『げばると処女』

エピソード1 トカゲ神救世主蒲生弥生ちゃん、異世界に降臨する

 

 

【プロローグ】

 王都カプタニアの大商人ヒッポドス家の令嬢 ヒッポドス弓レアルは花咲き乱れる中庭の丸机に頭を横にして眠っていた。
 家庭教師のハギット女史がそっと近づいて、頭の上から囁く。声に反応して桜色の長い髪が揺らめいた。

「お嬢様、おじょうさま。ネコが参っておりますよ。」
「……ここに呼んで。」

 呼ぶも何も、ネコ達はヒッポドスの庭に我が物顔に入り込む。普通の屋敷では不吉な客として下男が追っ払うがヒッポドス家は、弓レアルは例外的にネコに厚遇する。
 体長1メートル、全身真っ白で尻尾の無い無尾猫は、もちろん功利的に彼女に接近する。

「ヒッポドス弓レアル、起きろー。」
「いいはなし持ってきた。」

 ネコは人語を喋る。人界をくまなく探索しヒトの間の出来事噂話を収集して、人間に売って回るのが彼らの生業。
 弓レアルが支払うのはネコ専用ビスケット。これを大ネズミの血に浸して食べると得も言われぬ美味なのだ、そうだ。

 ふわり、と桜色の髪が起き上がる。結んでも結ってもいない髪は早春の風に吹かれて無秩序にはためく。
 ネコを見て、真白い顔をほころばせる。

「今日は楽しいお話?」
「そうとは言い難い。」
「でも面白い。」
「みんな待ってた話だ。」

「なにかしら?」

「始まる。」
「はじまるぞ、弓レアル。」

「なにかしら。どこのお話?」

「始まるぞ弓レアル。トカゲの神様だ。」

 驚いて弓レアルは立ち上がった。ハギット女史も息を呑む。
 千年に一度、星の天河に住まう神の御使いがこの世界、十二神方台系に舞い降りて人々を苦しみから救う。
 その四番目の救世主が降臨されたのだ。

 

 ヒッポドス弓レアル17歳。これから始まる激動の運命に翻弄される、本編主人公だ。

 

第一章 救世主蒲生弥生、異世界に降臨す

 

 この世は方千里。東西南を大海に囲まれ、北は聖山と人の住めぬ寒冷の大針葉樹林帯に区切られるこの土地は、古来より「十二神方台系」と呼ばれた。
 人間を住まわせる為に天の星河の両岸に座する十二の神がこしらえた、台状の庭園と看做される。

 そこには山があり森があり水が流れ風が吹き、穏やかで暖かな自然と実りに恵まれた麗しい大地だ。ほぼ正方形で一辺は人間の足で旅すれば28日、ちょうど一ヶ月の旅程となる。
 中空に浮かぶ二つの月の内、行儀の良い「白の月」が丁度この周期で満ち欠けを繰り返す。よって人はこの土地が神に創られたことを疑わない。
 月ですら旅程を定められているのだから、人間が世界を行き来する日数もやはり定められていると思う。

 神話によればこの大地は、何も無い海の真ん中に天空より投げ落とされた巨大な蛸が何匹も何匹も積み重なって土台になったという。現に地面を深く割る谷間や断崖を覗いてみると、巨大な丸い生物の化石が折り重なって積み上がっているのを発見する。故に大地の神は蛸とされ、第一のそして始まりの神とされる。
 最初に救世主を名乗ったのも、額に神の化身たる小さな蛸を戴いた女王であった。

 以来千年ごとに十二神の化身を額に戴く救世主を迎え、その度世界は変革し文明を一足飛びに進化させる。救世主はそれぞれの王国を打ち立て、民衆を千年の繁栄に導く。
 そして四番目の神、トカゲ神の救世主の巡り来る時節を迎え、人々は今や遅しと待ち受けている。

 

 

「人間の社会は天河十二神が千年に一度遣わされる救世主の導きで形作られてきた。記録の上では今回の青晶蜥(チューラウ)神救世主が4人目だが、それ以前にも黒冥蝠・白穰鼡の二神の救世主が居ただろうと推測される。」

「ネコの記憶にも無い昔のはなしだ。その頃はネコはニンゲンに食べられていたというよ。」

 真っ白な無尾猫が灰色の粗布を纏った男に答える。

 体長1メートルほどの大きなネコはこの世界では「記録」の代名詞だ。卓越した記憶力とネコ同士のネットワークで交換蓄積される噂話を随時提供することで、人間から食を得ている。人語も解する知的生命体でありながら人間社会に寄生して生きている、自堕落な生物だ。

「ネコを狩る方法を人間に教えたのも、救世主だ。ネコと共存することを教えたのも多分そうだろう。この世界に十二神に教えられずに存在する知恵は無い。」
「ネコが人語を覚えるのは、ネコの神の教えではないよ。」
「ネコは十二神には無いからな。」

 ネコは少し気分を害して頭を両腕の間に伸ばして寝そべった。80歳を越える長老のネコで、30匹の集団の中核を為す重要な存在だ。
 彼らが人の住まない、つまり食を得られず血を吸う為のネズミも無い荒野にあるのは、男がここに居るからに他ならない。

「そろそろいいだろう、教えてくれないか。私が最初に青晶蜥神救世主に会うと定められたことを、お前に教えたのは誰なのだ。」

 ネコは目を細めて答えるのを渋った。この2年間、長老ネコは頑に秘密を守っている。しかし、

「救世主様は参られた。今、青晶蜥(チューラウ)神と対面し啓示を頂いている。谷から戻ればわたしに方台の諸事情を聞き、人界に出座される。お前にわたしのことを話した人も、救世主様に会いたいと願うだろう。」

 ネコは薄情な生物ではあるが恩知らずではない。感情を表に見せることは無いがなにも思わないわけでもない。しばし目を伏せじっとして、長老ネコは観念して話し出す。

「頭に硝子のトンボを付けた隠者の噂は、意外と目立った。各地の神官はその話を見過ごしにしなかった。」
「そうか。やはり分かる者には分かるか。」

 十二神に属さない蜻蛉を敢えて額に戴くのは、この世の秩序を離れる宣言だ。方台の大地を分かち治める二つの王国に反旗を翻すにも等しい行為で、異端の教えを信じる者とされても仕方がない。
 昨今、千年紀の終わりに合わせて青晶蜥(チューラウ)神救世主を自称する痴れ者が頻繁に現われ、その都度当局に捕縛され火刑に処せられている。
 男が神官達の注目を集めるのも道理だ。

「世を捨てたつもりであったが、世の中の方はわたしを捨てて置けなかった、ということか。」
「だけど、一人だけ違うことを言う人がいた。トンボの隠者は神さまから特別な使命を授かった者だと。この時期その使命といえば、救世主に会う他無いとも言った。だからネコはお前を探してここを見つけた。」

 ネコは情報を売り物にして食を得る生物だ。価値の高い情報を常に探している。
 千年に一度現われる救世主の噂は人間の最も欲するものであるから、現在重点的に取材中だ。最初に救世主に会う男に密着して降臨の情景を目にしようとするのは、ネコにとっては極めて妥当な生理現象である。
 それが為に、何も無い荒野に集団を一つ丸ごと送り込み、近くに住むネコ達が自らの食糧を割いて彼らに届けている。ネコはネコなりに涙ぐましいほどの生きる努力をしているのだ。

 

「その人は、只者では無いね。」
「ここだけの話。おまえにしか言わない。約束するか」
「ああ。」
「その人は、常に鉄仮面を被っているお侍だ。立派な剣をぶら下げている。背が高い人でお金持ちだけど、人に追われているから秘密だ。」

 常に仮面をかぶり面体を人前に曝さないのは、貴人で罪を犯した者が市中に身を隠す時によくするが、鉄の仮面とはよほどの事情があるのだろう。
 金雷蜒(ギィール)神族ならば、罪に問われ追捕の手が掛かったとしても自らを恥じること無く姿を隠さない。場合によっては傭兵を雇って逆撃に転じるのでそれほどの用心はしない。
 武人というところから見てもう一つの王国の者だと思われるが、褐甲角(クワァット)王国の規律は厳しく、それだけの身分であれば罪有る身を己で誅するのも平然と為す。
 にも関らず世に在り続けるとすれば、

「…まさかソグヴィタル王ではあるまいか。」
「秘密ひみつ。」

 ネコを傍に置くことで、男も多大な利益を享受している。居ながらにして世界中の全てを知るのだ。これだけの情報の集中は、多分王都にも神殿都市においても無いだろう。
 その情報の一つに、公にはならない褐甲角王宮での宮廷クーデター事件がある。首謀者であるソグヴィタル王 範ヒィキタイタンは現在行方不明で正式な追捕師が出ているという。
 単に顔を覆うのみならず頭全体を隠しているのも、彼の額に十二神の一、褐甲角(クワァット)の化身たる聖蟲が宿っているからに違いない。

「彼は、王都カプトニアを出奔する際に侍女頭を身代わりの質として戻らず、狗掛かりの刑により惨殺せしめた。そこまでして生き延びたからには、再起の望みを捨てていないだろう。
 だが同時に己が罪を問う大いなる裁きを求めているはず。青晶蜥神救世主こそが彼を裁くにふさわしい御方だ。是非にとも会いに行くだろう。

 ネコは、彼に救世主様を引き合わせる約束をしたな。」
「ひみつひみつ。」

 伝令の若いネコが二人の元に戻ってきた。乳白色の霧が辺り一面に立ちこめて視界がほとんど無い中、ネコの髭だけが方向を知る。
 この霧に新しい救世主も迷っていたのを、ネコ達が発見し保護したのだ。

 しかし男は、救世主が非常に正確に西に向けて進んでいたことに驚愕した。濃霧に視界を閉ざされ音も無く、目印となるものがまったく無い平坦な地面に自ら線を引いてまっすぐに、ひたすら西へと進み続けていた。その忍耐強さと正確さ、思慮の深さ意志の強さに、十二神がこの人を救世主に選んだ理由を知った。
 だが、

「まさか、この世界の人ではなかったとはな。これはソグヴィタル王も予想外だったろう。」
「あんなに小さな女の子とは思わなかった。言葉が通じないと話を聞くことも出来ない。」

 彼らの前に現われたのは、黒髪をトカゲの尻尾の様に長く先細りに伸ばした、小柄な少女であった。救世主とにわかには信じられぬ年少さであったが、すぐにその身に秘められたエネルギーの強大さに気付かされ、印象を改めさせられた。

「女の子といっても背が低いだけで、歳から言えば子供の一人くらい居てもおかしくはないよ。」

 この世界では女子はおおむね15歳で結婚し、ほどなく子供を産む。17歳の彼女は若くはあるも若過ぎることはないのだが、ネコは幼く見える容貌に強く興味を惹き付けられた。人間に話す時にこの点を十分に表現することが重要だと、アタリを付けている。

 ネコは再び尋ねた。

「ほんとうにこの世の人では無いのだな。」

 男も救世主とは会話出来なかった。ただ業を煮やした彼女が地面に絵を描いて説明することで、相互に意志を通じるのに成功した。多少の誤解はあるかもしれないが、絵による会話から得た情報によると、

「救世主様は、星の世界からいらっしゃったそうだ。天の神座に住まわれるお一人であろう。つまり、彼女自身が神でもあるよ。」
「神は人間じゃない。人間じゃない者が救世主になることはない。」
「それは理屈だ。現に救世主様が人間と化してこの地に降り立っている。これは現実だよ。」
「絵の言葉での話、おまえ間違っている。」

 そうかもしれないが、今は分からない。平坦な地面に大きく裂けた谷間で、現在彼女は青晶蜥神そのものと遭っているはずだ。啓示の中で方台の言葉も教わるだろう。戻ってくれば詳細を直に聞ける、とネコをなだめる。ネコは言った。

「おまえは、トカゲ神に遭わなくてよいのか。」
「啓示を受けた時に確かにわたしは遭った気がするが、声だけで姿ははっきりとはしなかった。それに二度は無理だ。凡人が神の前に立つことは恐れ多いのだよ。目が潰れるとは言わないが、魂がひしがれる思いがする。」
「ネコには見えない。人間にだけ姿を見せる。いま伝令が言ったのは、救世主は何も無い空間に向かって話をしている、ということだ。」

 ネコ同士は人語では会話しない。超音波で会話するので人間には聞こえないし、普通に喋るよりもはるかに多くの言葉を短時間で伝える。
 この優れたコミュニケーション能力のおかげで、大量の噂話を迅速に交換せしめている。今も、長老ネコは男と会話しながら、伝令ネコに詳細を聞いていた。
 ネコは互いの体験を、あたかも自分が居合わせたのと同等の迫真さを持って共有する。長老ネコがこの場に留まり男と話し続けるのも、自ら体験しなくても十分リアルに感じられる故だ。突発的な事態が起きた時の為に情報の中枢である自分を温存している、とも言える。

 2匹目の伝令ネコが帰ってきた。動揺している。感情を表に出さないネコにしては、泡を食ったというのが相応しいほどにふらついて走って来る。人間である男にもはっきりと分かる狼狽えようだった。
 待機していたネコたちが、伝令ネコの言葉を聞いて一斉にその狼狽ぶりを共有する。長老ネコも青ざめたと言える程の不安な表情で男に次第を伝えた。

「救世主の言葉で、トカゲ神が姿を表した。トカゲ神は大きさが家の二階よりもまだ大きなトカゲの姿で水色の光を放つ鱗と長い尻尾を持っている。だが意図して姿を見せたのではなく、びっくりして思わず姿を曝してしまった、というのが本当らしい。大きな体がふらついている。かなり不審げな様子だ。」

「…そんなことが…。」
「ネコも分かった。今度の救世主は、十二神と同等の天に住む神さまに違いない。そうでなければ、神を驚かすなど出来るはずがない。」

 男も思った。これから世界は大きく揺さぶられ青晶蜥神救世主の一挙一動に転変する、驚天動地の時代に突入するだろう。神をすら驚かす御方なのだから、人の都合や既存の国家の秩序や法を斟酌すまい。だがそこに、慈悲はあるのだろうか。

 青晶蜥神から託された男の使命は、この地に降臨する新しい救世主に世界の情勢を語り進むべき途へと誘い、救世の事業を為す最初の手掛かりとなることだ。

 しかし神をすら揺るがす人に、何を語るべきだろう。
 ネコ達から「賢人」と呼ばれる自分の知恵がいかにも薄っぺらく頼りないあやふやなものに急に思えてきて、自分の能力を自問し始める。
 そしてこの、自らの立つ世界がいきなり根扱ぎにされる感触こそがまさに世が変わる証しであり、世人が同じ不安を同様に味わうのだと、額に伝う冷や汗の不快感と共に理解した。

「ワ、ゥワモオィヤヒョィチャァン。」
「いや、正確にはグワァモオィヤヨヒチャンだよ。」

 長老ネコが救世主の名を唱えるのを男は修正したが、それさえも本当の名であるのか確かではない。

 

 救世主は蒲生弥生ちゃん。

 名門受験校である県立門代高校三年生で成績はもちろんトップ。生徒会副会長をこの春まで務めていたかんぺき優等生の美少女である。

 しかしそのような肩書きは門代高校の生徒はすっかり忘れている。
 「蒲生弥生」というネームが大き過ぎ、その他のレッテルはたとえ総理大臣の表彰であろうともプロフィールの一隅を汚しているだけに思えてしまう。印象が強烈過ぎて、真正面から正体を見極める事が出来ない怪物なのだ。

 身長は公称150cmと小柄ではあるが容姿は端麗でスポーツ万能。動きの鮮やかさ切れの良さは一流の武道家を思わせ、平時から人目を惹いて放さない。
 弁舌も爽やかで論理も明解にして的確、聞く人を自ずから従わせる迫力はしばしば学校の教職員すら屈伏させる。
 青味を感じさせるほどに透明なつやのある黒髪は先細りして腰まで伸びて、彼女のトレードマークとなっていた。

 だが霊感や超能力のたぐいは持ち合わせていない。夢の中で不思議な異世界を見ることもなく、日常で幻獣と出くわすこともない。天変地異で空中に持ち上げられたのでもなければ、UFOがスカウトに来たのでもない。
 事前になんの予告も無しに、いきなり、

「ここどこ?」

 気が付くと、ミルクのように濃い霧に閉じ込められていたわけだ。

 その後なんやかやがあって無尾猫に発見され、というかネコを捕獲してそのままトカゲ神の居る谷に案内させ、救世主としての使命を受ける。
 証しとしてトカゲ神自らが変身した小さなカベチョロを頭上にのっけて、谷から帰還した。

 

「言葉、わかりますか?」
 霧の向こうに見える灰色の影に、ネコと共に居た男は声を掛けた。

 トカゲ神に遇う前は彼の言葉はまったく通じず地面に絵を描いて会話した。彼は、自分は”ガイド”であり自分を待っていた、…そう解釈できる絵を描いた。
 今は頭の上のカベチョロが言語翻訳をしているらしく、耳で聞いても分からない声が、直接意味となって意識に飛び込んで来る。

