題か?」
「そうだ。負傷した姿を敵国民衆の前にさらすのは、やはりまずい。王国の誇りを傷つけたと帰国後アウンサ様が指弾されよう。」

「母衣付きの大型の荷車を調達して貰えるだろうか。」
 イン大監に相談してみるが、色良い返事は貰えなかった。そもそもが人力で牽く荷車にそんな大きなものは無い。使役する畜獣が無い十二神方台系においては、車の利用は限定的なものに限られる。

「だが負傷者を置いていく事は許されない。運搬が不可能と決まれば、翼甲冑の放棄も検討しよう。」
「やむを得んな。」

 その他にも細々とした打ち合わせが必要となる。
 赤甲梢は神聖王と共に行列して国境ギジェカプタギ点に向かうのだが、その行軍の配置も武装の管理も非常に厳しい制限が課せられた。未だ神兵は200に近い数を擁し、その気になれば神聖王以下を皆殺しに出来る戦力を有している。一挙手一投足も協定に定められ、用を足す回数さえ定められる。

「ですが、」
 表情が暗くなる赤甲梢に、イン大監は明るい話題も提供する。赤甲梢に対する東金雷蜒王国の民衆の評判はすこぶる良く、彼らの支援に関して神聖王が規制を掛けるつもりは無い、と明言した。

 基エトスには信じがたい話だ。赤甲梢の金雷蜒王国内突破は民衆にはほとんど関り無く、和平を締結するとはいえ直接利益とならないだろう。

「民衆の間では、我らは如何に語られているのでしょう。地元の神族を随分と殺しましたが、恨まれてはいないのですか。」
「どうやら世間の風潮が一気に変わったようです。民衆はこれまでの世を塗り替える壮挙をこそ必要としており、貴方がたの冒険は欲するがままのものだったようです。」

「神族を殺した点に反発は無いのですか?」
 ルペもそれは気にしており、確かめずにはおられない。

「奴隷というものは、主人が変わる事には慣れているのです。また神族の死は続く葬祭や代替わりの式典の饗宴となり、奴隷には大盤振る舞いの続く吉事となります。」
「…ううむ、神族は死ぬ時も施しせねばならないのですか。」

 仁政とは難しい。いかに徳の高い為政者であっても、民衆の喜びは所詮物質的な利得があればこそ。義に感じ復讐を誓うのは狗番しか居ないのだ。

 多少は金雷蜒王国の事情に詳しい基エトスが確認する。

「では狗番が兵を仕立てて襲って来る可能性は、かなり低いと看做すべきでしょうか。」
「狗番では兵を募れますまい。神族に復讐を誓う方が居られれば別ですが、神族は互いの不幸には冷淡ですので、まず無いと。ただ、面白がって手を出される方は居るでしょう。」
「神聖王の行列の中にあってもですか。」
「なおのこと、聖上の御機嫌伺いに赤甲梢と一戦交えてみようと考えても不思議はありませんな。」

「ルペ、まずいぞ。」

 だがシガハン・ルペはこういう問題には徹底して楽観的な男だ。造作もなく対策をひねり出す。あまりの簡単さに基エトスは呆れて咎めもしなかった。

「ならば我らの側でも5名ほど即戦が可能な者を前面に押し出して、常時挑戦を受け付けよう。側面から奇襲されるより、何度も挑戦を受ける方がずっと楽だ。
 イン殿。神聖王陛下に、挑戦隊の武装は完全装備である事をお許し願いたい。」

「ハハ、それは面白い。神族の方々もそれならば喜んで応じるでしょう。いやむしろ、順番待ちで神族同志での決闘が起きるやもしれませんな。」
「ハハハ。」

 

 兵士が一人、静かにイン大監の傍に寄り小声で報告する。大監は大きく首肯き、赤甲梢の二人に向き直る。

「聖上の玉体を御護りする、神族の護衛隊長が参られました。神剣匠ゥエデレク峻キマアオイ様です。」

 ぶん、と額の上のカブトムシが羽ばたいた。二人同時にで、こんな事は今までに一度も無い。
 ルペと基エトスは無意識に左の腰に手をやり、剣の柄を握る。拵えこそ立派だが中身は無い飾り剣である。意味は無いとは知っていても、思わず赤甲梢を動かした。

 それほどの殺気が部屋に差し込んで来たのだ。いや、殺気ではない。戦う気はまったく無いにも関らず、未だ姿も見ない内に警戒を強いる武人としての勘だ。
 基エトスが尋ねる。

「神剣匠とは?」
「神族にして剣匠、あらゆる武術の達人の頂点に立つ御方であり、神をも凌ぐ武技を振るわれる東金雷蜒王国最強の戦士であります。」

「我らの知識には、無い。」
「戦場には名を変え身をやつしてお出でになりますので、そちら側ではお気づきになりますまい。」

 二人は知っている。寇掠軍の中に時折凄まじい武術の達人が混じっている事を。
 その者は神族であるにも関らずゲイルには乗らず徒歩にて兵と共に戦い、黒甲枝と一騎討ちしてしばしば凌駕すると聞く。
 聖蟲の有無は仮面の下で分からない。だが聖蟲を持たざる者がそれほどの危険を冒す理由が無い。
 彼らは神兵の首級を上げる事にのみ人生を捧げる、武の頂点を極めた聖人だ。

 赤甲梢という褐甲角王国きっての強者であるが故に、二人は未だ留まれる。並の黒甲枝であれば、この者の前では退かずには居られまい。

 白い寛衣に大きな剣を吊るすそのギィール神族は、平均より少し身長が低く、代りに隆とした筋肉の膨らみが輝く圧力を放っている。それでいて表情は涼しく、赤甲梢を前にしても警戒や緊張がまるで見られない。
 怖れていない。

 シガハン・ルペも基エトスも、聖蟲の助けなくとも戦える一騎当千の武者である。実際彼らは聖蟲を授かる前に目覚ましい働きを為し、故に聖戴の栄誉を与えられた。
 その二人を前にしても、まるで案山子が立つのを見る平静さを崩さずに在る。

「ゥエデレク峻キマアオイだ。神剣匠という大層な称号を頂いている。お前が赤甲梢神兵頭領シガハン・ルペ、後ろがスーベラアハン基エトスだな。」

「…、お初にお目にかかります。」

 これは尋常ならざる強さだと、二人も納得せずにはおられない。
 人体の美しさにこだわる神族は筋肉が発達し過ぎてバランスが崩れるのを嫌う。通常それは戦闘力の低下にも繋がる。にも関らず彼が力を欲するのは、神兵と互角に渡り合うを望むからだ。神の力を授けられた神兵と切り結ぶには、どれほどの剛力が必要なのか。

 神聖王ゲバチューラウはギジシップの防備をわざと緩くして赤甲梢の到達を待って居たと語る。なるほど、このような武術の達人を温存していたのなら、その言葉は真実なのだろう。

「これからしばらく道中を共にする。先ほど話していた挑戦隊の思案、聖蟲の耳で拝聴させてもらっていた。なかなかに面白いな。機会があれば我も試させてもらおう。」
「どうぞ。なるべくならば他の神族の挑戦が絶えた後にお願いします。」

「うむ。だが何も賭けずに戦うのも興が薄い。どうだ、チュダルム嬢の楯となり操を護ってみるか。」

 ああ、このひともだ。と基エトスは目の前が暗くなる。

 

 

 創始暦五〇〇六年秋初月朔日、赤甲梢が神聖宮に到着して16日目。ついに神聖王ゲバチューラウが首都ギジシップ島を出立して西へ向かう。

 神聖王が政治的に意味のある旅行をするのは、ギジシップ島に遷宮して以来となる。実に400年ぶりの吉事だ。
 それだけに海峡は一目見んとする人が繰り出した船で埋め尽くされ、船縁を飛び越えていけば対岸まで渡れそうな賑わいとなる。

 喧騒が微かに伝わって来る内宮の奥で、最後の会談が行われた。
 これまでの私室での対面とは異なり金雷蜒(ギィール)神の祭壇に呼び込まれ、アウンサと彩ルダムは黄金の椅子に座る神聖王と崇王姉の前に跪く。

 神聖王はきらびやかな甲冑を着用しており、もはや人の姿にはない。金雷蜒神救世主として、やはり武にて世界を救わんとする戦神の有り様だ。
 この姿を目にしたギィール神族や民衆は、覚悟に驚き異論を自ら封じて王に従うだろう。

 アウンサは聖なる空気と光が漂う祭壇の床に膝を突き額を当てながらも、運命の不思議を噛み締めていた。

 考えてみればこの時期この機会に、行動的で覇気に溢れ自ら時代を動かそうとする気概を持った神聖王を得られたのは、僥倖である。もし病弱な幼王であれば西幸どころか和平も結べなかっただろう。
 これが天河の計画であればさもありなんと納得するが、彼女が理解するものはもう少し複雑だ。

 確かに天に計画は有る。だがそれを演ずる人はこの地に生まれ自ら生きる道を定めた自由な存在だ。神とて最良の人材を最適な時ふさわしい人数見出すのは困難。その証明が、異世界から呼び出されたガモウヤヨイチャンとなる。
 方台に人あれば敢えて星の国から彼女を呼ぶ必要は無かった。選ぶに足る人を定められた時に得るのは、神の力をしても難しいのだ。

 

 アウンサの左に控える彩ルダムを、微妙に兜を動かして神聖王が見る。

 神聖王ゲバチューラウは黄金の仮面を着け表情を隠していた。仮面を用いる者はギィール神族に多いが、この場合彩ルダムを直接に見ないが為であろう。
 それだけ彼女の誘引力は凄まじくほとんど超能力と呼べるほどで、内宮に至るまでの経路に神族を近付かせない慎重な警備が必要だった。

「ひとつ、頼まれて欲しいものがある。」
「は。なんでしょう。」

 神聖王の言葉にアウンサは頭を低くして答える。王女とはいえ彼女の格では、神聖王の前に面を上げるのは特別の許可が要る。褐甲角王国の礼典ではそういう風に定められている。

「或る者を預り、青晶蜥神救世主に渡してもらいたいのだ。」
「今ですか? 現地に到着して後では不都合がございますか。」

「これは聖上のお考えで、チュダルム彩ルダム殿の身を道中護る為の策です。」
 ガトファンバル崇王姉が補足説明をする。穏やかな神聖宮の内部でさえ騒ぎを引き起こす彩ルダムだ。道中に遭遇する神族の中には、実力で彼女を奪い取らんとする者も出るだろう。それを防ぐ目眩しを用意した、と告げる。

 合図を受けて、カタツムリ巫女フェリアクアが手を引いて一人の女人を案内する。頭からすっぽりと薄浅葱色の布に覆われた、痩身の巫女だ。
 フェリアクアは相変わらずの人懐こい笑みを浮かべ、紹介する。

「トカゲ巫女チュルライナです。」

 芝居がかった指先でするりと布をはぎとり風に舞わすと、その下に繊細な裸身がある。

「あっ!」
 赤甲梢の二人は思わず声を上げた。

 二人の前に立つ女は、全身に鱗を持ち青くぬめる艶を薄光に照り返す。目は細く瞳は闇を珠に凝らせ、静寂に瞬く星の漣を浮かべていた。髪は紺色で長く伸び、あまりにも細い毛先が空中に淡く消える。

「これは一体何者です?!」
「我々がトカゲ神救世主であろうかと考え、保護してきた者だ。百年に2、3人は生まれるらしい。無論、真の救世主では無かったがな。」

 あらためてフェリアクアに衣を掛けられ、トカゲ女は身体を隠した。表情は無いがどこか哀しげに見える。

「この者が目眩し?」
「うむ。これを前に押し出せば、なにが神族を誘惑するのかしかとは分からぬだろう。」
「その為だけに、この者を使うのですか。」
「既に用済みとなったからにはガモウヤヨイチャンに返さねばなるまい。善き機会だ、チュダルム殿にお預けしよう。」

 彩ルダムはトカゲ女の黒い瞳を見つめて考える。
 この人は生まれ落ちた日からずっと警戒され監視され、政治的宗教的に利用される為だけに生かされて来たのだ。将来の希望も無く、異性と結ばれて子を成すも許されない。生贄となるべく此の世に遣わされた、虚しい命であったろう。

 だが運命は変わるのだ。
 生まれ持った鱗は脱ぎ捨てられないが、ガモウヤヨイチャンの輝く光の前では、そんなものは些細な文様にしか見えない。人から他愛の無い者よと見捨てられ省みられぬ、だがのびのびと腕を伸ばし草原を駆ける自由な生き方がデュータム点に待っている。

 彩ルダムは改めて頭を下げて、神聖王に誓う。

「承知しました。この者は必ず青晶蜥神救世主の元に届け、東金雷蜒王国の親善の証しといたしましょう。」
「うむ。」

 神聖王は黄金の仮面を宙に向け、祭壇の天井を透かし何かを見る素振りをする。
 内宮の中心に建つ小さな館の上では、神聖首都ギジジットから送られる巨大金雷蜒神のエネルギーが未来の予兆を映像として紡ぎ出す。

「メグリアル妃よ。天河の告げる光の像が変わった。新たなる運命が解き明かされる。」
「なにごとか起きますか?」

「そなたの生命が危ういと見る。」

 ふ、とアウンサは顔を上げ神聖王を見た。距離にして10メートル、わずかの段差の上に据えられた黄金の椅子に座る王は、今の言葉に何一つ感慨が無く義務的に伝えた風情を漂わす。

「命に関る危険が私の身に迫っている、と予告されたのですか。」
「残酷な死だ。」

 崇王姉も言葉を繋げ肯定する。だが同時にこうも告げる。

「もしそなたがギジシップ島に留まるのなら、運命は訪れないだろう。天河の定める計画は、舞台を降りた役者には適用されない。」
「我らは皆天に配され一幕の芝居に生きる倡優…。」

 カタツムリ神官巫女は本来神話劇を演ずるを役目とする。女優フェリアクアをちらと見て、アウンサは傲然と胸を反らす。凄まじくも人を惹き付けてやまない笑みがある。

「私も武を以って立つ王国の姫にして、血河を渡って生きる物夫を率いる将にございます。危険が死が待つとのお告げは、歓待の宴が整っている誘いにしか聞こえませぬ。」

 ゲバチューラウは立ち上がり、右手をアウンサにかざした。掌から祝福の光が射すかの仕草だ。

「そなたの姿、しかと見覚えた。天に還るその時は我自ら像に造り、とこしえに此の世に留めよう。」
「望外の幸せ。」

 彩ルダムは二人のやりとりに心臓が凍りつく思いだった。
 アウンサ様が死ぬ、死に飛び込んでいく。それはやがて自分をも巻き込む激流となり、方台を混沌へと押し流すだろう。アウンサはそれを喜びともするが、自分は?

 

 神聖王の前を下がり、赤甲梢の武者達が待つ広間に歩む道すがら、アウンサは妹同然に愛し妹同然にいじめた彩ルダムに言う。

「もう随分と生き、あらゆる人に迷惑を掛け、この千年誰にも出来なかった無茶をした。そろそろ潮時なわけだよ。」

「…許されるのなら、私はあなたの楯になりたいと思います…。」
「嫌なこった。後始末を頼むのにルダムちゃんほどの適任は居ないさ。」
「幾つ、始末せねばならない秘密を抱えているのです。」

「数えたこともない。」

 

 赤甲梢は鉄城門から、神聖王はこれまでただの一度しか公式には開かれたことの無い隆慶門より外界に出た。この門は神聖王が公式に出陣する時にのみ使われる。

 明るい海を望む港は五色の旗幟が何万と翻り、鉦太鼓の音が、万民の歓呼する声が天をも劈く。
 通例では神聖王に対等の関係を求めるギィール神族でさえ、今日はゲイルの背でなく船の甲板に跪き主君と仰ぐ。

 神聖王の出座は、これほどまでに世を動かす力を秘めている。赤甲梢の諸兵はガモウヤヨイチャンが誘う和平の道が揺るぎない方台の未来を拓くと確信した。

 舳先に黄金のゲイルの飾りを着けた王船が進み、無数の小舟の上に舞い踊る美姫達が花を撒き散らし海を紅に染める。
 空には極彩色で慶事を寿ぐ絵が施された鳥兵(凧)が何本も羽ばたき、天河の祝福を乞い願う。

 これも飾りつけられた軍船で移送される赤甲梢も深紅の翼甲冑を陽に照らし返して、見守る人を威圧した。
 甲板中央に立ち海峡の光景を睨むアウンサの傍にシガハン・ルペは寄り、言った。

「和平がならずとも、金雷蜒王国の政治はこれで変りましたね。」
「ああ。神聖王が直接統治を行う新時代の幕開けだ。吉と出るかは定かではないがな。」
「願わくば、平和な時代の到来がならんことを。」

 ルペはアウンサの死の予言を知らない。赤甲梢の将は笑って背後に控える神兵達に振り向いた。

「まだまだお前達を遊ばせてはおかないぞ!」

 

 古い物語は幕を閉じ、誰も行き先を知らない新章が始まる。

 

第二章 空飛ぶ王女の焦燥

 決死の覚悟を胸にウラタンギジトを退去したメグリアル劫アランサ王女は、実家メグリアル王家の在る神殿都市エイタンカプトに寄る事もなく、まっすぐ神聖街道を下りていった。
 険しい坂道で5日掛るところを3日で行くと、護衛の兵と侍女女官がすべて脱落してしまった。デュータム点に辿りついた時には、聖蟲を戴く赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダのみ従う。

「総裁、さすがに常人には無理な行程です。いかがしましょう。」
 女人である劫アランサ王女には侍女女官が不可欠だ。礼典で王女の護衛の数も定まっているのだが、いずれも今のアランサには道中の邪魔でしかない。

「ああ、いっそ空を飛んでいくべきでしょうか。今は一日でも早く陛下の御元に参りたいのです。」
 焦るが、さすがに一人で武徳王の大本営に飛び込む無礼さ非常識さは心得ている。最悪でもウェダ・オダは連れていかねば門前払いを喰うだろう。

「参りましたな。早飛脚を走らせるにしても、こちらの方が足が早く追い抜いてしまう。」
「一日でも一刻でも惜しいのです。何としてでもヌケミンドルに10日で着かないと。」

 弥生ちゃんは15日で神聖王が来ると言ったが、ウェダ・オダは30日は掛ると見る。キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女、赤甲梢の神兵が恋い慕う前総裁の交渉能力は信頼がおけるものの、大行列になるに決まっている神聖王の歩みは遅く、通常の三倍の日数を移動に要するだろう。
 それでもアランサが遅れて良い理由にはならない。ミンドレア県境に位置する武徳王の大本営からボウダン街道の出口カプタンギジェ関まで兵を連ねて行軍すれば、早足の強行軍でも12日は掛る。赤甲梢の指揮権を取り戻すのにも或る程度の日数が必要だろうから、往きの行程で時間稼ぎするのは絶対に有益だ。

 ウェダ・オダは決心した。一歩間違えるとアランサ王女が問責されかねない策だが、これ以外に方法は無い。

「総裁。これは非常の策を用いるしかないでしょう。聖蟲を戴く我ら二人だけでガンガランガの野を走り抜けます。」
「ふたり、ですか…。」

 嫁入り前の娘のやってよい冒険ではない。たとえそれが信義に篤い神兵で妻帯者であっても、許されるはずが無い。だが自分で走る以上に早い乗り物などあろうはずも無かった。

「走り抜けてどうします。そのまま大本営に飛び込みますか。」
「いや、ミンドレアあたりに心効いた知人などがあればそこに飛び込み協力を仰ぎ、侍女や兵も借り集めて体裁を整え御前に参上する。これでどうです?」
「なるほど。信頼の出来る民間の富豪などがよろしいですね。」

 アランサは土埃にまみれた乳白色の髪を掻き上げて考える。風の強い神聖回廊を輿も使わず駆け降りたのだ、これだけでもう王家の格を汚したと責められて仕方ない。
 一方ウェダ・オダは走行に適する深紅の翼甲冑を装着しているが、単に走るとなればこれまた邪魔。鎧櫃に入れて担いだ方がはるかに楽だ。
 二人ともデュータム点で準備を調えねばならなかった。

 ぴんと、アランサは顔を上げ、笑顔で振り返る。ウェダ・オダは最近しかめ面の王女しか見ていなかったので、目の醒める思いがした。

「ガンガランガに”御女”の称号を持つ方がいらっしゃいます。ミンドレアにも別邸をお持ちで、叔母上が幾度かお邪魔したと聞いております。」
「おお、うってつけですね、その方は。」
「官職には縁の薄い方ですので、内密に協力をお願い出来るでしょう。実は叔母上から密かに、お金で困ったらこの方におすがりしなさいと助言されていたのです。」

 アウンサは元老員の姫君には敬遠されるが、財界や民間の有力者の間では人気の高い社交界の星である。遊び好きも、赤甲梢運営の協力を取りつけるいわば営業活動であり、独自の人脈と金脈を作り上げるのに腐心したとウェダ・オダも知っている。

「そうと決まれば早速、そうですね、デュータム点の叔母上のお屋敷を借りて準備を調えます。私は男装でもせねばならないでしょう。」
「申し訳ありませんが、食糧他或る程度のお荷物は総裁御自身に運んでいただく事となります。」
「そのくらいなんでもありません!」

 王女の顔は確かに輝いていた。忙しい慌ただしいのがむしろ憂いを晴らす妙薬となる。

 

 メグリアル王家の特技は「貧乏」である。
 暮らしに困る事は無いが、武徳王の代理として式典祭礼に各地を飛び回るとなれば掛る費用も小さくない。カプタニア中央から支給される額では到底足りず、独自に御札を発行したり御祈祷を請けたりと様々な事業を行い、それでも足りないから倹約に務めている。
 足りない中でも恥ずかしくない姿に整える小細工は得意中の得意。アランサが走るのに同意したのは、そこに自信があったからだ。

 だが今回、武徳王大本営の天幕には完全装備、非の打ち所の無い姿で訪れる。

「赤甲梢総裁、メグリアル姫 劫アランサ様御見えにございます。」

 ミンドレアの県境を越えてもう5回関所を通過した。その度に感じるのが服装と行列の格式の重要さだ。いかに額に聖蟲を戴くとはいえ、ちゃんと供回りの人数を揃え礼典に則した衣装を身に着けていなければ、このように速やかにはいかなかっただろう。

 これも皆ガンガランガで立ち寄り協力を仰いだシュメ・サンパクレ・アの力だ。
 紅曙蛸王国時代後期に林立した小王の流れを汲み「御女」の称号を受継ぐ彼女は、突然案内も無しに飛び込んだアランサに快く館を提供し、下人や侍女、護衛を揃える手伝いをしてくれた。当座の化粧代としてぽんと500金も貸してくれたのには、王女も目を回す。
 その金で整えた輿に揺られながら、アランサは深く感じるものがある。

 これまで自分は叔母キスァブル・メグリアル焔アウンサの業績を正しく理解していなかった。確かに赤甲梢総裁としては申し分無いが、私人としてはその遊蕩ぶりに目を背ける人が多く、知らず自分も忌避していた。
 だが今日、金の力の有り難さを知って初めて、叔母が何をやっていたか得心いく。

「ウェダ・オダ。」
「はい、総裁。」

 これも良く磨かれ蝋まで塗って艶も鮮やかな深紅の翼甲冑で威風堂々と歩く副官に、王女はしみじみと語る。

「これまでメグリアルの王宮で倹約については幼少より叩き込まれて来ましたが、蕩尽もまた力であり軽視すべきでないと骨身にしみて教わりました。」
「あまりおおっぴらには誇れない徳ではありますが、さようでございますな。」
「これより後は叔母上に及ぶはずもありませんが、精々嫌がらず酒宴などにもまめに顔を出し、私的な立場を固める努力を惜しまぬと誓いましょう。」
「御無理はなさいますな。アウンサさまの真似は誰にもできません。」

 

 近衛兵団が固める大本営に至る道で、王女の行列は好奇の目にさらされる。
 重甲冑の神兵が、完全装備のクワアット兵の列が、赤甲梢の「赤翅葉冠紋」旗を掲げて進む輿に一斉に振り向く。敬礼を捧げる隊列までが有る。
 武者達は皆、赤甲梢本隊が単独で敵領内に突入し、みごと東金雷蜒王国の中枢ギジシップに到達した事に賞賛を捧げ羨望を覚える。アランサは参加したわけではないが、この先いかに動くか十分注目の的となっているのだろう。

 行列は黄金の甲冑をまとう元老員によって制止される。これより先は乗り物の使用は禁じられる。
 地に降りたアランサは山我の絹を縫った裾の長い礼服の上に、網目の細かい金の鎖帷子を羽織っている。敵の姿は消えたとはいえ、ここは戦場。暗殺者が身を潜め重要人物の往来を狙わないとも限らない。特に赤甲梢総裁となれば報復の対象とされて何の不思議も無かった。

 元老員に導かれ、ウェダ・オダと二人の侍女のみを連れて武徳王の天幕に向かう。正面に立っていたのは元老院の中枢ハジパイ王家の王太子 照ルドマイマンだ。
 ハジパイ王本人は気難しい年寄に見えてアランサは苦手だが、その嫡子である彼は柔らかく穏やかな性格で親しみやすい。

「殿下、御無事でなによりです。」
「劫アランサ姫も道中無事にて喜ばしい。さあさ、陛下がお待ちかねだ。」
「はい。」

 アランサは意を強く持ち、天幕の一つ、謁見の間に進む。
 これからが自分の戦いだ。いかにして赤甲梢残留部隊を統合し自らの指揮下に置いて、叔母と本隊の支援に駆けつけるか。

 

 褐甲角神救世主、第二十三代武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクは54歳。
 先王の蹉跌を教訓に在位20年の今日まで外征を行わなかった、和の王として世間では知られている。だが大審判戦争に臨んでは早々に親征を発表し、自らもゲイル騎兵を間近に仰ぐ陣を敷くなど予想外に大胆かつ好戦的な戦を行う。

 その王が、突如持ち上がった東金雷蜒王国との和平交渉にいかに挑むか。元老院黒甲枝一般人臣民皆注目して見守る。アランサ到着時もいまだ臨戦体制のままで、和平についての意志表明を発してはいない。

 王国の頂点は聖蟲を持たない一般人の将軍や宰相らと同列に並び、王女の入来を喜んだ。

「アランサ姫、美しくなられた。またデュータム点とウラタンギジトでの活躍も伝え聞いている。御苦労であった。」
「陛下、御久しゅう懐かしく存じます。またこの度の聖戦におかれましては禁軍にても大勝利を収め、御身も安泰と聞き及び、褐甲角(クワアット)神の加護霊験顕かなるを御喜び申し上げます。」

 タコ樹脂と鉄箔を積層した装甲に覆われる腕を上げ、自らアランサを傍近くに呼ぶ。

「褐甲角神に感謝を。そのことだ、アランサ姫。そなたは遂に空を飛ぶ能力を手に入れたそうだな。」
「は。はい。褐甲角神の御霊力を頂き飛翔の術を会得致しましたが、陛下の御許し無く飛ぶは恐れ多き事にて、身の縮まる思いにございます。」
「よい。遠路はるばる訪れた疲れもあるだろうが、是非とも天翔る姿を我に見せてくれ。」

 あれ? アランサは雲行きがおかしいのに戸惑う。

 彼女の予想では、赤甲梢の単独行動に対する詰問がまず来るはずだった。ウェダ・オダもそうだと保証した。焦眉の急は赤甲梢の暴挙をいかに軍の作戦の中に組み入れるか、外交交渉にどう活かすかだ。独断専行した焔アウンサ王女は問責されてしかるべきで、それを黙認したアランサも同罪。いや青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンと謀っての謀叛に荷担したと看做されても仕方ない。

 いかし、いざ大本営に到着してみると誰もが賞賛で迎える。直接作戦に参加していない自分にまで実に好意的だ。元老院の多数は先政主義派であり金雷蜒王国との対決を望まない勢力であるから、意外どころか陰謀の臭いすら嗅ぎ取ってしまう。

「陛下。その前に赤甲梢総裁として此度の総裁代理キスァブル・メグリアル焔アウンサの行動につきましての弁明を、」
「当然それも聞くが今最も重要なのは、そなたが空を飛べる事実だ。全軍が待ち望んで居る。ただちに野に出て褐甲角神に感謝の祈りを捧げ、飛翔の術を献ずるべきであろう。」
「は。…御意のままに。」

 ダメだ。何故だか飛ばねば収まらない。
 促されるままにアランサは天幕を出て改めて目を見張る。近衛兵団が完全装備で集合し、自分と武徳王を待っている。彼らの目は期待に満ち溢れ、今にも飛び掛かって来そうだ。

 武徳王は漆黒の鎧を陽に照らし、右の手を上げて兵に応える。たちまち万雷を割る喚声が轟く。
 祖型甲冑と呼ばれる武徳王の鎧はすべての神兵甲冑の基準であり、王国最大の旗印である。これ有るところが褐甲角神救世の御業の示される聖地、正義が地上にもたらされる天剣の切先だ。

 アランサは自分が大変な思い違いをしていた事にようやく気付く。

 デュータム点、ウラタンギジトにあってはアランサは空を飛ぶ事にそれほど重大な意義を認めていなかった。弥生ちゃんに導かれ自然と備わった能力であり、しかもただ単に高く飛ぶだけで世界の状況に何の影響も及ぼしはしない。

 ガモウヤヨイチャンの振るう神刀が奸悪を裁き、ハリセンを用いて万民を病と穢れから救い、なにより本人の知恵と器量度胸によって確固たる救世を方台にもたらしていく姿を目の当たりにする時、アランサは常に自らの矮小さを思い知らされた。ウラタンギジトの神祭王やギィール神族との会話で、彼らが実に深く物事を見極め方台の行く末を真剣に案じているかを知り、これまた我が身の浅学に絶望を覚えるばかりだ。

 弥生ちゃんの力、神に与えられたものでなく元々持っている人間としての可能性の素晴らしさに比べると、聖蟲が与える無敵の怪力も飛翔の術も子供騙しの玩具にしか見えない。
 だが、

 千万の強者が腕を振り上げ槍をかざし歓呼の声を上げる中を行く武徳王の姿に、アランサは見失っていた深い安心感を覚える。
 そうだ。我らは第一に褐甲角(クワアット)神に仕える僕にして、地上に正義を実現すべく生涯を賭け果たせなかった初代救世主カンヴィタル・イムレイルの遺志を継ぐ者だ。

 カンヴィタル・イムレイルは史上唯一人の空中飛行者であった。その奇蹟が今の世にアランサによって甦る。
 飛翔の意義は決して小さなものではない。

「姫よ。そなたが神に生贄を捧げなさい。」

 アランサの到着に備えてあらかじめ設置されていた祭壇に火が入る。武徳王に代わりアランサは一人前に進み出て、カブトムシ神官から供物を捧げる盆を受け取った。
 カブトムシの神であるクワアットへの供物は、蜜や果物、山の恵み、穀物の酒となる。獣や鳥魚あるいは人間では無いので、非常に穏当な地味とも言える儀式になる。
 代りに音が響く。神兵の大剣が、クワアット兵の槍をぶつけ合う撃音が草原を駆け、蒼穹の高みに溶けていく。

「剣を。」
 アランサの言葉にウェダ・オダが許しを得て進み出、御前をはばかり預かっていた細身の剣を捧げる。鞘を預け、右手に煌めく鋼を提げたアランサは、祭壇に向かい火の中に歩み入る。

「おお!」

 天に昇る白煙と共に、アランサの身体が宙に浮く。長い衣の裾がたなびいて、翼が生えたかに見えた。
 高く、高く、雲に手が届くほどの高さにアランサは進む。額の黄金のカブトムシは薄翅を拡げるがほとんんど羽ばたかない。上昇する風と一体になって虚空に自然に在る。

「おお!これが、これが我らの神の理だ。」

 アランサの高く飛ぶ影を追って、武徳王が走る。子供のように無心に、手の届かぬ翅を追い求める。
 重臣も侍従も元老員も、兵達もざわめき揺らぎ首を高く伸ばし顔を天に仰ぎ、空飛ぶ王女を追う。武徳王に続き走る者も有る。

 誰も覚えた事の無い興奮が兵団を包んでいた。希望、解放、約束された未来、明るい光に心が満たされ、現実社会の澱に淀んだ日常が遠い虚空の雲に消えた。

 空中に8の字を描き、アランサは地に下りて来る。祭壇から遠くに離れるまで走った武徳王の御前にゆるやかに滑り、裾を直して静かに着地する。
 軽く瞼を閉じ頭を下げて礼をし、面を上げて人を見た。
 空の上からでも分かる。今自分が飛ぶ事で世界が一つ、新しい扉を開けたのだと。

 剣を胸の前で横たえ両の手で捧げ、武徳王に献ずる。うむ、と力強く首肯いた王はアランサの剣を取り、天にかざす。
 その姿に、また人は声を上げる。
 天を行く剣を提げた若者の図像は、カンヴィタル・イムレイルを象徴する。空中に煌めく剣は人を斬る為でなく、新しい世界を指し示す導きの標だ。武徳王がそれを手にする事は、褐甲角王国がこれからの千年もたゆまず方台の大地を治め正義を顕現する誓いであった。

 アランサは自分が行った一連の動作を不思議に思っていた。事前に打合わせをしたわけではなく、そもそも飛ぶのに剣は要らない。にも関らず自然と唇が動き剣を要求し、飛ぼうと意識せぬのに浮き上がり、求められてもいないのに剣を献じた。
 神が、額の聖蟲が命じたのでもない。心の奥底から、魂の深部から自然と沸き上がる想いが形を取っただけ。それだけなのに、全てが予定されていた場所に見事に納まる。

「ガモウヤヨイチャンもこのように運命に衝き動かされているのだわ。」
 神秘に接する時ぼーっとして心ここに在らずとなる弥生ちゃんの姿を思い出し、ようやく得心した。天河の計画のみがあるのではない。自然が正しい有り様を要求する、神をも超越する久遠の秩序の声なのだ。

 

 地上に降りたアランサは武徳王と並び再び祭壇に祈りを捧げ、そのまま露天での宴会に突入する。

「陛下、よろしいのですか。」
「アランサ姫、この喜びを皆で分かち合おうではないか。クワアット(褐甲角神)へ勝利の報告と御加護への感謝を兵と共に捧げ、祝い寿ぐのだ。」

 つい先ほどまで臨戦体制にあり警戒を崩していなかったのが不思議に思えるほど、劇的に部隊の雰囲気が変わる。
 命令などどこにもない。誰が指図するでもなく庫が開かれ食糧が大量に持ち出され、酒樽が担ぎ上げられ、大山羊の肉が火にくべられる。
 幾つもの大焚き火を何重にも輪で囲み、自然と兵士達の唄が響く。武装を脱ぎ捨て剣を槍を地に刺して忘れ、ようやく軽くなった両手に盃をかざす。
 唄につられて踊る者も出る。赤裸になりくるくると回り始め、大きな笑いが巻き起こる。

 聖蟲を持つ者も持たぬ者も、身分も階級も関係無しに武徳王とアランサ王女の前に踊り出て、酒杯を与えられる。アランサ自らも一介の兵士に手渡した。
 これほど自由な宴は、褐甲角王国では見たことが無い。

「陛下、此度の大戦めでたく勝ちを収められ、祝着至極万々歳にございます。」
 本来武徳王を諌めるはずの宰相や将軍といった老人までもが率先して酒を注ぎ、しなびた両の手を振って踊り出す。

 勝ち戦。今この瞬間を以って、大審判戦争は褐甲角王国において勝利と決まった。そうでなければならない。
 敵が退いたのはよいが、何時また戻って来るか分からない。これまで通りの動員を続ければ王国の経済社会が崩壊してしまう。夥しい死者や重傷者の処遇を考えると、暗澹たる未来しか思い浮かばない。

 しかし結論は出さねばならぬ。大審判戦争に結果を認めなければ次が無い。折良い機会を見付けて勝利宣言をしなければ、方針転換も出来ない。
 それがこの宴、アランサの飛翔をきっかけとした大宴会となり爆発した。

 立ち上る大きな煙をいぶかしみ、周辺に配置された各部隊から確認の物見がやってくる。彼らは一様に大本営の様子に驚き、だが瞬時に同化し歓喜に包まれる。
 戦さは終った!高らかに叫び、また元の部隊に戻っていく。勝利の声はたちまち草原を街道を走り伝染し、やがて王国中を包み込むだろう。

 

 一人だけ取り残されたように、ウェダ・オダが冷静に宴の光景を見つめる。
 彼は草原の戦いから外され、アランサとガモウヤヨイチャンの傍に在り続けたから、この勝利とは無関係だ。どうしても世紀の大戦に見放された感を拭えない。
 深紅の甲冑を身に着けたままの神兵に、アランサに付いて来た従者達が不安の表情を浮かべる。彼の周りだけまだ戦争は続いている。

「ウェダ・オダ!」
 いきなり呼ばれて赤甲梢の神兵は振り向く。アランサだ。武徳王の宴席の輪からようやくに解放されて、自分の隊列に戻ってきた。

「総裁、御酒を頂かれましたか。」
「はい。ですが良い報せも頂きました。」

 少々顔を赤らめたアランサは、しかしまだ酔ってはいない。額にカブトムシを戴く者は酒には強い。

「陛下が直々に御命じ下さりました。引き続き赤甲梢の指揮は私が執るようにと。」
「おお、それはようございました。では早速に私が残留部隊集結の、」
「いえ、それも向こうがやってくださるそうです。なにやら、…あ、呼んでおられる。」

 アランサがこちらに来た理由は、自分が連れて来た侍女達を武徳王の傍に遣わせる為だ。急いで戻るが、副官にこう言い残す。

「ガモウヤヨイチャンさまのお話を大層お喜びくださいます。心配は要りません。」

 やがてカプタニアの山々が夕陽を隠し、大きな影を投げ掛ける。草原が紫色の闇に包まれていく。
 宴はますます盛り上がる。燃える焔に赤く照らされる人の顔は皆笑いほころんでいる。
 遠くに目をやると、向うの砦、あちらの陣にも大きな灯が見える。宴はヌケミンドル全域に広まり、全ての将兵が勝利を噛み締めているのだろう。

 アランサの護衛達も宴に参加させて、一人になったウェダ・オダは言った。自分だけ翼甲冑を着けているのが馬鹿馬鹿しい。
「ま、難しい事は明日考えよう。」

 

 

 翌日。宴は第二幕を迎える。

 草原での大宴会の噂は勝利宣言として明確に機能し、周囲の町村から民間人代表が武徳王の元に祝賀に訪れる。文書や声明として発表されてはいないから、確認に来たとも言える。
 彼らは王の前に平伏し戦勝の祝いを述べるが、予期せぬ以上の朗報をもらった。

「余は、巷間の噂に倣うのではないが、東金雷蜒王国神聖王との間に正式な和議の会談を持とうと思う。」

 恒久的な平和と新時代の秩序を築く為に、金雷蜒王国との間に協調する道筋をも模索する。これまでの褐甲角王国からは決してあり得ない態度であるから、彼らも驚く。

「では戦はもう起こりませんか。」
「そのように努力してみたいと考える」
「ありがとうございます…。」

 民間の側でもこれ以上の兵の動員や物資の供出には耐えられない。うまく機会を得られればこれ以上の戦争を慎んでもらうべく請願するつもりであったから、望外の結果だ。
 皆喜び、またさらに嬉しい話を聞かされる。

「メグリアル王女 劫アランサがこの度、千年の時を越えて褐甲角神救世主カンヴィタル・イムレイルの飛翔の術を現代に復活させた。皆も拝んでいくが良い。」

 

