ゲバルト処女

エピソード2 トカゲ神救世主弥生ちゃん、激闘の渦中に在り

 

 

 褐甲角王国第23代武徳王カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクが、青晶蜥救世主を公式にはいかに位置付けるべきか問うた。

 ハジパイ王、嘉イョバイアンが答えて曰く
「悪と。褐甲角救世主初代武徳王の神聖なる誓いに基づいて正義と公正を旨とし、民を寧んずるを目的とする王国の有り様に疑義をもたらす者は、悪と見做すほかありませぬ。」

 カンヴィタル王は眉をひそめ否と応じ、次の如くに各所に通達した。

「青晶蜥救世主は一身をもって領土とする国と見做し、その饗応の格式は金雷蜒神聖王、褐甲角武徳王と同列とする。その行動の制限は国法をもってする事能わず、必ず褐甲角王宮の判断を仰ぐものと定める。」

 

第一章 褐甲角王国赤甲梢部隊、不可思議なる光に遭遇する

 

 赤甲梢、特にその優秀さを認められた武人が一代限りでカブトムシの聖蟲を額に戴く事を許された、褐甲角王国のトップエリート軍人の通称である。その名の通りに、彼等に与えられる聖蟲は甲羽が赤く輝いており誰の目にもその人物の優秀さを印象づける。赤甲梢になるには武術体力知力に優れているのはもちろんだが、基本的に黒甲枝の相続を得られなかった次男三男が対象になる。
 黒甲枝は世襲で通常一家に一匹の聖蟲が与えられ、軍役に適した年齢の嫡子が相続する。だが医療技術が進んでいない十二神方台系においては途中で傷病により再起不能となる事も多く、次男三男とスペアを用意するのは黒甲枝の家の責務ではあるものの、それが故の悲劇も存在する。相続から外れた者にも養子や婚姻による他家での相続という手があり、優秀な者であればむしろその方が一般的であるが、敢えて赤甲梢になろうという者にはそれなりの訳がある。

 彼、ディズバンド迎ウェダ・オダも訳ありの一人だ。

 彼は年齢が30才。威丈夫の揃う赤甲梢の軍団においては小さい身長173センチの普通の体格の持ち主だ。甲冑のサイズの制限から身長だけを理由として聖戴を許されない例も無いではない。が、彼には妾腹の生まれという負い目もあり、正妻の下に生まれた弟もちゃんとあって家の相続にも問題は無いと、早々に自ら栄達の道を放棄した。兵学校を卒業後初めての任地において地元の女性と結婚して、勝手に家を構えてしまったのだ。これでは他家への養子の道も当然に無くなり、父を怒らせてなかば勘当の扱いになる。しかし、兵学校の学友達が彼の才能を惜しんで軍制局に嘆願し、ある筋の推薦を得て赤甲梢への任官が叶った、という訳だ。

 彼は人を待っていた。

 現在赤甲梢の部隊は新たな総裁を迎える準備に忙しい。現総裁であるキサァブル・メグリアル焔アウンサが兵営での型通りのセレモニーはうっとうしい、演習中の部隊の姿を直接見せてやろうと、ボオダン街道沿いの平原に兎竜部隊を引っ張り出した。割を食ったのは一般人であるクワァット兵で、式典の準備に数カ月を掛けて用意したすべてを平原に持ち出すハメに陥った。新総裁は焔アウンサの姪である、メグリアル劫アランサ。メグリアル王家の姫の就任式であるからには格式も相当に豪華であらねばならず、たった千人しかいない兵は式典と演習とを同時にこなす無茶な任務に右往左往している。

 迎ウェダ・オダが待っているのは式典の鍵となる人物だ。王都カプタニアから総裁就任の辞令を持って来る輔衛視、劫アランサのお目付役となる、が居ないと式を始められない。輔衛視は名をチュダルム彩ルダムといい、黒甲枝の重鎮チュダルム家の一人娘だ。軍の最高指揮官である兵師統監は彼女の父であり、西金雷蜒王国方面司令官である兵師大監は伯父になる。本来なら彼女は、将来栄達間違い無しの極めつけのエリートを養子を迎えて夫に家を継がせるべきであるが、28歳の今日に至るまで結婚していない。その理由は、

「・・・まだルダムちゃんは来ない?」
「おお、これはアウンサさま。」

 迎ウェダ・オダの背後にいつの間にか現総裁キサァブル・メグリアル焔アウンサが立って、平原を続く道を見晴らしていた。彼女は36才で、もう20年も赤甲梢の総裁を務めている。キサァブルとは彼女の現在の夫の家名、元老院キサァブル家のものだが、彼以前に二度も離婚を繰り返していた。褐甲角神は契約と婚姻の神であり、王族である彼女はその巫女でもあるに関らず、それに拘泥されない破天荒な女性だ。

「アウンサ様、あの噂は本当でしょうか。」
「どの噂。」
「今度来るチュダルム彩ルダム様の、その婚約者が。」
「二番目だ。」

 事も無げに答えるアウンサに迎ウェダ・オダはため息をついた。それでは彩ルダムも行かず後家になろう。

 アウンサの二番目の夫と言えば、彼女の四つ年下で、一年程で叩き出されるように離婚して以後世をはかなんで聖山で神官の修業をしていると聞く。その頃既に赤甲梢の一員だった迎ウェダ・オダは、常識人の彼にアウンサの不行跡を留められないが故の対立だと、皆で噂し合ったものだ。

「確かにあれはまずかった。ルダムちゃんならお似合いの夫婦になったかもしれないが、知らずに手を出してしまった。うん? そういえば、ウェダ・オダ、あなたは彼より年下だったね。」
「そういうことになります。」
「あなたはあまり可愛くなかったな。あの頃はなんか筋肉団子みたいな。」
「そりゃどうも。」

 焔アウンサの好みはほっそりとしたインテリ系の優男だ。二番目の夫も黒甲枝には珍しくそのタイプの男だったし、元老院から見付けてきた現在の夫は、さらに加えて芸術家肌だと聞く。長年実働部隊である赤甲梢で総裁を務めるだけに、筋肉男も武骨者も彼女は大好きなのだが、床を共にしたいとは思わないらしい。

「そっか。ルダムちゃんも、うちから旦那を探して帰ればいいんだ。これは面白い事が増えたな。」
「総裁。愚考しますに、引退したらさっさと元老院の旦那様の下で大人しく室に収まっている方が、チュダルム彩ルダム様の御為かと存じますよ。」
「なんという愚考! 罰としてあなたには兎竜から降りて新総裁の護衛役となるを命じます。」
「それは三日前に伺いました。」

 迎ウェダ・オダは双鞭という金属のしなる短槍を両手に持って戦う武術の達人である。が、その技は兎竜の上ではあまり意味が無い。兎竜は数が赤甲梢の定数に満たない百頭しか居ないから乗れない者も多い。彼も、一般クワァット兵を指揮して裏方を務めるのが通常任務だった。

「あ、アレだね。」

 カブトムシの聖蟲は肉体の機能を強化する能力を持っており、視力をも強化して遠くまでも細かく見る事が出来る。視力で言えば12程で、地平線の彼方からやってくる人影を判別する事も容易だ。

 その隊列は10名程で、女性は4人。その内の一人は女であるにも関わらず、賜軍衣の長い裾を翻している。この軍衣は黒甲枝が甲冑を着装せずに王宮に上がる時に用いられ、聖蟲の精気をはらんで身を守る機能も有している。一般人はおろか黒甲枝の家人でも聖戴した事の無い者には決して許されない、ステイタスシンボルと言えるものだ。

「彩ルダム様は聖戴をされているのですか。」
「女のくせにね。」

 褐甲角神は闘神であり、通常戦に赴く男子にのみ聖戴を許される。アウンサは王族だから例外だが、黒甲枝あるいは元老院金翰幹家で跡継ぎに男子が居ない場合、暫定的な措置として女子の額に聖蟲を戴く事がある。アウンサのせいで彩ルダムもその憂き目にあっているわけだ。

「迎えに行こう。誰か、兎竜を寄越せ。」
「総裁!」

 アウンサが手を挙げて命ずると、六騎の赤甲梢がこれに応じてただちに彼女の前に兎竜の首を並べた。

 兎竜は体高4メートル、馬というよりも麒麟に似た大きな草食動物だ。あまりにも大きくて人間が飼いならす事がなかったが、その姿の優美さで古来より保護されてきた神獣である。草原を十数頭の家族で群れて暮らす平和な生き物で、その白い身体が黄昏に霞む光景が余りにも美しい為に、数多の詩文にも謳われてきた。走行速度は時速60キロ、鞍の高さも家の二階ほどにもなり落馬すればほぼ確実に死亡するので、一般兵の騎乗はあり得ない。

「総裁、いかがなさいました。」

 甲冑で顔まで覆った赤甲梢が一人兎竜の背から降りてくる。

「ちょっとこれ貸しなさい。」

と、アウンサは彼の肩を勝手に踏み台にして、兎竜に乗ってしまった。この世界は馬具が発達していないので、敷物とクッションをを三本の帯で留めているだけの簡素な装備で鐙も無く、ハミも無いから手綱も無く首に回した綱を絞って兎竜を制御する。常人の力ではまったく言う事を聞かせられず背に留まる事すら無理だが、さすがにアウンサも額に黄金の聖蟲を戴く者。たちまち向きを返して、地平線の向こうからやって来る隊列に走っていった。残る五騎も慌てて追走する。

 兎竜から降りた赤甲梢の武者は、兜を脱いで迎ウェダ・オダに尋ねた。

「なにがあった。」
「カプタニアから配属される事になっていた輔衛視がおいでになったようだ。ルダムちゃんと言ってたなあ。」

「ああ、あの可哀想な。」

 

 チュダルム彩ルダム、黒甲枝の両翼を担う最大の名門の一人娘は、自らの意志に反して王都の有名人である。これだけの名門の息女でありながら、最早行き遅れと言える年齢まで独身を貫き、のみならず聖蟲を戴き衛視という法を司る役目を担い民政の裁判官を務めていたからだ。女性としては初の衛視監にもなって、武徳王直属の宮法監にすら目されていたのだが、突然の人事で赤甲梢総裁の輔衛視を命じられた。位階としては上だが左遷と言ってよい。中央政界から体よく追っ払われた事になる。

 だがこの人事は個人的な嫌がらせまでは意図していなかっただろう。総裁が速やかに交代すれば、焔アウンサとは仕事せずに済むのだから。もちろん彩ルダムはそのような安穏な展開は神にも期待しなかった。焔アウンサがどのような人物であるかを方台で最も良く知っていたからだ。

「・・それではルダム様は、アウンサ様にお妹のようにお世話していただいたのですね。」

 傍らの年若い女官が無邪気にも尋ねる。この娘、カロアル斧ロァランは元老院で大狗の飼育番をしていたなかなか肝の座った少女だが、いかんせん齢が若過ぎて配慮というものが無い。いや、自分のことで手一杯で、他人まで心配する余裕が無いのだ。彼女が今回の任務にこっけいな程緊張しているのを、ルダムは興味深げに眺めていた。その姿に初めて自分が王宮に上がった時の姿を見出したのかもしれない。

 彩ルダムが王宮に足を踏み入れたのは4才の時だった。幼児ではあったが負わされた責任の重さを自分は確かに理解していたと思う。

 カプタニア城の最上部、武徳王の坐す神聖宮で王家の姫君のお相手をする、というのは頑是ない幼児には荷が勝ちすぎるものだが、同時に晴れがましく胸踊るものもあった。遠くエイタンカプトから一人で参られたお寂しいメグリアル焔アウンサさまをお慰めするのは、黒甲枝随一の名門に生まれた自分の責務で有るのだろう、とぼんやりとしたプライドにも支えられていた。

 焔アウンサは想像した以上に美しい人であった。絵本に描いた姫君のよう、と今も覚えている。12才でありながらも大人びていて、細い身体を凛と張り、並みいる女官侍女を手足のように命じ使っていた。神聖宮は金雷蜒王宮と違ってさほど装飾は華美ではないが、彼女の居る周辺だけが特別に豪奢に感じられたのは何故だろう。

 ルダムは自分が彼女のおもちゃとして呼ばれた事は知っていた。だからかなり酷い扱いを受けるのも覚悟していたが、案に反してアウンサは自分を見た瞬間こう言った。

『卑劣な。王都にはもう私と同年代の娘は居ないとでも言うのか。』

 

「そうですね。アウンサ様には、妹というよりはむしろ栗鼠に芸を仕込むように、色々と教わりました。」
「栗鼠、ですか。」

 彩ルダムは、丁寧に斧ロァランに答える。これから彼女も焔アウンサの暴虐の餌食になるだろうから、先入観を与えないように慎重に受け答えしていく。よいことだってあったのだ、お話が難し過ぎて眠ってしまったらミカンの汁を眼に入れられた事まで話さずともよいだろう。

 

「ルダム様、あちらよりなにやらおおきなものが、・・ああっ、こちらに走って来る。」

 彩ルダムの一行に兎竜を見た者は居ない。ルダム自身も初めてだ。皆、土煙を上げてつむじ風のように近づいてくる生物の早さ大きさにおののいた。護衛の兵も、ギィール神族が使う巨大ゲジゲジのゲイルを遠目で見た経験こそあるが、兎竜の迫力もそれに劣らず強烈だった。

 兎竜の一団は一行を取り巻き輪を描いて走り回る。荷物を運ぶイヌコマが驚いて跳ねようとするのを従者が必死で留めていた。一人昂然と顔を上げて彩ルダムが兎竜を駆る集団の頭を確認して、蹄の音に負けない大声で叫んだ。

「やはり! アウンサ様、赤甲梢総裁付き輔衛視チュダルム彩ルダム、唯今着任いたしました!」
「ご苦労!」

 と兎竜をなだめて輪を解き停止させる。6頭の兎竜が首を並べ、遥か頭上に深紅の甲冑を着込んだ武者が見詰める中、二階の窓よりも高い位置から長い裾を翻して焔アウンサが飛び降りてきた。

「ルダムちゃん、あいかわらず、眉をしかめているねえ。」
「誰の所為ですか!」

 

 総裁就任式はスケジュールから三日遅れる事が決まった。肝心のメグリアル劫アランサが式典会場に到着しないからだ。本人だけならばすぐにでも来るのだが、会場が草原の演習地に変更になったから、観客、別けても王国の正式な重職に就く娘の晴れ姿を見ようというメグリアル王の御行に手間が掛かっている。考えて見れば、デュータム点で行われた焔アウンサの就任式にも先代である父王が閲兵に来た。もう20年も前の話だから、そこらへんの事情をころっと忘れていたのだ。

 演習地は、東西南北の街道の起点となるデュータム点から30キロ程離れた平原で、毒地ももう目の前という最前線に近い土地だ。デュータム点から東に伸びるボウダン街道は聖山山麓と毒地とに挟まれた細い回廊になっており、大軍で東を攻めるにはここを通る以外無い。東金雷蜒王国はここに大要塞群ギジェカプタギ点を築き、褐甲角王国の側も大小の城塞が点在してどちらの側からも攻めるのは困難で、為にここは不戦地帯となり東西貿易の交流路、聖山への巡礼路として繁栄している。

 

 翌日、彩ルダムと女官達は兎竜部隊の演習を見物する事になる。

 斧ロァランはカブタニアにおいて近衛兵団を目にする事も多く、また黒甲枝の家人の嗜みとして武術を習い覚えているから、激しい演習に特に驚きはしないと思っていた。が、最前線の部隊の演習はさすがに迫力が違う。一段高い式典用の舞台の上で皆で眺めながら、言った。

「彩ルダムさま、わたくし、兎竜とは、もっとおだやかな、いきものだと思っていましたが、」
「え、なに、聞こえない?」

 蹄の音、兵が走り武器がぶつかり合う音で、耳が劈けそうだ。詩に謳われる兎竜は穏やかでゆったりと草原を歩くとされているが、戦闘用に使われると猛獣と形容せざるを得ない荒々しさ猛々しさを見せていた。

「さすがだわ。」

 彩ルダムは兎竜の戦法に見入っていた。ギィール神族が用いる巨大なゲジゲジ、ゲイルと違い、兎竜には甲羅が無い。矢で射られれば普通に傷つくから、聖蟲の怪力による長大な射程を生かしたギリギリの距離で、鉄弓の波状攻撃を掛ける。接近戦は徒歩の赤甲梢の役割でこちらも高速で疾走する。赤い甲羽のカブトムシの聖蟲は、黒甲枝の黒金の甲羽のものと比べて精気の振動で全身を推進する能力が高い。赤甲梢の甲冑にはこの能力を最大限に生かす為にタコ樹脂製の羽根が四枚生えており、時速20キロ以上での長時間走行が可能だ。また一般のクワァット兵も、イヌコマを曳いて矢や盾を運び高速で移動して赤甲梢に追随している。

「どうです。早いでしょう。早ければ強いというものでもないが、早さがあればこちらの被害を最小限に出来るのですよ。」

 案内役の迎ウェダ・オダが説明するが、彼も演習に参加したくてうずうずしている。轟音に負けないように大声で彩ルダムが尋ねる。

「貴方は、どこに配属されて居たのです?」
「あそこです!」

 と彼が指差したのは、大きな幟を連ねた不思議な隊列。赤甲梢が7人縦に並んで蛇踊りのように何本もの竿の先にゲイルを象った一続きの長い幟を掲げて走っている。

「偽ゲイルです。敵方の役で、攻撃目標になるのですよ。ゲイルとしては足が遅いが、矢も放つので結構な強敵なのです。」
「たいへんですね!」
「はい!」

「ウェダ・オダ様、あれはなんでしょう?」

と斧ロァランが指差したのは、遠く南東の空の先、毒地の真ん中に当たる方向だった。迎ウェダ・オダの聖蟲で強化された眼には、空中に蜃気楼のように赤い焔がちらついたかと思うと、どんどん拡がって皿となる姿が見えた。彩ルダムも同じものを見て首を傾げる。

「よくある事、ですか?」
「まさか。・・失礼。」

 迎ウェダ・オダは演習を監督する焔アウンサの下に走っていった。二三話をすると、アウンサも空を眺め、演習を中止させる。

 赤甲梢の軍全体が当惑に包まれるのを見て、斧ロァランは不安を感じ、傍らに立つ無敵の聖蟲を戴く女人に思わず身を寄せた。

「彩ルダムさま、なんでしょう。」
「分かりません。この方向だと、おそらくはあれは、・・・ギジジットですね。」

 

 赤い焔をはやがて白い光に代り、一気に弾けて空全体を光らせた。音はしなかったが、空中の雲が光の発散と共に一気に消滅していく光景を、皆唖然として眺めた。異変はそれで終ったが、とても尋常の事とは思えない。焔アウンサは赤甲梢をまとめて列を組み直させる。彩ルダムも女官達を率いてアウンサの傍に行った。

「何事でしょう。」
「知らん! しかし、非常に良くない予感がする。誰か、メグリアル王の御行列に使者を送って進行を留めて来い。急げ。」

 焔アウンサは唇を噛んでギジジットの方角を見詰めた。何者か襲い来るのを待つように、いつまでも空を眺めていた。

 

 それが起ったのは深更に至った時だった。赤甲梢全員が即応警戒体制で交替で仮眠を取っていた中、誰かが叫んだ。

「光だ! ギジジットから発している!」

 誰も眠れずに悶々としていたから、この言葉で全員が飛び起きた。彩ルダムと女官達も天幕から出て、見張りが指差す方向を見る。

「カプタニアだ・・・・・・。」
「いや違う。ヌケミンドルまで光は届いていない。」

 地平線の上を青い光が細く長く連なっている。薄い光のカーテンがかすかに揺らいで襞を作り、夢かと思うほどの美しさだが、その下はどうなっているのだろう。

「・・・・・・・・・・・・・・。なにこれ!」

 呆然と天を眺めていた彩ルダムは、急に足元がふらつき地面に倒れる。身体に妙に震えがくる、と思うが違った。世界が、地面全体が震動していたのだ。「地震」という言葉は古語にはあっても誰も体験した例が無い。紅曙蛸巫女王国時代には頻々と発生したというがここ二千年は記録に無いのだから、誰にも分からなかったのも道理だ。

 赤甲梢が必死になって暴れる兎竜やイヌコマを押えている。焔アウンサも自分の天幕から出て、兵に指示している。斧ロァラン等普通の女官達は地に伏せ必死で草にしがみついていた。

「御無事ですか?!」

と、迎ウェダ・オダが女達の元にやってきた。クワァット兵を20人率いているが、彼等も揺れる地面に足を取られて転びそうだ。さすがに彩ルダムも体勢を取り戻して、言った。

「アウンサ様は?」
「この程度で慌てる方ではありません。ですが、貴女方に対してこれだけの人数しか割けないとおっしゃっておられます。揺れが収まると同時に、途中までお出でになっているメグリアル王の御行列を救いに参ります。」
「我らは大丈夫です。あの光はやはりギジジットからでしょうか。」
「間違いありません、測量して確かめてみましたが、ギジジットから発せられています。」

 揺れは徐々に小さくなったが、小刻みに続いている。女官達もほとんどが黒甲枝の出身であるからそれなりに皆しっかりしており、まもなく威儀を取り戻した。

「カプタニアも揺れているのではありませんか。」

 青い光は毒地の中心からまっすぐ西に伸びてカプタニア山脈を指している。だがやはり、毒地の端で留まっていると見受けられた。

「毒地、ですね。毒地の外には出ていないようです。」

 迎ウェダ・オダも地平線を凝視して、光の行方を確かめる。揺れは光の下から発しているようにも思われた。

「金雷蜒神の御業でありましょうか。」
「我らには分かりません。金雷蜒神の雷とは異なります。ですが、ギジジットから発せられているからには無関係とは考えられません。」

「揺れが、収まってきましたね。」
「はい。むしろ、何も無い草原の中に居たのは幸運だったのかもしれません。」
「アウンサ様にご挨拶申し上げます。早速にお出でになるでしょうから。」

 

 赤甲梢は部隊を整列させて点検し、メグリアル王の行列の安全の確認に出発する。百頭の兎竜部隊は焔アウンサと共に先行するが、残りの赤甲梢と千人のクワァット兵はイヌコマに救援物資を積んで移動する。演習中であったから、装備は遠征と同様で食糧も10日分を確保してあったのが幸いした。彩ルダムと迎ウェダ・オダはこの地に留まり、式典の舞台の保全と青い光の帯の行方を観察する。万が一これが東金雷蜒王国の策であれば、ギィール神族の寇掠軍の襲来もあり得る。

「あ、白い。」

 天を見上げた斧ロァランが、ふと気付くと白い月と青い月の二つが完全な姿で共に中天にあった。「灼劫」と呼ばれる33ヶ月に一度の天文現象だが、これが起きる夜には変事があると噂される。二つの月に照らされて空は真っ白く輝き、夜である事を忘れそうだ。

 

 青い光は南の先に消えたかと思うと今度は東に移動し続けているのが観測された。どうやらギジジットを中心に毒地全体をぐるっと一周して照らしているようだ。

「一周?一周すると、また元の所に戻るのではないの?」

 地震が収まったから一段高い式典の舞台の上で観測していた彩ルダムと迎ウェダ・オダは、同時にその事に気が付いた。

「まずい、それはまずいぞ。光はまずカプタニア山脈を目指して発していた。それが南周りで一周するとなると、最後に巡って来るのはここだ!」
「兎竜はもう残って居ませんか、アウンサ様が。いや、ここに居る兵達にも準備を止めて再びの揺れに備えさせなければ。」
「御無礼します。おい、誰か! 灯矢を持ってこい。先行する兎竜隊に警戒の合図を送るのだ。」

 彼が走って他の赤甲梢達と話をすると、部隊は準備を取りやめてイヌコマから荷物を下ろし地面に引き倒し始める。兎竜部隊が向かった北西の方向に、火の点いた矢が高く高くに打ち上げられた。聖蟲を持つ者が放つ矢だから、高さは100メートルを越えて更に上がる。

 彩ルダムと女官達も崩れるかもしれない舞台を降りて地面に避難するが、階段を下りようとした斧ロァランが光の異変に気付いた。

「ルダム様、光が、光がこちらに参ります!」

 ギジジットから発した光の帯は、遠く東金雷蜒王国を巡って、ついに北を照らし始めた。徐々に大きく幅が広くなる青い光に皆パニックを起こす。

 

 ほどなく、光はその全貌を露にする。高さは約1キロメートルで垂直に立ち上がり大瀑布となり青い光の粒が降り注ぐ。光が接する地面は遠目からでも盛り上がるのが分かる。これが地震の原因で、光によって掘り起こされているのだろう。まるで地面に落ちた籾を板でかき集めるように光の帯が進んでいる。それがほぼ一時間で毒地を一周するから、最端部では時速300から500キロにもなる。激しい揺れの中赤甲梢とクワァット兵は逃げる事も出来ず、間もなく光に呑み込まれた。

 斧ロァランは、光に包まれた瞬間ふわっと自分の体重が無くなったのを感じた。まるで空を飛ぶ感触がして、まったく地面の揺れも無くなった。音もなくただ目映い光に包まれて、身体が芯から暖かくなるのを覚える。見回すと周りの人も同様で、彩ルダム、女官達、迎ウェダ・オダ、クワァット兵達も何が起きたのかと首を左右に振っている。

 やがてゆっくりと地面に置かれるようにじんわりと身体の重さが戻ってくる。青い光が薄らいだと思うと、いきなり地面の揺れが戻ってきた。震度で言えば4程度で最初に感じたものよりも遥かに強い。だが地割れなども起きず、光が離れるに従ってゆるやかに揺れが収まり足で立てるまでになった。

「なんでしょう。」

 光に包まれた後は、皆妙に落ち着いて行動している。人間だけでなく、イヌコマももはや怯えていなかった。光の帯はそのまま進み、元のカプタニアの方向に到るとふいと消滅した。ちょうど一周して終った事になる。

 

 以後何事も起こらぬと見極め、赤甲梢達は気を取り直し兵に命じてメグリアル王救援の準備を再度始める。舞台の破損を兵に点検させる迎ウェダ・オダに、彩ルダムは言った。

「メグリアル劫アランサ様の赤甲梢総裁就任式は、延期となるでしょう。場所もたぶん兵営のあるデュータム点で。ご苦労ですが撤収の手配をなさった方がよろしいと存じます。」

 倒れた天幕から荷物を引っ張り出して、女官達が火を熾そうとする中、斧ロァランはふと思いついて彩ルダムの側に寄って話した。

「ルダムさま、私、カプタニアを出立する前にネコの噂に詳しい人から、青晶蜥神救世主様が毒地を通ってギジジットに向かっているのではないか、という話を聞きました。ひょっとしてあの光の帯は。」
「青晶蜥神といえば、ガモウヤヨイチャン様ですね。しかし、地震は紅曙蛸神の御力だと、古文書には書かれていますよ。」
「ガモウヤヨイチャン様はタコリティにて、紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ様を掘り出されています。光も青でしたし。」

 彩ルダムはしばし考えて、斧ロァランの唇に指を当てた。

「滅多な事を申してはいけません。その考えは、以後口に出してはなりませんよ。」

 青晶蜥神救世主がこれほどの奇跡を起こせるとすれば、褐甲角神の聖蟲を額に戴く黒甲枝赤甲梢ですら幼児のように無力に見えるだろう。無敵不敗という民衆の信仰の上に乗る褐甲角王国にとって、それは致命的な打撃になる可能性すらある。

 

 翌早朝。

 焚き火の前でうたた寝をしてしまった斧ロァランが朝霧の中眼を醒ますと、無尾猫が真っ直ぐ前脚を揃えて座り、自分の顔を覗き込んでいるのを見た。

 白い体毛、体長は1メートル。頭が小さく髭が細いので、相当若いネコではないかと思われた。ネコは昨晩走りづめに走ってここまで来たと言い、斧ロァランにせがんだ。

「青い光に巻き込まれて空を飛んだのはおまえか。兵隊は忙しくて取り合ってくれない。話をしてくれ。」

 

 

閑話休題。

「カロアル斧ロァラン、と申すのは、どちらか。」

 新総裁の警護役となるディズバンド迎ウェダ・オダは、行列が到着するまで彩ルダムの世話係を命じられた。赤甲梢に合流したその晩、彼に呼ばれて天幕の中から若い女官が、夜服に着替えたラフな姿で現われた。

「はい、わたくしですが、なにか御用ですか。」
「あんたに届いた荷物がある。王国の軍令便で、ヒッポドス商会の荷札が付いている。」

「ああ! これは義姉さまです。」
「弓レアルだろ。あれは俺の又従妹にあたるんだ。おまえさんの事もちゃんと力になってくれ、と書状が届いている。」
「そうなんですか。それはうかがっていませんでした。」

 荷物は小さめの木箱で鉄の枠でしっかりと補強してある貴重品用のものだ。しかし、すでに封が切られている。

「悪いな、なにが入っているのかとりあえず確かめてみるのが、ここの規則なんだ。だが、これは一体なんだ?」

 話が込み入ってきたのを案じて、天幕から彩ルダムも顔を覗かせた。この天幕は当初の計画ではメグリアル劫アランサが使う予定になっており、それなりに豪華なものだ。

「なんですか。」
「いえ、王都の、私の義姉になる方から届け物がありまして、・・・これは。」

 中から三つの小さな箱が現われた。非常に美しい刺草模様で彩られた黒い箱で、中央には正面を向いた女人の顔が描いてある。丸いおかっぱ頭で、先が丸くなった二本の角が生えている。その紋を見て彩ルダムは思わず口走った。

「ぴるまるれれこ紋!」
「ぴるまる、とはなんです。」

 演習に明け暮れ世情に疎いウェダ・オダに斧ロァランが説明する。

「これは、此の度方台に降臨された、青晶蜥神救世主様の御紋です。」
「なんと。これは救世主に縁の品なのか。」

 斧ロァランが小箱を開くと、中から象牙色の蝋のような立方体、が現われた。これにも中央にぴるまるれれこ紋が刻印してある。

「・・・・・・・セッケンヌだわ。」

 その言葉に彩ルダムが敏感に反応した。セッケンヌといえば、王都カプタニアにおいても婦女子の間で評判の、用いると美しさが倍になるという妙薬ではないか。

「義姉さまが、わたしの為にわざわざタコリティから取り寄せてくださったのですわ。これは、一つはメグリアル劫アランサ様へ、一つはキサァブル・メグリアル焔アウンサ様への献上品として、もう一つが私の。」

 彩ルダムは、はあーっとため息を吐いた。チュダルム家は名門であり裕福ではあるが黒甲枝の手本として質素倹約を尊び、化粧品の類いに大金を掛けるなど許しはしない。セッケンヌは彩ルダムにとっても憧れの品なのだ。ルダムに続いて天幕から出てきた女官達も、草原の真ん中で思いがけずに遭遇した秘宝に胸をときめかせる。

 

 迎ウェダ・オダと彩ルダムの助言で、斧ロァランは早速セッケンヌの献上に行った。焔アウンサは自分の天幕で旗団長達と演習の打ち合わせをしていた。

 今回、単に新総裁の就任式をするだけでなく、メグリアル王つまりアウンサの兄に最新式の兎竜運用法を披露する事も計画している。これはかって王都カプタニアで先戦主義を主張したソグヴィタル王こと範ヒィキタイタン等と共に大胆な軍編成の改革を研究した、その成果の一つでもある。高速の兎竜集団を用いて長大な毒地の国境線をカバーし、浮いた黒甲枝を東金雷蜒王国の城門とも言うべきギジェカプタギ点攻略に振り向ける、壮大な計画の一端を担うものであった。

「・・・セッケンヌ、て、何?」

 衣装や宝飾品に関してそれなりに詳しく投資もしているアウンサだが、さすがにセッケンヌの情報は耳に入っていなかった。これはただ単に赤甲梢の本拠地があるデュータム点が南のタコリティと方台の正反対の遠くにあるからだ。

「ふーん、ヒッポドスと言えばこれでしょ。」

 と、指先で天幕の布を引っ張ってみせる。ヒッポドス商会は天幕や一般クワァット兵の軍服の布地を一手に供給する御用商人として知られている。

「アランサと私と一つずつ、ね。もう一つは貴女用にと義姉様が用意してくれたと。持つべきものは金持ちの身内だわね。ねえ、もう一個頂戴。」
「は、はい。」

 斧ロァランはどう振る舞って良いのか分からず、言われるまま貴重なセッケンヌを差し出してしまった。アウンサは三つの小箱を色々と確かめると、その一つを取って言った。

「はいこれ、ルダムちゃんの分。」
「え。私ですか?」

「カロアル家の斧ロァランとやら、覚えておきなさい。こういう事は自分の直接の上司に対してまず行うべきなのだよ。」
「は、はいい、気が付きませんでした。お教え有り難く御礼申し上げます。」

 彩ルダムは自分が物欲しそうな顔をしていたのか、と頬を赤らめてしまう。焔アウンサはこういう具合にいつもルダムの心を読んでしまうのだ。驚くほど勘が良く、為に周囲の人を苛立たせ傷付ける、それが彼女の悪い癖である。

 

第二章 ゲルタ売りの少女、王都にてなんだかわからない話を聞かされる

 

 ゲルタ売りの少女トゥマル・アルエルシィは、父親に尋ねた。

「ね、私が学匠の人と結婚したいと言ったら、怒る?」

 言わずもがなであったから続く言葉は聞いていない。出汁用大ゲルタの薫製で巨万の富を築いたトゥマル商会を率いる父の次の野望は、なんとしても黒甲枝の家に娘を送り込み孫に嘉字を継がせる事にある。

 嘉字、つまりギィ聖符の一文字を取って名に添える習慣は金雷蜒神聖王国時代に始まる。ギィール神族が神聖王の廷臣をないがしろにするので、彼等の身分の保証に王自らが名を与えたのがその由来で、後にギィール神族も自らの血族に対してこれを用い定着した。聖蟲を持つ者が名付け親になった場合にのみ嘉字を与える事が出来るので、褐甲角王国においてはいかに富を積もうとも、生まれが庶民であれば一生嘉字は受けられない。

 故にアルエルシィの父は、娘を黒甲枝の家に嫁がせようとやっきになっている。学匠つまり王宮に属する博士寮の研究員はおろか、文部科学大臣に相当する学識統領であったとしても論外だ。聖蟲を戴いた者以外に結婚を許す事はあり得ない。

 アルエルシィも商売人の娘であるからその意義は承知しているが、はいそうですかと従うのも馬鹿馬鹿しく感じている。どうせなら青晶蜥神救世主の築かれる新王国に馳せ参じ、青いトカゲの聖蟲を額に戴く神族になってみよう、とかの妄想的立身出世を企てるのもこの世代に生まれた若者の義務ではないだろうか。

 自分で言い出したから仕方ないが、父の説教は延々と続く。アルエルシィは巻き毛の黒髪をくりんくりん指で弄びながら、窓の外を見上げた。

 空は青く澄み渡り夏の訪れを告げるように小さな赤ミョネ燕が舞っている。そういえば今年の夏の閲兵祭には何色の服を来て行こう。去年は薄紅を着たから今年は青紫でまとめてみようか、でも少し大人っぽ過ぎるかも。それが終ったら急に予定が繰り上がったヒッポドス弓レアルの結婚式がある。カロアル家というのがどの程度の家格かはよく知らないが、義妹になられる斧ロアラン様がハジパイ王にお仕えしていたから、お言葉も届くかもしれない。きっと黒甲枝の殿方も多数お見えになるのでしょうね。もう一着、山蛾絹で白を作っておかないと。下手に小細工したお見合いをするよりも、こういう時にこそ希なる出会いがあるのだわ。とは言うものの最近軍関係はどこも殺気立っているそうだから、普通にしていたら注目されないかもしれない。そうね、レアル様になにか目をひく贈り物を宴の席でご披露しましょう。まだ説教終らない、あーうっとうしい。

「お父様、わたくし少し街に出てきます。黄輪蛛(セパム)神殿に。」

 セパムつまり蜘蛛神殿では星を読み占いをし、おみくじを売っている。また結婚出生や死亡といった戸籍業務も司っていた。蜘蛛神は文字と記録の神であり神殿は文書館として公的にも支援される。文書を長期保存する為の専用の倉が設けられているので私物の蔵書を預ける者も多く、各人の好意によって一般人の閲覧も可能となっていた。学匠の利用も多い。

「もちろん、わたくしの結婚相手がどちらの方角に居られるかを占いに参るのですよ。」

 もちろん、嘘に決まっている。

 

 褐甲角王国の首都カプタニアは王城を中心に東街と西街に分かれている。東街は東金雷蜒王国の方角であり、一朝事ある時は街を焼き払って陣を張るので簡素な建物しか無く、低所得者労働者が住んでいる。それに対して、経済の中心地である商都ルルントカプタニアに通ずる西街は王城に守られ安全で、百年も保つ立派な建築物が立ち並ぶ。裕福な商人や中級以下の官僚が居を構え、元老院議員の私邸もこちらにある。トカゲ神殿とカニ神殿以外の主要な神殿は西街に集中するが、これはお布施の金額が当然西街の方が多いからだ。

 テゥマル家も西街にあり、派手な作りの赤い壁土の三階建てで人に知られている。石に恵まれない十二神方台系では木の柱と土を塗り込めた壁で建物を作るのが普通で、高層建築物はあまり無い。カプタニア城は外観は十数階あるように見えるが、実際は山を削って段々に建物を重ねているだけで構造上は平屋と変わりない。三階建ての建物はそれだけ高度な技術と材料に金銭を費やしている証明だ。

 アルエルシィは下男下女と合わせて7人と出掛けた。最近は世情も混乱しており王都と言えどもまったく安全とは言い切れず、富裕な者は近所に出るにも護衛が必要となってしまった。東街では追剥ぎやら人食い教徒やらが昼日中から人を襲うとも聞く。反王国を唱える督促派行徒が西街でも放火や破壊を行って警備の兵に牙を剥く。

「お嬢様、いかに神殿へのお参りとはいえ、滅多にお出ましにならない方がよろしいと。」
「なにを言うのよ。お前達はちゃんと市まで買い物に行ってるじゃない。」

 婆やの止めるのも聞かずに飛び出したはいいが、通りを歩く人を見るとやはり以前と表情が違う。切羽詰まった、あるいは思いつめた顔の人が多くなった。救世主降臨の噂が伝わり街中が浮き立っていた一カ月前とは大違いだ。

「やはり救世主様のお噂が不確かになったのが、皆の心に重くのしかかってるのね。」

 実はアルエルシィは弓レアルの家で、無尾猫が伝えた青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンのかなり詳しい消息を聞いている。

 ただし、この情報は伝える相手が限定されていた。ネコにはネコ仁義というものがあり、噂の元となる人物の頼みに応じて特定の情報を秘匿する。ネコの生態に疎い人は、この横着でなまけ者で自堕落な生き物はのべつまくなしに見聞きした事を右から左に喋るのだ、と思い込んでいるがとんでもない。ネコにはネコの生存戦略があり、人間の都合などお構い無しに歪曲した「嘘ではない」情報を伝えている。無尾猫を侮蔑し自らを霊長と信じる向きには真実は決して悟られないのだ。

 その点蜘蛛神殿はネコに好意的だ。大抵の蜘蛛神殿は付近のネコの集会所になっており、勤める巫女はネコ用のビスケットを焼くのが重要な仕事となっている。なにせ情報を集積するのが蜘蛛神の役割だからネコは神のお使いに等しく、彼らの喋る噂話を書き記し書庫に何十年分も保管する。重要な話は抜粋して一枚にまとめた「おみくじ」にして庶人に売って大好評を博している。なにせ、芸能やスポーツの情報も載っているのだから人気も当然だ。

 楽人や舞姫であるタコ神、歌手の蝉蛾神、俳優でもあるカタツムリ神、夜の傾城として人気のカエル神、と神官巫女の中にはスターやセレブが数多く居る。また黒甲枝や赤甲梢といった武人の活躍も熱狂の対象であるし、遠く金雷蜒王国のギィール神族の中にもその奇矯な言動で人を魅了する者も少なくない。神殿はそれぞれ独立採算制であるから、軽佻浮薄の汚名を甘受しても彼等のおみくじを売りまくっていた。

 

 黄輪蛛(セパム)神殿は西街の中心部、軍道に沿って1里(約1km)ほど歩いた繁華街の傍にある。押し寄せる参拝客を受入れる幅の広い石段を上がった先の、黄色い土壁に赤茶色で蜘蛛の巣文様を描いた輪形の建物が神殿だ。黄が蜘蛛神を象徴する色で、神官巫女もこの色に染めた服を纏っている。周囲には木を植えて木陰を作り池に鯉を放ち居心地良く整えてあり、無尾猫たちが怠惰にまちまちに過ごしている。

「これはトゥマク商会のアルエルシィ様。ようこそお出で下さいました。」

 蜘蛛の巣を象った神門をくぐると、なじみの蜘蛛神官が現れてアルエルシィ達を出迎えた。彼女は有名な豪商の一人娘であり多額のお布施、つまり色々な商品を買ってくれる上得意様であるから、他の参拝客を飛び越して優先的に案内してくれる。三十過ぎの下女一人だけを伴ってアルエルシィは暗い神殿内を進んで行く。

 アルエルシィが買うのは主に武人の肖像画だ。蜘蛛神殿では地方の神殿を介して入手した各地の著名人の絵姿を掲げており、一定期間の展示の後は希望者に売却もする。時価であり競争者も多いが、アルエルシィは金の力でことごとく敵を退けてきた。聖蟲を戴く武人の絵であれば、父もなんの文句も付けない。本物にはなかなか御目にかかれない彼女に、王国の中枢たる黒甲枝の人脈の知識を与えようと、積極的に絵を買い取らせていた。

「・・・黒甲枝の女人の絵ですね。珍しい。」

 特別に工房の内部を見学させてもらったアルエルシィは神官が描いている絵を覗き込んで不思議に思った。一辺40センチの正方形の木の板に樹脂を混ぜた絵の具で描かれているのは、額にカブトムシの聖蟲を戴いた成人女性の姿だった。戦場に出ない女性の黒甲枝が描かれるのは本当に例外的な事だ。

「チュダルム彩ルダム様です。この度赤甲梢の輔衛視になられましたので記念に御写しを願いました。」
「あああの、メグリアル焔アウンサ様に縁の。」

 彩ルダムはカプタニアにおいてはかなりの有名人だ。と言うよりも、兎竜を駆りボウダン街道を縦横に支配する赤甲梢兎竜部隊の総裁キサァブル・メグリアル焔アウンサこそが大スターであり、その逸話に出てくる被害者の役として彼女は大層知られていた。

「これは奇しき縁ですね。ヒッポドス商会の弓レアル様、あの方が今度御輿入れなさるカロアル家のお嬢様が、このたびチュダルム彩ルダム様に御仕えする事になったのですよ。」
「左様で御座いましたか。それではこの絵はヒッポドス様に御届けした方がよろしう御座いますね。」
「私が買って届けましょう。何時になります?」

 神殿にて一月ほど展示した後に引き渡す事となった。これから北のデュータム点で赤甲梢総裁交代の式典が続くので、それらの話題が一段落した後という話だ。

 回廊を進みおみくじ売り場に行くと参拝者が引きも切らず押し寄せておみくじを買っている。おみくじの材質は紙ではなく穀物の粉を水で溶き伸ばして焼いたもので、その匂いがぷーんと甘く漂って来る。

 参拝者はそれぞれの関心事のおみくじ売り場に列をなしていた。売り場は長い机を横に連ね蜘蛛巫女が売り子として座っている。背後には大きな看板に先日までの記事を大書し関連の人物の肖像画が掲げられていて、さながら噂話の祭壇だ。良い話楽しい話ばかりではなく、犯罪や災害に関連する売り場もある。これらのおみくじは厄除けとして各人の家で祭られるのだが、内容も危難を避ける役に立つ。

 人で賑わう売り場の端に、参拝者がまったく居ない空間があった。領域は最も広く取られ何枚もの記事が書かれた看板や絵が掲げられているのに、その一角に入れないよう綱が張られ、見張りの神官戦士が立っている。

「ここはやはりだめですか。」

 つい先日までここで青晶蜥神救世主関連のおみくじが売られていた。関連情報として発掘された紅曙蛸巫女王五代テュラクラフと聖女ティンブット、謎の仮面の男の絵も飾られている。

「申し訳ございません。衛視局から、青晶蜥神救世主様のお噂は確認された事実のみを静かに伝えるように、ご指導がございました。」
「タコリティの話もダメですか。」
「そちらの方は軍政局から禁令がございまして。」

 王国の南の国境イローエントのすぐ外に在る独立都市タコリティは、褐甲角金雷蜒両王国の権が及ばない無法地帯として公然の密貿易の中継地となってきた。どちらにも属さない事で生じる利便性が評価されてきたが、テュラクラフの神像を得て新生紅曙蛸王国としての独立を宣言すると寛容の限界を超え制圧の対象となる。ましてその首領たるが、かってソグヴィタル王として王都にあった範ヒィキタイタンではないかと噂されれば、情報の流布が禁じられるのも道理だ。

「しかたがありませんね・・・・。」

と、文書館の方へ移っていく。文書館は定められた資格が無いと利用出来ない規則になっているが、

「居ない。」

 ネコの噂話を記録した時事録の棚を覗いたアルエルシィは、あてが外れてため息を吐いた。左右を見回しても、戸籍簿の棚を覗いても誰の姿も無かった。部屋を移ってギィール文学書の棚で学匠が一人居るのを発見したが、それは彼女が探す人ではなかった。神殿の中にまで一人だけ付いてきた下女が言った。

「お嬢さま、どなたをお探しですか。」
「この間お話をうかがった方で、大層為になる事を教わったのです。その続きを聞きたかったのですが。」

 諦めて神殿の輪の外庭に出た。ここは林になっていて梢が蔭を作り過ごし易く無尾猫達がたむろする場所だ。しかし、蜘蛛巫女がお昼のビスケットを配った後で、一匹も残っていなかった。

「今日は灼劫の日だから必ず居る、と言ってたのに。」
「・・灼劫だから星読台に居ると言いましたが、お聞き逃しでしたね。」

 振り返ると灌木が揺れて、葉の陰から青年が姿を見せた。盛り上がった樹の根に手を突いて乗り越えると、アルエルシィの前に立った。

「星読台は神殿の内庭です。輪の外に出ては巡り会えないでしょう。」

 男は年齢が25歳、背は高いが細く肉体労働とは縁が無い白い肌をしている。ただ、写本を長時間する為に右手の指にタコが出来て少し曲がってもいる。神官の服に似た裾の長い灰色の上着を着ているが何の紋章も付いていない。腰を縛る紐に吊した青銅のメダルが、王立の学問所である博士寮の所属を示していた。

「この間のお話の続きをうかがいたくて、参りました。」

 ネコの庭を抜けて礼拝所に回ると、なにやら美味しそうな匂いが漂ってきた。十二神方台系には紙が無いから印刷技術も無い。そこで粘土板に文字を刻み窯で焼いて陶板として、それを火に掛けて上に穀物の澱粉を伸ばした汁を流して、クレープのようにおみくじを大量生産している。読んだ後はそのまま食べられる、あるいは御供え物にも使える優れものだ。

 アルエルシィはその匂いでお腹がぐーと鳴るのを聞いた。弁当はもちろん持って来ているのだが、幾らなんでも参拝が終わった後で無いと神様への礼儀を失する。男は言った。

「お供の人は外で待って居られるのですね。」
「はい。神殿の中にはメショトレだけで。」

 男に紹介された下女が改めて挨拶をする。男も自ら名乗った。

「私は博士寮で城塞建築を研究している学匠のシバ・ネベです。アルエルシィさんが市中で私の顔を覚えられて、先日この蜘蛛神殿で偶然に出会い声を掛けられたというわけです。」
「ほら。弓レアル様とトカゲ神殿に参拝に行った時の事よ。」
「あなたもお腹が空いたでしょう。蜘蛛神殿の厨房でネコ煎餅などはいかがですか?」

 蜘蛛神殿ではネコを集める為に専用のビスケットを焼いている。これを大鼠の血に浸して食べるのだが、元来吸血性の捕食生物であるにも関わらず無尾猫は狩りがとてつもなく下手だ。ビスケットだけでなく肉屋で人間に大鼠を買ってもらうていたらくで、蜘蛛神殿でも出入りの業者が生きたままのネズミを届けて来る。ネコは血だけしか食べないから、残飯である肉の方は神官や巫女が美味しくいただく仕組みになっている。

 蜘蛛神殿で研究をする学匠もその御相伴に預かる事が多い。科学技術に劣るカブトムシ王国では技術者の育成に多額の資金を投じており衣食住の支給もしているが、それでもやはり下級の学匠は貧乏で、御布施の多い蜘蛛神殿の世話になっていた。

 アルエルシィは男に案内されて裏の厨房に入った。中は神殿内とは思えない程設備が整っていて、このまま百人が相手でも商売が出来そうだ。表で見る黄色い巫女衣を纏う姿とは異なり、白い調理服に着替えた蜘蛛巫女はただの食堂のおばちゃんに見えた。

 ネコ煎餅は、ネコ用ビスケットに味を付けて参拝者に売っているものだ。人間が食べても美味しいように出来てはいるが所詮はネコの餌、妙な木の実の粉も混じっていてねちょねちょする。名物に美味いもの無しと言うとおり、蜘蛛神殿土産の駄菓子に過ぎない。これに、大鼠の肉のスープという正式なディナーにも供されるご馳走と合わせて食べるのはなかなかにミスマッチが素晴らしく頭がくらくらする。

 蜘蛛巫女が屋外で食器類を水洗いしている。明るい窓際のテーブルで、アルエルシィは男に先日の話の続きを聞いた。

「そう、督促派行徒の事ですね。そのとおり、本物の救世主が現れた現在、彼等の試みは失敗に終わったと言えます。彼等は世間を騒がす事件を起こし衆目を集め、天に自らの存在を認めさせて青晶蜥神救世主に選ばれるのを期待していました。ですが、その努力が全て無駄になったとしても、実は大した問題では無いのです。元々多数居る彼等行徒の内ただ一人のみが天に選ばれ救世主になるのですから、その他が外れるのは分かっていました。誰が救世主になったとしても、その後の彼等の行動は最初から決まっていたのです。」