「分かるー!。私の名前は蒲生弥生。たぶんトカゲ神の救世主なんだという話です。」
「はい。我々はあなたがお出でになるを千年待っておりました。」
「千年?」
「この世界は千年ごとに救世主を迎え、その度人間世界は繁栄を迎えるのです。」

「ネコは?」
「は? いえ、ネコは何時の時代でも特に変りはなく、噂話に興じています。」
「つまり、その程度の救世主ということだね。」

 弥生ちゃんが近づいて姿がはっきりすると、男は跪き頭を地面に擦りつけた。

「頭を上げてください!」

「は、はい。しかし、聖蟲を直接拝見するのは恐れ多くて、このまま失礼いたします。」
「聖蟲って、このカベチョロ?」
「はい。それは青晶蜥(チューラウ)の神の化身にして、世に唯一つしかない至宝です。」

「ま、なんか特殊能力があるみたいだしね。これを頭に付けてると、言葉が分かるんだから。」
「十二神の救世主は皆額に聖蟲を戴き、その霊力で世を変革なさりました。故に聖蟲は救世主と同じものです。」

「そうか。つまり私は乗り物に過ぎなくて、これが救世主の本体だってわけだ。なるほど、簡単なはなしだね。」
「いえ、いえ滅相もない。もちろん救世主様があってこそ聖蟲はその力を十分に発揮出来るのであり、十二神に選ばれた御方はいずれも衆に抜きん出た優れた資質を備えておいででした。
 貴方様もどうぞ聖蟲を大切にしてお導きを頂き、我ら愚鈍の民に繁栄と平和をお与えください。」

 弥生ちゃんは頭のカベチョロをてこてことこづき回してみた。ちょっと嫌がるものの、基本的には自分の頭の上を気に入っているようで、下りて来ようとしない。
 たしかに自分はこれに選ばれているようだ。

 

「世界にただ一匹ということよね。これ。」
「はい。青晶蜥神の聖蟲はただいまは救世主様の額においでになるその方のみです。」
「ということは、増えることもある、のね?」
「金雷蜒(ギィール)神と褐甲角(クワァット)神の聖蟲は、数多の神族の額にその座を設けてございます。」

「・・・・・あのお、ちょっといい? 今こいつがね、」
 と、またカベチョロをこづき回す。その無造作に跪く男も居並ぶネコもハラハラするが、弥生ちゃんは平気な顔をして心配にまるで気付かない。

「いまこいつはギィールというのを、”ゲジゲジ”と私の国の言葉に変換したんだ。ゲジゲジという動物は、脚がたくさん生えていて地面を這う虫でね、」
「はい。確かにギィールはそのような虫でございますが、それは形を借りているだけでありまして、一見するだけでも違いが明確なそれは神々しい生物です。」

「金色に光っていて目が赤く輝き、怪光線を発する?」
「はい、そのとおりでございます。光線ともうしますか、雷ですね。百歩離れた場所からでも罪人に罰を与えることがございます。」
「やっぱり攻撃力があったな。」

 まるでギィールの聖蟲を知っている口ぶりなので、男は尋ねてみた。

「そうなんだ。ここに来た直後、つまりこの世界に飛ばされて出現した地点ね、そこに死体があったのよ。」
「死体…。」
「身長が私が手を上げたよりも大きな女性で、白髪で年寄りにも見えるけど年齢不明。立派なゲジゲジ模様の刺繍の入った薄い赤い衣を着て、大きな宝石を何個もぶら下げてる。その人が地面にあおむけに倒れていて、額にそれが居たんだ。」

 男は驚いて弥生ちゃんに告げた。

「ああっ、それは。それはギィール神族の、しかも長老格に当たる御方でありましょう。額に聖蟲が居たのであれば間違いありません。この地に住いする者は決して聖蟲を見間違えることはございません。」

「確かにあれはただの虫じゃなかったよ。一発で分かった。
 そうか、なるほど。この世界は頭にへんなのが付いている人は特別な地位にあるんだ。その人はゲジゲジの救世主なの?」

「ギィール神族は金雷蜒王国を治める選ばれた一族でして東西の両国におよそ3千人はおいでになるでしょう。」
「3千! 救世主がそれほどたくさん居るってこと。」

「いえ、金雷蜒神の救世主と呼ばれるのは2千年前に降臨された初代の血を受継ぐ神聖王のみで、それ以外のギィール神族は神聖王より聖蟲を頂いた方々です。代々家ごとに受継がれておりますが、聖戴に到るまでに長い年月の学問と厳しい試練を経ねばなりませぬ。」
「つまり貴族ということだね。」
「はい。」

「こいつはー。」
 とまたカベチョロをこづく。

「ゲジゲジの聖蟲より強いだろうか。」
「それはわたしには分かりかねますが、初代神聖王、また褐甲角(クワァット)神の聖蟲を戴いた初代武徳王の額にあった聖蟲は、後の聖蟲と比べて霊力に格段に優れていたと伝えられます。」

「クワァットというのは、…その…、カブトムシ?」
「はい。黒褐色で固い甲羅と羽根を持つ虫でございます。」

 弥生ちゃんの脳裏では、カベチョロが”クワァット”を”フンコロガシ”の意味に変換した。
 しかし、目の前の男がうやうやしく語る聖蟲をフンコロガシなどと呼んではまずいだろう、と遠慮して言い換えたのだ。男には弥生ちゃんが何に焦り赤面するのか分からない。

 

 その時、弥生ちゃんの頭の中で声がした。カベチョロが直接に話し掛けて来たのだ。遠く鐘が鳴るに似た深く心に染みる音で、神々しく語りかける。
『今、変換した言葉の意味は、”クワァット”の本来の意味とは明確に異なる。何故嘘を吐くのだ。』

 弥生ちゃんも脳内で答える。

『私の脳内の知識を読んでいるんだから、”スカラベ”の神話的な意味は分かるでしょ。』
『”スカラベ”なる生物は、そなたの中では特別な意味を持たない。そなたの平素使う言葉では”フンコロガシ”こそが正確な表現である。この地の人に言葉を伝えるに、なんぞ偽りを言えようか。』
『いいから私に従いなさい。乙女にそんなことが口に出来るか。』

 

「あの、救世主様。いかがなさいましたか。」
 いきなり頭の上でカベチョロと喧嘩し始めた弥生ちゃんに、男とネコはおろおろとするばかり。ようやくに出した言葉で弥生ちゃんは平静に戻る。

「ごめんなさい。こいつが頭の中でへんな事言うもので。」
「おお!」

 男が驚くのに却って弥生ちゃんが驚いた。

「さすがにあなたは本物の救世主だ。金雷蜒神聖王も褐甲角武徳王も額の聖蟲と会話したと伝えられるが、まさにあなたは青晶蜥の神と対話された。」
「ネコはしっかり記憶した。救世主の女の子はトカゲの聖蟲と喧嘩した。」
「ふ、ふーん。なるほど。そういうものか。つまり、普通の聖蟲は喋らないということね。」
「わたしが聖山で学んだところ、またギィール神族に直接伺ったところでは、意味は通じるものの人語で聖蟲が答えることは無いと聞きます。」

「それはそれとして、ギィール神族ね。私が見た死体は、誰?」
 男もネコも首をひねった。長老ネコが周囲のネコ達に聞いてみるが誰もなにも知らない。長老ネコは弥生ちゃんに言った。

「この土地は霧が深くて人間が入ることはあり得ない。近づくことさえできない。ネコとトンボの隠者は特別だ。ギィール神族も特別だ。でも誰も見ていない。」

「救世主様。ギィール神族は尊いもので決して一人で出歩いたりはいたしません。必ず供する者を数名は引き連れております。ネコの目から逃れて移動するのは難しいと存じます。」
「私もそう思う。多分私がこの世界に飛ばされた際に、巻き添え喰って同じ所に吸い出されたんじゃないかな。ネコをやって見て来てくれない?」
「かしこまりました。」

 長老ネコが若いネコに指示を与えて、霧の中に探索を出した。
 懸念の一つがなんとか片づきそうなので、まだまだ尋ねたい事柄が幾らでもあるが、弥生ちゃんは男の望みを叶えてやる事にした。

 

「さて、私は一体なにをするべきなのかな?」

 

第二章 弥生ちゃん、タコ巫女の手引きで人界に下る。

 

「神の名はあ〜、テューク・ギィール・クワァット・チューラウ、ゼビ・ミストゥアゥル・ワグルクー・セパム、シャムシャウラ・アア・バンボ・ピクリン、これぞ創世十二神。天の夜空に流れる星の、大河に架ける十二の神座。」

「タコ、ゲジゲジ、カブトムシ、トカゲ。蛾にミミズにカタツムリに蜘蛛。蟹にカエルにコウモリとネズミ。なんだか気持ち悪いものばかり神様に揃っているね。」
「言われてみれば確かに小さくて変な形の生物ばかりではありますが、皆この世を治めるに相応しい役割を仰せつかっている大切な生物です。」
「イワシの頭も信心と言うからね。」
「ヒゥワシ?」

 乳白色の霧が立ちこめる荒地を無尾猫の助けを借りて脱出した蒲生弥生ちゃんは、街道に出た所で一人の女性に出会った。
 自らをタコ神の巫女と称し、またトンボの隠者の妻という二十代後半の明るい美人だ。名は「ティンブット」。”舞散る穀物の粉”の意味でおめでたいものだと、カベチョロ翻訳が弥生ちゃんに教える。

「紅曙蛸(テューク)神の巫女は村祭で踊るのが商売ですから、平素より明るく華やかでなければなりません。考えては、思い悩んでは光が失せます。」
「そういうものなのか。たいへんだねー。」

 タコ巫女ティンブットどう見ても能天気な性格に生まれついたとしか思えないのだが、他のタコ巫女を見たことが無いから比較出来ない。こんな女がのほほんと生きているこの世界は、ひょっとして案外悪い所ではないのかも、とも思えてくる。
 彼女の衣装は曙色の薄物で端を蛸唐草の刺繍で飾りまことにおめでたい。首のところには御丁寧に小さなタコの飾り物すら付いている。地球で言う所のタコ以外の何物でもないのだが、そもそもこの世界には海がちゃんとあるのだろうか。

 

 霧を抜け荒地を離れると、陽はさんさんと降り注ぎ木々に緑は茂り、どうにものどかな田舎道の風情が楽しめた。
 ここは褐甲角王国の南部国境線付近、方台全体を東西に分かつスプリタ街道の南端に当たる。

 ティンブットの話によると、トカゲ神救世主ガモウヤヨイチャンはまず二つの王国の法の手が及ばない自由な街、タコリティに向かわねばならない。
 タコリティは古の女王、紅曙蛸神救世主ッタ・コップの為に作られた街であり、海上貿易の拠点として海賊達が自主独立して治めている。金雷蜒・褐甲角両王国もここを緩衝地帯、非公式な交易の場として使う為に、双方の警察権を適用していない。

 つまりは無法の街なのだが、元々タコ神女王の為に作られたのだからタコ巫女にとってはこの上無く居心地が良い。
 ティンブットが弥生ちゃんを案内するのは、当然と言えよう。

「あなたの旦那さんね。なんでついて来ないの? 私が来るのを2年も待っていたんでしょ。」
「彼には別の役目があります。北の聖山の神殿都市には青晶蜥(チューラウ)神の最高神官がいらっしゃいますから、ご報告に上がらねばなりません。」
「でも隠者なんでしょ。」
「もう隠れ住む必要がありませんから。」
「そりゃそうだ。」

 救世主に初めて遇うことを義務づけられた男ともなれば、自らの使命を伏し世間から身を隠し妨害者を避けて暮すのは当然の責務である。

「私がこの世界に来ることを快く思わない人も多いわけね。」
「そんなことはありません。と言いたいところですが、ギィール神族やクワァットの黒甲枝は歓迎なさらないでしょう。なにしろ救世主様はトカゲ王国を打ち立てますから、既存の王国を治める方々には邪魔となりますねえ。」
「だよねえ。」

 褐甲角(クワァット)の黒甲枝、という初出の言葉の意味を、弥生ちゃんは難なく理解する。
 額に聖なるカブトムシを戴いた褐甲角王国の神族の意味であるが、ギィール神族を否定する立場なのであえて「神族」という呼称を彼らは使わない。
 ゲジゲジの聖蟲がギィール神族に智慧と技術を与えるのに対し、カブトムシの聖蟲は戴く者に無敵の肉体と怪力を授けるらしい。

「で、どっちが悪い国?」
「…夫はなにも説明しませんでしたか?」

 トンボの隠者は弥生ちゃんにこの世界の理と成り立ち、政治情勢、救世主の為すべき使命を教えたはず。ティンブットがいぶかしむのも道理だが、

「あなたのご主人はどうも私に期待するところが大き過ぎて、なんとも理解しづらい大風呂敷をひろげたから話がよく見えないのよ。なに、世界を変革し既存の秩序を再構築し、悪を退け大いなる裁きを成して光が支配する不滅の王国を築くのだ。て、どうすればいいのよ。」

「それはー、……アハハ、わたしにも分かりません。分かりました、つまりガモウヤヨイチャン様は救世主の使命を自ら掴み取ろうというご意志ですね。」
「そんな感じ。自分で調べてみなければ、なにすりゃいいのか見当もつかない。」
「そうですねえ、」

と彼女が語る話も夫のそれと大差は無い。

 

 そもそも2千年前にできた金雷蜒王国は、聖蟲の力とギィール神族の行動力で混沌とした世界に秩序を打ち立て、高度な文明を用いる統一国家を実現した。
 だが長年の支配の内に爛熟頽廃し、神族同士が内戦を繰り広げ民衆を戦場に駆り立て、虐殺を日常とする状況に陥る。

 そんな折、民衆を救わんと立ち上がったのが褐甲角神救世主・武徳王で、巨大な蟲を兵器に使うギィール神族を無敵の肉体で撃破したものの駆逐には到らず、ゲジゲジ・カブトムシの両王国が並び立つ状況となった。
 以後千年、両王国は思い出したように断続的に戦いを続ける。金雷蜒王国を東西に分断するも褐甲角王国は完全勝利の決定打を欠き、ずるずると時を重ねる内に経済的に癒着して、対立しつつも相互に依存するまでになってしまった。

 分裂状況に十二神方台系の百万の住民は疲弊し、世界の枠組みを一挙に変えるであろう次の千年の覇者、青晶蜥(チューラウ)神の救世主の到来を今や遅しと待ち受ける。
 待って待って待ちくたびれた中で、救世主を僭称する姦物が各所で人を迷わすも、その都度両王国の警察機構に捕縛され火焙りの刑に処せられた。
 救世主に代り世を導くと称して破壊活動を行う秘密結社や、人を食べて強大な霊力を得るのを教義とする宗教に傾倒する者すら居て、社会不安を増大させている。

 絵に描いたような世紀末の様相がそこにあった。

 

「ひゃくまんにん、ね。」

「はい。百万の大民が救世主様の到来を待ち受けているのです。」
「私の居た国は、1億2千万人が人口だ。」
「へ?」
「世界全体では60億。もうすぐ百億になろうという。私ってば、どうにもちんけな救世主さまだね。」

「ひゃくおく……。」
「百億人の国から来た救世主。ネコには数の大きさがよくわからない。」

 荒地から付いて来た無尾猫の1匹が素朴な感想を述べる。密着レポーターとも言うべきネコの集団が随時5匹程度付き従って、弥生ちゃんの動静を取材していた。
 彼らは次々に入れ代わり野を走って、見聞きした情報を世界全体にネコ同士の口コミで配信している。
 百億の人間の居る世界から来た、という話はどこの街でも驚きを持って迎えられるだろう。

「この世界は正方形で1辺が千里。歩いて渡れば1月、28日で端まで到達するのよね。」
「は、はい。」
「1日40キロ歩くと仮定して、1辺は1120キロ。起伏や河があって歩行のスピードが制限されると考えて、1000km四方の大地か。1里が1キロ程度ということになる。
 100万平方キロの土地に100万人しか住めないというのは、それだけ生産力が低いということね。農地の開発が十分に進んでいないんだわ。あるいは戦乱によって耕地可能な面積が狭められている。」

「は、はい。さようでございます。ギィール神族は戦いに破れた際にはその土地に毒を撒き、人が住めない耕作も出来ない、長く居ると血を吐いて死んでしまうようにして、クワァットの軍勢が通れぬようにしてしまいます。」
「旦那さんはそういうことは言わなかったよ。」

「あの、もうし、百億の人が住める土地というのは、どのような大きな世界なのでしょう。」
「丸い。」

「は?」

「丸くて天空に浮いてるのだよ。球だね。差し渡し1万3千里の巨大なタマの上に皆で住んでいる。」
「端に住んでいる人は下に落ちませんか。」
「ああ、万有引力の説明からしなきゃいけないんだ。」

 弥生ちゃんは地面に座り込んで絵を描いて説明をする。ティンブットとネコ達はそれをじっと見やり、時折疑問点を質し、その度返ってくる答えに驚愕する。

「天空に、天空に太陽が居まし、そのまわりを多くの球が永遠に回り続ける・・・・・。」
「ネコこわい。ネコ、玉に跳ね飛ばされてしまう。」
「いや、この世界がそうなっているかは知らないけどね。やっぱここは天動説の世界だったかあ。」

 

 

