ゲバルト処女
エピソード5 天下泰平火事ぼうぼう、弄せずして果実は掌に転げ落ちる

前篇

 

 

 不思議な話がある。

 黒衣をまとった長身細身の人影が、戦場の諸所に現われるというのだ。
曰、
『毒地内に長年放置されて居た廃村に進入しようとした寇掠軍の一行。その前に彼の人が現われ、入ってはならないと警告した。
率いる神族が無視して押し通ろうとすると、その人はいきなり漆黒の獣と化して旋風のように暴れ狂った。驚いた一行が後退した数刻後廃村全体が陥没して地に呑み込まれたが、誰も犠牲にはならなかった。』

『クワアット兵の偵察隊の一行が毒地内でゲイル騎兵に追い回されて道に迷い渇きに苦しんでいた時、目の前に清らかな小川が現われた。皆が喜んで水を飲もうとすると、その人が現われて、この水は毒だから飲んではいけないと警告し安全な水場にまで連れていってくれた。』

 その人は目が非常に細く吊り上がっていて、男とも女とも判別がつかない。肌は青味さえ感じさせる色白で髪は子供と同じく漆黒だ。年齢は不明だが、かなり年配の人が備える深い淵に似た知性を感じさせるという。
 全身に継ぎ目の無い革の黒衣は、裾がやぶれてつづらとなり地面に引きずっている。
 動きは軽く重さを感じさせず、大きく跳ぶと10メートルを越えるも足跡は地に残らない。

 なにより彼は強かった。怖れを知らぬギィール神族がゲイルで踏み潰そうとし、火焔を吹き掛けてみても、鋼鉄で出来ているかの如くに身じろぎ一つせず、却って攻めた者が自らを損ねて撤退するそうだ。

 兵達は誰言うとなくこの人を、古えの軍記に記される激戦の渦中にのみ現われる「コウモリ神人」ではないかと噂した。

 ギィール神族も黒甲枝の神兵も、兵達に混ざって話をしようとはしない。
 彼等は知っていた。彼の人が現われる戦場では、聖蟲を戴く者が死ぬのだと。

 

第一章 故に蒲生弥生ちゃんは最強である。

 

 創始暦5006年 夏旬月十八日。
 ウラタンギジトの神祭王は外交司ゲマラン昧マテマランから、今日の刺客の予定を聞いた。

「殿下、本日訪れる者はなかなかに有望ですぞ!」

「ほお、そなたがそこまで入れ込むのであれば、よほど思い切った手段を用いるのだな。火攻めか、ウラタンギジトを火に掛けるか。」
「いやいや、そのような俗な手法ではございません。これで弑せないとなれば、人の力でガモウヤヨイチャンは止められませぬな。」
「期待しよう。だが、我が兵を損なうのは面白くない。」
「心得ております。警備の者には今日は休みをくれてやり、最小限の人数のみを当てました。」

「うむ。午後の予定は開けておいた方が良いか?」
「さて、それは刺客の首尾次第。」

 

 

「ガモウヤヨイチャンさまは、どうしてそんなにお強いのですか?」

と尋ねられ、弥生ちゃんは強さの秘密の一端を十二神方台系の人々に伝える事とした。

 その頃ウラタンギジトでは、弥生ちゃんについて来た神官戦士団と、メグリアル劫アランサに仕える赤甲梢のクワアット兵との間で衝突が頻発していた。親分である二人はとても仲良しなのだが、その分下に就く者達は互いの優劣を自身で定めようと試みる。
 元々ここは褐甲角王国だと主張するクワアット兵に対して、方台全土を守って来たのはタコ神救世主ッタ・コップ以来の神官戦士だと、譲らない。権限においても、神官戦士団には神殿都市ウラタンギジトの兵が加勢するし、クワアット兵の側も城壁の外にはメグリアル特別区から応援の褐甲角軍が控えていて大概の無理は効く。

 どちらも武勇が自慢だから互いに剛の者を出して決闘まがいを繰り広げるに及び、さすがに介入せざるを得なかった。

「参ったね、どうも。」
「申し訳ございません。騒いだ兵は直ちに謹慎処分として、以後このような非礼の無いようにいたします。」
「いやそれじゃあ解決にならない。」

 善後策に悩んでいたところに、この質問だ。弥生ちゃんはぽんと手を打った。

 

 とりあえず、双方から10人ずつを選んで芝生に呼び集めた。王女のアランサには「ひみつ」と遠慮を願い、巫女のフィミルティとファンファメラだけがついて来る。もちろん、旗持ちのシュシュバランタは一緒だ。

 人頭のぴるまるれれこ旗が翻る下、木箱を台として乗り、弥生ちゃんは講習を開始した。

 トレードマークでもある門代高校の青い制服は脱いで、トカゲ巫女が縫った夏服を着ている。形状は制服に倣い色もやはり青だが、荒い麻っぽい布地を用いて涼しい。練習の最中ではあっても腰にはちゃんとカタナを吊るしてあるが、ちと邪魔だ。

「あー、私が強いのはまあトカゲ神の神威に依るところが大きいのは当たり前だが、生身の人間としてもそんじょそこらの女の子ではないわけだ。」
「ははっ。」

 と男達が答える。いずれもこの好機に喜び勇み、仲間内でくじ引きして選ばれた者達だ。目の輝きが違う。

「早い話が、私は星の世界の武術にいささか心得がある。極めて実戦的なものであるから、こうして異世界に飛ばされたとしても十分対処出来ているのだね。これは単に武術というだけでなく、身の安全に対する気配り用心の仕方、暗殺の防ぎ方奸計からの脱出の仕方までも教えてくれる、非常に優れた知恵である。うん。」
「はっ。」

 蝉蛾巫女のフィミルティは武術にはまるで関心が無い。妙な張り切り方をして本人がケガでもしないか、とハラハラして見ている。
 一方秘書であり青晶蜥神救世主の公式事績記録員であるカタツムリ巫女ファンファメラ、美人ではあるが乳が小さい為にカタツムリ巫女界では大損をしている、はとりあえず伝記に書くべき話が一個増えた、と複雑な表情で眺めていた。
 彼女の見る所では、弥生ちゃんという人は恋愛沙汰にはまるで興味が無いくせに、男好きだ。媚びを作ったりべたべた世話を焼いたりはしないが、筋肉ムキムキの戦士達が自分の指示に従って全力で動き回るのを満足げに目を細めて見ている。無論弱者に対しても最大限の優しさ憐れみ慈しみ心配りを持ち合わせているのだが、お気に入りは目の前に並ぶむくつけき男なのだ。

 そういう観点で見れば、旗持ちの太鼓腹の大男もなるほど弥生ちゃんの趣味には合っている。護衛や兵を連れずに危うい場面に出向いていく時にも、この旗持ちだけは連れていく。かと言って彼に守ってもらう事は無く、むしろシュシュバランタを助けている。小柄な女の子に庇われる肥満質の巨漢、絵にすると実に滑稽だ。
 ファンファメラは、そこのところを合理的に説明してどうやって後世の人に伝えるべきか、苦心している。

 弥生ちゃんの説明は続く。

「つまり、私がやっていた武術は個人の技量のみに頼るものではなく、同じ技術を会得した仲間が集団となった時には更に強力に連携出来、しかも敵を傷付けずに取り押さえるという慈悲深き対処も行える、実に有り難い教えなのだ。」
「・・・!」

 右手で手刀を切って拝む姿を見て、神官戦士とクワアット兵も倣った。

「しかあーし、それほど強力な武術であれば、人に見られてはなにかと差し障りがある。特に集団での戦闘訓練というものは、軍隊等ではよろしいが、民間人が徒党を組んで行っているのは治安上も芳しくない。かと言って練習せねば強くはなれぬ。折悪しく、そういう事をやってはならないとする社会風潮にもさらされて、一時はこの武術も歴史の闇に埋もれて消え去る窮地に追い込まれた。」
「おお、おおお。」

「それを画期的な手段で解決したのが私の御師匠様にもあたる、タチバナカユミ様だ。この御方はお知恵を絞られて、人前で練習しても奇異に思われない斬新な練習法を開発なされた。それを日夜行う事で、私は強くなれたのだ。」

「教えて下さい、ガモウヤヨイチャンさま、その御法をお教えください!」

「焦らない!
 つまりは、それは一種の遊戯なのだ。私の世界には互いに定められた人数の仲間を集めて行い覇を競う、優れた肉体遊戯がある。選りすぐられた男達が長年の修行の末に身に着けた神技によって競い合う、実に立派な仕事だ。彼等は給金に驚くような大金を与えられ、人に騒がれる人気者であり、美しい妻を娶り、出世の糸口さえも掴む。凡人も彼等を真似て隊を作り日夜練習をして競い合っている。
 タチバナカユミ様はこれを利用、いや悪用しようと考えられた。つまりはこれに擬装して、おおっぴらに白昼堂々と武術の練習をしようと思いつかれたのだ。
 この遊戯はそれだけ真剣なものであるから、時々の審判の判定を巡ってしばしば対立が起り、乱闘に発展する事もある。この乱闘を故意に引き起こして、遊戯の上での対立だと言訳をする、かなり姑息な方法ではある。

 で、どうする? 選りすぐられた男達が行う立派な遊戯、これは殴ったり蹴ったりしてはならないが、当たると死ぬ硬い球を用いて行う。私がやっていたのは、武術の技を極める為に乱闘を旨とするが、球自体は割と柔らかい死なないものだ。」

 男達は迷うことなく後者を希望した。元々が強さの秘密が知りたいのだから当然だが、弥生ちゃんはちょっと残念そうな顔をした。

「いいでしょう! 武術の名は『厭兵術撥法』、遊戯の名は『ゲリラ的美少女野球』、だ!」

 

 控えていたフィミルティに合図を送り、かねて用意の野球の道具が配られた。本物が方台に有るはずもないが、代用品を見繕って弥生ちゃん自らが仕入れて来た。特注品もある。
 彼等は思い思いに道具を手に取ってみるが、やはり最も強力な武器に思われる棍棒に人気が集中した。取り合いになるのを、ぱんぱんと手を叩いて止めさせる。

「あー、厭兵術の練習をする前に、まず野球を一通り覚えなきゃいけない。決まりは簡単だ。敵味方交互に攻撃を行い、これを9回繰り返して点数の多い方の勝ちとなる。その白い座布団!、これを野原に真四角に置いて、左回りに走りぬけて元居た位置にまで戻ってくれば一点だ。ただし、その球が座布団を守る者の手中に落ちた場合は走れない。また座布団から足が離れていた場合に球で触られると失格となり自陣に戻らねばならない。走者が3人失格した場合攻守を交替する事になる。で、攻撃の方法だが。」

 弥生ちゃんは棍棒を手に取り、掌に乗る革鞠をぽんと宙に投げ上げて、棍棒で叩き上げた。革鞠はかなり景気良く飛んでいく。悪くない感触だ。

「正面座布団の位置において、攻撃者は革鞠を叩いて野に放つ。革鞠は守備者の長が守りの中心位置から攻撃者に向けて投げる。つまりは、投げる者と打つ者との一騎討ちだ。」
「一騎討ち、おお決闘ですな。」
「その通り! この対決には万金の価値があり、古来幾度も名勝負が繰り広げられた。長年鍛え抜き技を精進した投球者の渾身の一球を、攻撃者が研ぎ澄まされた棍棒の一振りで打ち砕く。3回打ち損なうと失格して攻撃者は次の者に代る。また打つ事の出来ない位置に球を4回投げると勝負に負けて、攻撃者は座布団一個分の進出を許される。首尾よく球を叩くのに成功すれば、ひたすらに座布団目掛けて走る。順繰りに、前の自軍の走者を追い越さないように、球が我を叩かない内は走り抜け、出発点の座布団を落し入れて、一点だ。」

「難しいですな。」
「まあね。で、この革の手袋を用いて、高速で飛んで来る革鞠を受け止める。
 ここに、この遊戯の武術への応用性の高さが示される。つまり、遊戯は道具無しでは行えない。棍棒と革鞠と手袋、という武術において基本となる機能を持った道具が必須なのだ。革鞠を投げるのは投石に繋がり、棍棒は勿論打撃に、手袋は防御に、そして野原を駆け回る事で遊戯を楽しみながらも武術を十分に鍛える事が可能となる。」
「なるほど。」

「さて。」

 と、男達の輪に加わる。

「あんたたちの興味は遊戯じゃなくて武術の技だ。とりあえず厭兵術の基礎をやってみよう。えーと、そこの、カプリャン!」

 神官戦士カプリャンが呼ばれて前に出た。彼は身長が180センチもある。上半身裸で、夏の日差しに汗で筋肉が光っている。
 弥生ちゃんは革手袋を手に取り、彼にも与えた。

「手袋は球を取る為のものだが、これで人を叩いてもさほど痛くはない。安心してぶっ叩ける。こんな感じで私の手袋を突き飛ばしてごらん。」
「ガモウヤヨイチャンさまのように、両手で手袋を前にかざすのですな。では参ります。」

 ぽっと革手袋を突き出すが、遠慮があって届かない。弥生ちゃんが眉をぴくっとしかめたので、慌ててカプリャンはもっと大きく突き出した。が、やはり届かない。ちゃんと当てたはずだが、ひょっと手袋を後ろに下げられたのだ。周囲で見守る神官戦士クワアット兵が鼻を鳴らして彼の不首尾を責める。焦って三度目にはかなり大きく振りかぶって、的にぶち当てた。

 はずだったが、何故か彼は芝生に寝転んでいる。上からばしっと手袋で頭を叩かれた。

「・・・なにを、なさいました。」
「あんな何も考えてない振りじゃあ、ひょっと避ければそりゃ転ける。次!」

 今度はクワアット兵が前に立つ。脇から見ていた彼には、弥生ちゃんが何をしたかはよく見えた。手袋が当たる前に脇に避けたのだ。であれば、

「・・・ぽへ。」
「次!」

 彼は下から突き上げる形で手袋を叩こうとした。的が避けるのを承知で慎重に確実に当てていったのだが、なぜか距離が足りない。上半身が前に泳ぎ出た所を上から叩かれ、芝生に落ちた。身長で20センチも違うのに上からだ。

 三番目に立ったのは神官戦士だ。クワアット兵と神官戦士とは、交互に教えを受ける決まりにしたようだ。
 彼もまた前二人のやられ方を見て考え、思い切ったスピードで右肩から振り下ろし当てに行った。救世主さまには失礼になるかもしれないが、しかし誰も当てられないとなれば却って真剣味に欠け不興を買うかもしれない。ともかく全力で教えを乞わねば、と考えるのが彼の思考形態だ。

「きゅ。」
「次。」

 誰も居ない所を思いっきり叩いたのだから、勢い余って自分から芝生に頭を突っ込んでしまった。顔面から落ちたが、神官戦士というものはなかなかにタフなので構わない。

 

「はあー、ガモウヤヨイチャンさまがお強いのは知っていましたが、かする事すらできないなんて。」
「武術は分かりませんが、クワアット兵も神官戦士もどちらも武勇に優れた者のはずです。なのに、赤子同然とは。」

 見ている二人の巫女には、弥生ちゃんがさほど特別な事をしている風には見えない。というよりも、やられる男達がでくのぼうで、目をつぶって大振り空振りを繰り返しているとしか思えない。子供でももっと賢く立ち向かうはずだ。

「くがぁっ!」
「蹴って来る奴、足を掛ける奴、頭突きをする奴、グローブを投げる奴、武器を手元に仕込んでいる奴。ま、色々居るんだよ。」

 最後の男の股間を潜り抜けて担ぎ落とした弥生ちゃんは、なにが起きたのか分からない20人の前に仁王立ちになる。

「これが厭兵術撥法だ。文字どおり、”漢字”で書いてもわかんないか、字義は兵つまり暴力を厭い撥ねのける方法だ。やられた者なら分かるだろうが、相手の身体を掴まない、撥ね飛ばすのがこの武術の基本にして奥義だね。」

 とは言うものの、彼等は弥生ちゃんに接触したされた記憶が無い。まるで空気を相手に戦ったみたいで、それぞれ19回の演武を見たはずなのに誰も何も理解出来ていない。

「じゃ次は棍棒でやってみよう。と言ってもこれで相手を突いたり殴ったりはしない。無傷のままに相手を捕える為に棒で身体をなぎ倒す、というカタチね。」

 根元が細くなった棍棒を水平に横たえ両手で肩幅に掴み、棍棒を奪い取る事を男達に命ずる。先程と同じく順繰りに試していくが、先程と同じく、いやもっと派手にぽんぽんと彼等は宙に舞う。見ている巫女二人はおかしくて笑ってしまった。
 ファンファメラは言う。彼女は救世主の伝記を書かねばならないが、これでは弥生ちゃんが強いのではなく男達が弱かった、としか書けない。

「まるで、襲いかかる前に倒れる姿を予定されているみたいだわ。」

 

「よし、じゃあ次に行こう。千本ノックだ。半分ずつに分れて、片方は素振りね。」

 最初にクワアット兵が野に散り、棍棒で叩く革鞠を拾ってはこちらに投げ返す。だが弥生ちゃんはデタラメな方向に打ち込んで右に左に走り回らせる。
 一方の神官戦士達はその姿を参考に見様見真似で棍棒を振り回すが、腰が入っていないから全然違うぶざまな形になる。彼等も武術としてなら長棍短棒共に自由に扱えるのだが、革鞠を叩く為の振り方には経験が無く、しなやかに鋭いスイングを再現出来ない。その内飽きて先程の、棍棒を取りに行ったら投げられた、の練習を始めてしまう。

「あ。こら、真面目にやりなさい。」

 さすがに千本は時間の関係上無理で、百本ほどで神官戦士とクワアット兵は交替した。また革鞠を引っぱたく弥生ちゃんは、誰より一番働きどおしだ。さすがにフィミルティが声を上げた。

「ガモウヤヨイチャンさまー、もう少しおゆるやかに、彼等の方をお働かせ下さいー!」
「わかったあーーー。ほい。」

 センターオーバーの大きなフライを打ち上げる。この革鞠はゴムも使っていないのに、どういうわけだか非常に良く弾む。軟球と同じに中空でそんなに重くも無い。ウラタンギジトのギィール神族達は、不思議な素材をたくさん知っている。

 革鞠の内部に用いられているこの素材、タコ化石の内でもタコ骨と呼ばれる部分を砕いて穀物の粉と共に練って焼き固めたものだ。穀物の粉が焼けて無くなり細かい穴だらけのセラミックとなり、軽くやわらかくしっとりとした弾力を持つ。「やわらか陶器」と弥生ちゃんが呼ぶこれを、神族達は「人造乙女」の為に用いる。つまりが、等身大の少女人形だ。穴だらけの素材の表面を滑らかにするのにもなかなかの工夫が有るらしく、作品の精緻な出来上がりにはびっくりさせられる。

 後に、ウラタンギジトでは弥生ちゃんの姿を模した人造乙女も作られた。全身丸裸寸分の狂いも無い自分の人形に、悲鳴を上げ赤面する。聖蟲の能力でなんでも分かってしまうギィール神族には人の裸など日常見慣れたものなのだ、とその時初めて教えられ、自分も始終眺め回されていたと知り、再び絶叫する。
 だが、おかげで千年後の方台の人々も青晶蜥神救世主の姿形を誤り一つ無く知るのだから、称讃すべきであろう。

 

「うーむ、真面目に練習する気無いな、おまえたち。しかたがない、ちょっと早いが試合をしてみよう。何事も実戦がいちばんだ。」

 やっぱり棍棒振りから格闘の練習になってしまったクワアット兵を見て、弥生ちゃんはため息を吐いた。野球を見た事が無いのだから仕方がないが、さすがにむくれてしまう。試合形式で分からない点があればその都度指摘し教えていく、という形で野球を覚えさせ、格闘を織り込んでいくしかないと見極めた。厭兵術のみならず、野球も方台に根付かせようという秘めたる野望は実現するのだろうか。

 広がった神官戦士達を呼び集めて、クワアット兵と共にホームベースの左右に並ばせる。それぞれ10人と一人多いが気にしない。とりあえず、言うことを割と聞く神官戦士達を守備に付けて試合を開始した。球を投げるのも任せて、余った一人はホームベースの後ろ、審判の位置に立たせた。

「プレイボール!」

 神官戦士のピッチャーが革鞠を投げる。彼等も投石の技術は持っているが、真っ直ぐ投げるというのはなかなか難しい。盛大に地面に叩きつけ、バウンドしてあらぬ方向に転げていった。
 脇に立って目を険しく細めて見ていた弥生ちゃんが宣言する。

「ボール! ボールは4回やると打つ人の勝ちで、座布団一個分の進出を許される。座布団に先に味方が居た場合、押し出してそのまま順繰りに進む。4回負ければ自動的に点を取られるという寸法だ。」
「では、鞠は一人に対して4回しか投げられないという事ですか。」
「めんどくさいからそういう事にしよう。ちなみに、ゲリラ的美少女野球ではデッドボールは可だ。相手に球をぶつけても投球成功となる。」
「おお! それを早く言って下さい。」

 球をぶつけて良い、という極めて分かりやすい指示が入ったので、俄然両軍の戦士達はやる気になった。格闘とはまさに殺し殺されるの緊張の上にこそ成り立つ。クワアット兵のバッターも、自分が持つ棍棒の意味をようやくに悟る。つまりは、球を避けるか、この棍棒で防ぐしか手が無いのだ。ならば、とこちらも真剣な表情でピッチャーに向き合う。

「プレイ!」

 試合再開の合図と同時に、ピッチャー極めてまともに球をバッターにぶつける。バッター棍棒を振り回して防ごうとするが、どちらも当たらず、球はすっぽ抜けて後ろに転がった。この場合の判定が分からず、ピッチャーバッターキャッチャーアンパイアの4人が揃って弥生ちゃんの顔を見る。
 弥生ちゃん、眉間に皺を寄せて今の判定を教える。

「棍棒を振ったからには、攻撃側の失敗だ。振らずに球を避けてもいいんだよ。打者に球が当たらずにあらぬ所に飛んでいけば、そりゃ投げた方の失敗だ。」
「複雑ですな。」
「あのねえ、あんたたちももうちょっと考えなさいよ。まず塁に敵を呼び込む。自分達の勢力範囲内に敵を呼び込んで殲滅する為には、球を打ち易い所に投げないとダメでしょ。」

「では、座布団の上に敵を歩かせるのは、これは罠と?」
「ゲリラ的美少女野球ではそういう事になる。敵中単身で乗り込むのだ、勇気がひつようだろ。」
「だんだんとガモウヤヨイチャン様の仰しゃられる意味が分かって参りました。つまりは、良い戦をせねばならないのですな。」

「プレイ!」

 説明を途中で打ち切って、試合に戻る。ピッチャー今度は言われるままに、真正面のキャッチャーが手袋を構える位置に素直にゆっくりと投げてみた。バッターもまともに棍棒を振り、素直に空振りする。はっと顔を見ると、両腕を組んで立つ弥生ちゃんの表情は鬼だった。厳として彼の敗北を宣言する。

「スットライク! 攻撃失敗だ。残り一回しか許されない。」
「は、ははあーっ。」

 クワアット兵の陣からも彼の失敗に失望と非難の怒声が飛ぶ。バッター自分が何を背負って戦っているかようやく自覚して、更に集中して棍棒を構える。この遊戯で敗北するのは思った以上に恥辱を覚えると知り、顔面蒼白にして見るからに狼狽している。
 ピッチャー、次はどうするかと考える内に、弥生ちゃんが自分に対してなにかサインを送っているのに気がついた。よく見ると、顎でバッターを指している。これは、・・・鞠をぶつけろという意味だ!
 なるほど、これほどに入れ込んでいる者ならば、容易く討ち取れるはず。

「ばしーん。」
「ぐわあ。」

「ストラーイクバッターアウト! 攻撃大失敗交代だ。」
「む、無念。」

 顔を伏せ肩を落として自軍の控える側に戻るクワアット兵は、今にも恥辱と絶望で腹を切りそうだ。まあ、十二神方台系にハラキリの作法は無いが、首を刺すくらいはやりかねない。
 代って出て来た兵士は、この遊戯が想像以上に恥辱を覚えるものと知り、褐甲角王国の名誉を一身に背負う気概と共にバッターボックスに入った。弥生ちゃんの顔を見て一礼し、自分はなにもかも心得たと言わんばかりに棍棒を大きく構える。が、ピッチャーに向いた前の方に構えている。球を受けるにはこちらの方が適していると思ったのだろうが、手が逆だ。

 弥生ちゃんは何も言わない。ほんものの野球ではありえない構えだが、ゲリラ的美少女野球では実際それもアリだから。地球での友人にして劫アランサにそっくりの衣川うゐは、よくこの構えからピッチャー返しをする。

「プレイ!」

 ピッチャー今度はそう容易くぶつけられないと見て、まっすぐキャッチャーに球を投げる。自分には飛んで来なかった球なので、バッターはそのまま見過ごした。

「ストラィック!」

 バッター予想外の判定に驚いて顔を見る。だが判定は覆らない。

「塁に出なくちゃいけないのだよ。待ってるばかりじゃ、死ぬばかり。」
「心得ました!」

 と、バッター正面から真っ二つに斬らんとするばかりに、腰を下ろして顔の前に棍棒をまっすぐ構える。ピッチャー、うまく投球が成功した事に意を強くして、また同じ位置に投げる。

「えええいっ!」

 裂帛の気合いと共に、バッター球を叩き斬る。が、球は足元に落ちる。前に飛んだから、一応はフェアだ。
 ピッチャーバッターキャッチャーアンパイア皆その場で振り向いて、弥生ちゃんの顔を見る。これからどうするべきか。

「走れ!」

 バッターはっと気がついて、一塁の座布団目掛けて棍棒を抱えたまま走り出す。キャッチャーそういう事かと気がついて、球を拾うとそのままバッターの後頭部目掛けて放り投げる。が、外れて球は大きく向うに飛んでいってしまった。

 キャッチャー、これはどうすべきかとまた救世主を見る。その間バッターは楽々と一塁を陥れた。彼もそこで止り、指示を仰ぐ。

「次の塁へ走れ! 球が戻って来るまでは、どんどん走れ!」
「心得ました!」
「そういう事ですか! おい、鞠を拾いに走れ! くそ、それならば先程の鞠拾いをもっと真剣に練習をすべきだった。」

「言ったじゃないか、ちゃんとやれって。」

 一塁とライト、センターが慌てて外に飛んでいった球を追い駆ける。その間バッターは二塁を越え、三塁に達せんとする。ようやくに拾った一塁手は、球をどうするか困惑した。すかさず弥生ちゃんが声を飛ばす。

「三番目に渡して、防衛戦だー!」
「ぼうえい! わかりました!」

 説明だと、球を持った人間だけが走者に攻撃出来る。三塁を守る神官戦士に球を渡さねば攻撃出来ないと認識して、思いっきり投げる。が、ぼてと二塁あたりに落ちてあらぬ方向に撥ねた。慌てて二塁とショートは追いかける。三塁の座布団を蹴ったバッターは、これこそ男の花道と言わんばかりの表情をもって、最初に居たホームベースへと進路を向けた。

「こちらに球を戻して、迎撃だ!」
「はっ!」

 ショートは拾った球を言われるままに投げ返した。ただし、狙いは弥生ちゃんだ。キャッチャーもアンパイアも遠慮して手を出さない。仕方が無いから本人が取って、ホームに突っ込んで来るバッターの前に飛び出した。

「?!、・・・ぐわああっ。」
「    とまあ、こういう具合に、やっつける。」

 何の考えも無しにまっしぐらに走って来る者など、弥生ちゃんの敵ではない。パカーンと足元を払われて大きく宙に舞い、ずしんと尻から地に落ちた。右手に球を高らかに掲げる少女の勝ちは誰の目にも明らかだが、果たしてこれは敵か味方か。

 暗黙の内に投げ掛けられる問いに、さすがにバツが悪くなった。赤面して答える。

「あー、今のはその、お手本だ。こういう具合に捕殺する。本来ならば私は両軍にとって部外者なのだから、今後は当てにしない事。ま、今のはとりあえず私の勝ち、というところで、つまりはお前は負けたのだ。」
「ざ、ざんねん、あとすこしだったのに。」

 腰をすこぶる打って、さすりながらバッターは自陣に戻る。三人目の攻撃者は、我こそは本塁を陥れると意気込み盛んにバッターボックスに飛び込んでいく。

 

 試合を眺めている二人の巫女は、弥生ちゃんが彼等にやらせているものが非常に危険で野蛮であると見て取って、心配する。
 ファンファメラは言う。

「ガモウヤヨイチャンさまは、このような恐ろしい修練を星の世界では毎日行って居たのですね。道理でお強いはずです。」
「ほんとうに。あんな勢いで突っ込んで来る男の人を、いとも簡単に投げ飛ばすとは。おそろしい、実に恐ろしい技です。」

 とりあえず棍棒を持って走る必要は無い、という点を理解して、ゲームはぎくしゃくと進行していった。段々と手は掛らなくなるがそれと共に両者の興奮は高まり、遂には二塁上での格闘戦で孤軍奮闘する味方を見捨てられず神官戦士が全員フィールドに飛び出し、守っていたクワアット兵との大乱闘に突入する。

 その様子を弥生ちゃんは実に満足げに眺めていた。

「うむ。まさにこれこそがゲリラ的美少女野球!」

 

 練習試合がなんだか分からない混沌とした状態に陥り、やむなく強行介入して両軍を引き離し、武術の鍛錬の為にほどほどで戈を収めろと説教した後。
 秘書も務めるファンファメラが予定時刻を過ぎたからと庭園から弥生ちゃんを引きずり出した。このままだと陽が落ちるまで徹底的に彼等をしごき上げただろう。

 規則正しいスケジュールというのは、弥生ちゃんの日常には存在しない。誰かが一日のどこかに突発的事態を用意して、絶対的権威である救世主に解決を期待する。それが処理される順番は、もめ事を持ち込む人間の力関係に依存する。ファンファメラの仕事はその序列を整理して、不公正が無いよう均等に配分して持って来る、というものだ。場合によっては嘘すり替え大袈裟などの技巧も弄し、時には弥生ちゃん本人に対しても行われて目をぱちくりさせられる。
 こういった口八丁の詐欺紛いの手口は地球に居る友人の一人を思い出させ、懐かしさよりもげんなりする既視感を募らせるのだった。

「ガモウヤヨイチャンさま、執務の前に湯浴みをなさいませ。汗を相当におかきになられました。」
「あ、うん。ウラタンギジトは避暑地みたいに涼しいから気がつかないけれど、夏だもんね。」

 フィミルティの言を入れ、迎賓館の中央広間を抜け、円形劇場を通って浴場に向かおうとした。その間廊下の左右にトカゲ巫女が侍り弥生ちゃんの世話を頻りに焼こうとするが、フィミルティとファンファメラはことごとく退けた。
 彼女達にもプライドと独占欲というものがある。基本的に弥生ちゃんは手の掛らない自分でなんでもしてしまう娘だから、二人もお供が居れば上等だ。今やティンブットを抜いて最長期間弥生ちゃんに仕えるフィミルティは元より、伝記作家として側に居続けねばならないファンファメラも、自分を排除しようとする連中には容赦無い反撃をする。

 そんなわけで、何故かお供をする二人の為に弥生ちゃんが先頭に立って部屋の扉を開けて回る習慣になってしまっていた。

 迎賓館の浴場は非常にぜいたくな造りになっている。温泉が涌いている岩場から樋を使って湯を引いているのだが、余熱を利用しての温室の植物園までも併設していた。高山の厳しい冬の気候から脆弱な観賞用植物を守る為、こういった施設も必要だ。
 だが長らく迎賓館を使うほどの重要人物の逗留が無かった為に、現在温室は空になっている。使われない長机が何台も虚しく並ぶ。

「あ、ごめん。」

 温室に先に入った弥生ちゃんが、後ろの二人に言った。ファンファメラが尋ねる。

「いかがなさいました。」
「二人とも、死んでくれ。」

 閉ざされた窓の格子の隙間から漏れ来る陽の光に、室内はほのかに淡く照らされている。薄明るい影の無い部屋を見回すと、

一頭の獣が居た。

「ガモウヤヨイチャンさま、これは。」
「よーく見てごらん、こいつの額の上を。」

 フィミルティが弥生ちゃんに作ってもらったぐるぐる眼鏡を掛け直してよく見ると、獣は巨大な犬に思われた。主に聖山山脈に住む大狗と呼ばれる獣らしい。体長は2メートルはあるだろうか、間違い無しの猛獣である。
 弥生ちゃんの指摘する黒い短鼻の上、らんと光る鋭い眼光の間に、微かに黄緑色の燐光をを帯びた金属光沢を持つなにか、がある。

「ひっ!」
「聖蟲!、・・・・・カブトムシの、」

 気がつくと3人の背後にも、もう一頭が退路を断つ形でのっそりと現われた。こちらもやはり、額には緑金のカブトムシを載せている。

「え、衛兵、えいへいはないか。」

 ファンファメラの思わずかすれてしまった声に、弥生ちゃんが応える。

「無駄だよ。これがここに居るのなら、衛兵はすでに噛み殺されている。」
「チュバクのキリメはいかがしました。彼にはこのような事態を防ぐ責務が、」

「死んでなければいいけどね。どちらにしろ、」

 腰に吊るしたカタナをすらりと抜き、右手で突き出して正面に構える。大狗も改めて弥生ちゃんの正面に位置を取った。まったくに、やる気だ。

 

 フィミルティが弥生ちゃんのさっきの言葉を思い出す。

「死ね、と申されました。我ら両人我が身を投げ出して、お護りいたします。」

 覚悟のほどはりっぱだが、細い女人の身体など大狗の牙は瞬時に両断するだろう。それほどに強力な生き物なのだ。
 弥生ちゃんは二人に補足説明をする。まなざしははっきりと正面の大狗を見据えている。

「あんたたちを守れないという意味だよ。アランサに聞いたところでは、緑金の聖蟲を帯びた者は王族の支配に絶対服従するんだと。後ろで操る者があんたたちを人質に取ろうとか考えた時には。」

「我らの身を案じて、切っ先の鈍る事があってはなりません!」
「そ、そうです! 我ら、いえ千人の巫女の命よりも、ガモウヤヨイチャンさまは尊く稀なのです。死んでもらっては困ります!」

「邪魔にならないように、壁の端にゆっくりと避難して。」
「は、」「はい!」

 毒地を共に旅してきたフィミルティと違い、ファンファメラは刺客の経験は乏しい。ほぼ毎日刺客は来るが、弥生ちゃんの近くに辿りつけるのはごく僅か、しかも十二神方台系最強の戦士でもある弥生ちゃんが最後にはさっくりと片付けてくれるので、彼女はほとんど危険を感じていなかった。

 だが今日は違う。大狗の、しかも聖蟲を戴く刺客である。カブトムシであるからには、黒甲枝と同じく強靱不滅の肉体と無双の力を得ているだろう。大狗は元々人よりもずっと強い生き物であるのが、倍三倍と戦闘力がアップしている。しかも人間よりよほど疾い。

 刺客として大狗を選んだ者は間違いなく、草原での黒甲枝ジンハ守キンガイアとの決闘の情報を得ている。救世主を倒すにはなによりも早さが必要だと認識して、獣に方台の運命を托していた。

「イヌは嫌いじゃないんだがな・・・。」

 カタナの切っ先をわずかに下げ、両手で構える。攻防共に優れた二つの剣技を持つ弥生ちゃんだが、獣相手ではかってが違う。しかも前後に挟まれたとあっては手加減も出来ない。動物愛護の精神に反するが、殺すしか対処のしようが無かった。

 大狗も弥生ちゃんの殺気に反応して、慎重さを増した動きをする。野生の本能で、目の前の少女が尋常ならざる戦闘力を持つと理解した。が、彼等は聖蟲によって遠隔の地より操作されている。操る者には狗の直感は伝わらない。

 背後で様子を窺う狗が、二人の巫女が横に外れたのを見はからってととっと温室に入って来る。こちらの方が弥生ちゃんに近い。だが慎重だ。

「・・・ぐるるう。」
「ふむ。狗と飼い主の思惑は違うようだな。」

 背後の狗が不満そうな唸り声をこぼすのに気がついた。狗は脅威に十分な注意を払っているのに対し、背中を見せているからと操り主がけしかけるのだろう。実際、弥生ちゃんの背後は取れない、というのが刺客達の常識となっていた。ゲジゲジカブトムシの聖蟲を持つ者もそうなのだから、カベチョロも同様と類推すべきだ。

「どしろうとだな。」

 背を見せたまま、すっと後ろに下がって見せる。後ろの狗は合わせて下がろうとするが、何者かに妨害されて足元をばたつかせた。前の狗は開いた間合いの分だけ進み出る。

「ガモウヤヨイチャンさま!!」

 傍目には、今の後退が非常に危険で不用意なものと見えたのだろう。フィミルティが悲鳴を上げる。ちらと様子を窺うと、二人は閉ざされた窓の傍に身を寄せて左右の狗を交互に見詰めている。顔面蒼白でありながらもいざとなったら飛び出して自分の楯になる気だ、隠れようとしない。

「使えるな、これ。」

 弥生ちゃんは再度前に出ようとして、足元をちょっとつまずかせた。無論、擬態である。狗はそれを見抜いたが、二人の巫女はそうではない。心臓を鷲掴みにされたように驚き、またしても悲鳴を上げる。計算どおりだ。

 果たして、彼女達の悲鳴は狗を操る者の思惑を狂わせ始めた。前に居る狗も不快そうな唸りを上げる。攻撃命令が出たのだろうが、今は動けない。遠隔の地に居る主にはそれがわからないのだ。

 弥生ちゃんは直立し、カタナを下段に構える。厭兵術突兵抜刀法の基本姿勢だ。十二神方台系にはこの構えは存在しない。隙を見せた、としか思えないだろう。
 前の狗にきっと視線を向ける。殺気を飛ばし、こちらに攻撃を集中する姿勢を明確に露にした。前の狗もそれに応じ、本格的に飛び掛かる体勢を取る。操り主と獣との意志がここで初めて一致する。

が、攻撃に出たのは背後の狗だ。前に集中した分背後の備えが無くなった、と理解したのだろう。当然の選択だが、厭兵術ではそうではない。

「ぶつっ。」
「・・・・・。」

 一跳びに間合いを詰め、顎を開き首筋に襲いかかる背後の狗の喉元を、反転した弥生ちゃんのカタナが貫く。下段に構えるのは体軸にカタナを沿わせて方向転換の邪魔にさせない為だ。前後左右360度、どちらの方向にも瞬時に向きを換えられるのが厭兵術の基本、予備動作も無しに背後に突きを繰り出すのは毎日やってる基本技でしかない。

 正面の狗も同時に飛び掛かって来る。味方の犠牲の下、今度こそ背後を取れているわけだから失敗する道理も無い。が、

「しゅぶぅっ。」

 瞬時に向きを換えられる、のだ。
 カタナを引き抜く暇も見せずに切っ先を返し、狗の首筋から胸腹を裂き、大きく振り上げた両前肢の下をくぐって右脇腹に抜ける。

 

「   。」

 ファンファメラ、フィミルティには弥生ちゃんが死んだとしか思えなかった。2頭の巨獣が弥生ちゃんの位置で激突したのだから無理もない。やってる本人には十分な余裕が感じられていても、脇から見る者には電光の刹那だ、2頭を刺し殺して脇に抜けまったくの無事、など思いもつかない。

ぐわあしゃあん、

 木の格子と硝子に閉ざされた窓を破って、3頭目が飛び込んできた。念の入った事に、中の2頭を囮としてセカンドチャンスを狙っていたわけだ。いや、2頭が激突したのを見て救世主を殺したと勘違いし、とどめとばかりに飛び込んだのが真相か。

 青い光をなびく糸に引いて、カタナは強獣の腹を割いた。血と臓物が弾け出て、周囲を赤に染め上げる。だが3頭共に苦痛は無い。青晶蜥神の慈悲は死に逝く者に優しかった。

 カタナが身体に刺し込まれたと同時に、内部が急速に冷凍されていく。彼等はその衝撃で死んだ。カブトムシの聖蟲を戴く者ならば、剣で斬ったとしても頭が飛ぶくらいの決定的な損傷でないと止められない。心臓が無くても、最後の意志で相手を断ち割るくらいは普通に行う。
 それも想定しての攻撃だ。狗の身体の中は、凍った肉のかき氷と呼べる凄まじい状態となっている。外見からは分からないが、内部では氷の竜巻が吹き荒れた。

 重い肉が床に落ちて大きな音を響かせる。衝撃で周囲の長机が弾け飛び、木片と化して砕け散る。
 3頭目が飛び込んだ窓から夏の日差しが差し込んで、舞散る埃を白く輝かせた。逆光の中に、一人立つ先細りの長い髪の少女が在る。

「・・・・・・・・。」
「・・・・・・、ガモウ、ヤヨイチャン、・・さま?」

「南無。」

 カタナを鞘に納めたヤヨイちゃんは、右手で手刀を切って哀れな狗達に最後の別れをした。操り主達は今の光景をどう理解したのか。ひょっとすると、いきなり感覚が途切れてなにも分からなかったのではないか。

「ガモウヤヨイチャンさま、・・・・・御無事ですか!?」

「しっ!」

 死んだ大狗の額から、3匹のカブトムシが翅を拡げて飛び立った。聖蟲は宿主が死ぬとその額から離れて、彼等の本体である地上の神の御許に帰るのだ。
 薄く透けた黄金の翅を震わせて、緑金の甲虫が名残惜しそうに狗達の頭上を飛び回った。ぐるぐると、3匹が輪になって、やがて破れた窓から夏空高く南の方、カプタニア山脈を目指して去っていく。

