ゲバルト処女
エピソード5 天下泰平火事ぼうぼう、弄せずして果実は掌に転げ落ちる

後篇

 

 

第七章 問われる者の名を、問う者は知らず

 

「わたしじゃないぞ。」

と、イルドラ丹ベアムは言った。妹の様子を不審に思い、ギィール神族イルドラ泰ヒスガパンは尋ねる。

「誰に向かってものを言っている?」
「いえ、こちらの話。」

 イルドラ家の二人の若き神族は、百年以上前から伝わる古式めいた甲冑を着用する。黄金張りではあるが七宝で飾ったりはせず、実用本位とさえ言える無骨なものだ。防御力には定評がある「兵刃態様」と呼ばれる様式で、当世の流行ではないが激戦著しい今次の大戦において随分と役に立っている。

「わたしであればカエルなどという無意味貧弱なものを戦場に連れて来たりはせぬ。だがどうだ、このうすのろ兵の目の愛らしいことは。」

 最近の丹ベアムのお気に入りは、うすのろ兵だ。
 身長2メートル、脹れ上がる筋肉の塊で怪力のみが取り柄のうすのろ兵は、能力に反して威圧感を他に与えない「大きな赤ん坊」だ。

 以前の獣人はまったく人道から外れた哀れな化け物であった。全身に鋲を打って装甲を埋めこみ刃を生やし、毒への耐性を与えて肌を紫色に変色させかさぶたで脹れ上がり、その上過酷な訓練と運動で筋肉の肥大と戦闘力の強化を図る。始終覚える苦痛も神経の一部を毒で破壊し麻痺させる処置までして運用した。
 戦いの意味も知らず勝利の喜びも覚えず、ただひたすら盲目的に服従する機械に等しい。

 うすのろ兵はこれと正反対の発想で育成されている。
 薬物で筋肉を肥大させ思考力を低下させるのは同じだが、肉体に外科的変更は一切加えられず苦痛を伴う薬物投与、更には危険な戦闘訓練も行われない。使役するのに鞭を使ったりもせず、人の言葉でそれが役に立つ事だと教えて働かせ、喜びを覚えて自発的に従うように訓練される。
 戦場における恐怖もあえて取り去ろうとはせず、神族やゲイル、兵と共に在る事で安心感を得る調教を施される。故に脱走せず、戦闘技能を知らないので反抗もしないから運用コストも低く押さえられ、おまけに寿命も長い。非常に扱いやすい「家畜」に仕上がっていた。

 こうして出来たうすのろ兵は一般人が見ても親しみ易い無害な印象となる。
 人が行うには過酷過ぎる重量物の運搬や土木作業を楽々こなす彼らは、奴隷兵達に絶大な人気となり親しみをこめて遇されている。言語は発しないまでも意は解するので、良好な人間関係を築く事すら可能なのだ。

 というわけで、可愛がってやるとちゃんと反応するうすのろ兵は丹ベアムの直ちに注目する所となり、戦場の無聊を慰めるおもちゃとなっていた。

「ベアムよ、あまり遊んでないで作業に戻してやれ。総攻撃がもうすぐ始まるのだ。」
「兄上、そうは言っても敵地での工作は剣令剣匠に任せておくべきものです。神族たる者、奴隷達の前にあっては忙しく動き回り余裕が無い所を見せるべきではありません。」
「だがうすのろ兵をくすぐるのはやめよ。」

 ネコジャラシに似た草で裸のうすのろ兵のあちこちをこちょこちょと突き回してむずかるのを楽しんで居た丹ベアムは、兄の言葉にしぶしぶと止める。ちょこんと御辞儀をして巨大な赤子は奴隷兵の中に戻っていった。

 

 泰ヒスガパンには妹が遊び惚けている理由も分かる。

 この戦争、彼らが出征前に考えていたものよりもずっと大きくなっていた。滞在期間も通常の寇掠軍の倍となり当然出費もかさむし財物を略取して足しにも出来ない。どの寇掠軍でも財政的な打開を図る策を必要とした。
 しかし、単独の隊では出来る事に限りがある。幾つもの寇掠軍の連合が役割分担を行い互いの負担を低下させていけば、どこかに面白からざる雑務を引き受ける部所ができてしまう。

 イルドラ兄妹が所属する寇掠軍『永遠の護手との邂逅(ウェク・ウルーピン・バンバレバ)』は、現在そういう位置付けにある。無論雑事は剣令に任せておけば済むわけで、ゲイルと神族は暇になる。退屈しのぎにうすのろ兵をからかうのも仕方がない。

「そうだ、ベアム。お前が出征前に企画していた色刷りの版画だが、帰ったらまた作らないか。戦場の情景を描いて売りつけるのだ。」
「兄上、それは良きお考え。なるほどこの戦争の実相を知らしめる努力は必要です。絵集として世に広めれば、後世に戦をしのぶ手蔓ともなりましょう。」

 イルドラ丹ベアムは出征の少し前に、七色の版を使った色絵集を売る商売を考えていた。プレビュー版青晶蜥神救世主ッイルベスに聞いた星の世界の様子を素敵な絵物語にして、物好きな神族に売りつけるつもりだった。この試みは勃発した大審判戦争で頓挫したが、アイデア自体になんの問題も無い。

 丹ベアムは兄の言葉にしばし考える。

「そうですね、我らは単に戦って勝てばよいというものではありません。後世に詩で謡われる華々しくも美しい荘厳にして偉大な戦をせねばなりません。そうは思いませんか?」
「そのような考えは死を招く元ではあるが、神族たる者己が姿を常に歴史に鮮やかに刻みつけねばならぬ。他の神族もそうだ。」

「兄上!、販路はそれです。今回の戦に赴いた神族全てに売りつけましょう。出征の記念品として。」
「ううむ、我が妹ながら恐ろしい奴。では錫箔ではなく金箔を押した極彩色戦絵として、一揃い10金ほども取れるな。」
「百の神族に売れば千金となり、出征に要した費用を取り戻して倍も余ります。他に思いつく者が出ぬ前に手をつけておきましょう。」
「では。」
「善は急げ。私は他の隊を回り、注文を取って参ります。兄上はどのような絵を描けばよいか考えておいてください。その情景の通りの戦さ場をこしらえましょう。」
「ベアムよ、注文を取った神族の顔をしっかりと覚えて来るのだ。誰も皆、自らの顔が載った絵であれば、買わざるを得ぬからな。」

 ギィール神族というものは利に聡く、儲ける事に禁忌を覚えない。神が互いの威を賭けて争う聖なる戦であっても、あらゆる局面において金儲けの手段を考え実践していた。この柔軟性こそが金雷蜒軍の強味である。

 

 泰ヒスガパンはまず上将ガブダン雁ジジに会いに言った。寇掠軍『ウェク・ウルーピン・バンバレバ』で形式的に指揮官を務める彼は50代の遠征経験豊富な神族であり、泰ヒスガパンが言う「絵になる戦闘」の概念もすぐに理解する。

「言われて初めて気付いたな。我らは此度の戦、ただ勝てばよいものではなかった。褐甲角(クワアット)神にも青晶蜥(チューラウ)神の使徒にも優る地上の支配者と、万人に認めさせる必要があった。」
「故に、現在の連合の方針は多少の修正が必要と思われる。上将はいかにお考えか。」
「奴隷共を蹴散らして出血を強いる方針はたしかに効果的だが、却ってガモウヤヨイチャンへの求心力を高めるとも思われる。絵になる戦とは、金雷蜒王国に対しての信望を集める手段と考え互いに諮るべきだな。」

 雁ジジの側で無聊を慰めて居た蝉蛾巫女エローアは、神族の話に口を挟む身分には無いが思わず懸念して言う。彼女は何回も寇掠軍に参加して、戦争の実態を初陣のイルドラ兄妹よりは知っている。

「ですが、危険が増すのではありませんか。殿様方の御命を損なう怖れが倍に増します。」
「エローアよ、それも込みでの話だ。我らの命の幾つかも天に捧げずしては、美しき伝説とは成り得まい。」
「僭越、御無礼いたしました。」

 雁ジジに諭される巫女を見て、泰ヒスガパンは尋ねる。神族の叙事詩を歌う巫女ならば、いかなる情景が最も人の心を揺さぶるか知るだろう。
 本業についてであるからエローアはかなり熱心に考える。不用意な話をして神族の命を危険に曝すのは本意ではないが、遠慮した答えは逆に彼らの怒りを買う。

「やはり、強き敵に一騎で立ち向かうのが戦記物の常道です。美々しき若武者が手傷を押してなおも戦い遂に勝利し、美しき姫の懐の中で死んで行く筋書きは、古今最も喜ばれます。」
「若くなければダメか。」
「これは! 雁ジジさま、御許し下さい。」

 雁ジジはエローアの言う情景を思い浮かべ、現実にあてはめて考える。

「或る程度敵の強さを引き出すのも演出だ。仮に負けて見せて後退し、罠に陥れ殲滅する策が面白かろう。そうだな、儂が単騎にて突出して敵に追わせ、貴殿等が囲むというのはどうだろう。」
「殿様、御戯れを。」
「いや上将たる者、後進を育てる役回りも受けねばなるまい。あえて前座の任を務めるのも忍ぼうぞ。」

 

「なに上将を? それはダメだ。全騎平行に追撃されている状態で、速度を利して後続を切り離し神兵だけを吸い出して殲滅する。これが最良だろう。」

 次に話を聞きに行ったキシャチャベラ麗チェイエィ、妖艶な25歳の女神族は雁ジジの案を一蹴する。これは常識論で、既にベイスラの国境線は非常に高い水準の防衛線が敷かれており、かってのような単独潜入は不可能となっている。

「絵になる戦か、その必要は認めよう。だが今回の戦、私は兵ども、剣令剣匠をこそ真の主役と睨んでいる。」

 常日ごろは男漁りに精を出し泰ヒスガパンの寝屋に忍んで来ては丹ベアムに殺されかける彼女だが、見つめる瞳は透徹として時代の核心を貫いた。

「考えてもみよ。この戦、誰が始めた。我らではない、フンコロガシ(褐甲角王国のこと)どもでもない。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンだ。アレは民衆の欲するままに方台を塗り変えようとする。金雷蜒褐甲角両神が毒地で互いに果てるのも、突き詰めて考えれば奴隷共の欲求に合致するのではないか。」
「では、剣令剣匠奴隷兵どもにも見せ場を作らねば、今の時代を正しく表現する物語にはならないと、」
「私はそう考える。
 だが別の側面からしてみるとだ、彼らに払うべき金が無い。そなたらの家ではどうだ?」
「む。御恥ずかしながら、確かに我が家も報賞が十分に確保できるか心許ない。」
「最終的には三荊閣家のどこかに金を借りるしかないだろうが、物質的報酬が少ないとなればせめて名誉は与えねばなるまい。」

「もしや、貴女は効率良く奴隷の頭数を減らして、報賞の総額を減らすおつもりか。」
「そこまで非道ではない。この戦限りであればそれも良いが、二度三度の遠征もあるやもしれぬ。出来ぬよ、それは。」

 ついでに言う。
「その絵物語だが、性的な場面が挿入されたりはしないのか? 戦場における色恋の情景は物語の定番だろう。」

 

 残り二人の神族カマートラ椎エンジュとチュガ輩インゲロィームアは、例によって仲良くゲイルの世話をしている。
 彼らの騎乗するゲイルには特別に天蓋が設けられ、上から落ちる矢を防ぐ事が出来る。この形状の騎櫓は大審判戦争で初めて用いられる新兵器だ。

 カマートラ椎エンジュは尋常の男性の神族だが、チュガ輩インゲロィームアは背の低い異形の、奇形的な発育をした人物だ。ゲイルとの親和性が異様に高く、蟲と人とが一体化したと思わせる卓抜した操縦技能を備えている。癇の強い性格で、同性の恋人である椎エンジュが周囲をなだめて回るのに苦労する。

 話は主に椎エンジュがする。カエルに似た相の輩インゲロィームアは口腔内で舌がうまく回らず喋るのが苦手だ。意図がうまく伝わらないのでいつも癇癪を起こしているらしい。それでいて醜くはなく、真っ白な肌に透けるほどに青い瞳が天を映し、天界の御使いを思わせる。

「キシャチャベラ殿が兵を優先させよと言うは、正しい。我らはもっぱら監督のみに留め、雑兵相手の手柄はすべて兵に与えよう。とはいえ神兵を殺さねば格好は付かぬ。」
「だが遭遇戦では我らの危険が大きく成り過ぎる。絵的にも美しいとは言えまい。」
「的を選ぶべきだな。潜入する物見に都合の良い神兵を見繕わせて、確実に罠にはめて絵のように殺す。これがよかろう。」

「”名の有る者を選ぶべきだ。”」

 泰ヒスガパンは素直に輩インゲロィームアの助言に礼を言った。

 

 イルドラ家の天幕に戻り、剣令達の意見も聞く。
 しかし問われた彼らは大いに戸惑い、容易に口を開かない。困った泰ヒスガパンは別の切り口で話を続ける。

「それでは、この大戦の記録となる絵図を作って頒布なさるのですか。」
「うむ。神族の姿のみならず、剣令剣匠に奴隷兵までも描かれる事となろう。」
「なんと有り難いことでしょう。我らがここで果てたとしても、神族に魂を捧げた武者として末代までも崇められます。」

「であるからには、より良い形で描かねばならぬ。御前達剣令としては、いかなる敵を望む。」
「やはり、黒甲枝の神兵かと。」
「神兵は神族の獲物としよう。他を言え。」

「されば…、出来得るならば、敵国の民衆を救い出し世の為となる場所での働きを望みます。」
「おおそれだ! 今民草は何を求めている。」

 剣令達は互いに協議し、或る結論を導き出した。

「農地を持ち正しい褐甲角王国の民と認められる常民と、各地を流離う難民とでは望みが違います。我らはこの難民を助けたいと存じます。」
「具体的にはなにをすればよい?」
「やはり農地を与えるのが最良と考えますが、既存の農地はすでに常民に与えられていますので、」

「造作もない。一村丸々常民を追い出せばよい。此所ベイスラにおいて難民を処分する主体は誰か。」
「今次大戦において難民の存在は邪魔になると見定めて、南に移送しております。この長は、」
「カロアル某という兵師監だな。ふむ、これを打ち砕けば難民行政は多大な混乱に陥る可能性が高い。」
「殿様方にふさわしき御敵と存じます。」

「うむ、下がって良い。」

 剣令が下がった後、団扇で主人を仰いでいた狗番に泰ヒスガパンは尋ねる。猛暑の中でも山犬の面を律義に被る彼らは、改めて主の前に並び頭を下げる。イルドラ家では4人を召し使うが、一人は丹ベアムが連れて行った。

「どう思う。」
「我が主よ。褐甲角王国の兵師監を戦場に討つは、百年前の大戦にも聞かぬ壮挙でございます。」
「我が主よ。首尾よく成し遂げればイルドラの家名は方台に鳴り響きましょう。」
「悪くない話だ。」

「我が主よ。先程の剣令達の話には抜けているものがございます。難民どもは金雷蜒王国の支配より脱した裏切り者でございます。なにほどかの罰を受けねば帰参は叶いませぬ。」
「よくぞ申した。されば難民に触れを出してカロアル某を釣り上げる策を手伝わせよう。」

 

 夕刻、神族達は上将雁ジジの天幕に集う。折りよく丹ベアムも他の寇掠軍の宿営地から戻って来た。兄の姿を見て顔をほころばせる。

「兄上、37名の申し込みを受けました。首尾よく行けば遠征費がそっくり稼げます。」
「それだが、剣令達も欲しいと言っている。錫箔を押した簡易なものもつくろうではないか。恩賞の代りになろう。」
「なるほど、彼らに報いる分の少なさをそれで補えますか。」

 雁ジジの天幕の側では麗チェイエィが自ら夕食の支度を行っていた。寇掠軍の食事は、神族が交代で腕を揮い他の神族に振る舞う風習がある。二児の母である彼女の作る料理は、その性格から想像できない繊細さと優しさを持つ。
 イルドラ兄妹の顔を見て、口が耳まで裂ける怪しい笑顔を向ける。

「西から来た”商人”から卵を買った。故に卵料理となる。」
「寇掠軍で卵とは、いかにも珍しいな。」
「救世主の顔を描いた円貨のおかげだ。ばらまいたアレが功を奏し、ベイスラ地方の経済を根底から揺さぶっているぞ。物資もこちらに流れて来る。」

 泰ヒスガパンは雁ジジが設けた自らの席に就き、妹も交えて先程の襲撃の計画を相談する。

「兵師監カロアル某に狙いを定め難民に釣り出す手伝いをさせて、討つか。ううむ。」
「兄上、それは実に野心的な計画だ。単に敵を脅かすのみならず、我らの武名が高らかに響き渡るぞ。」
「上将はいかが思しめさる。これならば絵物語としても十分に価値があり、我らの戦力でも不可能ではないと考えるが、いかが。」

 左脇に座り夕餉の前の歌謡を楽しんでいた雁ジジは、蝉蛾巫女の顔を見る。
 エローアは白い顔を上げて不安そうに見つめ返す。常人であれば一軍の将を直接に討つなどは考えも及ばない。ただ神族の身を気遣うばかりだ。

「イルドラ殿、儂には何一つ異存は無い。我が生涯においても最大の戦果となろう。」
「兄上、我も兵師監に矢を突き立てたいぞ。いや、彼の重甲冑を引きずって故郷に戻ろうか。」

「なにやら面白い話をしているな。兵師監か、それは大物だ。」

 料理を仕上げた麗チェイエィが天幕に入って来る。給仕はそれぞれの狗番が行うのだが、その前に合同で毒見をする。寇掠軍におけるギィール神族の死因の第一は「暗殺」であり、仲間内での暗闘こそが真に恐るべき敵だ。

 麗チェイエィも、遅れて入って来る椎エンジュ、輩インゲロィームアも天幕の内の話をちゃんと聞いていた。彼らの額のゲジゲジの聖蟲は空気の振動を読み取るので、その気になれば知覚の範囲内全ての人物の会話を知る。
  椎エンジュも頭から賛同する。

「兵師監カロアルとは良い所に目を付けた。彼は一軍の将とはいえ難民を主に取り扱う為に実戦部隊を掌握しておらず、麾下に神兵も少ない。最前線には出ていないが、難民暴動を兵力の乏しい地域で起こしてやれば必ず自ら鎮圧に乗り出す。」
「彼は難民取締まりにおいて実績の有る人物と聞く。これを殺せば制限が薄くなり、毒地から援軍を送って難民の勢力の拡大も図れよう。」

 麗チェイエィが流し目で合図をして、それぞれの家の狗番が己の主の前に料理を載せた小卓を運んで来る。

 美しい色絵の皿に盛られた料理は4品、メインとなるのは水鳥の卵に刻んだ香草を溶き、油を含ませてふっくらと焼き上げた「ム」の字型の卵焼きだ。周囲にシクラ(陸棲イソギンチャク)のソースが掛っている。シクラは馥郁とした香りで森の食材の王として珍重される。かなりの身分でないと口にするのを許されない。
 大山羊の肉を煮込んで缶に封じ込めて後方から届けさせたシチューもある。缶詰は弥生ちゃんが毒地を旅する際に初めて用いたのだが、いつのまにかギィール神族の間に製法と利用が広まって、今次大戦において非常に有益に用いられている。
 香の物、漬け物は十二神方台系においても盛んに食される。保存食としてはもちろん、発酵して風味を増した食材は各神族に秘伝があるとされ、家ごとの違いを知るのも寇掠軍の楽しみである。
 もちろん旅の空の下では当然に供されるゲルタの粥もあった。ゲルタに関しては神族も狗番剣令、奴隷兵の区別は無い。美味いものではないが塩をたっぷりと纏うゲルタは夏場の肉体労働に欠かせない。

 神族全員の前に支度が整った所で、上将雁ジジが食前の講評をする。普通は毒が入っていない事を証すだけだが、今回彼女の料理に関しては特別に言葉を添えた。

「今日の料理はいかにも芸術的に仕上がっている。見た目に美しさを追求するとは、今までに無い趣向だ。この意図はなにか。」
「イルドラの妹姫が青晶蜥神救世主の名代から聞いた、星の世界の料理についての話を我なりに再現したもの。ガモウヤヨイチャンの国では味のみならず美しさもまた高く評価されるという。その観点に立てば、なるほど方台の料理はつまらぬものが多かった。反省せねばなるまい。」

「イルドラ姫、そなたはそれを知りながら再現せぬのは何故だ。」
「お恥ずかしい限り、我が手腕ではそこまでの配慮が行き届かぬのみにて御無礼つかまつる。」
「うむ、次の馳走を期待しよう。」

 表情を微塵にも動かさぬが、とんでもない宿題を押し付けられてしまったと丹ベアムは麗チェイエィを恨んだ。兄への誘惑をことごとく邪魔した仕返しに違いなかった。

 

「兄上、ジムシが戻ったようです。」

 イルドラ兄妹は自らの天幕に戻り休もうとした際に、スガッタ僧ジムシが潜入工作から帰還したと知らされる。

 ジムシは寇掠軍『ウェク・ウルーピン・バンバレバ』において特異な地位を占めていた。そもそも彼は奴隷ではない。金雷蜒王国の法では奴隷でない者は法的保護の対象外で殺しても捕まえて売っても良いのだが、意に介さず彼は従っている。

 スガッタ僧は生きながらに天河の冥秤庭にあるとされ、命をまったく惜しまぬ者だ。彼らは日々過酷な鍛錬と修行を積み重ねるがこれは生きる為ではなく、地上に在って最も過酷で常識を外れた死を求める故なのだ。尋常の運命では尋常の裁きにしか遭えないと心得る。

 ジムシも教えに忠実に従うが、独自の道を思い定めて今回の大戦に従軍していた。神人との対面だ。

 天河の十二神より不死の運命を授かり、戦場にあって聖蟲を戴く武人の死を見届けるとして知られるコウモリ神人。彼との遭遇はギィール神族にとっても希有の体験であり、占いによって我が隊で叶うと告げられてはジムシの参陣も断れない。『永遠の護手との邂逅(ウェク・ウルーピン・バンバレバ)』という寇掠軍の名もこれに由来する。

 

 イルドラ家の天幕の前に土埃に塗れたままのジムシが跪く。天幕の帳は下りたまま、狗番が彼の前に主の代理として立ち塞がる。スガッタ僧風情にわざわざ神族が姿を見せるまでもない。

 彼は戦場にありながらも防具を身に纏わず、灰色の僧衣と作業に用いる小刀をぶら下げるだけだ。もっぱら素手での格闘を行いその道では頂点を極めているのだが、矢石が飛び交う戦場ではあまり役に立たない。超人的身体機能を利用して情報収集を行うも、彼の関心は神人にばかり傾くので当てにはならない。

「ジムシよ。此度我らは新たなる敵を標的とした。ノゲ・ベイスラを護り難民を南に移送する任を受けた兵師監カロアル。これを罠に掛けおびき出して討つ。」
「なんと、兵師監を直接お狙いになりますか。」
「単なる神兵ではなく、無辜なる民衆をその身に換えて守らねばならぬ重責を担う者だ。これを討てば神人の憐憫に触れるだろう。」

「おお、それこそ。それこそがまさに神人様をお招きするにふさわしい贄でございます。」

「お前はこれより再び国境を越え、祭祀を用意するのだ。」
「早速に立ち戻り、支度を整えます。」
「構えて言うが、この獲物は我が寇掠軍にて捕らえたい。他言は無用ぞ。」
「心得ております。さりげなく他の隊の剣令などを使役して、殿様方の御為の狩り場を整えます。」

 休む間もなく宿営地を離れるジムシを、天幕から出た丹ベアムは渋い顔をして見送った。彼女はこの得体のしれない男が大嫌いで、狗番に命じて近づけない。

 陽に焼けた禿頭に血管が浮き出て、筋骨はコブの生えた枯れ木のよう。ギィール神族も聖蟲でさえも価値が無いかに瞳は遥か遠くを見つめ、慇懃無礼に命令を歪曲して勝手な行動を取る。話す言葉は抹香臭いし、神族の合理的な目にはひたすら無駄に思える修行に日々精進するのも癇に障る。

「兄上。あの者も絵物語に描かねばならないのでしょうか。」
「あのような奇っ怪極まりない僧侶は、芝居においては欠かせない役所ではないのか。」

「そんな腐れた物語は火にくべてくれよう。」

 あらぬ方向を苦々しげに見つめて毒を吐く妹に、泰ヒスガパンは言った。

「ベアムよ、誰に向かって話をしているのだ?」

*** 

 

「兵師監、穿攻隊のサト英ジョンレ様より照会のありました”カエルを偏愛する神族の姫”の身元が判明しました。」

 ベイスラ県の中核都市ノゲ・ベイスラに設けられている防衛司令本部に、難民移送団司令部もある。カロアル羅ウシィ兵師監の指揮の下、主に一般人の剣令を用いて作業を行っていた。

 司令本部が置かれた建物はノゲ・ベイスラで政庁として使われている砦で、分厚い土壁がカタツムリの殻のように巻いて積み上がり、随所に武者隠しの洞も設けられゲイルのよじ登りにも対処する工夫がされている。
 土壁の建物は夏場は降り注ぐ日光を遮断してひんやりと涼しく、冬は暖房の熱を閉じ込めて効率良く温める。風の通り道も巧妙に確保されている為に、中に居れば暑さを感じる事も少ない。

 だが砦は人の熱気で溢れかえっていた。
 大審判戦争は当初の見積もりを大きく越えた規模に拡大した。ベイスラの定数3000人の兵員が倍にも脹れ上がり、聖蟲を持つ神兵も予備と衛視を含めて30だったのが50名にまで、穿攻隊として更に100名も派遣された。神兵は確かに無敵の強さを誇るが効率的な運用には通常の兵よりも手厚い支援が必要で、これだけ数が増えれば物資の確保と輸送に過剰な負担を強いる。

 補給の要であるノゲ・ベイスラには軍官僚や役人税吏が多数詰めており、更に難民移送団司令部までも抱え込んで戦場をも凌ぐ喧騒の中にある。

 

「お、神族名鑑に記載があったか?」

 カロアル羅ウシィは45歳、今次大戦にあって将と呼べる位の兵師監へ昇進し、難民移送団司令に就任した。彼は長く治安関係の部所にて難民の武装集団や盗賊団の取締まりに携わって来た人物で、功績を認められ難民対策の抜本的解決を任された。つまり、王都カプタニアや最前線ヌケミンドルに居る多数の難民をすべて退去させ、南の涯イロ・エイベント県イローエント市に収容する。

「はい、去年のギジシップでの聖戴式の公示で、女子最年少で聖蟲を戴いてます。二人だけで一人は諸派の姫、もう一人が三荊閣ミルト宗家の末の姫、17歳。これです。」
「ミルト宗家が寇掠軍を出しているのか…。」
「ミルト家と言えば主に北部ボウダン街道に権益を持つ三荊閣と思っていましたが、南部にまで出征するのですね。」

 羅ウシィに対するのは、神兵ハギオトロ環マセマシュ。聖蟲を授かったばかりの21歳で重甲冑の習熟訓練中であった為に前線への派遣は見送られ、難民移送団に配属された。黒甲枝の将来は最初の配属であらかた決まり、彼はこの先治安維持や難民処理にもっぱら関るだろう。

「ミルト家は金雷蜒王国の裏切り者とさえ呼ばれる武器商人で、褐甲角王国に弩車や神兵用甲冑の部品を卸しているからな。自ら売った商品の威力を味わいたくはない。にも関らず寇掠軍を出すのは、それだけあちらも本気というわけだ。」

 羅ウシィは兼任でノゲ・ベイスラの都市防衛隊長も務めている。ノゲ・ベイスラは春先に寇掠軍の長駆進攻を受け、防衛隊長自らが撃退するかなり不名誉な経験をした。その後始末で寇掠軍の手引きをした難民武装勢力を追討し、王都中央に組織的抜本的な対策を進言したのも彼だ。

 寇掠軍に出征してきた神族の顔ぶれを見れば、作戦の概要も規模も或る程度掴める。防衛隊長としては当然の関心事であるが、ノゲ・ベイスラは春の攻撃の反省から過剰なまでの防衛線に護られて、実質やる事が無い。

 よって、彼はベイスラの全権を預かるスバスト兵師大監に難民移送の任務に専念したいと申し出て、了承された。

 

「で、どうでしたか。」
「ああ、スバスト様が都市防衛隊を直接に指揮なさる事に決まった。これでノゲ・ベイスラを出られる。」

 ハギオトロはこの答えに安堵のため息を漏らした。彼は神兵として戦う為にベイスラに来たのに、これまで一ヶ月ずっとこの砦に閉じ込められ雑用に類する事務処理ばかりをやらされ焦っていたのだ。

 だが難民を巡る情勢は混乱を極め異常な緊張状態にある。現在難民の多くはベイスラとエイベントの県境付近に集中して滞在するが、ここより先に進めない。

 原因はにわかに判明したイローエント市の軍中枢部への人喰い教団の浸透と西金雷蜒王国の工作活動だ。誰もが疑わなかった黒甲枝の王国への忠誠が砂上の楼閣のごとくにわかにゆらぎ、互いが疑い合う泥沼へと転じている。難民移送を支援するはずのイローエント衛視局は内部監査に明け暮れてまったく機能せず、羅ウシィに先乗りして環境を整えておくはずの副官ビジョアン榎ヌーレが一人で収容所建設に奔走していた。

「そのビジョアン様からの報告書です。」
 ハギオトロが差し出す葉片の束を羅ウシィは立ったまま検分する。中には悲鳴にも似た副官の陳情が切々と綴られている。

 なにより兵の数が足りない。彼はクワアット兵30邑兵200を率いているが、この程度ではイローエント市西に建設中の収容所を警備するのが精々で、受入れ体制の構築にはまったく至らない。脱出した難民や荒野に散った武装集団の討伐はイローエント南海軍が陸戦隊を出して当たっているが、タコリティ周辺には独立宣言と共に多数の艦船が集結し、東金雷蜒海軍からも応援が続々と詰め掛けていて、迂闊には動けなかった。

「榎ヌーレは一度撤退させて、エイベントに収容所を改めて建設する方が早いな。」
「しかし、そんなことをエイベント側が許すはずが、」
「移送中の仮宿営地として家屋を建設せず天幕のみとすればいい。事務局でも検討済みだ。この悲惨な報告書があれば審査を通る。」

 

「カロアル様。」

 廊下にある羅ウシィを見て50代の一般人剣令が駆けて来る。彼は羅ウシィと共に長年治安対策に励み、特別職を得てこの歳まで王国に仕えている。今回羅ウシィの特命を受けて、ベイスラ・エイベントの前線に配置されていた邑兵部隊を確認に行っていた。

「ご指定のありました30の邑兵隊を後方に下げて、警戒部隊に組み入れるのに成功しました。」
「ありがたい! それで取締まりの半分はなった。」

 各村に置かれた邑兵隊は、クワアット兵出身者を隊長として通常は周辺の治安維持に当たっている。中には警察業務に特化した隊もあり、犯罪取締まりに多大な功を成していた。
 彼らは優秀であるが故に今次大戦においても最初から動員され前線へ投入された。これを引き戻し治安維持に当たらせるのが羅ウシィの構想で、兵師監の位を授かり権限を手にするまでの空白を各部隊の司令官への個人的な書簡による依頼で補って、彼らを激戦に投入せず留めている。

「あの添え書きが無ければ、とても後から引き抜くなどは叶いませんでした。」
「引き続き彼らとの間に密なる連絡を取り、伏徒(難民武装集団・盗賊団・脱出者)の情報を共有し連携して取締まりに当たってくれ。」
「は。」

 

 羅ウシィは難民移送団司令部が置かれた大部屋に戻り、剣令達に指示して自身の進発の用意をさせる。
 ノゲ・ベイスラは中央と連絡を取り物資の供給を図るには優れた位置にあるが、渦中の現場からは遠過ぎた。エイベントとの県境に位置するムポルノ村に司令官自ら移動し、直接指揮を執る。本部は引き続きここに置くが、残された者には難民移送の資金獲得という大問題が残される。

「ワァゲド君、あとは頼む。君だけが頼りだ。」
「そんな無責任な。」

 移送計画の主任主計官として羅ウシィに抜擢された若き税吏ワァゲド・エプは、職責に従って王都中央と熾烈な予算獲得の交渉に臨んでいた。
 なにしろ当初予算は1ヶ月の停滞ですっかり使い果たし、その三倍を要求せざるを得ない。4万人と見込まれた王国東部の難民が実は7万人も居て、更に1万人も逃走潜伏中、となれば破綻も当然だ。これまで王国がいかに難民の実情を把握していなかったか、ここに来て露骨に判明し誰もが眉をしかめている。

「やはりカプタニアの朋民(難民)は動かすべきではなかったのです。」
「今更言っても仕方ない。それにカプタニアが安泰で武徳王陛下が憂い無く戦場に進出できるのもこの策のおかげだ。諦めてくれ。」
「はい。」

「特に食糧供給に全力を挙げてくれ。うん、そうだ。地元住民に無理を呑ませてでも購入を。」

「ですが既に穀物価格は4倍にも高騰しております。」
「軍が買い上げているだけではなく、どこかに消えています。」
「売り惜しみ、というのではなく、誰かが意図的に買い集めて隠している風に思えまして、」

 次々と弱音を吐く税吏達に、羅ウシィは頑張れとしか言えない。経済は彼の専門外であるし、第一混乱した戦場でまともな商取り引きが成るはずが無い。北部西部からの応援物資が到着するまで無理をさせるしかなかった。

 ワァゲド・エプが机の引き出しから一枚の円盤を取り出した。間に人が多くかなり離れているので、やむなく兵師監に投げる。金色の光が零れて、皆の視線が思わず宙に集まる。

「これは?」
「どうも、食糧の流通の混乱はこれが原因と思われます。」
「黄金の、これは貨幣か?よく出来ている。青晶蜥神救世主の顔だな。」
「製作はおそらくギィール神族で、少なく見積もっても5千枚は流入していると、」

「まて!金雷蜒王国では貨幣は用いないはずだが、何故王国で流通する。」
「貨幣の本質は、人がそれに価値があると認める事です。この円盤はおそらくは5金ほどの価値を見出せます。私見ですが。」
「これで食糧を買い漁る者が居るのか。買った先はどこに行く?」
「わかりません。国境を越えて東に流れているとの情報はありますが、大した量ではないでしょう。逆に餓えた朋民に供給する者があれば、彼は朋民の支持を集めて意のままに操れます。」

「ち! わかった、併せて隠匿食糧の捜索もさせよう。」

「兵師監!」
 先程命じて使いに出したハギオトロが血相変えて飛び込んできた。彼は神兵の間で使い走りの真似ばかりをさせられている。早く外に出たい道理だ。

「兵師監、それとハグワンド様。スバスト大監が神兵に急ぎお集まりくださいと!」
「分かった。」

 羅ウシィとその下で都市防衛の任に就いていたハグワンド礼シムは、呼ばれるままに兵師大監の執務室に向かう。
 スバスト源ジュバトム兵師大監は武の人というよりも管理に長けた能吏である。計画に基づいて冷静に事を運んで行くのが彼の手法で、このように急ぎ神兵を集めるなどはかって例が無い。

「スバスト様、何事です。ヌケミンドルで敵の大攻勢でもありましたか。」

 執務室には市を護る6名の神兵が揃った。スバスト大監は既に長男に聖蟲を譲って今はただの人であるが、政治的行政的手腕に神の力は必要ではない。

「今朝イローエントから特急の軍令便が届いた。タコリティに集結していた艦隊が本格的にイローエントに襲来し、臨戦体制にあるという。沖の20里まで迫っている。」
「まさか!」

 まさかも何も、新生紅曙蛸王国を事実上支配するのはソグヴィタル範ヒィキタイタン、かってカプタニアにて先戦主義を唱え東金雷蜒王国への攻撃を強く主張していた「王」だ。攻撃の半分はイローエントから夜陰に乗じて出発する艦隊を用いる手筈になっていた。
 その王が、事もあろうに東金雷蜒海軍と同盟して祖国に攻め来るなど、誰一人想像しない。いや、褐甲角(クワアット)神の聖蟲を戴く者が武徳王に刃向かうなど出来るのか。

「…たしかに現在のイローエントの情勢を見れば、攻撃に転ずるのは利に適っている。後方より攻めれば毒地の寇掠軍にも支援となろう。だが、」
「ソグヴィタル王が、あの御方がそんな。」

 若いハギオトロは物心ついてよりずっと攻撃計画といえばソグヴィタル王に発すると慣れ親しんだ世代だ。政変で追捕を受ける身となった今でも、いずれ復帰して彼らを指揮し大規模な進攻を行うと期待していた。信頼を裏切られた彼の顔は青ざめ、冷や汗までもかいている。

 羅ウシィは若い神兵の姿を横目でちらりと見て、我が息子を思い起した。カロアル軌バイジャンはハギオトロより三つ下で、おそらくは同じ感想を抱くだろう。全ての黒甲枝クワアット兵が動揺し、何の為に戦うか問い直すはずだ。
 彼はこの場で聖蟲を戴く最年長者の責務として、スバスト大監に問うた。

「大監、確かに攻撃はあるのだろうか? タコリティの大人重役の多くがレメコフ追捕師の追求を受け、イローエントに持っていた財産も没収された。これ以上の介入を防ぐ為に示威行動に出ただけではないのか。」
「イローエントは混乱の渦中にあるとはいえ、海軍は無傷にして装備も十全に整い、いかに東金雷蜒海軍の応援を乞うたとしても破れる道理は無い。カロアル殿の言われるとおりが正しかろう。しかし。」

「もし攻撃が本当に行われたとしても、応援を出す余裕はベイスラにもエイベントにも、ヌケミンドルにだってありません。イローエント一市でしのぐしか無いでしょう。」

 神兵キマル信マスタラムは衛視として主に勤めているが、今回都市防衛隊の応援に回っている。彼は羅ウシィに従って難民鎮撫に同行する予定だ。
 神兵達は口々に状況を分析する。だが彼らの手にした情報はあまりに少なく、実りある結論を導き出せない。ハギオトロは必死で話についていこうとするが、なかなか食い込めずに当惑している。

「総力戦という言葉は知っていたが、まさか実際に遭遇するとは思わなかった。人の知恵とは情けないほどに当てにならないな。」
「しかしタコリティの思惑がまったく読めない。あるいはもっと単純な発想で動いているのかもしれない。」
「なんだそれは。」
「円湾のタコ石採掘現場では難民が坑夫として多数働いていた。難民の動乱に呼応し救援に赴いたとすれば、信を集めいずれ人が結集して、」
「大審判戦争後を考えているのか? 確かにこの先は領土と領民の奪い合いになる可能性がある。だがソグヴィタル王だぞ。」

「大監。」

 羅ウシィは難民移送団の予定を一部修正して、カロアル、キマル、ハギオトロに加えてハグワンドの同行を提案し、了承された。タコリティの介入は難民が往くスプリタ街道南部にも影響を及ぼすと予想されるから、戦力を増強するのは当然だ。

「中央軍制局からの指令が下るまで、ベイスラの体制に変化は無い。事態の急変に備えながらも各々の職分を全うしてくれ。」

 スバスト大監が解散を宣言し、それぞれ持ち場に戻って行く。キマルはハギオトロの背をぼんと叩いた。

「君は未だ重甲冑の操法を会得し切っていないな。」
「は、はい。重甲冑はヌケミンドル防衛線に集中されているとかで、私には今のところ神兵用の甲冑はありません。」
「よし、とっておきのがある。少し古いが丸甲冑が倉庫に隠れていたのを発見した、これを使いたまえ。」
「ほんとうですか! それは助かります。」

 きらきらと目を輝かせるハギオトロに、だがハグワンドはうさんくさそうに眉をしかめる。

「(キマル)信マスタラム、その甲冑は使い物になるのか?」
「大丈夫だろう。胸に一つ、弩車に開けられた大穴が有るだけだ。」
「う……。」

 

 難民移送団は所属する神兵全てが移動する事になった為に、配置転換が必要になる。彼らに与えられたのはクワアット兵300に邑兵1000で、発足時に約束された人数を大幅に下回る。イローエントに先乗りしたビジョアン榎ヌーレが30と200を連れて行った為に、こちらではまったく手が足りない。
 特に物資輸送の人数が足りない為に、ベイスラの輸送部隊から10隊を借り受ける。邑兵200イヌコマ300が新たに配属された。

「兵師監様。」
と、輸送部隊を指揮する一般人の大剣令が、個人的に羅ウシィに相談する。

「御子息のカロアル軌バイジャン殿が指揮する輸送小隊が志願し、自分はこれを許可しましたが、よろしゅうございますな。」

 聖戴拝領予定者は通常あまり危険な任務には用いない。聖蟲の継承前に事故でもあったらと慣例で配慮しているのだが、生憎大審判戦争に楽な現場は存在しない。ただ、軌バイジャンはカロアル兵師監の嫡子としての権威をなにかと便利に使われて来た為に、これが抜けると割と困る事が多い。

 羅ウシィはたかが輸送小隊の配置に注文を付けはしないと彼を諭し、こう付け加えた。

「剣令には任務だけでなく、不慣れな邑兵を的確に指揮しその命を護る責務もある。あまり勝手をするなと注意しておいてくれ。」
「はい。伝えておきます。」

「兵師監!」

 ハグワンドは重装歩兵装備のクワアット兵百人隊を指揮すると決まったが、スバスト大監からこの隊は絶対にベイスラの外に出すなと厳命されている。いずれベイスラでも敵の総攻撃を受けると見越しての指示だが、それでは機動的な運用がままならない。

「なんとかなりませんか?」
「現地に着いてからならごまかしようはいくらでもある。従っておけ。」

「兵師監。」

 キマルが現在毒地上で確認されている寇掠軍とベイスラ・エイベント両県の難民武装集団の関連図を用意して、羅ウシィに相談する。
 ただの盗賊ならばなんでもないが、寇掠軍から剣令が派遣され指揮するとなれば話が大きく変わって来る。統一された行動で寇掠軍に連携し、難民移送に効果的な攻撃を加えて来るだろう。

「むしろ毒地中の寇掠軍本隊にこちらから攻撃を加えた方が安全になると思われますが、穿攻隊を回してはもらえませんかね。神兵10でいいんですが。」
「ううーん、ボラ砦に篭りっきりというからなあ。攻撃計画書を作成してスバスト大監に届けておけ。あてにはするな。」
「兵が幾ら有っても足りはしない。ベイスラも広過ぎますねえ。」

 羅ウシィはあちらこちらと走り回っているハギオトロをつかまえて、命令を与える。まだ神兵として不慣れではあっても、一応は小剣令で2年は勤めているのだ。役所内より外に出した方がよほど役に立つ。

「(ハギオトロ)環マセマシュ殿、貴君にはノゲ・ベイスラに残る朋民の最終隊列を指揮してもらいたい。うん、君が先頭でだ。」
「しかし、朋民移送に神兵が当たるなどは、」
「噂というものは風よりも早い。聖蟲を持つ者が朋民を率いていると伝われば、向うも敏感に反応する。小隊1邑兵隊3を用いて良い。本隊に先行してくれ。」
「はい、ただちに出発準備をします!」

 明確かつ責任が自分に集中する命令を与えられ、ハギオトロは喜んで飛び出して行った。彼は間が悪く、聖蟲を授かった身でありながら未だ戦場に顔を出せていない。内心忸怩たる所があったのだろう。

「とはいえ、難民を率いている最中に戦闘はしてくれるなよ。」

 早くも庭先から聞こえて来る彼の声に、羅ウシィは少し笑った。傍目には渋い表情が一瞬歪んだ程度にしか思えなかっただろうが。

 

 その日の内にハギオトロはノゲ・ベイスラに残る難民500を駆り立てて出発する。
 翌夏旬月十八日、ムポルノ村を目指して行軍中の羅ウシィは、行列の後方から一人のクワアット兵剣令が走って来るのを知らされた。

 伝令であれば剣令を用いるまでもない。しかし重要な命令であればそれなりの身分を持った者が伝えねばならない。

「あれは? 兵師監、あれは御子息ではありませんか。」

 高台に上って後方を眺めたキマルが、その剣令の顔を遠くに確かめて羅ウシィに確認を求めた。神兵の視力は常人の10倍を越え、数キロ先の人相までもしっかりと認識する。
 しかし本来輸送小隊を指揮して後方から続くはずの彼が、伝令となるはずがない。

「まさか。」
「いや間違いありません。甲冑ではなく軍衣を纏っていますから、よく見えます。」

 行軍を停止して羅ウシィは伝令の到着を待つ。こういう時、徒歩でしか移動手段が無いのはまどろっこしい。
 結局軌バイジャンの到着は姿を確認した10数分も後だった。彼は伝令の時に用いる特殊な走り方をした為に、父の兵師監の前に跪いても息を切らしてはいない。

「お人払いを。」

 敢えて剣令を伝令に用いるからにはよほどの重大事と予想していたが、一般人剣令は元より神兵のキマル信マスタラムにまで漏らす事が許されないとは。
 意表を衝かれてキマルは思わず怒りを露にするも、軌バイジャンは重ねて兵師監のみにと主張する。羅ウシィは命じて周囲の者全てを遠ざけた。

「何が起った。武徳王陛下の御身に間違いでもあったか?」
「せ、赤甲梢謀叛にございます。」

 息子の言葉の意味がよく分からずに、羅ウシィはしばし目を瞬かせた。重甲冑に真上から照りつける陽光が、物理的な重さを持つと感じられる。

「赤甲梢はメグリアル妃だな、何故謀叛を起さねばならないのだ?」
「十七日ヌケミンドルの大本営に届いた急報によれば、赤甲梢が中央軍制局の作戦から離脱し、単独にて東金雷蜒王国領内に突入したとの由。以後の詳細は不明。」

 やはり羅ウシィにはなんの事かさっぱり分からない。赤甲梢は元々東金雷蜒王国への進攻に備えて組織された部隊であるが、単独で突入して何の益があるのだろう。明敏にて知られるメグリアルの王女焔アウンサ様は無謀をしても無意味はなさらない御方だ。

 この情報に対しての評価を決めかねる彼は、息子に次を促した。一月ぶりに顔を見たのだが、それも忘れるほどに戸惑っている。伝える軌バイジャンもこれほどの重大事に思考も停止して、ただ上官の命に服するだけだ。

「スバスト兵師大監様は仰しゃいました。難民移送団はそのままに任務を続行されたし。ただし、寇掠軍のにわかの大挙襲来が予想される為に十分な警戒を行え、と。穿攻隊移動の件は了承したとの事です。」

「うむ、御苦労だった。」

 伝えるべきを終え、軌バイジャンはまっすぐに父の前から下がり、再びノゲ・ベイスラへ走り戻る。
 座を外して居たとはいえ、神兵の超常的な聴覚で聞いていたキマルが戻り、言う。

「なにかの間違いではございませんか? 赤甲梢謀叛など。」
「わからぬ。だが容易ならざる事態が迫っているのは確かだ。我らは自らの為すべきを急ぐしかない。」

 

 カロアル羅ウシィ兵師監は行軍を再開させ、街道の両脇に民衆が控える中を威風堂々と進んで行く。運命に向かって。

 

 

【真夏の夜の夢】

 紅曙蛸女王国時代以前の千年紀。地球で言うと旧石器時代に相当するネズミ神官時代と呼ばれる方台の黎明期に、既に文字があった。
 「ネズミ文字」と呼ばれる絵文字で、後の世代には継承されずネズミ神官と共に歴史の闇に消えた。だが読める。絵文字であるから解釈は簡単で、旧い洞窟の壁に無数に描かれているものをスガッタ僧や学者が熱心に描き取り解読して文書にまとめている。

 この中に度々登場するのが「火栄渡り」とでも呼ぶべき山火事の記述だ。歴史学者はこれに首をひねる。現代(創始暦5006年)に該当する現象が無いからだ。
 紅曙蛸女王時代の歴史書には有る。「紅曙蛸(テューク)の行幸」と呼ばれ、救世主でもある巫女王が森を行く際にやはり火を伴ったと伝わる。方台に火を用いる文明をもたらした女王であるから当然とも思われるが、それにしても不思議な記述が多過ぎる。

 行幸も2561年の5代テュラクラフ・ッタ・アクシ失踪後は絶えた。

 時を越えて5006年夏旬月三日、褐甲角王国サユール県において2400年ぶりにそれが確認された。

 サユールは山国ではあるが森の恵みにより比較的裕福な、世の騒乱からも無縁で居られる閑静な土地だ。しかしこの日は違う。ずんずんと腹に響く低音が満ち、峡谷に住む人々は天の裁きが下ったと大騒ぎする。地震など生まれて初めての体験だ。
 当地に赴任し守護に就いていた黒甲枝の神兵マルッカ某は、住民に乞われて様子を確かめに行く。兜に胸甲、左の篭手のみの簡易武装で数名のクワアット兵と共に地鳴りの中心を求めて深い森に入る。すぐに彼は振動の発生源に遭遇する。

「なんだ?」

 それは深紅に輝く巨大なキノコ。彼にはそう見えた。テューク(蛸)を方台内陸で見る事は無く、海を知らない彼が認識出来なかったのも無理はない。ただ尋常の自然の産物で無いとは理解する。
 キノコと表現した通りに、直径が100杖もあるドーム状の物体だ。正確には、不定形の硝子の包みの中に炎が渦を巻いて燃えている、という代物。大量の熱を放出し頬に照り返すものの、不思議と苦痛は感じない。

 周囲の樹々は本当に炎を纏っている。だが燃え広がらない。地が歪み蒸気を噴き出し、所々穴が開いて坩堝のごとくに溶岩が沸いている。
 全てはキノコの通った筋に沿って起きていて、深く地を抉った溝が真っ直ぐに続いている。炎の煌めきと熱に揺らぐ大気、轟く地鳴りに包まれて、ここが神のしろしめす十二神方台系の一角とにわかには信じられない。

「マルッカ様、あれを!」
とクワアット兵が指差す先に、人が在る。
 曙色の衣の裾を長く宙に翻しキノコの上に立つ女人の姿だ。炎の熱もたなびく蒸気にも冒されず、涼しい顔を進路に向けゆったりと寛ぐまま運ばれていた。良くは見えないが結い上げた髪の額の上に、小さな生き物の姿もある。
 眼を凝らすと、他にも多数人が居た。半透明の人影が列を為しキノコの周囲を回り、腕を天に突き上げて踊っている。百を越えるが、印が無いので個体を識別できない。

「…亡者の女王か?」

 カブトムシの聖蟲を戴いていようとも、幽霊には敵わない。クワアット兵が激しく怯えるので偵察はこれまでと諦め、マルッカは現場に背を向けた。
 その夜遅くまで地鳴りは続き、遠く森の中を行く炎の照り返しが赤く天を焦がすのを人々は眠らず見送った。

 二日後、多数の村人と共にそれの通った道を調べに行くと、地割れはすっかり新しい草に覆われて居た。まるで自然が傷付いた肌を癒すように、草木が信じられない速度で生え伸びて痕跡を隠し始めている。

「あー!」「わあ。」「きんだ、砂金が、」「玉もある!」

 振り返ると村人は皆這いつくばって草の根元を探り、次々と宝を見つけ出す。坩堝に見えた燃える穴から溶岩が飛び散り零れ、地の底深くに眠る金属資源を表にもたらしたのだ。

「結局あれはなんだったのだ。」
「テュラクラフ様でございましょう。」

 マルッカの問いに年老いた蜘蛛神官が答える。書物を管理する彼の頭には、遠き方台の記憶も有った。「行幸」の詳細を聞くに、なるほどまさしくそうであるなと黒甲枝も理解する。

 南岸のパンヤン・グテ、トロシャンテの森、サユールからアユ・サユル湖に到る経路上でこの事象は何度も目撃され、カプタニアに報告される。だが大戦でおおわらわの王都では誰にも注目されず、報告書は書庫に収められ紐解かれない。

 5006年夏旬月十五日、アユ・サユル湖上にて警戒に当たっていた湖水警備隊の小艇は水中を行く巨大な「クラゲ」を発見する。体内に煌めく幾つもの光玉を有する潰れた球形が、舟の半分の速度で南から北へと進んでいるのを確認された。
 如何に神兵が乗るとはいえ、常識を越えたそんな化け物に攻撃を仕掛けるわけにもいかず、あれよと見守る内に沈降し深みに消えて行った。
 アユ・サユル湖はカプタニアに面し厳重な警戒下にある為に、目撃情報は速やかに警備隊司令部、カプタニアの中央軍制局に上げられる。しかし続く目撃が無かった為に特段の対策は講じられない。それどころではない状況にあった。

 ただ情報は御前にも奏上され、武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクがこう断じたので、正式に歴史に記録された。

「ああ、テュラクラフ様だな。」

 

第八章 回る舞台は七色に、虚実の幕が行き交った

 

 十二神方台系の長い歴史にあって難民は何回も発生しているが、現在のものは百年前の大寒波に由来する。

 この事件の直前の方台はといえば、実は非常に豊かで繁栄していた。誰一人餓える事が無く暮らしに困る者も無く、戦争の頻度は極端に減って動乱も無い状態が50年も続く。金雷蜒褐甲角両王国の民は繁栄の果実に酔い痴れていた。

 繁栄の理由はかなり複雑だ。一応農業技術の革新が起り方台全土に広まった為、というのが歴史学者の主張だが、それだけに留まらない。

 長年続いた衝突の末に、褐甲角王国は過剰な軍備によって自らが救うべき民が疲弊し困窮を嘗めている事に漸く気が付いた。
 神族により生死を恣にされ酷使収奪される民を救わんとこれまで戦い続けてきたが、冷静に振り返ってみると、奴隷のはずの金雷蜒王国の民の方が褐甲角王国の民よりも豊かで実り有る生活を送って居た。
 この事実を認識した褐甲角王国は大きなジレンマに苦しむ。結果、東西金雷蜒王国と和解して平和の内に共に発展する道筋を模索する。過大な軍事費の負担から解放された褐甲角王国の経済は一気に発展し、民間主体の好景気に沸く。

 反面、拡大する景気は人心に緩みを生じさせ道徳は荒廃し、格差も倍増した。好景気が続けばこそ成り立つ矛盾に満ちた社会が長年放置され、心有る者の目にはいかにも危うく映る。警告は何度も発せられ、神殿は幾度も風紀の引き締めを呼び掛け賢人が変革の策を献じたが、取り上げる者は居なかった。現状でうまく行っているのに何を変える必要があろう。

 要するにこの時期、黒甲枝は戦う事に疑問を持ち悩んでいた。正義の味方がその意志を薄らげていたのだから、ギィール神族も張り合いを無くし日々の遊興に明け暮れる。
 揺らぐ崇拝に信仰を見失い、人々は次の救世主、青晶蜥(チューラウ)神の御使いの到来を忘れた。ヒトが己の手で方台を支配し治めるのが当然、とする思想も芽生える。

 武徳王の代替わりによって綱紀は一時的に粛正された。弛んだ軍組織を改革してコンパクトな実戦部隊を国境線に配備し、金雷蜒軍に挑戦状を叩きつける。ギィール神族も長き倦怠から腰を上げてこれに応じ方台に緊張が走るが、経済にマイナスの影響は無かった。いや、戦争の実体は巨大な浪費であり生産を促すものであるから、物価の高騰と共に一種のバブル現象が引き起こされる。
 長期成長が限界に達して沈みかけた時に、この急拡大だ。以前にも増して奢侈贅沢が蔓延、富豪は連夜の宴会に財を蕩尽し一般庶民も明日を忘れて酔い潰れる。

 

 息が切れてふっと赤ら顔を上げた所に、それは訪れた。

 『チューラウの訪い』と呼ばれる寒気の到来がその年はばかに早かった。秋口に差しかかるとすぐに霜が平原を走り、稔る直前の穀物の葉が白を纏う。農民が気付いた時には手遅れだった。だが穀物の備蓄は十分にあり、誰も不安に思わなかったのが悲劇の始まりだ。

 次の年も人々は相変わらず蕩尽を続け戦争を繰り返し、秋の実りを疑わなかった。なるほど確かに穀物はちゃんと実を付ける。だが前年の影響が残っていたのかトナクの実には中身が無く、チョーチャクの茎は細く固かった。
 2年連続の寒い冬を方台は長く経験しなかった為に対応は後手に回る。この年はさすがに貧窮に喘ぐ者が続出し、両王国とも国庫を空けて救済を行う。

 結局寒冷な年は5年も続き、世の中はすっかり様変わりしてしまった。
 人は餓え凍え、街の灯は消え農村の家の屋根は破れ、兵に応じる者も無い。戦争を行う余力も無く、やっとで生き延びた者を集めて畑を耕させるので精一杯だった。
 本当の地獄はこの年に起きる。