 というわけで、今度は民間人が多数並ぶ中をアランサは空飛ぶ事となる。

「妙な話になってきましたね。」
「総裁。ここは覚悟を決めて、皆が飽きるまで飛びましょう。」

 再び正式に設けられた祭壇に祈りを捧げ、民間人達が持って来た供物を火に投じ、立ち上る煙と共に宙に浮く。
 たちまち、おう!との驚きと不可思議の奇蹟に感ずる声が飛ぶ。アランサは高度を上げ、100メートル付近で円を描いて見物人の頭上を飛ぶ。

 降りてきたアランサに皆ほっと安堵の息を吐き、改めて草原に平伏して拝む。やはり飛翔の術は凄まじく人の心を打つ。

 民間の有力者達を引き連れ、武徳王が傍に寄って来た。昨日は神威に感じ入っただけだが、今日は飛翔そのものに興味をみせる。

「姫よ。飛翔の術は青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンも用いるそうだな。」
「さようにございます。私も救世主様に誘われて術を身に着けました。」
「そなたとどちらが能く飛ぶか。」

「飛翔に関しましては私の方が上かと存じます。ガモウヤヨイチャン様は風を巻き起こしそれに乗る形で空を飛びますが、私は聖蟲の力により直接飛びます。」
「褐甲角(クワアット)神の方が青晶蜥(チューラウ)神よりも優れているのだな。」
「飛翔に関しましては、さようでございます。今御覧頂きましたのも、能力のわずかな片鱗を用いたに過ぎません。」

「うむ。今度はどれだけの力があるのか、見せてもらおう。」

 全力で飛行しろとの命を受け、アランサは覚悟を決めた。ウェダ・オダの言う通り、行き着く所までやらねば解放されないようだ。

 アランサはやはり剣をもらい、鞘は預けて飛翔に臨む。どういう理由かは知らないが、空を飛ぶ時には鞘は不要らしい。
 右手で剣を握り、二三度宙を斬ってみる。軽く民間人達が下がるのを確かめて、膝を折り姿勢を低くして、一気に飛び上がる。

 これまでのゆったりとした浮上を期待していた者は度肝を抜かれた。アランサは矢を天に射る速度で一瞬に先程の高さに至る。二回りして更に高空へと昇る。

「おお、あれよ。」
と首を伸ばし自分を探す無数の人を小さく見つつ、アランサは自分でも試した事の無い高さへと挑む。人の形がだんだんと豆粒に、芥子粒にへと替わり、蝟集する点の群れに溶ける。

「息が、すこし苦しい。」
 この高さ以上になると呼吸が難しいようだ。周囲を見渡すと遠く北の果てに聖山の翳を望む。カプタニア山脈を上から見下ろしている気がする。3千杖(2100メートル)はありそうだ。

 高過ぎて姿が良く見えないだろうと500杖(350メートル)あたりに降りてくる。これでも人の姿は豆ほどだが、聖蟲の力を借りる視力で一人一人の惚ける顔が良く見える。
 アランサは上から叫んだ。

「ガモウヤヨイチャンさまはー、この高さまでしか飛べませんー。」
「ー素晴らしい! ではー早さはどうだー。」

 了解した印に、剣を回して光を地上に届ける。高空で煌めく剣はたしかに良く目立ち、褐甲角神救世主がここに在ると、誰でも知る。

「全力飛行ですか。」
 どちらの向きに飛ぶ方が良いか。北は自分が走って来た所、南はヌケミンドルの要塞群が立ち並ぶ。
「東へ、毒地を上空から確かめて、敵が居ないか調べるのが良いでしょう。」

 長い衣を翻し、向きを東に定める。ふわりと拡がる裾は白く、空に咲いた花のようだ。
 ぐん、と加速を覚える。鳥や蟲のように翼が風を煽って飛ぶのではなく、不可視の力で推進されるものとアランサは理解する。

「おお、おお。」
 下の遠くで声がする。振り返ると人の輪はずっと後ろになっていた。全速力で飛ぶとあっという間に見えなくなる。
 自分でもどのくらいの速度と距離が飛べるのか分からない。だから地平線の彼方まで続く草原を思いっきり飛ばす。

「毒地はまったく不毛の土地だったのに、これほどすみやかに緑が甦る。」
 見渡す限り緑の海。低い草がびっしりと地を覆い尽くし、どこにも荒地の痕跡は無い。
 小さな砦の遺跡を見付け、ここで振り返ると元来た場所が分からない。あれだけ沢山居る兵と人が、草の海に紛れてしまった。

「こんなに広い場所を、あんな少ない人数で争っていたのですね…。」
 アランサは地上の争いの虚しさを改めて痛感する。弥生ちゃんが唱える新秩序が、またしても別の側面を現わし見えて来る。
「空の上から眺めると、神の視点を得るのですね。だからあれほど遠くまで人の世を見通せる。」

 あまり待たせると心配するだろう、と行きの倍の速度で帰ってみる。風を切って飛ぶのは良いが、衣が空気を孕んで邪魔をする。何度も飛ぶならばふさわしい衣服を仕立てねばなるまい。
 20分程の飛行で往復を終える。視力で測ったところでは、折り返しの砦まで約20里(キロ)、全速の帰りで計算すると、1刻(2時間15分)で300里は飛べるらしい。
 地上の人は帰ってきた王女に批難する声も交えて叫ぶ。やはり遠くまで行き過ぎ不安がらせたのだ。

 速やかに降下し、武徳王の前に跪く。さすがに怒っていないが、周囲の人の雰囲気は少し固くなっていた。

「申し訳ございません。地上でお待ちの陛下を省みず飛び過ぎてしまいました。」
「良い。あれほど疾いのだ、下で待つ者を忘れても致し方ない。」

 

 そしてまた祭壇に感謝の祈りを捧げる。民間の有力者達も許されて武徳王と同じ祭壇に祈る。これも今まで無かった事だ。
 アランサは請われて飛翔の術、ガモウヤヨイチャンの人となりと事績、赤甲梢の作戦についての質問を受ける。今度は武徳王の代理として、メグリアル王家本来の使命を果たすのだ。人が十重二十重と囲む中に、少数の侍女と女官、護衛にクワアット兵を従えて入っていった。

 ウェダ・オダはここでも外された。アランサ自身の指示で、この隙に赤甲梢再結集の情報の入手と必要な措置を講ずべしと命じられる。
 しかし当然であろうか、ウェダ・オダはかなり厳重に監視されている。兵に対する影響力が強い、と考えられているのだろう。位階は中剣令に過ぎないのだが、彼は主にクワアット兵を剣匠に鍛える指導員を束ねてきた。実際、近衛兵団の一般人剣令の中に見知った顔がちらほらと見受けられる。

「参ったな。連中の助勢を乞うのは無理か。」
「ディズバンド迎ウェダ・オダ殿であられるな。こちらへ。」

 一人の神兵が自分を呼ぶ。振り向くと胸に白い紋章のある重甲冑を纏っている。近衛兵団の司令部に属する者だ。位階は自分と同じ中剣令。

「いかにも赤甲梢ディズバンド中剣令だが、なにか。」
「近衛兵団長スタマカッ兆ガエンド様が直々にお話があると、貴公をお呼びになられた。速やかに参られよ。」
「兵団長様が? 了解した。案内を頼む。」

 近衛兵団の司令部に向かうウェダ・オダは、彼らの雰囲気が以前と大きく異なる事に気が付いた。
 ウェダ・オダもれっきとした黒甲枝の生まれで軍学校も卒業し近衛で初任指揮訓練を受けたから、無縁というわけではない。だが10数年前と部隊の雰囲気が明らかに変わっている。

 自信が出来た、と感じた。

 赤甲梢と近衛兵団、どちらも褐甲角王国最強を謳われる部隊だが、強さに関しては赤甲梢が上と相場は決まっていた。王国中央のカプタニアに配置される近衛は自然実戦からは遠ざかり、ボウダン街道において年中寇掠軍を追い回す赤甲梢とは経験に格段の差が開く。剣匠・剣匠令の資格を取得する際にも、赤甲梢で取った方が格上と看做される。
 加えて、兎竜による寇掠軍撃退術を開発し確実な討伐が可能となった近年、特に赤甲梢の武名は高まった。あまりの評判に兎竜隊を赤甲梢から切り離し、ボウダン・スプリタ街道全域を守護する高速警備隊に再編して、来秋から稼動する予定であった。
 近衛の神兵が嫉妬と焦燥を覚えるのも無理は無い。

 その引け目が今は誰からも感じられない。今次大戦においてゲイル騎兵と正面から戦い撃退して確たる戦果を上げた彼らに、そんなものはもはや必要無いのだ。

 近衛兵団長も上機嫌でウェダ・オダを迎えたが、さすがに語る言葉は次の戦に向いていた。

「うむ。スプリタ街道に配置された赤甲梢残留部隊の再集結だ。戦場がギジェ関に移るとなれば当然そちらに差し向けられる。メグリアル姫の指揮下に戻るのも論としては当然だ。」
「陛下のお許しは頂けそうですか。」
「感触は悪くない。ただ王女の指揮判断能力に関しては疑問が残る。なにせ戦時であるからな。」

「総裁職はそのままに将を別に戴く、となりますか。」
「うーむ、その選択肢もまだ残る。特に元老院側はそう主張する。案外と元老員から将が出るのも有り得るな。」
「その場合は実戦には投入されない、という事になりますね。」

 金翅幹家元老員は原則として軍事には関与しない。特に兵を指揮して実戦に赴くなどはありえない。黒甲枝と金翅幹家との区別は厳密に隔てられている。

「問題は、東金雷蜒王国に突入した赤甲梢部隊の処遇なのだ。メグリアル妃(焔アウンサ)の指揮能力は信頼に値するし、当然帰還した後には部隊の合流がある。」
「何事も無く国境を通過出来れば、となりますが。」

「逆に言うと、メグリアル妃の帰還がなるまでは王女に預けられる赤甲梢部隊の戦線への投入は無い。ならばこのままで良いではないか、という線に落ち着きつつある。」
「ありがとうございます。」

 ウェダ・オダは一応安堵した。アランサがいきなり拘束され尋問と弾劾を受ける可能性もあったのだから、これは大変に優遇されていると考えるべきだろう。
 近衛兵団長は軽く手を上げて、深く礼をする赤甲梢の神兵に姿勢を正させた。
 続けての言葉は、今までと少し調子が違う。

「これほど寛大な御処分となったのも、王女が飛翔の術を会得なされたからだ。本来ならば謀叛に連座したと重大な裁きを課さねばならなかった。」
「は、重々承知しております。」
「飛翔の術の復活は、王国全体にとって実に大きな意味を持つ。宗教のみならず政治、軍事においても決定的な役割を果たすだろう。」
「ギィール神族の超絶知覚の及ぶ範囲は7里(キロ)と聞きます。王女は先程のように20里を軽く飛びますので、偵察に関してだけでも圧倒的な有利を得るでしょう。」

「それだ!貴公、青晶蜥神救世主より飛翔の術を授かってはおらぬか?」

 

 

 三日目、アランサはやっぱり空を飛ばされた。気ばかり焦るが武徳王の命令だから逆らえない。
 今日の飛翔は前二日とは大きく意味を違え、軍事的な目的を持っている。つまり他の神兵も空を飛べるようにできないか、との極めて現実的な試行である。

 アランサは武徳王にあらかじめ述べておく。

「おそらく、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様は特別な力で私を飛翔に導かれたのであり、他の神兵に教授するのは難しいと存じます。」
「それでも試してみる価値はあろう。」

 実験に選ばれたのは近衛兵団の若手神兵で、名をキンカラン尊ジアムロゥムという。飛翔を試みるからには全ての甲冑防具を脱ぎ剣も置いて、賜軍衣のみの軽装で控える。

 だが最初から彼を宙に引き上げたのではない。
 アランサがちゃんと大の男を持ち上げる力がある、と証明する為に70キロもある丸甲冑一揃いを片手で掴み飛んでみた。額に黄金のカブトムシを戴くのだから大丈夫とは思っていたが、実際に可能であったのには誰もがほっと息を漏らす。
 改めてキンカランは王女の隣に立つ。直に触れるのは恐れ多いが右手と右手を握り合い、アランサが肩から掛けた長く太い安全帯にも手を添える。二重の対策で万全だ。

 アランサは尋ねる。飛行の恐怖よりも、若く美しい王女の傍にある事で赤面紅潮する神兵は律義に答える。
「よろしいですか?」
「は、まったく問題ありません。お願いいたします!」

 と言われても、アランサは飛びたいと思って飛ぶのではない。ふと気付いたら宙に身体が有るのを知る、随意なのか自動なのか分からない能力の発動をする。
 そして、彼の言葉と共にいきなり身体が浮き始め、背の高さ分上がり繋いだ手が一杯に伸び切ったところで異変が起きる。

「どうして!」
「も、もうしわけありません!!」

 キンカランの額の黒茶のカブトムシが翅を拡げ力一杯羽ばたいた。だが飛翔を促すのではなく、地面に留まり続ける為にアランサの浮上に抗したのだ。アランサはやむなく手を放し帯だけで引っ張るも、天と地で釣り合うだけで一向に浮く気配が無い。

 予想外の事態に武徳王も驚き声を掛ける。

「これはどうした事だ。」
「分かりません。聖蟲が飛ぶ事を拒んでいるとしか、」

「キンカラン、地を蹴れ!」
「はい!」

 近衛兵団長の言葉に彼は片足を浮かし思いっきり地面を蹴ってみる。甲冑を着用していない神兵の蹴りは、通常身体を2メートル近くも浮かせる強烈さがある。だが、

「なんということだ。聖蟲が邪魔をしておる…。」
「姫よ、降りて参られよ。これはいかがしたものか。」

 キンカランに替わりもう一人近衛の神兵が試してみるも結果は同じだった。近衛兵団長の進言で赤甲梢のウェダ・オダがやってみるが、やはり無駄だった。

「総裁、申し訳ありません。」
「何故でしょう。まるで聖蟲が飛ぶ事を禁じているみたいです。」

「誰か、策は無いか。」
 武徳王の問いに答えられる者は神兵にも元老員にも、一般人の大臣達にも居なかった。

 だが一人、手を上げる者がある。

「よろしければ、私が試させていただきます。」
「む。」

 それは一人の女官だった。老人ばかりの大臣の世話をする為に付いて来た大本営に数少ない女官で、歳は40に近い。

「女人か。これは聖蟲を持つ者が飛ぶ為の実験であるから、」
「その前に、メグリアル姫が生きた人間を空へ持ち上げられるかをお試しになるべきでしょう。」

 武徳王の前でアランサを交え近衛の幹部や元老員が協議した結果、試して損は無いだろうと決まる。男のクワアット兵を用いるべきではとの意見が出たが、腕力の問題から彼女がアランサに抱きついた方が良いと、そのままで行く。

「しかし、何故貴女はこのようなおそろしい実験に志願したのです。」
 アランサの問いに、恐れながらと抱きつく彼女は言った。

「私はメグリアル妃 焔アウンサ様に恩義を受けし者にございます。赤甲梢の御為となるのであれば微力ながらもお尽くししたいと、長年願っておりました。」
「叔母上の。それで。」

 アウンサは王都カプタニアでは迷惑ばかり掛けていると思っていたが、ちゃんと善いこともしていたようだ。隠された叔母の側面を窺い知り、なんとなく安堵する。

「では。」
「はい。」

 言葉と共に身体が浮く。先ほどまでとはうって変わり、石を天に投げる速やかさであっという間に30杖(21メートル)も上がる。

「あ、ああ、あああ。」
「大丈夫です。しっかりとしがみついて。」

 女官は足の感触が無くなりアランサにぶら下がる。恐ろしさのあまり目も開けられない。アランサは、だが彼女の重さなどまるで無いかに自由に宙に円を描いて飛ぶ。

「飛べますな。」
「重さの問題でも人が無理な訳でもないらしい。となれば、褐甲角神が神兵に飛翔を許さぬと解釈すべきだろう。」
「青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンのみが、飛翔の術を伝授出来るのでしょうか?」
「可能性は高いが、それとても通常の神兵では無理だろう。特別に神に選ばれた者しかやはり飛翔は許されないのだ。」

 降りて来たアランサはゆっくりと女官の足を地面に触れさせる。駆け寄って来た侍女達により固く結ばれた帯が外され、女官がアランサの身体から離される。

「ひゅ、ひゅううぅぅぅ。」
「あ、しっかりなさいませ。」
「お気を確かに。誰か、水を!」

 気絶した。
 アランサは彼女の介抱を侍女達に任せ、一人武徳王の前に進み出て跪く。

「やはり、飛翔の術には特別な禁忌が有ると思われます。」
「うむ。最初からそのように考えぬではなかった。千年の試みの全てが失敗しておるから、天の許す所ではないのだろう。さすればアランサ姫、御身は王国に二つとない神の御加護を受けた者と言えよう。自重し無理をするではないぞ。」
「は。有り難き仰せ、私も飛翔の術をおろそかには用いぬと誓います。」

「だが今一人、試してみたい者が有る。その者が無理であれば諦めよう。」
「その方の名は。」
「余だ。」

 え、と驚き顔を上げるアランサに、武徳王は微笑んだ。黒く光る甲冑に身を固めたまま左手を伸ばす。
「やはり甲冑ごとでは無理だろうな。」
「重さの問題ではありません、多分。」

 だがアランサが手を引き浮上すると、予想外の事象が起きた。武徳王は飛べるのだ。王の額のカブトムシは飛翔に抗しない。
 と言っても、足が5センチほど浮くだけでそれ以上は上がらない。ただそのまま手を引いて草の上を相当の速度で飛んだ。

「…なんとも中途半端だな。」
「やはり、特別な者のみに許されるという事でしょう。」
「ガモウヤヨイチャンに会って、いかにすべきか教えを乞うしかないのだな。」

 

 武徳王とアランサはまた並んで祭壇の前に立ち、褐甲角神に御礼の祈祷を捧げる。その後は、今日は宴会ではない。
 折角に近衛兵団が集結しているということで、閲兵式を行う。勝利宣言とも呼べる宴会の後に初めて行われる組織立った軍事演習だ。
 昨日に引き続き周辺の民間人が多数アランサの飛翔を見物に、あるいは戦勝の祝いに訪れている。彼らの前で王国の武威を誇り信頼を深めようとの意図もある。

 武徳王の左に立ち見つめるアランサは、重厚な甲冑に身を固め斧戈を掲げて歩く近衛の神兵に、煌めく槍とたなびく旗幟を誇らしく風に舞わせるクワアット兵の整然たる行進に胸が熱くなる。やはりウラタンギジトに居る時とはまるで正反対の深く確実な安心感に包まれていた。

 その高揚感に背を押される形で、アランサはぶしつけながらも武徳王に尋ねる。

「陛下、東金雷蜒王国神聖王がこちらにお出でになり和平を結ぶという噂は。」
「可能な限り誠実な対応を試みるつもりだ。王国の依って立つ前提を覆す世紀の会談となるだろうが、平和は方台全ての民の悲願でもある。避けては卑怯と誹られよう。」
「その会談には是非とも私を御供にお加え下さい。」

「いや、…姫には余に先んじてアウンサ妃を迎えに行ってもらおう。」

 はっと振り向いたアランサに構わず、兜の中の顔は正面を行く部隊の敬礼に応える。

「よろしいのですか、私が国境に出向いて。」
「飛翔の術で神聖王とギィール神族の心胆を驚かせるのだ。褐甲角王国の正義は未だ衰えず新たなる使命を授かったと、高らかに宣言するのだ。」
「御意のままに。」

 だがアランサには少し心に痛む所がある。では飛翔の術が使えない自分は、何の価値も無いのだろうか。
 前を行く神兵が大剣を抜き突撃の型を作る。鋼をぶつけ軋む音が高く響く。自分も左の腰に提げる細身の剣を抜いて、彼らに斬り掛かりたくなった。

 

 

 四日目。

 アランサとウェダ・オダは大本営武徳王の幕舎、謁見の天幕の下にある。この天幕は甲冑武者の出入りが自由となるように、四方の柱で支えられ壁は無い。
 通常通りの謁見の形式を整え武徳王は御簾の後ろにあり、正面には年老いた宰相や将軍といった聖蟲を持たない大臣が一列に座る。聖蟲を持つ者は持たない者の代弁者であり庇護者であるが、あくまでも方台の主役はただの人だとする王国の国是を象徴した配置だ。

 赤甲梢再結集が議題である。王の裁可を受けて、将軍がアランサに申し渡す。将軍はクワアット兵の最高位である凌士統監の経験者であり、作戦行動を司るカプタニアの中央軍制局に対し軍費の使途を精査することで掣肘を加えるのを使命とする。

 彼らは通例かなりの高齢となるまで武徳王に仕えるので、老人特有の頑固さと煩わしさがある。歯が無いからしゃべる言葉が良く分からない。

「赤甲梢総裁メグリアル劫アランサ王女には、ガンガランガ県に配置されし赤甲梢兎竜掃討隊及びミンドレア・ベイスラ県の穿攻隊に属する赤甲梢神兵を結集し、新たに赤甲梢迎撃隊と為しその指揮を執る事を命ずる。」
「は。」

「赤甲梢総裁は編成が完了し次第直ちにカプタンギジェ関に向かい、襲来を予想される東金雷蜒王国神聖王の王師軍を迎え、同行するであろう赤甲梢本隊の単独での国境通過を支援し、合流した後は戦死者負傷者の身柄を確保し必要な補給を行い、速やかに最前線から撤退し国境防衛軍の後背に移動、別命有るまで待機すべし。」
「は。」

「赤甲梢総裁代理メグリアル焔アウンサ王女は赤甲梢迎撃隊との合流後は指揮権を返上し、単身にて陛下の御元に報告に上がる事を命ずる。赤甲梢総裁はその道中に必要な支援を行い、速やかなる移動を可能とすべし。
 焔アウンサ王女は東金雷蜒王国滞在中に見分した情報、特に新たに即位したゲバチューラウ神聖王についての詳細とその真意を包み隠さず報告せよ。交渉の席にては陛下の御傍に在りて助言し補佐する役を仰せつかる。更に、予想される再度の戦争における作戦立案にも協力すべく、カプタニア中央軍制局に出頭せよ。」
「…は。」

 この命令はつまりアウンサを赤甲梢から切り離し前線から追っ払うというものだ。
 無論彼女には帰還後直ちに武徳王に報告し神聖王側の情報を伝える義務がある。和平交渉となれば政治家としてのアウンサの能力が十二分に発揮されるだろうが、それにしても厄介払いの側面が大きい。

 アランサはしばし考える。今下される命令には一点の非の打ち所も無い。抗弁しても無駄だし、第一自分には代案も無い。
 叔母が抜けた後の赤甲梢を、自分はいかに導けば良いだろう。目的が無いまま待機し続けるだけなのか。だが和平交渉の最中に実戦部隊の出番は確かに無い。

「赤甲梢の部隊はその後いかなる処分を頂きますでしょう。」
「状況の推移次第であるが、ほどよく落ち着いた時点で陛下の閲兵を受ける栄誉を授けられよう。」

 やはり実戦に投入する気は無い。アランサは身の内がかっと熱くなるのを必死に堪えていた。乳白色の髪の中央に座す金色のカブトムシは、宿主の感情の乱れを察知して一度ぶんと羽ばたいて見せた。

 御簾の向こうから武徳王の声がある。アランサの聖蟲の震えを感じ取り、一言添えたいと思ったのだ。

「アランサ姫には、余が青晶蜥神救世主と会談する際には介添えを願いたい。」
「は。微力ながら務めさせていただきます。」

 総裁を救世主との交渉に引っ張り出すのは、やはり赤甲梢を実戦には用いない証しだ。いや、独断の責を問うて部隊の改変を進めるのかも。
 自分が赤甲梢に属するのもわずかの期間かもしれない、と情けなく思えてくる。最初から分かっていたが、叔母の偉大な業績を引き継ぐには自分の器量は小さ過ぎたのだ。

 武徳王の前を下がりアランサ自身の隊列に戻って、ようやくウェダ・オダが両腕を拡げて伸びをし、深呼吸して笑みを見せた。総裁の沈んだ心の内をちゃんと見通している。

「総裁、なにを思い悩む事がございます。とにもかくにも赤甲梢残留部隊のすべてが総裁の手に戻りました。これで万事完了です。」
「ですが大本営の御意志は、元老院とカプタニア中央は赤甲梢と叔母上を実戦から外すおつもりです。私はそれに何も抗せませんでした。」

「ハハハ、総裁は心配性ですなあ。あのアウンサさまとガモウヤヨイチャンさまですよ、御二人ともカプタニアの思惑通りに動くわけが無いじゃないですか。」
「あ。」

 言われてようやく気が付いた。二人とも天下に大迷惑の無法者であったと、アランサは今のいままですっかり忘れていた。

「和平交渉が平穏無事に終るわけが、ありませんね。それは。」
「ですから何も思い悩む事は無いのです。赤甲梢の出番はこれから幾らでもあります。」

 深紅の甲冑の武者に、王女は大きく首肯き微笑んだ。周囲に控える侍女従者もほっと安堵の息を吐く。

「そう考えるとお腹が空いて来ました。この三日、ものをいくら食べても満腹感が無くて。」
「腹ごしらえをして赤甲梢の兵に会いましょう。総裁には兎竜の操法も覚えていただきますよ。兎竜の背は良いものです。まるで空を飛んでいる心持ちで…。」

 

【一方その頃弥生ちゃんは】

 ウラタンギジトを出発した弥生ちゃんの動向は、すべての人の注目の的である。
 東金雷蜒王国神聖王が自ら出座し和平会談を行うとなれば、当然弥生ちゃんも参加するだろう。いや、まず褐甲角武徳王と会談して協定を結び、青晶蜥王国樹立の布石を敷くのだ。いやいや、あくまで単独で王国を立ち上げるべく壮大な示威行動を行うだろう。

 無責任な噂に踊らされる間諜達が魑魅魍魎の跋扈を見せ、神聖街道は剣呑な空気に包まれ騒然となる。

 だが、彼らの想像をはるかに上回る行動を弥生ちゃんは取った。
 壮絶な軍事演習である。

 現在弥生ちゃんの下に結集する兵力は約1500。神官戦士の2000と共に行列に従っている。
 この中で本当に戦闘に使える者は500名ほどしか居ない。いずれも新王国立ち上げに便乗してのし上がろうとする曲者揃いで、武に一定の自信はあるが思想信条は千差万別。目に一丁字の無い山賊まがいも混ざっている。

 こいつらを駆り出して格闘戦の演習を行う。弥生ちゃんの考える所は単純で、近々十二神の化身と対戦する予定だから入念にウォーミングアップしようとの腹だ。

 たまらないのは所詮は一般人である500名だ。いくら手加減し実剣でなく木刀でとはいえ、ゲイルをふっ飛ばし神兵を瞬く間にねじ伏せるバケモノが相手だ。しかも弥生ちゃん自身の肉体に負荷が掛る激戦を要求する。神威に助けられる者が疲労を覚えるほどの、暴力だ。

 演習開始前、弥生ちゃんはこう宣言する。

「首がもげてもくっつけてやるから、心配するな。」
 その言葉が冗談で無かったと、次の10分で参加した全ての武者が理解する。

 もちろん弥生ちゃんは人を殺そうとか痛めつけてやろうとは思わない。うろちょろする連中を木刀で軽く撫でていく、それだけだ。
 しかし早さが違う、勢いが尋常ではない。門代高校制服の短いグレーのスカートが巻き起こす風で、完全装備の甲冑武者がおもしろいように転げていく。

 受け太刀しよう、と考えたバカは早々にトカゲ巫女の前に寝転び唸って居る。ひたすら逃げる、木刀をかわす、これしか許されない。
 弥生ちゃん自ら削り出しピルマルレレコの焼印を押された木刀は、刃で鉄を斬るなどはできない。が、家ほどもある大岩を軽く微塵に変える。地を削って掘を穿つ。旋転し竜巻を生み2、30人を宙に巻き上げる。

「ちと物足りんね。」
 と鏑矢で射させてみる。鋼の切先を持たない鏑矢でも当たれば人の骨くらい挫く。そんなものを救世主様には撃てないと尻込みする奴は選択的にぶちのめす。弥生ちゃんが本気で殺しに来る! と恐怖に駆られ捨て身で発射するまでに兵を追い込んだ。

 だが身に纏わりつく風のバリアは矢石を受け付けないから、工夫が要る。射られた鏑矢を木刀で打ち返し地上の兵にぶち当てる、反応速度と精密さの訓練だ。が、矢を当てられる兵は弥生ちゃんほど敏ではない。
 鉄の装甲に的確にぶつけているから怪我はしないよ、とはいうものの重い打撃が骨まで凍みる。兜に当たれば意識も飛ぶ。体勢を崩して草の上に転げ飛んだ。

 一攫千金を狙って来た山師の類いは一目散に逃げ出し、頭の固い救世主信者は愚直に立ち塞がりぶちのめされた。
 残るは武術の腕も確かで実戦経験も豊富な勘のいい連中ばかりだが、3日も続けばこいつらも倒れていく。

 弥生ちゃんは後悔しない。
 なにせ使える人間をスクリーニングしているんだから、落ちる奴は落とさねばならぬ。新しく立ち上げる王国は苦難の連続を乗り越えていく。剛直で骨太な人間しか必要でない。

「8人か。」
 4日目の演習が終った時、立っていたのは8人だった。

「うん、いい人数に絞られたな。」
 いずれ劣らぬ武芸の達者、頑強無比にして剛勇無双の8人だ。彼らを青晶蜥王国軍の礎と為す。

「あなた達を青晶蜥神救世主の禁衛隊に任じます。建軍準備委員会は組織建設に専念し、実戦部隊は当分の間あなた達に委ねます。」

 8人は弥生ちゃんの前に2列に並び、謹んで拝命する。当然に次は、誰が隊長となるかに興味は向かう。
 弥生ちゃんは一人一人の傍を歩き、様子を確かめる。右手に木刀、左手は腰に吊るすカタナに掛けたまま。彼らが実は隙を窺う手練れの暗殺者だった、という可能性も小さくない。

 それにしても、と改めて残った彼らの奇矯さを面白く感じる。誰一人として同じタイプが無い。目的も志もまるで違い、自分を見る目の色まで違う。

「とりあえず、この丹下段平みたいなおっちゃんは無理だな。」
 全身古傷だらけで片目のむさくるしい中年男は、一目で身分が低いと分かる叩き上げの戦士だ。彼は、神族の出身者も多い建軍準備委員会が受入れないだろう。
 同じ理由で、冗談のような華美な衣装を身に着ける伊達男も却下した。どう見ても裏社会の人間だ。

 涼しい知性派も生き残っている。弓の名手で的確に自分に鏑矢を射て来た彼は参謀タイプ、愚直に命令を遂行する禁衛隊隊長には向かない。
 スガッタ僧も居る。個人主義の究極とされるスガッタ教徒が何故この場に居るのか不思議だが、もちろんリーダーに成り得ない。

 残るは4名。大柄な男ばかりの中、1人目に留まる者がある。

「たとえて言うならば、この人はー、近藤勇だな。」
 弥生ちゃんの頭脳が彼のプロフィールを細大漏らさず思い出す。褐甲角王国の田舎で武術教師をしていた男で、門人を何人か引き連れての参加だ。

「ほんとうに近藤さんなんだね。となると、アレは芹沢鴨か。」
 ギィール神族出身で聖蟲を頂けなかった、神裔戦士と呼ばれる大男も控えている。彼は青晶蜥王国に参加し、あわよくばトカゲの聖蟲をもらおうとの気が満々にうかがえる野心家だ。大力と武術の腕はピカイチであったが、信頼度はかなり低く人望もありそうに無い。

 彼に比べると近藤さんは使い勝手が良さそうで、裏切りの心配も必要無く思われる。残る二人はそれぞれ武芸も器量もなかなかとは思うが、独立心が強過ぎると見受けられた。

「よし、これでいこう!」
 と弥生ちゃんは右手の木刀を近藤さんの首筋に当てる。ぞくりと青晶蜥神の神気が彼の体内に潜り込む。

「名は?」
「ゥアンバード・ルジュにございます。」
「禁衛隊の隊長をあなたに任せます。」
「! わたくし奴に。ははっ、有り難く拝命いたします。」

 残る7人はどよめき、とくに芹沢鴨は抗議の声を上げようとするも、弥生ちゃんは木刀で抑える。

「他の者も幹部として重く用いるが、隊長は彼に決する。異議は受け付けない。」
「…、は。」
「禁衛隊はあくまでも救世主の身辺を固め、その安全を司る者だ。後には青晶蜥王国軍も正式に組織されるが、その司令部から禁衛隊は独立して行動することとなる。」

「では、兵の指揮は暫定的に任される、ということでございますか。」
「うむ。使える人間が200にも満たない状態で、隊長争いをしても仕方あるまい。」

 そのとおり、弥生ちゃんの猛演習に耐え切れず500の強者は半分以下になっていた。一個中隊も満たさない。残りは雑兵ばかりだ。
 現実的に考えると、この兵力では褐甲角王国にも金雷蜒王国にも敵わない。戦さが出来ないとなれば、隊長の任務は兵の管理と規律の維持を第一義とすべきだろう。堅実な人間が要求される。

 いち早くそれを見抜いた例の参謀タイプが改めて頭を下げる。明敏さは確かに使える人物らしい。

「救世主様の御意のままに、我ら従います。」
「うむ。あなた達には禁衛隊の証として青晶蜥神の神威を帯びた短剣を授けましょう。」

 おお、と彼らは喜びの声を上げ、周囲で見守る者も羨望の溜め息を吐く。青い光をたなびかせ鋼鉄を両断する神剣神刀は、すべての武人が欲してやまぬ究極の武器だ。

「で禁衛隊の名称はー、そーうだねー。うん、『神撰組』でいこう!」
「組、でありますか。」

 十二神方台系では「組」と言えばせいぜい2、3人の集まりだ。妙な名前ではあるのだが、

「なんか文句有る?」
「あ、有り難く頂戴させていただきます。」

「で、旗印だけれど、」
「よろしければ、それを頂けないでしょうか。」

 隊長と決まったゥアンバードがねだるのは、弥生ちゃんの右手にある木刀だ。4日間の演習で大活躍した手製の木刀は、たしかに彼らを象徴するにふさわしい。

「でもこれ、わたしが手を放すとただの木に戻っちゃうよ。」
「それがようございます。我ら神威にて闘うにあらず、人の力にてガモウヤヨイチャン様をお護りいたします。」

 彼の言葉に7人も首肯いた。人格的な面において、彼が隊長にふさわしいとは認めたらしい。

 こうして青晶蜥神救世主の禁衛隊『神撰組』は発足した。しかしその行く末の危うさを、誰より弥生ちゃんは知っている。

「しばらく留守にするらしいからねえ。ま、殺し合いだけは避けてくれよお。」

 

【ついで】

 デュータム点に立ち寄った弥生ちゃんは市の重役達の案内で、『青晶蜥神救世主の玉座』の試作品を検分に行った。

「この玉座は青晶蜥王国宮殿中央に設置される巨大な岩盤に穿たれるべきものですが、試作品は煉瓦の壁で代用しております。」
「うん。」

 弥生ちゃんの設計では数十トンもある大岩を引っ張って来て壁と為し、そこに削り出すと指定してある。
 そんな大岩は簡単には調達出来ないから、デュータム点救世主神殿の中央祭壇に設けられた玉座の試作品は、日干し煉瓦の壁に漆喰を塗った平面に張り付けられていた。天井もぶち抜いた壁の高さは7メートル、人を威圧するに十分な迫力がある。

「ほんものも煉瓦に漆喰塗りでいいかなあー。」
「何を仰しゃいます。デュータム点が総力を上げてガモウヤヨイチャン様にふさわしい大岩を探して参ります。御期待下さい。」
「うん。」

 正面に位置を取りまっすぐに椅子を見る。構造としては単純だ。
 巨大な石の壁の前に横に広い壇を作る。壇と臣民が跪く広間は一段下がった通路で真横に隔てられ、断絶する。
 通路には黒い石を敷き詰め壇とも広間とも色調を違え、暗色に浮かび上がるように輝く黄金の椅子が据えられた。

 方台の人間はこれを祭壇と見るだろう。弥生ちゃんをご本尊とする祭壇に人が向かい、彼らを諭す者が黄金の椅子に座る。

 玉座造りの責任者が確認を求める。

「石の椅子の頭上には、青晶蜥(チューラウ)神の聖蟲がお遊びになる”神棚”を彫り込みましたが、これでようございましょうか。一応は家のようなものも造りましたが、黄金や宝玉などで飾った方が良いのではと、」
「いえ、石の壁には色彩はまったく必要ありません。岩壁の質感を前面に押し出して、千年万年を統べる重みを見る人に強調します。」
「はい。」

 まったく装飾しない席は、彼らにはかなり不満の残るものらしい。しかし弥生ちゃんの構想ではこの席には長く「幻想」が座るのであるから、それに合う装飾でないと困る。長年月を耐え抜く岩石以上にふさわしいものは無い。

「黄金の椅子は職人が鋭意製作中でありますが、今回は急なお越しでありましたので、同じ大きさの椅子を見本に据えてみました。」
「うん。この椅子はあなた方が考える最高の装飾を施して下さい。」
「お任せ下さい。デュータム点の富を傾けてでも、千載に名を残す見事な椅子をこしらえて御覧に入れましょう。」
「うんうん。」

 臣民と弥生ちゃんを隔てる通路は幅5メートル。この通路は、つまりが天河。此岸と彼岸を繋ぐ三途の河だ。石壇の席に座る者はこの世の人であってはならない。
 弥生ちゃん本人からして早い話が異星人だから、これでいいのだ。

 ちょっと悪戯心を出した弥生ちゃんは、”三途の河”を飛び越えて一気に石の椅子に座ろうと考える。
 せーので飛んだ弥生ちゃんに、案内役や石工達も驚く。羽のように軽い救世主は人間をはるかに越える跳躍で、すとんと自分の席に納まる。

 どん! と救世主神殿全体を揺さぶる震動がある。驚いてトカゲ神官巫女や神官戦士、職人や役夫が飛び出して来た。

「ガモウヤヨイチャンさま!」

 自分を見る人の目がおかしいので、弥生ちゃんも背後を振り向いて見上げる。漆喰に固められた壁には、…どうやら悪戯心を出したのは自分だけではなかったらしい。

「ガモウヤヨイチャン様、いきなり壁に模様が浮かび上がりましたが、これは一体!?」
「あー、これはねえ。」

 規則的に並ぶ無数の凹凸が漆喰に穿たれている。かなり大きい。直径4メートルの円内に、螺旋を巻いて列を為す。
 左官には悪いが、この紋様はなかなかに貴重なものだ。

「これはねえ、チューラウの鱗だよ。私が跳んだのと同時に、トカゲの神様も面白がってぶつかったんだ。」
「ひ、ひええ。」

 いきなり聖地が発生したのに、その場の誰もが驚いた。報せを聞いて飛び込んできたデュータム点のトカゲ大神官が早速に御祈祷を始める。
 行き掛かり上祈祷に参加せざるを得ない弥生ちゃんも、神妙に顔を伏せ手を合わせて拝みながら、内心思う。

「ま、いっか。奇蹟の一つくらい起こしても罰は当たらないでしょう。」

 

第三章 恋のプロトコル

「あ、あれを。」

 天空高く煌めく光に、東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウの行幸の列は大いに乱れた。
 巨大なゲイルの背に据え付けられた騎櫓の上で、黄金の甲冑に身を固めるギィール神族もさすがの奇異に弓を構えて警戒し、地では重装の歩兵が槍を振り上げ敵の襲来に備える。