 女達はしばし無言だった。二人の巫女は足元もおぼつかなく進み出る。大狗のなぎ倒した長机を避け、両手を前にすがるように突き出し、弥生ちゃんに抱き留められた。
 フィミルティはなにか言おうとしたが、声にならない。ファンファメラもただ涙が溢れて来るだけだ。歳上の二人の頭を抱いて、弥生ちゃんは足元に転がる狗達の姿を見詰め続ける。

 人が動く物音がし、遠くで女の悲鳴が上がり男の怒声がして、異変を感じた警備の神官戦士達が温室の様子をおそるおそる窺う。弥生ちゃんに促され足を踏み入れた彼等は、改めて惨状を確認して絶句する。
 続いて、とんでもない勢いで劫アランサとウェダ・オダが飛び込んできた。赤甲梢の総裁とその補佐の二人の褐甲角神の使徒は、刺客が獣であるという事実に驚愕する。

「まさか、・・・・・これは。」
「アランサさま、これは、もしや。」

 だが既に緑金のカブトムシの姿は無い。半信半疑に、いやそんな話は信じたくないあって欲しくない、と首を振りつつ、アランサは救世主にゆっくりと振り返る。声は押し殺して低い。

「ガモウヤヨイチャンさま、御無事ですか・・・・。」
「チュバクのキリメは?」

「ここに。」

 ごく普通の良質の巡礼服に身を包んだ、風采の上がらない中年男が温室入り口付近の神官戦士の間から進み出て、弥生ちゃんの前にひざまずく。
 彼は神聖首都ギジジットを統べる金雷蜒王姉妹の所から、弥生ちゃんに請われて従う者だ。元は王姉妹の秘密工作機関「ジー・ッカ」の暗殺者で、その経験を生かして救世主の身辺を密かに警護する役を担っている。

 弥生ちゃんは平らかな声で尋ねる。

「何人死んだ。」
「陰ながら護衛していました我が配下が3名、神官と役人が1名ずつ、ウラタンギジトの警備兵5名が殺されたようです。配下の3名はいずれも手練れの者で、残念です。」

「なんじはどうした。」
「此度の刺客は我が手に余ると考え、確実に倒す事の出来る迎ウェダ・オダ様を呼びに行きました。警告を発さずあえて人を集めなかったのは、決闘のお邪魔となる人数を増やしたくなかったからにございます。」

「飛び込んで我を助けよう、とは思わなかったのだな。」
「ガモウヤヨイチャンさまなれば、聖蟲を戴く刺客に対してもしばしの間持ち堪えると推察いたしました。赤甲梢の御二方が参られるまでの寸刻を耐えると信じ背を向けましたが、愚考とあればいかようにも罰をお与え下さい。」

「いや。良い判断だ。無用の人死にが増えなくて良かった。」

 弥生ちゃんに褒められ、チュバクのキリメは頭を垂れ、そのまま下がって神官戦士達の中に消えた。
 彼の言葉を聞いていたアランサは胸が潰れる思いがする。既に大量の死者が出ているとなれば、責任の所在を明らかにせざるを得ない。だが大狗を召し遣うのは、方台広しといえども褐甲角の王族しか無い。

 加えて、決定的な証言が彼女の背後から投げ掛けられた。

「!、アントラバンタ、シュケーイルバンタではありませんか。これは一体何事です!?」

「この3頭の狗を知っているの?」
「端の1頭は知りませんが、私が王宮に仕えて居た時分に、ハジパイおうの・・・・・、」

「もうよい! 斧ロアラン、口を慎みなさい!」

 王女を追いかけて温室まで来た女官カロアル斧ロアランは、自らが発する言葉の重大さを徐々に認識し、口ごもる。彼女はカプタニアでは王宮の重鎮ハジパイ王の飼犬の世話係をしており、万が一つも間違わない。狗達は首周り胴周りに飾り紐や金輪が嵌められており、それぞれに識別が容易くされている。

 常にないアランサの怒声に驚き怖れ入り、斧ロアランは直ちにその場を走り出た。漏れた言葉は最早取り返しが付かないと判ってはいても、これ以上ガモウヤヨイチャンの質問を受けて愛すべき王女を苦しめる必要は無いだろう。

 

 アランサの副官で総裁護衛職の赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダは狗の骸の傍にひざまずき、その死を確かめる。傷口はさほど酷くは無いものの内部に垣間見える暴虐の痕を見て、青晶蜥神救世主にとっても特筆すべき尋常ならざる激闘だったのだ、と理解した。

 立ち上がるウェダ・オダの表情で、アランサは考え得る最悪の状況が現出していると知った。褐甲角王国が、民衆を救い正義と公正を地上にもたらす神の軍勢に率いられる王国が、こともあろうに十二神の賜れた千年に一度の救世主に対して、暗然として抹殺に出る卑劣な姿を見せたのだ。

 アランサは、心臓を引き裂いて絞り出す悲痛な、かすかな声で遠くカプタニアに問いを投げた。弥生ちゃんの顔など、とても見られない。

「なにゆえです。なにゆえハジパイ王は、このような信義も道理も踏みにじる手段をお使いになられました!」

 

 だが弥生ちゃんは事もなげに言い、にゃりと笑う。

「バレたな、電撃戦が。」

 

第二章 東方街道の戦い〜赤甲梢征東記

 

 東金雷蜒王国の正面玄関であるギジェカプタギ点から先はそのまま東方街道と呼ばれている。王都ギジシップ島に渡るシンデロゲン港まで通じ、南北に連なるアグアグ街道と交差する。
 ギジシップは南北の長さが300キロを越える細長い島で、アグアグ街道の通る方台東岸はすべてこれを望む。つまり、細長い海峡によって本土から隔離されているのだが、最短部は10キロしかなくどこからでも渡る事が可能だ。さすがに無制限に上陸されては困るので関所となる港が定められており、北部ではシンデロゲン港が入島の鑑札を発行している。

 海峡を守るのは神聖王に直接仕える王師海軍だが、戦力は充実しているとは言い難い。ギジシップは東の果てに在り敵はすべて陸路を通って来るから、ほとんど軍船の用が無い。南の海の国境ガムリ点に本拠を構える東金雷蜒海軍はギィール神族の連合体「ゥイ・ゴーマン・ゲイル」の運営で交易を独占し、軍船は質量ともに優れ兵員を多数抱えるのと対照的だ。
 とはいえ、王師海軍もさすがに大小百隻を越える。これある限りは赤甲梢の渡海は不可能である・・・。

 

「総裁、当地に潜入していた密偵よりの報告です。王師海軍の主力のほとんどは南に配置され、シンデロゲン港には大型船数隻が残るのみ、だそうです。」

 最も気掛かりだった海軍の配置を知り、赤甲梢総裁代理キスァブル・メグリアル焔アウンサは表情を輝かした。

「ヒィキタイタンが我らの願いを聞き入れてくれたか。」
「そのようです。タコリティで大規模な紛争が発生し、ガムリ点の海軍艦艇が多数応援に出動しました。その穴を埋める為に、王師海軍が南に下り広く警備しているようです。」

 報告する副官カンカラ縁クシアフォン大剣令の声も明るい。実の所、敵地深くに潜入した現在まで、ギジシップ島へ渡れるか半信半疑だったのだ。

「やれやれ、舟を担いで走る、て真似をしなくても済みそうだな。」
「総裁、それは冗談かと思っていましたが、やる気だったのですか。」
「150の神兵を個々に筏に乗せて、ばらばらに渡海させるというのは、夜ならば悪くない作戦だぞ。」
「相手がギィール神族でなければ、ですが。」

 

 海を渡る前に、まずは東方街道を走破しなければならない。

 夏旬月十七日早朝、毒地への入り口として東金雷蜒領を守るゥエーゲル間道の関所は、多数のイヌコマの集結を見た。
 現在毒地中では大規模な戦争が行われているのだから、輜重隊のイヌコマが多数訪れるのは不思議ではない。が、兵の姿が見えず無秩序な行動に不審を覚え、偵察を出した。
 イヌコマはすべて物資を積載しており互いに縄で繋がれて自由には動けない。ただ前に、関所へと進んでいる。留めようとしたが400頭も居ては統率もままならない。関所から応援を呼んで関の内部に取り込んでいると、遠く草原に細い毛が立つような影が見えた。

「? なんだあれ。」

 正体が判明した時は手遅れだった。高さが4メートルを越える兎竜の群れ、70騎の赤甲梢が騎兵となりイヌコマで混乱する関所へと殺到する。

 元々毒に守られて褐甲角軍の到来を想定していないゥエーゲルの関は、二重の垣根と低い壁のみで囲われた単純な砦で、まとまった数の兵も無い。毒地への入り口に当たる開けた場所で不審者を取り締まる機能しか持っていなかった。
 対する赤甲梢は砦や城に殴り込みを掛ける為に組織された強行突入部隊だ。兎竜騎兵といえども、地上に下りれば装甲神兵として存分の力を発揮する。
 関は5分と保たずに陥落した。金雷蜒軍の兵は戦うまでもなく怒濤の進軍に圧倒されて逃げ散り、指揮する剣令も為す術無く投降する。

 捕虜となった剣令達はその後続々とやってくる神兵の数に驚いたが、反面これを支える兵や物資の量の少なさが不審だった。いかに無敵の神兵を揃えていても、このような規模ではせいぜいギジェカプタギ点の後背を脅かすしか出来ない。だが複数の砦が列を為す要塞は、単純に裏を取られる設計ではない。
 彼等は縄で縛られ地下に掘った食糧蔵に放り込まれた。神兵の一人が言い置いた奇妙な命令を、渋々ながら受入れるのみだ。

「報告は東ではなく西にせよ。東に我らの襲来を告げても無駄だぞ。」

 

 昼天時(正午)、ゥエーゲル関から17キロ離れたアンゴー関はいきなりの兎竜騎兵の襲撃を受けた。
 アンゴー関は本来の東金雷蜒領にある。毒地に寇掠軍が進軍する際に使う宿場の一つであり、それなりの砦も築かれている。

 だが、いきなりの神兵50名の攻撃には対処のしようが無かった。前線のゥエーゲル関からもギジェカプタギ点からも警告は無く、白昼堂々の襲撃を受けたのだ。
 砦門を閉ざす暇も無く、神兵の侵入を許す。弓矢が使えない近接の白兵戦闘で黒甲枝赤甲梢に歯向かうのは愚の骨頂だ。重量が15キロにもなる大剣を奮う度に、雑兵が枯れ葉を散らすように弾け飛んだ。
 関を預かる剣令は近隣のギィール神族に応援を頼もうと伝令を走らせるが、百歩も離れぬ内に矢で地に張り付けられる。

「おお! おお、殿様方!!」

 それはアンゴー関の近くに逗留して居たギィール神族の一団だった。彼等は寇掠軍の結成が遅れ今頃になって毒地に出発しようとしていたが、思いがけない赤甲梢の襲来を聖蟲の超感覚で感知して、急遽ゲイルを出して救援に駆けつけた。

 これで戦況は一変する、事は無かった。ギィール神族の出現は十分に予期しており、これまでゲイルが出て来ないのを残念にすら思っていた。万全の体制で迎え撃つ赤甲梢に寇掠軍わずか一箇隊神族6名に数十名の奴隷兵では歯牙にも掛らなかった。

 間もなく、一度撤退した兎竜が再び押し寄せて神兵を下ろし、合わせて100名もがひしめく有り様となる。寇掠軍の神族も立ち向かう愚を避け撤退を開始するが、兎竜は逃げるゲイルに対して抜群の強さを発揮する。2名の神族と3匹のゲイルを撃破してアンゴー関を陥落させた。

 

 8キロ先、アンゴー砦の後背を守るザンゴール鎮、鎮とは砦ではないが兵営があり訓練を行って居る駐屯地、に逃げた寇掠軍のゲイル騎兵が飛び込んできた。何事かと驚き尋ねる剣令に対し、神族はただ後ろを指差した。
 兎竜30数騎が押し寄せて来る。さすがに異変を察知して警戒体制を取ったザンゴール鎮は迎撃の隊列を組み、矢を兎竜に射掛ける。兎竜隊は1幟隊25名の装甲神兵を置いて後退、少数の神兵と200の専門弓兵の戦闘となる。

 弓兵が支えている間に、神族はゲイルの体勢を整えて逆撃を試みる。同時に周辺と東方街道全域に対する褐甲角軍侵入の伝令を走らせ烽火を上げさせる。が、生憎風が強くて烽火の煙が上手く上がらない。
 急を聖蟲の超感覚で察知し、近隣に住むギィール神族が2名応援に駆けつける。彼等は大弓をゲイルの背に装備していたので、赤甲梢に対しても十分な射程で攻撃を行える。

 なんとかなるか、と思ったその瞬間、彼等は西に立ち上る土煙に希望を捨てた。
 またしても30数騎の兎竜が現われて、25名の神兵を投下する。これで50の神兵というとんでもない戦力を相手にしなければならなくなった。神兵の弓は射程距離が常人の倍有り狙いも正確で、弓兵はばたばたと射倒されていく。ゲイルで突撃を掛けようにも、草原で何度もゲイルと遭遇している赤甲梢が相手では、付け入る隙が全く見えない。

 やがて射撃の圧力が低下したと見て、装甲神兵2幟隊が徐々に前進し間合いを詰めて来た。
 ここまで来ると、ギィール神族も毒煙筒を使うくらいしか阻止する手段を持ち合わせていない。聖蟲を持つ神兵には効果は無くとも、彼等を運ぶ兎竜には若干の妨害が出来るだろう。

 しかし、結局毒は使えなかった。ここは東金雷蜒王国領内であり、住むのは彼等の支配に服する奴隷達だ。毒煙は農作物にも多大な影響を与え、長く続く身体の変調を招く。慈悲篤い神族にはそのような非道を自らの民に強いる事が出来ない。残った弓兵も煙を吸って直ちに戦闘不能になるのだから、検討自体無理があった。

 神族は闘いながらも聖蟲を通じて遠隔で協議して、一度兵を退けると決めた。褐甲角軍にいかなる目的があるのか分からないが、長駆侵入するのであればまとまった兵力と防衛陣で迎え撃つ機会が幾度もあるだろう。今いたずらに兵を損ねるのは得策でない。
 1時間ほどの戦闘で、ザンゴール鎮の兵は敗走した。ただし、赤甲梢兎竜部隊の侵入は近郷近在に知れ渡る。

 

 残六刻(午後4時)、ザンゴール鎮の敗走を知らされた30キロ先のゲシャン・レイ点。ここは城壁も完備した旧い町であるが、急襲の報を受けて兵の集結と戦闘準備をしている真っ最中に、物見櫓が兎竜の接近を告げる。

「早過ぎる!」

 いかに無敵の神兵だといえ、この進撃速度は異常を越えて不可能に近い。だが敵が疲労を押しての戦闘継続に臨むのであれば、こちらは幸いとして攻めるまでだ。ゲシャン・レイ点を預かる大剣令は町の神族の許しを得て、戦闘配置を告げる。
 だが彼等の覚悟とは裏腹に、兎竜から降りた神兵は攻撃をしてこない。野に三角の隊列を組み片膝を立てて座り、休息を決め込んでいる。士気が低いわけでも無く隙はまるで見えないが、休んでいる以上には見えない。

 大剣令の質問を受けた神族は、こう説いた。

「あれは赤甲梢だ。赤甲梢の本分は砦に乗り込み内部から破壊して城門を開けるところにある。さすがにこの城壁では少数での攻撃は無理と見て、応援が到着するのを待っておるのだろう。」
「では、直ちに攻めるべきでしょうか?」

「いや。今の内に街の背後に設置されている強弩を正面に回すが良い。」

 城壁内の防備が着々と整う中、神兵達は長く待って居た。思ったよりも兎竜の到着が遅く、神兵の第二陣が現われない。
 このままでは陽が落ちて強弩の狙いが定まらない、と危惧し出した頃、その神族ははっと気付いて声を上げた。

「しまった! 奴等この近辺の地理をちゃんと心得ておる。ゲシャン・レイを避けるつもりだ。」
「なんと? では奴等は囮ですか?」
「林の間道を抜けているな、本隊が抜ける時間を稼いでいるのだ。」

 しかし、既に陽は落ちて兵を城外に出せない。時を逃さねば待ち伏せして隘路を行く敵を迎撃できたかもしれないが、ゲシャン・レイ点の守りに集中した為に機会を逃してしまった。

「いかがいたしましょう。」
「やむをえん。御前達はこのまま町を守れ。我らはゲイルで夜襲が出来ないか、試してみる。」

 彼は、帰らなかった。

 

 深夜。街道を見下ろす山上のゴン砦は闇の中いきなりの攻撃を受けた。砦の門扉が弾け飛び、壁に積んだ石が砕かれる。兵はすべて捕まり、やはり食糧蔵に放り込まれた。

 

「計算通り、ではあるが、ちょっと物足りないかな。」
「何を仰しゃいます。神兵も兎竜も無事なのを、褐甲角神に感謝せねばなりません。」

 ゴン砦を接収した赤甲梢はイヌコマと兎竜を休ませ、神兵も交代で眠る。無敵の肉体を持つとはいえ、さすがに初日の進撃速度は異常だった。二日目はもう少し緩やかに行く予定だ。
 司令官であるアウンサは眠らない。昼間イヌコマと共にぐっすりと眠っていたから、目が冴える。地図を確かめ、これから展開されるだろう敵の防衛陣の配置をひとりで検討する。輔衛視であるチュダルム彩ルダムはアウンサに従う唯一人の女人として王女の世話を焼くが、こちらは生真面目な性格から昼間味方が激戦の中に在る時に寝るなどの不謹慎はしておらず、目がひっつきそうだ。
 二人とも戦闘には参加しないものの礼装甲冑を着装しており、安全な砦内であっても脱いだりはしない。アウンサは王族の金貼りの鎧を、彩ルダムはデュータム点から取り寄せたアウンサのお古に賜軍衣を羽織っている。

「ゴン砦には、幸いに飼い葉がイヌコマ兎竜全部に行き渡るだけある。日の出と同時に叩き起こして、飯を食わせよう。」
「我らは煮炊きはしないのですか。」
「火を焚くと、足が止まるからな。まあ、シンデロゲン港までは携帯食でしのいでもらおう。こういう時はクワアット兵が居ないのは困るな。」

 ゴン砦には今、どこにも灯の光は無い。山上は真っ暗のままで、誰にも異変を気付かせない。神兵は額のカブトムシの聖蟲の力で夜目が効く。灯が無くとも不自由はないが、兎竜もイヌコマも昼間の生き物だ。夜は眠いし夜道は足を踏み外し膝を挫く。歩かせないのが一番と、宿営地をゴン砦に定め計画通りに奪取した。

 アウンサは闇の中大山羊の革の地図に指を走らせて、幼なじみに示す。

「ゲシャン・レイはまあいい。馬鹿正直に全ての砦を潰さねばならぬ法も無い。ただ、」
「”人気取り”、ですか。ゲシャン・レイならば奴隷もたくさん居ましたね。」
「我らは征服者ではない、どちらかと言うと”福の神”であらねばならないのだ。銭金をばら撒いて人の懐を潤してやらねばな。ついでに、世にはびこるどうしようもない悪党を成敗して喝采を浴びるも一興だ。」

「追っ手を防ぐ為に、民衆を楯とする法ですね。」
「行きはバカでも出来るが、帰りの心配もするのが責任者というものだよ。こいつらは皆、戦で死んでも良いと考えているだろうが、本当に死なれては困るんだ。」

 二人の傍らに、アウンサの副官カンカラ縁クシアフォンが眠る。起きてアウンサを守ると言い張ったが、明日は眠る暇など与えないと無理やりにでも休ませた。赤子がダダをこねるのを寝かしつけるのに似て、さすがに彩ルダムも笑う。

「総裁。」

 階下からアウンサを呼ぶ声がある。装甲神兵黒紫幟隊長ケルベルト咆カンベ大剣令で、現時刻の警戒の指揮を執っている。ついでに彼には特別な仕事を命じてある。

「幾らになった?」
「824金に356銀です。」
「銀が少ないな。」
「どうにも驚きです。これほど潤沢に金があるとは、それも辺境警備の砦にです。」
「これも皆、褐甲角王国がせっせと貢いでいる賜物だよ。」

  咆カンベは落とした砦で回収した金銀を計算していた。軍資金としても相当量の金をアウンサは携えているが、それに相当する金額をわずか一日で得た事になる。

「この金は、船を手に入れる時にばら撒け。出し惜しみするなよ。」
「心得ております。」

 東方街道は真東に進むと120キロほどで海に出る。だが、シンデロゲン港へは途中で南下し200キロ弱の道のりとなる。
 彼の率いる黒紫幟隊は、この曲がり角で本隊から離れて真っ直ぐ海に出るのを命じられている。目的は「渡し船の確保」だ。シンデロゲン港で船を取得出来ない可能性が高い為に、防備の手薄な北の港で調達して本隊を迎えに行く算段だ。

 ふ、っと咆カンベは耳をそばだてる。彼はアウンサが総裁になる前に居た赤甲梢の最後の一人で、既に40歳だ。もし大審判戦争が起きなければ、アウンサの引退と共に聖蟲を返上していただろう。

「夜襲ですな。」
「ゲイルが来たか。」

「イヌコマを起さぬように、片付けて参ります。」
「うむ、任せた。」

 

 翌日も赤甲梢の進撃速度は変らなかった。

 アウンサの作戦指揮を一言で表わせば「いかにしてのんびり行くか」、これに尽きる。速度こそ最大の武器である電撃戦において矛盾するようだが、これが最も正しいやり方だ。

 進撃する赤甲梢で最も遅いのは、なにを隠そう神兵そのものである。徒歩の神兵は背中にタコ樹脂の翅を持ち機動性運動性に優れた翼甲冑を用いているが、翅を聖蟲の力で羽ばたかせたとしても、走行速度は時速20キロそこそこでしかない。
 対して、兎竜は背に130キロ以上の重量となる神兵を乗せても時速60キロ、可搬重量の最大値を背負う400頭のイヌコマでさえ40キロで走り抜ける。

 つまりは、のべつまくなしに走っても部隊は神兵の足の遅さに合せるしかなく、大して距離を稼げない。しかも、いかに遅いとはいえ休み無く走り通しては、聖蟲を持たない兎竜やイヌコマがへたってしまう。彼等は尋常の生き物であるから、走れば疲れるケガもする、腹も空くし飯を与えねば動かない、草を食んだら食休みに2時間はのんびりさせないと胃腸障害を起して倒れてしまう。夜は眠るし、第一足元が見えないから穴に落ちたり浮き石を踏んでケガをしてしまう。徹夜で夜道を走りぬけるなど言語道断だ。

 この厄介な仲間が運んでくれる物資が無ければ、敵中に単独で侵入している神兵はたちまち戦闘不能に陥ってしまう。イヌコマをのんびりさすべく極力暇な時間をひねり出しつつも距離を稼ぐ、相矛盾する要求を同時に満たさねばならなかった。
 その答えが、兎竜による神兵の移送だ。

 元々兎竜運用は、神兵を迅速に寇掠軍の襲撃地に派遣する輸送手段として研究が開始された。アウンサが総裁となって後は、兎竜騎兵としてゲイルを直接に攻撃する手法が確立して戦力となったが、トランスポーターとしての役割は依然として重視されている。
 兎竜をうまく使って前線に神兵を逐次的に投入し、その破壊力で敵の抵抗を粉砕する。一方イヌコマ輸送隊を擁する本隊は、神兵の輸送を完了するまではのんびりと遊んでいる。勿論本隊の神兵は周辺で様々な活動を行い、追撃を阻止する下ごしらえをするのだが、結局はイヌコマを休ませるのが第一義となる。兎竜も半数のみを用い、半数はやはり休んでいる。それでも十分に前線の戦闘が維持出来るのは、神兵のずば抜けた戦闘力の高さと兎竜の足の早さが有効に働いているからだ。

 前線の敵を粉砕し周辺を制圧すると、本隊のアウンサ達は兎竜に乗りイヌコマを率いて一気に距離を詰めて来る。まるで尺取虫の進撃法は後世真似した者が大失敗を引き起こし、やはり神兵のみの構成だからこそ可能な一種の軍事的手品と結論づけられている。

 

 さて二日目の行軍だが、実は午前中はまったく抵抗に合わなかった。
 防塁や砦はちゃんとあるのだが守備兵は無く、近隣の町村も人こそ普通に暮しているが、兵の姿も神族も無い。
 尋ねてみると、夕べの内にどの町でも兵が出立して東に向かったと言う。

「待ち伏せ、だな。」
「さように存じます。これだけの数の神兵と兎竜騎兵が相手では抵抗はいたずらに犠牲を増やすと見極めて、一点に兵力を集中したのでしょう。」

 赤甲梢神兵頭取、兎竜隊赤旗団長のシガハン・ルペはアウンサの判断を肯定した。
 彼はこれまでの戦闘の一切を指揮しており、アウンサも副官のカンカラ縁クシアフォンもまったく口を出さない。褐甲角の王族は実戦の指揮はせず、神兵の働きを高所から眺め後に講評する慣習である。歴戦の勇士であり大審判戦争序盤から目の醒める武勲を積み上げたルペに、今更指導の必要も無い。まったく安心して任せている。

 だがさすがに次の戦闘は簡単にはいかない。縁クシアフォンが地図を拡げて、アウンサとルペに示す。

「カンニンカニイン城、三荊閣の一角ミルト家の所有する都城で東方街道の防御の要の一つです。カンニン野と呼ばれる平地が開けており、ここでの戦闘を企図しているのでしょう。」
「ゲイルの長所を発揮するには広い地が必要で、兎竜から逃げるのではなく正面からぶつからねばなりません。堂々と仕掛けて来ますね。」

 アウンサも地図に指をするりと走らせる。この地図は何人もの密偵が我が身を省みず敵地に潜入し、命を削りながら伝えてきたものだ。最新の軍の配置や神族の勢力範囲も詳細に記されている。カンニンカニイン城での戦闘は、何度も図上演習を行ってそのいずれででも発生した、序盤戦最初の既定の関門である。

「粉砕しろ。」
「はっ!」

 

 カンニンカニイン城は古くから栄えた街で東方街道の守りの要でもあるが、迂回が不可能ではない。ただここの兵力が生き残ったままであれば、最も脆弱なイヌコマ輸送隊を敵の追撃に曝す事となるので、どうしても撃破して進まねばならない。
 これは古来より東方街道を征く軍勢すべてが直面する課題であるので、城の西に広がるカンニン野は何度も激戦の血に洗われた。「カンニン」という言葉自体が、根元だけが血を吸ったように赤い草をを意味し、武者の亡骸に生えるとして畏怖されている。

 古戦場にギィール神族の防衛隊は可能な限りの大軍を集めていた。兵2500、ゲイル騎兵30というのはこの地方を守備するほぼ全軍と言って良い。毒地に出征した者が無ければ倍は集まったのだが、手薄の隙を衝いて赤甲梢が攻めて来たのだから言っても詮ない話だ。
 配置は2000の兵を城の正面に弩車の列を敷いて突入に備えさせ、ゲイル騎兵は野において迎撃戦を繰り広げる。ゲイルの速度と戦闘力は歩兵との共同作戦を行うのに不適なので、ゲイルのみで戦うのがセオリーだ。城には守備兵500が強弩や大弓で神兵を待ち受けるが、城外に展開した部隊を撃破されると追撃の能力が失われるので、実質は敗北と同等だ。

 対する赤甲梢はカンニン野の手前で神兵を結集して、静々と戦場に入って来た。兎竜70神兵装甲歩兵75、本隊の守りを最小限に抑え、決戦に挑む。数では圧倒的に赤甲梢が不利だが、神兵一人は戦車にも相当する戦闘力を備えている。

 根元の赤い草の上に立つ神兵と兎竜の姿を遠くに眺めて、ゲイルの背にある神族は誰もが死を覚悟した。
 現実を冷静客観的に見るギィール神族には希望的観測という習慣が無い。神兵150に対抗するのであれば、練度の高い重装歩兵1万を必要とし野戦陣地を念入りに構築して迎え撃つしか方法が無い。ゲイルにしても同数であれば兎竜にひけをとらないが、半数以下では以って瞑すべし、と言うしかない。

 都城自体を守るだけならなんとでもなるが、赤甲梢の目的はいまや明確にギジシップ島と判明している。勝てはしなくとも敵の兵力を削ぎ首都進攻を困難にせねば、カンニンの神族の名が地に墜ちる。全滅必至であっても、前に進む他の道を持たなかった。

 

 戦闘は装甲神兵団3幟隊が隊列を組んで進み、始まった。
 「三元鱗」、4人一組の神兵を単位に三角形に配置して全周を矢で狙いながら進む、対ゲイル騎兵用の隊列だ。鉄弓装備なので射程距離は400メートルになり、ゲイルの背の神族が用いる長弓200メートル超の射程では抗し得ない。
 当然、より射程の長い飛噴槍(ロケット槍)で攻めるが、これは命中率が低いので移動目標には効果があまり望めない。ゲイルを囮に、弩車の列の前に神兵をおびき寄せねば勝ちは無い。

 ただ、ギィール神族にも有利な点はある。ゲジゲジの聖蟲は視覚に依らずに周辺の状況を感知するので、目眩しに煙幕を焚いても戦闘に支障を来さないのだ。神兵が戴くカブトムシの聖蟲は人体が本来持つ感覚を飛躍的に強化するものの、完全に視界が無ければ手も足も出ないだろう。兎竜も煙は嫌いだから、近付いて来れないはずだ。

 煙幕で赤甲梢の足が止まり混戦に陥れば、ゲイルを神兵の隊列の中に乗り込ませ、当たるを幸いになぎ倒し出血を強いて敵戦力を削ぐ事が出来る。命を惜しむ常人には不可能な戦闘だが、感情を殺して育つ神族に躊躇は無かった。

 敵の前進に合わせて30騎のゲイルも前に進み、左右に別れて包み込もうとする。背では狗番が背を目一杯に反らせて大弓の弦を引き、煙幕筒を投射する。残念ながら毒煙筒は使えない。歩兵は耐毒の装備が無く、また有ったとしても神兵には効かず動きの鈍くなる兵を思うが侭に薙ぎ払わせるだけだ。

 数百本の煙幕筒が吹き出す黒煙で、周囲は夜のように暗くなった。が、神兵の行進は止らない。聖蟲に強化された聴覚で周囲の状況を探りつつ、ひたすら前に突き進む。煙幕による防御は既に毒地中の寇掠軍が何度も試している。いかに視界が悪かろうが、15メートルを越える巨蟲の走行音が消えるはずも無かった。

 ぎゅうわぁあん、と鋼の鳴る音がして、鉄弓から矢が放たれる。三元鱗では4人の神兵が同時に同じ目標に攻撃する。闇の中でも射る方向を揃える彼等には、煙幕も効果が無い。神族には当たらなくともゲイルに当たれば良いのだから。

 煙をまとい速度に任せて急襲しようと近付いたゲイル騎兵が、鉄箭を食らって煙の中から弾け出る。並みの矢では徹らない硬い灰白色の甲羅でも、鉄の矢は易々と貫いた。
 逃げ出るゲイルの背を兎竜に跨がる神兵が襲う。兎竜騎兵は立ち上る煙の柱の周辺に輪を描いて駆け回っている。こちらは兎竜が怯えるので鉄弓ではなく長弓を用いており、射程距離は神族よりもわずかに長い。
 主人を庇って狗番が矢を受ける。蛤様の重装甲の甲冑を着用してはいても、直撃すれば十分に貫通する。長年仕える狗番を討たれるのは、ギィール神族にとって半身を失うのと同義だ。怒りに震えるが、傷付いたゲイルをひたすら操作してまた煙幕の中に飛び込むしかない。

 

 一方城の前で待機する兵達は、煙幕によってしかとは分からないまでも神族が不利だと敏感に察知する。このまま待機していてよいものか、と率いる剣令達は思案するが、飛び出した途端に神兵に遭遇して乱戦となってしまえばどうしようもない。

「火を、火を放てば兎竜は退くのではないか。」
「たしかに、兎竜だけでも抑える事が出来れば、それだけ殿様方は有利に戦えるだろうが、」
「風向きは良い。街に火が飛ぶ可能性はあるが、やるべきだ。」
「むう。火矢を!」

 カンニン野に火が放たれ、ますます煙が目に染みて状況が分からなくなる。たしかに火は悪くない手だった。ゲイルの甲羅は多少の熱ならば耐えるし、背の神族は火を自在に扱うだけあって防毒防煙面もちゃんと携帯している。獣に過ぎない兎竜が火の中で活動するのは不可能だから、ゲイル騎兵は後背を脅かされる事なく戦えるはずだ。

 だが既に遅かった。この時ゲイル騎兵は12騎が失われ、残りは一方的に兎竜に追い回されるだけだった。兎竜が居ない火の方に避ければ装甲神兵団の集中射撃の的となり、ゲイルは無残に巨体を地に落とす。長身の神族の黄金の鎧が炎を背にゆらりと立ち上がり、神兵の大剣で両断される。

「!? 弩車、一斉射撃!」
「!!、大剣令様、それでは煙の中の殿様方が、」
「構わん! 責任は儂が取る。」

 それは、燃える火の中から湧き出てこちらに向かう煙の塊に対しての攻撃命令だった。兵の総指揮を任された大剣令は、装甲神兵団の突進に伴うものと看破する。強力な弩車の集中射撃は敵に痛打を与えるはずだ。
 だが彼の下の剣令達はこの命令に一瞬躊躇した。煙の中ではまだ神族が戦っている。弩車の矢が万一当たれば、神にも等しい支配者達を殺しかねない。

 遅滞は致命的だった。弩車が回され照準を定めるその直前、煙を割って神兵の姿が現われた。背の翅を最大限に拡げ振動させ、まっしぐらに突っ込んで来る赤い甲虫は、恐怖そのものだ。
 弩車が、強弩が、弓が向けられ、2000の兵すべてが狙いも定めずに一斉に矢を放つ。黒い雲霞の群れが神兵の正面に襲いかかる。

 ばりーん、と割れる音がして、矢の集団が一度に砕け散る。まるでそこにだけ穴が開いたようにぽっかりと、神兵の姿が光に浮かび上がる。なにが起ったのか分からない。ただ、敵は無傷だと直感的に悟る。

「撃て、撃て、撃て、撃てうてうてうてーっ!」

 命ずるまでも無く、兵達は狙いも十分に引き絞るのも止めて、ただ前に矢を投げた。効かないと分かっていてもそれしか出来る事が無い。恐怖を感じる暇すらない。突進してくるアノ異形の怪物が、止まってくれないのだから。

 兵が身を隠す土盛の列が一瞬に脹れ上がる。無音の中、土塊が炸裂して兵もろとも宙に舞上がる。
 一番乗りを果した神兵が、大剣にて「吶向砕破」を使ったのだ。聖蟲の力が一瞬に大剣に篭められるこの技は、城門の大扉さえも弾き飛ばす勢いがある。砕かれた石や木材が跳ね飛んで、敵を一網打尽になぎ倒す。

 後はもう阿鼻叫喚の殺戮画であった。ふり回される大剣は当たるを幸いに人だろうが弩車だろうが構わず切り刻み、暴風と化して荒れ狂う。3幟隊すべてが城壁に取り付いた時には、もう倒すべき敵が残っていなかった。幸いにして免れた兵は刀槍での戦闘など考えも及ばず、ひたすら遠くに逃げ散った。

 既に必要は無いが、赤甲梢の本分は城砦への殴り込みである。10数メートルの城壁を軽く登り上がると、壁上の敵兵は赤子のように泣き叫び、下の街へと逃げ去った。眼下であれほどの惨劇が繰り広げられたのだ。上に居た彼等は地獄を覗き見たのと同じ思いがしただろう。抵抗の意志などきれいさっぱり消し飛んで、ただ神兵の姿の見えない所へ走る。

 

「勝ったな。」
「そのようでごさいますね。」

 カンニン野を見下ろす丘からイヌコマと共に戦況を眺めていたアウンサは、煙の向こうに上がる勝ち鬨に作戦成功を知る。勝つのは当然だが、被害がどのくらい出たかが問題だ。最悪の場合は、電撃戦を諦めねばならなくなる。

 兎竜騎兵が1騎、丘を駆け登る。指揮を執っていたシガハン・ルペからの伝令だ。

「我が軍大勝利、カンニンカニイン城の城門は開かれました。残存する敵の抵抗は無し。」
「うむ、我が方の被害は。」

「それが、・・・」
「どうした。」

「それが、誰もケガをした覚えが無いのです。申告がまったくありませんので、分かりかねます。」
「無傷なのだな。」
「あり得ない事ではありますが。」

 赤い兜の下から、その神兵は笑顔を投げ掛けた。彼は赤甲梢の神兵としては最年少で、聖蟲を授かってさほどの日が経って居ない。

 アウンサの傍らの輔衛視 彩ルダムが戦勝の祝いを申し述べる。

「アウンサさま、これはやはり、青晶蜥神の御加護が有るという事でしょう。」
「しっぽの御利益だな。」
「素直に喜ぶべきだと思いますよ。」

「シガハン・ルペに伝えよ。補充分の物資を奪取した後は、カンニンカニイン城を迂回して行軍を再開する。休息は更に3里(3キロ程度)行った丘だ。」
「はっ!」

 再び兎竜の背に乗って伝令が戻るのを見送り、副官 縁クシアフォンが確認する。

「ここでは、”人気取り”はしないのですか。」
「必要無い。アレを見ろ。」

 アウンサが指差す方を縁クシアフォンと彩ルダムが見ると、先程までの戦場に人の姿がある。煙が薄れつつある野に入り、何かを探しているようだ。

「倒された神族の奴隷共が、主の姿を探しているのだ。彼等も、都城の民も厭でも知るだろう。ギィール神族の世が滅び、新たなる時代が訪れる事を。」

 

 

 カンニンカニイン城を抜け、南北の分岐点に到達した赤甲梢は、ここでケルベルト咆カンベ大剣令率いる装甲神兵隊25名と分れた。彼等はこのまま東に進み、ギジシップ島へ渡る船を奪取する。

「10艘は分捕って来ますよ。」
と咆カンベは笑ってアウンサに応え、黒紫幟隊に前進命令を出す。兎竜は用いずに徒歩での行軍となる。イヌコマは50頭連れていった。

 見送るアウンサに、シガハン・ルペと縁クシアフォンが言う。

「ここで25名の神兵を手放すと、以後の戦いはかなり苦しくなります。」
「シンデロゲン港にはさすがに兵員が揃っているので、攻めあぐねて進軍が止まる場面も予想されますが、計画通りに進みます。よろしいですか。」

「なあに、そんなに心配することもないさ。」

 アウンサの言葉が終わらぬ内に、朗報が飛び込んで来る。

「密偵よりの報告です。十九日昼、紋章旗団50名がゥエーゲル関を突破して東金雷蜒領に侵入。そのまま昼夜を問わず進軍しているという事です。」
「おお!」
「ほら。」

 アウンサは礼装甲冑の黄金の兜を取って、赤い髪を乱した。なんとなく空気に海の気配が混ざっている気がする。

「東の海、というのはまだ見たことが無いな。」

「必ず、かならずや総裁をギジシップ島へお連れいたします。」
「うん、期待するぞ。だがあんまり頑張り過ぎて、神聖王の首を取ってくれるなよ。アレはくっついてないと意味が無い代物だからな。」

 ハハハ、と神兵達は笑う。
 これまでは誰一人欠けずに来たが、単に運が良かったに過ぎない。シンデロゲン港で、海峡で、ギジシップ島で、神聖王宮で、彼等の内の何割かは確実に死ぬ。全員が海の藻屑となってもなんの不思議も無い。

 だからと言って笑いを妨げる権利は、死神にも無いのだ。

 

第三章 波濤の攻防〜赤甲梢征東記 その2

 

 スーベラアハン基エトス大剣令が指揮する紋章旗団の神兵が赤甲梢本隊に追いついたのは夏旬月廿一日。一日遅れで追随せよとのアウンサの命令を守り、敢えて最高速を出さずに進路上の敵を虱潰しにしつつ進んだ。

 しかしながらシンデロゲン港の直前で留まっているとの密偵の報告を聞き、やはり兵力不足かと合流を急いで、夜明け前の待六刻(午前4時)に本隊が陣を張る村に入った。ここは港から3里(キロ)の、目と鼻の先である。

「うん。約束通りにちゃんと来たな。」
「アウンサさま・・・・。」

 紋章旗団50名。団長であるィエラースム槙キドマタ中剣令以下の神兵は久しぶりにアウンサの顔を見て、安堵と同時に懐かしさ愛しさを覚えて、思わずその場に膝を突いた。
 この人こそ彼等が真に将と仰ぐべき方なのだ、とアウンサの傍らで見守る輔衛視チュダルム彩ルダムは了解した。彼女は軍における法の監察を行う立場にあり、軍が特定の者の私兵化するのを防止する務めがあるが、それでもなお利害を越えた忠誠に美を見出さずにはおれない。

 槙キドマタは顔を上げ、アウンサに報告する。

「ボウダンにおける我らが指揮官アスマサール幣ガンゾヮール様がこのように我らを送り出してくださいました。汝が信じる正義を成せ。と。」
「その言葉に私も応えよう。だが、・・・御前達、ちょっと寝ろ。」