「へえ、チューラウの救世主さまは、天空に浮かぶ球の上にお暮らしになっているの。」

 褐甲角王国、正確な呼称は「褐甲角の神軍により導かれる正義と公正の王国」という。
 その王都カプタニアに住いする富豪の娘、ヒッポドス弓レアルは、屋敷の庭園にいつものように訪れたネコに、青晶蜥神救世主降臨の第一報を聞いた。

 弥生ちゃんがこの世界に来た4日目の事である。

 無尾猫は優れた運動能力を持ち狭い塀の隙間でもするりと潜り抜けて行くので、しばしば軍に封鎖される王都でも自由に手紙を届けられる。
 また世界中の出来事を独自のネコお喋り網で中継して伝えてくれるので、官民共に重宝している。
 配達・情報料はネコ用ビスケット1枚が相場だ。方台には砂糖に相当する甘味料が無くその他の材料も高価なので、一般庶民が気軽にネコを使う事は出来ない。

 その点、弓レアルはお金持ち。ネコ受けも非常によく、カプタニア中の無尾猫が入れ代わり彼女の庭にひっきりなしに遊びに来る。カモられている、ともいう。

 弓レアルは17歳。それなりの美形だが特に目立つところの無いごく普通のお嬢様で、来年の春に嫁入りする準備と教育で日々忙しく送っている。
 許嫁は黒甲枝の家の長子で武人、いずれはカブトムシの聖蟲を継承して無敵の神兵となる事を定められた若者だ。軍に天幕の布や軍服の生地を納入する御用商人ヒッポドスとしては、首尾よく婚儀をまとめられまずは満足すべき成果と言えよう。

「でもおもしろい。わたしたちもそんな球の上に住めたら楽しいのにね。多分上と下がくるくる入れ代わって、どちらが天井で地面か分からなくなりますわ。」

 この世界には学校教育なるものは未だ存在せず、ましてや科学教育は王宮の一角にある博士寮でのみ行われているに過ぎない。彼女だけが物理や天文の知識に欠けているわけでは無い。

「ネコや、もう一度教えて。青晶蜥神の救世主様は、聖蟲にその事を教えられたの。それとも最初から知っていたの。」

 弓レアルの家庭教師であるハギット女史が、この件に強い関心を示した。彼女は弓レアルと弟の学問の教授で、文学と書字計算、歴史を教えている。
 ただし女性的魅力には乏しく独身者であるので、花嫁修業には向かない。その面にはまた別の家庭教師を用意してある。

「ガモウヤヨイチャンは聖蟲が額に取りつく前から、地面に絵を描いて天空の星に住んでいると伝えていた。最初から知っていた。」
「そう。」

 顔色を変えるハギット女史に、弓レアルは不審を覚える。天空に住むのは神様としては当然だろうに、何故彼女はそこにこだわるのか。

「お嬢様、ゲルヒッテン衡ヌバイム王子の『天空に記された幾何学の文様と無形の力を統べる律令の書』を覚えてらっしゃいますか。」

 1500年以上前の金雷蜒(ギィール)神族の著書であり科学知識を記した辞典の一つである。

「先生。本の名前はかろうじて覚えましたが、内容はまったく理解出来ませんので6分の一も読んでません。」
「それは恥ではありません。私も一応すべて読みましたが、まったく理解出来ませんでした。」

 科学技術書はいくら平易に書き直しても理解が難しいものだ。ましてそれを文学・神学のテキストとして読む褐甲角王国の一般読書人には、暗号のように思われても仕方がない。だが天空の星について書かれているらしいこの書は引用されることが多く、ハギット女史もその筋で端々の数行を記憶していた。

「僧ウゴルムの聖山に掛かる星の詩、ゲジョウラゥスの黒冥蝙神への祈祷文。他にもありますが、救世主様が仰しゃる天空を回る球体に似た記述が、確かあの書から取られていたと記憶します。」
「じゃあ、やはり救世主さまは天空の神様なのね。」
「それだけでなく、救世主様は聖蟲の力を借りずともギィール神族を越える智慧を備えておいでだということです。」

「そうなの?」
「ネコに聞くのは筋違いだ。」

 と無尾猫は庭の端の蔦の陰に隠れて去ってしまった。もっと聞きたいことがあったのにと弓レアルは残念に思ったが、ネコの話を聞きたい人は多い。諦めた。

 

「お嬢様、これは由々しい事態です。ひょっとすると、青晶蜥神の救世主は世の中を思いもかけない形に変えてしまうかもしれません。」

「しかし、博士寮の学匠の方々は今ではギィール神族の持つ知識の大部分を解読したと聞いてますよ。それほどの影響は無いでしょう。」
「あれは単なる虚仮威しの強がりです。実際は王国の工芸品の質を見れば一目瞭然。お嬢様の鏡がなぜ東金雷蜒王国の産であるか、考えたことがおありですか。」
「あれは良いものです。あれは作れませんね、確かに。」

「王宮はどうなさるでしょう。力では褐甲角の神兵は無敵ですが、知識や技術において金雷蜒王国に遠く及ばず、二神の使徒は釣り合いが取れていました。しかし新しい救世主が力と智慧を併せ持つ者だとしたら、勝てませぬ。」

「……そうなったら王宮は、王国はどうなるのでしょう。」

 最初から分かっていたことだが、救世主が世に現われる時、世界は大きく変貌する。
 これまでは救世主さまがお出でになれば世の中の悪が打ち破られ薔薇色の理想郷になる、くらいの能天気な想像しか弓レアルの頭には無かった。
 だが本当に変わるとすれば王宮の栄華も、ヒッポドス家の商売も激変するだろう。

 弓レアルはハギット女史の心配をようやくに共有した。確かにこれは一大事だ。ひょっとしたらお嫁入りも延期になるかもしれない。

「どうしましょう。ああ、なにをすればいいのでしょう。」
「書状をお書きなさい。そしてネコに届けさせるのです。」
「お便りって、どこに。」

「王宮のカロアル斧ロァランさまです。あなたの義妹になられる御方です。あの方は王宮深く元老院にお仕えしていますから、内部の様子とこれからの方針を外に居る私たちよりも良くおわかりになるでしょう。それを教えてもらいます。」

「…いいの? そんなことをして。」
「何が悪いのです。姉になるお嬢様の為に御骨折り願いましょう。お嬢様は持参金も無しに嫁ぎたいのですか。」
「そこまで事態が悪化するのですか?!」

「一戦さございますよ。いえ救世主がお出でになられたのです。この機を逃さずに金雷蜒王国を討伐しようと元老院は決するに違いありません。そうでなければ、」

 そうでなければ褐甲角王国の存在意義が無い。
 千年前に初代武徳王は金雷蜒王国を打倒し民衆を圧政から開放する為に、王国を打ち立てたのだ。使命が次の救世主の出現までに果たせなかったとなると、この千年はなんの為にあったのかと自問せざるを得ない。民衆の王国への忠誠心が急速に薄らぐ危険すら有る。

 

「さすがに良い読みをする。あのハギットという家庭教師は切れ者だわね。御嫁入りの際にはウチに御義姉さまと一緒に来るらしいけれど、なんだかやりづらいなあ。」

 カロアル斧ロァランは黒甲枝の武人の娘で15歳。弓レアルが嫁いで来ると彼女を姉と仰がねばならない。

 許嫁である兄はほとんど彼女に会っていないが女同士の気安さから斧ロァランは何度か話をした。さすがに富豪の娘だけあって浮き世離れした呑気さに呆れるも、優しいし思いやりはあるし、特に反発せねばならないものは無い。
 兄は兵学校で10歳の時からもう家を離れていて斧ロァランには縁遠く、人となりは知らないも同然だ。この女人が嫁いでくるのなら実家にも気軽に戻れるだろうと安心させられる。

 斧ロァランも聖蟲を戴く家に生まれた娘の義務として、カプタニアの王宮に侍女として勤めている。
 本来の侍女は緑隆蝸(ワグルクー)神、カタツムリ巫女がその任を務めるのだが、褐甲角王国は武によって立つ国で特別の覚悟無しには務まらない厳しい役目がある。しっかりした性格の少女が黒甲枝から募られ働いている。

 彼女が王宮で任されたのは、極めつけに恐ろしい仕事だった。
 元老院の首座である王族のハジパイ家が召し使う大狗サクラバンダ。これの世話係に斧ロァランは回された。
 サクラバンダは体長2メートルにもなる細身で筋肉質の猛犬で、本来は人に懐かず山野を駆け巡り大羚羊や無尾猫を捕らえる肉食獣だ。
 褐甲角王国ではこれに聖蟲を与え特別な任務を課している。つまり、犬でありながらも褐甲角(クワァット)神の化身であった。

 

 ハギット女史の読みどおり青晶蜥の救世主の出現は、既定の事実であったにも関らず王宮、元老院をパニックに陥れていた。

 本来なら怯える必要はなにも無い。褐甲角は正義と契約を司どる神で、それに従う黒甲枝の兵は無私の軍隊であり民衆をいたぶったり圧政を強いたりはしていない。
 にも関らず、新しい救世主を迎えるにあたり引け目を感じざるを得ないのは、金雷蜒王国から救い出したはずの民衆が決して幸福とは言い難い困窮の中に暮しているからだ。

 金雷蜒王国ではすべての民が奴隷でありギィール神族の所有物である。奴隷の生殺与奪はすべてギィール神族の手の内にある。
 千年の昔はその権で奴隷を大量に動員して神族同士が内戦を繰り広げ、殺戮をほしいままにした。神族の暴虐から民衆を救うという大義が褐甲角王国にあった。

 しかし皮肉なことに、褐甲角の脅威にさらされた金雷蜒王国は内戦を止め、奴隷が長持ちするように労働環境を改め、かってほど酷い体制では無くなっている。

 さらに褐甲角軍に攻められるとその土地を毒で封鎖して食糧の調達を不可能とし、領民を押しつける戦略に出た。
 つまり勝てば勝つほど抱え込む民衆が増え、養う為の穀物が不足する。

 科学技術で劣りただでさえ生産性が低いのに、大量の難民を抱えることで慢性的に一般民の困窮が続く。奴隷である金雷蜒王国の民よりも生活水準が低くなるという本末転倒な結果を見た。これでは民衆解放の大義が成立せず、やむなく戦線の拡大を停止して膠着状況を続けざるを得ない。

 また西金雷蜒王国は島嶼部にある為に、陸戦においては絶大な威力を発する褐甲角の神兵の無敵性が活かせず、攻めあぐねている。

 

「だからこうなる前に決着を付けておかねばならなかったのだ!」
「いや、出来ないものは仕方がない。目的が民衆解放であるからには、それが果たせないと分かっていながら軍を進めるのは愚かだ。」
「そもそも毒地に隠れて強襲するゲイル騎兵に黒甲枝では十分に対抗できない。応援に駆けつける前にさっさと逃げてしまう。」
「聖蟲を持たない兵は毒地を進めない。敵が持つ防毒面も作れない。我らが技術的に遅れているのは明らかだ。だから内政に力を入れて民力の底上げをするのが、」
「それをもう何十年と言っている。いつまで経っても追いつかぬではないか。」
「金雷蜒王国とは今や共存していると言ってよい。彼らが作る工芸品の質に我らの工人は足元にも及ばない。材木や穀物と交換にそれらを手に入れねば、王国の経済が成り立たなくなっている。」
「解放したはずの民衆が、再び奴隷に戻っている。これが現実だ。」
「民衆の自治を認めるからそうなるのだ。支配者が強権を以って効率的に民衆を使役し生産力を上げる努力をせねば、永久にこのままの状況が続く。」
「民衆は支配されることを明らかに望んでいる。だが我らは十分に応えていないのだ。指導する者は民衆よりも知的にも肉体的にも遥かに秀でている必要が有る。」
「まるでギィール神族の言い草だな。」

 

 数十年相も変わらぬお定まりの議論が続く。
 褐甲角王宮の元老院は現実と神聖なる使命との間で自縄自縛に陥っており、結局は現状維持に落ち着くしかない。
 しかし青晶蜥救世主の到来の接近は否が応にも彼らの神経をささくれ立たせ、行動を焦らせる。

 実動部隊である黒甲枝の支持が厚いソグヴィタル王家の当主 範ヒィキタイタンは、宮廷クーデターで一気に状況を打破し初代武徳王の誓いの実現に乗り出そうとした。が、内政を司るハジパイ王家 嘉イョバイアンの老練な工作に未然に防がれ、王宮を辛くも脱出する羽目に陥った。
 現在は、内政を重視し国力の増強を図り然るべき日まで征服は延期しよう、という先政主義が王宮を覆っており、黒甲枝の不満が鬱積している。

 

「元老院の意見がくつがえることは無いわね。でも、動かないわけにはいかない。大動員はあるでしょうけど・・・、」

 一介の侍女である斧ロァランには政治軍事の大局など見えはしないが、王宮全体を覆う空気から未だ深刻な事態を想定していないと察しはつく。
 青晶蜥神救世主の出方を待つ、というのが無難な対応なのだろう。消極的過ぎるかもしれないが、なにせ天空から来たという救世主さまだ。対応も決めようが無い。

『…まずは救世主様の身柄を王宮が保護することになるでしょう。救世主様をどちらの王国が抑えるかによって状況が激変する可能性があります。金雷蜒王国の手に落ちた場合は救出の為に敵方深くに侵攻する大戦さになると思われますが、』

 褐甲角王国が救世主を手中にした場合、最初から無かったことにして、ひょっとしたらこれまでの偽救世主と同様に火刑に処せられるかもしれない。それを書面に記すことはためらわれた。

 斧ロァランは思わず胸で手を組んで、褐甲角(クワァット)神の御加護が救世主にあらんことを願った。たとえ元老院が敵と看做そうとも、正義と公正を守護する褐甲角神が救世の定めに従う者を妨げたりしない、と彼女は信じたかった。

 

 

「あれはなに?」

 タコリティに向かう蒲生弥生ちゃんさま御一行は、スプリタ街道出口付近で薄汚い行列に出くわした。
 男も女も子供も居る。周囲にはいかにも人相の悪い武装した男達が居て、彼らをこづき回し道を急がせる。強く引っ張られて転んだ女の子が泣き喚く。

「タコ石の鉱山に売られて行く坑夫ですねー。褐甲角王国から来たんですよ。」

 タコ巫女ティンブットは事もなげに答える。特に珍しいものではないらしい。

「褐甲角王国は、奴隷を解放しているんじゃないの?」
「そうですよ。あれは解放された民衆です。黒甲枝はあんなことはしません。」
「じゃあ誰がやっているの。」
「だから、解放された民衆が、後からやってきた余分な難民を売っているんです。一緒に居ても食べる物がありませんから、売られた方がマシなのですよ。」
「金雷蜒王国はどうなの。やはり奴隷を売ってるの?」
「まさか。ギィール神族はそんな恥ずかしい真似はしませんよ。ギィール神族に仕えるのは奴隷として光栄なことです。売るのは”バンド”ですね。奴隷同士の組合が、あぶれた口を売ることはありますが、東金雷蜒王国は慢性的に人手不足ですからめったにありません。」

「…なるほど。救世主というのは、よほどややこしいパズルを解かねばならない因果な役目のようだね。」

 弥生ちゃんは腰の後ろに差していた水色の扇を手に取った。この世界には折り畳み可能な扇というものは無い。
 ティンブットはその不思議な道具から青い光が発しているように感じて目をこすった。

「なんですか、それは?」

「あのさあ、今この人達を解放して、でどうなる?」
「なにも。なにせ食べる物が無いから売られるわけですから、街に戻ってまた売られるか、自分でタコ石の鉱山に参るでしょう。」
「だろうね。」

 弥生ちゃんは手の中の扇を少し開いて、ぱんと左手に打ちつけて音を出す。思ったよりも大きな音がして、売られる難民も、引き回す警備の兵も一斉にこちらを向く。

「まとりあえず、こいつらに案内をしてもらおう。聞きたいこともあるし。それに、もうちょっと丁寧に扱うくらいはしてもらわないとね。ぶちのめすのは余禄だけれど。」

 右手の扇をかっと開いて青い光をそこら中に撒き散らす。光に吸い寄せられるように、兵達がゆっくりと集まって来る。

「あれはハリセンだ。救世主の世界の武器だそうだ。トカゲ神はガモウヤヨイチャンにこれを所望されて、驚いた。」

 ネコの解説にもティンブットは振り返らない。救世主様は、一体何をなさるのだろう。

 

 弥生ちゃんはハリセンを大きく開いて、なにも知らない警備兵に躍りかかって行った。

 

第三章 弥生ちゃん、市にて剣を購う

 

「もう強いとかなんとか言う段階の問題ではなくて、ぜんぜん相手にならないのよ。ハリセンを右に左に仰ぐと凄い風が巻き起こり、その度武装兵が転がって立っていることさえできない。弓で射られてもそのまま逆風に乗って射た者の元に戻って来る。救世主様がそれこそ風に乗って鳥よりも早く駆け抜けて兵をハリセンで叩くと、鉄の剣でも鎧でも枯れ枝よりも簡単に千切れ飛ぶ有り様なのね。」

 