 神聖王のゲイルの後方100メートルに位置する赤甲梢の兎竜隊、その一頭に跨がり桜色の衣の裾をなびかせる褐甲角の王女キスァブル・メグリアル焔アウンサも、小手をかざして光を見上げ、にやりと頬に笑みを浮かべる。

「ガモウヤヨイチャンに芝居の演出も教わったと見えるな。」

 聖蟲を持つ者は皆、光の正体を知っている。ギィール神族は聖蟲による超知覚で、褐甲角の神兵は強化された視力により飛行するものの姿を見る。
 女人だ。
 剣を右の手に下げた若い女性が風に長い衣の裾をなびかせながら降りて来る。高度1000杖(700メートル)というとんでもない高さから、ゆっくりと下がっていた。

 赤甲梢神兵頭領シガハン・ルペが騎乗する兎竜を進ませてアウンサの傍に寄り、確かめる。

「あれはメグリアル劫アランサ様ですか?」
「空を飛べる人間は他に一人しか知らない。」
「ではやはり。」

 アランサは空中100メートルの高度に留まり、地上の混乱が納まるのを待つ。果たして神聖王の近辺に従っていた剣令がアウンサの元に走って来る。

「メグリアル妃、あの宙に浮かぶ御方を聖上は褐甲角神の御使いと仰しゃられているが、相違ございませんか。」
「確かに我が姪メグリアル劫アランサだ。敵意は無く武徳王陛下の信書を奉じて来たと心得る。そなた達も行列を整え直し、王の使いを受入れる式を滞り無く進められよ。」

「あのまま空中に留まられ、聖上に影を投げ掛けるのは怖れ多い。何卒メグリアル妃が先に御呼び掛けになられ、地上に降ろされ給え。」
「なるほどさもあろう。では、兎竜を1騎神聖王陛下の御傍に進めるお許しを得て参れ。」
「早速に。」

 アウンサは唯1騎、供に徒歩の神兵2人を従えて兎竜を神聖王のゲイルの傍に進めた。
 ゲイルの騎櫓を横に見る経験は中々無い。神聖王ゲバチューラウの騎櫓は方台の支配者にふさわしく豪華絢爛。装飾過剰に見えても防御力と軽量化を両立させる優れた工芸品だ。天蓋を持ち、上からの攻撃にも備えている。
 ゲバチューラウは他に2体のゲイルを専用として従える。その1体は王旗専用で、橙色の地に紅糸で刺繍された11対の肢を持つギィール(ゲジゲジ)の紋章が描かれた旗が翻る。金糸銀糸を用いず宝玉で飾らない、むしろ質素な旗が神聖金雷蜒王国以来の正統な王旗だ。

 装甲を兼ねる天蓋の翳で、ゲバチューラウの黄金の仮面がアウンサに振り向く。左右に侍るゲジゲジ巫女が団扇でアウンサを煽いだ。「近くに寄れ」との意志表示だ。
 地上の剣令の指示で重装歩兵がゲイルの脇を開け、アウンサの兎竜が寄る場所を示す。
 従う翼甲冑の神兵をその場に留め、アウンサは兎竜の頸紐を引いて巧みに横歩きをさせる。

 兎竜の背から神聖王に挨拶をするのは、アウンサ一人に許された特権だ。ゲバチューラウは答礼しないが、代りにゲジゲジ巫女が頭を下げる。
 ゲバチューラウの狗番がゲイルの肢を伝って、兎竜の傍に身を寄せた。神聖王の狗番は特別に黄金を纏う事を許され、山狗の仮面も鼻面が金で輝いている。
 狗番が主人に代わって口を開く。彼の言葉はそのままゲバチューラウの声だ。

「メグリアル妃に尋ねる。空に浮かぶはメグリアル劫アランサ王女に相違無しや。」
「左様にございます。今は地上に降りる許可を得んと待機しております。」
「正使である、と看做して問題ないか。」

「武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクよりの正式な使者にございます。」

 正使であるか否かは極めて重大な意義がある。褐甲角王国も金雷蜒王国も互いの存在を公式に認めず、両国さらには西金雷蜒王国も交えての協定や条約は実行支配力としての軍組織の長として署名するに留まっていた。
 「王」とは、天河十二神より方台を任された救世主のみが襲ぐ位であり、唯一の政体にて全土を統べる責を負う。
 つまりは、「王の正使」と武徳王よりの使者を認めるとは、互いを方台に並立する権威と看做すに外ならない。

 現実を追認するに過ぎないが、歴史的意義は極めて大きい。当然ゲバチューラウに従うギィール神族の反対も大きいが、

 狗番は主人の言葉を続ける。
「飛んで来るとは良い演出だ。誰もがアレを神の意向を受けし者と認めるであろう。」

 王旗を掲げるゲイルが行列の前に進み出る。先頭を守る兵士をその場に留め単独で50メートル進み、そこで狗番を地に下ろす。黒い鋼に黄金の縁取りをした蛤様の鎧は、神聖王の代理となるべく定められた者の証。
 続いてこのゲイルを駆るギィール神族の廷臣が、最後に王旗を掲げる旗持ちの王奴が地に立った。

 許しを得てアウンサの兎竜が進み出て、空中の王女に呼び掛ける。
「アランサよ、降りて来なさい。」

 叔母の指示するままに神聖王の王旗の前に降り立ったアランサを、重装歩兵2箇小隊が円に囲み長槍を向ける。彼らを率いる剣令に、ゲイルから降りた神族廷臣が手を挙げて宣言する。
「この者は聖上と同格と認められる褐甲角(クワアット)神が救世主、武徳王カンヴィタルよりの正使である。」

 重装歩兵は長槍を垂直に構え直すと、その場に膝を付き頭を深く下げる。
 対して一人立つ王女は、右手に提げる抜き身の剣を両の手で捧げるとゆっくりと地面に横たえ、2歩下がって頭を下げる。完全に武装解除した王女の前に黄金の狗番が進み出て、傲然と胸を反らす。

「使者の用件を伺おう。」

 

 アランサが届けた武徳王の書状には、和平についての文言は一切記されていない。
 ただ武徳王の本隊が到着し交渉を始めるまでの間、金雷蜒軍が侵入と攻撃を控えるように願い、その手段として両軍の間に5里(キロ)幅の緩衝地帯を設けたいとある。
 どちらの用件もゲバチューラウ本人には異存は無いがギィール神族の反対が予想され、実現は不可能と武徳王側は危ぶんだ。

 が、案に相違してギィール神族の大半はこれに乗る。
 奇妙な静寂と平穏の中、アランサは敵陣中に在る赤甲梢と合流を果たした。

「叔母上、よくぞ御無事で。」

 4ヶ月ぶりに見る叔母は赤い髪を草原の風にたなびかせ、変らぬ美貌を無骨な兵の中で際立たせて居た。戦場に非常識な軽装で立つが、叔母に限ってこれが最も雄々しい姿と思われる。
 対照的にアランサは、白い長衣の下に幾重もの裾を重ね長くたなびかせ、黄金の鎖帷子を羽織った重装備である。甲冑姿ではないものの用心は決して怠っていない。

 武徳王の正使という大役を果たす姪の姿に、アウンサもまた眩しいものを感じる。アランサ自身は絶えず劣等感に苛まれて来た今日までの時間も、他者の目からは長足の進歩を遂げて成長する輝かしい芽吹きの時に映る。

「うん。しかしよくカプタニアがお前を前線に送り出してくれたな。」
「ガモウヤヨイチャンさまより授けられし飛翔の術は、歴史上なかなかに意義の有るものなのです。」
「納得した。して、救世主さまより次の策を授かっていないか?」

「ございます。」
と、アランサは長い乳白色の髪を掻き上げて、アウンサの赤い髪に顔を寄せる。赤甲梢の神兵達にも聞こえない小声で伝える。

「我らがガモウヤヨイチャンさまと初めて会ったゲルワンクラッタ村に、神聖王陛下の御宿を用意しております。褐甲角王国の差配ではなく救世主、いえ救世主を崇める民衆の自主的な運動として、陛下をお迎えする支度を整えました。」
「うん。してそこまでの道のりをいかに突破すべきかは、」

「ただ、走れと。」

 アウンサはけげんな顔をする。
 ゲルワンクラッタ村は毒地内の神聖首都ギジジットに通じる古街道の出口にあたり、ギィール神族の亡命も数多く受入れて来た金雷蜒王国に縁の深い村だ。神聖王の宿とするのに問題は少ない。
 だが国境のギジェ関からは80里(キロ)も離れており、村に至るまで数十もの褐甲角軍の防衛陣を潜り抜けねばならない。
 走れと言われても、それは不可能だ。

「いや待てよ。そうか、毒地は今や障害にならないのだったな。誰か地図を!」

 アウンサの要求に従って、翼甲冑の神兵がギジェ関周辺の地図を持って来る。大山羊のなめし革を拡げる彼の姿に、アランサは衝撃を受けた。
 頑強無比の深紅の装甲に無数の深い傷痕がある。振り返ればどの神兵の甲冑にもかなりの損傷があった。彼らがどれほどの激戦を潜り抜けて来たか、口では言わぬが鎧が雄弁に物語る。

 アランサの衝撃と動揺を無視して、アウンサは白い指先を地図上に走らせる。激戦に傷付いた神兵に対比する無防備な姿に、見ている方がはらはらする。

「ゲイル騎兵と神兵の配置を辿れば、古街道入り口まで続く一本の線が引けるな。5里幅の緩衝地帯は毒地に道を拓くかたちになる。」

 赤甲梢前総裁は自分の後を継ぐ姪に振り向き、敵にすら羨望を覚えさせる不敵な笑顔を見せる。その余裕と度胸に、アランサは心臓の鼓動が高まるのを感じた。

「なんだ簡単じゃないか。走ろう。」

 

 翌朝、アウンサは兎竜に跨がりゲバチューラウの陣屋に単身で出掛け、進言した。
「陛下、遠乗りをいたしませぬか。毒地に回復した草原を確かめるのも、また楽しゅうございます。」

 褐甲角軍を前に非常識な単独行ではある。だが奏上を受けてゲバチューラウはしばしヤムナム茶を喫する手を止め、答えた。
「兎竜とゲイルの早駈けをしてみよう。」

 ゲイル12体と兎竜6頭を率い前線視察に出発したゲバチューラウは、ギジェ関の両軍対峙する最前線に王旗をはためかせた後、南に迂回して毒地内の草原を疾走する。

 ゲバチューラウは他の神聖王と異なり、宮廷の外部より迎え入れられた人だ。褐甲角王国に寇掠軍を出した事もある。
 ゲイルを全力で疾走させる楽しみも覚えており、また自ら陰謀を切り抜ける術も心得ている。寇掠軍における神族の最大の死因は謀殺であるものの、神族にとっては互いの知恵を比べ合う遊戯に等しい。

 自重を訴える廷臣も少なくない。が、神聖王の行動力を印象付ける前線視察は格好の政治宣伝の場でもあった。

 言うなれば、ゲバチューラウはギィール神族の一人としての神聖王である。神族と対比する形で存在したこれまでの神聖王と異なり、神族の長としての意味合いを備える。
 毒地に集結した神族は、新しい神聖王のかたちを明敏に理解した。疾走するゲイルの上にたなびく王旗に等しく敬意を払い、歓呼の声を上げる。

 元々ギジェカプタギ点防衛に詰めて居た170、ゲバチューラウに従い国境線付近に進出した200余、ギジェ関の南に結集した200、毒地内古街道出口付近に100の計670騎を越えるゲイル騎兵がゲバチューラウを迎える。
 その全ての前を駆抜けた6頭の兎竜の背に乗る神兵は、恐怖以上に或る種の啓示をひしひしと身に感じていた。

「アウンサさま。」
 兎竜隊黄旗団副団長カムリアム・サイ以下5名がアウンサに従う。
 カムリアム・サイは出身は農民ではあるが、在郷の武芸者の息子である。邑兵を経ずに直接クワアット兵への入隊を許された武術の達人で、たちまちに聖戴の栄誉まで受けたが世界は広かった。シガハン・ルペ等の赤甲梢幹部の実力の高さに未だ及ばず副団長で留まっている。

「どうした。コワイとは言わないな。」
「いえ、このまま斬り込めと命じられれば喜んでゲイルの群れに突っ込みますが、それよりも神族達の視線がむしろ暖かい事に違和感を覚えます。」
「暖かい、か。妙な表現をするな。」

「もしも、ですが、もしもこのゲイル騎兵が青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの味方をするとしたら、我らはいかがいたしましょう。」

 この質問にはさすがにアウンサも口を閉ざす。
 赤甲梢は行き掛かり上弥生ちゃんの口車に乗り、世間一般では救世主の聖業に加勢しているとさえ思われている。サイの質問は、赤甲梢とギィール神族が互いに味方となったならば、との大胆な仮定に基づくわけだが、そうなれば褐甲角王国は赤甲梢を如何に処遇するだろう?

 

 アウンサは特に示唆したわけではないが、自然な形でゲバチューラウの一行を古街道出口付近にまで誘導する。ここが今回金雷蜒軍布陣の西端だ。これより先には軍令に従ってアランサが赤甲梢迎撃隊の兎竜20騎を配置しており、侵攻は容易くない。

 この地点に布陣するギィール神族は戦意が特に薄い。そもそもが先の戦闘から引き上げる途中で、ゲイルも傷付き武器も不足するので元より戦闘を望まない。
 彼らは興味本位でこの地を選んでいた。

 毒地にも既に、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンが再度ゲルワンクラッタ村に訪れるとの噂は届いている。より正確に、ゲルワンクラッタ村は神聖王受入れの準備を調えていると知る者も有る。であれば、ここでなにかが起こらない方がおかしい。
 帰りがけの物見遊山で集まった神族が多数だった。

 ゲバチューラウの一行は彼らに極めて好意的に迎えられる。さりとてこのまま村に神聖王を送り出すわけにもいかない。
 村は既に褐甲角王国領であるし、そこに至るまで何重もの神兵の陣を突破せねばならない。ゲバチューラウ単独で敵中に進ませ自ら虜となるを許すは、これはさすがに認められない。そのくらいの分別は酔狂な神族にも有る。

 さてどうするかとアウンサも頭を捻る所だが、既に策は用意されていた。

「何者か。」

 ゲルワンクラッタ村を真北に望む地点に、一人の男が有る。奇妙に突っ張った角型の袖を持つ、青い服の男だ。
 涼しい眼差し、整った容貌、立派な体格とまるでカタツムリ神官を思わせる二枚目で、手には幟を一本携えるのみ。完全な無防備で戦場にはまったく相応しくないが、居並ぶゲイル騎兵に怯える事も無くまっすぐに大地に立つ。

「その幟、青晶蜥神救世主の紋章であるな。」
「いかにも天河より遣わされし神殺しの神、ピルマルレレコの御尊顔でございます。」

 丸を真横に切った単純な髪型に2本の角を備える女人の顔、これがピルマルレレコ紋だ。薄茶色の荒目の布に墨で描いた単純な絵で痴れ者の落書き同然だが、この男が持つと洒落た趣となる。

「青晶蜥神救世主に仕える者か。」
「ガモウヤヨイチャン様より御言伝を預かってござる。」

 これは、と応対した剣令は態度を改め、ゲイルの上に居るゲバチューラウの狗番に相談する。弥生ちゃんの使者であれば相応の格式をもって迎えねばならない。
 自ら接遇すべきだと、黄金の鎧を身に纏う狗番がゲイルの背から下りようとするのを、男は右手を上げて押し止める。それには及ばない。

「剣を御使い下さい。この場にて、剣を左右に御振りください。」

 剣とはもちろん、弥生ちゃんがギジジットの王姉妹と和解した印に神聖王に贈った神剣だ。黄金に鍍金された巨大な剣で元より青晶蜥(チューラウ)神の神威を備え人を癒す能力を持つが、今はさらに弥生ちゃんが献じたカベチョロの聖蟲の尻尾を融合し世に二つと無い宝となっている。
 行幸にも当然伴われ、専門に奉じる神族の学者の手で管理されている。前線視察の今もこの場に有る。

 神剣を積んだゲイルが進み出てゲバチューラウの隣に肢を近づける。『王姉妹の剣』を預かるのは、かってプレビュー盤青晶蜥神救世主ッイルベスに助言し神聖宮への献上を仲介したスーベナハ胤ゲナァハンだ。
 彼の手から直接に鞘の無い大剣がゲバチューラウに渡される。騎櫓の上の天蓋を取り外させ、玉体を露にした新しい神聖王はトカゲの尾の如くに曲りくねる剣を神族達に示し、大きく左右に振った。

 神剣は青く光る。光がたなびき大きな波となり、再生した毒地に拡がっていく。
 耳に聞こえない音楽が響き渡る。心が光の波を安らぎと癒しの曲と覚える。知性を持たない巨蟲ゲイルまでもが音に感じて警戒を解き、膝をゆるやかに屈して姿勢を下げる。

 光は遠く褐甲角側にも届き、列を構える神兵クワアット兵にも影響を与えた。奇蹟が起きたのかと騒ぐ姿が小さく見える。

 青服の男は隠し持ったる大きな扇子をばっと開く。絹布に極彩色で描かれたピルマルレレコの紋、裏には弥生ちゃん本人の絵姿が有る。
 沈黙の音楽に合せるように彼は扇子をひらひらとあおぎ、ゲバチューラウのゲイルを差し招く。

「こちら、こちらへおいでませ。」

 がくん、とゲイルの13対の肢が動き、青服の男についていく。ゲバチューラウが命じたわけでなく、ゲイルが自発的に動く。歩みは遅い。
 額のゲジゲジの聖蟲を通じて、ギィール神族は或る程度ゲイルの気持ちが分かる。ゲバチューラウも己の乗蟲が、単に目の前でひらひら動く男に興味を持っただけと知る。

 ゲバチューラウの一行がゲルワンクラッタ村に動き出したのを見て、後方100騎のゲイル騎兵も前方の褐甲角軍も対応を迫られる。だが神剣から発せられる光は穏やかで、どうしても攻撃を考えられない。

 神聖王に随行し安全を司る神剣匠ゥエデレク峻キマアオイが騎乗するゲイルを後方に戻し、神族達に忠告する。
「なにやら異変が起きているらしい。この不思議は選ばれた者、聖上のみに許される奇蹟であろう。一通り事態が進展するまでは関与を控えられよ。」

 アウンサも、カムリアム・サイの兎竜を前方に布陣する褐甲角軍に走らせ、事態の推移を見守るように請願する。
 なにしろ青晶蜥(チューラウ)神の青が草原を満たすまでに輝くのだ。部隊指揮官も判断に苦しむ所に、最も事情をを心得るであろうメグリアルの王女からの請願だ。一も二もなく飛びついた。

「アウンサさま、これでよろしいのでしょうか。」
「兎竜を二手に分け陛下のゲイルの左右を護り、神兵クワアット兵が近付かぬよう牽制せよ。」
「は!」

 青服の男が扇子で招くままに、ゲイルは前に進んでいく。遂には男は走り出した。常人を遥かに越える俊足だが、ゲイルには通常の歩行速度でしかない。ゆったりと進んでいく内に、ゲルワンクラッタ村の外周に張り巡らせた防風林が大きく見えて来る。

「ただ走れ、か。」
 アウンサは姪から伝えられた弥生ちゃんの伝言の皮肉に苦笑する。
 今はただゲイルの速度がわずかも上がらぬよう、慎重に細心の注意を払っている。毛ほどもゲイルを驚かせぬ為に兎竜の蹄の音も抑え、いななきも禁じた。

 褐甲角軍の防衛陣はゲルワンクラッタ村より3里進出している。青服の男の歩みは留まらず、兵の間に割り込んでいく。驚いた剣令が兵を左右に避けさせ、ゲイルの通り道が幅100メートルで開かれる。
 いつしか青服の男が3人に増えている。ピルマルレレコの描かれる扇子を風に舞わせ、神兵を扇ぐ風で追い払いクワアット兵を吹き寄せる。

「この者達、どこに潜んで居たのだ!」
 指揮する神兵が驚くのも無理は無い。青服の男はどんどん増え、ついには10人を越える。鮮やかな色彩の衣装を身に着け鳴り物を携える妖艶な女達も踊りに加わった。

 鉦や太鼓がちゃかぽこと鳴り、セッケンヌの泡が宙に虹色の玉を作る。背後には黄金に彩られる巨蟲が続き、白色の毛で覆われた兎竜の長大な頸が左右に揺れる。
 幻想的な風景に、居並ぶ兵は現のことと思えない。がらんごろんと肢を打ち鳴らして進む白骨の林をただ見送った。

 村に近付くと、防風林の陰に潜む無数の顔が見える。誰もが期待と怖れとの入り交じる緊張と興奮を色に表わしている。
 ゲイルの歩みも人の出現に合わせて緩まっているので、狗番達が地上に降りて来た。山狗の仮面に蛤様の分厚い鎧、手には奴隷を制する黒い香木の笞を握り、背には長い刀を負う。

 だが村の入り口に到達するまで、一行は誰の制止も受けなかった。神剣が発する青い光に当てられ時間が凍ったかに、なにも起きない。
 停止したのは、村の門の前に一人立つ完全装備の重甲冑の神兵の誰何を受けた時だ。

「我は褐甲角王国黒甲枝、ベギィルゲイル一村守護ジンハ守キンガイア。役儀によりて問い質す。
 汝は東金雷蜒王国よりの亡命神族であるか?」

 ゲルワンクラッタ村、元のベギィルゲイル村は古くから神族の亡命を多数受入れて来た。不正規に進入する神族にはまずこの問いを発する。
 流石に黄金の仮面を被る狗番は、この問いに怒る。

「汝は役目にも関らず時勢を知らず、尊き聖上をただの神族扱いするか。」
「ならばまずは名乗られよ。汝が主はいかなる身分を持ち、誰の許しを得てこの場に在る。」
「我が主は方台をとこしえに統べる最も尊き血筋、叡智と繁栄を両の手に抱く金雷蜒神が救世主、神聖王ゲバチューラウである。何人たりとも主の上に立つ事能わず、誰の許しを乞う必要も無い。」
「我が主は褐甲角神が救世主、方台の虐げられし民衆を解放せんと立ち上がりしカンヴィタル・イムレイルが末孫、武徳王二十三代カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクである。汝が主は我が主と並び立つ者であるか。」

 この問いへの答えは、つい先日までははっきりしていた。金雷蜒神聖王は唯一絶対の存在であり、武徳王は位を僭称する反乱軍の親玉に過ぎない。だが、
 狗番は答えに窮し、後方のゲイルを振り向く。神剣を振る事を止めて目の前の問答を見つめていたゲバチューラウは、仮面の下に隠された眼差しにて狗番に許しを与える。

 黄金の仮面を被る狗番は、歴史に特筆される宣言を行う。その重大さを十分に弁える彼は、仮面の下の首筋に夥しい汗をかいていた。

「東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウは、褐甲角王国を統べる武徳王カンヴィタルと和平を協議せんが為、互いを対等なる者と見做しその支配地への立ち入りと滞在を希望する。当地ベギィルゲイル村にてしばしの休息を行いたい。」

 神兵ジンハは蟲の貌を摸した仮面の装甲を取り、素顔を曝け出す。新鮮な空気に触れる肌は上気し、呼吸は荒いが乱れは無い。
 彼は3歩左に下がり、ゲバチューラウのゲイルに道を開ける。地面に片膝を突き頭を下げて答える。

「和平は武徳王の乞い願うところにして方台民衆すべての希望であります。その栄えある道行きの一日を我が守る村にて過ごされるは、ジンハ一生の名誉と覚えます。」

 村の門を仕切る簡素な木の扉が開かれ、村人が花を捧げに次々と飛び出して来る。村内に控えて居たタコ神官が楽器を抱えて整然と歩みゲバチューラウを迎え、百のタコ巫女が華麗な舞衣装を翻して、この善き日を寿いだ。
 色とりどりの花弁が舞散り高らかに笛や琴の音が流れる中、ゲバチューラウの一行はゲルワンクラッタ村に入る。

 創始暦五〇〇六年秋初月廿二日睡五刻(午後2時)の事である。

 

 一方草原に取り残されたゲイル騎兵100は、青い光の乱舞が半刻あまりも続いた後に管弦の響きに取って代わられるのをじっと見守った。何事か起こり状況が一変するとの期待は、いつまでたっても報われない。

「なにも、…起こらない?」
「起こらぬ、な。」
「なにも起きぬのか? ガモウヤヨイチャンはなにもしないのか?」

「これはー、してやられたのではないか?」
「いつの間にか、ゲバチューラウが敵領内に居るではないか。」
「ハハハ、詐欺に掛けられたか。」
「貴公等は間抜けだな。儂は最初から分かっておったぞ。」

 

 ゲバチューラウが褐甲角王国領に走ったとの報せは、ギジェ関付近に赤甲梢と共に有るアランサにも速やかに伝えられた。
 彼女の身柄は体のいい人質であった。が、神聖王が走った事で立場は急転、ただの生贄と看做される。

「失礼ですが、」
とアランサは、代表として赤甲梢の隊列に訪れた完全武装のゲイル騎兵に単身応対する。王女を護らんと血気に逸る神兵を笑顔で抑える、堂々とした態度だ。

「失礼ですが、ものの軽重を弁えられておられませんね。明敏なギィール神族とも思えぬ愚かな振る舞いです。」
「ほお。ではメグリアルの王女は自らが神聖王よりも高い値を持つと信じるのか。」

 ギィール神族は奇矯な物言いをし人を驚かす行動に出る者が大好きだ。自らの予想を越える事態となれば、喜んで最後まで付き合う。
 アランサはキルストル姫アィイーガとの付き合いで、それを知った。ウラタンギジトでの様々な試練で嫌と言うほど思い知らされた。彼らは退屈させてはダメなのだ。
 今にも強弩を発射せんとするゲイルの背の神族は、身を乗り出して王女の次の言葉を求める。

「我らが事前に調べたメグリアル劫アランサ王女の振舞いは、もっと穏やかで独創性が無く、つまらないもの、であるはずだが。」
「人は変わるのです。大審判戦争前の私は確かに他愛の無いただの女でありましょうが、今は神聖王を越える存在です。」
「ほお。」

 王女の周辺の赤甲梢も、ギィール神族と同様に驚いた。ゲルワンクラッタ村で弥生ちゃんと遭い、分かれて後のアランサを彼らは知らない。これほど強くなっているとは失礼ながら予想のまったくの外だ。

「神聖王ゲバチューラウは世に二人と居ない尊い御方でしょうが、この私メグリアル劫アランサは千年に一人しか生まれない褐甲角神の神威を授かる飛翔者です。大審判戦争は神競べの場でありますから、どちらの身に重きを置くべきか、言わずとも知れておりましょう。」
「なるほど。神聖王は幾らでも換えが効くが、そなたは違うと言いたいのだな。」

 ゲイルの背で神族達は協議を開始した。だが結論はすでに出ている。アランサは最初から勝っていた。
 赤甲梢神兵頭領シガハン・ルペが本来の総裁である王女に耳打ちする。

「総裁。御立派な態度に我ら心底驚かされました。僅かの期間でよくぞそれまで成長されました。」
「そのようですね。ウラタンギジトでは幾度も不快な目に遇わされ涙も零しました。その代償として報われているのです。」
「すでに赤甲梢総裁として、誰一人疑う事はございません。」

 ゲイルの背の上でギィ聖音で交わされる会話を、アランサはかなりの正確さで聞き取れた。神族のみが使うギィ聖音に慣れたのも成果の一つであろう。
 話がまとまり、再び神族は王女に相対する。

「メグリアル劫アランサ王女よ。そなたが神聖王ゲバチューラウに比肩する者だとの言葉は、限定的だが理解した。褐甲角神の神威を与る者が我らの掌中に有ると全軍に公表するが、異存は無いな。」
「むしろ褐甲角軍にまで喧伝なさってください。武徳王陛下がお勧めになられた停戦がより確かなものとなりましょう。」

「だが、逆に今度は赤甲梢の神兵が不要となる。我らが陣中に神兵が多数有るはむしろ不都合。少数の護衛を除いて速やかに退去してもらいたい。」

 赤甲梢の神兵が無事金雷蜒軍の中に居られるのは、ゲバチューラウとアウンサ王女の個人的な繋がり故だ。そのどちらもが陣に無いのであれば、衝突は必至。かといって赤甲梢を討滅するには対価が大きく成り過ぎるだろうから得策とは言えない。
 当初からの計画どおりに、赤甲梢の褐甲角軍引き渡しが進められる。

 ルペは一応型通りには反対して見せる。アランサに任せた方が安全とは知っているが、臣下の分として王族の命は我が身に代えて御護りすると言わねばならない。
 アランサは笑った。いざとなったら飛んで逃げればよいのだ。

「シガハン・ルペ。あなたは撤収する赤甲梢を率いて叔母上と神聖王陛下を護りなさい。私の護衛には10名も居れば十分。」
「では神族との交渉に長けたスーベラアハン基エトスと、輔衛視チュダルム彩ルダム殿を残しましょう。」
「任せます。」

 

 赤甲梢の引渡しはギジェカプタギ点の正面、両軍の弩の射程内の危険な地域で行われた。黒々とした重甲冑が100体も並ぶ中、深紅の勇者達が堂々の凱旋を遂げる。

 出撃した赤甲梢神兵は150名、続いて合流した紋章旗団50名。決死隊として潜入し軍船奪取に活躍したクワアット兵が50名。
 しかし帰還したのは162名のみ。38名が戦死し42名が甲冑を装着できないほどの重傷を負っている。クワアット兵の決死隊は船で東海を迂回し南に撤退した為に、今も安否は不明だ。
 70を数えた兎竜も、本隊がギジシップ島へ渡海した後10日間の逃避行で半数を討ち取られ、残るのは32頭に過ぎない。400のイヌコマ輜重隊はすべて現地で放棄した。

 深紅の翼甲冑はどれも激戦の名残を留めて傷付き、ほとんどの者が背の翅を失っている。負傷者は姿を敵国民衆に見せない為、母衣を被せた荷車で運ばれている。
 惨澹たる姿であるが、ギジェ関を守る国境防衛軍は最敬礼を以って彼らを迎えた。
 敵国領進攻は彼らが第一に果たすべき作戦であり、それを単独で成し遂げた赤甲梢は羨望の対象として称えられる。独断専行と批判した者も、帰還した赤甲梢を前にしては舌鋒を収めるしかない。

 兎竜に跨がり先頭で本国への帰還を果たしたシガハン・ルペは、だが表情に緩みは無い。彼らの戦は未だ終っていない。神聖王ゲバチューラウと共にある彼らの総裁アウンサ王女に、一刻でも早く合流し護らねばならなかった。

 

 

 ゲルワンクラッタ村に入った神聖王ゲバチューラウは、4日間何もしなかった。
 神聖王が先に褐甲角王国領内に入った事で、供をする兵や奴隷の受入れは速やかに決定されたものの、彼らの歩みは遅く80里を行くのに3日を要した。ゲイル騎兵の護衛受入れに関しては更に時間が掛かったが、最終的にはゲルワンクラッタ村の3里南まで接近を許す事で決着する。

 交渉がまとまり隊列が集結するまでを、ゲバチューラウは旅の疲れを癒す事のみに費やし、田舎の風情を大いに楽しんだ。

 金雷蜒王国と褐甲角王国の町村の作りの大きな違いは、ギィール神族の有無だ。どのような辺鄙な村でも金雷蜒王国ではかならず神族の知恵を用いた文化設備が整えられ、或る種の人工感を醸し出す。造り物の風合いがする。
 対して褐甲角王国には生の人間の息づかいしか無い。カブトムシの聖蟲を戴く神兵は造物の才能を持たないので、無知な人間が成すようにしか家や街を作らない。せいぜいが神聖金雷蜒王国時代の建造物の盲目的な複製だ。

 その自然さが、むしろゲバチューラウには新鮮に思えた。受入れを指揮したゲジゲジ神官ジャバラハンが特別な歓迎の宴を催さなかったのも、安らぎを覚えた原因であろう。
 ゲバチューラウは自由に村の周囲を散策する。
 北側の森にある洞窟に案内されて、青晶蜥神救世主が残した「ゲルワン・カプタ(バッタ)を醸して作る調味料」の壷を興味深く眺める。

 この洞窟はまた、長年受入れて来たギィール神族の亡命者が残した品を密かに預かる金庫でもある。褐甲角王国に知られてはならない秘密や過去の身分を振り捨てる為に、多くの神族が愛用の宝物をここに残して去っている。
 彼らはすべて神聖王の臣下であるわけだから、これらは神聖王の所有物と看做す事が出来よう。良い機会を得て村の長老は禁を解き宝物を外に運び出し、重要な品が無いかゲバチューラウに検分を願った。

「これは、話に聞いた”ネズミ神の焔環”ではないか?」

 ゲバチューラウが取り上げたのは、燃える焔を思わせる紅に彩られる石の環、璧だ。この璧は紅曙蛸女王以前のネズミ神官が統べていた時代より伝わる神宝として、長く伝説の中にあった。

「おおそれは、ゴヴァラバウト頭数姉の物語に謳われる、あの赤い環ですか。」
 ギィール神族の学者スーベナハ胤ゲナァハンが驚きの声を上げた。この璧は方台で初めて史書に記述された魔法の品で、超自然の力で願いを叶えるとされる。
 ゲバチューラウも認定した。

「間違いないだろう。これを握る者に永遠の恋人を引き合わせる、と伝えられる白穰鼡(ピクリン)神の石だ。」

 現代の方台において、ネズミ神は子作り子育ての神として崇められる。子孫繁栄の基はもちろん男女が愛し合い結ばれることだから、恋愛の秘法も存在したのであろう。

「聖上、これを用いますか?」
「うむ、迷うところだな。」

 今より70年以上昔、ゴヴァラバウト頭数姉はこれを用いた神族と運命的な出会いをし、深く恋に落ちた。だがその結末は悲惨なものである。
 王姉妹は外部の人間と結ばれる事を許されず、禁を破った彼女は高い塔に幽閉された。自ら聖蟲を手放す事で逃れ海を渡り大地をさ迷った挙げ句に恋人の亡骸を毒地で見出し、悲嘆の余りどこへとも知れぬ闇に姿を隠す。
 永遠の恋は必ずしも幸福を意味しない。もしも彼女が生きていたならば、これを用いよと他人に薦めるだろうか?