「いえ、いえ! 我らこのまま戦列に加わり、シンデロゲン港攻略の助けとなります。」

 彼等を率いて来た基エトスは同僚のシガハン・ルペ、カンカラ縁クシアフォンに戦況を聞く。

「それほど防備が固いのか。」
「違う。やつら、市を焼こうとしているのだ。民を残したまま毒煙さえ使おうとする。」
「木材が残っていれば、我らが筏を組んで海を渡る、とでも思っているのだろう。」

「対応策は?」
「今、兎竜隊を南に走らせて敵の注意を引いている。敵の手が分散すれば付け入る隙も生まれるだろうが、」

 元老員出身の異色の赤甲梢 基エトスはかなり変った男と知られる。陰謀渦巻く宮廷が厭で軍に身を投じていながら、その素質は謀略に長けアウンサの信望も篤い。嫌なことをやる時はいつも彼に考えさせる。
 果たして彼は、アウンサが躊躇して使わない、確実な打開手段を早速に思いついた。

「アウンサさま、青晶蜥神のしっぽをお使いなさいませ。」

 そんなことは百も承知だと言わんばかりに、アウンサは殊更に嫌そうな顔を作って見せる。

「なるべくなら、こいつは使いたくないのだ。」
「青晶蜥神の神威を示せば、奴隷どもも剣令達も平伏し、民をいたずらに損なう策を使えないでしょう。彼等が今最も怖れるのは、ガモウヤヨイチャンに見捨てられる事です。」
「分かっているが、武徳王にも言訳の立つように、なるべく武力とか神算の軍略とかで解決したいのだよ。」

 この戦、地上に降り立った三神の威を競う場と化している。褐甲角王国はもちろん褐甲角(クワアット)神の力で勝ちを得て千年の治世の正しきを証明しなければならない、と皆が心得ている。いかに弥生ちゃんの示唆で電撃戦をやっているとはいえ極力その枠組みを崩したくないのが、王族に生まれて破天荒の限りを尽したアウンサの最後の落とし前と呼べるものだ。

 だが基エトスは気の利かない男だ。味方も敵も、民衆も傷付かずに済むのであれば、アウンサの矜持くらいちょっとは折れてみせても構わないだろう、と本気で思っている。
 一歩も退かない困った同僚を前に、シガハン・ルペが助け船を出した。

「アウンサさま、直接ではなく神官達を呼びつけてはいかがです。シンデロゲン港にも大きな青晶蜥神殿や黄輪蛛神殿があります。彼等に此度の遠征の真の目的を説いてみせれば、敵の指揮官の意を曲げる事も可能でしょう。」
「私もそう思います。神族の姿が見えませんから、剣令が総指揮を執っていると推測します。誰だってこの時期にガモウヤヨイチャンに逆らいたくはありません。」

 縁クシアフォンも口添えするが、アウンサは首を縦に振らない。額に手をやって鎮座する黄金の聖蟲を手で撫でた。普段はおとなしいカブトムシだが、触られるとへこへこと場所を変える。たまに甘い果実などを与えてやると喜ぶのだが、戦場ではそうもいかない。

「・・・いっそ、港に住む者すべてを皆殺しにする、とか言えば、奴隷は我先にと逃げ出したりしないかな。」
「それは神族に仕える者に期待しない方がよろしいかと。市の周囲を守る兵を打ち破れば、直ちに火を掛けるでしょう。」
「うーん、」

 ここで手柄を立てねば昼夜を走り抜いた甲斐が無い、と紋章旗団の名誉を賭けて槙キドマタが願い出た。アウンサは目を細めて尋ねる。

「策はあるか。」
「ございます。我らこのまま夜明前の闇に乗じて市に潜入し、自ら火を掛けます。」

「なるほど。こちらが火を使うのは奴等の想定の外だろう。アウンサさま、全市に燃え拡がらないように場所を選べば、敵の意図を挫き大部分をそのままに逃げ去るかもしれません。」
「港に火を掛けさせねばならないのだ。ここにある船はすべて焼かねばならぬ。」
「倉庫街がよろしいでしょう。港に近く人家から離れて設置されており、火除けの広場もあると地図には記されています。」

「わかった。ィエラースム槙キドマタ、紋章旗団にこの作戦任せる。休息の間も無いが、頼む。」
「御下命有り難く御受けいたします。」

 

 シンデロゲン港の防衛指揮は、一般人の大剣令に委ねられている。ギィール神族の対応は二つに割れた。一方は一度南に下がって兵力を結集して逆襲に出る。他方は船が有る内にゲイルごとギジシップ島に渡り、神聖王を守る。どちらも港を守ろうとは考えなかった。

 何故なら、赤甲梢がギジシップ島に渡ろうとするのならば、こちらは船を焼けば良いからだ。
 とはいえ、焼くタイミングを間違えると赤甲梢は更に南下して手薄な港を襲う。ぎりぎりまでシンデロゲン港に引き付けねばならず、神族の介入はむしろ不適と看做された。神族は世を治める者の責任として無辜の民の生命の安全を考えるが、剣令はひたすらに命令を守るだけだからだ。

 剣令達の責任は廿二日までの辛抱だ。南の防衛体制はこの日までに完成し迎撃の為に北上する事が予定されていたし、ギジシップ内部の防衛、王師海軍の帰還も完了するはずだ。
 時間稼ぎだとはいえ、自らの家族も暮す街を焼くのは彼等にも躊躇いがある。なるべくなら船を焼くだけで済ませたい。

 だから、黎明の光と共に倉庫街が出火し、それが赤甲梢の仕業であると判明した時には驚愕と共に安堵を覚えた。
 褐甲角軍が街を焼くのはここを拠点として用いない事を意味し、南に移るという意志表明でもある。直ちに烽火が上がり、近隣の港や漁村で船に火が掛けられる。シンデロゲン港では300を越える大小の船が燃やされた。

「まずは一安心。」

 海峡全体を覆い尽くさんと立ち上る船の燃える煙に、王師海軍戦艦「寒梭魚」艦長サンク・アオン大剣令は小声でこぼした。船乗りとしては自ら船を焼くという最悪の手段を用いた事に苦痛を覚えるが、ギジシップ島へ敵を踏み入れさせては王師海軍の存在意義が失われる。非常の策と諦めるしかない。

「・・・ほんとうにそう思うか?」

 艦長の背後で耳ざとく聞いて、尋ねる者がある。振り返ると操舵梃の根元に神族が一人座っている。
 ジャンゲル粛ザイン、定住の地を持たぬギィール神族だ。今は「寒梭魚」の食客としてサンク艦長の世話になっている。神聖王に直接仕えるサンクは身分の差は彼との間には無いのだが、やはり聖蟲を持つ者には一歩退かねばならない。

 彼は赤ら顔に笑みを浮かべて奇矯な神族に話し掛けた。

「・・・、言いたいことは分かります。別の渡海手段を赤甲梢が持っている可能性がある、と仰しゃりたいのでしょう。」
「船をすべて焼いたのはまずかった。この煙は目眩しにちょうどよい。神族の感覚をもってしても、広大な海のすべてを察知する事はできない。」

「ザインさまならいかがなさいます。」
「俺ならば、小舟は余所にどけて、赤甲梢が乗る為の大船を用意しておくな。堂々の海戦となれば、陸の兎竜使いなどゲルタほどの価値も無い。」
「なるほど、それは悪くない手だ。司令部に進言なされば良かったのに。」

「下らん。」

 彼は吐き出すように言うと、左舷を眺めた。煙に半ば隠れているが、ギジシップ島の白い崖の壁が延々と横に連なっている。彼の目の前を水夫達が忙しく立ち働く。

 粛ザインは極めて特殊な性向を持った神族だ。彼は他のギィール神族とは異なり、モノを作る事に一切の関心を示さない。代りに、モノを使う事に集中する。ありとあらゆる機械や道具を使いこなし、絵画や音楽等の芸術にも優れた才能を示す。金銭を投資しては相場で大山を当て、一夜にしてそれを使い切ったとも聞く。

 だが結局彼が最も好むのは武器、それも白兵戦闘の槍刀の類いの操法だ。嘘か誠か、寇掠軍に出征して黒甲枝を斬ったという噂もある。神族はゲイルの背にあるのが普通だが、彼は剣匠達に混ざって歩兵として戦闘に参加したらしい。
 現に「寒梭魚」の上でも、身分の低い水夫や兵と親しげに交わって酒を酌み交わし相撲などする。服装も金銀をあしらったきらびやかなものでなく漁網を被って片肌を脱いでいるが、長身の裸体が陽に焼けて、見る者に精悍さと優美さの二種の感動を与える。

 サンク艦長は彼の機嫌が直るかと、こう言った。

「では我が艦のみは北上して、敵がどのような渡航手段を用いるか確かめて見ましょう。兎竜の群れが南に下ったという情報は、確かなものだと聞きますがね。」
「艦長。兎竜をギジシップ島へ運べると思うか?」
「まさか。」

 ゲイルを船で運ぶ事の困難さを、彼は誰よりもよく知っている。13対の肢で勝手に船縁を乗り越えてくれるゲイルでさえ、大人数が必要なお祭り騒ぎとなるのだ。ただの獣の兎竜が大人しくするはずがない。それも数十頭を。

「では陽動だ。南に行くと見せてシンデロゲン港から渡る。賭けてもいいぞ。」
「よしましょう。賭けで神族に勝った例は無いですからね。」

 

 

 廿一日昼。シンデロゲン港の守備隊は街にこそ火は掛けなかったが、港湾施設はほとんどを焼いた。おかげで船を持って来ても当分仕事にならない。無論この処置は万が一赤甲梢が船を持っていたら、という仮定に基づき乗船を阻む為だ。

 だが船は来た。
 細長い海峡は朝夕潮の流れが変り、現在は北から南に早く流れている。この潮に乗って、ケルベルト咆カンベは一気に船を岸に着けてきた。中型の商船が2に小型の軍船が1だ。彼は軍船に乗っている。

 岸壁の赤甲梢は座礁ぎりぎりの浅瀬にまで船を近づける咆カンベに叫んだ。

「船は3隻のみかー。」
「なんの! 小舟も確保して来たぞ、計7艘だ。」

 帆柱を持つ漁船が4艘、商船の後ろから現われる。小さい分小回りが利くので、軍船として使う場合もある。というよりも、海賊によく使われる型の舟だ。

「アウンサさま、この舟にて乗船下さい!」

「うむ。レト、後は頼むぞ。」
「お任せ下さい。アウンサさまがお戻りになるまで、兎竜は死守してみせます。」

 兎竜隊青旗団メル・レト・ゾゥオム中剣令以下12名は、陸に残される兎竜を率いて陽動作戦を行い、また逃げ回って保護する任務を授かった。ギジシップ侵攻には加われないが、退路を確保する必要だって当然にあるのだから致し方ない。若い彼等があえて貧乏くじを引いた。ちなみにイヌコマは物資を下ろして野に放した。近隣の住民が勝手に捕まえて世話をしてくれるだろう。

 

 船を奪取しに行った装甲神兵黒紫幟隊は、今回特別な基準で隊員を選んでいる。25名すべてが百島湾海軍の出身なのだ。ここ20年大きな戦争は無かったが、その分西金雷蜒王国に面する百島湾海軍は小競り合いを繰り返し、数多の武勲を積み上げた。当然勇者も生まれて、赤甲梢にて聖蟲を授かる者も少なくない。
 彼等はありていに言うと身分が低いクワアット兵からの叩き上げである故に、操船技術や舟戦技術の泥臭い細部も知っている。

 これを集めて北の港に船の奪取に向かわせたが、25名ではさすがに数が足りない。200の神兵をそっくり渡すには中型船2隻は欲しいが、加えて護衛を務める小艇も必要だ。
 操船に必要な人数を、アウンサはクワアット兵の決死隊にて賄っている。電撃戦の敢行が決定するのと同時にやはり百島湾海軍またはイローエント南海軍出身者を募り、密偵の手引きでこの港にあらかじめ伏せさせていた。数は50名。

 神兵の到着と同時に彼等は港を襲い、かねて目当ての船を奪い取った。だがいたずらに流血を見てはいない。

 咆カンベが持ち込んだ金銀を強引に船主や船長、はては港を警備する剣令にまでむりやり握らせる。
 或る意味これは恫喝だ。褐甲角軍に協力した、と思われたくなければ黙って泣き寝入りしろという策で、故に警報の烽火も追手も掛らなかった。今頃は港の一部を壊したり小舟を焼いたりと、激闘虚しく船を奪われたかに見える擬装工作に努めているだろう。

 

 黒紫幟隊は軍船と小舟に分れて搭乗し、本隊を運ぶ二隻の商船を護衛する。商船を運行してきた者はそのまま操船を続けたが、小舟には2名ずつ、軍船には10名が乗り決死隊のクワアット兵を指揮している。

「そうか、神兵が櫂を漕げば素晴らしい速力が出るな。」

 奪取した軍船の性能に咆カンベは満足だった。彼が船に乗っていたのは20年も前になるが、当時の褐甲角軍の軍船よりもこれはずいぶんと進んでいる。
 船の建造は木材が産出する褐甲角王国で盛んだが、高度な性能を持つ軍船は技術に優れた金雷蜒王国に敵わない。素材となる船を組み上げて一度輸出し、敵国である西金雷蜒王国に擬装を依頼する、という手段すら用いられている。

 「大剣令! あれを!」

 配下の神兵が指差す波間に、巨大な黒い軍船が見える。煙に陰っているが明らかに赤甲梢の渡海を察知してこちらに向かって来る。

「単艦か? 周囲に船の姿は無いか?」
「わかりません。しかし!」

 彼等が見る軍船は百人漕ぎの戦艦「寒梭魚」。十二神方台系において標準的な戦列艦で、商船構造の改造戦艦とは戦闘力の桁が違う。部分的に鋼鉄板さえも盾に用いて、火矢や飛噴槍を受け付けない。大弩や投石器も装備して、アウンサ達が乗る中型船などはものの5分で沈没させられるだろう。

「戦闘準備! あれにはこの軍船でしか立ち向かえない。船を突っ込ませてでも止めるぞ!」
「はっ!!」

 

「ほっほー居ましたよ。やはり船を用意していましたな。」

 「寒梭魚」のサンク艦長はシンデロゲン港の北の浜から動き出す商船を遠くに眺めて、快哉を上げた。粛ザインは愛用の長槍を肩に掛けて帆柱を見上げる。上の見張りが詳細な情報を叫び返した。

「「暑疾」級快速軍船が1、中型商船が2、帆掛けの小艇が4です!」

「北か・・。これだけの船を奪取するだけの別働隊を持っていたのか。」
「いやまったく、神兵をこれだけ多数動員出来るとは、褐甲角軍も本腰を入れて来たものです。後続の部隊もおそらくはあるのでしょう。」
「それはどうかな。さすがに次はギジェカプタギ点も対処するだろう。」

 ギジジット島は本土のどこからでも渡れるが、周囲は50メートルを越える高さの断崖となっている。登れないほどではないが、石に階段を彫って道を作ってある幾つかの港から上陸するのが普通だ。
 赤甲梢も多数を上陸させ迅速な戦闘を継続しようと思えば、かならず港を使用すると読んで「寒梭魚」を最北端の港周辺に伏せておいた。港の関所はにわかの敵襲の報に右往左往しているが断崖の上、神聖王が統べる「天原」ではいつもと変らぬ日常が繰り広げられていると聞く。何名かの神族がゲイルを連れて神聖王を守るべく階段を上ったがその後音沙汰も無い、と役人は言った。

 サンク艦長は副長の剣令に戦闘準備を命令し、舳先を赤甲梢に向ける。

「ちょっと、手柄を立てても良うございますかね。」
「好きにしろ。俺は白兵戦しか興味が無い。」
「名にし負う赤甲梢の神兵に乗り込まれた日には、お願いしますよお。」

 アウンサ達が乗る商船では、神兵が櫂を握りひたすら漕いで潮に逆らいギジシップ島への進路を取る。だが所詮は民間の船であるから、神兵の怪力も下手に使えば櫂を折って走れなくなってしまう。漕ぎ手に恵まれていても思うように速度が出ない。
 一方咆カンベの乗る軍船は30人漕ぎだが、漕ぎ手にうすのろ兵を用いる事も考慮してあるので神兵の力を十分に活かす事が出来た。軍船は矢のように海面を滑り、「寒梭魚」の進路に立ち塞がる。

 しかし攻め手が無い。一応は強弩や投槍、火焔筒も搭載されているが、船縁が高い戦艦を相手にどうにも不利は否めない。
 逆に、射程距離の長い戦艦の方から先に攻撃して来た。長い槍のような矢に火焔筒を結んで、山なりに飛んで来る。当たれば焔が噴き出して、一気に船体を焼こうとする。ギィール神族が工夫した黒い耐火塗料が塗っていなければたちまち燃え広がっただろう。

「うおっ!」

 投石器から燃える炭の固まりが飛んできた。焼けた石や鉄片が降り注ぎ、甲板にばらばらと砕け散る。積んだ矢にも畳んだ筵帆にも火が移り、燃え上がる。
 咆カンベは叫んだ。

「慌てるな! 今こそ、青晶蜥神救世主のお恵みを使うのだ。」

 

「火が、燃え上がりませんな。的確に消しているようです。にわかの海軍とは思えない手際だ。」

 船縁から攻撃の効果を確かめていたサンク艦長は、敵にあまり損傷を与えてないと知り、更なる攻撃を命じる。彼の言葉に座ったままの粛ザインはふふんと鼻を鳴らす。彼は額の聖蟲によって、敵船の上でなにが起きているか知っていた。

「面白いものを使うな。この世界には無かった品だ。」
「粛ザインさま、なにごとです。」

「赤甲梢は秘密兵器を携えているのだ。陶器の球をぶつけると中の薬剤が飛び散って火を迅速に消し止める。」
「そのようなものを褐甲角軍が発明したのですか? ギィール神族を出し抜いて?」

「いやどうも、これは、・・・星の世界の産物のようだな。ガモウヤヨイチャンだ。」
「おお、救世主のお知恵ですか!」

 弥生ちゃんはデュータム点に逗留中、市中に火を放たれるのを怖れて多数の無尾猫を監視に走らせていた。同時に、見回りの神官戦士に消火弾を作って与えている。中身は重曹の粉だったり石鹸水に混ぜ物をしたもので消火器と呼べるほど強力ではないが、なにしろ十二神方台系では水を掛ける以外の方法を知らない。神官戦士達はその効能に十分驚きの目を向けた。
 これに注目したのが、メグリアル劫アランサ王女の護衛役を務める赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダで、実物と処方を添えてギジェカプタギ点のアウンサに送ったのだ。草原の戦いにおいて寇掠軍の火を使った新兵器に悩まされた赤甲梢は大いに喜び、電撃戦においてもイヌコマの背に積んで多数を持ち込んでいた。先のカンニンカニイン城での戦闘においても、火焔瓶の攻撃を防ぐのに大活躍している。

 

「咆カンベ様、これではらちが開きません。我らが乗り込んで敵船を沈黙させます。」
「うううううううむ、仕方ない、2名、行け!」
「はっ!」

 十二神方台系の海戦はやはり、船を接舷させて兵を送り込み白兵戦闘で決するのが主流だ。神兵になる前の戦では、彼等も存分にこれを行って来た。戦艦相手ではあっても聖蟲の助けがあればなんとかなるだろう。

 ィヨンワイとウラボォンの2名の若い神兵が船縁に足を掛けて構える。敵船の舷側に鉤を打ちこんでぶら下がり、聖蟲の怪力にてよじ登ろうというのだ。
 咆カンベは巧みに潮を読み漕ぎ手に始終指示を飛ばして、瞬時「寒梭魚」に接触する事に成功した。

 赤い翼甲冑の背中の翅を大きく震わせて、二人の神兵は飛んだ。その跳躍力は人間をはるかに越え、敵船の水夫達を驚かせる。舷側に深々と鉤を打ち込んだ二人は、両の手に短刀を握り締め黒い防火塗料を塗った分厚い側板に突き立ててよじ登る。

「! ウラボォン!!」

 甲板の上では驚き騒ぐ水夫達を叱咤して、剣令が迎撃を命じる。気を取り直し鋼鉄の銛を手にした兵が、船縁に躍り上がって真下の神兵に直撃させる。さすがに肩口から甲冑を破って貫いた銛に耐えられず、赤甲梢ウラボォンは逆巻く海に落下した。

 ィヨンワイはしかし、そのまま登り続ける。上からバラバラと手槍や銛が降って来るも構わず両手の短刀をひたすらに舷側に打ち込んで、遂に船縁に立つ。20秒ほどの登攀だったが、永遠に思えた。緑の海原に群青の空が広がり、ギジシップの白い崖が光を放ち目に差し込む。

 小型の銛がィヨンワイを襲う。強弩の水平発射だ。腕が勝手に動いて短刀で弾き返す。この短刀、刃渡りは30センチほどだが非常に分厚く、まるで三角柱の杭だ。聖蟲の怪力でも折れず曲がらず、分厚い鋼鉄の甲冑を直接に抉り込む強さを持つ。これを両方ともに逆手に握り、改めて甲板の上の状況を見た。

 数十人の水夫や兵士が銛や槍戈、刀剣を手にしているが、皆目に恐怖がある。たった一人とはいえ神兵の、それも最強を噂される赤甲梢の乗船を許してしまったのだ。現に今も、船の防盾すら貫く強弩の矢が無造作に弾かれた。
 誰から行くか、いや誰から死ぬか。戦わねばならないと知っていながら、身動きが取れない。照りつける夏の日差しに影を落とす彫像と化した。

「邪魔だ、どいてろ。」

 水夫達を掻き分けて、一本の長槍が立った。長身の男が槍を左右に振ると水夫も兵も後ろに退き、彼の為に甲板を開ける。

「サンク艦長、操艦を続けろ。敵の主力はあっちの商船だ。」
「しかし! お一人で?」
「一人の方がやりやすいだろう。」

 その男はギィール神族だった。確かに額には黄金に輝くゲジゲジの聖蟲がある。しかし服装はあまりにもみすぼらしく、櫂を漕ぐ水夫達とほとんど違いが無い赤裸だ。甲冑を着けていなければ、靴さえ履いていない。

「?!、しまった。裸足か。」

 ィヨンワイは後悔する。
 翼甲冑の足は地面を蹴る為の爪が生えている。これがあるから大地をしっかりと掴まえて強力な脚力を活かす出来るし、今舷側を登って来た際にも大いに役に立った。
 だが船上での戦闘は裸足の方がやりやすいと相場が決まっている。百島湾海軍の神兵達も舟戦専用の丸甲冑の足部を省略して裸足のまま敵船に乗り込むのだ。硬い靴底は容易に滑るし、爪や刺は甲板の木材に引っ掛かって動きを鈍くする。翼甲冑をそのままに用いたのは思慮が足りなかった、とほぞを噛む。

 神族ジャンゲル粛ザインは手にした黄金の槍をぶんと振って、水平に構える。長さが5メートルになるゲイルの背で用いる槍だ。船縁から下を探るには都合が良いが、甲板上で戦うには明らかに長過ぎる。だが粛ザインはまるで不安を感じていなかった。

 むしろ、ィヨンワイの方が緊張する。この槍は神族がよく用いるもので柄の全長にタコ樹脂を塗っており刃を弾き、大剣で切りかかっても容易には斬れない。よくしなり折れもせず、ゲイルの勢いを乗せて激しく甲冑を叩いても破損しない優れた武器だ。
 無論、格闘戦となれば神兵が圧倒的に有利。身体の何処でもよい、叩かせて槍を抱き込めばゲイルの下から神族を吊上げる事も可能だ。だが中には巧みに槍を操って黒甲枝を翻弄する使い手が居ると聞く。

 両手の短刀をそのままに、じりと間合いを詰めていく。疾い槍が相手ならばむしろ小回りの効く武器の方が都合がいい。大振りをする大剣ならば遅れを取っただろう。

 聖蟲を戴く二人の間に、透明な雷が無言の電圧を高めていく。水夫も兵も、指揮する剣令も、誰一人目を離せない。一人サンク艦長だけが操舵梃を握り海面を走る快速軍船に対応する。万が一、二人のバランスがわずかにでも崩れたならば、赤甲梢は真っ先に艦長を殺しに来ると分かっていても、梃から手を離さない。

「きゃぁっつ!」

 粛ザインが槍を繰り出す。思った通りの凄まじい達人だ。右に左に跳ねるように槍の穂先が飛び交って、翼甲冑の喉元を襲う。
 ィヨンワイも短刀で弾き返すが、慎重だ。先程の強弩の攻撃は無意識に弾き返したが、今度は槍の受け方を一つ間違うとたちまち窮地に陥ってしまう。理詰めの将棋に似て、何手も先を読んで防ぎ、間合いを詰めていかなければこの神族には勝てない。

 一方、粛ザインも誉れ高き赤甲梢の神兵の強さに認識を新たにした。
 彼等、甲板上に集う者達は運が良かった。この赤甲梢が有無を言わせず乱戦に持ち込んでいれば、さすがの粛ザインでも防げなかっただろう。もう一人の神兵を海に突き落とした事で彼に考えさせる隙を作ったからこそ、槍で対応出来ている。

 右に大きく振りかぶって、槍のしなりを利用して蟲を模した兜の側頭部を打撃する。短剣では受けきらずに頭で弾いたが、神兵は一歩前に出る。足元に引っ掛かりが無ければ、瞬時に飛び込んだだろうタイミングだ。
 弾かれた槍を吸い込むように手元に戻すと、再び喉元にねじ込み突き入れる。5メートルの槍が2メートルに、また元の長さに、と自在に行き来する。障害物の多い甲板上を振り回しているのに、どこにも当たりはしない。

 サンク艦長も粛ザインの槍の妙技を目の当たりにして、これは黒甲枝を斬ったというのも嘘ではないな、と得心した。しかし赤甲梢も只者ではない。重い甲冑を着けていながら動きは軽やかで、槍の連撃を間違えることなく処理していく。特に、背の4枚の翅が怪しかった。これが羽ばたけば、いきなりの突進があるのだろう。
 じりじりと二人が回り込み、操舵梃を神兵が背にすると、サンク艦長は全身に震えが走り、肥った喉をぐびと鳴らした。今振り向くなよ、ふりむくなよと祈り続ける。

「だっ!」

 ィヨンワイが最後の打ち込みを両の短刀で弾くと、遂に前に飛び出した。黒く光る鋼のくさびが蟲の貌の前ですり合わされ、粛ザインの胸元に迫る。

「!」

 神族が身にまとっていた漁網を一部切り裂いて、ィヨンワイは左の船縁に激突する。さっきまでそこに居た神族の姿が無い。

「うしろかあ!」

 粛ザインは長い槍の石突で背後の船縁を突いて宙に飛び、突進をかわした。神兵の背に回ると怒濤の連続突きを放つ。

 もはや短刀では受けきれない。翼甲冑の肘で腕で、翅で槍を受け、致命の一撃を防ぎきる。だが最後の深い突きは止めきれず、心の臓を守る甲冑の鉄枠で受けた。粛ザイン渾身の一撃に槍が大きく曲がって、神族と神兵を金色のアーチで繋ぐ。

 浮いた。

 バランスを崩したィヨンワイは船縁を乗り越え、海に転落する。 
 陽光眩しき中の激闘を瞬き一つせずに見守った水夫、兵達が歓声を上げる。勝った、アノ赤甲梢を海に追い落とした。

 だが粛ザインは冷静に船縁に寄って下を覗く。

「うん、やはり神兵はそうでないとならない。」

 右手の短刀を舷側に深々と突き刺して、ィヨンワイは未だ留まっている。足元を探り姿勢を直そうと試みるが軍船は回頭中で遠心力が彼を宙に吊り出そうとする。

 粛ザインは槍を改めて両手で高くかざし、大きく左に倒し振り抜いて、ぶら下がる赤甲梢の手首を撫で斬った。

「よし!」
「赤甲梢を、やりましたか!?」
「うん、奴は確かに海に落ちた。だが軍船が突っ込んで来るぞ。」

 咆カンベの乗る快速軍船は、一度離れた敵船に再び輪を描いて舞い戻り、船首衝角での激突を図る。配下の神兵が海に叩き返されるのを波間に望んで、無駄死にをさせるかと彼は舳先に立って突撃を命じる。手には大剣を、背の翅は激しく振動し風を呼ぶ。

 銛を手に上から攻撃しようとする兵を粛ザインは押し止めた。

「来るぞ、衝撃に備えよ!」

 ざん、と波が弾ける音の次に、百雷が弾ける響きと共に「寒梭魚」は衝撃に震える。一瞬船が止まったかと思うと、船首が上に持ち上がり、左に大きく傾いで揺り戻す。
 どうなった、と衝突した右舷に目をやれば、快速軍船が縦に持ち上がり、船尾から真下に急速に沈んでいく。ばきばきと木の砕ける音がして、「寒梭魚」自体もきしんでいる。

「やられたな。」
「衝突箇所は、どうなりました?」

「やられたよ。衝突の瞬間『吶向砕破』を使って、こちらの船首に大穴を開けやがった。」

 サンク艦長が覗くと、快速軍船が衝突した位置の木材がへし折れて穴が開き、大きな暗がりが広がっている。軍船同士の衝突であってもこれだけ大きさに違いがあれば一方的に押し潰す強度があったのに、無残にも抉られてしまった。

「これでは、戦闘継続は不可能です。沈みはしませんけどね、隔壁があるから。」
「艦隊司令になりそこなったな。敵の本隊はどうやらギジシップに辿りつくところだぞ。」

 目を首都島に移すと、北の港から十数艘の小艇がおっとり刀で出動して、接近する2隻の商船に襲いかかる。商船の方からも矢で応戦し、小型の漁船が周囲を躍り接舷して斬り合いを始めている。

 サンク艦長はすっかり戦場が移ってしまったのに落胆して、粛ザインに尋ねる。

「どうしますか、沈没覚悟でこのまま漕いでいって後ろからぶつけますか。」
「放っておけ、どうせもう間に合わん。あの距離なら海に飛び込んで泳いでもさほど掛らない。それよりも、だ。」

 傍らの剣令に指図して、神族は強弩を右舷に集めさせた。砕けた木片の漂う緑の波間に目をやって、言う。

「海に投げ出された兵がまだ浮いている。神兵も居るぞ。きっちり始末を付けねばな。」

 

 夏旬月廿一日昼、睡五刻(午後2時)。赤甲梢は目指すギジシップ島への上陸を果した。

 

第四章 天原の迷宮〜赤甲梢征東記 その3

 

 キスァブル・メグリアル焔アウンサが率いる赤甲梢と紋章旗団は、奪取した船に分乗して東金雷蜒王国首都島ギジシップに渡った。
 途中、軍船の1隻が撃沈され神兵10名が行方不明となるが、その隙に本隊である2隻の商船はギジシップ最北端の港に接近する。
 迎撃の為に繰り出した王師海軍の小艇十数艘との戦闘になるもそのまま桟橋に船を激突させ、先陣を務める紋章旗団の上陸に成功。港の防備を完膚なきまでに叩き潰した。

 紋章旗団の出迎える中アウンサはついに、褐甲角王国王族として初めて、仇敵の本拠に足を踏み入れる。

 

「さてこれからが本番だ。ここから先は地図が無い。敵の備えも分からない。なにが待っているか、まったく見当もつかない。」

 赤い髪をなびかせて、気楽にアウンサは言うが、状況はすこぶる不利である。密偵もさすがに首都島にまでは渡れず、事前の下調べがまったく出来なかった。
 無論密偵達を責めるわけにはいかない。彼等は何十年にも渡って、本当にやるかさえ分からない進攻作戦に備えて命懸けで東金雷蜒王国の地理と情勢を調べて来たのだ。なんの望みも与えられぬまま黙々と任務に従って来た彼等の王国への忠節に、アウンサは何度感謝したか知れない。

 赤甲梢頭領シガハン・ルペがアウンサに進言する。分からないのならば致し方ない、額の聖蟲に頼って自力で道を切り拓くしか、手はありえない。

「ですが、最重要なのはアウンサさま御自らが神聖王の前に立ち、青晶蜥神救世主との和平をお勧めする事です。」
「分かっている。御前達は私の楯となり、最後まで突き進んでくれ。」

 神兵達は皆兜の下の面を取り、素顔を見せる。誰が命じたわけでもなく、何物にも遮られる事なくアウンサの顔が見たくなったのだ。いや、自分の顔を見覚えてもらいたかった。

 シガハン・ルペはアウンサを背に、神兵に号令を掛ける。

「先鋒は紋章旗団。石段を上り敵を排除し本隊の道を拓け。第二列は兎竜隊が続き、私の指示に従って神聖王の神座のある神聖宮への進路を探る。第三列は装甲神兵隊が総裁をお護りして進む。
 天原には単純な防衛陣ではなく、迷路にも似た誤導の仕掛けがしてあるはずだ。同士討ちを避ける為に、弓矢の使用は確実に敵の姿を確認した後に行う。物陰に隠れている場合は合言葉を用いて識別する事。
 合言葉は問「青晶蜥(チューラウ)神の光は」、応「小筺の中に」、返「ゲルワン・カプタ」だ。」

 

 再び虫に似た面を着け、紋章旗団が団旗を翻して白い石の階段を上る。高さが50メートルになる急峻な崖を抉って作られた階段は広く、3人が並んでも真っ直ぐに歩める。妨害は無いが、天原の上には激烈な反撃が待っている。

 輔衛視チュダルム彩ルダムが、階段を厳しく見つめるアウンサに呼び掛ける。振り向いた王女は、殊更に明るい笑顔を作って見せた。

「アウンサさま、決死隊が。」
「済まぬ。そち達は連れては行けぬ。行けば必ず死ぬ。」

「総裁、我らをお気にかける事無く、ひたすらに神聖宮にお進みください。」

 クワアット兵から募られてギジシップ島へ渡る船を操ってきた彼等は、ここでアウンサと別れて再び船に乗り脱出を試みる。神兵の行動速度について行けない彼等は、重石とならないように敵が待ち構えている海に戻るのだ。その数32名。
 アウンサは彼等を一人ずつ抱いて別れを述べる。そして、一度東に離れよと命令した。北の海は最早封鎖され陸地には兵が待っている。海峡には軍船が溢れていた。東の沖にまで漕ぎ出して警戒網から逃れ、一気に南の海を目指しタコリティからイローエントに向かうのが、唯一使える脱出路だ。

 港で奪取した食糧飲料水を十分に積んで、彼等は二艘の舟で出発した。見送るアウンサは、傍らの副官カンカラ縁クシアフォンに尋ねた。

「船の守り神は紅曙蛸(テューク)神だったな。タコリティの状況はどうなっただろう。」
「それは、なんとも分かりかねる意地悪なご質問です。ソグヴィタル王はむざと負けはしないでしょうが、東金雷蜒海軍に勝てるとは。」
「いや、イローエント南海軍と戦っている、と思うんだ。」
「友軍とですか? いや、タコリティと褐甲角王国は反発し合っていたのですから、・・・分かりません。」

「まずは祈ろう。」

 アウンサも再び兜を被り、彩ルダムに顎紐を結わえてもらう。すでに紋章旗団は階段の頂上に到達して、天原への侵入を開始する。

 

 天原。
 金雷蜒神聖王が統べるこの島の台地を人はそう呼ぶ。海流の関係で常に霧に覆われ、外からでは様子を窺えない謎の平原だ。
 紅曙蛸王国時代は何人も足を踏み入る事を許さない聖地として禁じられ、神聖金雷蜒王国時代も勅許が無ければ上陸出来なかった。現在は神聖王の御座がある島中央部にのみ進入が認められ、特殊身分の奴隷以外は神族といえども勝手には立ち入れない。

 褐甲角王国よりの軍勢が迫る今であっても、それは同じだった。

「・・・やはり来たか。」

 紋章旗団が最初に遭遇したのは、石に腰かける一人の神族だった。黄金の鎧に身を包んでいるが、立ち上がって戦おうとはしない。周囲を確かめると、彼の狗番と思われる数名が倒れている。

 紋章旗団団長ィエラースム槙キドマタは他を抑えて、単身で彼に近付いた。

「褐甲角王国紋章旗団、大義により天原を冒す。あなたは・・!、怪我をされているのか。」
「どうやら神聖王はギィール神族の助けは必要としないようだ。恐るべき番人がここには満ちている。霧の向こうが見えるか、神兵なら分かるだろう。」

 神族の指差す方向、霧にかすみぼんやりとしか映らないが、目を凝らすと異様な影が飛び交う姿が見て取れた。

「?! なんだ?」
「私のゲイルだ。この原にはゲイルを喰う蟲が住んでいる。」

 その言葉に、槙キドマタ以下の神兵は愕然とした。体長が15メートルを越える巨蟲を襲い食らう蟲?、それは当然彼等にも牙を剥くだろう。

「それも、神聖王の命に従っているのですか。」
「敵に教えてやる義理はないのだが、まあ物事は盛り上がった方が楽しいな。いかにも、それは秩序だって行動している。左右の林や草むらに潜む(神聖王に従う)神族廷臣によって操られている。一人が10匹でも動かせるぞ、ゲイルとは違い背に乗る必要も無い。」
「うう、」

「ここまで来ては御前達も引き下がるなどせぬだろう。精々奮闘するがよい。」
「もう一つ! あなたは神聖宮の在り処を御存知か。お教え願いたい。」
「ふふ、ここより南に80里ほどの場所にあるのは確かだ。だが、真っ直ぐ進めるほど易くはないぞ。わからぬか、この島に渡ってより方位の定まらぬ事を。」

 はっとして、槙キドマタは兜に手を当て、中の聖蟲に確かめた。夜闇や霧の中であっても方位を間違える事の無いカブトムシが、回答不能のサインを彼に返す。
 神族は腹に手を当て傷を抑えつつも、黄金の仮面の下で嘲笑った。

「さあ何をしている、大剣を構えよ。鉄弓に矢を番え、まっすぐ霧の中に踏み込むのだ。陰ながら御前達の勝利を祈っているぞ。」

 槙キドマタはもう振り返らなかった。この神族の言う通り、彼等には前にしか道が無い。

 

 天原には高い山は無く樹も低いが、人の背丈ほどある草が生い茂り潅木が幾重にも重なる林を作っていて見通しが利かない。暖寒の海流が衝突して海に霧を立たせ、それが島にも被さって来る。この霧のおかげで特殊な植物が育ち、それを餌とする独自の動物が徘徊する。

 知識では知っていたから神兵達も驚かないように心の準備をしていたが、目の前の光景には絶句する。

 ゲイルが、大腿骨を思わせる13対の肢を天に衝いて転がっている。15メートルの巨体が体節ごとに分断され、切り口にそれぞれ頭を突っ込む鴇色の蟲が群れている。
 頭は小さく黒く、甲羅には刺が生え、ゲイルよりも肢が少ない。7対が数えられる。地球の生き物で言えばタカアシガニに似ているが、むしろゲイルを三分の一に斬ったような生物だ。

 黒い頭の金色の眼がぐりっと周り、近付く赤い甲虫の鎧に顔を向ける。口には巨大な牙が環状に生えて、ゲイルの体液を溢れ滴らせる。

 びゅわ、っと飛んだ。1体が跳ねて、紋章旗団の前に立ち塞がる。続いて2体、3体と飛び、囲む。
 しゃあああああああ、っと牙を擦り合わせて音を立て威嚇する。行動はまったくに自然の蟲に見えるが、高さは3メートルで明らかに人工の手が入っている。小柄でも力はゲイルに匹敵するはずだ。

 槙キドマタは手にした大剣を正眼に構える。蟲の面の奥で、舌なめずりをした。
 この怪物は、黒甲枝の誰もがまだ手を着けていない、彼らだけの獲物だ!