 タコリティは十二神方台系の南海岸中央に位置する独立都市だ。
 金雷蜒(ギィール)・褐甲角(クワァット)双方の王国に属さない中立地帯であるが、実態はあまりにも不毛である為に支配を放棄されたと看做す方が正しい。
 それ故流刑地としては最適で、死罪に出来ない国事犯を追放したり、政治的亡命でもここに留まるならば敵国を利さないとして追捕を出さない慣習がある。
 雨が極端に少なく飲料水すら船で運ばねばならないので反乱の根拠地とも成り得ず、補給を差し止めればいつでも制圧可能と思われているのだ。

 タコリティの東には巨大な円形クレーターが数個穿たれ海水が流れこんで湾になっている。クレーターの周囲は高さが数百メートルの断崖で古代の地層が露出し、直径百メートルにもなる巨大な球形の生物の化石が幾重にも折り重なる姿を見せている。

 まさに壮観であり、これをして十二神方台系の礎と為し化石の生物に似たタコを第一の神と崇める。紅曙蛸(テューク)王国時代には聖地とされた。
 王国の失われた今も名残でテューク巫女王の直轄地と住民は称しており、現世両王国の支配を受けぬを誇りとする。
 当然タコ巫女は尊ばれており、ティンブットが酒場でクダを巻いて大きな顔をしても、飲み代を払わなくてもまったく問題は無い。

 

「やはりね、青晶蜥(チューラウ)神の救世主様なんだからチューラウの神威を備えているわけなのよ。冷風がすわぁーっと流れて行ってこちんと兵士が凍りつくところなんてのはまさに、て感じで、」
「いや、しかし何故に救世主ガモウヤヨイチャン様はそのような事をなされたのだ。マグレリアント殿の警備兵が救世主様になにか無礼を働いたのか。」

 狭い酒場には百人ほども詰めかけてティンブットの話を食い入るように聞いている。が、ただの酔客ばかりではない。
 この地には確とした政治体制は無く、有力者達が独自の兵を貯えて相互の勢力バランスの中で秩序を保っている。
 警察機構も無いのだが、それぞれの有力者が密偵を使い自己の勢力を脅かす者を常時探索監視していた。この中にも何人か交じっているはずだ。

 ティンブットの目の前の男もたぶんそれだろう。であれば酒を奢らせるのに何の遠慮があるだろう。元より救世主様について見聞きした事を喋りまくるつもりなのだから、ささやかの余禄を存分に楽しむべし。

「ゲルタパス(干魚の焼いたもの)でなくて、パイユラップ(乾し肉の湯戻し)がタベタイナー。」

 言うや否や、瞬く間に肉が皿に山盛りで出て来て、ティンブットは周囲の者にもあたかも自分のおごりであるかのように気前良く振る舞う。

「それがさ、そのハリセンという武器は、救世主様の世界では武器じゃないのよ。痴れ者に戯れに罰を与えるためのオモチャで派手な音がするけれどぜんぜん痛くないというね。それに神威を乗せることをチューラウに要求したわけだから、神様だってびっくりするわけよ。で、それは本来武器じゃないけれど武器としても使えるようになっている。でもそんなもの実際に使って見なければ信用できないということで、手近に居た人相の悪そうな奴らで威力を試したわけね。」
「た、試し斬りをなされたのか…。」
「それだけじゃないんだな。……九真の酒は無いの?」

 最上級の酒が飛ぶように卓の上に並ぶ。ティンブットがついでにお菓子を頼むと、近所の料理屋から大皿で焼き菓子揚げ菓子が届けられて来る。調子に乗って果物も頼むと、酒場の小僧が飛び出して買いに行った。

「青晶蜥は冬の冷気と癒しと安息、薬の神なわけよ。当然神威の宿ったハリセンにも癒しの力があるけど、でもこれも使ってみなければわからない。ということで、手近に居た人相の悪そうな奴をわざと痛めつけて癒しを試してみた。頭良いのよねー、今度の救世主様って。神様の言うことでも一応は疑ってみるんだもの。さすがだわ。」

 周囲の男達は絶句する。ティンブットはしてやったりと舌をちょろっと出した。

 実際、救世主ガモウヤヨイチャン様は面白過ぎるのだ。やはり星の世界からやってきただけのことはあり、伝説にある褐甲角、金雷蜒救世主の生真面目さ窮屈さとは無縁で非常に親しみ易い。
 後世、蜘蛛巫女やカタツムリ巫女が青晶蜥神救世主の叙事詩を書いたり演じれば、さぞかし観客に受けるだろう。
 いやタコ巫女としてもガモウヤヨイチャン様の活躍を十分に描き出す見事な踊りを作らねばなるまい。星の世界の踊りなども尋ねてみよう、とティンブットは商売根性を出してみる。

「それとして、今救世主様はどこに居られるのだ。ティンブット、お前は救世主様のお傍を離れて良いのか。」

 誰か知らないが、自分を呼び捨てにするとはどこの知り合いだろうか。
 さすがに九真の酒は良い加減に酔わせてくれる。安酒のつんと来る不快な心地がまったく無く、柔らかい毛布に包まれるような眠気が襲って来る。

「救世主さまは、…ハリセンの威力が強過ぎるということで、これを滅多に使うのはやめようと思われまして、…そうね。さすがだわ。あんまり便利な道具を使うと、救世主様が尊いのかハリセンが尊いのか分からなくなるって。…で、なんだっけ。そう、もっと手軽な武器をね、剣を買いに行っちゃったの。」
「しかし一人で行かせて大丈夫なのか。誰もお供が居ないのでは。」
「おともぉー?」

 ティンブットはがばっと席を立った。けらけらと天井に向かって笑う。

「おともだらけで、わたしがついていけなくなったから、ここでこれまでの経緯を説明をしてるんじゃない。ばっかねー。」

 

 救世主蒲生弥生ちゃんの周りは無尾猫のお供だらけになっている。

 人里の近くに来ればその村のネコが行列に加わり、交代で別のネコが村人に喋りに行く。ひっきりなしに交代し出合ったネコ皆に伝えては、方台中に噂を広げていった。
 近在で最も大きなタコリティの街では多数のネコが活躍しており、救世主様の動向をリアルタイムで伝えようと密着取材を敢行する。
 おかげで通りは白いネコに埋め尽くされた。往来の妨げになり驚いた弥生ちゃんと協議した結果、常時16匹のネコのみがぶら下がりで着いて来る事が許された。
 それでも全長1メートルのネコが16匹である。随分と人目を惹いて恥ずかしい。

 弥生ちゃんは露天で買い求めた編笠で頭のカベチョロを隠している。もちろんその程度の変装は意味がなく、そもそも服装からしてこの世界の物ではないのだから正体丸分かりだが、カベチョロの聖蟲が直接見えないから随分と楽になった。
 聖蟲を見るとそこら中の人が、まるで水戸黄門の印篭を見せられたかに地べたに這いつくばって頭を下げるのだ。居心地が悪くてしょうがない。

 最初弥生ちゃんは書店に行って街のガイドブックを買おうと思ったが、この世界には書店が無い。古道具屋が扱うといい、それも手書きの書物が一冊で家が買えるとかの話なので諦めた。
 活字による印刷も未だ無いし、版木に字を彫って印刷というのも蜘蛛巫女のおみくじ以外は滅多にないらしい。
 それどころか、紙が無い。木の葉を干して延べたものを糸でつなぎ合わせて紙の代りにしている。丈夫で葉書を縦に二枚繋げた大きさがあり十分に広いのだが黄ばんでおり撥水性もあり、インクで書字するには向いてない。
 どうやって書くのか、と思えば石で葉の表面を傷つけている。傷のついた表面から葉の内部の層が露出して黒くなり、インク無しでも十分はっきりと見えるのだからうまく出来ている。
 だがこれでは印刷という発明に繋がらないだろう。

 ガイドブックは諦めたがガイドには事欠かなかった。よく考えれば弥生ちゃんの足元に絡みつくネコ達は噂話の達人であるから、これに聞けばよかったのだ。
 呆れたことに、ネコ達は店で何を売っているのか全然興味が無い。知っていても肉屋の食用ネズミ置き場くらいなのだが、商品を買った人の事はよく覚えている。
 買った商品に誰某がこういう文句を付けて返品に来たとか、騙されて欠陥商品を使ってケガをした人が復讐に行ったとかは幾らでも喋るのだ。

 段々弥生ちゃんもネコの使い方に慣れてきた。武人が武具を買い求めた話をせがむと、案の定武器屋の位置も教えてくれる。
 噂話は人間のエピソードとして記憶されているようで、ネコは百科事典でもデータベースでも無いのだ、と理解した。

 

「それはそうと、」

 と弥生ちゃんは額の上編笠の中で寝ているカベチョロをこてこてと叩いて起こす。
 翻訳機能は寝ていても実行可能なようでこいつ、名前はウォールストーカー(北面の氷壁を守護する者)、はサボってばかりいるし飛んできた蝶を食べようとしたり、あまり神聖なところを感じさせない。

『なんだ。』
「あのさあ、その翻訳機能だけど、なにか変よ。ネコたちは、タコ巫女、カブトムシ王国、ゲジゲジ神族というのに、人間が喋る言葉では、紅曙蛸(テューク)、褐甲角(クワァット)、金雷蜒(ギィール)に変換されるのは、何故?」

 カベチョロはすこし考えた。頭の上だから見えないが、目をまた白黒させているに違いない。

『……そなたに説明するのはむしろ容易い。この世界には、そなたたちの世界でいう”漢字”に似た文字があり、通常使う言葉とは異なる発音を持っている。”ギィ聖符”と呼ばれるものでギィール神族だけが使っているが、固有名詞の場合は一般庶民も同じくその言葉を使う。』
「なるほど。だからギィ聖符で呼ばれるモノを翻訳する場合は、そういうややこしい変換方法をつかうんだ。」

 弥生ちゃんの頭でのカベチョロの翻訳は音声言語のみで行われているわけではなく、概念がイメージとして提供されたり感情表現が色つきで強調されたりと、より正確な意味がつかめるよう複雑なコミュニケーションがなされている。
 よくよく見ればギィ聖符の形もちらちらと脳裏に浮かぶしそれに対応する漢字も対になって表示されている。

「じゃあ、ネコはギィ聖符を使わないから、単純な単語を使っているんだ。あのさあ、翻訳する時には人間の言葉もさあ、ネコと同じ単語でやってくれない。」
『それでは正確な翻訳とは言えない。』
「意味が伝わるからいいじゃない。なんかさあ、うっとうしいんだよね。」
『分かった、試してみよう。しかし、より公的な場所での会話では、むしろギィ聖符の正確な翻訳の方が役に立つだろう。』
「その時はその時。じゃ、任せた。」

 カベチョロはまたサボリモードに入った。

「ん、待てよ。タコリティはタコ女王の直轄地だから、タコリティと呼ぶわけだよね。でもこっちでも”タコ”て言うの?」

 傍に居たネコに聞いてみると、意外な返事が返って来た。

「初代のタコ巫女王でタコ神の救世主様は、”ッタ・コップ”という名前だから、”ッタコッリティ”と呼ぶ。」
「え、”タコリティ”でしょ。」
「”ッタコップ・リティ”」

 弥生ちゃんには発音が出来ない難しい音だった。
 耳が慣れてないからタコリティに聞こえるだけで、蛸とは関係無いらしい。便利な翻訳機能に依存するとこういうところで勘違いする事になる。
 弥生ちゃんはこの世界の言葉をちゃんと習い覚えると決めた。

 

「で、ここが”武器屋”なわけだ。」

 弥生ちゃんの行動原理は単純だ。ここが異世界であるのならファンタジーの法則に従うべき、町や村に着いたなら武器屋道具屋は必ず見なければならないと、RPGの定石に従っている。
 所持金は、坑夫の移動に当たっていた武装兵を試し斬りにした際に巻き上げた分が多少有る。
 たぶんこれはカツアゲという不法行為ではないか、とも思うが、なにせ救世主様のなさることなのだと皆も諦め顔だったので、良心は黙らせておく。
 どうせ今後多額の支出が必要になるし資金供出を色んな所から募らねばならないわけで、集めた中から利子を付けて返してやろうと頭の中の貸借表に書き込んでいる。

 武器屋の前にも武装兵が居た。警備員であろう。
 ネコを十数匹も引き連れた少女が店の前に立つので怪訝な顔をしている。まさか武器屋に用があるようには見えないのだろう。
 これだけ騒々しくしているのに、目の前の少女が長年待ち望まれていたトカゲ神救世主である、とは思いもつかないらしい。どうしたものかと立ち尽くす。
 家々の陰からこちらを窺っている複数の目付きの鋭い男たちは間違いなく弥生ちゃんが何者か知っているのだから、周辺に教えて回ればよいのに、とも思う。

「ほら。」
「うわあ! ははあーー。」

 編笠をちょいと上げて額のカベチョロを見せると、さすがに警備員も正体に気付き、棍棒を捨ててその場に平伏する。
 聖蟲というものへの信仰が凄まじい証拠だが、それが千も二千も居るというゲジゲジ、カブトムシ王国はどういう社会なのだろう。

 警備員が地面に土下座しているから、仕方なしに自分で重たい木の扉を開けて店内に入る。さすがに武器屋だけあって警戒も厳重で、扉も厚く頑丈で大きな青銅の鋲で補強してありちょっとした要塞のようだ。
 だが店内には予想に反して武器が置いていない。カウンターに店番、いや店主であろう、が居て奥から商品を取って来るスタイルらしい。倉庫に行けばそれらしい光景は見れるだろう。

「剣を見せてもらいたいんだけど。」

 聖蟲を拝まされても店主は、顔を青く引き攣らせ脂汗をかいていたが、平服しなかった。さすがタコリティは度胸が勝負の街だけあって、金持ちの方が胆が座っている。

「あんたのような背が小さく細い女が扱える剣は置いてない。包丁でも買うんだな。」
「それは常識的な判断だ。いいよ、良心的だ。でもわたしがただの女じゃないってことは、知ってるでしょう。」

 弥生ちゃんはのべつ幕無しに愛想の良い少女ではない。場面によっては冷酷にも高圧的にもなる。
 その表情の豊かさ複雑さで会う人ごとに印象が異なって覚えられ、複数人の証言を合成しても同じ人物だとは思えないほどに違って来る。
 武器屋の主人は、この異世界において初めて弥生ちゃんの真の姿を見た男、と言えるだろう。

「しかし、剣と言っても色々あって、目的によっても予算によっても選択は変わって来る。どのような目的で使うのかをうかがわねば、どれを見せるかがわからない。」

 武器屋の主人は武装兵や交易警備隊、ヤクザや人斬りの何人にも会って、怪しげな交渉を幾度となくまとめて来た。そこらの親分衆と伍してもひけを取らない勇気胆力の持ち主だ。
 しかしさすがに千年に一度現われる救世主の前にはネコに睨まれたネズミも同然で、あっけなく降伏を余儀なくされる。
 この御方はいずれ世界の全てを統べる強大な実力者ともなり得る人なのだから、いかなる要求も無条件で呑んだ方が分がいいと計算した。

「片刃の刀で剣のように細く長い、刃渡りは70cm程度で微妙に反っている。というのは無い?」

 ”70cm”というのがうまく翻訳出来なかったようで、弥生ちゃんは両手で長さを指定する。が、そういうものはこの世界には無いようで、店主は首をひねる。

「反った刀、というのは金雷蜒王国の剣匠が使うがそんなに短くはない。その長さならば直剣だが禁制品で値が張る。すなおに短剣ではだめなのか。」
「タコ巫女が持っている湾刀の長いのがあれば、それに越したことは無いんだけど。」

 タコ巫女ティンブットは剣舞をする際に使う鋼の短剣を持っている。護身用でもあり剣技もそれなりに使えると言うので見せてもらったが、くるくると回りかなり無駄の多い装飾過剰な動きをする。
 あくまで剣舞の延長上の技だ。だが試し斬りに掛けた護衛兵の動きから推察するに、この程度の剣技でも十分通用するようだ。
 この世界には未だ剣術の流派というものが無いらしく、ゲジゲジ王国の戦闘専門職奴隷が凄まじい技を使うという以外の武術の情報を、護衛兵達から聞く事が出来なかった。

「タコ巫女の刀はあれはギィール神族からの賜り物で専属の刀鍛冶の作だ。おいそれと手に入る代物ではない。しかし、注文を頂ければ半年程掛かるが用意しよう。」
「うーん、そこまでは待てないなあ、余所にも行かなくちゃいけないし。倉庫見せてよ。」
「……ネコはご遠慮願いたい。」

 後ろを振り向くと、ネコ達が10匹も店内に入り込んでいた。外で待っているように言うが、救世主様の一挙手一投足を記録しておきたいと懇願するので、店主に一匹だけ連れて行くことを了承させた。
 店主としても、救世主を案内する無理に比べればネコくらい些事と黙認する。

 

「うおー、これだよ。これが武器屋だ。」
 倉庫に入った弥生ちゃんは興奮して叫ぶ。

 百人分以上の武装が納められており、金さえ払えば即軍勢が出来上がる程の在庫がある。やはりRPGの武器屋の常識は間違っていた。
 だがさすがに雑兵の為のもので、値の張る武器は小さな二の蔵に更に厳重に保管されている。