「しかし世間では未だ不可解な殺人事件が起こり続けています。むしろ増えていませんか。」
「増えていますね。もっと増えるでしょう。彼等が行いを見せる対象がこれまでの聖霊的な存在から、生身の人間であるガモウヤヨイチャン様に移ったのです。確とした審判者が居るからには行動はより直接的に明示的になります。犯罪の規模も大きくなります。」

「もはや救世主は決まったのに、それでも人を殺す動機はなんでしょう。」
「一つには既存の体制、褐甲角金雷蜒両王国の在り様に対する抗議ですね。青晶蜥神救世主が既存の王国を滅ぼすよう、これらが邪悪で打倒すべき存在である事を示す必要があります。市中を殺人者が横行して権力がそれを止められないとなれば、その国は民草を守り導く能力に欠けると判断されますね、やはり。

 二つ目は彼等自身の存在を誇示して、青晶蜥神救世主が作る新王国において彼等の意志が結実するように設計を考え直させる。これがおおよその者の主要な目的です。彼等は単に救世主に成りたかったわけではない。救世主となって方台に何事かを成し遂げる意思があったのです。本物の救世主に彼等の意志を汲み取らせ、その通りの王国を作る、更には彼等自身の居場所を求めるのは当然の行為です。しかし、人を殺して官位を得る理不尽な思惑を青晶蜥神救世主が認めるとも思われません。

 そこで三つ目です。彼等はガモウヤヨイチャン様を真の青晶蜥神救世主とは認めていない。ガモウヤヨイチャンがただの人、方台に生まれた同胞であるのならば、彼等は天が運命を定められたと納得もするでしょう。しかしガモウヤヨイチャンと申される御方は星から来た人です。絶対的な神人の命の下に人間が服従する王国となれば、これまで方台に現われた三つの王国とは大きく形を違えます。推察された十二神の計画と食い違うのです。
 彼等は考えます。ガモウヤヨイチャンは神の代理にして一時的な執行者、いずれこの地を去り十二神方台系に産まれた者が真の王を務めるのではないか。そうであれば、未だ天は人を選んではいない。これまで通りの騒ぎを起こして新たなる者を天に選ばせる。そう解釈しているようです。

 四つ目はかなり頭の悪い理由ですが、現在の救世主が喪なわれた場合ただちに次の者が任命される、という希望的観測に基づくものですね。この思惑で行動する者は、督促派行徒内にあっても蔑んで見られます。が、動乱は確かに不測の事態を呼ぶ母体と成り得ます。実行者は愚かでも、なかなかに侮れない結果を引き起こす可能性があります。

 そして最後に内的、病的要因でしょうか。人殺しが癖になった、止められなくなった。人を殺さねば生きている実感を得られなくなった。文字どおりの鬼畜と成り果てもはや救世主になろうという目的も見失い、自らの心の充足の為に殺戮を繰り返している。そういう者も居るでしょう。」

 下女のメショトレはなんだか難しいけれど気持ちの悪い話を聞かされて、食事が喉を通らなくなった。またお嬢さまはこんな気色の悪い物語を御好みで、と思っている。褐甲角王国では最近「小説」という絵空事を面白おかしく書いたものが流行の兆しを見せている。作り話の中でも謀殺や通り魔が横行し、人食い教徒やら督促派行徒が暗躍する。メショトレは、アルエルシィがもっと詳しくそのあたりの知識を知りたがっているのを覚えていたから、このシバ・ネベという学匠もその筋の愛好者だと理解した。

 アルエルシィは男に話の先を続けるように促した。

「”フェビ”はどうでしょう。」

「フェビ?それはなんですか。」
「フェビとは、ガモウヤヨイチャン様の星の世界で、”足の無いトカゲ”を指す言葉だそうです。星の世界ではあれは草むらに普通に居る生き物だと聞きました。」
「凄いな。そんな話は蜘蛛神殿でも聞いた事が無い。」
「ネコに詳しい人は、外にも居るのですよ。で、督促派行徒がフェビを使うのはどういう意味が有るのでしょう?」

 男はしばし顔を窓の外に向けて、庭木の枝が風にそよぐのを見た。アユル・サユ湖に面したカプタニアはこれから夏に掛けてが一番良い季節だ。

「”足の無いトカゲ”は特別な存在です。青晶蜥神の作る新しい世界は、光に溢れ正義と公正さで統べられ皆が裕福に健康に過ごせる理想郷、ではない。やはりこれまでの王国と同様に表もあれば裏もあり、深淵に悪を湛えた現実の世界である事を、アレは如実に示しています。

 しかし別の考え方もある。”足の無いトカゲ”は強力だが人間の手で制御出来る存在です。悪を、それも神秘的な悪を自在に扱う事で、自らを神の一族になぞらえる事も可能です。”フェビ”と言いましたか、は督促派行徒にとっての聖蟲ですね。人食い教徒はあれを食べるそうですが。」

「食べる?!」
「人食い教徒は人を食べてその精気を自らのものとするのが教義です。青晶蜥神の、それも暗黒面の化身とも思える生き物が突如目の前に現れたら、食べずにはおれないでしょう。」
「死にませんか?毒があるのでしょう。」
「それはー、私は食べた事が無いので分かりかねますよ。

 さて、”足の無いトカゲ”についてもう少し考察をすると、これがまたとてつもなく深い意味を持った、まさに神話の世界に居るべき生き物だと分かりますね。なにせ足が無いのに不自由なく進んでいく。人々の注意をかいくぐり草むらを隠れて進み、不意に襲いかかる。毒もただ人を殺すだけでなく一月も意識不明にされて眠ったまま死んでいく。」
「実に。実に意味が深いのです。おとぎ話でも想像出来ない怪物ですわ。」

「まさに。しかもこれが、わずか十年前にいきなり方台に現れた。神の意志をこれに見出そうと人が考えるのは、極めて当然です。青晶蜥神は方台に、ガモウヤヨイチャンという光と、闇の二つを御与えになった。互いに矛盾しその意図が分かりません。

 督促派行徒でもスガッタ教の流れを組む深い智恵を持った一派は、こう考えます。ひょっとしたら、ガモウヤヨイチャンと”足の無いトカゲ”は同じものではないか。足が無いとは方台に生まれた者では無い、方台の為に働くのでない事を意味する。ハリセンを用いて敵を討ち同時に人を癒すのも、牙の毒で人を傷付けながらも安らかな眠りに導くのと符合します。どちらもこの世の者ではないし、どこの枠組みに位置付ければよいのか分からない、捉え処の無いものです。」

「救世主ガモウヤヨイチャン様は、善なる存在でしょう。」
「それは、”足の無いトカゲ”が人を殺すから悪だ、と見做すのに似ています。人がこの世に在るのは天河の神の命令によるものなれば、死もまた神の命ずるところ。毒にて安らかに旅立たせるのが果たして本当の悪であるか、議論の分かれるところです。癒しの力で人を救うガモウヤヨイチャンを、苦しみ多く汚辱に塗れた濁世に人を戻しているだけだ、とスガッタ教では考えます。

 どうです。今宵は灼劫ですから星読台の方も見学していきませんか。」

 男は、下女のメショトレの目付きが険しくなってきたのに配慮して、話を切り上げアルエルシィを神殿中央にある天文観測所に誘った。アルエルシィも、あまり変な話を聞かせて父親に妙な告げ口をされるとかなわないので、喜んだふりをして同意した。

 蜘蛛神殿を車輪と見れば、その軸にあたる位置に星読台はある。占星術は、天の星河の左右に在る十二神を崇める地でありながら、意外な程に知られていない。みだりに神の御心を推し量るべきではない、と霊能を持ち聖山の神殿都市で専門の勉強した神官のみに任せてある。が、例外として学匠は暦の研究に星読台の使用が許されていた。

 アルエルシィは恐れ気もなく男について登るが、メショトレはためらったあげくに階段の上までで中には入らなかった。ただし、二人の声を聞き逃さないように耳をそばだてる。

「これは、思ったものとぜんぜん違うのですね。機械ばっかりです。」

 アルエルシィの感想に男は満足そうだった。専門教育を受けた神官でないと使えない観測機器がずらりと並ぶ星読台はここだけギィール神族の工房のようで、金雷蜒王国の学問を理想とする学匠達の憧れがこの部屋に実現していた。

「あ、それは触らないで下さい。日の出の位置を記録しているのです。太陽を直接見ると目を痛めるので、この眩晶儀を使うのです。」
「太陽というものは、実際あれは神様なのですか、それとも篝火なのですか。」
「篝火、と考えるのがよろしいでしょう。神であればもっと自由に動けるはずですが、何百年観測してもまったく経路を狂わせません。太陽を縛るのはやはり神の御力でしょう。」
「なるほどなるほど。ですが、昼間は星は見えませんよね。どこに隠れているのです。」

 十二神方台系には学校教育は無く、豊かな者が家庭教師を雇って学問を積むが、その科目は読み書き算盤、帳簿の付け方、良くて歴史書と十二神の祝詞を学ぶ程度だ。科学教育などは王宮付属の博士寮に属さねば存在に気付きさえしない。金雷蜒王国の科学技術を移植する為にギィ聖符で記した文書を読むのは、学問の基本にして全てで、学匠は日夜ギィール文書と格闘している。翻訳されてあるとはいえ難解なそれを読みこなす友人のヒッポドス弓レアルは、アルエルシィにとってはもう雲の上の存在なのだ。

「眩晶儀を用いれば見えますが、昼間も星はあるのです。ただ昼は太陽の姿があまりにも眩しいために、人の目では分かりません。ほら、ご覧なさい。」

 男が示した何枚ものガラス板の集合体をアルエルシィは覗いて見る。極めて微細な溝が幾重にも彫り込んでいる色ガラスで、これを通して天を眺めると、紫色の空に黒い丸が浮かんでいるのが見えた。

「なんですか、これは。」
「空の穴、と呼ばれていますが、私は『黒の月』が正しいと思います。白の月、青の月と同様に天を巡っているのですが、完全に黒色なので夜空でも見えず昼の空ではさらに見えません。灼劫という現象は天に白と青の二つの月が並ぶものと思われていますが、実はこれも同時に天に在るのですよ。」
「へー、なるほどお。面白いですね、なにか白い線が何本も光ってますよ。へー。」
「え? 白い線ですか。」
「ええ。」

 失礼、と男はアルエルシィに代わって眩晶儀を覗く。天に浮かぶ黒い円盤の表面には幾筋もの白い線が走り、周辺から中央にかけて弧を描いて集中していく。

「これは、一体どうしたことだ。」
「どうかなさいましたか。」

 眩晶儀から目を話して直接天を仰いだ男は、空の異変に気が付いた。浮かぶ雲が一瞬にして蒸発して、青い空が拡がって行く。東の空を中心に放射状に雲が消えて行く様に、男は狂喜した。

「始まったはじまった、天穹星神の画変がついに始まったんだ。私の計算通りだ!」

 男はメショトレを突き飛ばすように階段を駆け降りて、いずこかへ去ってしまった。アルエルシィは戸口から覗くメショトレと顔を見合わせて、言った。

「うちに帰りましょう、・・か。」

 

 その晩、東のスプリタ街道沿いの全域で大地震があり、多数の人が被害にあったという。しかしカプタニアではほとんど揺れを感じず、アルエルシィも朝になるまでまったく気付かず、安らかな眠りの時を過ごしたのだった。

 

 

第三章 ソグヴィタル王、紅曙蛸女王の市で天意を撃剣にて占う

 

 その日、その時。弥生ちゃんが神聖首都ギジジットにて巨大金雷蜒神と激闘を交わしていた時間帯に、

ソグヴィタル範ヒィキタイタンも闘いの中にあった。

 

 本来褐甲角王国の王族が自ら剣を取って戦うという事は無い。常に周囲に侍る黒甲枝が戦う姿を眺めていればよい。いや、手を出してはならない。それが王族と黒甲枝との契約のようなものだ。黒甲枝が戦う姿を公正に判定し各自の手柄を客観的に証す事が、上に立つ者の職責なのだ。

 とはいえ軍神たる黄金の聖蟲を額に戴く王族だ。彼等男女を問わず武芸も一応は達人と呼ばれる域にまで鍛え上げる。その鍛錬は人を討つ為のものではなく、罪有ると認められた場合我が身を躊躇無く罰する覚悟を養うのが目的だ。自らに追捕の手が伸びた場合、王族は抗うことなく自らの手で生涯を終らせるべきである。褐甲角王国は公明正大にして無謬の裁きを地上において実現する、正義の王国。その頂点に立つ王族が罪を犯すなどあってはならぬ。一身の命と王国千年の齢と、どちらを優先すべきかは論ずるまでもない。

「にも関らず、ソグヴィタル王は追捕師と戦う事を御選びになった。」

 決闘はタコリティの西側城門前の広場で行われた。

 独立武器商人にしてヒィキタイタンの忠実な友人ドワアッダは、自ら選んだ信頼の出来る傭兵達と共に城門を背にして見守っている。褐甲角王国へ通じる街道側にはカプタニアから来た追捕師レメコフ誉マキアリィの百名の兵が対峙する。その周囲を多数の旅人とタコリティ市民の野次馬が輪になって囲み、城門の上からは交易警備隊を主体とする約千人の兵が観戦する。

「これで彼は完全に褐甲角王国の鎖から解き放たれたというわけですか。まったくの自由人になった、わたしと同じですな。」

 ドワアッダの隣で物見遊山に闘いを眺めているのが、金貸しのジューエイム・ユゲルだ。彼は十二神方台系における最初の銀行家と呼べる人物で、自らの資産だけでなく他からも資金を募って投資先を探し、その事業を成功させる手伝いもするかってない職業を一人で起した。極めていかがわしい人物であり、投資した資金を回収する為にはいかなる手段も厭わず、場合によっては間者も使って事業主の人間関係をずたずたにすると、裏世界で覇を競うタコリティの有力者でさえ忌み嫌う男だ。

 ドワアッダは彼に答えた。

「カプタニアを出奔した時に、こうなる事は定められていたのだ。褐甲角神の聖蟲を戴く者は運命から逃げはしない。」
「だがタコリティで王となる、までは想定されておられなかったでしょう。私は未だ疑っているのですよ、ドワアッダ殿。ソグヴィタル王はほんとうは復権を願っているのではないですかな。」

 ヒィキタイタンは政争に破れたとはいえ、王国を率いる武徳王23代カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクに含む所は無い。また彼自身の罪とは、元老院の召喚に応じず人質であるカタツムリ巫女ファンファネラを死に追いやった、だけである。彼の主張そのものは今も元老院や黒甲枝で支持する者が多い。彼等の反発を懸念して、追捕師をタコリティに派遣するのを元老院ハジパイ王は抑えねばならなかった。

ガイン

 鉄の鳴る音がして二人は話を止め決闘の行方に注目する。

 ヒィキタイタンと追捕師レメコフ誉マキアリィは二人とも同じ黒甲枝の剣で闘っている。刃長120から150センチもある大剣で重さも最大で15kgになる。無論常人の用いるものではなく、強力無双の黒甲枝がゲイルの肢を斬ったり甲冑武者をそのまま両断する時に使う。ただこの剣は、黒甲枝にしても重過ぎた。振り回す筋力自体は十分余りあるのだが、その反動を受け止めるのに人間の体重では軽過ぎる。故に黒甲枝は専用の重甲冑を着用し、全備重量200kgをカウンターウエイトとして剣を振るう。生身の状態では一度振る度にその勢いを殺し抑え足元の踏んばりを確保して、一撃ごとに構えを取る悠長なスタイルに成らざるを得ない。隙だらけに見えるが、対歩兵用にはコンパクトで小刻みに攻撃する技もちゃんとあるので実用上問題は無い。

 追捕師レメコフ誉マキアリィは33歳。ヒィキタイタンの一つ下で、幼少時より彼の小姓として共に育ち学び、鍛えて来た。黒甲枝の名門レメコフ家の次期当主であり、長じては元老院で先戦主義を唱えるヒィキタイタンに外部から呼応して支えていた。その彼が追捕師の役目を引き受けたのは、ヒィキタイタンに時期を待ち青晶蜥神救世主の到来に機会を得る猶予を与える為だった。出立を促すカニ巫女の嘆願状を何度も握り潰し人に翻意を噂され、王都にて疎外されもしたが、今は。

ガイン!

 ヒィキタイタンの打ち込みを大剣で打ち払う。

 マキアリィは嬉しかった。ヒィキタイタンの攻撃はまさしく必殺を狙う渾身の一撃だ。それはマキアリィを認め全力を尽している証明、彼が未だ未来を諦めていない何よりの表れだ。同時にそれは、マキアリィに対しても黒甲枝、追捕師としての本分を全うする事を要求する。

「マキアリィ、連撃を出して来い。一撃ごとに打ち合っていては明日の朝になっても決着はつかんぞ。」
「そういう貴方こそ、なぜ青晶蜥神救世主の剣を用いない。あれならばもっと楽に勝てるでしょう。」
「あれは斬れ過ぎてなあ。」

 弥生ちゃんが青晶蜥神の神威を与えたヒィキタイタンの剣は、いつしか「王者の剣」と人の呼ぶ所となった。元もギィール神族自らが打った名剣であるが、抜けば青晶蜥神の青い光を放ち鋼鉄をも易と両断する斬れ味は、人の目を惹き付けずにはおられない。この剣を振るって兵を指揮する姿はまさに王者の風格で、ヒィキタイタンが居る限りタコリティの独立王国の夢も実現すると人々に思わせた。
 今、その剣はドワアッダが預り右の腰に吊るしている。追捕師マキアリィとの決闘に臨み、ヒィキタイタンはあえて黒甲枝の大剣を選択した。褐甲角神の聖蟲を額に戴く者として、他神の力を用いるのを適当でないと考えたのだ。これまでの自分の有り様を今ここで清算する、褐甲角神の審判を頂く覚悟で臨むからには、勝敗の行方など考えていない。ただ渾身の力を込めて大剣を振るう。

 マキアリィもその想いに答えるように、必殺の一撃を繰り出して来る。互いに各々の剣の術技を知りつくしており、手加減しては自分の身が危ない事を知っている。マキアリィが現在着用している甲冑は黒甲枝の正式な重甲冑ではなく、長時間の着用が可能なクワアット兵の甲冑の上位版で、大剣に対してはまるで防御力が無い。一方のヒィキタイタンも革鎧で手足の袖を縛っている程度。互いに一撃でも当たれば戦闘不能に陥る。

ガインン。

 マキアリィの左上からの打ち込みを払う、だが払われた剣は振り下ろされた下段から腹に向けて鎌首をもたげるように返って来る。ヒィキタイタンはかろうじて胸を反らせてこれを避けるが、マキアリィは体を反転させて第三撃を横に払う。この技は体勢が大きく崩れる為に、余程相手の反応を知って隙を突かれない確信が無ければ使えない。が、ヒィキタイタンは大剣を上から突き下ろす形で前に踏み込み、真っ正面から敢然と受け止めた。

ギュアンンンン。

 これまでの剣声と異なる、金属が震える音がする。黒甲枝の大剣は聖蟲が与える怪力に耐える為に、折れず曲がらず欠けないように特別な技術を用いて鍛え上げたものだ。褐甲角王国冶金技術の粋と言ってよい。刃は無く単に左右が尖っているだけだが、これだけの重量を怪力で振り回すのだ、城門の大かんぬきですら一刀の下に叩き切る。通常の使用ではたとえゲイルの肢だろうが甲冑武者を頭から両断しようが、剣にダメージが入る事は無い。しかし大剣同士が、それも聖蟲を戴く者同士が死力を尽してぶつけ合えばさしもの剛剣も無事では済まない。

 マキアリィの三撃を受け切ったヒィキタイタンは、一度間合いを開けて剣を構え直して、言った。

「それほど長くは保たないな。」
「大剣が砕けるところなど、見たことありませんよ。」
「俺もだ。楽しみだな。」

 だがヒィキタイタンが用いる大剣は、ドワアッダが調達したものだが、かなり昔の作品で戦場往来の古傷が少し残る。剣同士の耐久力を比べるならば、彼の方が不利となろう。

「ドワアッダさま。」

 と背後から呼ぶ声がして、ドワアッダとジューエイム・ユゲルは振り返った。テュラクラフの神像を安置している紅曙蛸仮神殿のタコ巫女の一人だ。赤い巫女衣装を翻し、裸足で走って来ている。ドワアッダに耳打ちして報告すると、よほど慌ててきたのかその場にへたり込んでしまった。現在タコリティ内部は準戦闘体勢で各所に関所があり、自由に往来するのは難しい。一々留められ調べられる間に、逸る気持ちを抑えられなかったのだろう。

 ドワアッダは、二人の決闘を遠巻きに見ている軍兵、野次馬を置いて、一人だけ前に進み出て大音声でヒィキタイタンに報告した。

「ご多忙の所申し訳ございません。ソグヴィタル王に報告したき事がございます。」
「構わん。申せ。」

「は。紅曙蛸神殿の巫女が申すに、紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ・ッタ・アクシ様の御体を覆うタコ石が全て消え去り、尋常の人のごとくに呼吸を始められたとのこと。お目覚めになられるのも間近と思われます。いかがなさいますか。」

「マキアリィ、聞いたか。」
「ソグヴィタル王はどうなさるか。一時休戦というのなら聞かないでもないぞ。」
「いや。・・・ドワアッダ、私の剣を抜け! そして左右に振ってみよ。」

 ドワアッダはその指示の意味がよく分からなかったが、右の腰に吊るしたヒィキタイタンの剣を抜いた。青く滴のように流れる光が鋼を伝い、周囲を清々しく照らす。

「おお。これが、青晶蜥神救世主から神威を頂いた、王者の剣か。」

 ジューエイム・ユゲルは思わず感嘆を口に出す。これがあるからこそ、古代の紅曙蛸王国を復活させようという荒唐無稽な茶番も成り立つのだ。

 ドワアッダは剣を天にかざし、左右にゆっくりと振った。青い光が長く糸のようにたなびく。すーっと、剣の周りに風が巻くのを感じる。振る度に風は強くなり、やがて剣を離れてタコリティの街の中を走っていった。

「これは!」

 剣の風が触れるものの感触を、ドワアッダはそのままに得た。風はタコリティ市街を隅々まで渡り、逐一その状況を報せて来る。話に聞くギィール神族が聖蟲により与えられる超感覚に似た機能を、この剣も持っているのだ。風は最後に鉄の触れ合う響きを伝え、消えた。

「だれだ!?」
「デェヨルニダの百人隊です!」

 ヒィキタイタンはテュラクラフの目覚めと同時に謀反が起こる事を察知していた。いや、タコリティを出発する前、弥生ちゃんにその可能性を示唆されていた。だからこそ同行せずに彼はテュラクラフの元に残ったのだ。叛乱者の目的は幾つか考えられるが、タコリティ最大の実力者フィギマス・ィレオの対抗手と目されるゲバシューラの配下のデェヨルニダが反旗を翻すとすれば、テュラクラフを拉致して東金雷蜒王国に逃げ込む筋書きだろう。ギィール神族の後押しでゲバシューラがタコリティの支配権を奪取する算段だ。

「いかが致します!」
「放っておけ。フィギマス・ィレオが対応する。次は?」

 再びドワアッダは剣を振る。風は走って紅曙蛸仮神殿の方へ飛んでいった。

「・・・! 火です!! 仮神殿の近辺で火事が、いやこれは故意に放火したものだ。」
「そっちが本命だ。ドワアッダ、一時剣を預ける。行ってテュラクラフ様をお守りしろ。」
「はい!
    メルギス、シバーウラフ、引き続き城門を固めよ。後の禁衛隊は続け!」

 ドワアッダは決闘を取り巻いて見守っていた兵の半数を率いて紅曙蛸仮神殿に向かう。後には傭兵隊長メルギスとシバーウラフが残り、ヒィキタイタンとマキアリィの決闘を見守り続けた。この二人は、使える側近の少ないヒィキタイタンに事業のてこ入れとしてジューエイム・ユゲルが斡旋した者達だ。いずれ毒を含んではいるのだろうが、それを言い出すとタコリティ全ての者を疑わねばならなくなる。相応の優秀さと従順さを持ち、ただ金銭にのみ従う彼等は、この状況においてはむしろ善なる存在と言えるだろう。

 

 タコリティは本来人が住むのには相応しくない不毛の海岸地帯にある。木も生えず水も得られぬこの土地は、すべてが外から持ち込んだ材料により作られている。20年に一度は大火が起こり全市を焼き尽くし、それでなくとも毎年台風が吹き寄せて被害を出す。災害から免れる為に重要な商品や有力者の住居はほとんど船の上にあり、いつでもテュークの円湾に逃げ込めるよう準備している。一般の住民達も災害には慣れていて、改めて避難の指示をしなくとも皆勝手に整然と安全地帯へ逃げている。その流れを遡るように、ドワアッダの率いる禁衛隊は紅曙蛸仮神殿へと向かう。

「! 右階段、上、伏兵。射よ!」

 ドワアッダは青く輝く剣を掲げて突き進む。彼が風に感じるままに敵を指し示し矢を射掛けると、待ち伏せを狙っている反乱勢の兵達は慌てふためき算を乱して逃走する。指摘する標的のあまりの正しさに、付き従う禁衛隊の兵も驚いた。

「この剣は魔物だな・・。」

 ドワアッダはただ剣風の教える通りに攻撃を命じているに過ぎない。風が渡る所、たとえ物陰や壁上に姿を隠して居ても、兵の位置を感じ取れる。戦場の状況を手に取るように知る優位さはこれまでギィール神族のみが占有していたが、いざそれを手に入れてみると、まるで自分の器が倍にも三倍にも拡大した良い気分になり、却って恐ろしくなる。この剣を用いるのは元々が衆に優れ人の上に立つ事を義務づけられた者であるべきなのだ。凡人がこれを帯びるとその魔力でたちまち身を滅ぼすだろう。

 禁衛隊はあらゆる妨害を跳ね除けて突進する。その勢いは防御側の予測を遥かに越えて早く、対応する隙を与えずにたちまち紅曙蛸仮神殿に突入した。タコリティ随一の実力者フィギマス・ィレオが自邸を提供した仮神殿は、立て篭るにも適した城塞風の造りになっている。門を閉めてしまえば反乱勢の為すがままだったろうが、禁衛隊に押されバラバラに撤退する反乱勢は列を立て直す暇が無く、遂には諸共に内部に雪崩れ込んだ。

 反乱勢は装備がまちまちで誰が敵だか味方だか分からない。各所で紅曙蛸神官戦士が兵と切り結んでいるが、神官戦士同士が戦う姿も見受けられる。おそらくは、仮神殿に仕える神官巫女、警備兵などに伏勢を紛れ込ませていたのだろう。周到に計画して、テュラクラフ覚醒の時を待って居たという事だ。

「我はドワアッダ、ソグヴィタル王より神剣を借り受けてテュラクラフ様の危難を救いに参上した。我に与する紅曙蛸神官、名乗れ!」

「ドワアッダ殿! 敵は目印に黄色い鳥の尾羽を刺しておりますぞ。」
「トバァリャ神官長どのか! かたじけない。」

 有り難い事に仮神殿を預かる神官長は敵では無かった。反乱勢は同士討ちを防ぐ為に肩や頭にポム鳥の黄色い尾羽を刺している。この印には、ドワアッダは心当たりがあった。

 禁衛隊は拝殿内に躍り込み、黄色い羽根を付けた者に片っ端から打ち掛かっていった。彼等は全て褐甲角王国の出身者だ。ヒィキタイタンはタコリティに自らに忠誠を誓う兵を持たなかったので、ドワアッダが密かに褐甲角王国に人をやって従う者を募ってきた。先戦主義を唱えるヒィキタイタンの主張に意を同じくする者はクワアット兵や邑兵の中にも多かった。兵役を離れて生まれの村に戻っていた有志が150名募集に応じ、禁衛隊を名乗っている。統一された指揮の下、集団が一糸乱れず戦う様には、交易警備隊を主体とするタコリティの他の隊はまったく敵わない。

 だが反乱勢にも逆転のチャンスはある。ドワアッダよりも先に女王テュラクラフ・ッタ・アクシの身柄を押さえれば良いのだ。一人、装備の良い武者が神官戦士2名をたちまちに斬り伏せてテュラクラフの眠る洞窟状の祭壇に踏み込んだ。最後の護りとして紅曙蛸巫女が短剣を振るうが、武者は無造作に女達を刀で斬り散らす。

「なんという事を。」

 武者の残虐さにドワアッダは怒りを覚え、一気に彼の元へ向かおうと激闘を繰り広げる両勢の中に踏み込んだ。その怒りに呼応して剣はより強く光を発し、周囲の者の目を眩ませ動きを止める。一瞬ドワアッダの前には誰も居ない通路が開ける。

「くわあけえええええぃいい。」

 ドワアッダは自らに開かれた道を真一文字に突き進み、武者に必殺の一撃を打ち込んだ。敵も相当に武術の達人であったが、鋼をも切り裂くガモウヤヨイチャンの剣だ。打ち込みを防いだ刀も、兜も、両断され左右に弾け飛ぶ。ドワアッダは兜を割られ呆然と立つ彼を蹴り倒して面体を検める。

「お前は、インバルエか。」
「・・いかにも、ドワアッダ殿。私がテュラクラフ様を王に戴く者だ。」

 インバルエはタコリティ独立の当初からヒィキタイタンを支えてきた有能な軍人で、元はクワアット軍の中剣令だった男だ。黒甲枝の出身でなく剣令を務めるのだからよほどの逸材であったろうが、どうしてこんな無法の街に来たのかと不思議には思っていたのだ。

「貴様が、何故にヒィキタイタン様を裏切る。」
「それは私の台詞だ。何故にソグヴィタル王はテュラクラフ様を担いで自らの王国を築く。聖なる女王を抱くのは、我ら栄光の番頭階級の継承者のみだ!」
「! やはりそうか。」

 羽根を付けて敵味方を識別する方法は、かって紅曙蛸巫女王五代テュラクラフの王宮で、交易警備隊長ギダルマーの軍勢が専横を尽した番頭階級を駆逐する際に使ったものだ。その時の羽根の色は紅曙蛸(テューク)の紅だったが、今回インバルエは記録を表す蜘蛛神の色を用いた。番頭階級が独占していた帳簿の文字と数字を象徴したのだろう。

「インバルエ、言え。番頭階級の末裔は何人ここに居る。」
「ヒィヒャハハハ、古の栄光を受継ぐ者が何人も居るわけが無いだろう。残りの者は人喰い教や督促派行徒、紅曙蛸神の盲信者ばかりだ。誰もがテュラクラフ様を欲する。ヒィキタイタンがそうであるようになあ。」

「それだけ聞けば十分だ。お前にはガモウヤヨイチャン様の剣は相応しく無い。」

 ドワアッダは神剣を右手にかざしたまま、左腰に下げている自らの刀を左手で逆手に引き抜き、そのままインバルエの喉を抉った。吹き上がる血飛沫を厭うように、神剣は青い光を脈動させ、風を吹き荒らす。

 剣の光が目映く篭る祭壇の中、紅曙蛸巫女達の後ろに隠されたテュラクラフがうっすらと目を開き、眼下に拡がる惨劇の様をぼんやりと眺めていた。

 

 ヒィキタイタンとマキアリィの決闘は既に100合も打ち合って、未だ勝負はつかない。だが、傍目にもマキアリィの優位が分かるようになってきた。

 大剣の破損を気遣ってヒィキタイタンは思い切った打ち込みが出来なくなった。それに対してマキアリィは変わらず必殺の一撃を繰り出して来る。双方とも傷を負っていないのは見事だがさすがに汗だくになり、マキアリィは暑くて邪魔だと甲冑の胴部を脱ぎ捨てた。

「なにやら城市に煙も見えるが、大丈夫ですか。」
「戦っているのは我々だけでは無いという事だ。そろそろケリを着けねばならないな。」
「ではアレをやりますか。」
「うん、そろそろだな。」

 二人は一旦剣を引いて、間合いを開ける。マキアリィは後ろに控える追捕のクワアット兵を一人呼び出した。彼の持ってきた水を一口含み、地面に吐き捨てる。

「次で決着がつく。」

「何をなさいますか。」
「吶向砕破の剣を使う。たぶん私が勝つだろうが、無傷で済むとも思えない。勝った後は向うの兵が仕掛けて来るから、逃げろ。」

「もしや、ソグヴィタル王に殉じるおつもりではありませんか。」
「どうかな。ともかく勝敗が決した後は、私は自力でなんとかする。お前達の事まで手が回らない。」
「ご心配なさらぬよう。我らも褐甲角軍の兵として、整然と威厳を持って引き上げます。」
「頼むぞ。」

 一方のヒィキタイタンにも傭兵隊長メルギスとジューエイム・ユゲルが傍に寄って、指示を受けた。

「テュラクラフ女王はもう目覚めただろうか。」
「存じません。」

「ドワアッダ殿は鎮圧に成功しましたよ。そうでなければ、私の所に手の者が指示を仰ぎに参ります。」
「それは確かでよいな。ドワアッダには伝えてくれ。万が一私が負けたら、船にテュラクラフ様の座乗を願って出港し、ガモウヤヨイチャンと合流しろと。」
「タコリティは捨てると仰しゃいますか。それもよいですな、ここは褐甲角王国に近過ぎる、円湾に新しい街を作るという手もございますよ。」

「金なら返せんぞ、自力で取り立てろよ。」
「ご心配なく、今回は20年の長さで帳尻を合わせる計画になっております。最初から儲けを出そうなどは、臆病者の算術です。」

「ソグヴィタル王、勝算は最早失われたとお考えですか。」
「いや。・・・実のところ、負ける気がしない。勝ってしまった後の方が面倒でな。」

 メルギスがヒィキタイタンの顔を仰ぎ見るが、確かにこれから死ぬ者の色は無い。これだけの激闘を交わしていながらも涼しげでさえある。不審を解くようにヒィキタイタンは、向うで準備を進めるマキアリィを見詰め、剣の握りの紐を直しながら、言った。

「ガモウヤヨイチャンどのから学んだ秘術があるのだ。星の世界の剣術だよ。」

 

 二人はそれぞれ支度を整え終わり、再度対峙する。今度は交互に打ち合う事はしない。双方が同時に斬り掛かるのだ。吶向砕破の剣とは、黒甲枝が聖蟲の羽ばたく力を借りて一気に間合いを詰め、高速で激突する最強の必殺技だ。一撃で城門をすら弾き飛ばすパワーに、剣も十分な強度が無いと耐えられない。だがヒィキタイタンの剣の耐久度は限界に達している。
 二人の額の聖蟲が甲羽を開いてしきりに翅を震わせる。マキアリィの黒褐色の聖蟲は乾いた低い振動音を発し、ヒィキタイタンの黄金の聖蟲は場違いとも思える美しいハミングを響かせた。固唾を飲んで対決を見守る兵達は、やがて二人の姿が見えにくくなったと感じた。空気が揺らめいて決闘者の全身を包み、神威の発動を待ち受ける。

 

「シ!」
「しゃ!」

 10メートルの距離が瞬時に埋められ、金属が砕ける音が広場全体に轟いた。二人の剣が激突し、ヒィキタイタンの大剣が根元から砕けて粉となり破片を撒き散らす。しかし、その衝撃でマキアリィの突進も止った。大剣を振り上げ、留めとなる頭上からの一撃でヒィキタイタンは頭蓋を割られ脳を散乱させる。

 

 『これは、ぜったい使っちゃいけない技なんです。効果が無いというのではなく、あまりにも物語で濫用され過ぎて陳腐になり、誰ももう驚かなくなったんです。だからこれを使う時は世間から失笑される事を覚悟して、でもやっぱり可能な限り使わない方が、身の為ですよ。』
と、ガモウヤヨイチャンは笑っていた。

 星の世界の剣術の幾種類かの型を見せてもらい、木の剣で打ち合って術理を解説してもらった際に、「困った時につかう最終最後の奥義」と言われるこの技を、ヒィキタイタンは教わった。なぜか弥生ちゃんはこの技を説明する時は頬を赤らめてさっさと終らせようとしたのを無理に頼んで何度も練習させてもらい、遂に会得に至る。彼自身が一流を拓くほどの達人であればこそ短期間で覚えられた究極技が、絶体絶命の瞬間、期せずして発動した。

 マキアリィは信じられない。頭に割り込んでいる筈の剣が、ヒィキタイタンの額のすぐ上をかすめて空中に静止する。しかもヒィキタイタンの姿が無い。聖蟲を戴く黒甲枝が必殺を期して打ち込んだ渾身の一撃をかわせる道理が無かったが、それは起きた。

 だがマキアリィが事態を理解する時間は無かった。弥生ちゃんが教えたのは単に剣をかわすものではなく、相手が事態に気付いて対応をする前に制圧してしまう技だからだ。ヒィキタイタンは両掌で剣を挟み込むと同時に剣を押し、上にわずかに引き上げる事で勢いをそのまま受け流し、相手の体勢を崩させた。その刹那に身を返し剣を勢いのまま地上にねじ伏せる。マキアリィ電光流星の一撃がそのまま自身を地面に叩きつける力へと転化する。

 見守る者も何が起きたのか理解出来ない。ただ、二人の姿が激突して金属の砕ける音がしたかと思えば、次の瞬間マキアリィが地面にめり込み、ただヒィキタイタンのみが大地に立っている。手品を見せられたかのように誰もが唖然とし、動きを止める。静寂の中、ヒィキタイタンが拳を振り上げ、地に伏すマキアリィに決闘の終了を告げる一撃を加えた。

 ヒィキタイタンが一人、傭兵達の元へ戻ってくる。まだ誰も動く事が出来ない。目の前で起きた光景を現実として認識するに至らないのだ。

「・・・・・勝ったのですか?」

 ジューエイム・ユゲルが倒れたマキアリィの姿を呆然と見詰めながら、戻ってきたヒィキタイタンに確認する。

「ああ。」

「なにをなされたのです。」

 メルギスも自分の目が信じられない。こちらの剣は砕け散り、敵の圧倒的有利な状態があった筈だが、天地の道理をひっくり返した結果がそこにある。

「説明するな、と言われているのだ、ガモウヤヨイチャンどのに。」
「星の、世界の、剣術。」

 ざわと見守る群集の中から声がする。城壁の上の兵達が武器を鳴らす音がして、やがて歓呼の声が轟音となって降り注いだ。これで初めて、ジューエイム・ユゲルもメルギスも勝利を確信する。追捕のクワアット兵から二人、三人と人が出て、地に伏すマキアリィの元へ向かう。メルギスが尋ねた。

「殺しましたか?」
「骨は砕いたがね、三月もあれば癒るだろう。この技は人を殺さない為のものだからな。」

「星の世界の、不殺の、剣。」

 

 ふと気配が変わったのに気付き、後ろの城門を振り返ると、歓声が悲鳴に代わるところだった。

 城門の上の人が左右に揺れている。地震かと思ったが、外は揺れていない。ただ、門の上を人が逃げ惑う姿だけが見える。

「なにごとか・・・。」

 いきなり門の向うで、どーんと大きな破裂音がして、柱の木材や屋根を噴いていた板が宙に舞う。泥壁が空中で回転しながら崩壊し、土塊を撒き散らす。西から東に砕けた家の材料が放り上げられて空中に列を作る。

「ソグヴィタル王、これは一体。」
「どうやら、テュラクラフ女王が目覚めたようだな。」

 重い扉が軋んで城門が開き、夥しい人が街の外に溢れ出す。人々の顔は一様に恐怖に引き攣っており、制止すべき門兵も一緒に逃げて来る。ヒィキタイタンと傭兵達がその流れに逆らって門内を窺い、古今に絶無の神秘的な光景を見た。タコリティの街を巨大な赤い棍棒が薙ぎ払う。長さは100メートル、その全長に無数の大きなあばたがあり呼吸するようにそれぞれが収縮する。例えて言えばまるで巨大な蛸の足が地面を割って持ち上がり、人為の諸物を全て微塵に砕こうとしている姿に見えた。

「テューク(紅曙蛸)!」

 今を去ること2500年前、紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ・ッタ・アクシが地下に隠れる際に一度だけ姿を現した十二神筆頭の神の名を、逃げ惑う者全てが叫んだ。

 

 

第四章 金雷蜒神と共に王姉妹帰還す 

金雷蜒神聖王国の旧首都、金雷蜒神が地上に御わす聖なる都ギジジットにて毒地を浄化して一ヶ月、弥生ちゃんは多忙を極めている。

 弥生ちゃんが凡百の救世主と異なるのは、自ら事務処理をする点だ。十二神方台系で用いられる表音文字テュクラ符はすでに聖蟲の助けが無くても不自由が無いほどにマスターした。神官達が持ち込んで来る資料もほぼ読みこなせるようになり、会計の帳簿も理解してギジジット運営の実体を把握すると同時に、直接支配に乗り出した。

 ゲジゲジ神官の重職と直接会談して彼らの身分の保証と王姉妹への忠誠を再度誓わせる。神官戦士を集めて今後解放された毒地を通って褐甲角王国の侵入がある事を告げ、首都の警備の拡充を指示し、護衛兵を閲兵して軍備を確かめ配備を改定し即応体制を整える。ミミズ神官巫女には引き続きの水路の整備を滞り無く続けさせ、毒を撒き散らす施設の破壊を命じる。ゲジゲジ巫女達には神聖宮殿内部の清掃と整備の計画を自ら立てて示した。

 無論反発する者も少なくなかったが、王姉妹が意気消沈して指揮命令系統が凍結した中での事である。二千年の永きに渡り代々の王姉妹が為してきた全てが、金雷蜒神にとって意味が無くかつ重荷であったと認識するのは、はなはだしい苦痛である。呵責の念が彼女達の身を焼き、精神を打ち砕き、気力を根こそぎに抉り取った。高度の集中を要する金雷蜒神との交信に耐えられる者は一人も居らず皆自室に閉じこもったきりで、公務は弥生ちゃんのほしいままに任された。

 歴としたギィール神族であるキルストル姫アィイーガは、王姉妹に代わって金雷蜒神と聖蟲で連結して意志疎通するのに専念し、ギジジット再組織化計画にはほとんど携わっていない。彼女は間違いなく金雷蜒王国の味方であるから、ゲジゲジ神官の長は彼女の元に足繁く参って、弥生ちゃんの指示の正当性を確認する。

「青晶蜥神救世主様は賢明にも、王姉妹様方に引き続いてギジジットを治める事をお許しになられるようですが、しかし、・・・それでよろしいのでしょうか。」
「なるほど。あまりにも金雷蜒王国に寛大であることに、かえって不審があるわけだ。」

 聖蟲同志を光条で連結して情報を交換する行為は本来忌避されるが、金雷蜒神との交信はその数倍もの精神的負担を脳に強いて、たとえ相手に害意が無いとしても消耗は著しい。アィイーガは頭痛がして長椅子に寝そべっている時間が長くなり、常にゲジゲジ巫女に囲まれ世話を受けている。彼女が使っている部屋は何代か前の王姉妹が用いていたもので、豪奢だが50年閉鎖されていた為に崩壊した家具の大部分を放り出し、ほとんど空の状態で使っている。

「案ずる必要はない。アレは我々がいずれ滅びると思っているからな。」
「我々、とは金雷蜒王国の事でございましょうか。」

 アィイーガの言葉に神官長は思わず身を乗り出した。その動きに、左右に立って控える二人の狗番が敏感に反応する。

 狗番のファイガルとガシュムは、アィイーガの消耗に明らかに神経を苛立たせており、彼女に対する無礼があれば誰でも腹いせに切って捨てると言わんばかりの鬼気を漂わせている。、狗番といえども、聖蟲や神といった神族の根幹に関る話には口出しを許されない。たとえ主が健康を害そうが命が危うかろうが、信じてじっと耐えねばならなかった。自然、勤める態度は険しくなり、アィイーガに奉仕するゲジゲジ巫女達は彼らの正面に立たないようひたすら身を小さく屈めた。

 無尾猫も一匹侍って、専属でアィイーガの動向を記憶している。彼はゲジゲジ巫女にかしずかれ、新鮮な血浸しのビスケットも与えられて御機嫌だ。

「ガモウヤヨイチャンどのは、額に聖蟲を戴く者が地上を治める現在のしくみは、この千年の間に終ると思っているようだ。考えてみれば当たり前で、金雷蜒神はこの度いつでも天上にお帰りになられる身軽な姿を取り戻された。神が天河に戻って後、いつまでも聖蟲が地上に留まる事はあるまい。褐甲角神もそうだ。新青晶蜥王国が出来て方台に秩序を打ち立てれば、これ以上地上に留まる意義を失う。黒甲枝どもも滅びる。」

「しかし、それは。・・・いつの事になるでしょうか。」
「数百年は大丈夫だろう。が、その前にガモウヤヨイチャンは、ギジジットに最後の役目を与える。お前達暗愚の者が神の導きが無くても迷わぬように、神威の力を使うのだろう。」

 アィイーガには少し誤解がある。弥生ちゃんはもちろんギジジットをそれなりに活用するつもりだが、その主要な目的はゴブァラバウト四数姉が為した異界に通じる魔法だ。時空を越えて地球にまで届いたあの力を使って、自分が帰還出来ないものかと密かに考えている。その為にも王姉妹の協力が必要なのだが、

「おいたわしや、王姉妹さまはどなたも打ちひしがれておりますよ。お食べになろうともいたしません。」

 蝉蛾巫女フィミルティは数少ない娯楽系の神官巫女達と共に、王姉妹の気持ちを晴れさせようとここ数日努力してきた。しかし傍に寄る事さえも許されず遂には彼らの方が泣き出す有り様で、仕方なしに弥生ちゃんに直々に対策を伺いに来たのだった。アィイーガの部屋でお昼を食べていた弥生ちゃんは言う。

「まあ自業自得といえばそうなんだけど、やっぱり自発的に金雷蜒神に仕えようという気持ちを取り戻さない事には、結局はダメだね。」
「王姉妹を入れ換えればいい。首都のギジシップ島にはまだギジメトイスの娘達が残っているだろう。」

 アィイーガはその他大勢のギィール神族と同様に、王姉妹に対して容赦が無い。歴史的に見ても、神族と王姉妹は常に対立する関係にあったから、簡単に首を刎ねてしまえとかも言う。

「そんなことしたら、神官とか兵は反乱起こすでしょう。こっちには兵は無いんだから。」
「問題ない。千年に一度の青晶蜥神救世主があり、その力で金雷蜒神は新生なったのだ。長年神をたばかってきた王姉妹を討伐すると名分を立てれば、普通に寝返りに応じるぞ。金雷蜒王国の伝統はそういうものだ。」

「うーん。」

 考え込む弥生ちゃんに、フィミルティは慌てて話を反らす。蝉蛾巫女は歌で人の心を解きほぐすのが務めであり、殺伐とした政略などを聞かされると身震いがする。

「あの、なにか新しいお役目を王姉妹さまにお与えになってはいかがでしょう。お部屋に閉じこもって居ては、気持ちが暗くなるばかりで救いがありません。」
「うーん、」

 

 数日後、弥生ちゃんはいきなり全部署の責任者を招集して特別の命令を与えた。

「ピクニックに行きます。」

 ギジジット中のゲジゲジ神官巫女、神官戦士とその他合わせて千人にもなる大人数を繰り出して、城外の景色の良い場所で大宴会をしようという企画だ。目的は、王姉妹に元気を取り戻してもらおうというものだが、もちろんちゃんと裏がある。

 準備に三日を費やして御馳走を整え、花を摘み、風の穏やかな朝に数十艘の小舟に乗り込んで出発する。

 運河の水は長年毒に晒されて水中に生物が居ない為にあくまで清く透明で、一見すると鏡のように美しい。その水面を色とりどりの旗で飾ったきらびやかな船が行く。先頭の舟には青晶蜥神救世主とその随員が「ぴるまるれれこ」旗をたなびかせて洋々と進む。続く舟にはアィイーガが黄金の鎧を身に着けて二人の狗番と高位神官と共に乗り込む。三番目には新生なって小さく身を替えた金雷蜒神が黄金の焔をたなびかせ4人の王姉妹と共に姿を水に映している。その他多くの舟の上を正装で着飾った神官戦士や巫女達が思い思いに楽を奏で舞を踊り、花を撒いて運河を飾っていく。

 弥生ちゃんの舟には蝉蛾巫女フィミルティは乗っているが、なぜか狗番のミィガンは居ない。ネコは5匹が3艘に分かれて乗っている。弥生ちゃんの側で舟縁から水面を覗いていたネコが言った。

「素敵すてき。こういう奇麗なお祭りをしてくれると、話をするとき助かる。喜んで真似するヒトがいっぱい居るよ。」
「うん! やっぱ、華やかなイベントが無いと、噂話も面白くないもんね。」
「ガモウヤヨイチャンも、ネコの苦労が分かるようになってきた。」

「おりゃ、蝉蛾巫女。こういう時のために御前を飼っているのだよ。なにか佳い歌を唄いなさい。」
「心得ました。では、金雷蜒神族の舟遊びの情景を歌った詩を。」

 

 舟団は3時間進んで一度上陸し、そこでお昼を摂って再び3時間漕ぎ出した。ギジジットの高塔がまったく見えなくなった所で岸に着け、ようやく宴会の準備となる。放棄された古城の跡で、大きな石組みが舞台となり千人が囲むのにちょうど良い感じとなる。

 神官戦士、巫女の舟が先に岸に着き、宴会の準備を調える。その間王姉妹の舟は金雷蜒神と共に近くの運河をぐるぐると見物して回った。

 火を熾し大山羊の肉を焼き、酒甕を据え付け、毛氈を敷いて七色の幕を張り、花を散らして準備を調えると、ゲジゲジ神官巫女、神官戦士は列を作り楽を鳴らして貴人を迎え入れる。まずはキルストル姫アィイーガの一行。次に弥生ちゃん青晶蜥神救世主の一行。最後に金雷蜒神を擁す王姉妹の舟が着き陸に上がる。ギジメトイスの娘達は40、50代であるが、通常のギィール神族と同様に平均身長は2メートルの優美な巨体を有し、実年齢を思わせぬ若さを備えている。普段は陽が当たらぬ神聖宮殿の奥に潜んでいるが、この肉体は元々が強大な筋力を備え活動的なものであり、アウトドアにおいてこそ真価を発揮する。王姉妹もこれまでの気鬱もやや薄らぎ、額のゲジゲジの聖蟲も喜んで尻尾を盛んに振るのにも励まされて、金雷蜒神を案内して最も奥の深紅の毛氈の上に座を構えた。

 めんどくさい挨拶も抜きで、いきなり宴は始まる。考えてみれば、ギジジットにおいてこのような楽しげな宴会が行われたという話は何十年も聞いた事が無い。王姉妹の隠居所で金雷蜒神が実際に住まう神殿であるから、儀式は荘厳かつ深淵でなければならず、楽しさなどを企図した者は居なかった。神聖宮殿の壁面に巻きつく巨大金雷蜒神の御身体節を見上げながらでは、到底気を休める事は出来なかったから無理もない。

 ゲジゲジ巫女を何人も従えて、アィイーガが踊る。霊薬エリクソーを服用して成長したギィール神族の巨体は運動神経も抜群で、舞踊をさせても皆稀代の名人だ。その長い手足を前に後ろに差伸ばし金銀に飾られた甲冑の照り返す陽の光で周囲には金の粉が躍り、眼を開く事も叶わぬ眩しさが散った。加えて金雷蜒神さえも、正面から進み出てふわふわと左右に揺れる。

 誰もがその光景の不思議さ珍しさに心奪われる中、弥生ちゃんはゲジゲジ神官の長と神官戦士の指揮官を呼んだ。

「私がハリセンで合図するから、何も残さぬように。」
「心得ましてございます。」
「ゲジゲジ巫女はバカだから絶対残ると言う。むりやり舟に叩き込め。」
「承知しました。」

 アィイーガが舞を終えて席に下がるのと入れ代わりに、弥生ちゃんが王姉妹の正面に出る。流し目でアィイーガに合図するのを、彼女もこくっと頷いて返し、狗番達にこっそりと指示を出している。

「えー、宴もたけなわでございますが、ここでワタクシが、世にも珍しい聖蟲の芸というものをご披露したいと思います。」

 パン、と右手でハリセンを開くのに、周囲の皆がびっくりする。青晶蜥神がガモウヤヨイチャンに与えたハリセンの妙威はギジジットの誰もがよく心得ているが、遊びで発動する事が許されるのだろうか。更には、聖蟲の芸と言う。世にこれほど尊い物も無い聖蟲が、人の言うままに芸をするというのだろうか。

 弥生ちゃんは左手で吊るしたカタナの柄を握り、腰の後ろにぎゅっと真一文字に横たえた。右手のハリセン左手のカタナ、と美しい形のままでひーらひらと小さく扇ぎ出す。初夏に向かう暖かい日差しの中、涼しげな風がひゅうと一陣巻き起こり、軽く全員の額を撫ぜていく。ふわーりふわりと扇ぐ度、風がすぅーっと駆抜ける。

 ふいっと、上にハリセンを差し上げると、あらんことか、王姉妹の額のゲジゲジの聖蟲たちまでもが、ふわーりふわりと揺れ出して、4人の4匹もがぽぽんと毛氈の上に飛び降りた。
 王姉妹にはなにが起きたのかまったく理解出来ない。聖蟲が額を下りるのは、その宿主が死んだ時のみで、生きて降りるなどあるはずが無かった。聖蟲達はちょこちょこと右に左に歩いては二股に分かれた尻尾を振るが、やがて、ささーっと走って弥生ちゃんの元に駆けていく。

 ようやくに聖蟲が自分から離れた事を理解した王姉妹が立ち上がって自分の分身を追うが、すばやいゲジゲジを捉えられるはずもない。4匹すべてが、あっという間に弥生ちゃんのハリセンの上に飛び乗った。

 青く輝くハリセンの上で、金色のゲジゲジ達は話し合うように頭を突き合わせて居た。やがて赤い双眼を王姉妹の方に向けて、調子を揃えて尻尾を左右に振る。まるで「バイバイ」をしているようだ。

「パン!」

 いきなりハリセンが閉じられて、ゲジゲジ達の姿が消えた。ハリセンの中に呑み込まれてしまったのだが、閉じたハリセンの厚さはわずかに4cm。隠れるスペースなどありはしない。潰されてしまった?!