 6年ぶりの豊作に沸く褐甲角王国に、東金雷蜒王国から寇掠軍が大挙して訪れたのだ。農業力に劣る金雷蜒王国は不足する穀物を戦争で奪おうと当然に考えた。奴隷兵を主体とする寇掠軍は以前と意気込みが違う。なにせこの5年餓えに苦しんだ末の実りの好機だ、帰りを待つ家族の為にも一粒のトナクさえ見逃さない。
 褐甲角王国の農民も必死で守る。黒甲枝の指揮の下、兵士としての訓練を受けていない者でさえ棍棒を振り上げてゲイルを迎え撃つ。

 民間から徴募した兵が多かった為に、結果として褐甲角王国始まって以来の戦死者が出た。寇掠軍も無数の屍を毒地に残し、それでも大量の穀物を奪取して撤退する。奪われた褐甲角王国では持つ者を持たざる者が襲い、内戦紛いの暴動が繰り広げられる。

 そして次の年、畑を耕そうとして人手が足りない事に気が付いた。
 労働力をなんとかして集めようとする時、ボウダン街道を通って流れて来る金雷蜒王国の民がある。寇掠軍が持ち帰った穀物でも足りず生活に窮した奴隷が、食を求めてさまよい西に流れ出たのだ。これが難民の始まりだ。

 褐甲角王国の人は最初彼らに対して敵意を向けた。なにせ前年激しく戦った間柄だ。だが人手が足りないから仕方なしに彼らを使う。勿論待遇は最低であるが、使われる方も素直には従わない。互いに恨み罵りながらも隣り合って暮らさねばならない。数年後、この関係は固定して農業の下働きのみならず都市でも労働を担うようになる。あるはずの無い奴隷的階層が発生し、低賃金で便利に使われるようになる。

 民を救うのが黒甲枝の使命であるが、民自身が民を虐げる枠組みを作ったのでは彼らの正義は意味を為さない。褐甲角神も金雷蜒神の使徒もこの状況をいかんともし難いと見定めた時、人は新たな救い主を求める。
 そしていつしか、あの長く続いた冬の年を『チューラウの予告』と呼ぶようになった。

 『予告』
 この世の枠組みをぶち壊し報われぬ社会をひっくり返す救世主が必ず来る。人の願いがそう呼ばしめたのだ。

 

 

 現在難民移送団はヌポルノ村を本陣とし、スプリタ街道の”西側”に難民を集めている。
 スプリタ街道は方台中央を南北に貫く交通の大動脈だ。北はデュータム点、ガンガランガから発しほぼ真っ直ぐ南に下り、ヌケミンドルを経てベイスラ、エイベントを抜けイローエントの海に果てる。
 ベイスラにおいてはこの街道の東西で地形が大きく変り、産業も異なる。西はベイスラ山地の裾野の森林地帯が広がり団栗、油が主要産品。対して東は平原が広がり農地が続き、毒地の風を遮る林を経て荒野、不毛の地に到る。

 逃走した難民が組織する武装集団や盗賊団は主に街道東の林に潜む。ベイスラ防衛軍は寇掠軍の侵入を防ぐ為に林の外側に布陣し、盗賊相手にはクワアット兵の追討隊を林の内側に走らせている。街道は大軍の移動に便があるので防衛線の重要な一部となり、これに遮られる西側は安泰と見て差支えない。
 だが難民は大人数で混雑する宿営地を抜け出して、勝手に東側にも入り込む。悪意があるわけでなく水場を求めて移動せざるを得ないのだ。なにしろベイスラ内に2万人、エイベントで3万人、イロ・エイベント県入り口に1万人弱が滞在する。局所的には本来の住人の数を大きく越えていて、受入れた村の農民議会から司令部に不安を訴えて来る。

 

「うわあ、これはダメだ!」

 通過した地域の難民代表から陳情書と被害届を受理してヌポルノ村に戻って来た輸送隊カロアル小隊隊長カロアル軌バイジャンは、村一帯に溢れる人の波を見て絶句する。

 難民はそれぞれ100人程を単位とする小集団に分れて移動宿営する。それぞれの集団に責任者が居るが、遠隔の地で他人を頼りにしてはなにも変らない。計600人の代表がそれぞれの随員と滞在の食糧荷物込で司令部に押し掛け陳情する。地元住民代表も負けじと大人数で苦情申し立てに来ているので、ヌポルノ村周辺は大混雑大渋滞に陥ってしまう。

「住民側代表と朋民代表とが各所で小競り合いを起こしている、とかも聞きました。」

 カロアル小隊は現在、小剣令カロアル軌バイジャンを隊長、凌士カドゥヲンを副官として邑兵20名イヌコマ30頭を率いている。前に居た凌士卒ジュンゲは他所での人手不足から移動となった。凌士カドゥヲンは20歳だが、経験というのであれば兵学校で6年を学び近衛兵団で1年半小隊指揮の訓練を積んだ18歳の軌バイジャンの方がむしろ上で、要するにどちらも大した事はない。

 率いられる邑兵も今次大戦で招集されたずぶの素人なのだが、一つ所に隊を集めてみると、彼らは自分達がかなりまともな兵隊であると気がついた。戦争前からある正統な邑兵隊には及ばないが、輸送隊はどこも素人ばかりで、或る程度は修羅場もくぐったカロアル小隊の練度はピカイチと言って良いほどに仕上がっていた。

「こら槍を振り回すな。荷車をどけさせるのは棒を持っている奴だ。」

 戦力としては相変わらずクワアット兵二人だけなのだが、二人が使う長槍を持たされている者は尊大に、道端に溢れる難民を押しのける。なにしろ少し目を離すとイヌコマの背から荷物を盗まれる、難民に甘い顔は見せられない。注意するカドゥヲンも諦めた。

「軌バイジャン様、多少は兵を引き締めた方がよいと存じますが、これでは。」
「分かっている。交通整理くらいはしてもらいたいな。」

 難民を掻き分け、さらに内部に溢れる住民代表を押しのけて、やっとで輸送隊本部に辿りついた軌バイジャンは思いがけない司令部からの呼び出しを受けた。

 難民移送団司令部はヌポルノ村農民議会の集会所を用いていた。村の中心に有り広場も備え往来が便利と、軍務に用いるのにも都合がいい。軍に徴発される事を前提に設計されているので、集会所はどこの村でもけっこう立派なものだ。
 黒甲枝、とくに聖蟲を持つ神兵の宿舎は村長など有力者の自宅になるが、兵師監カロアル羅ウシィはここに泊りっぱなしの不眠不休で職務をこなしている。

 やはり人でごった返す司令部内で、軌バイジャンが通されたのは離れにあるここだけ鎮まりかえった部屋だ。明かり取りの天窓があるだけで全周を泥壁に塞がれ、息苦しい陰湿な感触を覚える。
 迎えたのはベイスラの衛視局から出向している一般人の中剣令で、治安・諜報関係を担当する者だ。彼の任務は輸送とは無縁で、軌バイジャンに直接命令する権限は無い。

 さらにもう一人、民間人が居る。農民とは少し異なるが土地の者だろう、風采の上がらないそれでいて脂ぎった男はおどおどと目を走らせる。
 中剣令は、この男がさも気になるだろうと言わんばかりの口調で話し始めた。

「君がカロアル軌バイジャン小剣令か。兵師監様から許可は取っている。輸送任務とは少し異なるが、私の命令に服してもらう。」
「は!」

「君は”青服の男”の話を知っているか? 街道全域に広がるはなはだいかがわしい噂だが、どうやら事実らしい。」

 ”青服の男”は、いまやスプリタ街道沿いの地域では知らぬ者の無い有名人だ。
 複数人居るとされるが、どれも同じ。おもしろおかしく村人の前に踊り出て青晶蜥(チューラウ)神救世主が降臨した縁起を語り、数々の手品を見せて薬品を売る。傷や火傷の薬が今に必要になると半ば脅迫して売りつけ、「逃げろやにげろ」と歌いながら去って行く。
 彼が現われた場所は一両日中に寇掠軍の襲来を受けるとされ、言う通りに逃げなかった者は必ず殺され、ほうほうの態で飛び出した者もあるいは傷付き、薬の世話になるのだと。

「この男は名をカモゾーといい、青服の男と寇掠軍が直接接触する現場を目撃した証人だ。」

 軌バイジャンが見ると、カモゾー目を伏せないままぺこっとちいさく御辞儀をする。

「では青服の男を逮捕する任務でございますか?」
「話はそう単純ではない。なるほど青服の男は寇掠軍と関係するが、同時に民衆に逃げろと警告し薬まで売って助けようとする。本人が言う通りに、たしかに青晶蜥神救世主に連なる者かもしれない。」
「はい。」

「さらに、連中は売るほど薬を持っている。難民移送団においても医薬品は完全に不足する。本来であればトカゲ神殿の協力を仰ぐ所だが、現状十二神神殿は褐甲角軍に対して従順とは呼び難い態度を示している。」
「やはり、救世主の影響ですか。」
「うむ。であるから、なるべく穏便に青服の男とは接触したい。そして可能であれば彼らが保有する薬品類をすべて買い上げたいのだ。」

「了解しました。しかし何故私を御選びになりました。」
「私は現在、司令部近辺に集結した朋民に混ざる間諜への警戒で手が離せない。また戦闘小隊警戒小隊を戦況に関係しない相手に用いるわけにもいかない。」
「はい。」

「それにこの男はな、狗番に捕まりなにやら酷く脅されたらしい。魔法の力で夜中に首を絞められるとかで、逃れるには神兵の威光が要るのだと。」
「それで私に。」
「この者の案内で、まあうまくやってくれ。」

 

 輸送隊本部に戻って新しい任務を報告すると、ついでだからと東側難民宿営地への物資輸送を回された。難民自身に取りに来させれば楽なのだが、私的に隊列を動かされては迷惑千万であるからどうしても面倒を見なくてはならない。
 30頭のイヌコマに食糧と若干の布を積んでカロアル小隊は出発する。カモゾーの案内で道を外れ、林の中を抜けて行く。

「いや青服の人は別に悪さをしたわけじゃないんですがねその連れの女というのがまあそりゃあイイ女でわたしはこれはもうどこかのカエル巫女かタコ巫女かと目をまんまると皿のようにしてみてたんですがいきなり邑兵が来たのにぱーっと魔法のように消えてしまってどこいったかなあと左右の道を眺め回しているとですね婆あがやってくるんですよ年の頃なら60くらいですかも少し若いかともかく婆あは婆あに違いないんですがえーそれはもうわたしもこの歳まで色々と有りましたからといってもそんないい目ををしたわけじゃないんですがその婆あが違うんですね腰の辺りがこうきゅっというかぼんというかどう見ても若い女でしてアレアレと思ってつけて行くとこうまるーく開けた原っぱに出ましてその真ん中の木の洞から服を取り出してぱーっと変わるんです若い女にこれが先ほどの青服の男と一緒に居た女でして、杣女ですよこれ。」

「お前、喋ると殺されるんじゃなかったか?」

 カモゾーは聞かれもしない事までべらべらと喋る。これまで魔法で脅されていた反動からか、息次ぐ暇も惜しんで話した。

「それが親切な人が居まして今度村に来られるカロアル様という御方は兵師監てものすごく高い身分の御方であるからお願いすれば狗の鬼が喰い殺すのも防いでくださると聞かされてそんじゃあと急いで出かけてみましたら集会所がとてつもなく混雑してましてめちゃくちゃ御忙しいとかでともかくカロアル様だカロアル様にしか言っちゃいけないて、」

「あーわかったわかった。その親切な人というのはどんな奴だ。」
「えーと、旅の神官様に見えましたが汚れた灰色の服を着て頭が毛一本の無いつるっ禿で陽に焼けてちょっと怖い感じもするんですが占いをなさるとかでわたしが歩いているのを呼び止め下さっておいお前このままでは死ぬぞって一発で取り憑いている鬼を見破りなさったわけです。」

「あからさまに怪しい奴だな。」

 杣女が通ったという泥地はイヌコマが足を取られるので迂回し歩き易い場所を行くと、なにやら騒がしくなっている。ここにも難民が入り込んで滞在しているようだ。

「この場所は、朋民がよく来る場所なのか?」
「いえ全然。普段は土地の者でもめったには入らない薄気味悪い薮だったんですけど、うわあこんな風になってら。」

 カモゾーが寇掠軍を見た野原にも、難民が多数入って何十張も粗末な天幕を張っていた。周囲の林に入って薪を拾い火も起こしている。林の中に円形に開けている土地であるから、泊まるには格好の場と見たのだろう。だがこの辺りでの宿営は当然難民移送団は許可していない。

 林の間から現われた兵に一瞬騒ぎは止み、ついでばたばたと片付ける騒ぎになる。彼らもこの場所が禁じられていると知るから、正規のクワアット兵に見付かれば即追い出される覚悟をしていた。

 だが軌バイジャンの任務はそれではない。実の所難民移送団では東側への難民の移動も已む無しと定めており、管理から離れない為に規制を緩める措置を始めている。難民といえども寇掠軍に襲われる可能性は低くないのだが、自己の責任で危険な場所に移ったとして保護を半ば諦めた。
 カロアル小隊が運ぶ食糧も、管理から外れた集団に対し登録と引き換えに供給する事となっている。

「責任者は居るか? この集団の代表者は出頭せよ。」

 成年の男子は先に家財等を運び難民移送団の指示に基づいての労役を行っているので、家族と離れ離れになってしまった。後方の家族を人質として脱走を防ぐのが目的であるが、おかげで続く家族は重い荷を運ばずに済む利点もある。

 この集団もやはり老人や子供連れの女性が多かった。年寄り達が右往左往する中、一人の少女とも呼べる若い女が恐れ気もなく軌バイジャンの前に来る。

「わたしが、責任者です。」

 これが難民? 軌バイジャンは色には出さないが驚いた。
 黒く澄んだ瞳には下層民に特有の諦めたり荒んだ気配が無い。着衣も決して豪華ではないが中流と呼べるちゃんとしたもので、顔にはうっすらと化粧も施してある。普通に町で見掛けても思わず振り向いてしまう美貌は、こんな野原にはふさわしくない。

「もっと大人は居ないのか? あなたはこの集団において、いかなる立場の方か。」
「残念ながらそういう人達から見捨てられたのが、この隊です。足手まといとして弾き出された人達を、わたしがまとめてこちらに連れて来ました。ですからお役人の指示に背いて東側に入った罪はわたしにあります。」

 気丈に振る舞うが、彼女の肩が震えているのに気が付いた。処罰を怖れるというよりは、自分がやってしまった行為の責任を強く感じているらしい。野原に降り注ぐ夏の日差しが、額に一筋の汗を光らせる。

 軌バイジャンは彼女をあまり長く脅かしておくのに気がひけた。正式な決定が為されているわけではないが、通達を開示する。

「難民移送団司令部は本来スプリタ街道東側への朋民の立ち入りと宿営を許していない。だが水や場所の都合でやむをえない場合、願い出れば決められた地域での宿営が可能となった。朋民登録票を確認する。君の名は?」
「! あ、アシュトン由ミィヤルです。」
「嘉字を持っているのか…。」

 嘉字は、名付け親に聖蟲を持つ者がなった場合のみ与えられる。ギィール神族や黒甲枝は勿論だが、身分や格式の高い者は彼らを呼んで我が子の名付け親になってもらい、嘉字をもらうしきたりになっている。単に金が有るだけでは叶わない名誉だ。

「では君はただの難民ではないな。」
「は、はい。元は東金雷蜒王国の神聖宮の廷臣一族です。」

 珍しい話ではない。軌バイジャンの婚約者ヒッポドス弓レアルの家も三代前に亡命して来た。金雷蜒王国の宮廷人は聖蟲を戴かなくとも高い教養と優れた知識、財務や経営に関しての技能を持つので、褐甲角王国は積極的に受入れている。政変によって立場を失い命の危険から逃れてくる者は後を断たない。

「そのような身分の者が何故こんな場所に居るのだ。一族の者とはぐれたのか?」
「そうではありません…。」

 彼女は出自を明かした事を恥じるかに、長い睫毛を伏せた。髪は暗紅色で年齢は17歳くらいだろうか、王都カプタニアにあってもこれほど美しい人はめったに見ない。軌バイジャンが思い当たるのは、見合いの席で少しだけ顔を覗き見た弓レアルくらいだ。

「いかに周囲に人があっても、君のような人がこんな場所に居るのは危険だ。盗賊団に掠われるかもしれない。」
「ですが!」

 彼女は顔を上げて軌バイジャンを真っ直ぐに見詰める。交わす視線には、決意と共に或る種の贖罪に似た気配があった。この感触に軌バイジャンは覚えがある。自分も邑兵を任され小隊を指揮し難民を指導する立場になって、初めて気付いたものだ。
 少女は言う。

「わたしはやはり金雷蜒王国から逃げて来た者ですが、この人達とは違って生活に困窮した事はありません。それが当たり前だと思っていました。奴隷はバンドが違うとなかなか相手の姿が見えないものです。」(金雷蜒王国では聖蟲を持たない者は皆奴隷と看做される。宮廷廷臣は神聖王直属の奴隷で、一般奴隷と隔絶した身分となる。)
「見て、しまったんですね。」

「はい。沢山の人が集められ、南に下って行く姿に驚いて尋ねたのです。あの人達はいかなる罪を犯したのか、と。でもそれは、わたしと同じ人でした。」
「それで難民を追ってベイスラまで来た。」
「なにかわたしにも出来る事は無いかと考えて、いえ決して褐甲角王国を責めるつもりは無いのです。わたしには難民を王都近くに置いておけない理由もちゃんと分かりますから。でも何かしたいできるはずだと、家族の手を振り払ってここまで来てしまったのです。」

 真摯な瞳に軌バイジャンはいたく感動し、また難民移送事業がいかに人の心を傷つけているか知った。もっと早くに対策を行うべきだった、と改めて王国の怠慢に憤りが沸き起こる。

「分かりました。では貴女をこの集団の代表と認めましょう。なにか困っている事はありませんか、若干だが食糧の供給が可能です。」
「ああ! 有難うございます。」

 少女は後ろで心配そうに見守って居た老人達を呼び、具体的な要求をさせた。どうやら彼女では日々の生活の細かい所に気が回らないようだ。
 軌バイジャンは邑兵に命じて穀物の袋を10個下ろさせた。100人に対しては数日分口を糊する量でしかないが、この先にも難民が居るはずだ。それに、あまり多過ぎる物資は却って騒動の種になる。

 年配の女性が邑兵をつかまえて訴える。

「あの、鍋や鼎がありませんので煮炊きが出来ないのです。どうにか運んでもらえませんか。」

  十二神方台系では食事の支度に金属器を用いない。隊商や軍隊であっても大きな土鍋を担いでいき、専用の人夫が二人は必要だ。急に追い出された彼らが持って来れなかったのも無理はない。

「手桶はあるか?あるいはただの瓶でもいい。中に広い葉を敷いて水を張り、焼け石を落とせばいいんだ。」
 土鍋が破損するのは良くある話で、軍でも普通に対策を教えている。手桶も無ければ石の窪みや木の切り株を抉って水を溜め、焼け石を放り込んで煮炊きする。

「ほら、ゲルタもあるぞ。」
 邑兵が配る干し魚の束に、皆手を伸ばし奪い合う。彼ら難民が常に食しているのは塩を抜いた出し殻のゲルタであり、今配る塩付きゲルタは結構な御馳走と認められる。

 

 すっかり蚊屋の外に置かれたカモゾーが手持ち無沙汰にしているのを見て、軌バイジャンは危うく自分の使命を思い出す。少女アシュトン由ミィヤルを再び呼び出して尋問する。

「君の隊の中に、青服の男を見掛けた者は居ないか? 我々は彼を捜しに来たのだ。」
「青服、というと青晶蜥神救世主様のお使いの、あの方ですか?」
「知っているのか!?」

「わたしは見たことがありませんが、えーと、シュセマインさん!」

 乳飲み子を抱えた若い母親が呼ばれてやってくる。この女性も相当にやつれている。

「あなたは青服の人に薬をもらったと言いましたね。」
「はい。ヌポルノ村に入る前にいきなり道の真ん中に現われて、産後の肥立ちを助ける御薬というのをもらいました。」

 軌バイジャンはこうも簡単に目撃者が出て来る事に少し驚いたが、話を続けさせる。

「で、その人はあなた達に逃げろと行ったのですか。」
「いえ、その時はそのまま御元気でと、お別れしましたが。」

「逃げろ、というのは寇掠軍が来るという事ですよね。わたしも噂は聞いています。あの御方を逮捕なさるおつもりですか?」

 いきなり厳しい口調で由ミィヤルが問い質す。逮捕、という言葉に周囲の難民も敏感に反応した。軌バイジャンは予想以上に青服の男が難民達に支持されると知る。

「いやそうではない。だが王国の許可も無しに勝手に噂を広めて回るのは許されない事だ。」
「あの御方は青晶蜥(チューラウ)神救世主のお使いです。ガモウヤヨイチャン様がわたし達の為に御遣わしになったのです。」
「それを確かめる為にも、会わねばならないのだ。それに彼らが持つ薬を購入し、朋民に無料で供給する事も移送団司令部は考えている。」

「では罪には問われないのですね?」
「それは会ってみないと分からない。もし噂通りに寇掠軍の先触れをやっているのだとしたら、…?」

 林に囲まれた野原の東隅でいきなり悲鳴が上がる。さらに男の野太い怒声が聞こえて来る。
 由ミィヤルは軌バイジャンに振り返る。決意を秘めた眼差しだ。

「これは隣の難民の隊です。野原はわたし達が先に取ったのに、後から来たあの人達が奪おうと追い立てるのです。」

 ぺこっと礼をして後ろを振り向くと、伸びる草の中を駆けていく。軌バイジャンも彼女を追った。
 だがカモゾーは、二人の後ろ姿に首をひねる。

「あの娘はー、へんだな。こう尻の辺りがもっときゅっと、うーん子供の尻じゃないよな、ありゃどうみても男を知ってる。でもどこかで見たような。」

 

 押し掛けて来たのはやはり本来の宿営地を追い出された集団だった。
 難民の間にも出身バンドごとの階級はあり、互いに交わらずに小集団を作っている。野原に来たのはそのどれからも追い出された「病人・障害者」だ。本来金雷蜒王国のバンド制度には弱者を保護する機能があるものの、窮地に有っては足手まといを放逐する「合理的な手段」を使うわけだ。

 身体障害者といえども人によって症状は様々で、肉体的に弱い者ばかりではない。成年男性であれば、老人や乳飲み子を抱えた女性で構成される由ミィヤルの集団に横車を押すくらい出来る。

「知っているぞおまえ達のところにだけ兵隊が来て食糧をもらっているな。オレ達にも寄越せ。」
「そんなにたくさんあるわけじゃない。わたしたちだけでも足りないよお。」
「ええい、とにかく物を見せろ!」

「お待ちなさい!」

 声を荒げているのは隻腕隻眼の初老の男だ。右腕が肩から無く右目も火傷痕で潰れているが、筋骨は発達し蟹のように横に膨らむ。手下3人はいずれも指が無かったり刀傷で片目だったりの障害は有るものの、暴れたり荷を運ぶ程度なら不都合は無い。

 どうみても筋金入りの悪党の前に、由ミィヤルは飛び出した。胸ぐらを掴まれて怯えていた老婆を解き放つと、敢然と食ってかかる。

「なにが食糧です。あなた方の方が多くを持っているでしょう。こちらは移動するだけでも大変だったのに、そちらは荷車まで持って。」
「病人を引き取ったのはオレ達だ、代金をもらっただけだ。それとも、デキモノで脹れ上がる病人をこっちにくれてやろうか。」

「口論はやめよ!名を名乗れ、朋民の登録票をもっているか?」

 軌バイジャンが由ミィヤルの肩をつかんで引き戻し、男の前に立つ。さすがにクワアット兵には強面も保てず、男達は卑屈に腰を屈める。

「お前達は病人や不具の者ばかりが集まっているそうだな。何故東側に勝手に抜け出た。」
「へ、へへすいやせん、長く野っ原に暮らしていると身体も弱くなって、流行病いの者を抱えてたら感染っちまうんですよ。そんなもんで、元気な内に余所にやってしまおうって御大人がオレらにお命じになったってことで。」

「王国は御前達にもちゃんと保護を与える。後でそちらの宿営地に連れて行け。」

 男達が出て来た薮の後ろがまだ騒がしい。多勢で荷物を奪いに来たのか尋ねてみると、彼らは4人でしかないと言う。元気に歩き回れる者はそんなに居ないと。

「アシュトン(由ミィヤル)さん、林の中にまだ人が居るのですか?」
「いえ、林の中は目の光る梟が居ておそろしいと、」

 野原の外縁に不用意に近付く幼児をどけようと由ミィヤルが近付いた時、茂みの後ろから黒い影が走り出る。
 とっさに幼児を庇おうと背を丸めて覆いかぶさる彼女に、それは抱きつき、担ぎ上げた。

「きゃああああ!」
「なんだお前は!」

 背の高い禿頭の男が、軌バイジャンに振り向く。赤銅色の顔は頬がこけ額には血管が浮き出、少女を抱える腕は枯れ木に似てごつごつと瘤がある。怪しい流紋を持つ薄墨色の衣は難民でも寇掠軍の兵でもない、噂に聞く人食い教徒を思わせた。口を耳まで裂いて笑うように歯を剥き出す。

「ぐはあ、クワアット兵か。」

 そのままに背後の薮に飛ぶ。人間一人を抱えているとはとても思えない軽い跳躍だ。刀を抜く間に、林の中に駆けて消えて行った。

「アレは! お前達の仲間か?!」
「し、知らねえ、あんな化け物ウチには居ねえ。」
「小隊集合ー!!」

 軌バイジャンの号令でカロアル小隊の全員が飛んで来る。難民達を掻き分け、伸びる草を踏み越えて横一列に並ぶ。凌士カドゥヲンは弓と矢筒を隊長に差し出した。

「これより私とカドゥヲン、キル・ミルは今この集団の代表者を掠った怪人を追う。ショウハン、お前に後を任す。日暮れまでに我らの帰りが無い場合はイヌコマ2頭に緊急の札を付けて道に戻し、そのままこの地で応援の到着を待て。手に負えない事態になれば躊躇無く撤退しろ。」
「はい!」

 邑兵の中で最も年長なショウハンに隊とイヌコマを托し、3人は怪人が消えた林の中に走っていく。連れて行くキル・ミルは一番はしっこく気が効く男だ。一応短戈と呼ばれる1メートルほどの武器を携えるが、やはり戦闘には使えない。

「隊長、わたしは何をすれば、」
「お前は戦わなくて良い。我らの後方を警戒し、囲まれていないか見張ってくれ。」
「わかりました。」

 カドゥヲンが先頭となって敵の痕跡を捜しながら行く。怪人は少女を抱えているから、いかに軽やかに走るとはいえちゃんと足跡を残している。猟人の持つ狩りの秘訣をクワアット兵も基本として教わる。

「隊長。ここで仲間と合流しています。数は多い、7人は居ます。」
「何者だ。」
「恐らくは脱走した難民の盗賊団かと。靴痕は軍用ではありませんが、得物の柄を突いた跡があります。」

「カドゥヲン、遠慮は要らん。アシュトン殿に当てないように、射殺して良い。」
「心得ました。」

 クワアット兵は弓術と長槍の操法をみっちりと仕込まれる。どちらもパートタイムの邑兵では習得出来ない高度な技術で、素人が武器を持っただけの盗賊団とは戦闘力の桁が違う。与えられる刀も刃渡り60センチと長く幅が厚く、良質で強靱な鋼を用いて甲冑にも食い込む強力なものだ。安物の刃は当たっただけでへし折ってしまう。
 十二神方台系の戦史において、最も組織的に訓練され統率が取れていると評されるのがクワアット兵だ。金雷蜒王国においても従来の兵制を改めて同等の訓練教程を有する重装歩兵隊を作ったほどで、望み得る最良の兵としてギィール神族が詩にも詠う。

 果たして彼らはまもなく怪人の一行に追いついた。むしろ怪人のみであれば逃げ切れただろう。訓練のろくにされていない盗賊と同行した為に速度が鈍り追手をまく偽装もできなかった。

「そこの者、とまれーい!」

 返事の代りに矢が飛んできた。なんとか距離は届いたものの狙いはでたらめ、全く脅威にはならない。
 一方カドゥヲンが射た矢はまっすぐに盗賊の射手の胸板を貫いた。弓の性能も違うのだから当然の結果だ。クワアット兵が用いる合成弓は民間では保有を禁じられ製法も秘密になっている。どこで武器を入手したか知らないが、丸木に弦を張っただけの古代めいた弓では太刀打ち出来るはずがない。

「もう一度言う。女を下ろし武器を捨てその場に停まれ。命だけは助けてやる。」

 遠目で混乱するさまが良く見える。盗賊団は逃げようとする者が左右で騒ぎ、隊長らしき男に叱咤されている。怪人は未だ由ミィヤルを右肩に抱えたままこちらをじっと見る。

 長柄のしゃもじに似た投石器を持つ男を、さらに射殺す。ついで軌バイジャンも矢を射た。怪人の足元を射てその場に留めようとしたのだが、生憎と外れる。だが意図は伝わったらしく、怪人は歯を剥いてこちらを睨む。女を抱えては逃げられないと悟ったか、由ミィヤルを地に下ろす。

「キル・ミル、大丈夫か?」
「はい、敵は居ないように思われます。」

 金雷蜒軍もこの戦争では様々な手を用いて来る。警戒小隊が少数の敵を追う内に誘い込まれ寇掠軍の罠に墜ちた、という噂は幾つも伝わっている。いかにクワアット兵が強くとも包囲されては苦戦が必至であるから、軌バイジャンも慎重だ。伏兵が隠れていないか注意深く確かめて、歩を前に進める。

 もう一人、盗賊団の隊長を射殺すと、もう抑えきれなかった。蜘蛛の子を散らして盗賊達は林の方々へ逃げ散る。怪人だけがそこに残った。
 だが彼は右腕の力だけで気絶する由ミィヤルを差し上げる。盾としてクワアット兵の攻撃を防いだ。

「もう逃げられないぞ。こちらに渡せ。」
「ぎ、ぎいりぎり。」
 歯軋りするに似た、いやな擦過音を発する。

 軌バイジャンは弓をキル・ミルに渡し、刀を抜いて歩み出る。幅広の刀身が木漏れ日に鈍く光った。

 カドゥヲンが狙ったままなので由ミィヤルを下ろせず、怪人は左の半身のみを軌バイジャンに向ける。薪の節くれに似た凹凸を持つ腕が怪しく揺らめき、素手とはいえ凄まじい殺気を放っていた。
 対する軌バイジャンもゆっくりと足元を確かめながら、間合いを詰めて行く。
 素手の格闘者は古代の戦場においても主力となった例は無いが、暗殺の場においては現役を続けている。警護も任務の内であるから兵学校でも教官から嫌というほど痛い目に遭わされ、熟達した格闘者がいかに強いか知っている。

 だが怯んではならない。呼吸を整え冷静に相手の意図を知り的確に反撃をしのいで行けば、装備の良い方が確実に勝つ。絶対的な勝利の確信と共に歩めば、相手を動揺させ隙を作らせる。

 遂に斬り合いの間合いに踏み込んだ二人は、互いの眼を覗き込む。軌バイジャンは怪人に、狂気とは逆の恐ろしく自制の効いた禁欲の意志を見た。

 怪人の腕から放された由ミィヤルが、ふらっとその場に立つ。
 自力ではなく、技によって無理やり立たされたのだ。夢遊病の人が夜に誘われるように、眼を閉じたまま風になびいて揺れている。
 カドゥヲンの弓は彼女が邪魔で怪人を射れない。軌バイジャンは思い切って踏み込み斬り払った。

 がいん、と刀が拳に叩かれる。武器を弾き飛ばさんと刀の横腹を殴ったのだ。狂人でもなければこんな真似はとても出来ない。
 更に二撃、振る刀を拳が受ける。ついでと言わんばかりに、兜の下の顔面に拳が飛ぶ。腕胸頭、どこを斬られても惜しくないと無防備に攻め来る拳技に、軌バイジャンは恐怖を覚えるも心を乱さぬ努力をする。

「(これは並みの人間じゃない。死ぬのを微塵も怖れていないな。)」

 兵ではない剣匠でもない、交易警備隊にもあり得ない。こんな武術の達人が一体どこから沸いて出たのだ。
 左手の小楯に拳の直撃を受けて軌バイジャンは体を揺らめかせる。一撃がとても重く、甲冑を装備していなければ腕を折られ肋骨を砕かれて殺されるはずだ。

 だが格闘はそこまで。カドゥヲンとキル・ミルが隊長を追って近づき、死角から矢を射た。怪人は振り返る事なく身を躱し、立ち木に刺さる矢を手刀でへし折る。無理に叩いたのではなく、手がすり抜けて行くついでに矢を切った、と見える鋭さだ。
 薄墨色の衣を翻し、二三歩大きく飛び下がる。飛んだ足の下には、先ほど射られた盗賊団の隊長が在る。瀕死の状態であるが、意識はまだある。

「…た、たすけ、た、」
「役に立たん奴!」

 怪人は腰に吊るす石刃の穿刀を抜いて、横たわる隊長の鳩尾を抉った。そのままぐいっと首の下まで胸を割り、左手を肉に突き入れて心臓を抜き取る。飛び散る鮮血にクワアット兵は度肝を抜かれて動けない。

 怪人は心臓を齧り顎を真っ赤に濡らし、笑う顔面の引き攣りを見せる。軌バイジャンに心臓を投げつけた。

「カロアル軌バイジャン。そして兵師監カロアル羅ウシィよ。聞くが良い。」
「!」

 我が名、我が父の名がいきなり出たので、軌バイジャンは驚くよりも戸惑った。もしやこの者と自分は過去に会った事があるのか。

「カロアルの一族よ、御前達に最悪の名誉を与えよう。うぬが足元にひしめく難民を皆殺しにする。黒甲枝の誉れを永劫まで地に塗れさせてやる。悔いるがよい、神聖なるゲイルの贄を奪った罪はかくも重いのだと。」

 気を取り直しカドゥヲンに命じて再度射らせるが、怪人は軽々と木々の間を抜けたちまち姿をくらました。追おうにも、足跡一つ残さない。

「隊長!」

 キル・ミルが由ミィヤルを保護し抱き留めている。立っては居ても気絶したままで、なかなか意識が戻らない。

「済まないが、おぶってやってくれ。」
「はい。」

 カドゥヲンと軌バイジャンは残された死体を確かめるが、有益な情報は何一つ得られなかった。武器の幾つかを破壊して、そのまま打ち捨てておく。本来は回収して弔うべきだが、野原に残した小隊がイヌコマを放して応援を求めるのを止めさせねばならなかった。

 

 

 気を失ったままの由ミィヤルを運んで元の野原に戻ると、すっかり陽が傾いていた。円形の草原が天の赤と林の黒とにくっきりと色分けされている。
 その中央に一本立つ古木の前に難民達は集まっていた。一人夕陽を正面から浴びる丈の高い男の前に跪き、言葉に耳を傾ける。

 隊長が戻って来たと駆け寄る邑兵に、軌バイジャンは尋ねた。

「あれは、誰だ?」
「いつの間にか、誰も知らない内に居たんです。青服の男です!」

 朱に染まって青いはずの衣の色が良く分からない。背が高く体格も良く顔形も美しく精悍な印象を与え、まるでカタツムリ神殿の俳優のようだ。方台では見ない袖が広く四角い服を着てやはり四角に見える帽子を被っている。少し戯画的な格好だが滑稽さよりもかっこよさが先に立ち、人気が出るのもうなずける。

 由ミィヤルが帰った事を知り、難民は急いで立ち上がる。キル・ミルの背から彼女を受け取ると天幕の中に連れて行った。

 軌バイジャンはその間じっと青服の男を見詰めていた。男も視線を投げ返す。対峙する二人の緊張に、見守る者は声を掛けるのもためらわれた。

「小剣令カロアル軌バイジャン様でいらっしゃいますね。」

 先に口を開いたのは青服の男だった。
 軌バイジャンは邑兵や難民が二人の会話に耳をそばだてているのを承知して、慎重に答える。

「我が名を知るとは、やはり父兵師監の威徳のためか。」
「もちろん左様でございますが、ここ数日の寇掠軍の注目は貴方様でございます。」

「ほお。一介の小剣令にそれほど執着するとは、何故だ。」
「貴方様はお気づきになりませんか? 世が流れ移ろい変わり行く、今が潮目にございます。渦の中心に立たれているのが、カロアル軌バイジャン様。」

「戯れ言はいい。」

 軌バイジャンは刀を抜き下に構える。難民の多くが驚き悲鳴を上げた。青服の男は涼しい表情のまま、笑みさえ浮かべる。

「剣では私は屈伏させられませんぞ。」
「分かっている。だが答えに命を賭けてもらう。お前は本当に青晶蜥(チューラウ)神救世主の御使いか。」
「是でもあり否でもあります。我らが主の利益に、ガモウヤヨイチャン様の為される御業がことごとく適う、とご理解ください。」

「お前の主は何者か?東金雷蜒王国の神聖王か。」
「さあてそれは、私にもよく判りません。先祖代々お仕えしても、御姿さえも拝見した事がございませんから。ただ命のみ届き従うだけでございます。」

「青晶蜥神救世主が主の利益に適うと言う。なにがどう関るのだ。」
「さあ〜て皆の衆!」

 ぼんぼんと太鼓の音がする。彼の後ろには従う女が居て、鳴り物を提げている。カモゾーが軌バイジャンの傍に寄り、そっと囁く。
「あれが杣女でございます。前に見た女とは違いますが、魔法を使いますんで御用心してください。」

 青服の男は軌バイジャンから眼を逸らし、息を呑んで見守る難民達に問いかける。

「さあ〜てさてさて皆の衆、みんなが望む新しき世、ガモウヤヨイチャンさまの王国とは、いかなるものであるべきや。」

「暮らしたい!」
「ひとつところに暮らしたい!」
「誰からも蔑まれずに暮らしたい!」
「賢き人に導かれ、餓えぬように凍えぬように、子供も元気に暮らしたい!」

 邑兵の制止を振り切り口々に叫ぶ難民に、軌バイジャンは心の中でたじろいだ。これではまるで褐甲角王国こそが彼らの敵ではないか。
 青服の男は皆の意見を吸い上げるように掌をひらひらと上に振り、また下に押さえて黙らせる。

「おやおやそれではカロアル様がお困りだ。勇猛信義で知られる黒甲枝、額に輝くカブトムシの聖蟲を戴かれる御方だ。困らせてはなるまいぞ。」
「ふざけたことを、お前達青服の男は寇掠軍の手先となり、兵を中に引き入れているではないか。」

「さてそれだ!」
 ぱん、と大きな音がして、男の手には半円に広がる扇が有る。描かれている絵は、青い頭に輝く金の角、丸い瞳がまっすぐに見るピルマルレレコの人頭紋。

「ガモウヤヨイチャンさまは御憂慮になられる。人は何を求めて生きるべきか。安泰か健康か富貴であるか、いやいや違うそうではない。そんなものならいと易き。」
「…なにを言っている?」

「生々流転の世の中ぞ、変らぬものなどあるものか。朝に黄金に輝く人が、夕には泥に屍をさらす。色に迷いて暗中模索、つかむは剣か毒虫か。明日の事も分からぬに、ガモウヤヨイチャンさまは千年先をも御覧じになる。」

 左手にかざす扇を翻すと、長い黒髪の少女の顔がある。これこそまさに青晶蜥神救世主の写し絵だ。難民達がはっと上げる顔にぱんと扇を閉じ、まっすぐ軌バイジャンに突き出した。
口調を改めおごそかに言う。

「ガモウヤヨイチャン様は褐甲角(クワアット)神の使徒には強きを望まれる。民を庇い世を護る、何者にも代え難き勇気の翅をお求めになる。」
「なにを当たり前な、」

「ただ勝てば良いものではない。人の目民の目歴史の目、観る者無くては勝利も虚し、万人が望む中での勲が必要だ。来る千年に黒甲枝は、その誉をこそ纏うべき。」

 軌バイジャンは頬が怒りに赤く火照るのを感じる。
 この者が述べるのは、人死を山と積んだ上に功名争いを競えと神兵をけしかけるのと同じだ。民の安寧こそ褐甲角王国の使命であり、青晶蜥神救世主もその志を共有するはず。いや、それが無い者を救世主などとは認めない、断固として。

「流血を弄ぶお前達が救世主の使いであるはずが無い。そうであっても俺が許さん。」
「そういう御方だからこそ、我らは貴方に注目する。否やと申されるなら如何にと問わん。さてカロアル様は?」

 ぐっと手にした刀に力を込める。夕闇迫る紅の下、囲む誰もが胸苦しい緊張に息を呑む。だが軌バイジャンは、

 刀を戻し鞘に収め、背を伸ばして改めて青服の男に問う。

「来るのか、ここに。ヌポルノ村に。」
「参ります。」
「難民も埒外ではないな。」
「ギィール神族の殿様方におかれましては、難民達にも自らを救う気概を持たせるべしと、敢えて鞭を振るわれます。」

「お前達は戦の後にも現われて傷付いた者を救うのだな。いいだろう、この場は去れ。勝った後にまた会おう。」

 でんでん、と太鼓が鳴り金輪がしゃりんと明るい音を響かせる。
 青服の男は幅の広い袖を翼のように拡げながら御辞儀をし、ばらばらとちいさな包みを幾つも撒いた。輪になって取り巻いていた難民達は我先にとそれを拾う。中身は僅かばかりではあるが、普段は買えない高価な薬品だ。主に毒消しと胃腸の薬風邪薬で、野外に天幕を張って暮らしている彼らには金よりも貴重な品だ。

 でんでんででんしゃりんりん、と音が遠く霞んで行くのに我を取り戻し、カドゥヲンが軌バイジャンの傍に寄る。

「よいのですか、捕まえて本部に連行しなくても。」
「あれは捕えられん。それに、それどころではない。」
「はい、寇掠軍が確かに来ると聞きました。」

 彼らが去った林の先には遠くカプタニアの聖なる宿り木がある。西に黒く聳えるのはベイスラの大山だ。
 軌バイジャンは兜を脱いで髪をそよぐ風に掻き上げた。暮れる大気には既に秋の気配が漂っている。夏ももうすぐ終る。

「武徳王陛下はいかがなさるだろう。只事ではないぞ、ガモウヤヨイチャン様の手の長さは。」

 力が欲しいと思った。今こそ黒甲枝は聖蟲の力を活かすべきだ。だが神でさえも、青晶蜥神救世主の計算の糸に搦め取られているのだろう。
 軌バイジャンは息吹を感じる。ガモウヤヨイチャンの生身の身体が傍に在ると、急に覚えた。世界が確かに変わり行く音を聴いた。

 この音は、若者を呼んでいるはずだ。

 

 

 難民移送団司令部は軌バイジャンの報告に、改めて騒然となる。

 寇掠軍のヌポルノ村への襲撃は極めて確度が高いと分析され対応に追われるも、所詮は軍事的に価値の無い場所、集団への攻撃である。陽動の可能性も示唆され、ベイスラ・エイベント両兵団の防衛司令部は特段の対抗措置を講じなかった。ベイスラ穿攻隊が一部移動を命じられたのみだ。

 だが兵師監カロアル羅ウシィは、この攻撃の政治的意味を理解し戦慄を覚える。
 何重にも兵の壁で護られる難民が、にも関らず襲われて大量の死者を出せば王国の威信は地に墜ちる。影響は常民にも及び、支配体制に抜きがたい不信を抱かせるだろう。
 褐甲角王国を土台から腐朽させるこの策は、一身に換えてでも防がねばならない。羅ウシィは自ら即応体制を取ると共に、麾下の神兵3名をヌポルノ村へ集合させた。

 一方カロアル輸送小隊は、相変わらず東側の難民宿営地を巡る。
 軌バイジャンは自分が注目され狙われていると知りつつも、他の隊と交代するのを拒んだ。これは勇に逸ったわけではなく、どうせ攻撃があるならば十分警戒している自分の隊の方が退け時の判断を下し易く生存の可能性が高いからだ。軌バイジャンはこれでもゲイルの顎を頭上に眺める体験をした希有の存在だ。あの時死んでいたと思えば、肝も座る。

 そして小隊はふたたび円形に広がる野原に入る。
 由ミィヤルの難民隊は彼の勧めにより安全な場所に移動した。今居るのはその後に入り込んだ者達で、数も10数名しか無い。カロアル小隊は避難を勧告し物資を少量渡す。やはり追いやられた弱い立場の者で、地に身体を投げ出して礼をする卑屈さに兵達も哀れを催した。

「隊長! あそこに!?」

 邑兵のキル・ミルが目ざとく彼を発見した。
 林の間に立つ幽鬼の影は、まぎれもなく先日遭遇した禿頭の怪人だ。今回衣が少し変り、同じ灰色でもスガッタ僧の僧衣に見える。やはり武器を携えず、真っ直ぐこちらを見詰めている。

 凌士カドゥヲンが軌バイジャンに警告する。

「これは囮です、迂闊に手を出してはなりません。」
「分かっている。だが敢えて罠に踏み込んでみなければ、別の場所で不意打ちを食らう。イヌコマに緊急の札を掲げさせろ、放つぞ。」
「はい、準備します。」

 弓に矢を番え邑兵も各々武器を構えて、慎重に怪人との間合いを測りながらカロアル小隊は進む。イヌコマの背の荷はその場に落とし、難民に拾わせるままにする。

 怪人はかろうじて矢の届く距離を保ちながら後退し、林の奥に紛れて行く。
 表情は無い、先日の獰猛さが嘘に思える静かな、死人の面だ。おそらくはこちらが彼の本来の姿なのだろう。猛る獣は討つのにむしろ容易い。決して動揺せず欲望に走らず、執念深く丹念に合理的な動きを続ける者こそ真に恐るべき敵だ。

 軌バイジャンは小隊の先頭に立ち、兵を率いて林に踏み込む。冷静に、慎重に、細心に。
 彼は自分の役割をしっかりと認識している。敵の攻勢を察知し、いち早く襲撃情報を司令部に届ける。戦ってはならない、邑兵を傷つけてもならない。よりよく敵と遭遇し、速やかに安全に逃げるのが彼に課せられた任務だ。

 

 林の奥に見え隠れする怪人の顔は、心なしか喜びに満ちている。

 

 

第九章  ここが峠。

 

 創始暦五〇〇六年夏旬月廿五日、いつもより暑く激しい夏が終ろうとするこの日、ベイスラは今次大戦始まって以来の大規模襲撃を受ける。
 数日前からベイスラの国境周辺は多数の寇掠軍の接近を確認し、どこの砦も臨戦体制で警戒して居た。十九日にはヌケミンドルにおいて史上最大と呼べる攻撃が敢行され、あろう事か武徳王の本陣にまでゲイル騎兵が肉薄する事態まで出来する。金雷蜒軍の意気込みはまさに千年紀を締めくくるにふさわしいもので、神兵もクワアット兵も覚悟を決め死地を此所に定めた。

 難民移送団に従うカロアル輸送小隊は特命を受けてスプリタ街道東側の難民宿営地を回り、敵の侵入の前兆を探っている。
 小隊長カロアル軌バイジャンが入手した、寇掠軍が滞在する難民を直接に攻撃する作戦は極めて確度の高いものと推測された。
 無辜の民衆を守りきれないとなれば、民衆の擁護者としての褐甲角王国の威信は地に墜ち、来る青晶蜥神時代において存立の根幹を脅かされる。難民移送団司令部の置かれたヌポルノ村には少ないながらも完全装備のクワアット兵が待機し、父カロアル羅ウシィ兵師監が直接迎撃の指揮を執る。

 

 早次刻(午前10時)過ぎ、カロアル小隊は先日遭遇した謎の怪人を再び発見し、林の中に追っている。

「隊長、奴はどこまで逃げるんでしょう?」
「逃げるんじゃない、誘っているんだ。気を抜くなよ、いきなり敵の囲みの真ん中におびき出されるぞ。」
「ひい。」

 カロアル軌バイジャン小剣令は指揮下にある邑兵を二つに分け、一班を途中の草原にイヌコマと共に残した。運動能力と判断力の高い者のみを選び凌士カドゥヲンと合わせて計10名、連絡用にイヌコマ5頭を連れて強行偵察に及んでいる。

 彼らが追う怪人は一見するとスガッタ僧にも見える禿頭の男性で、林の中をカロアル小隊が遅れぬよう距離を保ちながら東へ、国境線の方へと進む。木漏れ日の明暗に衣を塗り分けて、跳ねながら走っていく。
 弓で射れない距離ではないが、侵攻してくる寇掠軍本隊にまで案内してもらわねば早期警報を出せない。広い林にわずか500人ほどの人数を投入するのだ、確かな位置情報こそが防衛成功の絶対条件となる。

 ベイスラの国境線は毒地からの風を遮る林と畑が交互に列を為している。これはゲイル騎兵を防ぐ為の防衛施設でもある。巨大なゲイルは木立の中では自由に動けない。切り倒して道を拓くには手間と人員が必要となるので、どうしても「道」を通らねばならぬ。適切な配置で見張っていれば、寇掠軍の到来を早期に察知出来る仕組みだ。

 だがあまりにも長大な林を監視する目は行き届かず、昨今では脱走した難民がこの中に隠れて独自に武装し褐甲角王国の支配に抵抗する。寇掠軍と呼応して領内深くに侵入する手引きを行い、掠奪した財物の輸送を引き受ける始末だ。いずれ徹底的に討伐しなければならないが今次大戦の急な勃発に間に合わず、褐甲角軍は苦渋を嘗めている。

 

「先発のイヌコマはもうヌポルノ村に到着したか?」
「おそらくは。」

 凌士カドゥヲンは軌バイジャンの下に付く唯一のクワアット兵だ。二人が持つ長弓のみが実質有効な武器であり、寇掠軍と戦うなどは最初から考えていない。あくまで偵察に徹し敵の正確な位置を確認通報し、安全に撤退するのが彼らの任務である。
 イヌコマは賢い生き物で、危険に遭うと自分で勝手に走って最寄りの宿場や駅、軍の駐屯地に居る仲間の中に駆け込んで行く。この習性を利用して、急を要する救援要請や警戒情報はイヌコマ単独で送られる。特に見通しの効かない林の中ではこの方法に依存する。元々森林地帯にも住むイヌコマは小さな身体を巧みに使いどんな複雑な森でも軽く越えて行く。一度行った道はしっかり覚えて間違えず、人が道案内をさせるほどだ。

 軌バイジャンが5頭のイヌコマを伴うのも両方の特性を用いる為で、敵を発見した場合直ちに詳細を待機班に送り、残して来た24頭のイヌコマによって周辺全域の部隊に迅速に届けさせる。偵察班自身は1頭を道案内に残して林を迷わずに撤退する計画になっている。

 

 怪人を追って早1時間。時計の無い十二神方台系においては時刻は日の登り具合で図るが、林の中では分からない。正確な経過時間を推定するのも、クワアット兵に叩き込まれる技能である。

 畑に出た。怪人は無防備にも雑草が生い茂り穀物と区別がつかなくなった畑を走る。この辺りの畑はヌポルノ村の端村と呼ばれ、数家族ずつが農期の間だけ住み耕すようになっている。今年は戦争でまったく農作業が出来なかった為に荒れているが、本来であればトナクがもうそろそろ固い実を着ける頃だ。

「隊長、まだですか?!」
「このあたりでイヌコマを放ってはどうです?」

「まだだ。まだ敵の本隊を確認出来ない。」

 緊張感から逃げ腰になる邑兵達を叱咤し、軌バイジャンはなおも追う。畑の向うの林はおそらく国境から3番目の列で、もはや最前線と呼んでよい。ヌポルノ村から南に2キロほど下った位置になるか。国境線は北に砦が南にエイベントの支城が設置されており、中間点のこの辺りがちょうど手薄となる。監視隊が常駐しているはずだが。

「おかしい。人が居ない。」

 凌士カドゥヲンも同じ感想を述べた。いかに端村から村民を避難させたとはいえ、これほど人気が無いのは不自然過ぎる。邑兵の監視が一人くらい見えて当たり前だ。この畑は寇掠軍の監視で見晴らしをよくする為にも横長に開いてあるのだから。

「既に始末されたのかもしれない。イヌコマを1頭、念の為に放っておこう。」
「はい。」

 現状を葉片に記して緊急の赤い板札に挟み、たてがみの前に掲げて尻を叩く。イヌコマも長く続いた緊張からすっかり苛ついており、すっ飛んで後ろの林に消える。寄り道をするのはイヌコマに限って考えにくい。本来臆病な動物で一刻も早く仲間に合流したいのだ。

 怪人が遠く振り返るのも構わず、いかにも伏兵が潜んでいそうな溜め池の周辺を慎重に確かめ、偵察隊は次の林に入る。灰色の衣の裾をなびかせ、軌バイジャンを案内するのが自分の役目と言わんばかりに、派手な身振りで怪人は走る。

 邑兵でも気の効くキル・ミルが隊長に言う。

「隊長。この辺りまで来ると、もう道案内に奴は要らないんじゃありませんかね?」
「む、確かに東に真っ直ぐ走り始めたな。カドゥヲン!」
「なるほど、これ以上は逆にこちらの位置を敵本隊に知らせるだけかもしれません。隊長。」
「良し。奴を射るぞ。」

 偵察班は再び歩みを緩め、怪人が立ち止まり誘うのを待つ。軌バイジャン達は慎重に薮を確かめる振りをして、カドゥヲンの姿を隠す。

 果たして怪人は、不用意にも60メートルまで偵察班に距離を詰めさせてしまった。通常の射手ならばなかなか当たらない距離だが、クワアット兵は十分必中を狙える。軌バイジャンが密かに指図して「南の方になにかある」と邑兵に騒がせ、怪人の気をそちらに逸らせる。

 ふ、と顔を向けてしまったのが命取りだ。隙を見逃さずカドゥヲンが邑兵の壁の後ろから必殺の矢を放つ。怪人が気付いた時は遅かった。避ける仕草をしたようだが、右腕に当たる。

「!!!…。」

 ぱあんと弾かれるかに木の陰に姿を隠すと、そのまま行方も定めず逃げて行く。あまりに早いので有効打ではなかったのかと思ったが、彼が居た場所を確かめるとかなりの血の跡がある。

「先日の借りは返したな。」
「どうしますか、このまま東に進みますか。」
「うん。ただし、手筈通りに草を被り偽装して行く。直ちにかかれ。」

 林の下生えの草を刈り束ねて、巧みに甲冑を覆い隠す。夏の暑さ対策にクワアット兵正規の鎧ではなく、籐甲と呼ばれる籐の蔓を編んだ鎧に鉄の装甲をぶら下げているから、偽装するのも簡単だ。邑兵は更に廉価な籐甲を用いている。勿論イヌコマの背にも草を被せる。
 この作業はここ二三日しっかりと練習してきた。軌バイジャンも無策で危険な任務に志願したわけでない。

「よし行こう。」

 ベイスラの防風林は木の間隔が狭く人の足でも通りにくい。完全に平坦な地にあるわけでもなく畦のように土を盛って植えており、寇掠軍の迎撃をする塹壕線の代りになる。
 もっとも今回その長所を難民の武装集団や盗賊団に逆用されてしまった。軌バイジャン等も身を隠しながら前進し索敵する。

 慎重に進んで40分ほどで目標を発見する。

「し、あの白い物は、しろい、」
「狼狽えるな、あれがゲイルだ。」
「で、でかいなんてものじゃない。まるで、まるで、」

 初めてゲイルを目の当たりにした邑兵達は恐怖に包まれてぴくりとも動けなくなる。体長15メートルを越え屋根の高さに体節がある巨蟲に、1キロほどの距離がありながらも気を呑まれたらしい。
 凌士カドゥヲンが隊長に変わって小声で叱咤する。

「腹に力を入れてぐっと前を見ろ。本当に恐ろしいのはゲイルではない、兵の方だ。よく敵を監視しろ。」

 実際寇掠軍に襲われた場合、ゲイルに気を取られて戦いを忘れ兵に討ち取られる事態がたびたび発生する。クワアット兵でさえそうなのだから、邑兵ならば腰を抜かしても不思議はない。
 軌バイジャンは冷静に敵の配置を見詰め、兵力の展開を分析する。彼のここでの判断と報告が、その後の戦の帰趨を制する。

「ゲイルは8体確認、おそらくは10居ると思われる。1寇掠軍よりも多い。兵数もやはり多いだろう。だが、カドゥヲン。」
「はい。南北の林の中にかなりの人数が隠れていると思われます。」
「難民の武装集団が寇掠軍に従っているのだ。数は、…たぶん300よりずっと多い。」
「ひょっとすると500ほどはあるのかもしれません。」
「500でいこう。」

 敵の姿を確認したからにはもうこの場に用は無い。軌バイジャンは葉片に兵数と場所時間をしたためてイヌコマの赤札に挟み、見付からないように班を後退させる。せめて林を出て畑に入ってからでないとイヌコマを放すのにも支障があるし、逃げにくい。

 カドゥヲンが敵の動きを観察して警告する。

「来ます!」
「うん、バレたな。」

 ギィール神族の額のゲジゲジの聖蟲は、直径7里(キロ)の空間内を障害物に邪魔されずに知る。ゲイルを視界に入れるはるか前からカロアル小隊の存在を彼らは認識していただろう。
 だが神族はささいな物事にはこだわらない。むしろ彼らの兵の能力を試すかに知らない振りをするものだ。軌バイジャンがカプタニアの兵学校で習ったギィール神族の風習ではそういう事になっていた。また、彼我の距離が1キロ以上も離れて居た場合人の足ではたしかに処理しづらい。細かく指示し過ぎるのも問題が多いのだろう。

 軌バイジャンは既に敵の包囲内にあるとの前提で撤退を行っている。イヌコマの報告がちゃんと迎撃隊に届けば彼の勝ちではあるが、ぎりぎりのところで逃げ切る勝算は有る。
 彼は改めて邑兵に命ずる。

「これより畑に下りたところで一気に走りぬけ、四の林に入る。決して隊列を乱すな、バラバラになって方向を見失ったら容易く狩られる。練習したとおりに、最後まで全員一緒に行動するのが命を拾う最善手だ。」
「はい!」

「よし、…イヌコマを放せ!」

 勢いよく尻を叩かれた3頭のイヌコマが彼らに先駆けて畑を走り、林の中に飛び込んで行く。無事に本隊の元に届けよと祈る。
 偵察班は、ここ数日の間まとまって逃げる訓練を繰り返して来た。逃げるだけではと邑兵達は不満を漏らしたが、現実にゲイルを見た後はまったくにこれで良かったと納得する。

 偽装の草を振り捨てて見晴らしの良い畑を走る彼らに、林の中から矢が飛んだ。矢飛びに力が無いから、難民の武装団が先手となって追っていると見た。これならば大丈夫。
 カドゥヲンが姿を不用意に見せた敵の一人に正確な一撃を加える。ついで軌バイジャンも同じ場所に撃ち込み、草の中に絶叫が上がる。
 その悲鳴を合図に左右から数十名の薄汚い兵士の姿が現われる。何ヶ月も林に留まり褐甲角軍の哨戒部隊から逃げ回って来た難民だ。なんのまじないだか葬送用の仮面を被っている者まであり、おどろおどろしく死の雰囲気を掻き立てる。

「難民500、では少なかったかもしれないな!」
「はい、もう少し多いかも。」

 カドゥヲンと軌バイジャンは派手に矢をばら撒いて敵の接近を食い止める。今回矢は幾らでもある。自分が持つ40本に加えて、邑兵達にも予備をたっぷり持たせている。必要であれば高台に留まって敵を釘づけにし味方の到着を待つ事も出来る。
 1頭残ったイヌコマの手綱を引いてキル・ミルが撤退の先頭を務める。イヌコマが居る限りは見通しの効かない林の中でも方向を間違えない。彼らには伏兵の存在に備えて、目を鍛えさせてある。偵察行に連れて来た8人はいずれも警戒能力に優れている者だ。

 クワアット兵2人を殿に、4番目の林の列に入る。立ち木を楯に矢を射て、3人程に重軽傷を与える。さすがに追跡隊も怯み、警戒して足が鈍る。

「うん、行くぞ。」

 

 撤退は1時間にも及び、ようやくヌポルノ原がある元の林の列に到達する。

 その間偵察班は徐々に増えて行く敵の人数に脅かされながらも、無傷で走り続けた。彼らを追う人数に、次第に正規の兵も混じって来る。寇掠軍侵入の報が放たれたと知り行軍を早めたのだろう。
 ゲイルの姿もちらちらと見る。林の高い梢に白い骨が横に並ぶ姿を邑兵達が確認するが、近付いては来ない。ゲイルは人よりもはるかに早いが、彼らの獲物としては軌バイジャンの偵察班は小物過ぎるのだ。
 やはり追跡の主役は難民だ。彼らは手柄を示そうと、小人数で脅威も少ない邑兵をを血眼になって追い続ける。近寄り過ぎてはカドゥヲンと軌バイジャンに射られ、地に転がる。

 うおぉおんと角笛が鳴り、ついで金管の喇叭の高い音がする。林を走る音がぴたりと止み、偵察班だけが突き進む。

 きゅああああっと、鏑矢が空高く打ち上げられる音が、青い空を劈いた。

「援軍だ! ヌポルノ村の本隊が到着した!!」

 必死で走り抜き疲労の極にあった邑兵達も軌バイジャンの言葉に歓喜の声を上げ、残る力を振り絞って薮を進む。後少し、もうすぐ味方と合流出来る!