 どちらとも決めかねるままに璧の冷たい肌を触っていたゲバチューラウは、いつしか自分が薄紅色の焔に包まれているのを知る。額に聖蟲を持つ者が神宝を触って何事も起きぬ道理が無かったのだ。
 だが随行する誰も異変に気付かない。この焔は自分にだけ見えるものと知り、改めて落ち着いて璧を確かめる。
 環の中央から人の呟くに似た声が聞こえる。しかしゲジゲジの聖蟲の超感覚を以ってしても、聞き取れない。璧の表面に文字が幾つか浮かび上がるが、テュクラ符ともギィ聖符とも異なる絵文字で意味は分からなかった。

 璧の異変は1分も保たずに終る。ゲバチューラウは自分の身に変わりがないか確かめるが、何も得られなかった。

「恋の魔法とは、このような他愛の無いものであろうか。」
「聖上、なにか。」
「いや、神宝はこの地に残しておこう。改めて封印を命ずる。」

 村の長老は地面に平伏してゲバチューラウの命令に服する。褐甲角王国の民が神聖王の命を守る必要は無いのだが、ゲジゲジ神の救世主としての神聖王に従う。

 

 5日目、ゲバチューラウはゲルワンクラッタ村を出て褐甲角王国内を堂々と進む。

 既成事実を前にしてはさすがに拒絶するわけにもいかず、またゲイルの軍勢は毒地内を進む条件で折り合ったので、ゲバチューラウの国内移動が実現した。
 沿道を埋め尽くす人の波、艶やかなタコ巫女により撒き散らされる花弁の嵐。重装歩兵の武具は銀色に煌めき、奴隷達の運ぶ財宝の見事さに誰もが驚嘆の声を上げる。

 護衛のゲイル騎兵は10騎、更に特別に要請して赤甲梢の兎竜25騎とアウンサを従えている。

 極彩色に飾りつけられた巨大なゲイルがゆっくりと歩んでいく。黄金の騎櫓の前方の張出には重厚な蛤様の甲冑を纏う狗番が立ち、周囲を睥睨して安全を確かめる。
 その背を眺めながら、ゲバチューラウは仮面に隠された眠たげな瞳で沿道の民衆の顔を確かめていた。

「…ガモウヤヨイチャンはこの者達の心に怪しの種を植えつけたようだな。人の世に理想はあり得ぬものを。」

 ゲバチューラウの言う通りに、たとえ聖王が現われ方台を統べたとしても万人を納得させる政治は不可能だ。どこかで必ずひずみを生じ、また繁栄は後には滅びの種となる。不死の人間が居ないように、不滅の王国もあり得ない。
 そんな常識を連中はそっくりどこかに置き忘れたと見え、変革の予感に熱狂し理想郷の到来を疑わず全身で喜びを表した。まさしく怪に取憑かれていよう。

 ふと彼は、とんでもない仮説を思いついた。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン、彼女はひょっとしたら天河の楽園を知らない?
 人間にとって理想と呼べる社会に彼女は生きて来なかったのではないか。星の世界は神に嘉された幸福の地ではなく、むしろ逆の。

「地獄。一滴の水も無いひび割れた大地を永遠にさ迷い百万回の死を繰り返す亡者の世界。人は悪を為せば地獄に落ちると、世迷言を吐いた者が居たな。名は、イル・イケンダと言ったか。」

 だが弥生ちゃんの善意と救世の決意は本物だ。地獄から来た聖者であれば、世をどのように導くだろう。

「なるほど。神殺しの神を紋章に用いるだけはある。」
 ゲバチューラウは天河の十二神が弥生ちゃんに何を求めているか、理解出来た気がする。

 

 2日後、ゲバチューラウの隊列はボウダン街道の中間点にあたるアルグリト点に至る。ここは街ではあるが商業の中継点というよりも輸送業者の根拠地であり、目立った市も無い。軍の兵站拠点でもあるので、警備には都合が良かった。

 何も無い街に弥生ちゃんは第二の歓迎の陣を設けた。
 宿泊所は古い神族の館を改修して使っていたカニ神殿で、舞台を見下ろす高い石段がちゃんと設置されている。
 ギィール神族の館はゲジゲジ神殿としても用いられ、聖蟲を持つ者自体が本尊となる。本来の姿を取り戻した石段はただちに神聖の雰囲気を備え、俗人を圧倒した。

 褐甲角軍関係者も多数集う中、ゲバチューラウは石段を輿に担がれて登り、頂上の神殿に設けられる自らの席に納まる。
 随行する神族も左右に胡坐で座り、ゲジゲジ巫女の捧げる盃を受け取った。
 花に包まれる神聖王の一行はさながら一幅の絵のようで、洗練においては褐甲角王国は神族の足元にも及ばないと、万人の目に明らかにした。

 古の神聖金雷蜒王国が甦った透明な緊張の中、舞台中央に静々と一人の女人が進み出る。

「聖神女の位を頂く紅曙蛸(テューク)神が巫女ティンブット、神聖王ゲバチューラウ陛下の御許に平伏し御来駕を寿ぎ奉ります。」

「ガモウヤヨイチャンがテュラクラフ女王を発掘した際に唯一同行したタコ巫女ティンブットでございます。」

 ゲバチューラウの傍に侍るスーベナハ胤ゲナァハンが補足説明をする。彼は「王姉妹の剣」を託される際に、ティンブットとよくよく相談して献上を勧めた「関係者」である。

「タコ神殿においては古えの流派を留める最後の名姫と謳われる舞の達人です。何者かの支援を受ける今様の巫女と異なり、方台を流離い歩く紅曙蛸女王時代そのままに生きております。」
「タコ巫女が何故トカゲ神救世主の道案内を務めたか。」
「本人から聞く所によれば、「救世主に最初に会う事を定められた男」を見出し、強引に契りを結んだ由。」

「名利の為か。」
「おもしろいからでしょう。」
「それは確かに金銭では購い得ない面白さだろう。羨ましい限りだ。」

 ティンブットは薄黄色の膨らんだ外套に身を隠している。ッイルベスと共に東金雷蜒王国を旅した際に手に入れた、例の成金っぽい服装だ。
 これは正式には神族に嫁いだ一般女性が着る服であり、巫女の為のものではない。が、タコ巫女は服飾に関しても技能を持ち、端切れを継ぎ合わせてでも舞衣装を整えてみせる。
 胸には、弥生ちゃんからもらった七宝のピルマルレレコ紋を飾っていた。神威が込められており病気や毒、矢石から彼女を守ってくれる。

 狗番がゲバチューラウの意を受けて、ティンブットに尋ねる。
「その方がティンブットか。トカゲ神救世主の聖業をつぶさに見て来た者だな。答えよ、ガモウヤヨイチャンはこの世をいかなる理想に導く。」

 ティンブットは、「いいかげんな」が修飾語として付くほどのおめでたい性格だから、深刻真面目な話には付き合い切れない。ただ場数は限りなく踏んでおり、どのような身分の高い人にも臆せず正面に立つ。

「ガモウヤヨイチャンさまはこう仰しゃいました。『我は救世主なり。救世主は人を救うにあらず、世を救う者なり。』 卑しい巫女の分際ではこの言葉の意味を理解し得ません。」
「人を救わず、世を救う、か…。」

 ゲバチューラウは狗番に次の問いを命じなかった。ティンブットの答えにかなり考えさせられたからだ。
 世を救うとはいかなる意味か、人こそが世ではないのか?人の居ない大地は、統べる必要もあるまい。それとも人は大地の所有物にして、生き死には自然の摂理、大地の理を貫けばそのまま人の幸福となるのだろうか。

 狗番は、少し長い言葉を主から得た。ティンブットに問い質すには長過ぎるので、短くまとめる。
「ガモウヤヨイチャンの行動は、矛盾が多い。」
「多うございますね。」

 間髪を入れずにティンブットは答える。実際弥生ちゃんが何を考え何を目的に動いているかは、長く傍に居る彼女でさえ読み切れない。救世主の任に当たる前、星の世界に居た頃から弥生ちゃんは難しい子なのだ。

「ですが、すべてに正解を導き出します。同時に異なる目的、異なる時間で複雑に絡み合う解決をもくろみ成功させます故に、常人の理解を越えます。」
「彼の者は超人か。」
「自らをこのように仰しゃられます。『私は答えをあらかじめ知っている』、と。」

 ゲバチューラウは自らの弥生ちゃんに対する予測を強く確信した。
 答えを知る、方台で起きる全てを知るとはつまり、星の世界においてもかって同じ事が起きたのだろう。ありとあらゆる事件が起きる世界だ、そこは一様の幸福に満たされた楽園ではあり得ない。禍いが煮えたぎる鍋の如くに無限に湧き出る混沌の大地なのだ。

 狗番は主の言葉を受け、更に質問する。
「ティンブット、汝は聖上に何を献ずる。トカゲ神救世主はそなたに何をさせるのか。」
「それは、」

 と笑顔で顔を上げる。ティンブットは自らの言葉が我が身を滅ぼすと知っているにも関らず、極めて明るく楽しげな表情を作る。
「舞にて陛下をお慰めに参上いたしました。」
「待て!」

 何を言い出すか察した胤ゲナァハンがティンブットを止める。それ以上喋ってはならない。
 だが狗番は先を急がせる。お前は何を演ずるつもりだ。

「『双月叢雲に覗く』。」

 「天に二日無し、双月あり」で始まるこの舞は、金雷蜒神聖王にのみ献じられる演目だ。タコ巫女一世一代の晴れ舞台であり、失敗すれば自裁せねばならぬ掟がある。古歌中で最も難しく超絶的な技巧を要する振り付けでもある。
 ただ技巧に関しては当世風、今様を踊る巫女の方が優れているだろう。彼女達は都市に住み王族や富豪富商の支援を得て、毎日鍛錬に励んでいる。技術的には古典派よりも優れている部分が多い。

 『双月』が難しいのは技術ではない。評価が神聖王個人の主観に基づく為に、誰も正解を知らない点だ。決まった振りはあるのだが、その場の雰囲気や神聖王の機嫌、時代の風潮などを鑑み、適宜変更しなければならない。どれほど上手く舞ったとしても、好評を得られなければそれは失敗なのだ。
 実際百年前に『双月』を舞った巫女は、技術的には完璧だったにも関らず神聖王に一顧だにされず、自らの胸を突いて果てている。以後演じた者はいない。

 ティンブットは演目を口にしたと同時に行動を開始する。
 タコ神官巫女が多数ゲバチューラウの御前に上がり、舞台を設え始める。花を飾り木を運び楽器を並べて、たちまち死の劇場を作り出す。

 胤ゲナァハンが、言っても最早手遅れとは知るものの、敢えてゲバチューラウに注意する。

「聖神女ティンブットはガモウヤヨイチャンの最も信頼する者です。殺してしまえば後々良からぬ事態に陥ると存じます。」
「それも承知であれはこの場に居るのだ。古代の紅曙蛸巫女王テュラクラフが再臨した時代に死ねるのならば、何の悔いも無かろう。」
「あれは幸せ者にございます。が、民草に恨まれますぞ。」

「ティンブットが我に勝てばよいのだ。」

 珠で飾られた2本の枝振りの良い木が、『双月』の舞台装置だ。この木の陰に隠れる事で、様々な表現を紡ぎ出す。
 舞台の左右に並ぶタコ神官が楽を奏で始め、蝉蛾神官が物語の設定を唄い出す。歌手の中には当然フィミルティも有り、主役ティンブットの心情を独唱で歌い上げる。

 曙色の薄衣を身に纏い、長い袖をたなびかせてティンブットが舞台中央に進み出る。跪き、ゲバチューラウに挨拶して再び下がる。
 開演だ。

 

 『双月叢雲に覗く』、この曲が死の演目となった理由を知るには、遥か2千年前に遡らねばならない。
 金雷蜒神救世主ヴィヨンガ翁とその息子達が金属の武器を用いて方台を平定し統一国家を作り上げた時、既存の権威はすべて足元にひれ伏した。

 だが先日までの世は紅曙蛸女王の統べるものと、頑として従わなかったのがタコ巫女だ。
 五代テュラクラフ女王が失踪して500年、彼女らも有為転変を繰り返した。が、あくまでもこの世は紅曙蛸神の治める所にして自分達は最も忠誠篤き者であると、方台全土を回って舞い踊り信仰を広めてきた。紅曙蛸女王時代とはタコ巫女が自由に踊れた時代と言えよう。

 彼女達を拘束し村々を回る事を禁じ、酒宴の余興にのみ舞い踊らせたのがギィール神族だ。新時代の秩序を民衆に印象づけるには、既存の宗教をねじ伏せるのが最も簡単であるから、これは意図的に行われた。
 多くの巫女は弱く儚い者であり屈伏を余儀なくされる。しかし一部の強硬な巫女は敢然と立ち上がり、神聖王に戦いを挑む。

 それが、『双月』だ。天に二つの月があるように、方台を統べる事を許されたのは金雷蜒神のみにあらず、紅曙蛸女王は必ず戻ると暗に示すのがこの舞曲の筋書きだ。
 これを神聖王の前で演ずれば、間違いなく殺される。だが、もし感服させたならば神聖王は彼女を害せまい。
 己の芸の力を信じ戦いを挑んだ巫女は、当時の神聖王に見事に勝利し、方台全土を自由に遊行して祭礼を開き舞い踊る許可を取りつけた。

 だがその後も神聖王は何度も『双月』を要求し、その度タコ巫女は応え、期待を果たせず自ら果てていく。致死率7割。神聖金雷蜒王国時代の千年を通して100を越える巫女が死んだという。いずれもが当時を代表する舞の名手であった。

 

 ティンブットは右の木の陰から、山蛾の絹を被って現われる。流石に名姫と謳われるだけあって、先程までと顔が違う。恋の熱に浮かされる愚かな娘の姿が有った。

 『双月』は基本的には恋の歌だ。不実な恋人に冷たくされた美しい娘が深夜家を飛び出し、迷いこんだ林の中でさまざまな妖精に遭う。妖精の奏でる調べに合わせて踊る内に人生の様々な場面を体験し、やがて真実の愛を見出して、朝日の光の下に帰る。
 歌詞自体は広く流布しており、一般教養として或る程度の家に生まれた人間なら誰もが一度は目を通す。

 だから、ティンブットの舞が彼らの知る筋と少し異なるのに気が付いた。

「聖上、これは。」
「これは双月ではない。四月だな。」

 ティンブットは唄の台詞はそのままに、巧みに踊りを違えていく。『双月』は紅曙蛸神と金雷蜒神の使徒が対決する場であるが、今は方台に4人の救世主が居る。
 この状況を舞台の上に表現して、ゲバチューラウにいかなる舞を望むか問い掛ける。

 おそらくは事前に打合わせしたものでなく、当意即妙に変更しているのだろう。伴奏のタコ神官も、周囲で見守る若いタコ巫女達も不安と緊張の色を隠さない。
 一歩踏み間違えたら舞台は即座に破綻するにも関らず、ティンブットは大胆に、全身に喜びを表わして肢体を大きく回す。

 歌姫フィミルティが高く声を上げる。これからが舞姫と神聖王の対決、真っ正面から貴人を見上げて踊る最高潮の場面だ。
 神聖王を不実な恋人と見做し、必死で訴える娘の姿。だがティンブットはそうではない。

「おお!」
 ゲバチューラウの左右に座して居た神族が、思わず感嘆の声を上げる。
 いい加減で穏やかなタコ巫女ティンブットは人と争ったりしない。神聖王に対してこの2千年方台を治めて来た御礼を表現しているのだ。
 凍てついた恋人の心を溶かす、暖かい愛の息吹。既に娘は男を凌駕する包容力で、豊穣の海と化している。タコ神の巫女は東海、曙の光に帰る。

 ゲバチューラウの膝が動いた。身体がティンブットに釣られている。自ら舞台に踊り出んとするのを拳で押える。

 金糸で彩られる布、これは金雷蜒神を表わすものだ、を大きく振りたなびかせ、舞姫は舞台に大きな円を描く。舞台周辺に配置される金属の鏡が照り返す陽光が、ティンブットの全身を黄金に染め上げる。
 走る姿はゲイルの雄姿、大地を駆けるギィール神族の活躍と繁栄を表わし、傍に侍る女人のしなやかさをくっきりと浮かび上がらせる。十二神に仕える巫女全てを象徴する姿だ。

 舞台に立つのはティンブット一人ではない。2千年の支配の下、巫女は民衆への奉仕を変らず貫いて来た。彼女達の務めを定めたのは紅曙蛸神救世主初代ッタ・コップ。巫女王は一日たりとも方台の民を見捨てていない。

 百人の舞姫が舞台に上がり、壮麗な群舞を繰り広げる。紅曙蛸、金雷蜒、褐甲角、青晶蜥神を表わす四色の絹布を風に舞わし、平和の到来した現世を嘉す。
 誰もが『双月』におけるティンブットの勝利を確信していた。それ以外の結末はあり得ない。
 居並ぶ兵も神族も、黒甲枝の神兵までもが楽の拍子に身体を委ね、中央で燦然と輝く稀代の名手の掌に揺り動かされる。あろう事か、謹厳なるべき王の狗番も沸き立つ心を抑えられない。

 曙の光を表わす赤い炎の入場で、曲は終る。静寂の中、納めの舞を一人天河に奉じたティンブットがくるりと回ってその場に座る。白い布が頭から被せられ、神聖王の審判を待つ。

 余韻に浸るかに深く大枕に身を預けていたゲバチューラウは、誰にも諮る事なくその場に立ち上がる。舞に反応したのであるから、これでも最高の讃辞となる。
 ゲバチューラウは一歩進んで、陽の下に姿を見せた。玉体を覆う黄金の鎧が眩い煌めきを発し、その場に侍る人全ての目を射る。

 主の姿を見て狗番が左足ににじり寄る。『双月』の成功者には、神聖王が自ら用いる品を贈る例が多い。彼はゲバチューラウがそうすると思った。
 それ以上の褒美が有る、とは知らなかった。

「…『双月叢雲に覗く』を舞う巫女が死を賭す事を、以後禁ずる。」

 ゲバチューラウは自らの声で、人の言葉を用いて命令する。人々は神聖王の生の声を初めて聞いた。
 それは、タコ巫女達が2千年に渡る戦いに完全勝利を収めた瞬間でもあった。

 胤ゲナァハンが階段を降りてティンブットの手を取り、ゲバチューラウの元に誘う。1時間を越える演技の後にも関らずすでに息が平静に戻っているのは鍛錬の賜物だ。
 ゲバチューラウは再び自分の席に戻り、狗番に盃を授けさせる。金の盃になみなみと注がれた九真の酒はウラタンギジトから運ばれた銘酒で、神祭王の贈り物だ。

「なによりこれが嬉しゅうございます。」
 2メートルの巨人が用いる盃を一息に飲み干したティンブットは、恐れ気も無くお代りを要求する。

 

 喜びの余韻が未だ残る中、次に舞台に現われたのは神祭王の名代を引き受けて地上に降りて来たキルストル姫アィイーガだ。アルグリト点における受入れ準備は彼女を総責任者として進められた。

 神聖首都ギジジットにて金雷蜒神の地上での化身に直接接触し意志を読み取った彼女は、「妃縁」という王姉妹に等しい位を授かっている。
 神聖王が途絶え外部から後継者を迎える際には、王宮に残る王姉妹をすべて娶る事となる。アィイーガも同様に、ゲバチューラウの妃となる権利を有する。
 とはいえ、先の神聖王ガトファンバルは幼くして滅び、ギジメトイスの娘達はゲバチューラウより歳上が多く適齢期となる者はほぼ居ない。

 事実上、彼の妃と成り得る王姉妹はアィイーガ一人しか居なかった。

 アィイーガは武装せず、王姉妹の正装にてゲバチューラウの前に出る。
 鳥篭のような細い骨飾りを両肩に負い人を威嚇する趣だが、その下の黒革の衣は金銀の紐で随所をきつく絞られ身体の線を顕にする。禁欲的に肉体を苛める様が長身優美なアィイーガの肢体から別の魅力を抉り出す。
 背から長く5メートルも延びる薄衣の領巾を3人のゲジゲジ巫女が拾い上げ、地に触れさせぬよう自らの肩に掛けて跪く。

 紅い髪は高く結い上げ無数の宝玉を散りばめた。ゲジゲジの聖蟲の姿を強調する髪型だ。
 聖蟲も多数の人の注目の視線を浴びて興奮し、昂然と首を持ち上げ赤く光る目をくるくると回す。

 ギィール神族の女人の正装を褐甲角王国で見る事は、ほぼあり得ない。ティンブットの舞に匹敵するアィイーガの艶やかさに、人々は思わず漏れる嘆声を噛み殺した。

 アィイーガの2人の狗番が許されて進み出て、背に負う長刀をゲバチューラウに献ずる。
 狗番ファイガルとガシュムは、自らの長刀に弥生ちゃんから青晶蜥神の神威を授けられている。他神の神威を帯びた器物を用いるには、金雷蜒神の最高権威である神聖王の許可が必要だ。

 ゲバチューラウの指示により、黄金の鎧で身を固める王の狗番が二人の刀を受け取り、その場で抜いて刀身を日に明かす。鋼鉄をも易々と切り裂く神刀が発する青い光に、褐甲角軍の関係者も垂涎の眼差しを投げ掛ける。

 アィイーガは、ひとしきり場のざわめきが収まったと見て顔を上げ口を開く。

 

 彼女の役目は金雷蜒褐甲角両国の和平交渉の席上で、弥生ちゃんの立場を代弁する事だ。弥生ちゃん本人は、自分が出て直接交渉するにはまだ早いと睨んでいる。

 と言うよりも、両国でまとまった和平を一度ぶっ壊し掻き混ぜて矛盾をわざと噴出させ、強硬な反対勢力を燻り出す。
 彼らをひとまとまりにして反逆武力蜂起をさせて、民心が離反し孤立したところで、日和見する穏健派を取り込んで一気にカタをつけよう。
 反対派の討伐に結集した勢力を核に方台の新秩序を立ち上げ、青晶蜥王国の基盤も固める。

 これが、青晶蜥王国構想だ。
 救世主どころかもはや鬼畜の所業だが、弥生ちゃんには時間が無いのだから仕方がない。トータルで考えると一番犠牲者が少なくなる、とも見込んでいる。

 アィイーガもこれに賛同する。
 普通に穏健にやれば、弥生ちゃんの寿命が千年有っても落ち着くまい。和平をわざと揺さぶり壊し相手にボロを出させるのは、奇策というよりも権謀の常道である。おそらくは、ゲバチューラウもカプタニアの元老院も同じ事を考えているだろう。
 要は、誰が主導権を握るかだ。

 その為には速やかに最初の会談を成り立たせねばならない。ぶち壊す為の和平ではあるが、徹底拒否を主張する勢力も未だ健在だ。
 アィイーガは一応ウラタンギジトの神祭王の名代という形を取る。神祭王は滞在中の弥生ちゃんと度々会談し、青晶蜥王国構想の成立に深く関与する。彼の知恵を借用して最初の和議に結びつけるのは、アィイーガの手腕次第。

 暇を持て余して来た彼女は、ひさびさの大仕事に結構入れ込んでいる。弁舌にも熱が入る。

「(略)…。彼らを説得し聖上の命に服させるには至誠を以ってのみでは難しく、計略と利に基づいて適正なる行動へと導くが上策。ウラタンギジトにおいて神祭王殿下と語らい次の千年を統べるに足る新しき世の仕組みの幾つかを既に検討し、

 …なにか?」
「……、いや。」

 アィイーガは自分に注がれるゲバチューラウの視線に不審を感じた。言葉が空回りしている気がする。もちろんギィール神族は流して聞いても決して要点を外さないが、喋る方は心地好くはない。

 一方のゲバチューラウは、魔法に掛ったかにアィイーガに釘付けになっていた。

 見上げる強い視線に紺碧の空を映す澄んだ瞳、頬から顎に掛けての鋭利な曲線と紅に彩られる唇から漏れる透明な声。開いた襟に覗く胸元の白く輝く肌の清らかさ。
 遠く石段の下に居る事が許せない。今すぐにでも駆け寄り、抱き起こして自分の横に座らせるべきではないか。

 「ネズミ神の焔環」がもたらす霊験のあらたかなるを実感した。

 

第四章 VS志穂美

 ガンガランガを北上中の武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクは、メグリアル焔アウンサ王女から思いがけない贈り物を受けた。
 牙獣と呼ばれる巨大な獣が牽く装甲車が到着したのだ。

 この車は、アウンサが東金雷蜒王国侵攻計画を隠蔽する為に立ち上げた「幻のギジジット攻撃作戦」で使われるはずのものだった。20両を製造する資金を着服し遠征費に使い込んだわけだが、試作品2両が戦争も終った今出来上がり、行き場を失い大本営に持ち込まれる。

 つまりは廃品であるものの、武徳王はこれを殊のほか喜んだ。
 武徳王は一国の最高権力者であり、当然自分の足では歩かない事を臣下から望まれる。クワアット兵32人が担ぐ輿、もしくは神兵6人が担ぐ装甲輿を用いると礼典に定められているが、歴代の武徳王はこれを嫌った。

 褐甲角神救世主武徳王は民衆を解放する者だ。にも関わらず人に自分を担がせるのは論が矛盾する。或る王は生涯輿を用いず自ら歩くばかりだった。他の王も、輿を使うのが嫌なばかりに親征を行わなかったり、カプタニアから外に出るのを極端に控えた。

 現武徳王二十三代カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクは、さすがに安全を考慮して神兵が担ぐ装甲輿を用いる。が、その中でも甲冑は着用しているのだ。
 いくら神兵が担ぐとはいえ、100キロを越える鋼鉄の甲冑を着用して輿に乗るのは憚られる。どうにか改善できないか思い悩んでいた。

 そこに来たのが、獣が牽く車だ。
 牙獣は十二神方台系最大の哺乳類で、重量も5トン大きなものは8トンにもなる。巨体故の怪力はもちろん、短時間なら兎竜に匹敵する速度で走る。表皮は硬く随所に牙を思わせる小さな突起が無数に突き出し、槍も矢も受け付けない。
 ゲイルに正面から戦いを挑んで勝つ、唯一の生物として知られる。

 これが牽く車も重厚で、太い材木を組み合わせた壁に薄い鋼鉄板を張り、弩にも炎にも耐えられる。輸送力も、重甲冑を装着した武者を5人運んでまだ余裕が有る。
 ギジジット攻撃作戦ではこれを20両用い神兵100人を運用する為の物資を一気に運び、さらには城壁の前に並べて攻城砦の代りにすると計画されていた。

 つまりは、アウンサが試作を委託した職人と工匠は立派な仕事を成し遂げたわけだ。
 黒鉄が鈍く光る戦車は褐甲角王国の武威を誇るに十分な迫力を醸し出す。

「これを、余の乗り物と定めよう。」
「まことにもって、陛下がお用いになるにふさわしいものと心得ます。」

 牙獣は生来人に懐かぬ野の獣だが、神兵の怪力には逆らえない。カブトムシの聖蟲を戴く者にしか従わない獣と車は、神兵の誇りを傷つけずに代替を許す。
 いつの間にか本人も気付かぬ内に、焔アウンサ王女は自らの株を上げていた。

 

 さて、三神救世主の会合だ。予定地はガンガランガの北東、ボウダン県南国境付近の草原と定められた。
 神聖王ゲバチューラウが滞在するアルグリト点から3日の位置、毒地に掛っている為に遊弋するゲイル騎兵の軍勢も結集が容易い。
 一方の武徳王の軍勢はガンガランガから街道を外れ草原を行き、近道をして5日で到達する。毒地中では飲料水の供給が滞るがここでも牙獣車は活躍し、近隣の砦から兵に与える水をふんだんに運んで来る。

 そして、北はデュータム点からやって来る青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンは、

「丗三日、か。」
 大山羊の革に記されたボウダン街道の地図を確かめた弥生ちゃんは、隊列の到着が秋初月三十三日であろうと予測を付けた。

 弥生ちゃんの隊列は、なにせ一般民間人やら病人やらが多過ぎる。付いて来るなと言っても千年に一度、いや方台始まって以来のビッグイベントだからと死に掛けの老人までもが足を引きずり杖にしがみつきながら従っている。
 彼らの面倒を見ながら進むのはなかなかに厄介だ。食糧飲料薬品天幕衣料燃料、すべて弥生ちゃんの負担となる。

「金が無いのは首が無いのといっしょだな。」
「まあ、御自分が気前良く神聖王陛下のお迎えに用いられてしまいましたから。」

 歯に衣着せずに毒を吐くのは、弥生ちゃんの秘書カタツムリ巫女ファンファメラだ。
 豊麗なカタツムリ巫女には似合わぬ痩身貧乳の彼女は、星の世界での友人「石橋じゅえる」に面影が似ており、弥生ちゃんもすぐに軽口で喧嘩する仲になる。ちなみに「石橋じゅえる」という人は、美人だがケチだ。

「丗三日と言えばどっちの月も出ていない、ね?」
「蜘蛛神殿の暦ではそうなってますね。あの気味の悪い唄とちょうど同じになりますか。」

『夏が終って冬が来る、その前少し月は無い、聖なる星の集う時、闇世が終り日が昇る』
 東金雷蜒王国北部で民衆の間に流行る奇妙な唄とちょうど同じ時期に、三神救世主が会合する。その符合にカタツムリ巫女は背筋の毛を逆立てた。

「誰でしょう、こんな唄を広めたのは。」
「わたしじゃないよ。」
「ほんとですかあ?」

 じろりと睨むファンファメラは、従順な侍女として評判の高いカタツムリ巫女の基準から大きく外れている。こんな無遠慮な真似を王宮でしたら、いくら温厚な褐甲角王国でも命が幾つ有っても足りない。

 弥生ちゃんは、この唄は流してはいない。同じことをしようとした矢先に、何者かに先手を取られてしまったのだ。
 陰謀を企む誰かに上手く引っ張り込まれた気がするが、そこは出たとこ勝負。当意即妙のアドリブは弥生ちゃんの大得意とする所だ。

「まあいいや。締め切りが設定されているのなら、足手まといを置いていく良い口実になる。途中で脱落する人を保護する為の計画を、」
「既に出来ております。トカゲ大神官チュッチュラを責任者とする隊が動けなくなった者を回収します。あと緊急の御寄付を募る隊が褐甲角王国西側を中心に、」
「うん。」

 ファンファメラは実務においてはずば抜けた処理能力を持つ。が、彼女にカタツムリ神殿から課せられた任務はそれだけに留まらない。
 弥生ちゃんの一挙手一投足を見極め記憶し、後に神話劇として演じ後世まで救世主の業績を伝える事が、第一の使命だ。彼女は死んではならない。

 だが弥生ちゃんは思う。
 そんな面白いカタツムリ巫女は、他の神話劇史劇には出て来ないよ。
 いくら自分が舞台に立てないからと言って、物語に自分のキャラを無理やり突っ込むのはちょっと職業倫理に反するのではないか。ヒッチコックやシャマランじゃあるまいし。そりゃ胸の無い女優は方台ではお呼びが無くて干されてるとしても、復讐はいかんよ。

 

 

 前哨戦は丗日には始まる。
 毒地内のゲイル騎兵の一派が会合予定地点に進出し、警備していた赤甲梢迎撃隊の兎竜と睨み合い威嚇し合う。
 赤甲梢迎撃隊も、兎竜掃討隊として夏にはさんざんぱら寇掠軍を打ち負かしたから一歩も退かない。一触即発、というにはすこし余裕を持って草原に火花を散らす。

 翌日にはカプタニア近衛兵団の先遣隊が到着する。会合地点は完全に褐甲角軍の制圧下に置かれるが、ゲイル騎兵は相変わらず挑発を繰り返す。
 彼らの様子を鑑みるに、金雷蜒軍では歩兵をこの地点に投入する事は止めたらしい。ゲイルとその背に乗る神族狗番だけが参加する。万が一の事態で撤退を余儀なくされる時を考えているのだろう。

 丗二日。東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウのゲイルが会合地点に到着。毒地に一度下がり、宴会を開く。戦の前祝いというところか。
 午後、褐甲角軍も武徳王が到着。だが10里(キロ)後方に牙獣車を待機させる。青晶蜥神救世主の隊列の到着を待って、今日の会合は避けた。本来ならばゲバチューラウと予備的な会談を行いたいところだが、申し入れは拒否された。
 ゲバチューラウの護衛から解放された赤甲梢兎竜25騎が武徳王の陣営に合流。メグリアル妃 焔アウンサは少数の神兵と共にゲバチューラウに従い、毒地内に在る。

 丗三日。物見の報告で両軍は青晶蜥神救世主の動向を知る。救世主の一行は払暁より行動を開始、休みも取らずにまっすぐに会合地点に向かっている。
 弥生ちゃん本人はイヌコマの背に乗って走るのを常とするので1刻(2時間余)もあれば来れるのだが、折角ここまで付いて来た人々を世紀の会談に参加させないのも気の毒と歩みを緩めている。
 到着予定時刻は、残六刻(午後4時)。

 昼天時(正午)、武徳王の牙獣車が会合地点に進出。神兵250クワアット兵3000兎竜45騎の大軍勢がいわゆる鶴翼の陣を西に敷く。
 呼応して神聖王ゲバチューラウが1里近辺までゲイルの大軍勢を進める。どのゲイルの背にも大審判戦争で猛威を揮った新兵器が多数搭載され、ここで一戦交えても悔いは無い。

 睡五刻(午後2時)、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンからの使者が会合地点に到着。無尾猫の会合への随伴と両軍内での取材を要請。ゲバチューラウは快諾したものの、武徳王はしばし協議し陣中へのネコの進入は拒絶する。
 睡五刻半(午後3時)、彼方より青晶蜥神救世主の一行が楽の音と共に現われる。奏でられる曲はプレビュー版青晶蜥神救世主ッイルベスに弥生ちゃんが授け、今や救世の象徴ともなった「ラバウル小唄」方台編曲バージョンだ。

 残六刻(午後4時)。会合地点の中心にピルマルレレコの人頭紋を描いた弥生ちゃんの王旗が立つ。

「こりゃまた壮観だね。」

 弥生ちゃんは御供の神官巫女その他大勢を置いて、旗持ちのシュシュバランタとネコ数匹のみを伴い両軍の中間点に進んだ。
 右を向けば漆黒重厚な甲虫の群れ、左を向けば絢爛豪華なゲジゲジがゆらゆらと骨の林のように風になびいている。ほんの少しなにかが狂えば両軍殺到し、全てを磨り潰す。

 太鼓腹の巨漢シュシュバランタも、さすがに喉をぐびりと鳴らす。主人と共に戦争の最前線に立ち敵の矢を受け絶命する事が旗持ち一生の誉れとはいえ、質量共にこれほど豪華な死に場所は歴史上類を見ない。

 草原に北からの風が冷たく吹いて来た。毒地と呼ばれるこの広い平原は、冬を迎える日に聖山山脈を越えて流れ込む寒気により一気に白く凍りつく。その予兆が既に顔を覗かせる。
 ばさばさと青いピルマルレレコ旗がはためき、シュシュバランタは腹に力を入れて堪えた。

 冷風に足元のネコ達が毛を逆立て震える。ネコは生来臆病で神経質だから、こんなハードな状況には長く耐えられない。

「ガモウヤヨイチャン、なるべくネコに優しい、楽しい事件を起こしてくれ。」
「それは保証しかねるなあ。」

 動きは西から来た。牙獣が牽く装甲車がごろりと大地に轟く音を立て、12名の重甲冑神兵と共に進み出る。正方形の王旗の中央に描かれる茶褐色の甲虫は、天に短い角を突き上げる。
 東側から神聖王ゲバチューラウのゲイルが進み出た。王旗を掲げ、神剣を捧げる2体のみを従える。装甲の天蓋が取り払われ、西に傾き始めた陽が玉体を鎧う黄金を光暈に包む。

 がらんごろん、がらりんごろりん、と双方の乗り物の発する音が見守る人の耳に染み込んでいく。緊張感に満ちる響きを、その場に居合わせた人は死ぬまで忘れなかったと言う。

 牙獣の車とゲイルとは、弥生ちゃんから50メートルの位置で止る。至尊の位を戴く二人が、大地に足を下ろす。
 武徳王は黒鉄の甲冑に黄金の柄の剣を帯び、護衛は重甲冑装備の近衛兵団長唯一人、クワアット兵が王旗を掲げて続く。
 神聖王ゲバチューラウも狗番と旗持ち、護衛に神剣匠一人を伴って、弥生ちゃんに近付いていく。

 

「おお! 三神の旗が一つ所に集った!!」

 手を伸ばせば触れ合う近くに、十二神より救世を命じられた三人の王が立つ。この壮観はどの予言者も唱えた事が無い。
 何が起きるか、誰にも予測出来ない。

 そこは和平の会談などという柔らかな空気は微塵も漂っておらず、剣戟の巷としても更に硬かった。
 聖蟲を戴く者は知る。人の視力が及ばない虚空で、既に神同士が争っている事を。
 ただの人にも最も恐るべき不吉な事態が想像され、不安に心臓を握り潰されそうだ。

 誰もが口をつぐみ、咳き一つ漏らさない。遠く離れた場所から三人の王の発する言葉を聞き取らんと、耳をそばだてる。

 風がそよぐ。
 冷風に細かくはためく三本の旗は、ときおり電撃に撃たれたかに真っ直ぐ止り、描かれる紋を遠い目に刻み込む。

 誰から始めるか。決まっている、弥生ちゃんだ。

「あと御一方いらっしゃる予定です。」
 唐突に放たれる言葉は、誰の予想をも越えた。相互に名乗りも上げずに対峙し続ける理由は、それか。

 改めて弥生ちゃんが一歩前に出る。左の腰に吊るすカタナをぐいと背に回し、真一文字に横たえる。少女である気安さからか、素直に深く頭を垂れる。

「天河十二神が一星青晶蜥(チューラウ)神より救世と回天の命を受けし異星の住人、蒲生弥生でございます。よろしければ弥生ちゃんとお呼びください。」

 双方の護衛が後ろに下がり、二人の王が前に出る。

「天河十二神が一星金雷蜒(ギィール)神より世を秩序と繁栄に導く命を受け、叡智を以って人を救う神族の王 ゲバチューラウと号す。」
「天河十二神が一星褐甲角(クワアット)神より命を受け、虐げられし民衆を解放し正義を世に顕す神軍の長、武徳王カンヴィタル。御二人と見える機会を得て喜ばしく思う。」

 三人並び立つと、弥生ちゃんの小ささが目を惹いた。最も強い戦闘力を持つのが一番背の低い少女だと、知らぬ者は誰も信じないだろう。
 ゲバチューラウが先程の弥生ちゃんの言葉を問い返す。

「もう一人来るとは、紅曙蛸テュラクラフ女王のことか。」
「あの御方はまた別の用があるらしいので。私が言うのは、十二神の裁定者の事です。」

 天河から直接に地上世界に干渉する神が有る。驚きを見せぬ者はさすがに居なかった。弥生ちゃんこそが裁定者だと思い込んでいたからだ。

「そろそろ姿をお見せになってはいかがです。」
 誰に向いてでなく言う弥生ちゃんの優しい声に、皆左右を振り返る。隠れているのか。
 金雷蜒神の与える超感覚でも、褐甲角神が与える直感にも、何者の存在も検知されない。

 がしゃん、と左手のみで弥生ちゃんはカタナを半分抜く。神刀が発する青い光が傾く陽を凌ぎ、草に落ちる人の影を消す。

「おお!」

 カタナを鞘に戻すと、その場に居たもう一人の姿が明らかになる。長身痩躯、頭からすっぽりと黒い布を被り、救世主達の4番目の角を成す。

「お名前をお聞かせください。」
「…ガンガランガ・ギャザルと言えば、分かるだろうか。」

 頭巾から漏れる低い声は女のものだった。だが声の調子に潤いは無い。性別に意味が無いと誰もが理解する。

 武徳王カンヴィタルが尋ねる。
「ガンガランガ・ギャザルとは、『牧神の饗宴』。紅曙蛸女王初代ッタ・コップ出現の直前にガンガランガに現われ、動物達を率いて野を遊んだと伝わる、あの神人か。」
「いかにも。」

 ゲバチューラウが続ける。
「ガンガランガ・ギャザルを率いた神人は、世を救い人々を餓えから解放すると期待されながらも、何事も為さなかったあの御仁であるな。」
「いかにも。」
「それが何故、今の世にある。」

「心配だからですよ。」
 弥生ちゃんの言葉は親しい人を弁護するように優しい。だが、韜晦を許さず先を進める容赦無さを持つ。
 黒い頭巾の神人は何事も見通されていると知り、顔を上げる。表情は見えない。

「いかにも私は心配だった。天河の計画により地上に降ろされる救世主が真に人を幸福に導くか、私は常に危ぶんでいる。」
「第四の救世主蒲生弥生にも、御不満がお有りなのですね。」
「そなたは特別だ。そなたの召喚に私は最初から反対だった。」

「いずれの神の御使いか、お教え願いたい。」
 武徳王の問いに、神人は唇を薄く歪めた。笑う。

「私が分からぬか、子供達よ。聖なる洞窟よりそなた達を広き野に誘いし黒き護り手を見忘れたか。」

 シュシュバランタの足元で様子を窺って居たネコ達が、弾かれるように飛び退る。
 神人の影から立ち上る黒い焔がゆらゆらと大きくなっていく様に、護衛達がそれぞれの王に叫ぶ。

「お下がりください! それは、その人は!!」
「戦乱の世に現われて聖蟲を持つ人の死を見届ける、それはコウモリ神人です!」

 後ろから見ていた者には良く分かる。
 ゆらめく黒い陽炎は翼と化して大きく拡がり、黄色く光る球体の奥に闇より冥い瞳が覗く。
 方台創世の神話に有る通りの、夜の護り手、死者の魂の導き手、そして怪物達の産みの親。

 黒冥蝠神バンボの化身、牙の王だ。

 

 

 十二神方台系創世神話 人間の章によると、

 天河十二神は作り上げた方台に、「ゲキ」という名の人間を住まわせる予定だった。
 ゲキは神に等しい智慧を備えた美しい生き物で、乗り物を用いて天空を自在に飛ぶ事が出来たという。
 今は滅びたゲキを惜しんで、時を越えて方台に蘇らせようとした十二神だが、どうにもうまくいかない。
 新しく生まれたゲキは環境に適応出来ず次々と死んでいき、手の施しようが無かった。
 神々は相談し、ゲキが本来持つ智慧自体が生命を脅かすと判断し、ゲキから智慧を取り除いた生き物「ウェゲ」を方台に住まわせる事にした。
 ウェゲが正しく成長した暁にはちゃんとした智慧を授け、ゲキへと発展させる計画だ。

 聖なる山の大洞窟で七七日を卵の中で過ごしたウェゲは、生まれた後も神々の手で育てられ七七七日を生きた。
 そして方台の大地に七人ずつで送り出される。彼らを率いていたのが、黒い毛皮に覆われ大きく輝く目を持つコウモリ人だ。
 コウモリ人はウェゲを保護し生活を助ける役目を持っていた。食糧を得る手段を知らないウェゲに食べられる草、果実、蟲、魚、獣を教える。
 大きな獣はコウモリ人自身が狩りを行い、ウェゲの手本となる。獣から剥いだ皮はウェゲの身を包む衣服となった。
 寒さに凍える夜は、コウモリ人の目が大きく輝き暖かい光を発し、ウェゲは安心して眠る。
 病で苦しむ者が出れば、薬草を噛み砕いて喉に流し込み助けたと伝えられる。
 幾つものウェゲの組が方台の各地に散らばり、拙いながらも生き、増えていく。
 コウモリ人は不眠不休で彼らを支え続けた。

 だが時が移り数が増えると、ウェゲは勝手に動き始める。
 言いつけを破り禁じられた草を食べ、迷いの森に入り、互いに争いまでも始める。
 天河十二神はこれこそウェゲが人へと変わる兆しと考え、ウェゲの中から出来の良い者を選び仲間を率いる力を授けた。
 それがネズミ神官だ。炎を自在に操る白ネズミを額に戴く彼らは、コウモリ人に代わってウェゲの長を命じられる。

 役目を終えたコウモリ人は、そのまま大洞窟に帰るはずだった。
 しかしウェゲ達の先行きを心配し、そのまま野に留まり離れて見守り続ける。
 ウェゲはコウモリ人が自分達を無差別に守ると知っているから、危険で愚かな行為をいつまでも繰り返した。
 これは良くないとネズミ神官達は協議し、野に出向いて説得する。
 コウモリ人は反省し聖なる山に帰るが、どうしても残ると言い張る者が一人居た。
 彼は巨大な黒い獣の姿に身を変えネズミ神官達を脅したが、白ネズミの炎の力によって捕えられる。

 ネズミ神官は言う。ウェゲはもはや人となり、愚かではあっても自らの意志と力で生きていくべきだと。
 コウモリ人は首肯かない。炎の力を知ったウェゲは互いを焼き傷つけ合って、自ら滅びてしまうだろう。
 誰かがウェゲを見守り、絶滅を防がねばならない。
 そこでネズミ神官とコウモリ人は約束を結んだ。
 コウモリ人は陽の光の下は歩かず人目に触れず、誰の助けもしない。
 その代り夜はこっそりとウェゲの寝る姿を見守り、害する獣や怪物から護ってくれと。

 こうしてコウモリ人は方台の歴史の最初の頁に隠れ、陰から人間の生きる姿を見守って来た。
 後には「コウモリ神人」と呼ばれる彼は、ガンガランガ・ギャザルやテュラクラフ女王失踪、
 ヴョンガ翁の建国、カンヴィタル・イムレイルの逃避行に助力するなど、歴史の節目に現われては足跡を残していく。

 そして。

 

 神聖王と武徳王の二人は反射的に弥生ちゃんを守ろうと、剣を抜く。
 コウモリ神人は白い右手を突き付けた。まっすぐ指を揃えて掌を前に、不可視の圧力を発する。

「!」

 瞬転、いまだ青い空がいきなり暗くなる。空全体が墨を流した黒に変わる。
 日食ではない。太陽は高くに有り、紅に燃える姿を留めている。黒い夜空に赤い円が大きく炎を吹いて揺らめいた。
 いつしか星も姿を見せ、突き刺すばかりの硬い光を地上に激しく投げつける。これほど多くの星は誰も見た事が無い。

 地上も曇天ほどの明るさは残り、天に燃える太陽の赤を人は頬に受けている。

「おおまさしく!」
「これぞ黒冥蝠神の地上の化身だ!」

 弾かれて地に伏し、振り返った二人の王は頭上に拡がる黒い翼、かっと赤く開いた巨大な口に剥き出される白い牙の列に、改めてコウモリ神と知る。
 全長7メートル、拡げた黒い皮膜の翼は15メートルを越える。指先を地面に付き三神の王を天蓋の如くに覆い隠す。

「陛下! お下がり下さい!!」
「聖上、これはガモウヤヨイチャンにお任せを!」

 大人が三人で抱える径の頭を真正面から見据えても、弥生ちゃんは下がらず怯えもしない。黄色に輝く双眸の間を真っ直ぐに見上げる。
 その姿を望む者は全て、何の根拠も無しに、この人は大丈夫だと悟る。弥生ちゃんは負けないと確信した。

 神聖王と武徳王が走って下がる速度に合わせて、巨大な暗い獣は円を大きく描く。弥生ちゃんを中心に囲んで走り、直径40メートルの結界を形成する。
 最早何人も介入を許されない。弥生ちゃんは一人で戦う。

「旗が! ピルマルレレコの旗が翻る!」
 唯一渦に巻き込まれた旗持ちシュシュバランタが、獣の巻き起こす風に抗して雄々しく王旗を掲げ続ける。彼のみが聖なる戦いを見届ける。

 

 結界の内部は静かだった。周囲に走る獣の影は目にも留まらず、その向うに在る人々が遠く別世界に思える。
 弥生ちゃんは未だカタナを抜かない。顔を高く仰いで、渦の中心に浮かぶ人と対話する。

「あなたは、私が救世主を務めるのに賛成しなかったのですか。」
「そうだ。だが能力が不足するからではない。」

 未だ全身を覆う布の中で、神人は大きく息を繰り返す。背が高いと先ほどは見えたが、今はそれほどでもなく感じられる。
 代りにとんでもなく強い透明な殺気が放散される。肉体が活動を欲するのを、理性が必死で制止する、そう見えた。

 理性の主は弥生ちゃんに説き明かす。彼の懸念を。

「我らは此度の千年紀を迎えるにあたり、別世界から人を迎えると決した。救世主たる人材を星の世界で探した。
 本来の計画であれば、その人は本物の人間ではなく、求められる要素を継ぎ合わせた仮想的な人格を与えられるはずだった。」

「天河十二神に都合の良い人物に仕立てられるはずだったのね。」

「だが我らは、その必要の無い完璧な存在を発見した。地球人『蒲生弥生』だ。
 他の神は偶然を喜んだが、私は違う。あまりにも完璧過ぎ、見事過ぎる。我らの計画に嵌め込むには、大き過ぎる。
 ウェゲを自発的な進歩に導くのに、これは不適だ。」

 そんな事を言われても、今更弥生ちゃんにやりようは無い。そもそも自ら望んで方台に来たわけでなし、救世を行っても本人に何の益も無いのだ。
 さすがに怒る。

「ちょっと待て。じゃああなたは誰が救世主にふさわしいと、」
「わたしだ。今わたしはそのカタチを肉の躯として持つ。」

 宙に浮いたまま、コウモリ神人は全身を覆う黒い布を引き剥がす。周囲を走る風に布は千々に引き裂かれ、散った。
 現われたのは純白の衣に身を包む、若く凛々しく神々しい女性。手足は細いが強靱な筋に鎧われる。
 髪は長く色は無く、斬れるほど鋭い流線が渦成す風になびいている。

「あ。」
 弥生ちゃんは思わず声を上げ、口をぽかんと開いた。
「志穂美じゃん。」

 コウモリ神人が得た姿は、弥生ちゃんの地球での友人「相原志穂美」その人だ。よくよく考えれば、最初から志穂美の声だ。
 志穂美は足元に阿呆のごとくに立つ弥生ちゃんに、言い放つ。

「わたしこそが、真の救世主の器。」
「し、しほみが、トカゲ神救世主を?」

 戦慄が走る。背筋がぞくぞくと毛を逆立てる。そんな手があったのか!