「こちらの蔵の武器は、先程の全てを足した値段を倍してもまだ足りないほどの高額商品になりますな。ギィール神族や黒甲枝(カブトムシ)の武人が使う物もある。」

 中は奇麗に掃き清められており、先ほどのように抜き身で転がっていたりしない。それぞれが絹の袋に丁寧に納められ、ひとつずつ棚に安置されている。槍の類いも埃が被らぬように布で覆われて、武器庫というよりは宝物倉に似ていた。

「先程うかがった形に近いものと言えば、これくらいか。ギィール神族の子供用の剣だが、あんたの体格ならば丁度いいだろう。」

 棚から下ろしたのは細身で両刃の刃渡りは65cm程度の片手剣だった。柄は黄金で装飾過多に見えて実用もちゃんと考慮してあり、握り具合も悪くなかった。
 店主が勧めるので弥生ちゃんは抜いて振ってみる。刀身は青味がかった良質の鋼で傷一つ無くなかなかの逸品に思えた。

「うん、悪くない。」

 弥生ちゃんの後ろから声が掛かる。これは剣に対してではなく、弥生ちゃんの振り回す姿に対しての褒め言葉だった。
 店主も最初はいぶかしんでいたのだが、剣を揮う弥生ちゃんの技は想像を遥かに越えて確かなもので、この人は結構な使い手であるな、と見直した。

 弥生ちゃんとネコは振り返り、声の主を仰ぎ見る。身長180cmを越える偉丈夫で、腰には見事な拵えの直剣を吊るした武人だ。
 平服ではあるが身分の高い人らしく、一般庶民には許されない青色を数ヶ所に配している。そして顔には。

「この人は、お店の従業員?」
「いえ客人でして、武具の目利きと試技をお願いしております。」

 男の顔は金と銀の透かし彫りがあしらわれた仮面で覆われていた。頭部には雌鳥のトサカのようなカバーが掛かっていて後頭部まで伸びている。ギィール神族の戦闘用兜で弥生ちゃんは知らなかったが、兜の目的は一目で分かった。

「それは、聖蟲を隠すための兜だね。」
「わかりますか。さすがは救世主ガモウヤヨイチャン様。」

 弥生ちゃんの艶のある黒髪の上で、カベチョロが昂然と尻尾を掲げる。異なる聖蟲の接近に威圧するのだ。
 男は二人+一匹の側に寄り、床に跪き頭を下げる。まるで西欧の騎士のような仕草だ。

「長年待ち望んだ青晶蜥(チューラウ)神救世主様の来臨を賜りまして、我ら十二神方台系に住まう者すべて喜びに身を震わせております。ましてや星の世界に住まわれる神人とあれば、世界を善き変革へと導き人々に永遠の安寧を賜ること疑いようもなく、新王国の誕生を嘉し言祝ぎ申し上げます。」
「商売敵、ということになるんだけどね、救世主というのは、あなた方にとって。」

 立って立って、と弥生ちゃんが催促するので、男は凛と立つ。王者の風格を備えており、どこから見ても倉庫の隅に居る人ではなかった。

「ここで何をしてるのか、なんて野暮なことは聞かないよ。どうせ訳ありに違いないんだから。で、この剣はどうかな、少し軽いような気がする。」
「女人でそれだけ振れれば十分役に立つと思われますが、護身ではなく敵を討つ為にお使いになりますか。」
「そう。それに私はチビだけど、重たい刀を振れないとは思わないでね。このカベチョロは、重たいものでも軽くする能力を持ってるみたい。」
「なるほど。褐甲角(クワァット)の聖蟲は人に怪力を与えるが、青晶蜥(チューラウ)は逆に物を軽くする力を与えるのですか。ドワアッダ。」

 武器屋の主人は仮面の男の言葉にうやうやしく従い、もう少し長い剣を用意した。ドワアッダというのが店主の名前らしい。

「これは女人用の剣ですが、ギィール神族は女人も並の男より遥かに背が高いので、救世主様にはあまりお勧め出来ません。」
「長い、かな。ガモウヤヨイチャン様には。」

 刃渡りが1mもあり、さすがに持ち歩くのに不都合そうだ。それはパスする。

「出来るなら湾刀で細く長いのがいいんだけれど、長さが70cmくらいの。」

 やはり翻訳がうまくいかなかったようで、仮面の男に対しても弥生ちゃんは手で長さを示さねばならなかった。この世界の長さの単位はかなり変な数え方をするらしい。

「湾刀ならばアルバかガルオンの剣匠が使うのが有名だな。この二つの血族は刀術を代々受継いでいて名人を何人も輩出している。使う刀も最高の、つまりギィール神族が自ら鍛えた方台で望み得る最上のものを与えられている。あれは、無いだろうな。」
「はい。さすがに一本ごとに名前が付いている管理の厳しい刀ですので、おいそれと手に入ることは、…あ。」

 店主が口ごもったので弥生ちゃんと仮面の男の両方の視線を浴びる。黙っていようとしたのだが、さすがに許されない空気を感じて白状する。

「一本折れたものがございます。モノは良いのですが戦で砕かれて中程からぽっきりと。それがちょうど救世主様がお望みになる長さではないかと。」
「反っていて、細身で、このくらい?」
「完全なものならば長さはその倍になりますから、所詮は救世主様の御入用にはならないのですが、折れでよろしければ差し上げましょう。」

 店主が蔵の奥から持ち出して来たのは、長さが140cmもある黒い革製の鞘に納まった長い刀だった。
 抜いてみると鞘の中程までしか刀身が無く、斧か鉈かで叩き折ったかの無残な姿を曝している。仮面の男が先に手に取って折れた断面を指で触って確かめる。

「黒甲枝に斬られたな。」
「カブトムシの聖蟲を持った兵のことね。凄い力で打ち当てたみたい。」
「黒甲枝も良い剣を持つが造りが剛直で重さが3石(15キログラム程)もあり、剣というよりも棍棒に近いものです。あの打ち込みを並の人間が止める事はできません。これほどの刀を持つ者ならば心得ているだろうから、ギィール神族の盾となって死んだか。」
「戦場での分捕り品ですから、多分そのような由来かと思われます。縁起が悪くて救世主様の御物には相応しくないかもしれませんが。」

 弥生ちゃんは折れた刀を受け取り、振って感触を確かめる。折れて半分になったとはいえ相当の重さがあり、片手で振るのはなかなかに難しかったが、二度三度と段々と早さと正確さを増して行く。
 傍目にも、何らかの目に見えない手助けがされているのだと分かった。

 が、握りを換えて両手で刀を振ると印象は一変し、彼女自身の力と技で早さと重さを十分にコントロールして見事に四方を斬ってみせる。二人は改めて驚かされた。

「それが、星の世界の剣術なのですか。」
「別に宇宙に住んでる訳じゃないんだけれど。まあ私も剣術の専門家では無いから一応振れますというレベルかな。」
「いや、これは良いものを見せて頂いた。世に剣の達者は数居りますが、そのどれとも違う太刀筋で、救世主様の前に何代もの達人の練磨の跡が見える、深い歴史のある剣ですな。」
「うむ。黒甲枝でも赤甲梢でも、ここまで洗練された剣の使い手は居ないだろう。」
「そんなに褒められると照れちゃうな。」

 弥生ちゃんは友達に本物の剣術を修行する娘が居る。その子に手ずから指導されているので割と刀を使えるし、真剣で巻藁も斬った事がある。
 もちろん彼女には遠く及ばないが動きはしっかりと見て記憶しており、額のカベチョロが極めて澄み切った形で忠実に思い出させてくれるので、動きをトレスするだけで彼女が乗り移ったように本物の技が使えた。
 だが弥生ちゃんの観察力が完璧に技の要点を抑えており、追随出来る運動神経があればこそ実現出来る芸当だ。

「この折れた先の部分を少し整形して引っ掛かりの無いようにして、鞘を短くしてもらえないかな。腰に吊るすように拵えて。」
「かしこまりました。」
「で、代金なんですが。」

 仮面の男はそれには及ばない、と言った。既に十分な代価を支払っている、と先程弥生ちゃんが使った子供用の剣を指し示す。
 部屋の隅に置かれたそれは、陰に隠れているにも関らずボーッと青い燐光を放って存在を主張していた。

「これは、…わたし?」
「青晶蜥(チューラウ)の神威がわずかばかり乗り移ったのだな。千金を投じても求める者が押し寄せるだろう。」

 仮面の男が剣を抜くと、青く透き通った光で蔵が満たされた。
 金床に押し当ててみる。鉄の塊であるにも関らずまるでバターにナイフを押し当てたかに切れ目が入った。ますます青く強く輝く。

「ドワアッダ、礼金も出すのだぞ。」

                                                          (08/05/06第一章修正)
                                                          (08/05/08第二章修正)
                                                          (11/10/26第三章修正)
                                                          (04/12/27第一巻第一章完成05/06/28最終章完成)以下そのまま

第四章 弥生ちゃん、喪なわれた紅曙蛸神巫女王に見える

 

 救世主蒲生弥生ちゃんはこの地に参ってすでに二つの偉業を成し遂げた。フライパンと石鹸の発明である。

 

 タコリティの街で弥生ちゃんは、当然のように青晶蜥(チューラウ)、トカゲ神官巫女の大歓迎を受けた。彼らはトカゲ神の象徴する癒しと安息にちなんだ役目を司る。医術と治療、薬品の製造販売を任務としているが所詮は中世のレベルでの知識技術であり、ど素人とはいえ現代人の弥生ちゃんの医療知識に比べると呪い師よりちょっとマシ程度でしかなかった。なにせ傷口を縫う事さえ知らないし消毒もしない、血を無闇と抜く、効能を確かめてもいない薬草を煎じて呑ます、といったデタラメに近い医療類似行為をさももっともらしく行っているのだ。

「これは、抜本改革が必要だな。」

 と衛生知識と方法の普及を、まずトカゲ神官巫女から始めた。とりあえず感染症の予防の為にお湯で食器類を洗うことから始めよう、と厨房に入って驚いた。金属の鍋釜が無い。聞けば納得、高貴なるギィール神族がこの地にもたらした貴重な金属を料理などという卑俗な行為の為に使える訳がない、と皆が思っている。金属はなによりも武器に使われるべき特別な存在で、それ以外は金属で無ければ実現出来ない用途にのみ使うのがこの世界の常識だった。確かにそれは一理ある。金属が無ければ生きて行けない程、人間はやわではない。石器時代だって文明はあったのだ。

 というわけで、厨房の中身はタコ女王が土器をこの地にもたらした時のまま、という有り様だった。鍋は土鍋や鼎であり、しかも素焼きである。形状はさすがに進歩して合理的に整えられているが、いいとこ弥生式よりちょっと上程度の水準の粗末なもの。釉薬を掛けた陶器の製造は金雷蜒王国時代に始まるということで、一般庶民にまで普及していない。もっとも、さすがにギィール神族の作は大した物で、タコリティの有力者の屋敷で自信満々に見せられた皿は相当に薄く繊細に仕上げており、彩色も三色四色に金泥までも用いて細かく正確な幾何学文様が描かれている。

 ギィール神族は、聞くところによると半分は工人であり、彼らは武術や経営にはあまり興味を示さないらしい。つまり貴族でありながらも熱心に汗水流して働いており、その作品は時代の水準を遥かに越えて不自然に高度な文明を実現しているという寸法だ。彼らが自ら工業を担う為、平民の技術者は育っておらず、平民主体の褐甲角王国は低水準の工業とそれに帰結する劣った武器で金雷蜒王国と戦わねばならない、それで1000年の永きに渡っても両国の決着がつかないと教えられた。

「そうは言ってもフライパンくらいあったっていいじゃない。」
「ガモウヤヨイチャンさま。ですから、そのヒュライバンなるものはなんなのですか。」

 トカゲ神官巫女は誰一人弥生ちゃんの意を汲んでくれない。彼らは真面目過ぎ、故に思考が硬直し切っている。弥生ちゃんが死ねと命じれば文句も言わず笑って断崖から身を投げるだろう。1000年待ったトカゲ神救世主様のお言いつけなのだ。その意のままに従うことで、天空の神座の側に永遠の栄光の中に転生すると信じて疑わない。だがそれでは困る。

「え、わたしですか。アハ、しかたないなあ。」

 結局弥生ちゃんのお供としてふさわしい者は、かなりいいかげんなタコ巫女ティンブットしか居なかった。タコ巫女も相当数タコリティに居たが、総じて能天気ではあるものの弥生ちゃんに恐れ入らない不埒者は、この26歳の女だけだった。

「というわけでフライパンを作るのだ。鉄の鍋は火が通り良く焼ける。メニューのレパートリーも広がるというものなんだ。」
「メヌゥアのレバンダなるものはわかりませんが、しかしそんなの必要ですかね。物を焼くのならば石盤で上等だと思いますが。」

 この世界では焼き物は丸い平たい石の上で行う。火の上に薄くスライスした石を乗せ、よく焼いてその上で調理する。石だから長年使っても劣化することはなく、食品の油が染みこんで真っ黒になった石盤はなんとも食欲をそそる匂いを出すのだと、ティンブットは主張する。

「だがなんと言ってもフライパンは作らせてもらう。これは単に私のわがままによるものではなく、もはや意地なのだ。」
「救世主さま。それは理にかないませんよ。」

 そんなものは作った事が無い、ひらにご容赦を、と地にひれ伏して哀願する鍛冶屋の尻を蹴飛ばして、弥生ちゃんは無理やりフライパンをこしらえた。

「で、食用油は。」

 油も高級品だった。至極当たり前で、この世界では未だ食用の植物油の大量生産は行われていない。くるみに似た木の実を絞るのだが、栽培ではなく山に行って採集してくるという非効率な方法での生産でどうしても高価になり、これまた一般庶民の手にはおいそれとは入らない。むしろ、獣脂の方が入手に容易だ。弥生ちゃんは、自らが実権を手中に収めた暁には、食用油の大量生産をと心に誓うのだった。

 折角作ったフライパンだが、残念なことにあまり活躍しなかった。完璧究極優等生でありながら、料理の腕は弥生ちゃんは大したことが無い。女の子らしい技芸は興味の対象外だったからで、目玉焼きとゲルタ(雑魚の干物)を焼いただけで泊っていた屋敷の料理人に早々に下げ渡してしまう。だがその事実はネコ達により十二神方台系の津々浦々にまで伝えられ、調理に金属器を使うという新しい考え方が導入されるのだった。

 石鹸はもっと簡単に出来た。弥生ちゃんが入浴して荒野の埃を落したいと願うと、女奴隷が5人も付いて沐浴場に案内された。なにより水が貴重だというタコリティにおいて、25メートルプール一杯分もの湯水を使うのは最高のぜいたくではあるのだが、やはり石鹸が無くては爽快感も8割引きで十分納得がいかなかった。

 そこで弥生ちゃんは石鹸を自作する。フライパン製作に比べるとこれは簡単だった。食用油に灰汁と花の香料を混ぜてぐるぐるとかき回すと、それらしいものが出来上がる。最初は泥かクリームのようだったが、研究を重ねた結果ちゃんとした固体の石鹸が出来上がった。これで女奴隷の一人を手ずから洗ってみると、随喜の涙を流して沐浴場の石の床にひれ伏した。あまりの気持ちよさにこのまま天界に連れ去られるのだと覚悟した、という。ティンブットも呼んで洗ってみると、これも大感激。女奴隷5人を全員きれいさっぱり流して皆の前に出ると、魔法にでも当てられたかのように皆の見る目が違う。神々しく輝いている、と誰もが口を揃えて誉め称える。

 気を良くした弥生ちゃんは石鹸の製法をトカゲ神官に教えて、十二神方台系で売る事を許可した。元々売薬はトカゲ神殿の正規の事業であり、そこに救世主ガモウヤヨイチャンさま直々にお作りになったという「石鹸」が並ぶのだ。瞬く間に世界中が石鹸パニックに襲われ、富者が争ってこれを求めることとなる。

 

「なんとなく、やるべき事はもうやっちまった、という感じだな。」

 連日歓迎の祝宴とひっきりなしに訪れる謁見者にへき易する7日間の後、弥生ちゃんはようやくにタコリティの街を脱出するのに成功した。一度見ておきたいと、タコ石の鉱山に船で連れて行ってもらったのだ。当然お供のティンブットも船に乗る。水が嫌いな無尾猫も勇気を奮い起こして7匹も乗った。

「そんなこと言わないで、もっと人々をお救いくださいな。」
「いや。実はもう救ってしまったんだよ。石鹸というのはそれほどまでに力がある。人を病気から防ぐ効果があるんだ。」
「そんな妙薬だったんですか。いやー、良いものを頂きました。ありがたやありがたや。」

「あのね、石鹸と言うのは毎日使わないと意味が無い。一般庶民にまで行き渡らないと、世界全体で人を救った事にはならないんだけど、ま、ほっとけば100年後くらいにはそういう風になるだろう。つまりもう救い終わってるんだ。」