 背後からこれまで聞いた事の無い轟音が迫って来た。嵐に幹がよれ突風に葉枝がもぎ取られる音に似た、圧倒的な力の証明だ。振り向く事すら許されぬ恐怖を感じ、カドゥヲンも軌バイジャンもただ走る。
 だが追いつかれる。このままでは全員が呑み込まれてしまう、と軌バイジャンは決断し弓に2本の矢を同時に番え、その場に止り振り向いた。

「隊長ー!」

 カドゥヲンの叫ぶ声を、軌バイジャンは白い死神の懐に包まれながら聞いた。

 

     ***

「ジムシ、やられたな。」
「は。少しばかり敵を侮りました。」
「よい。しばし手当てを受けて、追いついて来い。」

 

 廿五日のベイスラ県への総攻撃は、寇掠軍30箇隊神族200名が参加する極めて大規模なものだ。兵数も3000を越える。
 しかし兵力を集中することはなく、南北三ヶ所に分れてそれぞれ独自に戦う。エイベントとの県境付近、ヌポルノ村への浸透攻撃を含む南部地域への攻撃は、諸派の連合を主体とする10隊60騎1000人が動員された。

 何故兵力を集中しないのか、は寇掠軍の本質がそうであるからとしか言いようがない。
 最強の戦力であるゲイル騎兵は、また最大の弱点でもある。ギィール神族は各々の責任と負担で兵を募り参戦しており、戦後は兵士達に報酬を払わねばならぬ。神聖王や金雷蜒王国の為などの抽象的な目的に殉ずる事は許されない。
 要するに、自らは傷付かず利益は最大に獲得するのが寇掠軍の基本原理で、護りの固い防御陣地は本来避けるべき目標なのだ。

 また好敵手たる褐甲角(クワアット)神の聖蟲を有する神兵は、神族をして怖れさせる程強かった。通常の寇掠軍であれば、たった一人の神兵に遭遇した場合でも撤退するのが上策とされる。彼らの持つ鉄弓は射程距離が神族の弓の倍以上、6騎のゲイルが逃げ遅れ全員射竦められてしまう例も少なくない。鉄箭は強靱なゲイルの甲羅も軽々と抉り貫き、巨蟲に容易に致命傷を負わせる。
 兵を大量に送り込み数を頼みに攻撃しても、神兵1人が100をあっさり薙ぎ払う。尋常の白兵武器はまるで効かず、むざむざと討たれるのみ。数百キロの重甲冑を装備していても裸の人間より早く走るので、逃げ切れない。

 つまり、神兵を相手にしていては命が幾つ有っても足りない。
 褐甲角軍の備えを拡散させ神兵の手の及ばぬ領域を作り出し、常人の兵のみが守る空間を作り出す。脆弱な一般兵や民間人に人死を多く出し間接的に損害を与えるのが、今次大戦において一貫して用いられて来た戦術だ。今回もそれを大規模同時に行ったに過ぎない。

 総攻撃に先んじてベイスラの寇掠軍連合は廿三日から国境線近くに進軍し、最前線の防御陣地へしきりと示威行動を繰り返し、その裏で国境内部へ侵入し背後から襲う浸透攻撃隊を組織していた。

 

 寇掠軍『ウェク・ウルーピン・バンバレバ(永遠の護手との邂逅)』と『ジョガ・ジョマン・ハプ・リケル(贖罪を求める芝上の誓い)』を主体とするヌポルノ村への浸透攻撃隊はゲイル騎兵16騎を擁して進軍する。

 黄金の甲冑に光る槍、色とりどりの旗や指物。タコ樹脂の薄く透ける楯を何枚も連ね、どの騎櫓の上も花が咲いたように華やかに見える。山狗の仮面を付けた狗番達も蛤様の重厚な甲冑に身を包み、神族を護る。
 ゲイルの足元には剣匠剣令が美々しく飾った甲冑に夏の朝日を浴びて煌めく。鋼をかざす兵に的確に指示を下して、ゲイルの周辺に戦の準備を調えていく。
 兵はゲイルに曳かれた陸舟から降りて、様々な兵器を取り出した。いずれも神族が特に手を加えた最新のもので、その能力は褐甲角王国の水準を越える。

 払暁に進発し、無事に国境線を抜け草原を越えて防風林に到った部隊はここに陸舟を捨て、いよいよ本格的に敵地深奥に侵攻する。
 ゲイル騎兵16騎の内4騎はここに留まり陸舟と退路を守った。

「では、首尾よく大物を釣り上げて来るが良い。」
「お互いに健闘を祈る。」

 残るのと進むのと、どちらが激戦に遭うか分からない。一応この場所を監視していた兵はひそかに始末したものの、連絡が滞れば必ず確認に来るだろう。神兵の3人でもが撤退時にここで待ち伏せれば、攻撃隊は全滅する可能性すらある。陸舟を失えば兵は草原で孤立無援に追撃を受け、むざと殺される事になろう。

 

「お、参ったな。」

 浸透攻撃隊の上将を務める『_・バンバレバ』のカプタン雁ジジは、足元に平伏する難民集団代表の歓迎の辞をゲイルの背で受けた。

「殿様方の御来駕を仰ぎ、恐悦至極に存じます。我ら800の難民が先導し、金雷蜒王国の御為に命を捨てて尽くします。」
『うむ、800とはよく人数を集めた。王国への帰参を叶える為にも、抜群の働きを示すのだ。』
「ははあーっ。」

 応答は雁ジジの狗番が行う。神族が語るギィ聖音の言葉は並みの者には分からない。分からないからこそ有り難みもある。

 難民の武装集団や盗賊団は元より統一された作戦など望めない素人の小集団ばかりだ。が、ここ1ヶ月の内に防風林の木をかなり伐り、ゲイルの為の侵入路を幾つも開けてそれなりに役に立って来た。潜入工作を行い事前の準備を周到に進めた剣令達の成果である。
 剣令の勧めに従い、雁ジジは男を彼らの将と定めた。ギィール神族により認められ、彼は新しく『支援攻撃バンド(カースト)』の長となる。山蛾の絹で居られた肩帯を贈られ、ゲイルの背に特別に乗る事を許された蝉蛾巫女エローアの祝福の唄を聞き、彼は歓喜の涙に咽んだ。

 

 今回の浸透攻撃には、三種類の兵が参加する。一般的に奴隷兵と呼ばれる公募した素人の兵はほとんど用いない。代りを難民の武装集団が務める。
 主力となるのは剛兵と呼ばれる神族子飼いの民と、戦闘バンドに属する傭兵だ。

 傭兵はまたの名を「鐡兵」と言う。その昔神聖金雷蜒王国が誕生して間も無い頃、鉄の武器の使用はギィール神族のみに許される特別なものだった。神族だけが強力な剣、槍、弓、鎧を用い、戦場において無敵の強さを誇る。当時は神族は不死とすら思われた程だ。
 時代が下り神族が貴族化するに従って、戦闘バンドの奴隷や傭兵が戦場の主役となる。初期の内は彼らは紅曙蛸王国時代のままの旧い武器しか使わなかったが、やがて金属製の武器の使用が認められ、鋼の武器が許され、ついには神族と同等のものを与えられる名誉を受ける者も現われた。

 彼らは自らに与えられた特権を誇示して『鐡兵』を名乗り、その名が今も継承されている。
 傭兵を率いるのは戦闘バンドにおいて上位の家系に生まれた「剣匠」である。武術の腕はもちろん優れているが、それ以上に特別な家系に生まれた血の支配力がものを言う。一族に伝わる秘伝の武術や兵法を受継ぎ、神族の楯となり槍先となって戦場を真っ先に駆抜ける。

 これに対して、普通の兵を率いるのが「剣令」だ。彼らは戦闘技術よりも兵を動かす技術の専門家であり、統率や兵站に関して十分な知識と訓練を積んでいる。
 今回彼らが率いる「剛兵」は、特定のギィール神族の恩を受け先祖代々使えて来た奴隷の一団である。

 奴隷はそれぞれ職種別にバンドが分れているが、主人が一人であるからには互いに連帯感情も生まれる。恩有る神族の呼び掛けに応じて戦場に供をすれば、この「剛兵」の身分を得る。神族の準家臣となるわけだ。
 剛兵は様々な特権を持つ。神族の許可無く他に派遣される事が無い。その地では他のバンドの者と結婚も出来る。自分の子を狗番に召し上げてもらう事もある。武器の携帯と訓練も許されるので、一段高い身分として扱われもする。
 施される恩義に報いるべく、一朝事有る時は神族の為に命を捨てるのが彼らの望みであった。

 その機会を与えるのもギィール神族の徳とされる。
 『_・バンバレバ』に属する剛兵の内20名は上将カプタン雁ジジに縁の者だ。彼は寇掠軍マニアであり、故に徳の高い神族と崇められている。また他の神族が抱える剛兵を借り受け、彼らに代って経験を積ませるのも請け負っていた。

 

「それにしても兄上、朝のあの報告は真でしょうか?」

 イルドラ丹ベアムは準備の喧騒の中、兄イルドラ泰ヒスガバンに尋ねた。神族をして驚かせる報が出陣直前の彼らの天幕に、遠く本国から届けられたのだ。
 泰ヒスガバンも首を横に振る。いかに聖蟲が知識を与え周辺の状況をつぶさに見るとしても、遠く東の海の先まで届きはしない。

『褐甲角王国キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女が率いる赤甲梢の神兵がギジシップ島に上陸侵入し、神聖宮に到達。神聖王と和平の交渉に入った。』

 これが真実であれば、以後毒地でも一時停戦せねばなるまい。
 いかにギィール神族が同格を任じていても、聖蟲の繁殖と聖戴を司る神聖王は一段貴い王国の最重要人物だ。彼の人が和平を受入れたとなれば、一度兵を退き、神族全員で王国の方針を討議せねばなるまい。戦争の継続は後回しだ。

 泰ヒスガバンは軽く瞑目し、妹に言う。

「せめてもの慰めは、報せの届くのが今朝だった事だ。今更総攻撃は止められない。」
「確かにそれは有り難い。総攻撃も無しに撤退では、戦絵本も締めくくりに困ります。」
「だが次の攻撃は無い。是非とも今回目的を果たさねばな。」

 

 彼ら浸透攻撃隊が突入を開始する頃、北の砦と南の支城に対して寇掠軍連合・南部本隊が一斉攻撃を開始した。泥と平原に守られる乾ききった戦場だ。寇掠軍は盛大に火を用い新兵器で攻め掛かるだろう。
 これとは逆に、浸透攻撃隊では火の使用が禁止されている。林の中での火を使えば当然延焼を招き、攻撃隊自身が火に包まれる怖れがある。弓や槍、ゲイルによる突撃といった古典的な手段のみを用いる事に取り決めた。無論状況に応じて適宜使用するが、上将の判断に任せられる。

 というわけで丹ベアムは自分が持って来た飛噴槍や火焔筒をキシャチャベラ麗チェイエィのゲイルに預けてしまった。ゲイルによる格闘戦であれば軽い方が有利。麗チェイエィは補助的な任務に留まると決まっていたから、荷物運びにこき使おうというわけだ。

「遭遇してもいきなり戦闘に及ぶわけではないぞ。双方共に大軍を擁して戦う時は、準備や儀式の時間を与えると作法に決まっている。」

 麗チェイエィは当然嫌な顔をした。だが誘惑に勝つには、最小限以上のものは他に預けておいた方が良い。雁ジジも『_・リケル』の神族から飛噴槍を多数預かった。計100本にもなる。

「いくらゲイルでも、これはやはり多いな。疾走できないぞ。」
「上将を走らせるなどさせぬ。それに、狩りに火を用いるのは無粋であるからな。」

 『_・リケル』の上将は雁ジジよりも年少で、当然雁ジジに全体の上将を任せた。上将という立場はこのように自重を義務づけられるので、他が代ってくれるのは大歓迎だ。思う存分に戦える。
 さすがに雁ジジは彼をたしなめる。

「狩りの気分は捨てよ。この戦は千年に一度の神競べだ、遠くでガモウヤヨイチャンが見ているぞ。」
「分かっている。トカゲ神救世主に恥ずかしい姿は見せぬよ。」

 

『_・バンバレバ』の残り二人、カマートラ椎エンジュとチュガ輩インゲロィームアはそもそもあまり火を使わない。

 カエルに似た奇形的美貌を誇る輩インゲロィームアは身長が180センチに届くかという神族としては例外的に小柄な体格で、弓槍を使っても他の神族に敵わない。普通こういう人は機械の工夫に傾くものだが、彼はその分の努力をゲイルの操縦技能の向上に当てる。結果、持って生まれた特殊な才能も開花して、異常とも呼べる凄まじい機動を手に入れた。
 経験豊富な上将雁ジジも、ここ百年で最高の乗り手と誉め称えるほどだ。

 一方の椎エンジュは平均的なギィール神族であり、普通に工夫もするし武芸にも秀でている。ただ相棒が格闘戦を好むからにはその補助を務め、やはり火を必要としない。
 だが彼は兵器製造卸・輸出を主な業とする三荊閣ミルト家と関係が深く、この浸透部隊に優先的に「火穿矢」を回してもらっている。
 先端が超高温で燃えタコ樹脂使用の装甲を易々と貫くこの矢は、今次大戦で初めて実戦投入された新兵器で、瞬く間に金雷蜒軍に広まった。

「この先端に付いている『陶炭』は、我が家では高価過ぎて買えなかったな。」

 イルドラ泰ヒスガバンは支給分の火穿矢の先端の硬い灰色の炭を触って、愚痴った。

 「陶炭」はタコリティ近辺で発掘されるタコ化石を精製して作られる新素材だ。書道の墨に似て緻密で固く、或る種の薬品と接触する事で反応し鉄をも瞬時で溶かす高温で燃えるが、それ自体は断熱性を持ち燃えつきるまでの数分間自身を支える事が出来る。
 ギィール神族はこの新しい「おもちゃ」にたちまち夢中になり、様々な応用を考えた。だが「陶炭」は一度点火すると消火不能で、高過ぎる燃焼温度も使い勝手が難しい。小指の先ほどの小片を単位に供給されるがこれが1個10金もして、イルドラ家では泣く泣く実験を諦めたのだ。

 丹ベアムも嘆息する。

「それが今ではすっかり大量に用いられるようになって、とんでもない出費を我らに強いるのです。」
「勝つ為だ、仕方がない。」

 

 全て準備を調えた2隊の寇掠軍は、難民の兵が案内するままに林の中を進んで行く。
 さすがに数ヶ月も林の中で逃げ隠れしただけあって、梢で見通しの効かぬ中にあっても道案内を間違えない。ところどころゲイルの進入の為に木も伐ってくれているので、彼らの案内に任せれば順調に進軍出来る。

 潜入させていたスガッタ僧ジムシから連絡が届く。かねてより監視対象にあったカロアル軌バイジャン小剣令の小隊が哨戒活動に出ている、との報だ。上将雁ジジはそれに対しなにも指図しなかった。手筈どおりジムシが彼をおびき寄せる。

「上将!」
 麗チェイエィが仮面を上げて白く化粧を塗った貌を見せる。彼女は本格的な戦闘が始まるまで林の中での兵の指揮を自分に任せてくれないかと申し出た。退屈、なのだろう。

「許可しよう。」

 雁ジジの許しを得て、彼女のゲイルと剛兵の1隊が難民の案内で先行していった。彼女のゲイルは先年の出征で黒甲枝に肢を1本斬られており戦闘力に劣るが、単に走る分にはまったく支障は無い。狭い木々の間を縫って、滑らかに駆けていく。

 丹ベアムは疑問を感じて、雁ジジに尋ねた。初出征の彼女と兄は、戦場のあらゆる局面で未知の事例に遭遇する事が多い。

「上将。林の中で黒甲枝と遭遇した場合、どのような戦術を用いれば良いのだ。私はそれを習っていない。」
「逃げる事だ。」
「逃げる? 何もせずにか。」
「何も出来ぬのだ。弓矢は木に遮られ相手に届かず、突進するにもゲイルを加速する距離が得られない。まごまごしていると木を伝って敵が背に上がって来る。」

「とぐろを巻くのはだめなのか。」
「神兵が1人ならばそれでもよいが、複数になると単に討たれるだけだ。林で戦うのは避けねばならぬ。」
「そのようなものか。」

 最近ゲイルの操縦に慣れてひとの評判をも勝ち得るまでになった丹ベアムである。あらゆる状況で戦いたいと願うが、どうも限界はあるらしい。
 あまり喋らない輩インゲロィームアが二人の話を聞いて、声を掛けた。くぐもった言葉はうまく伝わらないが、傍らの椎エンジュが補足する。

「”     ”」
「林の中での戦いは、兵を用いて我の前に敵をおびき寄せ、一気に上から飛び掛かるものだ、と言っている。」

「! 上か。」
「うん。跳ねて押し潰すのだな。無論重甲冑の神兵はそう簡単に潰せない。やめておいた方がよい。」
「なるほど。御教授かたじけない。」

 表情は変らないのだが、なんとなく輩インゲロィームアの間隔の開いた瞳が嬉しげに光った気がする。

 

 そして、
 矢を右腕に受け手酷く傷付いたスガッタ僧ジムシが、彼らの前に跪く。
 負傷したジムシが許しを得て後方に下がり治療を受けるのを、ゲイルの背の丹ベアムは首を後ろに回して見送った。

「あのような者でも、やはり油断はあるのだな。」
「神族とて同じだ。額の聖蟲でなんでも見通せると思うのは間違いだぞ。」
「しかし隙を見せねば敵は食いついてきません。」

 妹の言葉に、同じ高さに立つ泰ヒスガパンは少し笑った。確かに今回、敵をおびき出し大物を釣り上げねばならない。神兵にして兵師監カロアル羅ウシィという魚を。

 先を行く麗チェイエィから、聖蟲を通じて『_・バンバレバ』の5人に通信が入った。額のゲジゲジは超感覚の干渉を使って離れた距離でも会話出来る。聖蟲同士は常に会話していると言った方が良い。ただこれに人の言葉を乗せるにはちょっとしたコツが要り、難しい話は出来ない。あくまで補助的な通信だ。

「(例の、カロアル小剣令が率いる偵察隊を発見した。うまく林の植生に身を隠している。)」
「(大胆だな。ジムシに傷を付けた時点で下がると思ったのに。)」
「(どこまでやれるか見てやろう。)」

 麗チェイエィの指示で剣令が動き、兵を前に進める。剣令は詳らかに戦場の様子を知らされるわけではないが、神族の様子や空気を確かめて隠された意図を知るのも芸の内。状況の変化があると気付いて、索敵を強化する。
 果たして間もなくカロアル小隊は発見され、剣令の上申によって難民に手柄が下げ渡される事となる。「支援攻撃バンド」の長となった男が自ら刀を抜いて先駈け、畑の草むらに飛び出した。神族の前で目立つ手柄を上げる最初の機会だ。期待を裏切る訳にはいかない。

 

「ホホホ、逃げる逃げる。」
 麗チェイエィは超感覚で、カロアル小隊が必死で逃げる姿を知る。既に難民の兵が追跡を始め、最後尾のクワアット兵二人と激烈な戦闘に及んでいる。

「やはり難民では話にならぬな。好きなように射殺されている。」

 クワアット兵の弓の腕前を知らぬ者は無いが、ここまで簡単に味方を殺されては感情を捨てた身であっても面白くない。足元に従う剣令に命じて、多少知恵を使わせる。難民は左右から囲む動きを見せるが、練度が低く動きは鈍い、獲物を捕捉出来ない。

「まあ良い。敵本隊が到着するまでの遊び相手にはちょうど良かろう。追撃の人数は絞って、尋常に隊列を組み直せ。」

 浸透攻撃を行うに当たってはそれなりの策があり、難民にも重要な役を振ってある。いかに練度が低く指図についてこれないとしても、足手まといになられては困る。泥縄ではあるが、指示に正確に従う訓練を難民にも施していく。

 時折ゲイルを走らせて兵の向きを制御する。ゲイルの姿を見せないと真面目に働かぬ馬鹿者もある。怒っても仕方ない、それが民というものだ。ゲイル騎兵は直接攻撃のみを行うと勘違いされるが、実際は兵を追い立てる役割の方が大きい。

 

 カロアル小隊を追跡する事1時間。そろそろ兵の足並みも揃い集団での動き方をつかめたと見て、麗チェイエィは黄金の槍を振り上げて合図する。
 それまで伏せられていた旗や幟を難民達は一斉に掲げる。戦場に新たな林が生まれたように、無数に白が翻る。

「敵が至近にある。戦闘準備をせよ。」
「ははっ!」

 剣令に指図するも、彼らはまだ褐甲角軍接近の報を得ていない。斥候はちゃんと出しているのだが、報せが届くのにかなりの時間差がある。神族が直接観測する方が圧倒的に早く正確だ。兵は盲目的に従うを最善と心得て疑わない。
 ゲイルを止め葉片にさらさらと敵の配置を描いて、狗番の手から地上の剣令に下げ渡す。剣令はうやうやしく御辞儀をして下がり、部隊の進行を整える角笛を吹かせる。

 だが麗チェイエィは未だ一部の難民がカロアル小隊を追い続けるのに眉をひそめる。使えないとは知っていたが、せめて戦闘前くらいはまっすぐに並んでもらいたい。

「ネズミが気を惹いている間は戻れぬか。」

 ゲイルの肢を黄金の槍で叩いて走らせる。たちまち難民を追い抜いてカロアル小隊の後尾に付けた。ゲイルの接触に木々の梢が激しくざわめき、疾駆の勢いに枝が何本ももぎ取られた。はたして、カロアル小隊はあっけなく分解する。造作も無い。

 そのまま林を抜け、敵の姿を確かめる。聖蟲の力で詳細を知るとはいえ、己が目で確かめねばやはり満足は出来ない。麗チェイエィは1騎のみ開けた畑に飛び出して、クワアット兵が並ぶ前に巨蟲の体節を翻した。

 

   ***

「兵師監、間に合いましたな。」
「うむ。」

 カロアル羅ウシィ兵師監が率いる迎撃部隊は、カロアル軌バイジャン小剣令の迅速な報告により防御施設でもある林の中での戦闘にこぎつけた。最悪スプリタ街道にまで進出を許しゲイルに走り回られる可能性もあったのだから上出来だ。

「穿攻隊が到着すればゲイルは撤退を余儀なくされるでしょう。懸念すべきは難民の武装集団がでたらめな襲撃を行う事ですが、林の中で留まるならば問題ではありません。」

 神兵キマルが羅ウシィの副官を務める。

 ヌポルノ村に駐留する難民移送団に属する4人の神兵、カロアル羅ウシィ、キマル信マスタラム、ハグワンド礼シム、ハギオトロ環マセマシュはクワアット兵250を預り迎撃する。数は少なく見えるが、そもそも寇掠軍の主力が100人程であるから問題ではない。エイベントからも神兵3兵100が参加する。
 穿攻隊からも特別に応援が来る。対ゲイル戦闘に特化した剣匠令の資格を持つ神兵が10名。加えて、ベイスラの全軍を指揮するスバスト源ジュバトム兵師大監が特別に穿攻隊に50のクワアット兵を授けてくれた。

 兵力はまずは十分と言えるだろう。

 立ち並ぶ木に肢が鈍り、林でのゲイルの移動速度は人間並に低下する。怪力ではあっても何十本もの木を連続でなぎ倒すなどは出来ず、常識的に道を行くしかない。ベイスラの防風林はその為に整備されている。
 幅1キロ長さ3キロ程の農地を南北に連ねて、その周囲に木を植えて幅500メートルほどの林にした。これをパイの皮のように何層も重ねて国境線まで続いている。材木としては利用しないので密度が高く植えられており、ゲイルは元より人間も歩くのに不自由する。畦のように少し地面が盛り上がっており、一種の防壁としても使用可能だ。

 林の中での戦闘はクワアット兵の得意とする所で、常人であってもゲイル騎兵を十分に翻弄させられる。木の陰や茂みの中、樹上に潜み矢を射掛け寇掠軍を難なく討ち取ってしまう。
 まして聖蟲を戴く神兵は森林では無敵に近かった。褐甲角(クワアット)神は森に棲むカブトムシの神であるから当然だ。

 これまで金雷蜒軍が浸透戦術をあまり用いなかったのもこれが原因で、今次大戦において林の中に難民が潜むという条件が整ったからこそ自由に侵入を試みる。

 

 昼天時(正午)少し前、両軍は「二の畑」と呼ばれる農地で対峙した。スプリタ街道から東に2番目の位置に有る畑で距離にして4キロほど。街道まで至近と言って良い。

 幅が1キロの横長の農地はこれも防御施設として考えられている。開けた農地はゲイルが走り回るには適しているが、逆に鉄弓で討ち取れる。不用意に進出した者は林から一方的に狙撃された。双方がすくみ合う事で侵入を思いとどまらせるのだが、長引けば応援を期待出来る褐甲角軍が断然有利となる。
 故に攻撃側の金雷蜒軍が動かねばならないが、畑を渡るには数を揃えて強引に押し通るしか手が無い。

 カロアル羅ウシィ兵師監は、ゲイルが1騎畑に下りて挑発的に身をくねらせるのを見る。

 この時の褐甲角軍は兵数250、ハグワンドが100人の長槍隊を、3名の神兵が50人ずつ3隊の弓兵隊を率いて畑に布陣していた。堂々と姿を見せつけて居た、とも言える。敵が怯んで躊躇すればその分時間を浪費し、エイベントからの援軍また穿攻隊の到着が間に合う算段だ。

 しかし、さすがにギィール神族は目が利く。迷うこと無く兵を畑に進めて来た。
 ゲイルが2騎3騎と現われて警戒し、彼らに守られながら兵が林から降りて来る。大きな旗や幟を抱えた難民が無秩序に溢れ出る。

 難民の数は多い。千にも届くかと思われる多数が旗や幟を高く掲げて列を作り壁となる。
 大した武器は持っていないが、皆腹に籐笠を吊るしている。籐笠はネズミ神時代から用いられる防具であり金属武器にはほとんど意味を持たないが、それでも獣皮を間に2枚を挟めば結構弓矢も防いでしまう。

 副官のキマルが進言する。

「我らは一旦林に潜み、エイベントの応援が到着するまで戦を留めるというのはどうでしょう。」
「エイベントの兵の接近をギィール神族は見抜いている。だから早めに兵を投じたのだ。それに我らが林に戻れば、敵は火を掛けるぞ。」
「! 林で火を使いますか?」

「掠奪が目的で無いからな。」

 翩翻と風になびく旗の波に、羅ウシィは思わず口を開いてこぼす。どう見ても、これは決戦だ。

「これはいっぱい食わされたな。」

 ヌポルノ村に雪崩れ込み住民も難民も無差別に殺戮し、褐甲角王国の威信を傷つけ以降の難民政策を頓挫させる。長期的視点に立って考えれば妥当な策ではあるが、どうも金雷蜒軍はそれほど遠大な計画を持っていないようだ。

 むしろまとまった兵力をこの場に引きずり出すのが目的だったらしい。
 領内奥部が攻められると聞けば、国境線の配備を割いてでも守らねばならない。無論甘く考えて防備が薄いままならば突入したのだろうが、こちらが失敗しても最前線の総攻撃の助けになる。事実、砦に回す応援の兵力は無い。

「敵は、堂々たる決戦が当初からの目的であったようだ。嵌められたな。」
「それは、…こちらの足元を見ましたか! 敵は。」
「うむ。難民移送団が主体というは、純然たる戦闘部隊ではないという事だからな。組し易しと見たのだろう。」
「舐められたものです。」

「目に物見せてくれよう。全員に必勝の覚悟を決めさせよ。」
「は!」

 だが問題は、ゲイルの数だ。通常の寇掠軍は6騎で構成されるが、今回は2隊12騎が侵入した。4名の神兵では長く保ちそうに無い。
 羅ウシィは、時間稼ぎを主眼とする作戦を選択した。エイベントの援軍は元より、対ゲイル戦闘に特化した穿攻隊の神兵が10名も駆けつけて来るのだ。勝利を求めるのは彼らの到着後で良い。それまでに損害を出さないよう務めるべきだ。

 南北に長い戦場の北端に長槍隊を配置する。こちら側からはゲイルの突撃はあり得ない。
 西側の林を背に、3組の弓兵隊を配置する。その前面に神兵3人が進み出て距離を稼ぎ、ゲイルの突入を牽制する。隣りとの距離は鉄弓の射程内で、十分相互を援護出来る。

 懸念されるのは最年少の神兵ハギオトロで、聖蟲を授かったばかりの彼は神兵としての戦闘経験が無い。また重甲冑も持っていない。当然敵の狙う所となるので北側に彼の隊を配置し、長槍隊との相乗効果で防ぐ事とする。
 羅ウシィは真ん中、キマルの隊は南に展開する。

 

 褐甲角軍の布陣に対応して、ゲイルが戦場を走り回り難民の兵を再配置する。どろどろどろと進軍の太鼓が響き、難民達が無数の旗を掲げてゆっくりと進み出た。
 畑の半ばにまで達した所で1騎のゲイルが彼らの前を走り、停止させる。彼我の距離は600メートルほど、これより先は神兵の矢が届く。

 しばし戦場が静寂に包まれた。秋の色を感じ始めた遠く透ける空に、蜻蛉の群れて飛ぶ姿がのどかに見える。

 やがて神兵ハグワンドの指揮する長槍隊が移動を開始する。長槍隊は溜め池のある北側に壁となり敵軍の回り込みを防ぐ。基本は動かず牽制に当たるのみだが、ゲイルが後ろに回り込まず一定方向からしか来ない、という安心感は何物にも換えられない。
 5メートルを越える長い槍が鉄の林のように揺らめき、進んでいく。

 概ね戦場は北側に偏り、南は大きく空いた。開けた畑を準備運動でもするかに手隙のゲイルが土煙を上げて走り回る。
 羅ウシィは敢えて対応しない。エイベントからの応援が間もなく到着するので、南はそのまま放置する。

「構えて申し渡しておく。神兵は決して格闘戦に及んではならん。あくまで鉄弓でゲイルの牽制に当たれ。反攻は穿攻隊到着後だ。」
「は!」

 

 21歳の神兵ハギオトロはかなり安全な場所に配置され安堵はしたが、同時に自分に苛立った。
 未だ聖蟲への対応訓練が終っていないのだから半人前と看做されるのは仕方がない。だが敵ゲイルが味方の3倍も居るのだ、神兵として自分も十分な働きを見せる必要がある。先達に護られていてはダメなのだ。

 ハギオトロ環マセマシュ小剣令は、ベイスラの隣サユール県の出身だ。黒甲枝の子弟の習いに従って王都カプタニアの兵学校で学び、近衛兵団を経てヌケミンドルで軍務に就いた。
 防備の厚いヌケミンドルに配置されたから実戦経験は無いに等しいが、これは神兵として普通の経歴だ。その代りクワアット兵の戦闘小隊、弓兵も槍兵どちらの指揮も十分に演習を積み重ねた。
 今回神兵として初めての実戦に挑むが、決して格闘戦に参加しないよう固く念を押された。軽量の丸甲冑ではゲイルとの格闘は出来ないし、第一聖蟲が与える怪力の使い方に習熟していない。あくまで離れて戦うのが望ましい。

「しかし。」
 彼もまた黒甲枝である。千年に一度の大戦さに巡り合ったからには、王国になにがしかの貢献をしたいと願う。また、先達に護られてろくに矢も放たなかったと後ろ指指されるのも耐え難い。

 彼は着ている丸甲冑の胸甲を触った。ここにはぽっかりと丸く投槍が貫いた痕がある。補助装甲で隠して却って重装備になっているが、やはり故障中の武具は不安を掻き立てる。

「これを着装していた方はどうなったのだろう。やはり亡くなったのか? そうであるならば魂にて我に力添えて、共に救世主の誓いを果たしたまえ。」

 ぶん、と兜の中でカブトムシが透明な翅で羽ばたき、ハギオトロを驚かせた。普段はのそのそと大人しく動き回る聖蟲も、戦に臨んでは緊張し勇み立つ。それを知り、なぜか安心した。
 聖蟲は機械でも天から遣わされた不可思議な存在ではなく、生きた此の世の蟲である。現世にこそ価値を持つものだ、と今初めて了解した。

 

     ***

 戦闘は誰の予想にも反して極めて地味に始まる。銅鑼も太鼓もならない。剣令の指示の声が響いただけで、旗竿が揺らめき白い林が進み出る。
 ゲイルは前に出ない。
 神兵との数にこれだけの差があれば、いきなりゲイルで攻め掛かってもおかしくないのだが、もっぱら難民の兵を制御に徹し走り回る。

「(兵師監、これが金雷蜒軍の戦術でしょうか?)」

 ハギオトロが戸惑って、聖蟲を通じて質問を投げ掛けて来た。カブトムシの聖蟲もやはり離れたまま会話が出来る。精気の振動が共振して通じるらしい。

「(こういう手もある。人の群れを壁としてゲイルが接近しない策も当然使う。)」

 兵と神兵の数が釣り合わない場合、こういう事はよく起こる。だが、これだけゲイルが居て取る戦術ではないだろう。羅ウシィも内心ではいぶかしむ。

 金雷蜒軍側からすればこれは当たり前の、神兵に固まられない為の戦術だ。
 いかに多数のゲイルがあっても、神兵が集団で「守り」に入ってしまうと攻め口を失う。4人が全方位を固め、時に集中射で迎撃するとなれば尋常の手段では対抗できない。カロアル兵師監を直接に討つという目的を優先すれば、またクワアット兵に林に引っ込まれない為にも、神兵は各個独立したままで置いておかねばならぬ。

 

 とはいえ、ゲイルが前に出ないと難民にも勢いが付かない。
 3騎のゲイルが首を並べ、鉄弓の射程内を悠然と歩く。最大射程では、矢の軌道を読めるギィール神族にそう当たるものではない。
 その姿を見て、ようやく難民は踏み出す勇気を得たようだ。旗幟を斜めに構え、トキの声を上げて一斉に走り始める。

 一気に鉄弓の射程に踏み込み、ゲイルを追い抜いて敵陣間近に突撃する。が、旗を掲げたままだからそう早くはない。ゆらゆらと白い布が風を孕んで揺らめいて、そこで終る。
 当初からの指示通りに、難民は弓の届くはるか遠くの地点に旗竿を突き刺して、そのまま撤退する。

 ハギオトロはようやく敵の狙いを理解した。

「旗に邪魔をされて、敵の動きが読めなくなるのか…。」

 第二陣は先ほどと異なり、かなり大胆になる。突き立てた旗竿の所まではまっしぐらに走り、そこから決死的覚悟で突進し、また旗竿を立てる。
 距離は300メートルにまで近付いた。

 さすがにクワアット兵もこの距離には焦れて来た。もう一度突進されると、長弓の射程に到達する。
 羅ウシィの率いる弓兵隊の隊長が、こちらも前進して迎撃すべきかと進言する。無論却下された。

「出ればゲイルが突っ込んで来る。今しばらく待て。」

 林を後背に置くからこそ、ゲイルに回り込まれずに済んでいる。不用意に飛び出せばたちまち四方から食い千切られるだろう。

 三度目の突撃で、ようやく矢が放たれる。クワアット兵が用いる長弓の有効射程外だが、飛ばすだけならば届く距離だ。強弓を使う剛力の者ならば殺傷も望める。
 この時初めて、難民は自分達が掲げ持つ旗幟の意味を知った。これを持っていれば矢が当たらない!

 山なりに飛ぶ矢は、距離が遠過ぎて力に欠ける。殺傷力が低い。頭上高くに翻る旗に当たると、簡単に弾かれて地に落ちる。
 当たらないと知るや、難民は図に乗った。旗を斜め前に突き出し奇声を上げて突っ込んで来る。それでも旗は十分に彼らを守ってくれた。

 これで敵に矢を浪費させれば、後に続く傭兵や剛兵が有利な戦いを繰り広げられる算段だ。

 とわぁっ、と妙な声を吐き出して男が畦に転げる。
 いかに巧みに防いでいても当たる時は当たる。こちらは攻撃する手段が無く射たれ放題なのだから、いつかは誰かが犠牲になる。

 持ち手の無くなった旗竿はその場に突き刺し、残った者は前進を続けた。頬をかすめる矢の音におののき怖じ気づいて、進めなくなった所で旗竿を立て撤退する。
 その陰に隠れて接近し、また次が突撃する。

 だが或る距離に到達すると、急に矢が当たり出す。元々弓術に優れたクワアット兵が、はためく布の下を掻い潜って当てる芸当を見せる。

「うわ、うあわあ!」
「逃げるな、もう少し、あと一歩進め!」

 葬送用の死者の仮面を被る呪い師が叱咤するものの、籐笠にずばりと突き立った矢を見てしまうと堪えようがない。旗を地面に突き刺して逃走する。突き刺す作業の最中にも無防備な背中を抉られ倒れる。
 堪え切れずに全員逃げ出したが、目障りな位置に旗竿が数本残る。弓兵隊の隊長が許可を求める。

「あの旗竿を斬りに行かせてようございますか?」
「また来る。放っておけ。次はまともな兵が来るぞ。」

 

 旗の後ろにちらちらとゲイルの姿が見え隠れする。大胆にも鉄弓の必中距離にまで踏み込んだ。もちろん重い鉄箭は薄い布など貫通し軌道を曲げる事も無い。各神兵はようやく射撃を開始する。

「だが鬱陶しい。」

 羅ウシィの南に位置した神兵キマルの隊は、東と南で旗に包囲される。何体ものゲイルが開けた南を中心に走り肉薄し、鉄弓の射程円を潜り抜ける。彼の背後のクワアット兵が、遮られる視界に不満を漏らした。

 難民はなおも繰り出して来る。掲げる旗はゆらめき、背後に剛兵の姿も見え隠れする。

 キマルは鉄弓に太矢を番え、難民の小隊長らしき仮面の男を射殺した。鉄箭ほどの貫通力は無いが、小型の槍と思わせる木製の太矢はゲイルにも十分効果がある。400メートル以上離れた距離で仮面の男の首がもげ、その隊全員が仰天して撤退する。

「(キマル、遊んではならぬぞ。)」
「これは! 兵師監、拙いものをお見せしました。」

 羅ウシィに叱責され、キマルは小さく見える彼に平身低頭する。鉄箭太矢は人間相手に使わないのが原則だ。いざゲイルに対面した時、矢が尽きていたとなれば謝って済む問題ではない。

 その点、ハギオトロは命令通りに愚直にゲイルを牽制し続けていた。神兵は鉄箭は20本太矢は15本、普通の矢も20本携える。彼は矢の節約を心掛け、ゲイルに確実に当てようと慎重に狙いを定める。ギィール神族は狙いを読んで巧みに回避し、為になかなか発射の機会を得ない。撃てそうで撃てない状況が続く。

「(いや、それでよい。射る時は確実に当てよ。)」
「は、兵師監有難うございます!」

 

 自身も鉄箭を放ちながら、羅ウシィは考える。

「今少し、敵の狙いが絞れぬな。この旗にはさらに隠された意図があるのではないか?」

 まさか羅ウシィ本人を直接に狙う、とは流石に考えない。そもそも黒甲枝・神兵は誰を取っても同じ能力同じ機能を持ち、自由に入れ変えが利くものだ。甲冑にも特に個人を識別する印は無い。特定人を狙うなど聞いた事も無い。

 カロアル羅ウシィは自身の価値を見誤っていた。彼は難民対策、難民犯罪取締まりの専門家で、他に代え難き人材だ。単純にトロフィーとして彼の首を『_・バンバレバ』が狙った訳ではない。ヌポルノ村の難民を害さずとも、彼を殺せば十分な混乱を引き起こせるのだ。

 

 南の林から天高く、きゅあっと鏑矢が上がる音がした。矢の高さからそれが鉄弓から放たれたものだと分かる。エイベントからの援軍が到着した合図だ。神兵3兵100が戦場に進入する。

 羅ウシィは彼我の状況を確かめて、うなずく。前哨戦は終り、両軍本格的な戦闘へ移る。
「いよいよゲイルの突入が始まるか。」

 

   ***

 ゲイル騎兵と褐甲角の神兵との戦いは、装輪装甲車と戦車の戦いのようなものだ。ゲイル騎兵は速度と機動力では圧倒していても、神兵の重装甲と長射程の攻撃に抗し得ない。接近戦になればなおさら正面から戦わない努力が必要だ。
 脆弱性を補う方法は幾つも考えられたが、所詮ゲイルは生き物だ。適用可能な策は乏しい。飛噴槍を用いて射程距離を伸ばすくらいに留まる。

 だが今次大戦において金雷蜒軍ではゲイル強化が様々に試みられた。騎櫓に屋根を付けたり密閉式にしたりと、背の神族を守る装甲強化は当然。タコ樹脂の薄い楯で頭部や背を覆い、ゲイル自体を防護する試みもなされている。
 ただ肢は覆えない。4メートル13対の長大な肢はゲイルの攻撃力そのものだが、同時に弱点でもある。大剣や斧戈に伐られると、一本失っただけでも戦闘力が激減する。

「槍か?」

 『_・リケル』の神族が7メートルもの長さの巨大な槍をゲイルに2本も装着するのに、丹ベアムは目を丸くした。

 タコ樹脂を柄に塗った神族の黄金の槍は非常に強靱で鋼の刃をも跳ね返すが、塗料そのものの値段が非常にかさむ高価な武器だ。槍の強度は掛けた金銭に比例する、と言っても良い。
 その槍をゲイルの頭部に装着し、神兵の攻撃をゲイル自らに防がせようというのだ。ゲイルの怪力に耐える槍は、さぞかし念入りにタコ樹脂を塗り重ねているだろう。

「褐甲角の神兵は、ゲイルの前に立ち塞がる愚は犯すまい?」
「なんの。こちらとて神兵の正面から攻めはしない。互いが死角を求めて飛び交う中では、むしろ相対する局面が多いのだ。」

 初めての出征である丹ベアムと泰ヒスガバンには、彼の言葉が真実であるか分からない。上将雁ジジが兄妹に代って質問する。彼は3年に一度は寇掠軍を出す歴戦の勇士で、神兵と幾度も槍を交えている。

「これまでゲイル自体を武装する試みは何度も為されたが、これも同様の結果に終るのではないか。」
「なんの、これはあくまでも防御的な武装だ。攻撃は背に乗る神族が弓にて行う。」
「ふむ。」

「今回私は、大弓を狗番ではなく自らが引く事とした。その為、騎櫓の先頭に大弓を固定し方向を自在に換える旋回台を取りつけた。通常の矢を数本同時に発射する機構もある。」
「なるほど。だがそなた自身を護る策は手薄だな。敵を牽制する役をしてもらいたい。」

「…。心得た。」

 ギィール神族は冷静客観的に自己を分析する。面子にこだわって無用の損害を出そうとは考えない。彼の装備は神兵を相手にするには疑問があるがクワアット兵、特に長槍を密集して突き上げて来る集団には効果的だろう。

「さて、イルドラの御二人はいかなる策を用いるか。」

「私は毒煙筒と鳥兵(凧)を持って来たのだが、奴隷共がこんなに入り乱れては使いにくいな。」
「私は銛を持って来た。綱を付けた銛をゲイルの走行に合わせて振り回せば、肢を刈りに来る者を蹴散らせよう。」

「悪くはないな。私は徹甲矢のみで対処する。重甲冑にはなかなか効かぬが翼甲冑を用いる穿攻隊が来るという話だから、楽しみだ。」

 雁ジジは兜の下で笑いながら自分の配置場所に戻っていく。彼の騎櫓には古式ゆかしく蝉蛾巫女のエローアが乗り、二人に挨拶をして行った。
 妹に泰ヒスガバンは助言する。

「お前は鳥兵は使わぬつもりだろう。であれば、地上に下ろし誰ぞ難民にでも任せるがよい。上空になにをするか分からぬ鳥兵があれば、向うの動きを牽制出来る。」
「なるほど、兄上のお指図に従いましょう。」

 結局二人が考えついたのは極めてまっとうな戦法だ。2体のゲイルを連動させて神兵の狙いを分散させ回り込み、後方のクワアット兵に攻撃を仕掛ける。速度と数の優位を利する寇掠軍いつものやり口だ。
 他のゲイルも概ね2体一組で行動する。エイベントの援軍が現われ神兵が7人にもなったから、ゲイルにも最大限の能力を発揮させねばならない。数が均衡してようやくやる気になった。腕が鳴る。

 カプタン雁ジジと麗チェイエィは主に兵の世話をして支援攻撃を行う。 ただし今回主役は秘密兵器を用いる剛兵だ。ゲイルの陰に隠れて密かに接近し、近接攻撃で兵師監カロアルを仕留める。
 絵物語を刊行する為に、イルドラ兄妹は敢えて囮となってみせるつもりだ。

 

 2体ずつの6組となったゲイル騎兵が戦場を縦横に駆け巡り、その姿を見て難民の兵は後退する。

「やはり、火は使わないか。」

 兵師監カロアル羅ウシィは今回の敵の戦術に或る方向性を見出した。煙幕を張り視界を制限すれば、聖蟲の力で状況を知るゲイル騎兵は極めて有利になるのに、使わない。延焼を防ぐ以上の配慮が感じられる。

「常人の兵を十分に使う作戦と見た。クワアット兵はゲイルに目を奪われず、全体の状況をしっかりと把握して援護せよ。」
「は!」

 羅ウシィは長弓隊の隊長に命じ、自らは50メートルも前に出る。
 神兵は囮であると同時に唯一有効な攻撃手段でもある。重甲冑装備の神兵は守りにおいて鉄壁だが、この装甲を利して敵に圧力を掛ける。
 他の神兵も兵師監に倣って前に出て、鉄弓を振りかざした。到着したばかりのエイベントの軍勢はクワアット兵の展開が未だ完了せず、3人の神兵が南の端に壁を作って防備する。

 風に煽られる高い旗幟の林から、黄金の槍がゲイルの肢を叩く音が幾つも響いて来る。ゲイルでの突撃の前触れとしてつとに有名な撃音だ。

 距離はかろうじて鉄弓が届く500メートル内外。この距離でも破壊力は変らないが、移動目標にはまず当たらない。またギィール神族は額の聖蟲に自らを冒す攻撃の軌道を事前に教えられ、巧みに避けてしまう。確実に仕留めるにはやはり至近に招き入れねばならない。

 羅ウシィは改めて声を上げて神兵に命ずる。エイベントの神兵に対しても届くように大きくだ。
「神兵に申し渡す! 穿攻隊の到着までは決して格闘戦をしてはならぬ。鉄弓にて牽制を続けるのだ、良いな!」

 彼の言葉を嘲笑うかに、いきなり1騎のゲイルが飛び込んだ。正面から迎え撃ったのは神兵ハギオトロ。とっと前に走り出て水平発射で鉄箭を放つが、ゲイルは巨体を思わせぬ巧みな横っ飛びで避ける。ゲイルの腹をこれ見よがしに露わにして誘い、再び幟の後ろに去っていく。

 これを合図として、全領域でゲイルの突撃が始まった。

 

     ***

 突撃と言っても、全騎がまっすぐに襲いかかるわけではない。
 北から左回りに疾走し、神兵の脇をかすめ矢を射掛けすり抜け、距離を取り、次の神兵目掛けてまた走り、南の果てで転回する。
 これをぐるぐると繰り返す。ゲイルが疲れたら他の者と交代する。

 『_・バンバレバ』と『_・リケル』は2組4騎ずつを交代に回す。『_・バンバレバ』の神族が突撃している時は、『_・リケル』は休憩する。
 上将雁ジジと麗チェイエィは兵を指揮して戦っているが、もう二人、『_・リケル』の残りは南にあってエイベントの神兵と対峙していた。

 この場所、つまり神兵キマルの正面が最もゲイル騎兵の濃度が高い場所となる。北から走って来たゲイルがここで方向転換をしてまた戻る。行きがけの駄賃に彼を攻撃する。

「くそ!こいつは何者だ?!」

 キマルは次々と押し寄せて来る中に、一際目立つ動きをするゲイルを発見した。
 神族の姿は見えない。赤い文様で縁取りされた閉鎖型の騎櫓に隠れ、ゲイルの突進のみで攻撃して来る。

「なんでこいつには矢が当たらないのだ!」

 このゲイルは特に避ける素振りを見せない。他のゲイルが派手に飛び跳ねて鉄箭を避けるのに対し、これはまっすぐ走りぬけるだけだ。
 だが当たらない。当たったはず、キマルが必中を期して至近から射た矢がどうしても当たらない。まるで空気の楯で護られているかに、無造作に進み来る。

 矢で攻撃してくるのは後ろに続くゲイルだ。
 これも緑の縁取りをした閉鎖型の騎櫓だがちゃんと神族は姿を見せ、直接キマルに当てて来る。前のゲイルに気を取られる彼は、この矢を避けられない。
 重甲冑だからいいようなものの、関節や顔の面などの危険部位近くに数本を受けてしまう。応射しようにも2体はとっくに通り過ぎた後で、虚しく二股の尻尾を見送る事になる。

 矢が尽きた。夢中になって応戦している内に、手持ちの鉄箭太矢を使い果たしていた。手元に残るのは通常の矢のみ、これではゲイルには通用しない。

「おい! 太矢を持ってこい。」

 背後のクワアット兵に命じて矢を届けさせる。が、いきなりその兵が倒れた。
 最高速で疾走するゲイルから狙撃を受けたのだ。今度のゲイルは尋常の動きをするが、勢いが良い。まだ若い神族と見えて怖れを知らぬ。

「おのれ!」
と、通常の矢を番えてみるが、思い切り引き絞ると鉄弓の勁さに矢が裂けてしまう。加減して射ても、タコ樹脂の楯に軽く跳ね返された。

 2体のゲイル騎兵にさんざん矢を射掛けられ、必死で鉄弓で弾き返す。急所を的確に狙って来る分弾き易いが、足元を狙う一本が突き刺さる。

「!」

 装甲の隙間に挟まっただけだ。引き抜いて顔を上げるともう2体は居ない。が、
 先程の「当たらないゲイル」が、キマルを討てそうだと見て小さく円を描き駆け戻る。

「これまでか。」

 大剣を背から下ろして戦おうとするキマルに、エイベントの神兵から援護があった。遠くから鉄箭を射てキマルの足元に届けてくれる。

「有り難い!」

 地を掠った手を戻し鉄弓に番えるその瞬間、ゲイルが上から飛び掛かる。巨体が跳ねてキマルを押し潰そうとする。

 びん、と放つ。完全に引き絞れなかったが威力は十分、鉄箭ならばゲイルの甲羅も貫通する。

 ふい、と避けた。ゲイルは器用に体節をよじり、キマル必殺の矢を外す。初めてちゃんと機動して避けた。
 それ以上の攻撃はせずに順当に引き下がる。ゲイルが去って安全になったと見て、クワアット兵が太矢を届けて来る。

 キマルは鉄弓を高く掲げて、エイベントの神兵に礼を言う。だが胸中は複雑だ。
 彼は軍務よりも衛視としての職務を優先しこれまで勤めてきた。もちろん定期的に軍務に就き、日々の武芸の練習を怠った事も無いが、それでもこの体たらくだ。

「神兵は、戦わねば何の価値も無いかー。」

 大剣を背から下ろし、地面に突き立てる。肉弾相打つ格闘戦の覚悟をせねば、この弛んだ精神は矯められない。

 

「…神兵の鉄弓はおそるべきものだな。」

 初めて食らったわけではないが、丹ベアムは改めて神兵の力を思い知る。

 彼女の額のゲジゲジは自らに襲い来る攻撃、矢の軌跡を白い一条の光として宿主に伝える。放たれる前に、鏃や投槍の穂先の延長線が延びている。構えを動かすとその光も同時に動くわけで、必ずしも避けるのが容易とはいかない。