 

 弥生ちゃんはハリセンを頭上に高く掲げて大きく言った。「日本三大バカ声」を自称する、朗とした良く徹る声だ。

『撤収!』

 嵐のように神官戦士達は動いた。あらゆるもの、食糧、焼いた肉、御菓子、酒甕、香水、幡、幕、綱。事前に練習を重ねたとおりに、宴に持ち込んだもの全て分担して引っ掴み運河に並ぶ小舟に放り込んだ。ゲジゲジ巫女達もそれを手伝うのだが、躊躇する者も多数居る。彼女達も神官戦士が両腕を掴んで舟に叩き込み、満杯になると早急に岸から離れさせた。来た時の5倍の早さで櫓を漕いであっという間に運河の端に消えていく。その間、王姉妹はあれよあれよ、と聖蟲を取り返そうとするが、ゲジゲジ神官達に阻まれて弥生ちゃんに辿りつけない。アィイーガは聖蟲から赤く細い光条を発して金雷蜒神と通信し、弥生ちゃんは撤収作業の完了を仁王立ちになって確認する。

「完了!」

 と弥生ちゃんが叫ぶと、次にはゲジゲジ神官達も王姉妹から離れて走り、舟に飛び乗る。アィイーガも二人の狗番も、フィミルティも乗せて、全ての舟が岸を離れる。

「こ、これは、これはどうしたことじゃ。」
「ガモウヤヨイチャン、これは何事か。」

 唯一人残った弥生ちゃんに、王姉妹は殺到する。が、弥生ちゃんも、こう言って、ぽーんと10メートルも岸から離れ運河の上を走る舟に飛び乗った。

「ギジジットへのご無事のお帰りをお待ちしております。聖蟲はそれまで大切に預かって居ますから、ご心配なく。」

 青く大きな「ぴるまるれれこ」旗を翻して最後の舟が姿を消すと、そこには撒き散らされた花と、焚き火の跡、取りこぼした毛氈が数枚が残るだけの、空しい光景が拡がっていた。

「・・・・・・・・・置き去りに、、された・・・・。」
「聖蟲も無しで!」
「わ、わら、妾を誰と、誰と思ってか。わらわを、ギジメトイスの、」
「うわああああああああああああああんん。」

 彼女達はまだ気付いていなかった。全てが去った後も、未だ金雷蜒神だけはそのままそこに残って居た事を。

 

「どう?」

 王姉妹から離れる事2キロメートル、うねる土手の陰に隠れた100名の神官戦士を率いる狗番のミィガンに、合流した弥生ちゃん達は尋ねた。

「どうと申されましても、あまりにも痛々しく、見ていられません。」
「そりゃそうだよ。これは試練なんだから。」

 土手に隠れ見つからないよう注意して、ミィガンから受け取った遠眼鏡で弥生ちゃんは王姉妹を観察する。この遠眼鏡はガムリハンでフィミルティ用の眼鏡を作った際に、出来たレンズの使い方を説明していて、こんなこともできる、と勢いで拵えたものだ。倍率は4倍となかなかだが、アィイーガが一行に加わった後は聖蟲の超感覚のおかげで使う機会が無かった不憫な逸品である。

 弥生ちゃんの計画はこうだ。王姉妹は落ち込んでおり、自分達は金雷蜒神に対して無用の存在だと思っている。が、彼女達にとって金雷蜒神とは、あくまで聖蟲を介して繋がる隔たりのある存在で、今可愛らしくフレンドリーになった新生金雷蜒神に直接向き合おうとはしていない。であれば、聖蟲は要らない。しばらく取り上げて、生の神さまと一緒にデザートクルーズさせ信頼と使命感を取り戻させよう、という作戦。問題は、ゲジゲジの聖蟲を額から取り除く方法だが、これはアィイーガが金雷蜒神に直接交渉してダイレクトコントロールで離脱させた。

 アィイーガは、王姉妹が現在陥っている強烈な喪失感と無力感を考えて、さすがに我が身の罪深さを自覚する。

「我ながら、惨い仕打ちを強いてしまったと、後悔している。神族と違って王姉妹は幼少の頃より聖蟲と親しんでいるのだ。」

 ギィール神族は聖蟲を聖戴する前に、その資格を自ら明らかにする七つの試練を潜り抜ける。聖蟲が無くとも十分に優れた人物にのみ与えられるものだ。それでも聖蟲の喪失は耐え難い苦痛であり、刑罰としてその剥奪を受けた者はことごとく自害しているという。そこのところの感覚は、昨日今日カベチョロが頭に取り付いた弥生ちゃんには分からない。

「眼耳を失ったも同然で、思考力も減退し、生きている実感も無いはずだ。王姉妹にとって聖蟲こそが真の身体なのだよ。」
「自殺は、しないかな?」
「今回に限り、その心配は無い。自殺する知恵も気力も無いだろう。廃人のごとくさ迷うのみだ。」

 ゲジゲジ神官の長が弥生ちゃんの後ろに神官達を引き連れて跪く。

「それでは我らはこのままギジジットに戻り、王姉妹様の帰還をお待ちします。」

「ご苦労さん。そこらへんに隠れているゲジゲジ巫女をちゃんと連れ帰ってね。巫女は5人も居れば十分。」
「はっ。」

 彼らは当然、王姉妹の試練の全てを見届けたいと思っているのだが、百人も居れば十分以上であるから高位の者は皆強制的に帰した。心配した者達が反乱を起こさないように、アィイーガもギジジットに戻り彼らを統制をする。

「じゃよろしく。三日もあればいくらなんでも帰り着くと思うけど、逐一情報は伝えるから、それでなだめといて。」

「フィミルティも連れて帰っていいのか。」
「残る事をお許し願えませんか?」
「女の子がこんな日差しの下に居たら、陽に焼けちゃうよ。」
「そんな!」

 

 結局、弥生ちゃんとミィガンとネコのみが残り、神官戦士100人とわずかなゲジゲジ巫女だけで王姉妹を見守ることになる。巫女は王姉妹への奉仕が長い年嵩の者だけを天幕の下に置き、緊急事態に備える。舟も数艘用意してひっきりなしにギジジットと行き来し、ネコに途中経過を説明させる事で留守居の者を安心させる。

 すべての準備を調えて、緊張の下王姉妹を監視し続ける事2時間。結局、王姉妹はその場を一歩も動かなかった。誰か戻って来るのをじっと待って居たのだ。しかし来ない。忠誠心が有る者が一人くらいは居るはずだと見込んでいたのだろうが、そして確かに居たのだが、全員捕まってギジジットに後送された。

 陽が西に傾き、空が茜色に染まる頃、ようやく王姉妹は動き始めたが、右に左にうろつくだけで出発しようとはしない。時をいたずらに使い、要も無い地面の花などを拾っている。

「今日は、動かないな。」

 遠眼鏡で覗いた弥生ちゃんは、一人そう呟いた。

 完全に陽が落ちて辺りがとっぷりと暗くなると、王姉妹は残って居た毛氈等を火にくべて焚き火として、その周りに固まった。後ろでは金雷蜒神が黄金の焔を吹き上げて明るくしているので、遠目にも様子が良く分かる。ともかくこの夜は大丈夫だろうと、少数の見張りだけを残して神官戦士にも休息の令を出す。王姉妹とは異なり、こちらは火が使えないので風邪をひかないように注意しなければならなかった。

 弥生ちゃんも仮設の天幕に追っ払われて、晩ご飯を食べた。火が使えないから、ギジジットから調理済みの料理を舟で運んできている。天幕は10畳ほどの広さの簡易なもので、灯が漏れないように蝋燭を数本使っているだけなのでかなり暗い。狗番のミィガンは刀を肩に立て、地面にあぐらをかいて控えている。ネコはあいかわらず寝そべっており、王姉妹の為に残したゲジゲジ巫女が5人弥生ちゃんに奉仕し、ヤムナムという藻を煎じた甘茶を淹れる。

「まったく頭来るよね、これ。どうやって覚えてるの、あなた達は。」

 弥生ちゃんは暇つぶしにギィ聖符、ギィール神族が使う表意文字の文書を持ち込んでいた。弥生ちゃんは表音文字であるテュクラ符はほぼマスターしたが、ギィ聖符の難易度は桁が違う。持ち込んだのは、アィイーガが作ってくれた初歩の子供向け詩文の抜粋であるが、目がちかちかしてカベチョロの助けが無いとさっぱり分からない。天幕までついてきた神官戦士の指揮官は、常日頃この文字で書かれた文書に接している筈だから、一般人の習得法を尋ねてみる。

 指揮官であるゲジゲジ神官長次席代理、ギジジットで三番目に偉い神官は、今回王姉妹の生死に責任を持つという未曽有の大役を仰せつかり、大層緊張している。彼らは常に王姉妹の暴虐を受け、虫の居所が悪ければ戯れに死も与えられるという境遇に在る身で、青晶蜥神救世主に対しても王姉妹の前にあるのと同じく、いかなる無理難題も覚悟して伺候する。

 二三の質問の後、弥生ちゃんは暗い蝋燭の灯の下で文書に目をやりながら、振り返るでもなく小声で言った。

「……闇に乗じて、」
「は。」

「闇に乗じて、かろうじて目に入る距離の所に、最小限の食糧と水を置いといてあげなさい。一食分だけ。」
「ありがとうございます!」

 神官長次席代理が、口には出さず態度にも見せないが、内心では非常に王姉妹を心配しているのを見て取った弥生ちゃんは、仕方なしにわずかの救援を指図する。喜んだ彼は礼を崩さないまでも早々に天幕を飛び出して配下の神官戦士達に命令を伝えに駆けていった。残された弥生ちゃんに、ゲジゲジ巫女達が毛氈に跪きふかぶかと頭を下げて礼を言う。

「有り難うございます。我ら王姉妹に仕える者一同、心より感謝致します。」

 奴隷の気持ち、というものは弥生ちゃんにはまったく理解出来ないが、彼彼女らが王姉妹を慕う事は親に対するをも越えている。虐待されて殺されても、だからこそ天国に行けるのだ、くらいは思っているのだろうか。今回の王姉妹の試練においても彼らの心配は度を過ごし、5分10分置きに指示を仰ぎに来る。

「あなたたちはこれで遊んでいなさい。」

 ハリセンを腰から抜いた弥生ちゃんがパシと拡げると、中から王姉妹の額から取り上げた金雷蜒の聖蟲が4匹飛び出した。原理は分からないが、ハリセンにはドラえもんのポケットに似た機能も付いているようで、聖蟲を隠しておく事が可能になる。尊いゲジゲジが天幕内を走るのを見た巫女達は大あわてでそれぞれを追っかけ始めた。

 

 翌日。陽が昇った途端に弥生ちゃんは巫女に起こされた。ハリセンに金雷蜒の聖蟲をしまって天幕を出ると、既に神官戦士達が勢揃いしている。

「荷物には気が付いた?」
「は。王姉妹のお一人が朝日の中で気が付いて、取りに行かれました。」
「それは上々。じゃあ、我々も出発準備。多分彼女達は、運河に沿って移動する。遮蔽物が無いから気をつけて。」
「ははあ。」

 と全員が返答するのも止めさせる。皆で声を揃えては、バレてしまうではないか。

 案の定、といってもそれ以外に無いから仕方なしに、王姉妹は運河に沿ってギジジットの方向に歩き出した。最短とは言えないが額の聖蟲が無く西も東も分からない王姉妹には、ギジジットに向かう他の手段を思いつけない。計画どおりだ。金雷蜒神は無論道は分かるが、彼は王姉妹の進む方向に一緒に付いていく気らしい。特に指示らしいものを出している素振りも無い。また王姉妹も金雷蜒神と意志の疎通が叶わないから、彼女達自身の判断で行動せねばならなかった。これは非常に残酷な仕打ちと言える。

 王姉妹は産まれてまもなくよりおのおのの聖蟲を額に戴いて成長してきた。聖蟲が提供する超感覚と知識に依存して精神と知能を発育させて来たわけで、彼女達のパーソナリティは聖蟲を抜きにしては存立し得ない。無論、聖蟲無しで物事を判断する事も不可能だ。荒野に置き去りにされ自力でギジジットまで戻らねばならぬこの状況は、現在の王姉妹の能力ではまったく無理。にも関らず弥生ちゃんがこの試練を強いたのは、ひとえに金雷蜒神の神としての善良性を信じての事であり、困難な状況の中で聖蟲ではなく神そのものに王姉妹の依存対象を移し換えようとするものだ。

「金雷蜒神がそうであったように、王姉妹も一度死なねばこの世界で生きていけない。」

 遠眼鏡を弥生ちゃんに借りて覗いていたゲジゲジ神官長次席代理が叫ぶ。

「あ、あ! どなたか、水を飲もうとしています!!」

 運河の水は弥生ちゃんに浄化されたとはいえ、つい最近まで毒に晒されてきた。水中植物も動物もまったく存在しないので非常に澄んで美しいが、大量の無機物を含んでおり飲用にはまったく適していない。ギジジットでも、まず毒の浄化槽で薬剤と反応させて無毒化し、更に砂地にしばらく通して微生物に無機物を吸収させ、その上で溜め池に導いて利用している。生水などを飲めばたちどころに腹痛を起こし最悪死に到るであろうが、水の成分についての情報をまったく得られない今の王姉妹には、それは想像の外である。

「止めねば、水を飲んでしまいます。」
「・・・・・・・、いや。だいじょうぶ、神さまが止めた。」

 弥生ちゃんは取り戻した遠眼鏡で様子をうかがい、神官戦士が今にも飛び出そうとするのを強く制止した。このくらいの世話は金雷蜒神はしてくれるだろう、と見切ってこの試練を考案している。だが神官には、神がそのような卑俗な事に関ろうとするのは、想定外だ。神学の常識からまったく外れている。

「・・・神が、神が王姉妹をお護りくださる、と。そう仰しゃられますか。」
「親切なヒトだよ、金雷蜒神さまは。」

 こともなげに答える弥生ちゃんだが、まるで人間の感情が神にもあるという言葉自体が驚愕に値するものだったらしい。神官にとって神とは、近寄り難く恐ろしく深遠で、人を省みる事はなく天河の計画に従って無慈悲に時を進めていく、絶対の運命そのものとして理解されている。

「神さまだって、地上に居る時は地上の者としてふるまうさ。ばかな事をして死にそうな者が居れば、ちょいと助けてあげようとする。なにか変?」

「いえ。・・・いえ。」

 ゲジゲジ神官長次席代理は、ただひたすらに弥生ちゃんを信じよう、それ以外には王姉妹を救う道は無い、と見極めた。押し黙り、また監視を続ける。王姉妹は金雷蜒神に阻まれて水に近づけず、運河の脇をただ歩いて行く。時刻はそろそろ陽も高くなり暑さを感じる頃合いだ。日頃宮殿内に閉じこもっている高貴な女性には堪えるだろう。

 一方の弥生ちゃんは、これまた過酷な環境下にある。日除けが無いのはこちらも一緒で、荒地に寝そべって埃に塗れながらとろとろと歩く女人を長時間監視するのは、なかなかに重労働だ。毒は無くとも、毒地の砂埃を体内に取り込むのは健康上有害らしく、風で土煙が舞い上げられる度に神官戦士達が何人もイヤな咳をする。

「とりあえず、マスクしなさい。」
「ましゅく?」
「あ、いや、手拭いで口と鼻を覆って、埃が入らないように備える。あと、身体の様子がおかしくなった者は遠慮無く私の所に言って来るように! トカゲ神救世主は治癒の神ですから、というか、下手に我慢して重症化したら、手荒くやるよ、早目に来なさい。」

 基本的には、王姉妹はたとえ口から血を吐くほどの重態に陥ろうとも、まったく大丈夫なのだ。百人の神官戦士と治癒の神たる救世主が控えており、ハリセンでぶっ叩けば死人だって蘇る。舟も運河に繋いでいるしゲイルも一匹控えていて、これを使えばギジジットまで3時間もあれば帰れるようにもなっている。至れり尽くせりとはこの事だろう、と弥生ちゃんは思うのだが、そのように気楽な者は他には無いらしい。

 狗番のミィガンが弥生ちゃんの側によって、耳打ちする。

「どうも、ゲジゲジ神官どもは、今回の試練について心底よりは納得していないように思われます。反乱のおそれもございますので、王姉妹を苦しめるのはほどほどになされてください。」

 ミィガンも気楽では無い。彼は主人に言いつかった命令のまま、弥生ちゃんの身を守らねばならない。弥生ちゃんだけを守らねばならないのだが、この状況では警戒するよう忠告するくらいしか出来ず、かなりいらついている。狗番に心配を掛けるほど、弥生ちゃんは他人事にのめり込んでいたわけだ。

「我ながら、凄まじくお人好しだな。」
「お一人! 倒れました!」

 ち、と舌打ちして弥生ちゃんは遠眼鏡を構える。朝方とはいえ二時間も直射日光を浴びれば、そりゃ倒れもするだろう。が、この程度で出ていっては話にならない。

「・・・・・なんと、なんと! 金雷蜒神が日陰を作って下さいます。その御身体節にて、王姉妹様方をお隠しになられました。」
「だろう。」

 と弥生ちゃんは頷いた。だから心配する必要なんてないのだよ、と何度も言ったのに誰も聞きゃしない。

「次は霧でも吹くんじゃないかな。運河の水は神さまには毒ではない。雷で気化させて霧を作れば、温度も下がるし。」

「煙が、いや、あれは、霧でしょうか!」
「だからさあ。」

 ミィガンが再度耳打ちした。

「ガモウヤヨイチャン様、やはり貴女はお節介すぎます。」
「うむ、・・・。」

 

 結局、王姉妹がギジジットに帰還したのは四日目だった。最後の日はすでに城内からその姿が見えており、皆が今にも飛び出していこうとするのを各部署の責任者が必死で留めて、結局は神聖宮殿の水門前で全員打ち揃ってのお出迎えとなる。王姉妹達は荒野をひたすら歩いた疲労から二人が動けなくなり、あらん事か金雷蜒神の背に乗っての入城となる。さすがに神さまにここまでされると、彼女達も弥生ちゃんの心底を理解し感謝する心を取り戻したが、それでも神聖宮殿に辿りつくと弥生ちゃんの前に跪き地に伏して、聖蟲の返還を懇願した。もちろん弥生ちゃんは快くハリセンから聖蟲を取り出してそれぞれの額に戻し、後は押し寄せるゲジゲジ神官巫女神官戦士達の祝福の波から脱出するのに往生したのだった。

 フィミルティが持ってきた濡れ手拭いを額に乗せて、カベチョロごと冷やしながら、弥生ちゃんは言った。

「救世主てのは、どうにも疲れるなあ。」

 

 

第五章 弥生ちゃん、頑に拒む暗殺者を無理強いに下僕とする

 かくして王姉妹ゲジゲジ神官巫女、その他奴隷達に仁慈を垂れた弥生ちゃんだが、その網に漏れた者も居る。

「ここに来るまでに巻き添え食って亡くなった奴隷や一般兵たちが三十人ばかし居るもんでね、あなたたち暗殺部隊に対しては寛大になるわけにはいかないのよ。」

 王姉妹が召し使っていたギジジット直属の暗殺部隊「ジー・ッカ」(”爪刃”という伝統的な暗殺武器の名、”卑劣”をも意味する)の長を召し出した弥生ちゃんは、2メートルも上の壇に据え付けられた王姉妹の椅子に座って面談する。黒色の礼服を身に着けた彼は年齢不詳だが思ったよりも若く見えた。この部隊の構成員は、聖山東側に棲み紅曙蛸巫女王国以前の未開の風習を今に伝える「ネズミ族」の一派から特に呼び集められると聞く。彼はその族長の係累であろう。血族を重視しない十二神方台系においては「ジー・ッカ」は珍しい集団である。

「とはいうものの、あなたたちを皆殺しにする、などというのは無い。やっても構わないが、どうせ方台中の至る所に草を忍ばせているのだろう。復讐がめんどくさいだけだ。」

「草、とはなんでございましょう。」
「私の世界で言う、現地に長年何世代も住み着いてまったくの普通人に見せかけながら、命令があればいつでも組織の為に働く工作員の家系のことだよ。居ない、とは言わないよね。」
「・・・・。」

 秘中の秘である。十二神方台系にはもちろん忍者小説のたぐいはまったく存在しない。故に刺客や密偵などの暗黒面の知識に詳しい者は、一般読書人や表で働く官僚、神族や黒甲枝にもほとんど無い。それを、救世主を名乗るこの小娘は当たり前のように指摘する。

 弥生ちゃんは、手元の資料をちろちろと眺めながら、冷たく話し続けた。額の聖蟲、青晶蜥神の化身である「ウォールストーカー」は赤く燃える舌をちらつかせ、暗殺者の長を睨み続ける。二人の間には狗番のミィガンが盾として立ち塞がりいつでも斬れるよう腰の刀に手を掛けている。左右には護衛兵達が十名ずつ並び、しかも完全武装で警戒している。

 弥生ちゃんはちろと目を戻し、彼を見る。暗殺者を束ねる者だけあってその表情にはまったく色が無い。無論必要があればいかなる友好的な表情でも乗せて見せるだろう。資料から指を戻し、傍らのカタナを掴んで鞘の鐺で石の床を突き、ガシャンと音を立てる。これはギジジットで始めた習慣で、これを鳴らすと以降弥生ちゃんの言葉は命令として機能する、というサインだ。

「処分を幾つか言い渡す。その一、以降ギジジットの暗殺集団「ジー・ッカ」は金雷蜒神聖王族および王姉妹にのみ仕え、その命令に従い、それ以外の者の命を拒絶すること。この意味分かる?」

 暗殺者の長は慎重に考えて、分からないと答える方が良いと判断した。それは現状維持以外の何物でもない。またこの命令に従うとは、目の前の青晶蜥神救世主にすら逆らえということではないか。

「これが罰則として理解出来ないというのは、現状分析がなってないぞ。従うのならトカゲ神王国にした方が絶対に得だ。またこれから乱世になるわけで、あなたたちの技術と才覚をもってしたら、小王国くらいは手に入れるのも可能かもしれない。それは許さぬ、ということだ。無論、技術を他に売る事も許さん。あなたたちは王姉妹にのみ従い、王姉妹の為にのみ人を殺す事を許される、そういう事だ。」

 弥生ちゃんの言には、当の「ジー・ッカ」の長よりも周囲を固める護衛兵の方が感嘆した。彼らも時代が大きく動く事を漠然と理解はしていたが、今救世主が自ら世界の行く末を決めていく姿を目の当たりにしたわけだ。弥生ちゃんは王姉妹の力を限定し、固定する。ギジジットの力をギジジット自身の防衛にのみ集中させ、世界全体を動かす因子を一つ削ぎ落とした。

「二番目は、ひとり人間をもらおう。暗殺や謀略に詳しく、裏社会の事情に通じた者。私よりもわたしの随員の方が、暗殺には弱いのでね、彼女達を守る要員が必要だ。そうね、・・腕も実績もある、頭も良く知識も深い、でも原理主義的で頑に王姉妹への忠誠を守り他の価値観を受け付けず、上役の命令であっても曲がったことには従わず、扱いに困り昇進が遅れてる、こんな感じの奴がいい。居る?」

「ございます。チュバクのキリメと申す男が、まさにそのような者でございます。」
「それを説得して、忠誠の対象を私に切り替えること。むずかしいだろうけれど。」
「心得ました。」

「三つ目は情報だ。方台中の裏事情をギジジットに集積しているだろう。それをもらう。特に褐甲角王国について知りたい。」
「かしこまりました。」

「四つ目は、芸を見せてもらおう。」
「芸、でございますか?」

 暗殺者の長はここで初めて不審に思う。暗殺者の芸と言えば、もちろん人殺しの技であろうが、そのようなものを貴人が鑑賞するというのか。歴史を紐解いてもまったく例が無い。

「要するに、手の内を明かせ、という事だよ。チュバクのキリメとやらを貰い受けるとしても、わたし自身も知っておきたいものでね。イヤだと言うのなら構わんよ。部隊全員の両手の親指をもらおう。そのくらいの価値はあるでしょう。」
「・・・・・・かしこまりましてございます。」

「じゃあ、明日から。下がってよろしい。」

 促され、護衛兵に追い出される彼は、扉の向うで狗番が弥生ちゃんに猛烈に抗議する姿を見た。あの人の狗番となるのは並み大抵の覚悟では務まらないだろう、と他人事ながら同情した。

 

「やはり、違うね。」

 翌日から1時間半のスケジュールを空けて行われた「ジー・ッカ」の暗殺技の披露には、弥生ちゃんだけでなくギィール神族キルストル姫アィイーガ、蝉蛾巫女フィミルティ、狗番達、ゲジゲジ神官戦士の責任者、護衛兵の責任者等々が集められ、彼女らの前で一つ一つ解説付き質問有りで行われた。技は丁寧に記録され、後に「ジー・ッカ暗殺教本」なる書物となり歴史上初めての武術書として世に伝えられる。

「ガモウヤヨイチャンどの、やはりとは、そなたと我々とでは、人体の作りが多少違うという、アレか?」

 アィイーガは弥生ちゃんがハリセンをもって傷ついた人を救う毎に口にする言葉を覚えていた。ハリセンは重傷者に対しては静的な組織再生のみならず、人体を分解しての修復をすら行う。狗番のミィガンもガムリハンにおいて魔法的な手術を受けたが、その時に人体の構造を観察した弥生ちゃんは、地球の人間とは臓器の配置が若干異なる事を看破した。その後何度か同様の手術を行い、様々な臓器の内部を観察したが、やはり違う。構造が違えば機能も違うわけで、この世界に来て間もない弥生ちゃんには生理現象の違いが十分に理解出来ず、手当てに齟齬が生じるのは否めない。

 その点、人殺しの技は、人体の構造と生理、反射と習慣とを長年月に渡り考証した末に確立しただけあって、見落としを気付かせるところが多かった。一見不条理非合理的に感じられる技も、細かく分解して解説させると、なるほどと思わせる論理的な裏付けがある。表面しか人間を観察しない異界よりの訪問者では絶対に気付かない知恵がそこにあった。

「でも悪趣味ですよ。こういう、いかに簡単に人を殺すか、などは一生見なくても困らないとは思いませんか。」

 蝉蛾巫女フィミルティはさすがにこのような殺伐とした見世物には耐性が無く、口元を押える事が多かった。狗番達、ミィガン、ファイガル、ガシュムには参考になったのだろうが、同時に違う世界を覗いてしまったという悔いもある。神族を暗殺する為の、どうやっても狗番では防げない技、というものが多数出てきたからだ。万全を尽くせないと知るのは、責任有る者にとっては苦痛でしかない。

 結局技の公開は四日間で終了し、応用編を弥生ちゃんが見る事は無かった。為に、「ジー・ッカ暗殺教本」は基礎編・術技編しか作成されず、更に深い奥義は歴史の闇に埋もれてしまうのだが、そんなところにまで弥生ちゃんは責任を持てない。

 その間、「ジー・ッカ」の長と隊長達は、チュバクのキリメの説得に当たっていた。案の定彼は頑強に抵抗し、忠誠の対象を王姉妹より換える事を拒絶し、いかなる弁舌も命令も脅迫でさえも受けつけない。そういう人間だからこそ信頼に値すると選んだのだが、結局弥生ちゃんが直接説得するしか方法は無い、と泣きついて来た。最後の説得は、ギジジット神聖宮殿内にある円形劇場、直径30メートルほどの瀟洒で明るい広間で行われた。

「青晶蜥神救世主の社会を変革し人々を救済する事業の重要性を、御前も知らないわけではあるまい。その身辺を堅固に護る必要を改めて説くまでもあるまい。だのに何故、命に従わぬ。」

 試練を越え金雷蜒神への信頼を取り戻し、聖蟲を再び戴き公務に復帰した王姉妹達も、説得の場に同席した。彼が忠誠を誓う王姉妹の命であれば、さすがに従わざるを得ないであろうという目論見からだったが、この頑固者はあくまでも首を縦に振らない。むしろ、死を賜って忠誠を証す方がはるかに楽だ、と言わんばかりである。4人の王姉妹がそれぞれに言葉を与えるという栄誉に浴したからには、最早この世に思いを残す事も無いのであろう。遂には誰もが音を上げ、正面に座る弥生ちゃんに顔を向ける。

 王姉妹に救世主、金雷蜒神と通じる神族のアィイーガ、日頃は顔を見る事すら叶わぬ高位の神官、「ジー・ッカ」の長、といったお歴々が一段高い客席の円壇に座を構え、それぞれの狗番や護衛が主人の下にきらびやかに立ち並ぶ舞台の中央に、4人の護衛兵に挟まれたチュバクのキリメは、ひたすらに面を冷たい石の床に伏せる。彼はこの広間に通されて2時間、未だ顔を上げる事を許されていない。数々の説得の言葉に恐れ多くも拒絶の意志で応じ続け、ようやくに青晶蜥神救世主の言葉を聞く。

 彼の耳に届いたのは、伝えられる年齢に比して高くもなく低くもなく、よく徹り石造りの部屋全体に心地好く反響する、されど自分に覚悟を問う、強い意志を帯びた女の声だった。

「・・つまり、忠誠というものは自ら誓うものではなく、運命によりそれぞれに定められているもので、都合により対象を換えるなどはできない、という事だね。」
「・・・はい。」

「誰かに仕えるのではなく、天に定められこの職にあり、損得を超越して運命として生死を賭ける。その結果がどうなろうとも、自らの意志は関係無い。ただ要求されるものを実現するための不断の努力を怠らないだけ、と。そう言うのだね。」
「はい。」

「神に等しい王姉妹や、千年に一度しか現われない救世主の命といえども、運命を覆す事は出来ない。いや、運命だからこそ、神に自らの忠誠の強さ固さを示さねば、生きて死ぬ者としての一分が立たぬ、それがあなたの哲学なのですね。」
「そのようにご理解頂けると恐縮であります。」

「致し方ないなあ。」

 弥生ちゃんは、周囲の人の顔を見る。王姉妹の一人、最も歳の若いギジメトイス七数妹が三人の姉に換って再度説得の言葉を与える。王姉妹は下々の者に命令を下す際には、一番若い者が代表して伝える慣習が有り、今回も彼女がほぼ一人で喋っている。彼女は未だ42歳である。

「御前、自らが如何に晴れがましく栄誉有る位置にあるか、まだ弁えぬか。世に名乗りを上げる事さえ許されぬ卑しい働きの奴隷に、世々伝えられ詩にも数えられる御役目を賜ろうというのだ。万年望んだとてもあり得ぬ事ぞ。」
「ひらに、ひらにご容赦を。」

 床に額を擦りつけ王姉妹の命にさえ逆らう彼の姿に、弥生ちゃんは、こいつ死ぬ気だな、と悟った。これほどまでの説得を受け、それでも譲らぬとあれば、以後仕える事は出来はしない。いや、「ジー・ッカ」の組織においても、ギジジットの秩序からしても、彼が生きて在る事は許されまい。

 弥生ちゃんは左手で自分の頬をするりと撫でると、背後に居たゲジゲジ巫女に合図して、香料の入った冷水をもらう。金の盃に花を浮かべた水を一口啜り、また返し、腰の後ろに束さんだハリセンを引き抜いて膝の上に横たえる。

「面を上げなさい。」

 周囲の者がはっとして弥生ちゃんの顔を見る。最終的な結論、この場合は彼に死を賜うことにしかなりえない、が言い渡されるものと皆覚悟する。それはチュバクのキリメも同様に理解し、神妙に顔を上げる。

 彼は、極めて普通の顔をしている。年齢は40歳前後。霊薬エリクソーを服用する王姉妹やギィール神族とは異なり、この世界の一般人が老けるのは早い。「ジー・ッカ」の正装である黒衣を脱いで一般奴隷の服を着れば、どこの市場に居ても誰にも気を留められない、日々の生業に疲れた生活者以外には見えない。戦闘力のかけらも感じさせない凡庸な容姿である。

「ほお。」

 やり手だな、と弥生ちゃんは感心する。なるほど、真の暗殺者とはこういう顔をしているべきなのだ、と得心が行った。彼であれば、市井に溶け込んで誰にも覚えられず、どこに忍び込んでも怪しまれず、追う者もなく危うい目にも遭わずに戻る事が可能であろう。

「最後に問おう。つまり、生きて死ぬ者であれば、生きてる間は運命に従わざるを得ない。死んで後はどうするね。」
「それは死んだ後に考えまする。」
「うむ。ではそのように。」

 と、弥生ちゃんは手の中のハリセンでポンと自分の膝を叩き、そっぽを向く。その場に居た者全てが、これが死刑宣告であると理解する。

 チュバクのキリメは再び額を床に擦り付けると、どこからともなく刃渡り5cmほどの骨のナイフを取り出した。骨のナイフは紅曙蛸巫女王国時代までよく使われていた刃物で、金属の包丁が手に入らない貧者の家では今も調理に使われている。神聖宮殿に上がるまで5度も身体検査をされ、木のボタンでさえも取り上げられた彼がどこにそんなものを忍ばせていたのか、躊躇なく遅滞無くナイフを自分の首の左に突き立て、一気に頚動脈を切断した。切れ味の悪い骨の刃では思い切りが悪いとまったく斬れず、凄まじい苦痛を伴うのだが、彼のナイフ裁きは練達神技で、これで何人も屠ってきた事を物語っている。さらには、自分の血が噴出して敬愛する王姉妹に飛ばないように、服にて覆いとする気配りをすら見せる。

「気に入った!」

 彼との間にある12メートルほどを一歩半で飛び越えて、弥生ちゃんはハリセンを左に揮う。張り飛ばされた彼はそのまま劇場の壁に放り投げられ激突する。青い光が彼とハリセンとの間にしばし名残のように数本糸を引き、磨かれた石の床に飛び散った血が光に巻き上げられて彼の身体に帰っていく。

 護衛兵が観客席である円壇を乗り越えて彼を引き起こすと、既に首の傷は跡も残さずに完治していた。ただ衣服に着いた血の跡が、それが現実であった証しとなる。骨のナイフを取り上げられ、再び下の舞台に引きおろされたチュバクのキリメは、まだ何が起きたのか理解出来ず、席に戻る弥生ちゃんの後ろ姿を見詰めていた。

 

「次はどちらに参られますか、ガモウヤヨイチャンさま。」

 遂に、弥生ちゃんは旅に戻る事を決めた。引き止める者も多かったが、青晶蜥神救世主の到来を待ち望む人が十二神方台系中に溢れているのは誰もが知っていたから、「ギジジットでやるべきは全てやった」と弥生ちゃんが口に出した時にはもう諦めざるを得なかった。

「北へ行こうかと思うんだ。

 その日の午後、アィイーガ、フィミルティ、狗番達と、今後の計画を練る会議がこじんまりと行われた。弥生ちゃんが使っている部屋の一つで、バルコニーには小さな緑園が設けられて温室もある。神聖宮殿の外壁に面しているので、爽やかな風が吹いていた。

 アィイーガも金雷蜒神と交信する役割を王姉妹と交替してもらって、体調はほぼ完全な状態に戻っている。役目が終ると、最早ギジジットに用は無いと思い始めるのも早かった。神族の女性が普段着用する金糸で彩られた紗のローブを纏い悠然と腰かけて、なんだか女王様のようだと弥生ちゃんは思った。彼女はギジジットで明らかにステータスを上げた。

「東金雷蜒王国の首都ギジシップ島に行って、金雷蜒神聖王に会うのも悪くはないよ。でも、褐甲角王国の状況を早く確認したくてね。特に、毒地が浄化されたことで彼らがどのような手に出て来るか、早急に見極めなきゃいけない。」

 皆頷いた。今懸念されるのは、毒地が通行可能になることによって発生する衝突と戦闘で、褐甲角王国がどの程度の規模の戦争を企図するかは、ギジジット防衛においても重要な情報である。

「ならば、ウラタンギジトに行くのが良い。ウラタンギジトとエイタンカプトは隣り合った神殿都市で、金雷蜒褐甲角両王国の外交折衝の舞台でもある。ウラタンギジトには西金雷蜒王国の使節も常駐しているから、金雷蜒神新生の経緯を東西の王宮に説明するのにちょうどいいだろう。」
「ウラタンギジトとエイタンカプトは神聖街道を挟んだ東西にあり、聖山のふもとでございますから、神聖神殿都市の大神官さま方とも会見なされた方がよろしいと存じますよ。」

 蝉蛾巫女フィミルティは、巫女らしくさりげなく聖山を立ててみせる。が、弥生ちゃんにはすこし解せない点がある。

「ね、なぜわざわざ『神聖・神殿・都市』って強調するのかな。神殿ならば神聖でしょ。」

 アィイーガがヤムナム茶を啜っていたのを下ろし、微笑んで教えた。

「ガモウヤヨイチャンどのには分からないだろう。神聖神殿都市は、まったく神聖ではないのだ。」
「どうゆうこと?」
「あそこには聖蟲が一匹も居ないのだよ。」

「ああ。」

 聖蟲は、金雷蜒褐甲角の両王国の神聖王族のみが与える事が出来る。聖戴の儀式や資格の審査に、十二神の神官組織はまったく関与しない。

「十二神の名を借りて民に奉仕するのは、紅曙蛸巫女王国時代に始まった。ッタ・コップが交易で得た有り余る富を民衆に還元する為に、日常の便宜を図る専門家を育成したのだな。金雷蜒神聖王国時代には彼らも奴隷として王国に仕えたが、その中枢が地上にあるのは目ざわりなので、山奥に追放したのだ。」
「ですが、これから参られます救世主様の聖業を助けようと待機しているわけですから、神聖には違いないのです。」

 フィミルティはアィイーガに対して一歩も退かない。そこらへんが、神官巫女の矜持という奴だろう。

「そうです。なによりもまず聖山の青晶蜥神最高神官さまに、ガモウヤヨイチャンさまはご報告に上がらねばならないのでした。」
「無用無用。第一、これまで青晶蜥神殿はガモウヤヨイチャンどのの助けにはなってないだろう。」
「ですが!」

 二人が際限無く言い争いそうなのを抑えて、弥生ちゃんは宣言する。

「ともかく北へ参ります。ウラタンギジトにおいて、金雷蜒神新生の報告をしてギジジットの善後策を東金雷蜒王国のしかるべき責任者と話し合い、褐甲角王国の御偉いさんとも会談して、聖山の神官に青晶蜥神救世主降臨の公式発表をさせます。」

「決まりだな。ファイガル、ガシュム、出立の準備だ。」

 

 弥生ちゃんがギジジットを出てウラタンギジトに向かう、と聞かされたゲジゲジ神官長は、それならばと神官団を同行させる事とした。弥生ちゃんがギジジットで行った全てを、ウラタンギジトに居て宗教面を司る金雷蜒神祭王に、責任有る高位の神官が直接説明せねばならない。それを言われると彼らの同行を断る事が出来なかった。神官団の団長は、王姉妹の試練で弥生ちゃんと共に働いた、三番目に偉い神官である神官長次席代理が務め、神官戦士団が100名護衛として付くのも決まった。

「あのねー、そんなに大勢で行ったら褐甲角王国を刺激するでしょ。」

 と、弥生ちゃんは難色を示すが、人数も格式の内だと譲らない。これはあくまでゲジゲジ神官団の護衛であり弥生ちゃんの為のものではない、と言われると、詭弁だとは分かっていても止めさせられなかった。ウラタンギジトのある神聖街道に到るには、途中必ず褐甲角王国の領土を踏まねばならない。軽武装の神官戦士であれば暗黙の了解があって通れるが、神族であるアィイーガや狗番はなかなかに難しいとも教わった。

「いや、付いていくよ。当然だ。」
「主から言い遣っておりますから、ガモウヤヨイチャン様がお出でになられればどこにでも付いて参ります。」

 アィイーガもミィガンも、退く気はさらさら無い。そもそも褐甲角王国の法は弥生ちゃんには適用されないのだから、その随員である自分達も法の適用外だと強弁する。弥生ちゃんも、同行してくれるのは心強いがしかし、例のようにウラタンギジトで何をするかまったく考えてないから、どう転ぶか見当がつかない。

「ガモウヤヨイチャン様、お目通りを願っている者が御座いますが、いかが致しましょう。」

 結局チュバクのキリメは弥生ちゃんの警護役として随員に加わった。彼は、一度死んだ者として戸籍を処理され、「ジー・ッカ」からも除籍された。自由身分、という事なのだが、金雷蜒王国において自由とは、逃亡者落伍者追放者を意味し、殺しても罪に問われない哀れな身の上となる。弥生ちゃんの奴隷、という名目ならばまだ身分の保証もあったが、彼自らが拒んだのだから仕方がない。

「誰?」
「旗持ち役です。彼も随員に加わる事を願い出ております。」

 ギジジットを制圧した弥生ちゃんは、ゲジゲジ神官の勧めに従って王旗を作った。「ぴるまるれれこ」の人頭紋、弥生ちゃんの制服の左胸に刺繍された青い頭の宇宙人の顔、をそのまま拡大した、一辺2メートルの正方形の旗だ。これがあるところ弥生ちゃんの本陣を表し、その格式は金雷蜒神聖王、褐甲角武徳王と同等である、らしいのだが、その旗持ちをてきとうに選んだのが間違いだった。軍旗を掲げる専門のバンド(職業カースト)があり、その中でも王の旗を掲げるのは最高の名誉として、バンド内で最上位の家系の者にのみ許されるという。まして千年に一度の救世主の旗を持つとなれば末代までの誇りとなり、青晶蜥神救世主の叙事詩にも謳われるとくれば、一度掴んだ栄誉を手放すまいと必死になるのも仕方がない。

「・・・ダメだ、と言ったら、どうなるかな?」
「死にます。」
「だろうね。」

 致し方なく、旗持ちの奴隷シュシュバランタも随行を許された。彼は身長190センチで肥満質の巨漢である。

 

 どんどん膨らんでいくウラタンギジト行きの隊列は、結局総員250名、イヌコマ50頭、ネコ5匹の大人数となった。途中まで舟で運河を行くのだが、ここまで増えるとピストン輸送で何日にも分けて出発せなばならない。先遣隊を出してベースキャンプを整えさせた後に、弥生ちゃん本隊が出立する手筈となった。

 

 

 明日はギジジットを立つ夕方、弥生ちゃんは再び塔の上に居た。陽は未だ高く空もまだ色を変えていないが、日差しが和らいで過ごし易くなってきた。十二神方台系は夏に向かう。弥生ちゃんは正直言って夏場は弱い。これから荒野の炎天下を旅しなければならない、というのはさすがに躊躇する所だが、世界が自分を待っているという自覚から、すでに心はイヌコマの背にある。

 背後にある櫓がガラガラと鳴り、下から籠を巻き上げている。神聖宮殿の上に聳える塔には、水力を利用したエレベータが据え付けられている。扉が開く音がして、振り向いた弥生ちゃんの前に、4人の長身の女性が立っていた。ギジメトイスの娘達、金雷蜒神への忠誠を新たとし、ギジジットの主としての風格を取り戻した王姉妹だ。弥生ちゃんも彼女達も従者を伴わず、本人達だけでの会談になる。

「よくおいでくださいました。」

 弥生ちゃんがにったりとネコのように微笑むと、王姉妹も礼をする。聖蟲を戴き、人に頭を下げるのを恥とする金雷蜒神族には独特の礼儀作法がありすっと膝を折るだけだが、それすらも彼女達は神聖王と上の代の王姉妹にしかした事がない。慣例として、ギジメトイス七数妹が代表して話し掛ける。

「青晶蜥神救世主殿、重大な相談とは、やはり十二神に関ることであろうな。」
「はい。そして、貴女達にとても関係の深い事です。」

 弥生ちゃんは腰の後ろに右手を回し、ハリセンを引き抜いた。長さは30cm幅4cm厚さは3cm、青くサファイアの透明さを持ち雲母のように何層も重なる板なのだが、弥生ちゃんが手に取ると不自然に形状を変え、長さは40cm幅は先端が5cmへと拡がる。開くと更に拡がり直径1メートルの円形の盾にもなる。

 王姉妹は弥生ちゃんがハリセンを前に出したのをぎょっとして見詰める。このハリセンで聖蟲を取り上げられたのはつい先日の話だ。また取られる、と一人は額のゲジゲジを手で覆った。

 弥生ちゃんはまたにこっと笑い、ゆっくりぱたぱたとハリセンを開いていく。7段まで開いて80度程の扇型にすると横たえて左手で下からぽんと叩く。

 青いハリセンの面に、いきなりゲジゲジが現われた。金色の身体、13対の肢、赤く輝く双眼、二股の尻尾。王姉妹は誰もが息を飲んだ。

「・・・ゴブァラバウト上数姉の!」
「さすがに分かりますか。貴女達の聖蟲をハリセンに取り込んだ際に、なぜかもう一匹そこに居たんです。たぶんそうじゃないか、と思ってました。」

 一番年上のギジメトイス二数姉が、直接話し掛けた。

「確かに上数姉の聖蟲だ。あの時一緒に天空に飛ばされたはずなのに、何故。」

 弥生ちゃんはハリセンを伸ばして、ゲジゲジを王姉妹の方に差し出した。ギジメトイス二数姉はうやうやしく聖蟲を両手で受けとる。白い掌の上で、ゲジゲジはくるくると周囲を見回した。