「これこそが、我らの望む物だ!!」

 

「ルダムちゃん、神聖宮だがね。」
「はい、アウンサさま。」

 装甲神兵団に守られながら最後尾で天原に入ったアウンサは、幼なじみの彩ルダムに神聖宮についての話をする。
 褐甲角の王族は王都に面するアユ・サユル湖の中心にあるマナカシップ島、亡命神族が暮す秘密都市に渡って、金雷蜒王国の内情や慣習について聞く事が許される。元老院には神聖王の血筋を引くジョグジョ家も聖戴を許されて参政に預かっており、彼らからギジシップ島についての詳細を知らされた。
 故に、赤甲梢で最もこの島に詳しいのは、アウンサなのだ。

「神聖宮には通常、聖大門と呼ばれる北から三分の一の位置にある要塞港からのみ進入を許されるんだ。ギィール神族が聖戴に到る七番目の試練を受ける際に、必ずここを訪れる。だがその時は、上陸してほどなく神聖宮に入る事が出来るのだね。」
「では聖大門のすぐ傍に神聖宮は有るのですね。」
「そこから上陸すれば簡単なのだが、さすがにそれは無茶だ。数万の大軍に千のゲイル騎兵を相手にしなければいけない。だから北の港から上陸するんだが、ここへの立ち入りはギィール神族にさえ許されていない。誰も知らないんだ。」

「外からみて、神聖宮と判断できる特徴はございませんか。無数に建物があったとしたら、我らの数では探索が追いつきません。」
「うん、それもある。偽の宮殿は確かに散りばめられているらしい。でもマナカシップ島の神族が皆一様に言う特徴は、高い壁がある、ってのだね。」
「壁。城壁ですか。」
「いや、壁だそうだ。宮殿の屋根よりも高い壁が周囲に衝立のように並んでいる。つまり、高い壁を探せばそこが神聖宮だ。」

「いやな予感がしますね。」
「高さが30杖(20メートル超)の壁だったら、さすがに赤甲梢でも登れない。」
「どうしましょう。」
「どうしましょう、と言われてもねえ。」

「登りますよ、いかなる高さであっても。」

 二人の会話に苦笑して、縁クシアフォンが言葉を挟んだ。国境のギジェカプタギ点の城壁だってそのくらいはある。いざとなったら翼甲冑を脱いで身軽になって登る裏技も彼等は取得している。殴り込み部隊の名は伊達ではない。

 前方の紋章旗団から報告が入って来た。

「天原においては聖蟲が方向を見失い進路が定まりません。御用心下さい。紋章旗団は最初の防衛線に遭遇、激烈な戦闘に及んでいます。」
「うん!」

「方位が分からないとなると、同士討ちの可能性が高くなります。探索を行う兎竜隊各旗団にまとまって動くようにお命じになられてはいかがです。」
「その辺りはルペと基エトスがなんとかするだろう。・・・歌か。」

「は?」
と、彩ルダムと縁クシアフォンは突然のアウンサの台詞に戸惑い、問い返した。アウンサもさすがに突拍子もないと考え、説明を付け加えた。

「蝉蛾巫女は風を読みその流れゆく先を知り、毒地において寇掠軍に道を指し示すという。連れてくれば良かったかな。」
「我らとて風は読みます。カブトムシの聖蟲の翅をお信じください。」

「いやー、おまえたち歌は下手だからなあ。」

 

 紋章旗団は大剣を振り回し、鴇色の蟲と激しく闘っている。

 この蟲ユゥゲイルはギィール(ゲジゲジ)の仲間とされるが、分類上は少し違う。ギジシップ島でのみ飼育される戦闘生物だ。
 ギジシップ島の神聖宮では聖蟲の繁殖が王姉妹によって行われているが、額のゲジゲジの聖蟲が15センチほどに対して、母聖蟲は1メートルほどに肥大化している。この排泄物から抽出される成分がユゥゲイルに与えられ、巨大化する。ゲイル程には大きくならなくとも十分怪力、いや小さな分だけ体重が軽く動きが敏捷で、ゲイルではとても追随できない速度を獲得した。
 小さな虫としてのユゥゲイルは、狩りの名人として知られている。高速で走り寄り噛みつく単調なギィールと異なり、様々な動きで獲物を翻弄して確実に柔らかい腹部に噛みつく。巨大化した姿であっても、スタイルは同じだ。

 紋章旗団の神兵は、頭上でくねくねと揺れる蟲に翻弄される。3メートルとゲイルよりも低いのだが、肢の運びが早くて剣が届かない。7対の肢を巧みに動かして右に左に、上下に、前後に跳ねては食らいついて来る。鉄とタコ樹脂で固めた強固な甲冑も、一噛みで削り取られる。

 だが神兵達はこの強敵に遭遇して、これまで感じたことの無い身の内の猛りを感じていた。額のカブトムシの聖蟲が黄金の翅を振動させ、翼甲冑のタコ樹脂の翅と共振する。130キロを越える甲冑が重量を失って、軽く疾く戦場を駆け巡る。

「イケル!」

 高く飛び上がった槙キドマタが大きく縦に大剣を振り下ろす。ユゥゲイルの黒い頭を両断し、その背に上って胸とおぼしき箇所を貫いた。

「おお! 団長お見事です。」
「まだだ、まだ数は、・・・・。」

 高い背の上で周囲の状況を確かめると、おそらくは50体ほど鴇色の背中がある。紋章旗団全員を囲んでまだ余る。

「これは斬り甲斐があるな。いや、この命御前達にくれてやるから、逃げるなよ、退くなよ!」

 彼は刺の生えた甲羅を蹴り、二人の神兵を顎で翻弄する蟲の上に飛び掛かった。

 

「感じるか、ルペ。」
「ああ、感じる。聖蟲がこの地に眠る何者かに反応しているな。日頃は戦闘の最中でも涼やかな聖蟲が、猛っている。」
「紋章旗団の戦いに感応しているようだ。我々は、すべての黒甲枝を越えるのかも知れん。」

 シガハン・ルペとスーベラアハン基エトスは紋章旗団の後ろで道を探している。
 北に港が有るならば、物資を搬入する為の道があるに違いない。背丈ほどもある草や低い潅木の林に遮られていて見通しが利かないが、かならず神聖宮に通じている。ただギィール神族はからくりを好むから、地下通路にでもなっているのかも知れない。下手な所を触ると罠が発動するので、慎重の上に慎重を期して兎竜隊に調べさせている。

 基エトスがギィール神族の思考を真似て考える。彼は相手の考え方に自ら倣う事で謀略を暴く特技を持っている。元老院金翅幹家に生まれた者の宿命だ。

「聖蟲の知覚を妨害する力が、ここにはある。ギィール神族の場合、その発現の仕方は我らよりも強く出るだろう。カブトムシの聖蟲は肉体が持つ自然の力を強化するが、ゲジゲジの聖蟲は肉体には無い知覚を与えるものだからな。」
「では、知覚に頼らずに済む道案内がある、という事か。」
「からくりだな。知覚ではなく知能を用いて道を指し示す・・・・来たか。」

「赤旗団! 状況を報告せよ。」

 兎竜隊赤旗団、シガハン・ルペを団長と仰ぐ11騎の神兵が直属で探査の情報を取りまとめ地図を作っている。他の4つの旗団は左右に分れて調べるが戦闘は極力避け、敵を発見した場合後方に下がって赤旗団と共同で当たると定めている。

「兵です。人影があり武装を確認しました。ただし、常人ではありません!」
「獣人か、うすのろ兵か?」
「違います、もっと獰猛な気配と知性を感じます。統率が取れ無闇と攻撃をしてきません。我らの出方を牽制しています。」

「ルペ、これはかねて噂に聞く”獣身兵”ではないか。」
「兎竜隊全旗団に調査を中止して集結を命じる。敵の攻勢に備えよ。」

 普通の為りをしていながら妙に強く黒甲枝にも立ち向かって見せる兵の噂は、時折スプリタ街道から聞こえて来る。兎竜に寇掠軍が掃討されるボウダン街道には無いが、ミンドレアやベイスラ地方では寇掠軍が国境深くにまで浸透しクワアット兵と白兵戦闘を行う事がある。獣身兵はその中に居ると言う。
 常人と身体の大きさは変らないが、一般の兵士に比べて非常に力が強く、疲れない。予測を越えてはるかに長い時間闘い続けるので、クワアット兵が退け時を誤って討たれる事が多い。武術にも優れており、並みの剣匠では3人掛りでないと対処出来ないそうだ。

 神兵の一人が斥候に出て霧の中、敵の様子を確かめる。神兵同士が使う符丁で遠くから叫び伝える。
「(左腕前方向、300歩。兵の数は30、長槍を装備、弩車は無し。神族の姿も無し。)」

「襲って来ないな。」
「時間稼ぎが目的なのかもしれん。我らに調査する暇を与えなければ、それで済むのかも。」
「ではこちらから討って出るしかないな。」
「だが左に居るとなれば、逆に右に道があるのかも知れん。どうする。」
「基エトス、黄旗団を任す。右方向の調査を続行してくれ。」

 

 槙キドマタは闘い続ける。すでに3体の蟲を狩った。
 だが紋章旗団の状況は芳しくない。50の神兵と言えば千人の兵にも匹敵するも、ユゥゲイル相手では二人掛りでやっと互角、という有り様だ。蟲が互いに連携せずに戦っているからまだ良いが、あまりに数が多く、動きが早いので有効打を与えられない。このままではいたずらに時を失ってしまう。

 彼は叫んだ。いや、身体の内から迸る声が、彼の口から自然に沸いて出た。

「皆よく聞け! 早さだ、敵よりも疾く動くのだ。人間の動きを棄てて聖蟲に任せよ。飛べ、飛べる。我々は飛べるのだ。」

 カブトムシの聖蟲を持つ者は空を自由に飛ぶ事が出来る。かって、十二神方台系の人々は飛翔するひとの姿を確かに見た。
 カンヴィタル・ィムレイル。
 褐甲角(クワアット)神の命を受けた救世主、最初の武徳王だ。

 以来千年、誰一人飛び方を理解する事が出来ず地上に留まり続けたが、青晶蜥神救世主の誘いでメグリアル王女 劫アランサは空を飛ぶ能力を復活させたと聞く。
 そして今、槙キドマタの身体の中に飛翔への深い確信が沸いている。

 我々は飛べる。

 その思いが彼の身体を風に変える。大剣を振り、左右に揺れ跳ねる蟲を脅かし仲間を救い、そして貫く。額の聖蟲の羽ばたきに魂を震わせて、蟲の間を跳びかった。

「! 感じる。」

 薮の中、いや土の下に気配を感じる。それは意志だ、蟲達を操り紋章旗団を葬り去ろうとする断固たる意志の力が大きな巌となって、彼の心に浮かび上がって来る。

「蟲を操る神族だな。」

 彼はその場所の上に跳び、大剣で地を貫こうとする。だが、横っとびにユゥゲイルの1体が体当たりし、弾き飛ばす。口を大きく開き並んだ牙をすべて展張させ擦り合わせ、警戒音から攻撃音に変えて物理的なまでの圧力で威嚇する。
 それはまちがいなく、ここが蟲達にとって最重要な場所であると示していた。槙キドマタは一度地に着いた膝を上げて、ゆっくりと鴇色の蟲に向き直る。

 2体目が突っ込んできた。だが彼はそれを予測してすっと身体を前に進め、かわす。むん、と頭の上に振り上げた大剣は、横に薙ぐ長い肢を撥ね返す。3体目までが現われて彼を囲んだ。

 同じ組で戦う神兵エイケン壬カポォが、団長の絶体絶命の危機を見て叫んだ。

「団長ー!」
「慌てるな、まだ死んでない。我の躰には褐甲角神の加護が、聖なる怒りが、戦いの喜びに打ち震えている。」

 団長を救おうと駆けつける壬カポォの前で、槙キドマタは剣術の型を作って見せる。これは黒甲枝翻車の構え、大剣で多数の敵を薙ぎ払う制覇の剣だ。
 3体のユゥゲイルは怒りに取憑かれながらも慎重に槙キドマタの周りを回っている。攻めるに敵が強過ぎて触れない、隙を作らせて同時に噛む、そんな思惑を持っている様子がありありとうかがえる。この蟲には戦術を図る知性が有る、と壬カポォは底知れぬ恐怖を覚えた。

 ぶん、と一際高い音がして、槙キドマタの翼甲冑の翅が震えた。周囲全体を彼の領域だと主張する強いうなりが空気を圧する。心持ち、浮いているようにも見えた。

 ふわ、と壬カポォも自らを持ち上げる力を感じる。槙キドマタの翅の振動が、彼の甲冑と繋がった。沸き上がる力が大剣に宿り先走る。思わず手を取られそうになるも、そのまま身体全体を剣と化して蟲に突っ込んだ。疾い!

 尻を剣で突き刺された蟲は驚いて跳ね上がり、その場を離脱する。彼は団長の背を庇う形で並び、剣を構え直す。

「団長! わたしにも、出来ます。」
「感じた! 褐甲角神が我らと共に在る。」
「はい!」
「同時に、行くぞ!」

 彼らを挟む2体の蟲が同時に鋼に貫かれた。胸部を下から突き上げられ、首を横に払われて分離する。とどめとばかりに残る体節と肢をばらばらに切り離した。まるで硬さを感じさせず蟲は簡単に裂かれ四散する。飛び散る肉片の動きが宙に止まって見えた。

 鋼に残る余韻に酔い痴れ、二人は剣を横に突き出したまま止まる。数秒、そしてびゅっと振って蟲の体液を拭う。

「飛べる。」
「はい。」
「飛ぶぞ、俺は。」
「私も飛びます。」

 やおら振り上げた大剣を、地に深く突き刺す。地面の下に埋もれた石を貫いて引き剥がすように持ち上げると、2メートル四方の石板が浮き上がって来た。くっと捻ると砕け飛ぶ。

 地下に掘られた石室に神族が一人胡坐をかいて座って居た。黄金のゲジゲジの聖蟲が首を上げて二人を見上げ、霧を透いて差し込む太陽に輝く。
 さすがにギィール神族は感情に囚われる事が無い。隠れ家を暴かれた驚愕も怖れも持たず、床を蹴って大きく跳躍して外に飛び出し、逃げる。

 追おうとする二人の神兵に、横っとびでユゥゲイルが襲う。しかも、先程二人が倒した蟲の肢や体節の破片を蹴散らし投げて、当てて来る。太くて固い甲羅が衝突すると、甲冑の上からでも衝撃が染みて来る。骨に響く。また体液が目つぶしとなって、兜の面を襲い、眼を守る硝子を曇らせた。

 やむを得ず面を外した槙キドマタは、逃げた神族の姿を見失っていた。しかたがない、再び仲間を救う為に後ろを振り向いた。

「!?、ぐ。」
「・・・?、だんちょおぉー。」

 いつの間にか、先程まで神族が隠れて居た石室にユゥゲイルの1体が忍び入って伏せて居た。死んだ仲間の破片を隠れ蓑に、こちらも肢を力無く投げ出していたので気付かれない。不用意に振り向いた槙キドマタの下腹部に、下から突き上げる肢の刺が甲冑の弱点に突き入った。

 うおおお、と壬カポォが上から大剣でめちゃくちゃに叩き、石室の蟲をずたずたの肉の塊に変える。剣を棄てて団長の安否を確かめるが、槙キドマタはその場に倒れている。

「しくじ、った。頭の働きまで、は、はやくならないな。」
「大丈夫です、これしきの傷で死には、」

「いや、毒が、あるな。特別な、ゲイルの仲間だから、神毒、だ。皆に注意しろ、と伝えろ。」
「はい、はい、分かりました。だから、もう喋らずに。・・そうだ、アウンサさまがお持ちの、トカゲ神の尻尾なら!」

「ああ、その手があった。あれなら、まだ・・・・。」

 がくっと首を落とし崩れ落ちる槙キドマタを、神兵はがしっと鋼の指で抱き留める。まだ死なない、死なせはしない。

 彼は後ろを振り返り、大声で仲間に伝える。

「団長が手傷を負われた。一時後退しアウンサさまの手当てを受ける、各自そのまま戦線を維持しろ。」

 驚愕の声が上がるが、誰一人退こうとはしない。むしろ、団長の奮戦に助けられていた彼らが今こそ支えるべきだと気負い立つ。
 槙キドマタを肩に担ぎ上げて、壬カポォは戦場を走りぬける。

 間に合え、今少し死の淵で留まり給えと願いつつ、後方の本隊へと草むらを駆けた。

 

「縁クシアフォン、状況を報告せよ。」
「はっ! 紋章旗団は怪蟲の攻撃を退け、操っていた神族2名を殺害、脅威を除去しました。死者2名重傷者3名、他軽傷多数。
 兎竜隊シガハン・ルペ頭領からの報告。怪蟲との戦闘を遠く見守っていた少数の兵の集団は姿を消し、現在は動向の確認が取れず。恐らくは隠伏しての迎撃線を敷いているものと思われます。

 槙キドマタの具合はいかがです。」

 アウンサは額に溢れる汗を左の素手で拭って、応える。兜の上からではうまく拭えないが、戦場にあってはそう簡単に武装を外すわけにもいかない。

「青晶蜥(チューラウ)神の尻尾は大したものだな。アレだけの傷を見る間に塞いでいく。ただ戦闘は無理だ。このまま寝かせておくしかない。」

 縁クシアフォンはほっと安堵の息を吐いた。いきなり紋章旗団の団長を失っては士気にも影響する。
 アウンサを手伝って重傷者の手当てをしていた彩ルダムが彼に言う。

「紋章旗団の軽傷者というのも、一度こちらに連れて来てください。毒を被っている疑いがあります。」
「分かりました。一度紋章旗団を下げ、紫幟隊を先鋒に当てましょう。アウンサさま。」

「任せる。」

 アウンサは手の中の粗末な小筺を見つめる。この中には、額の上の青晶蜥神の化身を弥生ちゃん自らが引っ張って切り離した尻尾が入っている。既に一ヶ月が過ぎているのにまだぴんぴんと跳ね、聖なる青い光を燦然と放っている。
 この尻尾の力で重傷者3名は命を救われた。が、非常に強力な毒に冒されていた為に、神威とはいえかなりの力を必要としたようだ。

 尻尾を素手で触ったアウンサには分かる。
 青い光が治癒を行う時、尻尾はガモウヤヨイチャンと空間を越えて繋がり、膨大な力の奔流が彼女の身体を通って天河の十二神から与えられる。その負担は非常に重く、通路となる者の肉体を蝕むはずだ。

「済まない。」
と、改めて弥生ちゃんに感謝を捧げる。彼女は星の世界から自らの意志とは関係無しに呼び出された、いわば被害者であり、自身に何の益も無いまま方台の民衆に奉仕をする定めにある。このような癒しを何万人にも授けていたら今に小さな身体が裂けてしまうだろうが、いつも彼女は平然としている。

 ハジパイ王などがそうであるように、傍目には弥生ちゃんは天の意志を好きなように弄び、王権をねじ曲げ、世界を混乱に陥れるように見えるだろう。しかし実際はまさに無償の愛で我が身を焼きつつ、世と人と神とを滅びから解放する天晴なる救世主なのだ。

「だが、今しばらく尻尾は使わせてもらうぞ。お前が言い出した作戦だからな、もう少し付き合ってもらう。」

 小筺を再び甲冑の胸の中にしまい込む。重傷者の手当てを続けている彩ルダムに話し掛けた。

「さてルダムちゃん。こいつらをどうするかね。」
「どうするもなにも、歩けませんよ。担架に乗せて運ばねば、」

「だが、本隊の護衛に担がせるわけにはいかない。なにせ、私が死んでは何にもならない。」
「それはそうです。」

「引っ張るぞ。甲冑の背の盾を地面に並べてソリにする。」
「えーーー! そんな事をすれば死んでしまいますよ。」
「死んでも構わん! 頭にはまだ聖蟲が憑いているんだ、滅多な事ではどうにもならんよ。」
「そんな無茶苦茶な。」

「本当なら、死者も連れていきたい所なんだ。」

 顔の表情は変らないままに零したアウンサの言葉に、彩ルダムははっと顔を上げる。確かに、死者を連れ帰る手段も埋葬する暇も自分達には無かった。

「分かりました。私がひっぱります。これでも聖蟲を持っていますからね。ですが、アウンサさまもお願いします。」
「むー、仕方のない。」

「総裁、頭領が至急検分願いたいものがある、と申しております。是非にともお越しください、と。」
「分かった、今行く。じゃ、後は任せたぞ。」

 本隊の行軍を再開させ、アウンサは護衛数人と共に先行する兎竜隊の中に入った。シガハン・ルペと基エトスが少し高くなった岩の傍で待っている。

「なにがあった。」
「アウンサさま、間もなく陽が落ちます。」
「ああ。予定より大分遅れている。まだ神聖宮への道は見付からないか。」

「アレをご覧ください。もしやと思いますが、あれは。」

 夕闇が迫る中、一時的に霧が止み視界がずいぶんと開けている。岩の上に登るとかなりの遠距離まで目が届いた。

「うん? あの光はなんだ。」
「先程より見え始めました。どうやら暮れる西日を照り返しているようですが、この距離でこれだけの光となると、」

「異常に大きな光の、いや金属の・・・壁?」

 西に揺らめく陽の光を、それは激しく強くはね返している。ちかちかと目を焼く白い光は、夕日の赤をも凌駕する。

「金属の壁?」

     *****

 夜が来た。
 天原は夕陽の朱に寸刻照らし出されたが、再び霧と紫の闇に包まれる。

「かそけき光波揺らぎ、遠き潮騒に魂惑う。旧き詩に謳われる通りに・・・美しい。」

 赤甲梢スーベラアハン基エトスは霧に浮かぶ無数の光の粒の乱舞に思わず声を漏らした。蛍と同様に青白い光を抱えて飛ぶ羽虫の群れが、一夜限りの逢瀬を繰り広げている。この日にたまたま上陸した赤甲梢は運が良かったのかも知れない。

 改めて周囲を見渡すといずこからより虫の唄がかすかに響き、空気には草の発する甘い香りが満ちている。ギジシップ島には人の五感を蕩けさす妖しい自然の罠が待つ、と伝えられる。色音香肌触り、霧の中に立つ者に絶え間ない誘惑を投げ掛ける魔物となって、陶酔に満ちた不帰の饗宴に溺れさすと、物語は言う。

 

「まただ・・。」
「基エトス様、また例の黒い壁です。」

 無粋な、無骨な神兵の呼び声に現実にひき戻される。
 彼は現在、兎竜隊黄旗団を率いて神聖宮への通路を探っている。団員の神兵が先程から何度も遭遇する不思議な壁を、またしても発見したのだろう。

 幅も高さも5メートルほど、厚みは70センチ(1杖)。なにかの構造物の一部や遺構ではなく、単純に衝立として作られている。
 特筆すべきはその表面の材質で、黒い地肌は木炭に似て細かい穴が無数に開いており、全ての音を吸収してしまう。反響が無いので、闇の中では近付くまでその存在を感知出来ない。

「これほど執拗に設けるとは、一体何の為でしょうか。」

 黄旗団副団長のカムリアム・サイ中剣令が尋ねる。
 基エトスは壁の黒い表面を甲冑の手で撫で、思い切って右の拳で殴ってみた。ぼこっと脆く崩れて5センチほどもめり込む。中はただの煉瓦積みだ。

「音だけなのだろうか?」
「なんです?」
「我々はひょっとしたら、大きな勘違いをしているのかもしれない。これは。」

 サイは、基エトスの言葉がよく分からない。
 彼は元老院スーベラアハン家の出身で、そのまま順当に生きていれば金色のカブトムシを戴いて最高レベルの政治に参加したはずの人間だ。身をやつしたと言える現在の境遇であっても、言動に難解かつ高尚深遠な思考を含む。平民出身の自分にはとても理解が出来ない。

 何度も壁の黒い面を撫でて、基エトスは一人呟く。

「ギジシップの、神聖王の敵は、・・・神族か。」

 

 神聖王とギィール神族の間の関係は非常に複雑だ。

 神聖王とはもちろん、初代金雷蜒神救世主であるヴィヨンガ翁を祖とする家系の出身である。だが、ヴィヨンガ翁はその呼び名の通りに、救世主として世に立つのが非常に遅かった人物だ。彼には3人の息子と4人の娘があり、それぞれが結婚して家庭を持ち、一族一丸となって金雷蜒王国を立ち上げた。息子の家系を三柱家、娘と親戚の家系を十二氏家と称する。三柱家が神聖王を輩出する家系であり、十二氏家がギィール神族の祖である。

 だが、ヴィヨンガ翁によって最初に金雷蜒(ギィール)神の化身である聖蟲を与えられたのは、実の息子ではなく二番目の娘の夫だった。その後も息子達には許されず、最終的に翁の死後に聖蟲を継承する形で聖戴する。しかしながら彼らもその時には50歳を越えており、孫の代となる三代目メゲィ王に譲られて初めて神聖王という制度が成立した。
 つまりは、ギィール神族の方が神聖王よりも早くに存在したわけだ。

 故に、ギィール神族は自らを神聖王と同格と看做す。神聖王と王姉妹はゲジゲジの聖蟲の繁殖を行い、地上における現身たる巨大ゲジゲジ神と意志を通じる重要な役目を負っているから、その立場を尊重するも、人間としての格が上と見る事は無い。同じ能力の聖蟲が憑いていれば、同じ身分であると考える。

 これは支配において非常に不都合な論理である。が、歴代の神聖王は是とした。聖蟲を与える権限さえ持っていれば叛乱を起すなどありえない。それならば面倒くさい支配や開発はギィール神族に任せてしまおう、税金さえ滞らなければ双方にとってそれが最高の形態だ、と考えた。
 ギィール神族も支配の委託を受入れ、神族相互の関係で金雷蜒王国を作り上げた。ただ、どの神族にとっても中立を要求される機能についてはこれを神聖王に任せ使役される廷臣や役人にもギィール神族と同等の格を認める、と取決めた。

 現在、十二氏家は6家が残り、三柱家も唯一系に収斂してひとまとまりのゲェ派となった。他方十二氏家から2千年に渡って多岐に分離していったギィール神族は、三荊閣と呼ばれる三つの氏族に分れて覇を競っている。三荊閣とゲェ派は利害の衝突が多く、暗闘に及ぶ事も多々有る。毒地から褐甲角王国へ攻め入る寇掠軍において、ギィール神族最大の死因は「暗殺」なのだ。

 

 神聖王と王姉妹は、弑する事を許されない。
 だが、その手足となる神族廷臣や官僚は忌避する必要を認めない。

 そういう理屈がまかり通るから、ギィール神族から完全に隔離される安全な場所が宮廷人には必要だった。それが神聖首都ギジジットであり、首都島ギジシップだ。この領域は神聖王の意志が最大に優先される。ギィール神族であっても、全ての法を越え生殺与奪の権を認めねばならない。異を唱える者は実力でこれを排除する。その為に用意されたのが。

 

 基エトスから壁の役割についての推測を聞かされたシガハン・ルペは首をひねる。

「この壁はゲイル避けだ。おそらく、聖蟲の超感覚を妨げる機能があるのだろう。」
「ギィール神族には壁の後ろに何が居るか、分からないのか?」
「そう考えると説明が付く。少なくとも黒甲枝の侵攻に備えたものでないのは確かだ。」

 ルペは足を止め、改めて基エトスに向き直った。

「ならば、神族の為に道案内をしていたりは、無いな。」
「神聖王の敵はあくまでもギィール神族なのだよ。敵の為の道標は、あり得ない。」

「無理やりにでも方位を定め、あらゆる障害を突破して一直線に進む。これしか無いな。」
「私もそう思う。だがその役は頭領に任せる。」
「アウンサさまのお許しを得なくては。だが。」

 前に拡がる蛍火の群れを見据え、更に天を仰いだルペは甲冑の背から大剣を抜いた。銀色に輝く鋼は青い虫の灯を映し、闇を貫く清廉な姿を誇る。東金雷蜒領突入後、何度も全力で鉄同士打ち合ったにも関らず、歪みも欠けの痕も無い。
 剣を逆手に持ち替えて、大地に突き刺す。両手を柄頭に乗せてシガハン・ルペは瞑想した。

「しばらく時をくれ。」

 基エトスは神兵達を抑え、周囲を警戒しつつ見守った。だがルペの常には見せぬ神妙な姿に或る疑問を呼び起こす。

 シガハン・ルペは確かに並外れた器量と武勇、知性を持ち合わせる男だ。だが彼には、平民の出でありながら黒甲枝を凌いで天河の意志に自らを捧げる、そんな印象がある。ひょっとすると彼こそが青晶蜥神救世主か? 赤甲梢の兵営で初めて会った時一瞬そう思った記憶を覚えている。

 現実は、星の世界より天晴なる救世主ガモウヤヨイチャンが舞い降りて、方台に救いと歴史の疾走を与えている。しかし、

 目の前の武者にはやはり神々しいものがある。
 赤い甲冑の背の翅がくぅおおんと高音に震え、踊る光を一斉に瞬かせた。天地と同化し世界が彼を中心に動いている気がする。

「聖蟲と、・・・聖蟲を通じて、褐甲角(クワアット)神と交信しているのか?」

 やがて翅の振動も止み、蛍火もすーっと周囲から離れて静寂が訪れる。互いの息の音さえ耳に衝く静けさに、神兵の一人ががわずかに身を揺すり甲冑の触れ合う音を立てる。
 ルペは首を上げ、遠くの林を望む姿を見せる。大剣を引き抜き、改めて確信と共に地面に打ち込んだ。

「この方向だ!」
「根拠は?」

 基エトスの問いに対して、ルペは微笑むだけだ。

「これで行く。間違っても恨むなよ。」

 

 方位の正しさは激烈な戦闘として証された。
 これまでは赤甲梢の進行方向にちらと現われては散発的な攻撃を仕掛け、道の探索を妨害していた兵が、積極的に正面から立ち塞がる。まっしぐらにすべての障害を突破する行軍は、敵の予測からかなり離れた展開のようだ。

「無茶もいいところだ。」
とアウンサも渋々同意したが、実の所彼女自身がそれを言い出そうかと焦っていた。少なくとも明日の明け方までには神聖宮に入らないと、相当にまずい事態に陥りかねない。神聖王としては、面子の問題もあるのだが、ギジシップ島から脱出するという選択肢すらあるのだ。
 神聖王がギィール神族に救援を求めるには、まずは一戦して防衛陣が突破され致し方なく、という言訳が必要となる。少なくとも一晩は戦い支えねば、神族の侮りを受けるだろう。その誇りに賭けてギジシップ島内で会見にこぎつけるタイムリミットは明払暁、とアウンサは踏んでいる。

 時間稼ぎに失敗したギジシップ防衛陣は、明確な戦闘目的をもって赤甲梢進攻の阻止に当たる。
 一殺至上。神兵一人に注目し徹底的に攻め上げて、確実に順番に殺す作戦だ。先行して本隊の露払いを務める兎竜隊が標的となった。

「まさか、神兵に対して槍で攻める軍があるとは思わなかったな。」
「だがなかなかの強さです。なにより疾い。貫通力も素晴らしいものがあります。」
「ぬかって胴体に当てられるなよ。」

 敵兵は草むらに穴を掘り伏せて、息を殺しいきなり地面から突き上げて来る。そんな単純な手に引っ掛かる赤甲梢ではないが、にしても神経を磨り減らす執拗さがあった。槍の長さは4メートルあり剣で斬られないようにタコ樹脂を塗っている。ギィール神族が用いるものと同等の制作費が掛る高価な槍だ。
 槍の攻撃と同時に弓でも射て来る。二つを同時に処理するのは赤甲梢でもさすがに難しい。手間取っていると、草の間を低く縫って何人も槍兵が寄って来る。こちらが応援を繰り出すと、さっと退き、またどこかの穴に隠れる、という寸法だ。

 黄旗団を指揮する基エトスは、敵の驚くべき能力に眼を見張った。副団長に思わずこぼす。

「逃げ足が早い!」
「なんとも卑怯な連中です。」
「違うぞ、サイ。神兵に対して肉薄戦を仕掛けていながら、まだ誰一人討ち取られていないのだ。これは凄まじい能力だ。」
「ですが、こちらもやられてはいませんから、防ぐ者としては失敗だと言えるのでは。」

「基エトス様、やられました! ジンジョーです。」

 黄旗団の神兵の一人が戦死したとの報告が入り、二人は急いで駆けつける。ジンジョー班バオ小剣令が地面に倒れていた。赤い甲冑には槍で貫かれた痕が幾つも残る。
 基エトスは臨時だが、カムリアム・サイは正規の副団長だ。自ら指揮する団員を討たれて驚愕と落胆を隠さない。

「なにがあった?! ジンジョーもこれほど無残にやられる未熟な戦士ではない。どんな手を使われた?」

「それが、蛙なのです。」

 意外な答えに二人は驚いた。

「蛙が、なんなのだ。」
「見たこともない蛙に襲われたのです。あ、そこにも居る。」

 神兵が指差す先に眼を凝らすと、妙な動物の姿が草の中に有るのに気付いた。
 後ろ足で人間のように立ち上がる蛙。大きさは30センチもあり、口を大きく開き牙を剥いて見せる。十二神方台系では爬虫類よりも両生類の勢力が大きく、獰猛な捕食生物として森や沼に潜んでいるが、これもその一種だろう。
 だが甲冑に身を固める赤甲梢の神兵が、このような矮小な生物の攻撃に遅れを取る道理が無い。

 くけくけ鳴きながら恐れ気もなく近付いて来るそれを、サイは無造作に大剣で払おうとした。神兵が声を上げて止める。

「いけません!」
「な、なんだこれは!!」

 勇敢にも立ち向かった蛙は、剣先に掛ってあっさりと潰れた。その死体が粘り着く。地面から伸びる草の根元に蛙の脂か粘液かがこびり付いて、大剣が動かせなくなる。
 サイはあまりの意外さに声を上げるが、基エトスは冷静に周囲を見回した。

「粘る! これはどういうことだ。」
「サイよ。この生き物は恐ろしく邪悪だ。よく前を見ろ。」
「?! 蛙が、何匹も。」

「どうやらこの蛙は、仲間の一匹が犠牲となり獲物の足にへばりついて動きを止め、集団で襲って食らう、という狩りの習性を持っているな。一匹が潰れても数十匹が腹を満たす大物を捕らえるのだ。なんとも賢いではないか。」

「では敵はそれを知って我らの前に。くそ、ジンジョーはこんなものに。」
「見張っている。我らが蛙に捕われるのを、敵はじっと待っている。」

 

 蛙の話を聞いたシガハン・ルペはあまりの矮小さと狡猾さに絶句する。だが基エトスがすでに対策を考えている、と知っていた。

「策があるな。」
「火を使う。松明を用いて足元を払いながら進めば、蛙は寄って来ない。」
「だがそんな事をすれば、我らは弓矢の良い的になるだろう。」
「嫌か?」

 不思議そうな顔で「嫌か」と尋ねられ、ルペは苦笑する。額に聖蟲を持つ神兵は五感のみならず瞬時の勘さえも強化され、闇を貫く黒い矢でもあっさり叩き落とすのだ。粘り着く蛙とどちらを選ぶと尋ねられれば、誰もが喜んで矢を選択する。

「火にはまた別の利点もある。敵はアレを使わないだろう、ボウダン街道で寇掠軍がよく用いる灯矢や、先端に炭火の付いた徹甲矢を。」
「ああ、まだギジシップでは見ないな。理由があるのか。」
「私が思うに、ここは禁域だ。野に火事を起さないように神聖王から火の使用を禁じられている。それだけ貴重な動植物が有るのだよ。」

「そうか、納得が行くな。では、こちらが火を使うとなると、」
「身体を張って消しに来る。穴に潜んで待つなどの悠長な手段は放棄するだろう。」

「相手が能動的に動いてくれるのならば。うん。」
「では松明を使うぞ。」

 松明は敵の神経を逆なでした。持ち手に矢を集中して攻撃するが、翼甲冑の背の増加装甲を前に回して備えは万全だ。むしろ的が一つに定まっている方が攻撃者の位置を特定するのが易くなる。弓対弓ならば射程の長い神兵の方が圧倒的に有利、たちまちに射伏せて撃退する。

 敵は三度戦法を換えた。再び怪蟲ユゥゲイルの攻撃だ。今度は蟲1体に兵数名が付き従っての小隊で襲い来る。こちらも神兵3、4名の組で対抗するが激戦となった。死者こそ出さなかったものの負傷者続出で、先鋒を装甲神兵紫幟隊に交代する。

 林を駆け谷を下り、また登り、窪地に足を取られ、だがひたすらにまっしぐらに赤甲梢は進む。

「よくついて来る。」

 感心するのは、聖蟲も持たない敵兵が赤甲梢の進軍にちゃんと同じ速度で追随し攻撃を仕掛けて来る点だ。平坦な土地とはいえ場所によっては10メートルの高低差は普通にある。常人であれば立ち往生する地形でも、敵は必死によじ登っているのだろう。疲れをしらぬと噂される獣身兵だが、さすがに攻撃の頻度が落ちてゆく。
 だが、代わって本隊アウンサの隊への攻撃が散発的ながら増えていく。正面から立ち塞がるのが無理と知り、中枢部に狙いを換えたのだ。基エトスの指示に従い、アウンサを守る紋章旗団から別働隊を出して周辺を掃討した。

 不思議な事に、正面から攻める敵兵よりも別働隊が当たる兵の方が弱かった。死体を確かめた紋章旗団より報告が届く。

「女?」
「はい、女が武装して襲って来ています。これも確かに常人以上の戦闘力を持っていますが、練度が少し落ちますか。」
「総掛りというわけだ。敵が尽きるのはもうすぐだな。引き続き頼む。」
「はっ。」

 

 2時間後、紫幟隊はアウンサの護衛についていた赤紫幟隊に交代する。最後にまとまって現われた獣身兵の襲撃を退けると、林に静寂が戻って来た。

「随分距離を稼げたな。」
「ああ、この分ならばきっと夜明までに、・・・・おお、やっとおでましだ。」

 少し開けた草原にゲイルの姿がある。数は12、背には神族の黄金の鎧が淡く光を放ち、足元には異様に大きな人影が揺らいでいる。

「あの巨人は、獣人だな。獣人とゲイルの混成部隊か、まさに首都ならではの歓迎だ。」

 遠目で見るとゲイルは通常の装備だが、獣人の支度が異様だ。と言っても、赤甲梢の誰も獣人に遭遇した事は無い。金雷蜒王国はもう4百年も前から黒甲枝に獣人を当てるのを止めている。
 薬物で身体を巨人化させ筋力を飛躍的に向上させた獣人は、だがどれほど能力を向上させても黒甲枝の神兵にはかなわないと結論づけられていた。かっては毒物への耐性も与えられ全身紫色に染まると怖れられた肌も、今では通常の肉の色で、針金のような剛毛と鋲で直接打ち込まれた鉄板で覆われている。

 獣人の数は30余体、おそらくは東金雷蜒王国が所有する全てだろう。今ではより使い勝手の良いうすのろ兵や獣身兵に育成の対象が移っている。にも関らずこれだけの数を揃えられるのは、ギジシップがそれら強化兵の牧場の役割を持っているからだ。

 ギジシップ島には特異な環境にのみ育つ草や生物が多数ある。これらから抽出される薬品は金雷蜒王国内においてさまざまに利用され、莫大な利益を生み出していた。ギィール神族が長年服用して2メートルの長躯を獲得する”エリクソー”も、ほとんどの主要成分がギジシップ製だ。
 地元特産の薬剤を用いて強化兵を育て寇掠軍に提供するのも、神聖王の宮廷を潤す財源の一つだ。だが生憎ガモウヤヨイチャンの引き起こした「大審判戦争」によってうすのろ兵獣身兵の在庫は多数が既に出荷され、本拠地を留守にしている。

 ギジシップで神聖王の直衛となる獣身兵はわずかに300、うすのろ兵は10体ほどしか残っていない。代りに持ち出されたのが運用に非常に手間が掛り毒地へは出せない、獣人だ。

 

 遠目で敵の様子を確かめていたシガハン・ルペと基エトスも敵陣の様子に戸惑い、対応を考えさせられた。

「背に人が乗っているぞ。弓を使うらしい。」
「乗り物として使うのか。だが武器も携えている。どれほどの戦闘力を有しているのか、判らんな。」
「赤紫幟隊では兵力が足りない。紫幟隊も投入するか。」

「・・・いや、紋章旗団を第二陣として後方に網を張り、赤紫幟隊は突入しよう。兎竜隊は鉄弓で対ゲイルに専念だ。」
「うん。伝令! 紋章旗団に前進命令。」

「はっ!」
「基エトスさま!」

 彼の指示に従って全軍の装備を調査していた者から報告が為された。

「ルペ、良い報せと悪い報せがある。悪い方から行くぞ。矢がもうほとんど無い。」
「だろうな。港からこっち、敵の砦がまったく無かったから補給出来ていない、当然だ。良い報せは?」
「残っているのは鉄箭ばかりだ。ゲイルと遭遇しなかったから使っていない。」
「上出来だ! 兎竜隊に集めてくれ。」

「更にもうひとつ。獣身兵から分捕った槍が20本ほどもある。」
「敵に別働隊があるかな? 特にゲイルを用いる隊は。」
「紋章旗団が戦った怪蟲はあるかもしれん。本隊直衛に槍は回すか。」
「そうしてくれ。ゲイルは兎竜隊が全力で阻止しよう。」

 基エトスは東金雷蜒領進入当初と同じに、再び紋章旗団の指揮を執る。団長槙キドマタに代り、副団長アルラァ中剣令が紋章旗団を率いていた。

「別働隊は良くやってくれた。」
「はっ。ありがとうございます。」
「だが今度はゲイルが相手だ。先鋒の赤紫幟隊はゲイルをやり過ごす。こちらが囮となって引き付けるぞ。」
「鉄弓が使えないのに多少の不安がありますが、喜んで従います。」

「アレをやろう。」
「アレ、ですか。アレは酔狂な戦法ですな。」
「酔狂は大好きだ。」
「私もです!」

 戦闘はゲイルの突撃から始まった。背のギィール神族は赤甲梢に矢が残っていない事をちゃんと把握しており、ゲイルの攻撃力を生かして蹴散らしに来た。
 確かに弓が使えないのは巨大な蟲を相手に非常に不利だ。だが装甲神兵赤紫幟隊はその程度の劣勢は意に介さない。三元鱗の三角形の隊形が一つとなってゲイルの突進をかわし続け、続く獣人の部隊との近接戦闘に持ち込んだ。

 獣人は背丈が2メートル半あり体重も300キロに達する。怪力は黒甲枝に匹敵するが、戦闘の持続時間と運動性でかなり劣る。知能も教えられた事しか出来ない低能だが、どうせ戦場では人を殺すしか用が無いと割り切って使う分には便利な道具と言えよう。それが、褐甲角王国が把握する獣人の基本資料だ。
 だがギジシップ島の獣人はかなり改良が進んでいた。背に獣身兵を乗せ弓で攻撃して白兵戦闘を避けている。ただ走り回る分には疲れも少なく稼動時間が長くなった。白兵戦闘の武器も短剣が付いた手甲を両手に持つのみだ。防御に主眼を置いて、怪力で無理やり叩きのめす戦法は取らない。常人の兵が相手ならば、これで十分に脅威となる。