 よく理解できないティンブットを尻目に、仮面の男が話し掛ける。ドワアッダの武器屋で出会った彼もまた、救世主ガモウヤヨイチャンに付き従って護衛の役を果たしている。

「セッケンヌはそういう意味がある物だったのですか。なるほど、それはまさしく青晶蜥(チューラウ)神の救世にふさわしい賜り物だ。しかし一般庶民にまで行き渡らせる、というのはとても100年では実現出来そうにありませんね。」

「油が無いからね。この世界は灯油だって使わないんだもん。もっと別の油を絞れる作物を発見して、是非ともなんとかしよう。」
「恐れ入ります。」
「油が無いと、天麩羅だって食べられないもんね。」

 天麩羅という言葉はティンブットにも彼にも分からなかった。ティンブットは弥生ちゃんの耳元に口を近づけ、声を潜めて尋ねた。

「あのー、ガモウヤヨイチャンさま。こちらの、・・・素晴らしい御方は一体。」
「見ての通りだよ。正体不明の謎の怪人。顔を仮面で隠さねばならない凶悪なお尋ね者なのだ。」
「し、しかしこれはどう見ても、聖蟲を、」

 仮面の男が被る金銀の飾り板で彩られた兜には、額から頭頂部にかけて聖蟲を納める為の膨らみが雌鳥のトサカのように付いている。

「ギィール神族なんだ。」
「ギィール神族です。」

 仮面の男がにこやかに答えるが、そんな言葉に騙される者は十二神方台系には居ない。ギィール神族は平均身長2メートル。金雷蜒の聖蟲が与える科学知識に基づき作られた「エリクソー」と呼ばれる霊薬を日常服用することで、偉大なる体躯を手に入れる。それに対して仮面の男は、確かに雄大で整った立派な身体ではあるものの身長185cm程度。明らかにギィール神族ではない。ギィール神族でなく、聖蟲を額に戴き、しかもお尋ね者とくれば。

「はわわわわ。口が裂けても言えない。」

 心当たりは一人しか居ない。しかしそれを言えばただちにお手打ちにされるかもしれない。もしこの人の所在が褐甲角(クワァット)王宮に漏れたりすれば、ただちに追捕の軍勢が押し寄せる・・・・・。

 引き攣るティンブットの肩を弥生ちゃんはぽんぽんと叩いてなだめる。

「そういう人の事を、私たちの世界では”退屈のお殿様”と呼ぶんだよ。」

「ハハ、なるほど。それは良い名だ。しかし救世主さまのおかげを以って、今はまったく退屈しておりませんぞ。」

 船は追い風の中、軽快に波を分けて進む。100人漕ぎの大船であるが、帆柱は一本で横桁にむしろの帆が掛かっている。この世界には木綿も無いから白い帆掛けて絵のように、とはいかない。弥生ちゃんは甲板上を物珍しく観察して回るが、背後から取材するネコ達は船酔いで今にもひっくり返りそう。それでも職業倫理に基づいて必死で甲板に爪を立てて堪え、弥生ちゃんの一挙手一投足を見逃すまいと血走った目で追い続ける。

「縦帆が無いね。」
「縦の帆、とはいかなるもので。」

 仮面の男も船には詳しくなかった。船長を呼んで質問する。だが船長にも分からなかった。

「縦の帆、とはいかなるものでございましょう。長年海の上で生きて参りましたが、そのようなものを見たことはありません。」
「まあ、無い所には無いだろう。私たちの国でも、近世になって初めて余所の国から入って来たんだし。」

「しかしガモウヤヨイチャンさま、帆を縦に張ると風を受けられず走れないのではありませんか。」
「三角形の帆をね、まっすぐ舳先から帆柱に張るのだね。そうすると順風の時は横帆には及ばないにしても、逆風の時でも走れるんだよ。」
「まさか。」
「いやほんと。」

 仮面の男も船長も本気にしない。まあ、あまり性能の良くないむしろの帆では縦帆にしても効果が無いかもしれないので、それ以上は弥生ちゃんも言わなかった。

「で、この船は大きいにも関らず帆柱が一本だけれど、遠くの沖にまでは出て行かないの。」

 船長は仮面の男の顔を見上げて、答えるべきかを目で尋ねた。たぶん、船員としては常識中の常識を真っ向から尋ねられて呆れた、というところなのだろう。仮面の男が代って答える。

「この海の向こうには、何もありません。島も無いのです。かってキルギルギス将軍というギィール神族の船長がまっすぐに船を出して一月も航海しましたが、東西南、いずれの海にも島影一つ見当たらなかったと記されています。」
「まったく、何も無い?」

 弥生ちゃんには一つ疑問がある。この世界は一体どのような姿をしているのか、ひょっとしたら球体でなく本当に住民が言うように平面上にあるのかもしれない。太陽や二つの月はちゃんと巡るから、球体であると思うのが正しいのだろうが、その確信が無かった。世界全体の、十二神方台系の外の国についての情報も欲しかった。

「北は一ヶ月ほど陸を行きますと、いずれ大氷壁に突き当たります。人が登ることを拒む氷の大絶壁です。それが地の果てですね。海は、キルギルギス将軍はいずれの航海においてもやがて暴風に吹き寄せられて十二神方台系に戻っていますから、ここだけが人間に許される世界なのだと、皆は心得ています。」
「うーん、つまり海岸線が見えなくなる先には船は出さないものなのか。そりゃ困ったな。」

 弥生ちゃんは、救世主の役を不快に思ったり重荷だと感じたりはしないが、それでも本来自分が居るべき世界に帰ろうと考えない時は無い。船で漕ぎ出し別の領域に行けば、帰るための情報も得られるかもしれない。いや、十二神と呼ばれる、自分をこの世界に召喚した連中に直接アクセスしなければ帰れないと分かっている。この額のカベチョロはタダの端末に過ぎず、どこかになにか実体と呼べる施設やらご神体やらがあるはずだ。

「あ、ガモウヤヨイチャンさま、見えましたよ。タコ石の採掘場です。」

 船は岬を回って湾の中へ進入した。途端にこれまでと一変した荒涼とした景色が広がる。一片の緑も無くただ灰色の地面がえぐり取られ、視界全てが断崖に包まれる。直径数十キロの円形クレーターの内部に入ったわけだから右を見ても左を見てもまったく同じ光景になる。

「なんというか、これは地獄のありさまだね。」

 高さが100メートル以上の断崖は、ほとんど地層らしいものが無い。上層部に土が数メートル重なっているものの、それから下はほとんどが砂利と土の混合物で堆積岩でも火成岩でもない。強いて言うならば、コンクリートに水を入れなかったもの、に近いだろう。それが30メートルほど一様に占めていて、次に岩石層になる。城の積み石かと思うほどに大きな岩石が無秩序に重なり、その隙間を火山灰状の土が固めている。その下が、

「・・・・・・・・・・・・。」

 誰もが声を失う。差し渡しが100メートルになろうかという巨大で扁平したドームがいくつも折り重なっており、その上の積み石層、コンクリ層を支えている。

「・・・いつ見ても、十二神の偉大さを思い知らされますな。これが紅曙蛸(テューク)です。天の冥秤庭に住んでいたテュークを神々が海中に投げ落とし、大地の礎を作ったと伝えられます。」

 仮面の男が語る十二神方台系の創世神話はいかにも未開民族のそれらしく荒唐無稽だが、この光景を見てしまっては信じざるを得ない。さすがの弥生ちゃんもあんぐりと口を開けてただ見上げるしか無かった。

「これの、下はどうなってるの。」

 その問いには誰も答えられなかった。用も無いのに無理やり深くを掘る者はいない。諦めて弥生ちゃんは話を変えた。

「で、タコ石ってのは、どんなの。」
「これです。」

 ティンブットが首に下げているタコの飾りを見せた。ゴルフボール大の彫り物で足はけちって4本しかない。紅い琥珀、といったところで半透明で柔らかい光を反射する。

「これがごろごろ出て来るの。」
「・・・・・いえ。そんなに簡単には。」
「テュークを掘ると、まずタコ炭という消し炭のような部分に突き当たり、タコ網タコ筋タコ骨タコ腸タコ殻、と順に奥に進み、魚卵のような銀タコ石に覆われた赤タコ石を得る、と言います。」

 仮面の男はタコ石採掘にも相当に詳しい。聞くと、これらは皆戦略物資なのだ。

「タコ炭は真っ黒い煙を出して燃えます。煙幕を張る時によく使います。その他どの部分も色々と用途が有り、特にタコ骨は特殊な処理をすると甲冑の材料や鉄弓の弦にもなります。タコ腸はギィール神族独自の製法で特殊な毒になり、これで農地を封鎖する戦術を使う為に我らは攻めあぐねているのです。」
「われら、ね。」

 ティンブットの首のタコ石を触ってみる。宝石というよりも珊瑚に感触が似ており、生物由来のものだと思われた。見たまんま、この巨大なタコの化石は多分大昔は生きていたのだろう。しかしこんな巨大な生物が折り重なって死ぬとは、どういう破局を迎えたのか。

「で、これは高価なものなの。」

 ティンブットが答える。

「この私のが、踊りの師匠である先代から譲られたものですが、大体家が一軒建つと言いますね。」
「握り拳大で、一生遊んで暮せるといいます。だが坑夫達は掘っても自分のものにはなりませんから給金分しか報われません。長く掘っていると身体を悪くするとも聞きます。」
「紅曙蛸巫女王時代はお金の代りに使われていたんですよ。」

 弥生ちゃんは首を傾げる。なにか遠くの音を聞いている感じなので、誰も声を掛けずに返事が返って来るのを待った。弥生ちゃんの視線の先には、

「おお、あれはテュークの神像ですな。もう着きますぞ。」

 船長が指差した先に、一体だけ断崖から突出して姿を見せている化石があった。ほぼ完全な姿で海中より突き出ているそれは、他とは異なり扁平しておらず球形を保っている。これだけが特に美しいというので、坑夫達は古来より紅曙蛸神の在りし日の姿を映すものとして、丁重に祭って来たという。

「・・・・あの中にも、タコ石があるよ。」

 気の無いような、他人事のような頼りない口調で弥生ちゃんが言う。いつもと違う調子なのでティンブットと仮面の男が弥生ちゃんの顔を覗き込む。足元に寝そべり船酔いに耐えていたネコ達も首をもたげる。

「あの中に、タコ石の大きいのが有る。たぶん世界記録級の大きいのが。ね、誰もあそこを掘らないの。」

 弥生ちゃんは首を振って気合いを入れ直し船長に聞く。とんでもないと船長は手を振った。

「あそこは手を掛けると必ず災いがあるといういわくつきの場所なのです。1000年程前はあの周囲にもいくらかテュークが積み重なっていたとのことで、他は掘り尽くしたもののこれはどうしようもなくて、やむなく神像としたという話です。」
「罰当たりな。蛸足が地面を割ってそなたを引きずり込むように。」

 タコ巫女が眉をひそめて呪いの言葉を吐く。だが弥生ちゃんは、

「掘りなさい。」
「え。」

「今すぐ行ってアレを掘りなさい。」
「いやしかし、あれは、ですから神像で祭っていて災難が降り懸かる、」

「青晶蜥(チューラウ)神救世主が命じます。あのテュークの化石を掘って中に有るタコ石を発掘しなさい。」
「いやでも、あれに手をかける坑夫はどこにも。それより採掘場の領主が承知しないと、」
「えーいじれったい。じゃあ私が掘ります!」

 と、船着き場に着く前に海に飛び込もうとする弥生ちゃんを抑えて、仮面の男が言った。

「どうしたのです。アレを掘るのがそんなに重要なんですか。」
「私じゃない、あなた達に重要なのよ。」
「なにがあると言うのです。」
「だから、特別大きなタコ石なのよ。出してくれ、と呼んでいる。聖蟲が付いていながらそんな事も分からないの?」

 既に右舷に大きく姿を現わしたテュークの神像を前に、甲板上の全ての者が成り行きを固唾を飲んで見守っている。明らかに弥生ちゃんの言うことは変なのだが、1000年に一度現われる救世主が常識的な事をする筈も無く、従うべきかなだめて止めてもらうか誰も決めかねていた。だがさすがに船長はこの状況はまずいと感じて、進言する。

「それでは、まず船を着けて坑夫を募りましょう。手続き上許可も二三得なければなりません。なによりあそこは海の上ですから、作業用の小舟が無いと近づく事も出来ません。」

 弥生ちゃんはじっと神像を見つめている。唇に右手の人差し指を当てて考え続ける。額の上のカベチョロも同じ方向を見て、ひたすらに尻尾を振っている。その様子に初めて仮面の男が気付いた。

「まさか、青晶蜥神が直接お命じになられたのですか。」

 弥生ちゃんは予想外の事を言われたかのように、ふっと顔を上げて振り向いて、笑った。

「あ、そうか。こいつが言ってたのか。気付かなかった。私はてっきりタコ石が喋っているのかと思ってた。」

「タコ石が喋った!?」

 と今度はティンブットが驚き慌てた。彼女はタコ巫女であるから、自身の管轄であるに違いない。

「もしや、ガモウヤヨイチャンさま。紅曙蛸神がお話になっているのですか。」

 弥生ちゃんは即答しなかった。結局掘ってみなければ答えは得られないのだ。

「船長。わたしからも頼む。これは容易ならざる事態らしい。もし誰も手を上げないのならばわたしが掘ろう。舟だけ出してくれればよい。」

 仮面の男が船長に命じ、方針が決定した為に船員達はようやっと胸を撫で下ろし、それぞれの職分に戻った。船長はてきぱきと入港の指示を出した後、仮面の男の側に来てこっそりと話した。彼もまた、男の素性を知る者だ。

「人が死にますぞ。あなたも危ない。」
「致し方ない。王事と心得よ。」

 

 案の定、災害は起きた。落石や海水の噴出、不意の地震に蒸気が立ちこめ、人の接近を拒み続ける。まるで神像に意志があり防衛しているかのようだ。だが、弥生ちゃんもその場の誰も怯まない。むしろこれだけの事が起きるからには間違いなく何かがここにある、との確信を深めていく。

 無論、坑夫は誰も来なかった。来るべきではなかった。作業に当たる仮面の男は、並の人間ならば七度死ぬ目に遭っている。彼の無双の怪力と驚くべき跳躍力が無ければ神像に乗り移ることすら出来なかったろう。小舟で来たのは弥生ちゃんとタコ巫女ティンブット、職務上付き合わねばならなくなった哀れな現場責任者。来た時乗ったのよりもさらに小さな舟に渋った無尾猫も、弥生ちゃんに首根っこを掴まれて2匹叩き込まれた。「見よ」と命じられては従わないわけにはいかない。

「!」

 異変を感じて弥生ちゃんが気を飛ばす。それに仮面の男の聖蟲が感応して、ばっと右に飛ぶ。途端、今居た所に大石が落ちて来る。こんな事ばかりで、とても掘るまでに至らない。

「救世主さま、これでは中深く掘る訳にはいきません。」

 タコ石はテューク化石の中央深く、直径100メートルとして50メートルはトンネルを掘らねば得られない。だがこんなに様々な妨害があるのならば、坑道を掘れば中で押しつぶされるに決まっている。

「わかった。斬ろう。」

と、腰の後ろに挟んでいたハリセンを取り出す。さすがにティンブットは慌てて弥生ちゃんの前に立ち塞がった。

「あの、ガモウヤヨイチャンさま。さすがに全部破壊するというのは、紅曙蛸神に恐れ多いのでは。」
「そこをどけ。どかぬと言うのなら、テューク神に殉じさせてやろう。」
「どきます。どきますからもっと穏便に。」
「分かってる。一発で決めるから。」

 舟の上に立ってハリセンをかざし慎重に切断線を吟味する。切るだけでなく切った岩塊がちゃんと落下して、中央への通路を作らねばならないのだ。幸い奇麗に直立した半球状である為に、斜めにスライスすれば自然と上部が海に滑り落ちると見た。

 だが、その意図を感じ取ったのか、風も無いのに徐々に波が荒くなり、小舟を転覆させようとする。全員船べりにしがみつき必死で振り落とされまいと耐えるが、弥生ちゃんだけは舟に根が生えたみたいに二本足で立ち続ける。

 ぱあん、とハリセンを開く。途端に波が静まった。正確には、舟の周りだけ波が無くなり、不自然に滑らかな静水になる。

 神像上の仮面の男はそれを見てまずいと思った。ガモウヤヨイチャンは時折前後を弁えず行動を起す癖がある。後で帳尻が合うようにちゃんと考えてはいるのだが、他人はその勘定に入ってない事もある。もしもの場合でも、これでは逃げ場が無い。弥生ちゃんの手元が狂わないよう祈るだけだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。ぃええい!」

 ハリセンは開いたまま、左から右に30度の角度で振り下ろされた。しばしの沈黙。やがて、水平線の彼方から殺到する氷風で再び小舟は弄ばれる。

「・・・・ちょっと、狂った。」

 氷風が転じて長さ200メートルほどの薄い氷の刃が白い弧を描き、すり抜ける。刃が通過した跡には神像に斜めに真っ直ぐ氷のラインが入り、氷が溶けると同時に断ち切られた上部がずると滑り始めた。何千トンもの岩塊が徐々に速度を増し、海に駆け降りていく。その振動で至る所から小岩が跳ね飛び、至近に居る仮面の男に襲いかかる。男はノミのように飛び跳ねて岩を避けるが、さすがに全ては避けきらず、人の身体大の丸石の直撃を食らって海に沈む。