「この聖蟲は、私が十二神方台系に招かれて、最初に会った生き物です。白霧の中、道案内をしてくれました。私がこの世界に好意を抱いたのは、最初にこのゲジゲジと出会ったから、と言っても過言ではありません。」
「ああ・・。左様であるのか、我らに対しても敵意を示さず、ただ天の定めるままに力を揮われたは、この聖蟲がガモウヤヨイチャンどのにお教えくださっていたからか。」

 王姉妹達は自然とゴブァラバウト四数姉の聖蟲を囲むように集まった。涙は無い。彼女達にとって、真の肉体とは各々の聖蟲の体節である。宿主が死ぬと、聖蟲も肉体から離れやがて巨きなる金雷蜒神の元に還っていく。ゴブァラバウト四数姉の骸が見つからなくとも、聖蟲が居れば弔いの儀式は滞り無く行える。

「これがいつ私のハリセンの中に飛び込んだのかは、まったく分かりません。それ以前に、何故あの時、もう四ヶ月前になりますが、あの場所にこれが居たのか、それを教えて下さい。時間を遡って飛び出したのは、その時分貴女方が何かをしたからではありませんか。」
「四ヶ月前・・・。いや、その頃は特にギジジットでは祭礼は行っていない。」

 弥生ちゃんは、青晶蜥神救世主としての責務を十二分に果たすつもりだが、この世界に骨を埋める覚悟はまだ持ち合わせていない。どうやって帰るかは、どうやってこの世界に来たかを調べれば自ずと判明する筈で手掛かりが欲しかったのだが、ギジジットは関係が無かったようだ。

「むしろ。」

 と王姉妹の一人がぽつんと喋り出す。王姉妹には変わった人格の持ち主が多いが、特に霊能に優れた者の場合、人とコミュニケーションを取るのが難しい事もある。彼女、ギジメトイス六数妹もそのタイプで、他の王姉妹よりも奇跡や神の力に対する感受性が強い。

「むしろ、未来に原因があるのではないか。」
「みらい?」
「おしだされたのであろ。上数姉の身体は過去に落ちた。だが、跳んだのは未来の力に押されたのだ。」

 真偽のほどは分からない。だが確かに、神の力で時空をねじ曲げる技が今後二度と発動しないとは考えにくい。妹の言葉を受けて、二数姉が言った。

「ご油断召されるな。敵は我らだけではないぞ。」

 王姉妹は、青晶蜥神救世主にとってはやはり敵である。全ての王国を終らせ新たな王国を築かねばならない弥生ちゃんにとって、真の味方と呼べる者はほとんど居ない。居るとすればそれは。

 弥生ちゃんは、王姉妹を残してエレベータの籠に乗った。呼び鈴の紐を引き、塔の下に居る作業員に合図して、地上に降りる。一人、籠の中にある弥生ちゃんは王姉妹の言葉を反芻していた。

「・・・この世界から私を排除しようとする力、それがあれば地球に帰れるのかもしれない・・・・。」

 

 翌日弥生ちゃんを乗せた舟がギジジットを出発した。

 アィイーガ、フィミルティ、狗番達、猫、以前からの荷物持ち、その他新しく加わった者も合わせて二艘に分かれて乗船した。神聖宮殿水門にはゲジゲジ神官巫女、ミミズ神官巫女、神官戦士、護衛兵等ギジジット全ての者が集まって青晶蜥神救世主との別れを惜しむ。金雷蜒神も見送りに下りてきたが、王姉妹は誰も来なかった。金雷蜒神聖王族はあくまで青晶蜥神救世主と対立すべき存在だ、と知らしめたのだろう。だが、ゲジゲジ神官巫女の見送りを留めなかったのは、ほのかに感謝を表すものだったのかもしれない。

 舟は大きく「ぴるまるれれこ」旗をたなびかせ、奴隷が漕いで運河を進む。金雷蜒神はゲジゲジ巫女を従えて運河の端をそのまま付いて歩き、かって巨大だった自分の体節が円形の壁として取り囲むギジジットの端にまで見送った。舟上の皆が立ち上がり礼をすると、金雷蜒神は二股に別れた尻尾を振って、金色の焔を吹き上げた。

 蝉蛾巫女フィミルティは、弥生ちゃんの傍らに居て金雷蜒神を見詰めながら言った。

「ガモウヤヨイチャンさま、カプタニア山脈の褐甲角神ともお会いになられますか。」
「うん、そうなったらいいなと思う。」
「此度のように、仲良くなれたらよろしいですね。」

「・・・そうだね。」

 弥生ちゃんは徐々に遠くなる金色の焔を眺め続けていた。巨大金雷蜒神との激闘がまるで歴史の彼方の遠い出来事に感じられる。考えてみれば、あの闘いはギジジットに来るまでは想像もしなかったものだ。褐甲角王国は信に篤く正義と公正を旨とする国と聞くが、真の姿はどうだろう。今回以上の激戦が待っているのだなあ、という微かな予感を肯定するように、弥生ちゃんの頭のカベチョロが前足でおでこをちょんちょんと叩く。

 

 

 

第六章 偽弥生ちゃん、東金雷蜒王国にて人々を病苦から救う

 ギジジットにて巨大金雷蜒神を撃破し毒地を浄化して十日程経った頃、首都ギジシップ方面に帰還する補給隊に、弥生ちゃんは手紙を言付けた。宛て先は、偽弥生ちゃんことプレビュー版青晶蜥神救世主を伴って東金雷蜒王国を巡回しているタコ巫女ティンブットだ。その書面にはこう書いてあった。

「・・とまあそういう訳で、私達はギジジットを出ると西には向かわずに、北のボウダン街道に出ると思われます。ギジェカプタギ点より先の褐甲角王国領に直接出るはずです。貴女は偽弥生ちゃんを連れて一ヶ月後にそこまで来ていて下さい。あらかしこ」

 つまり弥生ちゃんは、アィイーガやフィミルティに相談する遥か前にウラタンギジト行きを決定していた事になる。実はティンブットとは最初からそういう話に打ち合わせていた。彼女の夫である蜻蛉の隠者、弥生ちゃんが十二神方台系に現われた最初に会い世界の成り立ちと救世主の使命をレクチャーした人物は、北の聖山に赴いて神聖神殿都市の最高神官に救世主降臨の報告をしに旅立っている。ティンブットが旦那に会いたいだろう、と慮ってなるべく早い時期に北へ行く事を期していた。

 

 手紙をティンブットが受け取ったのはそれから更に2週間後。プレビュー版青晶蜥神救世主の一行は未だガムリハンから150キロも北上していないジュータンバ市、大三角州の出口となりギジシップ島に到る水路の始まりとなる大きな港にあった。ここの東側の山間に少し入った所が、アィイーガが所属していた寇掠軍「シンクリュアラ・ディジマンディ(救済と回復の霞嵐)」の本拠地である。

「来た! 来ました! ガモウヤヨイチャンさまは御無事です。いえそれどころか、ギジジットにてなにやら、・・・・なにやら、・・・・・・・なにやらどでかいことを、やらかしてしまってます、ね。」

 手紙を大急ぎで紐解いたティンブットは、弥生ちゃんが直々に書いたテュクラ符の文面を食い入るように眺め、その後具合を悪くしてその場に倒れた。プレビュー版青晶蜥神救世主の巡行隊に加わって事務手続きの一切を取り仕切っていたトカゲ神官は、ティンブットの介抱をトカゲ巫女に任せると自分も手紙を読み、同様に貧血を起こしてその場に崩れ落ちた。

「おお、なんということだ。その場に居なくて良かったというか、青晶蜥神救世主様はまさしく神人であらせられるが、だとしてもそれはさすがに、天も驚く所業と言うか、」

「いったい何事です。この間の地震以上に驚く事がございますか。気をしっかり持って下さい。」

 と彼を助け起こしたのが、件の「偽弥生ちゃん」トカゲ巫女のッイルベスだ。彼女は未だ修業中の16歳、十二神方台系においてはかなり珍しい全部が真っ黒の髪を持ち、容姿が弥生ちゃんに似ていると、この役に選ばれた。身長も弥生ちゃんとほぼ同じ「公称150センチ」で、弥生ちゃんに似せて髪を先細りのトカゲの尻尾ヘアにした為に、ちょっと見ではティンブットでも間違える立派な贋物だ。

「その地震だ。あれはガモウヤヨイチャン様がギジジットに御わす金雷蜒神の御力を恐れ多くもお借りして、毒地全体の毒を浄化した際の副作用だと、書いてある。」
「! あれが、ガモウヤヨイチャンさまの。」

「それどころではない。それに先立ってガモウヤヨイチャン様は、恐れ多くも畏くも、神聖宮殿において身の丈1里にもなる巨大なお姿の金雷蜒神と、ハリセンにて対決し激闘の末にこれを撃破した、と書いてある・・・。」

「・・・ふう。」

 ッイルベスも気絶した。

 プレビュー版青晶蜥神救世主とは、弥生ちゃんがギジジット行きの意図を眩ます為にこしらえた陽動の具ではあるが、まったく無意味なものではない。

 そもそも救世主なるものは、世界全体を、十二神方台系全体を再編し既存の王国を打ち倒し新しい秩序を組み上げて新王国を率いて人類全体を幸福に導くという、実に大げさな存在である。そういうものであるから、救世主が関りを持つ者はやはり、額に聖蟲を戴く神族や黒甲枝の神兵、高位の神官や官僚であり、一般民間人とは縁の遠い人であるのが普通だ。しかしながら青晶蜥(チューラウ)神というものは元々治癒と薬の神であり、その神殿では人々を病から救う尊い奉仕が行われている。弥生ちゃんも、ハリセンによる冗談じみた治癒力の効果を確かめると、タコリティでは積極的に民衆の病を癒す技を揮っていた。その余禄を、弥生ちゃんにとても会えそうに無い人々にまで届けよう、というのが、この行列の役割だ。

 とはいえ昨今救世主を僭称する者が多く、東西金雷蜒・褐甲角王国においてしばしば取り締まられ、民心を惑わす者として盛大に火焙りに処せられている。プレビュー版はそれを免れる為に、これから本物のトカゲ神救世主さまが参られますよーという宣伝部隊として各地の関所を通過する許可をもらっている。怪しい者を取り締まる関所の番人だとて、日頃は地元のギィール神族にすら会えない木っ端役人であるから、この偽弥生ちゃんの一行の有り難さはよく分かる。法にも規則にも定められていないが、積極的に行列の便宜を図ってくれた。

「とはいえ、どうも、これはいけません。」

 タコ巫女ティンブット、優れた舞姫であり紅曙蛸巫女王五代テュラクラフ・ッタ・アクシの発掘に立ち会い聖女となった、がかなりいいかげんな性格で既婚者、は偽弥生ちゃんが乗る輿に文句を付けた。

「飾りが、足りませんか。」
「ちがいます。ガモウヤヨイチャンさまは、そもそも輿にはお乗りになりません!」

 十二神方台系には乗用の生物はほとんど無い。ギィール神族が用いる巨大なゲジゲジ、ゲイルくらいで、貴人といえども通常は奴隷が担ぐ輿かもっと重たい山車で移動する。千年に一度現われる救世主ともなると移動に自らの足を使って歩くなどは論外で、たとえ贋物であろうともその身体を輿にて担ぐ事に、人夫達も喜びを感じている。

「輿でなければ、車を用意せねばなりませんか。」
「ちがいます。ガモウヤヨイチャンさまは、ちゃんと自分のお御足でお歩きになられます。」
「ですがそれでは我ら青晶蜥神に仕える者の分が立ちません。贋物といえども格式にはこだわらないと、人々の尊敬を集める事が出来ません。」
「演出が必要なのはよく分かっています。私とて、あれがメグリアル王の御前で花宴の舞を披露したと人に知られる紅曙蛸巫女です。そのくらいは心得ていますが、違うのです。ガモウヤヨイチャンさまはこうではない。」

「弱りましたなあ。」

 担がれている偽弥生ちゃんッイルベスも、輿が気持ち悪いのは同感だ。彼女はガモウヤヨイチャンはほとんど顔も見たことが無いが、それでも大地に立って人々の間を燕のように飛び回って様々な打ち合わせや治癒を行っていたのを覚えている。それに、自分自身が偉いわけでもないのに、大勢に輿で担がれて尊敬と憧憬の眼で民衆に見られるのは恥ずかしい。

 ティンブットはああでもないこうでもないと輿を弄り回した挙げ句に諦め、そこら中をきょろきょろ見回し、遂に偽弥生ちゃんが用いるべき乗り物を発見した。

「イヌコマですか。いやーしかし、イヌコマなんかに乗るのは、せいぜい子供くらいなもので。」
「いいんです。ガモウヤヨイチャンさまは、御覧の通りに小さな御方です。イヌコマの背にあってもなんの不思議もございません。」

 イヌコマは、地球のロバと同程度の小さな馬で、耳が犬に似てぺこんと折れているのでこの名がある。自分の体重と同じ60kgを載せるともう動かないという非力な生き物で、とても大人が乗用に使うなどはできないのだが、弥生ちゃんの体格ならば各種装備品を身に着けても十分乗る事が出来る。

 ッイルベスも試しに乗ってみると、これがなかなか悪くない。輿と違ってあんまり高くなく偉そうでなく、むしろ可愛らしげで人々の反応も上々だ。ティンブットはこれとは逆に青晶蜥神の神威が宿る大きな直剣、ガムリハンでギィール神族サガジ伯メドルイからもらったものに弥生ちゃんが気合いを念入りに封じ込めた、を輿の上に麗々しく飾り、大勢の男達に担がせる。

 この演出は大成功で、道の両脇にずらと並ぶ人々は、まずプレビュー版青晶蜥神救世主の愛らしさに眼を奪われ弥生ちゃんの姿を想い、後に続く大きな輿の上で青い光をたなびかせる有り難い神剣に手を合わせて拝むのだ。

 道々の神殿に着くと、偽弥生ちゃんは大きな神剣を手にし、人々に救世主の訪れが間もない事を告げ、弥生ちゃんが行った数々の奇跡を説いて聞かせる。その後聖女ティンブットが、これまた民衆に人気のある紅曙蛸巫女王五代テュラクラフをタコリティの円湾から掘り出した際の体験談を、迫真の演技で再現し、人々を驚かせた。

 御供のトカゲ巫女がティンブットに尋ねる。

「ティンブット様、なぜに空の銭箱をッイルベスの前に並べるのです。御喜捨ならば別して青晶蜥神殿で受け取って居ますのに。」

「ガモウヤヨイチャンさまの星の世界では、神殿の前にはこのような箱があって、ここに銭を投げるとこんころりんと音がして神様に願い事が届くと言うのよ。どんなに安いお金でも、こんころりんと音がすれば神様は振り向いて下さるらしいわ。」
「ああ、なんと有り難い事でしょう。ガモウヤヨイチャン様は、下々の者にも恵みを垂れて下さるのですね。」

 ッイルベスは神剣を人々の頭の上で、さっと、さっと振って見せる。剣が帯びる青い光が飛沫のように降り注ぐと、長年の病に蝕まれた身体も痛みが和らぎ皮膚の色が生気を取り戻し、わずかながらも症状が改善して、皆喜び涙を流して帰っていく。偽弥生ちゃんの前には奇跡を求める人が列を為し、神剣の光に触れる事を乞い願う。ッイルベスは思った。もしこれが本当のガモウヤヨイチャンであったなら、この人達は全快して小躍りして帰っていくのだろうに、と。

 

 しかし光が射すと毒虫もあぶり出されて人を刺す。偽弥生ちゃんと輝く神剣はたちまちに悪党共のつけ狙うところとなる。或る者は無敵の剣を我が物として世に覇を唱えようと妄想し、別の者は、偽弥生ちゃんの身体を生きたままかじれば、不老長寿の妙薬としてはたまた意気天を衝く強壮薬として効果があるだろう、などと考える。

 彼らに真っ先に気付いたのはティンブットだった。彼女は弥生ちゃんと共に旅をして何度も刺客に襲われ、青晶蜥神救世主には数多の敵が居る事を理解している。相手は身分も様々で思想的背景もバラバラと、誰も何も信じられないほどだった。だが今回偽弥生ちゃんの行列は目立たねばならない。耳目を集め、本来の救世主ガモウヤヨイチャンの行動を隠す役割があるからには、逃げ回ってはいられない。

 ティンブットは思案して、常に周りを人で満たしておく事にした。連日連夜、偽弥生ちゃんのお言葉や治癒の奉仕、タコ巫女の踊りに地方の役所の官僚との公開問答、とスケジュールに空きを設けず、移動も御参りに来る人々を引き連れての大行列とする。夜も篝火を明々と焚き、あまりの人数をさばく為に地元の兵士の動員も受けて、なんとか安全を確保した。なにせ、偽とは言えどガモウヤヨイチャンだ。それが暴漢に襲われて殺された、食べられたとかになっては、人々の希望を打ち砕いてしまう。本物の弥生ちゃんの救世の聖業を成功させる為にも、簡単に倒れるわけにはいかない。

「怪我は無いか、ティンブット殿。」
「ああっ! イルドラ泰ヒスガパンさま!! よくぞお助け下さりました。」

 奇妙なもので、青晶蜥神救世主に倒されるべき金雷蜒王国を治めるギィール神族は、偽弥生ちゃんに好意的だった。どこの土地に行っても、皆巨大なゲイルに跨がって現われ、青晶蜥神の神威が宿る長剣に斬り付けてみて、「おおやはり鉄をも斬り裂くという噂は本当であったか」と感心し、また奇跡的な治癒力のメカニズムを解明しようと眼を大きく開いて観察し、弥生ちゃんがサガジ伯メドルイと共に作った眼鏡のレンズをつぶさに調べ原理に納得すると、自前で材料を用意して同じものを作り出し民衆に新しい眼鏡を分け与える。彼らは日常に退屈しているから、世の中が動乱に見舞われるのも一興と待ち望んでおり、ガモウヤヨイチャンが噂に違わぬ変化を十二神方台系にもたらすと確認して、大喜びで一行を歓待する。

 だからこそ、プレビュー版青晶蜥神救世主の隊列を脅かす者を、彼らは許しておかない。人喰い教の信者が偽弥生ちゃんを求めて百人もの大人数で襲いかかってきた時も、地元を治める若き神族イルドラ泰ヒスガパンが妹の丹ベアムと共にゲイルを駆って襲撃者を皆殺しにした。

「ちいさい救世主は御無事?」
「イルドラ姫様、ありがとうございます。されど、それは。」
「うむ。ゲイルにも偶には武装した人間を食べる喜びを与えねばならぬ。柔らかい罪人だけでは歯が鈍ろう。」

 長く腰まで伸びる髪をたなびかせ黄金の鎧を篝火に照らす丹ベアムは、まだ息のある人喰い教徒をゲイルに呑み込ませている。自身も槍で何人も突き殺し、褐甲角王国への寇掠軍のリハーサルが出来たと満足そうだ。

「奴等はなかなかに執念深い。多人数を頼んで果たせぬのならば、単独で侵入してくる事もある。今宵は我が館に留まるが良かろう。」
「有り難うございます。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンになり代り、御礼申し上げます。」

 

 神剣の真価を余すところなく披露したのは、出発から一ヶ月後に起った大地震でだった。西金雷蜒王国では震度は3程度の軽い揺れだったが、なにしろ耐震設計など考えたことも無い泥を塗って屋根を被せただけの建物ばかりで、かなり大きな被害が出た。その割に人命がさほど損なわれなかったのは、揺れが南から北にゆっくりと進行して人々の避難する時間があったためだ。

 しかし、それでもなお数千人もの人が傷を負い助けを求めて、プレビュー版青晶蜥神救世主の下に押しかけてきた。ッイルベスは寝る間も惜しんで人々に神剣をかざして回る。剣から降り注ぐ青い光の粉を人々は両手を差し伸べて乞い求め、行列が途絶える事はない。完治とはいかないが、神剣の力は傷ついた身体から痛みを取り除き血を留め化膿を癒し、確実に効果となって顕れる。不思議なもので、地震の前よりも剣の力は強く顕著になっていくように、ッイルベスには思われた。

「ガモウヤヨイチャンさまの御力です。」
「救世主様が、この剣と今も繋がられているということですか。」

 ッイルベスに尋ねられたティンブットはこともなげに断言する。彼女は弥生ちゃんと長く居たから、青晶蜥神の奇跡にも納得すべき道理がその中心にある事を理解した。人々が思い描くような原因と結果を無視した奇跡、原理がまったく不可知の現象はありえない、無限の力などは存在しないと教わっている。

「あなたが今使っている治癒の力は、遠く毒地の中央からガモウヤヨイチャンさまが送られになっているものです。無闇と使うのはよろしくないのかもしれません。」
「しかし、これほどの人が剣の神威を求めて押しかけるのを拒むなど、・・・できません。」

「・・・ッイルベス、あなたはガモウヤヨイチャンという人を知りません。それは本来無理な事です。が、あの方はそれでもやってのけるのです。夜になると、剣の神威は一時衰えるでしょう。」
「はい。払暁には回復しますが、あれはどういう理屈でしょうか。」
「寝ているのです。ガモウヤヨイチャンさまがお休みになっている時は、剣も力を弱めるのです。あの方は強い御方です、目覚めている時は治癒の力をいくら使われても人にはその消耗を見せず耐えているのです。」

「! それでは、プレビュー版青晶蜥神救世主とは。」
「そうです。貴女はまぎれもなく、ガモウヤヨイチャンさまの名代なのです。」

 その日以来ッイルベスは変わった。偽弥生ちゃんから、弥生ちゃんの名代としての自覚と責任に目覚め、献身的に人々を癒して回る。重い神剣を必死に支えて神威を分け与える姿に、彼女自身を崇める者さえ現われるようになった。

「変りましたな。」

 彼女を監督すべき立場にあったトカゲ神官が、ッイルベスの姿に感嘆の声を上げる。彼ら青晶蜥神に仕える者達も、弥生ちゃんが額のカベチョロの聖蟲から聞いた最新の処方箋に従って効果的に人々を救っている。医療と治癒に携わる者として、その本分を尽していた。彼らを支え、地元の富商や神族から物質的支援を仰ぐ裏方に回ったティンブットは、だがそれでも弥生ちゃんとの約束を果たさねばならなかった。

「進みましょう。人が押し寄せるのは分かりますが、隊列は進まねばなりません。方台全ての人が青晶蜥神救世主の御力を欲しているのです。」

 

 弥生ちゃんが早々に北へ進む事をティンブットに手紙で伝えたのも、このような事情を察しての事だった。大体、王による神秘的な治療というものはヨーロッパあたりでは中世頃にはよくあった話で、青晶蜥神救世主は本物の力を顕現するのだから、人が押し寄せ身動きが取れなくなるのも予測の内にあった。まして、毒地の浄化の後は神剣による治療で連日力を削ぎ落とされているから、どのような状況にあるかはギジジットにあっても理解出来る。事務処理ばかりやってあまり派手な動きをしなかったのも、消耗がバレないようにしていたから、という側面があった。

 もっとも今やそれにも順応して、偽弥生ちゃんをもう一人増やそうか、とも考えている。要は気合いの問題で、どの程度の負担を強いられるかを予測理解すれば、それに対応する方法も考えられる、というわけだ。弥生ちゃんは元々、長期的予測と達成目標を確固として設定すると、それに従って着実に布石を打っていくタイプであるから、自爆的献身とは縁が無い。勝てない戦はやらない、カシコイ救世主なのだ。いきあたりばったりの泥縄に見えるのは、あくまで予測不可能な事態に遭遇した時だけだ。

 

「第二便です。」

 弥生ちゃんから二番目の手紙が届いたのは、プレビュー版青晶蜥神救世主の隊列がアプリハ点、ギジジットの真東で首都ギジシップ島に渡る拠点都市に居た時だった。弥生ちゃんがギジジットを出立して三日後になる。

 今度の手紙には荷物が付いてきた。細長く大きな木箱で厳重に封がされ黄金の鎖も巻かれており、4人のギジジット護衛兵が守ってきた。何事か、とおそるおそるティンブットが開いてみると、中からは黄金に輝く見事な剣が現われた。表面には分厚い鍍金が施され、ギィ聖符の刻印が記されている。

「・・・読めない。」

 アプリハ点は大都市であり首都にも近いから、暇そうにしているギィール神族も多い。たまたまお参りに来ていた者を捕まえて、剣の表面に記された文章を読んでもらう。トカゲ神官巫女に伴われて来たのは、郊外に居を構えるスーベナハ胤ゲナァハンという神族の学者だった。

「驚いたな、これは王姉妹の剣だ。聖符でこう書いてある。”ギジジットにおいてギジメトイスの娘達は青晶蜥神救世主と和解し、東金雷蜒王国の領土において人々に治癒の力を分け与える事を許可する。官衙の下僕は民草の救済に便宜を図るべし”とある。命令書だ。」

「貴重なものです、ね。」
「貴重とかでは言い表せない。この剣にも青晶蜥神の神威が籠められている。事実上、青晶蜥神と金雷蜒神が融合したようなものだ。」

 あまりの事に、ティンブットもトカゲ神官達も声を失う。このような重大事を彼らだけでは処理しきれない。

「付属の書簡にはこう書いてあります。”この剣を使えば、地震で傷ついた人を金雷蜒神聖王宮が直接面倒をみてくれます。ティンブットは単身にてボウダン街道へ到りガモウヤヨイチャンの一行に早急に合流すべし”。」

 スーベナハ胤ゲナァハンも助言する。

「神聖王宮としても、官としても、プレビュー版とやらの青晶蜥神救世主名代が人々の尊敬を集めるのを快く思っていない。奴隷達に、やがて金雷蜒王国からの離反を誘うのではないかと疑っている。官が傷ついた民衆を直接支援をするのであれば、手を引いた方がよかろう。」

 トカゲ神官達も顔を見合わせ、地元の神殿を預かる神官とも相談して、ティンブットに進言する。

「この剣は、王宮に献上致しましょう。既に我らの手に余る、重大な政治的問題に深入りしているようです。」

 日頃いいかげんなティンブットも、事態の深刻さに頬を青ざめる。最近は、各神族の評判こそ良いが、役所の対応が少しずつ硬化し上位の役人の決済が必要になってきたのを懸念はしていたのだ。

「しかし、・・・・この剣が青晶蜥神の神威を帯びているとなれば、それを使う者はガモウヤヨイチャンの名代です。ッイルベスをここに残していきましょう。」

 ッイルベスは飛び上がった。大人だけで勝手に決められていくのを、最早黙って聞いている事はできない。ッイルベス自身は未だ見習いの巫女であるが、眦を決して討議の輪に飛び込んだ。

「わたくしは! 参ります、ガモウヤヨイチャン様の元へ。黄金の剣などわたくしの手に余ります。鉄の剣で、今までどおりに、お願いします!」

 普段はおとなしい彼女の一世一代の訴えにトカゲ神官達は驚いたが、ティンブットは彼女の頭を優しく抱きしめて言った。

「ごめんなさい。貴女は私と一緒でないと困ります。すこし行列が大きくなり過ぎましたね、私と貴女、それだけでよかったのに。」
「もういちど、もう一度、今度こそ真っ正面から、ガモウヤヨイチャン様にお会いして、お言葉を頂きたく思います・・・。」

 

 ティンブットは隊列を再編してガムリハンを出た時のこじんまりとしたものに戻し、北のボウダン街道に向かった。もちろん道々でガモウヤヨイチャンの逸話を語り、ッイルベスが神剣にて人々に治癒の力を分け与えながらだが、それでも急いで弥生ちゃんとの再開を目指す。

 

【科学的なお話】

 旧毒地を抜けてボウダン街道に近付くと植生が変わり緑が増え、野生生物の姿も見られるようになった。

 この頃になると、ゲジゲジ神官戦士達は鳥を捕って食事に添えたが、その際毎回のように私(蒲生弥生)に許可を求めに来る。

 何故かな、と聞いてみると、なんと「鳥はチューラウ(青晶蜥)神の眷属だ」と言う。トカゲ神の仲間を食べるのにトカゲ神の許可が必要だと思うのは、それはまあ宗教的には正しいのだろうが、しかし何故鳥がトカゲの仲間だと思うのか。
 それはもちろん、鱗があって卵を産むからだ。羽根が生えているのはどうでもいいらしい。十二神方台系には始祖鳥のような、トカゲに羽根が生えた生き物がちゃんと居るので、トカゲ→飛びトカゲ→鳥、という進化が一般常識として根付いている。

 しかもあろうことか、魚もチューラウの仲間ではないか、とさえ思っている。無論これには異議もある。魚はア・ア(カエル)神の眷属だ、と唱える一派もあり互いに論争を交わしていた。ア・ア神はカエル、両生類の神でありオタマジャクシという水中生活の時期があり卵も魚類と似ているので、それを根拠に主張されるとチューラウ派は不利だがなんといっても鱗の存在は大きい。魚はサカナで分類すればいいじゃないかという意見もあり、死者の魂が西の海の涯てから天に帰る姿とも唱えられるが、事は神学論争であるからそう簡単には割り切れない。

 実の所、十二神方台系はトカゲよりもカエルの方が生息数も種類も桁違いに多い。東金雷蜒王国にある大三角州はまさにカエルのパラダイスで、学者が確認しているだけで300種の形状色彩の異なるカエルがうんざりするほど繁栄している。カエルだけでなくサンショウウオも隆盛を極めており、巨大なサンショウウオがまるでワニのように河を泳ぎ、水中最強の捕食獣として君臨する。また、トドにも似た巨大両生類「歐媽」も居る。これは時に河に溺れたイヌコマなどを丸呑みするとんでもない化け物だ。

 それに対して、爬虫類は本当に数が少ない。大チューラウ、中チューラウ、小チューラウ(カベチョロ)、飛びチューラウ、の四種だ。大チューラウの中には水中で魚を取る水チューラウというものもあるが、外見上はほとんど違いが無い為に、四種とされる。これに、最近発見された”足の無いトカゲ”「フェビ」(命名、蒲生弥生)を加えてもわずか五種。バランスを取る為に鳥をチューラウに加えるのも当然であろうか。

 これに似た論争は、バンボ(コウモリ)神、ピクリン(ネズミ)神との間にもある。ピクリンは哺乳類の神というのは衆目の一致するところだが、バンボはこの仲間に入れない。十二神方台系のコウモリはなんと単孔類で、卵を産む。毛が生えて暖かいにも関らず、空を飛ぶし卵を産むので、ピクリンとチューラウの中間の生き物だろうというが神官達の結論だ。

 私(蒲生弥生)がこれに異を挟むのは容易いが、しかしこの矛盾についての考察がやがて博物学となり科学となるのだから、あえて口出ししない事に決めた。

 もちろん、鳥を晩ご飯に加えてもよろしい。考えてみれば、タコリティでもギジジットでも鳥を食べるのに私に許可を求めていたような気がするが、その時は「鳥、お好きですか?」の意にとって軽く流してしまった。これだからファンタジーは油断ならない。

 ちなみに、十二神方台系には鶏は居ない。食用の卵は水鳥のもので、卵取り専門の猟師が居て、頭に水草を付けて擬装し水中を泳いで巣から卵泥棒をしているらしい。

       (蒲生弥生)

 

第七章 褐甲角王国は鳴動し、とりあえず著者は設定を整える

 地震が起きてから二十日、褐甲角王国の毒地の際では妙な噂が囁かれるようになった。

 

 聖山の麓にあるデュータム点から、南端で海に面するイローエントまで一直線に伸びるスプリタ街道の両側は褐甲角王国の穀倉地帯として知られ、ここで作られる穀物は王国のみならず東西金雷蜒王国にも輸出され、方台全土を養っている。元々はただの草原地帯だったが、ギィール神族がアユ・サユル湖から大運河を掘って水が隅々まで行き渡るようにすると、たちまちに豊かな実りで人々の暮らしを支えるようになった。

 最盛期には350万人を越えたという十二神方台系の人口だが、ギジジット周辺の広大な領域を毒で封鎖するようになってからは、隣接するこの地にも毒が風で流されて来て生産量が半減し、大量の難民を発生させた。現代、方台全域の人口は250万人程度と推測される。

 スプリタ街道の東側。毒地に面し常にギィール神族の寇掠部隊に曝される延々500キロの農地は、確かに実りを着けるのだが西側に比べると常に発育は遅い。その先は誰も入らない雑草のみの荒野が拡がって、年中霧に包まれる不毛の毒地へと繋がっている。この荒野が東金雷蜒王国との事実上の国境となる。

 霧は古代から「青晶蜥神の平滑地」の名物ではあるが、今はギィール神族が仕組んだ毒が混ざり、これに巻かれると人は血を吐いて地面をのたうち回り、その日の内に死ぬ。金雷蜒王国の寇掠部隊は毒を中和する呼吸器を備えた防毒面を着けて行軍するが、褐甲角王国は技術に劣り十分な解毒機能を持たせられず、毒地に踏み込む事が出来ない。霧はまた巨大なゲイルの姿を隠すので、深く立ち篭める日は寇掠部隊の襲来が有ると、周辺住民は恐怖に怯えている。

 その霧が晴れた、と言う者が居る。風の臭いが変わった事に気付いて、いつもは怖れて近付かぬ荒野に足を踏み入れて見ると、緑が青々と繁り鳥が営巣を始めている。虫も増えてまるで街道の西側のようだと、村に戻って話すのだ。

 最初は誰も信じなかったが、いつもはどこかの村が定期的に寇掠部隊に襲われるはずが、まったく平穏無事という珍しい日が続くので、運を頼りに何人かで恐る恐る確かめに行く。もしも緑地が拡がっているのなら畑を拡げ穀物を植えて、王国の慢性的な餓えを解消しなければならない。彼らは、まさに噂通りの荒野の変貌ぶりを見た。

 急いで子細をそれぞれの地元を守護する黒甲枝に伝えると、彼らも荒野に赴き確認して戻って来る。

 

「あのー、この様子では毒が無くなったと思ってよいのではないかとお、畑を拡げる為に人数を出して縄張りをしに行きたいと思うですが。」
「いや。毒が消えた原因が分からぬ内は、それを許可する事は出来ぬ。ギィール神族の寇掠軍がこのところ姿を潜めているのは例の地震のせいであろうが、我らの被害も軽微であったのだから敵もやはり大半は無事であろう。いつ襲ってくるやも知れぬ。しばし待て。」
「はいー。それでは御下知の通りに。」

と、農民集会の長達が帰っていく。彼らは本来変化を嫌う者だが、これほど積極的なのは珍しい。食糧不足に陥っているのは正規の農民や村民ではなく、農民集会に雇われて季節労働に使われる難民達だ。小心で吝嗇な彼らが、難民の為に自ら開拓の費用を捻出するなど考えられない。

「やはり時代が動いているということだろうか。無理も無い。青晶蜥神救世主降臨の噂の次は、毒地全体の大地震だ。人の心も騒ぐのであろう。」

 ベイスラ地方、褐甲角王国の王都カプタニアの東、ヌケミンドルから南に100里下った地域を預かる大剣令カロアル羅ウシィは、開け放された窓の下、帰っていく農民集会の代表を見送っていた。流れ込む風は涼やかで心地好く、これまでとは異なる透明さを感じる。

「良い風ですなあ。こんな風はこれまで感じた事がない。」
「毒が消えた、というのは一時的なものではなさそうですね。」

 羅ウシィの指揮下にある二人の黒甲枝、ビジョアン榎ヌーレ、サト英ジョンレも風の中にこれまでに無い清々しさを感じている。榎ヌーレは37歳で中剣令を拝し民政に優れた中堅どころ、英ジョンレは24歳の若き俊英で王都の近衛隊を経て、特殊部隊長の位である剣匠令を得ている。

 だが羅ウシィは慎重だった。この45歳の大剣令は輝くような才気は無いが、深く物事を考えて決して間違えない堅実な人柄を知られている。

「毒は消えたとはいうものの、寇掠軍が持つ毒樽の霧まで無効になったわけではないだろう。迂闊に人を住まわせて、樽を投げ込まれてはかなわん。」
「ああ、確かにそれは生きているでしょうな。」
「迂闊でした。では、やはりこれまでと同様に、」
「うむ。毒地はやはり毒地だ。黒甲枝が兵を進め、50里も国境線を東に押しやった後でないと、農民は入れられぬ。」

 榎ヌーレは言った。彼は農民の案内で毒地の状況を確かめてきている。

「農民達の喜びようは、それは大きなものです。彼らにとってこれはまさに、・・・そうですな、まさに青晶蜥神救世主の御恵みと言っておりました。新しい土地に鍬を入れたくてうずうずしている。それほど長く待たせるわけにはいきませんよ。」

「わかっている。が、我らはまた別の思案をせねばならぬ。」
「と申されますと。」

 羅ウシィは窓から離れて、書棚から山羊革の大きな地図を取った。ベイスラ地方の詳しい地形が載っている。

「北のミンドレア、ヌケミンドル、南のエイベンド、イロ・エイベンド。そしてこのベイスラ。王国の南東の護りはこれまで十全であったが、」
「はい。今の体制で問題は無いと思われます。」
「なにか御懸念がおありですか。」

「思い過ごしであれば良いが、いや、たぶんそうではあるまい。もしも毒地全体が浄化されたのであれば、当然そこを通って遠征してくる寇掠軍にとっても益があろう。これまでは防毒面を被り毒霧の合間を縫って少数で渡って来ていたのだ。それが。」

「おお。毒が無くなった事は、我らのみならず敵にとっても有利だと。」
「しかし、我らの迎撃陣も、毒地により深く踏み込んで機動的に防御する事が可能になるでしょう。多少敵の兵力増強があったところで、問題は。」

「今の十倍来たら、どうする?」
「え。」
「可能ですな。毒が無いのなら、一万人の兵力でも自由に動かせます。」

「敵の補給線が確保されれば、長期戦を戦う事すら可能だ。穀倉地帯での長期戦は王国に著しい損失を与える。」

 唖然とする英ジョンレを尻目に、榎ヌーレも地図に指を走らせて陣の配置を検討する。

「敵の毒樽を考慮すれば、我らが毒地中に侵攻するのは無理があります。やはり、護りを固める以外に手は無いでしょう。」
「兵力が足りない。」
「まったく足りません。兵数が十倍ならまだしも、ゲイル騎兵が十倍となれば戦になりません。」
「農地を拡げるどころではないな。城塞防壁の修復と土塁の新設、兵力の増援と輜重の確保、その受け入れ体制の確立を急がねばならん。」

「ですがそれ程の大事となれば、レメコフ東部大監の指示を煽がねばなりません。」
「うむ。とりあえず上申書を送ろう。たぶん、一度ヌケミンドルで大会議を開く事になる。」
「夏休みは完全に潰れますな。」
「致し方ない。」

 夏場は毒地においても気温が上がり、防毒面が使用不能になる。故に寇掠部隊の襲撃は3ヶ月程止むのが通例だ。この隙を利用して前線の黒甲枝は交替で休暇を取って、家族の居るカプタニアに帰る。カロアル羅ウシィの息子、軌バイジャンも、夏休みを利用して婚礼を挙げる予定になっていた。本来なら来年の春だったが青晶蜥神救世主の降臨以来政情に不安が出て、何事か起こらぬ内にと急いだものの、時代は予想を越えてはるかに早く動いているようだ。

 

 スプリタ街道沿いのすべての守護から大規模な防衛陣の拡充を進言されて、王都カプタニアは蜂の巣を突いた騒ぎになった。カプタニアは毒地を襲った地震の影響をほとんど受けず、元老院も軍政局も状況の認識に深刻さが欠けている。その被害の詳細報告も届かない内に、この進言だ。対応に混乱を来すのも当然であった。

「報告によると、毒地全体に地震を引き起こした青い光の滝は、ギジジットより発せられたというのが確からしい。」
「赤甲梢総裁キサァブル・メグリアル焔アウンサの報告書だと、彼女らはたしかにそれを目撃したという。」
「やはりこの度の大地震は金雷蜒王国の策であるのか。」
「これだけの大災害を人の力で可能にするとは考えにくいが、神聖首都ギジジットに本当はなにがあるのか、我らはまったく知らないのだよ。」

「軍政局より上奏された動員計画書の第一案だが、・・・荒唐無稽ではないのか。この五万人というのはなんだ。」
「この計画書はかってソグヴィタル王が発案されたギジェカプタギ・ガムリ点同時攻略計画を下敷きにしている。無謀に思えるのも道理だが、今前線から続々と届く上申書を積み上げると五万ではまるで足りない、という計算になる。」
「ばかばかしい!」
「南北500里、いやボウダン回廊全域も解放されたと考えると、10万でも足りないと見るべきだろう。」
「ばかばかしい、東金雷蜒王国にはそれだけの兵は無い。」
「だがゲイル騎兵がある。一騎で千人の兵に相当するゲイルが数百は駆り出されるだろう。黒甲枝1500をすべて防衛に当てても防ぎきれぬかもしれん。」

「場合によっては、元老院の軍への復帰も考えねばなりません。」
「それは問題無いが、しかしその前には武徳王御自らの出馬がござろう。」
「あの青い光が敵の兵器として使われるとすれば、武徳王には前線に近付いてもらっては困るのだが、」

 元老院はカプタニア城の上層階にある。山城であるカプタニア城は、山を削って段を造りそこに宮殿を建てている。最上層は褐甲角王国を統べる武徳王カンヴィタル家の居城であり、その足元に金翅幹56家が集う元老院がある。元老は黒甲枝の中から王国に特に功のあった家を昇格させ、金色の縁どりを持つ聖蟲を与えて国政への参与が許されている。黒甲枝は一家に一匹の聖蟲しか戴けないが、金翅幹家は有資格者であれば最大で3人までが聖戴を許される。軍事には携わらないが彼らの親族は黒甲枝と繋がっているので、実質は軍の代理人である。

 これに対して官僚を率いるのが、行政を司る事を武徳王より託されたソグヴィタル・ハジパイ王家である。中でも現在のハジパイ王 嘉イョバイアンは50年の長きに渡り元老院と戦いこれを手なずけ、王国の存続に力を尽して来た。彼の立場は政治寄り、無用の軍事行動を控え国政の充実を図る方向にある。東西金雷蜒王国とも独自の外交ルートを押さえ、頻繁に連絡を取り合っていると噂されるが、現在の褐甲角王国の経済は金雷蜒王国と密接に繋がっており、断交しても得策では無い事は元老の誰もが承知している。

 褐甲角王国と東西金雷蜒王国は千年の歴史を常に戦って来たが、一度としてどちらかを滅ぼす決定的な戦争に陥った事が無い。毒地と海という緩衝地帯があるからには宗教上の理由による戦闘はほどほどの所で納め、裏では互いの産物を交易する事で双方共に発展を遂げて来た。褐甲角王国からは穀物と木材、金雷蜒王国側からは工業製品と補完関係にあるから、本気で相手を滅ぼそうとする大規模な戦争計画はこれまで思案の外であった。

 これを覆したのが、ソグヴィタル王 範ヒィキタイタンである。彼は先戦主義を唱え、初代武徳王カンヴィタル・イムレイルが兵士達に誓った「神聖金雷蜒王国を滅ぼして、奴隷自らが治める国を作る」という約束を千年の治世の締めくくりに実現させようと、大規模な侵攻計画を立案した。この計画はハジパイ王等「先政主義派」によって潰されヒィキタイタンは追放の憂き目に遭うのだが計画の一部、軍事物資の備蓄量の拡大、邑兵動員体制の整備、クワアット平民正規兵の即応体制の確立、赤甲梢兎竜機動部隊の実戦への投入準備、は実現している。

 

 一方、黒甲枝の最高指導部である軍政局は、元老院の下、近衛兵が駐屯する兵庭を見下ろす位置にある。東を向いて金雷蜒王国の侵攻を防ぐように配置されているのだが、カプタニアが兵火を被ったのは他ならぬ褐甲角軍がここを奪い取った時のみだ。十二神方台系の東西を分ける要衝カプタニア間道には当時小さな城しか無く、それは今もカプタニア大城塞の脇に旧城として昔のままの繊細瀟洒なギィール様式建築の美しさを留めている。

 軍政局は王国の三軍、黒甲枝赤甲梢の神兵、正規兵であるクワアット兵、各地の地元出身者で組織された邑兵を統括して指導する。その長は兵師統監と呼び、現在は黒甲枝の名門チュダルム家が任を務めている。兵師統監は武徳王に直接指揮され軍事に関しては元老院の制約を受けないが、予算配分にはまったく権限が無い。軍独自で経済活動を行う事も厳に戒められており、元老院の下にある税務局の決定に従わねば軍事行動もままならない。これが褐甲角王国における文民統制であり、軍の暴走を抑えるシステムだ。

 しかしながら、最近は黒甲枝の間で元老院よりも軍政局に対する不満が鬱積している。個々の黒甲枝は聖蟲を戴く事で自らも初代武徳王と同じ理想を抱き、その誓約を実現しようと志している。これは黒甲枝のモラルそのものであり、これを支えとして千年王国の秩序と平和の維持に力を尽して来た。その最高の舞台として彼らの間で語られて来たのが『最終戦争』。金雷蜒王国の全軍と黒甲枝の全軍が戦場に打ち揃い、死力を尽して戦い敵を殲滅する究極の結末だ。

 ヒィキタイタンの大侵攻計画はこれを現実のものにすると黒甲枝から熱狂的に迎えられ、計画が潰えた今も残り火が燻っている。前線から大量の増援の上申書が届くようになると、箝口令を破って軍政局の外に情報が漏れ、王都に住む黒甲枝全員の血潮を熱くたぎらせた。

 

「まさかこれほど脆いとは思わなかった。黒甲枝とは皆等しく自我を殺し、ただひたすらに王国に従う者ではなかったのかな。」

 兵師統監チュダルム冠カボーナルハン。赤甲梢の新総裁メグリアル劫アランサの輔衛視チュダルム彩ルダムの父である。彼は58歳で、尋常であれば既に聖蟲を後継者に譲っている歳だが、娘がいつまでも結婚しない為に今も聖戴し続けている。

 彼の司令部は、全員が聖蟲を戴いているわけではない。褐甲角神の聖蟲は無敵の肉体を人に与えるが、知的能力の拡張までは行わず、判断力知力は聖戴者自身の器量のままだ。家督を息子に譲り聖蟲を若い額に移し換えたとしても、軍を指揮する能力、作戦計画を立案する能力までが失われる事は無い。実戦は遠慮をしても、後方の司令部で長年の識見を用いて若い黒甲枝達の便宜を図るのも、軍人としての生涯の責務である。

 だがやはり、聖蟲があればこそ感じる気力の高まり衝動の昂ぶりはある。

「いやあ、だからこそ新たなる救世主の降臨を受けて、彼らが皆おのおのの本分を思い出したという事だろう。聖蟲を額に戴く者は、最後には皆ただの一個人に還元される。」
「むしろその方が楽ではあるのだがな。黒甲枝がそれぞれに単独でゲイル騎兵を追い、ギィール神族を殺す。これでも勝てるだろう。」
「民衆の犠牲を考えなければ、そして民間から黒甲枝が自由に物資を掠奪する事を認めるのならば、それでも良いよ。戦場はたぶん、褐甲角王国全土になるだろうが。」
「はは、それは戦場としては理想的だな。」

 彼らも若い頃は皆聖蟲を戴き重甲冑に身を固め、前線でゲイル騎兵と戦って来た者だ。その彼らにしても現役時代に聖蟲が与える力の全てを出し切った体験は無い。限界に追い込まれる程激しく争う戦場には行き当たった事が無い。無論黒甲枝といえども不死身ではなく運悪く命を落とす者もあるが、それでも刀折れ矢が尽き、総身に傷を負って敵に囲まれたまま絶命する、とはならない。誰もが聖蟲の極限の性能、真の姿を見ずして兵役を終えている。故に、初代武徳王のみが持っていた聖蟲による飛行能力の獲得に至らないのだ、と嘆息するばかりだ。「最終戦争」においてはその不満も一気に解消されるだろうが、すでに実戦を引退した彼らには到底叶えられない夢である。

「戯れ言はさておき、スプリタ街道全域に防衛線を張り巡らせるとすれば、古今未曽有の大動員となる。」

「西金雷蜒王国はどう出るだろう。毒地の詳細が向こうにも届けば、一大攻勢に出るかもしれぬ。」
「見切りを付けねばならぬな。西の海はチュダルム海軍大監に現有の兵力のみで任せよう。残りはすべて東に結集だ。村々の邑兵も最小限の警備を除いてすべてだ。」
「黒甲枝を十名ずつ組にして戦隊を構成し毒地の際でゲイル騎兵に対処させる。クワアット兵に邑兵を指揮させて王国内の防備と輜重の輸送、敵内通者への対応をさせよう。」

「黒甲枝はすべて前線に。これを基本にするとしても、包囲を破って内部に浸透する寇掠軍にはどう対処する。」
「ノゲ・ベイスラがやられたアレだな。難民が寇掠軍の進路を手引きするという。」
「本営をカプタニアからヌケミンドルに移す。前線と第二陣との間を狭くして、寇掠軍には対処する。南部は手薄になるが、大局には影響しないだろう。」

 彼らの内では、戦争はすでに既決の事項である。未だ元老院の議論は決着を見ないが、軍政局は粛々と動員、防衛計画を進めている。軍神である褐甲角神の託宣であろうか、彼らの誰一人として開戦を疑う者は無かった。

「万が一も無いとは思うが、タコリティが南海から金雷蜒軍の海軍隊を引き入れる、などは無いか。」
「はなはだ不本意ではあるが、ソグヴィタル王はマキアリィとの決闘に勝利なされた。彼が居る限りはそれは無いと、信頼して良いだろう。」
「ではイローエント防衛隊も南部防衛に組み込もう。南海の港には軍船のみがあれば良い。」

「それにしても、マキアリィ殿は不甲斐ない仕儀となったな。」
「申し訳ない。この不名誉は家名に賭けて必ず本人に拭わせよう。」

 