 では、赤甲梢の神兵が相手ではどうだ。

 赤紫幟隊の神兵はすぐに気がついた。獣人の動きには見覚えがある。いやこれは彼等自身が日頃行っている、今もそれに従って戦う体技と同じだった。
 この獣人は黒甲枝と同じ訓練を施されている。
 そう気付くと隊長のエロァ均ガシュト大剣令は三元鱗の隊形を解除して、二人一組で獣人に当たらせる。黒甲枝が相手であれば、一人ひとりを確実に倒していかねばならない。隊形を保持したままでは時間稼ぎをされて、後ろの紋章旗団に負担を掛けてしまう。神兵個人の戦闘力に期待して、個別戦闘の結果に賭けた。

 一方紋章旗団はゲイルの突進を受けても引き下がるわけにはいかない。実のところ、彼らはゲイルに餓えていた。
 大審判戦争勃発後、安全な場所でひたすら虚しく時を過ごし、同僚であった赤甲梢の活躍を指をくわえて見るしかなかった彼らは、電撃戦にゲイルとの大戦争を期待していた。だがまとまった戦力はアウンサの本隊がすっかり平らげてしまったので、彼等が遭遇したのは少数の歩兵ばかりだった。たまに出て来るゲイルも50の神兵に怖れをなして襲って来ない。シンデロゲン港まではゲイルと戦う事が本当に無かったのだ。

 怪蟲との戦闘で負傷者を多数抱えていても、ゲイル騎兵が来るのならば喜んで死の床からも立ち上がる。弓が使えないとしても、その程度のハンデはむしろ熨斗を付けてくれてやろう。

 背の神族が放つ黄金の矢を無造作に弾くと、紋章旗団はゲイルの肢に向かって突進する。とはいえ、さすがに走るゲイルに衝突して無事な神兵は居ない。

「!」

 神族が彼らの意図に気付き、慌ててゲイルの向きを換えた。一目散に走り去り、距離を取って再び弓で射る。弓戦ならば待ち構える兎竜隊が相手だ。鉄箭の威力にゲイル騎兵は一時後退して態勢を立て直す。
 兎竜隊を指揮するシガハン・ルペはまた苦笑する。

「アレを使ったな。」

 アレとは、ゲイル騎兵を相手に使う赤甲梢禁断の戦法だ。成功率が低いのみならず、弓や槍があれば必要の無い無駄の多い技であり、おもしろがってやる神兵が何人も怪我をして総裁のアウンサに禁じられたいわくつきのものだ。
 赤甲梢の神兵が3人組になってゲイル騎兵に近寄り、二人が台となって一人を投げ上げてゲイルの背に飛び乗り大剣で叩きのめす。
 「翔天兵」と呼ばれる技で、華麗ではあるが無謀極まりない。褐甲角の神兵ならば飛べるはずなのに飛べないのは、フンコロガシの聖蟲をのっけているのだろう、とギィール神族にバカにされたのに怒って生み出した、という謂れも残っている。

「フンコロガシだって飛べるのだがな。」
と、基エトスは虫の面の下でほくそ笑む。激烈な戦闘の渦中ではあっても、思い出してしまったものは仕方がない。

 ゲイルが掛ってこないのならば、数的に劣る赤紫幟隊を支援するまで。両翼の半数をゲイルへの牽制に残して、15名が獣人との戦闘に参加する。基エトスはゲイルへの抑えと全体の把握の為に獣人とは戦わない。かなり残念だ。

 正直に言って、大剣でゲイルと戦うのは難しい。高速で走るゲイルに短い剣で有効打を与えるのは困難で、こちらが肢に巻き込まれる可能性の方が高い。ゲイルの突進力は重甲冑装備の黒甲枝でさえも撥ね飛ばす。総重量130キロの赤甲梢ではいわずもがな。翼甲冑はゲイルに撥ねられた時の衝撃を和らげる機構を持っているのだが、それでもまともに当たると全身骨折は免れない。

 びゅっと顔に飛んできた矢を左手で払う。無意識に腕が動いた。こんな化け物と戦うギィール神族や獣人はたいへんだなあ、と基エトスは我が事ながら呆れてしまう。

 後方で大きく沸き上がる声がある。基エトスは振り返り、兎竜隊のシガハン・ルペを探す。彼の方からも基エトスを探して居たようで、すぐ眼が合った。

「(アウンサさまの本隊に攻撃があったのか?)」
「(大丈夫だ。対応している。)」

 残存するユゥゲイルが20体、後方から襲いかかって来た。だがさすがに蟲も疲れている。全身傷だらけで戦意は乏しい。ギィール神族の指図にいやいやながらも従っている風情だ。
 装甲神兵紫幟隊が後方で支える。弱っているとはいえ怪蟲の戦闘力は侮りがたい、こちらも死力を振り絞って戦わねばならなかった。

 アウンサの周囲は装甲神兵黒紫幟隊の残存13名と近侍5名、他は重傷者ばかりとなる。手薄と見て獣身兵が最後の攻撃を掛けてきた。
 矢が飛びアウンサの脇をすり抜ける。重傷者も立ち上がり壁となって総裁を守るが、手当ての為甲冑を外しており満足に手足も動かないので、むざと矢を受けてしまう。

 ばたばたと倒れる神兵の中で、アウンサは昂然と顔を上げ戦況の行方を確かめる。褐甲角の王族は戦闘の最中決して指図する事は無く、すべて黒甲枝の責任者に任せる決まりになっている。黒甲枝への信頼の証しとして、彼らに賜う最大の恩恵だ。

「これをお持ち下さい!」

 輔衛視チュダルム彩ルダムが翼甲冑の増加装甲を楯となる重傷者に手渡した。
 彼女は聖蟲を持っていても戦場に出る身分ではない。黒甲枝の重鎮チュダルム家の出身だけあってこれまでの戦闘では眉も動かさなかったが、アウンサの身にも害が及ぶとなればさすがに狼狽える。必死でアウンサの姿勢を低くさせようとして拒まれた。やむなく剣を抜き、自ら矢を払い始める。

「ルダムちゃん、上手じゃない。」
「バカにしないでください!」

 矢が尽き、槍をかざして獣身兵が突撃を掛けたが、ユゥゲイルを片付けて紫幟隊が戻ると勝機は無かった。横撃を受けてあっさりと潰滅する。ゲイル騎兵もその姿を望み見て、これまでと兵を退いた。巨大な獣人の骸が幾つも草の上に転がっている。

 

「2。」「1。」「2。」「・・・5。」「無い。」

 ギジシップ島に上陸してすでに15名が戦死し、50名が戦闘に支障を来す傷を受けた。
 だが目的地である神聖宮まで、後わずか。

 空が白んで来たか、と顔を上げた彩ルダムは、前方に異様な物体を発見する。

「アウンサさま、あれを!」
「おお?!」

「おおー!」

 これまでまったく姿を見なかった神聖宮の姿が、払暁の空に突如として現われた。天まで届く巨大な壁が曙光を浴びて輝く。

 高さは百杖(70メートル)に届くかと思え、ゆるやかな曲線が天に膨らむ。表面はあくまでも滑らか、へこみや継ぎ目は全く見えない。東の方は燃え出る朝日に赤く染まり、雲の姿が圧縮して映る。西の方は未だ青く黒く目覚めを迎えぬ空気に溶けている。

 人造の壮観に、誰もが声を失った。

「・・・鏡、か。」
「夜の間は闇を映して、まったく人の眼には触れないのだな。」
「これほどの巨大な鏡をどのようにして作ったのだ・・・・。」

 シガハン・ルペはアウンサを振り返る。果たして、王女の瞳はまっすぐに壁を見つめ、揺るぎない意志を湛えていた。
 だが敢えて、赤甲梢・紋章旗団全ての神兵に対して、それを言葉に表して欲しかった。

 ルペはアウンサの前に跪き、頭を垂れて問うた。

「総裁。アウンサさま、あれに見えるが東金雷蜒王国神聖王が居城であると見受けられます。総裁の目的が和平にして神聖王と青晶蜥神救世主との会談の実現であれば、尋常に和を乞い案内を求めても、最早よろしいかと存じます。いかがなさいますか、今一度の戦を、神聖宮への強行突入をなさいますか。」

 対して、アウンサは兜を取り素顔を神兵に見せて、答える。

「既に15名、おそらくは波間に沈んだケルベルト咆カンベ大剣令以下の10名も生きてはいないだろう。これ以上の損失はたしかに耐え難いものがある。
 だが私は、未だ神聖王に対して十分な説得の材料を持っているとの確信が持てない。人として、同じ天河の十二神の命に従う者として、一切の虚飾を取り払った会見でこそ和平はなるだろう。

 改めて命ずる。赤甲梢と紋章旗団はこれより神聖宮に突入し抵抗を武力で排除して、私を彼の人の前に連れていくのだ。」

 赤い鎧に身を包んだ勇者達は皆王女の前に跪き、謹んで命令を受領した。最後までやる、最後まで我らに王国の運命を預けてくれる。
 これ以上何を望むだろう。

     *****

 薮を掻き分け林を抜けると、いきなり黒い壁が現われた。

 侵入当初から頻繁に見る黒い壁と同じ材質だが、高さは10メートル、延々と連なって輪になっているらしい。
 これは城郭の外周だ。曲率から考えると、神聖宮の周囲を直径1キロほどで丸く囲むようになっている。だが軍事的な施設と考えるにはいささか不用心過ぎた。見張り台も無ければ壁の上で兵が身を隠す胸壁も無い。第一、この程度の高さではゲイル騎兵に対してまったく障害にはならない。

 左右を確かめて見るが、門はどこにもないらしい。やむなく赤甲梢は壁を乗り越える事とした。
 表面に貼られている木炭に似た黒い穴だらけの吸音材は脆い。登りづらいが、短刀を深々と撃ち込んで足場とし神兵は次々に上がって行く。
 ただし、自力で壁を登れない重傷者はここで待つ。その数30、半数は一応戦えるがゲイル騎兵に襲われては抗う術が無い。彼等は総裁アウンサの足手まといとなるを怖れ、自ら残ると主張した。

 

「おお! これが神聖宮か。」

 壁の上から内部を覗き見た神兵は、その威容に興奮する。神聖金雷蜒王国調の白亜の建造物がいくつも建て並び、屋根や柱には金銀があしらわれている。庭には花が咲き清んだ水路には華奢な小舟が浮かび、水鳥が周囲で遊んでいる。楽園と呼ぶにまさにふさわしい姿だ。
 中央の鏡の壁は建物の姿を映しまるでそこにも街があるように見え、壁自体の存在が無いと錯覚してしまう。東側は朝日を浴びて明るく輝くのに対し西側に落ちる影は長く、海に面する重厚な建築群は未だ眠りに就いている。

 人は居ない。褐甲角軍が攻めると聞きつけてさすがに避難したのだろう。だが先程までは変らぬ日常を送って居た、そんな気配が色濃く残っている。おそらくは街の姿にふさわしい、美しく着飾った人が暮すのであろう。

 全員が降り立った最後に、アウンサが二人の神兵に担がれて壁を降りてきた。自分で登ると言ったのだが、さすがにそれは許してもらえない。折角額に黄金の聖蟲が憑いて居るのだから、たまには働かせてやらねばむくれる、と言っても無駄だった。軽装の彩ルダムが軽々と自力で登り、壁の上から舞うように飛び降りる姿を恨めしく眺める。

 地に足を置き、左右を見回して言う。

「ここは奴隷の居住区だな。」
「これが! 奴隷の?!」
「大臣だって聖蟲が無ければ神聖王にとっての奴隷に違いない。箱庭であるからには、美しく整えるさ。」

 アウンサはアユ・サユル湖の中心マナカシップ島にある亡命神族の隠れ都市で、ギジシップの様子を聞いている。簡単な王都の地図もこしらえていた。

「ギジシップ神聖宮は、幾つかの区画に分けられて、それぞれに設計思想がまったく違うんだ。

 内宮、外宮、聖蟲宮、宝蔵宮、聖戴神殿、これが心臓部となる。おそらくは、あの高い壁の内部だ。
 安世街、官衙街、究理街、戯匠街、文書街、兵衛街、庫匹街、これが首都機能を司る官僚と奴隷の区画だな。我々が今居るのは、安世街だと思う。
 大聖門、鉄城門、厳正門、これが防衛施設だ。帰りにはここを通る事となろう。西の大聖門の外には港町があり結構な賑わいを見せるらしい。粋なカエル巫女も居るぞ。」

「我らが目指すべきは、その内宮ですな。神聖王の寝所があるはずの。」

 アウンサの軽口に誰も応じなかったので、王女はちょっと眉をひそめた。こいつら真面目一辺倒でよろしくない。

「街での戦闘はあるでしょうか。いや、あるとしてもこれだけのものを焼き払うなどは。」
「その必要は無いだろう。たぶん、・・・ほら、案内が来た。」

 

 黄金のゲジゲジ飾りの付いた杖を持つ神官が3人、神兵の集う場所に現われた。頭に薄い金箔を垂らした冠を被る、金雷蜒(ギィール)神の高位神官だ。
 誰何を受けて使者であると証すと、神兵に付き添われながらアウンサの前に進み出て、石畳に跪き額を地に額づけて拝んだ。彼らは聖蟲がある者に対して絶対の服従を誓う。それがカブトムシを戴く神兵であっても、同じだ。

 案の定彼らの用件は、この場所での戦闘を避けてくれ、というものだ。代りに趣向を用意してあると伝え、その場所に案内すると申し出る。

「いかがなさいますか。」
「招かれてはいかねばなるまい。面白い趣向だと良いな。」

 壁の中に入った神兵は130名。2列の縦隊を組み、ゲジゲジ神官の案内に任せて街路を進んで行く。よく見ると、瀟洒な建物の角から幾つもの眼が覗いている。横からアウンサを襲撃されぬよう厳重に警戒しながらも歩調を変えずに進む。

 

 鏡の壁を仰ぎ見るまでに近付いた一行は、その正体を間近で確かめ改めて驚嘆する。

 壁は円筒形になっており、垂直に天高く伸び上がっている。筒の直径は300メートル高さは70メートル超、方台の尺度で言えば400歩に100杖だ。

 材質は金属ではなかった。近くで見ればそれは、薄く真珠色を帯びた透明な素材だ。細い線が幾重にも巻きついて互いに溶解し接着している。内部で複雑な屈折と反射を繰り返し、遠目には金属のような均質な反射を見せていた。
 最初に壁ではなく円形に並んだ高い塔があり、その間を不思議な線で何千何万回も巻きつけていく、そういう作り方をしているらしい。蜘蛛の糸にも、山蛾の幼虫が繭を作る時吐く糸にもこの線は似ている。

 当然尋常の構造物ではない。聳える鏡の圧迫感に息詰まるほどの近くに寄ると、壁が微かに脈動しているのに気付いた。聖蟲の感覚でようやく感じ取れる小ささだが、生き物の心臓と同じく確実に規則正しく蠢いている。

 

 ゲジゲジ神官は、壁のすぐ下の広場に彼らを連れて行った。壁の基部は糸がまばらに張っているのだがところどころが開けており、石の列柱に支えられる低い建物が貼り付くように建っている。これが神聖宮の門らしい。建物の横幅一杯に七段ほどの石の階段があり、平たい屋根には十二神の石像が置かれている。

 門内から数名の甲冑武者が現われた。幅広い石段の上に横に拡がり、神兵の前に雄姿を見せる。

「! 重甲冑か!」

 白銀に輝き黄金の浮き彫りがで彩られているとはいえ、武者達が装着するのはまぎれもなく黒甲枝の重甲冑だ。手には2メートルの長大さを誇る剣も携える。真横から照らす朝日を浴びて、神々しい煌めきを放っていた。
 数は10。真に黒甲枝であったとしても、130の赤甲梢を留めようが無い。しかし、

 一人が進み出て石段を降り、門と神兵との中間に立つ。これは一騎討ちの挑発だ。果たして、アウンサは自ら着用する礼装甲冑の腰に吊るす剣をがしゃっと叩くと、赤甲梢頭領に命ずる。

「ルペ! 彼の者の正体が見たい。」
「はっ! 心得ております。」

 アウンサの命令を受けて、シガハン・ルペはここで決闘を行うと決めた。重甲冑を用いる武者ならば、その正体は確かめねばならない。

 黒甲枝の用いる重甲冑ヴェイラームは、装備重量が300キロを超す非常に重い甲冑だ。だが単なる怪力で動かしているのではない。甲冑自体に関節を繋ぎ重さを受け止める機構が有り、バネによって力を効率的に利用する工夫が為されている。言うなれば、これは「着る自転車」だ。一度動き出したならば甲冑自体が動き続けようとする。着用者はその動きについていくだけでよく、無理に力を込める必要は無い。また自らの筋力を足してきわめて強烈な攻撃力に転化も出来る。

 ギィール神族が長年の研究の末に生み出した方台工学の最高峰に位置する芸術品であるが、ただ一つ欠点があった。

 「最初に動き出す為に、異常な怪力を必要とする。」
 自転車と同様に、静止状態から転がり出す時に強いトルクが必要となる。慣性の法則に従う以上どうあっても改善出来ないが、神兵が着用する限りにおいては問題にならない。
 さらには、この欠点が有る限り重甲冑を悪用出来ない、という利点もある。巨人化した獣人は元よりサイズが合わないが、薬物によって強化された獣身兵もこの点においては常人と同じ。人間が人間の形をしている以上、聖蟲無しでは重甲冑を着用するのは不可能だった。

 故に、目の前に在る「重甲冑を用いる武者」は脅威だ。

 この武者の存在は、ギィール神族の科学力が神の摂理をも超越した、という事実の証明でもある。
 もしも金雷蜒王国が真に黒甲枝に匹敵する戦士を得たのならば、以後褐甲角王国は戦の様式も軍の編成も根本から組み直さねばならない。電撃戦の本意を置いてでも、是非にも正体を確かめねばならなかった。

 

 基エトスがシガハン・ルペの左腕を抑える。この男なら自分で決闘して確かめかねないが、赤甲梢頭領にそんな軽挙はさせられない。左右に並ぶ神兵に呼び掛ける。

「誰か! あの敵に挑む者があるか?」
「我が!!」

 5人ばかりが名乗りを上げる中、基エトスは二人の若い神兵を呼んだ。
「ュクーリ活ヤーバル、覚ヤーバル!」

 黒甲枝ュクーリ家の双子の神兵だ。元は基エトスの指揮下にあった装甲神兵紫幟隊に属し、その力量を十分把握している。両人ともにあらゆる武術に優れ、神兵同士の模擬戦闘でも抜群の成績を上げていた。アウンサが毎年行う武術披露大会においても、ここ2年に渡って兄弟で優勝玉枝を争っている。

 基エトスは二人の様子を確かめ、軽い傷を負っている弟を避けて兄の活ヤーバルを選んだ。

「基エトス様、ご指名有り難く存じます。」
「十分に警戒し、必ず敵を討ち果たせ。黒甲枝よりも強い、との想定で戦うのだ。」
「はっ!」

 活ヤーバルは背の増加装甲を外し、面も外して決闘の支度を整えた。面はそもそも目つぶしを防御するもので、戦闘力ではまったく歯が立たない神兵に対して雑兵が灰や砂などをぶつけるのに対応したものだ。
 手にする大剣の刃も確かめる。激戦を潜り抜けて来た剣の地肌には無数の傷が入っているが、致命的損傷となるものはない。更に、万一の備えの分厚い拵えの短刀や手甲の刺にも異常が無いか調べる。

 弟の覚ヤーバルが兄の甲冑の背中を確かめて、どんと叩く。この双子の神兵は、背は余り高くないが全身筋肉に覆われむっくりとした、いかにも闘う者の体躯だ。聖蟲が怪力で支援するとはいえ、人体そのものが弱ければ思い通りに力を揮えない。赤甲梢の兵達は二人の鍛錬ぶりを称讃する。
 が、美形好みのアウンサの趣味ではない。

「行って来い!」
「むん。」

 白銀の重甲冑に向かって歩み出る赤い甲冑の後ろ姿に、シガハン・ルペは傍らの基エトスにつぶやく。

「黒甲枝よりも強い、と言ったな。本当にそんな事があると思うか?」
「そうでなければ趣向にはなるまい。」
「だが、聖蟲独自の能力までは真似できないだろう。」
「吶向砕破や翅による支援か? それは確かに無理だろうが、甲冑に独自の工夫が施されている可能性は高い。」

「そうか。」

 重甲冑が動き出す。改めて初期駆動の運動を見ても遅滞無く滑らかで、内部の人間が間違いなく神兵並みの怪力を持っていると分かる。
 長大な剣を斜め下に構えたまま、活ヤーバルに迫る。彼も大剣を天高くに構えて朝日の輝きを帯びさせ、急速に間合いを縮めて行く。

 十二神方台系の決闘に名乗りは無い。礼も無い。そんなものは今から始まる祭を前に無用の些事だ。ただ強い男があればいい。
 卑怯な手というものも無い。一度実戦に臨めば、ありとあらゆる手段を用いて敵を倒すのが当然。対応できない方の覚悟が足りないと定まっている。まあなによりも聖蟲の存在からして、持たぬ者にとっては著しい不正であろう。

 互いの剣がゆっくりと大きく動き、最初の一撃を交わした。鋼の衝撃音が見守る広場全体に、高い壁にこだまする。

「やはり。」

 白銀の重甲冑は、活ヤーバルの渾身の打ち込みに真っ正面から応じてもまるで怯むところが無い。衝撃に下がりもしない。弾かれた剣をぐるっと回して滑らかに第二撃を繰り出した。

「黒甲枝と同等の力を持っている。技も確かだ。」
「ああ。聖蟲無しとはとても考えられない。一体何者だろう。」

「褐甲角の神兵に裏切り者が居た、と言われても今なら信じるぞ。」

 驚愕はむしろ活ヤーバルにあった。基エトスは黒甲枝以上の強さを想定せよと言ったが、確かに目の前の武者にはその気配が漂っている。これまでに剣を交わした黒甲枝赤甲梢の先達を思い起こして戦うが、敵の奥深い強さは類が無かった。

「死力秘術の全てを尽しても、勝たねばならん!」

 二人に差があるとすれば、用いる武器の違いだろう。活ヤーバルの大剣は長さが1.5メートル重量15キログラム。聖蟲の怪力で打ち合っても折れず曲がらず欠けない見事な鋼だ。尖っているだけで刃は無いが、金属の甲冑を断ち割るのにそんな繊細なものは必要無い。
 対して、白銀の武者が用いるのは2メートルになる長大な剣だ。身幅は狭く大剣より薄いが強度に差は無いと思われる。美しく鏡のように磨かれ、蔦の絡まる文様が刻まれ黄金で飾られていた。だが見かけ倒しという事はありえない。ギィール神族の手になる道具は、性能が高い物ほど装飾が華美になる傾向がある。称えるべきものであるからこそ念入りに装飾が施される。

 相手の剣の方が長いから、打ち負けない為に活ヤーバルの方が攻める。重甲冑には欠点というものは無いが、厚い装甲で覆われた体幹部よりも運動性を重視した手足の方がどうしても弱くなる。狙うべきはそちらだ。
 敵の剣はしなやかで勁い。重甲冑のバネの作用を十分に利用して、弾く速度で剣が走る。狙いも正確で手元や顔面に切っ先が迫るのを、慎重に弾かねばならない。

「よく分かっている!」

 重甲冑の運動には一定のリズムがあり、着装者はこれに従わねば十分に闘えない。聖蟲を授かった後に神兵は2ヶ月ほどの特訓を行いその動きを身に染み込ませるのだが、白銀の武者もまさしくその通りに舞っていた。力と早さと隙の無さを漏れ無く備えた演武の様式に、死角は無い。

 赤い甲冑の背の翅が震える。翼甲冑の名のとおりに、赤甲梢はこのタコ樹脂製の薄翅によって数々の武勲を挙げて来た。活ヤーバルも翅が生み出す推力を用いて、早さで敵を圧倒するべきだ。

「脇から攻めるな。」
「うん、それが正解だろう。」

 見守る神兵達も自らが戦うかのように小刻みに身体を震わせて、活ヤーバルの戦いに没頭する。
 だが、アウンサの副官であり近侍を率いるカンカラ縁クシアフォンは周囲の警戒に余念が無い。今この瞬間にでも、アウンサを狙う矢が飛んで来るかもしれない。甲冑をも冒す特殊火焔瓶が投げ込まれる怖れもある。決闘中にそれを行っても恥にならないのが、方台の流儀だ。

 護衛の観点からしてみれば、一つ所に長居するのは非常に危険だ。またこの決闘、体の良い時間稼ぎにも思われる。縁クシアフォンはさりげなくアウンサに進言する。

「決闘ならば20名もあればよいでしょう。他の者を先に進ませた方がよろしくはありませんか?」
「理は正しいが、神聖王も決闘を見ている。これもまた和平交渉の一環と思え。」
「では致し方ありません。」

 輔衛視の彩ルダムが注意を促す。
「アウンサさま!」
「む?」

 撃剣の様子が変わってきた。左右から隙を窺い小刻みに連撃する活ヤーバルに対して、白銀の武者も攻勢に出た。2メートルの剣が鳥に化して飛び交い、神兵の動きを牽制し胸元に剣先を突き付ける。巧みな甲冑捌きで最小の動きを以って翼甲冑の出鼻を抑え、完璧と言える対処を見せている。
 活ヤーバルも自らの攻撃の機先を制されて焦っていた。いかに黒甲枝と同じ怪力を備えたとはいえ、これほどまでに洗練された戦闘が出来るとは思わなかった。少数の黒甲枝だけの訓練では、ここまでの腕を身に着けるのは叶うまい。多数の中から練達の士が輩出され、彼が率いるからこそ集団は秀でた技量を獲得する。

 基エトスがその疑問を解き明かし、シガハン・ルペに伝える。

「夜明け前に遭遇した獣人は、皆黒甲枝と同じ動きをしていただろう。」
「ああ、不可思議に思っていたよ。甲冑を着けない獣人には、もっと別の動き方もあるだろうに。」
「その理由が、これだ。仮想敵として獣人に黒甲枝の動き戦い方を教え込み、この武者の練習相手にしていたのだ。いや獣身兵の訓練にも、黒甲枝の動きをして黒甲枝並みの怪力を持つ獣人は役立つだろう。」

「活ヤーバルは、不利か。」

 ますます疾くなる白銀の武者の攻撃に、活ヤーバルは押されていた。まだ致命的な失策は犯さないが、一度仕切り直して戦い方の転換をせねば攻め口が見付からない。間合いを取って相手を走り回らせれば翼甲冑が有利と分かっていても、下がる隙が見出せない。

「機を窺って懐に飛び込み、ぶちかましを掛ける。体勢を崩せば離れる隙が出来るだろう。」

 不意に重甲冑の動きが止まった。息継ぎか? 顔面までも覆う甲冑は動き過ぎると息苦しくなる場合がある。一度呼吸を整えねば次の手が出せない。
 ここぞと、活ヤーバルは踏み込んだ。全身一弾となって胸元に体当たりする。

 飛んだ。重甲冑が背後に2メートルほど跳んで、攻撃を避けた。
 この機動には見守る神兵もどよめく。前になら勢いがあれば重甲冑でもかなりの距離を跳ぶが、後ろにはとても出来たものではない。そもそも甲冑が後ろに跳ぶなどは、翼甲冑で初めて実装された機能だ。

 完全に虚を衝かれた活ヤーバルは、白銀の武者の激しい連撃に耐えた。左右の腕の装甲が弾け飛び、肉の腕が露出する。嵐が止らない。

「兄者!」

 見かねた覚ヤーバルが飛び出した。完全に劣勢に陥った兄を救わんと大剣を担いで走る。

 決闘にはよくこういう事が起きる。たとえ一対一でと取決めてあっても、人は感情の動物であるから思わず身内を救いに飛び出してしまう。それも合戦の作法の内で、決闘の条件が破られたと同時に全軍が突撃して乱戦に持ち込む、という手段は特に身分の高い者を守る時には多用される。
 だが、門の前に並ぶ9体の重甲冑は動かない。そのまま決闘の続行を求める。

 覚ヤーバルは左に担いだ大剣を、そのまま白銀の武者に叩きつける。武者は右腕の装甲で受けた。
 ごうん、と低い音が響き剣が跳ね返る。敵はそのまま後ろに下がり、仕切り直して二人の出方を見守る。

「無事か?」
「まだ動く。だが、今の一撃で効果無しか?!」

 傍目には何事も無かったように、重甲冑は静止している。右の二の腕には大剣が確かに当たったへこみがあるが、内部にまでは浸透しなかったらしい。

 シガハン・ルペも驚き、思わず声を漏らす。

「装甲が強化されているのか・・。」
「違う。重甲冑は本来あの強度を持っているのだ。大半の黒甲枝が使う長年破損と修復を重ねた甲冑は、ギィール神族がこしらえた当初の強度を失っている。」
「それはほんとうか。」
「ああ。褐甲角王国の手が入る度に、重甲冑も翼甲冑も機能を下げて行くのだよ。」

 活ヤーバルと覚ヤーバルの双子は、面子も棄てて二人でこの強敵に立ち向かう事に決めた。大剣でさえ容易には効かぬとなれば、なりふり構っていられない。

「吶向砕破で継ぎ目に直接突き入れる。援護してくれ。」
「分かった、俺の後ろで機会を掴め。」

 兄の甲冑の破損が激しい為、弟が壁となって攻撃を防ぐ。その隙に兄活ヤーバルは気力を高め聖蟲の羽ばたきの力を収斂して、必殺技の発動に備える。吶向砕破は瞬時には出ないのが唯一の欠点だ。

 白銀の武者は相手が代わっても怯みを見せず疲れも知らない。まったく疲れないのが、カブトムシの聖蟲によって怪力を与えられる神兵の特徴だ。激戦の渦中に何時間も在っても、筋力の衰え呼吸の乱れが極端に少ない。むしろ集中力の持続が保たずに聖蟲との連動が切れる事が戦闘継続時間を規定する。
 重甲冑の中身が人ならば、間違いなくカブトムシの聖蟲を戴いている。裏切り者、という単語が脳裏に踊る。

 絶え間ない撃剣の背後で、活ヤーバルは気力の集中を高めて行く。両腕の装甲はほぼ砕け散り無数の傷から血が噴き出すが、依然として闘志に陰りは無い。これだけの敵、これだけの舞台、これだけの激闘を用意されて、聖蟲を持つ者がどうして引き下がろうか。

 が、彼のもう一つの意識の側面は別のモノを感じ取っていた。敵の重甲冑には波動が無い。カブトムシの聖蟲が憑いているのであれば当然聖蟲同士の共振があるはずだ。宿主が対立していても、聖蟲は同じ天河の神より遣わされたもの。本来利害の衝突は無く繋がりを拒む理由も無い。
 ふと気付いた。重甲冑の背中には13対の小翅が背筋に沿って並び振動して推進力を生み出すが、この敵はそれを使っている気配が無い。中の聖蟲と甲冑が共振していないのだ。

「誰が、中に入っているのだ?」

 覚ヤーバルは兄に代わって、初めてこの敵の強さを理解した。2メートルの長大な剣、鏡面に仕上げられた美しい鋼は微妙にたわんで大剣の打撃を受け止める。鞭槍という武器が方台にあるが、それに刃が付いたものらしい。単に剣として使っても十分な威力を持つが、手元の具合で切っ先が生き物が跳ねるに似た特異な運動を見せる。切味も抜群で本来なら矢でも刃でも耐えるタコ樹脂製の背の翅にすっぱり切れ目が入ってしまう。

「これは、黒甲枝水紋の型でしか倒せぬな。」

 鞭槍、双鞭といったたわむ武器に対する技法を覚ヤーバルは習得している。剣を回して巻き取る技で、双鞭の使い手である赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダが手解きをしてくれた。彼は一人だけ貧乏クジを引き、現総裁メグリアル劫アランサ王女の護衛としてウラタンギジトに在り、電撃戦への参加が出来なかった。彼の為にもこの敵は自分の手で倒さねばなるまい。

 覚ヤーバルと白銀の戦士の剣捌きが、急に尋常になったので見る者は驚いた。二人は行儀良く打ち合い弾き合って、接近したり離れたりする。誰ともなく声が上がった。

「水紋の型、では相手は鞭槍か?!」
「正体が分かれば、勝てる!」

 弾き合い巻き合い、絡げ合い、覚ヤーバルは確実に敵を追い詰めて行く。微妙にだが相手を後退させている。白銀の戦士も、自分が敵のペースに乗せられていると悟り打開を試みるが、攻守所を換えて今度は間合いを開ける事が出来ない。
 ぶるぶるっと重甲冑が震えた。巨大な丸い装甲が小刻みな振動を重ね、絡げる剣にも微妙な湾曲を与える。

 なにか奥の手を出す、と察したが、覚ヤーバルも今更後には下がれない。背後の兄も吶向砕破発動の準備を整えている。決めるのは今だ!

 がたがたがたと白銀の戦士の剣が鋭角に折れ曲がるほどの急激な振動を見せ、大剣を巻き上げる。神兵の握力を以ってしても抗しきれずに手から剣を奪われた。だが、間髪を入れずに兄と場所を入れ代わる。強烈な振動に対しては、聖蟲の勢いが迸る抉り込む剣だ!

 二つの鋼は天地を割る音を立てて激突する。双方同時に必殺技を繰り出した、と誰もが理解したが、勝つのはどちらか。

 赤い翼甲冑と白銀の重甲冑とが溶け合うほどに密着する。互いの勢いに手の中の剣が耐え切れず横に弾け、バランスを崩して衝突した。重甲冑の真の威力を活ヤーバルは改めて体験する。吶向砕破と敵の技と、二つの激流が相乗効果を為して彼の身体に叩き込まれる。翼甲冑の関節接合部が砕け散り鋼鉄のバネが引き千切れ、赤い神兵を大きく弾き飛ばした。

「兄・・!」

 覚ヤーバルは更に自らを襲う恐怖に対面する。銀の光が重甲冑の周囲を旋回し、器械の膝に貯えられた巨大な力の奔騰と共に彼の心臓を襲う。胸の前で組んだ両の腕甲は易と分断され、翼甲冑の胸盾は自ら誘うように光を受入れた。

 

「・・・・・・・・・。」

 神兵を足で踏まえ、背中まで貫いた鋼をずると引き抜くと、鮮血に染まる深紅の塔が立った。遠く、弟から離れて横たわる赤い甲冑がまだびりびりと震えている。

 押し黙る神兵達の背後で高い声が上がる。

「シガハン・ルペ!」

 弾かれて赤甲梢頭領は振り向き、総裁アウンサの前に跪く。王女の眼は怒りに燃えている。

「ルペ、彼の者に勝てる神兵は赤甲梢には居らぬか」
「ございます。私自らが参りましょう。」

「待て! ルペ!!」

 基エトス、縁クシアフォンが止めるのも聞かず、ルペは大剣を手に進み出る。白銀の戦士は赤く染まる長大な剣を地に斜めに横たえ、次なる犠牲を待ち受ける。
 頭領に代わって闘おうと次々に申し出る神兵を右手を挙げて制するアウンサに、彩ルダムが改めて尋ねる。

「よろしいのですか?」
「アレは勝算無しには戦わぬ男だ。そうであろう、縁クシアフォン。」

「ですが、あまりにも危険が大き過ぎます。今少し中の者の情報が無ければやはり。」

 兜を捨て手甲腕甲も外すルペの姿に、神兵達は動揺の声を上げる。身軽になって決闘に応じるのだろうが、敵の早い剣捌きにどこまで通じるだろう。

 ルペは一度振り返り、アウンサに礼をする。亜麻色の髪が風になびいた。改めて白銀の戦士に向き合うと、大剣を左肩に抱えて突進する。
 敵も重甲冑の姿勢を沈めると、膝のバネを生かして前に飛び出した。剣と剣がかろうじて触れ合う遠い間合いでの斬り合いとなる。

「遠間でも戦えるのか・・・。」

 ルペは巧みに背の翅を使って敵の剣の届く範囲を頻りに出入りする。さすがに重甲冑では追いきれず待ちの姿勢に戻そうとすると、わざと隙を見せて攻勢を誘い走り回らせる。活ヤーバルが試みようとして成し得なかった戦法だ。だが白銀の戦士は神兵並に疲労を見せないとなると、このままでは攻め手を欠く。

 額の赤いカブトムシが薄翅を拡げ、ルペの意志に感応して激しく羽ばたく。そのうなりはやがて天高くに響き、鏡の壁をも震わせる。

「翼甲冑の強さは背の翅に有る。兜を脱ぎ聖蟲を露出させて、直接に翅を共振させるのに間違いは無いが、」
「ああ。少しでも擦ると危ないな。敵もわずかに大きく踏み込む気配を見せている。」

 神兵達は自らが戦っているかのごとくに鋼で覆われた指を握り締め、頭領の戦いを見守る。今のところルペは危なげなく剣を揮っているが、白銀の戦士もルペに合わせて徐々に運動量を増している。
 アウンサがそこに気付いて、基エトスを呼ぶ。

「基エトス、あの甲冑はおかしい。」
「え? しかし重甲冑と機能において差は無いと、見受けられますが。」
「うまくは言えぬが、ルペの翅の風が吸い込まれている、そんな気がする。」

 彩ルダムも王女の言に賛同する。
「私にもそう見えます。ひょっとしてあの甲冑は、黒甲枝と戦う時にだけ最大の能力を発揮するのではありませんか。」

「つまり、こちらの聖蟲の力の高まりに合わせて能力が向上する、と仰しゃいますか。」
「基エトス、重甲冑の背の小翅が震えている。微妙に推進をしているぞ。」

 縁クシアフォンも気がついた。この重甲冑は褐甲角の聖蟲に逆位相で反応している。戦う神兵の力を横取りしている風に見える。

「では吶向砕破を使うと、同じ分量だけ自分に返ってくる・・・・・。」
「いかん!」

 ルペと白銀の戦士は、ほとんど飛ぶ速度で地面を駆けている。あたかも2匹の虻が縄張りを巡って争うように、8の字を描いて剣を交えた。
 張り詰めた緊張に、基エトスも声を掛けるタイミングを見出せない。少しでも気を逸らせたら、たちまち彼我の均衡が崩れて破局に到るだろう。

 見守る者の心配を余所にルペの甲冑の翅の音は、聖蟲のうなりは非常に安定し、軽やかな涼しげな響きで強者達を包んだ。或る種の安心感を与える気配だ。
 戦いは終始ルペの主導で進んでいる。互いにぶつかり離れてまた近付く、回を重ねる毎に勢いを増し、剣の触れ合う音が高くなる。

 ばっ、と離れた。距離は8メートル。示し合わせたように瞬時停止するが、それは終末に向かう最期の安らぎだ。互いに必殺技を放つ気力の集中が完了している。

「ルペ、やめろ!」

 声が届くより早く、二匹の甲虫は真っ正面から激突する。ルペは吶向砕破を、白銀の戦士は振動する剣を繰り出した。

「”漣捻駕”だ・・・。」

 基エトスが思わず声に漏らすその技が、全ての視線が集中する焦点で発動した。
 必殺の威力を秘めた二本の鋼鉄が接触する。しかしルペの大剣には単純に勢いが乗っているのではない。微かに螺旋を描き、敵の長大な剣を巻き込んで封じる。

 銀の重甲冑が、300キロの重量が地面の支えを失い、ルペの剣を中心に左に傾く。城門を打ち破り巨大な岩石を微塵に砕く力の集約が、すべて白銀の戦士の旋回に用いられる。
 手と足と頭と、重甲冑の全ての突起が土を抉り、車輪と化して地を転がった。20メートルほども走ると、五体を大の字に開いて叩きつけられ土に埋まる。

 手にした大剣を捨てルペは敵の後を追い、電光の一撃を重甲冑唯一の弱点である顔に打ち込んだ。虫の顔を模した面が鋼の拳に砕け、銀色の巨躯が両の手足を一瞬ばたつかせると、ぱたと地面に落ちる。

 

 縁クシアフォンは、あまりに意外の結末に思わず前に進み出た。

「・・・ルペ、お前は漣捻駕が使えたのか。」

 ”漣捻駕”とは、吶向砕破の返し技である。
 聖蟲の神威全てを乗せる必殺剣に対するに、流れる方向を逸らし敵を身体ごと巻き取って威力を回転に換え浪費させる。系統としては黒甲枝水紋の型の延長上の技だが、鋼の奔流に抗するに毛ほどの狂いも許されない繊細さを要求される。
 対象となるのがカブトムシの聖蟲を戴く神兵のみ、と非常に使いどころが限定されるので近衛兵団神兵戦技研究団にのみ伝えられ、赤甲梢では教えていない。

 シガハン・ルペは左手を挙げて歓喜に沸き上がる味方を抑え、白銀の戦士の兜を取り内部を確かめる。砕けた顔面はもはや人の形を留めていないが、その頭部には。

「なんだ、・・・・これは。」

 禿頭に取り憑いていたのは、カブトムシでもゲジゲジでもない、見たことも無い聖蟲だった。いや、それは聖なるものだろうか。
 元はギィールの仲間であると思われるが全身黒く染まりカブトムシと同じ光沢を放つ。多数の肢が萎縮して丸い甲羅のように固まっていた。ゲジゲジがカブトムシの形を擬しているかに見えるその姿に、天河から遣わされる荘厳さ気高さは微塵も感じられない。

 聖蟲は死なない。その蟲も打撃は受けておらず、砕けた頭から逃げ出そうとする。ルペは正体を確かめる為に捕まえようと手を伸ばすが、触る事が出来なかった。いかに醜悪であろうとも、聖蟲と思えば直接に触れる禁忌を覚えた。彼の額の赤い聖蟲も触るべきではないと警告する。