 考えてみれば、自分なんかよりも志穂美の方がずっと救世主にふさわしい性格をしている。
 志穂美は迷わない、媚びないへつらわない、空気読まない。世に蔓延る悪を一刀両断して方台全土に正義の暴風を吹き荒らす。
 だからと言って、思いやりの心が無いわけじゃない。彼女は何時だって他人を案じるのに真剣だ。困っている人があれば我が身を省みず飛び込むし、飛び込んだ先様の都合がどうなろうかも知ったことじゃない。無差別容赦の無い愛の笞を振るうだけだ。
 そもそも最初から採算度外視の行動を取る。無私を救世主の要件とするのなら、間違いなく志穂美は合格だ。
 電波度も、常識人弥生ちゃんの1千倍は高い。端からはどこ見てるのか窺い知れない遠くに視線が逝ってるが、神様の御使いとしてはそれ大正解…。

 とにかく、世界を画期的に変革するのは蒲生弥生の専売特許ではないのだ。他の選択肢、他の未来だって有り得る。

 志穂美が降臨した十二神方台系は、徹底的な神権国家、一元的な宗教によりがんじがらめに拘束される世界が展開されるだろう。
 21世紀人の弥生ちゃんには窮屈かも知れないが、未だそれを経験していない方台人民にとって無益な時代とは言い難い。特に、聖蟲の漸減により神族神兵の支配力が低下していく千年紀には、この体制は過渡期を安定させる十分な役割を果たす。

 

「なるほど。それもアリか。」
 チャキン、と弥生ちゃんは腰の後ろに真一文字に横たえるカタナを抜く。長い流麗な刀身に沿って、青い光が滴り落ちる。

「そこは、でたとこ勝負なんですね。天河十二神は賭けに出た、一足飛びに歴史の歯車を進めようと。対してあなたは慎重な歩みを期待する。」

「我が身の適さざるを理解するか。さすが衆に飛び抜けて優れる逸物だ。だからこそ、わたしは許せない。」
「どうします?」
「これで試そう。」

 志穂美の右掌から輝くばかりに純白な牙が生える。一本だけまっすぐ突き出し、ずんずん伸びていく。
 2メートルを越え、ようやく端が現われ抜け落ちた。握る得物は日本の薙刀に酷似する。志穂美の得意とする武器だ。

「骨と牙、それがコウモリ神の司るマテリアルですか。」
「水晶の刃とどちらが硬く鋭いか、打ち合い斬り合って試してみるがよい!」

 いきなり大上段真っ正面から牙の刃が落ちて来る。カタナで弾くが、余りに鋭い打ち込みに歴戦を潜り抜けた鋼も震えを見せた。

「シュシュバランタ! 決して王旗を地に落とすな!」
「はっ! 我が身に代えてガモウヤヨイチャン様の御旗をお護りします。」
「うん!」

 黒い獣の旋風の中に立つピルマルレレコ旗を、外の人は固唾を呑んで見守っている。この旗が翻る限り、弥生ちゃんは無事と知る。
 太鼓腹の巨漢はここぞ旗持ち一世の見せ場と奮い立つ。死のうが身を裂かれようが、骸のみでも旗竿を支えて見せる。

 

 弥生ちゃんの全身に風が纏わり付き、宙に、志穂美の高さに押し上げる。額の上のカベチョロの聖蟲の仕業だ。
 彼は頭蓋内に響く深く落ち着いた声で、敵についての情報を伝え警告する。

『コウモリ神が用いるあの人間の器は、もちろん本物の人ではない。カタチと人格を読み取り複製した動く人形と言って良い。』
「わたしも、おんなじなのね?」

『…そうだ。製法が同じであり、与えられる力も同等。戦闘力の差は人格によってのみ発生する。』
「ちょっと待て、志穂美の人格がそのまま強さを規定するの?」
『健闘を期待する。』
「わちゃあー。」

 地球で弥生ちゃんは志穂美と共に幾度も戦っているが、正直敵に回そうと思わない。公称150センチの自分に対し、志穂美は169センチとすらりと抜けるスタイルの良さ。中学時代は陸上部で身体能力も高いが、肉体的スペックは関係無い。
 魂だ。怒れる祟り神に喩えられる後先考えない戦い方に、正面から立ちはだかる人は居ない。ゲリラ的美少女野球リーグでは「志穂美は後ろから攻撃しろ。卑怯上等」が合言葉となっている。だがまっしぐらに突き進む志穂美に追いすがり背後を取るのは極めて困難。

「参ったね。」
と言いつつ、弥生ちゃんはベルトに挟んでいた小刀を2本、宙に落す。1本は自分の周りを旋回し、もう1本はシュシュバランタの近辺を回る。
 風の力により自在に刃を飛ばす事が出来るのだが、志穂美相手に役立つとは思えない。気を散らして打ち込みを邪魔するくらいは可能だろう。
 ハリセンは使わない。
 防御に優れるハリセンも、志穂美の攻撃には耐えられまい。大規模攻撃も意味が無いし、攻撃するエネルギーの奔流を遡ってこちらに突っ込む隙を与えるだけだ。

 正直に言って、vs志穂美は分が悪い。運動神経抜群スポーツ万能超絶優等生の弥生ちゃんだが、一点集中突破の志穂美にはどうしても押し負ける。
 小賢しく策を巡らすのも良いが、おおざっぱな志穂美はそういうのに気付かない。いつの間にか罠を踏み破って相手を散々痛めつけた末に、あそうなの?と教えられるのが大抵だ。

 勝算は有る。有るのだが、それが顔を出すまで志穂美の攻撃を斬り払うのみ。徹底的に防ぎ続けた末に、おそらくは。

 

 がいんと来る。
 右から大きくむしろ遅い振りかぶりだが、それは隙では無い。志穂美の踏み込みは敵の存在を無視してその背後まで突き抜ける。
 避けるのは失敗を意味する。右に行こうが左にかわそうが、上下だろうが前後だろうが前に立ったが運の尽き。
 方法は一つ。

 がいんんん。カタナが軋む。青い光が飛び散って、周囲を走る獣の壁に弾ける。
 白い牙の薙刀が左右から襲い来る。打ち込み打ち込み、息が尽きるまで、相手が立っている限り飽くことなく叩きつける。
 弥生ちゃんは全身の力でカタナを支え続けた。単に受けるだけではダメだ、打ち込み一つ一つに技が込められている、無意識だけど。一撃毎に的確な対応をしなければ、得物を持って行かれてしまう。

 さすがに志穂美も一度下がる。息の長さは生身の時と同じらしいが、それはこちらも同様。反撃に移る余力は無い。

 地上で見上げるシュシュバランタも驚いた。これほど必死な弥生ちゃんを、彼は今まで見た事が無い。
 先日の軍事演習で何をしていたのか、ようやく理解する。自分と同じ力を持つ者を仮想敵として、長時間耐え続ける稽古だった。

 2回目の接触。先程と同様に志穂美が打って弥生ちゃんが受ける。打ち込みの速度は更に上がり、力は倍も込められる。

「カタナ保つかなあー。」
 ぎんぎんがきんと耐え続ける愛刀の姿に、弥生ちゃんも気が気でない。刃の先端から迸る青い光のエネルギーが攻撃を受け止めるのだが、志穂美は牙の薙刀の強度を無視して叩きつける。折れても構わないとの覚悟が詰っている。
 果たして、牙のかけらが周囲に飛び散る。鉄をも両断する青晶蜥神の神威に耐えるのだから、こちらも相当に硬度が高い。かけら自体が危険物と言える。

 牙のかけらは周囲を回る獣の渦に巻き込まれ、外の世界に打ち出される。知らずに受けた神兵が重甲冑を貫通され、ゲイルも1体貫かれ地に落ちる。
「下がれ! さがれえ。」

 褐甲角軍も金雷蜒軍もかけらの射程から急いで退避する。二人の王もぎりぎりの距離に下がった。

 ぼろぼろになった薙刀を提げて、志穂美が再度距離を取る。牙の刃といい骨の柄といい、どこもかしこも傷だらけ。これではもう使えない。
「むん。」

 左の掌からまた牙が突き出る。2本目の薙刀が生えて来る。
 1本目はばりばりと砕けて、右手に呑み込まれた。掌に牙を持つ口が開いたように見える。
 全身を無数の野獣と化すのが、コウモリ神の使徒の能力らしい。背中から攻撃できたとしても、そこにも顔が出来るはず。顎を開いて剣を噛み砕く。

 一方弥生ちゃんのカタナは刃は無事ではあるが、鎬の部分に無数の擦過痕がある。硬いものをすり抜け過ぎて、削り取られているのだ。
 だが大丈夫、まだ保つ。
 ギィール神族の刀匠が鍛えたこの一振りは、己の狗番の身を守る為にあらゆる技術と工夫が鍛え込まれている。剛力無双の褐甲角の神兵と渡り合っても耐えるほどに、頑丈に作られた。誰の作かは知らないが感謝に堪えない。

 3度目の打ち込みを弥生ちゃんは待たない。今度はこちらから斬り込んだ。
 志穂美は受けにも弱くない。突っ込むばかりの猪武者ではなく、相手の攻撃を支えて耐える鉄壁の防御も鍛えている。

 弥生ちゃんは疾い。志穂美の攻撃の7倍の数斬り込んだ。一々受けるのも面倒くさい、志穂美は柄を回してカタナを弾く。
 牙の刃ほどは骨の柄は硬くない。深く抉られる傷痕が無数に走り、千切れる寸前まで削り込んだ。
 弥生ちゃん会心の攻撃。

 二人は離れて互いの得物を確かめる。志穂美は両手で柄を撫でて、弥生ちゃんは右手の人差し指で鋼の地肌を確かめる。

「……。」
 志穂美が冷たい瞳で薙刀を見つめる。さすがに対策を必要と感じたらしい。
 ずるり、と薙刀が粘液にぬめる。抉られた骨の柄が覆われ、傷痕が復元していく。細かい牙が生えて来て柄の全長をびっしりと埋め尽くす。

「牙で装甲したのか。」
 だがそれは扱う志穂美の手も傷つけるだろう。
「だいじょうぶみたいね…。」

 確かに牙の生えた薙刀は志穂美の指を傷つける。が、血が噴き出る事も無く痛みも感じていないらしい。瞬時に復元している。

 ぎゅあん、と牙の刃が飛んで来る。対策は施したものの、受けに回ると不利とは理解したようだ。攻めて責めて磨り潰す策に出る。
 こっちは手数で応戦する。相手の攻撃が当たる前にこちらから打って、後手に回らせるのだ。

 白と青の光が空中を飛び回り、なにがなんだか分からない。最早人の目には流れる線にしか見えなくなった。
 シュシュバランタは降り注ぐ牙の破片を受け続ける。ピルマルレレコ旗が幾度も貫通され穴だらけになるが、逃げる訳にはいかない。
 彼の身は空飛ぶ小刀が護ってくれる。高速のかけらを的確に打ち返し、致命の一撃は防いでいる。それでも無数の傷に全身血塗れになりながら、巨漢は耐える。

 

「長引くとこちらが不利か。」

 さすがに弥生ちゃんも戦況の劣勢を認めざるを得ない。
 志穂美はコウモリ神人の意識で動く戦闘人形という所だ。人間的限界を設定されていないのだろう。疲れがまったく見えない。
 一方こちらはこれでも生身の身体のつもりだ、腹も空くしトイレにも行きたくなる。傷付きゃ痛いし、カタナもだんだん重たく感じられる。

 しかし、勝機はまさにその違いにこそ有る。

 弥生ちゃんが距離を取り始めたので、志穂美も攻撃のパターンを換えた。
 高速で追いすがり一撃を加えて離れるヒットアンドアウェイだ。黒い獣の渦が戦場を限定するのだから、加速が大きい方が絶対的に勝つ。
 果たして弥生ちゃんは重い打ち込みに耐え切れず、軌道を乱し始める。

「次くらい、かな?」
 ふらつきながらも慎重に高さを調節し、志穂美の攻撃の姿勢を規定する。少し下に位置取りし、打ち下ろす攻撃を誘発する。
 志穂美はそろそろこのパターンを崩し決定打に繋げる一手を放つだろう。ほんのわずかな隙を見せれば、

「!」
 なんにも考えない真っ向上段からの斬り込みは、さすがに計算外だった。ぎゃぎゃりぎゃりと鋼が悲鳴を上げ、全身が激しい筋肉の軋みに絶叫する。

 すぱ、っと二人の間に空白が出来た。上下に離れて振り返る志穂美は無防備な弥生ちゃんを下から仰ぐ。
 当然の権利を得て薙刀は跳ね上がり、弥生ちゃんの腹部に吸い込まれる。胴を抜き、背骨を両断し、まっぷたつに。

「だろうねー。」
 牙の刃は、門代高校の青い制服を斬り破り腹に食い込んだ。そこで静止する。
 手加減したのではない。それ以上進めなかった。

 腹の中にも弥生ちゃんは刃を持つ。周囲を飛び回っていた青い光を放つ小刀が主人の身体を貫き、志穂美必殺の胴払いを受けた。
 青晶蜥神の神威を帯びた神剣神刀は、決して弥生ちゃんを傷つけない。
 この特性を利用した、体内装甲だ。

 動きが止まった志穂美の頭を断ち割る。おともだちなのだが所詮本人じゃないから、構わず脳天唐竹割り。

 志穂美は反応しなかった。血も吹き出さない。そのまま下がって、まっすぐ弥生ちゃんを見つめる。
 頭が鼻まで割れていながらも、なにもしない。じんわりと左右がくっつき傷が塞がる。コウモリ神の使徒には生物的な復元能力がある。
 割れたまま、「彼」は言った。

「その技はかなり痛いはずだ。」
「あいにくと、人の病を癒す方が痛いものでね。」

 いかにダメージが無いとはいえ、神剣が通り抜ければ弥生ちゃんも痛い。まして腹で激烈な斬り込みを受ければ、衝撃で絶命しても不思議でない。
 が、この種の痛みには弥生ちゃんは慣れていた。
 弥生ちゃんがトカゲ巫女達に与えた神剣は、現在4本が稼働中だ。これらが人の病を癒し傷を塞ぐ度に、天河から流れるエネルギーが弥生ちゃんの身体を通り抜け、痛みと疼きを引き起こす。使えば使うほど大量のエネルギーが通り抜け『門』を痛めつけるが、…もう慣れた。

 現在の格闘中でさえ、弥生ちゃんの分身達は方台各所で人を癒している。腹の小刀が受けた衝撃はそれら神剣のうなりと化し、人々に驚きを与えているだろう。

 志穂美、いやコウモリ神人は言葉を続ける。

「だがその技は見切った。二度は通じない。」
「いえ、もう必要ありません。あなたの真意を見極めました。」
「?」

「あなたは、自らの正義に絶対の自信を持っていませんね!」

 志穂美の顔の傷はもうほとんど塞がり、わずかの筋が目の錯覚と覚えるほどにうっすら見えるだけだ。
 しかし、コウモリ神人が精神に受けた打撃は大きい。
 まったく表情に変化を見ないが、弥生ちゃんは確信する。

「わたしは志穂美という女の子をよく知っています。彼女ならあの打ち込みで、中になにがあろうが完璧に振り抜きます。迷いは決して持ち込まない。
 それが出来ないあなたには、志穂美の器を操れない。」

 口先三寸で志穂美に負ける道理は無い。

「志穂美を返しなさい! あなたはあなたの言葉で、私に問い掛けるべきです。」

 

 宙に浮かぶ人は志穂美のカタチを失い、だんだんと人間離れしていく。
 目が吊り上がり口が耳まで裂け、牙が剥き出しに、手足がこわばり爪が生え、獣の姿に戻っていく。
 結界を作っていた走る黒い獣が止り、黒い霧に溶けていき、本体を覆うオーラになる。

 今や見守る人全てにはっきりと、空中に浮かぶ二神の闘争が見て取れる。
 弥生ちゃんはカタナを鞘に戻し、右手は腰の後ろに挟むハリセンへと伸びる。神様相手ならこちらの出番だ。

 巨大な黒い獣が翼手を羽ばたかせがむしゃらに突っ込んだ。牙が、爪が、空中の救世主を掻きむしる。
 だが危なげなく青い光はすり抜ける。
 時折激しく瞬くのは雷光の煌めき。神威の激突も、青い光が優勢に見える。

「おお、青晶蜥神が黒い獣をねじ伏せる!」

 黒く染められた空で、赤く揺らめく太陽の下で、闇と光は絡み合う。どちらに正義が有るでなく、魂の力が勝敗を分ける。

 

 爆発!

 予想外の事態が起きた。これ以上の戦闘は無用と黒い獣が丸い塊と化し、赤黒い炎を噴いて爆発した。
 至近の弥生ちゃんも巻き込まれ、遠く北の彼方に吹き飛ばされる。あまりに早いそれは流星に見えた。

 空が青を取り戻す。太陽が西に落ちる眩しさを得た。
 突然の光の逆転に人々は目を覆い、回復にしばしの時間を失う。

 再び空を見上げた時、二つの神の姿はどこにも無い。

 

「救世主は? 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンは何処に?」

 答えられる者は地上に居ない。

 

 

 一方その頃、三神会合地点より遠く離れたデュータム点で異変が起きていた。

 救世主神殿に据え付けられる『青晶蜥神救世主の玉座(試作品)』は、連日ひっきりなしの参拝客に見舞われている。
 巨大な煉瓦の壁に穿たれた青晶蜥(チューラウ)神の鱗の痕跡は、天河十二神実在の直接の証明として至高の価値を持ち、聖山をも凌ぐ聖地へとデュータム点を変えた。

 金鎖で仕切られた岩の椅子を、善男善女が列を為し通り過ぎて拝んでいく。あまりの人の多さに立ち止まる事を許されない。
 もちろん岩の壇に上がり椅子に腰かけようなど、恐れ多くて誰も試みない。頭上に拡がる大きな螺旋の鱗痕に、ただ驚愕の声を上げるだけだ。

 しかし。

 ガモウヤヨイチャン以外の何者も座る事を許されない席に、彼女は居た。
 多数の神官戦士が警備し、信者の環視の目が集中するどの隙を衝いたのか、彼女はいきなりそこに居る。

「な、なんと不埒な。そこをどきなさい。その席は青晶蜥神救世主ガモウヤ、…。」

 神官戦士の報告に怒りを爆発させながら中央祭壇に飛び込んだトカゲ大神官は、壇の上でたたらを踏む。

 伏せられた睫毛は夢見る乙女、かぐわしい香りは夜の精霊。少女であるか大人であるか判別出来ない、美の化身としか呼びようの無いものがそこに有る。
 曙色の薄衣を幾重にも重ねる姿は豪華な上に繊細優美。四肢の随所に絡み付くタコ石の数珠の趣味の良さは、王族の御物をさえ凌ぐ。

 さらに、彼女の複雑に結い上げた髪の中に奇妙な小生物が蠢くのを発見する。

 赤い丸い胴体。若木の芽のような柔らかな腕を何本も備え、栗色の髪に優雅に絡み付く。目がくりくりとこちらを望み、知性の瞳が大神官の魂をまさぐった。
 その生き物が発する暖かな光が、無彩色の岩の玉座を赤く染める。

「テュ、紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ・ッタ・アクシ様、でいらっしゃいますか。」

 すっと薄く開いた瞳は群青の海の色。
「うぅ〜ん、そういう名前。」

 気怠く蠱惑的に答える声は男の理性の防壁をいとも容易く突破する。
 膝の関節が外れたかに、トカゲ大神官および神官戦士達は祭壇に跪き、叩頭する。

 

【志穂美さんから一言】

「あー弥生ちゃん? 読者様に一言言ってもいいかな?」
「発言を許可します。相原志穂美さん。」
「この第四章だけじゃないけど書かれたの読んだら、私怪獣か化け物みたいじゃない。なにか納得いかないんだけど。」
「そう? ふつうだよ。」
「普通じゃないだろう。明らかに人間じゃない。」
「でも私達は日常いつも、こんな風に志穂美のこと思ってるよ。」
「それはなにかおかしい。」

「証言者を呼びましょうか? じゃあ、第五章から登場予定の山中明美さん(一号)です。」
「明美です。どうぞよろしく。」
「明美さんはげばおとには未だ出演されていませんが、初期の設定構想において多大なる貢献をされた影の実力者です。」
「えへへ。」

「明美、あんたは私のことこんな風に思ってる?」
「うーん、どちらかというと、この描写は控えめだなあ。」
「そうだよね。かなり控えめで常識的だよね。本来の姿であればコウモリ神なんかに使役されるのを拒否して大暴れするもん。」
「そうか、これで控えめなんだ。」
「というか、主人公弥生ちゃん自身が怪獣なんだから、志穂美が怪獣なのも当たり前じゃない。」
「そういわれると、そんな気がしてきた。」

「これで問題解決!と。ところで明美さんは今後どのようなキャラとして物語に登場するおつもりでしょうか。」
「そうだねえ、やっぱりラブロマンスの主人公てのがいいなあ。ファンタジーなんだから。」
「まゆ子の設定によると、あんた空中から落っこちてきて道路の真ん中に激突死する事になっているよ。」

「え?」
「いかにも明美さんにふさわしい最期ですね。それでは読者の皆様、山中明美さんの活躍にご期待下さい!」
「え?」

 

【樹獄】

 十二神方台系の北、聖山山脈の大絶壁で仕切られる大地は見渡すかぎりの針葉樹林帯となっており、人は住んでいない。
 聖山山脈を境に気象条件がまったく異なり方台の農業技術が役に立たず、産物を方台に持ち込む手段も無い為に移民を試みる者が無いのだ。

 それでも沿岸部に船で乗りつける者は少数居る。北にしか棲まない生物を捕獲して、方台で薬として売っている。
 彼らとて海岸に一時上陸するのみで、森林に入ろうとはしない。そもそも飲料水の供給元となる真水の河川が無いのだから、仕方ない。
 故にこの地域の情報は極めて乏しく、怪談めいたものばかりとなる。

 曰「巨大な蜘蛛が樹の上に巣を張り、人を引き上げて貪り食う」
 曰「一抱えもあるカニが泥炭の上を這い回り、うっかり迷いこんだ船員を引き裂いて喰った」
 曰「そもそも獣は住んでいない。実のならない針葉樹と足元はずぶずぶと沈みこむ泥で、獣は生きられない」
 曰「でもネコは居る、山猫だ。しかし方台の無尾猫と異なり顔が人間そのもので、へらへらと笑う」
 曰「上からなにかぺたっと肩に落ちて来て引き剥がすと、ヒトデであった。樹の上をヒトデが跳ね回っている」
 曰「海に近い汽水河川を小舟で遡っていると、甲羅を持ったテュークに襲われた」
 曰「角の生えたカタツムリが敏捷な速度で枯れ枝の上を走り回り、襲い来る。これは焼くと美味い」
 曰「トカゲは多い。1杖(70cm)はある大トカゲが這い回っている。これに噛まれると熱を出して動けなくなる」
 曰「キノコには注意しろ。食用に取ったものが夜中に逃げ出して、甲板上にびっしりと増えていて粉だらけになる」
 曰「ゲルタは釣れるが、方台のものより更に不味い」
 曰「皮膚を食い破って中に卵を産む質の悪い蟲が何種類も居る。甲羅や鱗の無い人間は幼虫の良い餌らしい」

 このような恐ろしい土地であるが、聖山に唯一設けられた街道「トリバル峠」を伝って森に下りるスガッタ僧が何人も居る。
 針葉樹林帯を抜けた先、北辺の大氷壁の更に先に、十二神が設けた神の都、理想の王国が必ず有る。と信じているのだ。

 ただスガッタ僧はその理想郷に住もうとは考えない。自らが楽園に暮らす資格を持たない事を証明する為に、不帰の旅路に就くのだ。

 

第五章 ふりかえれば、ひとり

「うー、ひどい目に遭った。」

 高い針葉樹を何十本かへし折った末にようやく止まった弥生ちゃんは、よっこらしょと身を起こし地面に足を着けた。
 全身ぼろぼろで衣服はかぎ裂きだらけ。装備をほとんど失わなかったのは幸いだが、食糧は持ち合わせていない。

 ぺしぺしとささらになったスカートの埃をはたいて周囲を見回すと、見渡せない。自分が落ちてなぎ倒した樹の跡以外はすべて針葉樹が立ち並び、視界を塞いでいる。

「ここどこ?」
と、額のカベチョロを指で小突いてみる。さすがにトカゲ神の化身であるカベチョロの聖蟲は動揺も無く、深く心に染み渡る低い声を頭蓋内に響かせる。

『トリバル峠の北方190キロ、大針葉樹林帯の真ん中だ。元居た場所から500キロは離れている。』
「いきなりそんな遠くに飛ばされたの?」
『最大秒速3.4キロメートルにまで加速した。これでも緩やかに減速してそなたの身体を保護したのだ。』
「うう、さすがにあの爆発は堪えたよ。」

 コウモリ神人との空中戦の結末は、神人の自爆で終る。自暴自棄の末の判断ミスではなく、初めからそうする予定だったらしい。
 単に爆発で殺そうとしたのではなく、時空の狭間、時間の裂け目に弥生ちゃんを封じ込めるのが目的だ。もちろんコウモリ神人は無事で、ちゃんと逃げ延びている。

 時空の狭間に封じ込めるという策は、単なる時間稼ぎ技だ。天河十二神の力があればちゃんと救い出せる。ただうまく嵌まってしまうと救出に要する時間が数十年単位で掛る。
 コウモリ神人は、弥生ちゃんが方台に及ぼした影響を復元修正する為の時間を欲したのだ。

 しかし試みは無駄に終る。さすがに青晶蜥・トカゲ神も目的を見抜いて、時空の罠から抜ける対抗エネルギーを使用した。弥生ちゃんはカベチョロの指示するままに空中で「なにか」を蹴飛ばして、現在の時間軸内にかろうじて留まった。

「蹴飛ばしたの、何?」
『心配しなくても、時空の狭間に存在する物質は尋常のモノではない。そなたに応分する質量があれば、何でもよかった。』
「人間のような感触有ったんだけど。」
『ならば人間だったのだろう。』
「心当たりが、ずーっと昔から有るんだけど、違う? 志穂美関係あるでしょ?」
『その心当たりが正しいのなら、心配する必要が無い事も理解するはずだ。』
「死人にクチナシ、か。」
『いい台詞だな、それは。』

 神様のくせにカベチョロは慈悲のかけらも無い。まあ予想が正しければ、蹴飛ばされた相手は罪の無い存在とは言い難いから、考えるのを諦めた。
「つまりは私が原因かい。」

 

 ぐじゃぐじゃと思い悩む暇があれば、次の仕事に取り掛かるべきだ。まずはこの場所で生きねばならない。
 しかし、

「聖山の北の大針葉樹林帯、通称『樹獄』は人っ子一人居ない不毛の土地と聞いているけど、」

 カベチョロが答えるまでも無い。へし折った樹が折り重なって並ぶ道を通して眺めるが、どこまでも樹が立ち並ぶだけだ。
 しかも足元が非常に悪い。じめじめと湿気てずぶずぶと沈む。寒さと泥でロクな草が生えていない。

「これはー枯れ枝とかは手に入りそうにないな。」
 柴が無ければ焚き火も熾せない。身体も暖まらないし、食事もお湯も用意出来ない。寝場所も作れない。

「ひどい所だとは聞いていたけれど、最悪だよ。」
と言いつつ、倒した樹の上に登る。地面は湿っていても樹の上はまだマシだ。とにかく、やらなければならない事を片付けねばならぬ。

「所詮は一人ってことかなー。」
 愚痴るでもなく唄うように呟きながら、ハリセン・カタナ・小刀の状態を確かめる。特にカタナは志穂美の牙の薙刀と激戦を繰り広げて破損が心配だ。

「鋼が、水晶に置き換わりつつあるね。傷も大丈夫なのかな?」
 カベチョロに確かめる。

『金属が水晶に置き換わる現象は、青晶蜥(チューラウ)神の神威の表れである。そなたのカタナも徐々に置き換わりつつあるが、強度の点においては未だ作られたままの鋼に準ずる。水晶は破損を補っているに過ぎない。』
「では大丈夫ってこと?」
『他の刀剣であれば危なかった。何度も戦い神威が十分に行き渡っているこのカタナであればこそ、黒冥蝠(バンボ)神の攻撃に耐えられた。』

 ハリセンは無傷だった。小刀は弥生ちゃんの腹で斬撃を受けた時に刃に切れ込みが入ったが、作業用として使う分には問題無い。

「そうだ、方台の各地に送った人を癒す神剣は、いまだに私に繋がっている?」
『問題ない。』

 神剣が発する青い光が人を癒す度に、弥生ちゃんの身体を通り抜ける天河のエネルギーが痛みと疼きを引き起こす。この感覚で方台に今何が起こっているか、或る程度推察する事が可能だ。

 ポケットやらベルトに吊るす小袋やらをひっくり返して装備の点検をする。
 紐、ビニール袋、髪留め、ステンレス製ボールペン(護身用装備)、電池の切れた携帯電話、腕時計、火打石、ボタンの予備、生徒手帳、ソーイングセット。

「ソーイングセット!」
 さっそくずたぼろになった上着を脱いで修復を始める。門代高校の青い制服は、通常1日1回”トカゲクリーニング”と呼ぶカベチョロが発する青い光で洗浄され、破れやこすれを修復して状態を保っていたのだが、さすがにここまで傷付くと手作業で直さねばならない。

「靴は?」
 革靴はばくんと底が剥げてワニの口のように開いている。時空の狭間で哀れなカウンターマスを蹴っ飛ばした時に持ってかれなかったのは、幸いだ。

「おお!」
 瞬間接着剤もポケットの中から出て来た。方台に来て以来なるべく使わないように心掛けていた甲斐が有った。
 感心して、カベチョロが話し掛ける。

『色々なものを持っているな。』
「これもまゆちゃんの助言の賜物だよ。八段まゆ子という地球の友達は、色んなものをその場で修理したり新しい道具を即席でこしらえたりと至極便利なんだ。最低限持ってなければいけないものも決めていてね…。水は?」

 ば、っと立ち上がって周囲を見回す。水は確保せねばなるまい。が、川の音なんか聞こえない。

「樹液って、どうなのかな?」
 へし折った樹の割れた幹を調べて見る。白い裂け目を指で擦り、ぬるとした液体をすくって舐めると、
「あま〜い。メイプルシロップの贋物って感じだ。ここはよっぽど寒いんだな。」

 或る種の樹は凍結を防ぐ為に樹液に糖分を多く含んでいる。地球の植物と方台のとは相当構造も異なるが、適応集中で同じ能力を身に着けたのだろう。
「とりあえず、これを舐めとけば死にはしないか。だが水は、」

 

「いやー、誰かと思えばトカゲ神救世主じゃないか。びっくりしたなあ。」
 背後から抑揚の無い、真剣味の薄い声がする。
 なんだネコか、と弥生ちゃんはうんざりして振り返った。折角人の居ない所に来たというのに、無尾猫の監視の目からは逃れられなかったか。

「ちょああっ!」
「うわあ、びっくりした。」

 ネコだった。色は白色ではなく山猫色迷彩だが、体長は1メートルほどと街中に棲むネコと同じ。声の質も同じ。
 大きく違う点は、顔がネコではない。のっぺりとした人間の顔が山猫の身体にくっついている、そんな怪物だ。

「あ、あなた、ネコよね?」
「ネコだ。ニンゲンと話をするのは初めてだけど、トカゲ神救世主の噂は聞いている。」
「でもその顔はなに? ネコじゃないよ。」
「顔と言われても、ネコは自分の顔がどんなのか知らないし。」

 街中のネコならば鏡を見る機会もあろうが、山ネコが自分の顔を知らないのも無理は無い。自分が如何に変な生き物であるか、このネコは気付かない。

「どういう事?」
と、こっそり額のカベチョロに相談する。

『これはネコだ。』
「いや、それは分かる。」
『ネコは初め、ニンゲンの代りとして作られた。ウェゲが生まれる前の話だ。』
「ああ、人造の生物なのね。」
『知的生命体としてのネコは失敗作だ。文明を用いて発展する機能を持たない。だから知能を制限してその他の動物として十二神方台系に配置した。』
「つまり、ネコは元々喋れるんだ。」
『喋ってばかり居て、建設的な事は何一つしない。そこで不適格となった。』
「あー。」

 万能の力を持つ天河十二神も、生態系を再現するのに相当苦しんでいるようだ。わざわざ遠くの惑星から人間の導き手を運んで来るのだから、よほど難しいのだろう。
 山ネコはとんとんと倒木の上を跳ね、弥生ちゃんの傍に寄り、足元に並べられた装備を珍しそうに眺める。

「あなた、一人?」
「他のネコに会うのは2ヶ月にいっぺんくらいだ。でも方台の噂も聞いてるよ。」
「この辺りに水は無い?」
「ネコは血を吸うから、あまり水は必要無い。」

 やはりこれも吸血生物だった。ただし人間が食を恵んでくれない環境に居るから、それなりに狂暴な存在なのだろう。
 山ネコは親切に教えてくれる。

「そうだ、カタツムリの中の水はどうだろう。カタツムリは殻に水を貯えている。」
「そうか、そんな生き物がここには居るのか。」

 山ネコが首をしゃくって見せる先に、ぴょこたんと跳ねる小生物が居た。掌一杯の大きな殻を持つ青黒いカタツムリだ。
 弥生ちゃんはカタナを引っ提げて、カタツムリを取りに行く。どの程度綺麗な水かは知らないが試してみる価値はあるだろう。

 採集に5分も掛った。

「ぜーぜー。こんなすばしっこく狡猾で危険なカタツムリは初めてだ。」
「刺されると化膿して死んじゃうぞ。」
「そういう事は最初に言いなさい。」

 小刀で殻から胴体を引きずり出し、中に有るという水を確かめる。透明な液体は出て来るが、生臭い。

「飲みたくない…。」
「ならくれ。」

 山ネコは美味しそうに液体を舐めてしまった。こういう点で、野生の動物に人間は敵わない。

「他に水の在り処は知らない?」
「知ってる。水を持ってる大きいのが居る。」
「それだ! 今度はどんな生物?」
「ウェゲだ。」

 え? と弥生ちゃんは固まって、山ネコを見る。この針葉樹林帯に人は居ないのに、ウェゲが居る?
 興味があるらしいと判断して、山ネコは言った。

「ウェゲを呼ぼうか?」
「来るの?」
「ウェゲはネコを狩りたがる。声を上げるとすぐ来る。」

 にゃああおおお。閑散として何者の気配も感じ取れない森に山ネコの雄叫びが響く。反応無し。
「すぐ来る。」

 