 事の重大さを鑑み、カプタニア城最上階の武徳王の神聖宮で緊急の御前会議が行われた。

 神聖宮は褐甲角王国の中枢であり、聖蟲の繁殖がカンヴィタル王家の者の手で行われている。金雷蜒王国における王姉妹と同じ役をカンヴィタル王家が担っており、その為に彼等は国政にも軍事にも口を出す事を禁じられ、ただ武徳王のみが権力と権威を独占する。彼らに仕える者も皆カブトムシ神官巫女であり、十二神方台系における褐甲角神殿の頂点でもある。

 白を基調とし石材をふんだんに使ったギィール様式の神聖宮に足を踏み入れる事を許されるのは、金翅幹家とソグヴィタル・ハジパイ、メグリアル王家の者のみ。ここに黒甲枝が呼ばれるのは異例の事態である。兵師統監チュダルム冠カボーナルハンが特別に召喚され、元老院の代表ハジパイ王 嘉イョバイアンと論争を繰り広げる事になる。

「ハジパイ王に申し上げる。この期に及んで和平などは最早意味の無い事。悪戯に時を費やす事無く、速やかに国境線の防備を固めるしか手はございませぬ。」
「防備を固めるのに反対はしない。だが、あくまで防備だ。毒地に深く侵入して、領土拡張を目論む黒甲枝があるという。如何に。」
「敵が攻め掛かるのを待つよりも、こちらから攻めて敵の脅威を削ぐ事も肝要。ただし毒地はあまりにも広大で、多少進撃した所で変化はございません。真に効果が有るのは一隊をもって金雷蜒王国の心臓とも言える神聖首都ギジジットを陥落させ、ここを拠点として毒地に点在する金雷蜒軍の集積所をしらみつぶしにする事です。」

「少し待て、今ギジジットを陥落させると言ったか。」

 褐甲角神武徳王23代カンヴィタル洋カムパシアラン・ソヴァクが直々に口を挟んだ。

 彼は54歳、無敵の神軍を率いる者には見えぬ痩身の男性だが学識にも武術にも優れ、一応の賢君と称えられている。だが彼が本物の名君であるかはこの戦において見極められるだろう。武徳王は全軍の総司令官であるから、今回直々に出陣する事も打診しており群臣を驚かせた。

 兵師統監チュダルム冠ボーナルハンが答える。チュダルム家は黒甲枝の大黒柱として代々の武徳王を軍事面において支えて来た。もう百年も昔から元老院入りして国政に与る事を要請されているが頑として受入れず、当主は皆軍人として生涯を終える事を誇りとする。

「陛下に直答をお許し願います。神聖首都ギジジットの攻略は我ら黒甲枝千年の悲願ではございますが、今回はそれとは別に、純粋に戦略上の必要から導き出されたものでございます。更に付け加えますと、これは必然でございますので金雷蜒王国側もギジジット防衛に死力を尽して参ります。ギジジットを防ぐのに最良の策は、我らを王国の国境に釘づけにする事です。ギィール神族は討って出る以外方策がございません。和平に道理が無い由縁であります。」

 ハジパイ王が兵師統監の言葉に異を唱える。

「和平の交渉が必ずしも平和を目的とするものでは無い。今我らに必要なのは十分な準備を整える時間であり、和平の交渉はそれを稼ぎ出す事が出来るだろう。此度の異変は人為に依るものだと推測されるがまったくその意図が読めず、東金雷蜒王国においても状況を把握出来ているのか、はなはだ疑わしい。敵に確とした戦争遂行の意思があるか、敵国内の情勢が大量の兵の動員を実現出来る状態にあるか、それを見極めればより労力を少なくして勝利を得る事が可能である。」

「勝利とは何か? ギジジットを落とさずしてなんの勝利があるのか。それともギジシップ島まで兵を進めて神聖王を虜とするまで戦いを続けるおつもりか。ハジパイ王、我らに時が必要なのは確かだが、それは敵もまた同じこと。寇掠軍を多数用意する時間を与える必要はあるまい。」
「しかし所詮はこちらから毒地に攻め入る事は出来ぬのだ。相手の出方を見るしかないのであれば、こちらから探りを入れずしてどうする。」

 武徳王がハジパイ王に問う。

「元老院はどのような結論に達した。」

「現在は元老院の議論は戦争を留めるのではなく、早期に終了させる手立てを探っております。一度ぶつかるのは致し方ありませぬが、我らも毒地全体を制圧出来るだけの兵力が無い以上、最終的には両軍が補給能力の限界に達し毒地にて立ち往生するのが、最も有力な予想です。」

「兵師統監、この予想をどう見る。」

「我ら兵を預かる者として不本意ではございますが、それはかなり確かなものでございます。」
「さればこその和平交渉でございます。最初の試みが実を結ばなくとも、この戦の規模を設定し落とし所を互いに探り合えば、中期的に最善の状態で停戦を迎える事が可能です。私は軍政局とは異なり、この戦が断続的に100年以上続くものと考えています。その最初の一歩を有利なものとすべく努力しております。」

「しかし東金雷蜒王国の国力では巨大な軍勢の集中はそう何度も行えぬ。いたずらな和平で時を失うと、敵にみすみすと体制の整備を許し兵力が増強され、侵攻は更に難しくなる。我らが悲願、褐甲角神救世主初代武徳王の神聖なる誓約の実現がまたしても遠ざかりますぞ。」

「陛下。現在黒甲枝と軍政局は、一種の狂気にも似た感情を抱いております。闇雲に古の誓約を実現しようと試み、理性的な判断を下す事が出来ないように元老院からは思われます。初代武徳王の予言がこのような偶発的な形で実現すると考えるのは、はなはだしく不敬ではありませぬか。」

 武徳王は深刻なジレンマに立たされている。彼は褐甲角神救世主の後継者として神話的な存在である。王国存立の基盤はこの誓約に収斂されるからには、黒甲枝の願いを無視するのは自殺行為ですらある。だが一方で現実を考え彼我の勢力バランスを検討すると、全面的な勝利が決して望めぬ事は明白なのだ。褐甲角王国の本義はなによりも民衆の解放と生活の安定にある。誓約の実現に傾いて方台全土を混乱に陥れ、民衆が困窮と危難にあえぐ事態を招来するのは、本末転倒だ。

「兵師統監。余も黄金の聖蟲を戴き誓約の実現を成し遂げんとする者だ。黒甲枝の心はよく分かる。だがあくまで王国の防衛に万全を尽くすという考えで計画を進めよ。
 ハジパイ王。この度の異変は人為のみによるものではないと、カプタニア山脈の褐甲角神の託宣が下っている。聖蟲を持つ者の直感を軽視するべきではない。まして今や。」

 磐石と思われた褐甲角金雷蜒両王国のバランスが、いつのまにか非常に危うく儚いものに変わっている。ほんの数ヶ月前までは無想にさえしなかった大きな変化だ。これを、青晶蜥神救世主の到来と結びつけて考えない者は居ない。救世主ガモウヤヨイチャンが天河の神々の計画に基づいて、方台を新時代に塗り替えているのか。巨大な王国が波間の小舟のように揺れる様を、武徳王は虚空に思い描く。

「両名に申しつける。事態は流動的であり、未だ見えぬなんらかの要素が更に変化を加速するであろう。これまでの王国の在り様は一度忘れよ。新王国を立ち上げる気持ちで事に当たれ。時代の流れを力でねじ伏せるのではなく、力で打ち勝つのだ。」

 兵師統監は額を石の床に伏せ、言った。ハジパイ王もそれに倣い頭を垂れる。

「状況の設定を他者に任せるな、という御定でありますな。心得まして御座います。」
「和平を軸に置かず、新たな時代に則した方台の在り方を模索致します。」

 

 神聖宮を下り、軍政局に戻ったチュダルム冠ボーナルハンは幕僚と共に武徳王の指示を実現する作戦を練った。

「あくまで国境は鉄壁に守り上げ、押し寄せるゲイルを弾き返す。その一方で赤甲梢兎竜部隊、また黒甲枝の突入部隊を新編成して毒地中に分け入り、敵の突出を誘う攻撃を断続的に続ける。魚のごとくに釣り上げ消耗を強いるのだ。」

 ハジパイ王は元老院議長室に篭ると書簡を数通書き、城外に使いを走らせた。

「方台全体を動乱に導く元凶、青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンを始末せねばなるまい。新たなる人の王国は人の手のみで造られるべきだ。」

 

「ひいいいいいいいいい、なぜ、なんで、どうしてこういう事になるのです。せんせーーーーーーーー。」

 毒地の異変は軍や王宮のみならず一般庶民にまで影響を及ぼした。大動員の計画は、情報統制の網を食い破って社会の全ての階層に漏れ出し、物資の買い占めや金銭貸借の早期の清算を促し、戦場となるだろうスプリタ街道沿いの住民避難が当局の制止を振り切って始まる。同時に国中から難民や交易警備隊、傭兵等がヌケミンドルに向かい、私設の警護兵として富豪や都市に雇われて、治安の悪化を招く。

「せんせー、私が愚かでしたあーーー。救世主さまが御降臨されるとなにもかもがうまく行って、世界が薔薇色に包まれるなどと夢見ていたのはまちがいでしたー。ひいいいいい。」

 ヒッポドス弓レアルもまた、この動乱で被害を被った者だ。彼女の婚礼は当初来年の春に行われる予定であったが、それが今夏に変更となり大急ぎで準備をしている最中に、この大動員の騒ぎとなる。彼女の婚約者カロアル軌バイジャンは現在ベイスラ地方というまさに最前線で兵役に就いているからには、カプタニアに戻るのも当分先の事となり、夏の結婚式はいきなり中止で無期延期となる。家庭教師のハギット女史も、世情の変化は見切っていたが、ここまで露骨に身近な影響が現われるとは想像もしなかった。

「お嬢様、取り乱さないように。カロアル家の奥様に見くびられてしまいますよ。」

「そうは言っても、これを取り乱さずにいつ取り乱せば良いのです。ああ、どうしましょうどうしましょう。」
「どうにもなりませんよ。ここはバンとお腹に力を入れて、どっしりと黒甲枝の奥方としての威厳を身に付ける好機と思って、」
「とてもそのような建設的な気持ちにはなれませんー。ああー、どうしたら。」
「はあ。」

「なんだか大変だな。弓レアルは。」

「あ、ネコ。なに、なにかまた恐ろしい話を持って来たの?」
「いや、噂話は幾らでもあるが、今日はおまえの取り乱しぶりがすこし面白い。ちょっと見せてくれ。」

「せんせーーーーー、こんなこと言いますうーーーーーー。」

 

第八章 金雷蜒少女、褐甲角王国への寇掠を決意する

 

 イルドラ丹ベアムは17歳。毒地と東金雷蜒王国を分かつ、ッツトーイ山脈の麓にある小さな村メガアラムを治めるギィール神族だ。

 17歳というのは聖戴を受ける最少年齢だから、彼女より下のギィール神族は居ない。聖戴に到る七つの試練はかなり厳しく、一度や二度は失敗して翌年再試験を受ける事も少なくないが、丹ベアムも兄の泰ヒスガパンもすべて最初の試みで成功した。聖戴式は神聖王の城のある東の果てギジシップ島にて毎年行われるが、兄も妹も最年少でこの栄誉を授かり、全国の神族の間で評判となった。聖戴を受けた年が神族同士の席次を決める元になるので、早くに聖蟲を戴く事は後々までも財産となる。

「うむー、どうもうまくいかない。」

 丹ベアムは骨筆を投げ棄てて、原稿をしたためた葉片を引き裂いた。十二神方台系には紙が無いので、乾かして裁断した木の葉を使う。葉書を二枚縦にしたのと同じ大きな葉で乳灰色、表面を固いもので引っ掻くと内部の層が露出して黒く跡が残る為に、古くから書字するのに使われている。

「やはり細部の描写をしないと、現実のように感じてはもらえないだろうな。しかし、青晶蜥神救世主はいったいどんな暮らしをしていたのだろう。」

 彼女が今取り組んでいるのは、「小説」だ。ギィール神族二千年の王国には、叙事詩や戯曲、随筆はあっても小説というものは遂に発明されなかった。これはわずか200年前に褐甲角王国で始まり、珍しく向こうから輸入された風習だ。しかし印刷技術が無い為その伝搬は手書きの写本に頼っており、著者が経済的に潤うまでには成熟していない。

 ここに目を付けた丹ベアムは、一度に大量の文書を製造出来れば大儲け間違い無し、とあたりを付け、独力でその手段を開発した。薄いタコ樹脂の膜に傷を付けて下の板に顔料を塗りつける、謄写版印刷に似た方法だ。高価なタコ樹脂の使用で初期投資は掛かるが後はいくらでも確実に複製が出来る。ただ印刷に木の葉は適しておらず、布はにじむし山羊革は剥げた。
 兄に相談すると、革に金箔を圧したものに塗れば良いと答えられたが、さすがにそれでは儲けにならない。間を取って、木の葉に錫箔を圧した薄板に印刷する事とした。これでも相当にコスト高だが金箔よりはマシで、しかも表面が白くて見易く出来た。本に仕立てるとかなり分厚くなるが、それは普通に木の葉に写本しても同じだから問題ではない。

「宝物でございますね。姫様。」
 女奴隷で乳母のジンケンシュラは本を見せられ、すなおに感想を言った。そう、金箔で作るよりは安いのだが、それでも写本の方がずっと安価に出来る。奴隷を集めて大量に写させた方がずっと現実的だ。

「で、諦めたのか。」
「いいえ兄上。もう一度検討し直して、色刷りというものを考案しました。何枚もタコ樹脂の膜を用いて、それぞれに色を換え、七色の絵を錫箔に記す事に成功しました。」
「流石だな。それはただの文書を複製するよりも、はるかに有益だ。」

「これを用いて、ギジシップ島でプレビュー版青晶蜥神救世主の図像などを頒布したいと思います。」
「そうだな。しかし、ただの絵では面白みに欠ける。なにか、脇に文章を添えるとどうだろう。それに売るのならば、偽ガモウヤヨイチャンではなく、本物の絵姿の方がよかろう。」
「そうですね。星の世界の暮らしなどを描いてみるのも、趣があって売れましょう。」
「うむ。」

 とはいえ、いくら金雷蜒の聖蟲の超感覚をもってしても、見たことの無い世界を描写するのは無理だった。
 ギィール神族は基本的に絵は上手い。写実的に描写する事は機械の製作にも必要な技能であるから、基礎教養として一定の水準にまでは鍛え上げる。しかし、その手法は芸術的ではないとして神族の間では評価されない。もっと感情を表した、知性から逸脱する自由奔放な絵画こそが価値あるとされる。それには聖蟲の存在はむしろ不都合だとさえ考えられ、芸術専門バンドの奴隷絵画に高い値が付く市場を作っていた。技巧よりも精神性を重んじる褐甲角王国の武人画も、高い評価を得ている。

 そういう目の肥えた趣味人の神族を相手に絵画を売ろうというのだから、丹ベアムの挑戦は困難を極める。プレビュー版青晶蜥神救世主一行から聞いた、ガモウヤヨイチャンの星の世界の都市の話を元にするのだが、

「屋根には陶器の板を葺き硝子をふんだんに使った高楼が列を為して立ち並び、鉄の車が押す者も無く勝手に走り回り、夥しい人が通りに溢れ、稲妻の光で照らされる・・・・。こんな感じかな。」

 世界の滅亡の光景が出来上がった。

「これは置いといて。建物に丸みと柔らかさをつけて、人々の顔には笑顔を。よし。」

 都市に続けて、空飛ぶ舟で戦う兵士の図、白い革鞠と棍棒を用いて9人の屈強な若者が競いあう図、何でも売っている商店でガモウヤヨイチャンが買い物をする図、とプレビュー版青晶蜥神救世主偽弥生ちゃんッイルベスの図を描いた。5枚一組で物語を紡ぐのだが、絵がかなりいいかげんな分、文章にはリアリティが必要になる。

「つまり、ガモウヤヨイチャンがいかにして青晶蜥神に選ばれたか、を彼女自身の視点から描くわけだ。だが、ッイルベスもティンブットもそれについては一言も話さなかったな。あれらもそのあたりの事情は知らないのだ。」

 蒲生弥生ちゃん本人ですら知らない事だ。十二神方台系の人間が知る道理が無い。やむなく丹ベアムは適当に話をでっち上げた。

「ガモウヤヨイチャンは、星の世界にあっても衆に抜きんでた傑物であり、9人の屈強な若者を率いて鞠棍競技でも無敵の強さを誇った。だが、あまりにも優れていた為に権力者に怖れを抱かせ陰謀にはめられて、空飛ぶ戦士から攻撃を受けたのだ。強力な光る矢が身に当たろうとする瞬間、青晶蜥神救世主が彼女の才能を惜しんで十二神方台系に召し上げた。・・・こんなところかな。」

 嘘八百だがなんとなくいい線を行っている気がして丹ベアムは愉快になった。

「! うん?」

 丹ベアムの額のゲジゲジの聖蟲が何者かを感知した。

 金雷蜒神の聖蟲が神族に与える超感覚は基本的には視覚情報ではない。むしろ視聴覚と混同しない為に、触角嗅覚、あるいは文字を読むように意味を直接に知る形で与える。有効範囲は7km程度、距離に応じて精度は下がる。障害物は関係無く、危険物や伏兵に関しては至近の地中水中にも及ぶ。他人の身体の変調に関しては特に敏感で、神族がその手法に習熟すれば害意を持つ人間の心の裡を読む事すら可能となる。ギィール神族が感情を殺す訓練を積むのは、自身の思惑を他の神族に悟られない対策として、絶対必要だからだ。

 ッツトーイ山脈の峡谷の道を通って、寇掠軍が戻って来る。丹ベアムが感じたのは6体のゲイルと神族、その狗番のみ、奴隷兵は連れていない。荷物持ちが居ないと長期の行軍は不可能だから、毒地を出る際に解散したのだろう。奴隷兵は、大都市周辺の戦争支援バンドが希望者を募ってまとめて寇掠軍に提供する。毒地入り口付近には兵と物資の集積地があり奴隷兵の斡旋所もあって、大層賑わうと聞く。

 丹ベアムは近くに控えて居た狗番に言った。
「シンクリュアラ・ディジマンディが帰って来たみたいだ。迎えに行く。」

 「シンクリュアラ・ディジマンディ(救済と回復の霞嵐)」はかってキルストル姫アィイーガが属して居た寇掠部隊だ。彼等はメガアラム村の北方に領地を持つ神族で、丹ベアムの聖戴式が無ければ、兄の泰ヒスガパンも参加するはずだった。

 書きかけの小説と絵画を女奴隷に託して、丹ベアムは野を駆け出した。ギィール神族の平均身長は男女ともに2メートル、しかし彼女は190センチしかない。奴隷達より頭二つ分も背が高いが、それでも少女と呼んで差し支えない幼さを未だ面影に残している。
 背の真ん中あたりで切りそろえた黒茶色の髪をなびかせて、彼女は走る。草の丘を鳥の速度で駆け、倒木や石や小川を無いもののように跨ぎ、農作業に勤しむ奴隷を驚かせ狗番を置き去りにしてあっという間に峡谷の入り口に着いた。

 左右に完全武装の狗番を従えて、6体のゲイルが一列に並んで街道を進む。全長15メートル高さは4メートルのゲイルは巨蟲の無表情に悪魔の荘厳さを湛え、乳灰白の肢が13対、風が林をざわめかせるに似た音を立てる。騎乗するギィール神族の黄金と白銀に輝く甲冑が周囲に陽光を撒き散らし、直視する事すら憚られる。が、最後のゲイルの背には誰も乗っていなかった。

 丹ベアムはゲイルの音にかき消されない大声で、先頭を行く神族に挨拶をした。

「ヌトヴィア王、無事の御帰還おめでとうございます!」
「おお、イルドラの丹ベアム殿か! 無事に聖戴の試練を乗り越えられたようだな。めでたいぞ。」

 シンクリュアラ・ディジマンディの指揮官である上将ヌトヴィア王ハルマイが、ゲイルの背から答えた。被っていた兜を脱いで面を見せる。ゲイルの背の騎櫓の端から、同乗する蝉蛾巫女が顔を覗かせている。

「予定通りの御帰還ですが、戦利品はございませぬのか?」
「もっと凄いものを手に入れた。後でお聞かせしよう!」
「キルストル姫アィイーガ殿の御姿がありませぬが、いかがなさいました。」
「彼女は戻らぬ。子細は後でお聞かせするが、きっと驚かれる事ばかりだ! 時に、」

 ヌトヴィア王はゲイルの肢をしばし止め、道の脇に立つ丹ベアムを睨んだ。彼女の背後にはやっと追いついて来た狗番が跪いて控え、その両脇には道の近くに居た奴隷達が地面に額を擦りつけて平伏する。

「丹ベアム殿、貴女は、青晶蜥神救世主の降臨をご存じか?」

 

 翌日、イルドラ兄妹はゲイルの背に跨がり二つ先の村にあるヌトヴィア王ハルマイの館に出掛けた。寇掠軍帰還の祝いの宴に大山羊と酒を引き出物とし、奴隷に運ばせている。

 ヌトヴィア王ハルマイは40歳。「王」の嘉字を持つ事から分かるように、何代か前の神聖王の血筋を引く。神聖王が王子の時代に為した子は通常は王位継承権を持たず、普通の神族と身分の差はほとんど無い。神聖王に世継ぎの男子が無い場合に彼等の中から選ばれる率が高いというだけだ。
 それでも彼等はそれなりに敬意をもって遇される。さらに代々神族同士の婚姻によって家系を継いできた者は特別な身分と呼んでいいだろう。「王」や「上」「天」という特別な嘉字を名乗るにはそれなりの条件があり、礼典に外れると嘲笑されるという事だ。

 ヌトヴィア王の邸宅は真鍮の板を葺いている。黄金で飾りたい所だが、さすがにそれだけの資金が無かったのだろう。真鍮だって安いものではなく目立つ箇所にしか使っていない。ちなみにイルドラ邸は白い石貼りで金属葺きと違って毎日磨く手間は要らないが、ヌトヴィア邸に比べるとさすがに見劣りがする。
 庭には既に何体ものゲイルが繋いであった。寇掠軍に参加した、あるいは祝いに来た神族らの乗蟲であるが、奴隷達は近付く事さえ出来ず遠巻きで恐ろしげに見ていた。神族はゲイルの番などしないし、実は屋敷内に居ながらでも聖蟲を通して管理する事が可能なのだが、何も知らされていないまま世話をする奴隷は何事も起こりませんようにと祈るしかない。

 屋敷に入ると既にタコ神官が楽を奏で、宴会が始まっていた。タコ巫女が舞い踊り花を撒き、カエル巫女が酌をして客に酒を勧める。
 ギィール神族の宴会には馬鹿騒ぎは無い。額のゲジゲジの聖蟲は精神に直接影響を与えるので、酒を飲んでも酩酊するのを許してくれない。その制約を無視して人事不省になるまで飲むと命に関る有り様で、やむなく嗜む程度にとどめている。代りに馬鹿騒ぎ役という専門奴隷があって様式化された宴を行い奴隷達が楽しみ、それを眺めながら酒を飲み清談に興じる、という形になる。

 正面の白い階の頂上に主のヌトヴィア王ハルマイが座り、左には蝉蛾巫女のエイムールを侍らせている。宴の席には既に「シンクリュアラ・ディジマンディ」に参加した神族が4名、左に席を設け、祝いに参上した神族が3名右に座っている。彼等の少し下の段には、神族の生まれではあるが聖戴を受けずに神聖王の廷臣となった者がこれも祝いに参じていた。

 イルドラ丹ベアムは、席に着くと聖戴の祝いを皆から受けた。寇掠軍の出発前に第六の試練を越えていたから、第七の試練「王都にて金雷蜒の聖蟲に選ばれる」のは確実視されており、誰もなんの心配もしていなかったが、改めての神族同士の聖戴の祝儀をこなす。

 通常の寇掠軍帰還の祝宴では、この後戦果の発表を蝉蛾神官が朗々と歌い上げるのだが、今回はいきなり核心に移る。

 丹ベアムは恐れ気もなく尋ねた。
「ヌトヴィア王、キルストル姫アィイーガ殿はいかがなされた。黒甲枝に討たれたか。」

「その事だ。結論から申すと、彼女は無事だ。いや、我らが見た最後までは無事であった。今は神聖首都ギジジットに居るはずだ。」

 おおおーと祝宴に集まった者から驚きの声が上がる。金雷蜒神の地上での御身体節が在り王姉妹によって支配されるギジジットはギィール神族にとっては禁断の地で、神聖王の勅許が無いと足を踏み入れる事は許されない。アィイーガが勅許を持っている筈が無いから、それは死刑に値する重大な行為だ。

 ハルマイは逆に丹ベアムに尋ねた。

「ベアム殿はトカゲ神救世主が方台に出現したのを御存知か。我らは毒地の霧に巻かれ世情に疎くなっており、褐甲角王国の戦利品の中から初めて知ったのだ。」
「おお、それはまことであります。現にこのあたりにも、青晶蜥神救世主の名代を名乗る一行が参りました。青い光を帯びた直剣をうやうやしく掲げ、鋼鉄をも分断し病に苦しむ者を癒して北へと去りました。」

「ほお、鉄を斬るとのお。」

 兄のイルドラ泰ヒスガパンが尋ねる。
「姫アィイーガ殿の御帰還が無いのと、青晶蜥神救世主との間になにか繋がりがござるのか。」

 「シンクリュアラ・ディジマンディ」に参加した者は互いに顔を見合わせ、言った。

「我らは救世主に毒地中で遭遇した。」

 驚愕の沈黙が広間に拡がる。ただ馬鹿騒ぎ役が痴れ芸を披露する虚しい歓声のみが残った。さすがに空気の緊張を察したタコ神官達が音楽を奏でるのを止め、ヌトヴィア家の家令に指示を求める。ハルマイは傍らに座っているエイムールに小声で指示して、彼女が優しく歌い出すのを合図に、再び宴は華やぎを取り戻した。
 蝉蛾巫女は歌姫であり、また風の流れを読み毒地中を行く寇掠軍に安全な通路を示す役目を持つ。エイムールは「シンクリュアラ・ディジマンディ」に参加する間にハルマイの寵愛を受けることになった。髪を短く切り少年のような冷めた容貌だが、24歳になる。

「毒地中に、なぜ救世主が居るのだ。」
 祝いの神族が尋ねるが、それをハルマイは解き明かそうと語る。

「エイムールの話だと、青晶蜥神救世主は狗番と蝉蛾巫女のフィミルティを連れて居た。この巫女は盲目ではあるが歌も風の流れを読むことにも優れた名のある者で、それを伴うのは紛れもなく毒地中を旅する事が目的だ。狗番と交渉した際の口上は「王都ギジシップに参る」だったが、毒地を通ってギジシップ島に行く者など居らぬ。目的地はギジジットだ。」

「では、青晶蜥神救世主は神聖首都ギジジットを目指したと。」
「ヌトヴィア王はそれを看過なされたか?」

「許すわけが無い。が、相手はわずかに3名と無尾猫にイヌコマが数頭だ。剣令に命じて皆殺しを命じたのだが、」

 ハルマイは銀の盃の酒を飲む。
「ひとり髪の長い少女が前に出た。青い筒袖の上着を着て、身の丈には合わぬ長い刀を左の腰に吊っていた。それがトカゲ神救世主だ。右手に不思議な扇を持つと青い光を発し、右から左に仰ぐと、百名の奴隷兵どもが風に煽られて20歩ほどいきなり吹き飛ばされ地に転げた。」

 宴席ではタコ神官が静かな曲に変えてヌトヴィア王の話が広間全体に通るように騒ぎを鎮めた。奴隷達も神官巫女も青晶蜥神救世主の話を聞きたいのは同じだ。誰もがそれぞれの仕事をさぼらぬようにはしながらも、聞き耳を立てている。

「奴隷兵どもはこれで戦意を喪失し撤退した。我らは本物のトカゲ神救世主であると断定して、6体のゲイルで同時に攻め掛かった。」
「青晶蜥神救世主は、徒歩であるか。」
「そうだ。扇をしまって刀を抜いた。中途半端に長い湾刀でそれを両手で構える。我らはゲイルで救世主を取りまき、弓で狙ったが、それは宙に6杖も飛び上がった。我らの目の前だ。そして風を呼び、空を駆けた。」

 丹ベアムは驚いた。
「ガモウヤヨイチャンは空を飛べるのか!」

「ガモウヤヨイチャンとはなんだ?」
「あ、いや。この地に参った名代より聞いた救世主の名だ。ガモウヤヨイチャンというらしい。」

「うむ。救世主は飛べるのだ。あまり高くは飛ばない、せいぜいゲイルの背の倍だな。だが驚くほど早い。ミョネ燕のようにゲイルの肢の間を飛び交っていた。我らは同士討ちを避ける為に弓を使うのを諦め、槍でひっかけようとしたが、湾刀で穂先をぽんぽんと刎ね飛ばされてしまった。確かにあれは鉄を斬る。」

「アィイーガ殿は、救世主にやられたか。」
「そうだ。あれ一人が女であるのを見定めた救世主が、ゲイルの騎櫓の縛り紐や鎖を斬り始め、アィイーガは背から振り落とされて地に落ちた。かなり強く打った為に失神したようだ。」

 泰ヒスガパンが尋ねる。
「姫アィイーガ殿は救世主に虜にされた、という事だな。」

 彼とアィイーガは歳が近く、結婚の謀りごとが近隣の神族の間では仕組まれている。神族同士の結婚は互いに我が強くなかなかうまくいかないが、泰ヒスガパンは性格が良いので、ヌトヴィア王の血縁で格式のあるキルストル姫アィイーガにあてがおう、と画策していた。
 ハルマイは彼に答えた。

「毒地を行くのには、どうしてもギィール神族の能力が必要だ。道案内を欲したのだな。アィイーガを虜にすると後は用無しという事で、救世主は再び扇を取り出して、我らを吹いた。」
「ゲイルを吹きましたか。して結果は。」

 寇掠軍に参加した者は皆顔を見合わせる。ハルマイも苦笑いして傍らのエイムールを抱いた。
「飛ばされたよ。6体のゲイル騎兵が揃って半里も飛ばされた。奴隷どもを笑ってはおれないな。」

「・・・・半里(500mほど)も、6体を。」

 これには宴席に侍る全ての奴隷も凍りついた。今、屋敷の外で林の触れ合う音を立てている巨大なゲイルが揃って宙に飛ばされた?想像にさえ出来ない事を為したと言うのなら、その者はまさしく神であろう。

「その後、アィイーガの狗番が主を迎えに行き、これも戻らなかった。主従共に虜となったのだな。」

 祝いに来た神族達が顔を見渡してしばし相談した。ハルマイの話があまりにも突飛なので、担がれているのではないかと疑ったのだ。だが、丹ベアムは続きが聞きたかった。
「ヌトヴィア王。貴殿等は姫アィイーガ殿をそのままお見捨てになられたか。」

 ハルマイは笑った。
「いや。だがさすがに奴隷どもをつれて奪還するのは無理だと思い、一度撤退して兵を他に預けて勝手に帰し、我らは追跡を開始した。しかしな、アィイーガはその間にすっかりトカゲ神救世主に篭絡されていたのだ。」
「ろうらく・・・・。ではそのまま諾々とギジジットに救世主を案内した、と言うことだな。」
「あれの気持ちはよく分かる。儂とてもそのような立場になったなら、きっとトカゲ神救世主に協力しただろう。」

 丹ベアムはまだ若く聖蟲を戴いたばかりなので理解出来ないが、おおよそのギィール神族は世に退屈し切っている。寇掠軍で褐甲角王国を攻めるのも暇潰しの一環だ。千年に一度の救世主が無謀にも神聖首都ギジジットを窺うというのなら、誰だって喜んで付いて行く。

「だがやがて分かったのだが、救世主の一行を追っていたのは我らだけではなかった。少なくとも5組の者が狙っていた。
 救世主の一行は実に大雑把な計画で動いていてな、人数が少ない為に長期間移動する事が出来ない。そこで経路上にある寇掠軍の補給地を飛び石伝いに襲い物資を掠奪し、ついでに奴隷どもを脅して口止めしていったのだ。『黙っていればトカゲ神救世主に協力した事を秘密にしてやろう』とな。実に狡猾だ。そのような事が表沙汰になれば一族揃って皆殺しに遭う。誰もが進んで救世主の手伝いをしていたぞ。」

「なにやら、悪党の手口に似ているな。」
「実際、救世主は大した悪党だ。これはトカゲ神の聖蟲の力なのであろうが、我らの聖蟲の知覚では救世主の一行の姿が捉えられないのだよ。気配をすっかり消してしまっている。その状態で道中出くわした寇掠軍を背後から襲い、砂嵐を巻き起こして自らの正体も隠して、捨てて行った物資を強奪していた。」

「・・おもしろいな。」

「もちろんすべての襲撃がうまくいったわけではなく、策を用いての逆撃を受ける事も多かった。どうやら王姉妹の暗殺団が蠢いていたらしく何度も襲撃に遭い、また集積所では罠を仕掛けての火攻めにもされていたが、ことごとく撃退した。正体不明の暗殺者も居たな。骸を調べてみたが、褐甲角王国の者であったり神官の証を持っている者も居た。
 どちらにしろ、トカゲ神救世主は尋常の街道を行くだけでも襲撃を受けるのだ。敵しか居ない毒地を進んだのはむしろ好判断であっただろうよ。

 20日余りを要して救世主の一行はついに神聖首都ギジジットに入った。我らには勅許が無いので、ギジジット周辺をぐるりと取り囲む円形の城壁の外で様子を窺った・・・・・・・。」

 

 翌早朝、ヌトヴィア邸を辞したイルドラ兄妹は目映い朝日の中ゲイルを前後に並べて帰って行った。
 ヌトヴィア王以下の「シンクリュアラ・ディジマンディ」に参加した神族は二三日休息を取った後、王都ギジシップ島へ渡り神聖王に見聞きしたものを報告し、今後予測される事態への王国の対応を進言するつもりだ。

 丹ベアムはゲイルの背に跨がり、爽やかな風に髪をなびかせ左右の新緑を眺めながら、前を行く兄に語りかけた。
「兄上、いまあなたが何を考えているか、当ててみせましょう。」

 泰ヒスガバンは振り返りもせずに答える。
「わたしこそ、お前が何を考えているか、当ててみせよう。」
「フフ。」

 二人の気持ちは一つに決まっている。毒地が青晶蜥神救世主により浄化され往来が自由になったとすれば、褐甲角王国から攻めて来るのは必然。金雷蜒神が御座を設ける神聖首都ギジジットを黒甲枝に抑えられてしまえば、ギィール神族も存立し得ない。

「ギィール神族八番目の試練、王国を護る為にその命を投げ出す事、ですね。」
「そうだ。お前も私も未だに寇掠軍に出征していない。お前には少し早いかもしれないが、」
「ご心配なく、準備は常に整っております。」

 だが泰ヒスガバンは妹に答えず、前を見続けた。そして言う。
「・・ヌトヴィア王の話と、プレビュー版青晶蜥神救世主の一行を率いていたティンブットの話と、こうも食い違うものかな。ヌトヴィア王の申されようでは、ガモウヤヨイチャンはまるで闘神ではないか。」

 丹ベアムもその点には違和感を覚えていた。
「ッイルベスは救世主とうりふたつという話でした。あの優しげな少女とおなじ姿を持った者が、ギジジットを鳴動させる激闘を金雷蜒神と交わし毒地全体を揺るがすとは、確かに解せません。」
「それに、毒地を浄化してしまえば褐甲角王国と必然的に衝突する。平和を望む者ならば、決してそのような事はすまい。まして青晶蜥神救世主は癒しの神の使いだ。」
「まるで我らを戦いに駆り立てる仕業です。」
「だが、傷ついた大地を癒すのはいかにも青晶蜥神の為せる業ではある。これは一体何者なのだ?」

 聡明なイルドラ兄妹にも、ガモウヤヨイチャンという人間の全貌が掴めない。むしろ、世界を滅ぼす為に遣わされた天魔と呼ぶ方が、理解が容易かった。
 丹ベアムは兄に問う。

「ガモウヤヨイチャンが方台に害を及ぼす者と見定めた時、兄上はどうなさいます。」
「殺す。だが、ゲイル騎兵6騎を一度に吹き飛ばす者だ、私ごときでは叶うまいな。」

「ですがもしも、我らが聞いた事全てが正しくその者の姿であり、天河の計画に則ったものだとすれば、いかがなさいます。」

 泰ヒスガバンは振り返り、妹に微笑んで見せた。
「その時は、救世主は我らが遠く及ばぬ崇高なる存在と認め、その足元にひれ伏すしかない。」

 

 屋敷についた二人は、すぐさま家令を呼んで寇掠軍の準備を整えさせた。兵はメガアラム村からは連れていかない。毒地には兵を購う市があり、荷物持ちの奴隷兵やそれを指揮する剣令を調達する事が出来る。ギィール神族はゲイルと狗番、それと黄金を用意すればいいだけだ。

 寇掠の留守を託す為に、二人して屋敷の近くにある工房へと足を伸ばす。そこは年老いた神族イルドラ碑サンマンの鍛冶場となっていた。二人の物作りの師匠であり、二人が帯びる剣も彼の作品だ。
 工房の扉を開ける前に、碑サンマンの声が掛かった。

「寇掠軍に出征るのだな。足音で分かるぞ。」

 赤い炭火で照らされる彼の顔には深い皺が刻まれ、眉が歪んで片目が無い。長く火を見詰め過ぎて潰れてしまったのだ。額の聖蟲の黄金の肢が焔に煌めく。
 泰ヒスガバンは作法に則り深く礼をして、言った。

「留守を頼みます。此度の寇掠軍はこれまでに無い激しい戦を闘います。黒甲枝と直接ぶつかる事になるでしょう。二人とも戻らぬ事も御座います。」
「トカゲ神救世主が呼んでおるのだな。気を付けよ、糞転がしどもはこれを予言の戦と心得ている。奴等が千年待ち望んでいた雌雄を決する大戦さと猛っておるよ。」
「褐甲角神武徳王の予言でありますか。」
「そうだ。そして、我ら金雷蜒王国二千年の治世に天河の審判が下る戦なのだ。」

 丹ベアムにはそうは思えなかった。いかな激戦でも二つの王国が滅びるはずも無い。戦力比から考えて、状況が最終的には膠着するのは明白だった。
「御老体。では、審判の後、方台はどのような姿になるとお考えです。」

 兄が止めるのも聞かずに、ベアムは尋ねた。青晶蜥神救世主にしか分からない事だろうが、師匠に泡を吹かせるのも弟子の務めであると彼女は考えている。ここで即答できないようでは、聖戴に到る第六の試練「賢者の質問に淀みなく答え続ける」に通らない。

「そうだな。何も起きぬのではないか。」
「なにも?」
「そうだ。何も起きぬが、すべてが青晶蜥神に塗り替えられている。ゲジゲジと糞転がしの争いなど意味が無くなっているのだよ。」

 泰ヒスガバンはそれに続けて、妹に言った。
「だが人は死ぬ。大勢死ぬ。生き残った者にとって、世界はすでに別物と化しているだろう。」

 火の前に座って居た碑サンマンが立ち上がった。彼の年老いた肢体は筋張り樹の枝のような節があり、至る所に残る火傷の跡が年輪にも見えて人間らしさを感じさせなくなっている。このまま古びて自然と一体化するように、二人には思われた。
 彼は工房を離れて宝物蔵に行き、布に覆われた背丈ほどの長い道具を抱えて来た。

「持って行くがいい。儂が若い頃に考えた黒甲枝を殺す為の武器だ。」

 それは金属を抉る螺旋の穂先を持つ槍だった。過酸化水素水を用いて空を飛び、自ら敵を求めて襲いかかる機能を持つ。

 老人は槍を青く抜ける空に掲げて、言った。

 

「これを使う日が来ようとはな。」

 

(未来の話)

 第三代青晶蜥神救世主・神聖皇帝、来ハヤハヤ・禾コミンテイタムが、彼女の国に弥生ちゃんが来た時の話をした。

「ガモウヤヨイちゃんはこう仰しゃいました。十六神星方臺の人間は、十二神方台系の人間に比べて怠け者だ。気候が良く何もしなくても食べて行けるのをいいことに、遊び惚け過ぎている、と。」

 来ハヤハヤ・禾コミンテイタムは弥生ちゃんが西の海に去った3年後、弥生ちゃんが使ったのと同じ形の小舟でやってきた。
 額にはトカゲの聖蟲を戴き、弥生ちゃんが使っていたハリセンを持ち、弥生ちゃん自身の額に居た青晶蜥神の化身ウォールストーカーを伴って、十二神方台系を治める為に遣わされたと申し述べ、海岸を警備していた黒甲枝を驚かせた。

 褐色の肌に青い瞳、長い黒髪という特異な風貌を持つ彼女は上陸時わずかに13歳。無邪気な性格ではあったが極めて聡明で、方台を治めるのに苦労していた第二代青晶蜥神救世主を助けて、青晶蜥王国を磐石なものへと作り上げるのに尽力した。以後青晶蜥神の聖蟲は3匹のみで留まり、神聖皇帝、皇帝を引退した上皇、救世主見習いである皇主の三人による統治となる。

 禾コミンテイタムは、弥生ちゃんはカタナ一本を手にぴるまるれれこ神の御加護を得て更に西の海へと旅立ったと、その後の消息を伝える。再び十二神方台系に戻って来ると信じていた者達は大いに嘆き悲しみ、弥生ちゃんの墓を建て星浄王と謚した。

 彼女はまた、弥生ちゃんの手によって選ばれた十六神星方臺の有用な植物の種や苗木をもたらした。南国の気候に育つ草木の半数は根付かなかったが、それでも後の世に益となるものが多数あり、特に香辛料は食卓を劇的に変え人々に喜ばれた。

「ガモウヤヨイちゃんは私たちを見て、よく 『インド人もびっくり』と仰しゃいました。どういう意味でしょうね。」

 

 

第九章 弥生ちゃん、平原にて蝗の大群に襲われる

 

 ギジジットを発った青晶蜥神救世主蒲生弥生ちゃん一行は、十日余り後ギジェカプタギ点近くの毒地中に到りしばし滞在している。

 ギジェカプタギ点はボウダン街道の東端、国境を守る東金雷蜒王国の大要塞群で、聖山山脈と毒地に挟まれた街道に蓋をする形で立ち塞がり、1万人余の正規兵と100を越えるゲイル騎兵が常駐している。
 これに対して褐甲角王国は基本的には攻める側なので要塞は築かず、関所を多重に構えて人の出入りを厳しく管理していた。ボウダン街道全域には多数の軍事拠点があり、そこに詰める黒甲枝が時間稼ぎをする間に援軍が到着して金雷蜒軍を防ぐという戦略で、即応部隊として赤甲梢兎竜部隊が街道に遊弋している。

 れっきとした最前線なのだが、その割には双方の兵に緊張感が無い。ここは公的に両王国が交流する唯一の接点であり交易の大動脈となっており、ここを通過する物資が無いとどちらの王国の経済も停止してしまう。褐甲角王国からは穀物や布、木材が、東金雷蜒王国からは工業製品が輸出される。高度な技術を要する大弩や刀槍の類いですら褐甲角王国は敵国から買っていて、千年の長きに渡って戦争状態にあると言われても真面目に受け止めないのも無理からぬ話だ。

 ギジジットから聖山へ使者を出す際も、遠回りになるが一応ここを経由して褐甲角王国に入る。しかし、ギジェカプタギ点ではなく褐甲角王国側のカプタンギジェ関に直接出るのが慣習となっていた。
 ギジジットの王姉妹と、ギィール神族は仲が悪い。憎みあっていると言えるほどで、そのとばっちりで王姉妹の使者であるゲジゲジ神官は、ギジェカプタギ点を守護するギィール神族の将軍からいやがらせの無用の詮議や荷物検査を受け、多額の関銭も取られる。褐甲角王国に入った後も同様の扱いを受けるのだから、直接入って一回で済ます方が合理的だ。

 というわけで、弥生ちゃんも褐甲角側に近い毒地中にあった。そのまま進まず何日も留まっているのにはいくつか理由がある。

 その第一は情報収集だ。毒地に二ヶ月近くも居た弥生ちゃんにはその間の方台の情勢がまるで分からない。毒地全体を浄化してしまったからには各所で異変があってもおかしくなく、と言うも愚か、目の前の関所群が蜂の巣を突いた大騒ぎになっていて、その渦中に飛び込むのは剣呑至極だったからだ。ギジェカプタギ点の東西は今にも開戦とばかりに兵を揃えており、関所の検査も厳しくなって通常の10倍も通過に時間が掛かり、交易隊が何十組も渋滞している。通例では直接入れるはずのゲジゲジ神官団であっても、これでは無理と思われた。

 第二は、合流するはずのティンブット、プレビュー版青晶蜥神救世主偽ガモウヤヨイチャンの一行が約束の日付に間に合わなかった事だ。これも関所が渋滞していては無理からぬ事で、更に本物が出現したとなれば大騒ぎ間違い無しだから、進入を控えている。

 そして三番目が、

「ふむ。ゲルワン・カプタだね。」
 望遠鏡を覗いた弥生ちゃんはそう呟いた。

 毒地が浄化され草木がちゃんと生い茂るようにしたのだから、当然虫や動物にとっても良い環境になっている。従来ならば千分の一しか生き残らないはずの虫の卵がそっくり孵って、ゲルワン・カプタ(蝗)の大量発生となったのだ。
 これは弥生ちゃんの責任であるから、当然自分で後始末をつけようとイヌコマに乗って浄化された毒地を走り回っている。付いて来るのは、弥生ちゃんと同様に体重が軽くてイヌコマに乗れる蝉蛾巫女フィミルティと快速の無尾猫だけだ。

 フィミルティはぐるぐる眼鏡を左右に振り宙を飛び交うバッタの群れを見て、おののいた。

「ガモウヤヨイチャンさま、これは一体どうしたことでしょうか。蝗がこのように大量発生するのは天が人を罰する時とされていますが、救世主さまがいらっしゃるのに。」
「いや、蝗の害というものは自然現象だから天意とは関係無いんだけど、これは計算外だった。」

 おそらくは、毒地の周辺全てがこのような状況に陥っているのだろう。ギジジットから地下水道を通って撒かれていた毒は、本来除草剤や殺虫剤の成分であったから、それが無くなれば雑草や虫がはびこるのは当たり前だ。ギィール神族は毒の成分をよく知っており、取り扱い方も弁えている。場合によっては彼らに頼んで再び毒を撒き、害虫退治をしなければならないだろう。完全有機農法とは言えなくなるが、背に腹は替えられない。

 ちなみにゲルワン・カプタは食用である。煎って食べるとこりこりとして香ばしく、また挽いて粉にして調味料としても使われる。弥生ちゃんの舌にはどう味が変わるのかよく分からないのだが、ともかくイヤな感じではない。

「これだけの蝗を捕まえれば、大儲け間違い無しなんだけどなあ。」
「なにを呑気な事を。いかがなさいます、また氷の槍でも降らせて退治なさいませ。」
「いや、そんな安直な。」

 しばらく行くと東西にずらっと並んだ木の柵に出くわした。これが、毒地とボウダン街道を隔てる境、褐甲角王国と東金雷蜒王国との国境になる。

「ガモウヤヨイチャンさま、戻りましょう。」
「そうだな。」

 振り返って見ると、一面に緑が広がっている。わずか二ヶ月前に浄化されたのに、既に自然が回復し草が生え始めていた。ただ土壌が薄いので、それほど大きな草木は生えてこないだろう。ここを農地に戻すには、大量の人手が必要だ。柵の根元を見ると、伸びた草の蔭を黄灰色の虫が走って逃げた。ギィール(ゲジゲジ)だ。口には蝗をくわえている。本来荒野を走って虫を捕食する土の色に迷彩したこの生き物には、緑の原は迷惑だろう。

 イヌコマを走らせてゲジゲジ神官達の元に戻った。天幕の列の脇に一体巨大なゲイルが居る。全長14m、高さは5m。アィイーガの乗蟲であるが、これが先程のギィールを品種改良したものだとは想像もつかない。

 隊列に戻るとアィイーガが出迎えた。額の上に在る聖蟲は、先程のギィールとうりふたつ。ただ身体の色は金色で目が赤く輝いて、なんとなく知性を感じさせるところがちょっと違う。
 アィイーガは右手を振って、顔に飛びついて来た蝗を払った。食事の用意をする鍋にも水瓶にも飛び込んで来て、ひどい迷惑だ。

「これはどうにかならんものかな。」
「なるよ。毒を再び撒けばいい。」
「おお、なるほど。それはそうだ。毒樽の持ち合わせは無いがな。ゲイルをもらった寇掠軍に分けてもらえばよかった。」

 アィイーガのゲイルはギジジットから連れてきたものではない。餌に生きた人間を用いるゲイルはさすがに弥生ちゃんが忌避するので、アィイーガも連れて来なかったが、折りよくどこかの寇掠軍と遭遇してこれを撃破、ゲイルを分捕ったのだ。ギィール神族はなぜだか弥生ちゃんが青晶蜥神救世主だと知ると、必ず挑戦して来る。隣にアィイーガが居ようがゲジゲジ神官が止めようがお構い無しだ。

 神官と神官戦士達が弥生ちゃんの帰還を知って地面に跪いて出迎える。追いつくものならば弥生ちゃんの供をするのだが、イヌコマは弥生ちゃんを乗せた状態でも時速40キロでとっとこ走る。狗番と違い、本来弥生ちゃんの護衛は任務では無いのだから、と自ら諦めるしかなかった。

「青晶蜥神救世主様、御視察はいかがでございましたか。」
「よくない。地元に農家は無いかな。ちょっと話が聞きたい。」
「そうは申されましても、それは褐甲角王国に入るという事ですから、関を通るまでは御辛抱ください。」

 イヌコマを降りて神官戦士に任せたところで、ようやく無尾猫が追いついて来て弥生ちゃんの足元にへたり込んだ。ネコは快速だが長距離を走るようには出来ていない。口を大きく開けはあはあ息をしながら、言った。

「ネコに優しくない人だと聞いていたけど、あんまりだ。」

 今弥生ちゃんの傍に居るネコはギジジットに付いて来た連中ではない。人の居る場所に近くなると他の無尾猫も姿を現して、弥生ちゃんと共に大冒険をした無尾猫決死隊と密着取材の役を交替する。一匹また一匹とあいさつも無しに弥生ちゃんから離れて行ってしまう。この薄情さがネコであろう。
 彼らは仲間に会うと今までの体験を超音波での会話でそっくりそのままに伝える。体験を共有したネコは、人に会って餌の代金として噂を話し人間社会にどんどん広めて行く。弥生ちゃんが毒地に滞在する間にも、噂話は風の早さで伝わっていくのだ。

 アィイーガは言った。
「新しいネコの話だと、青晶蜥神救世主のにぎやかな一行がギジェカプタギ点にようやく到着したそうだ。だが通過にはまだ二日は掛かるな。」

 アィイーガはティンブットとは面識が無い。弥生ちゃんがそれほどにタコ巫女を待つのをいぶかしく思っている。しかし、やはりティンブットはこの世界における弥生ちゃんの保護者みたいなものだろう。彼女が居ないと地に足が着いていない気がする。救世主なんて座興にやるべきものであって、本気になってはいけない。それが、別の世界からやって来て救世主の役をする者の節度というものだ。ティンブットのいいかげんさはその事を弥生ちゃんに教えてくれる。

「明日、ちょっと関所を外れて近くの村に行ってみよう。規則通りに関所で許可をもらうのは、やめた! どうせ小役人がやって来てあーだーこーだ言うのだろうから、それだったらこっちから出向いて、もうちょっと権限が上の人間を呼んで来よう。」
「おう、それでこそ青晶蜥神救世主だ。神官どもと同じ法に縛られねばならぬ理由は無いからな。」
「ガモウヤヨイチャンさま、また胃が痛くなる人間を増やすおつもりですか。」

 

 胃が痛くなる人間は、褐甲角王国にも百人ばかり居た。
 カプタンギジェは関所と言っても軍事施設であり、三重の塀と垣根で守られ、それぞれに防御指揮官が居て兵を率いている。皆黒甲枝であるが、・・・青晶蜥神救世主を取り扱う権限は誰一人持っていない!