 蟲は宿主が息絶えたと認識すると、額から降りて地に跳ねた。おそらくは奇形によるものだろう、体節が曲りよじれておりとても尋常の蟲には見えない。完璧なものとして下されるはずの神の化身からは程遠い存在だ。

「・・・あえて完璧を崩してまで、無双の力を手に入れたのか・・・。」

 結局蟲の正体は分からなかった。三度跳ねると空に溶けるように姿を消す。ゲジゲジの聖蟲ならばギジジットに在るという巨大金雷蜒神の御許に帰るはずだが、あれはどこに行くのだろう。

 

 代表を討たれても、残り9人の重甲冑の武者は動じなかった。全員で門の前の石段をゆっくりと降り、横列を為して剣を構える。
 アウンサの下知を得て、副官であるカンカラ縁クシアフォンが号令を掛ける。

「全軍戦闘準備! 横列2隊、突撃体勢! 剣構えー!」

 赤い甲冑が一斉に蠢き、手にする大剣を身体の正面に真っ直ぐ立て、ざっと歩調を揃えて列を作る。50人2列が銀色に輝く重甲冑に向き直る。

「全隊! 神聖宮に突入せよ!!」

 

 アウンサの護衛として残った装甲神兵黒紫幟隊と近侍の20名が、シガハン・ルペと討たれた双子の神兵ュクーリ活ヤーバル、覚ヤーバルを回収する。
 基エトスがまず第一の疑問をルペに尋ねる。

「ルペ! いつの間に漣捻駕を習得していたのだ。」
「習得した、というのではないよ。聖蟲を頂いてすぐの頃アウンサさまのお供でカプタニアに赴き、王都の神兵戦技研究団に顔を出した事があるんだ。そこで若気の到りの高言をかまして、神技妙技の全てを身を以って体験した、というわけだ。当時の副団長の、シジマー藍サケール様であったかな、に直々のご指導を賜った。」

「一度食らっただけで、技を見切ったのか。」
「いや、再現には結構苦労したぞ。2年くらい掛った。次にお目にかかった時はお返ししてやるつもりだったが、とんだ所で役に立ってくれた。若い頃の無茶はするものだな。」

 ルペは地面の上から、自分の大剣を拾い上げる。鋼の地肌には螺旋の溝が深く刻まれ、元の姿を留めていない。少し振ってみると根元から折れた。

 アウンサも近付いて、地にあおむけに倒れた重甲冑の武者を確かめる。顔はざくろに砕けて身元の判別は出来ないが、おそらくは褐甲角王国の関係者ではなかろう。肌の色や生活習慣の痕跡から、かなりの長期間独自の訓練を行っていた形跡が見て取れる。

「ルペ。して怪力の正体は分かったか?」
「聖蟲によるもの、には間違いありません。ですが、アレはカブトムシはおろかゲジゲジでもありえない。とても自然の産物とは思えない醜悪な、気の毒なほどに歪んだ生き物です。」
「褐甲角の神兵に匹敵すると言えるか?」
「戦っている最中に敵の武者の意志を感じませんでした。聖蟲とは違う、人を狂わせ戦う傀儡とする、獣人の感触に近いものです。」

「そうか。」

 アウンサはそれ以上問わなかったが、顔は曇ったままだ。
 彼女には一つ心当たりがある。が、神兵達にはとても打ち開けられるものではない。金雷蜒王国の中枢に脚を踏み入れれば、必ずなにか褐甲角王国にとって重大な醜聞に突き当たると覚悟していたが、その最悪に出くわしたようだ。

「一度カプタニアに赴かねばならないな・・・。」

 

 顔を上げて前を見れば、石段の前で重甲冑と翼甲冑が激しく争う姿が見える。その背後、列柱の奥に黒く鈍い光を放つ大扉の向こうが、電撃戦の最終目的地だ。

 鏡の円筒の左右から、ゲイル騎兵が駆けつける姿も見える。数は7、夜明け前の戦闘の残存兵力だろう。
 シガハン・ルペ、基エトスは改めてアウンサの前に立ち、一礼して神兵の群れに飛び込んで行く。

 

 創始暦5006年 夏旬月廿二日初一刻(午前8時)、キスァブル・メグリアル焔アウンサ率いる赤甲梢・紋章旗団は遂に神聖宮に突入する。

 

第五章 武徳王の戦い

 ヌケミンドル防衛線の背後北側、カプタニア山脈の裾野に連なるなだらかな平地に、武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクの大本営が設置されている。

 行宮は地元富商の邸宅を接収したものだから居住と執務、連絡には申し分ないが、防衛施設としてはなにも無い。小高い丘の上にあるので、斜面にそって近衛兵団を配置し兵の壁で武徳王を守る。
 武徳王の親征は25年ぶりとなり、洋カムパシアランの御代になって初めてだ。彼の治世は、先代の親征の失敗の後始末から始まった。故に軍事的には消極的な姿勢を示さねばならなかったが、長年の辛抱の甲斐あって大審判戦争における褐甲角軍の陣容は完全と言えるものだった。

「負ける心配は一切ござらん。いかように勝つか、それが今後の方台の在り方を決める大事となりましょう。」

 「将軍」も「宰相」も口を揃えて最大の軍事行動を取るべきだと進言する。無論敵が大挙襲来するならばこちらも最大限で応じるのみだが、日頃煩わしいまでに慎重とか自制を訴える老人達のこの言に、なにやら薄気味悪いものを感じる。

「そなたたちは戦の熱にうかされているのではないか?」

「陛下がそのように涼しい御顔をなされているからには、我らが熱うならずしてなんとします。」
「幕屋の奥に控えておるだけなら大人しゅうもしましょうが、我らは黒甲枝や元老員に激昂して見せねばなりませんからな。」

 カンヴィタル王宮、カプタニア王城の最上階に位置する褐甲角王国の中核となる宮廷は、世間が考えるそれとはかなり異なる。
 褐甲角王国はもちろんカブトムシの聖蟲を戴く者が支配を独占する体制を敷く。黒甲枝が軍務と行政司法を、元老院金翅幹家が政治と立法を受け持っている。

 だが本来褐甲角王国の国是は「民衆の奴隷境遇からの解放と自己決定の獲得」だ。
 聖蟲を持たない民衆が自らの意志で在るべき姿を定め、互いが平等な立場で相談して自治を行い貧富の差の無い社会を作っていく。いわば民主社会主義国家を目指しているのだが、現実はなかなかに遠い。
 民度の低さが自治を根底から否定し、各町村の自治会議が民衆を不当に搾取弾圧する、という羽目に容易に陥る。平等と公正を担保する為に、聖蟲を持つ者の支配を民衆自身が要求するからには、武徳王が応えねばならない。

 それが黒甲枝であり金翅幹家なのだが、建国の理想を忘れない為にカンヴィタル王宮は原初の姿を保っている。
 つまり、聖蟲を持つ人間が武徳王以外に居らず、廷臣は皆一般人と定められていた。6人の大臣があるが、彼らは武徳王の代理として聖蟲を持つ者に命じたり詰問する権利を持つ。
 それに見合う識見と実績が彼らには有るのだが、神聖の秩序に照らして非常に居心地悪いのは確かだ。敢えて高圧的な態度を示すのも、時として尻込みする自らの心に打ち勝つ為であろう。

「しかし戦うのは黒甲枝であって、余ではない。作戦計画はすべてカボーナルハン(総司令チュダルム兵師統監)に任せてあるから、大本営を設ける意味も薄かろう。」

「何を仰しゃられます。黒甲枝の戦いを間近で御覧になる事こそが、陛下に課せられた御聖務でございます。そもそもが褐甲角(クワアット)神は、」
「あいや、それは聖笞殿の台詞だ。将軍の口出しなさる領分ではない。」
「おお、これはしたり。」

 武徳王は老人達を奥に閉じ込めておくのを、むしろ気の毒に思う。なるほど彼らは6070歳という立派な年寄なのだが、元はそれぞれの現場で長く王国を支えて来た人物だ。乱となれば血も沸き立って縦横無尽に働きたくもなるだろう。

 

 カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクは54歳。十二神方台系では十分に歳なのだが、聖蟲が憑いているからさほど老けてもいない。痩身で背は高く、武芸の腕も衰えない。
 使う場所は無くとも毎日武術の稽古を欠かさないのは、自分でも身を護れる裏付けが無いと尻が落ち着かないからだ。

 褐甲角王国では王族は戦場にあっても自ら戦わず指揮をせず、すべてを兵と黒甲枝に任せる。だが、干戈の音が響く間近に過ごすと武に立つ国の長として身内に猛る血を覚える。元々褐甲角神救世主初代武徳王カンヴィタル・イムレイルは、自ら剣を取り兵の先頭に立ってギィール神族と戦った人物だ。

 初代と同じ千年紀の境目に立つ王として、規を越え自ら歴史を作ってみるか、と戯れに思ってもみる。

「そなたらに問いたい事がある。」
「は!」
「余は此所で黒甲枝の働きを見るが、戦争の集結と和平への道筋は未だ誰からも提示されない。余自ら動くべきか。」

「本来ならば元老院に任せるべきと存じますが、此度は青晶蜥神救世主に誘われる特別な戦であります。陛下の御力無しでは戈を収めるに難渋するやもしれませぬな。」
「されど元老院の同意を得なければ和議は成りますまい。陛下は御意志に適うどなたかを御選びになられませ。」
「左様左様。今や元老院は四分五裂、誰が正解を持っているか本人達にも分かるまい。方向を指し示すのも、また陛下の御責務でございます。」

「嘉イョバイアン(ハジパイ王)には気の毒をするな。」

「なんの。王殿下にあられても、我らのように隠居する時期でございます。後事を託す立派な太子もあり、なんの憂いもございませぬ。」
「されば、陛下は王殿下に退く事をお勧めになられるのがよろしいと存じます。」
「いや、それは反発が大きいぞ。」
「なんの、ソグヴィタル王殿下(ヒィキタイタン)の御処分を巡って未だ燻るものがある。5年前の落とし前を今着けるのが吉じゃ。」

「範ヒィキタイタンか、今であればこそ会いたいな。」

「タコリティにおいて御健在との由。時を得れば再び王都に戻られましょう。」
「だがーあ、敵将としてかもしれん。紅曙蛸王国復活は我らにとっても看過し得ぬ大事じゃ、場合によっては潰さねばならぬやも知れぬ。」
「これもまた頭の痛い話でございますなあ。青晶蜥神救世主様もめいわくをしてくだされました。」
「王国が4つに、青晶蜥王国が樹立後には5つの国が方台を分け合う姿になる。剣呑なはなしじゃ。」

 カンヴィタル宮で武徳王に仕える大臣は6名。「将軍」「宰相」「太夫」「叡書」「聖笞」「宮法監」、宮法監は元老院で立法の手助けを行い武徳王の承認を受ける役目で聖蟲が憑いている場合もあるが、他は皆一般人である。

 本日朝の会議に参じているのは4名、宮法監はカプタニアで紛糾する元老院の動向を見守り、「聖笞」と呼ばれるカニ神官は腰を痛めて伏せっている。神聖秩序に関して特段の動きは見られないから問題は無い。

 「将軍」はクワアット兵最高の位である凌士統監に昇りつめた者から選ばれる。戦闘の指揮は黒甲枝に絶対の優先権があるが、軍官僚として組織の維持に働いてきたのが彼らだ。なにより軍事費の使途についての審査は厳しく、中央軍制局最大の敵として名を轟かせている。
 「宰相」は税務局の官僚の最高位を務めた者から選ばれる。王国で今何が起こっているかを知るには金の流れを調べるのが一番だから、当然の人事だ。
 「太夫」は民間の各町村自治会議、農民議会の議長から互選で定められ、武徳王に民生の実情と経済の現況を伝える。富商が多く民間経済を現に担う者として諮問に答える。
 「叡書」は学問、科学技術に関する最高位で文化行政も監督する立場にある。政治軍事経済の枠からはみ出る自然の秩序への深い見識を持ち、災害を防ぐ策を具申する。
 「聖笞」は原則として高位のカニ神官が務める。武徳王は褐甲角(クワアット)神の最高神官でもあるが奢りの無いように敢えてカニ神官に自らを戒めさせる。また神官巫女は庶民生活の裏の裏までも知るので、「太夫」では分からない社会の底辺の姿を伝えてくれる。

 この選び方を見ても分かる通りにカンヴィタル宮、武徳王には王国を監査する機能がある。行政や軍事には手を出さなくとも、しっかりと手綱は握っている。
 だが近年は元老院を取り仕切るハジパイ王が先政主義の立場から緊縮財政を強いており濫費も無く、監査は無聊をかこって居た。

 

 老人達の話題は、いつしか大本営のある此所、ヌケミンドルの防衛体制に移っている。

「クルワンパルはけしからん。よくは分からぬがけしからん。」
「あの者は一度も陛下に作戦の説明をしに来ない。参内する位を持たぬは承知するが、やりかたはいくらもあるだろうに。」
「クルワンパル主席大監は頭が良過ぎて困る。自分一人で分かっているばかりでは、他人の目には奇術に映ろうとは考えぬか。」

 武徳王は老人達の愚痴にも似た罵りを止めさせる為に、背後に控える書記に命じた。

「ヌケミンドル督戦使ガーハル敏ガリファスハルが戻っておるだろう。幕舎に参るように伝えよ。」
「ははっ。」

 

 

「さあて、大事になってきた。」
 ガーハル敏ガリファスハルは元老院の出張所で頭を抱えて居た。

 武徳王の行宮が母屋であるのに対して、元老院の出張所は大きいが著しくみずぼらしい納屋を用いている。少し離れた隣家の屋敷を徴発すればいいのだがすぐ傍に侍るべきだし、なにより元老員金翅幹家は武徳王に対して謙る姿を兵や民衆に見せつける必要があった。
 黄金の鎧兜に身を包む元老員が泥の中に跪き、頭を垂れて王命を授かる姿には、万の言葉を越えて民衆を感化する力がある。同じく黄金に彩られる金雷蜒王国ギィール神族を屈伏させるのもこの人だ、と言外に強く印象づける。

 その倣いから、聖蟲を持たない大臣達にも頭を低くして容赦ない詰問を受け批判をされるのも、元老員の務めだ。だが老人達の言葉は辛辣を極め、なかなかに堪えるのだ。

「貴方も、とんでもない役をおおせつかりましたね。」

 武徳王に従って、元老院からも20名程が戦場に出張している。責任者はハジパイ王太子 ハジパイ照ルドマイマン、40歳で先政主義派の現在の中心となる。

 だがもはや先政主義先戦主義の区別に意味はない。
 先政主義は戦争よりも政治外交を優先し平安の中で褐甲角王国の優勢を確保しようという立場であり、先戦主義は停滞した状況を変える為にこちらから攻撃すべきとの発想だ。既に戦争が起ってしまった現在ではどちらの枠組みも崩壊し、元老員はそれぞれ次の道を模索せねばならない。

 ハジパイ照ルドマイマンは新しく変化を始めた先政主義の旗頭だ。日々激変する時代の情勢に合わせ武力による解決も視野に入れて、王国の秩序を維持し支配体制を確保する。常識的かつ現実的な立場だが、原則を固持する守旧派も少なくない。

「王太子殿下、ここだけの話としてご了承ください。ヌケミンドル防衛線司令クルワンパル主席大監は、本気で陛下を囮といたします。」
「形だけ、というのは貴方の嘘ですか。」
「本気も本気、敵の突出に更なる便宜を図ります。私が今日陛下に言上せねばならないのも、その事でして。」

「これは本気で金翅幹王師団を組織せねばなりませんか。ジョグジョ薔薇の言うとおりに。」

 ハジパイ王太子は机の上の葉片の山に骨筆を垂らして、しばし考える。彼は父王から大本営を後ろに下げよと命じられているが、武徳王は頑に前線近くを希望する。どちらの言い分も正しいのだが、前線の総指揮官がそのような態度であれば自分も身体を張らねばなるまい。

「陛下はむしろクルワンパル主席大監のお考えに賛同なさるのですね。」
「あれほどの挑発をお許しになられるほどですから。」

 ヌケミンドルの最前線は開戦当初と大きく異なり、非常に不可思議な陣構えを為している。
 なにしろ急造の陣地防塁はおろかれっきとした要塞までも一部破壊して、敵の為の進入路を開いている。最大で5里(キロメートル)幅も無防備な空隙があり、さあどうぞ攻めて下さいと両手を開いて誘っていた。

 褐甲角王国の国是は「民衆の保護」である。正面をあまりに頑強に固め過ぎて金雷蜒軍を南北の守りの手薄な領域に振り向けてしまっては、至高の責務を果たせない。自らが囮となり敵を引き付け犠牲を出してでも民を守る。クルワンパルの作戦はカプタニアの中央軍制局当初からの方針にも沿い、武徳王の希望にも適う。
 だがあまりに徹底されると驚き拒絶する者も現われる。武徳王が拒まないのであれば代わって臣がと、ガーハルは何人もから公式非公式私的にと責められていた。

「しかし主席大監の考えには私も少し解せないところがあります。彼は急いでいますね。まるで今、陛下への総攻撃が無ければならないと考えているようです。」
「それは、・・・。」

 理由は有れどもガーハルは話せない。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの示唆に従い、赤甲梢が敵領内に侵入し神聖王を直撃するなど、口が裂けても言えるものではない。
 彼の心の動きを読み取るかに、王太子は瞳を動かし二つ年下の元老員を観察する。話題を換えた。

「今日言上するのは、いかなる作戦です。兵の指揮には陛下は直接関与されません。それでもお許しが必要なのですか。」
「ここ大本営から北に位置するベト隊を前線の防御に振り向ける、というだけです。本来ならば主席大監一人の裁量でまったく問題はありませんが、」

「ほお、ガーハル流の軍学にもそれは非常識ですか。」

 本来金翅幹ガーハル家は軍学の流派の一を束ねる。黒甲枝は軍人として衛視としてあるいは官僚として王国に仕える為に日夜勉学に勤しんでいるが、その教授となり支援者であるのが金翅幹家だ。金翅幹家と黒甲枝は閨閥によって密接に結びつき、昇進にも配置にも深く関与する。
 クルワンパル家も一応はガーハルの流れを汲むのだが、本来大して重要な家柄ではない。主席大監まで昇りつめたのはクルワンパル明キトキス個人の才能であり、ガーハル敏ガリファスハルも彼を深く尊敬し学問の師とも仰ぐ。

「ベト隊はクワアット兵200の小部隊に過ぎませんが、瓶の蓋です。城砦群に大きく構えた開口部からゲイル騎兵が突入し大本営を窺った後、駆抜けて毒地に脱出する邪魔になるのがこの隊です。」
「つまりこの隊がここに有る限りは、ギィール神族は決して攻め込まない。それを動かすと。」

「「将軍」には素直に説明せねばならないでしょうなあ。」

 再び頭を抱える姿を眺めつつ、王太子は自分の考えをまとめる。
 彼の立場であれば、ガーハルに付いて行って大本営の後退を進言すべきだ。が、クルワンパル主席大監は戦を早期に決着させる手段として、敵の大攻勢を誘引しようと言う。新先政主義派にとってそれは利となる話だ。無論武徳王が討たれては元も子も無いが、大本営を守る近衛兵団は最強の部隊であり百のゲイルの突撃にも揺らぐ事は無いだろう。

 もう一度ガーハルを見る。彼は先政主義派ではない。以前ならば先戦主義の穏健派であったのだが、今は戦争遂行を優先する派閥に属する形になる。大審判戦争はこの後断続的に10年以上続く可能性があるとして、特別戦時体制を確立すべきと主張する。確かにこの戦は帰趨がまったく読めないが、王太子には近視眼に過ぎると思われた。

 

 ふいに納屋の外が騒がしくなったのに気付き、ガーハルは席を立ち窓を覗いた。カビ臭い納屋を避け陽の光の下で、他の元老員がそれぞれの仕事や打ち合わせをしていたが、

「変事が起ったようです。」
 とガーハルが言うのに誘われて、王太子も席を立つ。

「何事があった?」

 外に出て尋ねるガーハルに、元老員シュトラマス詠バメッタが応じる。彼はガーハルに近い派閥に属する。後ろに続く王太子を見て、礼をした。

「ガーハル、お前が連れている金雷蜒王国の女が人を殺めたぞ。」
「なに?! 斬られたのは誰だ?」
「手伝いに来ていた近所の農婦だ。いきなりの抜き討ちだったので、止めようが無かったらしい。」

「案内してくれ。」

 ューマツォ弦レッツオ、青晶蜥王国建軍準備委員会から派遣されている観戦武官、は元はギィール神族の生まれで霊薬エリクソーを服用して育った為に2メートル近い身長を持つ。それでいて奇形的な成長は無く極めて優美にして繊細な美を誇る、観葉植物に似た感触を与える女性(?)だ。
 身に纏うのは全身白銀の鎧。金雷蜒王国では聖蟲を持たない者には黄金の装飾が禁じられているので、生まれに従って銀を用いる。鎧も完全に女性用に成形され、無骨で実用本意の甲冑が並ぶ武徳王の近辺で一人だけが浮いて見える。彼女に比べると金翅幹家の用いる品でさえ野暮ったく見えるのは、持って生まれた気品によるのか。

 もちろんこんな出自の女性が褐甲角王国の中枢部を歩いていれば、警戒されるに決まっている。誰もが間諜かと疑い接して詰問して取り調べたが、結局皆恥ずかしい思いをした。

 彼女はあまりにも多くを知っていた。問われもしないのに褐甲角全軍、展開する全域の状況について詳しく語る。これだけの情報は中央軍制局ですら把握出来ていない。カプタニアの現状から大本営の内幕まで女性的な丹念さで弁えており、元老員が自軍の状況を彼女に尋ねる倒錯した事態まで出来する。

 協定上彼女はヌケミンドル督戦使であるガーハルから離れては観戦できない事になっていた。そのまま前線に留まれば部屋に閉じ込められるのでガーハルの大本営詣でに付いて来たが、たちまちに元老員の間で人気者となりそれぞれが構える天幕に招待されてヤムナム茶などを御馳走になっていた。

「一体なにがあったのだ?」
「あの御仁はよく分からない所が多いので、しかとは。だが無意味に人を殺すなどはなさらぬと、」
「当たり前だ!」

 現場に到着すると、近衛兵団のクワアット兵が円陣を作って弦レッツオと死体を囲んで居た。周囲には更に100名ばかりの兵が警戒と調査を行っている。元老員ハスカイ家の天幕の傍だ。円陣の指揮官の小剣令に身分を証し、ガーハルは中に入る。近衛兵団の黒甲枝と数名の黄金の甲冑姿がある。

「弦レッツオ!」
「ガリファスハルさま!」

 草の上に胡坐をかいて座らされているが縄目も受けずに元気そうだ。いつもと変らぬ穏やかなやわらかい笑顔を向けて来る。
 ガーハルは彼女の傍に跪いて、小声で尋ねる。

「何があった?」
「間諜です。」

 首を後ろに回して死体を見る。まったくもってただの田舎の農婦、40代の中年女性に見える。陣中とはいえ老人らも居る為に様々に女手が必要で、地元住民に加勢を頼んでいた一人であろう。

「何故この者と分かった?」
「一目瞭然です」
「ちゃんと説明しろ。」

 花がほころぶ緊張感の無い笑みに、ガーハルは渋い面を向けて先を促す。まったくこの女人は困った癖を持つ。

「私がこちらに来て気付いた、奴隷と王国平民との違いがございます。私は神族の家に生まれた為に、奴隷がいかに主を見るか熟知しております。」
「では褐甲角王国の者と金雷蜒王国の者とは、高位の者を見る眼が違うのか。」
「ゲジゲジの聖蟲に対して、人は顔を背けます。光る赤い眼に己の全てを見透かされると怖れ、聖蟲に見付からないように隠れます。対して褐甲角王国では、人は神兵の眼に対して隠れます。」
「恐ろしく微妙だな。」
「でも間違いありません。間違えようがありませんよ。」

 顔を上げるガーハルに、警備の黒甲枝が話し掛ける。彼は重甲冑ではなく、嵩張らない丸甲冑の陸戦仕様を用いている。行宮内部の護りに就く神兵は皆この甲冑だ。

「ガーハル様、この方の身元引受人は貴方だとうかがっておりますが、よろしいでしょうか。」
「うむ、協定上はそうなる。して斬られた婦人の身元は。」

「それが、妙な話ですが他の農婦の手伝いに聞いてみると、誰もがばらばらの名前を答えるのです。5年前に街に働きに出たとか、ミンドレアに嫁いだ出戻りとか。」
「親しい者は居なかったのか?」
「誰もが誰かの知り合いだと思いこんでいたらしく、正確には誰も知りません。今登録された住所と斡旋人を照会していますが、おそらくは。」

「やはり間諜の疑いがあるか。」
「そのように思われます。」

 再び顔を弦レッツオに近づけて小声で尋ねる。

「間諜は珍しくない、と言っていたではないか。」
「事態は急を告げておりますので、今間諜が居るのはまずいのです。」
「褐甲角王国にとっての不利益、という事か。」

「クルワンパル様の御策を早急に御認め頂いてください。今日明日にも事態の急変があります。」
「ううむうう。」

 ガーハルは立ち上がり、黒甲枝に下働きの民間人はすべて陣中から追い払うべきだと忠告して、武徳王の呼び出しに応じて幕舎に向かう。弦レッツオの身柄は友人のシュトラマスに一時預けた。どうせ彼女は逃げも隠れもしない。

 

 行宮はちゃんとした屋敷だが、謁見に使われるのは中庭に設けられた天幕の下だ。甲冑姿の武者が出入りし易く警備の兵が自由に動く為に、礼典でそう定められている。ここでは元老員といえども土の上に跪かねばならない。

 黄金の鎧の肩を伏せて待つガーハルは、老人達が母屋から出て並ぶ音を聞く。武徳王自身は例の如くに後ろの帳に隠れて話を聞くだけだろう。それが作法なのだが、決断を要する案件であるから直接に言上したいと、ガーハルは焦る。

 前置きも無く「将軍」が話し出した。居丈高なのは演技だから怒るに値しないが、血管が切れてそのまま逝ってしまわないかと心配になる。

「督戦使ガーハル敏ガリファスハル殿、なにやら不始末が起きたようだな。」

「お騒がせして申し訳ございません。間諜が出たのを見咎め、青晶蜥神救世主よりの使者が慌てて斬ってしまいました。無論これは越権行為でありますので、厳重な抗議をいたします。」

「うむ。して今日は、また毎度のクルワンパル主席兵師大監の作戦指導についての小言じゃ。」
「左様。陛下にあらせられては御自身を囮になさる作戦をいたくお気に召して居られるが、我らも近衛も受入れ難い。」
「そなたの口からクルワンパルに考え直せと説得出来ぬか。」

 なにしろ老人の言葉だからふにゃふにゃして聞き取りづらい。全員歯が無いから、というよりも歯が無いにも関らず元気一杯だから勢いが強くてますます妙な音になる。総入れ歯が発明されるのは数ヶ月後、弥生ちゃんが歯科医療に乗り出してからだ。

「恐れながら申し上げます。ここヌケミンドルが鉄壁の守りを固めると、敵軍は主力を南北の手薄な領域に振り分けます。国境深くに攻め入る寇掠軍は民衆を直接に害するものであり、王国の国是に照らしてまったく許しがたく、」

「あーあーそれは聞き飽きた。こちらから討って出るわけにはいかぬか。」
「陛下を囮にするのは、我らのみならず兵士にも動揺と不安を与える。またクルワンパルの策で設けた無防備地帯とやらには、敵軍は少しも踏み込まぬではないか。」
「ガーハル殿、戦は守ってばかりでは勝てぬであろう。敵の力を削ぐにはこちらからも討って出る算段が必要だ。軍学の泰斗たるそなたに説く話ではないが。」

「攻めよとの御指図には元老院も賛同いたしますが、実際の現場においてそれは相当の困難となります。おそらくは5万の兵が必要かと。」

「5万とな?!、ヌケミンドルには2万しか居らぬであろう。」
「そもそも正規のクワアット兵は4万余しか居らぬのに、なんじゃその見積もりは。」

「ヌケミンドルの泥地の広さを制するにはゲイルのような高速の乗り物を用意するか、兵の数を増すしかありません。ですが、動員出来る人数は人口により自ずと定まります。」

「無策が策か。」

「不本意ながら、それも策かと。故にクルワンパル主席大監は苦心しており、陛下の御身の安全までも損なって敵を誘引しております。」

「穿攻隊はなにをしている。何の為に200もの神兵を毒地に投じておるのじゃ、まるで効果が上がらぬではないか。」
「いや穿攻隊の指揮権はクルワンパルには無いから、それは筋違い、・・・なんじゃ騒がしいの。」

 左右の侍従や警備が動いて、喧騒の詳細を確かめる。が、それより早くに近衛兵団長スタマカッ兆ガエンドが天幕に踏み込んできた。

「御無礼いたします。先程ガンガランガ紋章旗団団長アスマサール幣ガンゾヮールより驚くべき報告が飛び込んで参りました。陛下、なにとぞ御人払いを。」

 元老員たるガーハルは元より大臣達をも退けよという近衛兵団長の言葉に、ガーハルは弦レッツオの「急を告げる」の言葉を思い返した。彼女はこの報せが今日着く事を知っていたに違いない。そして紋章旗団から来ると言う事は。
 ガーハルは意を決して声を大きく上げて、武徳王に伝える。計画の詳細はすでに前日に書面と地図で示しているから、後は承認を受けるだけだ。

「陛下に申し上げます。唯今参りました報告の事態への対処を、クルワンパル主席大監は既に検討済みにございます。此度の変更もまさにこれが為にございます。」

 帳に対して真っ直ぐに視線を向けるガーハルは、しばしの静寂の中にあった。侍従が一人将軍の傍に寄り耳元で、耳も遠くなっているからかなり大きな声で告げる。将軍は大きく首肯いて、ガーハルに申し渡す。

「督戦使ガーハル敏ガリファスハル殿、陛下はクルワンパル主席大監の作戦計画を是とされた。」

「ありがたく存じます。」

 

 

  ガーハルと弦レッツオはその日の夜遅くに最前線クルワンパルの陣屋に帰って来た。武徳王への謁見を終えた後、紋章旗団の報告で大騒動になりその処理に付き合わされたのと、弦レッツオの処分で散々警備と揉めたのとで、ガーハルはさすがにくたくたになっている。元老員だとはいえ道中全て徒歩なのだから大変だ。

 篝火の下、クルワンパル明キトキス主席大監も、自分のせいでこのような目に遭わせてしまったと低頭する。

「まことに申し訳ありません。」
「詫びるに如かず。それよりも遂に始まったぞ、「赤甲梢謀叛!」だそうだ。」
「謀叛ですか。」

 中央軍制局の作戦計画から外れて独自の判断で行動するのだから、それは謀叛と呼ばれても仕方がない。紋章旗団団長から送られた報告書の内容を巡って大本営は蜂の巣を突いた騒ぎとなり、無責任な言葉も飛び交った。
 クルワンパルはしばし考え、参謀達を呼ぶ。ガーハルに、赤甲梢の行動の真意を彼らに伝えて良いか許可を取る。

「今更問題も無いだろう。二日の内には誰もが知る。」
「では。」

 司令室に入って来た参謀達にクルワンパルは、赤甲梢が独自の判断で兵を起こし単独で東金雷蜒王国に攻め入ったと伝える。 
 彼らは説明されて二度、さらに弥生ちゃんが一枚噛んでいると聞かされて三度驚いた。

「紋章旗団は赤甲梢と10年近くも合同で訓練を行い、ほとんど一体となっていたと聞いております。もしかすると、阻止を名目として合流するのでは?」
「神兵装甲歩兵隊3箇75名、兎竜隊6旗団70名、他に加えて、紋章旗団50名か。」
「確かに類を見ない戦闘力です。しかしそれでも補給を考慮すれば、帰り道の無い自殺的作戦と言えるでしょう。」
「いくら東金雷蜒領内が手薄だとはいえ、ゲイル騎兵の100はすぐにでも集結します。無謀過ぎます。」
「そもそもギジシップ島へはどうやって渡るのです?」

 クルワンパルは彼らの言葉に一々首肯くものの、指揮官たるキスァブル・メグリアル焔アウンサ王女の性格を思い起こして、こう語る。

「青晶蜥神救世主の御示唆があっての作戦だ。メグリアル妃は髪一筋ほどの隘路を見事渡って成功すると考える。考慮すべきは、その影響がこちらの防衛線にいかなる形で押し寄せるかだ。」

「やはり、本土防衛の為に金雷蜒軍の過半が帰還するのではありませんか?」
「敵方からしてみればこの突出は単独のものではなく、褐甲角軍全体が攻勢に出たと考えるでしょう。赤甲梢追討の為というよりも、後続を阻止するべくギジジットからギジェ点に集結すると思われます。」

「いや。後続が無い事はすぐに敵も察知する。ギジジット近辺の兵力を国境封鎖に用いれば十分だ。むしろ面子の問題を考えるだろう。」

 参謀の一人がいきなりクルワンパルの言わんとするを察し、青ざめて立つ。

「赤甲梢が神聖王を襲うのであれば、ギィール神族は武徳王陛下を狙う、という事も十分にありえ、ます。」

「大規模な攻勢が明日、遅くとも明後日には発生する。こちらがワザと開いた進撃路に尋常でない戦力が殺到するだろう。
 計画表4之束を取ってくれ。この計画に従って迎撃陣を再編する。直ちに作業に取り掛かれ。」

「しかし! おそらくは最大規模のゲイルの隊列が突入して来ると思われます。開口した突入路に防塁を再建した方が、」
「今なら間に合います!」

「ならぬ。防塁の再建は攻撃第二陣に対して行い、第一陣はそのまま素通りさせる。面子の問題と言っただろう、我らにも敵にも”勝利”が必要なのだ。」

 

 『勝利』、この語の重みをこの時期に聖蟲を持った者は皆噛み締めていた。

 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの眩いばかりの希望の光の前では、中途半端な勝利では霞んでしまう。大審判戦争では救世主に対しても勝利せねばならず、誰の目にも明らかな完全なる成功と成果が必要だった。
 そのような大それたものを望めば、軍は無謀な冒険的行動に突き進み、壊滅的な失敗を引き起こし多数の人命を損ない、国が瓦解する危機すら招来する。だがそれでも、同じ十二神の使徒たるを任ずる神族神兵は避けて通るを選べない。

 クルワンパルの開いた誘いの進入路開口部は幅が5里(キロ)と相当に広く、防衛の責務を負う者は皆薄氷を踏む思いで日々を送っている。だが神族が踏み込まないのは、このルートが非常な困難を備えていると最初から分かっていたからだ。

 侵入してすぐ大きく立ち塞がる崖があり、北へ向かって巨大な地割れを道として左右の敵から射撃を受けつつ突き進まねばならない。最短1キロ幅にまで狭まる所で丘上にある武徳王の大本営を望むが、そこに控えるのは褐甲角軍最強を誇る王都の近衛兵団だ。1500の神兵から選び抜かれた精鋭100がゲイル騎兵の突撃を今や遅しと待ち受ける。さらにはヌケミンドル内国兵団からも50の神兵が、背後からはヌケミンドル防衛線の追撃部隊が襲い来る。
 ただでさえ無謀なのに、このルートには脱出路が無い。攻撃に成功したとしても、毒地に抜ける道を塞ぐ部隊が幾つも点在する。これらをすべて退け、城砦の無い北部に抜けた先には、ミンドレアの穿攻隊が有り、場合によっては兎竜掃討隊までもが毒地内でも追撃を掛ける。

 だが脱出路の一つを塞ぐ形で配置されていた部隊が一つ、前線に投入されたと聞いて地図を改めた神族は、速度を落とさずに駆抜けるルートが開削されている事に気付く。北に抜けるよりもはるかに短い距離で毒地に脱するので、これまで放棄されてきた大規模な攻撃計画が甦った。

「これも罠だといいな。」
「いや、やはりクルワンパルの罠だろう。この状況であっても、成功の確率は2割も無い。」
「突入隊の神族は質を選った方がよい。誰でもが強いわけではない、という現実を我らも正面から見据えるのだ。」

 ゲイルも神族も最強の者のみが選ばれて120騎の攻撃隊が組織される。これほどの数を一度の会戦に投入する作戦は古今に例を見ないが、加えて第二陣にも100を用意した。この部隊は突入隊に混乱するヌケミンドル防衛線に肉薄するを目的とし、舟をソリとして用い大量の兵や弩車を輸送する。突入隊が失敗しても元は取れるように考えるのが、いかにもギィール神族だ。

 対して、ヌケミンドル防衛線ではクルワンパルの指揮の下、着実に迎撃準備が進められた。
 クルワンパルの計画では、大量のゲイル騎兵を防衛線内部に取り込むと同時に後続を遮断し、経路の左右から射撃にて戦力を逓減させ、大本営に到着した所で地形の有利さを用いて殲滅するとなっている。正面に立ち塞がりゲイルの勢いを神兵が引き受ける愚は避け、あくまでも距離を保ったまま攻撃すると通達したが、近衛兵団の指揮権は彼には無い。最強を誇る近衛兵団は伝統的に格闘戦重視である為に兵力の損耗が懸念された。

 

 赤甲梢が中央軍制局の指令から離脱した報が届いたのが夏旬月十七日、東金雷蜒王国領に突入の報が届いたのは十九日、ゲイル騎兵の突入はその夕刻、西日に影が長く伸びる時分に開始された。

 クワアット兵はただの人間であるから、夜間の射撃戦ではほとんど命中を望めない。神兵や神族には夜闇は関係無いから夜襲は当然見込まれており、進撃の経路上にはあらかじめ籠に収められた篝火が仕掛けられており、射撃の目安とされている。
 最も期待されるのは、神兵自らが弦を引き投槍を放つ大弓狙撃隊だ。5名ずつの10箇隊が進行方向の左側に列を為して、ゲイルの殺到を待ち受ける。彼らは壁となり、敵をなだらかに北へ向かう順路に誘導するのが使命で白兵戦闘は厳禁されているが、誰も乱戦を否定しない。大剣のみならず斧戈をそれぞれに持ち込み、ゲイルの肢を斬り払うを狙っている。

「きた!」

 遠く泥の大地の彼方から、地響きを上げて迫り来る雲の影がある。城砦の上から望むクワアット兵もその光景にただ青ざめ立ちすくむばかりだ。
 第一波120騎のゲイル騎兵は5騎ずつ矢の隊列を為して疾走する。延々と続く巨蟲の列に、どこを狙えば倒せるのか検討もつかない。

「背だ、背をよく見ろ!」
「ああっ! あれではダメだ。」

 ギィール神族がまったくの無策で突入するはずが無い。ゲイルの背の騎櫓には通常と異なり屋根が被せてある。タコ樹脂の盾を何枚も連ねて、普通は露出するゲイルの頭部も覆っていた。正面からの攻撃でゲイルが傷付き肢が鈍るのを防ぐ為だ。

 物見の報告にもクルワンパルは動じない。第一波を予定通りに通過させ、後方を遮断し泥の袋を重ねての急造防塁を設置させる。第一波の分だけ粉砕しても、王国は十分な勝利を謳う事が出来る。敵の継戦能力も大幅に削がれるだろう。第二波はここで徹底的に食い止める。

 経路上の連絡網に襲来の報が伝わり薄暮の闇に次々に烽火が灯っていくのを遠く眺めて、クルワンパルは近衛兵団の健闘を祈る。

 

 ゲイル騎兵の突撃隊が最初に遭遇したのが大弓狙撃隊だ。神兵の怪力をもって常人には不可能な強さの弦を引き、投槍を遠く200メートルも投射してゲイル本体に重傷を負わせる。この兵科は褐甲角王国にしか無く、ギィール神族も十分に注意し対策も練っている。騎櫓の屋根を開けて神族が金属の槍に火を点ける。

 ロケット推進で空を飛ぶ飛噴槍も、大審判戦争においていきなり進化した。それぞれの神族が己の工芸の腕と玄妙なる工夫を凝らして誇らしげに毒地に持ち込んだが、実戦での結果を受け改良し互いの工夫を流用し合って、驚くべき兵器へと変貌を遂げた。

 飛距離を増す事、貫通力を高める事、殺傷能力を拡大する事、狙いを正確にする事。
 この4点にそれぞれ最大の成果を上げた工夫が取り込まれ、戦場においても改良を施されて、今回の襲撃において使用される全てが最新型になっていた。
 なによりも恐ろしいのが、誘導装置の搭載だ。褐甲角(クワアット)神の聖蟲は特徴として常に超音波を発している。単に翅を震わすだけでなく、戴く人に怪力と頑強さを与える不可視の精気自体が音を発していた。
 これに共振する結晶が存在し、わずかに発生するねじれを感知して方向を変える機構が考案され、神兵の胸ぐらに直接突き刺さる精度を獲得した。

 大弓狙撃隊はこの発明を知らない。だから、距離が500メートルも離れて敵が飛噴槍を使う火を見ても動じない、ただ己の射程距離内に敵が近付くのを待つだけだ。

「!」

 後方で狙点指示をしていた隊長が、急に兆した胸騒ぎに素直に反応し斧槍を取った。天高く未だ赤の残る空から落ちる槍を絶妙のタイミングで弾き返す。

「なんと正確な投擲だ!」
「また来るぞ。」

 二本三本とまっすぐ神兵を襲う槍に、彼らもようやく気が付いた。これは尋常の飛噴槍ではなく、明らかに自分達を狙う魔法の槍だと。
 だが怯まない。ゲイルには至近からの大弓の攻撃が確実に効く事は分かっている。防御を味方に任せてじっくりと狙いを定める。