「ああっ、ヒィキタイタン様!」

 ティンブットは思わず禁断の名を口に出す。が、弥生ちゃんは知らん顔だ。褐甲角(クワァット)の聖蟲は人に怪力と不死身の肉体を与える。このくらいでは死ねはしないのだ。それに聖蟲同士は今も会話し続けている。海中の彼の安否は見ずとも分かっていた。

「よし。」

 ついに切った岩はすべて海に落ちた。スイカの上部をスライスした形であり、上から直接中心部を掘る事が出来るようになった。もはや落石を考慮する必要はない。

 仮面の男が海面に浮かび上がって来た。が、うつぶせで意識が無いようだ。さすがにこれは助けねばなるまいと、風采の上がらぬ割には偉そうな現場責任者の小男に漕がせて舟を近づける。櫂で引っ掛けると、さすがに起きて掴んできた。

「・・・直撃、骨は大丈夫だった?」
「ハハ、救世主様と居ると、退屈しませんな。」

 ずぶ濡れになってもさすがにいい男の返事は違う。ティンブットも手を出して舟の上に引き上げ、妨害の無くなった神像に皆で上陸した。
 タコ化石は頭部を輪切りにされた為、内部の構造がよく分かる。単純な何層もの球体ではなくそれぞれ内蔵に相当するかなり込み入った襞があり、血管神経の通っていた跡が顕である。

「たしかにこれは生物だ。ひょっとしたら造り物かとも思ったんだけど。」

 ぽつりと言った弥生ちゃんの感想に、仮面の男が尋ねる。造り物とは一体どういうことなのか。

「いやね、こんな大きな生物は私の世界には無いのよ。あり得ない、と言ってもいいわ。第一こんなに重くては形を保つ事が出来ない。海に浮かぶのがせいぜいなのに、大地を支える程に頑丈だなんて、生き物では絶対不可能なのよ。だから、ひょっとして神様とやらの乗り物かなんかかと、」
「なるほど。天の神座を行き交う舟ではないか、とそう思われたのですな。そういう言い伝えも無くもない。私たちもテュークとはなにか常々考えていたのですが、中身はこんな形になっていたのか。」

 神像の中心部にタコ殻が露出していた。この中には銀タコ石が詰まっており、もう数メートルで核である赤タコ石に突き当たる筈だ。

「タコ殻は非常に固い為、穴を開けるのに鏨が必要です。」

 現場責任者の男は、専門家らしく言ってみる。が、弥生ちゃんの折れた刀ですぱんと殻が断ち切られたのを見て、二度とこの人達には説明すまいと心に固く誓った。

「はああ、ああああ、あああああああああっ。」

 つるはしを捨て、三人で慎重に銀タコ石を掘った先に、それは有った。いや、居た。赤く陽の光を照り返すまでに露出してくると、ティンブットはもはや手を動かす事が出来ず、涙を流して伏し拝む。仮面の男の怪力で地上に引き出されたそれは、人の形、弥生ちゃんと同じ背丈の小さな婦人の像だった。額には小さな蛸が宿り共に眠っていた。

「この方は、この御方こそが、創始暦2561年に地中に御隠れになった、紅曙蛸神巫女王五代トュラクラフ・ッタ・アクシ様でございます。」

 紅曙蛸王国最後の、悲劇の女王が自ら地中に没した姿の立像であった。

 

「生きてるよ、これ。」

 

 

『十二神創世の物語

 天の星河の両岸に住む十二の神様は、今度はどこに新しい世界を創ろうかと相談していました。

「今度はあの海の真ん中に大きなゲーム盤を作ろう。」

 しかし、海の中には何も無く、陸地を作る基いがありません。そこでタコの神様は、星河で自由に泳いでいた仲間達に言いました。

「お前達、あそこに行って陸地を支えてくれ」

 こうして夥しい数のタコが天から海に投げ落とされて、皆折り重なって大きな大きな島を作りました。

 神様達はタコ達の上に粘土を敷き詰めて四角い陸地を作りましたが、まだ地面は乾いておらず、誰も住めません。

 そこで、ゲジゲジが熱く焼けたコテを持って、地面を急いで乾かします。

 カブトムシは地面の土を丸く固めて転がして、穴を埋めたり山を作ります。トカゲは水晶の棒で地面を均して行きました。

 しかし、一生懸命に地面を乾かしていたゲジゲジは、カブトムシのお尻も焼いてしまいます。

「熱い熱い」とカブトムシが泣き、トカゲは冷たい水晶で冷やしてやりました。火傷したカブトムシが埋めなかった大地の真ん中の穴ぼこは、のちにアユ・サユル湖になります。

 そこでお昼休みをとり、皆でご飯を食べました。

 午後は蝉蛾が大きな羽根を広げて地面を煽ぎ、細かい埃を吹き飛ばします。埃が目に入って神様達の目は真っ赤になりました。蝉蛾はすっかりきれいになったのに満足してぎるぎると良い声で鳴きました。

 地面があらかた出来たので水を張って森を作ります。水は北の氷をゲジゲジの焼きごてで溶かして作ります。しかし、あんまりコテが熱いので、手が滑ってアユ・サユル湖に落してしまいました。水が沸き立ってぼこぼことあぶくが何時までも浮いてくるので、皆で一生懸命氷を放り込んで、やっと冷たくなりましたが、今でも時々あぶくが出ます。

 次にミミズが地面を掘り、水の通り道を作ります。しかし、特に念入りにトカゲが均した東の大地は、粘土が固くなって掘れません。ミミズはトカゲに文句を言いますが、「そういう事はもっと早くに言うものだ」と知らぬ顔。怒ったミミズは二度と口をきいてくれません。

 森を作るのはカタツムリの役目です。丁寧に丁寧に一本ずつ木を植えて行きます。あんまり丁寧過ぎて、このままでは夜が来るまでに出来上がらないと、皆で手分けして木を植えます。しかし、カタツムリのように上手には植えられないので森はまばらになりました。トカゲが固めた東の大地は、やっぱり木は植わりませんでした。

 やっとで出来た森の木を、一本一本蜘蛛が調べて、証拠に糸を巻いて行きます。「これをやらないと、カニがうるさいんだ」。気に入らないとカニは木をばっさりと切ってしまいますから、注意して丹念に調べて行きます。おかげで結局出来上がりは夕方になりました。

 カニが大地の出来上がりを調べて周ります。地面を這ってどこか文句を付けるところは無いか、目を突き出して調べます。しかし、どんなに頑張って調べても、変な所は見つかりません。東のつるつるの地面は、カニはむしろ気に入りました。「ここに家を建てればよい。」皆、ほっと胸をなで下ろします。しかし、文句を付けられなかったカニは、ちょっと不満で、腹いせに西の海岸の端をがじがじと切り裂いてしまいます。そして、西の海の夕焼けの中に帰ってしまいました。

 後はみんなで大宴会です。夜に明々とかがり火を焚いて、神様達は昼間の苦労を労いました。カエルの女の子が皆にお酌をしてまわり、蝉蛾が歌ってたいそうな盛り上がりで、それにつられて、地面の下にいたタコが南の端からぼこっと抜け出てしまいました。タコは酔っぱらって八本の脚を振って面白い踊りをしました。

 はしゃぎ過ぎて疲れて皆が寝てしまったので、宵っ張りのコウモリが皆に毛布を掛けてまわります。しかし、ごそごそとする音でネズミが目を覚ましてしまいました。

 ネズミは言いました、「今度できた地面にはどんな生き物が住むんだい。」 

「ニンゲンというこれまでに無い生き物なんだ。」

「それはどんな形をしているんだい。」

「形はカエルのようで尻尾は無く、色はミミズ色、ネズミと同じで身体が温かく、カニみたいに大きく手を上げて起き上がり、顔はコウモリに似てるかな。」

 「よくわからないよ。」とネズミが言うので、コウモリはニンゲンの人形を作ってみました。ふっと息を吹き込むと、カエルのように手足が二本ずつしかなく、ミミズ色でつるつるした、顔がコウモリに似た、でもニンゲンじゃない怪獣がカニのように起き上がり、大きな声で吠えました。

 ネズミはその声にびっくりして、百の姿に分裂し、出来たばかりの大地のあちこちに隠れて行ってしまいました。

 

 そうして朝が来て、ニンゲンの世界が始まったのです。』

 十二神神官巫女の制度は紅曙蛸巫女王国時代に、タコ女王の肝入りで民衆の生活全般に渡って便宜を図る為に作られたと知られる。が、その元となる創世神話は、似た物語がネズミ族時代の洞穴壁画にも残されており、よっぽど古い時代から十二神信仰の萌芽があったものと推察される。(蒲生弥生)

 

 

第5章 ゲルタ売りの少女、王都にて混乱のるつぼを覗く

 

 褐甲角(クワァット)王国の首都カプタニアは十二神方台系の中心、アブ・サユル湖とカプタニア山脈に挟まれた天然の要害にある。ここは東西を繋ぐ通行の結節点であり、ここを死守する事で世界を分割出来る戦略上の最重要拠点である。褐甲角王国がここを奪取して初めて王国としての体裁を整えたとも言え、、面目を賭けてここに大城塞を築き威容を整えている。とはいえ、首都であり王都であるこの街が王国最大という訳でもなく、西に商都としてルルントカプタニア、東に穀倉地帯から年貢が集積されるヌケミンドルという大都市が控えており、カプタニアは褐甲角神の象徴するそのままに、派手さのない堅実で重厚な、面白みの無い都市に仕上がっている。

 

 カプタニアに住む少女、アルエルシィは、西大門にて、王城の外庭に住む友人のヒッポドス弓レアルを待っていた。

 外庭は官僚街であり王城に勤める役人が居住する地域だが、この世界では役人と御用商人の区別がはっきりとしておらず、都合によって民間人であっても官職を拝命する。外庭に住む資格は家格によって定められており、外庭に住めるからこそ官僚にもなれる、という仕組みだ。弓レアルが外庭に住むのも、曽祖父が東金雷蜒王国の宮廷官僚であり、亡命した後もその階位のまま褐甲角王国で遇された名残である。

 トゥマル・アルエルシィは家格においては単なる一般人であるが、実家のトゥマル商会はヒッポドスと同様にクワァット軍に軍需物資の納入を行っており、まずは富商の一つに数えられる。取り扱い品目はゲルタ、つまり塩魚である。ゲルタの業者は数多いが、トゥマル商会はその中でも大ゲルタと呼ばれる近縁種を特に扱っており、秘伝の製法により普通のゲルタよりも優れた出汁が取れるように改良した、つまりカツオ節ならぬゲルタ節を売って巨万の富を得た。トゥマル家の次の野望は、王宮へのより強い結びつきを得る事であり、その為に娘アルエルシィを黒甲枝のいずれかの家に嫁入りさせようとツテを探っている。一足先に決まった弓レアルの縁談に、アルエルシィの父は地団駄踏んで悔しがったという。

 当の娘はそんな事には頓着していない。いや、千年に一度の激変期、青晶蜥(チューラウ)神救世主が現われて世界を革新し新王国を築こうという時期に、従来通りのやり方で良いのか、少し疑問に思っている。救世主ガモウヤヨイチャンの降臨が1000年から4年も遅れた事で一時は迷いもしたのだが、今まさに降臨された知らせを聞き、それにより街中が大きく揺らいでいるのを見るに、やはりもう少し慎重に将来を考えるべきだとの想いを強くする。

 それにしても、何故にこんなにこの世界は弱いのだろう。救世主ガモウヤヨイチャンはこの世界に来て未だ何もしていない。王国を築いたのでも褐甲角金雷蜒両王国と衝突したわけでもない。ただ、居るだけで、これほどまでに人の心を騒がせる。戦々恐々とする人は多分後ろ暗い所が有り、青晶蜥神救世主により旧悪が暴き出されるのを恐れているようだ。また或る人は公然と褐甲角王宮と黒甲枝を批判するようになった。黒甲枝は無敵不敗にして正義と秩序の守護者、信仰の対象として申し分の無い偉大な存在であったはずなのに、今では千年も掛かっても金雷蜒王国を打倒し得なかったと罵られている。更には褐甲角王国を裏切り新王国建国の援けをなして、自ら青晶蜥神族に取り立ててもらおうと謀る者さえ居るという。チューラウの神が救世主を星の世界から別して連れて来たのも無理からぬ事だ、とアルエルシィは嘆息した。この世界の人間であれば、決して混乱の渦中から抜け出せなかったろう。

 

 世を憂いてみても、さりとて人は自らの欲望に忠実なもの。彼女の今日の目的は、弓レアルと共に東城外街に赴き、青晶蜥神官が放出する数々の薬品化粧品を購入する事だ。

 青晶蜥神官巫女は傷つき病んだ人を癒し薬を売るのが役目だが、救世主ガモウヤヨイチャンがその売薬を検査したところ、効能が不確かなもの、期待通りの効果が得られないもの、あるいは効能書きとは逆に実は毒だったもの、などが判明して、旧来の薬を全部調べ直さねばならなくなったという。そこで青晶蜥神殿では在庫の薬品類をすべて半額以下のディスカウントセールにして、併せて救世主様の降臨をお祝いする大祭を行っているのだ。青晶蜥神殿は低所得者層が多く住む東城外に有る為に、お供の下男の数を増やさねばならず、弓レアルと相談して今日共にお参りすると決めたのだ。願わくば、現在市中の婦女子の間で評判になっている、救世主様が自らお作りになられたという”セッケンヌ”、使うと美しさが倍増する奇跡の妙薬を手に入れたい所だが、さすがにこれは未だ無いであろう。タコリティに人をやって買い求めることが可能か、その辺りも神官巫女にうかがってみなければなるまい。

「・・・アルエルシィさま。」

 振り向くと、弓レアルが供を連れて大門から下りて来る所だった。アルエルシィは5人の男に下女を二人連れて来たのだが、弓レアルは護衛を二人に家庭教師のハギットを伴うだけだった。ただし、護衛は元クワァット兵であり腕は確かで心強い。

「・・レアルさま、どうなさいました。」

 近くに寄ってみると、なぜか弓レアルの顔が青い。ハギット女史も同様で、護衛達が二人の様子を気にしている。身体の調子が悪いのかと思ったが、それならばここには来ないだろう。

「なんでしたら、青晶蜥神殿参拝は取りやめに致しましょうか。」
「いえ、そうではないのです。そうでは。」

 そうは言われても弓レアルの様子はただ事ではない。しかし、優しいものの気丈というわけではない弓レアルに事情を聞くのは難しく、やむなくハギットに尋ねてみた。

「なにがあったの。」
「私の口からはとても。お嬢様、お話になりますか、それとも紅曙蛸神殿に知らせが届いた後に致しますか。」
「ネコが、ネコが。」

 無尾猫は人に噂を伝えるが、誰に真っ先に伝えるかの優先順位は厳密に差別している。要は一番高く噂を買う者に優先的に話をするわけで、その点優しくて気前が良く、ネコ好きの弓レアルはカプタニアにおいてもトップクラスの優先度を持っている。優先順位は口の堅い順でもあり、ネコが伝えるよりも早く人間の間を噂が駆け回らないように、しばし口外を控えてくれる人を選ぶのも、ネコの嗜みというものだ。無理強いして聞けるものでもない。

 そうは言っても、青晶蜥神救世主が降臨したこの時勢において、他人よりも早くに噂を手に入れる事は死命をも制する重要時であり、ここは是非にでもうかがわねばならない。アルエルシィは下男下女達の耳を塞がせて、こっそりと教えてくれるように頼んだ。かなり悩んだ末に弓レアルは観念して、最新情報を教えてくれた。

「ガモウヤヨイチャンさまは、タコリティを離れました。そして、タコ石の採掘場に参りまして、紅曙蛸神の化身と称される巨大なテュークの像を破壊しました」
「なんですって!」

「中から、これまでに誰も見たことの無い大きなタコ石の塊を取り出しました。それは、それは、・・・・・。」
「なんです。そのタコ石がどうしたのです。」
「・・・・・・そのタコ石は、人の形、ああっ、なんてことでしょう。」

 これはダメだと、ハギットの方を振り向くと、こちらは肝が据わっているから、狼狽えもせずに耳打ちして教えてくれた。

「そのタコ石は人の形をしていたそうです。女性で、額に小さなタコの聖蟲を頂いた姿の、」
「まさか!」

「そのまさかです。失われた古代の紅曙蛸神巫女王五代トュラクラフ様だという事です。」

 絶句した。もしその噂が本当ならば、ガモウヤヨイチャンさまは新王国を打ち立てるのみならず、紅曙蛸巫女王国の復活すら成し遂げるかもしれない。五代テュラクラフと言えば今もなお人気のある女王で、その人がたとえ石像とはいえ地上に姿を現わしたと知れば、参集する人は数知れない。フリーの交易警備隊は今もなお紅曙蛸巫女王に仕えると標榜しているくらいで、呼びかければ瞬く内に軍勢を揃えるだろう。救世主ガモウヤヨイチャンは既に自前の軍隊を手に入れたも同じ、というわけだ。