「これは困った。我らに許された権限では青晶蜥神救世主を留める事が出来ない。」
「カプタニアからの通達では、恐れ多くも武徳王御自ら青晶蜥神救世主の扱いを定められたとの事。それによると、その身柄は一身で王国と成し、褐甲角の国法の適用は能わず、となっている。」
「つまりは、通りたければそのまま通さねばならないが、それで関の番人が務まるのだろうか。」
「務まるわけがない。随員にギィール神族と狗番を伴っているのだぞ。」
「そもそも、真の救世主か否かは、どうやって見分ければよいのだろう。」

 どこの世界にも官僚主義は根強く息づく。まして王国に固く忠誠を誓う黒甲枝に柔軟な発想を要求するのが無理な話で、そういう時のために王族というものがある。

「・・・軍令特級便で、ギジェ関から救援を求めて来た。トカゲ神救世主が出現したそうだ。」

 赤甲梢総裁、いや前総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサは配下の旗団長を集めて会議を開いた。既に新総裁就任式は終え、彼女は無役のはずなのだが、依然として赤甲梢を指揮し続けている。新総裁メグリアル劫アランサの教育係兼相談役として、だ。

「アランサ、どうするね。」
「どうと申されても、私にも救世主の処遇を決める権限はありません。」

 メグリアル劫アランサ。焔アウンサの姪であり、メグリアル王家の姫である17歳は、総裁就任と同時に全軍総動員という異常事態に放り込まれた。予想されるギィール神族の大攻勢に備えてボウダン街道全域を警戒し、突出する寇掠軍を撃滅せよ。指導力も実績も豊富なアウンサでさえ初めての大戦争に、彼女は挑まねばならなかった。

 アウンサは赤味がかった髪を掻いて、姪の芸の無い答えに耐えた。メグリアル王家の人間はだいたいがこういう性格なのだ。自由奔放な自分は例外中の例外、本来のメグリアルは中央政界の理不尽な仕打ちにもじっと耐えて役目を果たし続ける芯の強さこそが身上とされている。

「よし分かった。つまり救世主でなければ、どうとでも出来る権限はあるわけだ。」
「そういう事になりますか。」
「なる。」
「では、撃滅に参りましょう。」

 おお、と8人の旗団長はどよめいた。新総裁は思い切りが良過ぎる。アウンサの真似は誰にも出来ないし、やるべきではないのだ。さすがに見かねて輔衛視のチュダルム彩ルダムが助言した。彼女は黒甲枝の名門チュダルム家の一人娘であり法令を司る衛視としてカプタニアの王宮に勤めていたので、青晶蜥神救世主の処遇を巡る元老院と武徳王との衝突も知っている。

「総裁。救世主の処遇につきましては慎重に、王都に必ず指示を仰がねばいけません。間違ってもこちらから攻撃を仕掛けるような事はなりません。」

 だがアランサの答えは、ルダムの心配を吹き飛ばすものだった。

「カプタンギジェ関の指揮官達にとって、今必要な救援は王族の存在です。我らは関に急行して青晶蜥神救世主に関する全てを掌握し、彼らの防衛の任を全うさせる事が最善です。」
「うん!」

 アウンサもその判断にお墨付きを出した。ルダムに言う。
「もし贋物だったら、あなたにやる。国法に従って救世主の贋物を火焙りにするのは、衛視局の仕事でしょう。」
「うう、嫌な仕事ばかり回す・・・。」
「明払暁、兎竜部隊は東に進軍して青晶蜥神救世主を名乗る者を捕獲する。それまで手を出さないようにギジェ関に至急令を送れ。」
「は!」

「という命令を出すのだよ、アランサ。」
「はい、叔母上。」

 

 弥生ちゃん一行は翌日近くの村に遊びに出掛けた。付いて来たのはアィイーガとフィミルティに、お目付役のゲジゲジ神官が一名、ネコ数匹。旗持ちのシュシュバランタが掲げるぴるまるれれこ旗を先頭に、三人の狗番を伴って草原を進んで行く。暗殺集団「ジー・ッカ」から引き抜いたチュバクのキリメはカプタンギジェ関に潜入して情報収集に当たっている。

 小人数で目立たないように進んだつもりだったが、王旗を掲げてお忍びというわけにはいかなかった。柵を越えて褐甲角王国領に入ると、たちまちに人に見られて逃げられた。ギィール神族の金ぴかの鎧をアィイーガが着用しているから、それはびっくりして最寄りの兵隊に通報しに行くだろう。アィイーガは言った。

「やはり、ゲイルに乗って来た方がかっこ良かったかな。」
「そうだねえ、騒ぎになるんだったら、いっその事その方が話は早かったかもしれない。」

 ボウダン街道沿いの農地はあまり生産性が高くないという事で、雑穀が植えている。しかし貧しくはない。畑も道もちゃんと整備されていて家々もそれなりにまっとうな造りである。これは、ボウダン街道の人足としての副収入が農業のそれよりも多いという特殊事情を反映していた。
 ゲジゲジ神官の説明によると、もう少し西に行った所には紅曙蛸王国時代のタコ女王の宮殿跡があり、古来よりこの地は交易の主要道として繁栄してきたのだという。

 村に入る前に、弥生ちゃんは蝉蛾巫女に尋ねた。
「こういう場合はさあ、行列は鳴り物付きで行進するんじゃないかな?」
「でしたら神官戦士達を同行なさればよかったのです。仕方ありません、私が歌いましょう。」
「頼むよ。」

 土地柄を考えて村人に警戒心を抱かせないように、フィミルティは古代の紅曙蛸女王を称える歌を唄って一行を先導した。その声に惹かれて集まった村人達は、不本意ながら弥生ちゃんではなくアィイーガの金ぴかの鎧を見て仰天し、道端にひれ伏した。褐甲角王国とはいえ、聖蟲を持つ者、特に神として二千年方台に君臨してきたギィール神族に対する信仰は、遺伝子に刻まれたもののように人々を従える。
 フィミルティは歌を替えて、新しい世に救世主が降臨し人々に平和を授ける新曲を歌った。これはギジジット滞在中に彼女がこしらえたもので、学識深い高位のゲジゲジ神官やアィイーガの助言を得て作られた立派な詞を持っている。

 おっとり刀で村の邑兵隊も駆けつけて来たのだが、アィイーガの姿を見ると武器を捨ててひれ伏してしまった。どうも、背の低い弥生ちゃんは目立たなくてお呼びでないような気がしてくる。弥生ちゃんは村の最長老であろう白髪の老人を助け起こして、青晶蜥神救世主らしい所を見せた。

「え! この村に王姉妹が来た事があるの?!」

 案内されて、一行は村の広場にて露天で接待を受けた。話を聞いてみれば、アィイーガに平伏したのも納得。この地は東金雷蜒王国から亡命する人の通行路として、何度もギィール神族や王宮の廷臣を受入れた事があったのだ。

「70年前の王姉妹、と言えば、・・・それはゴブァラバウト頭数姉様ではありませんか。」

 弥生ちゃんに付いて来たゲジゲジ神官の話によれば、王姉妹で王宮を追放された一番最近の例が、70年前のその人だと言う。ついこの間、ゴブァラバウト四数姉を葬った弥生ちゃんにしてみれば、痛し痒しというところだ。この件に関しては蝉蛾巫女のフィミルティがよく知っている。

「これは非常に有名な物語で、唄としても人気の高いものです。禁を破ってゴブァラバウト頭数姉が王宮の外のギィール神族と恋をして、隠し果せずに二人で毒地を逃げたけれど追手に捕まる。二人は引き裂かれ彼女は幽閉されたものの、自ら聖蟲を返上して自由な身に堕ちてまでも男性の神族を求めましたが、王国のどこにも見つからず、ついには行方が知れなくなる、というお話です。」

と、その一節を歌ってみせる。哀切に満ちた涙を絞り出す歌声に、そういう話には鈍感な弥生ちゃんも思わず目頭が熱くなる。

「ところで、話は変わるけれど、ゲルワン・カプタが大発生した際には、この村ではどういう対処をするの。」

 村の長老は、青晶蜥神救世主とギィール神族の卓に席を同じくするという、礼典を無視した特別の栄誉に預り、今死んでも悔いが無いほどの感激のしようだった。弥生ちゃんは、人が下に這いつくばってよく聞こえない声でごもごもと話すのは嫌いだから、誰でも側に近寄らせるが、狗番や神官達はその度に神経を磨り減らす。

「青晶蜥神救世主様に申し上げます。蝗は十年に一度空を覆うほどに現われますが、人は為す事を知らず、ただチューラウの訪いを待つばかりでございます。」
「”チューラウ(青晶蜥神)の訪い”?」

 ゲジゲジ神官の話だと、それは毒地すなわち青晶蜥神の滑平原に特有の気象で、秋の終わりに一夜にして野を霜が真っ白に覆ってしまう現象だ。聖山山脈で堰き止められている寒波が、山脈を乗り越えて一気に雪崩落ち平原を走って寒冷化する、まさに冬の神チューラウがやってきたと思わせる鮮やかな変化だそうだ。

「そうか、寒いのに弱いのか。そりゃそうだな。」
「冷気で蝗を落とそうというのか。チューラウの救世主だから、当たり前の責任だな。」

 アィイーガは呑気にヤムナム茶を飲む。村長秘蔵の茶藻だがギジジットから持って来たものには遠く及ばず、極上品に慣れた舌にはいがいがと粘り着くように感じられる。

「そうは言ってもねえ、たかがカプタ(昆虫)だとはいえ、生き物を大量虐殺するというのは気がひけるんだよ。」
「やらねば人が餓えるのだ。」
「そうだよ、だからやるって言ってるじゃないか。」

 弥生ちゃんが十二神方台系の文化でで好ましく思うのは、どの生き物に対しても、たかが虫けらであってもちゃんと命を認めるという点だ。日本人である自分にとって普通の感覚がそのまま使えるのは、かなり楽だ。もっとも虫けらを頭に乗っけた人を尊しとする世の中だ、当然の反応ではある。

 フィミルティは平和主義者だから、こういう弥生ちゃんの姿に共感する。アィイーガがちこちこと弥生ちゃんをいじめようとする気配を感じ取って、助け船を出した。

「蝗は食用になるのですから、拾い集めて市場で売ればよいのではありませんか。」
「・・・何千万匹を、食えというのかい?」
「・・・そんなに居ますか?」
「居るよ。」
「居る。」
「えーと。そうだ、畑にすき込んでしまいましょう。簡単です!」

 それではおもしろくない、と弥生ちゃんは首をひねる。もっと有意義な、それでいて救世主らしい、後の世の手本となる画期的アイデアが必要だ。が、完璧万能の弥生ちゃん唯一の弱点が、独創性に乏しい所なのだ。地球で高校生をしていた時は、八段まゆ子というマッドサイエンティスト気質の知恵袋が隣にあって、奇矯なアイデアを水道の蛇口をひねるように大量に供給してくれていたのだが。

「まゆちゃんは、・・こういう時、汝欲望に従え、と言うなあ。」

 

 一度毒地中の神官戦士達が待つキャンプに戻って、翌日。弥生ちゃんは村人全員を伴って、平原に出た。全員が唐箕とモッコを装備している。見上げる空には無数の蝗が雲霞となり、太陽の光を遮っている。

「一度しかやらないから、ネコもちゃんと見ときなさい。」

 と、腰の後ろからハリセンを引き抜いて大きく開く。むんと念を込めると、ハリセンは長さを伸ばして更に大きくなった。アィイーガが尋ねる。

「何をするのだ。」
「フリーズドライ!」

 神官戦士と村人達が固唾を呑んで見詰める中、弥生ちゃんはハリセンを大きく振りかぶった。虫に翳る地平線の彼方を睨み、裂帛の気合いと共に叩きつける。
 そこに見えない壁があるようにハリセンは空気に激突し、青い閃光が炸裂して見る人の目を眩ませる。空気の歪みが全身を前に吸い出す感触がして、思わず足を地面に踏んばった。歪みは平原の遠くにまで渡り、百雷が砕ける衝撃音が全域を包み込んだ。った。村人は二月前の地震を思い出し身震いする。

 誰かが叫んだ。
「見て!」

 空全体に篭っていた千万の羽音がぴたっと止み、虫がぱらぱらと雨が振るように落ちて来る。
 弥生ちゃんはハリセンをびゅっと振って元に戻し、腰の後ろに仕舞う。得意そうにアィイーガたちに言う。

「気圧を極限まで下げた真空の間隙と、零下80度の冷気で凍結乾燥してみました。?、あた。」
「あた、あたたたたた。」

 固い蝗が降り注ぎ、皆頭を抱えて逃げ惑う。それも止むと、平原が一面虫だらけになっていた。弥生ちゃんの指示で、村人が蝗の屍骸を拾い集める。

「ガモウヤヨイチャンさま、一体何をなさるおつもりですか。」
「蝗を乾燥させて、風味を閉じ込めました。これを集めてこすり合わせると、自然と手足や翅が落ちて、身だけが残るのだよ。脱穀とおなじだね。」
「それを食べるのか?」

 アィイーガの問いにも、弥生ちゃんは不可解な笑みで答える。

「私はこの世界に来て、辛いものが無いので大層苦労しました。それと同時に、醤油が無いのも大いに不満でした。」
「ショーユ?」

 フィミルティにはなんの事かさっぱり分からない。弥生ちゃんは振り返ってゲジゲジ神官に尋ねる。

「ね、カエル神官というのは、お酒を作ってるんだよね。当然麹を持ってるね。」
「え? はい。確かに、麹を用いて穀物を酒に変えるのは、カエル神官の仕事です。」

「ふふふ、つくるぞ。バッタで醤油を作るのだ。」

 弥生ちゃんは、中国の方では人間の髪を利用して人造醤油を作るという話を知っている。またそれは、戦時中の日本で大豆を節約する為に編み出された代用醤油の製法である事も知っている。要するに良質の蛋白質が大量に手に入れば、そこからアミノ酸を抽出して、醤油が作れるのだ。弥生ちゃんの脳裏では額のカベチョロの聖蟲によって、かって図書館で読んだ醤油の製法が、百科事典で別の項目を引いた時に脇でちらと見ただけの記述だが、実に細かく思い出されて来る。

「要するに魚を使って作るニョクマムやしょっつるとかの魚醤を、蝗を代りにして作るのだね。ただ、蝗の腸というのはなんか寄生虫が居そうな気がしてコワイから、どろどろに煮潰して塩ゲルタと共に大きな瓶に詰めて麹を加え、毎日丁寧にかき回す。時期的に暑いのは問題だから、冷やっこい洞窟なんかでやらせよう。そうすれば三月の内には立派な醤油が。」

 誰も聞いてはいないが、弥生ちゃんは一人燃えて醤油の製法を口走る。ゲジゲジ神官は恐れおののき、フィミルティとアィイーガは肩をすくめる。

 山のように集まって来るゲルワン・カプタを前にして、弥生ちゃんの野望はどんどん膨らんでいく。佃煮やら煎餅やらテリヤキも、またこれをベースに焼肉のタレも商品化しよう、寿司屋も開店して、蕎麦つゆうどんつゆ天麩羅つゆラーメンスープも作れるな、焼豚、餃子にシューマイ肉まんも、ポン酢醤油で鍋物も忘れてはいけない。そうだひょっとして醤油だけではなく味噌も作れるかもしれない。何ヶ月味噌汁飲んでなかったかなあ。

 

 世界は弥生ちゃんを中心に東西の王国が総力を挙げて潰し合う究極の大戦争へと突入する。だが、間違えてはいけない。本当に意味があるものは戦の勝敗、時の権力の移り変わりではなく、醤油のような生活に密着した些細な事柄なのだ。何人もそうとは気付かぬまま、青晶蜥神救世主はまたしても方台を劇的に塗り替えた。

 

【髪の毛のはなし】

 私(蒲生弥生)が十二神方台系に来た当初、「随分と髪の色がカラフルだなあ」と思った。
 黒、黒茶、栗、茶、赤茶、赤、桜色、亜麻色、黄土色、乳白色、白。だが騙されてはいけない。こいつらは食物で髪の色が変わるのだ。

 基本的に、生まれたばかりの子供は髪の色が漆黒だ。13歳くらいまでは皆そうで、思春期に入ると少しずつ色が薄くなる。無論個人差があり、また大病を患うと一気に髪の色が薄くなるので、若くして髪に色がある人は過去に健康を害したという目安になる。
 20歳頃には大体髪の色が完成するらしい。経済状態で決まる食生活によって大概の人は自らの出自を示すわけだ。肉を良く食べる者は赤っぽく、ゲルタばっかり食べていれば黄土色に、神職にあり菜食だけだと早くから髪が白っぽくなる。急激に環境が変わった者は妙な縞模様であったりもする。

 ただ元の黒髪に戻るという事は無いらしい。私(蒲生弥生)は普通に日本人で、自慢じゃないが青味を感じさせるつややか真っ黒なトカゲの尻尾ヘアだから、実年齢よりも遥かに若い12歳程度と誤解した人も多いだろう。

 青や紫、緑などの怪しげな色の人は無い。また毛染め剤も無い。一本ずつまばらに色が変わる現象は無く全ての髪が一斉に変わるから、白髪染めの必要は無い。金髪の人が居ないのは、髪が黄色くなる食べ物がまだ見つかっていないからだ。カレーでも持って来たらあっという間に皆黄色くなるのではないかな。

 

第十章 蒲生弥生、運命の出会いをする

 ゲルワンクラッタ村で弥生ちゃん一行は昼ご飯を食べていた。

 ゲルワンクラッタ(「蝗ばったが落ちた」)の名はもちろん、弥生ちゃんがハリセンで大量の蝗を叩き落とした事にちなみ付けられた。なにかやらかした所では、皆このように地名やモノの名が変わって行く。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン伝説は、こうして方台に刻まれる。

「それにしても救世主さまは、実に奇妙な道具でお食事なさいますな。」

 村長はもったいなくも有り難くも青晶蜥神救世主様、ギィール神族アィイーガ様のご相伴に与っている。蝗で醤油を作る為に弥生ちゃんは泊まり込んで研究をしているから、食事は村の者に任せきりになっていた。決して豪華な料理ではないが、弥生ちゃんにはどうでも良い話だ。百金を投じる珍奇な食材よりも、今は日本の醤油が恋しい。
 その醤油の仕込みだが、腐敗菌の発生を防ぐ為に一度蝗を乳酸菌醗酵させるという余分な処理を施す事にした。なにせ地球にも蝗で醤油を作った者は居ないから様々な製法を試す必要がある。幸いにして酒作りのカエル神官はなかなかに大した醗酵技術者で、弥生ちゃんが指示する意図をちゃんと理解する。ネコ郵便を通じて指示を与えれば村を離れても大丈夫だろう、と醸造の一切を彼らに任せた。

「これは”ハシ”という道具なんだよ。使い方は見てのとおり。これで御飯を食べていると、手先が器用になるという利点もある。」
「とても真似出来るようには思えませんが。」
「いやほら、アィイーガなんかもう自由自在だよ。」

 キルストル姫アィイーガは弥生ちゃんと旅する間に、すっかり箸の使い方を覚えた。彼女は聖蟲を通じて地球の味の記憶の転送を受けられるので、醤油がどういうモノであるかも知っている。
 アィイーガは最近では辛いものだけでなく、甘いもの、チョコレートやクレームブリュレやらの記憶の転送も受けて大変満足していた。十二神方台系には砂糖も無く、甘みの薄いつる草の根、甘藻、果物蜂蜜しか使えないので、甘味の御菓子も種類が限られる。
 彼女は言った。

「ガモウヤヨイチャンは、へらの使い方は下手だぞ。」
「へらで御飯を食べるなんて、ねえ。非常識だよ。」

 十二神方台系の食事は、木や骨のへらで食べる。洋食のナイフだけで食べる、と考えるとわかりやすい。スープやお粥の類いは小さな椀によそうからスプーンは必要ではない。

 蝉蛾巫女フィミルティも弥生ちゃんの隣に座って食べている。彼女はゲルタと一緒に野菜を漬け込んだものが好物で、塩辛い汁も穀餅に含ませて食べてしまう。

「ガモウヤヨイチャンさまは、刃物を使ってお食事になることもございますよ。それも金属の。」
「おお。」

 十二神方台系は食事に金属器を使うのはタブーになっている。調理の時ならばまだしも、食事にもとなれば庶人の理解の範疇を越える。
 弥生ちゃんは弁明した。

「いや、骨をそのままがりがりと齧るとか、腱を生煮えにして思いっきり歯で引っ張って食べるとか、私出来ないよ。」
「その固いのが美味しいのじゃないか。

 ・・・・迎えが来たぞ。」

 アィイーガは警告する。彼女の額のゲジゲジの聖蟲は数キロの距離と障害物を越えて接近するものを感知する能力を持つ。弥生ちゃんもすぐに何の話か理解した。

「来た?」
「大層な行列だ。千を越える。兎竜も伴って、まるでガンガランガ・ギャザだな。」

 ガンガランガ・ギャザとは古語で「牧神の饗宴」を意味する。紅曙蛸巫女王初代ッタ・コップの到来の直前に現われた神人のことだ。平原にあって多数の野獣を従え人間の干渉を嫌い、夢のような平和さの中に生きた彼を、当時の人々は世の乱れを糺し人々を餓えから救う救世主と期待した。

 

 弥生ちゃんは食事も早々にカタナを手に食堂を離れ表に出た。周囲を警戒していた狗番のミィガンが弥生ちゃんの姿を見て足元に跪く。

「なにか。」
「褐甲角王国の然るべき軍勢が青晶蜥神救世主の検分に来たよ。」
「いかがなさいますか、迎え撃ちますか。」
「いや、一応穏便に話し合うつもりだけど、・・・相手はバカかな?」

 ミィガンはしばし考えて、答える。狗番はギィール神族の護衛として寇掠軍にも出征するから、敵方の戦力についての知識もある。ここボウダン街道を守る者といえば、

「赤甲梢と呼ばれる最強の神兵を率いるは、キサァブル・メグリアル焔アウンサ。褐甲角王国第三王家の王女で、数々の機略をもって何度も金雷蜒寇掠軍を破った智将でございます。王族でありながらも奔放で、才気溢れる人物だと伝えられております。」
「ふむ。おもしろそうな人らしいね。」

 アィイーガも食事を終えて表に出た。二人の狗番ファイガルとガシュムが直ちに彼女の武装を整える。ギィール神族に仕える者はこのように指図されずとも主の考えを読んで遅滞無く働く。が、良い狗番はなかなかに得られるものではない。
 アィイーガと狗番の姿を見て、弥生ちゃんはミィガンに尋ねた。自分はギィール神族ではないから、男性に身体を触られても平然とするアィイーガの真似は出来ない。

「ねえ、女の狗番というのは無いものかな。」
「御座います。喙番と申し、武芸も嗜みますが護衛というには非力で、女人の使いとして奉仕するものです。」
「ふむ。でもあまり居ないのね。」
「はい。神族の女人も護衛として役に立つ男の狗番を好みます。」
「自分が2杖半も身長があれば、そりゃあ女の武者なんか馬鹿馬鹿しいだろうね。」

「そうですね。」

 と、ミィガンも山狗の仮面の下で笑う。彼は主人であるサガジ伯メドルイの命を受けて弥生ちゃんの狗番を務めるが、弥生ちゃん本人の方がよほど強くて最近は代理人の役しかしていない。そういう役目であれば、女性であった方が便利な時もあるだろう。

「人に頼んで、ガモウヤヨイチャン様に仕える喙番を探しましょう。狗番のバンドに伝を求めれば一月も掛かりません。ですが、トカゲ神殿から人を送って来るのではありませんか。」
「トカゲ巫女は弱いからねえ。」

 そうこうする内に辺りが騒然として、神官戦士や村人が慌ただしく走り回る。ゲジゲジ神官が弥生ちゃんの元に現われて報告する。

「先程見張りの者が、」
「あーわかってるわかってる。」
「はい。赤甲梢でございます。」

 

 赤甲梢。褐甲角王国において武術に特に秀でた者に身分の差を越えて特別な聖蟲を与え軍務にのみ専念させた、最強の戦闘集団だ。この時期十二神方台系において焔アウンサの赤甲梢兎竜部隊に匹敵する戦闘集団は無い。

 時速60キロで疾走する兎竜に乗る騎兵が100。これだけでも他に類の無い戦闘力だが、更に加えて150の装甲神兵と支援のクワアット兵1000が徒歩で続く。同じ純戦闘部隊で西金雷蜒王国に対応する装甲海兵団が神兵200であるから、異常な数の神兵が集まっていると言えるだろう。
 無論これには訳が有る。本来赤甲梢兎竜部隊は兎竜の運用を研究する実験隊で、神兵集団戦闘の教育隊でもあった。毒地周辺の長大な国境線の警備を兎竜を利用する少数の高速展開部隊に肩代わりさせ、浮いた黒甲枝を抜き出して本格的な侵攻軍を捻出しようという計画の名残なのだ。実際、来年からは赤甲梢を旗団ごとに分散して配置する予定になっており、当初の計画とは異なるが軍事費の削減に貢献する事が見込まれていた。

 しかし、指導者に焔アウンサという人物を得た為に、赤甲梢は大きな変革を遂げる。

 当初の計画では兎竜はただの乗り物に過ぎず、寇掠のあった場所に高速で移動し現場に到着後は降りて闘うだけだった。兎竜はゲイルとは異なり装甲が無く毒にも弱いので戦闘に使用するには無理が有る。だがアウンサはゲイルの正面に立ち塞がる愚を捨て、走るゲイルを後ろから追って攻撃する新戦法を編み出し寇掠軍の確実な撃退に成功した。
 軍政局はこの成果を高く評価したが、元老院は黒甲枝に東金雷蜒王国への侵攻という希望を抱かせると却って警戒し、赤甲梢の総裁を換える策に出た。それがようやくに武徳王に認められ、新総裁メグリアル劫アランサの就任へと繋がる。

 何事も無ければアウンサも、夫の待つカプタニアに素直に帰ったかもしれないが、

「さて、誰に感謝すればよいものか。やはり青晶蜥神救世主殿かな。」

 輿の上でアウンサは一人ごちた。アウンサもアランサも王族であるから移動には輿を用いる。兎竜に乗った方が面白いが、公務中はじっと我慢せねばならない。王族には神兵の活躍を公正に評価して軍功を認める、実に重大な役目がある。自分も一緒に戦ってはならない。

「そろそろ、報告のあった村で御座います。先行した物見によれば、ギジジットより参った金雷蜒神官の一団も随行して、数はおよそ250と思われます。神官戦士団は軽武装ではありますが、ゲイルが一体、ギィール神族が一名混ざっているそうです。」

 紫幟隊長スーベラアハン基エトスが歩きながら報告する。

 彼は兎竜ではなく徒歩の神兵を統率する責任者だ。兎竜隊を統率する赤旗団長シガハン・ルペに継ぐ赤甲梢bQだが、相当に変人である。そもそもが元老院スーベラアハン家の出身で、なにもしなくても聖蟲はもらえた。しかしその権利を返上し、普通の黒甲枝と同様に兵学校に特別に編入してまともに軍務に就き、そのままクワアット兵として従軍した。こんな人物を配下に持つ指揮官はやりにくい事この上ない。厄介払い的に赤甲梢に追放され、アウンサに押し付けられた経緯がある。

 アウンサはしばし考えて、輿の御簾越しに言った。

「誰に救世主の検分を任せるか。アランサにさせようか。」
「新総裁がいきなり救世主を認めてしまうと、アウンサ様がお困りでしょう。先頭を行くルペにお任せ下さい。」
「騒動が見たい。テュークの神像を一撃で切り裂いたと伝え聞く、青晶蜥神救世主の力が見たい。」
「では私が参りましょうか。」

 変人にこれほどの重大事を任せるわけにはいかない。シガハン・ルペの手に負えなければアウンサが直接検分しよう、と使い番のクワアット兵を行列の先頭に走らせた。

「なに、すべて任せる、だと。」

 使い番の言葉にシガハン・ルペは目を剥いた。赤旗団長を務め赤甲梢の頭領である彼は、その名に嘉字を持たない事から分かるように、庶民の出だ。邑兵から始まり武勇と知性と行動力を認められ、ついには聖蟲を受けるという伝説的出世を果たした傑物ではある。しかし、王国の存亡と名誉に関る青晶蜥神救世主との交渉を行うには、大剣令という位階は低過ぎる。後で軍政局から身分の低い者に勝手にやらせたとアウンサが、いや新総裁メグリアル劫アランサが責任を問われる事になるだろう。

「再考を願ってはどうだろう。いや、新総裁に直接持ちかけてアウンサさまを説得してもらおう。」

 兎竜の首を並べて進む黄旗団長カンカラ縁クシアフォンが助言する。彼は参謀格でれっきとした黒甲枝の出であるから、この命令の無謀さもよく理解する。だがルペは言った。

「無駄だ。それに物見の話だと今回の救世主は、・・どうやら本物らしい。」
「空を覆うゲルワン・カプタの群れを一撃で叩き落としたというからな。」
「であれば、王族に軽々しく会わせるのも王国の威信に拘わるのではないか。」
「確かにそうだ。だが、どういう態度で臨むつもりだ。相手は神威を用いるとはいえ、小柄な少女と言うぞ。」

「うむ・・・。」

 次の物見の兵が青晶蜥神救世主が居る村から戻って、多数の人が平原に出て来ると報告した。多くがゲジゲジ神官の率いる神官戦士と奴隷で、村人もその後に続く。武装は杖だけでほとんどは素手であるが、携帯の投石器くらいは装備しているだろう。ただ、戦意はうかがえない。

「行軍停止。槍兵隊100、弓戦隊50が二組、前に。」

 平原に停止した隊列の脇を、命が下った兵士が速歩で進む。彼等は支援の為の常人の兵だが、武勇の者を選りすぐったクワアット兵から更に絞ったエリートである。焔アウンサの指揮の下で何度もゲイル騎兵と遭遇し、生き残って来た強者だ。
 シガハン・ルペはまずクワアット兵で様子を確かめてみる。大方のギィール神族とやり方は一緒だが、用いる兵の質が違う。

 

 平原で赤甲梢と対峙する弥生ちゃん一行も、相手の隊列先頭に兵が布陣するのを見詰めていた。

「まずは一般兵でこちらの出方をうかがうわけだね。兎竜はずっと後ろの方にあるけれど、なんかあったら逃げる気だろうか。」
「三日前にはゲルワン・カプタを叩き落としたからな。あれを見れば普通は無難に官吏を交渉役に出すだろうが、兵で来るな。」
「ガモウヤヨイチャンさま。なるべく穏便に。」

 アィイーガとフィミルティは互いにまったく逆の期待している。アィイーガは一波乱を望むが、フィミルティはいかにも救世主らしい鮮やかな和平が見たいと願う。当の弥生ちゃんは、そろそろ救世主としてだけではなく王者として振る舞う必要を感じている。選択肢としては最初からガツンと行くのも悪くない。

「アィイーガ、あなたはゲイルに乗ってゲジゲジ神官たちとちょっと離れてくれない。金雷蜒王国とはあくまでも別だと印象づけるように。」
「なるほど、心得た。」
「ミィガン、それにシュシュバランタ。あなたたちは私と行きます。」
「は。」「ははあ。」

 肥満質の巨漢シュシュバランタは弥生ちゃんの王旗ぴるまるれれこ旗を掲げる。旗持ち奴隷とは名誉の役で、王や指揮官の傍を離れる事は無い。しかし敵の目標となるから致死率も相当に高い。

「ガモウヤヨイチャン様と戦場に赴く初の仕事が、名にし負う赤甲梢とは嬉しい限りですぞ。」
「ガモウヤヨイチャンさま、私も御供にお加えください。」

 フィミルティも当然同行を願ったが、弥生ちゃんはあくまで武人だけで行く。ゲジゲジ神官がフィミルティの身体を抑えて言った。

「救世主さま、なるべく和平の方をお選びください。赤甲梢は真に強うございます。」
「分かってる。あんなに統率の取れた兵隊はこっちに来て初めて見た。」
「チュバクのキリメはいかがしました。」

 暗殺者の行方を尋ねられ、弥生ちゃんはにたと微笑んだ。

「既に、敵の隊列に潜り込んでいるよ。合図すれば煙を焚いて撹乱する。」
「おお、では迎え撃つ準備はもう整えておられましたか。」
「いやあ、この兵数じゃあどうしようもないな。」

 迫り来るクワアット兵を前に、弥生ちゃんは三人で歩いて行く。残った者達は、あまりの無謀さに息を詰めて成り行きを見ていた。翻る水色のぴるまるれれこ旗を先頭に、弥生ちゃんは草原を進む。

 緊張しているのはクワアット兵も同じだ。ゲルワン・カプタの群れを一撃で叩き落としたのみならず、タコリティで一刀の下に巨大な紅曙蛸神の石像を斬った話も、ボウダン街道にまで届いている。先夜の野営の陣にいつのまにか現われた無尾猫によって、ガモウヤヨイチャンがいかに強いか、ハリセンの威力カタナの切味を思いっきり吹聴されているのだ。軍律で取り締まろうにも、まさに知りたい情報を話すネコの独り言に、兵が耳を傾けるのまでは留められない。このネコは一体誰が連れて来たのか。

「三人!三人しか出て来ない?!」

 黄旗団長カンカラ縁クシアフォンにとってもこの展開は予想外だった。百を越える神官戦士団がそのままの場所に控えたままで、わずか三人の、しかも一人は少女が歩いて来る。

「ルペ、まずいぞ。救世主に直接対峙させると、クワアット兵の隊長が緊張に耐え切れず攻撃を命ずる可能性もある。」
「停止を命じよ。」

「は!」

 ぼおーん、とドラが鳴り、兵の行進は止った。5メートルにもなる長柄の槍の林と、左右に分かれた弓兵は、一騎程度であればゲイル騎兵でさえも屈伏させる。ゲイルの醸し出す恐怖のオーラに耐えるだけの調練と経験が、赤甲梢のクワアット兵には有る。しかし神聖な、そして誰もが待ち望んでいた青晶蜥神救世主に刃を向けるのは、また別の覚悟が要った。

「三人か。よほど神威に自信があるのか、それとも我らが救世主の威光にひれ伏すと思ったか。」

 距離は100メートル、弓の射程に十分入る。左右から射られれば間違いなく救世主の一行は死ぬ。にも関らず少女に怯える気配が見えない。聖蟲によって強化された視力で、シガハン・ルペは弥生ちゃんの表情を至近に居るように観察出来る。
 カンカラ縁クシアフォンも同じものを見ている。すべての赤甲梢は彼女を見詰めているだろう。あれが真の救世主であれば、そして彼女の王国を築くとなれば、赤甲梢も黒甲枝も全力を挙げて叩き潰さねばならない。一つの世界に複数の正義は要らない。

 シガハン・ルペはふと気が付いた。褐甲角王国が青晶蜥神救世主を倒さねばならないのと同じく、金雷蜒王国も彼女を殺さねば収まらないだろう。

「・・・そうか。彼女は、ゲイル騎兵を相手に戦った事があるんだ。常人の兵では物足りないのだろう。」
「まさか。いや、そうか。ギジジットから神官戦士を連れて来るのは、王姉妹を手玉に取ったからに違いない。」
「本物だ。間違いなく青晶蜥神救世主だ。」

 遠目で見る弥生ちゃんは悠然として表情を変えない。だが、その眼差しに強い煌めきが兆すのを感じた。

「いかん、あれはやる気だ。」

 ドラがぼあんぼあんと鳴って、撤退の合図をする。クワアット兵は直ちに向きを換え、後退する。

 

「見事な隊列運動だ。本物の兵隊だな。」
「東金雷蜒王国であれに匹敵するのはギジェカプタギ点の打撃兵団か、王都の近衛兵だけでしょう。」

 弥生ちゃんが敵を褒めるのに、ミィガンは補足説明する。実際寇掠軍は素人の奴隷兵と個人技にのみ優れた狗番や剣匠が主力で、兵と呼べるほどの統率は無い。システマティックに育成された軍隊は、歴史の浅い褐甲角王国の発明だ。

「あれに加えて、聖蟲をのっけた無敵の神兵が襲って来るてことか。凄まじいな。」

 兵に代わって、兎竜が6騎走って来る。赤の旗と黄色の旗を背負った赤甲梢の神兵だ。20メートル手前で止り、兎竜の背から下りる。

 兎竜は体高4メートル、背中は3メートル弱になる。高さから言うとアフリカのキリンと比較したいところだが、実際はクビナガリュウに似ている。首は長く前に伸びS字にうねってあまり高くならない。頭は小さく耳が長く伸び首に垂れている。尻尾は長い毛が伸びて地面にまで届く。脚は長細いが力は強く、巨体に重さを感じさせない風の早さで疾る。灰白色の短い体毛が平原の朝霧に溶け込む姿が大層美しく、古来より数多の詩に謳われてきた。

 地に降りた赤甲梢の神兵は、非常に奇妙な鎧を身に纏っている。背には薄い四枚の翅が有りわずかに振動していた。全身を覆う赤土色の甲冑は、想像していたよりもかなり薄い装甲板で構成される。鉄箔とタコ樹脂を何層も重ねて成形する乾漆に近い技法で作られており、金工では難しい有機的な曲面を可能とする。表面には極めて微細な塗膜のひびが有り、光が複雑に屈折反射して玄妙な艶を作り出す。関節は自由度と剛性を確保する為に、単なるジョイントではなく腱や膜で部品が繋がっている。
 そして頭部は、虫の頭だった。兜と仮面で覆われて、人の表情を外から見る事が出来ない。聖蟲が額にあるのだろうが、聖蟲が外を覗く隙間も無い。ギィール神族の甲冑には聖蟲の為の覗き穴が設けられ、場合によってはここから金雷蜒の雷(レーザー光線)を発する。

 先頭に立つ赤い旗を背負った赤甲梢が仮面を外し兜を脱ぐ。亜麻色の髪を振るって、弥生ちゃんと対面する。

『おおっと! 赤甲梢には服装規定はないのかい。』

と、内心で叫んでしまう。年齢は二十代後半か、兜を被るのに邪魔っけそうな長髪が風になびく、武人と言うよりも俳優の方が似合う麗しい青年で、そっち系の趣味が無くとも思わず同人誌を作ってみたくなる美形だった。

 彼の隣に立つ黄色い旗を背負った神兵も兜を脱ぐ。こちらは赤味の強い茶髪で、ドイツ系かと思わせるいかつい顔をして武人らしいが、それでもまあまあの美形だ。

『・・・赤甲梢の総裁キサァブル・メグリアル焔アウンサの人物を、見切ったぞ!』

 

「ぶしつけに兵で脅す真似をした事をお許し願いたい。偽者は力で押すとたちまちにぼろを出し見極めが簡単につくもので、真の救世主を試す事となったのは遺憾に存じます。」

 狗番のミィガンが前に出て、まず応対する。

「青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様は寛大な御方である。役儀で行ったものであれば咎め立てはしない。名乗られよ。」
「我は赤甲梢赤旗団長にして、兎竜部隊頭領シガハン・ルペと申す者。こちらは黄旗団長カンカラ縁クシアフォン。青晶蜥神救世主様の御検分を務めさせて頂きます。」

「話の前に。後ろの4人の武者も兜を脱いでみなさい。」

と、弥生ちゃんは高飛車に言う。シガハン・ルペも素直に従う。

「これは御無礼を致しました。お前達、兜を取れ。」

「・・・・・・・・、やっぱ美形だよお。」

 弥生ちゃんは額に指を当てて、眉をしかめる。こういう趣味の人間を地球でも一人知っている。やたら性格が悪くて学校内で頻繁に迷惑を掛けて回り、その度に弥生ちゃんが後始末をしていた。美人ではあるが乱暴者で、不勉強で成績も悪くて停学も食らっていて、それでいて何故か結構人気がある。「大東桐子」は自分が居なくてもちゃんと学校に来ているのか、一人暮らしだけど洗濯もの溜めてないだろうか。

 

 弥生ちゃんとシガハン・ルペが交渉している間、赤甲梢の隊列は準戦闘態勢で待機し続けている。焔アウンサの輿も劫アランサのも地面に置かれてじっと成り行きを見守っている。

 新総裁メグリアル劫アランサは矢楯を張った重く窮屈な輿の中、御簾越しに外を眺めるが何も起きる気配が無い。護衛のクワアット兵も侍女達も、緊張というよりは事態の先が読めずに戸惑っている。

「彩ルダム。」
「お呼びでございますか。総裁。」

 アランサは自らの補佐をカプタニア王宮から命じられている輔衛視を呼んだ。額に聖蟲を戴き賜軍衣に身を包んだ女性が答える。

「叔母上の様子はいかがです。あの方の御気性ならば自分で飛んで行くように思えますが。」
「いえ、じっと輿の中でお待ちです。・・・私も焔アウンサ様とは長くお付き合いさせていただいておりますが、これほど我慢強いとは思いませんでした。」

 輔衛視チュダルム彩ルダムの知る焔アウンサならば、配下の者に任せず自分でさっさと決めてしまう筈なのだが、重職を長年勤めた結果慎重という宝を手に入れたのかもしれない。
 新総裁の護衛指揮を任されている赤甲梢ディズバンド迎ウェダ・オダは、話を脇で聞いて居たが、焔アウンサの名誉の為に口を挟む。

「総裁。アウンサさまは作戦行動中はほとんど指揮はなさいません。すべては宿営の天幕でのその日の講評の中で行います。たとえ御自身の身が危うい場面となっても、我らにお任せくださいます。」
「叔母上がよくそれを我慢なさいますね。」
「あの方も、やはりメグリアル王家の出なのです。」

「分かりました。私もそれに倣いましょう。」

 要するに王宮と同じなのだ。エイタンカプトのメグリアル王宮では女官達がすべて取り仕切り、王族が指図する必要も無い。年中行事のあらゆる段取りが完璧に整えられており、アランサは用意されるままに執り行なえばよかった。赤甲梢は軍の組織だからもう少し違うのかと思っていたが、どうやらそうでもないようだ。

 落胆の色が御簾越しに見えたのか、それともため息の声を聞いたのか、迎ウェダ・オダがアウンサに言った。

「ご心配なさらずとも、何事かちゃんと起きますよ。」
「何事かあってはならないのでしょう?」
「アウンサさまは強運の御方です。日々退屈しないだけの出来事が向こうから転がり込んで来るのです。・・ほら。」

 アランサが前を透かして見ると、クワアット兵の伝令がアウンサの輿の傍に駆け寄った所だった。紫幟隊長スーベラアハン基エトスが報告を聞いて、血相を変えてアウンサに意見する。
 彩ルダムは輔衛視として総裁劫アランサを補佐し、その指揮の法的正当性を審査する役を負う。既に総裁の職は譲られているのだから、重大な決定を焔アウンサが単独で行うのは軍の秩序としても許されない。彩ルダムは前に進みアウンサの輿に寄り報告を願った。

「ルダムちゃん、これは大事になってるよ。」

 焔アウンサは幼なじみの彩ルダムに気さくに声を掛ける。声が華やいでいるのは、おそらく彼女好みの展開が前方で行われているからだろう。

「青晶蜥神救世主は、赤甲梢の総裁が王族と知って、会談を求めて来たよ。」
「当たり前の事ではありませんか?」
「会談で話し合われるのは、これからの方台の行く末、新たに立ち上がる青晶蜥王国の在り様だ。聞いてしまったら即座に決断しなければならない。殺すか、従うか。」
「カプタニアに報告して検討をお願いするのではないのですか。」

「だからさ、救世主はもうギジジットでやってしまってるんだよ。毒地を浄化したのは、救世主の仕業なんだって。もちろん、そうすれば褐甲角王国と東金雷蜒王国が激突するのも勘定の内。戦の勝敗を決めるのも救世主の胸先三寸で、その決着の仕方がそのまま青晶蜥王国の形になるんだそうだ。」

「・・すでに青晶蜥神救世主との戦いは、始まっているのですね・・・。」
「そういうこと。向うが既に矢を放っているのだ、我々は応戦するしかない。だが武力では決して青晶蜥神救世主に叶わない事を、今から証明するんだって。」

「なめられてますね。」

 話の後を継いで、紫幟隊長スーベラアハン基エトスが焔アウンサに進言した。

「クワアット兵は待避させましょう。神兵だけで救世主の前に立ち塞がり、神威とやらを受けてみるしか手がございません。」
「赤甲梢が全滅した、となるとゲジゲジどもは勢いづくだろうね。確かに一撃で戦の帰趨が決まる。大言壮語というわけでも無いのだよ。」

「会談で穏便な解決策を話し合えないのですか。」
「無駄だよ。和平は我らが救世主に膝を屈する以外に無い。それは褐甲角王国が青晶蜥王国に吸収される事を意味する。」

「容認するわけにはいきませんな。カプタニアも同じ結論に達するでしょう。」
「ルペに伝えよ。『受ける』と。基エトス、クワアット兵に命じて隊列から一里南に離れて静観させよ。赤甲梢は神兵のみにて救世主の前に陣を張る。」

 伝令が走り、隊の前後へと急ぐ。入れ違いにルペの進言を持って別の伝令がやって来た。

「焔アウンサ様に申し上げます。赤旗団長は新総裁の御避難をお勧めいたしております。」
「ルダムちゃん、どうするね。」
「御意志を伺うまでもありません。赤甲梢総裁劫アランサ様は、前総裁の退避をこそお勧め致します。」

「そういうことだね。」

 

 赤甲梢との交渉が決裂したと見て、アィイーガとフィミルティが弥生ちゃんの側に寄って来た。アィイーガはゲイルに乗っており、兎竜の鼻面を見る高さにある。

「で、どうするのだ。」
「どうもこうも、星の世界の友達のことを考えながら生返事してたら、やる事になったよ。」
「また!」

 いつもの行き当りばったりにフィミルティは呆れてしまう。彼女はもはや達観し、弥生ちゃんがそういう態度を取るのは十二神の天河の計画に従っている時だと諦めている。普段は実に繊細に何手も先の布石を打って事に当たるのを知っているから、これが異常な状態だと分かるのだ。
 アィイーガも、フィミルティほど弥生ちゃんの心理には詳しくないが、天河の計画では青晶蜥神救世主が赤甲梢を屈伏させる必要が有る、という風に理解する。

「ところでねえ、友達の事を思い出してたら、新兵器を思いついちゃったよ。」

と、弥生ちゃんは工作用の小刀を取り出した。どこで求めたか知らないが、身の回りで便利に使っている。箸を削ったのもこの小刀だ。刃渡り7センチ程度で人を殺すには小さ過ぎる。

「私の友達でねえ、手裏剣が得意な人が居るんだ。」
「シュリケンとはなんでしょう。」
「つまり、この世界で言う「投剣」の事だよ。このくらいの大きさの刀を投げる。」

「ほお。そうか、もしや空中を自在に飛ばす事が出来るのか。」
「こんな感じ。」

と、小刀を空中で鳥のようにくるくると舞わせた。その姿は、至近に居るシガハン・ルペ等も見ている。動揺は見せないが脅威はひしひしと感じているようだ。

「ガモウヤヨイチャンさま、ではこれでもって赤甲梢と戦うのですか。」
「いや、平和に行くよ。
 それはともかく、フィミルティ。星の世界に居る私の友達にあなたがそっくりだ、という話はしたっけ?」
「フィジリ様の話ですか。私と同じ眼鏡を掛けて、髪が短くさらさらとした、歌がずば抜けて上手だという。」
「いや、さあ。なんだかこの村に来てから地球の事が思い出されてならないんだよ。醤油を作ろうとか思ったのもたぶんその影響だ。」