 カロアル羅ウシィの狙いを察知する丹ベアムは、向こうも自分の操縦の先を読んでいると気付いた。老練と呼ぶべきか、並みの神兵の弓ではない。
 ゲイルにも呼吸のタイミングや肢の運びのリズムがあり、それを無視しての機動は不可能だ。生理的にどうしても生じる瞬時の停滞を狙われると、予測出来てもゲイルが追随しない。

「下手に思案してはならぬ。ゲイルも平静の状態に留め興奮しないよう闘争心を抑えねば、付け込まれる!」

 ゲイルと背の神族は聖蟲を通じて交わり、支配が成り立つ。神族の心境の変化や身体の不調は逐一ゲイルに伝わり、巨蟲の全身を拘束する。負けたと思えばゲイルもそれ以上戦わず、恐怖に囚われれば狂乱に陥り神族の操縦を受けつけない。

 ただ走らせるだけでは戦にならぬ。神族はその状態のまま自身の肉体で以って弓や槍の攻撃をする。ゲイルに集中しつつも別個に精神の統一筋肉の緊張が必要となる。
 その上で、更に敵神兵の意図を推測せねば…。

「無理!」
 丹ベアムはあっさりと諦める。読まれるままに火のように激しく攻撃し、敵に反撃する隙を与えない戦法に切り替える。

 左右に流れる景色の中、もはや遠くとは呼べない二本足で立ち上がる黒鉄の甲虫の姿に、丹ベアムは黄金の弓を向けた。
 強靱な木の薄片を集成しタコ樹脂で裏打ちした複合弓は優れた強度と反発力、精度を兼ね備える。神族の発達した肉体の力を十分に受け止め、聖蟲による射撃管制の要求に正確に応え、敵に確実な死をもたらす神器とさえ呼べる代物だ。

 生来器用で女性的な柔軟さも兼ね備える丹ベアムは、流れる水の動作で連続して矢を放っていく。どれも偶然を要しない、必中を約束される射撃だ。
 しかし、

 丹ベアムの矢を、羅ウシィは無造作に鉄弓で弾く。鋼鉄に鞭打たれて矢柄は折れ砕け、金色の矢羽根を散らして空中に消えた。
 連続するすべての矢が皆同じ運命を辿る。驚くべき神速の手練、それを矢を番え引き絞った状態で行うのだ。怪力のみならず繊細さも持たなければ、神兵といえども不可能だろう。

 お返しにと鉄箭が丹ベアムを襲う。
 さすがにこれは避けた。ゲイルは彼女の意識と同調し、ほんの僅かの時間前方の肢を止めて地に伏せる。遠心力で跳ねる後体節の影を矢は貫いた。

「ではこれはどうだ!」

 妹の後を走る泰ヒスガバンのゲイルから、大弓の攻撃がある。騎櫓で彼の背後を守る狗番が、全身の力で引き絞る3メートルの弓で投槍を投射した。

 す、と重甲冑が横に身体を移し、鋼の指で投槍を掴み取る。300キロにもなる甲冑がなんの重さも感じさせず、翅で羽ばたいたと思える自然な動作で脅威を除去する。
 羅ウシィに深入りし過ぎた兄妹に、クワアット兵から一斉射が浴びせられる。二人はゲイルの体節をくねらせて一度後方に下がる。

「やはり簡単には行きません。」
「そんなに易しい獲物では、絵物語も売れはしないぞ。」

 

    ***

 エイベントのクワアット兵の布陣が完成し、本格的に戦場に進出する。神兵3クワアット兵100、20名ずつの弓兵隊5箇で機動力を主眼とした隊形を取る。
 戦場の南の端から移動してベイスラの部隊に合流した。

 金雷蜒軍も指を咥えて見てはおらず、『_・リケル』のゲイル騎兵6騎すべてをこれに当てた。加えて、退却していた難民の兵を再度投入し、背後から包み込ませる。

 難民はそもそも大した装備を持っておらず、主武器は投石器と棍棒手槍、甲冑防具は無く籐笠を腹の前に括りつけているだけだ。
 しかしながら投石は結構な飛距離と破壊力を持っており、あなどる事は出来ない。鋼鉄の装甲を纏うクワアット兵には威力不足ではあるが。

 群がる難民と適宜突入して来るゲイル騎兵とを同時に相手して、エイベントの軍勢は停滞してしまう。
 しかし、彼らを攻める『_・リケル』は、ちょうどキマルの隊に背を向ける形となった。

 キマルの報告と進言に基づき、羅ウシィは自陣の配置に修正を加える。キマルを南方に少し突出させ、その穴を埋める為に羅ウシィの隊を前進させる。『_・バンバレバ』のゲイル騎兵をキマルの隊抜きで受け止める形になる。

 攻め寄せるゲイルの数が減ったのだから、この布陣に問題は無い。『_・バンバレバ』は2体が支援活動を行い、突入するゲイルは少ない。穿攻隊到着まで十分時間を稼ぐ事が出来るはずだ。
 だが積極策に出るこの動きを、金雷蜒軍をずっと待っていた。

 

「上将、そろそろよろしいか。」

 麗チェイエィの言葉に上将雁ジジも許可を与える。
 彼女の指揮に従い、剛兵がそれぞれの装備を担いで行動を開始する。難民の兵も付き従い荷物を運び、旗幟でその姿を隠す。

「(イルドラ殿、狩りを開始する。御二人は兵師監カロアルに狙いを絞って、剛兵の姿を隠してもらいたい。)」
「{手筈どおりに、だな。了解した。)」

 イルドラ兄妹はカロアル羅ウシィを、残る2人は北の2人の神兵の相手をする。
 輩インゲロィームアから通信が入る。

「(上将、こちらでも神兵を討ち取って良いか?)」
「(兵師監カロアルを討つまでは控えてもらいたい。混戦になると手が出せなくなる。)」
「(心得た。)」

 言うが早いか、輩インゲロィームアと椎エンジュは北の長槍隊の前に飛び込んだ。神兵ハグワンドとの間に挟まれる事になるがまったく気にせず疾走する。
 長槍隊はいきなりの突入に蜂の巣を突いた大騒ぎとなった。

「ベアムよ、こちらも始めよう。」
「はい、兄上。」

 

 北の攻めはゲイルの達者に任せて、雁ジジと麗チェイエィはカロアル兵師監攻略に移る。
 ゲイルの突撃が繰り返される戦場では、しばしば味方の兵の中にも勢いの付いたゲイルが飛び込んでしまう。これを身体を張って防ぐのもゲイル騎兵の役目だ。
 イルドラ兄妹が全力疾走を繰り返すのを間近に見ながら、剛兵傭兵が展開される。

「フフ、驚くがよい。」

 羅ウシィの弓兵隊を指向して並べられた10基の弩の列を、麗チェイエィは満足げに眺める。
 強力ではあっても重く取り回しが悪く、しかも発射速度の遅い弩は野戦には普通投入されない。今回も1基を2、3人掛かりで運んできた。弦を引き直し次を装填するのにも多数の人手が必要なのだが、

「準備完了しました。」
「よし、順次発射を許可する。」
「は!」

 戦場の中央に位置する剛兵隊は羅ウシィを通り越し、背後の弓兵隊を攻撃する。羅ウシィはゲイルに掛かりっきりで、こちらまで手を出せない。

「発射!」

 びん、びん、びん、と弦の音が響き、太矢が発射される。この弩は有効射程300メートル水平発射で150メートルを制圧する。クワアット兵の弓では対抗し得ない。重甲冑であっても当たり所が悪ければ行動不能に陥る威力がある。

「慌てるな、弩は矢数が無い。当たらぬように注意して射撃の切れ目に反撃せよ。」

 弓兵隊の隊長が叫ぶ通りに、再装填に時間の掛る弩は野戦ではほとんど効力を持たない。当たれば即死には違いないが、数が飛んで来ないと分かれば気を使う必要は無い。

「隊長、また来ます!!」
「なに?」

 信じられない早さで次の矢が発射される。板楯の後ろに並ぶ弩は10基程度と思われるが、その全てが同時に発射してくる。

「ま、また来ます!」
「何故だ、弩を引く機械でも発明したのか?!」

 味方の不利を見て取った羅ウシィが振り返り、弓兵隊の一時後退を指示する。
 神兵の背後を援護できなくなる為に隊長は渋ったが、このままでは為す術無く損害を出すばかりだ。

「一時射程外に後退して、決死隊を突入させ弩を潰す。」
「しかし敵はギィール神族の直接指揮を受けています。ここはやはり神兵の、」
「ええい。ともかく下がれ!」

 

 麗チェイエィは黄金の仮面から覗く赤い唇に笑みを浮かべる。

「戸惑っておるな。この早さで撃てる道理が無いからな。」

 仕掛けは驚くほど単純だ。剛兵の中にうすのろ兵が1体混ざっており、これが弦を引いて回る、これだけだ。
 うすのろ兵にしてみれば、なぜこんな簡単な事ができないのかと思うだろう。1秒ほどで終る作業をちょいちょいとこなしている。林の中で弩を運ぶのにも彼はたいそう働いて、イルドラ丹ベアムに頭を撫ぜてもらった。

「そうだ、カロアル兵師監を孤立させよ。次は左手の弓兵隊に指向し牽制せよ。」
「ハンバーグァム!」

 上将雁ジジが剣匠の責任者を呼び出した。彼は雁ジジの寇掠軍に何度も従う、信頼も厚い有能な戦士だ。
 ハンバーグァムはゲイルの傍に跪き、命令を受ける。雁ジジも狗番を通してでなく、直接に言葉を掛けた。

「今から左手の弓兵隊に圧力を掛け、混乱に陥れる。鐡兵で斬り込みを掛けよ。」
「おおせのままに。殿様の御為に我が命を捧げて参ります。」
「うむ、頼むぞ。」

 雁ジジの合図でエイベントの神兵と交戦していた『_・リケル』のゲイルが反転し、キマルの隊にも攻撃を仕掛ける。クワアット兵の射程内にもゲイルが駆け込んで来るので、夢中になって矢を射掛ける。
 いつしかキマルの隊は南方に引き出され、羅ウシィの鉄弓がカバーする範囲を外れる。

 ばしぃ、と黄金の槍で肢を叩いて、雁ジジのゲイルが単騎で進み出る。キマルの隊への攻撃に参加しようとする姿だ。

「むん!」

 雁ジジの狗番が全身の力を込めて背を逸らし大弓の弦を引き、ゲイルの上から煙幕筒を放り込む。ここに来て初めて火を使う武器を投入した。
 10本以上を投射して、キマルと羅ウシィの間に煙の壁が出来る。この煙に隠れてハンバーグァムはクワアット兵への斬り込みを開始した。一騎当千の傭兵を40人率いる彼は、50のクワアット兵と互角以上の戦いが出来るだろう。

「いかん!」

 異変に気付いたのは一人孤立して見通しが良かった羅ウシィだ。だがイルドラ兄妹が執拗に彼を狙い、応援に動けない。後方に下がった弓兵隊に合図を送り、弩の狙撃を覚悟でキマルの長弓隊の援護に向かわせる。

 

「(麗チェイエィ殿。)」
「椎エンジュ殿か、いかがした。」

 北の端に行き、林の遠くに感知の枠を伸ばした椎エンジュが、次の戦場の変化を予告する。
 ギィール神族は7里(キロ)の範囲を知ると言われるが、意識を集中しなければそんな遠くまで見通せない。

「(穿攻隊の到着が近い。機会は多分これ一回のみで終わるだろう。)」
「任せておけ。それよりも穿攻隊に喰われるなよ。」

 

     ***

 金雷蜒軍の動きがにわかに慌ただしくなったのは、穿攻隊の接近を感知したためだろうと羅ウシィは考えた。
 ギィール神族の超感覚は戦場にしばしば不可解な動きを引き起こす。その意味を読み解くのも黒甲枝の務めだ。褐甲角軍は情報的には常に遅れを取るので、いかなる事態に陥っても混乱しないように、真っ当正攻法の用兵のみを心掛けている。

 穿攻隊が到着した後、金雷蜒軍はいかにするだろう。最早これ以上の進軍は望めない。ヌポルノ村に侵攻し殺戮の限りを尽す、という第一目標は消えた。

 第二目標は、通常クワアット兵となる。
 無理して神兵と戦わずともクワアット兵の死傷者を多数出せば、褐甲角軍に多大な損害を与えられる。今次大戦において、金雷蜒軍はこれを目的とした攻勢を多数行っている。今回の総攻撃が失敗に終ったとしても、クワアット兵の数が足りなくなれば第二波第三波の攻撃を防げない。内部への浸透を防ぐのも困難になる。

 

「そういえば、バイジャンはちゃんと逃げ切れただろうか? 最後の連絡以降報告が上がって来ないが。」

 羅ウシィは息子の小剣令軌バイジャンを思い出した。彼は未だクワアット兵の身分に留まり、今回の攻撃を早期に察知する大役を果たしてくれた。次の戦、青晶蜥神救世主が誘うだろう動乱の時代では、彼の世代こそが主役となるはずだ。

 携帯する矢が少なくなったので、背から大剣を下ろして地に刺しておく。矢が尽きればそのまま斬り込んで弓兵隊を後退に追い込んだ弩隊を蹴散らし、再び戦場の支配権を奪取する。穿攻隊の到着はその直後となるだろう。

「む?」

 煙がこちらに流れて来て、彼の視界を遮った。加えて麗チェイエィのゲイルが今度は羅ウシィを対象に煙幕筒を投入する。

 神兵は煙幕には惑わされない。夜の闇と同じで、視覚が制限されるとむしろ勘が鋭くなり、より剣の切味が増すと金雷蜒軍は怖れている。
 であれば、この煙幕の目的はクワアット兵に対してだ。羅ウシィの指示でキマルの隊を救援に向かった弓兵隊を攻撃するのだろうか。

 煙の中から淡い影が膨らむ。轟音と共にゲイルが至近に突入して来た。
 泰ヒスガバンの肉薄攻撃だが、所詮弓矢では重甲冑を纏う神兵には通じない。承知の上で手持ちの鉄箭太矢を消費させる攻撃を繰り返したが、今度は違う。

 ぎゅんと横殴りに飛んできたそれは投槍、いや銛だ。全鉄製の銛の後ろに綱を結わえ、ゲイルの速度を利して振り回し殴りかかる。
 これを鉄弓で受けたのは失敗だ。いかに鍛えた鋼であろうと所詮は弓として作られたもの。重量のある銛の衝撃に弦が外れ持ち手を止める鋲が延びてしまう。

 羅ウシィは鉄弓を諦め、大剣を地から引き抜いた。
 大剣には特別な力がある。それは神兵の魂の叫び、大いなる血の昂ぶりだ。巨大で強力な敵に肉薄し危険を顧みず撃ち合い斬り結ぶ、これこそが額の聖蟲が求めるもの。まもなく息子に聖蟲を譲り引退する齢であっても、こればかりはなかなか諦め切れない。

 またも煙が膨らんで、今度は丹ベアムの攻撃だ。黄金の槍を用いてすくい上げるように斬り込んで来る。

「青いな。」

 大剣を用いる神兵に対しては、ゲイルを犠牲にする覚悟が必要だ。ゲイルの全体重を相打ち覚悟でぶつけなければ、有効打は望めない。丹ベアムの攻撃は軽くいなされ、虚しく二股の尻尾が煙を巻いて去っていく。

 

 視界全てが煙に覆われ、ゲイルの走る轟音、鉄弓の甲高い弦の響き、鉄同士がかち合う声、武者の雄叫びが聞こえる。

 羅ウシィは何故か独りになった。
 敵意は感じる。だがゲイルが自分に向かって来ない。

「退いた? 先ほどまでの若い神族は、退いたな。」

 ゲイルの音が下がったのは、執拗に攻撃を繰り返していたイルドラ兄妹が一時後退した証しだ。彼らは羅ウシィの警戒を解き、展開中の剛兵をゲイルの尻尾に巻き込まない為に一時煙の外に出た。羅ウシィを包む罠は、ひたひたと完成しつつある。

「兵師監さま!」

 羅ウシィの姿が煙に巻かれたのを懸念して、数名のクワアット兵が近くに進み出る。視界の定かならぬ中、四方を警戒しながら兵師監を呼んだ。この煙であれば弩には狙撃されないだろうが、ゲイルに巻き込まれる危険は有る。

「あまり近付くな! 右耳三分50歩を射よ。」
「は!了解しました。」

 クワアット兵はゲイルに対抗する為に、集団で同じ目標を狙撃する術を教え込まれている。煙の中や闇で目標が見えなくとも、指示に基づいて矢を集中させる技能を持つ。指揮者を基準として方位を定める符丁も有り、かなりの正確さで矢を集める。
 果たして羅ウシィの指示通りに射ると、剛兵が一人引っ掛かった。煙の中に上がる悲鳴に、クワアット兵も意を強くする。敵はなにかを狙っている。

 剛兵に死者が出たと見て麗チェイエィがゲイルを寄せ、大弓で投槍を打ち込んだ。羅ウシィが既に鉄弓を使っていないと知るので大胆に接近する。

 ばり、と耳をつんざく音を立てて、投槍は大剣に引き裂かれた。羅ウシィはクワアット兵に合図して接近を差し止める。
 剛兵達はその音を目当てに、徹甲矢を何本も打ち込んだ。特殊な鏃を持つこの矢は、翼甲冑丸甲冑の装甲であれば或る程度は効果がある。至近であれば貫通もするが、さすがに重甲冑には虚しく弾かれる。火で装甲を抉る高温徹甲矢も今次大戦では多用されるが、これは今回未だ用いない。

 麗チェイエィが、まさにここだと見極めて剣令に指示を出す。黄金の槍でゲイルの肢を甲高く叩く音を聞いた剣令は、剛兵の囲みを詰めさせて、最後の攻撃に移る。
 煙幕の煙が薄れる中、クワアット兵と剛兵が矢を射掛け合う。羅ウシィは重装甲を利して壁となり、兵を護る。

 難民の兵、これは死を命じられた者が再び旗を抱えて羅ウシィに突撃する。攻撃ではない、めくらましだ。だがこの大胆な突撃に羅ウシィはしばし気を取られる。なにか策があるのではと大剣を構える。
 だが再び投槍が飛んできたので、雑兵に構って居られない。10歩進んで無造作に斬り、ゲイルの所在を確かめる。

「ここだ!」

 剛兵の一人がギィール神族より託された秘密兵器を発射する。強酸の瓶を投射する小型の弩。瓶を保護する為に仕掛けを筒の中にしまい込み、携帯を便利にしている。射程距離は短くせいぜい50メートルだが、彼は30にまで近付いてこれを用いた。

 やはり神兵に油断は無い。大剣を手首で返して空中で斬り払う。が、強酸性の液体が散乱し、大剣を握る右手に襲いかかる。

「しまった! これを忘れていた!!」

 すかさず第二撃を別の剛兵、名はバロアという、が狙う。この武器は二つしか用意しておらず、必中しか許されない。羅ウシィが酸を浴びたと認めてバロアは必死に走り、10メートルの至近から重甲冑の胸部に撃ち当てた。

 この強酸の瓶はただの容器ではない。大きく膨らんだ胸部装甲に粘り着き、期待通りの動作をする。

 褐甲角軍が用いる神兵用甲冑はなんらかの形で必ずギィール神族の手が入っている。故にその特性も弱点も知り抜いていた。
 タコ樹脂の塗料で布や鉄箔、金網を積層して塗り固めた装甲は成形がし易く厚さをを自由に調節可能、軽量強固で打撃斬撃刺突に強く、木材が燃える温度であれば炎にも冒されず不朽を誇るが、或る種の薬品には非常に脆い。
 とはいえ戦場に取り扱いの難しい劇薬を持ち込むのは困難で、無視して構わない弱点ではあった。

 羅ウシィの胸部に接着した筒は内部で化学反応を起こし内容物を強烈な勢いで噴出する。振り払うまでのほんの数瞬で装甲を貫徹し、肉の身体にまで到達した。いかに聖蟲が宿主に無敵を与えるといえども、薬品はダメだ。刀槍の傷ならば血止めして広がるのを抑えるが、肉を焼く酸には神の力も効果が無い。

「ぐ、ぐぐうううううう、」
「や、やった…、やた、やた、やったあ、雁ジジさま、御館さま、やりま!」

 ゆるやかに地に膝を突く羅ウシィの重甲冑を見て、バロアは両手を振り上げ喜びを露にする。驚いて飛び出したクワアット兵に気付かず、そのまま射殺された。
 羅ウシィの周囲には5人が駆け寄って来るが、全備重量300キロの黒く重い装甲を常人の力では脱がせられない。無理して手を出した者も、表面を濡らす薬品に手を焼かれる。

「兵師監さまが、カロアル様が! 誰か、神兵の方お助け願いたい! 誰かーあ!」

 

 必死に叫ぶクワアット兵の声に、異変はたちまち戦場全体に知れ渡る。
 浸透部隊の上将カプタン雁ジジははしと騎櫓の枠を叩いて、足元にうずくまる蝉蛾巫女エローアをひき出した。

「歌え、凱歌を。金雷蜒(ギィール)神に黒甲枝の魂を捧げるのだ。」
「かしこまりました。」

 

 だが、北側で長槍隊と戦っていた椎エンジュから、全員に対して通信がある。

「(穿攻隊が到着した。翼甲冑を纏った神兵10、遅れてクワアット兵50が従っている。上将、一度兵をまとめ陣を立て直すべきだ。)」
「(上将、我らが時間を稼ぐ。剛兵を仕舞われよ。)」

 イルドラ兄妹も北に向かい、その猶予を用いて雁ジジは剛兵傭兵の撤収を開始する。林に下がって居た難民の兵を再び投入し投石での牽制攻撃を命じた。
 ハンバーグァム率いる斬り込み隊も薄れる煙の中、畑の草を掻き分け横切って上将の下に集う。

 丹ベアムが雁ジジに先程の戦果の確認を求めた。

「(上将、兵師監カロアルの首は誰が取った? 確実に殺したか。)」
「(いや、とどめはまだ刺していない。ほぼ間違い無いと思われるが、既に近づける状態に無いのだ。)」
「(最も近くに居たのは麗チェイエィ殿だな。何故突っ込まない?)」

「(…済まぬ。)」

 勿論、薬瓶の直撃を目視した麗チェイエィはただちに留めを刺そうとした。だが、出来なかった。彼女の額の聖蟲がはっきりと告げていたのだ。
 羅ウシィからまっすぐに伸びる大きな白い光、重甲冑が肉弾となって飛んで来る『吶向砕破』を示す線がまっすぐ自分に向かっているのに、彼女は竦んでしまった。最後の力を振り絞りゲイル騎兵と相打ちを図ろうとする神兵の覚悟が100メートルも伸び、不用意に踏み込めばゲイル諸共真っ二つに分断されていただろう。

 近くに居た雁ジジにはその辺りの事情はよく分かる。瀕死の黒甲枝が何をしでかすかは、戦場を幾度も往復する強者の良く心得る所だ。

「(イルドラ姫。仕留めた剛兵の名はバロアと言う。覚えておいてもらいたい。)」
「(むう。神族の名が残らぬのか。それは困るな。)」

 

 ゲイルの首を引き回し遠く望む北の林から、深紅の輝きが零れる。緑の陰から現われて陽光の下に踊り出る有翼の神兵の姿が、次の激戦を告げる。

 

     ***

 穿攻隊に配置されている赤甲梢の神兵は現在微妙な立場にある。
 ミンドレア・ベイスラの穿攻隊およびガンガランガの兎竜掃討隊にはかなりの人数の赤甲梢が配置されているが、彼らが本隊に同心して反乱を起すのではという疑念は当然誰もが持つ。いや期待していると言ってもよい。

 それだけ敵国領内に単身突入する作戦は黒甲枝の心の琴線に触れた。赤甲梢こそ褐甲角(クワアット)神の真の使徒だと、人目もはばからず高言する軍上層部の人間もある。多くの神兵や黒甲枝出身のクワアット兵も同じ気持ちで、命じられればすぐにでも赤甲梢の応援に行きたいと願っている。

 

「教官、ぶしつけではありますが一つお聞かせ願えませんか。あなた方は今回の作戦を何時から知っていたのです。」

 ベイスラ穿攻隊、難民移送団への支援に当てられた10名の神兵を率いるのは赤甲梢中剣令ロク陽ハンァラトレである。彼はサト英ジョンレが剣匠令の資格を取った際には教官を務めた人物だ。 
 待機所に当てられた村にて出動準備をし翼甲冑を装着する中、意を決して英ジョンレは彼に問い掛ける。互いに遠慮して口をつぐんでいた他の神兵も一斉に振り向いた。

 ロク陽ハンァラトレは32歳で、位こそさほど高くないが剣技に関してはずば抜けた技能を持つ。出自も確かな黒甲枝であり、王都カプタニアの神兵戦技研究団に教官として招かれた事もある、尊敬すべき神兵だ。
 それだけに赤甲梢総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサから知らされていてしかるべき、と皆に思われている。敵領内への突入という重大事を如何にして秘匿し得たか、興味は誰もが持つ。

 これまではそれとなくほのめかし韜晦するだけであった彼も、英ジョンレの真っ正面からの攻撃には窮した。これから向かう戦場において指導力を疑わせぬ為にも、この問いには答える必要がある。
 皆が注目する中、彼は翼甲冑の兜を両手に持つ。
 甲虫の貌を擬す赤い兜は見掛けよりはるかに軽く、だが帯びる権威は重かった。これを被る前に彼は、自らが何者か明かさねばならない。

「我々は、…神兵は元より所属するクワアット兵一人ひとりに到るまで、作戦が立案される最初の段階で打ち明けられた。総裁御自らの口よりだ。」
「おお!」

 彼が逡巡し覚悟を決めて発した言葉に、その場に居た神兵は皆驚嘆と羨望の声を上げる。明らかに軍令違反を伴うだろう作戦を末端の兵士にまで伝えて漏れるのを怖れない、その信頼。メグリアル妃の人望の高さに誰もが憧れた。

「では誰一人として反対する者が居なかった、という事ですか。」

 行き掛かり上、彼の次に年長のジュアン呪ユーリエがその場を仕切る形になる。穿攻隊は新規に配備される翼甲冑を用いる為に、いきおい隊員の年齢は若くなる。毒地奥部に進攻する為に活きの良い格闘に秀でた者を選んでいた。

 反対、と聞かされてロクは首を傾げる。彼ら赤甲梢の使命は敵領内への侵攻と要塞陣地への殴り込みである。ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンの提唱した侵攻計画に基づき、その尖兵となるべく鍛え上げられた。長年の夢が遂に実現すると聞かされて尻込みする者があるだろうか。

「たしかに軍の秩序を考えれば反対すべきだったのかも知れない。だが我々にそれは出来ない。あまりにも喜ばしく、血の滾りを抑えられない作戦だからだ。」
「それは分かります。しかし無謀だとは考えませんでしたか。」

「無謀か…。」
 ロクは東の空を、窓の外に繁る夏の緑を見上げる。その遠き先は本来彼が在るべき戦場だ。

「生憎無謀という言葉に我々は慣れ親しんでいてな、焔アウンサさまならばなんとかしてくれるだろうと信仰にも似た信頼を持っていたのだ。」

「では穿攻隊に回された時、隊長はどのように思われました。無念とはお思いになりませんでしたか。」

 若い神兵の言葉はロクの胸を深く抉った。十年待った作戦からむざと外されると知った時の彼らの心境を、伝える術は無いだろう。

「最初から分かって居た事ではある。本隊の作戦発動を滞り無く行わせるには誰かが後方支援をし、中央軍制局の目を欺かねばならない。だから籤を引いたよ、誰も引き受けたいとは思わないからな。」

 呪ユーリエは、ここで改めて聞かねばならぬ問いを突き付ける。神兵の王国への忠誠を疑う者は居ない。しかし、法の支配と信仰とを天秤に掛けた場合、どちらに傾くかは人それぞれなのだ。

「赤甲梢として、あなたはこれからどうなさるおつもりです。要請があれば、法を冒してでもメグリアル妃をお救いに行きますか。」
「諸君らは勘違いしているようだが、現在の赤甲梢総裁はキスァブル・メグリアル焔アウンサ様ではない。現在あの御方は総裁代理であり、真の総裁はウラタンギジトに在られるメグリアル劫アランサ様だ。我らは総裁の命に従う。私的な意見など関係無い。」

 はぐらかされたようで、聞く者には少し不満が残った。と言うよりも、彼が望めば穿攻隊の若き神兵はこのまま毒地を突き切って赤甲梢の応援に出向いたかもしれない。
 その気配を察して、ロクも隊長として応えねばならぬと、自分の行く先を宣言した。

「わたしは確かに赤甲梢本隊の侵攻作戦に心惹かれている。だが、だからと言って目の前の敵を無視する事はあり得ない。そこにゲイルがあり民に危害を加えているのならば、何を差し置いてでもこの身を捧げ聖戴の使命を果たす。それだけだ。メグリアル妃も仰しゃった、誰がどこで戦おうとも自分の手下である事に変わりはないと。」
「てした、ですか?」
「そうだ、手下だ。部下ではない、統率を受ける兵でもない。メグリアル妃をお慕いするのはあくまでも私的な感情に過ぎず、王国に対しての忠誠と別の次元の話なのだ。」

 目を白黒させる神兵達を振り返り、呪ユーリエも赤甲梢とは大したものだと内心おかしく思う。
 彼らはメグリアル妃を中心とする私兵集団いや博徒の集いのようなもので、損得利害の計算など無く、己の欲する所信じるものをひたすらに追求するだけだ。目の前の赤甲梢も、自らの往くべき路を進んでいるに過ぎない。誰に命じられずとも、この男達は歩いて行けるのだ。

 ロクは、付け足して言う。

「だが今次大戦においてわたしは大いに不満である。ベイスラ穿攻隊は何度か激戦を繰り広げ、絶え間ないゲイルの襲撃を撃退し続けたにも関わらず、確とした戦果が上がっていない。これはまったくもって受入れ難い。東金雷蜒王国侵攻を諦めた代償として相応しくない!」
「では?」

「戦わせてもらおう。ゲイルへの一番傷はわたしが頂く。」
「いや隊長がそれでは困ります。我らを指揮してくれないと、」
「という訳だ。わたしが鬱憤晴らしをする邪魔をするなよ。文句が有れば、剣で聞く。」

 

 そして今、彼らは林の中を走っている。

 求める敵は10騎以上、王国内奥に抉り込み迫っている。申し分の無い獲物と言えよう。
 翼甲冑の肢の爪が木の根、草の茂みに突き刺さる。鉄の刺を持つ拳が樹の幹を抉り白い傷痕を残して、強引に突き抜けた。タコ樹脂の翅が細かく振動し、赤い甲虫に矢の勢いを与える。

「遅れるなよ、誰にも獲物は譲らないぞ!」

 

     ***

 薮を掻き分け林の中から飛び出した穿攻隊の神兵は、広がる空間に満ちる不協和音に一瞬たじろいだ。

 褐甲角の神兵は聖蟲が帯びる精気の振動を感じ取れるのだが、このうなりは明らかに異常事態を示している。刀槍弓矢で宿主が殺されても、このような狼狽えぶりをカブトムシの聖蟲は示さない。聖蟲本体に対しても不可避の危険が迫っているとしか考えられない。

 穿攻隊は左右を見定め敵を選び、同時に異変の元を探る。翩翻と翻る無数の旗幟、白くたなびく煙幕の帳、ゲイルの疾走に伴う土煙が幾重にも重なり、敵味方の様子が掴めない。
 答えは声で示される。

「誰かー! 神兵の方御助力を! カロアル様が、兵師監さまが手傷を負われました。なにとぞ、なにとぞー。」

「隊長!ロク様!」

 必死に叫ぶクワアット兵の声に、英ジョンレが敏感に反応する。長く恩顧を受けたカロアル羅ウシィ兵師監が敵の攻撃に倒れたとなれば、彼が救いにいかねばならないはずだ。隊長に願い出る。

「! よし行け。」
「隊長、わたしも参ります。兵師監の指揮していた隊が統率を失っているでしょう!」
「任す!」

 英ジョンレに続いて呪ユーリエも走る。このように神兵が倒れた時こそが、ゲイル突入の好機なのだ。神兵の援護の無いまま巨大な蟲の攻撃を受けては、いかに訓練を積み重ねた兵でも瞬時に潰させられる。

「どうしたー! 兵師監はどこだ!」
「こちらです、こちらですー!」

 走りながらも英ジョンレは兜の蟲の面を取る。視界が制限されていてはこの状況では敵の矢面に迷いこむ。
 そこはすでに長槍隊が囲む場所となっていた。円陣を組んで守る中央に横たわる巨大な黒い影は、

「カロアル様!」
「おお! サト様ですか!?」

 羅ウシィを必死で確保していたのは、ノゲ・ベイスラで長く防衛隊に配属されていた小剣令だ。当然英ジョンレも知っている。旧知の神兵の到着で胸を撫で下ろし、勢い込んで羅ウシィの状態を説明する。

「カロアル様は敵の剛兵が用いた薬瓶での攻撃で強力な酸を浴びられたのです。一発は右腕に、胸にもう一度。」
「胸の、装甲部か?」

 重甲冑の胸といえばこの世で最も強固と思われる非常に分厚い装甲だ。弩車の大矢が直撃しても耐えるのに、一目見た英ジョンレは絶句する。

「貫通している…。」

 親指の輪ほどの径で黒褐色の装甲が酸に冒されてへこみ、さら指の太さの穴が内部まで届く。傷としては極めて小さいが、その奥に燃えたぎる熱気が篭っていた。装甲に用いられているタコ樹脂が目に見えない焔を上げて燃えている。

「どけ!」

 クワアット兵を殴り飛ばすかに羅ウシィを抱きかかえた英ジョンレは、急いで装甲を引き剥がそうとする。無論重甲冑はちゃんとした手順を踏まなければ外れない頑丈な結合がされており、神兵の怪力でも破壊は出来ない。
 改めて、首の装甲の裏にある脱落釦を押してバネを一本ずつ外していく。左右の肩3本に脇2本、腹の3本ずつを外して漸く胸部装甲を排除出来る。

 クワアット兵が首を並べて見守る中、英ジョンレは慎重に装甲を前面に引き出していく。脇を固める補助装甲を手伝わせて外し、初めて内部の様子を確かめる事が出来た。

「!」
「…、カロアル様…!!」

 内部に浸透した酸と激しく燃えたタコ樹脂の熱とで、羅ウシィの胸部腹部はすっかり焦げ内臓まで黒く抉られている。いかに聖蟲の精気に護られる肉体であっても、堪えようが無い。

 英ジョンレは羅ウシィを地に横たえ、兜と面を外す。空気が入ったと思うその瞬間、中からカブトムシが飛び出して来た。聖蟲はあくまでも宿主を守り抜くが、これほど激烈な攻撃にさらされては聖蟲自身にすら危険が及ぶのだろう。尋常の死を迎えても、これほどの勢いで逃げ出す事は無い。

 兜と面を取り去り、顔を風に曝す。胸腹部に篭った熱気は甲冑に内装される呼吸具を通じて頭部にまで至る。
 羅ウシィの死顔を見て、改めて英ジョンレは零した。

「もうしわけ、ございません。サト英ジョンレ遅れましてございます。」

「どうした、兵師監は!」

 残された長弓隊および長槍隊の指揮権を委譲された呪ユーリエが鉄弓を手に近付いた。ゲイル騎兵は突如乱入した穿攻隊への対応で必死だが、南から遅れて上がって来る蟲もある。油断は出来ない。

「カロアル兵師監は、…なんということだ!」

 呪ユーリエも毒地で何度も戦い、味方の神兵が討たれる場面も見た。しかしこの死顔はどれよりも凄惨なのものだった。
 だが怯んではいられない。戦闘は未だ終らずゲイルの勢いは止らない。神兵を討ち取って士気は上がっていよう。

「英ジョンレ、兵師監を林の奥に曳いていけ! その後は隊長に続いて戦線に復帰しろ。今すぐだ!」
「! 呪ユーリエ殿ありがとう。」

 為すべきを忘れ呆然と羅ウシィを抱いていた英ジョンレは言葉に撃たれたかに立ち上がり、重い甲冑を着た身体を曳き始める。戦場に神兵の亡骸を放ったままでは、味方の士気が落ちる。
 呪ユーリエは長槍隊を一列に整列させて曳かれていく兵師監の姿を隠し、長弓隊を前面に出して撤収の遅れている剛兵に一斉射撃を開始した。

 逃げ惑う剛兵を支援する1騎のゲイルが鮮やかに体節を翻して、呪ユーリエに対峙した。背に乗る神族は身体の線の美しさ甲冑の優美さから女人と推察される。
 神兵の優れた視力に、面頬下のくっきりと赤い唇が自分に語るのが見える。

「”兵師監カロアルは本作戦の第一目標である。汝も彼の仁ほどの責を負うや”。」

 答える代りに鉄箭を射た。大きく山なりの軌道を描いてまさしく彼女の位置に落ちる。造作もなくゲイルを操って避け、再び唇が動いた。

「”復讐を期すならば、我を求めよ”。」

 

「呪ユーリエ殿!」
「来たか?!」

 西の林に羅ウシィの姿を隠した英ジョンレが、背の翅の風に乗って飛んで来る。呪ユーリエは遠くの神族を指差した。

「あの神族が兵師監の仇らしい。」
「なに?」
「だが挑発に乗るな。隊長の指示に従って討てるゲイルから確実に仕留めていけ。」

 穿攻隊の翼甲冑の神兵は果敢にゲイルに挑んでいる。だが6体のゲイルが連動して走り円を描く攻撃に、おいそれと手を出せない。ゲイル騎兵もいつのまにか翼甲冑の攻撃に対応した機動を学習している。
 南の方では未だ4騎が残り、兵の撤収にあたる2騎を援護する。難民の兵はてんでばらばらに戦場を走り回り、投石器であたるはずも無い石を投げては奇声を上げる。一際目立つ獰猛な装備の傭兵隊が、既に役割を果し終えたと戦線を離脱し始めた。

「う、うむ。残念だが敵を選んでいる余裕は無いらしい。」
「こちらは雑兵を片付けておく。私の分まで大剣を振るって来い。」
「おう!」

 英ジョンレは穿攻隊が作る列に駆けて行く。呪ユーリエは北に残る長槍隊を率いる神兵に合図を送り、クワアット兵の退避を開始させる。
 神兵とゲイル騎兵の格闘戦が始まると、常人の兵は一気に邪魔になる。戦場を聖蟲を持つ者に明け渡すべきだ。

 

     ***

 大軍を擁しての正面からの衝突であっても、ゲイル騎兵と神兵のみの直接対決はまま発生する。

 理由は簡単で、他の兵がついて来れないからだ。ゲイルは時速50キロもの高速を誇るが、軽量で翅による補助推進が可能な翼甲冑が時速24キロ、重甲冑であっても15キロを叩き出す。人間が武装して出せる速度ではない。故に神兵は単独で前進しゲイルを自ら引き受け、後方に控えるクワアット兵を護る形になる。

 これこそが戦場の華。黒甲枝もギィール神族も夢に見る戦の理想型だ。

 だが防風林に囲まれたベイスラの畑という狭い戦場に、ゲイル12騎、神兵16人は集中が過ぎた。縦横に走るゲイルの速度を活かす為にあえて半数は待機し、交代で駆ける。
 褐甲角軍も、緒戦を戦ったベイスラ・エイベントの神兵は鉄弓での牽制に回り、クワアット兵を林に避難させ休息と再編をさせる。クワアット兵への損害は小さいものの、弩の射撃と傭兵隊の突入で結構負傷者が出た。

 ゲイルとの直接の斬り合いは穿攻隊が受け持つが、正直な所翼甲冑の性能を黒甲枝はあまり知らない。穿攻隊の神兵は無論習熟しているが、それでも赤甲梢よりは練度が低い。慎重と安全を期して大剣と斧戈を振るう事になる。

 一方ゲイル騎兵は。

「この竜巻のようなゲイルの隊形は?」
「北で赤甲梢がさんざん兎竜でいたぶったからな、ゲイルを連動して用いる新たな操法が確立されたのだ。」

 複数のゲイルのうねりのタイミングを合わせ、あたかも一匹の蟲のように振る舞う陣形は、大審判戦争で初めて見る。兎竜に背後に付かれない為のものだが、敏捷な翼甲冑での斬り込みも効果的に防ぐ。
 ならばと鉄弓で射るが、矢を避け軌道が膨らんだ余勢を駆って、神兵に襲いかかる。

 弥生ちゃんならば「電車が襲って来る!」と表現しただろう、怒濤の巨蟲の殺到だ。一体を避けても後方から次の蟲が、その背の神族の矢が走る。額のゲジゲジを用いた同調で、複数が本当に一体化して動いている。

 穿攻隊の隊長ロク陽ハンァラトレはやむなく戦法を換えた。

「致し方ない! 走れ、敵を走らせろ。」

 これは対ゲイル戦闘でのセオリーだ。所詮はただの蟲、尋常の生き物に過ぎないゲイルは走り回ると当然に疲労し動きも鈍くなる。そこを狙って斧戈で斬り込むのが重甲冑での本来の戦い方。軽量敏捷な翼甲冑がその戦法を避ける理由はない。

 ゲイル騎兵にとって、この策はかなり痛い。ゲイルは尋常の生き物であり、神兵は神の加護を受ける掟破りの存在だ。長期戦になれば疲れを見せぬ神兵が有利なのは当たり前。故に強行に突っ込み直接攻撃を誘引する。

 

 竜巻の疾走に参加していない上将カプタン雁ジジから、各神族に聖蟲の通信が入る。彼は剛兵傭兵の撤収をほぼ完了させ林の中に再布陣させており、キシャチャベラ麗チェイエィと共に全体を見守っている。

「『_・リケル』の4騎が随時交代する。ゲイルに疲れが見えれば、すぐさま列を離れよ。傭兵隊に水場の確保をさせる。」
「(了解した。)」

 雁ジジの指示で剣匠ハンバーグァムが率いる傭兵隊は、畑の北側に設けられている溜め池の奪取に赴く。
 ゲイルは水を飲む。夏場であっても2日に1回と控えめで経済的だが戦闘、特に高速で疾走して神兵と、となれば大量に水を消費する。巨大な身体に比例して量を飲むのだから、奴隷兵ごときが運搬出来るものではない。騎櫓にゲイル自身の為の水樽を装備する。

 だが既に緒戦でそれも消費した。後は現地での補給しかない。穿攻隊との戦闘を捨てて撤退するのならまだしも、やる気であれば水場の確保は絶対必要だ。
 麗チェイエィが特に指示し、剣令に命じる。

「もしも傭兵隊で足りないとなれば、剛兵に防毒面を着けさせて毒煙筒の使用も行う。準備させよ。」
「は?!、ははあ!」

 毒煙の中でもゲイルとギィール神族、褐甲角の神兵は無事だ。そういう毒を用いている。夏場の防毒面の着装は極めて困難であり苦痛であるが、忠誠心の強い剛兵であれば耐えてみせる。しかし事故は必ず起こるものだから、剣令が尻込みするのも当然だった。

 

 戦場は既に、双方の怪物が縦横に走り回る修羅場と化す。その勢いに圧倒され、どちらの予備兵力も手が出せない。均衡が崩れるのを待つばかりだ。

 英ジョンレも走った。いかに聖蟲の助けがあろうとも、照りつける陽の下を完全装備の甲冑で走り回れば内部はたちまちむせ返る。せめて顔面だけでも、呼吸だけでも確保せねばと面を外す。
 だがその隙をギィール神族は見逃さない。的確に、極めて正確に眼を狙って徹甲矢が飛ぶ。慌てて左の拳で薙ぎ払う。

「ほんの僅かの隙も見逃さないのか。奴らの甲冑には暑さを防ぐ機構もあるのか。」

 

 ある。が、それほど便利なものでもない。
 ゲイルの背で疾走する風と遠心力を計算して矢を放つイルドラ丹ベアムは、汗でしばしば目が見えなくなるのに苦しんでいた。

「いっそ目をつぶったままで戦った方が容易いかも。」

 ゲジゲジの聖蟲は視力の届かぬ遠距離や障害物の後ろさえ超感覚で知らせてくれる。盲いた神族もなんの不自由も感じない。だが、己が目で見らねばならぬものもある。

「!」

 人の顔が見えたと思ったその刹那に、指が矢を放した。戦場の機微を感じ取るのはあくまで人間の力であり、聖蟲の分析力でさえ及ばぬ領域がある。

「所詮戦っているのは人間ということだ。」

 光を感じ、ぶんとゲイルの進路を右に振る。肢がたわみ胴が浮き、彼女の背後を守る狗番が放り出されそうになる。すり抜ける体節の有った場所を神兵の斧戈が虚しく過ぎて、後続の神族に矢を射掛けられる。

「赤甲梢とは愚かな連中の集まりであったのだな。」

 ひときわ輝く赤を纏うその神兵は、懲りずにまたゲイルの疾走に頭から突っ込む斬撃を振るった。

「(ベアム。)」
「兄上?」
「(あの神兵には手を出すな。刺し違える羽目になる。)」
「心得ております。」

 ギィール神族は皆、穿攻隊の動きを一人ずつ確かめていた。新型甲冑への換装に慣れないのか、ほとんどの者に動きのムラがある。重甲冑の癖が抜けずに斧戈に振り回される者もある。狙い目はそういう神兵だ。

 

     ***

 戦場の動きを遠目で確かめていた呪ユーリエはある事に気付き、畑を横切って、盛大に斧戈を振り回す隊長ロクの傍に来る。
 夢中で戦うロクに聖蟲を通じてのささやかな通信は聞こえない。大声でぶん殴るように叫ばねば、振り向いてもらえなかった。

「隊長!」
「どうした。」

「敵は戦場の北にある溜め池を抑える気配があります。ゲイルに水を与える為でしょう。」
「う、うむ。防がねばならぬな。」
「いえ逆に、水場を明け渡しましょう。」

「なに?」

「現在6騎のゲイルが走り回り、4騎と順次交代しています。水場が安全となれば北側に敵は集中し、押し込む契機にもなります。」
「狭い場所に数を押し込んで動きづらくさせる作戦だな、いいだろう。君はクワアット兵に命じて溜め池から撤収させてくれ。」

 具体的な命令として、難民移送団とエイベント勢に戦場の南側での集結と再布陣が伝えられる。司令官たるカロアル兵師監亡き今全軍の指揮権が誰にあるのか定かではないが、現に主役として戦う穿攻隊の便宜を図るのは当然だ。

 

 かくして金雷蜒軍は溜め池を易々と奪取したが、その裏に隠された意図を雁ジジははっきりと見抜いた。実際、ゲイルの走る余裕が狭まった。

「これは計算外であったな。黒甲枝の鉄弓が6張、縦長の戦場を下から押し上げてくれば、撤収するしかあるまい。」

 これまで横に広いとして用いて来た空間が、縦に長いものと置き換えられてしまったのだ。

 この戦、負けと悟った雁ジジは兵に撤収を命じる。剛兵傭兵は徒歩であるから移動速度が非常に遅い。早めに撤退して陸舟の待つ国境線に戻らねばならない。
 ゲイルはその間敵をこの場に留め、追撃を阻まねばならぬ。林の中の追撃戦となれば、クワアット兵神兵の独断場だ。最低でも1時間の遅延が必要になる。

「(という事になった。各自、流血で応じてくれ。)」

「(上将。理解はするが、個別戦闘に頼るのは安易過ぎる。策は無いか?)」
「(火の使用を許可する。)」
「(う、うむ。)」
「(それならば。)」

 

 ゲイルの暴走が止り、一度北の溜め池周辺に集結する。列を並べ突撃の姿勢を見せるも、後列のゲイルは池に首を突っ込み乾いた喉を潤す。
 穿攻隊も集合して隊を再編する。呪ユーリエも復帰して10人が横に並び、ゲイルに対峙する。その遥か後方にはクワアット兵400を従える神兵が6。

 数では圧倒的不利に陥った金雷蜒軍だが、もう一つの目的を果たす機会は残っている。クワアット兵を直接に減らす作戦だ。これまで用いなかった火を使う兵器がまるまる残っている。飛噴槍に毒煙筒を縛りつけて飛ばせば、備えの無い兵は重軽傷者を多数出すだろう。

 ゲイルに搭載されていた多数の飛噴槍が地上に下ろされ並べられる。これは狗番によって最適の時期に点火発射される。
 騎櫓の上でも各々工夫を凝らした新兵器が展開され、その牙を剥く時を待っている。

「御上将! カプタン雁ジジ様!」
「おお、よく来たなジムシよ。傷は大事無いか。」

 カロアル軌バイジャンを呼び込んで手傷を負ったスガッタ僧ジムシが、ここでようやく戦線に復帰する。彼は右腕に深く矢を受けたが、これからコウモリ神人の顕現を拝むのにどうして休んでいられよう。

「私にも飛噴槍をお与え下さい。敵の脇腹を衝いて御覧に入れましょう。」
「林にも敵の護りはあるぞ。一人で出来るか?」
「常人の兵であれば近付くのは容易うございます。」

「よし、2本授ける。毒煙筒を縛りつけ、クワアット兵を混乱させるのだ。狗番に点火法を習うが良い。」

 

 一方の褐甲角軍でもゲイルの突撃に備え神兵達は準備に忙しい。ゲイル騎兵を追い散らしていた穿攻隊もやはり夏の日差しに疲労が目立ち、クワアット兵による給水と補給を受けていた。
 不思議なもので走り回っている最中にはまったく感じない疲れが、止まると同時に押し寄せる。甲冑に篭る熱気に耐え切れず、上半身の装甲を外し水をぶっかけ冷却した。額のカブトムシは不滅ではあるものの、蒸せ返る兜の中が快適なはずもない。盛んに前肢で触覚を撫で宿主の額を叩き、水を要求する。

「誰か、負傷した者は居るか?」
「神兵には居ない。クワアット兵の損害を確認した所、難民移送団で20名、エイベント側で11名、穿攻隊で5名が死傷している。」

 穿攻隊ロク陽ハンァラトレ隊長は、エイベントの神兵代表と打ち合わせを行う。ロクと同じ中剣令ではあるが神兵の中では最年長であった為に、戦場全体の指揮権を委ねられた。戦場の混乱は、カロアル兵師監に従う神兵の位階が中剣令で横並びだったのに起因する。それだけ兵師監が討たれる事態が想定外だったわけだ。

 二人は敵の変化の兆候を論じ、特別な警戒が必要との結論に到る。ロクは穿攻隊の神兵に一層の覚悟を促した。

「敵は戦術を転換したと思われる。本気で来るぞ。」

「ではこれまでは手加減をしながら戦っていた、という事ですか。」
「上のゲジゲジは知恵を使ってなかったろう。」

「確かにゲイルを走らせて弓や槍を使うばかりで、まるで狩猟を行っている態でしたな。」
「なるほど。未だ戦ではなかったか。」

 

     ***

 距離1里(キロ)を隔てて、両軍悠長とも言えるほどの長い準備時間を費やした。不可思議にも思えるが、これが十二神方台系の戦争だ。

 そもそも何の為に人は戦うか、というところから戦争の形態は語られねばならない。敵を皆殺しにすれば済む単純で乱暴な戦争の形態は、むしろ近代になって発生した。奴隷として労働力を得る、そのまま軍に組み入れて兵としさらに戦争を続ける、領地と農民を同時に手に入れ永続的に利益を上げる。人殺しは必ずしも利に繋がらない。

 十二神方台系においてもやはり、戦争と殺戮はイコールでない。
 驚くべき事に、と言うよりも当然の行為として、戦争は民衆の為に行われる。神族と神兵は互いに神の計画に基づき慈悲の心で戦っている、と人は理解する。
 民衆を奴隷の境遇から解放し自由を与えんと志す褐甲角王国は元より、賢人の手で社会を効率的に経営し最大の福利を民衆に与えんとギィール神族は考える。殺戮は厳に戒められるべきであろう。

 だが聖蟲を持つ者に対しては、違う。

 聖蟲を戴く者は神の代理にして、地上において神威の顕現を行う責を持つ。勝敗は神の意志の表れ、裁きであり、天河の計画の発露と看做される。
 たとえ生き残り捕らえられたとしても、自ら死を望みそれを許すべしと神聖法に定められている。瀕死の場合にも、最終的な処分は聖蟲を持つ者の手に委ねられ神話の趣を醸し出す。

 神競べであれば、互いに持てる全てを出し切るべきだ。休息と準備に互いに時間を与え合うのは、天意に適う業である。

 

 双方共に支度が整った、と感じ合う。奇妙な連帯感が敵味方に生まれ、互いの牙と角を正面からうまく噛み合せて接近を開始する。
 ギィール神族はゲイルの背に立ち黄金の鎧を陽光に煌めかせる。長い槍で巨蟲の肢を叩き拍子を取り、歩調を合わせてゆっくりと進む。先ほどまでと異なり騎櫓の上には火が炊かれ、空気が揺らめく。

「着装ーーー!」

 神兵の合図でクワアット兵は用意の防毒面を被る。今までは敵も一般人の兵を抱えていたから用いなかった毒煙筒をここで用いて来ると読む。真夏の日差しにこれを用いるのは地獄の苦しみでも、着けねば一方的に潰滅させられてしまう。
 兜の上からでも被れるように革袋になっており、目の部分は薄いタコ樹脂の透明板が覗き窓となる。防毒機能は活性炭による吸着と香草で拒絶反応を抑えるだけの気休めだが、無いよりはずっと良い。ギィール神族の用いる毒煙は催涙作用、呼吸の困難と皮膚の痒みを引き起こし行動の自由を奪うもので、即死はしない。聖蟲を持つ自分達には効果が無いように作っている。

 前列に並ぶ10人の穿攻隊翼甲冑はすべて斧戈を手に再びゲイル騎兵に立ち向かう。策は弄さない、真正面から叩き潰す。後方の重甲冑が鉄弓で牽制し敵の移動する範囲を狭めるので、力押しが最善だ。

 2体を残して10体のゲイルが横列で前進すると、右方に方向転換。連動して一つの連なる蟲へと変わり疾走を開始する。風が巻き土煙が筒となって舞上がり、地鳴りが林の木々に跳ね返りこだました。白い甲羅の軋む音が何重にも響いて、怪鳥の叫び声かと惑わせる。

 穿攻隊隊長ロク陽ハンァラトレが叫ぶ。

「突撃ーーーーー!」
「放て。」

 上将カプタン雁ジジの命令で、地上の狗番達が一斉に飛噴槍に点火する。大審判戦争前は飛噴槍の射程は700メートルが限度であったが、わずか2ヶ月の改良で1キロを越えた。しかもカブトムシの聖蟲が発する精気を感知して誘導する機能まで搭載する。2千年に渡って神族が凝らして来た工夫の全てが、最後の決戦において結実した。

 山なりに飛ぶのみならず、水平飛行する飛噴槍もある。鋼のコウモリの羽を有するそれは後方に長く火を曳いて、ゲイルに先んじて穿攻隊を襲う。

「おお、始まった。」

 林に紛れ褐甲角軍の脇腹を衝くスガッタ僧ジムシは、戦場を舞う焔に歩みを早めた。
 さすがにクワアット兵は林の両翼にも小隊を配置して警戒を怠らない。しかしジムシの薄汚れた灰色の僧衣が曲者だ。ただの難民の兵が逃げ遅れ迷いこんだとしか思えず、まして矢を番える複数のクワアット兵に抵抗するとは考えなかった。

「わ、きさ、」
「ぐああ。」
「が…、が。」

 カロアル軌バイジャンに射られた右腕は使えないものの、左手と両脚で4人をなぎ倒す。決して格闘戦に弱くはないクワアット兵だが、虚を突かれしかも素手の攻撃という常識外の戦闘に一方的にやられてしまう。ジムシの拳は鋼鉄の装甲を通しても内部に響く。通例の革鎧であったら、貫通されていたのかもしれない。

「夏の戦に備えて籐甲を用いているのだな。案外とこれは難物だ。」

 地に横たわるクワアット兵に跨がり、ジムシは言う。石刃の穿刀を抜いて一人ずつ頚動脈を切って留めを刺していった。
 邪魔が無くなったところで飛噴槍を設置する。特に発射台が無くとも、土に柄を刺して使えば十分使える。ジムシが与えられたものは全長が150センチ、噴射器が小振りの初期型だ。毒煙筒を縛って発射する。