 200メートルはゲイルにとっては至近である。間近に臨む暗がりから50の槍が一斉に空を飛び、疾走するゲイルの群れを貫いた。
 神兵は3メートルもある鋼鉄貼りの弓を軽々と振り回し、人の頭を刎ねるほどに勁い弦をいとも容易く引く。第二射は5秒後に可能となった。攻守所を変え神族は騎櫓の盾に身を隠し、ひたすらにゲイルを走らせる。そして順路どおりにここで右に向きを換える。

 腹を曝け出す巨蟲に投槍は容赦なく襲いかかり、灰色の甲羅を抉り込む。だが効果は不明だ。たとえ直撃を食らったとしてもゲイルは数刻は生きる。直接斬撃で体節を分断しない限り戦闘力を剥ぎ取るのは難しい。
 ほんの1分余りの時間に大弓狙撃隊は千本近い槍を撃った。ゲイルの群れは脱落する者も出さす、泥の渓谷を駆抜ける。

 神兵は篝火を手に掲げ、崖の上の味方に合図する。彼らの出番はここまでだ、邑兵の補助部隊に外れた投槍の回収を任せて、次の戦場に移る。今度は最前線で第二波の襲来を防がねばならない。

 

 ゲイル突撃隊は大きな泥の壁を左右に見つつ疾走を続け、段々と狭まる地割れを行く。この道はかっては急な流れの河だったが、神聖金雷蜒王国時代の治水事業で流れが変り干上がってしまった名残である。
 崖の高さは100メートル。クワアット兵の一団が姿を見せ、率いる神兵が火矢を射掛ける。
 鉄弓から放たれた火矢は先頭を行くゲイルの騎櫓に当たり、タコ樹脂の盾を破って刺さり、炎を上げる。クワアット兵達はこれを目当てに矢を放つ。

「射よ、射よ!」

 だがゲイルは早い。射撃の機会を数瞬逃せば、もう射程の外に出ている。事前の予想に反して騎櫓に屋根があるので、矢を無闇とばら撒いても効果は薄かった。

 投石器から石を網に包んだものが投げ落とされた。これは石の打撃のみならず、網が絡みつきゲイルの自由を奪う効果もある。また炎を帯びた油瓶も飛んで来た。ゲイルもやはり生き物であるから、本能で火を避ける。避けた先には強弩や弩車が照準を合わせているという寸法だ。
 ゲイルの背に近い高さで水平発射される大矢や投槍が、直接背の神族を襲う。騎櫓の盾も弩車の攻撃には耐えられず狗番の一人が弾き落とされ、後続のゲイルに踏み潰された。

 この谷は人数で抑えるつもりなので、黒甲枝の神兵は少ない。ゲイルは打撃は受けつつも速度を落とさず突き進む。

 柵がある。間諜の情報には無いものだが、ゲイルには特には意味が無い。無造作に乗り越えると、その先は飛び越えられない幅の空堀となっており、逆さに尖った太い杭が何本も刺している。上から落ちる勢いも加わったゲイルは杭に貫かれ傷付きながらもはね飛ばし、なおも進む。背後から続くゲイルが先頭を代り、灯矢を横に打って警告を告げる。

 曲り角では丸太が降って来る。長さが10メートルの丸太が当たれば、さすがにゲイルも体節が折れる。飛び降りた神族が槍を巧みに使い、狗番共々味方のゲイルの背に移る。騎櫓に積んでいた武器が引火して崩折れたゲイルはたちまち炎に包まれ、13対の肢を苦悶に激しくばたつかせる。崖から見下ろすクワアット兵はこの世のものならぬ惨状に精神に深く染み込む恐怖を覚え、皆押し黙る。

 

 10里足らずの道中の終点が、武徳王の大本営を守る近衛兵団との闘争だ。ここにも空堀と柵が幾重にも設けられ、まっすぐには進めない。うねりくねって速度を落とし、隊列がばらばらに崩れたところで神兵の突撃を受ける。

 近衛兵団長スタマカッ兆ガエンド兵師大監は43歳。黒甲枝の三大主要家系に継ぐ上位の出身で、武徳王の信頼も篤い。剣技の腕も王国で一二を争い、かってはその名を高く謳われた。そろそろ聖蟲を息子に譲り渡す歳ではあるが、若い神兵を足元にも寄せ付けぬ強さに引退の二文字を忘れている。

「明るいな。赤いな。」

 陣地を照らす無数の篝火に、突入するゲイルの7つの副眼が炎に揺れて煌めく。まるで地上に星空が墜ちたかに見える光景に、彼は内より昂ぶり出る気魄を抑えられない。

「よく引き付けて急所を狙え。一体のゲイルに定められた人数以上取りつくでないぞ。敵は幾らも居る、慌てるな。」

 鉄弓による射撃はヌケミンドル内国兵団の神兵第一挺身隊に任せ、近衛兵団はあくまでも白兵戦闘でゲイルを撃破する。前線のクルワンパル主席大監は距離を保って損害を少なく戦えと言うが、それは無理だ。これほどの勢いを持つ巨蟲に、鉄箭でさえも阻止効果を望めない。

「報告! 敵ゲイルを渓谷内で5体撃破との事。」
「うむ。通路上で打撃を与える策はそれなりに機能したようだな。」

「接触します!」

 堀を乗り越え柵を押し倒し、なおも突進するゲイルに対して第一番に打ち掛かったのは、無謀を知られる神兵キンカラン小剣令か。
 スタマカッはかって稽古をつけた、二度も三度も十度も地に叩き伏せられそれでも這い上がる若き神兵の姿を思い起こしている。焦るな、よく肢の捌きを見ろ、巻き込まれるな、斧戈を振り間違えるな。

「よし!」

 ゲイルの肢を一本斬り落とした。そこから先はよく見えない。次のゲイルが突入し神兵達は次々に駆け下りる。

「弓隊、後続のゲイルに対し射撃を開始します。」
「うむ。」

 クワアット兵の弓隊が並んで斉射を開始する。通常であれば騎櫓上の神族に対して十分に効果があるのだが、屋根があればなかなか足留めにならない。
 逆に怒ったゲイルが崖を駆け登り、弓隊に襲いかかる。長槍隊が数十百もの煌めく穂先を繰り出して半身を乗り出した蟲を追い落とす。

「普通の弓は効かない。下げて投槍に交代しろ。」
「は。」
「弩車が意外と効力が無いな、当たってないのか?」
「そのようです。ゲイルが射線を避けているように思われます。」
「そのような事も出来るのか、ギィール神族は。」

 第一挺身隊の鉄弓は、敵が後退する時に備えて鉄箭を温存せねばならない。定められた脱出路に傷付いたゲイルを速やかに追い出すのが、クルワンパルの囮作戦の要点となっている。手負いのゲイルの進路を防げば、ここを最期と見極めて必死の力を振り絞りデタラメな攻撃を行って神兵を道連れにするだろう。
 死に落ちる巨蟲に付き合っていたら命が幾つ有っても足りない。逃げる敵は追わずに放してやるのが犠牲を少なくする策だ。
 鉄箭による攻撃はそのきっかけを与えるもので、進撃が停止し攻めあぐねる直後に集中攻撃を行い、神族に撤退を決意させる段取りになっている。

 だが後続のゲイルは未だ健在だ。先頭を走っていたモノにはすべて近衛の神兵が取りついているが、100を越えるゲイルはやはり多過ぎる。

「兵団長、かなり押されています。」
「陛下の御座を一度下げた方が良いかもしれんな。長槍隊を本陣の前に壁として並べ、丘を駆け上がるゲイルを追い落とせ。」
「はっ。」

「私は陛下に御願いして、しばし御下がりいただく。」

 

 武徳王の本陣天幕は戦闘中につき野外に移っている。近衛兵団から特に神兵戦技研究団20名を選んで壁を作っており、その後ろには禁衛隊と呼ばれる100名余りのクワアット兵精鋭が構える。
 他の隊と異なり禁衛隊は首から革袋を掛けている。毒煙筒に対抗する防毒面が入っているのだが、他の隊のクワアット兵がこれの装備をしていなかった事にスタマカッは気が付いた。国境内部での戦闘でギィール神族が毒煙筒を使う事は無いのだが、今回は特別な戦争だ。

「ぬかったか? 神兵が支えている間は大丈夫だろうが。」

 禁衛隊の更に後ろ、天幕の前に黄金の鎧に身を包んだ元老員も武装して控えている。これは元老員だけで構成される非正規な部隊「金翅幹王師団」で、形式上武徳王の陣にそれぞれ個人的に参加した事になる。元老員が実戦に参加した例は記録を100年以上遡らねば見付からない。

 彼らの武装はギィール神族が着用するネヴェルと呼ばれる甲冑の同等品と、長弓・槍・剣の極めて古典的なもので、クワアット兵と大差無い。無論聖蟲を持つ者が使えば隔絶した成果を上げるが、重甲冑翼甲冑と同じに真っ正面からゲイルに立ち向かうのはさすがに無理だ。もっとも建国より400年くらいまではこの装備で戦っていたのだから、まったくの無謀とも言い切れない。
 更に、元老員個人は誰も武術に怠り無く、恵まれた経済環境から優れた武術教師を雇って中々の腕前となっているのが普通だ。見た目は古式めいているが役に立ってくれるとありがたい、とスタマカッは願う。ほんとうに元老員にまでゲイルが回りかねない状況だった。

 天幕に入ると、武徳王も黒褐色の鎧に身を包み静かに椅子に端座している。
 武徳王の鎧は神兵の力を最大限に活かす重甲冑の機構を一部取り入れた品で、後の丸甲冑翼甲冑といった軽量鎧の雛形となっている。飴に似た光沢を放つ装甲はすでに齢300年を重ね、歴代の武徳王が身に着けた王国最強の旗印でもある。

 大臣達も軽装とはいえ革鎧を纏い、同様に静かに報告を待っている。一度戦闘が始まれば王家から黒甲枝に指示は無い。それが黒甲枝の奮闘に応える信頼の証しだ。

 近衛兵団長は武徳王の前に跪き、述べる。

「陛下、戦況は我が方有利ではあるものの敵の勢い凄まじく、この天幕までも冒す怖れがあります。なにとぞ半里ほどの後退をお願いいたします。」
「ガエンド(スタマカッ兆ガエンド)、近衛では支えきらぬか。」
「支えてみせます。ですが兵の損耗を最小限に抑えるには、後方に或る程度の余裕が必要となりました。不本意ではありますが、なにとぞ。」
「善き様に計らえ。」
「はっ!」

 禁衛隊の剣令に命じて天幕の撤収を進めさせるが、最中にうわあと沸き上がる声がする。何事か、後方を振り返り金翅幹王師団を率いているハジパイ王太子 照ルドマイマンに目で尋ねる。彼は初めての戦場でかなり緊張があるが、落ち着いた口調で話す。

「遠目では、クワアット兵の長槍隊の中に毒煙筒を投げ込まれたと見える。」
「やはりか、弓隊を収めたのは失敗だったか。」

 弓兵がひっきりなしに矢を射掛けていれば、ゲイルの背の神族も毒煙筒を用意できなかっただろう。屋根の装甲に阻まれて効果が無いと、弓を下げたツケが回って来た事になる。
 だが大崩れはしていない。長槍隊は駆け登るゲイルに果敢に挑み、逆さに追い落とす。

 スタマカッは背後に従う近衛兵団の剣令に命ずる。

「伝令を。第一挺身隊に信号を送り、鉄箭での掃射を開始せよ。」
「はっ。」

 すでに敵の全数が決戦場に到着し、肢を止め乱戦に移っている。鉄箭の集中射撃が開始されればゲイルの損傷が大きくなり、神族も撤退を余儀なくされるだろう。クルワンパル主席大監の策のおかげで、ギィール神族は脱出路が確保されている事をちゃんと知る。この場に留まっての死に物狂いの反撃は無いと思われる。

「兵団長!!」
「むう、来るバカもいるか!?」

 3体のゲイル騎兵が神兵戦技研究団の障壁を突破して禁衛隊の中に飛び込んだ。いずれのゲイルも満身創痍で撤退すら不可能と見て、自殺的攻撃を敢行したのだ。
 死をも忘れたゲイルの暴走は、神兵が束になっても止められない。背のギィール神族の制御すら受け付けないのだ。全ての肢を叩き斬り、体節をばらばらに切り離す以外突進を阻止する方法は無い。

 禁衛隊はそれでも奮闘し、1体のゲイルを横倒しにする。タコ樹脂の盾の中から現われる丈の高い神族に数十の槍が集中し、たちまちに引き裂いた。
 だが残る2体は止められない。遂に金翅幹王師団に接触する。スタマカッも行き掛かり上この場で武徳王の盾にならねばならない。

 既に十分傷付いたゲイルに、矢の攻撃は意味が無い。元老員達は槍を振るって立ち向かう。狙うのは肢のつけ根、赤く光る七つの眼、百列の牙が円形に並ぶ口腔中といった弱点だ。肢を切り離すのはゲイルに対応した甲冑を持たない彼らには無理だ。重甲冑翼甲冑はゲイルに弾き飛ばされても神兵を守る衝撃吸収機構が設計の段階から装備されている。今この場で着用するのは、スタマカッ兆ガエンド一人のみ。

 元老員が注意を惹いている隙に、斧戈を振りかざしてスタマカッはゲイルの顎の下に滑り込む。普通ならば到底無理な位置取りだが、既に背の神族は制御を行っていない。自然の蟲としてのゲイルの知能はまさに虫のごとくに愚かであり、本能と反射でのみ動いている。
 スタマカッは斧戈をまっすぐ水平に引き寄せると、ぐるっと下から振り上げて最前列の前肢のつけ根、本来ならば絶対に攻撃される事の無い箇所に割り入れた。

 くぱわあつっ、と薄い甲羅が避ける音がして、右第一肢がつけ根からもぎ取られる。続いて第二、第三肢にも斬り込んでゲイルを転倒に追い込んだ。倒れる勢いで無事の左の肢が振り回されるのを背を屈めて避けたスタマカッは、弾ける勢いで前に出ると、曝け出されたゲイルの腹、第一体節の境目に斧戈を深々と打ち込む。
 激痛に跳ね上がるゲイルの勢いに押されて斧戈が刺さったままに手を放したが、既に次の攻撃は必要無かった。
 痙攣しのたうち回り、背中から落ち騎櫓を潰し、残る肢全てを天に突き上げ掻き毟る姿に、死の影は速やかに迫っている。振り回される尻尾に元老員の一人が巻き込まれたが、それでもすでに脅威とは呼べない。

「もう一体は!」

 3体目のゲイルは健在だ。元老員の槍はなかなか急所に入らない。いくら聖蟲を戴いていても、15メートルを越える巨大な蟲の竜巻に撥ね飛ばされれば、全身骨折に挫傷坐滅で即死を免れない。黒甲枝がいかに重甲冑に守られているか、改めて認識させられる。

 スタマカッは斧戈を探したが、先程打ち込んだものはゲイルの断末魔のあがきに柄が折れてしまった。武器をと探すに、元老員が自分の槍を差し出す。

「そなたの方が上手く使える!」
「かたじけない。」

 それはキマ家の元老員だ。武徳王への信奉が篤く、王国の秩序をなによりも重視する先政主義派の人物である。実際にゲイルを前にしては効率を優先し、自分よりも強いスタマカッに武徳王の安全を託す。

 黄金の柄に銀色の穂先が輝く鉾槍を手に、スタマカッはゲイルの前に飛び出した。
 実は既に戦技研究団の神兵が追いついているのが目に入ったが、彼もまた武を以って立つ強者だ。手柄というよりも、日頃の鍛錬の精華を存分に発揮する場を他者に譲る気は毛頭無い。

 鉾槍は通常の槍よりも穂先が随分と大きい武器だが、斧戈ほどにはゲイルを攻めるのに適していない。どこに突き入れるか、ほんの僅か躊躇する。
 瞬間、ゲイルが跳ねた。

 長大なゲイルの疾走は黒甲枝なら慣れているが、跳ねる姿はなかなか見ない。そもそもこんな重い生き物が空高く跳ぶのが、常識を外れている。だが実際ゲイルはかなり大きく跳ぶ。高さでは10メートル距離ならば30メートル、もちろん走行中の速度が乗った状態でのみ可能だ。背に乗るギィール神族が十分に地形を読みタイミングを間違えなければ、生物としての限界を越えて巨蟲は動く。

 跳ねた先は既に本陣武徳王の天幕に届く。スタマカッは心臓がどきっと鼓動を一拍飛ばし、体中の血液が下半身に殺到する感触を覚えた。

 意識よりも早くに身体が動いた。その場で重甲冑が旋回し、頭上のゲイルに向きを揃えると、先程と同じ体節の切れ目に眼が自然と行く。ここから斜め上に突き上げれば心臓に届くはず。だが高さが6メートルはある。
 凍りついた時間の中、ゆっくりと高度を下げ前に進むゲイルに、スタマカッは最後の賭けに出る。ゲイルを即死させ武徳王には決して触れさせない。

 彼も浮いた。身体がまっすぐに斜め上に進み上がり、ゲイルの急所がぐんぐんと目の前に迫る。彼は自分が跳躍した事に気付いていない。額のカブトムシの聖蟲が金の薄翅で羽ばたいて精気の風に彼を包み込んだ、など知らない。

 彼と鉾槍は一本の矢となって、ゲイルに突き刺さる。黄土色の斑がある灰白色の明るい甲羅に、装飾を施された銀色の鋼の芸術がまったくの抵抗を覚えず通過し、見事心臓を貫く。スタマカッの黒色の重甲冑は肩からぶつかり蟲の腹を突き上げ、長い瓜に似た頭部節をくの字に折って地に向う。神兵とゲイルは一体になって天幕の屋根を破り、落下した。

 

 すでに老人の退避は完了している。武徳王唯一人が天幕の端から垣間見える元老員の激闘を望んでいた。
 ゲイル騎兵が狙うのは自分のみ。もし敵がこの場に到着しても、天幕が空だったらいかばかりの失望に襲われるだろう。

 武徳王は動かない。
 褐甲角の王族は黒甲枝がクワアット兵が命を投げ出し聖なる誓いを果たすその姿を、眼に収める義務がある。

 いきなり天幕の屋根が剥ぎ取られ暗い空に星が煌めき、青草の発酵に似た強い臭気が殺到する。赤青の旗幟が輪を描いて眼前に踊り、石や材木、タコ樹脂の盾が舞散り、篝火の火の粉を浴びながら黄金の仮面を着けた人まで飛んで来た。
 小舟と見紛うゲイルの頭部が眼前の地面に突き刺さる。土が抉れ周囲に散乱し、残った天幕の布を弾き飛ばす。

 風の疾さで黄金の鎧に身を包む元老員達がゲイルに飛び乗り、体節の隙間から一斉に槍を突き立てた。緑の体液がぶぢゅると噴き出し、泡立つ音がいつまでも止らない。

「陛下!」「御無事で?!」

 死んだはずのゲイルの頭が跳ね上がり、元老員は再び槍を突き入れる。が、それは下から押し上げる力によるものだった。灰白色の甲羅と緑の肉を払いのけ、体液に塗れたスタマカッが立ち上がる。脹れ上がる重厚な甲冑は、篝火に輝く黄金の元老員と対比して山の大きさを思わせる。

「ガエンド、とどめは刺したか。」

 親しげに近衛兵団長の名を呼ぶのは、揺るぎなく安泰に座る彼の主だった。

 

 

 3日後、ヌケミンドル防衛線からクルワンパル主席大監が大本営に報告にやってきた。
 前線では第一波突入後に大規模な攻勢があり、これを撃退するのに3日を要した。第二波、三波は通常の兵を中心とした攻城戦装備の本格的な部隊で、ゲイル100体が曳く舟によって泥地をすみやかにやってきた。弩車や投石器が多数配備され、鳥兵(凧)が上空から毒煙を吹くのに苦しめられたが、磐石の備えに危なげなく褐甲角軍は守りきった。

 現在は小康状態にあり、この機を利用してクルワンパルは大本営の武徳王に今回の大挙襲来を詫びに行った。もちろん敵の大規模攻撃を誘引するのが目的の布陣であったから大成功と呼ぶべき結果だが、いかんせん武徳王の眼前にゲイルが迫るのは100年来の大事である。何はともあれ詫びるのが一番、と督戦使ガーハルもカプタニア中央軍制局も勧め、今日を迎える。

 

「これは、スタマカッ兵団長殿。」

 クルワンパルは大本営にてまず近衛兵団長の出迎えを受けた。主席大監はちょっとまずかったかなあ、と彼を眩しい目で見る。

 ゲイル大挙襲来の結果はまずは満足すべき勝ち戦、であった。
 ギィール神族の死者38名、捕虜25名内重傷者17名、ゲイル45体撃破。こちらでは確認出来なかったがゲイルは更に20体が再起不能になったはずで、神族と狗番の被害は100名を越えるだろう。
 対して褐甲角軍の被害は、神兵の死者22名重傷者13名。クワアット兵の死者48名重軽傷者340名となる。

 被害のほとんどを近衛兵団から出しているからには、クルワンパルは近衛兵団長の責めを甘んじて受けるつもりだ。
 ちなみにヌケミンドル防衛線での被害は、神兵死者5名重傷者8名。クワアット兵邑兵の死者は21名重軽傷者103名。負傷者の大半は鳥兵の毒煙に対応が間に合わなかったもので、直接戦闘の被害は攻撃の規模に比して最小だったと言える。

 

 空気には不快な異臭が漂っている。焦げた木材に混ざるのは、大量の肉が腐る死臭だ。ゲイルを多数討ち取ったのは良いが、屍骸の処分方法までは検討しておらず、大穴を掘り分断した体節と肢を埋めていくしかない。前線では戦闘が続いていた関係上、この処理は遅遅として進まず、腐り始めた今になってようやく作業が進展する。

「クルワンパル主席大監殿、参られたか。」

 スタマカッは頭一つ分低い知将を見つめ下ろした。クルワンパルは直接戦闘に参加しないので礼装甲冑に賜軍衣を羽織っている。スタマカッは現在も武徳王の護衛任務を続けており、重甲冑を着用するも、兜は外して顔を出していた。互いの額には同じ黒褐色の聖蟲が静かに風のそよぎを楽しんでいる。

「近衛兵団の被害は相当な数に上ったと聞いております。」
「いや!、確かに少ない数ではないが、それに倍してなお余る敵への損害を与えた。死者も胸を張って冥秤庭に赴くだろう。」

「今後の防衛計画について、貴殿とも打ち合わせをしなければなりません。敵に与えた損害から考えるに、今後は大本営への直撃はまず有り得ず、陛下も御心を安んじられると存じます。」
「うん。」

 なおも見詰めるスタマカッに、クルワンパルは居心地の悪さを感じている。周囲には近衛兵団の神兵も多数有り、彼らは皆自分を憎んでいるのかも、と考えた。ちょっとやり過ぎたかと反省する。

 スタマカががばっと両腕を開いて大きく肩の高さにまで上げた。重甲冑の腕は分厚い装甲で片手だけでも常人の甲冑の重さがあり、それ自体が獰猛な兇器である。まさかとは思うが、このまま捻り潰されるかとクルワンパルは少し焦った。
 巨大な5本の鋼の指が、がしっとクルワンパルの甲冑の肩をつかむ。そのまま300キロの重量を持つ重甲冑に包まれる。

「クルワンパル殿、有難う!」

 クルワンパルは髭のある大男に頬擦りされてしまった。

 近衛兵団は最強を謳われるが、武徳王の安全を第一に考えおいそれとは前線に出ない部隊である。大審判戦争においても遂にはゲイルの姿を見る事が無かった、という羽目にも陥りかねなかった。
 それを、クルワンパル主席大監は彼らの為に最高の敵と舞台を用意してくれたのだ。兵団長以下全ての神兵が、死者も含めて彼に感謝しこそすれ恨む気など毛頭無い。

 

 という心をクルワンパルは明敏に察したが、すこし息苦しく気が遠くなってきた。

 

【紅御女】

 元カタツムリ巫女のヒューエミアはガンガランガ在住のとある富豪の屋敷に御機嫌伺いに行った。
 この屋敷の女主人は「御女」と呼ばれ、王家に次ぐほどの格式を誇る家柄だ。褐甲角王国の爵位は持たないが、十二神神殿からは高く崇められ王国も粗略な扱いが出来ない。
 名はシュメ・サンパクレ・ア。嘉字は持たないが「紅」を号す。つまり彼女の家系は、金雷蜒王国が嘉字を与える習慣を作る前から高い位にある、という事だ。

 ヒューエミアは40代半ばでかっては非常に人気の高かった女優である。王宮勤めはあまりせずにもっぱら神殿で舞台に立っていたが、とある大富豪に見初められて結婚引退し、今は悠々と暮らしている。現役当時の顔の広さを利用して、上流階級の御使いを受けたりもする。

「若君がお元気そうでなによりです。」
「ああ、赤子の頃は生きるかこのまま果てるかと毎日心の臓が張り裂ける思いだったが、この頃は庭を駆け回って一安心という感じかの。」

 深紅の髪を高く結い上げた彼女はまさに「紅」と呼ばれるにふさわしい美貌を誇る。結婚はしていないが男児が一人あり、極めて位の高い人物の胤と噂されている。

「でも念の為、これをお納め下さい。」
「おお有り難い。これが青晶蜥神救世主の霊符か。」
「ガモウヤヨイチャン様はこのようなお札はあまりお用いになりません。目の前でハリセンにて直接治癒なさるのが最上とお考えですが、特にどこが悪いとはいえない虚弱な御子の為にとたっての願いを御聞き入れになられました。」
「おお、おお! それは御苦労だった。しかもこの紋章、うっすらと青い光を放っておるな。」
「ウラタンギジトにて高名な七宝職人が描いたピルマルレレコ神の紋章に、救世主御自らハリセンにて神威を与えられました。必ずや若君の御身体をお護り下さります。」
「やはりそなたに頼んだのが正解だった。礼を言うぞ。」
「ありがとうございます。それから私、此の度宗旨替えをいたしまして、ピルマルレレコ神の巫女となりました。」

 引退した巫女が復帰するのも珍しい話だが、宗旨を換えるのはさらに無いので、さすがの紅も仰天する。そもそもが十二神信仰ではどの神も同格であり、他神に信仰の対象を移すのは元の神にも先の神にも不敬とされている。本人が希望しても、神殿を預かる大神官が許さないはずだ。

「そのような事が出来るのか?」
「今ならば可能です。なにしろピルマルレレコ神の神殿は未だありませんから、誰にでも門戸が開かれているのです。」
「しかし、十二神に数えられない神であろ、それは。ガモウヤヨイチャン様が御信仰になるという、他の星の神だの。」
「さようでございます。今や聖山神聖神殿都市の究理神官の間では、ピルマルレレコ神を巡って大論争が起きています。なにしろこの神は、長年論じられて来た”無体神”の実例でございますから。」

「まて、無体神とはなにものぞ。」
「御存知でないのも当然です。無体神の概念は究理神官の間でのみ了解されて来た、架空の神の話ですから。
 紅様、なぜこの世に12もの神が居られるのだと御考えです? 真に強力な神があれば、ただ一柱で良いではありませんか。何故に褐甲角(クワアット)神と金雷蜒(ギィール)神が相争わねばなりません。」
「それは・・・。」
「神が真に全能であれば、和解もまた可能なはずです。現に天上にては二神も争いをいたしません。何故です。」
「いや、それは、まさに究理神官の説くところであるな。妾も不勉強じゃ。」

「究理神官はこう考えます。天上にありては神も全能ですが、地上の世界に降りられては極めて限定的な力しか持ち得ません。何故ならば、この世には神をも従える自然の摂理が厳として存在するからです。いかに万能を誇ろうともこの秩序と法は変えられませぬ。」
「なるほど、もっともじゃ。」
「つまり十二神よりも自然の摂理の方が優位にある、という訳です。ではこの摂理、誰が作ったものでしょう? 或る経典では何も無いところから誰も知らない内に自然と生まれたと解きます。スガッタ教であれば、いくつもの法がばらばらに生まれ互いに闘争し最後に残ったのが今の世を総べる、と教えます。」
「妾には分からぬ。だが、どちらも胡散臭い話だの。」
「聖山の究理神官の間で論じられたのが、秩序を生み出す神の存在です。この神は秩序そのものと呼んでも差支えありませんが、全ての神に先んじて生まれたと考えられております。」
「待て。ではその神は誰から生まれたのじゃ。」
「そこです。この神は生まれたのではなく、後に神として認識されたのです。秩序を作ったのではなく、秩序こそが神なのです。秩序に意志を認める時、それを神と看做すと御考えください。」

「どうにも分からぬな。」
「その大本の発生につきましては、さまざまな起源の説明がございまして論争が絶えません。大切なのは、この神は全ての神の上位にあり、また身体が無いという事です。」
「なるほど、故に”無体神”か。」
「身体がありませんから、地上に降りられる事もございません。我らがその御力を拝見する事も叶いません。しかし、現実の世界の全ては、その神の法に従うのです。

 というのが、これまでの議論でした。なにせ人の身では知る術の無い神ですので、あくまでも架空の神、概念のみの神です。しかし、ガモウヤヨイチャン様が方台に降臨なされ、ピルマルレレコ神という「神殺しの神」を御示しなられて以来、俄然身近に感じられるようになったのです。」
「そうか、神を殺すというのならば、もちろん他の神よりも上位の存在であるな。」
「しかもガモウヤヨイチャン様のお話によれば、星の世界の信仰はもっぱらこの無体神に対してのものが一般的なのだそうです。」

「ふうむ。」

 紅は細く尖る顎に指を掛けて、物珍しい考えに頭を悩ませる。
 彼女も愚昧には程遠い教養人でギィール文学のいくつかを諳じるが、さりとて本職の究理神官ですら返答に滞る難解な話をすぐに理解するのは無理がある。重要なのは。

「そうか、重要なのは無体神ピルマルレレコに対する信仰が、方台で始まったという事であろう。」
「聖山にて(神殿実務を取り仕切る)神宰官ワクウワァク様が神通翁と最高神官会議にお諮りになり、新しく神殿の造営を行うと決まりました。私はその歴史に残る尊い事業にわずかばかりのお手伝いをしようと、下界にて御寄進を募る役を引き受けました。」
「おおそうであったか、なるほどそれはそなたにこそふさわしい。妾もわずかばかりの志を神殿の礎に捧げよう。」
「ありがとうございます。」

 しかしそれでもなお疑問は残る。無体神が地上の人に影響をもたらさないのであれば、なにを目的としてそれを崇めるのか。
 紅は素直にヒューエミアに尋ねてみる。信者は何を益とするか。対して彼女は微笑みで返した。

「基本的にはなにもありません、何も求めぬのが信仰の極意でございます。これはガモウヤヨイチャン様も仰しゃられました。神を敬い、されど神に頼らずと。」
「しかし、」
「もちろん! 現在方台の各所で自然と沸き上がるピルマルレレコ神への信仰がございます。これは十二神神殿と別の経路で組織されつつある信仰の集団で、後には統合されるものと存じますが、そこにおいては、」
「ふむ。」
「ピルマルレレコ神に懸命に願えば、死後冥秤庭の裁きを免れ天河の冥府をも飛び越えて、ガモウヤヨイチャン様がお住まいになる星の世界に生まれ変われると、信じております。」

「ホホホ。」
 紅は口に手の甲を当てて高らかに笑う。死ねば別天地に生まれ変わるなど、いかなる戯言か。

「夢じゃ、そのような妄想で人がなびくのかのう。」
「現にガモウヤヨイチャン様という御方が居られます。まるっきりの嘘というわけでもありません。」
「救世主様は衆に抜きん出て優れていたからこそ、青晶蜥(チューラウ)神のお招きを受けたのだ。只の人が願っても、それは叶わぬ。」

 だが紅はふと目を外し、侍女達に囲まれながら庭で遊ぶ我が子の姿を見る。一見すると健康を得たようでも、いつまた症状がぶり返すか分からない。

「・・・星の世界では、子供が病で死ぬ事は、無いのかの。」
「ガモウヤヨイチャン様のお話では、滅多には無いと。100人居て、成人するまでに1人程度ではないか、と仰しゃられました。」
「やはり、星の世界も人の住まう国であるか。だがそれならばむしろ信じられる。病も死も、不正も戦も無い世など痴人の夢じゃからな。」

 その後二人は楽しく語らい、ウラタンギジトにおける救世主の姿、デュータム点に集まり新王国を立ち上げんとする人の動き、大審判戦争の帰趨など様々な話題に時を過ごした。

 1刻余り後、男児が昼寝の床に就くのを優しく見守る母の姿に、ヒューエミアは若い時分には荒んでいた紅の面影を忘れる。
 呪いとも呼べる高き身分に生まれついた因果を振り払わんともがき苦しむ彼女を救ったのは、やはり愛である。しかし、彼女に愛を与える手助けをしたのは、皮肉な事に不吉を通り名とする人だった。

 館を退出する段になり正面玄関までヒューエミアを見送る紅に、彼女はさりげなく、しかし決して間違いの無いように慎重に言う。

「あの御方からのお尋ねです。」
「!」

 紅の表情は笑顔のままだが、目に険しい光が宿る。あの御方とは、彼女にとって決して愉快な人物ではない。可能であれば避けて通りたい所だが、彼女が今浸る幸福の大部分をその者によって与えられる。逆らう事は難しい。

「あの御方は、「毛むくじゃら」はすぐに使えるか、何匹居るかをお尋ねになりました。私にはなんの事やらさっぱり分かりませんが、紅様は?」
「・・・3匹、不確かなのがもう1匹。明日にでも出せると。」
「なにやら飼うのにとんでもなくお金の掛る生き物だとか。大きいのですか。」
「うむ。恐らくは褐甲角王国では私しか飼っておらぬだろう。」

 それ以上紅はその生き物について話をしなかった。ヒューエミアも尋ねないが、未だ紅が暗闇に影を引きずると知る。

 別れ際に、不意に紅は思いついて尋ねる。

「そうだ。そなたはピルマルレレコ神の巫女になったと言ったな。礼拝する時にはなんと言って神を称えるのだ。」
「ホホ、それはまだお伝えしておりませんでした。ガモウヤヨイチャン様のお側近くに侍る巫女達は、このように唱えます。『アレ・ゴムタイナ』。」
「アレ・ゴムタイナ? 意味は。」
「星の世界の言葉ですので、分かりかねます。このようにして唱えるべきかと。」

 ヒューエミアは胸の前に両手を合わせて立て目を瞑り軽く俯く。紅も彼女に倣って同じ形を取る。

「アレ・ゴムタイナ。」
「アレ・ゴムタイナ。」

 

第六章 平原に果つる闘志は、少女の憐憫に濡れる

 

 褐甲角王国毒地侵攻軍ベイスラ士団穿攻隊は、国境線から50里(キロメートル)にあるボラ砦を奪取し本格的な攻勢に備えていた。一ヶ月も・・・。

「散発的な攻撃はあるのだが、手持ち無沙汰は否めないな。」
「神兵の篭る砦に敢えて攻撃を仕掛けるのは正気のふるまいではありませんから。」

 穿攻隊攻撃戦隊に所属する神兵ジュアン呪ユーリエは城壁の上から東の空を仰ぎ見た。毒地にもだいぶ緑が戻ったとはいえ、水に乏しいこの辺りは白茶けた地面が広がるばかり。絵に描いて面白いものが何一つ無い。

「いや、描けと言われればこの荒地もいかようにも魅力的に表現してみせる。」
「無理せずともよろしいかと。」

 現在砦を守るのは神兵30名クワアット兵250名。残り70の神兵はすべて物資輸送に駆り出されている。
 そうなのだ、神兵を用いねばならないほどに、毒地の輸送任務は危険が伴い効率が悪かった。

 最初から分かっていた事ではある。ボラ砦は毒地の何も無い場所に孤立した拠点であり、後方に輜重輸送の手厚い支援が無ければ一日たりとも存続し得ない。褐甲角軍がここを押えた場合、50里を越えて物資を輸送し集積しなければ大規模で本格的な攻勢に討って出られない。

 故に穿攻隊は輸送に精鋭と呼べるクワアット兵を用い神兵の護衛までも付けた。が、無駄だった。
 金雷蜒軍はボラ砦失陥を最初から予想し、これを餌として毒地中に神兵を釣り上げる作戦を企図していたのだ。わずか50里の行程が地獄と化す。

 射程距離が700メートルを越える飛噴槍が火を噴いて飛び込むと、イヌコマが驚いて列を乱し兵の統率から離脱する。いかに神兵の鉄弓が強くとも、届かねば威嚇にもならない。また毒煙筒を撃ち込まれると救援の手すら届かぬ荒野で虎の子のクワアット兵が損なわれてしまう。
 戦は所詮数で決まる。いかに神兵が強くとも、後方で支えるクワアット兵が無ければ戦争遂行は不可能になる。物資が届いても、それを消費する兵が無ければまったくの無意味だ。

 敵がクワアット兵に狙いを絞って輸送任務を妨害すると見極めた士団長シジマー藍サケール兵師監は、あっさりと諦める。神兵のみの小規模な輸送隊で五月雨式に補給を行い数量は少なくとも確実を期したのだが、それではいつまで経っても穿攻隊に本来求められる作戦が為されない。

 

 城壁を下りて、食糧倉庫の泥壁の陰に休む。周囲には何人もクワアット兵が涼を取っていたが、神兵と剣令の姿に遠慮して離れていく。

「本来なら我々が輸送任務は受け持たねばならないのですが、なにやら遊んでいるようで心苦しく思います。」

 呪ユーリエの相手をするのは、クワアット兵の百人隊長シュメガール中剣令だ。呪ユーリエは小剣令なのだが、聖蟲が憑いた者が位階は上と十二神方台系では決まっている。また一般人の剣令は神兵への戦闘指揮が出来ない。どれほど位が上でも神兵を尊ぶのが不可侵の掟だ。

 実は二人は軍学校の同期生で、カプタニアにおいて席を並べて学んだ仲だ。ただ呪ユーリエが長男で彼が三男だった、というだけで身分が決まってしまう。
 十二神方台系では傷病で簡単に人が死ぬので、聖蟲継承の可能性は黒甲枝の男子なら誰にでもある。また継承者を失った家から養子に迎えられる例も多い。クワアット兵の剣令の多くは似た境遇で機会を待っているが、生憎彼は籤に漏れた。

 呪ユーリエは久しぶりに会った旧友が自分に敬語を使わねばならないのに最初面食らったが、他の兵も見ているので許容せざるを得ず、物陰に隠れている時くらいはやめろと頼むしかなかった。

「で、結局官僚になるのはやめて、軍務一本に絞ったのか。」
「今更城務めは気苦労が多いと聞いたし、神兵と違ってこちらは慢性的に人手不足だから、まあこのままでもいいかとね。」
「儲からないぞ。」

 聖蟲継承の任を免れた黒甲枝は大抵が官僚となり、または大口の御用商人の家に婿養子に上がり王国の為に尽すのが習わしとなる。官民癒着という言葉は存在しない。

 初代武徳王カンヴィタル・イムレイルは聖蟲を授けた神兵にこそ質素であれと命じたが、それ以外の者にはむしろ賢明に稼げと勧めた。彼の覇業は常に物資の欠乏に苦しめられ、叛逆の同士をいかに食わせていくかに多大な努力を強いられた。その記憶は今も鮮やかに王国の経済を彩っている。

 もちろん富豪富商が贅沢の限りを尽し顰蹙を買う例は枚挙に暇が無いが、故に清貧で知られる黒甲枝を民衆は好ましく思い支持している。

「そういう御前こそ、いい加減に妻を娶ったらどうだ。このままではジュアンの家が絶えてしまうぞ。」
「従兄の子が居るからその心配は要らないが、やはり無いと変か?」
「変だろう。何度見合いを断ったんだ。」

 ジュアン呪ユーリエは聖蟲継承前の十代から絵画によって世に知られていた。一貫して軍務に励んでいたのだが、元老員や王族の招きに応じて国中をぐるぐると異動させられ、遂には東金雷蜒王国からも招待状が来るほどになる。娘を嫁にと願う者から百も申し入れを受けた。
 だが呪ユーリエは絵画は売らずに進呈してしまうのが常で、自身の経済は神兵としての俸給しかない。妻の実家の援助を受けるのは決して恥ではないのだが、頼まれれば絵を描かねばならないと思うと結婚する気も失せるわけだ。

 ぼりぼりと乾いた空気で痛んだ髪を指で掻くと、黒茶色のカブトムシがちょこちょこと居座る場所を替える。聖蟲をシュメガールは眩しげに見上げる。

 黒甲枝出身とはいえ、聖蟲をこれほど間近に見るのはなかなか無い。彼の父は当然聖蟲を持っていたが、軍務に明け暮れて家を留守にする事が多く年に数度しか戻らない。また見上げるほどに大きな父の姿に、額の上まで視線が届かなかった。抱き上げられた時には、不可思議な存在に近付き過ぎて魂を取られると幼心に思ったのか、必死で目をつぶって視線を避け、結局良く覚えていない。

 幼なじみの誼みで、尋ねてみる。

「聖蟲、だがな、それは重いのか?」
「いや、居るのを忘れるくらいに軽いぞ。これが居て邪魔だと思ったことは無い。」
「語りかけて来る事はあるのか?」
「意志は伝わって来るし、危険を報せてもくれるが、ああそうだ、甘いものが食べたい時には手で額をぱしぱし叩くな。」