 目の前の赤甲梢をまったく無視したとりとめの無い会話にフィミルティは困惑し、アィイーガに助けを求めて視線を送った。アィイーガは尋ねる。

「ガモウヤヨイチャンどの、赤甲梢に陣を整える時間を与えるのか。奴等、どういう攻撃を受けるのか見当もつかずに陣の構えを迷っているぞ。」
「うーん、どうでもいいんだけどねー、別に誰が死ぬわけじゃなし。ただ私が赤甲梢、いやカブトムシの聖蟲を持つ者を自在に屈伏出来る事を示すだけだから。」

「なにをなさるおつもりです。」

「ギィール神族は皆大好きなんだ、これ。神族は好奇心が旺盛で新しい体験をするのが大好き。どこでやっても喜んでくれるよ。」
「・・・ああ。聖蟲が憑いている者はすべて対象になるんだったな。」
「まさか!」

 小刀を仕舞って、ばしゃっと弥生ちゃんは赤甲梢に向き直った。脚を大きく拡げて仁王立ちに、右手は額のカベチョロの聖蟲に二指を当てる。

「(感覚記憶の転送用意。対象は前方に居るカブトムシの聖蟲を持つ者全て、距離2キロ以内。転送データは、そうね鷹の爪を丸かじりした時の味覚の記憶。持続時間5秒。)」
「(了解した。)」

 脳内で深い洞窟に反響する重々しい青晶蜥(チューラウ)神の声がする。カベチョロは弥生ちゃんの頼みを拒否する事も出来るのだが、今回は彼の思惑にも叶うのだろう。

 眼前の赤甲梢は未だに退避も布陣も完了しておらず、弥生ちゃんのポーズの意味を理解しない。

「ガモウヤヨイチャン様、いきなりはさすがに戦の作法に反します。」
「あ、そう?」

 フィミルティが諌めたが知らん顔して弥生ちゃんは続行する。どうせ死にはしないのだ、作法に外れていようが人道的で無かろうが、構わない。

「(撃ぇー!)」

 なぜ鷹の爪を丸かじりしたのかは、既に時の彼方に消えている。ただそれが、辛いものが大好きな自分にとっても特筆すべき体験であった記憶だけが残る。青晶蜥(チューラウ)神の聖蟲から赤甲梢各々の額の褐甲角(クワアット)神の聖蟲に伝えられる感覚情報は、彼等がまさにそれをかじったのと同じ体験を再生した。

 褐甲角の聖蟲を持つ者は単に怪力を得るだけではない。矢や刀槍がその身に食い込んだとしても、目に見えない力が傷口を抑え出血を留め組織の破壊を最小限にして護り、痛みを軽減する効果も与える。聖戴者の肉体に重ね合わせるように不可視の身体が存在し、筋肉に多大な負荷が掛かればそれを肩代わりし、人体組織が破壊されれば壊れた部分の機能を代替する。これがクワアットの超能力だ。
 ゆえに、知能が突然高くなる事は無いし、特殊な超知覚や天界の知識を授かる事も無い。多少は自前の感覚が強化されるが、あくまで物理的機能の補完が主で、金雷蜒(ギィール)神のような情報機能の拡張は行わない。聖蟲を通して直接情報を伝達するのは、誰も知らない例外的な機能である。

 更に加えて最悪な事は、カブトムシの神であるクワアットの好物は甘い樹液で、それに倣って赤甲梢黒甲枝も皆、甘党であった。

 未だ陣構えの完了していない赤甲梢の部隊は、弥生ちゃんの攻撃を予告も無く突然受けた。

「・・・・・・・・・。」

 無言の内に悶絶し、卒倒し、兎竜の上から落ちて来る。悲鳴を上げる者は一人として居ない。舌が痺れて声も出ない。
 感覚記憶の転送はわずか5秒間に過ぎなかったが、赤甲梢達はそれを永遠と感じた。辛い、とは誰も感じなかった。火の付いた松明を口に突っ込まれたと思った。いかに頑健な肉体と厳しい鍛錬の積み重ねがあっても、これは耐えられない。予期せぬ精神攻撃に抵抗も理解も無く、ただただ激烈な記憶に支配された。

 衝撃を受けたのはむしろクワアット兵の方だ。

 赤甲梢黒甲枝であっても戦死する。胸や頭に重大な損傷を受ければ聖蟲の助けがあっても助からない。絶対の不死身はこの世には無い、と彼等は調練の最初に教えこまれるが、それによって褐甲角神への信仰が揺らいだりはしなかった。
 猛く靭く、潔く、他者の為に身を捧げる人の姿。一人ひとりが、神の命に従って十二神方台系の民衆を救わんとする褐甲角神救世主そのものである。凛々しく神々しく戦列の先頭を進み、巨大なゲイルに敢然と立ち向かう。

 その人が、いきなり口を押さえて倒れるのだ。赤い甲冑に覆われて、端で見ていてはなにが起きたのか事情がつかめない。クワアット兵はただおろおろと見守った。

 

 王族であるキスァブル・メグリアル焔アウンサも、彼女の配下と共に弥生ちゃんの攻撃を受けた。いや、これが攻撃だと考えるゆとりも無かった。
 アウンサはおとなしく輿の中に座って布陣の変更の報告を聞いていたが、感覚転送を受けた途端に聖蟲の与える怪力で輿の矢楯を突き破った。手足をばたつかせ屋根を引き剥がしたちまちに輿を粉砕する。停止中で人が担いでいなかったのは幸いだが、生身のアウンサはそのまま地面に転げ落ちた。

 輿の側に居た紫幟隊長スーベラアハン基エトスも、輔衛視チュダルム彩ルダムも卒倒する。しかし。

「・・・・・この感覚は、おぼえがある・・・。」

 褐甲角の聖蟲を持つ者で唯一人、メグリアル劫アランサだけは、味覚の攻撃から免れた。彼女の所にだけ別の記憶が来たからだ。

 それは懐かしくも鮮やかに覚える一人の少女の姿。たおやかに優しく人を包み込む春の陽の温かさを持った、しかし常に弥生ちゃんの前にあり楯となって共に戦う美しい剣士。
 そのイメージが劫アランサの身体にシンクロする。彼女の額の黄金の聖蟲も不可視の身体を重ねているわけだが、少女剣士のイメージがそれに侵蝕して姿を整えていく。アランサがこれまで感じていた違和感、微妙に身体に適合していない感触を削ぎ落とし、肉と霊とが完全に一体化する。

ばあん。

 輿の天井を突き破ってアランサは空中に飛び上がった。褐甲角神の与える怪力に加えて、羽の軽さをその身に覚える。自分の周りに風が渦を巻いて身体を持ち上げている。白い衣の長い裾に空気をはらみながらゆっくりと降下し、足が地に触れる。

 走る。風の流れが自分を吸い込み、激流となって前に疾る。背後から侍女が呼ぶ声を聞いたが、振り向く暇も惜しくただ駆抜けた。

 左右にクワアット兵の驚く顔が、頭上から兎竜に跨がる赤甲梢の声が降り注ぐ。どれも自分を留める力を持たない。たちまちに全ての隊列を追い越し、眼前に広がる草原へ一人躍り出た。飛んでいる、高く舞上がり、数頭の兎竜が並ぶ姿が足の下に見える。赤甲梢の、あれは赤旗団長シガハン・ルペ。ではその前に居る青い服を着た少女が。

 剣を地に刺す勢いでメグリアル劫アランサは着地した。後を追って周囲に旋風が巻く。舞上がる草の葉と土埃とに長く先細りのする黒髪をなびかせて、その人は自分を見詰めている。

 

 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンは、言った。

「しるくだよおー。そっくりさんだよおー。」

 

第十一章 青晶蜥神救世主、西に向かう

 十二神創始暦5006年夏初月。ゲルワンクラッタ村で行われた青晶蜥神救世主と褐甲角王国王女赤甲梢総裁との会談は、後に「女達の密議」として知られる事となる。

 会談はガモウヤヨイチャン、キスァブル・メグリアル焔アウンサ、メグリアル劫アランサ、ギィール神族キルストル姫アィイーガの4人にて行われ、手伝いに蝉蛾巫女フィミルティが、唯一人男性としてギジジットの大神官ジャガジァーハン・ジャバラハンが書記となり同席した。

 会談の内容は当時公開されず、記録したジャバラハンの死後、つまりガモウヤヨイチャン降臨の40年後まで伏せられていた。記録からは、ガモウヤヨイチャンがこの会談に臨むまで青晶蜥王国の構成についてほとんど何も考えていなかったこと、そして会談が行われた三日間で奇跡のように作り上げられたことが見て取れる。

 彼女は新王国を立ち上げるに当たって、ほとんど十二神方台系の住民の幸福について考えなかった。むしろ徹底的に突き放し、民衆自らの力で社会を作る基礎となるものを用意し、開かれた競争社会の中で発展的に生きて行く事を企図している。

 また青晶蜥王国が統べる千年期よりも先、天鳴蝉(ゼビ)神救世主が訪れる次の時代について深く考察し、その為に必要な全てを青晶蜥王国時代に用意すべきと示唆している。
 この示唆は記録が公開された時代にはほとんど理解されなかったが、王国の治世が300年を過ぎた頃からにわかに注目され、「ガモウヤヨイチャンの予言書」として方台を進歩へと駆り立てる原動力となった。

 次の蝉蛾神の時代について、ガモウヤヨイチャンはこう述べている。

『この世界は狭過ぎる。私が星の世界で住んでいた国はここよりも更に小さいが、世界中の別の世界と密接に繋がっていた。
 千年後には海の向こうの国々と十二神方台系の人々は交流する。広い世界を知る事になる。

 天河の十二神が私という異物を放り込んだのは、その予告の意味もあるのよ。』

 

「どう思う。」

 赤甲梢前総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサは弥生ちゃんとの会談の内容を掻い摘まんで幹部達に説明し、意見を述べさせた。

 赤甲梢はゲルワンクラッタ村の外れに天幕を張って野営している。村内への赤甲梢の立ち入りは禁止され、小数の護衛のクワアット兵のみを伴って、焔アウンサと劫アランサだけが出入りする。三日目の会談を終えて闇の中を戻った二人は、天幕の暗い灯の下、神兵の幹部達と協議する。
 八人の旗団長と四人の幟団長は皆優れた人材ではあるが、あまりにも広く遠い弥生ちゃんの話についていける者は居なかった。

「外の世界との交流がもし起こり得るのであれば、それは喜ばしい事には違いありませんが、」
「存在自体を疑っているのだね。無理もない、私とてそうだ。実際、ガモウヤヨイチャン本人とてこの世において他の世界がある、とは確認していない。信じるべきか否か、迷うね。」

「青晶蜥神救世主には確信があるのですか。」
「ある。そして深く憂慮している。早い話が、もし他に世界があり、そこが十二神方台系よりも進んだ武器を持っていれば、確実に負けるのだよ、我々は。」
「褐甲角神の御加護があったとしても、負けますか。」
「負ける。敵にだって神の加護はあるだろう。強い方が勝つに決まっている。」

「では備えねばなりません。方台全土を統一した国と為し、人材を募り武器を造り兵を調練しなければなりません。ですが千年先の戦に備えるのはいささか。」
「それが答えらしい。人は安逸を欲する、懶惰を求める。千年先の戦の為にこの千年を費やすのは道理に合わぬ。人の寿命より先の予見は意味が無いのだよ。」

「救世主はいかなる答えをお持ちなのですか。」
「それがね、・・・・・・・・・・・・・私に王国を下さる、と言っている。」
「えっ!」

 

 目の前で行われる会議をうつろに眺めて、メグリアル劫アランサはまたため息を吐いた。会談の内容の衝撃もさることながら、彼女自身にとって救世主との出会いは不意の一大事であったからだ。

 弥生ちゃんが言うには、劫アランサは星の世界に居る友人にそっくりらしい。肌が白く姿が美しく、色は違うが髪は長くゆるやかに巻いている。背丈もちょうど同じくらい、声の質も同じ。仕草も癖も生き写しである。
 人に接するに柔らかく優しく思いやりが深く、決して争いを好まず、それでいて過ちを糺すのに躊躇しない。剣を好み技にも優れ迷いが無く、果断さ冷静さの中に深い思索がある。

 その人、「衣川うゐ」あだ名はシルク、にアランサが似ているのは偶然でない事を、自分は知っている。

 アランサの髪の色は非常に薄い。乳白色で年老いた神女のようだ。4年前、黄金の聖蟲を戴く直前に罹った大病で七日七晩熱にうなされた名残だ。トカゲ神官の医師にも手の施しようが無く、父王と母妃も娘を失うのを覚悟した。その病の床でアランサは彼女に出会った。
 熱で霞む視界の中、その人は青い光を帯びて現われた。青い光は青晶蜥神のものであることをアランサは知っており、病を癒す事を願うと、その人はこう言った。
『まもなく私の友達がそちらに参ります。よろしくお願いします。』

 明くる朝、アランサの熱はすっかり下がり、一命を取り留めた。喜びに沸く病室の中で、しかし決して夢の話をしなかった。
 褐甲角の王家に生まれた者が他の神を称える事はすべきではない。ましてや千年に一度の救世主の出現を待ち望み世上は混乱を極め、巷では救世主を自称する者が何人も火焙りに処されており、警邏は督促派行徒の取締まりにやっきになっている。

 こんな時に夢で青晶蜥神の使いに会った話をすれば正気を疑われいぶかしまれ、聖戴の儀式も受けられないかもしれない。アランサは永久に誰にも話すまいと心に誓った。そして怯えた。ひょっとすると、自分は青晶蜥神救世主に選ばれてしまったのかもしれない、と。

 

「総裁、大丈夫ですか。」

 輔衛視チュダルム彩ルダムが心配して声を掛けてきた。この女性も偽救世主を火焙りにする立場の人だ。いや、褐甲角の聖蟲を持つ者はすべて青晶蜥神救世主の敵である。一応の和解が成立した今も、やはりそうなのだ。夢の話は未だに誰にも打ち明けられない。

 

 会議は議題を替えて、軍議となっていた。前総裁の焔アウンサがはつらつと男達を仕切っている。叔母は救世主の言葉に、少々危険な域にまで踏み込んで賛同している。あえて救世の聖業の一角に食い込み、時代の変革に赤甲梢を参加させようとする。アランサは留めようと思ったが、心のつかえがそれをためらわせた。

「電撃戦?、それはどのような戦です。」

「ガモウヤヨイチャンの話を私なりに解釈すると、寇掠軍だ。強力な破壊力と高速を併せ持つ部隊を集中して投入し、防備を突破し敵領域に長躯進攻して、目的を達成して速やかに帰還する。ゲイルがあればこその戦術だが、私達にもそれは出来る。」
「兎竜部隊ならばおそらく。しかし、侵攻の目的はなんでしょうか。」

「トカゲ神救世主は恐ろしい人だよ。袋の中のものを取るように、金雷蜒神聖王を連れて来いと言う。」

 天幕の中に衝撃が走った。誰も夢想だにしなかった究極の解決策、何人がそれを現実のものとし得るだろう。
 アランサはまたため息を吐いた。ガモウヤヨイチャンの話では、それは可能なのだ。

「無理です。」
「無理だ。東金雷蜒王国の防備はそれなりに十分なもので、更に加えてゲイルが有る。ギジェカプタギ点の要塞群を突破するのも不可能だ。これまでは。」
「・・・、毒地が解放された今、ギジェカプタギ点を迂回する進撃路が可能となっている・・・。」
「ああ。それにゲイル騎兵は今続々と毒地に進出して、褐甲角王国への総攻撃を準備している最中だ。平時よりも国内の防備は薄い。」
「しかし、やはり不可能には違いない・・・。」

 焔アウンサは、男達の顔色が青ざめて行く様を興味深げに見渡した。誰もがこの驚天動地の計画に強い興味を示している。赤甲梢黒甲枝は誰もが究極の戦争、金雷蜒王国の壊滅を望んでいる、渇望している。そして今、その方法が目の前に魔法のように展開されているのだ。
 アウンサは更に男達の尻を押す。

「我らは大本営から、毒地中に適宜侵攻してギィール軍を国境の防衛戦に集中するよう干渉する事を命じられている。これを怠る訳にはいかない。」
「はい。」
「要するにちょこちょこ攻めて相手を怒らせて、大挙して黒甲枝の防衛戦に攻め掛かるように誘導するのが任務だ。前座みたいで面白くはない。」
「だが理に適っています。十分な準備がなされた防衛線で敵を迎え撃つのは、軍略の常道です。」

「ガモウヤヨイチャンはそれに関しても策を授けてくれたよ。

 ここボウダン街道において青晶蜥神救世主と赤甲梢は和平を結び、青晶蜥王国の建国に褐甲角王国が参加する協定を結んだ。」
「なんですか、それは。まだカプタニアには使いも届いていませんよ。勝手に、」

「青晶蜥王国は青晶蜥神救世主が大王として君臨し、その王権の下に褐甲角神の聖蟲を持つ神兵が軍事と徴税を司り、併合した金雷蜒王国ギィール神族を産業と学究を独占する名誉有る身分と為し、三王国を併合した平和な支配体制を築くものである。」

「・・・冗談ですか。」
「冗談だよ。」
「悪い冗談です。そんな体制を誰が望むというのです。」

「この路線を確固たるものとすべく、トカゲ神救世主は赤甲梢の案内でカプタニアに赴き武徳王と会談を行うであろう。

 という噂が毒地および東金雷蜒王国内で流れるわけだ。」
「そんな話を聞かされたら、頭に血が上ったギィール神族がカプタニアに殺到します。大激戦に、・・・・・・あっ!」

 アウンサは微笑んだ。
「電撃戦だ。」

 ガモウヤヨイチャンという人は、救世主でなければ強大な侵略者として十二神方台系の歴史に名を刻んだだろう。天河の神々はどこからこのような人物を探して来たのか。もしもこの策が成功したならば、カプタニアを護るスプリタ街道沿いの防衛線で血の河が流れる。本来救世主とはもっと穏やかな解決策を、理想的かつ空想的な平和を唱えるべきだ。これほど血生臭い政略を考えつく人物がその役を務めて良いのだろうか。

 アウンサは命じる。

「紫幟隊長スーベラアハン基エトス、そなたにクワアット兵500を与える。毒地中に潜入して以上の噂を流して来い。」
「私は電撃戦にお連れ下さいませんか。」
「おまえは謀略とか得意だろ。元老院の出なんだから。」
「そういうのが嫌で、クワアット兵になったのです。」

「東金雷蜒王国領への突入は赤甲梢の神兵のみで行う。残りのクワアット兵はカプタンギジェ関に留まり防衛陣に参加して、本隊の帰還を待て。
 赤旗団長シガハン・ルペは兎竜隊を率いて先行し、敵防御陣を突破せよ。装甲神兵はイヌコマ軽走兵として各自5頭のイヌコマに補給物資を積載して走る。これを本隊とする。
 全軍の指揮は私キスァブル・メグリアル焔アウンサが務め、本隊に徒歩で同行する。」

「お待ち下さい!」「お待ち下さい!」

 と声が二つ飛んだ。一つはシガハン・ルペが、もう一つはチュダルム彩ルダムからだ。王族である焔アウンサがこのような危険の高い作戦を直接指揮するなど、二人の異なる立場からしても共に認められない。

「言いたい事は十分に分かるが、私が行かなければこの作戦は不可能だ。ルダムちゃん、それに女は私ひとりというわけじゃないよ。」
「総裁はもちろんダメです。」
「アランサは連れて行かない。ルダムちゃん、あなたが来るのだよ。」
「え!」
「独立先行するのに輔衛視が不要だと思った? 頭に聖蟲をのっけているんだ、たまにはあなたも存分に力を使ってみなさい。」

 

「叔母上!」
 自分を置いて行くというアウンサの言葉に、気もそぞろなアランサもさすがに反応した。これほどの重大事から、それも正規の赤甲梢総裁は自分なのに除外される道理があるだろうか。

「私も参ります。止めても無駄です。私は私に与えられた権限をもって、私の同行の無い作戦を承認するわけにはいきません!」

 だがアウンサの目は冷たかった。諭すように姪に言う。考えてみれば、正面から向き合って意見を対立させたのは今回が初めてだ。

「アランサには特別な命令を与えます。あなたにしかできない、極めて重要な任務です。」
「なんでしょう。ギジシップ島攻略よりも重要な任務がありますか。」
「あんと浅墓な。

 メグリアル劫アランサに命ずる。青晶蜥神救世主のウラタンギジト行きに同行し、当然そこで行われる金雷蜒王国側との会談に必ず臨席し、褐甲角王国の不利となる協定や約定、言質が与えられないよう介入し、新王国建国に際して褐甲角王国の権益を確保する事をガモウヤヨイチャンに働き掛けなさい。」

「!」

 その場に居る誰もがアウンサの命令に納得した。アランサ自身もしまったと臍を噛む。
 確かに青晶蜥神救世主には誰か身分の高い者が貼り付いていなければならない。これまでの展開の急速さを見れば、王族レベルで権限の大きな人物でなければ彼女の掣肘も出来ないと分かる。後の世までの影響を考えれば、まさしく東金雷蜒王国首都ギジシップ島を攻略して神聖王を捕獲するよりも重大な任務だ。

「メグリアル劫アランサ、どうしました。復唱しなさい。」
「・・・メグリアル劫アランサは青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンのウラタンギジト行きに同行し常に離れず、金雷蜒王国側との会談に臨席し褐甲角王国の不利となる全てを許さず、また新王国新時代における褐甲角王国の権益を確保する為に働き掛けます。

 無念です。」
「よろしい。この任務の重要性は現在全てに優先する。首尾よく果たせば、誰もがそなたを赤甲梢総裁にふさわしいと認めるであろう。励みなさい。」
「はい・・・。」

「クワアット兵100を与える。またエイタンカプトより援軍を求め、それも自身の指揮下に置きなさい。ただし、赤甲梢の神兵は総裁護衛職のディズバンド迎ウェダ・オダのみとする。攻撃軍の人手が足りないから、許せ。」
「叔母上のお指図に従います。」

 

 翌早朝、弥生ちゃん一行と赤甲梢はゲルワンクラッタ村を出立し、東西に分かれて草原を行く。
 弥生ちゃんの行列には新しく赤甲梢総裁メグリアル劫アランサの輿が加わり、その侍女および護衛のクワアット兵が百名、西に向かう弥生ちゃんを先導する。

 神兵としては唯一人劫アランサに従う事になったディズバンド迎ウェダ・オダは、焔アウンサに恨み言をこぼした。

「額に赤い聖蟲を戴く者の一人として、東金雷蜒王国の、それも心臓部を衝く絶後の作戦に参加出来ないのは、未来永劫に渡って情けなく思いますよ。」
「すまん。だがアランサを任せられる者もそうは居ないのだよ。私が心配するのはむしろカプタニアの動向だ。アランサには私の独断専行の楯になってもらう。済まなく思っていると、後でこっそり言っといてくれ。」
「ハジパイ王が何をしてくるか知りませんよ。帰って来たら赤甲梢が無くなっていたという事も普通にあり得ます。」
「基エトスと連絡を密に取って、良いようにしておいてくれ。」

 焔アウンサはまた、夜が明けても塞ぎ込んでいる姪の輿の側に、侍女を引き連れて訪ねた。

「私の侍女はギジェ関に留めておく。なにかあったらお前が迎えてくれ。」
「恨みは申しません。ですが叔母上、あなたはこの日が来るのを知っていたのではありませんか。占いは得意なのでしょう。」
「私ごときの拙い星読では、こんな大事は分からないよ。約束する。これが終って帰って来たら、すっぱりと赤甲梢から手を引く。」
「・・無事のお帰りを、御武運をお祈りいたしております。」

 更に焔アウンサは、弥生ちゃんの隊にも顔を見せた。ゲジゲジ神官の指図で神官戦士達は跪き、王族に対する礼を示す。
 アウンサは型通りの挨拶をした後、弥生ちゃんに今後の予定を尋ねた。ウラタンギジトで金雷蜒王国側との会談後、褐甲角王国にはいかなる対応をするのか。
 弥生ちゃんは少し考えて答えた。

「とりあえずは、あなた方が金雷蜒神聖王陛下をお連れするのを待ちます。その間は、あなた方が失敗した時の策を用意しておきますね。」
「私に王国を下さるという件は、結局どうなります。」
「遠からず、毒地は青晶蜥王国の領土である、という宣言をするつもりです。その場合、不毛の大地の開墾があなたの仕事になりますよ。」
「いやーそれは遠慮します。」

 弥生ちゃんは表情を真剣なものに改めて、言った。

「金雷蜒王国の神聖王と褐甲角武徳王の直接会談が無ければ、次の時代は始まりません。ですが、胸元に剣を突きつけられても、神聖王が同行を諾とする事は無いでしょう。」
「誇り高いギィール神族の更に上にある御方ですから。」

「これを持って行ってください。青晶蜥神救世主が金雷蜒神聖王の身の安全を保証する誓いの品です。」

と、弥生ちゃんは額のカベチョロの尻尾を右手でぎゅーっと引っ張った。

 この行為には焔アウンサも、ギィール神族キルストル姫アィイーガも、フィミルティもゲジゲジ神官も、その場に居る者すべてが肝を潰した。
 ぴゅんと跳ねて尻尾がカベチョロの聖蟲から切り離され、人差し指と親指の間で左右に元気に振れている。青い光を燦と放って朝日のきらめきをも凌駕した。
 弥生ちゃんは平然と語る。

「いや、こいつはこの間から新しい尻尾が欲しいって言ってたから、ちょうどイイ機会なんですよ。これを見せれば神聖王もウンと言います。それに、実は既に金雷蜒神聖王宮には布石を打っているのです。」

 と、フィミルティに指図して用意の小箱を差し出させた。彼女は何の為に使うのか知らされておらず、適当にファッカプタの木箱をもらってきていた。ファッカプタとは乾燥させた昆虫をすり潰して粉にしたもので、香辛料の少ない十二神方台系では料理に多用される。
 弥生ちゃんは箱に青晶蜥神の化身の尻尾を納めて蓋をし紐で縛って、差し出した。さすがの焔アウンサもおっかなびっくりに両手を伸ばし、うやうやしく受け取る。

「必ず、金雷蜒神聖王にお届けします。」

 背筋に大量の冷や汗が吹き出すのを感じた。36年生きてきた中でもこれほど緊張したのは聖戴式以来だった。

 

 先に出立する弥生ちゃんの隊列を旗団長達を従えた焔アウンサはいつまでも見送り、誰に言うでもなく呟いた。

「・・・去年の秋に行われた定例の星読会で気付いたんだが、天河の北岸に位置するチューラウの神座から四冠星の姿が消えていたんだ。聖蟲の助けが無いと見えないほどの微かな星だけど、どこに行ったかと思ったら地上に降りて居たんだね・・・。」

 四冠星とは四つの星が連なったように見える星団の事である。日本語で「六連星むつらぼし」とスバルを呼ぶのと同じだ。
 焔アウンサは知らない。弥生ちゃんが王旗に用いている「ぴるまるれれこ」が”スバルから来た希人”の意であることを。

 

 その日の夕方、そろそろ隊列を留めて野営の準備に入ろうかと思う時刻、弥生ちゃんの一行は一人の黒甲枝に行く手を阻まれた。

 彼は正規の重甲冑を身に纏い、手に鉄槍を、背には大剣を負っている。数名のクワアット兵を伴っているだけで単独行動と見受けられた。しかし青晶蜥神救世主のこれ以上の進行を断固として阻む意志で燃えたぎっている。

 大音声で彼は口上を述べた。

「我はベギィルゲイル村(ゲルワンクラッタ村の前の名前)を守護する黒甲枝、ジンハ守キンガイアである。ボウダン街道の国境線を護る為村を留守にした隙に、青晶蜥神救世主が我が村の名を変え、守護の許しも無く留まったと聞く。許しがたし。これより先は王国の深部なれば、我は此の地において汝等を武により留め討ち果たす所存。神妙に立合われよ。」

 行列の先頭をクワアット兵が先払いを務めるのも無視しての挑戦である。慌ててメグリアル劫アランサとディズバンド迎ウェダ・オダが説得に行こうとするのを抑えて、弥生ちゃんは言った。

「彼の言い分は正当だ。私に挑戦する資格がある。シュシュバランタ付いて来い。」

 と、王旗を掲げる巨漢のみを連れて単身彼の元に歩いて行く。止めようとする二人に、ゲイルの上からアィイーガは言った。

「愚かな奴だ。ガモウヤヨイチャンがどれほど強いか、思い知るがいい。」

 勝手にすたすた進んで行く弥生ちゃんの後を狗番のミィガンが追いかけて説得するが、決意は変わらない。

「ミィガン。たまには私のカタナも鉄を斬らなければ調子が悪いのよ。それに、黒甲枝の神兵というものがどれほど強いか、知っておきたいじゃない。」

 歩きながら弥生ちゃんは左の腰に吊るしたカタナを抜く。ずらりと鞘から解き放たれた鋼は夕陽の赤を照り返して、見送る人々の目を眩ませた。まさに問答無用の態度に、黒甲枝ジンハ守キンガイアも大剣を背から下ろして、両手に構える。
 弥生ちゃんはまっすぐ草原を進む。その姿には殺気と呼ぶよりも鬼気と言う方がふさわしい凄まじい気魄が漂っており、ものに動じない元気の良い少女としか見れなかったクワアット兵の認識を根底から覆した。

 「ぴるまるれれこ」旗を掲げ弥生ちゃんの後ろに続くシュシュバランタも、これほどまでの緊張感威圧感を主から感じた事は無く、戦慄と共に骨の髄から沸き上がる高揚感に包まれた。まさに今、彼は燦然たる神話の中に居る。

 弥生ちゃんの気魄に呼応して、キンガイアも兜の面を着け大剣を斜めに構えて歩み出す。
 黒甲枝の重甲冑は着用者の体重も合わせて、全備重量300キログラム。装甲の厚さも赤甲梢の甲冑の倍有り、強力な弩ですら貫通が不能だ。内部に呼吸補助装置も装備され火災の中でも構わず進み、何者も留める力を持たない。それでいて鈍重ではなく、聖蟲の与える怪力の作用でまるで重さが無いと勘違いする軽快さで動く。
 丸く胸部が盛り上がった黒褐色のフォルムは、甲冑武者と呼ぶよりはむしろロボット、いや等身大の甲虫に見えた。

 互いに腕を開き剣を誇示して、二人は接近していく。誰が止める声も無く、まっすぐに死線へと歩み寄る姿に、百のクワアット兵も250の神官戦士団も息を詰めて見守る。
 絶対大丈夫だと知ってはいても、蝉蛾巫女フィミルティは両の拳を握り締め、弥生ちゃんの無事を天河の神々に祈った。

 改めて弥生ちゃんは名乗りを上げる。

「青晶蜥神救世主、蒲生弥生! あなたの村を勝手にした詫びを、カタナでお返ししましょう。黒甲枝で私に戦いを挑むのは、あなたが最初です。」
「有り難い。青晶蜥神救世主殿、死して歴史が変わろうとも御恨み給うな。」

 最後まで歩みの速度を落とすことなく、二人は吸い込まれるように接近し、剣を振り上げた。

 

 ものの二分で弥生ちゃんはカタナを鞘に仕舞った。
 互いに傷を受ける事もなく、剣が触れ合う音も無く、しかし、黒甲枝ジンハ守キンガイアは地面に膝を突き、敗北を甘受した。

 黒甲枝の重甲冑は単なる鎧ではなく、バネで四肢が繋がっている。抗重力筋の肩代わりを鋼鉄のバネが行い、重量を甲冑自体が受け止める構造になっている。これにより着装者は甲冑の重さを気にすることなく普通に振る舞い、軽快で遅滞無い運動も可能になる。力も、初動時にこそ聖蟲の怪力が必要だが、動き出してしまえば後は甲冑自体の慣性で動き続ける「着る自転車」とでも呼ぶべき存在だ。

 故にその急所は重量を肩代わりする鋼鉄のバネだ。とはいえ装甲の隙間にわずかしか姿を見せず、鉄斧を叩きつけても弾き返す切断不能な強度を持つ。稼働中に急所狙いをするなど、考えるのも無理がある。だが、

 斬った。
 翻車の勢いで振り回される大剣を掻い潜り、キンガイアの背後に回って四肢のバネを精密に斬っていった。
 黒甲枝は重量物を茅棒のごとくに軽々と振り回すが、早さは人間のそれを越える事は無い。弥生ちゃんの風の疾さに対抗するには、甲冑を捨て、剣も常人の使う細身のものを選び、赤裸で立ち向かうべきだが、それですら木偶の鈍さでしかないのだ。

 キンガイアの敗北は見守るクワアット兵に二度目の衝撃を与え、誰も口がきけなくなった。
 最初は聖蟲を通じての精神攻撃であるから、救世主にはただならぬ神通力が与えられているのだろうと諦めもした。が、黒甲枝が正式な重甲冑を身に纏い、一対一の撃剣で正々堂々と立会い、為す所無く膝を屈するとは。弥生ちゃんは神威らしきものを使った気配も無く尋常に戦ったと見えたから、彼らの受けた心の傷はなお一層深かった。

 シュシュバランタは人頭の描かれた水色の王旗を左右に大きく振って、叫んだ。
「勝ち鬨を!」

 おおーっ、と神官戦士団から呼応する歓声が沸き起こる。
 弥生ちゃんは高校の青い制服の襟と裾を整えて、身動きが取れなくなったキンガイアに言った。

「よろしければ、私の事は”蒲生弥生ちゃん”と呼んでください。」

 歩を返し隊列に戻る弥生ちゃんとシュシュバランタと入れ代わりに、迎ウェダ・オダが駆け寄った。
 重甲冑のバネの全てが斬られたわけでなく中途半端に引き攣って硬直した為、キンガイアは身動きが取れなくなっている。介添えのクワアット兵の力ではどうしようもない。ウェダ・オダの聖蟲の怪力でようやく起き上がり甲冑を脱ぐ事が出来た。

「私は赤甲梢総裁護衛職、ディズバンド迎ウェダ・オダと申す者です。御無事ですか。
 ・・・どちらの筋のお指図です?」
「詳しくは分からぬがカプタニアだ。青晶蜥神救世主の強さを確かめて来るよう書簡を受け取ったが、・・・疾い! 姿が視界から度々消える。」
「我らにも参考になりました。ありがとうございます。」

 隊列に戻ってきた弥生ちゃんは、フィミルティから叱られた。

「あのように軽々しく決闘に応じるのは匹夫のする事です! 救世主たる者、民に感動をこそ与えるべきで、恐怖させてどうしますか!」
「ゴメン。でもやっぱ直接戦闘でも強いってとこ見せとかないと、しめしがつかないでしょ。」
「上に立つ者、王者とはそのような心配はしないのです!」
「ごめんー。」

 フィミルティ、アィイーガと狗番達に囲まれる弥生ちゃんの姿を、劫アランサは不思議と暖かく感じた。そして妙な懐かしさを覚えた。
 彼女は一歩踏み込んで、談笑する輪に加わる。

「青晶蜥神救世主さま、今の刀術はなんですか。私、今の太刀筋には見覚えがあります。」

 弥生ちゃんが口を開く前にアィイーガが説明する。
「あれが星の世界の剣術だ。十二神方台系のものよりも精妙を極め、相対する者の目に留まらぬ不思議な技を使うのだ。」

「あなたには分かるでしょう。アレは、しるくの剣なのだよ。」

と弥生ちゃんは笑いかけた。アランサは心の深奥でその笑顔に応じるときめきがあるのに気付いた。
 自分の身体に重なる「しるく」と呼ばれる人物は、救世主に深い信頼を抱いている。孤高の頂にある自身の想いを理解してくれる唯一の人物、弥生ちゃんをそう信じる心を知った。王族として生まれた自分も、望んで得られなかった真の友の姿を見る。

「道すがら術理を教えましょう。すぐに覚えますよ、あなた自身の剣なのだから。」

 ああその為に、とアィイーガはメグリアル劫アランサを見た。この王女はガモウヤヨイチャンに選ばれたのだ。彼女の目覚めを促す為に、今カタナで戦って見せる必要があったわけだ。さりげなく深謀遠慮の策を次々と繰り出す救世主に、かなわないなと感慨した。

 

 もう一人、弥生ちゃんに敗北感を抱く者が居る。

 狗番のミィガンは主人サガジ伯メドルイの命で弥生ちゃんに付き従う。自身死の淵よりハリセンの力で救い出された大恩があり、これまで主に仕えるのと同じ真摯さで従ってきたが、彼女には護衛の役は不要だと思い知らされる毎日だった。

 東金雷蜒王国では各地で寇掠軍が組織され、毒地に続々と出征している。メドルイは出征に興味を示さないだろうが、場合によっては南の鎮守府であるガムリ点にも戦火が及ぶ可能性がある。

 千年の救世主の御行に従うのに不満などあるはずが無い。しかし、心の疼きから目を背ける事が出来ない自分が居た。

 

 

第十二章 そして舞台は一幕を終え、次なる悲劇を用意する

 赤甲梢兎竜部隊はゲルワンクラッタ村を出立し、カプタンギジェ関の後背に布陣した。

 東金雷蜒王国の心臓部、神聖王の宮殿がある首都ギジシップ島への電撃戦を行うには色々と下準備が必要で、更に未だ本格的な開戦が無い事を鑑みて時期尚早と思われたからだ。赤甲梢前総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサが総裁代理として、引き続き部隊の指揮を執る承認を受ける必要もあった。
 赤甲梢はここに本拠を移して後は、首都の軍政局の指令に基づいて金雷蜒寇掠軍をスプリタ街道に誘導する任務を着実にこなしていった。元々それが本来の任務であるから、誰からも不審には思われない。クワアット兵による毒地内潜入と風説の流布も作戦の一環として認められた。

「多少あざとい噂を流しますが、我が方の兵士には動揺しないよう、また間諜が陣内で活動して居ますから、否定はせず詳細は不明だとの通達をお出し頂くよう、ご配慮願います。」

 日頃高慢な焔アウンサに下手に出られては、ギジェ関を守る司令官達も従わざるを得ない。また実際正式な総裁であるメグリアル劫アランサが青晶蜥神救世主について西に向かったのだから、高度な政治的判断があるのだろうと推察し了承した。

 こうしてフリーハンドで自在に部隊を運用する権限を得た焔アウンサは、陣内に『プレビュー版青晶蜥神救世主』の一行を迎える事になる。

「その方が紅曙蛸巫女でありながら青晶蜥神救世主の名代の一行を率いるティンブット・リアゥルであるか。面を上げよ。・・・、見覚えのある顔だな。」
「5年前、エイタンカプトで催されました花宴の席で舞を披露いたしました。その時にお覚えになられたのでございましょう。」
「ああ。そうか、あの時は見事であった。舞もさる事ながら、炎色の違う篝火を用いる演出には感じ入ったぞ。なるほど、おまえか。」

 いいかげんなタコ巫女ティンブットは、実は褐甲角王国においては知る人ぞ知る名舞姫である。通常王宮に出入りするタコ巫女は特定の都市に留まり、上流階級の間でのみ舞を披露するが、ティンブットは下層のタコ巫女に混じって村々を回り、祭礼でその技を披露して流れ歩いていた。古代紅曙蛸巫女王国時代の舞姫の有り様を今に受継ぐ、古典流派最後の名姫とも呼ばれている。

「して、『プレビィウ版』とはいかなる意味だ。」
「プレビュー版とは青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンさまのお住まいになる星の世界の言葉で、『これから来る者の姿を少し見せる』という意味にございます。
 青晶蜥神救世主は人を病から救う力を持っていらっしゃいますが、全ての民草に接する事はその聖業のお忙しさにより不可能です。故に名代を通じてその御姿を下々にお披露目になり、また神剣より発せられる青き光にて病に苦しむ者に神威をお授けになられます。」
「なるほど。では私にはそなたらは必要無い。・・・もう本物に会ったからな。」

 焔アウンサの天幕の前に跪く”偽弥生ちゃん”一行の者達は狂喜した。ティンブット、トカゲ神官巫女、楽人のタコ神官、護衛をかって出た神官戦士・武人の有志、一目ガモウヤヨイチャンの姿を拝もうと付いて来た奴隷達。そして、

 青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの名代、トカゲ巫女見習いッイルベスは、礼儀も忘れて正面に座る褐甲角の王女の顔を仰ぎ見た。
 真っ正面から見返して来る少女をしげしげと観察して、アウンサはふんと鼻で笑う。

「確かに。髪が黒くて細長ければ、似ているというわけだ。
 ティンブット。ガモウヤヨイチャンは私の姪と共にウラタンギジトを目指して西に進んでいる。今朝の報告ではここよりおよそ五日の距離にある。急げば追いつくぞ。」
「ありがとうございます。して、ガモウヤヨイチャンさまの御様子はいかがでございます。御体に御変わりはございませんか。」

「・・ああ。別れてすぐに黒甲枝を一人、完膚なきまでに叩きのめしたという話だ。ぴんぴんしてる。」
「ああっ、それは御無礼をいたしました。どうもあの方は、その、・・・全然変わってないのですね。」

「街道沿いの関所は現在厳重警戒中だ。急いで通れるように、私が鑑札を書いてやろう。」
「御厚情、感に耐えません。幾重にも感謝・・、」
「礼に、一差舞って行け。」

 舞姫ティンブットはタコ神官に命じて早速に舞台を設えた。こうした突然の公演は彼らの大得意で、手品師の手際で周囲を飾りたてる。神剣を載せた輿も持ち出して青い光で観る人を包み、ッイルベスも人形のように剣に寄り添って華やかな舞台を作り上げた。

 ティンブットは豪奢な舞衣装に身を包み、王族にのみ献ずる事が許された特別な舞『玉枝金紗が靡く』を演じる。
 これは並の紅曙蛸巫女が舞うのは許されず、衣装にも厳しい規定がある曲だが、東金雷蜒王国を巡業中に地元の神族や富豪から贈られた最上級の舞衣装や装飾品は、当然にそれを満たす。はっきり言って、貧乏くさい褐甲角王国ではとうてい見られない、神聖金雷蜒王国の宮廷ばりの豪華さが舞台上に繰り広げられた。

「艶やかなものですね・・。」
 黒甲枝と違い、日頃儀式に参列する事の少ない赤甲梢達はティンブットの舞に目を奪われた。焔アウンサも変わらぬ見事な技量にしきりに首を縦に振る。

「この様子だと、東金雷蜒王国に布石は打っているというガモウヤヨイチャンの言葉に、偽りは無さそうだな。」

 謀略に勤しむ紫幟隊長スーベラアハン基エトスに代わって、黄旗団長カンカラ縁クシアフォンがアウンサの側に侍る。

「アウンサ様。しかし青晶蜥神救世主は赤甲梢と必ず連携する、と最初から決めていたわけではありません。」
「そうだ。おそらくは、タコリティに居るソグヴィタル範ヒィキタイタンを連れ出すつもりだったな。」
「ソグヴィタル王を? なるほど。タコリティにおいて追捕師レメコフ誉マキアリィを退けた、と聞きます。」

「あるいは戦を故意に起こして、傷病に苦しむ兵士達を神威で救っていく。民や兵士の支持があれば、褐甲角王国を乗っ取る事だって出来るだろう。武徳王から先に篭絡する、という手もあるさ。どちらにしても、プレビュー版救世主という布石は生きて来る。」
「まさに神謀と。ですが、踊らされるばかりでは、」
「うん。」

 キスァブル・メグリアル焔アウンサから通行の鑑札をもらった”偽弥生ちゃん”一行はボウダン街道を進み始める。幸いというべきか、本物が先に通ったのだから当たり前だが、これまでは神威神剣に群がってきた地元住民がここでは進路を塞がないので、可能な限りの速度で草原を急いだ。

「もうすぐガモウヤヨイチャン様に会える。今度こそ、真っ正面から向き合って、救世主様にお言葉を頂こう。」
 ッイルベスも心が急き、おもわず騎乗するイヌコマの背を蹴った。

 

 さて弥生ちゃん一行である。250の神官戦士団と100のクワアット兵からなる彼らには、一つ大きな懸念があった。

 キルストル姫アィイーガの乗るゲイルである。
 いくらギィール神族によって完全な制御が行われているとはいえ、人を喰う15メートルの巨蟲になんの恐怖も感じないわけにはいかない。ましてここは褐甲角王国だ。日常的に遭遇する金雷蜒王国とは異なり、ここでのゲイルの目撃はほとんど死と同義の体験だ。口には出さぬがクワアット兵の緊張は極に達する。

「ガモウヤヨイチャンさま。なんとかなさった方がよろしくはありませんか。」
「そうは言っても、アィイーガはなにもする気が無いからね。」

 弥生ちゃんも最初は、ゲイルに人を食べさせるのを止めさせようと考えた。しかし詳しく話を聞いてみると、倫理的道徳的にこの慣習が誤っているとは思えなくなった。

 ゲイルはギィール神族の額にある金雷蜒神の聖蟲とそっくりの姿を持つ。つまり、ゲイル自体も神聖な蟲だ。これに害される事は古来より名誉な事とみなされてきた。死の壁に等しいゲイルに立ち向かう敵は、勇敢さと無私の忠誠を称えられる。危急の折に主人を救う為に、自らゲイルの口に飛び込んだ狗番や奴隷の忠義話は枚挙に暇が無い。寇掠軍においては、兵がゲイルの餌食となるのは戦死と同格の名誉ある死として、遺族には最大限の補償が行われる。

 一般社会においてゲイルの餌となるのは、通常は罪人である。但しそれは、名誉ある者だ。自らの罪を悔い社会的責任を負おうとする誠実なる者が、敢えて地上における最大の恐怖と向き合い報いを受ける。その勇気と真摯さは称賛に値し、死後魂が西の海を越えて天河の冥秤庭に至っても、居並ぶ神々に何一つ恥じ入る所は無い。そう思われている。
 更に、餌食となる罪人はギィール神族によって牢から購われるのだが、その代金はそっくりへ弔慰金として犯罪犠牲者の遺族へ支払われる。牢番や役人が中抜きする事は許されない。名誉ある命の代金が、犯した罪の償いに用いられるのだ。この制度の無い褐甲角王国では、犯罪犠牲者への公的補償は一切無い。

 牢に繋がれた罪人は、ゲイルを連れた神族の到来を待ちわびている。自ら望む者のみを、ギィール神族はゲイルの餌に選ぶ。選ばれなかった者、神族の選択から逃れた者は臆病な卑劣漢として、民衆の石投げにより意味も無く無残に殺される刑罰を受けるしかない。

 ここまで聞いてしまっては、弥生ちゃんも返す言葉が無い。十二神方台系ではこれが正義だ、と納得するしか無かった。

 狗番のミィガンに、こういう場合お供をする狗番や剣令はどう注意をするのか尋ねてみる。彼は最近元気が無い。いつも遠く草原の南の空を見つめている。

「これは仕方がありません。ゲイルの足元に人が近付かないよう、追い散らすだけです。もっともゲイルに近寄ろうとする者は普通居ませんが。」

 アィイーガはゲイルの背の上で呑気に天を眺めて詩などを作っている。ギィール神族はそのような卑近な話にはまったく興味が無い。聖蟲の超感覚で兵の心境など手に取るように分かっていて、これだ。弥生ちゃんがなんとかしなければならないと、フィミルティは無責任に言う。

「青晶蜥神さまの神威を借りて、どうにかなりませんか?」
「世の中そんなに便利に出来てない。」

 やむなくゲジゲジ神官に相談してみる。神聖首都ギジジットにおいて三番目に偉い高位の神官である彼は有職故実に詳しく、たちどころに解答を提示する。

「え、王室で慶事がある際には、ゲイルを飾り立てて危なくないようにして、行進するの?」
「目的は違いますが、周囲に人を伴わせ儀礼的に人払いをして粛々と進みます。一般のギィール神族の方々は本来兵器であるゲイルをそのように飾るのを好みませんが、神聖王は趣味に合わせて麗々しく飾ります。」
「出来る?」
「お任せ下さい。」

 ゲジゲジ神官が自らの領域に属する事柄で否という筈が無い。神官戦士達に指図し近隣の村から材料を集め、アィイーガに恐れながらと相談し協力してもらって、ついに『あんまり恐くないゲイル』が完成した。

「キルストル姫アィイーガ様は、8代ゲチョメル神聖王の末孫に当たる御方ですので、瑞媛(神聖王の側室で未だ子の無い女人)と同等の飾りが許されると思います。」
「かっこ悪いな。ゲイルというものは血化粧こそがふさわしいのに。見ろ、このまぬけな姿を。」
「いやー、なんというか歩く山車だね。」

 ついでにもう一つの懸念も尋ねてみる。

「ウラタンギジトでは、ゲイルの餌はどのように調達しているの?」

 ウラタンギジトは聖山山麓にある東西金雷蜒王国の衛星都市である。十二神の正式な神殿は聖山山中に揃っているのだが、金雷蜒神と褐甲角神は地上に本物の神が在るので別格として神殿を中心とした都市が築かれている。金雷蜒神殿ウラタンギジトと褐甲角神殿エイタンカプトは聖山への巡礼路、神聖街道の両脇にあるが、ここは褐甲角王国のど真ん中だ。故にウラタンギジトは篭城も視野に入れてエイタンカプトよりも随分と規模が大きくなり、防衛隊も城壁も完備され、ゲイルも十数体が飼育されている。

 ゲジゲジ神官は弥生ちゃんの問いに答える。
「本国より餌となる罪人を特に選って輸入しています。神殿都市で供儀に捧げられれば死後も聖別間違いなく、本人がそうと希望するので、褐甲角王国が彼らの解放に動く事はないと聞いております。」
「ぜんぜんさんこうにならない・・・。」

 

 そうこうしているので行列は全然前に進まない。ティンブット達を待っているのもそうだが、東西南北から青晶蜥神救世主弥生ちゃんの姿を一目見よう、ハリセンの神威で病を癒してもらおうとする人が集まって進路を塞ぐ。
 弥生ちゃんは物惜しみをしないタチであるからどんどんハリセンを揮っていく。無数の患者がぴんぴん飛び跳ねて帰っていくが、しかしハリセンの効力にも限界はあり、不治の病はやはり痛みを留める程度しか出来ない。
 不思議に思ってフィミルティは尋ねた。天河の神の力でも癒せないとは、どんな病なのか。