 20分でそれは来た。

「人じゃないじゃん!」
「だからウェゲだよ。」

 身長250cmほどの巨人、いやこれは金雷蜒王国の獣人に近い。二足歩行して2本の腕がある、そこまではいい。全身をカニの甲羅を継ぎはぎしたものが覆い筋肉のように膨れている。ところどころ甲殻類の肢や触覚が生えていた。赤い単眼やら巨大な一つ目が怪獣というよりは仮面ライダー怪人ぽく付いていて、尋常の生物には到底見えない。

「これが、ウェゲ?」
「連中見境無く襲って来るから、注意した方がいい。」

 知的生命体なのだろう。右手に棍棒を持っている。太い木の枝に粘板岩の薄い板を何枚も打ち込んで、のこぎりのような人切り包丁のようなものとなっている。

「あんなもんで殴られたら即死だな。」
 やむなく弥生ちゃんもカタナを抜く。とはいえこの地では自分は余所者で、善悪の判断を他に仰がねばなるまい。
 唯一事情を理解しているだろう額のカベチョロに尋ねてみる。

「ね、倒していいの?」
『あれは食用可能と思われる生物を見境無く攻撃して来る。交渉は不可能だ。』
「ウェゲなんでしょ、人の前身の?」
『話せば長い説明になる。後でしよう。』
「ううう、致し方なし!」

 ぽおんと跳ねて、ウェゲの前に立つ。巨大で横にも広い怪物は突き出したカニの単眼をちこちこと左右に振って、人切り包丁を構える。
 頭部に開く口のように大きな一つ目は、感覚器官ではないらしい。こっちを見ない。

「意外と、出来そうだな。」
 弥生ちゃんが得た感触では、この怪物は格闘戦に或る程度の技能があり、そう簡単には倒す事ができない。格闘技能も文明の一種であるから、確かに知的生命体である。

 そうは言っても百戦錬磨の弥生ちゃんの敵ではない。青くたなびく光の雫を残し目にも留まらぬ早さで動く少女に、怪物はまったく対応出来ない。
 人切り包丁はばらばらに斬り落とされ、両手の甲羅の装甲は抉られ傷付き、数十本の細い触覚か甲殻類の肢か分からないものが千切れ飛ぶ。

 苦痛を覚えるのか、巨大な一つ目が光った。
「む!」

 ぽぽっとステップを踏んで、弥生ちゃんは怪物の死角に隠れる。これがなにをするか、ピンと来た。

 ぴぃぐ、と一つ目から赤く太い光線が発せられる。このレーザー光線の波長は、金雷蜒神のゲジゲジの聖蟲が使うものと同じだ。
 ぼん、とレーザーの当たった樹の幹が弾け飛ぶ。内部の水分が一瞬に蒸発した感じで、燃えたのではない。

 怪物は身体を振って、弥生ちゃんを死角から追い出そうとする。飛び道具はこの一つ目レーザーしか無いらしい。

「そうか、これもまた天河十二神の造物、聖蟲と同じ技術を用いているわけだ。とすれば、」
 予想が正しければ、この怪物の胴体を深く抉ってはならない。手足を斬り払い、攻撃手段を奪い去り、沈黙させた後に調査しなければ。

 斬って斬って斬りまくる。カニの甲羅がかけらを散乱させ、透明感のある白い筋肉の束が体液を吹き出してのたうった。
「な、なんだか美味しそうな怪人だ。」

 どうと倒れる。もはや抵抗する手段も無いと見極め、弥生ちゃんは慎重に甲羅の裂け目を調べる。ヒンジと思われる突起にカタナを当て、削ぎ取った。

「ムムムムムムム。」
 声ではなく異常な作動音を発して、怪物は停まる。死んだのではない、停まっただけだ。おそらくは、これほどの存在であれば自己修復機能も備えているはず。
 だが勝利に間違い無い。

 弥生ちゃんはカタナに付いた体液を倒木の樹の皮で拭い去り、鞘に納める。

「ふ。カタツムリほどの手応えも無かったな。」
「すごいぞガモウヤヨイチャン!」
 山ネコも大興奮だ。これはネコを食べると言っていたから、積年の鬱憤が晴れたのだろう。

 弥生ちゃんは怪物に近づき、あちこちの筋肉や腱を触ってみる。ほぼ間違いなく、この怪物は。
「これか!」

 ばくん、と怪物の胸部の甲羅が開き、一つ目の頭が上に押し上げられた。わさわさとカニの鰓の細い襞に似た絨毛が露になる。じゅるりと青味を帯びた液体が零れる。

「居た!」
 怪物の内部に、死んだかに肌色の悪い子供が入っている。12、3歳程度。内部を覗き込む弥生ちゃんの顔にまったく反応しない。

「よいしょ、と。」
 中に手を差し込んで、子供を引っ張り出す。髪は短く青緑、透明な管が何ヶ所かに貼り付いていたが、簡単に外れる。
「わちゃ、おちんちんが付いてるか。男だな。」

 怪物の中から引きずり出された少年は、びくびくと震えるばかりで立ち上がろうとしない。声を掛けても意識がある反応が無い。ただ眼を大きく見開いて唇をぱくぱくと繰り返し開くだけだ。
 カベチョロが脳内で言った。

『ウェゲだ。』
「生体パワードスーツで保護されているのね。このまま単体では生きられないの?」
『この型番のウェゲはダメだ。現在方台に棲息するウェゲには、地球人由来の生存本能司る神経回路を増設してある。』
「それで地球の人間に近い生態を持っているのか。で、この子はどうしたらいい?」
『新しい保護殻が必要だ。8時間以内に得られない場合、心停止が起こる。』
「トカゲ神の力でもダメ?」
『しばし検索する。待て』

 珍しくカベチョロが解答を保留した。どこか遠くに居るはずの天河十二神と連絡を取り、確認しているのだろう。
 たっぷり10分間。その間弥生ちゃんはウェゲを擦ったりハンカチで汗を拭いたりと忙しかった。

『結論が出た。死なないだけならば、青晶蜥神救世主の傍で生存し続ける。青い光を常時浴びせよ。』
「保護殻はどこに行けば手に入るの?」
『ウェゲの村だ。彼らに引き渡せば他の保護殻が必要な措置を自動的に行う。』
「その村はどこにある?」
『ここより30キロ北。』
「こいつ、歩かないよね。」
『運搬手段は問題だな。』

 少年であるのは幸いだ。いかに弥生ちゃんが小さかろうとも、12歳小学生を負ぶえないほど非力ではない。発育具合によるけど。
 山ネコは言った。

「ガモウヤヨイチャン、そのウェゲをどうするんだ。」
「これからこいつの村に連れていき、引き渡す。北に30里行くんだけど、ついて来る?」
「行くけど、ウェゲが襲って来るぞ。」

「ねえ。私がこの子負ぶっていても襲って来るかな?」
『奪還して保護する為に襲って来るだろう。交渉は不可能だ。また首尾よく引き渡した後は、そなたと無尾猫は捕獲の対象となる。』
「えらいものを抱え込んでしまった…。」

 やってしまったものには責任を取らねばならない。
 弥生ちゃんは少年が凍え死なないようにとりあえず自分の上着を被せ、衣服か毛布の代りになるものを探す。
 毛皮があれば一番良いのだが、生憎と手近には山無尾猫の皮しかない。ちらと視線を走らせると、ネコはぶるぶる震えて拒否した。

 やむなくカニ怪人こと保護殻の内装をひっぺがす。生きたビロードの絨毛で覆われる内装は、柔かいには違いないが至る所に組織や器官と接続する管があり、なかなか外れない。

「あーもうめんどくさいい。」
 カタナを振るってばらんばらんにする姿はまさに蛮族の勇者。どこからみても文明人ではありえない。

「こんな人が救世主じゃ、方台の人間はだいめいわくだなあ。」
 山ネコは他人ごとであるから無責任に言い放ちながらも、眼をちらと向うの樹の後ろに走らせる。

 視線の先には、弥生ちゃんがまだ気付かぬ監視者の姿がある。注意しようかとも思うが、攻撃する気配が無いので保留した。
 ネコの立場としては、騒ぎは大きく派手である方が良い。森の中では大して役に立たないが、噂話の交換はネコの生存本能に直結する。独自ネタを保有する事は孤独の彼にとっても有益だ。

「よっしゃあ、カニミソげっとお! で、これがあんたの言っていた水ね。10リットルは入ってるよやたあ。」

 無邪気に喜ぶ弥生ちゃんに顔を向けていた隙に、監視者の姿は消えた。
 辺りは静まり返り、もうなにも起きない。

 そろそろ陽が沈むが、弥生ちゃんのカタナが立ち並ぶ樹々を青い光で煌々と照らし出し、怪人解体作業は続行する。

 

【蒲生弥生観察報告 その1】

「観察歴01年266日。

 えー、青晶蜥神救世主蒲生弥生を発見いたしました。十二神方台系に降臨して266日目にして、ようやく北方樹林帯への到着であります。
 予定通りであれば、彼女はとうに独自の王国を築き上げ神様の招待によりこの場所に参っているはずでしたが、いきなりの戦争勃発で大幅に期日が遅れております。」

「さて今回蒲生弥生は森に墜落したのであります。おそろしいですねえ、なんですかこの破壊の仕方は。まるで宇宙から大隕石が落下したみたいではありませんか。
 えーこの墜落による被害は、ハゲマツの大樹が12本、クリカラマツが27本、すべて根元からぼっきり折れているので修復は不可能です。巻き込まれた小動物は数知れず。山火事を出さなかったのは幸いですが、とんでもない。この損害はトカゲ神コウモリ神のどちらが払うのでしょう。」

「蒲生弥生気が付きました。無傷です。服はぼろぼろではありますが、負傷は認められません。いかに神により保護されるとはいえ、不合理非常識であります。ちょっとくらい倒された樹の痛みを思い知るべきです。誰がこの暴挙を許したのでしょう。

 えー、今入りました分析結果によりますと、減速過程の失敗による墜落だそうです。本来空中にて逆噴射を行い飛行速度が0になった時点で地上に降下するべきものを、秒速1.8キロメートルの驚くべき高速のまま激突しております。最初から樹木をブレーキの手段として用いるつもりです。飛行中は蒲生弥生は意識不明の状態にありましたので、責任はすべてトカゲ神が負うべきでしょう。

 あ、十二神管制委員会より正式なコメントが出されました。えー、今回の爆発及び墜落事件におけるすべての責任はコウモリ神が負うべきである。管理下に有るはずのウェゲ誘導保護ユニット0013-9号を十分に制御出来なかった非を認め、コウモリ神にペナルティを科す、そう公式に発表されました。」

「ここで解説の統合監視ユニット01号裏さんに参加していただきます。裏さんよろしくお願いします。」
「よろしく。」
「驚きましたねえ、この声明は。蒲生弥生にまったく責任を問わないとの判断ですね。」
「彼女は素晴らしい才能を持っていますから、十二神管制委員会も行動の制限を掛けないのですね。もっともこの北方に飛ばされたとなると少なくとも1ヶ月は時間を空費するわけで、これが実質はペナルティとなるのでしょう。」
「少し甘過ぎませんか?」
「ええ。ですがコウモリ神が提示した救世主B号モデルがあれほど簡単に撃破されたとなると、今回の計画もいよいよ後戻りが効かない所まで進展したと言えるのではないでしょうか。」

「あ、蒲生弥生が行動を開始します。えー、身体検査ですか? 自身の怪我を確かめているようですね。」
「そのように見えます。あー、装備の点検も行いますね。なにか有用な道具を持参しているのかもしれません。」
「しかし、刀剣とハリセン以外にはさして持っているとも思えませんが、あーありますねえ。細々としたものが。」
「さすがに女の子ですね。衣服の修繕を始めましたよ。」
「やはり身だしなみは大切です。救世主たるもの他人に憧れを抱かせる存在であるべきです。何時いかなる時も隙を見せてはなりません。

 あ、誰か接触しますね。」
「無尾猫ですね。山ネコバージョンの。」
「おっと蒲生弥生驚きます。それはそうでしょう、方台に棲息するネコと大きく違いますから。」
「ネコを会話可能に設定し直した管制委員会の措置の正当性が未だに疑問視されています。今回ももう少し一人で行動させるべきではなかったでしょうか。」
「一説によれば、北方樹林帯に到着した後は額の聖蟲を機能停止させる事も検討されたみたいですね。」
「その方がよかったのかも知れません。ただ蒲生弥生はその程度のアクシデントは簡単に潜り抜けるでしょう。」
「中々裏さんも高評価ですね。

 あ、何か始めますね。これはー、カタツムリですか?」
「アオマキトビマイマイです。北方に棲息するカタツムリの中で最大のものですね。焼いて食べるとなかなかに美味しいそうです。」
「蒲生弥生、これを採集するつもりです。この判断はいかがでしょう。」
「悪くはありませんが、火が熾せないと食用には出来ないでしょう。生食では毒がありますから。」
「蒲生弥生、その点には気付いて居るのか? あー苦戦していますねえ。カタツムリ右からジャンプ! 蒲生弥生かろうじてこれを避けますが、髪の毛を幾本か持っていかれました。カタツムリ強い。」
「強いですねえ、7年物オスですから、最高にパワーに溢れていますよ。」
「さあどうする蒲生弥生。斬るか、カタツムリを斬るか。あー、逃げました。」
「殻を破壊しないように注意深く攻撃していますねえ。中に納められた水が目的のようです。」
「あの水はカタツムリの排泄物ではなかったでしょうか。」
「一概にはそう言い切れません、濾過されていますから。カタツムリを食用とする動物はすべてあの水を飲みますね。北方では数少ない安心して飲める水です。」
「カタツムリジャあンプ! あ、蒲生弥生ようやく攻略の手順を発見したようです。カタナを下から振り上げますね。」
「次跳ぶとダメですよ、もう攻撃のパターンを見破られてますから。」
「跳んだあー、あーやられました。カタツムリダウンです。下から斬り上げる蒲生弥生の手練の技にあえなく最期を遂げました。4分18秒KOです。」
「健闘しましたが、ウエイトの違いはやはり大きいですね。」
「蒲生弥生、カタツムリを採集して元の場所に戻ります。ですがー、水は飲みませんね、ネコに与えましたよ。」
「この判断には少し疑問が残りますねえ。トカゲ神救世主なのですから、カタツムリの水が無害である事は理解したはずです。」
「やはり地球人の蒲生弥生には方台の自然は厳しいか。」

「ネコが雄叫びを上げてますねえ。珍しいことですよ、これは。」
「隠密での移動を常に行うネコとしては非常識とも言える行動です。しかもこの場所に留まりますね。」
「これは危険です。まるで自分を食べて下さいと言わんばかりの行動です。巨大蜘蛛やら人面カニ、ウェゲもネコを捕食しますから、自殺行為と呼んでいいでしょう。」
「さあなにが起こるか一瞬も目を話せません。それではここでいったんCMです。」

 「ぴるまる〜ぴるまる〜、世界に羽ばたくーぴるまあるー産業〜♪」

「さあ放送再開です。えー解説の裏さん、よろしくお願いします。」
「お願いします。」
「ああっとなんと! 我々が眠っている間に、蒲生弥生絶体絶命のぴーんち!」
「ウェゲですね。機動蟹殻スーツを着装するウェゲが先程のネコの雄叫びを聞きつけて捕獲に来たのです。これは危険ですよ、人間も見境無く襲いますから。」
「さあ蒲生弥生どうするか、…決着はあ、とっくに着いているようですか。」
「そうみたいです。ウェゲは手足に相当の深手を負ってますね。痛覚はありませんから痛くはないでしょうが、これは見ている方が退きますね。」
「ああっとウェゲ転倒! テクニカルノックアウト、1分23秒蒲生弥生またしても勝利です。」
「つよいですねえ、いや本当に強い。」
「なにかやってますね。えー蟹殻スーツを解体しているのですか?」
「ハッチを開放しようと試みているらしいですが、かなり強引です。生体アクチュエーターを随所で切断しています。」
「中のウェゲはスーツ外に摘出されると直ちに死んでしまいますが、蒲生弥生はこの事を知るのか?」
「やはりウェゲを取り出します。手足のみを派手に破壊したのは、スーツの自己修復機能をオーバーロードさせて機能不全に陥らせるのが目的です。最初からウェゲを狙ってます。」
「しかしウェゲは動かない。いや動けない。」
「Q8系列のウェゲには自発的意志決定能力がありませんから、ただ死を待つのみです。蒲生弥生の真意が分かりかねますね。」
「あ、ここで協議です。トカゲ神の聖蟲が仲裁に出ますか、出ませんか。」
「十二神管制委員会に連絡を取った模様です。これはひょっとするとウェゲを超法規的措置で救出するのかも。」
「いったんCMでーす。」

 「まあるい大きなお月様、金色二本の角生えて〜、はい、ぴるまる饅頭ー♪」

「裁定が出ましたか?」
「ウェゲを救出しませんね。ですがトカゲ神の責任の下、生命を確保できるようですが、」
「これは大きな賭けに出ましたか。ウェゲの生命が1日伸びる確率は80分の1、10日だと5600分の1です。しかもこれは蒲生弥生が付っきりで世話をし、完全に健康な状態のまま保ったとしての数値です。」
「蒲生弥生はこの場所に居続ける訳にはいきませんから、確率は絶望的なまでに落ちますね。100万分の1以下でしょう。」
「やはり救世主としての使命を受けた蒲生弥生、見捨てては行けません。しかし、この措置の結果自身の生存確率も大幅に下がります。」
「いけませんね、これはいけません。恐らくは判断ミスと捉えられるでしょう。彼女が方台における使命を十分理解していれば、これはやりません。非常識です。」
「だが不可能を可能に換えて来たのもまた彼女です。この先の予想はどうなるでしょう。」
「わかりません。まったく分かりません。どのコースを辿って最終目的地である十二神管制委員会の端末に行くかにもよりますが、ウェゲを抱えてはほとんど不可能。死有るのみです。」
「恐ろしい未来が彼女の頭上に落ちかかる。生きるか死ぬか、未来はいずれに定まるか。

 あ、山ネコがこっちを見ていますね。」
「そのようです。監視を察知しましたか。」
「しかし蒲生弥生に伝えませんね。黙殺ですか。」
「様子見でしょう。ネコは事件が起こらねば御飯が食べられませんから。」
「我々も一度撤退して、夜半に再度接近監視を行います。それではこの場を撤退、…アレ?」

「撤退できませんね。何時の間にか、蜘蛛の糸で身体が拘束されています。」
「頭上です。我々の頭上の、枝上10メートルの至近距離に蜘蛛が居ますこれは大きい。」
「ダイオウジョウロクモです。北方針葉樹林帯における食物連鎖で最上位に位置する捕食者プレデターです。」
「我々監視ユニットは現在脆弱な地球人タイプの肉体で実況を行っています。これはちょっと良くない状況ですか。」
「致命的とも呼べる状況です。何故我々は拘束される事を察知できなかったのでしょうか。やはり実況の途中で寝たのがいけなかったのかもしれない。」
「ですが最早脱出の手段が無い。ああ、視聴者の皆様、放送をこれ以上続ける事ができません。巨大な蜘蛛が我々の傍近く30センチまで、その大きく開いた顎を突き付けます。」
「来ますね、がぶっとですよ。」
「皆さんごきげんよう。万感の想いを込めて今言える言葉は唯一つ、ごきげんよ…、

 ぶっ。」

 

第六章 慈悲深き若き御手に、童子は惑う

 キルストル姫アィイーガは、自らが踊る幕が来たと知る。

 これまで半年に渡ってガモウヤヨイチャンと共に旅するも、脇から助言と補佐を行うのみであった。
 メグリアル劫アランサ王女と違い、誰も自分を救世主の後継に据えようとは思わない。それでよい。
 ギィール神族が次の千年を担うはずも無く、人を救う興味も無い。
 厄介は星の世界から来た小娘に任せれば良い。

 しかし今、青服トカゲ尻尾髪の救世主は居ない。
 救世主を慕い盲目的に従ってきた悩める善男善女を統率する誰も、その場に無かった。

 劫アランサがあれば、聖神女ティンブットがあればこれまで通りの傍観を続けただろう。だが三神救世主会合の場に居たのは彼女のみ。

「仕方がないなあ。」

 アィイーガは黄金の兜を脱いで、額のゲジゲジの聖蟲に風を当てた。神秘の蟲は赤い単眼でくるくると辺りを見回しゲイルの列を数え、遠く黒い甲虫を睨む。
 聖蟲には知性が有る。特にゲジゲジの聖蟲は好奇心旺盛で、しばしば自らを戴く人を不思議の方向に誘うとされる。

 行く末をゲジゲジに委ねるつもりは無いが、蟲も人もやはり同じ向きを目指した。11対の肢を使って、宿主の赤い髪をつんつんと引っ張る。

「ガシュム!」

 ゲイルの足元で待機する狗番に、アィイーガは声を掛ける。
 蛤様の重厚な甲冑に身を固める狗番は、主人の言葉に山犬の仮面を振り向けた。二人の狗番ガシュムとファイガルも、弥生ちゃんと共に毒地を旅しギジジットを襲い、無事今日まで生き延びた。

「我が主よ。御用は如何に。」
「聖上にお願いする事が出来た。謁見の許しを得て参れ。」
「は!」

 王姉妹と同格の「妃縁」の位を持つアィイーガには、予約無しでゲバチューラウに話し掛ける特権が与えられている。しかし正式には手順を踏んだ方が良いだろう。
 なにしろ神聖王ゲバチューラウはアルグリト点で会って以来、どうにも熱い視線を向けて来る。
 女として、いたく気に入られてしまったようだ。

「そちらの方もなんとかせねばならぬな。」
 悪い気はしないが、弥生ちゃんの傍に居た方が面白い。神聖宮の奥深くに鎮座させられるよりよほど楽しいだろう。

 

 キルストル姫アィイーガ。
 神聖金雷蜒王国八代ゲチョメルの末孫にあたる、ゲェ派の姫だ。

 ゲェ派は神聖宮から脱した王子の子孫によって形成されるギィール神族の派閥だが、それでも王族を名乗るには難しい条件がある。
 まずは直系の子孫でなければならない。血筋の確かさはあまり重視されない十二神方台系であるが、ゲェ派では男子による継承を絶対とする。
 さらに、父母のいずれもが聖蟲を戴く神族でなけらばならない。
 聖戴の資格は個人の器量に拠る。親が聖蟲の持ち主でも特別な利点は何も無いが、累代続けば伝統という力になる。

 アィイーガはその点少し問題があった。母は神族の家の出ではあるが、聖戴していない。
 ゲチョメル正統は別にちゃんとあり継ぐ資格も無いので気にもしないが、こだわる者はどこにでも居る。ことある度にねちねちと嫌味を言ってくるので、いいかげんゲェ派から抜けようかとも思っていた。

 彼らにすれば、毒地中でガモウヤヨイチャンに負けて捕えられたアィイーガはゲェ派の面汚しと見えているだろう。
 ましてやトカゲ神救世主に協力し王国の存立を脅かす働きを助けたとなれば、死を以って制裁せんと当然に考える。
 もっとも、後に神聖首都ギジジットで金雷蜒神の地上における化身と直結して意志を仲介し、その功で王姉妹と同格の高位を貰ったから、表立っては責めては来まい。

 そのようなわけで、彼女は現在ギィール神族の中にあって孤立する。

 

 緊張の一夜を明かした翌早朝、両軍がこのまま撤退をする見極めが着いた状態で、初めてアィイーガは離脱を申し入れる。
 ゲバチューラウは彼女が何を言い出すか最初から理解している。故に少々迷った。

 ゲバチューラウの周辺に集う神族は、必ずしも忠節篤き者ではない。
 金銀鋼に彩られるそれぞれのゲイルの上に立ち平原に列を並べるのも、武勇を誇る場を欲してだ。
 奇矯な癖の持ち主が抜け駆けし、金雷蜒王国側ではなく青晶蜥神救世主の側に立って乱を拡げんとするだろう。

 アィイーガが救世主の隊列を一時にしろ率いれば、これが先例となりギィール神族の加勢が増加する怖れがある。
 褐甲角王国との和平交渉の席で、神族の協力者が思いもかけぬ方向に議論を導くかも知れない。

 また私事ながら、アィイーガが自らの元を去り離れれば無性に虚しく感じられるだろう。

「聖上。お願いの儀がございます。」

 アィイーガのゲイルは戦闘装備を取り払い、既に平常時の華麗な飾りに装いを改めていた。
 色とりどりの帯や飾り房、花などで13対の肢を隠す装飾は、トカゲ神救世主を求めて集まる信者達を驚かせない拘束具と認められる。

 その背にある淑女は武装を一等外して軽装となり、手足の肌を露にする。
 アィイーガの甲冑は「羅身態様」と呼ばれる、元々身体の線を美しく見せる様式で作られた。肌を露出する事で一段と美しさが際立った。

 一人麗々しく飾るゲイルを、周囲の神族は好奇の眼で見る。彼女がゲバチューラウに言い寄られるとの噂はとっくに周囲に知れ渡る。
 それ以上にガモウヤヨイチャンの協力者として、この情勢下での行動が注目された。

「うん。」
 群を抜いて豪華な騎櫓のゲイルに、東金雷蜒王国神聖王ゲバチューラウは狗番と共に立つ。
 今日は鳥の羽を背にあしらった甲冑で、通常より印象が大きく感じられる。天蓋を取り払い、終日人に姿を見せ統率力を高める策だ。

 華やかに装われたゲイルが横付けするのを、至尊の人は仮面に隠された熱い眼差しで迎える。

 アィイーガは兜を脱いで髪と聖蟲を露にしていた。赤い髪はまるで男の子のようにすっきりと短く、固く小さく編んだ幾本もの束を長く背に提げる。
 顔が良く見えるこの髪型は、ゲバチューラウに好ましく感じさせる元であろう。
 彼女はギィール神族としては表情が豊かで自然だ。ガモウヤヨイチャンと旅する内に、真の心情を表現して人を動かす手法を身に着けた。

「アィイーガ、思う所があるようだな。」
「ガモウヤヨイチャンの率いた下僕の群れが、導き手を失い惑っております。誰やらを遣わさねばなりませぬ。」
「トカゲ神救世主と共に旅して来たそなたならば、なるほど連中も従うだろう。許す。」
「ありがとうございます。」

 トカゲ神救世主の信者を率いるのに金雷蜒王国の者を用いるのは、政治的に極めて有益だ。
 新たなる千年紀の秩序を形作る最も重要な瞬間で、こちらが先手を打てるのだから願ったりと言えよう。
 アィイーガならば褐甲角王国が異を唱えるのも難しい。

 ただ神族がそれにふさわしいかは疑問が残る。
 なにしろギィール神族の気まぐれは神聖王が一番心得る。アィイーガが如何に人を導くか、確かめる必要があった。

「アィイーガ、余はこの場を退き軍勢をベギィルゲイル村に戻す。主力は毒地内に留め、先と同じく少数にて村に篭る。」
「あくまでも和平の交渉を継続する形を見せるのですね。」
「そなたにも余の方針に沿った動きをしてもらいたい。」

 この和平は偽りに満ち、関係者三方いずれもが早晩の破綻を期待する。
 しかし、簡単に潰れ無に帰すは最も忌避されるところ。なんらかの果実を実らせるまで、あくまでも平和を望む姿を見せねばならない。

 ゲバチューラウは交渉を続ける事で褐甲角王国に混乱を引き起こそうと試みる。
 弥生ちゃんも、壊す為にこそ和平の結実を目指す。アィイーガ自身も同心した。

「聖上。ならば我らは一度敵となりましょう。褐甲角王国の手におえぬ事態にまで揺り動かします。」
「そうだ。世を鎮めるは、あくまでもガモウヤヨイチャンでなけらばならぬ。」

 アィイーガは自らでは混沌の解決を模索しないと明言する。弥生ちゃんに最後のツケを回すつもりだ。
 それでよい。神族はあくまでも世の緊張を高め、人を切磋琢磨させる存在であるべきだ。

「ではそのように。」

 そのままアィイーガは下がろうとするが、ただ行かせたのでは情が無さ過ぎる。
 ゲバチューラウはアィイーガに自らの紋章を刻んだ牌を授ける。これを示す事で神聖王と同等の指揮権を神族に認めさせる事が出来る。
 また重装歩兵100人とゲジゲジ神官巫女を遣わせた。

 加えて、アィイーガの狗番ファイガルとガシュムより献上されたトカゲ神の神威を帯びた長刀を下げ渡す。再び他神の力を用いる事が許された。

「次に見える時は、そなたにふさわしい宮を用意しておこう。」
「幾久しく健やかなられるをお祈りいたします。」

 ゲイルの横列から離れ遠くに去っていくアィイーガの後ろ姿を見送り、ゲバチューラウは一人呟く。

「遷都も考えねばならぬな。歴史の中心がボウダン街道に移る気配が有る。」

 

 

 無数の人の波を掻き分け、アィイーガの一行は無事弥生ちゃんの天幕に辿りつく。「あんまりこわくない」仕様のゲイルは、トカゲ神救世主の信者がよく心得るものだ。

「アィイーガ様が!」
「おお、ガモウヤヨイチャン様に御協力された、あの御方なら。」

 誰もが口々にアィイーガの名を呼び、すがる視線を投じる。弥生ちゃんのにわかの消失がどれほど彼らの心に衝撃を与えたか、如実に知れた。
 人が左右に分かれゲイルの道を作る。神官戦士や有志で集う武者達に護られる弥生ちゃんの天幕は、常とは違い病人の群がりが無い。

 戸口の前に掲げられた青いピルマルレレコ旗は、力無く垂れ下がる。コウモリ神の骨のかけらを受けてずたずたに裂けていた。

「なかなか苦戦したようだな、ガモウヤヨイチャンも。」

 狗番を踏み台にゲイルから下りるアィイーガを、カタツムリ巫女ファンファメラ以下の弥生ちゃんの側近が迎えた。老いたトカゲ最高神官も居るはずだが、姿が無い。
 
「シンチュルメ(トカゲ最高神官の名)は如何した?」
「生憎と伏せっており、お迎えに上がられません。ガモウヤヨイチャンさまがお消えになられたのがよほど御心に堪えられたのでしょう。」
「そうだろうな。」

 緑の巫女服に身を包み頭を下げ続けるファンファメラは、しかし未だ毅然とした態度を崩さない。日頃は無遠慮な態度を見せていただけに、彼女の本気が見て取れる。
 儀式を続けねばなるまい。

「ファンファメラ。ガモウヤヨイチャンは自らの失踪を予告しなかったか? 準備周到な者であるから、なんらかの指示を残しているだろう。」
「ございます。ガモウヤヨイチャンさまの聖業を引き継ぐに値する御方へお渡しせよと、書簡を幾通か預かっております。」
「その者とは誰か。」
「一にキルストル姫アィイーガ様、もしくはメグリアル劫アランサ王女様。御二方が務められぬ場合は聖神女ティンブット様、そしてトカゲ最高神官シンチュルメ様の御名をお挙げになりました。」

 アィイーガの名を最初に聞いて、天幕を幾重にも囲む民衆はほっと安堵の息を漏らす。やはり救世主様は此度の異変も事前に御存知であられ、後事を托すべき人を選んで居られた。

「青晶蜥神救世主不在の間、私が汝等を率いよう。異議の有る者は居るか。」

 声を上げる者は無い。静まり返り、咳き一つ聞こえない。この難局を乗り切るには最初から聖蟲の持ち主、弥生ちゃんに近しい二人しか考えられないのだ。

 狗番ファイガルがファンファメラの前に立ち、弥生ちゃんの書簡を受け取ろうと手を出した。これで指揮権はアィイーガに委譲される。
 痩身の巫女は顔を上げ、まっすぐに山狗の仮面を着けた男を見る。手にした4通の封板を離さない。

「この書簡を頂いた際に、ガモウヤヨイチャンさまより言い遣った命がございます。」
「む。」

「キルストル姫アィイーガ様に申し上げます。貴女は救世主の聖業を歪めずに継ぐ御意志をお持ちですか。ガモウヤヨイチャン様が御示しになられた救世の計画を正しく受け継ぎ、何も変えず何も削らず、ひたすら天河の意志に従うとお誓い願えますか。」

 周囲の者は彼女が何を言うか知らなかったのであろう。全員顔面蒼白となり、留めようとする手をわずかに上げる。
 ギィール神族は他者から束縛される事を何より嫌う。たとえ天の計画であろうとも、強制され枠に嵌められるのを許容しない。
 ファンファメラはアィイーガにそれを要求する。たちどころに斬り殺されても仕方の無い愚行だ。如何に弥生ちゃんの命令を受けていても、もっと穏やかな質し方があるだろう。

 ファイガルも驚く。良く知る仲だからなおさらだ。
 ファンファメラは極めて賢い、聖蟲を持つ者の機嫌を決して損ねない思慮深い巫女だ。
 そもそもがカタツムリ巫女は侍女としての優れた特性を認められる。礼儀を踏み外し自らの身を危うくするなど、考えられない。

 斬っても良かった。ただのギィール神族ではない、王姉妹と同等の格を持つ神聖王の次に尊いアィイーガへの無礼だ。
 しかしそれでは今後の信者達の統率に支障が生じるだろう。

 ファイガルは自らの判断の分を越えると知り、背後を振り返る。女主人の顔を見た。
 怒りと笑いが同居する凄惨な表情が有る。明らかにアィイーガは心証を悪くした。だがそれは、ファンファメラに対してではない。
 アィイーガは自らカタツムリ巫女を問い質す。

「ファンファメラ。ガモウヤヨイチャンは我を見くびったか。」
「重ねて申し上げます。キルストル姫アィイーガ様は、青晶蜥(チューラウ)神の御意志に従うとお誓いいただけますか。」
「知った事か! 妾は自分がやりたいようにやる。」

 ふっ、とファンファメラは表情を緩める。改めて頭を深々と下げた。

「その御返事を頂けぬ時は生命を賭して御引き取りいただけと、仰せつかっておりました。」
「ちっ! 相変わらず喰えないな。」

 弥生ちゃんは最初から、アィイーガが独自の判断で動く事に制限を課していない。ただ周囲の者に独断を承認させる為に一芝居打たせたのだ。
 カタツムリ巫女本来の役目は神話劇史劇を演じる女優である。

 ファンファメラは4通の書簡の内、最も薄いものを差し出した。ファイガルの手により捧げられる封板をアィイーガは自ら開く。
 中には葉片が1枚のみ、一言だけ書いてあった。ただし、ギィール神族のみが使う表意文字「ギィ聖符」で書かれている。弥生ちゃんは既にギィ聖符をほとんど習い覚えた。

『あとは任せた。』

 葉片を右手にかざし、群集に示す。誰もギィ聖符など分かりはしないが、確かに弥生ちゃんの言葉が有ると熱狂する。アィイーガが彼らを指揮する無制限の権を認める。

「あとは任せたと言っても、だ。」
 任された方は案外と不自由なものだ。無制限の自由は、むしろ無制限の拘束を受ける。弥生ちゃんを求めて集まった群集は、アィイーガに弥生ちゃん以上の業績を期待する。
「嵌められたな。」

 だが不思議と不快は無い。アノ星の世界から来た高慢ちきな小娘の鼻をあかす好機でもあるのだ。

 

 弥生ちゃんの天幕に入ったアィイーガは、ファンファメラに残り3通の書簡を提出させた。
 ファンファメラは瞬時戸惑ったが、大人しく渡す。全て任せると決めた以上、逆らうのは愚かな事だ。

「また嵌められた!」

 3通の内、メグリアル劫アランサ王女への書簡は、アィイーガのものよりは長く書いてある。
『あくまでも褐甲角の王女として振る舞い、決して青晶蜥神救世主の名代として行動するな。』
 他、仕事の分担を誰某に任せて手を出すな、と指示している。

 これを読んでしまったアィイーガは、指示を盗用すれば何事も無く集団を運営出来てしまう。
 弥生ちゃんはアィイーガが他の書簡を読むと見切って、指示を書いていた。

 乗りかかった舟だ、残り2通も続けて読む。
 ティンブットへの書簡はさらに細かく書いてある。だがいい加減なタコ巫女にはあまり理解を期待せず、「ファンファメラにさせる事」と注意書が付いていた。
 トカゲ最高神官への書簡は、ティンブットへの指示から一部抜粋している。老齢の神官が驚く内容を外して現実的かつ忍耐を要求するものとなる。『3月後には帰る』と具体的に書いてあるのは、所詮は凡人である老神官へのいたわりであろう。

「これが面白いな。」

 ティンブットへの指示書にある、「トカゲ王国軍の移動処分」が秀逸だ。褐甲角王国の衛視統監と協議して古都テュクルタンバに駐屯地を定めた青晶蜥王国建軍準備委員会だが、そのまま遊ばせておくと物騒だから架空の仕事を割り振っている。
 『テュクルタンバの紅曙蛸巫女王の宮殿遺跡の地下に、古代の財宝が眠っている。これを警備するのが任務』とある。真っ赤な嘘だ。
 さらに信憑性を高める為に、『弥生ちゃんがこれを発見し、密かに某所に移した。”ヤヨイチャン財宝”と呼称する』とまで書いている。

「しかしテュクルタンバは紅曙蛸女王の都だ。テュラクラフ女王が現われたらどうする気だ?」
 もちろんそれも指示してある。劫アランサ、ティンブット、トカゲ最高神官への指示書には「決してテュラクラフ女王には会うな」と書いていた。タコ巫女ティンブットには辛い指令だ。

 アィイーガは未だデュータム点にテュラクラフが現われた事を知らない。だが和平交渉の場にこれ以上妙な神様が関与してもらっては困る。

 

「さてどうするか。」

 天幕から狗番二人のみを残して皆追い払い、敷物の上に寝転がった。青晶蜥神救世主代行アィイーガは今より始まる。

 まず考えるべきは、数万人にも上る弥生ちゃんの信者をどう食わせていくか。金の問題だ。寄付と事業を拡大していく必要がある。
 より重要なのは、資金源の永続的な獲得だ。寄付に頼るだけでは早晩行き詰まる。弥生ちゃんも色々と考えてはいるが、戦争の動乱の最中ではなかなかうまくはいかない。

 次に重要なのが、青晶蜥(チューラウ)神の神威を用いての病人の治癒だ。現在4人のトカゲ巫女が神剣を携えて方台各地に散っている。これを確とした組織に編成せねばならない。無論運営資金は現地で賄えるようにするべきだ。

 そしてトカゲ王国の建国。特に兵の管理は急がれる。弥生ちゃんの所には、武力にて覇を唱えるべきと主張する者がひっきりなしに訪れて聞きたくも無い持論を勝手に喋っては、そのまま居座っていく。鬱陶しいだけの存在だが、放置すると暴走して盗賊紛いの建国軍を作りかねない。

 最後に、和平交渉が来る。褐甲角金雷蜒両王国に任せておいてもよいのだが、弥生ちゃんの不在という千載一遇の好機を制した者が、次の方台の覇者となる。
 トカゲ王国の建国にしても、救世の組織を固めるにも、両王国の協力は不可欠だ。
 和平の成立をつつがなく導いて、少しでも有利な体制を組み上げねばならない。ここでの失敗は千年後にまで尾を引く。

 どれも一筋縄では解決不能な難題であるが、しかしギィール神族としてのアィイーガにとって真に重要な課題と言えるだろうか…?