「うーーん。」

 聖蟲の継承は通常20歳を過ぎた頃に行われる。早過ぎると聖蟲の力で自らを見失い、遅くなると怪力を十分に活かす動きを会得出来ないとされる。30を過ぎたシュメガールには最早その機会は無いだろうし、また遠慮すべきだ。かっては夢にも見た神聖なる誓いの証しだが、歳を重ねた今ならば、何故このようなものが必要なのか疑問に思う事さえある。

 

「なんだなんだー、皆気合いが足りないなあ、ほらだらけて寝そべるんじゃない。クワアット兵ともあろう者がその有り様はなんだ!」

 いきなり元気よく顔を覗かせたのはベイスラの神兵サト英ジョンレだ。城壁の上で見張りの当番をしている。
 あまり深く物事を考えない質の彼は、猛暑で他人が苦しむ中でもまったく変らずはつらつとしていた。24歳という若さもあるのだろうが、折角回って来た大舞台で存分に働こうという意欲がぶんぶんと空回りする。

 彼の言うとおりに、大半のクワアット兵は壁の陰や天幕の下に寝転がってひたすら熱気に耐えていた。甲冑を身に着ける者など一人も居らず、軍衣すら脱いで裸同然の姿も少なくない。
 シュメガールは弾かれるように立ち上がり陰から出て、壁上の神兵に謝罪する。これが本来の神兵との間の秩序だ。

「申し訳ありません、サト様。しかし資材の不足で作業が中断しており、致し方なく休ませております。」

 彼らクワアット兵も遊んでいるわけではない。大規模攻勢の準備と砦の恒久的な占有の為に、施設の拡張工事を行っている。木材等は陥落直後の輸送隊で或る程度運び込み、既存の砦の建材を流用しても進めている。しかし、

「水が無ければ話にならん。無闇と兵を動かして疲れさす事もないさ。」

 呪ユーリエが言うとおりに、真夏の炎天下でしかも水無しでは何が出来るはずもない。泥を乾かす日干し煉瓦が作れないし舞散る砂塵を鎮められない。兵の飲料にすら事欠いた。
 シュメガールは呪ユーリエに対しても言葉を戻す。周囲の兵も聞いているから仕方ない。

「確かにこの姿は褒められたものではありません。もう少し秩序のある形で休息させたいと思います。」
「このままでいいさ。整えても、しばらくすれば元に戻る。」
「申し訳ありません。」

「水が不足するのは覚悟していたが、本当に無いという事態がどういうものか、理解が浅かったかな。」
「そうかもしれません。国境を出て戦った事がなかったので、金雷蜒軍がこれほど難儀をしていたとは考えも及びませんでした。」
「一体連中はどうやって物資を運んでいるんだろう。イヌコマをそれほど大量に用いているとも思えないが。」

 かってグテ地に暮らした呪ユーリエは、人間とイヌコマの数はほぼ同じという法則を知る。緑の溢れるガンガランガ周辺では飼育数は多いのだろうが、グテ地では食害から土地を守る為に間引いていた。方台全土でもその比率以下で飼っているはずだ。

 隠れて居た土壁の陰から頭だけを出し、真上の英ジョンレを見上げる。二人とも神兵の象たる翼甲冑をまとっていない。いかに無敵不死身の肉体ととはいえ、甲冑の上から浴びる直射日光と中から湧き出る体温、汗の湿気に長時間さらされると、さすがに神経が参ってしまう。額のカブトムシの機嫌も損ねる。

 という訳で、呪ユーリエも英ジョンレもそれぞれ適当な服装をしているが、

「ジョンレ殿、貴殿のその姿もあまり威張れたものではないぞ。」
「なんの、夏の日差しの下で見栄を張るほど愚かではないということです!」

 英ジョンレは上半身裸で頭に籐笠を被るだけ、無防備に過ぎる姿で城壁警備に就いていた。
 ボラ砦に残る者は、神兵もクワアット兵も皆軽装に換えてしまった。クワアット兵は暑さ対策に通気性の良い籐で編んだ鎧を支給されたが、それですら苦痛となるほどの熱気が砦には立ち篭めていた。

「ところで、今言っていたはなしだが、」

 神兵は地獄耳である。聖蟲によって強化されるのは肉体のみならず、視覚聴覚も常人をはるかに越える能力を持つ。英ジョンレは金雷蜒軍の輸送手段に興味を覚えたようだ。

「運河があるらしい。神聖首都ギジジットからずっと繋がる運河を使って物資を運び、この近辺で荷を降ろすんだと。」
「誰から聞いた?」
「ネコです。女房のところに遊びに来ていた奴がそんな事を言っていた。」

 シュメガールは改めて壁上の神兵に向き直り、右手をかざして陽を遮り見上げる。彼も薄茶色の軍衣のみを着用する。

「では敵はその運河のほとりに陣を構えているという事ですか。」
「多分。でもこの水は飲めないらしい。また運河の使用はこの戦に際して特別に認められたんだと。寇掠軍がこれまでちょろちょろとしか来なかったのに、今回急に増員した理由がそれだな。」

「いやに良く知っているな。」
「女房は聞き上手で、ネコをおだててべらべらと喋らせるのに長けているんです。このあいだ来た手紙にさらっと書いてありました。」

 呪ユーリエは腰に帯びた剣の柄を一回叩いて、やおら抜いてみた。大剣は甲冑と共に使うべきもので、通常平装の時はこの剣を用いる。剣を宙に寝かせ刃の砥ぎ具合を確かめた。これにもずいぶんと暇をさせている、いい加減使ってやらねばなるまい。

「英ジョンレ殿、その運河のはなしだがな、二人で確かめに行かないか?」

 

 

「・・・運河の話は私も聞いている。ボラ砦の近辺にあるらしいという話もだ。だが危険が大き過ぎる為にこれまでは手を出さなかった。敵も当然全力を上げて守るだろうからな。」

 士団長は中庭に面したギィール神族の居室を司令室に用いている。砦陥落直後には花も咲いていた中庭だが残念ながら水不足ですべて枯れ果てており、硝子張りのあずまやが虚しく太陽を照り返す。

 士団長シジマー藍サケールも焦っている。戦争開始から既に一ヶ月、この砦を陥落させて以降ベイスラの穿攻隊は確とした戦果を上げていない。
 呪ユーリエが言う斥候も、本来ならばもっと早くに行うべきだった。しかし物資の集積が出来なくては、折角見付けた敵陣に討ち入る事すら出来はしない。効果の望めない少数の兵力では、敵の防御体制を強化させるだけだ。

「それにギィール神族は7里の範囲の全てを超感覚で知るというから、下手にうろつけばいきなり10騎以上のゲイルに囲まれるぞ。」
「その点については、策がございます。」

 呪ユーリエは板に書いた図を示す。この所ずっと暇だったから、考える時間はたっぷりとあった。

「この6個の○がそれぞれ神兵の組です。外の5個が2ないし3名、中央に5名ほどを考えていますが、もっと少なくとも構いません。」
「互いの距離は1里程度、か。してこの陣形の利点は。」
「神兵はそう易々とはやられません。味方が到着するまでの時間持ち堪えてごらんにいれます。であれば、一里という距離は神兵が走って間に合うぎりぎりの、」
「分かった! 釣りだな!?」

 飛噴槍による遠隔攻撃は密集した隊形に対しては十分な効果を持つが、個別の神兵にはほとんど成果を望めない。単身の場合はゲイルの高速を生かした騎射攻撃が今でも標準的に行われている。

「一度がっちり組んでしまえば、味方が到着するまで持ち堪えるのに疑いはありません。特に攻撃戦隊の神兵は精鋭揃いです。」
「うん分かった。その中心の本隊には私が行こう。」

「え!」

 呪ユーリエのみならず左右でそれぞれ書類整理などをしていた副官達もぎょっとして、兵師監の顔を見た。指揮官自らが偵察に出るなど、そんな無責任な話は聞いた事が無い。

「おいなにを不思議そうに見る。私だってここには戦いに来たんだ。輸送任務は指揮官のするべきものではない、という御前達の意見を入れて引っ込んだが、偵察は違うぞ。これから穿攻隊がいかに戦うべきかを指揮官自ら確かめ判断すべきだろう。なあ、ジュアン(呪ユーリエ)殿。」

 余計な真似をしてくれた、と集中する視線に呪ユーリエも焦るが、どうも士団長は最初から出たくてたまらなかったようだ。
 シジマー藍サケール兵師監は近衛兵団にあっては戦技研究団の団長を務めた、まるっきりの武闘派だ。技の冴えも並みの神兵剣匠令に劣るものではない。指揮官自ら先陣を切ってボラ砦に乗り込んだくらいだから、待機が続く現状に耐え難い辛抱を覚えて不思議はない。

 その打開策がのこのこと現われてくれた、と渡りに舟で乗り出したわけだ。

「では輸送隊が到着次第、この作戦は発動する。「五芒釣蟲の索敵陣と名付けよう。」

 考案者の意見などまったく聞かずに、名前までもらってしまう。ひょっとすると暑さで兵師監様も頭をやられたのか、と考える。
 だが出撃が許可されるのならば、呪ユーリエにしても否定すべき理由が無い。退屈しているのは誰しも同じだ。

 

 翌日早朝、輸送隊が到着した。夜間の移動は危険が伴い本来忌避されるものだが、夜目が効く神兵だけの行軍なら別。気温の下がる夜の平原は寒さを覚えるほどで、甲冑を着用したままでも快適に移動出来た。

「これかあ。」
と、兵が口々に誉め称えるのが、新開発の水槽車だ。巨大な水桶をこれまた大きな四輪の荷車に積んで、大量の水を一気に運んできた。この大きさの車両は曳くべき動物が居ないので方台では用いられて来なかったが、神兵に荷物運びもさせてしまえと思い切れば、3トンにもなる車体も十分に役立った。車体には薄い鉄板も張ってあり、防火策も万全だ。

「第一号の製作に一ヶ月も掛ってしまったが、続く二号三号もまもなく完成する。本格的な攻勢にようやく乗り出せるぞ。」

 士団長シジマーは後を配下に任せて、偵察行に参加する神兵の選別に入る。
 攻撃戦隊30人はひさびさの出番に諸手を上げて歓迎し、当然全員志願する。しかし30は多過ぎる。シジマーと発案者の呪ユーリエは最初から決まっているとして、残り13名を籤で選ぶ。

 全員掌に数字を描き六木を振るう伝統的な蜘蛛神の占い法だ。色々のやり方があるが、今回はただ半数にする。15から更に2人減らすのが揉めたので、連絡員としてもう1組を作り事を収めた。

「出動は夜、日が落ちてすぐ出発だ。2人ずつ組となりばらばらに砦を出る。本隊と隣の組との間に距離が1里の三角形を作り、互いを監視しながら進む。すぐ敵にバレるだろうが一応は隠密に行動せよ。探索は日の出まで可能な限りを進み、約50里の行程となろう。日の出後はまっすぐ砦に撤退する。」

 シジマーはうきうきとして作戦の説明をするが、聞く方もやはり浮き立っている。砦に居ても敵は来るが退屈な防戦に終始する。本格的な戦闘に餓えた彼らは、この任務の最中になんとかゲイルを仕留めようと目を輝かしていた。

「捜索対象は、敵部隊の集結地、敵が輸送に用いるとされる運河、および我が軍の更なる拠点と為り得る建造物だ。もちろんすべて敵の手中にある。見付けても位置を確認するだけでよい、決して手出しをしてはならないぞ。質問は?」

 ばっと二三人の手が上がる。シジマーは手前の一人を指した。

「火を用いるのは禁止ではありましょうが、危急の場合に灯矢の使用はできませんか?」
「灯矢は中央本隊でのみ用いる。探索組は火を持ち歩く必要は無い。」

「捜索後日中の帰還はただの撤退でありますか?」
「真っ直ぐボラ砦に帰る。日中何時間も歩くのは願い下げだ、走って帰る。」
「走りますか・・・。」

「敵の攻勢に捕まり、移動不能になった場合は?」
「砦に待機する攻撃戦隊が駆けつけるが、伝令が戻るのにおそらく2時間、救援が駆けつけるまでに5時間は掛るだろう。期待するな。」
「はっ!」

 物凄くいいかげんだが、半分威力偵察なのだから万全の計画はそもそも望めない。

 褐甲角軍の軍略は実は大概のレベルでこの程度でしかない。なまじ綿密な計画を立ててもギィール神族にはたちまち見抜かれ、発動の前に対応されてしまう。ならば読まれても盗まれても支障の無い、真っ正面から堂々の進軍を選ぶべきだ。神兵の無敵の戦闘力はこれを可能にし、またこれをこそ金雷蜒軍は厭う。
 小手先の策が通じないのは金雷蜒軍も同じで、どれほどの兵力を一人の神兵に向かわせねばならないかを考えると、とても計算が立たなかった。唯一正面から争えるゲイル騎兵も、これこそが神兵が狙う最重要目標であるから迂闊に前に出せない。

 結局、二つの神の使徒は良い加減で均衡を保っており、千年の長きに渡って決着がつかないのも天河の計画に基づくもの、と人は理解している。

 

 英ジョンレは順当に籤に勝ち、呪ユーリエと同じ組で出撃する事になる。選ばれた者はそれぞれ準備を進め、二人も自らの翼甲冑の整備を始めた。

「よく見ると、形が違いますね。」
「製造年によって翼甲冑も少しずつ違うのだな。私のには翅が5枚付いている。」

 甲冑の次は武器だ。武器庫を管理する剣令の所に行き、鉄箭と太矢の支給を受けた。全鋼製の鉄箭はゲイルに対して極めて有効な武器だが、一本の値段がクワアット兵の刀並に高くおいそれとは使えない。今回1人3本のみの支給となる。

 呪ユーリエは武器庫の中にまで聞こえて来る外の喧騒に不審を覚える。

「なんだ。」
「なんですかね。」

 クワアット兵達が騒いでいるので顔を出してみる。輸送隊に回って居た神兵も砦に戻っているので、少々の敵襲でもびくともしないのだが、

「何事だ?」
「?!、はっ! 井戸の工事現場で不審なものを発見しました。」
「敵か。」
「不明であります。」

 ただの凌士夫では話にならないので、剣令の姿を探す。兵が集まっているのは井戸の辺りで、百人も居た。
 神兵も砦のあちらこちらから顔を覗かせるが、警戒するまでもなさそうなのでクワアット兵に任せる。任せるべき時にその仕事を取り上げるのは、兵の誇りをいたく傷付けるものだ。

 だが英ジョンレは気楽に兵の間に潜って様子を確かめる。容儀の軽いのは彼の欠点かつ長所であり、汗が陽光に輝く半裸の男達にすっかり溶け込んでしまう。

「どうしたどうした。」
「枯れ井戸に水が戻らないか、試しに横を掘ってみたら、・・・!はっ!!、申し訳ありません。枯れ井戸内部に潜って再度掘削しようとしたところ、」

 話の相手が神兵であるのに気付いて、周りの兵の態度が瞬時に変わる。全身直立して答えるが、英ジョンレは構わず穴を覗く。
 作業を監督していた小剣令が英ジョンレに答える。30半ばの工兵隊の隊長だ。

「新しい井戸を掘ったのか。」
「さようであります。枯れ井戸の内部が思いの他広いので、中に潜って掘り下げてみました。」
「水は出たか?」
「まだでありますが、乾いた土埃が舞う為に水を撒いたところ、何やら蠢くものを発見いたしました。」

 ボラ砦にはかなり大きな井戸がある。立派な石積みで深さは10メートルもあるが、ただの井戸ではなく底が部屋になっている。もう何年も水が沸いた気配は無いのだが、水脈はおそらくまだ繋がっているはずだ。毒地に自然が戻れば水の流れも変り、いずれ沸いて出るだろう。

「下には何人居る。」
「5人が。呼び戻しますか?」
「いや、・・任せる。」

 英ジョンレの質問に対する答えは、地獄耳の神兵全員が共有した。それを知って敢えて彼が出ていった面もある。誰か一人が聞けばよい事だ。
 兵の輪から戻ると、呪ユーリエは右手の人差し指を立てて、絵の構図を探っていた。たしかにこの有り様はちょっと面白い。

「なにかとは何だろう。」
「さて、手に負えなければ井戸に自分が飛び込みますから大丈夫ですよ。」

 現場はすっかりクワアット兵に任されたので、一般の剣令が仕切っている。蠢くなにか、は別に危険でもなさそうで武装した者は居ない。井戸の上の櫓の滑車が軋み、吊上げるモッコの網の中に土色の塊が入っている。

 城壁の上から覗き見る神兵の声が聞こえてくる。おそらくは目の良い彼の方が、近くのクワアット兵よりもよく実態が分かるだろう。

「繭、かな。土の塊の中になにか居るな。ぴくぴく動いている。」

 女が手足を丸めてうずくまっている、そんな感じの潰れた団子のようなものが兵の注視する中開けられた。生き物と思われるが、土の中に長く居て非常に弱々しい。
 兵が手桶に水を汲んで来た。周囲にへばりつく土を洗い流そうというのだ。先程届いたばかりの水が勿体なげにちょぼちょぼと掛けられる。

 水を受けて、ほんの少し実態を見せる。寒天に似た半透明の物質がそれの周りにへばりついていて、乾燥から保護している。水を含んだ粘膜が濃い色を取り戻し、中の肉の模様がうっすらと透けて見える。

「もう少し水を掛けてねばねばを剥がしてみよう。」

 手桶が再び運ばれ、慎重に少しずつ水がそそがれる。柔らかくなった粘膜を木切れで剥がそうとして、べろんと何かが零れ出た。

「うわっ!」
 クワアット兵達は驚いて一歩下がる。伸びた木の枝らしきものは、それ以上動かない。

「手、だな。」
「手ですね。」

 人の手に見える。濃い藍色が手の先を覆うが腕は淡い色で、粘膜の破れから力無くぬるりと抜け出てくの字に曲がる。
 兵士が一人、木切れを手にゆっくりと近づき、再度粘膜を擦ってみる。今度は頭に相当するものが露出し、黒い藻に似た髪が粘液に光る。

「陽の光の下で大丈夫なのか?」

 呪ユーリエは思ったが、口には出さない。クワアット兵に任せると決めたからには何もしないのが最善だ。

 もう一杯水を掛けるべきだと主張する者が居て、剣令達が協議する。粘膜がこれ以上剥げないし、人間では無さそうだから割と手荒な真似をしても大丈夫と見たのだろう。水を飲むのではないかと予想し、命じてもう一杯持って来させる。

 直接に頭に掛けると、びくんとそれは反応した。顔を上げて口に見える器官をぴくぴくと痙攣させる。いきなり両脚がにゅっと伸びた。全身が伸びた姿はまるで少女を思わせる。かなり綺麗な脚だな、と感じた。

 ひゅっと、それは身体を起す。手足で身体を持ち上げてトカゲが這う形となり、顔を上げる。尻尾は無いので、ほんとうに人間のようだ。胸の肋骨がひくひくと呼吸を見せる。
 くん、と顎を上げ、周囲に集う兵を見る。目はちゃんとあるらしい。

 「みぴゃぁ〜。」と鳴いた。乳児が甘える声かネコの鳴き声に似るが、結構音が大きい。兵が一瞬驚いてのけぞる。

「あ、逃げた!」

 群がる兵が突然左右に揺れ始める。動物だと気付いた時点で対応しておくべきだったが、さすがに誰も気が回らなかった。

「おいそっちだ!」「足元を、」「踏むな!」「うわ、はやい。」

 凄まじい速度で足の間をすり抜けるそれに、肩が触れ合う密度で集まっていたクワアット兵は対処できない。もし毒があったら、無防備の脛を齧られて被害甚大というところだ。

「呪ユーリエ殿、手を貸しましょうかね。」
「放っておけ。ちょっとした退屈しのぎにいいだろう。」

 工事現場から逃走した怪生物は砦中心の居住区に逃げ込み、兵が総出で追いかける。さすがに喧騒に堪え兼ねて、士団長が姿を見せる。

「ええい、なんの騒ぎだ!」
「申し訳ございません。正体不明の生物が、こちらの方に逃げ込みまして。」
「なんだ、敵か?」
「いえ、そのような大それたものではなさそうに思われます。我らにお任せを。」
「う、うむ・・・。」

 大して危険も無い時に神兵がその力を見せるのは、品が無いとされている。士団長はひさしぶりの出撃を前に余計をする気も無く、一般剣令に任せてしまう。

 泥と石とが積み重なったボラ砦内は、捜索する兵でいきなりごった返す。200余名が停滞した状況の打破をあの生物に求めるかに追い回す。

「こら、無闇に武器を振り回すな。」「素手でよい、素手で。」
「籠か袋をもってこい!」「そっちに追い込め。」
「あ、こら。食料庫には入れるな。」「閉めろ、早く!」

 生物はおそろしく早く、また滑らかに砦の中を駆け回る。壁に貼り付いて登りはしないが、とんとんと飛び上がり窓を抜け、2階や城壁までも走りぬける。
 中庭に張った天幕の上に飛び降り、枯れてしまった花壇を嗅ぎ回り、硝子張りのあずまやの周囲をぐるぐると回って、また居住区に入る。

 面白いから2階に上がってどたばた騒ぎを見物していた呪ユーリエと英ジョンレは、それの正体を議論する。

「あれは邪悪ではないなあ。大チューラウがあのくらいの大きさか。」
「尻尾が無いから、トカゲではないでしょう。毛が頭にだけ生えているというのは、」
「お、気付いたな。あれはたぶん歐媽の仲間だ。」
「おうま、と言えば東金雷蜒王国はアグアグ街道の密林に棲むという、あれですか。川岸に腰かけて人を惑わす。」
「あんなに小さくはないが、そうだな、歐媽の幼生といったところか。」

 歐媽とは十二神方台系に棲息する巨大両生類の一種である。方台は爬虫類よりも両生類の方が優勢で、地球ならばワニに相当する水中捕食者も両生類がその座を占めている。
 彼らが噂する歐媽は体長3メートル、300キログラムにもなるトドに似た川辺に棲む生物だ。全身は人間と同じ肌色にぬめり頭から長い黒髪が伸びて、まるで肥った人間の女に見える。、鈍重そうな外見に反して結構な早さで泳ぎ、ネコやイヌコマの仔が河に落ちると丸呑みすると知られる。

「しかし、楽しそうだな。」
「時にはこんなこともあっていいのかもしれませんね。」

 二人の神兵が眺めるクワアット兵の姿は、常には無い自由な、溌剌としたものだった。
 大審判戦争の最前線にあって初頭の激戦、つづく輸送隊への襲撃で神経が参ってもおかしくない緊張にさらされた後、ぽっかりと穴に落ちたような無聊の日々。猛暑と夜間の寒冷、欠乏する物資、特に水の配給が滞るとなれば、この一ヶ月誰も心安らかには居られなかったのだろう。

「士団長様には悪いが、士気を高める為になにか催し物をするべきだったのかもしれないな。」
「不謹慎ですが、酒もたまには振る舞うくらいあっても良いのかもしれませんね。」
「酒か! あー忘れていたな、そんなものも。うむー、思い出してしまったじゃないか。」

 十人ばかりのクワアット兵が唐箕を抱え、倉庫の泥壁の脇でそれを追う。人間が全力で走る速度とあまり変らないのだが、ちょこまかと方向を換えるので追随出来ずに取り逃がしてしまう。

 上から見ている二人には、それが何を探しているか大体分かった。英ジョンレは言う。

「当ててみましょうか、あれが最終的にどこに行くか。賭けますよ。」
「だ・め・だ。私にも答えが分かったよ。歐媽の仲間というのならば、カエルの親玉だ。だとすれば行き着く先は。」

 目標を見失った3人のクワアット兵がきょろきょろしているのに、二人は上から話し掛ける。手助けするのも躊躇われるが、予想が正しく当たりクワアット兵が捕まえきらなければあまり芳しくない結果になるので、やむなく口出しする。

「おい! あそこに罠を仕掛けておけよ。」

 

 十数分後。

「なに、しっぱいした?」
「もうしわけございません。あれ程詳しくお言い付けになられたのに、まんまとしてやられました。」
「で、どうなった。」
「どうもこうも、面目次第もございません・・・。」

 二人は階段を下りて、それが最終的に落ち着いた部屋に向かう。クワアット兵が幾重にも群がって中の様子を覗こうとするのを、剣令達が留めている。
 彼らにちょっと手を上げて、罠を指示したのは自分達だと告げると通してくれた。

 倉庫の一角、かなり大きな窓の無い部屋に踏み入れると、既に士団長シジマーが苦虫を噛みつぶした表情で憮然として立っていた。

「罠をここに張れと指示したのは貴殿等か。」
「は、左様相異ありません。」
「フタをしろ、と命じるべきだった。折角運んで来たのに台無しにされてしまった。」

「ああ、やっぱり。」

 そこはボラ砦に幾つもある貯水槽のひとつだ。神兵が命懸けで車を曳いて運んできたのを移し終ったばかりで、砦の者すべてが待望する清んだ水を満々と湛えているはずだ。

「あれは、どうなりました。」
「機嫌良さそうに泳いでおる。泥だらけの身体で飛び込みおって、まるっきり汚されてしまったわい。」
「はは、それは困りましたね・・・。」

 漆喰で固めた水槽の中を覗いて見ると、戸口から差し込む地面の反射光にきらりと光る波が立つ。黒い頭がすいすいと水を切り、人が見ていると知り顔をこちらに向ける。
 くりくりとした瞳、人間と比べるとかなり目の間が開いているがそれでもなかなかに愛らしい、が呪ユーリエをまっすぐに見やり、「みぴゃあー」と満足げな声を上げる。

「どうにも憎めない奴です、な。」

 

 

 深更、二人は荒野にあった。

 毒地は周縁部には緑が戻りつつあるが、中央部は依然として草木一本も見当たらない地形が多い。だからと言って見通しが良いとも限らず、平坦ながらもこんもりと盛り上がった丘、陥没、地割れ、さらには神聖金雷蜒王国時代の廃墟が点在し、兵を隠す場所は驚くほど多い。
 毒地が浄化された後に褐甲角王国は度々斥候を出して地形の把握に務めたが、伏兵に迎撃される事が多く今以ってまったく地理がつかめていない。穿攻隊の任務には毒地奥部の詳細な地図の作成も含まれており、今回の偵察隊の出動は普通に考えれば順当なものだ。

 しかし、

「これまで一ヶ月、何度か偵察に出て確かめて来たのが全然役に立たないとは、どういことだ。」
「目眩しにでも掛けられたように、地理が違いますね。特に櫓等の人工物が、まったく違う場所にある。」
「霧のせいだな。地面付近に霧のかたまりが出来て、丘に見えるんだ。」
「あ、それはベイスラでは有名な気象現象でして、夜霧に寇掠軍が隠れて国境線近くまで進攻し、一気に襲い来るんです。」

 天文を使って測量していないから、平原で座標を示す手掛かりが一切得られず、正しい地図が作れていない。偵察隊の中央本隊に居るシジマーも自身で直接確かめて、地図作成の困難さをようやく納得した。

「帰ったら烽火台の建設計画を準備しよう。ボラ砦から真っ直ぐ東に連なる施設をいくつも建設して、進行方向が容易に把握できるようにするべきだ。」

 柳の葉のように細い青の月の光の下、偵察行は何事も無く進んでいく。暗い。

 2名ずつの組が5組、傘を開く形で1里(キロ)ほどの間隔を空けて展開し、警戒と偵察を行う。全体の移動は中央本隊に従い、相互の距離が崩れないように行く。神兵の視力は夜間でも5里6里を簡単に見るから、1里くらいだと顔の表情まで分かってしまう。さすがに視界を妨害する翼甲冑の面を外して素顔のまま歩んでいた。

 敵の姿は無い。

「音は、感じます。」
「うん、何者かが見張っている。夜目が効くのは偵察専門バンドの兵か。」

 だが推察するに、それとの距離は2里はある。聖蟲を持たない者が夜間でそれほどの視力を持つのは不自然だ。或る種の強化兵であろうか。

「獣身兵という可能性があります。私は一度遭遇した事がありましてね。」

 サト英ジョンレはかってベイスラを襲った獣身兵を撃退した事がある。寇掠軍が撤退する際の殿軍を務めると言う。

「あれはクワアット兵ではちょっと手に負えない代物でして。こんな感じですよ、夜闇に隠れて黒矢を射てくるのです。」
「聞いたことはあるが、この間の砦戦には居なかったな。」
「獣身兵は結構値段が張るという噂ですから、先に撤収させていたのでしょう。」

 背後で何事かがある気配がしたので中央本隊を振り返ると、剣を振って合図をしている。どうやら、隣の組がゲイルの物音を聞いたらしい。

「ゲイルが来るというのなら、大歓迎です。」
 英ジョンレは気の早い事にもう大剣を背から下ろして素振りをする。偵察任務なのだからあまり派手な戦闘は避けるべきだが、士団長本人がやりたがっているのだから仕方がない。呪ユーリエは呆れて鉄弓を叩く。ゲイルが相手ならば、まず使うのはこちらが先だ。

 20分後、明らかにゲイルが歩く音が二人にも聞こえて来た。距離は5里、数は、

「単騎だ・・・。」
「どういうことだ、あっちも哨戒任務か?」

 中央本隊に連絡して進行を停止する。どうやら一番東に先行する二人の組に近付いていると感じられる。

 闇の平原では音がよく響く。実際、1里離れた話し声すら聞き取れるほど良く通る。15メートルの巨蟲の足音は、どれほど工夫しても消しようが無い。

「ゲイルが1体、歩兵が5と見た。」
「私もそう思いますが、奴隷兵ではありませんね。この動きだと狗番と剣匠です。」
「さっき言っていた獣身兵を合わせても、神兵に喧嘩を売る兵力ではないな。」

「あ、やはりこちらに来ますよ。」

 ぽおーっと闇の中に赤紫色の焔が見える。これは金雷蜒軍共通の合図で、褐甲角軍に対して協議を持ちかける際にも用いている。
 赤紫の炎色は、『勇気があるのならば、我について来るが良い』。高慢なギィール神族が和議を持ちかける時の常套句だ。

 目を凝らして焔を見ると、灯を掲げるのはゲイルの背に跨がる神族本人だ。やはり英ジョンレと呪ユーリエの二人を指名していると思われた。
 士団長に無言で合図して了承を取ると、二人はそのまま前進し距離を詰めていく。他の組は止まったままだから、もし罠に陥った場合救援は間に合わないだろう。

 結局2里ほども歩かされ、鉄弓の射程距離内にまでゲイルに近付いた。最近は良く当たると評判の飛噴槍ならば鉄弓の倍の距離でも届くから、一応この神族には戦闘をするつもりが無いと理解する。

 狗番が一人歩いて来る。青光のする蛤状の鎧の装甲は厚く、弩の矢でさえもその身で止めて神族の背中を護る。重装だから運動能力は低くなるが、狗番はゲイルの背に乗る栄誉を主から与えられている、問題ない。

 15メートルの距離で狗番は止まる。この距離ならばこの狗番、命は無いものと覚悟せねばならない。彼は言う。

「高名な武人画の達人、ジュアン呪ユーリエ様であられるな。我が主が貴殿に特にお頼みしたい事があると仰しゃられる。」

「・・・何故?」

 なぜ敵方の、それも甲冑で身を包んだ者の正体を知るのか。黒甲枝の用いる重甲冑翼甲冑はどれも王国の貸与で、遠目には個人を特定し難くなっている。個人が抜け駆けをして功名争いに走らぬ為に、軍法で定められているのだ。

 狗番は話を続ける。黒い山犬の仮面の下で、心なしか嘲笑っているかに感じられる。

「名を明らかにされて驚く必要は無い。放棄したとはいえ砦内部の詳細を、我らは今も手に取るごとくに知る。侮られるな。」
「なるほど。では改めて問おう。何故わたしなのだ。」

「貴殿は優れた絵画により世に名を轟かせる御方。作品には人の世の無情、運命の過酷さ、戦いの残酷さに垣間見える自然の静寂、そして人の生きる力を奮い立たせる魂の響きがある。」
「これはまた、随分と高く買ってもらったものだな。」

「なればこそ、貴殿になら頼み得ると主は判断されて、夜の平原にゲイルを進められた。」
「どれほど力になれるか分からぬが、話を聞くにやぶさかではないぞ。」
「有り難い。」

 狗番は後方の主人に手を振り、ゲイルと脇士の兵がゆっくりと歩を進めて近付いて来る。

 呪ユーリエは兜を脱ぎ、額のカブトムシを夜霧に晒して待つ。英ジョンレには一応は警戒を怠るなと注意する。
 ギィール神族は何時気が変るか予測不能であるから、今は戦う気が無くともまったく安全とは言えない。和議を求める友好的な席であっても、気を抜いた姿であれば神族の前に立つに不適格な者と看做し、問答無用で打ち掛かる事さえある。

 英ジョンレは大剣を地に刺し柄頭に両掌を乗せて、傲然と威圧して相手の出方を待つ。神兵は威圧的になろうとすれば、いくらでも脅威を人に感じさせる。これによく耐える目の前の狗番も相当な胆力の持ち主だ。

 静々と進み来るゲイルと数名の供は、英ジョンレの放つ気配に敏感に反応し慎重な警戒体勢で近付いている。奴隷兵ならば裸足で逃げ出す緊張が漂うが、歩みが滞らぬ所を見るにいずれ劣らぬ強者であろう。槍や薙刀、弩を抱えている者もある。金雷蜒王国の弩ならば、至近であれば徹甲矢で翼甲冑の胸板を貫くのも可能だ。

 ゲイルの上に在る神族は騎櫓の盾に隠れて姿がよく見えない。他に謀らずに単独で敵と交渉するのは反逆や利敵行為と看做されるが、ギィール神族に限ってはそれも許される。酔狂は彼らの本質であり、退屈な世界を賑わせる為に適度に褐甲角王国に助力するのも神聖な義務と了解されていた。
 このような行動はカブトムシの聖蟲を持つ者の理解の外にある。初代武徳王カンヴィタル・イムレイルの時代から、神族の奇矯な助力に彼らは常に頭をひねらされて来た。敵を育成して何の得があるのだろうか、と。

 白灰色の骨の柱が止り、ここで初めて神族が姿を現わした。
 5メートルの高みから見下ろす人は、非常に珍しい甲冑を纏っている。青い月の暗い光で色彩の妙は隠れているが、黄金の地金に翡翠色の艶を持つ。七宝で飾っていると呪ユーリエは判じたが、詳細は分からない。ひょっとすると新開発の装甲素材なのかも知れない。
 兜もまた変わっている。広い円盤状のツバのある帽子の形状をしていた。実用を考えるとさほど悪い形状では無いだろうが、例が無い。仮面は無かった。

「姫か。」

 身長2メートルのギィール神族は頭身が高く、老化も遅くて容貌で年齢を判別するのも難しいが、彼女の若さはすぐに分かった。おそらくはまだ10代であろうが、ゲジゲジの聖蟲を授かるだけの器量を持つのは確かだ。侮る愚を犯してはならない。

 天上から冷たい声が降って来る。蝉蛾巫女の高音に優る透明な音色だ。

「高名なるジュアン殿に会えて嬉しく思う。場所が戦場だけに絵筆ならぬ剣の光も披露願いたいが、今宵は叶わぬ。許してたもれ。」

 呪ユーリエは左隣の英ジョンレの顔を見る。戦闘はやはり無さそうだが、逆によっぽどの厄介事を押し付けられるのだと覚悟した。

 神族の姫は、神兵の都合などお構い無しに話を進める。

「用件は簡単だ。今日の昼にボラ砦で起きた事件に、貴殿等は深く関与されたであろう。」

 真っ先に名を言われたから覚悟はしていたが、砦の内部情報がまるっきり筒抜けだ。
 英ジョンレは気取られぬようにこっそり背後を覗いた。彼らの会話は後方に留まる士団長以下の神兵が聞き耳を立てている。砦内の状況がこれほど詳しく漏れるとなれば、進攻計画などそもそも成立する道理が無い。シジマー兵師監様も帰還後は対応を考えるだろう。

 慎重を期しながらも、呪ユーリエは素直に答える。

「いかにも。」
「あれは人に害を為す生き物ではない。無邪気で繊細な、か弱い獣だ。吾はあれを『可愛いの』と呼んでいる。」

 呪ユーリエも英ジョンレも唖然とした。このギィール神族の女人は、あのカエルの親玉の命乞いをする為にわざわざ危険を冒して神兵の前に現われたのだ。

「あれは、その『可愛いの』は貴女の飼う愛玩用の生物ですか。」
「たまたま荷物に紛れ込んだだけで、本来ならばこのような場所に連れて来るべきではなかったのだ。」

 どうすればあんな生き物が戦支度の中に紛れてバレないのか大いに疑問に感じるが、ともあれ彼女の用件は理解した。

「ではわたしは、あれを保護すればよいのですか。」
「頼む。あれは元来大人しい穏やかなもので、たっぷりと水を与え青草と藻を食べさせれば手の掛らない良い子だ。」

 どうしよう、と呪ユーリエは英ジョンレの顔を見た。英ジョンレは口の動きだけで自分の考えを伝える。「女には逆らうな」、と。
 しかし現状ボラ砦において最も贅沢なのが水を大量に無駄に使う事で、貯水槽にちゃぷちゃぷ泳ぐ好き勝手はさせられない。

「水が、無いのです。貴女方はボラ砦においてどのように水を得ておられた?」
「その質問に答えは無い。我らとおなじようには、そなたらは水を手に入れられない。」

「毒地中を流れる運河か?」

 英ジョンレが口を挟む。あのカエルか歐媽か分からないものの命で最重要の機密を知るのならば安価いものだ。
 女はここで初めて笑った。少女の面差しの残る顔が変じて、ギィール神族にふさわしい地の底から這い出る悪魔の笑みが浮かぶ。

「運河ではない、地下水道だ。極めて精密に水量が管理され必要な場所にだけ水を通し、要らぬ所は干し上げる。毒水を流す事もままある。」
「我らが利用するのは不可能だ、と言いたいのだな。」
「水から毒気を立ち上らせ、近くの者すべての呼吸を止めるのも可能だ。我らが砦をいい気になって使うのはやめた方が良い。」

 可能な限りの機密を打ち明けた彼女に、彼らも応えねばならなかった。聞き耳を立てる士団長は更なる情報を求めるだろうが、そこまで神族は甘くない。
 一歩、呪ユーリエは前に出て右手を差し上げた。翼甲冑の赤い塗料の艶が夜霧に濡れる。

「わたしが居る限り、ボラ砦の『可愛いの』は安泰です。司令官にも掛け合ってあれの命を救っていただこう。水も可能な限り与える。」
「感謝する。そなたらの手にあれが有るのも、さほど長い期間ではなかろう。我らが砦を取り戻すまでよろしく頼む。」

 さりげなく「ぶち殺してやるぞ」と宣言して、彼女はゲイルの向きを換えた。狗番と剣匠を従えて去っていく。

 大剣を引き抜き背に戻し、蟲の頭を象る兜を取って英ジョンレは言った。

「『可愛いの』はよっぽど可愛いのでしょうね。」
「約束したから、なんとか守ってやらないとな。」

 女は、呪ユーリエが申し出を受入れてくれた事に完全なる信頼を寄せていた。神兵が崇め従う褐甲角(クワアット)神は、また契約の神でもある。その聖蟲を額に戴く者が約束を破る訳が無いと、方台の誰もが信じ疑いもしない。敵と交わした約束であってもだ。

 それが黒甲枝というものだ。

 

 数日、ボラ砦は平穏だった。
 士団長は砦内の内応者の探索に明け暮れたが、クワアット兵の中に裏切り者が居るはずもなく、結局徒労に終る。
 水槽車の輸送は激しいゲイル騎兵の攻撃を受けても滞り無く続き、水事情も好転する。

 おかげで『可愛いの』、種族名は嬰媽と判明する、はタライの中で存分に水浴びを楽しみ、クワアット兵達の人気者となる。
 呪ユーリエもたまには気の抜けたものを題材としてもよかろうと、板につぶらな瞳のそれを描いてみせた。英ジョンレは、絵は非常に分かり易く女房殿にも絶対好印象だと請け合った。

 そして、

 士団長シジマー藍サケール兵師監は、ベイスラ軍司令部よりの通達を受けてあっさりと決断した。

「この砦を放棄して、全軍撤退し国境線の防備に当たる!」

 さすがに潔過ぎるこの決断には、神兵のみならずクワアット兵の剣令達も説明を要求する。だが事態は非常に深刻なものであった。

「先程届いた連絡によると、赤甲梢が単独で国境線を突破して東金雷蜒王国領内に侵入。一路首都島ギジシップへ進軍しているらしい。この報を受けた金雷蜒軍は、西においては最大級の攻勢を行い一気に戦況の決定を行うと予測される。ベイスラにおいても多数の寇掠軍の浸透を確認しているが、これが一斉に攻撃に転じた場合、現状の防衛陣では対処しきれない。
 進攻が未遂に終るのは無念ではある。しかし今、我らに望まれるのは民衆の生命を護る事である。直ちに帰還する!」

 ばたばたと撤収準備に当たる喧騒の中で、二人は『可愛いの』がしばらく暮らせる準備を調えた。砦を放棄すればまもなく、あの女神族が迎えに来るだろう。

「呪ユーリエ殿、その絵も置いていかれるのですか。」
「うん、約束はちゃんと果たしたという証しにな。」

 それは自分の姿が描かれているのが分かるのか、くりくりと目を回して板絵を眺め「みぴゃあー」と鳴いた。

 

(エピソード5 第七章に続く)

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