「それはさだめとしか言いようがないね。先天的に身体が不具合を起している場合、それがその人にとっての正常な状態だから神様は癒そうとはしない。自らの生活習慣で陥った病では、症状は改善しても完治はしないし、生活改善をしないから結局は再発する。また、ケガ等で臓器や組織が欠落した場合、新しい臓器を作ってはくれないから、これも癒らない。」

「心臓に穴の開いた人、という患者をガモウヤヨイチャンさまはお癒しになりましたが、それは神様がお許しになるのですか?」
「ならない。だから私は刃物で心臓を突き刺して、その傷を癒す過程で同時に人為的改変を行っている。裏技的な使い方だからカベチョロはいい顔をしないよ。」
「・・自ら神の法度をお破りになって、人を救っておられるのですか!」

 そんな弥生ちゃんでも、この人を癒すべきなのか迷う事例もある。

「うーーんん。どうしよう。」

 身なりの良い中年の武人であった。将としての資格も見て取れる立派なお侍であったが、しかし脚が悪くて戦場に出られない。目前に未曽有の大戦が迫っているのにこの体たらくと、自らを責め嘆いていた。
 弥生ちゃんの診察ではアキレス腱の断裂がそのまま固定したもので、命にはまったく関りが無い。癒すには一度脚を切り開き腱を繋ぐという手術が必要になるが、大した手間は要らない。だが迷う。

「私になにか、救世主様のお心を害する点が御座いますか。」
「そうじゃない。見たところ貴殿はとても優れた人物で、今でも重要な職に就いていらっしゃいますね。」
「いささかなりと王国に貢献している自負は有ります。」
「だが脚が癒ると、やはり戦場に赴く。そのままにしておけば世の為人の為になる人材を、死なせてしまう事もある。」
「それが武人の本懐でございます。」
「トカゲ神救世主さまというのは、それをお認めになりたくはないわけなんだよ。うーん。」

 だが弥生ちゃんはそういう生き方をする男達が好きだった。結局手術をする事に決めたが、条件を出す。

「本来私は人を活かす為にこの世界に連れて来られたから、癒ったら死にに行く人は癒したくない。だけど、それでも望むと言うのならば、賭けをしましょう。」
「どのような御無理でも、お受け致します。」
「これからちこっと手術をしますが、普通ならばまったくの無痛で私は出来ます。でも貴殿には、めちゃくちゃ痛くします。その時に、あ、とか、う、とかちょっとでも痛い素振りをしたら、もう止めます。終るまで平然としていたならば貴殿の勝ちです。よろしいですか?」
「願ったりです。」

 通常ならば冷気で患部を凍結させて無痛にする所を、普通に小刀で切る。脇で見ていたフィミルティは血がどくどく流れるのに卒倒したが、男は世間話をし微笑みながら痛みに耐えた。

「仕方のない人ですね。御武運をお祈りします。」
「かたじけなく、有り難く存じます。」

 この話が広まって弥生ちゃんの元には物理的機能を損失した武人や兵士が多数押しかけるようになる。彼らは皆、この武人と同じ条件での治癒を申し込み、その大半が試練に耐えた。
 フィミルティは言う。

「私はこれまで、人を癒す行為がこのように勇ましいとは知りませんでした。今ではガモウヤヨイチャンさまは、武人を戦場にいざなう戦いの女神、として知られていますよ。」
「それが治癒者の宿命なのだよ。馬鹿馬鹿しいが、不可分だ。私が青晶蜥神救世主でありながら、カタナを帯びている意味が分かったでしょ。

       !? 来た?」
「はい、この楽の音は。」

 フィミルティと共に治療の天幕から飛び出した弥生ちゃんは、居並ぶ人々を背にして走り、草原の遠くが見える所にまで来た。警備の神官戦士が跪き報告する。
 東の端に多数の人影と、聞き慣れない楽の音がする、と。

「ティンブットだ、やっと来た。」
「はい。この楽はまぎれもなく、ガムリハンでタコ神官にお授けになった星の世界の曲です!」
「ミィガン!」

 と、狗番を呼んで、弥生ちゃんは手近に居たイヌコマの背に飛び乗った。フィミルティも遅れてイヌコマに乗り、東に駆け出す。ミィガンと幾人かの神官戦士がその後に続いて走る。

 弥生ちゃんはガムリハンで毒地に潜入する準備をしていた時、先行して東金雷蜒王国を巡る”偽弥生ちゃん”に随行するタコ神官達に、星の世界の音楽を幾つか教えた。最初は無難に「荒城の月」とか「春のうららの隅田川・・・・」とかを伝えたが、もっと景気の良い曲をとせがまれ「軍艦マーチ」をやってみる。しかし、さすがにこのテンポの曲は十二神方台系では速過ぎた。タコ神官は泣く泣く別の曲に替えるよう願い、間をとって「ラバウル小唄」が偽弥生ちゃんのテーマソングとなる。

 次第にはっきり聞こえて来る「ラバウル小唄」に、弥生ちゃんは走るイヌコマの背から手を振った。向うの隊列から、何人かが飛び出て来る。

「なんだアレ?」

 金満マダム張りに全身きんきらきんの女性が倒けつ転びつしながらこちらに向かって来る。あれはひょっとして、ティンブットだろうか。彼女は出立する時は、曙色のタコ巫女旅装であった筈だが。

「ガモウヤヨイチャンさまあーーー。」

「あ、やっぱりそうだ。」
「あの衣装はなんでしょうか。とても自前で買ったとは思えません。」

 手綱を引いて止めたイヌコマの足元に、ティンブットは身を投げ出すように跪き平伏し、がばっと顔を上げた。

「ガモウヤヨイチャンさま!、この商売は、儲かります!!!」
「そ、そう。」

 ティンブットに続いて一行の主要な者が次々とやってきて平伏する。ガムリハンで見なかった顔が多数あり、道中様々な出来事があったと推察された。
 そして。

 トカゲ巫女達の先頭に押される形で、”偽弥生ちゃん”ッイルベスが弥生ちゃんの前に出る。草の上に跪き、頭を下げるが、どうしても顔が上げられない。あれほどガモウヤヨイチャンさまに正面から向き合おう、お言葉を掛けていただこうと誓ったはずなのに、身体が萎縮して上を向けない。

 そんな彼女に、弥生ちゃんは一言だけ言った。
「御苦労!」

 ははーっと、また頭を下げる。どうして自分はこうなのだろう。道中あれほど神剣を使い人を癒して、ガモウヤヨイチャンさまの霊力を頂き御体を損なったというのに、自分は詫びの一つも言えないのだろうか。

 「プレビュー版青晶蜥神救世主」の隊列全員が弥生ちゃんの足元にひれ伏す。こうして見ると種種雑多、神官巫女・神官戦士は当然として、武人や官吏、学者に隠者、農民町人商人に浮浪者まで老若男女、東金雷蜒王国全階層から抽出されたサンプルみたいだ。人数は500人ほどだが、これでもカプタンギジェ関で制限された人数だ、全員連れてきていたら何千人になったろう。

「ほら、やっぱりこうでした!」
とティンブットはトカゲ神官達に言っている。彼女は、ッイルベスを輿に乗せるのをやめさせ、よりガモウヤヨイチャンらしさを演出する為にイヌコマに乗せたのだが、本物もちゃんと乗っているではないか。

「なんだ? 成り損ないが混じっているな。」

 後から『あんまり恐くないゲイル』に乗って、アィイーガがやってきた。幾ら飾って暴れないようにしているとはいえ、ゲイルは常にアィイーガの手元に置く、そう取決めがなされている。ゲジゲジの聖蟲は数キロ以内のゲイルを自在に操る事が出来るのだが、普通の人は知らないのだから仕方がない。

 彼女の言う成り損ないとは、ギィール神族七つの試練を越えられず、聖蟲を戴けなかった神族出身者だ。霊薬エリクソーを服用して成長したから、神族同様に2メートル近い巨体に優れた運動能力を持つ。知能も並の人間より優れているが、それでもなお落第する者は少なくない。”偽弥生ちゃん”の一行には十名以上が混ざっている。

「金雷蜒神ではなく、青晶蜥神救世主の廷臣となって自らの生きる道を立てるか。乱世であれば、まあ賢い選択と言えるな。」
「アィイーガ、ほら。」

 ティンブットの案内で弥生ちゃんは自らが神威を授けた剣の輿に近付く。当然ッイルベスも付いて行くが、高位のトカゲ神官や巫女に阻まれて後ろの方になってしまう。ますます弥生ちゃんが遠くなる。

 弥生ちゃんは手を伸ばして、地面に据えられた輿から神剣を抜いた。抜き身のままで飾っている剣は常に青い光を零し、これを見るだけでも体調が整い不快感が遠のくのを感じると評判になっている。

 剣を左手にかざし右の二指をすっと根元から剣先に滑らせると、光は収まり、鋼の刀身が姿を見せる。
 アィイーガは感嘆の声を上げた。

「ほお。これはどういう作用が働いたのだ。」

 神剣は、光が収まると異様に変質した本体を現した。元は普通に鉄製の剣なのだが刃の部分が透明な結晶に置き換えられ、全体もなんとなく透ける気配を見せている。明らかに尋常ではない物質変換が起こっていた。

「これが、人を斬らずに癒す事だけに力を使った剣の姿だよ。青晶蜥神の神威を帯びた剣は、その使われようによって自ら姿を変えるんだね、初めて知った。」

 再び指を滑らせて青い光を神剣に戻すと、弥生ちゃんは剣の行使者ッイルベスに振り返り、言った。
「よくぞここまで剣を使った。素晴らしい。」

 ッイルベスはその言葉にも何も答えられなかった。ただただ頬が熱くなるのを感じ、双眸から涙が零れ落ちるのを知った。全身が震えるのを止められない。

 救世主様に認められた、ガモウヤヨイチャンさまに振り向いて頂いた。

 立ち尽くすッイルベスは仲間のトカゲ巫女達に抱きしめられる。その温もりの中、ガモウヤヨイチャンの為ならばこの命も惜しくない、と心底から思った。

 

 弥生ちゃんの隊列は脹れ上がり、更に大きくなろうとする。その中でただ一人、孤影を深める者が居た。

 狗番のミィガンは自らの存在意義が日々薄らいでいくのを感じずにはいられない。
 護衛の任は元から弥生ちゃんには要らない。ただこれまでは人数が無かった為に自分が役立つ時が多かった。しかしこれほど人数が膨らむと警備を務める者も多数あり、ミィガンより腕の立つ武人が何人も弥生ちゃんの下に馳せ参じている。
 十二神方台系に不慣れな弥生ちゃんの案内の役も果たして来たが、識見においてはるかに優るゲジゲジ神官が今では弥生ちゃんの相談相手となった。聖山に近付けば高位のトカゲ神官が弥生ちゃんの代理人となるだろう。
 キルストル姫アィイーガ様はこれからウラタンギジトでの神祭王との会見で重要な役目を果たすから、彼女の狗番ファイガルとガシュムには活躍の場面は幾らでもある。しかし自分は、・・・・・。

 ため息を吐き遠く南の空、毒地の先に目をやる度に、故郷に残るサガジ伯メドルイの事が思いやられた。主人は今、なにをしているのだろう。ガムリハンでは騒動は起こっていないだろうか。寇掠軍の出征が重なれば流れ者も多くなり村の治安が悪くなるが、大丈夫だろうか。

 想いに沈む彼の後ろ姿に、親しい者は皆気づいた。だが口にするのはためらわれる。狗番にとって主に暇を出されるのは死に勝る屈辱だ。
 だが意を決して、フィミルティは弥生ちゃんに忠告した。ガムリハンからの毒地入りに最初から従うのは、ミィガンとフィミルティだけだ。

「ガモウヤヨイチャンさま、実は。」
「言わなくても分かってる。わかっているけど、・・・・・うん。」

 二三日は弥生ちゃんも思い悩む日が続く。その間もひっきりなしに人が押し寄せ、弥生ちゃんに神威を分けてもらい治癒を望み、あるいは会見し天下の情勢を論議し、青晶蜥王国の廷臣になろうと売り込みに来る。ミィガンも弥生ちゃんの身辺で不審人物を見張るのに忙しく、互いに声を交わす場面も無い。

 向かい合う事を避け続けていた二人に決意をもたらしたのは、無尾猫の噂話だった。

「タコリティが半分砕けて人が住めなくなった。タコリティを治めるミストレックス、本当の名前はソグヴィタル範ヒィキタイタンだけどはタコリティには兵隊だけ置いて、町は全部テュークの円湾に持っていった。でもあそこには何も無いから、ぐるっと周ってガムリ点から色んなものを運んでる。その船を狙って海賊がいっぱい出て・・・。」

 ミィガンから言い出す事はあり得ず、弥生ちゃんが口火を切るしかない。しかしながら、これほどデリケートな問題は十二神方台系に生まれた者でも手に余る。仕方なしに、まずはアィイーガの狗番ファイガルとガシュムを連れ出して狗番が勤めを辞める時の話を聞き、決断する。

 幾張もの天幕の前では焚き火に鍋を掛け夕餉の用意を始め、押し寄せる参拝者の列も今宵の宿を求めて近くの村に下がっていく。人影もまばらになった真っ赤な空の下、弥生ちゃんはミィガンを連れて草原に出た。隊列から百メートル程離れた位置にある大石に、二人並んで座る。既に東の方角には薄紺色の闇の帳が兆していた。

「もう随分と時が経ったように思えるけれど、ガムリハンを出てからまだ三ヶ月なのよね。」
「・・・はい。」
「あなたには随分と迷惑を掛けました。狗番というよりも、私の暴走を留める役で、無理も無茶も言いました。」
「出過ぎた真似をした、と反省する所もあります。私ごときの卑小なる者では、十分お役に立てなかったと後悔します。」
「なあに、要はその時々で間に合えばいい。あなたの仕事は満足すべきものでした。」
「有り難うございます・・・。」

 遠くから眺めるフィミルティ、アィイーガ、ファイガル、ガシュム、シュシュバランタ、そしてティンブットは、二人の姿をとても奇妙なものに感じていた。主人と狗番、ではない。むしろ兄と妹のような釣り合いで、小さな弥生ちゃんがミィガンを慰めている、そんな光景だった。
 アィイーガは、ふと別の可能性を思いつき、ははっと笑う。

「そうか。あの二人は、男と女でもあったのだな。全然気付かなかった。」
「主と狗番ですよ、そんな展開は。・・・・いえ、ガモウヤヨイチャンさまはこの世の人ではありませんでした。」
「ガモウヤヨイチャンさまは年齢を大きく越えた深い智慧をお備えですが、そういう面ではまだ全然子供なのです。」

 フィミルティとティンブットは並んで二人の後ろ姿を見る。夕陽の影で顔の表情は見えないが、弥生ちゃんは説得をしている訳ではないらしい。

「・・・私はこの世界の人間ではありません。だから、狗番の心、奴隷の気持ちはわかりません。
 ミィガン、あなたを辞めさせると死ぬと聞きました。それが狗番の道だとも。ですが、私はあなたの主ではない。」
「ガムリハンの主の言葉に逆らうのは、死に値する背信です。私はあなたに、どこまでも付き従う事を命じられております。」

「失敗するのはどうなのです。使命を果たせずに主の元に戻るのは、恥ですか?」
「それは・・、時と場合によります。人の身であれば、何事も必ず成し遂げるとはいきません。」

「私は奴隷を持つ事を望みません。私と共に居るのならば、あなたには奴隷であるのをやめてもらいます。」
「ガモウヤヨイチャンさま、」
「私がこれからする事、そして私が去った後で残るものを、護り育て花開かせる為には大勢の人が必要です。あなたは私の為に、青晶蜥神の聖蟲を戴いてくれませんか?」

 ミィガンは立ち上がり、改めて弥生ちゃんの前に跪き、頭を下げた。

「申し訳ございません。その儀は遠慮させていただきたく思います。」
「ガムリハンの主の為に?」
「いえ、私にその資格が無いからです。いと尊き青晶蜥神の聖蟲を額に戴くのは、今の世で最も優れた方々、最も御身の為になる方をお選びください。」

 狗番とは出世を求めぬ者だ。一人の神族の為に生き、生涯を主に捧げ、主の死と共に滅びる運命にある。理不尽なようだが彼らはそのように育てられ、また自らその道を望んで生きていく。神の一族の傍に在る喜びは、地上のいかなる富貴よりも勝ると信じている。
 ミィガンに聖蟲を戴くかと問えば当然拒絶されると、弥生ちゃんは知っていた。だからこそ問うた。彼が本当に欲しているものを、自分では与えられないから。

「では仕方がない。あなたの使命は失敗しました。毒地を越え、ギジジットを平らげ、褐甲角王国に到るまではよく仕え見事に働きをしましたが、そこで終りましたと、サガジ伯メドルイにはお伝えなさい。」
「はい。必ずそのように伝え、主の裁きを待ちます。」

「でも私は、ほんとうに、あなたにカベチョロをあげようと思ったんだよ。」
「そのお言葉以上を望むのは、私の分に余ります。」

 ミィガンは少し迷ったが、背に負った狗番刀を外して、弥生ちゃんに差し出した。この長刀は彼がサガジ伯メドルイから頂いたものだが、弥生ちゃんが青晶蜥神の神威を与えて青い光を帯びている。狗番を辞めるに当たってこれは返上すべきだと考えたのだ。しかし弥生ちゃんは笑って押し戻した。

「退職金代わりに持っていきなさい。よく切れるというだけで、それを持っているからと言って後に私が特別な便宜をはかったりはしませんよ。」
「では我が主サガジ伯メドルイに献上致します。」
「あなたの気の済むように。」

 弥生ちゃんは立ち上がり、ミィガンを助け起こした。こうして二人並んでみると、まるで大人と子供ほどにも背が違う。

「出立は明日に。イヌコマを二頭あげるから、必要なものを積んでいきなさい。」
「ありがとうございます。」
「道中はかなり危険です。毒地を通るわけにはいかない。遠回りしてでもギジェカプタギ点から戻りなさい。」
「はい。」
「鑑札と手形をアランサとアィイーガに書いてもらおう。それからティンブットが通った道のトカゲ神殿に紹介状を。」

「ガモウヤヨイチャンさま、あなたはお節介が過ぎるのが、玉に瑕です。」
「アハ。」

 

 翌早朝、ミィガンは旅立った。見送るのは弥生ちゃん以下の旅の仲間、後に残る二人の狗番に弥生ちゃんを託して、隊列を後にした。
 早くから救世主に会いに来る参拝者の列に逆らい、一人彼のみが東に向かう。朝日に向かって、そして振り返りはしなかった。

 アィイーガは尋ねる。
「ガモウヤヨイチャンどの、昨日そなたは青晶蜥神の聖蟲を与える、と言っていたな。」

 地獄耳の背の高い友人の、額の黄金のゲジゲジを見上げて弥生ちゃんは答える。

「もうその気は無くなっちゃった。トカゲ神族というものは永遠に幻のまま消えました。たぶん、あの時が歴史の転換点だったのね。」
「聖蟲を期待する者は無数に居る。奴らは怒るぞ。」
「知ったことじゃないな。」

 もうすっかり小さくなった狗番の姿を最後に振り返り、弥生ちゃんはッイルベスが一人で頑張っている治療の天幕に戻る。もう一日はここに留まって、病人をさばいてしまおう。

 

 誰も知らない。ガムリハンに戻るミィガンの背を、陰で見つめる存在を。

 

 

最終章 カプタニアより愛と共に。

 

『夏初月の爽やかな風がミア・カプティ湖よりそよぐ頃となりました。御身体に変わりはございませんか。

 私は元気です。
結婚式の日取りが延期になった時には落ち込むと言うよりも、頭が破裂しそうになり取り乱しましたが、もう落ち着きました。
これも黒甲枝の奥方になる為の試練と思ってまた精一杯頑張って居ます。
なによりも、旦那様になられるバイジャン様がこれから命を掛けてのお仕事に臨まれるのですから辛抱いたします。

 カプタニアの街はこの夏はまるっきり様子を変えてしまいました。
人がそっくり入れ換ったようで、西から来る方が東に出征された方の場所をそのまま埋めているという感じです。
これまで懇意にさせて頂いた黒甲枝の方々も皆旅立たれ、その後を普通の官僚の方がなさっています。
お父様にも財務官僚にならないかとのお誘いがありましたが、今は王国の一大事で本業の布問屋としても全力でお仕えしておりますので、それは叶いませんでした。

 この間からカロアルのお家に行ってお義母様に黒甲枝の奥方としての心得を教えてもらっています。
私はこれまで武術というものを、少しは習いましたけれどお母さまに比べるとまるでおたまじゃくしと鵲ほどに違います。
でも弱くても身体を動かしていなければ胆力というものが身につかないそうで、頑張って毎日練習しています。
なんでも運動を避けていた女の人は難産が多いと言いますね。それは困ります。
御妹の斧ロアラン様がボウダン街道に旅立たれ、今はカロアルのお家に残られるのはお義母様だけで少しお寂しい御様子です。
でも私が居るから安心して下さいませ。

 斧ロアラン様は、めでたく赤甲梢総裁となられたメグリアル劫アランサ様のお付きの女官となられました。
私も心ばかりのお祝いの品を届けさせて頂きました。
ロアラン様のお手紙では、ガンガランガの野で大きな兎竜の側に寄り、餌も与えてみたと聞いています。
兎竜は大きいけれど穏やかな生き物で人を襲う事は無いそうですが、大き過ぎるので不用意に近付くと危ないとの事。
メグリアル劫アランサ様もこの度初めて兎竜にお乗りになられましたが、あっという間に乗りこなされたそうです。

 それとよくは分からないのですが、劫アランサ様が空をお飛びになられたとかで、本当か嘘か分からないけれど伝え聞く所ではカプタニアの王宮内は大騒ぎになっています。
大地震があった時も空中に飛ばされたという人が少なくないのに、蜘蛛神殿では肝心の事がぼかされて伝えられて困惑します。
でも、空を飛ぶのはカブトムシの聖蟲を戴く方にとっては一生の夢だとお義母さまに伺いました。
悪いことではないのならば、皆に報せてもよいのではないでしょうか。

 そして、斧ロアラン様はついに、ついについに本物にお会いになられました。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様です。

 カプタニアでは二ヶ月ほど前から救世主様のお噂はどうやら禁止になっていますが、うちにはネコがよく遊びに来るので色々と聞かされます。
ロアラン様のお手紙もネコが運んで来るのですよ。
これは我が家だけの特権です。

 お手紙によりますと、メグリアル劫アランサ様は救世主様とお友達になられたそうです。
ガモウヤヨイチャン様は気さくなお方で誰とお話になるのも拒まないそうですが、そこはそれ、大切なお役目を神様から授かっている方ですからその御心を理解するのは一般庶民には無理なのです。
やはり劫アランサ様のような尊い御方でないと、何を言っているのか分からない。
千年先の未来までをも語られるので、ロアラン様も雲を掴むような茫漠とした話に聞こえるそうです。

 救世主様の額には、つまりトカゲ神の、チューラウの聖蟲が御座を設けていらっしゃるわけです。
ロアラン様は間近で拝見させていただいたという話です。私も早く拝見したい。
青晶蜥神の聖蟲は、まさにそのもののトカゲの姿をしているのですが光り方が違います。身体は青というよりも銀色で光沢があって空の青さをそのままに頂いて光っているので、青く見えるのです。
暗い部屋で見ると緑色だったり焔の色を照り返して橙色に見えたりもします。
ただ尻尾だけは色がまったく違い、深い青の色硝子のように透明なのです。
ロアラン様のお手紙には少し理解に苦しむ箇所があってよく分からないのですが、この尻尾は最近新しく生えたらしいのです。
なんでも元の尻尾はガモウヤヨイチャン様がひっぱってお切り離しになられたとか。
でもそんな事があるはずがございません。なにかの間違いでしょう。

 東金雷蜒王国を御巡りになった救世主様の名代の方が同じ歳だというので、ロアラン様は救世主様に関心を持っていただいてると、お喜びになっておられます。
救世主様の名代は、ガモウヤヨイチャン様とそっくりの姿をしておられるトカゲ巫女ですが、髪が子供の様に真っ黒で美しいのです。
ロアラン様も未だかなり黒みが濃いので、そこもお気に入りになったのでしょう。
私はもうかなり色が抜けて赤くなってしまいましたので、少し羨ましい気がします。
ガモウヤヨイチャン様はまるでトカゲの尻尾のように細長い御髪が艶やかで真っ黒で、まるで深い水のようなきめの細かさがあります。
御歳は17歳という事ですが、星の世界の暦は地上と違うといい、本当は何歳なのか分かりません。
女にとっては髪は命の次に大事なものですから、いつまでも黒い髪というのは憧れます。殿方にはお分かり頂けないでしょうが。
セッケンヌはたしかに汚れは落ちるのですが、注意書に書いてあるとおりに髪には使用しない方が良いようです。
なぜかごわごわしたかんじになって痛みます。

 ガモウヤヨイチャン様の隊列は今ボウダン街道を西にデュータム点に御向かいになっておられます。
デュータム点から神聖街道を北に上がって聖山にお出でになられるのでしょう。
やはり神様にお参りにいかなければ救世主様もいけません。
その前に隊列はウラタンギジトにお寄りになる予定になってます。
金雷蜒王国の神聖首都よりなんらかのお使いを承っているようで、褐甲角王国の首脳の方との会談よりもそちらを優先されるそうです。
となれば、救世主様についてお出でになる劫アランサ様、そのお供をする斧ロアラン様はとても重要な役を果たす事になるでしょう。
私も、こんな素晴らしい巡り合わせがあるのでしたら、王宮に侍女に上がれば良かったと少し後悔しています。
そうすればもっと黒甲枝のお嬢様方ともお近づきになれたのですから。

 それから、これは極秘情報です。
ロアラン様が救世主様から直々に伺った話では、ミョ燕を剣で切れれば救世主様にお勝ちになる事が可能だそうです。
なんでも星の世界には昔その技を使う剣士が居て、その剣士がもし十二神方台系にも居たら救世主様も御無事ではおられない、とそう語られたそうです。
バイジャン様もお試しになられてはいかがでしょうか。

 でも、なによりこれから先は御身体を大切に命を危うい目に逢わさぬように御心掛けください。
激しい戦になると家庭教師のハギット先生から聞いていますが、どうか危なくないように、ゲイルの前に飛び出さないようにご注意ください。
私は今はまだ戦争が始まっていないので平静にしていられますが、やはり怖いです。
バイジャン様を案じられます。
きっと御無事な御姿でカプタニアに戻られますようにお祈りしています。

         南の方に褐甲角神の御薄翅の護りが届きますように。

                                                   貴方の妻になるヒッポドス弓レアル』

 

「先生できました。こんな具合でどうでしょう。」

 と弓レアルは葉片に書き上がった手紙の草稿を家庭教師に見せた。ハギット女史の指導に基づいて、弓レアルは婚約者カロアル軌バイジャンへの手紙を書いていたのだが、この家庭教師は細かく指示してどうしても救世主の話を手紙に盛り込みたがる。

「そうですねえー、・・・。もう少しバカみたいな、知恵の足りない少女らしさというものが有ればよいのですが。お嬢様には無理ですかね。」
「・・・・なぜです。どうして馬鹿な女の振りをして手紙を書く必要があるのですか。」
「それが核心だからです。」

 と、ハギット女史は上から弓レアルを見下ろした。この人は普通の教師ではなくかなり奇矯な癖をもっている事に、最近ようやく弓レアルも気が付いた。能力と学識に問題は無いが、芸が無いのは許せないと色々と小細工を弄するのが大好きなのだ。

「男という生き物は、元来賢い女を好みません。この私が言うのですからまちがいありません。」

 ハギット女史は29才で独身。既に行き後れに三重に輪を掛けた身の上であるから、説得力は非常に高い。醜くはないのだが、男に声を掛ける気を起こさせないしんばり棒の固さがある。

「はあ。」
「もし賢しらぶった、いかにも金雷蜒王国からの亡命廷臣の裔であるのを鼻に掛けた文章を送ってみなさい。殿方が何を思うか想像に固くありません。きっと地元の若い女に目が移るようになるでしょう。」
「それは困ります。でも、・・・そんな事が手紙から分かりますか?」

「分からないでどうします。黒甲枝の方々は幼少より武術のみならず学問も積まれていますが、ギィール文学には手を出しません。その典雅な文体を目にすると、無骨な実用に偏った学問をされた殿方はどう思いますか。ああ、この女はオレを理解してはくれないだろうな、カプタニアから一歩も出る気が無いだろうな、とか思います。お嬢様も御結婚された後は夫の任地に付いて行き一緒に暮らす事もございますよ。」
「あわわ。それは確かにそうです。黒甲枝の方は聖蟲を戴いた後は、地方を回られる守護の御役目に就く事が多いのでした。」

「そうです。その時一緒に居るのが、高慢ちきな金雷蜒王国にかぶれた女だったらどうします。とても同じ家には暮らせません。」
「書き直します。でも、・・・でもそれならば、青晶蜥神救世主の事を書かない方がいいのではありませんか。」

 これまでの手紙は、ハギット女史はほとんど何の指示もしなかった。多分、指示するまでもなく他愛の無い、知恵の足りない少女の手紙だったからだろう。今回は特別だ。諭すようにレアルに言う。

「救世主様のお噂を書く為にこうして知恵を絞っているのではないですか。バイジャン様に、いえ、御父上のカロアル羅ウシィ様に青晶蜥神救世主の動向を御伝えするのが、この手紙の目的です。お嬢様の務めです。」
「でもそれがよく分からないのです。向こうにも蜘蛛神殿がありますよね。」

 ハギット女史はぬんと弓レアルを睨みつける。情勢認識が甘いあまい。

「ありません。有ってもなにも教えません。それが衛視局の決定です。黒甲枝もクワアット兵も目の前の戦にのみ専念し、その後の世界の成り行きなどには思いを致さぬ為に救世主様のお噂を絞っています。ネコが毎日遊びに来るのは、お嬢様の所だけなんですよ。」
「でも、それならば、私達も書き送るべきでないと思いますが。」

「そこです!」

 ハギット女史は窓辺に立って、弓レアルに逆光で向き合った。夏の日差しが庭木の梢に照り返して、緑の陰を作っている。黒い影が左右に飛び交うのは、ミョ燕が子育てに勤しんでいる姿だ。

「黒甲枝もクワアット兵も、これは悪い癖なのですが、死に急ぎます。黒甲枝ならば重甲冑に覆われなにより聖蟲の護りがありますが、クワアット兵は死をも怖れず敵に立ち向かい、故に勝利を収めますが犠牲も多いのです。」
「そう、・・・聞いています。」

 弓レアルは眉をひそめ表情を曇らせた。

 ハギット女史の実家は黒甲枝に仕える従者であった。先祖代々神兵に付き従い戦場を往来してきた家系であったが、彼女が幼い時分に戦役で父を失い、主もその時の傷で亡くなり御家が断絶して、女だけの世帯が市中に放り出された。だからクワアット兵や黒甲枝の生き様については母や祖母、親戚から聞かされてよく心得ている。

「私も、せっかくお世話したお嬢様がいきなり寡婦となるのを見るのはしのびない。されど軍政局と兵師統監は、この大戦争で持てる力の全てを蕩尽する事を厭いません。兵の命もまた然り。脇目も振らずに前に進めば、いかなる犠牲を払おうとも最終的には勝利を得る。兵師としてはまことに正しい道ですが、個々人にとってはそれは死を意味します。」
「はい・・。」

「褐甲角王宮では、この戦は千年の永きに渡り進めてきた救世の聖業の総決算と考えます。つまり、後の予定は無い。黒甲枝や末端のクワアット兵に至っては、後など考えた事も無い。」
「後とは、青晶蜥神救世主様の時代ですね。」
「そうです。すでに次の時代は走り始めている中で、そう簡単に死なれては困ります。次を考えるよすがにと、救世主様のお噂をお届けするのです。」

「それは生きる道を考えるということ。」

「ですが、あまり考えられても困ります。戦場では余計な心配を抱えるとたちまち死に結びつきます。だから、さりげなく馬鹿みたいに他愛も無く、救世主様のお噂を書く必要に繋がるわけです。次があるのを知っている、それで十分。

 さて、書き直しは頭を冷やした後として、今度は書字の稽古を致しましょう。今日の課題は白穰鼡(ピクリン)神の御籤袋の偽造です。」

「偽造、ですか。神殿のお札やおみくじ袋を偽造して罰が当たりませんか。」
「高価いじゃないですか。今回、お手紙をネズミ神の袋に入れてバイジャン様に送るのですよ。」
「?? なぜ、ネズミ神なのですか。白穰鼡(ピクリン)神は安産と子宝の神様で、商売繁盛も願いますが、戦場は場違いでしょう。戦勝祈願ならばそれこそ褐甲角(クワアット)神を、御無事のお帰りを願うならば青晶蜥(チューラウ)神の御籤袋がふさわしいと思います。」

「黒甲枝ではあまりありませんが、クワアット兵の家では白穰鼡神も案外喜ばれるのですよ。やはり武勲です、出世をするには戦場で手柄を立てるのが王道。戦を商売と考えると、ネズミ神に繁盛を願うのが実は一番正しいのです。
 さらに言うと、お馬鹿な女が若い婚約者に贈るにはネズミ神の袋がもっともらしい。手紙の内容を検閲する者も武勲を求める袋の意味を知っていますから、もし咎め立てされる時でも単なる勇み足としてヒッポドスの家が処罰されるのを免れるのです。」

 弓レアルは考え過ぎだと思ったが、実は既に前線への手紙の配達は制限されていた。検閲するのが面倒くさいから私的通信は全面禁止で、黒甲枝にのみ特別に許される。前線の士気に関るのもさることながら、金雷蜒寇掠軍に手紙を奪われて内情を知られるのを怖れての処置だ。

「ところで先生。先生は、前もお札の偽造をした事があるのですか。」
「得意技です。蜘蛛神殿で巫女見習いをしていた時に覚えました。奥様に是非にと頼まれてやった事もありますよ。」
「二年前、ですね。わたしの、・・・・お見合いの時に母からもらった、カエル巫女アハヴァエラ直筆のお札は。」

 二年前、お見合いの席で初めて黒甲枝カロアル軌バイジャンと会ったレアルは、緊張と不安に心が乱れ卒倒し掛かり、その時母からもらった恋愛成就のカエル巫女のお札に安堵して、ようやく婚約が成立したのだった。高名なカエル巫女のお札は霊験あらたかで婦女子の憧れの的だが、歓楽街の真ん中に位置するカエル神殿に詣でるのはなかなか難しい。レアルがもらった巫女アハヴァエラとは一晩呼ぶのに百金を要すると噂される王国きっての傾城で、王都カプタニアから少し離れた商業の中心地ルルントカプタニアの神殿で奉仕する。

 ハギット女史はしれっとした顔で答える。

「アハヴァエラのお札がそう簡単に手に入る訳がないでしょう。」
「だ、だまされた。」

 

 夕暮れの街を一つの影が走る。
 赤と黒のコントラストに彩られたカプタニアの貧民街を強獣が無人の野のように傲然と駆抜ける。後難を怖れその姿を見るまいと人は顔を背け道の端に身を隠し、通り過ぎるのを見送った。

 ハジパイ王 嘉イョバイアンの飼犬、額に緑金色の聖蟲を戴いた大狗サグラバンタが、強靭な筋肉のバネに身を躍らせてミア・カプティ湖の湖畔を駆けていた。通常ならば付き従う侍女も護衛のクワアット兵も無い。一頭のみで誰からの掣肘も受けずに街を走りぬけ、人気の無い葦原へと向かう。
 岸の向こうにカプタニアの王城が山陰から覗くわずかの夕陽に赤く照らされるのを見る。短鼻短毛、体長2メートルにもなる彼は四肢を踏んばってそのまま待機した。

 人は誰も、市中警備の兵や警邏でさえ見ぬ振りをしたが、無尾猫は違う。王家の狗が供も無しに単独で人気の薄い場所を走りぬけるのに、噂のネタを感じ取った。大狗の速度に追随出来るものはカプタニアにおいてはイヌコマかネコしかない。見つからぬよう、臭いを嗅ぎとられないように注意しつつ微妙な距離を保って追跡し、葦の葉陰に白い身体を潜める。

 ネコはふと、三番目の到来者が音も無く近付いているのに気付いた。卵取りの漁師の小舟が近づき、人が岸に上がるのを感じる。だが頭を上げて確認しようとは思わない。ネコの鼻はその人間に死臭が纏わり付くのを嗅いだ。

「なんとまあ、臆病なことだ。」

 女の声がする。成熟し揺るぎない自信を持ち、死さえも歯牙にかけない深い低い声だ。ネコはカプタニア中の無尾猫と体験を共有するが、この声に符合する記憶はわずかしか無い。

『・・・ぐぎぎきしゅ。・・・久しいな。』

 大狗の喉が機械的な軋みを上げて、不自然に人間の声を絞り出した。狗の表情は歪む。遠隔操作される自らの肉体に耐え難い苦痛を覚えている。

『・・・おまえ、は、・・年老いる事をし、しら、知らないのか。』
「額に褐甲角の聖蟲を持っていながら、無様に老いていくおまえの方が不自然だ。なんだその姿は、無敵の肉体を持ちながら城を離れる事もできないのか。」

 ネコはそーっと顔を上げ、様子を確かめようとする。距離は150メートルほど、広い葦原で大狗から逃げるのにぎりぎりの間合いを保っている。ネコの側からは逆光になるが、人の姿はよく見えた。
 身長は約2メートル。筋肉と魅惑との均整が取れた見事な肢体で胸が紡錘のように尖っていた。髪は長くくるぶしまで届き子供と同じに漆黒と、大人の女にはありえない色をしている。

 女は聖蟲を持つ大狗の前に立ちながらも、まるで恐怖の色が無い。むしろ狗の方がたじろいで居る。野生の感性がこの女に潜在的な脅威を感じていた。

「望みのとおりに姿を見せてやったぞ。さあ、なんなりと頼み事をするがいい。」
『・・・じぃ、ぎちち、・・きゅーせいしゅのことだ。』
「殺して欲しいのか?」
『・・・・それはいいい、それはじぶんでやる力、は、ある。見極め、みきわめ、る。おまえの、目で、神を。』

「ああ、不安なのだね。自分のものさしで測れない人物に会うのが怖いのだね。」
『こあ、い?・・・。』

「いいだろう。アレが何者であるか、私が試してやる。だがその答えはおまえには楽しくないだろう。
 ハジパイ王、おまえは千年先の未来を語れるか?」

『ったわごぉおとを、戯言を・・・。』
「一国の政務を取り仕切るおまえにしても、百年先の未来も語れまい。だが私の手の者の話だと、救世主は千年先を見たかのごとくに語るそうだ。」
『・・・・おまえは、どうなのだ。おまえは自分の、みらいを、語れるか。』
「生憎とまだ百年も生きていない身で、神人の真似をする気にはならない。ハジパイ王、見極めるのは容易いが、どう考えてもおまえの負けだ。救世主がこの世に降り立った時に、既におまえ達はどうしようもなく古びたがらくたに成り下がったのだ。」

『・・わああごとを。元より神になど、頼らずとも王国はないたって、いく。滅びは、しな、い。』
「そうだ。神など居なくとも、人は勝手に生きていく。私がその証明だ。だがな、救世主ガモウヤヨイチャンという者は、神の無い星から来たそうだ。」

『・・・・・・・・・・・・・・・ぎ。』

「元から神の無い国から、異星の神によって連れて来られた救世主だ。おまえが望んで居た世界を作り出してくれるだろうよ、彼女は。」

『・・・・・・・・・・・ぎぎ。ぎ、・・見極めよ、場合によては、ころす、も、よいぞ。おまえは、食らい、たい、ちがうか。』

 ネコは確信した。この背の高いギィール神族に似た女は、まちがいなく人喰い教徒達の首領だ。方台全土に張り巡らされた裏の国を統べる真の王、残虐さと貪欲さを兼ね備え狂気を操り世界を混沌に酔わせる導き手。神人に選ばれて不老不死をもらった伝説の貴人。名は無いが人喰い教徒からは「白き母」と呼ばれる者だ。

 女は右手を頬に当て考え、狗の言葉に異を唱える。

「悪くはない。だが、・・・・ハジパイ王よ、この先は息子に任せてみないか。」
『ぎぎ・・・・、むすこ、だれだ。』
「おまえの息子だよ。40年前この地で私に託した赤子は今、救世主の力を奪いとれる地位にある。おまえがトカゲ王国の父になるのも不可能ではない。」

『だれ、だれ、だれだ。だれだ。』
「フフ、可哀想なことに、アレは私を自分の母と思い込んでいるからな。わたしの真似をしたがるよ。」

 ネコはかなり後悔した。このネタは人に語るには重大過ぎる。こんなもの欲しがる人はどこにも居ない。最初からヤバいネタだとは思っていたが、想像を遥かに越えて危険だ。ヒトは、為政者と呼ばれる人種は、時折都合の悪い噂話を葬る為にネコの大虐殺を試みる。このネタはそれを誘発するのに十分過ぎる動機となる。

 黒い髪の女は、ふぃとこちらを見た。落ちる陽に黒く翳になっているが、なぜか紅い唇が薄笑いを浮かべているのだけがはっきりと見えた。
 女は話を続ける。

「ハジパイ王。救世主は良しとして、もう一人始末せねばならぬ人間が居るぞ。」
『だれ、だれだ。』
「焔アウンサ、赤甲梢を意のままに使う女だ。救世主と密約を交わして、思いもよらぬ策謀を巡らせている。」
『ぎ。・・・それは、まことか。』

「面白いじゃないか。ガモウヤヨイチャンはおまえと同じ種類のにんげんだよ。いや、おまえより遥かに上を行く優れた策謀家だ。アレはネコを味方につけ、ネコの噂を自在に利用する。それに比べておまえはどうだ。
 死命をも制する密談の場が、ネコに盗み見されているのも気付きはしない。」

 ばっと、ネコは駆け出した、もう姿を見られるとかはどうでもいい。ただただこの場を離れ大狗の牙から逃れるだけだ。

 無論狗はネコを追う。葦の原を真一文字に縫って無尾猫の姿を探したが、10分ほど探索をした末に女の元に戻ってきた。女は嘲笑う。

「聖蟲で狗の本性を縛るから、ネコごときにも逃げられるんだ。」
『げじぇげきぅ、き・・・け。どうせ誰もしんじぬ、・・・黒髪のしんぞくなど、居るはづも無い。』
「褐甲角王国の行く末も知れるな。」

 女は再び小舟に乗った。ハジパイ王の依頼は既に聞き、承諾もした。彼が望む以上の、否望んでもいない結果も到来するかもしれないが、彼女を呼んだ時から折り込み済みの話だ。方台の暗黒面がガモウヤヨイチャンの側に付かない事を確認するだけでも、この会談に価値はあった。

 葦の茂みから櫂で舟を離しながら、女は大狗に向かって言う。そよぐ風に長い髪がたなびく。

「救世主を殺すのが無理ならば、またつなぎを寄越すがいい。アレを倒すのに役立つ良い刀を手に入れた。逸品だ。」
『・・・・ぃいくが、いい。おまえはおまえ、私は、・・・・・・、』

 陽が落ちて紫色に暮れゆく湖面を舟は行く。長く波紋をひいて、やがて闇に溶けた。遠い先にかすかに揺れる灯は、アユ・サユル湖の中心に浮かぶマナカシプ島。ハジパイ王にとって懐かしくも心の疼く地だ。

 岸辺に残った大狗は、身に纏わりついた瘴気が風に紛れるのを、いつまでも湖面を眺めて待っていた。

 

「ここまでくればだいじょうぶ。あー恐かった。」

 カプタニアの東門街まで帰って来て、ネコはようやっと警戒を解いた。ヒトの街はネコにとって最高に安全な場所だ。なにより入り組んでいて、飛び上がる屋根も隠れる塀も穴も溝も幾らでもある。人は鈍重で隠れんぼにまったくついて来れないし、どれがどのネコか見分けも付かない。大狗だって、これほど複雑な地形では敵じゃない。その気になればネコは、都市で最も有能な殺戮者になれるのだ。
 とはいえ、街ではネコはそんな必要をまったく感じない。ネコが捕らえる小動物よりも、人間の食べ物の方がずっと美味しい。大ネズミは人間が丁寧に大切に飼育して、丸々と太り毛艶も美しい。水を泳いでとても手が届かない鯉の生き血が吸えるのも人間のおかげだ。噂話も毎日どこかで発生し、それを聞く人を探す手間も要らない。都市はネコにとってまさに天国だ。

 今日はどこの家の軒先で寝るか、雨が降る気配は無いから星がよく見える場所を寝床とするか。それとも夜通し歓楽街をそぞろ歩いて、人間達の酔態を観察しようか。

 酒場の裏の樽の隅に、黒い影がちらとよぎるのをネコは見落とさなかった。泥ネズミかな、と思う。まったく不用意な奴だ。人の食べ物は美味しいが、基本的には捕食獣である自分が目の前に飛び出したネズミを見逃すはずが無い。暇つぶしにネズミを狩るのもまた楽しい。血を吸った抜け殻を売春宿に放り込んだら、ニワカカエル巫女達がきゃーきゃーと大騒ぎする。噂話は待つだけでなく、自分でも作ってみるのが仕事熱心で感心なネコというものだ。

 重なった樽の隙間をするりと抜けて、影を追う。ネズミにしては大きいから、ひょっとしたら「足の無いトカゲ」かもしれない。あれは毒があるから少し剣呑だが、やり方を心得ていれば簡単に捕らえられる。人間の中には、何に使うのか知らないけれど、これを高値で買う者も居てネコ達の上得意となっている。

 しかし、ネズミよりは遅いが「足の無いトカゲ」よりは早い。家の床下をするすると抜ける様子は見えるのだが、身体の形がよく分からない。長い毛を引きずっているような、不思議な生き物だ。ネコは少し興奮した。毛むくじゃらの生き物はネコの本能を直接に刺激する。プライドに賭けてもこれはとっ捕まえる。

 家と家の狭間の、少し開けた場所にそれは出た。ここしかない! ネコはぴょんと飛び上がって直上から右前脚で叩いた。? 中身が無い。ただの毛だ。では本体は、身体は何処だ。
 毛をばしばしと叩くが、どこにも何も無い。周囲をぐるぐると駆け回って毛を叩き続けるが、手応えがどこにも感じられない。どこ、どこ、どこ、どこだ。

 気が付くと、自分の回りは全て毛だった。長い毛が渦を巻いて、自分はその中心にある。あ、なにか、マズイ。

 黒い髪に一瞬に命が吹き込まれ、ネコの身体に幾重にも巻きついた。逃げようと思う間も無く、黒髪の籠の虜になっている。
 ずるると地面に髪を引きずって、葦原で見た大きな女が戸口の裏から姿を見せた。街の灯の翳になって顔はよく見えないが、やはり薄笑いを浮かべる紅い唇だけが目に飛び込んで来る。

「は、はなせ。あの話は誰にも言わない。言ったって誰も喜ばない。」
「可哀想だが無駄死にじゃないよ。おまえの骸は籐篭に詰めて、王宮に送り届けてやる。それでカプタニアに住む何百匹ものネコが助かる。優しいカタツムリ巫女が丁重におまえの墓を作ってくれるだろう。」

 髪が身体に食い込んで来る。髪だけでは動くはずが無いものが、生き物のように蠢いてネコの肋を締め上げる。声が出ない。牙にも髪が絡みつき鼻を塞いで息を止める。

 ばき、ばき、ばきと骨が軋み、ガリガリと爪が地を掻く音が路地裏にこだまする。硬直するネコの肢体は突然空気が抜けてだらりと垂れ下がる。髪は自ら動いて、ネコの身体から離れる。地を滑り段々と短くなり、元のくるぶしまでの長さに戻る。2メートルの巨体に豊かな胸を突き出して女は前に進み、足元の毛皮を拾い上げた。だらりと手足を地に垂れた姿は人間の子供の大きさがある。

 女はネコの屍を顔の前に持ち上げた。白い毛の小さな頭に硝子の玉が赤い灯を虚しく反射する。かっと開いた顎から薄桃色の舌が突き出している。

「・・・長く生きていると、ネコの顔も見分けられるようになるんだよ。さあ、行こうか。」

 

 ギィール神族を思わせる長身の不吉の女と、剽軽な操り人形みたいな無尾猫の死体が仲良く暗い通りを行く。嬌声と怒号と客引きの声とが飛び交う中、誰にも振り返られる事無く二人は巷に消えていった。

 

 

【エピローグ】

「ガモウヤヨイチャンさま、もう御休みですか。」
「フィミルティ? いや、まだ。ちょっと仕事が残っていてね。」

「書き物ですか、なにを記していらっしゃるのです。」
「数学。幾何の教科書を思い出して、書いている。」
「キカ? なんですか、それは。」

「この世界には、幾何学が無い。ギィール神族は知っているけれど、一般人には教えてない。」
「ああ。天界の秘蹟に属する知識ですね。それは神族以外には開示されていませんよ。当たり前です。」

「当り前じゃあ、ダメなんだ。これが無いととんでもない欠陥王宮に住まわされる事になるんだよ。ギィール神族が設計施行すれば問題無いけどね。」

「はあ。でも褐甲角王国にも学匠がちゃんといらっしゃいますよ。」
「いやー、こっちに来てから建築物の構造ががくっと単純になってる。幾何学をちゃんと知ってれば絶対やらない設計がいっぱいあるんだ。
 まあね、高校数学全般と物理と化学の教科書は作るつもりだよ。なにせ私も来年は大学受験だし、ちっとは勉強もしておかないと錆付いてしまうのさ。」

「よく解りませんが、あまり御無理はなさらないで下さい。灯木もタダじゃないのですから。」
「あ。うん、ほどほどにね。」

「はい。では御休みなさいませ。」

 

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