 

「我が主よ。」
 ガシュムの言葉にアィイーガは身を起こす。ファンファメラに命じて呼び出しておいた者が来たのだろう。

「失礼いたします。」

 と、天幕に入って来たのはなんの特徴も無い風采の上がらぬ中年男だ。弥生ちゃんに付いて来た信者を百人無作為に選べば、20人は似た者が居るだろう。
 巡礼服を着ており隊列の運営関係者と明らかに違い、何の責任も無く見える。平々凡々、だがよく観察すると彼には何かが足りない。

「御久しゅうございます、キルストル様。チュバクのキリメ、お召しにより参上いたしました。」
「キリメ、お前は子供の気配が無いな。その歳、その雰囲気であれば2、3人は抱えているのが当然だ。」
「不自然でしょうか。」
「百に2回は怪しまれる。なんとかしろ。」
「はい。ご指摘有り難く頂きます。」

 チュバクのキリメ、元は神聖首都ギジジットで金雷蜒王姉妹に仕える暗殺集団『ジー・ッカ』の一員だ。弥生ちゃんに請われて従者に加わり、陰ながら身辺を警護する。
 と言っても弥生ちゃん自身はまったくの安心。むしろその周辺に侍るフィミルティやティンブット、ファンファメラといった巫女や神官、無防備な人物を護っていた。
 彼が居なければ身近の者が幾人も暗殺の犠牲となり、今頃は救世主ではなく大魔王として、弥生ちゃんは破壊を恣にしていただろう。

 彼は『ジー・ッカ』を代表する者ではない。だが弥生ちゃんの信頼が最も厚いとして、使える窓口になる。

「キリメよ。ガモウヤヨイチャンの失踪で『ジー・ッカ』に動揺はあるか。」
「ございません。王姉妹様方の御利益に適う限り、『ジー・ッカ』は青晶蜥神救世主を裏切りません。」
「死んでない、と看做すのだな。」

 弥生ちゃんの生死は誰にも不明である。にも関わらず、その死を唱える者が何処にも居ない。褐甲角武徳王も金雷蜒神聖王も、揃って生存と帰還を口にする。
 アィイーガも、弥生ちゃんが生きている前提で話を始める。

「今回ガモウヤヨイチャンの率いる全ての下僕を、私が統率する事となった。異議はあるか。」
「ございません。我らはあらかじめ救世主様より特別な命令を承っております。隊列を率いる方がどなたになろうとも、裏で勤める我らはキルストル姫アィイーガ様に従います。」
「うむ。」

 さすがに弥生ちゃんだ。行き違いで衝突が起こらないように、ちゃんと権限を定めてくれている。

「失踪より1日経った。方台に異変は無いか?」
「ございます。烽火台の伝える所によりますれば、デュータム点救世主神殿において驚くべき訪問を受けております。」

 弥生ちゃんは『ジー・ッカ』の連絡網を流用して、光通信システムを作り上げた。これにより方台で起った全てを3日の内に知る事が出来る。

「誰が来た。」
「紅曙蛸巫女王五代、復活されたテュラクラフ・ッタ・アクシ様です。」
「ふん。それも想定済みか。」

 テュラクラフ女王が北上して、最後に姿を目撃されたのがカプタニアであると弥生ちゃんは当然知っている。森の中を抜けるのを通例とするから、カプタニア山脈の尽きるところボウダン・グルン県に、さらにはデュータム点に至ると容易に推測出来たはずだ。
 指示書に「テュラクラフ女王に会うな」と書かれているのも、このような出現の仕方を予想していた為であろう。

「褐甲角王国の衛視局が警護するだろうが、こちらでも密かに護衛せよ。特に人喰い教徒の潜伏を見破るのは汝らならば容易かろう。」

 弥生ちゃんを取って喰おうとする人食い教徒の襲撃は、手を変え品を換えあらゆる姑息な手段を尽して厭くほどに押し寄せた。チュバクのキリメは対人喰い教徒の警護では最早達人と呼べる。

「承りました。」
「他に異変は。」
「聖山よりの報せでは、昨日夕刻天を走る流星が一つ、一条の雲を引き南より参り、聖山山脈を越え北辺の彼方へ去った由にございます。」
「それがガモウヤヨイチャンだ。なるほど北へ墜ちたか。」

 天文気象の異変は、天の意志を表わすものとして占いでは非常に重視される。この目撃情報は正確であろう。

「北は青晶蜥(チューラウ)神の護る大氷壁があり、トカゲ神救世主としては一度は参らねばなるまい。失踪は事故ではなく天河十二神の招きによるものと心得よ。」
「有り難き目出度きことでございます。」
「救世主は北より戻る。聖山の東西に見張りを立て、兆しをつかめ。」
「はい。」

 秘密工作員を召し使うのは楽しい。ギジジットの王姉妹もこのように彼らを使ったのだろう。
 だがそれはアィイーガの求めるものとかなり違う。姑息な陰謀は弥生ちゃんの光の前には、薄い影さえ残さず消えるのだ。
 これではない。

 

 チュバクのキリメが去った直後、禁衛隊の隊長がご挨拶したいと打診して来た。取り次ぎのトカゲ巫女の話を聞く内に少々興味が湧き、許す。

 弥生ちゃんの禁衛隊「神撰組」はつい先日結成されたばかりで、アィイーガは未だ対面していない。
 天幕に3人入って来たので、ファイガルとガシュムは警戒する。このような挨拶の場合、隊長と補佐する者計2名が相場だ。

「なるほど。」
 3人目は2メートルの巨人。額に聖蟲を戴く事が叶わなかった神裔戦士である。
 アィイーガに対面するのだから当然の人選だが、これが補佐役に回らず余分を連れているのは、性格に問題があるからだろう。

 彼に比べるとかなり低いがっちりとした男が、隊長だ。田舎の土臭さがある。

「神撰組隊長ゥアンバード・ルジュでございます。」
「うん。既に神剣をもらったか?」
「ガモウヤヨイチャン様より3名のみが青晶蜥(チューラウ)神の神威が篭る短剣を頂戴いたしました。」

 本来なら8名の隊員すべてに授けるはずだったが、それなりに見栄えのする短剣を選んでいる内に弥生ちゃんは失踪してしまった。

「神剣にはこういう使い方もある。ファイガル、見せよ。」

 ファイガルが主人の許しを得て、自らが背に負う長刀を抜く。
 完全に戦闘用の武器に神威が込められているのは、実は二人の狗番の携えるものだけだ。弥生ちゃんでさえ、長刀の折れを用いている。
 もう一振り、弥生ちゃんの狗番ミィガンが負っていた刀は、今。

 暗い天幕が急に青い光に満たされてまばゆく、神撰組の3人は眼を細め、また羨望の眼差しを注ぐ。
 ファイガルはゥアンバードの刀を抜き、自らの長刀で刃を擦る。

「おお!」
 ゥアンバードの刀がにわかに青い輝きを見せ、独特の気配を発する。まるで神威が移ったようだ。

「一戦闘する時間くらいは、神剣と同じく鋼を断つ力を持つ。矢ならば鋼の鎧でさえ貫く。ガモウヤヨイチャンが短剣を授けたのはそれで十分だからだ。」
「お教えありがたく存じます。」

「そこで任務を授けよう。」

 アィイーガには分かっている。弥生ちゃんを護るはずの禁衛隊が、今回コウモリ神人との戦いで何の役にも立たなかった事を彼ら自身恥じていると。
 だが聖蟲を持つ神聖王武徳王ですら手が出せなかったのだ。責任を感じる必要は無い。
 それでは気が済まないだろうから、敢えて困難な任務を授けて忙殺させるのも慈悲である。

「最新情報だ。デュータム点救世主神殿に失われた古代の女王テュラクラフがにわかに出現した。」
「それは! 恐れ多い事でございます。」
「これの警護は褐甲角王国がするだろう。それはよい。だが最終目的地はおそらくテュクルタンバ。紅曙蛸女王の古の宮殿にかならず帰る。」
「テュクルタンバと言えば、我ら青晶蜥王国軍が駐屯する手筈となっていた土地にございます。」

「褐甲角王国に先駈けて、テュクルタンバを抑えよ。それがガモウヤヨイチャンの次の戦いの拠点となろう。」
「御命令、謹んで御受けします。」

 一見実にやりがいの有る仕事をもらい意気軒昂に引き上げる3人を見送るアィイーガは、小さく溜め息を漏らした。
「ヤヨイチャン財宝を狙う盗賊、ってのも用意しておくか…。」

 

「よろしゅうございますか?」

 カタツムリ巫女ファンファメラが顔を出す。既にアィイーガは隊列統率の要点を理解したと見はからい、種々の決済をもらいに来た。
 ギィール神族の有能を疑う者は方台には居ない。
 その期待を裏切らず、アィイーガは矢継ぎ早に繰り出される書類を一瞥で読み取り決済し、幾つかを突き返す。

「ティンブットか。」
「はい。聖神女ティンブット様はアルグリト点を出立し、次の任務に向かいます。」
「ガモウヤヨイチャンの失踪は影響無しか?」
「フィミルティが半狂乱になったそうですが、特には。」

 ティンブットの次の任務とは、金雷蜒褐甲角両王国の和平の交渉を民間人の間で慶び、世論を抜き差しならない状況に持っていく事だ。
 弥生ちゃんの失踪はあっても任務を放棄する理由にはならないとの判断に間違いはない。

「ティンブットだけで間に合うか?」
「テコ入れが必要と考えます。より大きく火を燃やさねばならなくなりました。」

 ファンファメラは謀略に向いている。このような奸物は王宮の侍女としてはまったく不向きで、弥生ちゃんという主人を得られなければ神殿の隅で書類整理でもさせられていただろう。

「そうだな…。むしろガモウヤヨイチャンの葬式でもするか。コウモリ神人によりて葬られし救世主が、聖山の彼方、天空より復活する、と。」
「ああ、それは面白うございますね。折角神人様の御来駕を頂いたのですから、使わない手はありません。」
「下民どもは一度悲しみのどん底に落としてやった方が、運動に力が出るだろう。ティンブットに新しい台本を送れ。」
「二日の内には書き上げてお持ちします。」

「フィミルティには精々、絞り出すような嘆き声を張り上げさせよう。」

 アィイーガはこれでも慈悲深い神族として知られている。毒地を共に旅した蝉蛾巫女にもちゃんと出番を配慮する。

 

 その後も次から次へと人が尋ねて来る。これで弥生ちゃんが居た時の3分の1というから、あの女何個身体が有ったのかと呆れてしまう。

「ファンファメラ、どういう手品を使っていた!」
「簡単ですよ。こちらから出向くのです。」

 弥生ちゃんの容儀が軽いのはよく知られるが、実は動きながら対面して話を流して聞いていた。
 救世主様御自らがお訪ねくだされた、と人は涙を流して喜ぶから、あまり無理も言って来ない。10人がいっぺんに喋っても聞こえていると見えるのは、実は顔を見た瞬間にそれが誰かを思い出し何を喋るか先読みするからだ。

「そうか。」
 やってみれば簡単だ。ただギィール神族であるアィイーガが動くと、皆恐れいって頭を下げるのが難点だ。

「次は、ネコです。」
「ネコだ。」
「ネコか。」

 弥生ちゃんは周囲に何匹もの白い無尾猫を侍らせて移動する。1メートルもある大きなネコが絡まっていると、自然人は或る程度の間隔を開けざるを得ない。群集を整理する手段ともなっていた。

 数十匹の内、代表ネコは言った。
「ガモウヤヨイチャンという人はそれはネコに親切だった。ネコが噂し易いように、面白い話を毎日作ってくれる。扱いも丁寧で、押し寄せる人間達にネコを苛めないようちゃんと諭してくれるし、ネコの為に大ネズミを持って来る人を優先的に面倒見ていた。」

「分かったわかった。同じようにしろと言うんだな。」
「そうは言わない。ただ、面白い事は自然には出て来ない。自分で作ろうと思わなければ、下火になっていくぞ。」
「私にもなにかやれと言うのだな。」
「そんなお節介はネコはしない。」

 ネコはなかなか賢い事を言う。アィイーガも心を入れ換えて自らの有り様を演出してみるか、と考えた。
 とはいえ、弥生ちゃんは小さな女の子で単純に走り回るだけで十分可愛い。メグリアル劫アランサ王女も、困ってばかりだがふわふわとなびく乳白色の髪が可愛らしい。
 それに比べて自分は2メートルの身長を持つ大女だ。同じ路線では気持ち悪かろう。

「ネコよ、お前は私に何を望む?」
「どこの町や村で話してもぜったいに受けるのは、恋の話だよ。」

 ピンと来た。ネコは言外に、神聖王ゲバチューラウがアィイーガに寄せる想いを示唆している。

「ネコよ。その話乗った! 今日はお前達に御馳走してやろう。」
「わ〜い!」
「そうか、その手があったか。なるほどな。」

 しかし、自分がそれを望むのかと考えると、どうもまだ違和感が有る。
 注目を浴びたいと願うのか。
 世の中には自ら痴情を曝け出し衆目を集める輩も有るが、ギィール神族には珍しくアィイーガは清廉である事を楽しみとする。

「なにか、まだ違うか。」

 

 

 褐甲角軍、金雷蜒軍の撤退に合わせて、青晶蜥神救世主の信者の隊列も順次北に離脱する。
 アィイーガは最後まで残り、両軍の動静を見極め続けた。
 双方様々な策を巡らせているようで、間諜が四方に飛び交い忙しい。

 さすがに閑散としてきた中央の天幕の中でアィイーガは考える。

「ガモウヤヨイチャンの望む最終的な解決か。」

 ウラタンギジトで神祭王を交えて青晶蜥王国の在り方を論じて来たアィイーガだが、弥生ちゃんが未だ奥に秘めて明らかにしないものを読み切れず迷っている。

 天河十二神は何故、方台の人間でなく、星の世界から救世主を呼び寄せたのか。
 何故ガモウヤヨイチャンでなければいけないのか。
 ガモウヤヨイチャンに有って、我らに無いものは何か。
 変革は、起きねばならないのか?

 実のところアィイーガは、この千年の方台の在り方を異常と感じた事が無い。
 矛盾に満ちていようが、聖蟲の力によって人の自由な意志がねじ曲げられていようが、非を鳴らす程の失態は無いと考える。
 この世界を気に入っている、とさえ彼女は思っていた。

 毒地にて遭遇しゲイルから叩き落とされ、共に王姉妹の罠を潜り抜けギジジットでは巨大金雷蜒神の滅びる様を見た。デュータム点で、ウラタンギジトで、そしてこのボウダンの地で神との激闘の末に失踪する現場に居合わせたにも関わらず、弥生ちゃんの理想がまだ分からない。

 自分の中に変革は存在しない。アィイーガが到達した結論がこれだ。

 聖蟲を持つ者は完成している。変わる余地は残っていない。
 変わるべきは奴隷であり下民の社会である。ガモウヤヨイチャンも方台のその部分をこそ変革する為に訪れた。

「逆に言うと、十二神方台系の下民は、自ら変革を遂げるだけの力を持たない。」

 子供が身の丈に合わない服を着ている。子供は下民で、服は聖蟲を持つ神族神兵だ。着替えても、愚かさ幼さからは逃げられない。
 アィイーガは気が付いた。

「つまり、子供服だ。聖蟲の代りにガモウヤヨイチャンの理想と幻影を身に着けるべきと、天河十二神は判断した。」

 ピルマルレレコの刺繍を胸に施した青い可愛い子供服。おもちゃの剣も付いて来る。
 だがこれを着る前に、子供は裸にならねばならぬ。
 アィイーガは母親となった自分を想像して、ほくそ笑んだ。駄々をこねる悪ガキを叱りつけ汚れた衣服をひっぺがす。

「いいだろう。脱がせてやるぞ。」

 

「我が主よ。」
 ファンファメラの呼び出しに応じて外に出ていた狗番ガシュムが戻って来る。数騎のゲイル騎兵が訪ねてきた、その応対をしていたのだ。

「用件はなんであった。」
「お出でになられたのはすべて若い女性の神族です。アィイーガ様に御助勢を申し出られました。」
「聖上の命ではないのだな?」
「有志の方々だそうです。」

 聖蟲を持つ者が複数有り、信者を驚かすのはあまり面白くない。特に巨大なゲイルは病人に要らぬ心配をさせる。もっての外だ。
 現在アィイーガが進めている隊列の運営に、彼女らを役立たせる場所は無い。

「御引き取りを願おう。」
「は。」

 再び天幕を出ようとするガシュムを、右手を上げて制する。いや、本当に使えないだろうか?

「ガシュム、神族は何名居た。」
「6名の方がいらっしゃいました。」
「命は要らぬ奴らだな?」
「は?」

 アィイーガは自ら応対すべく立ち上がり風を切って天幕を出る。ガシュムとファイガルは主人の後を追う形となる。

 6名の神族はすべて戦闘装備のゲイルの上だ。狗番と少数の剣匠を連れているが、兵は無い。
 呆れたのは、皆アィイーガよりも歳の若い女というところだ。アィイーガは22歳。これより若いのは、聖戴して2、3年の未熟者ばかりとなる。

「よくぞ参られた。」

 右手を上げて挨拶をするアィイーガに、6人の神族は慌ててゲイルを下りる。アィイーガは妃縁の位を持つので、神聖王に準ずる礼儀を示さねばならぬ。
 ギィール神族にはゲェ派の他に三つの派閥「三荊閣」とそれ以外の「諸派」がある。それぞれの派閥から一人ずつ来ていた。
 彼女達を率いる者にアィイーガは見覚えがある。

「聖戴の儀以来か。」
「船に乗っていたからあまり家には帰っていない。」

 シトロメ純ミローム。アィイーガと同じ年にギジシップ島に渡り、聖戴の儀式を受けた神族だ。7ヶ月年下になる。
 彼女の家はタコリティを中継地とする交易を生業としており、南海では羽振りが良い。つまり海賊だ。

「海の上ならまだしも、陸で会うとは奇遇だな。」
「トカゲ神救世主がタコリティを面白いようにかき回してくれたからな。謝礼に突き殺しに来たのだ。」

 実際は、ほんとうに弥生ちゃんに加勢に来たのだろう。
 タコリティに出入りする者はおおむね紅曙蛸(テューク)神の信者である。失われた古代の女王テュラクラフを蘇らせた救世主に何らかの礼を示さねば、と思い定めるのは当然だ。
 シトロメの兜はタコの頭を摸した丸い銀色の鉢に黄金の触手が桂冠のように絡んでいる。

「キルストル殿、トカゲ神救世主の不在の間に下僕共を導くのは神族の責務。微力ながらお手伝いいたそう。」
「お力添え感謝する。だが、もう少し面白い事をやってみぬか。」
「面白い事、とは。」

「先ほど届いた報せによると、デュータム点救世主神殿に紅曙蛸女王五代テュラクラフ・ッタ・アクシが現れた。汝らは彼の人に会うが良かろう。」
「ほお…。」

 デュータム点は褐甲角王国の内奥部にある。通常であればウラタンギジトへの巡礼路としてゲイルの通行も限定的に許可されるのだが、今は無理だ。

「無理ではない。」
 自信たっぷりに言うアィイーガに、彼女達は不審な顔をする。敵地に堂々と乗り込んで無事に済ますとは、如何なる策を用いるのか。
 だが長らく弥生ちゃんと共に居ると、邪悪な考えが次々と浮かぶようになるものだ。

「貴公らが加勢に参ったのも、ガモウヤヨイチャンが方台を変革すると信じるが故だろう。哀れ下賎の民を救い上げ自らの足で立たせる救世主の援けにならんと欲すればこそ、この場に在る。」
「いかにも。」

「では現状民草は如何なる境遇に置かれているのだろうな? 褐甲角王国の民は果たして本当に自由を回復し、誇りを持ちて豊かに暮らして居るのだろうか?」
「さて、それは詳しくは知らぬ。」
「調べてみねばならぬな。奴隷の目ではなくギィール神族が、カブトムシとは異なる聖蟲を持つ者が査察をせねばならぬと、私は考えるが如何に。」

「査察…。」

 

 引っ剥がしてやるぞ、とアィイーガは決意する。
 この千年無敵と公正の鎧を被って来た褐甲角神救世主カンヴィタル・イムレイルの大き過ぎる服を、子供達から奪い去る。
 裸に剥かれた子供は、親の元に走るだろう。

 さて、どの親を選ぶのか。

 

【命名規則!】

 もちろん十二神方台系の人間の名前は地球の、日本の順とは異なっている。「姓」+(「嘉字」)+「名」、を基本とするが、結婚や養子縁組で前後に姓が増える。主人や王から名を貰って順を換える事もある。
 で、本文中に人名を表わす時、姓のみ或いは名のみで統一すべきが、人によりバラバラに呼んでいる事態が発生する。
 何故か? 長くて鬱陶しいからだ。
 この作品『げばると処女』において、人の名を記す時最優先される規則は「音読し易い」これに尽きる。
 「ガーハル敏ガリファスハル」は「ガーハル」と呼び、「ューマツォ弦レッツオ」は「弦レッツオ」となる。
 だが便宜上、物語に良く出てきて馴染みの深い者は、特に「名」のみで呼ぶ事が多い。「ソグヴィタル範ヒィキタイタン」は「ヒィキタイタン」となる。
 ただし「嘉字」を持つ者は「嘉字」+「名」で呼ぶのが方台の礼儀上正しい。よほど親密でなければ「名」だけを呼ぶ事は許されない。
 例外もある。神聖王は人を「嘉字」のみで呼ぶ事がある。「嘉字」の習慣を作ったのは神聖王であるから、特権的にそう呼ぶ。
 ついでに言うと、神聖金雷蜒王国成立以前の名前を持つ人物、「テュラクラフ・ッタ・アクシ」などは「名」+「部族名」+「姓」で構成される。2千年以上前の人物だ、名前の規則が歴史上変化するのも許容せねばならない。
 「姓+「名」に変化したのは、全ての人間がギィール神族の所有物となった為、「主人の名」+「個人の名」とされた名残だ。
 ちなみに、「シュメ・サンパクレ・ア」は「名」+「小王号」+「勅許印」、という他に類例の無い名前である。金雷蜒神聖王から小王時代の名前を用いる事を許された、という意味だ。

 何を言っているのか分からない読者もあろう。また最初から呼び易い簡単な名前を付ければいいじゃないか、と思う人もあるだろう。
 しかし、これがファンタジーだ。
                                         (文責:蒲生弥生)

 

【母の恐怖】

 侍女の報せを受けて、シュメ・サンパクレ・アは階段を飛び上がり庭園に駆け込んだ。着物の裾や胸元が乱れるのも省みず、必死に走る。
 白亜でまとめられた庭園は、秋の風に色づき始めた葉が揺れ、梢に実る小さな果実に小鳥が立ち寄り啄ばんでいた。
 東屋と呼ぶには豪勢過ぎる建物の前に、彼女の侍女が10名も並ぶ。しかし今、女達がかしずくのは主人ではない。

「カマンテ!」
 幼い息子の名を叫ぶが、彼は遊びに夢中で母の声が聞こえない。相手をしている黒髪黒衣の女は子供の扱いに優れ、注意を余所に逸らさない。

「カマンティバゥール!!」
 再び呼んでようやく男の子は母に手を振って見せる。満面の笑顔に、むしろ母の心は深く抉られる。

「何故じゃ、なぜあの女が此所に居る。」
「奥方様、お控えなさいませ。尊き神人様にして我らの饗主でございます。」

 シュメの侍女侍従は累代家に仕え、千年を越える者も少なくない。日頃は彼女の為に命も投げ出そうというのに、今は息子と遊ぶ女に従い主人に振り向きもしない。
 誰一人味方が居ないと悟ったシュメは地に膝を着き、繰り広げられる恐怖の光景に眼を釘付けにする。

 女は非常に巧みに幼子の興味を惹き、彼の欲するところを手品のように読み取り与え喜ばせる。玩具など使わずとも手振りや顔つき、言葉で十分飽きさせない。
 また安全にも気を使っている。子供が走り倒れる時も、どのように転ぶか場所まで選んで自然とそこに誘導し、あえて転ばせて笑いを取る。
 シュメが自ら相手をしてもこれほど息子を喜ばせる事は出来ないだろう。遊びに関しても、この長身の女は当代一流である。

 にも関わらず、心臓がどくどくと早く脈打って全身を痺れさせる。手足の筋が魔物に取憑かれたかに動きを許さない。
 恐怖がシュメを包み、押し潰す。こんな思いをするくらいなら自らの胸を剣で抉った方がよほどマシだ。

 この女、まさに悪霊。死の代名詞でもある。不吉の女王として現世に君臨し、「御女」の称号を持つシュメさえもひしぐ。
 我が子をこれに任せるのは、兇獣に委ねるのと同じ。幼子は、鋭く光る白い牙の並ぶ顎に頭を突っ込んで、笑っていた。

 女は幼子に黒い髪が掛るほどに頬を寄せ小さく囁き、シュメの方に瞳を向けさせた。うなずき、勢いよく走って来る。
 ひざまずく母の胸に飛び込んで、息急き切って喋り始める。

「あのねあのね、あのぼく、あのひとに、けほけほけほ。」
 あまり急ぎ過ぎて咳き込み、シュメに強く抱きしめられた。今でこそこのように遊んで居られるが、つい最近までは病弱で片時も目を離せなかったのだ。

 母子の姿を見つつ、黒衣の女はゆるりと立ち上がる。身長は2メートルもあり、髪が風を孕んで大きく膨らみ、そこだけ闇が訪れたと感じる。
 侍女達が一斉に腰を折り礼をしてその場を下がる。一人、最年長でシュメの信頼も厚い者が幼子を促し、母の胸から引き剥がす。

 庭園には二人だけが残った。シュメは自分の赤い髪が乱れているのにようやく気付く。
 この不吉な女の前に立つのに一点の緩みも許されない。僅かでも引け目を感じれば、言葉の槍に魂が挫けてしまう。

 女が差し招く手にふらりと吸い込まれて近付いた。示されるままに白い卓の席に就く。どちらが庭の主か分からない。
 対面して女も座り、庭の木々をまぶしそうに見回す。

「ガンガランガのこの庭は、世界の激動など微塵も感じていないな。」
「      …今日は如何なる御用事でしょう。我が生命の饗主よ。」
「最近は子供には”カラミチュ”と呼ばせているのだ。ガモウヤヨイチャンからもらった名だ。」

 百歳に手が届くと噂されるから、25歳の自分は未だ「こども」なのだ。しかし彼我の隔絶する差は百年どころではない。天地の尽きるまで生きたとしても、自分はこの女の足元にも及ばないだろう。
 ただ今日は自分を責め苛む為に来たのではない。穏やかに、シュメを驚かせぬように話し始める。

「ガモウヤヨイチャンが失踪した話は聞いているな。」
「天空の彼方、北の聖山のさらに先に消えたと伝え聞いております。黒冥蝠(バンボ)の神人様と激しく争い、罰を受けたと。」
「その噂は間違いだ。勝利したのは救世主であり、剣勢に耐え切れず神人は逃げを打ち、追い払っただけだ。」
「!。」

 天河の神々の戦は人知の及ぶところではない。神人によって永久の寿命を授かったこの不吉な女だけが、読み解く事が出来る。
 そして人間世界の争いも、彼女の指先によって織り綴られる。

「トカゲ神救世主の失踪により褐甲角・金雷蜒両王国は非常に不安定な状態に留め置かれた。双方とも自らの陣営を引き締める為に異分子の排除を行う。」
「…歴史の必然でありましょう。」
「ここで真っ先に取り上げられるのが、赤甲梢だ。メグリアル王女 焔アウンサによる電撃の進攻は全ての者に賞讃されるが、また指弾も受ける。」
「…。」

「おまえは聞いていないだろう。赤甲梢が首都島ギジシップでいかなる敵と遭遇したか。驚くべき奸知の産物と激闘を繰り広げたのだ。」

 何を言いたいのだろう。シュメは莫大な富と長らく続く権威を抱く名門であるが、兵事には関係を持たない。神聖金雷蜒王国の昔から武力を弄ばなかった故に今日まで生き延びられた。
 話は続く。

「そこで赤甲梢は怪しい蟲を戴く強力な戦士と遭遇した。カブトムシの聖蟲を持つ神兵と互角に打ち合う怪物だ。」
「聖蟲を凌ぐ、蟲ですか。」
「それは歪んだ黒い蟲だという。まるでゲジゲジの聖蟲がカブトムシの亡骸を食べて育ったと思える、不自然な人工の産物だ。」

 シュメには女が何を言っているか分からない。分からないふりをするが、背筋に霜が降り凍っていく。
 もしや、まさか、だが何も知らない自分にこの話をするのであれば、やはりあの時のアレを言っているのか。

 女は椅子に座り直す。2メートルの長身にこの椅子は小さ過ぎた。尻の座りを正し足を組む。黒い長い髪の陰に長大な刀が隠れて居るのが見えた。

「褐甲角中央軍制局は当然にその戦士の調査を行うだろう。カプタニアの神殿にも報告は上がり、聖遺物の検査も行われる。」

 カプタニア城最上階の神聖宮、そのまた上の神聖神殿において褐甲角神の聖蟲の繁殖が行われている。
 神の蟲ではあるが完全に成体となるまで紆余曲折があり、途中で生命を失う事もある。その亡骸が聖遺物だ。
 すべて厳重に保管され、聖山カプタニアから持ち出す事は禁じられる。だが歴史上3度失われたとの記録がある。そして4度目は。

 常人の知り得ぬ神聖宮の秘密を、シュメは或る人から教えられた。

 或る人…。

「”毛むくじゃら”を貸してもらいたい。」
「…準備は出来ております。」

 シュメは陶器を思わせる冷たい頬で答える。恐怖に意志を失い、女の求めるままに喋る道化の人形に自ら化した。
 しかしあの人を守らねば、カマンティバゥールの父である、あの人を。

「悪いようにはしない。またおまえには何の嫌疑も掛らない。一切の証拠は残らない。」
「存じております。饗主の望まれる全てを、我らは差し出して悔いはありません。」

 実際女は約束を違えた事が無い。人を裏切ったりもしない。
 ただ彼女の恐ろしさに付いて行けない者が自ら裏切り、残酷な懲罰を加えられるだけなのだ。

 心凍る話は、止らない。

「それとは別の件もある。おまえが資金援助している例のアレだ。何やら策謀しているのを知っているか。」
「現在の情勢において軽挙妄動は却って自らの身を損なうと、人を通じて留めましたが聞き入れておりませぬか。」
「現在の情勢だからこそ動かねばならぬと考える。分かるが愚かだな。」

「誅しましょうか?」
「いや。期日を間違えねば、こちらの邪魔とはなるまい。」
「されど御身に不利益となるのであれば、直ちに。」

「いや。こどもは遊ばせるものだ。」

 女は音も無く立ち上がる。脹れ上がる黒が陽の光を遮り、シュメを暗闇に包み込む。
 正気に返った。恐怖で麻痺していた心が再度活動を始め、胸の拍動が聞こえて来る。手足が意志に従ってようやく動かせるが、鉛を仕込んだかに重く、怠い。

 女は地面に転がる玩具を拾い上げる。木製で手足の動くクワアット兵の人形だ。

「男の子は、」
「はい、」

「男の子は男の子と遊ばせるべきだ。女だらけの園に居ては、柔弱な人間に仕上がる。」
「はい…。」

 女の忠告のままに、息子に男児の友達を作ろうと思う。家庭教師も男にしよう。
 既に目を付けられたからには、自力で逃げる力をカマンティバゥールに授けねばならない。暗黒の運命から逃れる足を、親として与えてやらねばならぬ。

 自力で抗う力をも。

 

第七章 踊る会議の味は苦く深い

「ガーハルさま、お願いがございます。大本営に私を連れていってくださいまし。」

 と、ューマツォ弦レッツオが言うので、金翅幹元老員ガーハル敏ガリファスハルは素直に連れていった。
 青晶蜥王国建軍準備委員会より観戦武官として最前線ヌケミンドル防衛線に派遣されていた弦レッツオは、停戦と共に新たな任務を授かり、大本営の動向を観察する連絡員となっている。
 無論大本営に行ったとしても機密を入手できるはずもなく、和平交渉に影響も与えないが、モノには経緯というものが有る。
 最終的に成立した条約条文の裏にどのような意味が込められているか、不在の弥生ちゃんに正しい情報を与える為にも彼女の存在は重要だった。

「そうは言ってもだ、今回私はあまり大きく力になれないぞ。なにせメグリアル王までお出でになる頂上会議だからな、一介の元老員では手も出ない。」
「よいのですよ。会議から外された元老員の方々とお知り合いになりたいと思います。」

 弦レッツオは優しい顔をしていながらも、なかなかに策士だ。

 大本営において行われる和平対策会議は、これまでの褐甲角王国の外交の通例と異なり、実務関係者のみが発言権を持ち武徳王が直接に裁可を下す重大な決断となる。
 金翅幹元老員はそれぞれの持論を今回封じられるから、不満が鬱積する事になろう。
 そこに暇そうな顔をした美人がふらふらと遊びに行くと、洗いざらい機密情報も含めてべらべらと喋ってしまうはずだ。

 ガーハルは自分がそうであるように、金翅幹家の人間が変わった人物を好むと知る。
 弦レッツオはギィール神族の家の出で身長は高く姿は美しく教養に溢れ、おまけに男だか女だか分からない珍客であるから、大人気間違いない。

「ちょっと妬けるぞ。」
「ガーハルさまもご一緒に悪巧みなどなさってはいかがです? 今後、をお考えなのでしょう。」
「うむ。」

 和平条約成立後、青晶蜥王国成立後の方台新秩序を巡って、元老院内ではすでに暗闘が開始されている。ガーハルも渦中に身を置き自ら主導権を求め、王国を動かす櫂を握らねばならぬ。

「悪巧み、手伝ってもらえるかな。」
「喜んで。」

 

 

 東金雷蜒王国のゲイル騎兵は毒地に撤退したものの、神聖王ゲバチューラウは毒地沿いの褐甲角王国領を移動し、ベギィルゲイル村での滞在を正式に表明した。
 これは和平交渉をゲバチューラウが続行する意志を示したものであるから、褐甲角王国側としても正面から向き合わねばならない。

 武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクは前衛をアルグリト点に駐留させるも大本営自体は後退させ、ガンガランガとボウダンの県境に布陣した。
 この地にて今後の王国の方針を決定する会議を開催する。

 秋中月六日。弥生ちゃん失踪より10日にしてようやく会議に不可欠な人物が大本営に到着する。

「メグリアル王 慎ライソン殿下、御入来。」

 メグリアル王家の現当主は49歳。ウラタンギジトに対抗して設けられた神殿都市エイタンカプトにて、金雷蜒王国との折衝を長らく行ってきた。王は当然に和平を先導する役目を帯びる。
 彼にはさらに妹のキスァブル・メグリアル焔アウンサ、娘のメグリアル劫アランサのしでかした様々な事件の始末が求められる。

 しかしながら現在、メグリアル王家の膝元デュータム点に古代の紅曙蛸巫女王テュラクラフ・ッタ・アクシが出現し、滞在中だ。
 高度に神学的な問題を含み、またウラタンギジトの神祭王も接近を試みるとあれば、メグリアル王も巫女王の懐柔に務めねばならない。

 故に武徳王と直接の懇談を行った上で大本営を退出し、王太子メグリアル暦ィメイソンを代理に残した。劫アランサの3人の兄の最年長27歳だ。
 これはカプタニアで留守を預かるハジパイ王 嘉イョバイアンが高齢で出席を得ず、代理に王太子 照ルドマイマンを当てている事への配慮でもある。

 

 会議の参加者はそれぞれに役が与えられる。
 王権、軍、法、行政、外交、信仰、そしてガモウヤヨイチャンだ。

 ガモウヤヨイチャンこそが今回の和平の提唱者である為、代理人の役を務める者は大変な重責を担う。
 この役は、ウラタンギジトまで出向いて弥生ちゃん本人と何度も会談を行った衛視統監ガダン筮ワバロンが当てられる。彼は元々外事担当の法律の最高責任者であり、黒甲枝ながらも会議に出席する資格を最初から有している。

 武徳王に代わって王権の尊厳を護るのは、金翅幹家カプラル春ガモラウグ、52歳。
 大本営にて全軍の運用を補佐していた主席兵師大監、黒甲枝アーゥ密シム、31歳。カプタニアのチュダルム兵師統監の代理である。
 立法の場である元老院で武徳王に奏問する宮法監、黒甲枝ジレンデアラム訣アーガ・レイアス、43歳。
 行政と官僚組織を統括するハジパイ王の代理として、ハジパイ王太子 照ルドマイマン、40歳。
 長らく金雷蜒王国との外交を取り仕切ってきたメグリアル王の代理、メグリアル王太子 暦ィメイソン、27歳。
 信仰としての褐甲角神救世主崇拝を鮮明にする為に特に武徳王に呼ばれた、金翅幹家ゥドバラモンゲェド華シキル。47歳女性である。聖戴はしていない。
 そしてガモウヤヨイチャンの立場を代弁する衛視統監、黒甲枝ガダン筮ワバロン、51歳。

 この人選はかなり偏りがある。
 金翅幹家より参加する二人、カプラル春ガモラウグとゥドバラモンゲェド華シキルは只の元老員ではなく、「破軍の卒」と呼ばれる特別な家柄だ。
 「破軍の卒」とは、褐甲角神救世主初代武徳王カンヴィタル・イムレイルの最初の挙兵が失敗し散々に打ち破られ、無法都市タコリティに落ち延びた際に供をした12人の兵士の事である。
 彼らは最終的に10家を残し、最初期の神兵となって王国の発展を支えた。黒甲枝の屋台骨チュダルム家レメコフ家もこれに数えられる。

 武徳王が彼らを選び他の金翅幹家からの参加を拒んだのは、この和平が王国の根幹に関わる重大事であり、神話的とも言える決断を要するとの宣言である。
 場合によってはカンヴィタル・イムレイルの聖なる誓いを破る事さえ有る。その決意無くしては臨めないとの覚悟を示していた。

 軍を代表してアーゥ密シムが最初の発言を求めた。
 彼は若年ながらも主席大監を務める英才であるが、私的な意見の表明は控えるようにチュダルム統監から言い遣っている。
 実際、褐甲角軍は政治的な発言を禁じられ、命じられるままに戦う機械である事を王国の法秩序は望む。

「基本的な事実から押えておきましょう。和平交渉とは申しますが、我が軍に最早継戦能力はありません。…」

 

 

 本会議における議題は非常に広範囲に渡り複雑に絡み合う。元より7名だけで決して良い道理が無い。
 出席者はそれぞれ支援する勢力を持っている。休み時間ごとにそれらと打合わせを行い、新たな問題点を抉り出す。
 むしろ会議場の外こそが戦場であった。 

 最も重要なのは、和平を結んでも結ばされてはならない。この一点である。
 金雷蜒王国側が主導権を握り褐甲角王国がそれに従わされる、これでは元も子も無い。褐甲角王国が軍事的にも政治的にも、信仰の上でも上位にある事を示さねばならなかった。

 ここで一点、非常にまずい状況が有る。イローエントで続く難民の反乱だ。
 「民衆の解放と擁護」を旗印に戦い続けてきた褐甲角王国がこれを鎮め得ないでは、これまでの活動がすべて偽りであったと看做されても仕方がない。
 金雷蜒神聖王に批判されるのは仕方がない。
 だがガモウヤヨイチャンにこれを衝かれれば返答に窮し、民衆の信望を一気に失うだろう。

 