 しかしジムシの目には革袋を被る兵の姿が映る。防毒面を着けていれば効果は薄いだろう。

「では、こちらの機能を使わせていただこう。」

 狗番の説明にあった、飛噴槍のもう一つの攻撃法を使用する。飛噴槍は元々が投槍だから当たらねば効果が無く、またせいぜい一人にしか傷を与えられないのが欠点とされた。為にギィール神族は複数の敵を傷つける機能を搭載しようとかなりの知恵を絞っている。

 ジムシは薬品の入った小さな壷を取り出す。現在の飛噴槍に火は必要無い。薬品を接触させ化学反応を起さねば点火しない仕掛けになっている。
 原動力となるのはこの戦争で初めて多用された新素材「陶炭」である。陶器のように堅い炭が超高温を発して燃える。この熱で推進剤を気化噴出させ、空気と交わって点火する。地球の産物で例えるなら、ペットボトルロケットが火を噴いて飛ぶ、と言ったところ。火薬の発明が神に封じられている方台で、このような機構が開発されたのは奇蹟とも言えよう。

 東の林の中から焔が弾け、畑の中のクワアット兵に襲いかかる。距離は400歩(280メートル)で十分射程内だ。兵達は驚いたが慌てず、訓練の通り迅速に行動し、着弾地点を開ける。

「毒煙筒だ!」

 だがそれは煙幕に過ぎない。地面に刺さった飛噴槍はなおも噴射を続け、頭部から柄が脱落する。細い紐で繋がれた柄と噴射機が地面を走り始める。
 それは頭部を中心として、直径10メートルの円を描く。紐に繋がれた柄が振り回され、逃げ遅れたクワアット兵の脚を薙ぎ払う。刃は無いものの焔を被り、隊列は混乱を来した。

「もう一発来た!」

 再度発射された飛噴槍もやはり柄を振り回す。今度は柄にも刺があり。脛を強打して倒れた者が、旋回して戻って来た柄に再び打たれる。

「…あまり効果が無いな。数が足りないか。」

 爆発という手段を持たないのでギィール神族の超兵器は破壊力に欠ける。
 ジムシは林の奥に一時撤退し、戦況が混乱に陥るのを待つ。

 

     ***

 キシャチャベラ麗チェイエィがこれまで脇役に甘んじてきたのは、ゲイルに飛噴槍を大量に積載していたからだ。
 身軽になったからには自身も攻撃に加わろうとしたが、上将雁ジジに止められる。

「何故?」
「我らは撤退時までゲイルの力を温存しておこう。殿軍は非常な苦痛と犠牲を必要とする。」
「ああ、ゲイルを棄てる覚悟が必要か。であれば自重せねばならぬな。」

 だが遊んではいない。林を回って兵が後ろから襲う策も考えられ、雁ジジと東西の端に分れて警戒する。
 西側は先ほどまで褐甲角軍が陣を張っており、今も兵が出入りする気配が濃厚にある。

「神兵には手を出さないがな、少し慌ててもらおう。」

 麗チェイエィが手を後ろに回す。背の狗番が主人に手渡したのは、先ほどまで剛兵が用いていた強力な弩だ。射程距離もさる事ながら精度も十分に高い。ギィール神族の射撃管制機能に十分応えられる。

「目障りなのは、…小剣令か?」

 ぎゅん、と放たれた矢は太矢である。射られたクワアット兵は弾かれて薮に消える。
 弩を後ろに回して狗番に渡し、すぐまた戻って来る。

「今度は…、こいつは火を放つ気か? 悪くない考えだ。」

 金雷蜒軍を背後から火で燻し飛噴槍を焼き尽くすという選択肢もある。松明を隠すように抱えていた兵がやはり貫かれる。

「次は。」

 矢継ぎ早に弩が装填されるのは、うすのろ兵をゲイルに乗せ弦を引かせているからだ。
 騎櫓の後ろに腰を縛って乗るうすのろ兵は、最初おっかなびっくりで居たが戦場の様子がよく見えると知り無邪気に喜び手を叩く。ゲイルは高速で走るが乗る位置が高いから、実の所あまり速度を感じない。かなり快適な乗り物だ。

「我が主よ、穿攻隊がこちらに気付きました。」

 狗番の注意に麗チェイエィは畑にも目を戻す。疾走するゲイルの脅威で容易には近づけないものの、無視して良い敵ではないと判断したようだ。

「壷から火穿矢を。」

 先端に陶炭を鏃として付けた火穿矢が狗番から手渡される。鉄をも溶かす高温を発し、神兵の重甲冑の装甲をなんなく貫く能力がある。穿攻隊もボラ砦攻略で遭遇した新兵器だ。
 高温を発するが、一方その炭自体に断熱の効果がある。一端からじわじわと燃えていく反対側は冷たいままで、矢や槍先に接いでいてもしばらくは大丈夫だ。

 弩に番えると、矢を乗せる板がじわと焦げ始めた。燃える前に狙いも定めず射る。どうせ神兵は避けるからといい加減な射撃だが。

「お。翅に穴が開いたぞ。」

 当たらないと見越して避けなかった神兵は、自身の背中に大きなタコ樹脂の翅があるのを失念していた。すぱんと貫通され瞬時に燃え広がり、掌大の穴となる。
 通常の矢が相手なら盾としても使える強固な翅の無残な姿にその神兵は怒りに震えるが、遠い麗チェイエィには届かない。

 

 そしてイルドラ丹ベアムだ。

 彼女はこれまで同様兄と共にゲイルを連ねている。兄が前で敵を防ぎ、妹が隙を捉えて攻撃する、この姿勢を崩さない。
 だがさすがに兄泰ヒスガバンのゲイルに傷が目立ち始めた。神兵の斧戈も容易に当たるものではないが、果敢な攻撃に避け切れない時もある。黄金の槍で上から牽制するのも間に合わず、ゲイルの第一肢に無数の切り傷が走る。

「ベアム、先頭を交代してくれ。」
「わかりました。」

 前後を代わった兄妹の前に立ち塞がるのが、例の赤甲梢の神兵だ。戦場のど真ん中に立つこの男は幾度となく集中攻撃を浴びたにも関わらず、依然として最大の脅威のままだ。

「兄上、これを避けるのは無理のようです。獲ります。」
「やめよベアム!」

 丹ベアムはゲイルに精神を集中して、より高度な制御に入る。自分の身体がゲイルに変じたかのように、巨大な体節が自在に動く。
 赤甲梢を中心に渦を描き、背を大きく傾けて敵を狙う。

 神速の手腕で通常の徹甲矢を3本立て続けに射る。後ろの兄も続いて射る。
 さすがにすべてを避けられない。肩口に1本突き立つが怯まず、深紅の甲虫は巨大な刃を振り、丹ベアムに直接届くと思われるほど深い一撃を放った。

 だがこの大振りを兄妹は狙っている。瞬時に同調を解除して、疾走は2体の蟲へと変わる。
 丹ベアムは斧戈を黄金の槍で防ぐ。タコ樹脂で被覆されるこの槍は刀槍の斬撃に十分耐えうる強度を持つが、あっけなく両断された。
 妹を囮とし、背を泰ヒスガバンが攻めた。綱の付いた鋼鉄の銛を振り回し、後頭部から胸に抜ける角度で貫く。

「!」
「!」

  背後に目が有ったのかと思われる的確な動作で身を沈め、必殺の銛の下をすり抜ける。丹ベアムを襲った斧戈が地を這って泰ヒスガバンのゲイルの顎を真下から切り上げる。

「兄上!」

 泰ヒスガバンも良く読んだ。斧戈の切り上げと同時にゲイルを上に跳ねさせる。辛くも刃を逃れて赤甲梢の頭上を飛ぶ。が、距離が無かった。
 近間に落ちたゲイルを赤甲梢は見逃さない。2度目の跳躍に入る直前、二股の尻尾の刺を2本とも切り裂いた。

 丹ベアムは一瞬遅れて兄のゲイルを救い損ねた。だが、見事に矢を当てる。自らのゲイルの姿勢を低く伏せさせ、水平に赤甲梢の顎を捉えた。
 斧戈の弱点は遠心力を利用する関係でどうしても死角となる中心部、つまり持ち手の胸元だ。更に装甲の薄い顔面を狙い、直撃させる。しかし、

 砕けた面に突き立つ矢を、赤甲梢は吹き出し棄てる。歯で噛んで致命の一撃を止めたらしい。

「! なんて化け物だ。」
「ベアム、一度撤退する。」
「はい。」

 

「なんて化け物だ!」

 サト英ジョンレも思わず零した。
 彼はジュアン呪ユーリエともう一人、3人で一組のゲイルを相手にしていた。直列に走る2体の前の方が常識外の機動を行っている。

 巧みに操る、というレベルではない。ゲイルに人の脳が移植されたと思うほど狡猾な誘いを見せる。体節の脈動が音楽的なまでになめらかで、重量を感じさせず飛び回った。13対の肢の一本ずつを独立して操り複数の神兵と同時に格闘が可能なのだ。
 3人は斧戈をゲイルに取られてしまう。斬撃を避けるのではなく、取り押さえへし折るゲイルなど聞いた事も無い。

 赤い装飾の閉鎖式の騎櫓を用いるので、騎乗する神族の姿は見えない。だが乗り手の個性が鋼鉄を透かして肌にひりつく程鮮明に感じられる。
 呪ユーリエは背中合わせに疾走に対処する英ジョンレに叫んだ。

「こいつの中身が人間じゃなくても、私は不思議には思わない!」
「まったく! ゲイルに直接聖蟲を植え込んだんじゃないですかね?!」

 かたや後方に続く青い騎櫓のゲイル騎兵は常識的な動きをする。前のゲイルの特性を活かす補助に徹し、神兵を翻弄して狩り易い位置におびき出す役をする。
 異様に柔軟性の高いタコ樹脂の短槍を地に突き立て、斧戈や大剣を振るう邪魔とした。遊戯の駒を操るように、何手も先の動きを計算して追い立てる。

 3人は為す術無く疾走の渦に取り込まれ、大剣を高く掲げて牽制するのみだ。

「どうします!大剣ではこいつにはとても!」
「…投げる!私が大剣を投げるから、君達はアレの注意を惹いてくれ!」
「な、なげるんですか!?」

 呪ユーリエの提案した大剣を投擲する戦法はもちろん最後の手段であり、とても推奨されるものではない。
 しかし尋常ならざる怪物にまともな策は通じない。一か八かの賭けを二人は承認する。

 邪魔な短槍を引き抜いて、英ジョンレは足場を固める。この槍は先端が鉄ではない為に、装甲を持つ相手にはほとんど役に立たない。逆利用されない為にちゃんと設計されている。

「いけます!」
 もう一人の神兵が前に出てゲイルを誘導する。3人がジグザグに並んでゲイルの進路をある線上に規定する。うまく突っ込んでくれれば。

「!」

 後方のゲイル騎兵に策を読まれた。彼は同調を解除し向きを変えると、最後尾の呪ユーリエを襲う。
 あっと慌てるも、真に恐るべきゲイルは前の二人に飛び掛かる。英ジョンレは夢中で大剣を振るうが、肢の林の下に居ると見えるのにまったく手応えを感じない。

「ぐわあぁっ」

 振り向くともう一人の神兵が弾き飛ばされていた。大事は無い、自分で畑を転がって受け身を取っている。更に振り向くと、なんと呪ユーリエが2体掛りで襲われている。

「こ、こいつめええ!」

 英ジョンレが跳ね飛んで襲い掛かると、2体ともすすっと去っていく。呪ユーリエはがくっと地面に膝を突く。

「大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶだ。だがあれを二度やられたら、生きていられる自信が無い。」

 前後左右をゲイルに包まれて無数の肢で殴られる、という希有な経験をした彼は仮面を外して息を大きく吐き出した。

 

「御上将! 雁ジジ様」
 騎櫓の中、雁ジジの足元に隠れている蝉蛾巫女エローアが急に頭を出し、訴えた。

「いかがした。」
「お出でになります。感じます。」

 蝉蛾巫女は霊感に優れ風を読み、寇掠軍を導くのが仕事だ。どの巫女も半ば宙に視線を泳がす没我的空想的態度を示すものだ。
 例外的にしっかりしているエローアではあるが、能力に関しても他にひけを取らない。

「来るとは、神人か?」

 雁ジジも神族の名に恥じぬ敏感さを見せる。実の所、彼も戦場の空気に尋常ならざるものを先程から感じていた。いや、不吉を拭い去れずに居る。
 彼ら『ウェク・ウルーピン・バンバレバ(永遠の護手との邂逅)』が求めるコウモリ神人が現われる戦場では、聖蟲を持つ者の血が流れると伝わる。

 エローアは上将の問いに瞳の色で答える。唇が青い。

 

     ***

 戦闘は3度小休止を挟んで続行する。
 最初の戦闘は「火穿矢」と呼ばれる高温徹甲矢が穿攻隊の翼甲冑を貫通し撤退を余儀なくされ、2度目は鉄弓を装備するベイスラ・エイベントの重甲冑を主体として射撃戦に挑み、ここぞとばかりの飛噴槍の集中攻撃に閉口する。3度目はやはり肉薄攻撃以外では決定打にならないと、再び穿攻隊が前面に出て激闘を交わした。

 褐甲角軍の損害はかなり大きい。

 穿攻隊の神兵1人が飛行中の飛噴槍を切ってしまい燃料を浴びて焔を吸い込み、戦闘不能。ベイスラの神兵キマルとハグワンドが誘導飛噴槍の直撃を受けて重甲冑中破。火穿矢により小さいながらも損傷を多数受け、穿攻隊は誰一人として無傷な者が無い。特に隊長のロクは顔面に矢を受けて口を負傷し、歯が数本折れてしまった。

 戦場全体の指揮を執るエイベントの神兵は、この辺りが潮時だろうと停戦を持ち出した。

「敵にも十分な損害を与えた。殲滅を目的とせず撃退を考え、敵に撤退の余地を与えよう。」
「報告によれば、国境線で同時に起きた総攻撃もおおかた目処がついたらしい。この部隊も今は時間稼ぎをしているだけだ。」
「うん。無理をしてこちらの損害を多くするのは、後の防衛態勢に支障を来す。神兵の犠牲をこれ以上出すべきではない。」

 穿攻隊ロク隊長は特には反対しなかったが、消極的な態度には納得しない。

「敵の戦意はいまだ高く、戦力の中核も打ち砕いていない。もう一度来るぞ。」
「だがゲイルももう限界だろう。神族も討ち取った。」
「それはそうだが、」

 戦果は十分に上げている。ゲイル騎兵1騎完全撃破。背に乗る神族ごとゲイルを横倒しにして、どちらも完全に仕留めた。もう1騎、神族には逃げられたがゲイルを戦闘不能に追い込む。太矢で神族に重傷も負わせたし、背の狗番を射貫いて撤退に追い込んだものもある。
 敵の残りは8騎。兵は既に撤退を完了し、この地に留まる理由も少ない。火を用いる兵器も底を尽き、矢や投槍も乏しくなった。

 追わねばこのまま大人しく帰ると思われるが、

「いやそれはダメだ! まだ我々はカロアル兵師監の仇を十分に取ったとは言い難い!」

 若輩であるから指揮に口を挟まなかった英ジョンレが、声を大きく上げ主張する。この意見には賛同する者が多かった。
 間を取る形で、呪ユーリエが進言する。

「これより先は双方とも意地で戦う事になる。ならばいっそ、カロアル兵師監の弔い合戦の決闘を呼び掛けてはどうか?」
「応じるだろうか?」
「応じなければ追撃を掛けると言えば良い。林の中でゲイルを追う、と聞けば決断するだろう。」

 正面には出なかったもののクワアット兵の損害は少なくなく、また長時間の防毒面の装着で熱中症に倒れる者も続出した。追撃戦が出来るか疑問であるが、脅しの手段としては有効だろう。

 エイベントの神兵は、クワアット兵の剣令を呼んだ。
「使者として、向こうの狗番と協議してきてくれ。」

 

「弔い合戦か? なるほど、こちらの足元を見て来たな。」
 金雷蜒軍の上将カプタン雁ジジは、使者のクワアット兵の口上を受けて考える。

 浸透部隊の損失は甚大だった。
 『ジョガ・ジョマン・ハプ・リケル』の神族、ゲイルに長槍を縛りつけていた者が思わず南に下がり過ぎ鉄弓の集中射を受けて転倒、クワアット兵の長槍隊に寄って集って突き上げられて戦死した。また赤甲梢の翼甲冑に肢を何本も斬られてゲイルが擱坐し、神族と狗番のみが逃げて麗チェイエィに救われる。
 そして『ウェク・ウルーピン・バンバレバ』では、イルドラ泰ヒスガバンが左の肩口に太矢を受けて重傷を負う。彼の甲冑は『兵刃態様』と呼ばれる無骨で防御力の高いもので、命だけは取り留めたものの予断を許さない状態にある。

 妹の丹ベアムはゲイルを降りて地上に横たわる兄の傍らに付いている。兄のゲイルも損傷が激しく、もはや戦闘は不可能だ。

 

 すでにゲイルを2体も失い戦闘の継続は無理だ。しかしゲイルと神族が命を捨てる覚悟で戦えば、神兵の数名を巻き添えに華々しく散るも難くない。褐甲角軍は、これ以上の損害を出したくなく面子の問題に決着がつけば見逃しても良い、と言外に言う。

「そこで決闘か。少数同士で討ち合い、儀式的に勝敗を定める。」
「悪くはない。だが、誰が死ぬ?」

 麗チェイエィの問いに誰もが口ごもる。『_・リケル』の上将が、意を決して不参加を申し出る。

「既に我らは仲間を一人失い、ゲイルの2体が討たれた。これ以上の損失は許容出来ない。」
「うむ、御苦労だった。撤退はそちらから行ってくれ。」

 雁ジジは自ら残ると主張する。彼のゲイルは補助的な戦闘を行って来たので、まだ余力が残っている。決闘を行うとすればこのゲイルを用いる以外の選択肢は考えられない。

「”上将!”」

 異形の神族チュガ輩インゲロィームアが動きにくい唇を開いて、申し出る。

「”上将のゲイルを貰い受けたい。”」
「む、そなた受けるか?」
「”向こうは弔い合戦のつもりだろうが、こちらもむざと死ぬ気は無い。”」

「なにを考える?」
「”勝つのみだ。私ならば赤甲梢3名でも、負けない。”」

 カマートラ椎エンジュが驚いて、恋人に再考を促す。

「まて、勝てば向こうは更に人を出すぞ。ほどほどに負けてみせるのも作法の内だ。」
「そうだ、どうあっても討てぬと決まれば、双方共に押し出して戦を棄てる取決めだ。」

 だが輩インゲロィームアは下がらない。勝てるものは勝つのが道理。敵も兵師監の仇を晴らすからには、決定的な結果を求めるだろう。
 やむを得ず椎エンジュも付き合う事となる。彼は常に恋人と行動を共にするから、最初から定まっていた。

 丹ベアムが兄の傍に立ち、上将に申し入れた。

「上将、私も出よう。麗チェイエィ殿のゲイルを貰い受けたい。」
「なにを言う。私にも出番を寄越せ!」

 不意の申し入れに困惑する麗チェイエィに、丹ベアムはだがこう言ってのけた。

「この度の出征で分かった事がある。麗チェイエィ殿よりも私の方が、ゲイルの操縦ははるかに上手い。これは客観的な事実だ。」
「く!」

 遠慮して誰も口には出さなかった事実をはっきりと表されて、麗チェイエィは真っ赤になって怒った。
 丹ベアムは出征前はほとんどゲイルに乗らなかったが、幾度もの戦闘を経て急速に熟達し、今やベイスラに集まった神族の注目を浴びるまでになっている。
 足元の兄が妹を咎めた。

「これベアム、口は慎むものだ。」
「ですが兄上、勝算の無い戦こそ厳に戒めるべきです。」

 上将雁ジジは大きく笑い、全員に告げた。

「エローアがこう唱える。間もなくコウモリ神人の顕現を見る、と。」
「おお!」
「であれば、我ら流血を望むべきだ。勝てると豪語する者にこそ、神人に拝謁する機会を与えよう。」

 上将に説得され、麗チェイエィはやむなくゲイルを丹ベアムに譲る。もちろん嫌味をたっぷり付けてだが、最後にこう尋ねた。

「そなた、私に子が有るのを案じて申し出たのではないな?」
「ああ、そんな話、今の今まで忘れて居た。」

 心持ち背の低い丹ベアムの瞳をじっと見詰め、25歳の二児の母は言う。

「そなたが戻らぬ時は、愛しの兄者の身柄は私がもらおう。」
「む。」

 イルドラ泰ヒスガバンの傷は重く、しかるべき施設に到着するまで付っきりで介護が必要だろう。後の事に気を取られては、いざという時の決断が鈍る。
 丹ベアムは素直にこの申し出を受けた。

 

     ***

 北の溜め池周辺で協議していた神族が動き始め、3騎を残して東の林に撤退する。
 これに応じて褐甲角軍もクワアット兵を林の中に退避させ、神兵のみの陣形を形作る。

 ゲイルが1騎先頭に立つ。騎櫓の形から敵の上将が用いていたものと推察されるが、乗る神族の姿が代っていた。この者が決闘に応じるらしい。

「…小さいな。子供か?」

 チュガ輩インゲロィームアは神族としては例外で身長が180センチに届かない。これまで密閉式の騎櫓に篭っていたので、神兵は初めて彼の姿を見た。

「続く2騎は介添えだが、右の青い騎櫓はあの凄まじいゲイルの背後を守っていた奴だ。すると、」
「敵は、アレか!」

 ゲイルの前には狗番が一人先に立ち、褐甲角軍の使者と協議する。射撃戦ではなく格闘戦、ゲイル1騎に対して翼甲冑3名の対戦と決まる。

「私に兵師監の仇を取らさせて下さい!」

 サト英ジョンレは真っ先に手を上げ、了承された。ベイスラの兵師監が討たれたのだ、ベイスラの神兵が復讐を果たすのは当然だ。
 もう一人選ばれたのは丈の高い神兵で、サユールから来たハミコン珠イーゴンという剣匠令。年齢は27歳。先ほど神族を討ち取った際に中心的な活躍をした。
 そして、赤甲梢ロク陽ハンァラトレ。

 3人を先頭に神兵は三角形の陣を作った。中が穿攻隊翼甲冑、後がベイスラ・エイベントの重甲冑で、1人丸甲冑が混ざっている。

 蝉蛾巫女が一人進み出て、両軍の間で歌う。儀式的決闘であれば蝉蛾巫女が神に唄を捧げるのは当然だが、今回金雷蜒軍はあまり蝉蛾巫女を伴っていない。ベイスラでは初めて聴く。
 呪ユーリエは彼女の歌う歌詞に違和感を覚えた。本来復讐戦であればカニ神の歌を、決闘を煽り立てるならばゲジゲジ神の歌を歌うべきだが、彼女は。

「コウモリ神人を呼ばう古歌か。神族が戦場に斃れる歌ではないか、何故?」

 朗々と戦場全体を包む声に誘われて、東側の林から灰色の男が飛び出した。林の中のクワアット兵が騒ぐが、ゲイルの上の女人の神族に招かれて、その者は走る。

「ジムシよ、我がゲイルの背に乗るが良い。」

 思い掛けない丹ベアムの言葉に一瞬ジムシは驚いたが、ゲイルが半分肢を折り背を傾けて低くなったので躊躇せず乗り移った。

「イルドラ姫様、有り難く存じます。」
「よい。地面に這いつくばって居ては神人の姿が見えぬからな。それよりもだ、ジムシ約束せよ。」

 騎櫓の後ろにしがみつくスガッタ僧に、背を向けたまま丹ベアムは言う。彼女の狗番は大弓を抱えたまま迷惑そうに彼を見る。

「これほどまでに礼を尽してコウモリ神人を招いたのだ。それでも現われぬ時はそなたに運が無いものと諦め、以後神人への拝謁は断念せよ。持てる力を世と人の為に使うと誓え。」
「姫様…。心得ました。この日この場所で神人様にお目に掛れぬ時は、我が身にその資格が無いと見定め、スガッタの教えを捨て只の人に戻ると誓いましょう。」
「うむ。」

 丹ベアムは何の役にも立たぬと見えるジムシの生き方がずっと気に食わなかった。他人の為にならない修行など、何の実りと報いがあろう。

 長い独唱が終り、エローアが後ろに下がる。彼女は椎エンジュのゲイルに拾われた。代って3名の翼甲冑が前に出る。全員が斧戈を装備する。

 輩インゲロィームアはゲイルを押し出し、深い精神の没入に入る。その瞬間、見守る神兵は全員が息を呑んだ。額のカブトムシの聖蟲を通じて、ゲイルと神族が一体になり巨蟲の体節が精気で倍以上に脹れ上がるイメージを受けた。

 神兵の先頭に立つ英ジョンレは、己が内に恐怖に震える自分を発見して、むしろ呆れた。

「勝てないと直感する敵に巡り合えるとは、なかなか黒甲枝の冥利に尽きるじゃないか。」
 初めて妻のマドメーを思った。マテ村で自分の帰りを待つ彼女に、もう2ヶ月も会っていない。だが春の陽のようにやわらかな彼女の雰囲気に、これまでずっと護られる気がしていた。

「マドメー、死んだら御免。」
 でも少し怒られるだろうな、と思う。そっちの方がコワイから、斧戈の刃の鈍い光に賭けてみる。

 

 いきなり、という形で戦闘は始まった。これは決闘であるから、ゲイルが走り回り神兵を翻弄する手は使わない。真っ正面から攻撃に入る。
 対して神兵は三手に分れて包囲する。通常のゲイルであれば左右どちらかに注意を惹けば、片方は動きがおろそかになる。生き物だから当たり前の反応だが、これは。

「頭が、ふたつあるんじゃ、ないか?」
「だから、こいつはそうなんです!」

 カプタン雁ジジの乗蟲に換えても、自分のゲイルとまったく変らずに輩インゲロィームアは操って見せた。
 運動性が隔絶した飛躍を遂げ、巧緻性が蟲の水準を越え、それでいて全体の速度や破壊力も格段に向上する。ゲイルの神経節に直接干渉し、13対の肢のそれぞれを独立して制御する。ピアノを演奏する感覚だろうか。

 たちまちハミコンが肢の下に取り込まれた。斧戈を抑えられ踏みつけられ抱え込まれて、肢の林の暴虐に見舞われる。大剣を抜こうにも、背に手を回す事が出来ない。

「今助ける!」

 救いがあるとすれば、強固な甲冑を纏う神兵を即死させる力を一本ずつの肢が持っていない点だろうか。英ジョンレとロクが風車のように斧戈を振り回し追い払った後でも、まだハミコンは息があった。

「どこをやられた!」
「ど、どこがと、わからない。」

 重甲冑装備であればここまではやられなかったろう。脳震盪を起こして反応が定かではない彼をそのまま放置する。外見上の大きな傷が無いのを信じて。

 いきなり一人減って、後方で見守る神兵は逸る弓手を必死で押さえねばならなかった。幸いにしてまだ赤甲梢ロク陽ハンァラトレは健在だ。彼ならばなにがしかの結果を残してくれるはずだ。

「援護しろ!」
と言い置いて、彼はゲイルの顎に飛び込む。巨蟲の懐に飛び込んで頭部の感覚器官を狙うのは、効果的だが自殺にも等しい攻撃だ。

 英ジョンレも遅れじと縦に斧戈を奮い続ける。横に薙ぐのは軌道を読まれると知って、ひたすら手数で勝負する。

 蟲はまったく動じない。真っ直ぐ「後退」する。ゲイルの肢の構造上極めて難しいとされる後退を、輩インゲロィームアは実現する。
 眺める丹ベアムは少し苛立った。熟達したとはいえ彼女にこの真似は出来ない。彼のゲイルの操縦技能は、神の領域にまで踏み込んだと思えた。

 決闘は一方的な展開に陥った。後退して適正な位置を確保したゲイルは、二人の神兵を真正面に据えて思う存分に殴りつける。後方の肢で支えて前体節を浮かし、6本の肢を掻きむしり打ちつける。
 こうなってしまえば神兵は抵抗すらできない。斧戈を振り回す余裕が無く大剣も抜けず、ただ両腕を構えてひたすら耐えるだけだ。抜け出そうにも、狡猾の極みと言える逃げ道を想定しての連撃で、下がった所に大きな一発を食らう。英ジョンレは頭部を殴られ、蟲の頭を象った兜が吹き飛んだ。

「いけない!」

 ロクは瞬時に英ジョンレを蹴り、前に、ゲイルの腹の下に押し込んだ。立ったままだと頭を潰されるので緊急避難だが、決して最善ではない。
 英ジョンレは気絶しないように必死で意識を強く持ち、ひたすら頭を抱え込んだ。腹の下でも肢は無数に飛んで来る。赤褐色の甲冑の破片が細かく砕けて弾け飛ぶ様が、つぶったままの眼に浮かぶ。

 がつ、と腕を蹴上げられ、顔が露出した。思わず開いた眼の前に、ゲイルの体節の乳白色の境目が見える。

「は…、腹?」

 腹か!と英ジョンレは気が付いた。ゲイルの甲羅は背よりも腹の方が若干薄い。槍で突く時もまず横倒しにして腹を狙うのだ。だがこの状況では大剣は抜けない、今も丸太の太さの足の爪ががしがしと踏みつけて来る。
 短刀、神兵用の剛刀であれば。

 左腰に差していた三角の金属杭に似た短刀を一瞬で引き抜き、両肘を大地に打ちつける。あおむけのまま一瞬宙に浮き、足を地面に叩きつけて飛び上がり、ゲイルの腹にしがみつく。
 刺さらない! 体勢が悪く力が入らない。短刀を握った左手を外し右だけでぶら下がり、再度打ち込む。
 位置が悪い。継ぎ目でなく甲羅そのものを突いている。だが位置を変える隙など無い。もう一度ぶら下がり、渾身の力で抉り込む!

「?」

 輩インゲロィームアは自分の腹に小さなトゲが刺さる感触を得た。ゲイルに深く没入すると痛覚までも共有する。制御の自由度の高さは魅力だが、斬られると自分もそのままショック死しかねない。

「?」

 腹の下の神兵が小さな刃物を突き立てている、とようやく気が付いた。致命傷には程遠い。だが怒りがかっと沸き上がる、眼の前が真っ赤になった。
 そんな攻撃で我を倒せると思ったか!

 正面の赤甲梢を突き飛ばし、ゲイルは疾走を開始する。受け身を取って体勢を立て直し顔を上げたロクの眼に、ゲイルの腹の下にしがみつく英ジョンレの姿が映る。

「それだ! 決して放すな!」

 再び斧戈を振り上げ、ゲイルの尻尾を追う。頭を振って起き上がって来たハミコンの甲冑の背を叩き、攻撃を促す。彼も再び戦線に復帰する。

 

「どうしたイングェ! そちらは違う!!」

 決闘の相手を違えて後方の神兵に突撃するゲイルに、椎エンジュは悲鳴を上げた。彼の恋人は怒りに支配されると何をしでかすか分からない。手当たり次第に敵を討ち果たすつもりか。

「お出でになります…。」
 彼の足元に潜むエローアが、ぞっとする暗い声で言った。彼女が予告する者とは、やはり。

「イルドラ殿!あれを、あれを止めるぞ。」
 巫女に構わず彼は丹ベアムのゲイルに叫んだ。コウモリ神人への贄に輩インゲロィームアを捧げるわけにはいかない。

 エローアの小さな声を、丹ベアムの聖蟲はちゃんと拾って聞いていた。彼女の胸の奥にも暗い響きがこだまする。心臓を直接鷲掴みにされる感覚は、現世から発せられるものではない。

 敵陣に真正面から突っ込むゲイルを目で追い、混乱する黒甲枝の中にそれを発見する。
 黒い服、背は高い、髪も黒く長く顔のみが真っ白で、まったく場違いにそこに居るにも関わらず隣の神兵は気付いていない。丸甲冑を装備する若い神兵で、その人が肩に手を触れても振り向かない。

「ジムシ、居た! コウモリ神人だ!」
「どこです?!」
「私の指先を、いや、今後ろに隠れた、」

 ジムシはゲイルの背から飛び降りた。4メートルの高さをなんなく飛んで、必死に闘争の渦に駆けていく。
 丹ベアムの耳には椎エンジュの悲鳴にも似た声が聞こえる。「彼を止めよ」、だが翼甲冑重甲冑に包まれてどこから手をつけて良いか分からない。

「大弓を。」
 背の狗番に命じて残っていた火焔筒を番えさせる。焔を吹きながら飛ぶこの矢ならば多少は牽制に役立つだろう。しかし、

 丹ベアムは知ってしまった。既にギィール神族チュガ輩インゲロィームアは此岸を離れ、冥秤庭の神の御前に足を踏み出した事を。
 彼は戦い続ける。ゲイルは翅を持ち飛ぶが如くに軽やかに、多数の神兵を引き連れて永遠の舞踏に酔い痴れる。

 

     ***

 夕闇迫る草原に長い影を引いて、『_・バンバレバ』の隊列を帰還の途にあった。

 1名死亡1名重傷ゲイル1体喪失という結果は、出撃前に見込まれた損失の許容範囲を出るものではない。戦果としては、最重要目標とされた敵将カロアル兵師監を討ち取り、更に2名の神兵を死亡させ、ベイスラの防衛体制と難民行政に重大な損失を与えた。満足すべきであろう。

 だが、勝利に沸き立つ帰還ではない。
 親友であり恋人でもあったチュガ輩インゲロィームアを失ったカマートラ椎エンジュの落ち込み様に慰める言葉も無く、心を捨てたと自任する神族達をも沈ませた。
 イルドラ泰ヒスガバンは担架に縛りつけられキシャチャベラ麗チェイエィの操るゲイルで運ばれる。後に追いついたイルドラ丹ベアムはそのまま肢を伝って移乗し、兄の容態を見守った。

「一度、ヌケミンドル攻略の基地に向かい、そこでしばらく養生して本国に帰ると良い。」
「ベイスラの砦は放棄するのか?」
「10日の内にはそうなるらしい。維持するにも毒霧が無いと、一軍を構えるほどの費用と兵数が必要なのだ。毒地全体の防衛体制を根底から組み直さねばなるまい。」

「神聖王の許可が必要だな。」

 

 この日ベイスラ全域で繰り広げられた総攻撃は、概ね褐甲角軍の勝利に終った。帰り掛けの駄賃として、これまで貯えた兵力を残らず使ってみようと企画された戦だけに、最初から結果は望んでいない。

 ただ褐甲角軍の被害も小さくない。神兵もさる事ながら軍の中核を担うクワアット兵に多数の損害を出し、今後の防衛体制に深刻な不安を抱える事となる。
 浸透攻撃は3ヶ所で行われ、1ヶ所ではスプリタ街道にまで進出を許し民間人の犠牲も発生した。民衆の黒甲枝への信頼は揺るがないが、従軍した兵士の言から神兵の無敵伝説は崩壊するだろう。

 それほど彼我の戦力は均衡しており、褐甲角軍が本拠地の利で優位にあったというだけだ。

 伝令として走って来たゲイル騎兵からベイスラ全域の状況を聞いた上将カプタン雁ジジは、神族全員に告げる。

「寇掠軍『ウェク・ウルーピン・バンバレバ(永遠の護手との邂逅)』の戦いはこれまでだ。イルドラ姫の証言では確かにコウモリ神人の出現を目撃し、我らの望みは見事叶ったと認識する。」
「うむ。思ったより上手く行ったな。」
「上将の言われるとおりに、ベイスラでの戦いは終えよう。だが本国、王都ギジシップに赤甲梢が侵入した件にはどう対処する?」

 雁ジジはゲイルの背で振り返り、手を振る。

「これより先は各々の判断で行動しよう。ベイスラを離れた時点で隊列を解散する。儂は剛兵を率いて一度故郷に帰るが、麗チェイエィ殿は同行されるか?」
「そうしよう。家に戻って報賞の算段をせねばならぬ。次の戦に赴くにも金を工面せねばな。」

 丹ベアムも叫ぶ。

「我らは兄の傷を癒す為にしばし留まって、後はチゲル湯で湯治をしようと思う。ゲイルも相当痛んだから仕方がない。」
「それが良い。次の戦はギジジットに集結している連中に任せよう。」

 椎エンジュは答えなかった。どこに行く気もアテも無いのだろう。輩インゲロィームアが気まぐれに行き先を考え、彼が嬉々として応じる。そういう間柄だったのだ。

 雁ジジは騎櫓で風を受ける蝉蛾巫女エローアを促し、勝利の唄を歌わせる。闇に帰る高い声は勝ちを誇るにしては何故か物悲しく、心に遠き故郷を想わせた。
 曳かれていく陸舟の上の剣匠剣令、兵達もエローアの唄に涙する。この2ヶ月、通常の寇掠軍の倍以上の時間を費やし多くの友を失って、結局誰が何を得たのか。自問している風にも感じられる。

 

 担架の上の泰ヒスガバンが右手を上げ、妹は優しく握った。

「兄上。」
「ベアムよ、お前は帰ったら約束を果たさねばならぬ。戦場で注文を受けた絵物語を早急に完成させねばな。」
「兄上もお手伝いください。

 それにしても、このままでは兵師監カロアルを討ったのは、神族でなく剛兵と記さねばなりません。どうにも締まりが悪い。」
「よいではないか。兵師監カロアルを仕留めたは上将カプタン雁ジジが剛兵バロア、そのままに記せばよい。事実こそ真に人の心を打ち、歴史を作るものだよ。」

「そうですね。」

 バロアも戦場の露と消えた。彼の名をこの世に留め置くのも神族の慈悲であろう。麗チェイエィがかって語った、これからの時代は一般の民が主役、という言葉を思い出す。

「そういえば、ジムシは神人に会えたのだろうか? 奴の物語も書かねばなるまいな…。」

 

 遠く闇の中に宿営地の灯が見える。無数に揺らめく幾つかは、それぞれの主人を弔うものだろう。

 こうしてイルドラ丹ベアムの最初の出征、大審判戦争は幕を閉じた。

 

 

【『紀元6666年』】

  「ぴるまる〜ぴるまる〜、世界に羽ばたくーぴるまあるー産業〜♪」

『美しき方台紀行 第273夜〜トリバル峠の奇祭「ガモウヤヨイチャン祭」』

 我々取材班は今回天下の険、聖山山脈北壁トリバル峠にやって来た。
 方台を北方大樹林帯と分かつ聖山の岩屏風は今も人の行き来を妨げ、空気も薄い頂きには文明社会から追いやられた少数の氏族のみが住む。
 この土地が12年に一度、大勢の人で賑わう。古来より続く奇祭「ガモウヤヨイチャン祭」が行われるのだ。

 旧い十二神教の神官巫女が集い青晶蜥神救世主を継承する少女を中心に、人命をも賭ける野蛮な球技が始まった。近隣から集った数十の隊が野原を競技場として勝ち抜き戦を行う。棍棒と鞠を用い9人ずつ2組が対戦するこの遊戯は、現在の「シュュパン」の原型だ。

 この遊戯を伝えたとされるのが、神話上に名高い文化英雄「ガモウヤヨイチャン」だ。世界23の方台においてその名を謳われる少女神は、この地に最も強い幻影を残している。

 遊戯が行われ勝者が雄叫びを上げる隣では、方台中から集まった病人が魔法治療を受ける順番を待っている。伝説によればガモウヤヨイチャンは「ハリセン」と呼ばれる秘宝にて病の人を救ったとされる。

 

  (三十三代目青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン)

 魔法治療を行うのは、「ガモウヤヨイチャン」の名を受継ぐ少女である。彼女の手に有る金属の破片は不思議な青い光を発し、これに触れた病人は医者に見放された重病であっても奇蹟の快癒をみるという。実際何人かは現代医学でも説明出来ない回復を見せたと、学術誌に発表されている。
 患者の中には政府高官や財閥会長、医療関係者の姿もある。全ての望みが絶ち切られた時最後にすがるのが奇蹟とは、人間の性は1600年前から変らない。

 「ガモウヤヨイチャン」の継承は、同時に「星浄王」の称号をも受継ぐ事になる。幻の「青晶蜥王国」が、この村でひっそりと生き続けて居た。

 継承の資格は血統によらない。先代のガモウヤヨイチャンが信者の中からしかるべき者を選ぶ。見付からない時は方台全土を歩き回り、数年から数十年を掛けて探し出す。若い処女が絶対条件とされるが、文化人類学者によるとこれは無体神「ぴるまるれれこ」の巫女であり配偶者である事を表すそうだ。

 歴代ガモウヤヨイチャンは外見上極めて明快な特徴を持つ。髪が漆黒で歳を経ても色が褪せないのだ。これは生来の体質ではなく、神威を継承し長寿を授かった為と説明される。事実、15年前の映像に残る三十二代は当時60歳を越えていたにも関わらず30代に見える若さと黒髪を保っている。

  (訣臓と呼ばれる臓器の機能を低下させる事で人間は不老不死を手に入れる、と信じられている)

 現代医学は訣臓の機能が成長と性的成熟、老化に深く関わると解明している。これが1600年前からの知識とすれば驚嘆に値するが、伝説上のガモウヤヨイチャンはわずか数年で十二神方台系を去っているのだ。老化について何らかの知識をもたらした、とは考えにくい。

  (神刀による魔法治療に陶酔する患者たち。伝説の力にすがって叶わぬ夢をみているのか)

 三十三代は説明する。青い光を発するこの金属片はかって『狗番の刀』と呼ばれたものの一部で、ガモウヤヨイチャンが最初の従者に与えたものだ。後に従者は悪の手に掛かり殺され神刀は奪われたが、戦場で主人の元に戻り三つに叩き折られたという。
 なるほど確かにうっすらと青く輝く。かってこの光を科学的に分析しようと国立科学研究院が試みたが、先代が提供を拒絶した為に不可能となった。もし真に人を癒す力があるのならば、国家に献納するべきであろう。

 患者に接する三十三代は渋い柿色の簡素で行動的な衣を纏う。神聖なる位を継承したにも関わらず、身を宝石等で豪華に飾ったりしない。これも初代から伝わる習慣だ。
 彼女は未だ二十歳に満たぬ若さだが、武術の達人でもある。ガモウヤヨイチャンは救世主として病める人を救ったが、反面武神としても名が高い。救世主より伝授されたと称する武術が現在まで幾つも残り、それらの総本家となるのがこの少女だ。

  (「があああ。」)

 祭の間、彼女は何人もの益荒男の挑戦を受ける。7種の武器を用いての攻撃が許されるが、誰一人擦る事すらできない。
 我ら取材班の中にも軍の格闘戦術を修めた者があり、木銃を用いての挑戦を許された。その結果がこれだ。骨折全治2ヶ月。この地では人命が軽い。
 青い光での治療を施してもらう。間近に接する事を許されたので、敢えて彼女に尋ねてみる。

  (「貴女はほんとうに、ガモウヤヨイチャンが別の星から来たと信じるのですか?」
   「聖蟲も信じない人に説いても仕方ありません。」)

 聖蟲とは、ガモウヤヨイチャンが額に乗せていた聖なるトカゲだ。カブトムシ神やゲジゲジ神の聖蟲もかっては方台にあったと歴史書は記録する。これを戴く者は神より超能力を授けられたと十二神教の信者は疑わない。

  (「300年前までクワアット神の聖蟲を戴く人は居たのに、何故あなた方は疑うのですか。」)

 聖蟲の標本は現存しない。物質的な実体を有するものであれば、死後になんらかの痕跡を残すだろう。考古学者は聖蟲を象った硝子製品を多数発掘しており、古代において額にこれを飾り特権を誇示する風習が確かにあったと証している。

 古神殿都市より神官達の訪れがあった。かっては大洞窟が穿たれ壮麗な十二神教の神殿が多数構えられていた地も、精神健全化運動の後は見る影も無く寂れている。
 彼らは三十三代の前にひれ伏し、再び大洞窟を掘り起こし異界に通じせしめよと願う。
 創始暦5555年に十三代が捨身祈祷を行い、初代ガモウヤヨイチャンを方台に呼び戻したとされる。再臨した救世主は天河の神と掛け合い、大洞窟を別の方台に通じさせたと伝説は語る。

  (「今年は創始暦6666年ですから、もしかすると3度目の降臨が見られるかもしれません。」
   「もし本物のガモウヤヨイチャンと会う事が出来たとして、貴女は何を願いますか。」)

 彼女は少し考えて答える。その言葉に我々の心も少なからず揺り動かされた。

  (「謝らねばならないと思います、方台をこんな姿にしてしまった事を。1600年も前から今のような状況に陥ると御存知だったのでしょう。」)

 ここ聖山山脈もかっては深い森に覆われ人が踏み入るのを許されない土地だった。北方大樹林帯も今では伐採が進み、泥濘が広がるだけの無残な姿に成り果てた。トロシャンテの原生林こそ保たれているが、これを護れと命じたのもガモウヤヨイチャンであると黒甲枝諸侯国の建国史伝に残される。
 現在十二神方台系を蝕む環境破壊を最初に警告し阻止せんと試みたのが、青晶蜥神救世主だ。現代文明に毒される人類が彼女の前に立ったならば、伝説の神刀「カタナ」で撫で斬りにされるだろう。

 昨今都市部においてガモウヤヨイチャンの再評価が行われ、信仰が復活しつつあるとも聞く。この「ガモウヤヨイチャン祭」の放送が契機となり、大いなる市民運動が巻き起こり環境破壊を阻止する力になるのかもしれない。

 

 夜に入り、祭は最高潮の盛り上がりを見せる。大松明を掲げて行われる『ナイター』の秘儀の幕が開く。
 円形に石を積んだ聖なる闘技場において球技の決勝戦が行われる。三十三代の前に2組の屈強な男達が並び、対峙した。

  (人の頭も砕く白い鞠が投じられ棍棒にて打ち返され芝生を走り、それを追って激突する男達が赤く燃える松明の光に浮かび上がる)

 死者が何人も出るこの遊戯の勝者には、祭の間中トリバル峠の強い風に翻る「ぴるまるれれこ」旗が与えられる。
 12年間この旗を守る栄誉の為に、貧しい土地柄で労働に肉体を酷使する毎日であっても、彼らは特訓に明け暮れるのだ。

 

  (番組のご意見ご感想をお送り下さい。抽選で5名様に「ぴるまる産業」が素敵な家電製品をお贈りします。
   今月は、全自動七輪『カムラアン3型』。自動でイカをひっくり返す新機能を搭載し、ご好評を頂いております。)

 

第十章 なんでもつくるよ弥生ちゃん

 

「つまり、”野球”には元々『ホオムラン』という概念が含まれているわけですね?」

「うむ。野球は本来円形闘技場で行われる。本塁打席から見て正面の、一番遠い観客席に球を引っぱたいて放り込めば、それが成立する。もちろん高度な技術と腕力が必要な難しい技であるから、成し遂げれば天晴。無条件に1点が入るのみならず、それまでに塁上に居た走者もまとめて帰って来る。打者本人も含めて最大4人が帰るから、都合4点も入る事になる。」

「な、なるほど。それは素晴らしい。一気に勝敗が決まってしまいますね。」
「3点負けて居たとしても、これ一発で逆転大勝利が可能な起死回生乾坤一擲の大技なんだ。しかしこれは”ゲリラ的美少女ルール”では用いない。」

「何故です。」
「守備者に関係無いからだよ。厭兵術が野球を偽装するのは集団での戦闘訓練が目的で、頭の上を飛び越えたら練習にならない。」
「それは、たしかに意味を為しませんか。」

「しかしあなた達を教えて来て、やはり思いました。『男にはホームランがふさわしい』と。」

 おおっと、神官戦士達は声を上げた。”ゲリラ的美少女ルール”での訓練になにか欠けていると感じていた素は、これだったのだ。

「ではこれからは球をおもいっきり引っぱたいても良いのですね?」

「だが円形闘技場でなく野原でやると、球がどこまででも転げていって帰って来ない、非常に面白くない事態が発生する。そこで私達は”オフサイド”という規則を作り、球が飛び過ぎるとやり直しにする。
 だが休んでるんじゃないぞ。競技場の外に球が転げていった場合、当然誰か外野が拾いに行くのだが、これを迎撃する為に伏兵を忍ばせておく。」
「なんと!待ち伏せですか!?」

「私の友達の志穂美って子は、単身球拾いに行き伏兵専門の襲撃者3人を完膚なきまでに叩きのめして帰って来たよ。敵の戦力はこれにより崩壊した。」
「そ、それもまた魅力的なはなしですなあ。」

 

 十二神方台系に飛ばされて早半年。長いような短いような、そもそも地球と暦が違うのだから感覚も狂う月日であったが、どういうわけだか地球に居た頃の記憶がまったく薄らがない。忙しい毎日で目の前の事だけで精一杯のはずが、なぜか地球での日常との連続感が未だ続いている。

 おかげで友人を思い出した。
 相原志穂美は弥生ちゃんの友達の中でも指折りの、…迷惑な人だ。筋を曲げないし高潔だし自分の利害も考えずに他人の為に危険に立ち向かう、いつも全力疾走の、…祟り神みたいな性格のらんぼうものだ。

「あーきたな。」

 地球の事を思い出す時は大抵、額の上の壁チョロが天上の計画に従ってなんらかの超常現象を画策しているのだ。

「おい、なんか言ってみろ。」
と、指先で緑の光沢をお天道様に照らし返す小さなトカゲを小突いてみる。しばし弥生ちゃんの黒髪の上を逃げ回ったが、観念して頭蓋内に響き渡る見事なバリトンで語りかけて来る。

『ばれたか。』
「何考えてるの? また志穂美が出て来るの?」
『それは言えないが、無関係ではない。』
「地球の人間が出て来る時は、たいてい揉め事が起きるんじゃない。正直に白状しないと、おやつあげないぞ。」
『それは困る!』

 壁チョロ”ウォールストーカー”の好物は、蝶々である。ウラタンギジトの美しい庭園を飛び交う色とりどりの蝶が近くに飛んで来ると、ぱくっと咥えてバリバリと食べてしまう。天上の神さまの御使いはものを食べなくても死なないのに、人の頭の上で鱗粉を撒き散らしている。

『仕方がない。では少し予告しておこう。』
「ふむ。」
『まもなく、その人間が敵としておまえの前に現われる。そしておまえは救世の事業の中断を余儀なくされる。』

「負けるの?」
『可能性はある。それほど強力だ。』
「志穂美だもんね。それで?」

『負けなかった場合の話をしよう。一時おまえは人界を離れ、我らの代理人と遭う。』
「天河十二神の代理人か。あなたじゃダメなの?」
『私は一応、おまえを全力で保護する責を負い、おまえの利益を代弁する。』
「そうか、中立サイドのお話があるんだ。了解した。」

 

「ガモウヤヨイチャンさま〜。」
と、ぐるぐる眼鏡の蝉蛾巫女フィミルティが高い声を上げて呼ぶ。さすが歌姫だけあって、広い芝生全体に響き渡る。

「お時間でございま〜す。」

「というわけだ。今日の練習はここまで! じゃ、後よろしく。」
「ははっ!」

 神官戦士達を置いて、弥生ちゃんはとっとこ巫女の待つ方に走る。なにせやる事が多過ぎて、走って移動しなければ間に合わない。

 フィミルティと秘書役のカタツムリ巫女ファンファメラが手拭いと飲み物を捧げて待っている。
 ファンファメラがスケジュール管理をしてくれるおかげで仕事はどんどんはかどるが、前にも増して忙しくなった。フィミルティは目を三角にして抗議する。いくらなんでも御自分の身を省みず、働き過ぎだと。

 休憩も省いて移動中に汗を拭い、ファンファメラの報告を受ける。
 向かう先は神祭王に特別に提供してもらった館で、ウラタンギジトの城内において特別な手術をする病院として用いていた。

「患者10名全て用意を整え、寝台に就かせてあります。」
「ぎゃらりー、いえ見物人は?」
「ギィール神族の方々も既にお見えになっておられます。」

「うん。
 お! ジャバラハン!」

 館の前に、ゲジゲジが巻きついた棒を持つ一人の高位神官が立っている。
 神聖首都ギジジットから付いて来たジャガジァーハン・ジャバラハンだ。彼はキルストル姫アィイーガ専属の神官長だが、弥生ちゃんの頼みを聞いて南北に飛び回っている。

「ガモウヤヨイチャン様。例のものができあがりました。」
「おお、やった!」
「既に量産体制の構築に入っております。二月の内には方台全土に供給出来るでしょう。」

 弥生ちゃんがジャバラハンに命じていたのは、「シャンプー&リンス」の製造だ。
 方台にセッケンヌをもたらした弥生ちゃんだが、そのまま使えば髪がごわごわしてしまう。なんとかしなければ、と彼と共に方台の薬草類を様々に試して遂に完成させた。

 そもそもがゲジゲジ神官巫女が司るのは「頭」であり、頭関係の事物はすべてサービスの対象に入る。髪も当然管轄で、髪結いはタコ女王の昔からゲジゲジ巫女の職分と決まっている。

「して、これの頒布はトカゲ神殿ではなくゲジゲジ神殿でよろしゅうございますか?」
「髪の毛関連なんだから、良いように。ついでと言っちゃなんだけど、褐甲角王国でのゲジゲジ神殿の再建を図ってみよう。」

「あ、ありがとうございます。」

 ジャバラハンは方台全土のゲジゲジ神官巫女に代り、地に額づいて拝礼した。
 敵性の宗教組織であるからと、褐甲角王国では正規のゲジゲジ神殿が許されない。カニ神殿に付随する施設となっているが、これを独立させる事はゲジゲジ神官巫女全ての悲願である。

 言ったってやめないからそのままにさせておくが、次の用事があるので命じて顔を上げさせる。

「ジャバラハン。次の仕事に取り掛かってもらいたい。今度は命懸けの大仕事だよ。」
「ガモウヤヨイチャン様の御為ならば命を棄てるのも厭いません。」
「今度のはその覚悟では足りない。百個命を賭けてもらわないとね。」

 ふふふんと笑って、ファンファメラが携帯する文書の束を彼に渡す。前後を閉じる封板の題字に目を走らせて、ジャバラハンは血相を変えた。

「これを私奴にお任せくださる、と。」
「どう? こわいでしょう。」

「これを…、わたくしが…。」

 先を急ぐので弥生ちゃん達はそのまま館に入ってしまう。ジャバラハンは跪いたまま向きを換え、閉じた扉をいつまでも伏し拝んだ。
 ファンファメラは言う。彼女は聖山神聖神殿都市からの「廻し者」であり、儀典や祭祀の謂れや細目になかなかうるさい。

「この仕事、権之神官といえども一人では手に余ります。神聖神殿都市より十二神すべての神官を呼びましょう。」
「それではやはり困るんだ、褐甲角王国が。あくまでも私的なものでないとね。」
「しかし、必要とされる格式が。」

 

 手術室の前には既に黒山の人だかりがある。その最後尾に居たのが、メグリアル劫アランサ王女とその副官、赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダだ。
 今回の手術はウラタンギジトに詰めるギィール神族全てが注目するところであり、「余所者」の彼女達は遠慮せずにいられない。
 アランサが言う。

「ガモウヤヨイチャンさま。これほどの人数の中で本当に大丈夫なのですか。」

「アランサは血はだいじょうぶだよね。」
「え、ええ、もちろん、人を斬った事もございます。」
「ウェダ・オダさんもだいじょうぶだよねえ。世の中には、ぶった切るのは平気でもどくどく流れる血には弱い人も居る。」
「赤甲梢では演習でも死人や怪我人が出ます。見慣れていますよ。」

「いや、だいじょうぶじゃないとおもうよお。」

 フィミルティとファンファメラのお供はここまでだ。血に無縁の彼女達はこれから起きる惨状を見ると気絶してしまう。

 手術は大きな広間全体を使って、一度に10人を対象に行う。それぞれの患者にトカゲ神官の医師が付き、弥生ちゃんの補助を行う。
 今回ハリセンでばったばたとなぎ倒していく大雑把な治療は出来ない。非常に繊細で、むしろ事前の準備こそが重要となる。

 天窓から差し込む明かりが十分であると確かめて、弥生ちゃんは服を着替える。地球の医者の手術着を摸してあつらえさせた白衣だが、小柄な弥生ちゃんが着ると小学生の給食当番の姿に見える。

 ギィール神族は神祭王以下数十名が狗番も無しに患者の傍に立ち、興味津々に見詰めている。彼らも弥生ちゃんの指示に従い、身体を隠すシンプルな白衣を纏っている。

「じゃ始めまーす。」
 何の緊張感も無く弥生ちゃんは手術を開始する。

 

 今回の患者は、通常の病人怪我人ではない。言うなれば、放っておいても死なない者だ。だが症状は極めて深刻でこれまでなんの解決策も見出せなかった。神の恩寵から永遠に見放され、地獄の苦しみにのたうっている。
 つまり、様々な事故や病気の結果として、あるいは先天的に与えられたものとして、顔面に多大なる損傷を持つ人達だ。
 二目と見られぬ姿の彼らは、人に隠れてこれまで生きて来た。方台の宗教に彼らを救う教義は無い。

 千年に一度の好機を得て青晶蜥神救世主の下に足を運んでも、なんの救いも得られなかった。

 青晶蜥(チューラウ)神が与えた無限の治癒力を誇るハリセンは、瀕死の重病人を救う。首が離れたばっかりの人を蘇らせる事さえ出来る。だが失われた器官は再生出来ないし、既に治癒してしまった傷痕を直す必要を認めない。
 つまり整形、形成外科に関してまったく機能しないのだ。

 これには弥生ちゃんも悩んだ。目の前に明らかに外科的な救いを求める人が居るのに、ハリセンはなにもしてくれない。なにも出来ない。

 出来ない自分を許せないのが、弥生ちゃんという人間だ。神が禁ずるものをいかにして成せば良いか、考える。
 もう一度壊して作り直せばよいのだ。しかし次の問題に突き当たる。

 どういう風に作り直せばよいのか?
 これは大問題だ。十二神方台系の人間は明らかに地球の、日本の人間とは違う。美醜の判断もかなり異なる。良かれと思ってやった事が、却って大迷惑ともなりかねない。
 弥生ちゃんはひるまない。自分に出来ないものは、他人にやってもらえばよいのだ。

 まず弥生ちゃんはデュータム点にそれらの患者を留め置き、絵画に秀でた蜘蛛神官を呼び集め復元図を描かせた。家族や本人の話を聞いて、本来どのような姿形であったのかを確かめる。先天的な者は親兄弟の顔から在るべき容貌を描かせた。
 ウラタンギジトに入ってすぐ、弥生ちゃんは当地にて活躍する人形職人に弟子入りする。救世主様にめっそうもない、と断る職人をカタナで脅して頼みを聞かせ、粘土をこねて形作る練習をする。
 また神祭王以下美術に造詣の深いギィール神族に話を聞き、方台における美について何度も講義を受けた。やはり地球とは相当に概念が異なっており、そのまま顔を作っていたら自殺者量産するところだったと、背筋に冷や汗を流したものだ。

 或る程度粘土をこねる技を身に着けたところで、今度は材料を探す。足りない骨を何で補い少ない肉を如何にして得れば良いか。無い筋肉は戻せないから、整形しても正しい機能は回復できない。それでもなお顔を作るからには、どこで諦めるべきかを厳密に計算して、患者本人の納得を得なければならない。

 結論として弥生ちゃんは、とりあえず患者の顔を小刀で抉っては急速に回復させ、肉を盛り上げていった。整形時にはこの肉を粘土のようにこねて、肌を作る。
 骨は戻らないが、獣骨で作った代用品が人体内で拒絶反応を起さないのを確かめた。ハリセンが発する青い光がなんらかの処理をするのだろう、ともかく大丈夫と判明する。
 義眼は陶器で焼いてもらう。ウラタンギジトは陶芸でも知られる街で、ギィール神族の指導に基づき芸術的な高級陶器を作り褐甲角王国に売っている。弥生ちゃんが弟子入りした人形職人も陶芸家の一人だ。そして歯は、

「あとで、歯科医療もなんとかしないといけないね。入れ歯のちゃんとした奴を作らないと。」

 今回は恒久的な整形を目的とするので、歯も埋め込んでしまう。獣の牙を材料とし歯根の部分にアンカーを削り込む。
 一般的な入れ歯は採用しなかった。そもそも方台に入れ歯は無い。鳥の骨をがじがじと齧るほど丈夫な彼らには、頼りない入れ歯はまったく実用的でなかった。痛い虫歯を引っこ抜こうにも丈夫過ぎて抜けない、斧で叩いてへし折る野蛮極まりない手法を用いている。

 今回の手術は、ありとあらゆる面で大がかりな準備を必要とした。これだけやるのだから、と患者も100名まとめて治療する。一日10人で10日で終る計算だ。
 乱暴過ぎないかとの声も上がるが、弥生ちゃん本人がやるというのだから止められない。患者にしても、これを逃せば二度と機会は無く、決死の覚悟を決める。

「実際、死ぬ人が出る事もあります。」
「ほお。やはり、このような手術はやるべきではないのか。」
「単に生きているだけならばそうでしょう。人が人らしく生きる為にはやはり必要なのです。」

 しかし、麻酔無しでは確かに乱暴過ぎる。弥生ちゃんが手術に使う尖刀は青い光を発して痛みをまったく感じさせないのだが、正気を保ったままで顔面を、頭蓋骨をいじられるのだ。恐怖以外の何物でもない。

「やはり、全身麻酔をするか。」

 腰の後ろに挟むハリセンを抜くと、寝台に横たわる10人を片っ端から叩いていく。皆目を開いたまま気絶してしまった。
 その様子を、ギィール神族は興味深げに見る。彼らにしても神威を用いる手術は驚異的なものだ。顔面内部を抉り血の塊の中から組織を引き出して余分を削り足りないものを補い、目的とする形に盛り上げていく様を、食い入るように見詰めている。

「ふう。」
「次の者を呼び出せ!」

 トカゲ神官が倒れたので、控えを呼び出して補助をさせる。彼らもここ1ヶ月ほど弥生ちゃんの傍にあり様々な人体の神秘に遭遇してきたが、尖刀を用いて肉を切り刻む光景にはさすがに耐性が無かった。そもそも彼らは解剖の経験が無く、ろくな外科技術も持っていない。骨接ぎがいいところだ。

「ばた。」
「ガモウヤヨイチャン殿、私が手伝おう。」
「ありがとうございます。」

 またトカゲ神官が倒れ、見かねてギィール神族の一人が助力を申し出る。感情を殺して成長する彼らは恐怖心をも克服する。おかげで随分と作業がはかどった。

 患者10人一人ずつを癒していくのではない。抉り出した肉が盛り上がり神秘的な回復をする合間に、他の患者を手術している。組織が落ち着くのを待つ時間に、別の寝台で骨を削り接いでいく。燕のように目まぐるしく飛び回った。
 すべては事前の周到な準備の為せる業。蜘蛛神官が描いた復元想像図を確かめて、大胆に一発で造型していく。

 あまりの凄まじさにさすがのアランサも腰が砕ける感触を覚え、後ろからウェダ・オダに抱き留められる。

「やはり出ましょう。」
「いえ! 私はこのまま見届けます!」

「この筋肉をね、顎の筋肉だけど、これをここに固定する。」
「代用品の顎なのか。うまく結合するだろうか。」
「しますけど落ち着くまでが問題でして、十日ほどは口を動かしてはダメなんです。」
「なるほど。今形が出来ればよい、というわけではないのだな。」

 ギィール神族と弥生ちゃんの会話を、アランサは脂汗を流しながら遠くに聞く。同じ聖蟲を持つ身とはいえ、ゲジゲジとカブトムシとではやはり得意分野が違う。どうしても無理はある。

 あらかたの患者を片付け終わったと見て、或る神族が尋ねる。

「この手術、たしかに患者にとって死活的な必要があるが、それほどではない者、あるいは単に醜い者を処置する考えは無いのか?」
「ああ、そういう商売も星の世界にはございます。醜いどころか美しい者が更に美しく若さを取り戻す為に、大金はたいて手術を受けますね。」
「医療ではないのか。」
「医術を必要とする行為、です。めんどくさいから私はやりません。」
「なるほど。」

「えーと大体こんな感じで終りです。今日手術した人も、明日また確かめてみます。無いとは思うけど拒絶反応とか肉の腫れとかを調べてみなくちゃいけませんから。」

 担架でゆっくりと運ばれていく患者を見送り、弥生ちゃんは見守るギィール神族にぺこりと礼をする。称讃の声は無い。あまりの手際の良さ、大胆さに誰もが度肝を抜かれ何も喋らない。
 神祭王が周囲の神族の顔を確かめて、代表として話し掛ける。苦労をねぎらった後で、今回の手術の核心を衝く質問をした。

「この手術は、そなた以外の者には無理だろう。」
「ですね。方台で生まれた者がハリセン握っても、絶対出来ないでしょう。」
「では後の世に叶わぬ夢を与えるだけではないかな。」

「なるほどその懸念はありますが、私の世界の医術ではかなり一般的なものなのですよ。」
「神の力を借りなくても出来るのか。」
「できます。もっと上手く出来ます。限界はありますが。」

「では今そなたがこれを為すのは、」
「こういう事も有り得るのだよ、という例を作っているのです。伝説に挑戦する人が現われる為に。」
「そうか、それで一度に何人もを治療して、世を驚嘆せしめるのだな。」
「演出効果、というのも考えているわけです。」

 青晶蜥神救世主として世を騒がせ人の期待を盛り上げる。計算高い側面も弥生ちゃんには確かにある。
 だがアランサはそんな表面に惑わされるほど浅く付き合ってはいない。

「今回本当に驚嘆すべきだったのは、あの事前の準備です。他人の為にあれほど熱心に、精魂込めて念入りに繊細に準備を進めていったそのお人柄こそ、真に後世に伝えるべきものです。」

 

 手術を終えトカゲ巫女に給食スタイルを脱がせてもらった弥生ちゃんは、フィミルティとファンファメラを従えお昼を食べに宿舎に戻る。途中石畳の庭でネコ達に絡まれた。

「ガモウヤヨイチャン、顔をぐにゃぐにゃにするのはうまくいったか?」
「ぐにゃぐにゃにしたら、骨はどうなるんだ。」
「ぐにゃぐにゃって、粘土で人形を作るのと一緒か。」

「ちょっと待て、お前達手術を見てたんじゃないの?」

「とんでもない!」
「あんなこわいもの、見てられない。」
「血がいっぱい出たって言ってた。ネコはそんなの見られない。」

 無尾猫は狩猟生物で吸血生物である。だがこの根性無しこそが彼らのスタンダードであり、弱さを認識するが故に情報を生業とする戦略を用いる。
 医学的な事は説明しても無駄だから、手術で気絶したトカゲ神官に気持ちの悪かった情景を詳述させると約束して、ネコを振り払う。

 

 ウラタンギジトの迎賓館は金雷蜒王国の威勢を表す相当に立派な建物であるが、現在丸ごと弥生ちゃんの宿舎として提供されている。中央祭壇がそのまま弥生ちゃんの執務室に当てられる。

 部屋に入ると、それまで後ろに従っていたフィミルティがささっと走り、大机の脇に置かれた白い壷を抱えてうずくまった。
 その光景を見たギィール神族キルストル姫アィイーガがけらけらと笑う。「妃縁」という高い身分を与えられた彼女も迎賓館に泊るが、気軽に出歩く自由を失い退屈し切っている。

「よいではないか。救世主が手ずからティカテューク(イカ)を焼いて何が悪い。」
「ですが!」

 アィイーガの足元には灰白色の頭巾を被る男が在り、頭を石の床に付けて拝礼する。この者は「ジー・ッカ」の一員で「ハキルのガァメリ」と名乗る。烽火台を利用した光学通信網の責任者だ。
 彼が許されて頭を上げ、報告しようとするのを弥生ちゃんは留める。

「メグリアル姫がお出でになるまで、待て。」
 彼が運んできた通信の内容は推測出来る。だからこそ、褐甲角の王族の前で初めて聞くべきだと心得る。

 ファンファメラは運んできた書類の幾つかを部屋に居たトカゲ巫女やゲジゲジ巫女に渡し、また新たな書類を受け取る。
 一方弥生ちゃんはフィミルティが抱える壷を恨めしげに見る。この壷は、つまり「七輪」だ。スルメを焼く為にわざわざウラタンギジトの石工に頼んで削ってもらった。ギィール神族も大変便利な携帯竃だと称讃する。

「イカ…。」
「ダメです!」

 フィミルティが頑なのには理由がある。先日弥生ちゃんは、七輪で使う「燃料」を作ったのだ!
 ウラタンギジトの炭小屋で、にこにこと笑いながら炭の粉をこね「炭団」を作る姿に巫女達は驚き、フィミルティが抱きついてようやくに止めさせた。隙あらばと再チャレンジしようとする救世主は、現在巫女達の厳重な監視下にある。

「「炭団」はねえ、十二神方台系の燃料事情を改善する為に是非とも必要な新発明なんだよ。見てごらんなさい、ウラタンギジトでもデュータム点でも街中はともかく周囲は木が一本も無いでしょ。森林保護の為に効率的な燃料の利用と供給をだね、」
「そんな事は我々にお申しつけ下さい。救世主御自らが為さる事ではありません!」

 笑うアィイーガを弥生ちゃんはじとっと恨めしげな目で見る。

 

 伝奏の役をするゲジゲジ巫女が待ち人の到来を告げる。

「メグリアル劫アランサ様、ディズバンド迎ウェダ・オダ様がお出でになりました。」
「お通しして。」

 先程までの見学の衣装を着替えて、柔らかな山蛾の絹を纏ったアランサが入室する。流石に顔色が冴えないが、気丈に表情を繕っている。
 赤甲梢ウェダ・オダは胸甲のみ長剣一本の簡易な武装で済ませており、珍しく賜軍衣を羽織っていた。聖戴を受けた者だけが許される賜軍衣は王の前にも出られる正装ではあるが、これまで彼は着用した事が無い。

 さすがに気になって尋ねてみる。彼は気安く話易いタイプではあるが、あまりに馴染んでしまうと王女が後ろ指を指される事もあろうと、或る一線を保っている。あくまで褐甲角王国の代表の一人、なのだ。

「なぜ?」

 年齢の割に老けた感じのする顔と、まったく反するムキムキの筋肉を包んだ軍衣のアンバランスが面白い。彼はちょっと眉を傾げて、弁解してみせる。

「どうも今日は、この衣装でないと聞いてはいけない話がある気がしますね。」
「だね。始めなさい。」

 劫アランサ王女に椅子を勧め、自分も大机の席に就く。トカゲ巫女がお昼御飯を運んで来るが、さすがに食べながらという訳にはいかない。

 ハキルのガァメリが一歩にじり出て、石の床に平伏する。彼ら「ジー・ッカ」は弥生ちゃんに対して王姉妹にするのと同じ礼を取る。止めさせても直さない。好きにさせるが、指先で指示してアランサに対面する形で報告させる。

「今朝の信号で届いた報にございます。去る廿二日、メグリアル妃焔アウンサ様と率いられる赤甲梢・紋章旗団は神聖宮に入城し、聖上(神聖王)と会談され停戦の取決めがなされた由にございます。」

 はっと息を呑むアランサに代り、弥生ちゃんが尋ねる。

「その報の発信元は誰だ。」
「鉄城門の門監将軍のお一人です。鉄城門は神聖宮の外にございます。つまりこの報せは、宮の内部より然るべき尊い御方から与えられたものでありましょう。」

 神聖宮内部の事情は自然には決して外部に漏れない。報せるべしとの政治的判断が為されたのだ。
 また門監将軍は聖蟲を持たないただの人間の軍人で、青晶蜥神救世主に強く惹かれる者だと以前に説明を受けている。この情報の信頼性は極めて高い。

 アランサの椅子の後ろに立って報告を聞いて居たウェダ・オダが、姫の左前に進み出て跪く。頭を垂れて作戦の成功を言祝いだ。

「総裁、劫アランサ様。赤甲梢本隊無事に任務を全うしたとの報に、私は感涙を抑える事ができません。おめでとうございます。」
「ウェダ・オダ、許して下さい。あなただけを私の傍に留め、長年の誓いの実現から遠ざけてしまいました。」
「何を仰しゃいます。我らは何処でいかなる任務に就いていようとも、心は一つ。赤翅葉冠紋の旗と総裁の御許にあります。」

 アランサは左手を伸ばし、ウェダ・オダの肩に触れる。賜軍衣の薄い飾り甲が窓から漏れる晩夏の光の艶を帯びている。その光を指でなぞり、彼が本心では抱いていよう無念に心を傾ける。

「続報は、まだ無いね?」

 感動はさておき弥生ちゃんは先を促し、烽火台の管理人は口をつぐむ。
 目の前のお粥は冷めてしまいお腹がぐうと鳴るが、致し方ない。両手を組んで大机の上に横たえ、アランサに諭すように話し掛ける。

「さて、メグリアル劫アランサ王女。これからが貴女の戦いだ。」
「! はい。」

 手を引っ込め顔を上げたアランサに、弥生ちゃんの真剣な眼差しが突き刺さる。再度念を押して言う。

「これからが貴女の戦いだ。」
「はい。」

 アィイーガがふふ、と鼻で笑う。彼女は弥生ちゃんがこれから言う意味をちゃんと分かっている。決意があるように見えても状況を理解していないアランサとは違う。

「なるほど、和平の第一歩は成った。まずは使者が神聖王陛下の元に参らねば、何事も始まらない。
 しかし、陛下の行幸となれば準備だけでも半年掛っておかしくない。時を逃してはならないとメグリアル妃にはお伝えしているけれど、超特急でも準備に10日、国境ギジェカプタギ点に到るまでに15日は掛る。」

「はい。」

「出立を急いでもらう手は既に打ってる。それでも15日。これだけあれば金雷蜒褐甲角両軍の再配置は完了する。」
「っ! 再配置ですか! では戦争はまだ続く…。」

「一時的には停戦するし、これまでの損害はかなり大きい。両軍どちらも再編に手間取るだろうが、それでも15日は万全に整えるのに短くない。特にギジェカプタギ点の東西には兵力が集中する。毒地から引き上げて来たギィール神族も、神聖首都ギジジットを拠点に陣容を立て直し、もう一戦を望むでしょう。
 褐甲角軍にも再度の対決を望む声は小さくない。特にカプタンギジェ関の国境守備軍はほぼ無傷。神聖王陛下の行幸を敵の総大将がやってきたと見て、究極の決着を図ろうと考えてもまったく不思議が無い。」

「……。」

 先程の手術で貧血を起したのが可愛らしく思えるほど、アランサは自分が今顔面蒼白であろうと覚える。心臓が拍動する音が祭壇全体に響き渡るかに感じられる。
 ウェダ・オダも立ち上がり、再び王女の背後に位置を戻す。敢えて手を伸ばし、無礼を承知で肩に手を添えた。アランサは思わず右手をその手に当て、強く握る。

「そこで、メグリアル劫アランサ王女の出番となるわけだよ。こちらに残る赤甲梢と兎竜をかき集め、なんとしてでも褐甲角軍の真っ正面に出て神聖王陛下を出迎える。」
「こ、ころえて、おります。私が叔母上を迎えねばなりません…。」

「ひょっとすると到着前に戦闘が始まっているかもしれない。またこの段階にあってもなお、褐甲角王国では神聖王陛下の受入れの是非が決していないでしょう。」
「は、…い。」

「強行突破します。」
「できるでしょうか…。」
「やります。やってもらいます。」
「私にできるでしょうか…。」

「非常に困難です、ギジシップ島突入よりも遥かに。」

「おそれながら!」
 背後に立つウェダ・オダが堪らずに声を出した。

 もしアランサが失敗したらどうなるか?
 これは簡単に予測出来る。無に帰すのだ。全ての神族神兵が参加し果てる究極の戦となり、どちらの王国も滅びるだろう。方台の文明は紅曙蛸王国時代に逆戻りする。
 彼は弥生ちゃんに問い掛ける。

「神聖王陛下はそれほどの危険を押してでも、こちらに本当に参られるでしょうか。」
「来ますよ。金雷蜒(ギィール)神の御意志ですからね。また神族は誰も、この世が滅びるのを惜しいとは思いません。」

 ウェダ・オダが振り向いたアィイーガの顔は仮面の微笑みに満ちている。彼は初めて、ギィール神族の心奥が虚無に満たされている事に気が付いた。神族は人にはあらず、というが真実と知る。

 誘われたと理解したのだろうか、アィイーガが口を開く。言葉は予想を越えて生臭い。

「メグリアル劫アランサ王女が赤甲梢の総裁として認められるのに、これ以上の仕事は無いな。赤甲梢の諸氏が罪に問われぬ為にも、そなたは自らの地歩を固めねばならぬ。あざとく手柄を立ててな。」
「分かっています。最初から、叔母上と赤甲梢を救う為になにかしなければならないとは、知っています。しかしそれが、」

 私事の為に世界の命運を賭けても良いのだろうか。このような決定的局面を成し遂げる為に、救世主が天から遣わされるのではないか。これではまるでアランサこそが。

 

「そりゃそうと。」
 この重大事がさっくり片づいたかに、弥生ちゃんが話を別に振り向ける。

 ふう、と溜め息の声がして、人の倒れる音がした。カタツムリ巫女ファンファメラが対話にのめり込み過ぎて、失神してしまった。フィミルティが指示されて抱き起こす。毒地を巡り幾度も死線を越えた蝉蛾巫女は、もはや並み大抵ではたじろがない。経験がファンファメラにはまだ欠けている。

「そりゃそうと、神聖王陛下をお迎えするのに並みの支度では許されないよね。超豪華でないと。」
「そうだな。奴隷が千人財宝を抱えて準備するくらいは欲しいな。神聖王が他国に赴くなど、二千年で初の慶事だ、褐甲角王国の財をはたいてもまだ足りないだろう。」

 誰も答えないからアィイーガが相手をする。アランサは顔を真っ白にしたまま、未だ迷っている。

「デュータム点までどこにも泊まらずに突っ走るわけにもいかない。お宿を用意しなくちゃね。」
「ふむ…。メグリアル王女には、心当たりはないか?」

「え? え、宿ですか。」

 アランサが戸惑うのは当たり前だ。王国が神聖王の受入れを決定しなければ、いかなる歓待の準備も成り立たない。迎える宿舎の用意が整うはずがない。
 この件に関してはウェダ・オダにも知恵は無い。助言も出来ない。いや、更に一つ尋ねねばならない事がある。

「ガモウヤヨイチャンさま、歓待を行うのには人が要ります。誰がその役を引き受けるでしょう? それ相当の位にある者でなければ礼を失します。」
「途中の休憩所なら神兵でいいでしょ。実は心当たりが一人有る。」

「ほお。」
「ゲルワンクラッタ村の守護の神兵、えーと、ジンハ守キンガイアさんだっけ。に頼もうと思う。」
「おお、あの完膚なきまでにやっつけたアレか。」

「あの。」

 弥生ちゃんとアィイーガとの間で話が進んでいくのを、アランサは止めた。
 ジンハ守キンガイアは弥生ちゃんに決闘を申し込み無残に敗れ去った者だ。頼んで便宜を計らってくれる、いや神聖王を迎える大役を引き受ける道理が無い。そんな事をすれば彼自身が反逆者の汚名を着る。

「策はある!」
「ほお。」
「書状を出しましょう。真剣にまごころを込めてジンハさんにお願いすれば、きっと願いを叶えてくれる。私はそう信じる。」
「ふむ、気楽でいいな、ガモウヤヨイチャンは。」

「実はもう準備は始めちゃったんだ。さっきジャバラハンに命じてしまいました。彼は財宝担いでゲルワンクラッタ村に向かいます。」

「え?」

 アランサよりもこれにはウェダ・オダが驚いた。
 ゲジゲジ神官ジャバラハンが弥生ちゃんの命に従って歓待の準備を行うのであれば、用いられる財宝、掛る費用の一切を弥生ちゃんが負担する事になる。王国の決定が無いままに受入れるのもさる事ながら、王国が神聖王接待の費用を出さないとなれば二重の意味で国辱だ。
 ウェダ・オダも褐甲角王国の俸禄を食む者だ。いくらなんでもそれは阻止せねばならない。第一、接待役を見込んでいるジンハ某も受入れないだろう。

「だあーいじょうぶ大丈夫。私の財産てのは、こっちに来てから金雷蜒王国褐甲角王国の民衆からもらったものだよ。だから、接待に費やされるお金はすべて民衆が出したわけだ。私は使い道を決めるだけ。」
「ですが!」
「ならばその事を世間に大々的に周知徹底しましょう。黒甲枝も出来ない事を民衆がやってのけるんだ。これは褐甲角王国皆の誉れとなる。千年に一度の大事件大転換の祭典に、民衆も共に参加する。」

「うむ、モノは言いようだな。」

 アィイーガは弥生ちゃんの言う「神聖王の出立を促す策」の概要がつかめて来た。弥生ちゃんの真の力は民衆だ。方台全ての人が望むからこそ、彼女はここにある。
 神聖王があるべき時にあるべき場所にあるのは、それも民衆が望むからだ。

 アィイーガは褐甲角の王女に返事を促す。この姫は、これから始まる世界に欠くべからざる人物に違いない。退いてもらっては、面白くない。

「劫アランサ王女、」
「はい…。」
「流血はすべての者が好まぬ。」
「はい。」

「そなたは決して流血の道を歩んではならぬ。また望みもしないだろう。」
「はい。」
「そなたの往く道を支持する者は多い。迷ってはならぬ。」

「迷います! ですが、」
「そうだ。立ち止まってはならない。」

 アランサは立ち上がる。そして弥生ちゃんに対して腰を折り深々と頭を下げる。上げる顔に最早弱い女の色は無い。武人の決意が迸る。

「これより下界に戻り、自らが為すべきを行います。直ちに向かいます。」
「うん。しばしのお別れだ。」

 弥生ちゃんは席を立ち、アランサの前に来る。両腕を上げ王女を包容した。柔らかい乳白色の髪に唇を寄せ、耳元に囁く。

「策を授けます。…。」
「え!? 」

 驚くアランサは弥生ちゃんの顔を間近に見るが、明るい笑顔だけがある。恐ろしく簡単な策だけに、却って成功の確信が得られる。

「有難うございます。叔母にはそのように伝えます。」
「うん。じゃ。」

 再び弥生ちゃんに頭を下げ、アィイーガにも礼をして、アランサは部屋を後にする。もう振り返らない。
 ウェダ・オダも彼女に従うが、気を取り直したファンファメラが追いついて数篇の計画書を手渡した。このスケジュールに基づいて、弥生ちゃんはあらゆる工作を行う。

 大扉を抜け赤甲梢総裁が去った後、アィイーガは自らの席を立ち、それまで王女の座っていた席を優しく撫でる。振り向かず、言葉を発する。
 おかげで弥生ちゃんはまたしてもお昼を食べ損ねた。

「既に聖蟲を得た者が、新たな聖蟲を戴くと思うか?」
「さーてどうだろう。人が望めば受けるんじゃないかな。」
「艱難辛苦で忙しく、少し羨ましいな。それに引き換え、私は籠の鳥だ。」

 うーん、と弥生ちゃんは天井のタイルを眺め考える。キルストル姫アィイーガは既に「その他大勢」とは呼べない人物だ。青晶蜥神救世主伝説を紐解けば必ずその名を目にするだろう。

「これは仮定の話だから真面目に聞かないでね。
 もし方台生まれの人間が救世主になったとして、彼の物語に必要なのは何?」

「敵だ。強大で偉大、正義を誰にも疑われぬ権力者為政者こそが、救世主の前に立ち塞がる。」
「その偉大な敵が滅びたら?」
「次が現われる必要がある。千年続く物語には、千年続く敵が要る。」

「アィイーガは立ち塞がってみる気はないかい?」

 振り向いて、背の高い友人は苦虫を噛みつぶす笑いを見せる。

「ジャバラハン一人には任せておけぬな。神聖王には聖蟲をもらった義理もある。」
「そうしてもらえるとひじょうにたすかる。ティンブットの舞姫隊を追いかけさせます。」

 金糸の刺繍に彩られた薄衣の裾を翻し、アィイーガは弥生ちゃんに背を向けた。部屋を出る手前でもう一度振り返る。

「ひとつ聞いておこう。ガモウヤヨイチャンはその為に毒地で私を選んだのか?」

 弥生ちゃんはネコみたいな笑みを浮かべる。
「私のやる事の半分は、いきあたりばったりです。」

 

 アィイーガと入れ代わりに、扉の前に控えるゲジゲジ巫女が言上する。
「聖神女ティンブット様がデュータム点よりお戻りになりました。謁見の宮にてデュータム点の御重役方とお目通りを願っております。」

 ティンブットはデュータム点とウラタンギジトを往復し、主に寄付関係を司っている。弥生ちゃんグッズの企画も仕切って居た。
 彼女が呼ぶというならば、弥生ちゃんは何を置いてでも飛んでいく。が、

「ごはん…。」
「ティンブット様をお待たせになればよいではありませんか! イカも焼きます!」

 私事は後回しにしてツケを溜め込む弥生ちゃんに、さすがにフィミルティが切れた。

 

 

 謁見の宮は正式には修交宮殿と呼び、ウラタンギジトの城壁の外にある。通常神祭王の外交使はここで褐甲角王国と協議するが、あくまでも城市の外だ。
 弥生ちゃんが来てからは、主に外来患者の治療と信者の参拝を受ける場所として用いられる。今日は城内で手術をしたが、弥生ちゃんは毎日ここに通いハリセンを振り回す。

 つまり迎賓館からは遠い。ティンブットをかなり待たせる事となった。

「ごめーん。」
「いえお気遣い無く。救世主たる者、人を待たせるのはむしろ責務でございますよ。打てば響くように応えていては、凡人は甘え奢りつけあがります。三日地べたに待たせるくらいがちょうど良いのです。」

 かなりいい加減なタコ巫女ティンブットは、時間の観念もいい加減だ。2時間遅れでもまったく気にしない。
 弥生ちゃんはフィミルティ、ファンファメラに加えて、今度は旗持ちの巨漢シュシュバランタも従える。彼はウラタンギジトの城には入れない。そういうしきたりになっている。一国を代表する外交施設の内に、他国の王旗は持ち込めない。

「例のアレね。古都テュクルタンバを復興し、そこに青晶蜥王国軍の駐屯地をつくるっての。」
「さようでございます。これはいかなる筋からの働き掛けが有りましたのでしょうか。やはりタコリティの差し金ですか。」

 ティンブットが連れて来たデュータム点経済界の重鎮は5人も居る。彼らはなんとかして青晶蜥王国の王都にデュータム点を選んで欲しいと、寄付を重ね様々に便宜を計らってくれる。

 その彼らを不安に陥れる計画が持ち上がり、今回弥生ちゃん本人に確かめに来たのだ。
 テュクルタンバは古代紅曙蛸巫女王国の首都があった場所だ。今は廃墟が残るのみで人もほとんど住んでいないが、都の立地としては悪くない。デュータム点に近く、その繁栄を奪ってしまう怖れもある。戦々恐々となるのも無理はない。

「この計画は私と褐甲角王国衛視統監ガダン筮ワバロン殿が相談して、それが必要だろうという事になったんだ。」
「なんと!王国が直々に申し入れて来たのですか?!」

 絶望的、な表情が並ぶ。いかに富を重ねようとも王国の権威権力には敵うはずがない。
 だがそういう話ではないのだ。

「簡単に言うと、褐甲角王国と取り引きをした。建軍準備委員会の駐屯を認めさせる代りに、僻地に追いやるのだね。」
「しかし相当の規模の街になると、宮殿も。」

「古代様式の木造宮殿を復元し、紅曙蛸(テューク)神の巡礼を受入れる施設を作る。後には神殿都市にもなるでしょう。新生紅曙蛸王国の正統性に疑義を抱かせる宗教的武器だね。」

「神算を読み取れぬ我らが愚かでございました。ガモウヤヨイチャン様のお望みのままに。」
「いや、あくまでこれは軍の駐屯地だよ。紅曙蛸女王の都を継ごうとは、恐れ多くて思わない。」

「では?」
「王都は別だ。そちらの計画を進めて構わない。軍事的な機能をまったく考慮しなくて良いから、むしろやり易くなるはずだね。」
「ははあー。」

 

 伏し拝む彼らが持ち込んだ『青晶蜥神聖王の玉座』の予想図と模型を、フィミルティは眺める。

 玉座の概念は元々方台には無く、金雷蜒神聖王も褐甲角武徳王もそのようなものを持たない。唯一歴史に残るのは、紅曙蛸女王が謁見の時に用いていた巨大な階段の上の「神磐」と呼ばれる舞台だ。椅子の形状ではない。
 だが敢えて、弥生ちゃんは玉座の製作を依頼する。

 正面の大きな壁に彫られた石の椅子があり、そこに弥生ちゃんが座る。下の壇にもう一脚、木で作られ黄金で飾られた豪奢な椅子が添えられる。
 これには誰が座るのか?

 石の椅子、ガモウヤヨイチャンの席は長く空白となるだろう。蝉蛾巫女は直感で理解する。
 この玉座は弥生ちゃんが方台を去った後、救世主を継ぐ者の権威を高める為にあるのだ。空白の椅子には弥生ちゃんの幻影が長く在り続ける。しかしそれは、永遠の別れを示唆するに他ならない。

 

 デュータム点の重役達が去った後、弥生ちゃんはつるつるとティンブットの傍に寄り、両脇腹を指で突いた。

「きゃん!」
「ふむ。贅沢三昧で弛んでいるかと思ったけど、そんな事も無いね。」

 成金趣味満載の衣装を翻して、ティンブットは姿勢を正す。弥生ちゃんが自身を飾らない分を補っているともいえ、寄付寄進を集めるのにかなり効果的だったりする。

「デュータム点との間の山道を徒歩で往復してるのです。そんな暇はありません。」
「それは上々。近日中にティンブットには一世一代の舞を演じてもらわないといけないからね。」
「本業の出番でございますか。」
「失敗したら自分で首を刎ねないといけない、大舞台。」

 いい加減な舞姫はにへらと笑って答える。

「このティンブット、舞台の上で既に七度死んでおります。八度になってもまるで困りません。」
「おお頼もしい。タコ巫女100人楽隊付きで早速編成に当たってちょうだい。」
「演目はやはり。」

「『双月叢雲に覗く』。」

 神聖王の御前でのみ披露される、超絶技巧を要する古歌中で最も困難な幻の演目だ。その重圧に、むしろ故事に詳しいファンファメラが緊張を覚える。前回その曲を舞った巫女は、察せられるほどの失敗をしなかったにも関わらず神聖王より評を頂けず、自らを恥じて首を刎ねている。

「フィミルティもティンブットと共に、」
「はい。ですがお世話の方は。」
「いやーまあー自分の事は自分でするよ。」
「それが一番困るのです!」

 舞姫と歌姫は揃って御辞儀をし、救世主の前を辞した。一緒に居られないのは断腸の思いだが、ここで失敗してはそれこそ救世の聖業が頓挫する。彼女達が弥生ちゃんの為に尽すには、やはり本業を以ってするのが最高だ。
 カタツムリ巫女ファンファメラは女優の端くれでもある。ただし彼女に求められるのは、千年に一度の救世主の生ける姿を記憶して、後に神話劇として演じる戯曲を書く事だ。同じ芸能を職分としても、決して出番は回って来ない。

 

 神話となる少女は腰にカタナを吊るす革帯を整え、がしゃっと叩き気合いを入れる。振り返り、ピルマルレレコ旗を掲げる太鼓腹の巨漢に話し掛けた。

「シュシュバランタ、喜べ。近日中に私達死ぬかもしれない。」
「おお! では再び戦場に戻りますか。」
「今度の相手は尋常ではない。ギジジットで出くわしたのよりも更に強いかも。」

「嬉しゅうございます。このシュシュバランタ、何時死ねるかと心待ちにしておりました。」

 旗持ちは、敵が真っ先に狙い撃ちする死傷率の高い職業だ。特に王旗を掲げる者は、いかなる状況でも命令無き時は退くのを許されない。王が傷付いて旗持ちが生き残るなど、恥の最たるものとされる。

「うーむ、最近カタナにも硬いもの斬らせて無いからねえ。腕が鳴るなる。」
「嬉しゅうございますなあ。」

 ハハハと笑う二人に、ファンファメラは嫉妬を覚える。あくまで傍観者に徹せねばならぬ彼女は、一緒に死なせてもらえないだろう。
 その想いと共に、心の事績簿に今の情景を書きつける。

『ヤヨイチャン、ちょっと馬鹿笑い。』

 

【電撃戦幻想】

 キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女の率いる赤甲梢の東金雷蜒王国横断作戦は歴史上稀に見る大成功を納め、その後の文学娯楽作品にも度々取り上げられる国民的快挙となった。

 だが軍事研究者の視点からすると、「電撃戦」の評価は芳しいものではない。
 これは偉業を貶めようとするものではなく当の赤甲梢、作戦に参加した神兵自身がそう語っているのだ。なにしろ行きの作戦は有っても帰りは無い、自殺的攻撃であるから仕方ない。最初からガモウヤヨイチャンによる救済を前提とした極めて政治的なものであった。

 当然、将たる焔アウンサの軍事的能力もさほど高くは評価されない。いやそもそも彼女は作戦中まったく戦闘指揮をしていないから評価自体があり得ない。

 彼女の評価は軍事的停滞期、軍縮期にあって即応可能な実戦部隊を維持し発展させた政治手腕にこそ求められる。
 無論、電撃戦の歴史的意義の理解と可能性の認識、適切な時期の作戦発動、それに先んじる情報工作活動の成功、と軍事的才能は垣間見れる。また形骸化していた赤甲梢諜報部隊を再編し実動部隊に育て上げた点、さらには直接にゲイル騎兵を打倒する兎竜運用法の確立にも寄与した点を鑑みるに、極めて優れた能力を持っていたと言ってよいだろう。

 にも関わらず電撃戦という博打に手を出した為に、彼女の軍事的評価は低いものとならざるを得ない。
 だが更に悪いのは、彼女の成功が後に多数の模倣者を産んだ事にある。

 軍学者モッテケイが「ゲルタ包み」と呼んだとおりに、大小数十の失敗例が戦史に記録される。中でも有名なのが「青晶蜥神時代の四大敗北」とされる電撃戦だ。

 5042年 『カブトゥース』戦争、5328年 東金雷蜒王位継承戦争、5699年 ギジジット制圧作戦、5913年 カプタニア街道掌握戦。
 いずれも画期的な移動手段を開発し、その性能を利して予想を越える移動速度と甚大な破壊力で敵の防備を突き破る作戦だった。後にそれら移動手段は大いに活用され一時代を築いたから、彼らは早過ぎた挑戦者とも呼べるだろう。

 

 『カブトゥース(褐甲角神聖戴権)』戦争は、黒甲枝に聖蟲を授けるにあたり慣習に従って家長に自動的に相続させるのではなく、武徳王に忠誠を誓った者のみに限定する方針を打ち出した事に起因する。カンヴィタル宗家に神兵を統合し再度褐甲角王国を統一しようとするこの試みは、各方面から強い反発を受けた。
 特に、王家を擁せず黒甲枝のみで国を運営する黒甲枝諸侯国は聖蟲の自動的継承を根幹に置く体制であるので、強硬な態度を見せる。
 再統一派は事態の解決の為に旧ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンの孫アルタラを担ぎ出し黒甲枝諸侯国の王と為す事を画策し、ガモウヤヨイチャンから封土の証しとして与えられた「契約の神剣」を電撃戦により奪取する作戦を敢行した。

 用いられた移動手段は翼甲冑、まさに赤甲梢の前例を踏襲したものだがより高速性能を高めたものを利用する。さらに渓谷を渡る手段として綱を渡し滑車を用いる事でトロシャンテの禁域を常識外の速度で南下し、黒甲枝諸侯国の首都クワァンタンを陥れた。
 しかし陥落させたは良いが市を外部から囲まれて孤立し、元々援軍も無かった事からあえなく降伏する羽目になる。「契約の神剣」は確かに掌握したものの、黒甲枝に芽生えた独立心への理解が欠落しており、時代の趨勢を読み誤ったのだ。
 結局侵攻軍は赤甲梢の時と同様に、青晶蜥神救世主第三代 来ハヤハヤ・禾コミンテイタムの仲裁で救われる。
 歴史的には、各国同士の紛争を青晶蜥神救世主が裁定し和解させる枠組みが確立した戦争であった。

 

 東金雷蜒王位継承戦争は王位継承を巡り、西金雷蜒王国から新王を迎えようとする一派と反対勢力が激しく争った。10年も続く不毛な争いに業を煮やして、西金雷蜒王国の王子を直接ギジシップに上陸させ電撃的に即位させようと試みた。
 用いられた移動手段は船。来ハヤハヤ・禾コミンテイタムにより異国からもたらされた有用植物の一つ「木綿」の栽培が広まり、船帆にも用いられて風を受ける効率が大幅に向上し高速化が実現した。常に北を指し示す「羅針音儀」のおかげで陸地が見えない外海でも自在に航行が可能となり、通常の航路を大きく外れる隠密作戦が計画される。

 方台の外を大きく回って、誰にも悟られずにギジシップ島の「東」から直接に上陸する。
 だが作戦は事前に漏れていた。はるばる海を渡って現われた侵攻軍は待ち受ける迎撃船団の重囲の中心にあった。侵攻軍は全滅、王子は捕虜となり10年を牢獄で過ごす事となる。まったく外界との連絡を封じられた年月を過ごし、ようやくに解放された王子は何故かそのまま東金雷蜒王への即位を促され、ガッパーイネガを名乗る事になる。
 数年後、金雷蜒神の聖蟲の繁殖はギジジット神聖央国に移譲され、20年の争いはまったくの無駄に終った。

 

 そのギジジット央国を制圧し、金雷蜒神の聖蟲を根絶やしにせんと企てたのがギジジット制圧作戦だ。青晶蜥神時代後期の入り口にあたるこの時期、聖蟲の数が目に見えて減少し、神の支配のくびきから離れ人間が自立して方台を支配すべきとの思想が広まった。その最右翼となる「理性方台解放軍」はガンガランガ、ミンドレアを拠点として独自の国家を立ち上げ、周辺国家と盛んに衝突を繰り返す。
 彼らが状況の一挙打開の手段として考えたのが、聖蟲の繁殖を断絶させて一気に減らそうとする「ギジジット制圧作戦」だ。

 この時期既に火銃と爆弾が実用化されている。火薬を巻き込んだ紙を軸とするマッチを点火器に用いる「燐軸銃」は極めて信頼性が高い武器でたちまち戦場を席捲し、旧来の武器を駆逐していった。爆弾は旧い城砦建築に致命的な損傷を与え、既存の防備を無力化する。
 また聖山大洞窟を通じての外界との交流によりもたらされた「去勢」の技術で、草原の野獣「荒猪」が家畜として利用可能となる。これに牽引させる荒猪車は画期的な陸上移動手段であり、その高速性と輸送力は電撃戦の成功を確信させて余り有るものだった。

 新兵器の威力はすさまじく、たちまちギジジットは中心都城への肉薄を許してしまう。しかしギジジットを囲む円形の城壁は通常の建築物ではなく破壊が極めて困難で、これに戸惑い時間を浪費する間に、北から青晶蜥神聖傭兵団の援軍が到着し、背後からの攻撃を受ける。
 この時も火銃は絶大な威力を発揮して、聖戴者を主体とする神聖傭兵団に多大な損害を与えたものの、装填に要する時間が弱点となり隙を衝かれて陣形が潰滅する。敗走する「理性方台解放軍」はこの機に乗じた周辺国の一斉攻撃を受けて滅亡する。

 歴史上この戦は、聖蟲を戴く者が組織的に参加した最後の戦争と記憶される。火銃と荒猪車の威力は十分に理解され、方台各国はこぞって配備を急ぎ軍事力の近代化が急速に進む。平民が火銃を操る軍勢が主力となり、聖戴者は実戦の場から姿を消し宗教勢力としてのみ影響を行使する事となる。
 「理性方台解放軍」はその試みこそ失敗したものの、結果として目的を果たしたと言えるだろう。

 

 青晶蜥神時代最後の電撃戦は、砲火の応酬の中に潰えた。

 既に聖蟲の存在は矮小化して方台の主役の座を下り、人間が自らを統治する国家同士が互いに覇権を巡って争い、勢力を拡大していく。
 その中で最後まで残っていた神権国家「カプタニア武徳王国」はカプタニア街道を占有し、方台東西を繋ぐ要路として繁栄を続けていた。
 これを征服しカプタニア街道を掌中に納める事は、他に優越する絶対条件である。各国が互いに牽制する均衡の中で、電撃戦による解決を図った者が居た。

 ベイスラを拠点とする「ソグヴィタル民衆王国」の将軍メメロンの麾下にあった汽動車部隊指揮官エガレイオンが他国の準備が整う前にカプタニア城を一気に陥落させる電撃戦を提案する。
 汽動車とは当時最新鋭の人工動力車であり、ゲルタ魚油を用いる一種の焼玉エンジンを搭載する。荒猪車に比べて出力も速度も未だ十分な優越が無かったが、生物特有の様々な手間が掛らない為に事前の動員準備、作戦中の飼育と補給の重圧が軽減され、遅滞の無い計画遂行が可能となる。
 エガレイオンは他国の荒猪車隊の準備に要する時間の内に攻略作戦を終了させると豪語し、これを「瞬発戦」と名付ける。危惧するメメロンを押し切って意気軒昂に出陣した。

 汽動車は小口径ながらも榴弾砲を牽引しており、新型の触発弾を用いて破竹の快進撃を遂げる。旧式の火銃と砲のみ装備するカプタニア武徳王国軍をあっさりと打ち破り、遂にカプタニア城の城壁を冒す。爆弾や火砲での攻撃を考慮されていない古代様式の城は為す術も無く陥落するはずだった。
 エガレイオンは己の愚かさを嫌というほど思い知らされる。
 カプタニア城はアユ・サユル湖に面する。城自体は砲撃戦に対応出来ないが、湖上の軍船が代わって攻撃する。狭いカプタニア街道に密集する汽動車隊は、長射程の積載砲によって面白いまでに撃破された。エガレイオンは爆死し、生き残った者も焼き出された城東街の一般住民により私刑を受け虐殺された。メメロンは救援部隊を差し向けたものの間に合わず、これも砲撃により多大な損害を受け撤退する。

 メメロンは改めてカプタニア城攻略を行い、周辺国の妨害とカプタニア支援に苦しみながらも遂に政治決着を取りつけ、1年半後に城の放棄と褐甲角神武徳王の平和裏の撤退を得た。カプタニア街道を手中にした「ソグヴィタル民衆王国」は「南方台民衆王国」と名を替え勢力を拡大し、「北街道方台平民国」との直接対決に挑む事となる。

 

 いずれの電撃戦も軍事的には失敗しているものの、歴史的には特筆に値する結末で終っている。
 モッテケイはこれを、歴史の変わり目にあたって自らの存在を誇示する示威行動の一種、と強く戒めている。
 人間は時代の潮流を敏感に感じ取り、激変期にあっては流れに一歩抜きんでる非合理的な判断行動に傾く。冷徹な現実主義者であるべき軍人も誘惑に抗しきれず、電撃戦の如き賭博的作戦に走るのだと。

 では、電撃戦という愚挙を用いなければ、彼らは歴史の覇者になれたのだろうか? 確実な計算とそつの無い指揮の積み重ねが勝利への唯一の道なのだろうか。

 そうではない。それはあり得ない。
 戦争は外交の延長線上にある。外交はひっきょう内政の縮図として外に顕れる。国内における諸勢力の対立や民衆の欲求がそのままに漏れ出て来るものだ。
 人間が野蛮の尾を引きずる未完成の存在である限り、その総体たる国家の振る舞いが合理を冠する道理が無い。当事者であっても理解に苦しむ決断を、熱狂の内に承諾する事も稀ではない。そして、それら愚行は善きにつけ悪しきにつけ歴史を画定するのだ。

 我々は平時にこそ目を見張るべきだ。軍事力を使わない電撃戦が、そこで行われていないか?
 人の理性は信じるに足るものではない。彼らはいずれも、確実な勝算を手に戦場を駆けたのだから。

 

第十一章 巨いなる蟲の巣籠に眠る人は

 神聖宮に一番乗りで突入した赤甲梢の神兵は、待ち受ける二人のギィール神族の姿に戸惑い剣を下ろした。

 彼らは武装をせずまったくの平服、いや神族の印象として真っ先に挙げられる金銀を配した豪華な衣装ですらなく、神官が用いるに似た白のゆったりとした服を着ている。明らかに戦闘を考慮しない使者としての姿、加えて現在の方台において和平を乞うに最もふさわしいと思われるトカゲ神の図像を記した小旗まで持っている。

 その神兵は自らの権限を越えると判断して後方に連絡し、赤甲梢頭領シガハン・ルペと金翅幹家元老院出身のスーベラアハン基エトスが急いで駆けつけた。門の外では未だ重甲冑の戦士にゲイル騎兵との激烈な戦闘が繰り拡げられている。

 彼らが改めて名乗りを上げ使者の用件を尋ねると、神族は手にした木板を渡してこう言った。

「よくぞ参られた。そなたらの目的はすでに神聖王陛下もご了承たまわっている。これより後は木板に記された通りの順路を歩み、王の御前まで辿りつくが良い。」

 二人が確かめると、板には神聖宮内部の構造を記す図面が描かれており、通るべき道筋が示唆されている。これは王に対する背信、謀叛と看做すに値する驚くべき行為だ。
 神族の風習について詳しい基エトスもさすがにこれには面食らい真意を問いただそうとしたが、反応を当然に予想していた神族は補足説明を加える。

「貴公らが通るべき道は既に示した。それ以外の場所に立ち入った場合、我らも遠慮なく最大の手段を以って排除に当たる。この神聖宮には神聖金雷蜒王国より引き継ぐ数多の遺産、貴重な書物、芸術、器械、秘蹟が貯えられ世界に光を放っている。順路を外れそれらに触れる事は厳に慎んでもらいたい。」
「では貴方がたは神聖王の御身よりも、それらの品物の方が大切だとおっしゃるのですか。」
「左様、これは神聖王の思し召しでもある。金雷蜒神が君臨し支配した歴史の精華は、神聖王一身の安泰よりもはるかに重要な価値を持つ。貴公らに御物を損なう権利はまったく無いと心得られよ。」

「我らは赤甲梢総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサを奉じて神聖王の御前に参り、青晶蜥神救世主との和平会談に応じていただく為に説得に来た者です。ですが、事と次第によっては最悪の結末を迎えるのも十分に了解してもらわねばなりません。それでもなお、干渉しないと申されますか。」
「その時は、大審判と呼ばれる戦争が十年続くだけの話。激闘の果てにどちらの王国が地上に残るか、試してみるにやぶさかではない。」

 基エトスはルペの腕をがしと掴む。この使者が語る戦争の展望はギィール神族全てが共有するものだと、彼は知っていた。金雷蜒神を仰いだ二千年の総決算として、すべてを戦火に放り込み灰燼と帰しても良しとする風潮が神族の間には漂っている。永遠とも思われる倦怠よりその方が余程ましだ、との慨嘆が文書館に納められる膨大なギィール文学のそこかしこに刻み込まれていた。

 改めて木板の絵図を見ると、神聖宮の外宮と内宮だけが神兵の通り道と定められている。赤く塗られたその他の部所には兵の侵入を防ぐ障害も多数設置されていると、使者は告げる。

「我らをみくびってもらっては困る。神聖宮を棄てる覚悟があれば、百人の神兵といえども直ちに地上から消せるのだ。」
「・・・お約束いたします。この木板に記された場所以外は冒しません。ただし、定められた場所に足を踏み入れられた方には、女子供であろうとも生命の保障は出来かねます。」
「それでよい。遭遇する者はすべて兵と心得られよ。では最後の道行きを存分に楽しまれるがよい。」

 二人の神族は礼もせずに後ろに下がる。
 彼らの先には三つの階段があった。正面の大きな階段と、左右の少し幅の狭い階段。彼らは右を上って行き、頑丈な鉄扉の中に消えた。確かにこの扉を打ち砕くだけでもかなりの時間が必要だろう。

 シガハン・ルペは振り返り、後方を警戒していた神兵に門外の戦況を尋ねる。

「おおむね制圧しております。手空きの者を入れてようございますか。」
「ああ、静かに入ってここで隊列を整える。やみくもに宮殿内を駆け回らないと取決めたので、その説明をせねばならぬ。」

「何人やられた?」
「・・5人ほど。」

 基エトスの質問に神兵は苦渋の表情で答える。重甲冑の戦士とゲイル騎兵7体には、百の神兵を以ってしても骨身に凍みる打撃を与えられた。だが屋内での戦闘となればそれほど大規模な抵抗は叶わないだろう。もうひと踏んばりすれば、犠牲となった者も報われる。

「始めよう。」

 

 絵図が指し示す通りに正面の大階段を上った赤甲梢の先行小隊は、基エトス自身が指揮する。
 先程の神族との遭遇と同様の、高度な判断と金雷蜒王国ギィール神族に対する理解を必要とする場面が想定された為に、彼自らが申し出て先陣を務める。彼が率いるのは元の装甲神兵紫幟隊の10名だ。後続も10名ずつの小規模の単位で脅威を排除する。

 絵図に「饗宴の間」と記されている大広間に入った先行小隊は、空間全体を埋める無数の色に驚嘆の声を上げる。
 基エトスも戦場にあって戦を忘れ、眼前に展開する光景に魂を奪われた。

「これが、『饗宴の間』か!」

 それは方台全土に轟く至高の芸術、ギィール神族二千年に渡る文化活動の集大成にして最高峰と知られる絵画の名だ。
 文字どおり饗宴の有り様を写しているが実態が詳しく語られるのは稀で、褐甲角王国においては実在すら疑わしい幻の名画として知られている。

 だが実物を前にして、基エトスは誰もが口を開こうとしなかった理由を悟る。偉大過ぎる芸術は言語による表現を拒むのだ。

 『饗宴の間』は東金雷蜒王国神聖宮外宮「饗宴の間」の全体、壁や天井、床にまで施された屋内装飾群の総称である。モチーフは文字どおりの饗宴、完璧な遠近法を用いる写実的な技法で、数千人ものギィール神族が宴を楽しむ姿が生き生きと描かれている。広間全体を錯視により数十倍の広さに見せ掛け、壁の中に庭を作り噴水を設置し、まるで屋外に迷い出た感覚を与える。

 描かれた神族は男女共に黄金の縫取りが施された美麗な衣の裾を風に舞わせ、思い思いに興じている。
 仮面を着けた者、滑稽な帽子を被る者、甲冑に身を固め決闘をする姿も華やかな余興に思えてしまう。中には肌をさらし愛撫に及ぶ者さえ描かれているが不快や猥褻の情はなく、自然な営みの邪魔をする自らの視線をこそ罪とさえ感じる。
 咲き誇る花と豪華な料理、艶やかな衣装の美姫タコ巫女が山蛾の薄絹に隠れ金葉玉枝を手に踊る。妖艶なカエル巫女が神酒の盃を捧げて謹厳な狗番を誘惑する。
 数百人ものタコ神官の奏でる荘厳な楽の音に、蝉蛾巫女が歌う声すら聞こえて来ると思わせた。

 彼らがほんとうには動いていないと知ると、神兵の心には落胆やむしろ怒りが込み上げて来る。なぜこの場所に自分はいないのか、そんな理不尽が知らずに人を苛立たせるのだ。

 単に壁画というだけではない。壁や柱には彫刻や浮き彫りも壁画に劣らぬ精緻さで人体を象り彩色が施され、平坦な絵画の印象を覆し立体の驚異へと誘う。異様な比率で縮小された塑像は天井の高さを天空の高見と間違えさせ、無限に続く階段に遊ぶ少女達が足を踏み外して落ちて来ないか心配させる。
 また人形も数多く立っていた。いずれ劣らぬ端正な顔立ちの少年少女の像はただの木や石の固まりではなく、内部にカラクリが埋め込まれ生きた人間と思わせる微妙な動きを作り出している。瞬きする彼女に神兵は一々剣を構え直し、また下ろすを繰り返した。

「基エトスさま・・・。」

 神兵は誰もが不安な表情を隠さない。基エトスは万一を考えて彼らに面を外す事を命じた。このような幻惑に満ちた空間にあっては、視界を制限する防具は用いてはならない。ましてここは敵地の、しかも心臓部だ、無数の人物像の中にいかなるカラクリの武器が、あるいは人形に化けた人間が潜んでいるか知れたものではない。

 続いて入る第2隊も、広間の絢爛さに圧倒されただ天井を見回した。階段や張出が幾つも設置してあり、彼らをいくらでも射撃できるのだが未だ敵意はどこに無い。

「基エトス!」

 第3隊として入るシガハン・ルペもあまりに予想外の光景に思わず案内を求めた。

「基エトス、これはなんだ?!」
「これこそが世に名高き究極の絵画『饗宴の間』だ。ギィール神族はこれの完成をもって写実的表現技法の追求を終え、以後褐甲角神兵が描く色彩の乏しい、だが精神性に溢れた武人画へと興味を移していく事になる・・・。」

「つまりこれは、宝物なのだな?」
「私なら、この広間一つとカプタニアの王城市街を取り替えても惜しくない!」
「うううむ。」

 ふと違和感を覚えて顔を上げると、無数の人物像の幾つかが動いている。いや、生きた人が混ざっていた。
 描かれている饗宴の客とほぼ同じ扮装の黄金の装身具に身を包んだギィール神族が数名、広間奥の階段の一つからどやどやと隠す様子も無く入って来る。まるで宴の余興に一差舞うかと言わんばかりに無造作な、あるいは無謀な登場だ。

 武器は携えている。また彼らの後ろには銀の装身具で彩られた、やはり戦闘にはまるで不向きな服装で「なりそこない」が数名続く。彼らは神族の家に生まれながらも聖蟲を授かる試練をこなせず聖戴出来なかった者だ。霊薬エリクソーを服用して育っているので神族と同じに2メートルの優美な肉体を持つ。
 これもまた思い思いの武器を手に肩に持ち、いかにも武芸のたしなみ尋常ならぬを嫌味なまでに誇示している。ゲジゲジの聖蟲が与える射撃管制能力こそ無いものの、近接白兵戦闘に関しては戦闘力で神族に退けを取らない。

 彼らはどう見ても廷臣として神聖王に忠誠を誓うようには思えない。名門裕福な貴族の放蕩無頼の若様方が徒党を組んで遊興に励んでいる、そんな風情がうかがえた。格好は良いが真面目に戦う気が有るとは、謹厳実直な褐甲角軍の兵には思えない。おそらくは最後の迎撃に出て来たのだろうが、身体を張って阻止するつもりがあるのか?