「うん、そうだ。イローエントに駐留する兵団の秩序を回復せねばならない。そっくり司令部を入れ変えるのが最も簡単だな。」

 大本営の外周に設置された元老員の天幕村は活発な動きを見せている。
 ガーハル敏ガリファスハルも政治的信条の近い元老員と毎日会合を持って、王国の次に取るべき手を論じている。

 褐甲角王国の政治の中枢、元老院では実は討議というものが行われる事は無い。それは裁決の場であり、実質の論議は議会外での私的な会合によって定められる。
 立場の近い者同士が集まって案件に対する態度を集約し、また別の勢力と条件を擦り合わせて段々と勢力を大きくしていき、最終的に可決に必要な票数を獲得する。

 私的な会合、つまりは宴こそが議会政治の核心だ。「宴」と「会合」は十二神方台系の言葉では同じ語である。
 というわけで会合には必ず食事が供される。もちろん元老員金翅幹家は褐甲角王国の最上層であるから、それは豪勢な料理が出る、…とは限らない。

「ゲルタを食べ過ぎると身体に悪いと言ったのは、ガモウヤヨイチャンか?」
「塩抜きの出し殻ゲルタであれば大丈夫だろう。」
「いや出し殻ゲルタが悪いと言ったらしいぞ。」
「やはり鳥の骨くらいは齧らないといかんな。」

 十二神方台系の人間は地球人に比べて顎の力が強い。細い骨ならばりばりと砕いて中の髄を食べてしまう。
 それ故か、慣習としてものを考える時はなにかを噛むのが常識となっていた。固ければ木切れでもいいのだが、やはり味が無ければ作業もはかどらない。
 喰ってばかりだと太るから、栄養の無い安物の出し殻ゲルタが丁度良い。出し殻をさらに燻製にした会議用ゲルタまで売っている。

「我らが拠るべきは「破軍の卒」カプラル春ガモラウグ様だが、イローエントの仕置きについて御意見を伺った者は居ないか?」
「うん、それとなくは確かめてみた。神兵による鎮圧には否定的だな。クワアット兵主体の軍勢であれば問題はなかろうが、」
「現今の情勢ではそちらの方が難しい。」

 ガーハルは先日まで元老院における「先戦主義」派に属していた。穏健的先戦主義だ。
 実現出来る範囲内で攻勢の頻度を上げるべきで、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンが唱えた急進的かつ敢然と対決を望む姿勢とは一線を画す。

 元老院において「先戦主義」の後ろ楯となるのは、なんと言っても「破軍の卒」だ。
 褐甲角神救世主初代武徳王カンヴィタル・イムレイルに直接従った彼らの家系は、聖なる誓いの実現を至上の命題とする。当然攻勢に票を投じる。
 しかしながら「破軍の卒」はいささか空想的な攻撃を唱える傾向があり、現実の軍事行動に関しては疎かった。
 黒甲枝として今も軍務を司るチュダルム家レメコフ家を別として、他の家はハジパイ王の支配の強い元老院では影響力が薄くなってしまう。

 その中でもカプラル家の当主 春ガモラウグは比較的現実寄りで、彼の後ろ楯を得てヒィキタイタンは先戦主義の勢力を固める事が出来た。

「カプラル様にこちらから策を献ずるべきではないか。」
「イローエントを鎮める妙手があるか?」
「うむ、タコリティのソグヴィタル王と連絡を取り、位を復活して褐甲角王国に戻ってもらうのだ。」
「うーむ、それはどうだろう…。」

 

 これが先政主義、ハジパイ王に属する側の元老員の集まりだと、こうなる。

「イローエントの難民暴動は、タコリティからの支援を受けて続いている。タコリティを封じねば鎮圧は不可能だ。」
「ソグヴィタル王はなにをしておいでなのだ。王国に忠誠を示さねば帰還は叶わぬであろう。」
「むしろ今再び追捕師を遣わして、正式に討つべきではないか。」
「では軍勢を差し向けてタコリティを制圧するのか?」
「イローエントを鎮めるよりは容易い。南海軍で制圧できるからな、タコリティは。」
「円湾には出口が無い故に、軍船の数で勝敗は決まる。それも短時日に。」
「陛下に献策すべきではないか。」

 

 翌日、ガーハルは「破軍の卒」ゥドバラモンゲェド華シキルの天幕を訪れた。
 会議は連日続くも、やはりうまくはまとまらない。参加者も発言権を高める為に、外で味方を募らねばならない。彼女の下にも元老員がひっきりなしに訪れる。

「ガーハル殿、あれはおかしな人だな。」
「ューマツォ弦レッツオの事でしょうか。あの仁は見掛けは大人しやかに見えますが、なかなかな曲者ですぞ。」
「うん、ガモウヤヨイチャンもよくあんな者を取り立てたものだ。」

 会議唯一人の女性ゥドバラモンゲェド華シキルは聖蟲を戴いた事が無い。
 名門中の名門でありながら女子の相続が続き、軍務を果たせないからと数百年も前に自ら聖戴権を放棄したのだ。
 以来、ゥドバラ(略)家は神官巫女として王国に仕えている。褐甲角王国独自の教義「王根学派」を作り上げたのも、彼女の祖先だ。
 とはいえ彼女自身は決して抹香臭い人ではない。むしろ元老員として十分なアクを備えている。

 ゥドバラ(略)家にのみ許される賜神衣と呼ばれる特別な神官服を着用して、彼女は自らの天幕で寛いでいた。
 既に彼女の派閥と呼べる元老員が数名集まり、政治的に疎遠なガーハルの入室を興味深く見守る。

 ガーハルが彼女を訪れたのは、会議においてガモウヤヨイチャンをいかに扱うか、それを確かめたかったからだ。
 現在は不在ではあるものの、日を追って救世主の影はますます濃くなっていく。まるで影法師に怯えるように、元老員達は青晶蜥神救世主への対応策の議論に狂奔している。
 遠くカプタニアのハジパイ王は救世主の失踪を知り、こう言ったそうだ。

『死ぬなり天に帰るなりならまだしも、よりにもよって失踪とは最悪だ。生きた本人の百倍の疑心を抱かせる。』

 この事態を収拾するには、神学的に確固たる足場を築かねばならない。褐甲角神信仰の理論的支柱であるゥドバラ(略)家こそが、その解決を求められる。

「異物だよ、アレは。それ以上に深い意味を見出してはいけない。」

 47歳という年齢に反して、華シキルは若い感覚を持っている。理論的に揺るがないからこそ、星の世界からの稀人を虚心坦懐に見つめられるのだろう。

「しかしそれでは民衆に説得が効かないでしょう。」
「いや、異物だからこそ民衆もすがって居る。この世界の枠組みの外に在るからこそ、解決を持つと信じるのだ。」

 ガーハルはよく理解出来ない。異物ならいずれ失われるべきではないか。
 だが返答はやはり理解に苦しむものだった。

「最早手遅れ。アレが地に降りたその日の内に殺しておくべきだった。異物の痕跡は永遠に方台に刻まれたよ。」
「やはりゥドバラ(略)様はガモウヤヨイチャンをお厭いになりますか。」
「そんな向こう見ずは出来ん。アレは天と同じ、山と同じに方台に存続する。刻まれた痕跡が独り歩きして民衆を暴走に狩り立てるのだ。」

「対策は?」
「我ら自らすがる事。逆らわず流れに乗って、我らの本分である民衆解放と擁護に全力を尽すべきだ。」
「褐甲角神への崇拝はいかになります?」
「変らんよ。変わる必要が無い。」

 やはり分かりかねる。彼女と同じ境地に達するまで、元老員も黒甲枝も無用で無益なあがきを続けるだけなのだろう。

「最後にひとつお聞かせ下さい。ゲバチューラウは救世主を如何に遇するでしょう?」
「知らん。だが逆らう気は無さそうだな。」
「ありがとうございました。」

 

 ゲバチューラウの動向を探るには、やはりメグリアル王家の人間に尋ねねばならない。
 ウラタンギジトとエイタンカプト、張り合うように東西に作られた神殿都市に住み、ギィール神族と鼻を突き合わして暮らして居るのだ。
 神族の思考法を熟知する点を買われ、メグリアル王家は歴史上最大の役割を果たす事となった。

 しかしながら会議に出席するのはメグリアル王太子 暦ィメイソン27歳。いかにメグリアル王の名代とはいえ、若年に過ぎると誰もが思っている。
 彼はまたメグリアル神衛士の士団長であり、ゲイル騎兵と対峙する事も度々だ。胆は座っている。

「ガーハル敏ガリファスハル殿ですか。軍学の一流を束ねる、」
「以後お見知り置きを。」
「私は聖山に留まっていて王都の人士をよく心得ないのです。いずれカプタニアにも出向くこととなりましょうから、よろしくお願いします。」
「こちらこそ、王太子殿下の御役に立てる日を心待ちにしております。」

「して、ゲバチューラウについてですね。彼の人と為りについて知る者は、褐甲角王国には居ないのです。それこそ焔アウンサ様に尋ねねば。」
「それは存じております。されどなんらかの手掛かりがございませんか。」

「むしろ重視すべきは、ガモウヤヨイチャンが神聖首都ギジジットの王姉妹を完全に味方に引き入れた、こちらの方です。たとえ神聖王であっても、王姉妹に逆らうのは難しい。」
「なるほど、しかしゲバチューラウは稀に見る活動的な神聖王だと聞いております。」
「どうでしょう? 好戦的ではありませんよ。違いますか。」

 どのような分野で活動的か、それは確かに重要な観点だ。今回の和平交渉でも親征の形を取っているが、未だ戦闘を行ってはいない。

「では今ひとつ、ゲバチューラウがガモウヤヨイチャンを如何に遇するか。これは予測が付きますか。」

 王太子は笑った。彼はウラタンギジト近辺に兵を進めて青晶蜥神救世主の動向を監視し、また警備もしていた。或る程度は弥生ちゃんを知っている。

「実はガモウヤヨイチャンが妹と共にある所を見た事があります。我が妹は剣術の指南を受けておりましたが、これは厳しい。」
「劫アランサ王女に辛く当たっておいででしたか。」
「稽古は厳しいのですが、懇切丁寧。人の理解が及ばぬ時は、自ら答えに到達するように幾重にも考え抜かれた指導を行います。あの御方は深い。」
「おお。」

「ゲバチューラウも単なる救世主として扱えば、ひどいしっぺ返しを食らうでしょう。」

 さすがにメグリアルの次代の王だ。見るべき所はちゃんと心得ている。
 弥生ちゃんの存在を受けて、今後メグリアル王家の立場は格段に強化されるはずだ。元老員も北方に活動拠点を設けねばなるまいとガーハルは決意する。

「ひとつ、誰も気付かない基本的な事実をお教えしましょう。これは妹から教えられたのですが、ガモウヤヨイチャンはギィール神族に対し敵意は持たず、むしろ好いているらしいのです。」
「ううむーう、」
「星の世界の技術をこの地に再現するのに、神族の知恵と技は大いに役立ちます。救世の聖業を進めるのに、神族の力は絶対に必要と考えておられます。」

 弥生ちゃんの新王国構想にギィール神族の関与は避けられない。
 ガーハルは褐甲角王国が崖っぷちに立つ危うさにある、と認識を改める。

「ですがまたこうも言ってます。黒甲枝の滅私の精神は、彼女の国の武人に似て深く共感すると。」
「ならば金翅幹元老員は好まぬでしょうなあ。」
「王族も危ういものです。」

 ハハハと二人して笑ったが、内心では冷や汗をかいていた。

 

 和平の方針についてはまったく会議は進まない。だがそれ以外の、特に軍の配置に関しては段々と煮詰まって来る。

 まずはギジェ関の国境防衛軍は金雷蜒軍の配置に応じて後背の備えを整えた。彼らの背後にゲバチューラウが居るのだから当然だ。
 そのゲバチューラウを囲む形で赤甲梢が配置されている。壁となる装甲神兵団とゲイル騎兵を撃退する兎竜部隊とを備え、毒地からの殺到にも対応出来る。
 そしてアルグリト点に待機する部隊が有る。赤甲梢がゲバチューラウを捕え金雷蜒軍を留めている間に、毒地側から押し包み殲滅する。またボウダン街道全域に戦線を拡大せんと試みる場合には、ここが司令部となる。

 これらもまた和平交渉の一環である。
 十分な形の兵力を誇示する事は敵に譲歩を引き出させ、交渉を優位に運ぶ。また決裂した場合でも即座に再戦が叶い、思い通りに結果が得られる予定だ。

 問題は、これ以外の部隊配置である。
 ボウダン街道に主力を投入した結果、各所で防備に穴が開く。特にスプリタ街道ヌケミンドル、ベイスラ、そして難民暴動が起きているイロ・エイベントの手薄さは否めない。
 金雷蜒王国は伝統的に神聖王の支配力が弱く、ギィール神族が勝手に動き回る事が常だ。
 北でゲバチューラウが和平交渉を行っていても、他所では侵攻が再開するかもしれない。だが神聖王にその責は無いのだ。
 なにしろ現在の停戦は交渉によってもたらされたものでなく、単に双方の息が続かなくなった為の休み時間に過ぎない。

 そして難民暴動だ。イロ・エイベント県の中核都市イローエントを中心に起こる難民の暴動、もはや反乱と呼んで良い、は一向に終息の気配を見せない。
 収まらないのも道理。イローエント軍制局は難民への十分な食糧供給が出来ず、またタコリティ独立を受けて交易を停止し彼らの働き口を無くしてしまったのだ。
 さらに軍制局内部に人喰い教団の影響が色濃く存在すると判明し、現在大規模な監査が行われている。軍制局の機能が麻痺していた。

 この場合指揮官個人の裁量に任せて強権で押さえ込めばむしろ楽であるが、褐甲角王国の国是が民衆の解放と擁護である為に、自縄自縛に陥った。

 武徳王は事態を憂慮し、詔を発してイローエントの統治機構の再編を命じた。
 暫定的にイローエント軍制局はその職責を凍結され、駐留する南海軍司令部に陸上を含めた全権が委ねられる。
 陸戦隊を上陸させて難民暴動の鎮圧に当たらせると同時に、西側航路で大量の食糧他の物資を輸送して宣撫する。
 これを妨害せんと西金雷蜒王国が策動するだろうから、西岸百島湾海軍も全艦艇が出撃して方台西南部の不毛な海岸、グテ地と呼ばれる全域を警戒した。
 百島湾を望む重要な港湾にも敵艦隊の襲撃が予想され、交易を停止し厳重な警戒体制を敷いている。

 

「内乱が起きる心配が無いのが、せめてもの救いですな。」
「ええそうですね。これだけ周辺に兵を振り向けてしまうと、内国の治安が心配になります。敵の間諜の動きも。」

 ガーハルは今日はハジパイ王太子 照ルドマイマンの天幕を訪問している。

 ハジパイ王と言えば先政主義の中心として元老院に強い影響力を持ち、実質圧倒していた。ガーハル達にとっては敵なのであるが、その王太子はもう少し穏当だ。
 現実主義的先政主義と呼ぶべきだろうか、管理され限定的な戦争の必要をちゃんと認める彼は、穏健派先戦主義とほとんど立場的に変わらない。

 褐甲角王国・黒甲枝は金雷蜒王国と戦う姿を民衆に見せなければ、彼らを支配する説得力を持たない。
 カンヴィタル・イムレイルの聖なる誓いを忘れては、聖蟲を戴く資格が無い。
 闇雲な平和主義はかえって混沌をもたらすと、照ルドマイマン理解している。
 故に、黒甲枝の側も彼に寄せる信望が厚かった。ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンが追放されて後はなおさらだ。

 ガーハルが訪れた時、天幕には既に客が居た。会議の参加者、主席兵師大監アーゥ密シム、衛視統監ガダン筮ワバロンの二人である。
 31歳、51歳、照ルドマイマンが40歳と、ちょうど一回りずつ歳が違うものの、彼らの立場と思想は似通っている。
 38歳のガーハルにとっては、歳の近い王太子は接し易い相手だ。

「ガモウヤヨイチャンが居ない状況は、治安維持に関してはむしろ好都合かもしれません。」

 王太子は机の上に置いてあった一枚のお札をひらひらとガーハルに示す。薄茶色の葉片に青晶蜥(チューラウ)神を示す伝統的なトカゲの図案が焼印で押されている。

「ューマツォ弦レッツオが来ましたか。」
「あの方は、ガモウヤヨイチャンに何を求めるのですか。官僚として仕えるつもりですか。」
「いや、本人からそのような話は聞いた事がありません。」
「とうとうと持論をお話になられましたが、あの方の考える青晶蜥王国は常識とは相当に違いますよ。」
「ほお、なんと言っておりました?」

「西に褐甲角、東に金雷蜒、中央に青晶蜥と方台を三つに区切り、それぞれ交易して栄えていく。そんな感じです。不毛の毒地をすべて占有するのでしょうか。」
「ああ、そんな話は言ってましたな。何も無い土地ならば、割譲も容易いと。」
「少し考えました。悪くはない、構想的に。しかし青晶蜥王国を支える経済的基盤がそれでは得られない。第一人が集まらない。飢えさせる為に国民を募るのでは、どうにも。」

 さすがにハジパイ王の薫陶よろしく、王太子は経済を中心に物事を考える。
 だがガーハルは、王太子が弥生ちゃんの持つ宗教的誘引力を過小評価していると感じられる。
 聖山神聖神殿都市は冷気の厳しい山奥にあり、産業と呼べるものは何も無い。にも関わらず多数の人を住まわせ高い学識の神官を育成し、文化の保管庫となっている。
 毒地の真ん中に都を作ったとして、ガモウヤヨイチャンの人望があれば10万人くらいは優に食べさせていけるだろう。

 ガーハルは話題を変えて、3人に問う。

「して、和平交渉に関しての進展があったのですか。」
「いや、どうも条約を成り立たせる為に必要な破片の一つが欠けているようでして、困っています。」
「それは?」

「それこそ、青晶蜥王国の在り方です。」
 アーゥ密シムが口を開く。31歳と若いが大変な俊英で武徳王の覚えもめでたい。25年ぶりとなる大本営を運営する上で彼の手腕はいかんなく発揮された。

「どのような形で和平を結ぶにしても、その効力を保証するのはガモウヤヨイチャンになります。青晶蜥王国が無ければただの戯れ文に過ぎません。」

 ガダン筮ワバロンがアーゥの言を引き取って続ける。彼は王都に居る事も多く、元老院にしばしば報告に来るので、ガーハルも見知っている。

 衛視としての最高位にあるにも関わらず、彼は武人の趣を備える。重厚にして堅実、典礼も弁えた黒甲枝の鑑である。しかも黒甲枝の欠陥たる思考の膠着が無い。
 このような人物が多数居るのであれば金翅幹元老員など必要無いが、それもまた無理な話。政治には猥雑さが不可欠だ。

「青晶蜥王国の成立は、救世の聖業が永続すると保証する唯一の方法です。たとえ救世主が不在となりあるいは死したとしても、後継者を選ぶ機構が完備されていれば信頼に値します。」
「ふむ、ガモウヤヨイチャンと青晶蜥王国は表裏一体、どちらが欠けても困るわけですな。」

「ですから、会議の上ではむしろ全面的に支援して早急に青晶蜥王国を建国させるべきだ、との意見も強まっています。もちろん褐甲角王国の強い影響力の下でですが。その点ガモウヤヨイチャンの居られない今の状況は、かなり有利と見えます。」

「ガーハル様。」
 アーゥの声は少し大きかった。黒甲枝、それも軍に属する者は本来政治に口出しをしてはならない。その規を越える緊張があるのだろう。

「ガーハル様の一派がまとめる和平の腹案、青晶蜥王国への対応について、現在はどこまで形を為しておられますか。」
「ああ、未だ人数が少なくて難航しているが、御開陳いたそう。
 我らは青晶蜥王国の建国に先立って、褐甲角王国それもメグリアル王家を後見として、救世主の宮廷を作るべきと考える。軍や領土領民は後回しで良い、政治的に機能する場を求める訳だ。」

「政治的に影響力の小さいメグリアル王家を、ですか。」
「これはもちろん、メグリアル劫アランサ王女が次の救世主の後継に見込まれているとの風聞を受けたものですな。」

 王太子とガダンの言葉に、ガーハルはこそばゆくなる。かなり安易な発想ではあると彼も自省するが、簡単であればこそ人も引き付け易いのだ。

 アーゥがこの意見を検討し、言った。

「メグリアル王家のみでは無理ですね。ウラタンギジトの神祭王も同時に後見となる策でしょう、これは。」
「おそらくはそう落ち着きますな。ただこちらから主張する事でも無い。」
「確かに。」

「和平交渉をまとめるのに、その案は使えますね。」

 王太子も興味を示す。もちろん先政主義派には独自の案が有るのだろうが、とりあえず和平を結ぶだけならばこれで十分だ。使い捨ての策として考えてみても良い。
 だが残念そうにガダンが言う。彼は1ヶ月弥生ちゃんの傍に有り話をしてみて、かなり共感を覚えるようになっている。

「あいにくと今はガモウヤヨイチャンが方台にいらっしゃらない。現状では無理でしょう。」
「そうですか? 私は使えると思いますが。」

 王太子の言葉はかなり意外で、他の3人も瞠目する。神聖王ゲバチューラウを納得させるだけの権威が、弥生ちゃん不在の仮宮廷に見出せるのか。

「デュータム点にガモウヤヨイチャンをも凌ぐ神秘的な御方がいらっしゃいます。これをなんとか使えませんか?」

「!、…紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ・ッタ・アクシ様、ですか。いや、それは。」
「それは難しい。不可能とは言いませんが、むずかしい。」

「しかしこの時期、救世主の不在と入れ代わる形で出現されたのです。何らかの意図がお有りのはず。試して損は無いでしょう。」

 ガーハルは王太子 照ルドマイマンの大胆さに少なからず驚く。やはりハジパイ王の血が流れておいでだと納得した。
 だが慎重な彼が得体の知れない古代の女王にそれほど依存するとも思えない。テュラクラフ女王の名だけが使えれば良いとの策だろう。
 名目だけの仲介者、これは金雷蜒王国側にも盗用されるかも知れない。

 

 これ以上は部外者であるガーハルを交えては無理と判断し、自ら話題を換える。折角ウラタンギジトで救世主と会って来た衛視統監が居るのだ、話を聞いて損は無い。

「それはそれとして、ガダン殿。貴公はガモウヤヨイチャンと十分に会話して人となりを理解したと聞いている。よろしければ、どのような御方かお教え願えないか。」
「さようですな…。」

 ガダンもガーハルの配慮に気が付き応じる。だが彼は大本営に来てこの話ばかりを喋っている。少々飽きたが仕方ない。

「私の見たところ、あの御方は十二神方台系の救世主ではありえません。」
「救世主でない?」

「あの御方は本来御自身がお生まれになった星の世界にて救世主を務めるはずの人でした。百億の人が住みあまりにも広大かつ複雑、ありとあらゆる問題が渦巻き目も眩む高度な技術が用いられる星の世界の民衆をお救いになるべき人材です。」

「方台は、彼女が活躍する舞台としては狭過ぎ単純過ぎ、人も少な過ぎると。」
「衆に抜きんでて優れている方であればこそ、天河十二神も御選びになったのです。ただ池に魚が大き過ぎたということでしょうか。」

 王太子も加わって質問する。会議の席上でこの話は何度も聞いたが、私的な場で問うてみたい事もある。

「では彼の人にとって方台民衆を救うとは、児戯にも等しいことですか。」
「児戯、なるほどそうかも知れません。ですが持って生まれた性格により、全身全霊を傾けて児戯を行っておいでですな。」

「なんと迷惑な!」
 アーゥは思わず声を出した。

 

 10日以上を費やして、ようやくに褐甲角王国の和平に臨む条件が定まった。武徳王の裁可を受けて使節団が結成される。

 和平使節団代表 カプラル春ガモラウグ、副使 メグリアル王太子 暦ィメイソン。
 青晶蜥神救世主担当 ガダン筮ワバロン。
 軍実務協議担当 アーゥ密シム。

 他多数の官僚を伴ってベギィルゲイル村に向かう。
 しかしこの使節団はあくまでも最初の協議を行うに過ぎず、実質の決断は再度の武徳王神聖王の会談の席で行われよう。
 敵も味方も、黒甲枝やギィール神族全体に和平の概念を浸透させ世論を形成するのにかなりの時間が掛るはずだ。
 とりあえず交渉を行っている事実が必要だった。

 その間褐甲角王国は山積する諸問題を手当てしなければならない。
 ガモウヤヨイチャンの不在は人心を惑わし、いかなる方向に情勢が転がり落ちるか予測不能だ。

 迅速果断な解決が要せられる。たとえ犠牲が大きくとも。

 

 

「さあ、悪巧みのお時間です。」

 あやしいゆるやか美人 ューマツォ弦レッツオは言った。
 久しぶりに会った彼女を眩しく見詰め、ガーハルはあごひげを撫でながら問う。

「随分とあちこちの天幕を訪れて居たのだな。どこに行っても聞かれたぞ。」
「これでもガーハルさまの御役に立ちたい一心で務めて参りました。」
「嘘をつけ。」

 最近ようやく分かった事がある。弦レッツオは複雑にものを考えている風に見えて、実は単純な快楽主義者なのだ。
 彼女は過剰な物質を必要としないが、清潔で美しい心地好い暮らしを求める。ただ常人と違うのは、快適な政治生活まで求める所だ。
 故にガモウヤヨイチャンに仕える。
 しがらみの一切無い星の世界からの救世主であれば、地上の汚濁を一切受け付けずに美しく済ませられよう。

 美しい人は、昨日頂いた料理の味を思い出して思わず左の頬に手を当てた。

 元老員達は自分では出し殻ゲルタを齧ってはいても、珍客には十分な御馳走を振る舞う。いや、弦レッツオを呼び止める為に様々に趣向を用意した。
 彼女は元老員がそれぞれに用意する献立を収集し、行き先を決める。
 今日はどこが何を出すから遊びに行こう、と計画を立て、その料理が好きそうな元老員を連れに選んで共に御馳走になる。
 当然彼らはそれぞれ政治的な理念や持論を持ち、訪れた先で議論に及ぶ。妙な共闘関係が成立する。

 弦レッツオに任せると、献立に従って政策が形成されていくのだ。

「イカというものは、美味しゅうございますねえ。」
「イカは、これもまたガモウヤヨイチャンだな。西海の産物であるから、いずれ彼女は西金雷蜒王国にも手を伸ばすだろう。」
「イカを求めてですか?」
「それもあるかも知れん。」

 振り返ると弦レッツオはまたイカを思い出している。よほど昨日訪れたエメモートゥル家の食事が美味しかったらしい。

 王都にあっても最高と評されるエメモートゥル家の美食の趣味は、思いがけない形で世間に広まる。
 弦レッツオは訪ねた先でレシピを教わって『武徳王陛下陣中献立記』なるものを執筆中で、エメモートゥル家の献立は章を改めて特筆する予定だそうだ。
 擬ギィール文学体で記される葉片は言葉の音楽、文字の芸術であり、彼女の才能を金翅幹元老員も高く評価し大いに喜んだ。

 麗々しく記された献立表は、これもまた弥生ちゃんに送られる。報告書を受け取った救世主は目を丸くするだろう。

「…イカか。」
「どうなさいましたか、ガーハルさま。」
「ひょっとすると西の海の向うに我らの知らない国があり、ガモウヤヨイチャンなら行けるのかも知れないな。」

 弥生ちゃんの存在を知って以来、ガーハルはずっと心に引っ掛かるものがあった。
 何故彼の人は方台の生まれではないのか。何故天河十二神は、方台の人間を救い主に選ばなかったのか。

「しかし地理的な知見ではそのような島はありませんが、」
「星の彼方に人が居るのだ、海の向うに居ても不思議はあるまい。いや、互いに行き来の無い二つの世界を結ぶ、別の仲介者が必要なのかも知れぬ。」
「それがガモウヤヨイチャン?」

 考えても結論は出ない。しかし、答えは得られる。
 ガモウヤヨイチャンに会おう。ガーハルはそう決意する。海の彼方の遠い国への旅は、おそらくは聖蟲を戴く者にとっても最高の冒険となるだろう。

 弦レッツオがのほほんとガーハルの妄想を受継いで考える。イカの国、としきりに繰り返す。
 彼女が考える異国はさぞかし美味だろう。

「その国の人はいかなる姿をしているのでしょう。まさか大きなイカが立ち上がって暮らして居るとか。」
「あー、そうだな。イカの聖蟲を戴いているくらいはあるかもしれん。タコの聖蟲があるのだから不思議ではないな。」

 

 

【銀の髪】

 デュータム点救世主神殿に突如出現した古代の女王、紅曙蛸神五代テュラクラフ・ッタ・アクシの扱いは難儀を極めた。
 弥生ちゃんが作った「救世主の玉座」から離れないのだ。

 もちろん強制的な手段で引き剥がすことも検討されたが、額に聖蟲を持ち伝説の彼方から甦った女王にそんな真似が出来る道理が無い。タコ神殿から大神官を呼んで移ってもらうよう懇請したが、取り合ってくれない。
 そこで救世主神殿では解決をデュータム点の軍制局、つまりは褐甲角神の聖蟲を戴く神兵に任せた。
 任された方も困惑する。弥生ちゃん一人でさえ翻弄されたのに、もっと厄介そうな女が相手だ。

 弥生ちゃんはなんだかんだ言ってちゃんと人の言うことを聞く。お願いすればちゃんと動いてくれる。
 人を無闇と傷つけないし、褐甲角王国の面子を保ち救世主の権威を振りかざさない。

 対してテュラクラフ女王は明らかに人を幻惑篭絡する。男を虜とし女を陶酔に蕩けさせる。既に何人もを毒牙に掛け玉座の石壇に無気力怠惰に侍る傀儡としてしまう。

 幸いにもデュータム点の軍制局は先例を持っていた。タコリティにおいてテュラクラフ女王が甦った際には、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンが連日連夜相手をして首尾よく彼女を手懐けたとの噂を聞き及んでいた。
「人物のしっかりした者であれば、神秘的な誘惑の魔手から逃れ正気を保ち得る。」

 だが黒甲枝とて人の子だ。誰が自らの志操堅固なるを保証できるだろう。刀槍の脅威ならば涼しい顔で受ける神兵も、柔らかくねっとりと絡み付く女体には抗し得ない。
 互選の結果、デュータム点で最もカリスマ性の高い神兵が選び出される。

 シメジー銀ラトゥース、27歳。
 彼は10代の半ばに著した書簡集・詩集により一躍天下にその名を知られた英才だ。

 本来その詩集は人の目に触れるべきものではなかった。とある病弱な黒甲枝の娘を慰める為に3年に渡って文通を続けた集積でしかない。哀れにも娘は息絶えたが、彼女の両親は銀ラトゥースの好意に感謝し、書簡を製本し蜘蛛神殿の図書館に奉納した。
 それが読書家の評判を呼び次から次へと借り出され読み回され、写本が幾十も作られて各地に飛び火し一大ブームへと燃え上がる。
 褐甲角武徳王、更にはウラタンギジトの神祭王の目にも触れ激賞されたとの報せは、武人にとってむしろ迷惑だ。だが本人の思惑を無視して事態は転がっていく。

 ちょうどその頃、もう一人カプタニアには若き俊才があった。金翅幹元老員”ジョグジョ薔薇”ことジョグジョ絢ロゥーアオン=ゲェタマだ。歳は彼の方が一つ下、既に王都の人気を恣にし女性たちの熱狂を集めている。

 銀ラトゥースはその対抗馬として担ぎ上げられ、”ジョグジョ薔薇”に対比する”銀椿”の名を与えられる。
 絢爛豪華で非の一点も無い美貌の持ち主、東金雷蜒王国神聖王ゲェタマの血を引くとされる”ジョグジョ薔薇”。
 かたや黒甲枝として日々武芸に精進し軍学を修め、しかし詩文にも表れている通りに人の心を察し慰め癒し勇気づける、強くしなやかな魂”銀椿”。

 彼らと同年代であった少女は身分の差も乗り越えて日々二人の動向を追い蜘蛛神殿に詰め掛け、ネコにお菓子をやって噂を聞こうと涙ぐましい努力をしたものだ。

 その後銀ラトゥースは軍学校を卒業し王都の近衛兵団に入営して指揮官としての訓練を受ける。が彼の文才を知ったハジパイ王が自ら招いて学問の道を勧め、衛視として高級官僚の出世街道を歩いて行く。黒甲枝の名門から妻も迎えた。
 一方ジョグジョ薔薇は神聖宮殿に勤めていた最愛の姉を「足の無いトカゲ」により喪う。悲嘆を振り払うかにソグヴィタル王の唱える「先戦主義」に参加し、東金雷蜒王国侵攻作戦を強硬に推進するも王の弾劾と追放によって立場を失い、今は西岸百島湾海軍の監査役としてカプタニアを離れていた。しかし彼は、神聖宮殿よりのたっての願いを受けて武徳王の末の姫君と婚約したとの噂も流れている。

 

 その”銀椿”、現在は一房目立つ白い髪から”銀の髪”と呼ばれる、はハジパイ王の指示を受けてデュータム点にあった。
 ガモウヤヨイチャンの入城で揺れる民衆を統制する役目を負う。またここを拠点に発足せんとする青晶蜥王国を阻止するひそかな活動を続けている。

 立場上、テュラクラフ女王に接遇する十分な根拠が有る。故に彼も任務を避けなかった。
 半裸の男女が冷たい床に寝そべる隠微とも見える祭壇に、彼は無言で歩んでいく。賜軍衣に細い剣のみを吊るす軽装で額の黒いカブトムシも露に、紅曙蛸神の女王と対峙する。

 女王は本を読んでいた。封板に挟まれた葉片の分厚い束がなんであるか、彼は直感で知る。
 白い顔を上げて、古の女王は微笑んだ。間近で見ると小さな人だ、子供と見間違えても仕方がない。だがその肌のぬめり、馥郁と立ち篭める香りはまさしく誘惑の美神。

「…哀しい、愛おしい、稚い恋の詩だ。このようなものを文字で記す時代となったのだな。」
「拙いものをお読みいただき、恐悦至極に存じます。」

 女王は身を起こし巨大な壁に穿たれた石の玉座に座り直す。この椅子は弥生ちゃんの為に作られたものだが、どうして2メートルの巨人巨漢が座れる大きさで設計されている。
 右手を差し出すとほぼ全裸の女が一人立ち上がり、気怠そうに詩集を預かった。本を抱きしめ頬擦りし、そのまま下がっていく。

 どのような力で人を従えているのだろう。あれは以前会ったことの有るトカゲ巫女だ。先日まではガモウヤヨイチャンに全霊を挙げて仕えていたはずの彼女が、こうも簡単に篭絡されるとは。

 テュラクラフは眼前の男を越えた遥か先、壁の向こうの地平線まで透かす眼差しをする。薄紅の唇を蠢かす。

「汝の願いを聞き届けよう。」
「願い、わたくしのですか。」

 そういうつもりで来たわけではない。ハジパイ王の進める王国内部の引き締めに支障となる要素を抑え込むのが、彼の役割だ。テュラクラフ女王にはなにもしてもらいたくない。
 だが最初の救世主、紅曙蛸(テューク)神の聖蟲の能力を知っておくのは不利益にはならない。

「願いとは、なんでも叶うのですか。人の生き死にや過去の結果をやり直すなど。」
「それが真の望みであれば、叶えよう。」

 ありえない。だが、銀ラトゥースははっと気が付いた。
 石壇の上に裸身で這い回る男女は皆、己が望みを叶えられたのだ。無論現実の事象としてでなく幻想の中で。
 おそろしい力だ、背中に冷や汗を覚える。
 この能力を用いれば方台全土を平らげるのにさほどの時間を要しないだろう。

 紅曙蛸女王の治世は、今の世にほとんど伝わって居ない。
 初代救世主ッタ・コップは人に火を自由に操る技を授け、方台に文明をもたらした。農耕を教え交易を行い、増え過ぎた人間を餓えから救い出す。
 これは理解出来る。また記録も多数残って居る。表音文字「テュクラ符」を作ったのもまたッタ・コップだからだ。

 しかしそれ以外の紅曙蛸女王がなにを行いどのように人を操ったのか、まったく分からない。
 歴史を辿る者は五里霧中、夢の中を彷徨う困難に陥ってしまう。再び色を回復するのは、創始暦2561年に起きた五代テュラクラフ女王の失踪以降だ。

 その謎を銀ラトゥースは知った。紅曙蛸王国では人は夢の中に生き、果てていた。

「わたくしは夢を好みません。現在は理性の時代です。冷静かつ客観的に物事を見据え考え世界の道理を説き明かし、その知恵を集積し多数が分かち合って前進する、そのような世界です。」
「ならばガモウヤヨイチャンに従うが良い。あの人は理性の支配の行着く先、知恵に基づく所業の果てる地平をよく存じている。」
「青晶蜥神救世主を御存知ですか。」
「知る。」

 歴史書には、額にタコの聖蟲を戴く女王は目で見ず耳で聞かずその場に居ない、これから起こるはずの物事を何故か知っていたと記してある。故に「巫女王」と呼ばれる。
 一面識も無いはずの星の世界からの救世主を知っていてもおかしくない。

「ではわたくしの真の願いも、もしや知るのではございませんか。」
「知っている。小さな願いだ。自分の力で成し遂げるのに誰も疑いはしない。超常を必要としないから、おもしろくもない。」

「褐甲角王国の行く末を案じ何も起こらぬ平穏無事を目指します。今日は、テュラクラフ女王陛下に御自重をお願いいたしたく参上仕りました。」
「それを望まぬ者も多数ある。妾はいかにすべきであろうな。」

「お望みのものをお言いつけ下さい。褐甲角王国が万難を排して、女王陛下のご希望に応えます。」

 テュラクラフは目を細め、冷たく銀ラトゥースを睨んだ。我欲を表に出さない者はお気に召さないらしい。そして彼の背に、その場に居ないはずの影を見出す。

「妻か。よほど出来た女子であるのだな。妾の誘惑の触手を良く防いでおる。」

 予想外の言葉にさすがに銀ラトゥースも動揺した。
 テュラクラフが放つ幻惑と香りは、気を弛めると致命の毒となる。僅かの隙を衝いて容易く人を篭絡するのだろう。
 彼は遠くカプタニアに置いて来た妻の姿と声を思い出し、態勢をようやく立て直す。

「お褒めに預り、恐縮です。」
「一つ土産を取らそう。予言だ。」

 銀ラトゥースは表情を変えない。どのような不吉な予言でも受け止められる、その確信がある。
 方台は動乱の中にあるが、褐甲角神の信義と契約の精神があればどのような苦難にも王国は耐え得る。
 デュータム点に来てガモウヤヨイチャンの足跡を辿った末に得た、彼の結論である。またこれは弥生ちゃんが褐甲角王国に求めるものだ。

「汝の後見人、カブトムシ神の王ハジパイはガモウヤヨイチャンの復活と共に敗北する。」
「敗北? 王の位を追われますか?」
「驚く事はあるまい。もう歳だ、引退してなんの不思議があろう。だがそれは敗北の形を取る。」

 ハジパイ王の敗北、それは元老院において先政主義派の崩壊を意味する。現在までの王国を支え平和を維持して来た枠組みが壊れるのだ。
 そこに銀ラトゥースの目指す平穏はあり得ない。

「お言葉ありがたく頂戴し、王都カプタニアにお届けします。それでは本日はこれにて下がらせていただきます。」
「うん、明日も来るが良い。夢の腕に包まれるまで、幾度でも。」
「幾度でもお尋ねし、無事に帰ります。我が妻の元に。」

「うん。」

 

(後篇に続く)

 

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