 展開が読めず戸惑う神兵を指差して彼らはなにやら大声で語り、げらげらと笑う。ギィ聖符を独自の音で読んだギィ聖音と呼ばれる特殊な言語なので、なにを話しているのか分からない。

 シガハン・ルペはこんな時には彼に頼るしかない基エトスを小突いた。

「なんと言った?」
「・・いや、私もギィ聖音は不案内なのだが、『フンコロガシ共が長旅で疲れてないと良いな』とかを、もう少し雅な調子で言ったと思う。」

「遠慮は要らぬ、という訳だ。」

 気を取り直し戦闘モードに感覚を全開すると、カブトムシの聖蟲により増幅された五感が改めて大広間に仕組まれた脅威を教える。先程まではなにも感じなかったのが、神族の入室と共にあちらこちらと兵が忍んでいる気配が増えて行く。
 神兵達も戦闘となれば輝く色に惑わされず、むしろやるべき事が明確になったと喜んで大剣を構える。ここが最後の正念場、この広間を抜ければ神聖王の居る内宮は目の前だ。

 無理無意味かもしれないが念の為、いや個人的願望を込めて基エトスは味方に叫ぶ。

「なるべく! なるべく壁画や人形を破壊するな! なるべく、頼むから!!」

 

 神族と神裔戦士(「なりそこない」の宮廷人は、正式には「神裔」と呼称する)の入場で、「饗宴の間」は一気にその装いを換えた。
 ギィール神族の宴とは本来暴力沙汰や決闘が茶飯事として行われる。暗殺の格好の舞台でもあり、平服や正装にさえも我が身を守る隠し武器を忍ばせている。つまりは、戦闘こそが真の饗宴なのだ。

 赤甲梢・紋章旗団の神兵達は基エトスの頼みを入れて極力室内を荒さぬように注意して戦った。また、不用意に触ると吹き矢や鈎が飛び出しかねないので、容易に壁には近寄れない。浮き彫りの人型や人形は見たままにどれも怪しげな細工が施され、潜んだ兵士の操作で牙を剥く。

 シガハン・ルペは味方の戦い方を見て、こう命じた。

「大剣ではなく、短刀や拳で対処せよ!」

 黄金の武器をかざして襲い来る神族や神裔戦士は、どれも褐甲角の神兵が大剣を用いて戦うのを前提に作戦を組み立てている。縄や鎖で搦め取り、壁の隅に密かに置かれていた鉄の錘に繋ぎとめ、長柄の武器でとどめを刺す。態度はふざけている風に見えるが、その実勝ちを決して諦めてはいない。

 神兵はすでに大剣を使うのを諦めて、身幅の厚い神兵専用短刀や、後生大事に持って来た私物の武器を用いて戦った。兎竜の背で移動する前提であったから重量物は増やせないのだが、誰もが無理をして持って来た。赤甲梢の神兵にはそれぞれ得意の武器があり、敵中枢部に攻め込むにあたり命綱とそれらに頼るのは止められない人情だ。

 神裔戦士が振り回す、分銅が鎖で繋がる長棍の攻撃を左手で弾いて、基エトスは広間の出口を探す。もらった絵図に順路が描かれているとはいえ、障害が設けられ弩で狙っているなどなかなか素直には進めない。稀代の芸術をなるべく破壊しないと心掛ければ、慎重に歩を進めざるを得ない。

「あ、貴様それは!」

 神兵の一人が弾みで処女の像をしこたまぶん殴ったのに、彼の血圧は跳ね上がる。無彩色で鉄の色をそのままに留める鋳造品だが、その肌は丁寧に磨き抜かれ鈍く周囲の情景を映し取っている。

「! あ、だいじょうぶです。壊れませんでした!」

 晴れやかに答える神兵に腸が煮えくり返る思いがする。だがこの鉄の処女はバリケードとして並んでいるのだ。壊さないまでも横にどけねば隊を進められない。

 穂先が「?」字になった槍を振るう神族が、その神兵を突き倒して喚く。ギィ聖音の台詞に基エトスは暗澹たる思いを強くする。まさかとは思っていたが、順路の真ん中に方台最高の芸術を配しておくほどだ。ギジシップのギィール神族はこれにいくばくの尊敬も払っていない!

「⊥∩凵諱}〜☆§☆♂!(壁画の皿の上に、おまえたちの生首を描いてやろう。)」

 アウンサの本隊が広間に入場したのを機に、シガハン・ルペと基エトスはそれぞれの小隊を連れて先に進む。王族のアウンサならば芸術品の価値が判るだろうと一応の安心感を持って扉をくぐったのだが、彼女の次の言葉を聞かなかったのは基エトス最大の幸福だろう。

「得体の知れない人形はかたっぱしから潰してしまえ。どうせ持って帰れる物じゃない、遠慮は要らぬ!」

 

 広間を抜けた二つの小隊は、曲がりくねる廊下を通り内宮を目指す。
 ごく普通の石造りの廊下にも様々な防御設備が設えているが、実効性は乏しい。隠された矢狭はまだ常識的で対処も易く、壁裏に隠れる兵の息づかいまで感じ取れる。
 だが落とし穴という子供染みた罠はどうだろうか。四角の敷き石がかぱっと外れて足をすくい、30センチの深さで脛を挫かせるなどは、人をバカにしている。
 横から機械仕掛けで突き出す青銅の杭も、まともに当たった神兵がそのまま押し返してしまった。翼甲冑の脇腹が少しへこんだだけで、カラクリは壁から引き剥がされてしまう。

 金属の桶が勝手に転がり走って来る。中にイノコ(食用狸)が詰められており、これを動力として自走する。横に突き出した刃が脚を切り裂くのだが、真っ正面から蹴飛ばされて遠くに行ってしまった。
 代わって、今度は大型のタライが転げて来る。動力は人間。かなりの重量があったが、横から蹴倒すとそのまま動けず中の奴隷が哀しげにうめいた。

「・・・宴会の余興、だな。」
「おもしろいな。」

 3人掛りで押す器械兵が登場する。手押し車の上に甲冑の上部が置かれ、腕には槍が括りつけられていた。後ろから押される力で槍が旋転して敵を抉る、左右にも回転する刀が付いていて少し始末が厄介だ。神兵が背に負った大剣を再び抜き、がぱんと大振りで叩くと車輪の一つが断ち割られて擱坐する。奴隷は一目散に逃げ散った。

「うわあ!」
「どうした。」
「落とし穴です。中にカエルが住んでいて粘ります!」
「単純な仕掛けが一番効果があるな。」

 偽の扉に引っ掛かり吊り天井が落ちて来て、投網を被り鎖分銅を弾き返し、獣脂に足を滑らせ、連射弩に射すくめられる。
 足元にコロが並んで滑ったり、鏡の裏が抜け道だったり、天井に兵が逆さに吊るして居たりと、ありとあらゆる仕掛けが施されているが神兵に対してはまるで効果が無い。

 最後にはゲジゲジ巫女が大挙して箒で攻撃して来た。
 金箔の頭飾りの半裸の美女の群れを傷付けぬように慎重に進み、階段を上り、ようやく開けた場所に出た。

 

 そこは巨大な円筒の中央部、吹き抜けの下だった。知る人であれば神聖首都ギジジットの王宮縦穴にそっくりだと言っただろう。高く聳える壁に沿って足場が作られ、桟敷の席が何列も設けられ積み上がっている。それらからの視線が交わる焦点が、神聖王の住まいする内宮だ。
 内宮は、華麗な装飾で誤魔化しているが非常に堅牢な鉄柵で円形に囲われている。すぐ内は堀となり、青く清んだ水に蓮の花が浮かぶ庭園を為し、その中心部に小振りな円形の楼閣が建っている。
 白い華奢な石造りの丸橋が一本だけ外宮と繋がる。その上に緑の服を着たカタツムリ巫女が一人、手招きをして神兵を誘っていた。鉄柵は、橋の入り口の部分だけ開かれている。

 一見するとまったくの無防備でカタツムリ巫女は案内をしていると見えるが、こう開けた場所では矢を防ぎきれない。姿を見せるのは彼女だけだが、周囲の柱や壁、上の階から見下ろす踊り場に兵が伏せている気配が濃厚に漂う。さすがに強弩で集中射撃をされれば、翼甲冑でもひとたまりも無い。

 だが進まねば道は開けない。
 シガハン・ルペが一人前に出て、通る声で尋ねる。

「御使者の方か?」
「よくお出でになりました。代表者の方、そうですね、赤甲梢頭領シガハン・ルペ大剣令と、金翅幹家出身のスーベラアハン基エトス大剣令のお二方のみ、こちらにお進み下さい。」

 二人は顔を見合わせ観念して出て行った。いくらゲジゲジの聖蟲が遠くの物事を見通すとしても、名前までは分からない。カタツムリ巫女が彼らの名前を呼んだのは、赤甲梢が東金雷蜒領に入る前から入念な調査がしてあった証拠だ。

 女の狗番である鳥の面を被った「喙番」が乳房も露に両脇に控えるのを見ながら、橋を渡る。二人が通るとすぐに彼女達は鉄柵の門を閉め、後続の道を塞ぐ。同時に隠れていた兵が姿を見せ、残る神兵に襲いかかる。

「御心配なさらなくともよろしゅうございます。どうせ、褐甲角(クワアット)神の聖蟲を持つ方にはかないません。」

 30代初めのカタツムリ巫女は清しい笑顔を見せる。彼女達は本来緑隆蝸(ワグルクー)神に仕え、副業として侍女をやっているので、金雷蜒褐甲角両王国にとって中立の立場となる。まずは信頼出来る使者だ。

「申し遅れました。頭之侍女フェリアクアと申します。神聖王陛下の身の回りのお世話を司っております。」
「では、神聖王はこちらにまだ御留まりになっておられるのですね。」
「はい。ですが、」

 彼女は長い睫毛を少し伏せると、歩を止めて二人に向き直り、話した。

「貴方がたは陛下に和議と青晶蜥神救世主様との会談をお勧めにお出でになられたのですね。」
「はい。」
「ですが、こちらの事情はかなり複雑なのです。恐らくは、貴方がたの想像とはかなり異なる展開になると思われます。」

「我らが和議を勧めに来ると、御存知なのですね。」
「はい。神聖宮に勤める者は2ヶ月も前から貴方がたの到来を待って居ました。」

 この言葉にはさすがに二人も驚く。特に諜報を任されてきた基エトスには衝撃だ。どこからも漏れなかった証拠に、電撃戦は現にこのように成功している。にも関らず神聖宮に勤める彼女がそれを知っている?

「ごらんください。」
 と白い端正な指先が示すのは、内宮を高く取り囲む円形の壁だ。外から見ると鏡面だが、内部からは木製の構造部がかなり露出して見え、その下には観客席とも呼べる横に長い段が何層も、何段も連なっている。
 基エトスは尋ねる。もしかするとこの壁の真の目的は褐甲角王国の者には明かさないのかもしれない、と思っていただけに勢い込む。

「この壁はいかなる目的で、どのような手段でお造りなったのでしょうか。お教え願いますか。」
「見た目には派手ですが、造り方は意外と単純なのですよ。ゲジゲジの聖蟲が蜘蛛の真似をして、タコ樹脂の糸を絡げていくのです。材料は銀タコ石という半透明の柔らかい魚の卵のようなもので、赤いタコ石を取る時にその周囲に詰っていると聞きます。薬品で処理すると糊みたいに溶けて糸を引き、聖蟲の幼生の餌となります。聖蟲はこれをオモチャとしても用いて遊び、壁に糸を張ってあのようにつるつるの面にしてしまうのです。」

「では壁に特に目的は無い、と。」
「そうではありません。目的はちゃんと有りますが、これほど大きくする必要は無いのです。」

「その目的とは。」
「あ、そろそろ時間ですね。ちょうど良い時にいらっしゃいました。」

 彼女の言葉が終らぬ内に、空気の揺らぎを感じる。高さ70メートルの円筒の空間がそっくり揺らぎ、中心の内宮の上空に力が集中する気配がする。

「ルペ、あれを。」
「光が、いや、人の、像?」

 壁に遮られる影の暗さと、覗き見える蒼い明るい空の狭間で、光が宙に像を結ぶ。白い衣をまとった女人かと思われた。
 驚くべき神秘、だがカタツムリ巫女はまったく動じない。鉄柵の周りで戦う神兵達も皆声を上げるが、神聖宮の兵には動揺は無い。

「・・・この壁は器です。金雷蜒(ギィール)神の地上における御姿、巨大で長大な体節の御身体が在られる神聖首都ギジジットから空間を越えて御力を分けていただく、その器なのです。」
「おお、ではギジシップはギジジットと同じ機能を持つ、という事ですか。」
「はい。この力が集まるからこそ聖蟲の繁殖が成り立ちます。単に御力だけでなく、お知恵とお告げも頂いております。それがこの光の像です。」

 空中の女人の姿はかなりはっきりしてきた。淡い色の長い髪の持ち主で、あくまでも高潔という表情を見せる。手にはあまり見ない型の薙刀を持ち、何者かと争っていると思われる。その相手とは。

 基エトスは空中の隅のよく映っていない領域を指す。

「これはガモウヤヨイチャンだ。青い光をまとっているから、間違い無いだろう。」
「救世主と戦う者が居る、という光景か。」
「これは予言です。」

 カタツムリ巫女の言葉に二人は振り向く。彼女は手品の種明かしをする歳上のおねえさん、という感じで微笑む。

「正確に言うと、この光景は天河の十二神が御定めになられた救世の計画の予告です。近い内に方台のどこかで、これと同じ事件が起きるのです。」
「では我らがギジシップ島に上陸し神聖宮を冒すのも、このように映っていたのですか。」
「はい。それは天の導きによるものです。故に我らはギジシップに神族を寄せ付けず、わずかな防備で貴方がたを試させていただきました。」

「それで和議を求めに来たと御存知なのですね。」

 シガハン・ルペは自分達の行動が神によって定められていたと知り、感動に震えた。
 だが基エトスは別の感想を抱く。自らの立場には反するが、問い質さねば納得いかなかった。

「失礼だが、天に示されたからとはいえ、それを素直に受入れねばならない道理は無いでしょう。」
「基エトス!」

「いえ、その御疑念はもっともです。ですが、神聖宮に住まう者は誰も不思議に思いません。何故ならば、貴方がたの前に映っていた姿は。」

 ここで初めて表情を暗くし口を閉ざす彼女に、二人は気持ちを入れ変え緊張に背筋を正して待つ。やがて、再び花が開く笑みを戻し、カタツムリ巫女は話し出した。

「貴方がたは、ガモウヤヨイチャン様がギジジットで為された聖行を御存知ですか?」
「はい、一応は聞いております。なんでも、巨大な金雷蜒神の地上での化身を、・・・退治した、と。」

「恐るべき光景が何度も何度も、この内宮の頭上で繰り広げられたのです。神の滅びる姿を目の当たりにして、感受性に優れたゲジゲジ巫女が何人も発狂しました。神族廷臣の方々も強い衝撃を受けられて、神の御計画に関与する事を御控えになられました。そして陛下は。」

 頭上の光を見上げる二人の神兵は、ガモウヤヨイチャンこそが真に恐るべき存在であると改めて知る。彼女は今も、光の像と化して戦っている。

「ルペ、我らは今少し、青晶蜥神救世主を警戒すべきだったかも知れないな。」
「今更だが、そうだな。」

「こちらへ。」

 再び歩み出すカタツムリ巫女に促され、二人は白い橋を渡って行く。

 

 内宮の楼閣に上がった二人の神兵は、当然のように護衛兵に武装解除を求められる。カタツムリ巫女フェリアクアの口添えで武器だけを預けるように緩和されたが、翼甲冑の足に生えている爪が石の床を引っ掻いて音を立てるのが嫌われ、結局二人とも宮殿側が用意した衣装に着替えさせられた。
 代りに普通の剣が仮に与えられる。形だけのもので刀身は軟鋼製だが、拵えは聖蟲を戴く者にふさわしい繊細な黄金の飾りが施されている。

「声を立てるのはなるべく御控え下さい。」
 あらかじめ注意されて、二人は謁見に臨む。だが案に相違してそれなりの広間には通されず、寝所のある区画に進む。
 左右に暗い顔をして控えるゲジゲジ巫女や侍女の姿に事態を呑み込めないまま、扉付近に数名の臣がたむろする部屋の前に立つ。

 フェリアクアが中の責任者に赤甲梢の到来を告げると、女の声で許しが出て、二人は入室する。
 聖蟲を持たない臣達は皆、二人に戸惑う視線を向ける。ギジシップ島のみならず金雷蜒王国においては、聖蟲を持つ者は特別な存在として極めて高く崇められる。カブトムシの聖蟲を持つ者にどれだけの敬意を払うべきか計りかねている、といったところだ。

「よくぞ参られた。そなたらが赤甲梢の責任者か。」

 かなり年配の女性が二人の前に立ち応対する。名乗りを上げないのは、彼女が他に類の無い高い身分にあるからだ。フェリアクアが背後から説明する。

「ガトファンバル崇王姉さまでいらっしゃいます。」

 ガトファンバル神聖王の王姉妹、ギジメトイスの娘の筆頭にあげられる女性だ。現在の内宮運営の全てが彼女の支配下にある。冠状に結われた薄紅色の髪の中央に座す黄金のゲジゲジが、輝く赤い目で周囲を睥睨した。
 二人の赤甲梢は王族に対する礼を示し、床に跪いて頭を垂れる。褐甲角王国の序列で言えば、彼女はアウンサよりもはるか上、カンヴィタル神聖宮の武徳王の妃に相当する。最敬礼を捧げてしかるべきだ。

 シガハン・ルペが彼女に答える。

「我らは赤甲梢総裁代理キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女に従いて、ガトファンバル神聖王陛下に和平と我らが主、武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァク陛下と青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様との三者を交えた会談をお勧めに来た者でございます。決して神聖宮を滅ぼしに参ったのではございません。」
「分かっている。だが聖上(神聖王)への目通りは叶わぬ。」

「やはり、しばしの間神聖宮内での停戦をお命じになり、我らが総裁がこの場に参る便宜をおはからいください。」
「そうではない。だが焔アウンサ王女はただちにお招きしよう。」

 彼女の指示に従い、臣の一人が部屋を退出してアウンサを呼びに行った。察するに聖蟲を持たない者の最高位である宰相だろう。赤甲梢の神兵に対するにはカタツムリ巫女で済むが、王族を案内するにはそれなりの官位が必要らしい。

 王姉妹が顔を背け、カタツムリ巫女に促され二人は立ち上がる。そのまま白い薄布の帳を潜り、奥の部屋へと案内される。入り口のすぐ傍で足留めされたが、中の様子は十分窺えた。

 明るい室内の正面に寝台が据え付けられ、左の傍らに一人の神族の男性が立っている。白いゆったりとした裾の長い服を着て、寝台に臥す人を見下ろしていた。右の椅子には若い女性が座り、右手で腫れた目を押さえている。
 寝台の手前には壁に沿って狗の仮面を着けた男達が並んで座る。10人以上居て皆身動き一つしないが、彼らの沈痛な思いが背に肩に見て取れた。10歳ほどの二人の少年も末席に座る。

 息をするのもはばかられる沈んだ空気に、シガハン・ルペは気付いた。フェリアクアに目で合図して、部屋を下がる。

「どなたか、病の床に就いておられるのですね。」

 先程の控えの間に戻って小声で尋ねる。フェリアクアが答えようとする口の端をさらって、王姉妹が答える。

「聖上であられる。」
「しかし、ガトファンバル神聖王陛下は左に立つ御方ではないのですか? 臥して居られたのはまだ幼い王子、とお見受けしました。」

 基エトスの問いに言葉は無く、だが王姉妹のまっすぐな瞳で答えられた。

「ガトファンバル神聖王の治世はまだ5年と承知していましたが、」
「ルペ、どうやらガトファンバルの御代は最初からあの御方一人だったらしい。」

 神聖王の王位継承にはよくこういう事が起きる。

 金雷蜒王国の慣習では、神聖王位は一つの世代の王子全員が一つの名前を称して継承する。年長から順に王位に就き、すべて死に絶えるまで同じ名を受継ぐ。神聖王一代とは幾人もの王を通しての治世なのだ。
 故に一代の治世は通常50年、長い時には80年にも及ぶ。

 次代の継承は、それら複数の王がもうけた男子が分け隔てなく権利を持つ。だが長い治世は王子達に待機の試練を与える。最初に即位した王子のひ孫が生まれる頃に、まだ最後の王子が王位に就いていない事もある。
 待つのに飽きた者は、ウラタンギジトの神祭王を務め、あるいは野に下り普通の神族として、はなはだしきは褐甲角王国に亡命して運命から逃れようとする。
 それでもなお王の治世が続けば、王子達も歳を取り死んで行く。長命の王が続いた場合、次代の継承者が死に絶える事態も発生する。

 先々代のゴバラバウト王の時代に同様の継承が成った。長命の王が晩年にもうけた王子にギジメトイスの王位が継がれ、彼以前のギジメトイスの王子が皆死に絶えたのだ。残ったのは最後の王の子のみ。ウラタンギジトで神祭王を務め王位継承から逃れた弐数兄と、死ぬ直前に妊娠させ誕生を見なかった王子の二人だ。ギジメトイス弐数兄は何人もの弟を幼くして亡くし、「三数兄」の名を持つ者は5人を数えた。

 

 王姉妹も冷徹なギィール神族の一人だ。非情の言を顔色一つ変えずに告げる。代りにフェリアクアが暗い表情を見せる。

「ガトファンバル神聖王の御代は、残り一刻も続かぬであろう。」
「・・・それほどに深刻な事態になのですか? トカゲ神官の見立ては?」
「金雷蜒の聖蟲の眼は、奴らの虫食い穴よりよほど正確に知る。」

 二人の赤甲梢はひそひそと話し合い、申し出る。

「失礼ながら申し上げます。もしも尋常の病によるものであれば、青晶蜥(チューラウ)神救世主の御力にすがれば御命取り留める事もありましょう。幸いにして我らが総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女は、青晶蜥神の地上の御姿であられる聖蟲の尾を持参しておられます、ガモウヤヨイチャン御自らが切り離しになられ総裁に御与えになった、人を癒す強い力を持つ奇蹟の神宝でございます。」

 シガハン・ルペの声はさほど大きくなかったが帳を越えて寝室の中にまで届き、寝台の右に座る女人が反射的に顔をこちらに向ける。おそらくは、この人がガトファンバル神聖王の母、王母なのだろう。悲しみに表情が歪んでいるが端正な頬の曲線が美しく、二十歳をわずかに越えたほどと見受けられた。

「そのようなもの、ギジジットにも貯えておる。あえてそなたらの助けは借りぬ。」

 左に立つ白い衣の男性神族が、顔の向きを病床の幼子に留めたまま穏やかに、しかし断固たる口調で拒絶する。

 二人の赤甲梢にもその理屈は分かる。
 額に聖蟲を戴く者は、それぞれの神の僕である。たとえ病や傷で苦しむとはいえ他神の力に易々と頼るのは、己の仕える神への背信行為だとする道理もある。赤甲梢は一代限りの仮の聖蟲を戴くだけだが、黒甲枝で信仰篤い志操堅固な者ならば、瀕死の重傷であっても青晶蜥神の治癒を拒むだろう。

 電撃戦の、それもギジシップ島上陸後の激闘で赤甲梢・紋章旗団が素直に青い光を受けたのは、ボウダン街道にて弥生ちゃんと遭遇した際に神威による痛撃を受け、部隊まるごと屈伏したからだ。対抗する気をすっかり失い継戦能力の維持の為治癒の光を受入れた、それも彼女の遠大なる計画の一環だとしたら。

 基エトスはそこまで考えて、やめた。アウンサが語る弥生ちゃん像とかなり食い違うからだ。
 ガモウヤヨイチャンは確かに深謀遠慮の人であり、方台の者には見通せぬ千年先の世界の姿までも知り布石を着実に打っている。反面行き当りばったりに近い思い込みに基づく行動も多い。後に考えるとそれには何かしら深い意味があった事に自分で気付いてびっくりする、そういう人らしい。

 戸口からゲジゲジ巫女が入って来て、居並ぶ臣の一人に耳打ちする。彼は腰を曲げて王姉妹に告げた。

「赤甲梢の総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサ王女がお出でになりました。」
「案内するがよい。」

 しばらく経って、こちらも目の醒める美しい衣装に着替えたアウンサ王女と輔衛視チュダルム彩ルダムが姿を見せた。アウンサは王家の女人にふさわしい裾の拡がる赤い山蛾の絹衣、彩ルダムには女人ながらも武で仕えるのに適した、華麗でかつ動きやすい薄桃色の衣。二人とも褐甲角王国から持参した剣をそのまま許されて左の腰に吊っている。

 ガトファンバル崇王姉の許しを得て、基エトスはアウンサの耳元でこれまでの経緯を説明する。王女も首肯き、拒絶されるのを承知で懐からカプタの筐を取り出した。

 居並ぶ人に注意して粗末な木の筐の蓋をあけると、部屋全体を真っ青に染め上げる強烈な光が迸る。あまりの光の強さに皆腕で顔を覆った。
 ひとしきり神威を示して再び蓋を閉じたアウンサに、王姉妹は言う。

「なるほど、この尻尾の力があればあるいは聖上も命長らえるかもしれぬ。ではこちらも見せよう。」

 合図と共に寝室の隣の部屋の扉が開き、2名の屈強な神官戦士に守られて学者姿の神族が姿を現わした。巨大な剣を両手でまっすぐ正面に立てながら入室する。
 剣は長さが160センチ、幅が広過ぎて実用には向かず儀礼用と思われる。全体に鍍金が施され黄金の艶の上にギィ聖符が幾つも刻まれている。そして、これもまた周囲を圧する青い光を放つ。

 剣を奉げ持つギィール神族の学者スーベナハ胤ゲナァハンが説明する。

「この剣は、神聖首都ギジジットにてガモウヤヨイチャンが当地の王姉妹様がたと和解された証しに、新たに鋳造したものだ。青晶蜥(チューラウ)神の神威を込めて、当時東金雷蜒王国を巡回中だった救世主名代トカゲ巫女ッイルベスに贈られた。ッイルベスはこれを神聖宮に奉納し、付き添った私が以来預からせて頂いている。」

 アウンサの手の中の筐がぶるぶると震え出し、何事かと蓋を開けてみると、トカゲの尻尾が飛び出して宙を舞い、黄金の剣に触れる。
 ひときわ明るい光に眼が眩み、視界が戻った時にはそれは終っていた。剣と尻尾とが融合し、新たな姿を見せている。ゆるやかな尻尾の曲りに沿って剣が波打ち、金の刃の反射と青い鱗の光とが混ざり合う複雑な波紋を室内に投げかけた。

「これが! ガモウヤヨイチャンが言っていた、既に打ってある布石か。」

 アウンサは改めて、この剣の力で幼い神聖王を救うべきだと説得する。だが、左に立つ神族の男性はこう述べた。

「ありがたい。トカゲ神の御力にて、聖上も苦しまずに天河に旅立てる。」

 右の王母が寝台に顔を寄せ愛児の様子をうかがい、すがりつき、トカゲ神官が寄って容態を確かめる。何人もの神官が枕元に集まり協議して黒衣のコウモリ神官を呼ぶ。
 黒冥蝠(バンボ)、死者の道行きを守護する神の使徒は最後にガトファンバル神聖王に触れ、頭を垂れて後ろに下がり、室内の人に告げる。

「天河十二神のお招きを受けました。」

 同時に寝室の脇に並んで座る狗番達が短刀を抜いて自らの頚動脈をかき切り、次々に伏せて行く。殉死は狗番にのみ許された特権だ。ガトファンバルの名を継ぐべき王子達それぞれの狗番が、主の御代となるはずだった時代を見定めて天河に帰る。二人の少年、幼い神聖王の狗番と定まっていた、も大人の手を借りて共に旅立つ。

 ガトファンバル神聖王の枕元には、ゲジゲジが一匹佇んで居た。未だ聖戴に至らない王の為に用意された聖蟲で、彼の良き遊び相手となっていた。聖蟲は寂しそうに跳ねて寝台を越え床に下り、赤甲梢の姿を不思議そうに見つめる。やがて黄金の剣に飛びつきこれもまた融合した。剣の地肌に11対のギィールの肢も描き出される。

 

 寝台の脇に立ち続けて居た神族の男性は、初めて部屋の中程に進み出て、生きる者すべてに語る。
 群臣も聖蟲を戴く者も、王姉妹でさえも跪き彼に頭を下げる。褐甲角の聖蟲を持つ者にはただちには様子が呑み込めず、取り残されて立ち尽くす。

「これにて東金雷蜒王国と褐甲角王国との和議は整った。供はゲイル騎兵100に重装兵1000、奴隷が2000となり、褐甲角王国領内の通行と駐留を許される。メグリアル王女、この条件を受けるか。」
「・・・陛下の御意のとおりに。」

 アウンサが改めて跪く相手こそ、ギジメトイスの孫の代から選ばれた新たなる神聖王ゲバチューラウであった。

 

第十二章 毒殺鬼アルエルシィ

 

 『真実の救世主の書』を手に入れたトゥマル・アルエルシィは世界の半分が分かる気になった。

 要するに十二神方台系には、神の支配を良しとしない思想集団が脈々と歴史の暗部に生きて来た。督促派行徒はその最新の姿に過ぎない。
 神の力に頼らずに方台を人間の意志だけで支配する、いや神をすら支配せんとする大それた野望がそこにはある。その為の武器が理性だ。

 神の本質は理性であり、理性が使役する知識と力である。知識はギィール神族が地にもたらし支配に用いているが、それはあくまでかりそめのものだ。
 人間が直接に知識を手に入れ理性に基づいて使役すれば、人間の幸福を第一に追求する世界が出来上がる。そういう風に考える。

「しかし、普通の人間がそんな理性を身に着けるなんて、無理じゃないかな。」

 この単純かつ深遠な疑問に、『真実の救世主の書』の主人公イル・イケンダはこう答える。
『大宇宙に満ちる知識の全てを操るものは、神にすら居ない。だが思考の海を統べる者は完全な智を手にする。』
 つまり質的に違うレベルの知性があり、”啓謐”という行為を極める事で神をも凌駕するのだ。

 アルエルシィにはさっぱり分からない。分かるのは、督促派の誰も”啓謐”を得てはおらず、また求めてもいない点だ。
 イル・イケンダの指し示す道はあまりにも遠く、凡人には難しい。出来るのは、いつか現われるであろう真の賢人が十二神の使徒に妨害されずに無事”啓謐”を手にする、その露払いとして働く事だけだ。

 早い話が督促派行徒は神の使徒である褐甲角武徳王、金雷蜒神聖王、そして青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンをぶっ殺さずには居られない。

「そして彼らは何度となくガモウヤヨイチャンさまに暗殺を仕掛け、ことごとく失敗したのでした。」
 ガモウヤヨイチャンが滞在する神殿都市ウラタンギジトには毎日刺客が訪れては討ち取られ、城壁の外に吊るされているそうだ。その数は一月で100人を越える。幾らなんでもやられ過ぎだ。

 聞く所によれば、ガモウヤヨイチャンの星の世界は神の力の発現があいまいでほとんど見られず、聖蟲も存在しないらしい。督促派行徒が求める世界に非常に近い。
 その世界に住む本人がこう言った。
『神の恩寵が目に見えるのに、どうして崇めずに居られようか』

 こちらの方がより真実に近い言葉だろう、とアルエルシィは考える。面子にこだわるより、人がより幸せに暮らせる世界の方がやはり良い。
 でもその程度で満足してしまうのは、自分が女だからだろうか。男であれば、学問を修め王国に貢献出来るほどの立派な人物であれば、また別の道が?

 

「まいいや。ともかく彼らはガモウヤヨイチャンさま暗殺は一時諦めた。そして本来の敵、褐甲角王国に向き直ったわけです。」

 ヒッポドス弓レアルの庭に日参しネコ達の話を聞くに、アルエルシィはそう結論づけた。
 なにしろ今は武徳王陛下御自ら軍を率いて親征中なのだ。その陣中を直撃すれば、最大の効果が望めるだろう。
 それらしい事件も伝わっている。行軍中のクワアット兵が渡っていた吊り橋が突如落下し数名が負傷した。最悪の場合百人もが死んでいたかもしれない。

「とはいえ、武徳王陛下を害するのはガモウヤヨイチャンさまを狙うのと同じ困難さがあるわよねえ、やっぱり。」
 なにせ武をもってなる王国の、無敵の戦士の王なのだ。やるだけ無駄と言うものだ。

「となれば、えーと、どうなんだろう?」
「どうと言われましても、ねえ。」

 応じたのは弓レアルの家庭教師ハギットだ。彼女はもちろん禁書『真実の救世主の書』を読んだ事が無い。はずなのだが、なにやら色々と知っていてアルエルシィの問いに的確に答えてくれる。
 ちなみに弓レアル本人はと言えば、庭園でネコ達と一緒に野菜づくりに精を出している。世の中戦争で大忙しなのに、彼女ばかりが呑気そうだ。

「そうではありませんよ。お嬢様もお辛いのです。」
「やはり、婚約者のカロアル軌バイジャン様の身が案じられて?」
「クワアット兵というのは大変危険なお役目です。もう少し先ならば軌バイジャン様も聖戴をなさり安全でしたのに、巡り合わせが悪く。」

「神兵になられていれば、安心ですものね。」
 無邪気に返すアルエルシィに、ハギット女史は微笑みを返す。神兵であっても絶対は無い、ハギット自身が20年前嫌というほどに味わされた。

 弓レアルは白い大きな無尾猫達に囲まれて本当に幸せそうに見える。その姿にアルエルシィは不思議を感じた。

「レアルさまは、どうしてあんなにネコに好かれるのでしょう。私の家にはネコ用御菓子を用意しても滅多に寄りつかないのに、こんなに沢山。」
「御人徳と言う他はございませんね。ネコが安心して遊べる場所はカプタニアには今ここだけ、のようです。」

 大審判戦争勃発後、市中の警備は一層厳重になった。ネコはどの関所も勝手に潜り抜けていくのだが生来のおしゃべりだ。今はどこもかしこも秘密だらけで無尾猫は見掛けたら石で追われてしまう。一般市民も戦争の状況は知りたいものの、ネコと話している所を見られると間諜扱いされると敬遠して、ネコ業界は不景気真っ只中であった。

 

「それで督促派行徒の次の標的です。」
「なにも陛下とは限りません。御親征に伴い金翅幹元老員の方々やハジパイ王太子殿下もお出でになられています。狙い目はむしろこちらですね。」

 ハギット女史の実家は元黒甲枝の従僕だと聞いている。一般人よりも軍事には明るく、武徳王への忠誠も厚い。
 だが悪巧みを巡らす点においては彼女はむしろ督促派の気質に近い。しれっと恐ろしい事を言う。

「ギィール神族は今次大戦で凄まじい新兵器を多数投入しているそうです。これを督促派行徒が入手しまして。」
「なるほど、そういう手で来るか。」

「そうとも限りません。」

 アルエルシィは目を細めて睨む。この女人は引き出しが多過ぎてどうにも裏が読めない。
 彼女が知る他の女家庭教師は頭が固くて物言いが窮屈、常識の枠を髪の毛一筋ほども踏み出さない人ばかりだ。

「大体学問ばかりしている末成りの青びょうたんに、かっこいいクワアット兵の真似ができますか? 戦場に紛れ込む事自体、彼らには無理です。」
「でも直接攻撃するのは、悪い手ではないと。」

「督促派は一般民衆の中で騒ぎを起さないと意味がありません。裏でこそこそするのが彼らの能力から考えても、正しいのです。」

 なるほど、と衣の袖を絡げて腕を組む。夏衣の薄い絹がするりと滑り、東屋の軒から覗く晩夏の光を照り返し玄妙な艶を醸し出す。
 ハギット女史はヤムナム茶を啜り、お嬢様の友人を観察する。15歳の彼女は髪の色が褪せてくる境目で、艶やかな黒髪にほんのわずか赤味がかっている。そろそろ結婚の相手を定めねばならないが、トゥマル商会の行く末にも関わる大事業だ。混乱する情勢下では難儀するだろう。

 アルエルシィは考える。武徳王でなくガモウヤヨイチャンでもなく、戦場でもない。では督促派が狙うべき標的は、あの人の言っていた『素晴らしいこと』とは一体?

「具体的に言うと、どこを狙います?」
「ここです。」

 くるっと黒い瞳をアルエルシィは回した。ここ?

「カプタニアですか。」
「褐甲角神の権威の失墜を狙うにここほど適切な場所はありません。武徳王陛下への攻撃は、狙いを隠す陽動です。」
「カプタニアで破壊工作を行う為の、陽動…。」

 こころの中ではたと手を打った。アルエルシィにわざわざ聞かせるほどだ、自分の目の届く範囲内でそれはやはり起こるべきだろう。

「アルエルシィ様、ネコの話ばかりを聞いていてもダメなのですよ。人の噂にも耳を貸さなければ。市中で今何が語られているか御存知ですか?」
「それは、戦の状況ではないでしょうか。御味方の形勢は悪くない、という話ですね。」
「勝っています、それは間違い無い。だが人死にが無視出来ない多さで出ています。戦で勝っても損得が合わないという事もございます。」

「採算の取れない戦をしているのですか…。」
 商人の娘であるから、そういう説明のされ方はよく分かる。法外な元手を注ぎ込めば、なるほど一見して沢山儲かる時もあるだろう。

 アルエルシィの視線に釣られてハギット女史も庭の弓レアルに目をやった。手桶をひっくり返してネコを濡らし大事になっているが、とても幸せそうだ。
 だが、アルエルシィには教えておいた方がよいだろう。弓レアルが本当は何を考えているのか。

 ハギット女史は手を伸ばし、アルエルシィの右手に添えた。少し驚いて見返す瞳に、女家庭教師の真剣な眼差しが待っていた。
 一息吐いて、言の葉を出す。

「お嬢様はああして遊んでいる風に見えますが、本当はお呼びが掛るのを待っているのです。」
「待つ?」

「内庭の黒甲枝の御宅にも弔報は次々と届いており、兵師監であられるカロアルの奥様は大層忙しく駆け回っておいでです。」
「でも神兵の方は無事なのでしょう?」
「戦場ではなんでも起こります。あり得ないと思う全てが。これは極秘の話です、神兵にも多数戦死者が出ている模様です。」
「まさか。」

 聖蟲を戴く者、それも不滅の肉体と驚異の怪力を与える褐甲角神の聖蟲を持つ者がそう簡単に戦場に斃れるはずがない。どうすれば死ぬのかすら一般人は知らない。

「でも死ぬのです。尋常の傷ならちゃんと快癒しますが、即死の場合はやはり免れません。」

「それは、王国により隠されているのですか?」
「一概には。そうですね、大きな手柄を立て、代りに命を落とした方の名誉の戦死は公表されます。が、」
「普通に戦死した方は伏せられる、そうなのですか。」
「民衆もその噂を欲していません。神兵は無敵不敗、不滅であるという神話を官民共に要求するのです。」

 ガモウヤヨイチャンが引き起こした大審判戦争は神話を覆し、民衆の前に真実を抉り出す。督促派行徒が何をしなくても、世界は確実に変わる。
 今方台でなにが起こっているか、初めてアルエルシィは理解した。

「レアルさまはその事を、えーと社会に対する影響というものについても、御存知ですか?」
「そのくらいは読み取れるように御育ていたしました。でも、」

 ネコがぽんぽんと飛び跳ねて、弓レアルは翻弄される。大ミミズが掘り返した土から引っ張り出され宙を舞い、絹を裂く悲鳴が庭園に満ちる。

「お嬢様は心根の優しい御方です。ガモウヤヨイチャンさまがきっと人々を御救いくださると、固く信じています。」
「…わたしには、もう無理みたいです。だからネコはレアルさまが好きなんですね。」

 

 家に帰ったアルエルシィは、上機嫌の父に抱きしめられ迎えられた。

「ハハハ、喜べアルエルシィ。今月はなんと5倍増しの売り上げだ。」
「そ、元から3倍増しの予想でしたから、驚くほどでは。」

 父トゥマル・ッゲルはわずか20年でトゥマル商会を大きく育て上げた切れ者の商人だ。だが見掛けはそんなに恐ろしくない。
 背は高く大きな身体、だが顔は気のいい漁師の風情。若い頃は漁船に乗って西金雷蜒王国の海まで出ていた。西の海で見た夕焼けの美しさを大袈裟な身振りを交えて熱く語るのを武器に、得意先を次々に開拓していった。

 トゥマル商会の主な取り扱い品は出汁用大ゲルタ。爺さまの代に発明した大ゲルタの香り燻製を、内陸部に高級食材として売り込んだのが父の功績だ。
 大審判戦争の勃発後、贅沢品の取り引きは軒並み自粛となっているが、これは違う。
 武徳王の親征を筆頭に、褐甲角王国全域で金翅幹元老員や高級武官、神兵の移動が相次ぎ、彼らをもてなす高級食材の価格は高騰する。華美に走らなくとも、いや華美に見せない為にも料理の素材は厳選され、基本の出汁に用いられる大ゲルタは出荷する端から消えていく。

 加えて先月から新商品も並んでいる。

「うむイカだ。これがなかなか有望だね。さすがはアルエルシィ、よく気がついた。えらいぞお小遣いを上げよう。」
「いえそのような。」

 ティカテューク(イカ)も古代から有る高級食材であるが、十二神方台系は内陸部が多く、イカを食べる習慣がほとんどの人に無い。
 基本はノシイカとしてテューク神に捧げる神殿の供物に用いられ、自分で食べようとは思わない。第一形が気味悪い。

 この固定観念が一変したのが、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンのデュータム点入城だ。
 弥生ちゃんは御供物として捧げられたノシイカの束に頬擦りしてまで喜び、観衆すべてが感激の余り涙したと伝えられる。

 アルエルシィは弓レアルの家でネコの話を聞き、各地の人の反応を尋ねる内に気がついた。
 弥生ちゃん入城行進の華やかさ晴れがましさ、押し寄せる人の波の凄まじさ奇蹟の治癒、ついで起った救世主名代ッイルベスの非業の最期。目まぐるしく動く情景に目を奪われ、大抵の人がイカについては見落としている。

 ガモウヤヨイチャンは方台すべての民衆に命の限り尽してくれる。それに対して、誰もが感謝の意を表す方法を模索しているはずだ。イカこそがまさにふさわしい!
 娘の言に、父ッゲルもぽんと手を打った。彼だとて、新しい救世主さまになにがしら報いたいと願っていた。

 トゥマル商会は元々高級海産物の乾物を取り扱い、イカは西海岸の特産品だ。大ゲルタを生産するルートを通じてノシイカの独占販売権を手にするのは容易かった。王室御用達の金看板はさすがに強い。
 そしてアルエルシィは、言い出しっぺとしてイカ販売の看板娘となる事を承知したのだった。

 

「というわけで、イカのお料理を作ります。」
「うん。」

 屋敷裏の庭でたまたま顔を出したネコを相手に、アルエルシィは料理の腕前を披露する。このネコは物好きな奴で、彼女がイカなるものを売り出したと聞いてわざわざ取材に来た。
 ちなみに無尾猫は森林の生き物だ。イカにはとんと縁が無い。

「これがイカね。ぺちゃんこにして乾してますから固くて、このままではあまり食べたくない。」
「血はないのか?」
「干物に血があるわけないじゃない。」

 ネコは吸血生物だから、干物やそれを戻したものにはなんの興味も沸かない。冷たい目で見つめている。

「このイカは焼くか、刻んで汁物とかに入れるか、水で戻して柔らかくなったのを調理するか、大体三つのやり方があるのね。」
「戻すと柔らかいのか。」
「うん。真っ白で柔らかい、でもなかなか噛み応えのあるちゃんとしたものになる。味も出るから、戻し汁を料理に使ってもいい。」

「一個くれ。」
「高いんだよ。まあ、あげるけど。じゃああんたの分はここに水漬けとくね。」
「ふむ。」

「えーと今日作りますのは、」
 アルエルシィは最近こればっかりを喋っている。イカを納入に行く先々で見本に調理してみるのだ。料理は得意ではないのだが、一日中イカを扱っていればなんとかなる。

「ガモウヤヨイチャンさまに捧げる御札焼きです。きほんてきには蜘蛛神殿で売ってるおみくじ焼きと同じものですが、ノシイカを細かく刻んで混ぜ込んで焼きます。」
「ケチだな。それっぽっちしか入れないのは。」
「この料理はね、貧しい人でもガモウヤヨイチャンさまに捧げられるように、イカをケチってなおかつイカの味や香りがする、そういうお料理なの!」

 と言いながら鉢の中に溶いた穀物の粉に、叩いて刻んだ細長い繊維状のイカをぱらぱらと混ぜ込む。ぐにぐにと一生懸命こねて、焼けた石盤の上に流し込む。

「トカゲ神殿で売る時は、ピルマルレレコ神の顔を描いた型を使います。」
「おみくじと一緒なんだな。」
「ほら、そうこうしている内に、良い匂いに焼けて来ましたよ。」

 薄く伸ばした生地が、イカの焦げる香りを立てる。ネコも耳をぴんと立てた。

「ケチってもだいじょうぶなんだ。」
「そのとおり! ちゃんとイカの香りと味がします。」

 木のコテで石盤にひっつくお焼きを引き剥がす。葉っぱを巻いて取り上げた。

「これで出来上がりです。ゲルタ出汁のツユを塗っても美味しいです。」

 黒い鼻の頭を擦り付けて、ネコは匂いを確かめる。

「ネコの食べ物とは、ちょっと違う。」
「食べてみなさいよ、美味しいから。」
「う…ん。」

 ぱくっと齧る。水気はあまり無いからネコの口には合わないが、たしかに味は良いと褒める。

「ケチってもこれでいいのか。」
「いいのです。」

「おじょうさま〜。」

 と下女の呼ぶ声がする。アルエルシィにはこれからちょっとしたお仕事が待っているのだ。衣装合わせをしなければならない。

「じゃあ、このふやけたの一匹あげるから。みんなでちょっとずつ齧ってみて。」
「おお、なんだか生きてるみたいになった。変な味もするな。」
「じゃあ、また明日来てみて。」

 

 その日の宵、アルエルシィは父と共に城外東街にあった。
 西街は金翅幹家や高級官僚、富裕層の邸宅が有り、それに奉仕する中産階級の住まう街でトゥマル商会の本部営業所もある。一方東街は中下流、さらに下の民衆が住み歓楽街もある、あまり柄の良くない街だ。
 しかし現在は戦争が東の国境線で行われており、東街は補給の拠点となり多数の兵が市中をくまなく見回る。また難民も排除されてかなり安全となっていた。

 トゥマル商会も前線やヌケミンドルに展開する武徳王本陣に大ゲルタやイカを供給する為、新たに営業所を東街に開設した。
 今宵はそのお披露目であり、アルエルシィのイカ宣伝娘デビューの場でもあった。

 場所はアル・サユル湖に面する軍道沿いの旅館。王家とは言わないが、金翅幹家の関係者を招いても恥ずかしくない格式のある店だ。
 招待客はすべて大審判戦争で忙しい身分の家の家宰家令、さらには糧食調達の剣令であり、残念ながら聖蟲を戴く人は無い。だが皆味にうるさい人である。粗相は許されない。

「これは! エメモートゥル家のヂヂメム様。お骨折り感謝いたします。」
「うむ、なかなかに人が揃ったな。」

 この偉そうな人は金翅幹エメモートゥル家の家宰だ。偉そうにするのも理由がある。
 主人の舌を満足させる為日夜研究に励み、ついには王都でも知られる美食の権威となった有名人だ。この人のお墨付きが出れば、どの金翅幹家でもイカを導入する。今回のお披露目の最重要人物である。

「ティカテューク(イカ)は彼のペトレハイム王子も献立事典に特別に一章を用意したほどの食材だ。西金雷蜒王宮料理では必ず主菜の一品として供される。私もかねがね主人にお味見していただこうと期していたのだよ。」
「左様でございます。生憎とカプタニアは内陸にありますので、西海岸の産物はなかなかにお眼に止りません。」
「うん、今回は良い機会を得たな。私も協力を惜しまんよ。」
「ありがとうございます。」

 父が来客の間を飛び回り挨拶をこなす脇でアルエルシィは笑顔を顔に貼りつけたまま立っている。なにせ今宵は彼女が主役だ、愛想を最大限に振りまかねばならない。
 黒甲枝の家に嫁にやるのが父の願いではあるが、こんな事をしていたら普通に商人のままで終ってしう気がする。イカ女王への道がなんとなく拓けてしまう。

 先日イカを納入してきた金翅幹ダディオ家の家宰も居た。この家は黒甲枝カロアル家に繋がっており、弓レアルの筋から紹介してもらった。
 カロアル家は500年以上昔はこの家の従僕をしていたらしい。金翅幹家と黒甲枝はそれぞれ縁と系列があり、一々覚えておく必要があるとハギット女史に教わった。

「ほお、これは珍しい。」
「東の国境沿いの街の間では、今かなりの数が出回っているそうです。美しいものでしょう。」
「これは女の顔であるか。ガモウヤヨイチャンだろうか。」
「アルエルシィ!」

 父が呼ぶので近付いて説明する。ネコに話を聞いているから容易いものだ。

「これはギィール神族がガモウヤヨイチャンさま御降臨を記念して作ったものです。聞く所では、星の世界の貨幣はこのように人の顔を彫り込むのが習いだそうです。」
「ほお星の世界風の貨幣なのか。いかほどの値があるのかな。」

「はは、これはどちらの国でも使えませぬ。このように黄金に輝いていますが、箔を捺しているだけで中身は青銅なのです。」

 父がすかさす口を挟む。褐甲角王国は清廉潔白をなにより尊ぶ。賄賂と思われてはかなわない。

「では只の飾り物か。」
「この通りに、同じ大きさで三種類もございます。三荊閣がそれぞれ異なる図案のものを作ったと思われますな。」
「ふうむ珍しいが、敵王国の産物を弄んで良いのだろうか。」

「さればこそ、尊ばずに済むというものではありませんか。このように衣服に飾るなどして。」

 アルエルシィの服の胸には丸い金貨が結わえられ、燭台の灯を照り返し効果的に人目を惹く。諸事倹約の折、金鍍金の飾り物は華美さの規制線ぎりぎりにある。

「主にお見せするべきものかも知れぬな。少し分けて貰えないだろうか。」
「どうぞ、三種類揃いでお持ち下さい。奥方様にもいかがでしょう。」
「そうだな、女人の方が喜ぶか。」
「なにせガモウヤヨイチャン様ですから。」

 父が言うとおり、この金貨には公的な裏付けが何一つ無い。だが東の国境線では5金ほどの価値で交換されている、人の欲しがるものだ。
 それと気付かぬようにさりげなく、価値あるものを忍ばせる。褐甲角王国においても賄賂は十分に有効だ。この程度は挨拶同然である。

 

 クワアット兵の剣令が料理の傍に立っているで、アルエルシィは説明に行った。糧食担当の軍官僚も今回のお客様だ。

 御親征は行く先々で大変歓迎され、禁止するにも関わらず民間の自発的な歓迎会が随所で催されている。
 大戦争の最中だと言うのにこの有り様なのは、やはりガモウヤヨイチャンの降臨を受けて褐甲角神の威徳をも確かめたいとする欲求が社会全体に盛り上がっているのだろう。
 答礼に武徳王の側からも宴席に地元有力者を招待する。地元ではめったに食べられない代物を供するのは、政治的にも極めて効果的だ。

 武徳王のみならず兵師監・大監などの軍高官も、ゲルタのお粥を食べさせておく訳にはいかない。今次大戦ではいきなり昇進し将官級の待遇を受けるべき黒甲枝が三倍に増えている。

 軍衣に軍帽を被るその剣令は、思った通りに凌士監の記章を胸に付けていた。

「お味の方はいかがです?」
「いや驚いた。イカは知っていたが、これほど多彩な料理が作れるものだったとは。」
「今回調理しましたのは、西海岸から特別に呼び寄せた料理人です。本来生きたイカの扱いに慣れた者ですが、ノシイカを戻したものでも7割の料理に使えるそうです。」
「うーん。」

 冷蔵庫など無い十二神方台系においては、生の海産物が食べられるのは本当に港町に限られる。
 西海岸で最も栄えているミアカプティ港の料理人こそが、海産物を扱う名人だ。中には西金雷蜒王国の宮廷料理まで作る者も居る。
 アルエルシィはイカ販促に際しては是非とも西海岸の料理人が必要だと父を説得し、若いが名の有る者を身代金を払って借りて来た。

 わざわざ呼んだ甲斐がありイカを試した各界著名人は誰もが満足し、美食の権威ヂヂメムも太鼓判を押す。カプタニアにおいてはイカの販促は成功したと言えるだろう。

 宴は楽しげに過ぎていき、タコ神官が奏でる楽の音に心安らぎ、会場のそこかしこで招待客が料理を楽しみながら雑談を始める。

 この雑談の内容こそが、最大の商売のタネである。
 十二神方台系では会議とは宴会を意味する。宴の席で酒を楽しみながら政治や経済、軍事をも論じ合い、後には実現していく事になる。
 富商は中央政界の動向を探る為にしばしばこのような宴席を設け、高官を招待する。

 トゥマル商会の格では、聖蟲を戴く人々を呼ぶにはまだ足りない。が、今回イカの販促という名目で金翅幹家の家宰家令を多数招く事が出来た。
 各家の内情がそこここから聞き取れる。

 アルエルシィも愛想良く料理を振る舞っているが、耳は漏れ聞こえる内緒話に釘付けだ。

「…ボウダン街道では、」
「兎竜隊はまず、次の」
「赤甲梢が、」

「赤甲梢が次に、」
「メグリアル妃は信頼のおける、」
「軍事においてはな。ソグヴィタル王と、」

「陛下は御無事なのか?」
「総攻撃が、うむ、こちらからも。」
「ほどなく目処が、」

「にしても神兵がこれほど、」
「今にして思えば、やはり」
「やはり先見の明がお有りになった。ハジパイ王もさすがに、」

 

 聞き耳を立てるのに気疲れして、湖の風がそよぐベランダに出て額を冷やした。飲んではいないけれど、会場に立ち篭める酒精の香りに当てられたようだ。

「やあ、やはり酒の香は苦手でしたか。」
 先程の剣令が湖を先に望んでいる。暗く静まり返ったアユ・サユル湖がこれほどに広いとは、アルエルシィは知らなかった。

「えーと、貴方は、」
「小剣令凌士監デズマヅ琴ナスマムです。」

 れっきとした黒甲枝だ。デズマヅ家はかろうじてアルエルシィの勉強した範囲に入っている。カロアル家と同じく、城内内庭に住居を持つ家だ。
 凌士監というのは軍官僚の位で、兵を指揮しない裏方になる。聖蟲を継承する立場に無い次男三男がよくこれを務め、後には官僚や税吏として行政に携わる。

「トゥマル・アルエルシィでございます。」
「いや、貴女のような歳の方が遅くまで宴に出るのは、疲れるでしょう。」
「え、ええ。まあそうですが、イカは私が父に勧めたものですので。」
「そうか。やはりその方面で才能がおありなのですね。」

 年齢は25歳ほど。黒甲枝の出身であるからには、聖蟲を戴かずとも十分に武芸を磨いているはずだ。だが彼は武張った雰囲気が少ない。頼りないのではなく、軍籍にはあるけれどいずれ転進するだろう予感が色濃く漂っている。
 現実的に己を見定めると、いきなり神兵の嫁になるよりもこのような人の所に嫁ぐ可能性が高いのだろう。なんとなく頭の反対側が冷静に考えるのを自分でも不思議に思う。

 湖を振り返り、風の動きに従って陸の方を眺めて見る。聖山カプタニア山脈の聳え立つ足元に貼り付く東街は、思ったよりも暗い。

「東街って、こんなに静かなものなのですか。」
「いや、今は戦時下で警備のためにも夜間の外出が禁止されて居ますから。普段なら夜遅くまで灯が幾つも照らし出し、湖に街の姿を映し出しますよ。」
「人は東街の方が多いのですね。」
「西街よりは。ただ難民が南に移動になりましたから、」

「あの灯は?」

 指差す先は、暗く鎮まり返った一角だ。それまで無かった場所が急に明るくなる。
 剣令は目を細めて遠くを見つめ、アルエルシィの肩にいきなり手を伸ばした。あまりに突然だったので、心臓の鼓動が急に高鳴るのに戸惑う。

「あれは火事です。失礼、貴女は御父上と共にこの場に留まり、避難の指示があれば速やかに従って下さい。」
「は、はい。」

 火事? だが続けて見ていると2ヶ所3ヶ所と増えていく。かなり離れているから延焼ではない。
「付け火だ。」

 剣令は急いで外に飛び出していく。アルエルシィも父の傍に飛んでいき、目にした状況を説明する。
 来客は説明を受けて驚きはしたが狼狽えない。さすがに武を以って成る王国の重臣に仕える人ばかりだ。ただ避難をするにしても湖畔に建つこの旅館は王城への双子門も近く、最も安全な場所にあった。

「では火事見物など決め込みましょうか。」
 金翅幹家に仕える前は軍に居た者も少なくない。肝が座っているのはよいがそんな酔狂で大丈夫か、とアルエルシィは疑問に思う。思うがやはり自分も見たい。

「あれは難民街ですかな。」
「人を追い出すのは良かったが、可燃物を排除しておくべきだったな。」
「居ても火事の危険性は同じだろう。」

 追い出された難民に同情の声は無い。元々これら難民街は違法建築物であり、カプタニアの城砦としての機能を損なうものだからだ。
 むしろ今日に到るまで難民をこのような劣悪な住居に留め置いた事こそ、批難されるべきだ。これがカプタニア上層部の公式な見解だった。

 炎は大きく燃え上がり街を包んでいくが、風向きが逆なので中下層民の居住区には広がらない。軍需物資を集積した広場や倉庫街も無傷だ。

「付け火にしては、狙いが悪いな。」
「敵の間諜の仕業ではないのか? これほど手際は悪くないだろう。」
「このままでは、崖の所で尽きるか。」

 城外東街はカプタニア山の岩肌が顕な崖の手前に作られている。森はその上に広がるので、この程度の火事では延焼しない。

 アルエルシィはふと思った。督促派行徒が褐甲角神の権威に挑戦するのであれば、聖山カプタニアに火を放つという手も使うだろう。しかし神聖神殿にも連なるカブトムシ神の御わす森は、神衛士と呼ばれる特別な神兵が護っている。尋常の手段では手が出せない。

 ぴゅーっと火が一条の光の線を引いて昇る。火の粉の舞う中で、その光だけが真っ直ぐ上へ昇っていく。

「あれはなんだ?」
「火矢? いや、あれは飛噴槍だ!」

 ギィール神族が毒地で盛んに用いる新兵器が、何故か王都の中央で打ち上がる。3本5本、まだ上がる。
 炎の向かう先は聖なる森だ。

「なんという事を。」
「何者だ、あのような神を畏れぬ暴挙を働くのは!」

 人の間に怒りと恥辱の震えが広がる。褐甲角神の地上の化身である巨大なカブトムシが住まう森は、王国全員の誇りであり安らぎの地である。ギィール神族でさえ手を出さない不可蝕の聖地を穢すは一体何者か。

「…督促派行徒…。」
 アルエルシィの震える微かな声に、人の目が一斉に向く。怒声にも似た強い憤りで、応えられた。

「このような、許さん。許さんぞ。」
「王師はどうした。カプタニアの護りは。」

 街道に多数の人が出て、聖山を見上げては嘆き哀しむ声がする。誰にとってもこの暴挙は許されず、だが効果的に王国の権威を地に塗れさせる。
 既に炎は高い森でも大きく広がり、カプタニア全市から望めるだろう。いかに神兵といえども火を効果的に消す手段は持ち合わせていない。誰にも留めようが無い。

 街と森とが燃える灯が、暗いアユ・サユル湖の水面に鮮やかに浮かび上がる。まるで水も燃えているようだ。
 いや、確かに水の底に炎がある。水面の光の下に明々と燃え上がる巨大な球体がある。ゆっくりと人の波で混乱する岸辺に近付く。

 ざあんと水が持ち上がり砕ける音で、アルエルシィ達はそれにようやく気がついた。
 炎の玉、家よりも屋敷よりも大きな球体が内部に納められる炎により火事よりも赤らかに煌めき、船着き場に上陸する。
 太く伸びる炎の腕が小舟に巻きつき、一瞬の内に燃やし尽くす。もう一本、腕が伸びて網小屋を砕いて火の粉を散らす。

「なんだ、なんだアレは。」
「なんたる不可思議!」

 さすがに招待客も逃げ出した。アルエルシィも必死で父の姿を探し、旅館を飛び出す。
 大路に逃げ延びた彼らは、炎の玉の巨大な姿を改めて見上げる事となる。高さは10数メートル。長い腕は秘めたる炎の粒の光を幾重にも屈折させ、輪郭が確かでない。放射状に展開される何本もの腕が巻きつく全てを瞬時に燃やし、天に煌めきを吹き上げる。

 それは大路を渡って倉庫街を冒し始める。行き先は火事の始まった難民街、さらにその先の聖山の森と思われる。

 ふと気付く。その怪物の周囲に目に見えない何者かが踊って居る。炎を掲げて舞いながら従うのは、精霊の化身か冥府の亡者か。
 アルエルシィもそれの一人に触られた。一瞬髪が焦げる臭いがしたと思うと、去っていた。微かに人の顔が覗いた気がする。

「テュラクラフ様、あれは紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ様ではないだろうか?!」

 誰かが指差す動きにつられて皆が見上げる先には、赤く燃える怪物の上に立つ女人の姿がある。
 炎の色にも紛れない眩い曙色の衣の裾を長く引き、白い腕が高く差し上げられこの地に住まう精霊を呼び出していると見える。顔は分からないが非常に美しい人である事は直感が教えてくれた。背が低いようにも、ギィール神族をも越える巨人にも感じられる。

 炎の怪物、してみればテュークであろう、が行く道は瞬時に真っ黒な炭に変わる。だがあまりの高温に全てが一瞬に燃えつき、後に炎を残さない。
 巨大な触手が燃える家に触れると、焔の粉を天上に吐いて一気に燃えつき、鎮まった。

 崖を登り聖なる森に拡がる炎を喰い尽くすテュークに、見守る誰もが声を失った。何が起きたのか理解出来ない。

「あ。」

 テュークの到達と同時に森の中から眩い光が飛び出した。炎の色ではない、白く、黄色く瞬くそれは森の上を飛鳥の如くに旋回すると、遠き北の彼方に飛んでいく。吹き上げる炎は、それを追って暗い森に消えていく。

「これは夢か…。」
 誰かが漏らす声に促され、アルエルシィは正気に戻る。今見た光景の全てははっきりと覚えているのに、それが現実の出来事だったと認識出来ない。夏の終わりの夢幻なのだろうか。だが焦げて残る黒い道は確かに現を証している。

「お嬢様!」
 下女の声に気が付き、自分の身体を改めて見たアルエルシィは、服の胸元が少し焦げているのを発見した。結わえていたガモウヤヨイチャンの金貨が無くなっている。

「先程の、アレに取られたんだ。」

 へた、と地面に直に座り込む。湿った土が尻に冷たい。

「おじょうさま、ごぶじで!」
と抱きついて来る下女に、なんでもないと手を上げる。とりあえず、イカを売った事を紅曙蛸(テューク)神が怒っているのではなさそうだ。

 

 翌日。東街は立ち入り禁止となり厳重な軍の監視下に置かれていた。
 折角開いた営業所にも近づけないので、アルエルシィは昨夜の事件の報告と、続報を求めて城内外庭の弓レアルの家に駆け込んだ。

 ネコならばきっとなにかをつかんでいるだろう。カプタニアの森は禁域といえども、ネコに制限は無い。元々森はネコの棲みかだ。
 炎を吹きながら進むテュークの跡を追った命知らずのネコも必ず居るはずだ。

 幾重もの検問を突破してようやく辿りついた弓レアルの庭に、だが彼女が期待していた表情は無い。

 弓レアルとハギット女史は心配と不安の顔、何匹も座るネコ達は皆警戒に耳を逆立てている。
 冷たい視線がアルエルシィに突き刺さった。

「あ、あの? なにか。」
「アルエルシィ、貴女なんということをしでかしたの!」

 本日のネコニュースのトップ項目は、昨夜の不思議では無い。

『全方台のネコの敵トゥマル・アルエルシィ』
『毒殺鬼アルエルシィ、ネコにイカを食わせて猫事不省に陥しいれる!』
『ネコ組合、アルエルシィに報復を誓う』

 

【ネコとイカの関係】

 俗に「ネコにイカを食べさせると、腰を抜かす」と言いますが、これはおおむね正しい。
 イカにはビタミンB1を破壊する酵素が含まれており、ネコがこれを食べると体内のビタミンが破壊され、一種の脚気の状態になり歩行不能に陥ります。
 しかしながらこの酵素は熱に弱く、ちゃんと加熱したイカは安全です。イカにはタウリンが多く含まれ、ネコの健康にもたいへん有益です。
 つまり、イカ刺しをネコに食べさせるのは×、イカリングフライは○です。衣は剥いた方がいいと思うけど。
 また「アワビを食べさせるとネコの耳がもげる」とも言いますが、これは光過敏症のアレルギー反応を引き起こす物質をアワビが有している為で、皮膚の薄い耳に特に顕著に表われます。

 ま、上等なものはネコごときに食べさせるべきではない、という事ですね。(蒲生弥生:犬派)

 

最終章 喪服の女達

 カプタニア城はカプタニア山の岩肌をよじ登るように建設されており、最上層において神の森と一体になる。
 ここに王国の中枢たる神聖宮殿と褐甲角(クワアット)神を奉る神聖神殿が設けられ、カンヴィタル王家により固く護られていた。

 カンヴィタル王家は家族構成が公的には明らかにされておらず、一般庶民には存在すら知られていない。もちろん武徳王は別格で絶対不可侵の最高権威として刷り込まれているが、これですら見た者はほとんど居ない。故に各地で行われる神事に名代として派遣されるメグリアル王家を唯一の王族と信じてしまう。

 秘密主義を取るのは武徳王の権威を神格化する為だ。
 初代武徳王にして褐甲角神救世主カンヴィタル・イムレイルには、このような措置は必要無かった。彼はむしろ容儀が軽く、末端の兵士とも仲良く飯を食い酒を酌み交わす親しみやすい人物だ。あまりに軽いが為に姦計に陥り、盟友や側近にたしなめられた事も一度ならず有る。

 だが流石に二代三代と同じ風では王国の秩序が保てない。

 彼の子孫は互いに諮って、巨大カブトムシ神を世話し聖蟲の繁殖を手助けする役目をカンヴィタル家に集中し、武徳王もこの家系からのみ出すと定めた。
 カンヴィタル・イムレイルが特に苦手とした政事に関しては知に優れたソグヴィタル王家が担当し、独善を排する為に宿老による合議制を布く。下界において褐甲角神の教えを説く役は霊能に優れた末の娘の一族に任せメグリアル王家と称した。

 武徳王は聖蟲を授ける権限を唯一有し、神兵を率いて民衆救済の軍を進め王国の領域を拡大する聖戦を司る。
 だが聖蟲の繁殖を独占する限り、反乱は決して起こらない。いつしか軍事に関しては聖蟲を戴く神兵に、後の黒甲枝に全てを委ねて大事無い体制に発展する。高度に訓練されたクワアット兵が配備され組織的な運用が可能となると、ますます武徳王は軍事から遠ざかった。

 それ故に逆に旗印としての武徳王の権威は高まる。
 カンヴィタル王家の格を至高に見せる必要が生じ、現在の秘密主義に到った。敵手たる金雷蜒王国神聖王に倣ったとも言えよう。

 

 金雷蜒神聖宮と同様に、褐甲角神聖神殿にも王姉妹に相当する存在がある。
 それが王神女、武徳王の同胞である姉妹であり巨大カブトムシ神の世話と聖蟲の繁殖に生涯を捧げる女性達だ。

 王神女の長たるは、現武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクの妹、神母クメシュである。
 50歳の彼女は通例に反して黒の喪服に身を固めている。本来は神の心を和らげる明るい色でなければならないが、状況が彼女に黒を選択させた。

 今、神聖神殿は恐慌状態にある。
 連日のように聖蟲が帰って来て、彼女を悲嘆に暮れさせる。聖なるカブトムシが単独で還り来るのは、宿主の神兵が戦場に斃れたに他ならない。

 通常の場合でも、聖蟲は年に10数匹は飛んで帰る。戦死は少なく、大抵は病死だ。無敵の肉体を授けられても免れない病はある。また聖蟲にも寿命があり百歳を越えると黒甲枝から返納され、最後を王神女に看取られる。

 しかし大審判戦争勃発後、にわかに神殿の空が騒がしくなった。
 わずか2ヶ月の間に百に届く数が生まれた山に帰って来る。これほどの惨状は千年の歴史でも例が無い。

「神母様、またしてもお帰りになりました!」

 侍女として仕えるカブトムシ巫女が悲鳴じみた声を上げて、束の間のまどろみに身体を休めていたクメシュを呼び起こす。
 カブトムシ巫女はほぼすべてが黒甲枝の娘から採用される。生家にて幼少から鍛えられ胆力の据わった者ばかりだが、未曽有の事態に誰もが神経を逆立て落ち着かない。

「…既に御門をくぐりましたか?」
「はい。文字の間にお入りになりました。」

 カブトムシの聖蟲は神の分身であるから、ちゃんと字が読める。個々の聖蟲に外見的な個性は無くとも、誰の額に居たものかは名札を示せば証してくれる。
 『文字の間』はその為の空間でテュクラ符の文字が描かれた小箱が並び、聖蟲が入れば聖戴者を特定できる仕組みになっている。

 カプタニアの山上は夏とはいえ身体が冷える。薄い衣をさらに一枚羽織って文字の間に駆けつけたクメシュに、係の巫女が黒甲枝の名簿を抱えて直立する。

「既に御箱に入られましたか。」
「”Car”の箱でございます。どうやらこの聖蟲はカロアル家の、兵師監カロアル羅ウシィ様と思われます。」
「兵師監までもが戦場に倒れるのですか…。」

 通常は兵を率いて戦わぬ兵師監までもが戦死するとは、一体地上はいかなる有り様になっているのか?
 カプタニア山には戦況はまったく伝わって来ない。神聖神殿は下界から隔離されているが、上に住まう人も下の様子は分からないのだ。

「神衛士団長をお呼びして。それから、巫女クワァンクァンを。」
「はい。」

 カプタニア山と神聖神殿を護る特別な神兵集団”神衛士”は、カンヴィタル家の男子と黒甲枝の中でも特に信仰篤い者で構成される。その長は武徳王の甥、兄の子であるカンヴィタル鮮パァヴァトン。年齢は31歳、博学英明視界の広い人物で、武徳王の王子が成長するまでは次の王位を期待されていた。

 彼は現在特別な任務に就いており、カプタニア山中を駆け回っている。つい先ほど経過報告に帰還したばかりだ。

「すでに我らの手には負いかねる。陛下の御裁断を仰がねば、王国自体の存立が危うい。」
「神衛士団長様、お見えにございます。」

 神衛士といえども文字の間には容易に入れない。聖蟲の繁殖所は禁域中の禁域で、王神女と限られた神官巫女、武徳王本人しか許されない。
 だがクメシュは甥にこの有り様を見せるべきだと決断する。

 神衛士は甲冑を用いない。森の静寂を冒さぬように極力金属製品を避けている。身に纏うのは神衛士仕様の賜軍衣のみで歩く音さえ立てぬ訓練を積み、巨大カブトムシ神の営みを妨げぬ配慮をしている。
 巫女に先導され、音も無く彼はクメシュの背後に跪く。

「神母様、お召しにより参上いたしました。」
「どうです。判明しましたか。」

 彼の言葉には返さず、聖蟲の身元を確かめる巫女に尋ねる。巫女は新たな箱に聖蟲が入るのを見定め、戦死者を確定する。

「間違いありません。天河に召されたのは兵師監カロアル羅ウシィ様です。」
「兵師監が!」

 発言を許されていないが、思わず鮮パァヴァトンは声を上げた。兵師監が討たれるとは百年前の大戦ですら聞かぬ重大事だ。
 クメシュは振り返り、甥に語る。

「見ての通りです。先日の赤甲梢の戦死者に続いて、昨日今日と黒甲枝が大量に。」
「許されるならば、私にも下界に下りる命を頂きとうございますが、しかし!」
「急ぎなさい。このままでは王国が滅びる様さえ見なければなりません。」

 神衛士は総力を上げてカプタニア山脈全域を捜索中であった。求めるものは褐甲角神の地上の化身である巨大カブトムシ。一昨日夜テュークの炎に追われて北方の空に明るい光が飛び去ったとの目撃証言を頼りに、北の森を全力で走り探している。
 巨大カブトムシ神は地上の炎ごときには焼かれないが、なにしろ紅曙蛸女王の乗るテュークの聖なる炎だ。神といえども地上に実体として在る時は御身が傷付く事もある。火傷を負っている可能性もあり、一刻も早く見つけ出し適切な処置をしなければならない。
 
 だがなによりこの大切な時期に聖山に神の姿が無いのでは、褐甲角王国は見捨てられたも同然だ。
 クメシュは唇を噛んだ。

「今日中に見付からぬ時は、もはや陛下にお伝えせねばならないでしょう。」
 それは同時に元老院金翅幹家に伝える事となる。遠からず敵の耳にも入るだろう。地上の戦況と併せて、王国は上下から挟み撃ちされ存立の根底を揺さぶられる。

「二月前まではなんの憂いも無く磐石であったものが、これほど儚いとは。」

 クメシュは人を恨む事など知らぬ身分にある。だがこの時初めて、新たなる救世主ガモウヤヨイチャンに殺意を抱いた。

 

 

 カブトムシ権之巫女クワァンクァンことハジパイ王 嘉イョバイアンの娘ハジパイ芽デェラは非常に辛い役目を担っていた。
 神聖神殿で把握した神兵の戦死の報告を、下界の軍制局に伝えるのだ。

 単に人数の問題ではない。数で言うのならば、1500家中100名が死んでも王国の根幹に揺らぎは無い。
 巫女クワァンクァンがもたらす報せは、金雷蜒王国ギィール神族が効率的に神兵を殺す手段を有す証明だ。また神兵が一人倒れる度、その庇護を失うクワアット兵邑兵が何百人も虐殺の恐怖にさらされる。

 軍制局は神兵の戦死の意味を十分に理解している。神聖神殿から伝えられる数に震え戦き、為す術を持たぬ己の無力を噛み締めていた。

 この事態を止められる者は居ない。いや、唯一人居ると彼女は己の実家に駆け込んだ。

「父上! 戦をお止め下さい!!」
「デェラか、そのように取り乱すでない。女官が見て不安に思うだろう。」
「ですが、」

 頭巾も取り落とし髪を振り乱して父にしがみつく娘に、ハジパイ王はまったく別の感慨を抱いていた。
 あの愛らしかった娘をこのように抱いたのは何時以来だろう。政治にかまけている間に娘は成長し成人し、自ら進む道を親に図らずに定め結婚もせず、今はもはや老けていたりする。聖蟲があればこそ長生きもするが、42歳となれば一般ではもう老境に足を踏み込んでいる。

 自分は何を失ったのだろう、と改めて考える。もう少しなにか、幸せに似たものを手にし味わう機会があったのではないか。今となっては、

「デェラ、心配せずとも良い。この戦は数日中に一時停戦となる。」
「…真ですか?」

 涙に濡れた顔を上げ父の瞳を見つめる娘に、在りし日の幼い面影は確かに残っている。そう感じられる事が、嘉イョバイアンが未だ此の世の人である証しだ。

「間違い無い。メグリアルのアウンサ姫が率いる赤甲梢が東金雷蜒王国に突入し、神聖王に和平を持ちかけ交渉に入ったとの連絡を受けている。」
「アウンサが?! しかし父上、そのような無謀を彼女にお許しになったのですか?」
「許す道理が無いだろう。アレは昔から勝手に遊ぶ娘だ。此度もガモウヤヨイチャンと勝手に謀って、独断単独で突っ込んだよ。」

 芽デェラと焔アウンサは歳が近く、よく知っている。奔放なアウンサと違いカブトムシ巫女として謹厳に仕える彼女は、だが頑固さではほとんど変らない。ハジパイとメグリアルの王家同士の面目を賭けて張り合った事さえ有る。もう25年も前の話だ。

「この戦はな、最初から短時日で収まるように仕組まれているのだ。ガモウヤヨイチャンによって。」
「青晶蜥神救世主様によってですか?」
「そうだ。あれは和平を目的としてこの戦を仕掛けた。二つの王国に公式に和平条約を結ばせるのが狙いなのだ。」

 芽デェラは考える。世情に疎く政争とは無縁の神聖神殿に勤める身ではあっても、彼女はその方面に勘が働く。父の背中を見て育った娘だ。

「それは…、それはよろしくないのでは、ありませんか?」
「そうだ、王国の国是に対しての真っ正面からの攻撃だ。我ら褐甲角王国こそが邪悪な金雷蜒王国を裁く唯一絶対の正義だった。その前提を覆し、互いの正義を相対化する。ガモウヤヨイチャンはそれを目論んだ。」

 誰が呼んだか大審判戦争とは、まさに青晶蜥神救世主により褐甲角・金雷蜒の二王国が裁かれる戦いである。
 この戦、始まった時点で既に役目を終えていた。

「あとはな、どのように鎮めるかだけなのだ。お前が、王神女様方が心配する必要は無い。」
「しかし父上、どちらも勝ちを得ずに鎮められるのですか?また新たな戦へと発展するのでは。」

 芽デェラは正気を取り戻し、今度は父の身を心配する。これから始まる外交戦は、確実に父の命を削ぎ落とす熾烈なものとなるだろう。娘として、弟の王太子 照ルドマイマンに代わって引退を勧めるべきではないか。
 それとも残された命を歴史に刻み込み、未来を築く礎として果てるを父は望むのだろうか。

 惑う娘の眼の光を見て、ハジパイ王は笑った。娘の髪に手を当て、優しく撫でる。

「お前が心配しなくて良いのだ。既に手を打ってある。」
 嘘だ。ガモウヤヨイチャンが次にどんな手で出るか、彼にはまったく読めない。
 その人となりが密偵によりもたらされるが、千年先のそのまた先をも知り着実に布石を打っていく救世主に振り回されるばかりだ。強行の手段はことごとく跳ね返された。

 巫女として芽デェラは言葉を発した。彼女には他に思いつかないが、これだけが正解と感じられる。

「父上、お忘れなきようにお願いいたします。褐甲角(クワアット)神はなにより信義を重んじ人を裏切りません。この道理だけは決して外してはなりません。」
「ああ心得ておくよ。青晶蜥神救世主と相対するに、それ以上強いものはない。」

 最後に頼るべきは神の言葉か。今にして額の聖蟲の黄金の輝きがまぶしく感じられる。答えは常に頭上に在る。

 

 

 兵師監カロアル羅ウシィの妻カロアル・ガラ讃フィリアムは忙しかった。
 忙しいのはいつもの事で、カプタニアで儀式祭典がある度に黒甲枝の家族は駆り出され準備に奔走するのだが、今回は更に特別だ。

 武徳王の親征に伴い近衛兵団が留守にする王都には、西に位置するルルントカプタニア市の防衛隊が肩代わりして入城する。だが兵のみならず官吏も多数東に移動となり、足りない数を黒甲枝の家人から募り無給で奉仕している。
 慣れない仕事だからアラが目立ち、市民からの苦情が殺到する。特に民生において支障が多く、報告書申請書嘆願書の受け付けと代筆に字の書ける婦人が多数携わっていた。

 加えて戦況の悪化だ。
 前線で激闘が繰り返される度、カプタニアにも戦死者の報が続々と届く。王都は当然軍人の家族が多数住み、ひっきりなしに伝令と公報の使者が走り回る。

 讃フィリアムは内庭に住む数少ない高官の妻である。兵師監ともなれば通常西街に屋敷を構えるものだが、大戦勃発と同時にいきなり昇進したので引っ越しの目処も立っていない。
 いきおい彼女は黒甲枝の妻達を率いる立場となる。慶弔の儀式は内庭全体で協力して行う、その幹事とされてしまった。

「これも巡り合わせというものです。」
「しかし奥様、少々物入りかと。」
「そうね…。」

 従僕のカラハチに答えながらも、髪を押さえて考える。カラハチはカロアル家の二組の従僕の内で最年長、もう随分な歳で戦場には付いて行けず王都の本宅を護っている。
 泥壁の間を抜ける狭い通路で隣人に会い、互いに会釈して道を譲る。ただし、兵師監の妻である讃フィリアムが優先権を認められ先に進む。

 黒甲枝はどこも金銭的余裕は無い。特に内庭に住んでいる家はそうだ。

 黒甲枝は軍のみならず、衛視や官僚としても王国に奉仕する。高級官僚となればあらゆる形で金銭的に儲かる道筋があり、西街に屋敷を持つにも不自由の無い裕福さを得る。
 これは汚職とかではない。褐甲角王国の産業はほぼすべてなんらかの形で官の手が入っており、軍用品や必需品の安定供給と備蓄、価格統制を行う仕組みが出来ている。官僚経験者は自ら担当する事で安定を保証し、同時に私的にも財産を得てさらに王国に税を収めていた。

 内庭に住む家は、そういう才覚者を出さない不器用な血筋と呼んでよい。軍務一筋と言えば聞こえは良いが王城の隅に固まって住むしかない清貧を託っている。
 何を隠そうカロアル家も、もう5代も高級官僚を出していない。親戚も揃いも揃ってお人好しの頑固者で頼るべくもない。

 そこに天から降って来た救い主が、つまりはヒッポドスのお嬢様である。金雷蜒王宮の廷臣から華麗に褐甲角王国の税務大臣に転身した家であり、今も富商としてまた要請に応じて官職も務めるヒッポドス家と親戚になれば、カロアル家の財務状況は大幅に改善するであろう。

「ヒッポドス様から度々のお届け物がございますが、すべて他家への進物に回り我が家では、」
「それは言わないの。」

 相身互いではあるが、戦死あるいは傷病の報せが届いた家ではそれぞれに困難と費用が発生する。葬儀は薄く身内だけで行われる仕来りだが、それだとて半年分くらいの給金は軽く吹っ飛んでいく。ましてや神兵が戦死ともなれば。

「神兵の葬儀はこの際合同で行う事にすると、軍制局と相談して決めました。王族金翅幹家の御見舞いにも各家合同であればなんとか賄えると、サノ大剣令様も御試算くださりました。」

 黒甲枝への戦死の公報は、位階に応じて厳密な細目が定まっている。
 クワアット兵であれば小剣令が、剣令であれば同格の剣令が直接に訪ねて家族に伝える。
 神兵であれば同じく聖蟲を戴く者が参って報告する。更には聖蟲の継承者の認定に、家に縁の金翅幹元老員が随行する必要がある。
 彼らへの饗応は不可欠だ。本来であれば金銭的謝礼すら必要なのだが、所持倹約の折で省くからには饗応だけでもなんとかせねばならない。形式を整えて見せるのも黒甲枝の沽券に関わる大事だ。

 共同の洗濯場に行くと、数名の黒甲枝の妻達が井戸端会議の真っ最中で誰もが額に皺を寄せて喋っている。
 どの家も男達を出しているから、遠くの戦場といえども影響は直接に返って来る。誰某の夫が息子が死んだ傷付いたの報が、王国公報よりも早くに交換されていた。神兵と共に戦場に赴く従僕達の報告は聖蟲の権威を帯びて優先され、通信封鎖もなんなく突破し王都に達していた。

「あ、これはカロアルの奥様!」

 兵師監の妻であるからには、近所の妻達が最敬礼を払うのも甘受せねばならない。正直に言って、内庭は兵師監が住まう場所ではないのだ。
 これまでの平穏無事の状況に甘えて、折角権利の取れた内庭の館を保ち王都に居続けたのは不見識かも知れない。やはり夫についてベイスラに赴き屋敷を構えるべきだった。もっともそのおかげで軌バイジャンは裕福な嫁を見付けられたし、斧ロアランは女官として取り立てられた。

「引き上げ時、なのですね。」

 一人ごちる讃フィリアムの前に4人の妻達が並ぶ。最近は王宮の呼び出しも多く、また続く訃報に合同で葬儀の準備を行い、すっかり女だけの隊列が出来上がってしまった。

「フィリアムさま、お聞きになられましたか。赤甲梢のはなしを。」
「赤甲梢と言えばボウダン街道で目覚ましい活躍をなさっておられる、メグリアル妃の? どうしましたか。」
「詳しくは分かりませんが、東金雷蜒領内に部隊を突入させて、ギジシップ島へ向かったとか。」
「?」

 黒甲枝といえども妻達が作戦について語る事はほぼ無い。おおかたの戦争は金雷蜒軍が攻めて来て褐甲角軍が守る、これだけだ。今回もその常識を裏切られていない。
 ただキスァブル・メグリアル焔アウンサ王女が先のソグヴィタル王 範ヒィキタイタンと示し合わせて敵領内への進攻作戦を企てていたのは知っている。つまり彼女達の知識通りの動きをアウンサ王女は行ったわけで、作戦の異常性は気付かれない。

 更に加えて焔アウンサは破天荒でありながらも奇跡的に物事を解決してしまう才人として知られる。女子供の知恵だが、なんとなく事態が改善に向かっている気がしてきた。

「では戦は一時収まるかもしれませんね。寇掠軍も本国を攻められては、戻らざるを得ませんから。」
「そうなればどれだけ嬉しいでしょう。王国の総力を尽すとはいえ、限度というものがあります。」
「そうですね。王都でこれだけの無理が出ているのです。前線ではどうなっているやら。」

 口には出さないが、続々と飛び込んで来る訃報に彼女達もほとほと困り果てていた。
 黒甲枝の家は当主の神兵のみならず兄弟や息子、親類縁者の多くが軍に属している。それらすべての被害報告が、彼女達の下に集中して来るのだ。王国の被害状況の実相は、彼女達こそが一番良く知っていた。
 負けは無いだろう。だが、その後はどうなるのか? 来年再来年と戦が続けば、男達が誰も居なくなってしまう。
 不安をまぎらわす為に、奉仕活動に精を出している毎日だ。

 とと、とジュバンチ家の娘が走って来る。カロアル家の隣に住む19歳で、正直器量があまりよろしくないので中々嫁ぎ先が見付からない。見目麗しいのは黒甲枝の妻の条件では無いが、色々と難しいものはある。

「カロアル様、フィリアムおばさま!」
 走る、というのは結構技量を要するものだ。特に長いスカートの裾を引っ掛けずに狭い小路を走るのは、内庭生まれの特技だろう。それだけ内庭の泥壁の家々は狭い領域に立ち並んでいる。

「ヨドネ、なにをそんなに急いでいるの!」
と一応は注意する。だが戦争が始まって以来どこもかしこも走り回る者ばかりで、慎みが無いと注意するのも愚かしい。

 ジュバンチ清ヨドネは女達の前にたたらを踏んで止まるとばっと跪き、讃フィリアムに頭を下げた。
 皆戸惑う。確かに兵師監の妻にはそれくらいの礼儀は必要だろうが、ここは内庭。誰も堅苦しい礼儀を振りかざしたりしない。第一ヨドネはがさつな所もある娘だ。

「カロアル様、」
 上げたヨドネの顔には真剣な表情がある。何事か注意しようとした誰もが口篭る。

「フィリアムおばさま、ただちに御館にお戻り下さい。お待ちになられている方々がございます。」

 はっ、と女達は息を呑む。用件を清ヨドネがはっきり言わないのは、彼女達がここ1ヶ月日常的に接しているアレだからだ。

「わかりました。ヨドネ、案内をよろしくね。」

 カラハチを先に家に戻しその場に居た女達に礼をして、讃フィリアムは泥壁の迷路を進む。
 覚悟はあった。夫は神兵で聖蟲を戴き、その上兵師監で普通自らは戦わない。部所も難民移送団という実戦からは遠いものだ。だとすれば、息子の軌バイジャンが。

 急がないが、早足で歩く。前を行く清ヨドネが頻りに振り返り自分の顔を確かめる。
 彼女は斧ロアランの姉のようなもので、幼い頃からたびたび遊んでもらった。代りに簿記と文学を教えたのだが、あまり良い生徒ではない。勉強も裁縫も苦手で武術が好きな困った娘だ。

 先に帰した老僕が戻って来て、仔細を伝える。歩みは止めないものの、顔色が段々白くなるのを自分でも覚えていた。

 白茶色に乾いた高い泥の壁に挟まれた小路に、十名以上のクワアット兵と賜軍衣の人が窮屈そうに立っている。
 最初に讃フィリアムに気がついたのは、このところ毎日顔を会わせているサノ大剣令。もちろん神兵で軍制局彰礼課、黒甲枝の主に剣令以下の身分の者の表彰や追悼、戦死の公報を司る役職にある。

 その向うに見えるのは、黄金の肩飾りが輝く元老員、金翅幹家ダディオ直スゥスィヒ様だ。ダディオ家はカロアル家の主筋に当り、歴代当主が聖戴を受ける際には必ず武徳王の傍にて口添えをしてくださる。
 彼の姿が有るのは、聖蟲に関して重大な事態が発生した証しだ。神兵が亡くなると必ず元老員がやって来て、次代の継承者の確認を行う。

 そして、彼の先に居るのが、

「…チュダルム様…。」

 黒甲枝の筆頭たるチュダルム家はその多大な功績を賞せられ幾度も元老院金翅幹家に昇格せよと求められたがことごとく断り、頑に内庭の一角を占有し軍務に専念し続けている。
 だから内庭に住まう者は誰もがその姿を心得ていた。

 チュダルム冠カボーナルハンは既に老人と呼ばれても仕方のない歳ではあるが、兵士統監として軍制局を指導し今次大戦のすべての作戦を掌握している。
 その彼が、直々に戦死の公報を持って来たのだ。

 讃フィリアムの亡き父に似たがっしりとした体型の彼は、離れた場所に立つ彼女をカロアル兵師監の妻と認め、深々と頭を下げた。

 

 

【エピローグ 〜或る黒甲枝の決断〜】


 青晶蜥神救世主蒲生弥生より、ベギィルゲイル村守護黒甲枝ジンハ守キンガイア殿に謹んで文を奉る。

 先日の貴公との立会い以来これまで表立っての黒甲枝による攻撃を被らずに済んでいる。これも皆武徳王陛下の御威徳あらたかにして訓令の行き届きたるものと覚え、他界より参った我が目からしても流石神軍の有様なるかと深く感じいる。
 願わくばこのままに褐甲角王国とは平穏無事に友誼を保ちたいが、時代の変化は留まるを許さず誰も行方を知らぬ向きに流れていく。
 ここにおいて、我は流れに抗する一塊の岩を必要とする。この岩は天河二千年の計画の掉尾を締めるものにして、新たなる千年の幕開きを司る。これなくしては救世の聖業は為し得ず、方台幾百万の人民生命の安寧も望めない。
 つらつら我が元に集いし人士の顔ぶれを眺めるも任に耐うるは見当たらず、改めて世を省みて思い出したのが貴公だ。元よりこの任黒甲枝にこそ相応しく考えるべくも無かったが、デュータム点ウラタンギジトにて我を囲む神兵に托すに足る者少なく、また政略謀議の渦巻く中で真に高潔な者を見抜くは難しい。褐甲角王国において唯一巌の如くに変心せぬと信じ得るは互いに剣を交わした貴公のみ、というのが救世主の偽らざる現実だ。

 故に、貴公に御頼み申す。
 我は既に赤甲梢を率いるキスァブル・メグリアル焔アウンサ王女、メグリアル劫アランサ王女と諮りこの大戦に終結をもたらす策を講じている。赤甲梢が単独にて国境線を破り敵国王都への進攻を行ったのは御身も御存知であろうが、その先の筋書きもまたベギィルゲイル村にて定めてある。
 メグリアル妃は金雷蜒神聖王陛下を討つにはあらず、和平の使者として赴いた。その道中武力にて立ち塞がるを排除する強行策だが神聖王陛下の御心を動かすに他の手段は無く、また金雷蜒神族全ての承認を得るにも実力を以って示すしかない。
 幸いにして今赤甲梢がギジシップ島は神聖宮に見事到達し和議に入ったとの報を得た。だがメグリアル妃の権にてはここまでが限度、真の和平は神聖王陛下と褐甲角武徳王陛下が対等なる立場にて会談せねば成り立たぬ。

 我に与えられし天河の計画はこの会談の成立であり、両王国が互いの存在を公式に認め合い方台を秩序の内に統治するものである。
 だがその場に我の姿は無い。天河にても意見の合一は容易からず、我の行いに厳しき眼差しを投げ掛ける神も在る。その神の下す試練を我は受けねばならず、また許されたとしてもなお苦界にて巡礼し新たなる御命を頂かねばならぬ。
 我の不在は両王国の和平を北風に吹かれる枯葉の如くに脅かすであろう。旧来の秩序を護る者、新たに戦を望む者、次代の覇権を握らんとする者、全てを滅びに投げ込む者、方台に住むありとあらゆる人が己が理想の世界を求めて邪に力を奮うだろう。動乱自体はこれも天の定めるところにして人の全て醜さ卑しさまた尊さ潔さが神殿に奉じられるを望まれる。多数の生命もまた火中にくべられるが、民衆を救う為に唯一点我に許される術がある。

 それが、ベギィルゲイル村を東金雷蜒王国神聖王陛下西幸の行宮とし玉身の安全を保つ最後の砦と為すことだ。
 褐甲角王国に金雷蜒神聖王陛下が和平を求めて在る限り、その安全は最終的に黒甲枝の手によって護られねばならぬ。あらゆる謀略を打ち砕くはひとえに褐甲角神の指し示す信義と契約の精神である。地上において神の意志を顕すは黒甲枝の生きて立つ姿に他ならない。これある限りどのような姦計も方台の平和を妨げる事は無い。

 我は青晶蜥神の化身として世の人に崇められるが、正真は所詮只の人である。それも仮初めの客であり不滅は天河の計画に無い。死ぬ時はやはり死ぬ。
 同じ死を賭して方台に尽くさんと志す者として、我が頼みを貴公が聞き届けてくれるのを切に願う。

あらあらかしこ

 

「これを持って来たのは、その方か。」

 ベギィルゲイル村、現ゲルワンクラッタ村の守護ジンハ守キンガイアは、5名の神兵と共にこの文を受け取り内容を確かめた。

 ゲルワンクラッタ村は毒地中を南北に貫く古街道の出口付近にあり、褐甲角王国に亡命するギィール神族を迎え入れて来た村だ。この夏、神聖首都ギジジットからのガモウヤヨイチャンの到来も受けた。特に重要な地点の一つと看做され神兵による防衛隊も特別に配置されており、まずは万全の体制を整えている。
 もっとも今次大戦においては赤甲梢兎竜部隊がボウダン街道近辺の寇掠軍を根こそぎ撃退してしまったので、彼らは暇を持て余してしまう。

 最前線の無聊を嘆きつつも安堵していた中で晴天の霹靂と聞いたのが、赤甲梢単独での敵国領内侵攻の報だ。
 にわかに動く戦況に警戒を強める中、彼らは「青晶蜥神救世主の使い」と対面していた。

 クワアット兵が囲む天幕の下、土の床に木の椅子を並べただけの簡素な司令室で尋問は行われる。
 5人の神兵は重甲冑こそ装着していないが臨戦体制を解かず、殺気を漂わせたままだ。だが男は怯まず平静の表情のままに地に胡坐をかいて座っている。

 怪しい人物ではない。いや、この男の風貌と醸し出す気配は黒甲枝の誰もが慣れ親しんでいた。どう見ても彼は、重代黒甲枝に仕える忠実な従僕だ。
 年齢は40代前半、いかにも誠実木訥で主人の命には従順なるも筋道が違えば梃でも動かぬ頑固さを兼ね備える。日に焼けて肌が部分的に黒くなっているのは、この夏も従軍して居た証だ。

 古街道出口を護る防衛隊の隊長は中剣令コドンプ、神兵5とクワアット兵300を預かる。彼が代表して使者を尋問した。最初の質問はもちろんこうなる。

「どちらの御家に仕えている。」
「ボウダン・グルンのデェンガハ家でございます。」

 神兵達は心当たりを話し合い、一人がデェンガハ家を知っていた。ボウダン・グルン県はデュータム点のすぐ西でボウダン街道の出口、王国西側への入り口となる。

「デェンガハ家の従僕が何故青晶蜥神救世主の使いを務めるのだ。」
「ガンガランガの戦闘で我が主人はめでたく討ち死になされ、若君様お二人も深手を負われた為に、デュータム点の救世主様に快癒の御願いに参りました。その折に。」
「お、おおそうであられたか。我ら先達に遅るる事無きよう、よろしく御導き頂きたい。」

 神兵達は椅子を立ち、地に跪く従僕に最敬礼を捧げる。彼も地に伏して礼を述べた。

 改めてその従僕を見るに、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンがいかに人の心を鷲掴みにするか、よく分かる。このような誠実な男を使いとすれば黒甲枝は決して黙殺出来ず、真剣に申し出を検討すると見切っているのだ。
 隊長の後ろで書状を回し読みした神兵はひそひそと互いに論じ合い、最終的にジンハに解答を任せた。間違いなくこの書状は彼に当てられたものであり、彼のみが答える権利を持つ。

 ジンハは突き刺さるほど険しい眼差しで葉片を睨み、隊長のコドンプに告げる。

「この書状は、無視出来ません。」
「当然だ。早速にカプタニアに連絡して然るべき筋で如何にすべきかを検討してもらおう。我らの権の及ぶ問題ではない。」
「それは必要な措置ですが、青晶蜥神救世主は我ら黒甲枝に直接語りかけております。」

 神兵は一斉にジンハを見る。今の言葉に重大な決意を直感した。
 時代の空気であろうか、赤甲梢の敵国領内突入以来黒甲枝は誰もが浮き足立つ自分を抑えられない。単に命令に服するのみならず、自ら王国の将来の為に働くべきだと強く思う。壮挙に魂が震えたというべきか。

 ジンハの言葉に神兵は皆心が動く。だが同時に反逆に近いものとも理解する。軍制局いや元老院、ハジパイ王を頂点とする王国政治の根幹に真っ向から挑戦する行為だ。

「守キンガイア、お前はまさか、これを受けるつもりではないな?」
「隊長はいかに御考えです。和平の使節が謀殺されないと、言い切れますか。」
「和平を受けるか否かは陛下の御心次第だ。我らの口出しすべき事柄ではない。第一、まだ誰もその申し入れを聞いていない。」

「青晶蜥神救世主が語る天河の計画です。誰も予想しない速度で事態は進展するでしょう。その時いかに対処すべきか、です。」
「それは…。」

 普通に考えると、元老院が討議すれば軽く1年は時を無駄にする。和平会談が実現するにしても、場所をどこにするかで大きく揉めるはずだ。
 いや、和平を望まぬ者は双方に多数居る。会談の最中でもギィール神族は寇掠軍を仕立てて来襲し、褐甲角王国では赤甲梢に続いての敵領侵攻を企てるだろう。
 和平などあり得ない。これが方台全ての人間の常識だ。金雷蜒褐甲角両王国共に互いを不倶戴天の敵と見做し、殲滅以外の選択肢を持たない。方台を統べる神は唯一であるべきだ。

 コドンパはそこまで考えを進めて、青晶蜥神救世主が何を語っているかようやく理解した。奇蹟が起きるのだ。
 深く椅子に身体を沈めて、コドンパは息を吐く。

「守キンガイア、お前は青晶蜥神救世主の言葉が我らを挑発するものだと、気付かないのか?」
「挑発しておりますな。黒甲枝が何者であるかを自ら示せ、と。」
「褐甲角王国の国是では、何事も独断は許さず衆議に掛けて決定せよ、となっている。反するとは思わぬか。」
「思いますが、ガモウヤヨイチャンは我に巌になれと望んでおります。岩には口はありませぬ。」
「うむ…。」

 真実と認めるものの前では、人に逡巡は無い。自らが為すべきと信じる道をただひたすらに突き進む。我が身を滅ぼすと知っていても、止まれない。
 コドンパも真実の前に屈伏した。

「いかなる事態に陥ろうとも、王国の威厳を損なう事は許されない。命令の到達が間に合わないと分かっていればなおさらだ。受入れ体制を調えよう。」
「隊長…。」
「だがあくまで名目は違えるぞ。青晶蜥神救世主がベギィルゲイル村に再度訪問される可能性があり、その安全を最大限に保証するのだ。」
「は! そのように兵には指図します。」
「各々方は異存があるか。今ならば、反対の意見も受け付けよう。」

 だが彼らも同心した。自分達はひょっとしたら狂っているのではないかと思う。狂ってはいても、漫然と命令を待ちわびるより神兵としてよほどまともだ。
 それに彼らは見たかったのだ。自分が神兵として最大に輝く姿を。己が生きる証を歴史に刻み込む、その手応えが欲しかった。

 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンは間違いなく活躍の場を与えてくれる。これだけでも彼女の計画に従う理と成り得る。

 

 使者が帰って2日後から本格的な受入れ準備が始まった。まるでジンハが承知すると最初から知っていたかの早業だ。

 総責任者はジャガジャーハン・ジャバラハンと名乗るゲジゲジ神の高位神官で、多数の人足や神官戦士を動員して村に続々と荷物を運び入れた。
 その人の数と絢爛豪華な調度類にゲルワンクラッタ村の住民は目を丸くする。3ヶ月前弥生ちゃんが滞在した際にはほんのわずかの必需品しか持ち込まなかったが、今回はカプタニアの王城がそっくり引っ越して来るほどの宝物の山だ。

 あまりに高価な品々に神兵達は怖れを為した。
 褐甲角王国が本気で金雷蜒神聖王を迎え入れるにしても、ここまでの準備は出来ないかもしれない。これを弥生ちゃん単独で行うとすれば、武徳王と青晶蜥神救世主とどちらが王国の主か分からなくなってしまう。

 神兵は思わず現場責任者の一人である神官戦士をつかまえて尋ねる。

「これほどの財宝を、ガモウヤヨイチャン様はいかにして手に入れられたのか?」
「これらはすべて褐甲角王国金雷蜒王国の富豪富商あるいはギィール神族の方々、さらには善男善女の御寄進によるものです。」

「救世主様は他にも財宝をお持ちか。」
「いえ。聞くところに寄りますれば、ガモウヤヨイチャンさまはこれにより「シュカンピン」になられたそうです。」
「なんだ、「シュカンピン」とは?」
「星の世界の言葉で『無一物』を表すそうです。ガモウヤヨイチャンさまは、御自分がお持ちの財宝はすべて民衆のものであり、民衆が自ら金雷蜒神聖王陛下をお迎えするのだと御説明になられております。」

 神兵達は絶句した。
 救世主が無一物になったという噂はたちまち四方に行き渡り、その思い切りの良さ潔さが求心力のさらなる増大に拍車を掛ける。多くの民が彼女の下に押し掛け、なけなしの銭や一椀の粥をも捧げ、命も惜しまず尽くさんとするだろう。
 民衆自ら金雷蜒神聖王を迎える準備をするとは、つまりカプタニア中央が差し止めようと試みれば民衆を敵に回す事を意味する。神聖王の入国を拒絶すれば、ガモウヤヨイチャンの指し示す天河の計画に背いたと、民衆は暴動をも起こしかねない。

 コドンパは背筋に冷や汗を感じながら、言った。

「未だ、対処を求める文は陛下の元にもカプタニアの元老院にも届いておらぬだろう…。」
「ガモウヤヨイチャンという人は、あまりにも早過ぎます。手間の掛る王国の合議制ではとても追いつきません。」

「ジンハ様。」
 ゲルワンクラッタ村の守備でジンハに従っている小剣令が、不審人物を捕縛したと報告して来た。その者は札つきの御尋ね者であるが、自ら出頭したという。

「いま参る。」

「薮隠れのバゲマゲにございやす。」
「お前が、あの!」

 ”薮隠れ”の異名を持つ盗賊の頭バゲマゲはボウダン街道全域を荒らし回り、王国の巡邏が血眼になって追う一人だ。
 彼は10数名の手下を率いてボウダン街道の隊商を襲う凶賊として怖れられる。聖山の森をねぐらとする為に捜索は難航を極め、長年の努力にも関わらず尻尾を掴まえる目処すら立っていなかった。

 その盗賊が、何故か自ら縛を求めて現われた。しかも金雷蜒神聖王の受入れに混雑するこの村に、だ。

 村長の家の裏にある倉庫が、仕置き場として罪人を取り調べるのに用いられている。ジンハは一村守護としてここを何度も使い、不審者や密輸業者を尋問し処断した。 
 倉庫の土の床に、後ろ手に縛られ跪かされた男が有る。
 一見して男のふてぶてしさに反省の色は見えない。ただ、ジンハを神兵として怖れる風も無い。聖戴者の前に出ると、どのように胆の座った者でも或る種の震えを覚え緊張するのだが、彼には無い。

「事情を説明してもらおう。お前は自ら裁きを求める殊勝な者ではない。また捕まれば必ず死罪になると知っておろう。何故変心した。」
「さようにございやす。儂は誰はばかることなく人を殺し荷を奪い女を犯してなんの悔いも無い、腐れ外道でございやす。今更反省したところで、天の河原で生首を蟹に啄ばまれると定まっておりやしょう。」

「何があった。なにがお前にそうさせた。」

 袖なしの毛皮の服を着る、むさ苦しい髭に顔全体を覆われた四十絡みの男は、縄目の厳しさに身をよじり脂汗を垂らしながらも、ジンハの問いに真剣に答える。

「儂らはいつものように獲物を探して街道を見張っておりやした。最近は兵隊の行き来が激しくてろくなお宝にありつけず焦れてたところ、いきなり凄いお宝を背負った大行列がやってきたわけで。」
「うむ、青晶蜥神救世主が遣わした隊列だな。」
「儂らは神をも怖れぬたわけ者でやすので、しめしめと襲いかかりやした。だが宝を警備していたのが建群、けんぐ?」
「青晶蜥王国建軍準備委員会であろう。青晶蜥神救世主の作らんとする軍隊の準備を執り行う者だ。」

「そうそれです。その人達が言いやした。この宝は神聖王さまに捧げるものだから、血で濡らすわけにはいかぬ。好きなだけ持っていくがよいと。」
「うむ。」
「それでなんの行列か聞いて、救世主さまが下々の民の平穏の為にゲジゲジ神の王様を迎える準備をなさっているとかで、お宝にケチがついてはいけないと特に言い付かっているそうです。それを聞きやしては儂らも盗むわけにはいきやせんや。」

「そうであるか。殊勝である。だが何故自ら縛を求めて出頭したのだ。」
「それです。千年に一度の大祭ということで、手下共にはお宝を担いでガモウヤヨイチャンさまにお仕えするよう命じやしたが、いざ自分で背負おうとするとどうにもいけねえ。このお宝は血で汚しちゃなんねえものだけど、儂の手はまったくもって汚れきって、こんなまぶしいものを触るわけにはいかねえんですよ。」

「そうか、それでお前は自らの罪を認め裁きを求めて現われたのだな。」
「さようで。儂も人に名を知られる大盗賊でございやす。人の世の規は踏み破っても、汚しちゃなんねえものがあるくらい知っておりやす。今死ねるのなら救世主さまの御導きもあろうかと、このように参上したわけです。」

「うむ。」

 ジンハ守キンガイアは考える。
 この男は決して義賊などではなく、人を苦しめるのに喜びすら覚える人非人である。にも関わらず、しかも直接会ったわけでもないのにガモウヤヨイチャンは男を感化し罪の意識を芽生えさせた。如何に神兵が無敵の腕力を振るっても、この奇蹟には遠く及ぶまい。

 ジンハは改めて心中決意を深くした。この罪人が命を捨てても護ろうとするものに、自分も命を懸けねばなるまい。この男と同様に、全てを投げ打って時代と格闘せねば。

「”薮隠れ”こと盗賊バゲマゲ! お前の罪状は明らかにして即刻の死罪を免れぬものであるが、今は東金雷蜒王国神聖王陛下、さらには青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様を迎えんとする準備の真っ最中である。かかる時に罪人の血を流すは不吉にして不敬であろう。しばし村の牢内に留まる事を命ずる。」
「おありがとうございやす〜。」

 後ろ手に縛られておりながらも、盗賊は額を地に擦り付けて礼をする。暗い土に跪くその姿に、見つめる者達はいまや神々しさすら感じていた。

 

 その夜、ジンハは村の自分の家に戻った。一村守護はもちろん村に家族を住まわせている。
 夕食の前に、妻と三人の子供を呼び集めた。

 家の周囲は、夜だというのに村全体が未だ受入れの準備で騒がしい。通常の4倍の人間が村に入っていた。遠くから聞こえる人の声に、ジンハの妻は窓を閉ざす。暦はまだ夏ではあるが、夜風はもう冷たさが肌に感じられる。

 灯木の緩やかな光の下に、ジンハは三人の子を抱いた。長男は10歳で今年からデュータム点の軍学校に入るはずだった。長女は8歳、次男は5歳。三人とも毎日表を飛び回り、多数押し寄せる準備の行列と運び込まれる財宝に目を丸くしている。

 いずれも漆黒の髪を柔らかく長く伸ばしており、撫でる無骨な神兵の指に優しい感触を与えた。
 父は言った。

「お前達三人の命を、父さんにくれないか。」
「え? なに?」

 王族貴人が地方の村や町を訪れた際には地元の有力者の子供、童子が儀礼的に給仕すると礼典で定められている。もちろん通常は些細な失敗や欠礼は大目に見られるが、何しろ相手は気まぐれなギィール神族の頂点、金雷蜒神聖王だ。
 ゲルワンクラッタ村でも神聖王を歓待する際には子供を差し出すと決めたが、未だ誰を当てるか定まっていない。ジンハの子供達も候補に上げられたが、小さいとはいえ黒甲枝の子だ。下手な難癖をつけられる可能性が非常に高く、無難に避けるべきと合意された。

 だがジンハは、

「お前達も知っている通りに、もうすぐ東から金雷蜒神聖王陛下がこの村にお出でになる。王様を迎える時は、子供がお仕えすると定まっているのだ。それをお前達に務めてもらいたい。」
「父上…。」

 長男はさすがにもう軍学校に入る歳だ、それがいかなる意味を持つか十分分かっている。子供とはいえ粗相があれば容赦なく命を取られるだろう。
 彼は幼いながらも既に黒甲枝としての自負が有る。だが妹弟をその危険にさらすのは、流石に躊躇った。

 娘が言った。

「父上、私金色の着物をきられるのね。」
「あ、ああ。」
「もしまんいちの時は、ガモウヤヨイチャンさまがおいでになるウラタンギジトに向けて眠らせてね。」

「!、…。」

 ジンハは何も言えず、娘を抱きしめた。子供たちは彼らなりに方台の未来に向かい懸命に歩いている。運命を避けようとしない。
 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン降臨の影響は、その人となりの噂は、年少の者にこそ強く働き掛ける。まだなんにも判らないと思っていた娘は、父親の知らない間にすっかり小さな弥生ちゃんになっていた。

 ジンハは三人の我が子を抱いて、力強く言う。妻はその姿に思わず涙を零した。

「だいじょうぶだ。父さんはお前達を死なせはしない。絶対護ってみせるからな。」

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