「うそ、みたい。」

 新しい救世主が降臨すれば世の中は急激に変わる、と誰もが知るところではあったが、これほどまでに早いとは誰の予測の内にも無かった。

「どうしましょう。青晶蜥神殿はやめて、紅曙蛸神殿に行ってみましょうか。」

 紅曙蛸神殿は青晶蜥神殿とは逆に西城外街の、それも大門傍にある。つまり目の前だ。ネコの知らせが届けられた紅曙蛸神殿は大騒ぎになるだろうが、自分達をかまう暇も無くなるはずだ。それは面白くない。

「レアルさま、やはり青晶蜥神殿に参りましょう。明日になれば、また何か起きて、それどころでは無くなるかもしれません。」
「お嬢様、それがようございます。紅曙蛸神官様も、自分より先にこれほどの重大事を知らされた者が居ると知れば気を悪くなさるでしょう。」

「そうですね。」

 弓レアルも気を取り戻して頷いた。騒いだところで自分になにが出来るわけでもなく、ただ今を悔いの無いように生きるしかない。いずれ世が変わるのならば甘んじてそれを受入れるまでだ。

「セッケンヌ、はやはり無いでしょうね。」

 アルエルシィは苦笑する。さすがに考える事は皆同じだ。

 

 西大門から左に歩いて隔壁門の関所をくぐる。この道は城壁外周の港の傍を通る脇街道で、主に民間人や物資の往来に使われる。カプタニア城を貫く中央道は弓レアルが一緒ならば通れるのだが、最近は警備が厳しく長く待たされるという事でこちらを選ばざるを得なかった。道の脇に難民や港人足が居て荷車の往来も多くあまり通りたくない道だが、こちらも今は警備の兵が多く配置され怪しい者を見張っているので、安全という点では問題は無い。城壁の下にへばりつく人足街や水夫街は有事の際には焼き払われるという事だが、遠からずそれもあり得ると思えば、市場の賑わいも薄ら寒く表面だけで空騒ぎしているようにも感じられる。

 そんな風景を道すがらに見ながら、アルエルシィは紅曙蛸巫女王国の昔を想った。

 

 紅曙蛸(テューク)巫女王国は今より三千年前に建った最初の王国だ。初代巫女王ッタ・コップは華やかで聡明、楽天的で人々の未来を信じ、神秘的な予言を数為したまさに救世主の鏡とされる人物である。多分に誇張も混じっているのだろうが、彼女がそういう印象を努めて人に与えていた事は確かだ。

 ギィール神族が鉄を打つ火の救世主であるのと同様に、ッタ・コップも火の女王だった。それまでの時代は限られたネズミ神官のみが火を熾せたものを、火打ち石で誰でも使えるようにし、草原を焼いて畑に穀草を植え、増え過ぎた人々を餓えから救う。土をこねて土器を作り、木を焼いてくり貫いた舟で運び、交易して多くの財貨を得る。狼煙を上げて数百里の先の敵を知り、火で一網打尽に打ち砕く。貨幣も文字の使用もここから始まり、まさに文明が人々の目の前で手品のように繰り広げられた。

 王国は女王の指導の下繁栄を続け、ッタ・コップは老いることなく美しいままに140年を生きた。紅曙蛸王国には神族に当たるものは無く、聖蟲を戴くのは唯一人巫女王のみ。不老長寿でその治世は長いが、或る朝突然姿を消し、玉座には新しい女王が額に聖蟲のタコを戴き座っている。それが紅曙蛸巫女王の代替わりで、前の女王は蛸脚で地面を割って地の底に帰る、と人々は噂した。

 噂が実証されたのが、五代トュラクラフ・ッタ・アクシの悲劇でだった。建国より早500年、王国は繁栄の絶頂にあったがその副作用も深刻で、各地に貧富の差が生まれ、本来平等であったはずの人々の間に階層が出来上がっていた。富める者は自ら武力を貯え村を支配し、交易に用いられる商品作物の栽培に人々を駆り立てて食糧生産を怠り餓えを引き起こした。王宮に仕え交易を公正に管理するはずの役人「番頭階級」も私腹を肥やすことに走り、各地の有力者と結託して勢力争いを繰り広げる。人々は皆、タダの人間による支配が決して幸福をもたらさないと見定め、紅曙蛸巫女王に絶対的支配体制の確立を要求するまでに追い込まれた。

 しかしテュラクラフは肯んぜなかった。多分に人々の善意を信じたかったのだろう、詔を発して私利私欲と暴力による村の統治を止めるよう諌めたが、それを聞く者はどこにも居らず、却って番頭階級と謀って偽の詔を連発し、勝手に街道に関所を設け関銭を取り立てるようになった。これに怒った交易警備隊は再三女王に直訴するも通らず、独断で目に余る関所を焼き討ちして往来を旧に復したものの、女王は悲しい目を伏せるだけだった。おそらくは初代巫女王から紅曙蛸神の意志として人の世に強制的に介入するべきではない、と伝えられて来たのだろう、と交易警備隊長達は考え、それならばと最終的な手段を講じた。宮廷において番頭階級を一掃し各地の有力者を征伐して全土を統一した支配体制を自分達の手で築き、その上に紅曙蛸巫女王を戴く王国に再編する。人の意志として成し遂げられた王国であれば、女王もこれを受入れるだろうと考え、行動に出た。

 番頭階級は女王の官僚である。当然殺戮は紅曙蛸王宮において最も激しく凄惨に行われた。番頭達は読み書き算盤のエキスパートであり、弁舌においては人を完膚なきまでに叩きのめすのを常とする高慢な者で、武を卑しめ交易警備隊を自らの配下として無理強いに汚れ仕事や私益の為の不法行為をさせる事も多かった。その鬱憤を晴らす復讐の意もあったのだろう、粛正は厳格を極め番頭のみならずその家族や使用人にまで及ぶ。多くの者は城を逃げ出し街道に待ち構えていた兵に殺され、逃げ切れなかった者は最後の救いを求めて女王の内宮へと転がり込んだ。しかし、侍女達も番頭階級を深く恨んでおり交易警備隊に同情的で、番頭達を内宮から兵の待ち構える表に突き返し、あるいは城壁から投げ落して殺した。

 制圧を終え、交易警備隊総頭役ギダルマーが女王の下に参じたのは事が始まって三日後だった。もはや王宮を蝕む者は無く、新しい穢れの無い、真に人々の幸福を考える強力な指導力を持った王国を作る好機が訪れた、と申し述べる。それに対しテュラクラフは「お前達の望むモノはッタ・コップより千年後に与えられるであろう」と最後の予言をして、地面を割り巨大な蛸の脚を召喚して自ら地の底に姿を消したのだった。

 その後やむを得ずギダルマーを主席とする統一王国を建てたものの紅曙蛸巫女王を失っては求心力があるはずも無く、ほどなく瓦解。各地の有力者は生き延びた番頭階級を配下に迎え制度を整えて、小王を名乗りそれぞれ勝手に国を建て、互いに争い合う乱世となる。だがそれ故に人々の暮らしは逆に楽なものへと落ち着いた。交易路が寸断され関銭を取られて自由な商売が不可能になると、交易商品の栽培や生産が停止して本来の食糧生産に労働力を戻した。世界全体の動きに一喜一憂する必要も無くなり他から流れて来る者も激減した為に、血縁のみが住むあらかじめ秩序が確立した村社会が復活する。自らの領地を防衛する為に小王達は村人の機嫌を取らねばならなくなり、以前ほどに横暴を働く事も出来なくなった。

 文明の停滞により本来世界が在るべき姿を取り戻したとも言え、魔法が解けたように人は紅曙蛸巫女王国の治世を忘れ、ただ栄華の記憶のみが語り継がれる事となる・・・・・。

 

 

 港をぐるっと回って双子門の所まで来ると、いきなり混雑し始めた。

 双子門は旧カプタニア城と新カプタニア城を繋ぐ隔壁に穿たれた左右の門であり、これを閉じられてしまうと街道が塞がってしまう。旧カプタニア城は金雷蜒神聖王国時代の建築で、現在主流の建築物とは異なり貴重な大石を積み重ねた繊細で優美な楼塞である。これに比べると遥かに巨大な新カプタニア城、カプタニアの山肌に段々に防塁を重ねた大要塞が、いかにも稚拙で劣ったものに見えて来る。新カプタニア城はいわゆる土塁であり城壁も土を衝き固めて粘土を塗っただけの代物で、華麗さ優美さとはまるで縁が無い。旧カプタニア城は芸術品とも称えられるが、新城の方は黒甲枝が自賛するのを聞いた事さえ無い。もっとも土塁であるからといって弱い訳ではなく、むしろ単なる土塁であるからこそ石造りの城のように砕かれず焼かれず頑強であるのだが。

「なんでしょう。」

 アルエルシィは下男をやって先を確かめてみる。旅人や荷運び荷車引きの人夫だけでなく、服装の整った裕福そうな人も結構混じっている。おそらくは自分達と同じ青晶蜥神殿参拝が目的なのだろう。この様子では神殿周辺はもっと混雑して前後に身動きも出来なくなるかも知れない。人をかき分け汗だくになって帰って来た下男が報告する。

「お嬢さま、なにやら王宮からの視察があるようで、中央門が開いております。」

  双子門と王宮へ通じる中央門の間は幅が200歩もある広い通路であり、「死の庭」と呼ばれている。双子門を抜いた軍勢は中央門で阻まれ、黒甲枝の住む「内庭」と近衛兵営が有る「兵庭」の高い壁に挟まれて、左右から弓矢や投石で皆殺しにされる仕組みになっている。またここは広場にもなっていて出陣の軍勢が馬揃えをしたり、重要な刑罰が見せしめとする為にここで行われたりもする。近いところでは「ヒィキタイタン事件」で当時の侍女頭ファンファネラが身代わりに虐殺されたのもここである。

 

「どうしましょう。やはり今日は取り止めた方がよろしいのでしょうか。」
「お嬢様、アルエルシィ様。これでは折角薬を買い求めたとしても日暮れまでに戻れないかもしれません。誰ぞをやって私達は戻りましょう。」

 そうは言っても、後ろから押し寄せて来る人の波で戻るに戻れない。視察が終わって警備が薄くなれば途端にスムーズに流れ出すかもしれず、その見極めが付かないで迷っていた所に、

どん、どん、どどんどん、ぱあーあああぴらぴらぴらばー、どんどん

 後方、隔壁門から笛や太鼓の音と共に、更に大勢の人数が押し寄せて来る気配がする。しかし後ろを振り向いても人波で、背の低いアルエルシィには何も見えない。

「ジドッゴ、背を貸してわたしを上に押し上げて。」

 下男の一人の背に乗り下女に後ろから尻を支えさせて、アルエルシィは高く身を乗り出して後ろの列を見た。

「紅曙蛸神官だ・・・・。」

 紅曙蛸神の山車が、秋の大祭にのみ使われる人を乗せる車が、何故かこちらに向かってやって来る。山車だけではなくその周囲を楽器を携え奏でながら歩く神官と、五色の衣装に身を包んだ麗しいタコ巫女が踊りながら何人も付き従っている。山車を引くのは手空きの難民であろう、餅や銭を山車の上から撒いており、人手は十分足りているようだった。

「・・お嬢様、これは紅曙蛸神殿にも知らせが届いたとみえます。紅曙蛸神官様が青晶蜥神殿に御礼を申し上げに行くのでしょう。ますます人が込みますよ。」

 ハギットはそう断じたが、アルエルシィは、それではなおさら行かねばなるまいと思った。こんな光景は1000年に一度も見る事が叶わないだろう。この時この場所に生きていて折りよく居合わせたというのに、背を向けて家に帰ってしまっては後々死ぬまでも後悔するに違いなかった。

「レアルさま、山車よりも早くに進まねば、後ろは人で溢れてしまいます。」
「そうですね、しかし、ここは双子門を抜けて兵庭の方に退きましょう。とても青晶蜥神殿までは行けません。」

 この大混乱の中では幾ら護衛や供が居たとしても迷子になりかねず、下手をするとかどわかしにも遭ってしまう。嫁入りを控えた弓レアルが慎重なのも当然で、アルエルシィも従わないわけにはいかなかった。

 双子門の検問を弓レアルの鑑札で速やかに潜り抜け、百人抜きで城内に入った。広い通りを横切って反対側の兵庭の高塀の下に移る。東城外街はもうすぐなのだが東からも人が押し寄せているようで、とても安全など望める状態では無かった。

「しかし、今頃何を視察なさるのでしょう。お出ましになるのはどちらの王族でしょうか。」

 ハギットは警護に居並ぶ兵の一人に尋ねてみるが、答えてくれない。最近はいきなり通りに現われて人を刃物で斬って回る「通り討ち」という犯罪も横行しており、城内と言えども安全とは言い切れない。闇雲に人を殺すのが最近の犯罪の特徴で、噂によると督促派という政治思想が関与しているらしい。千年の到来を待ちきれず、また経過しても一向に現われない青晶蜥神救世主に痺れを切らし、自ら救世主を名乗って世を変えると称して人を害して回る。犠牲が多い程に旧体勢を揺るがし真の救世主への道が拓けると信ずる狂気の反体制運動だ。東城外の刑場では自称救世主達が何人も火刑に処されている。

 

「来た!」

 王城中央門の下から無装甲で短槍の猟兵装備でクワァット兵が二列縦隊で進んで来る。黒甲枝の丸い大きな甲冑の姿は今だに見えない。聖蟲を戴く無敵の戦士である黒甲枝は王族が視察する際には必ずその露払いをするので、弓レアル達はあれと思った。では誰が視察に来るのか。

「・・・下げよ、下げよ。ハジパイ王、嘉イョバイアン様の御視察である。こうべを下げよ。」

 かかっと地面を蹴る音がして、兵の列の間を大きな狗が走りぬける。体長2メートル、細身で筋肉質で四肢が長い。灰褐色の身体の毛は短く、短鼻で肉厚の頬が垂れる貌。黒い口の中から鋭い牙が光を放っている。いかにも精悍で、獰猛な肉食獣の本性を顕にして隠さない。その額には、

「聖蟲だ。サクラバンダだわ・・・。」

 弓レアルが思わず口に出した。北方森林地帯の産の大狗で、淡緑色に輝くカブトムシの聖蟲を戴くサクラバンダは、第二王家の当主で元老院議長、現在の褐甲角王宮で最大の実力者ハジパイ嘉イョバイアンの飼犬として知られている。山上の王庭に篭り俗世に下りて来ない彼が、サクラバンダの聖蟲の目を借りて市内の状況を覗いている。王族が持つ金色の聖蟲はそういう能力を持つのだと狗付きの女官に教えられたが、しかしこのように恐ろしい狗の前で誰が真の姿を晒すだろう。

 弓レアルは、サクラバンダの後ろを目で探した。必ず居るはずだ。大狗の世話係を申し付かった、義妹となる人が。

「お嬢様、居ました。斧ロァラン様です。」

 ハギットも同じ事を思い、探していた。行列する兵の間を引き綱を丸く束ねて提げた三人の女官が走って来る。その中の一人が斧ロァランだった。サクラバンダが快速で先行するのを必死で追って来たのだが、息を切らすのは許されず、狗の後ろ10メートル程にぴたっと控えて動かない。

「ロァランさま、弓レアルです。」

 と無謀にも呼んでみたが、聞こえているのかいないのか、反応してくれない。再び声を掛けようとしてハギットに口を抑えられる。

 サクラバンダは双子門の中央に傲然と立ち、周囲を睥睨する。並の男よりも大きな狗であるから、皆怯えて目を合わせようとしない。一歩進むとそれに応じて人の波が二つに割れ大狗を避けるように東西の道に戻った。足音が途絶えると再び息を押し殺した沈黙が支配し、ただ西から来る紅曙蛸神官の行列の楽の音だけが響いていた。

 首をちょっと振ったので、後ろに控えていた女官達がサクラバンダの元に近づいた。一人年嵩の女官が狗の口元に顔を近づけ、何事かを承り、斧ロァランを呼び、ロァランが双子門の警備隊長を呼んでハジパイ嘉イョバイアンの意向を伝えた。隊長は関所に指示して西から来る者を後ろに下げさせ、紅曙蛸神官巫女の行列を優先させた。双子門にたどり着くと山車から老神官が下りて来て、サクラバンダの前に両膝を着いて畏まる。五色の衣を纏った美しい巫女も、楽器を抱えた神官も整列して跪き、見事な吉祥図を描き出した。彼らは祭礼や式典に招かれて楽を奏で舞を踊るのが仕事だけあって、王宮にもよく出入りする。サクラバンダも見知っていて、怖じ気づいたりするような無様な真似はしない。おそらくは、今このまま巫女の一人が噛み殺されたとしても隊列を崩さず控え続けるであろう。

 年嵩の女官が嘉イョバイアンの意を伺い問い質す。

「ハジパイ王の御下問であります。何故に紅曙蛸神官は、祭礼でも無いのに行列を繰り出すか。」

 70歳を越える、この世界では大層な高齢である神官の長は、北方の神聖神殿都市に居る最高神官・巫女に継ぐ世界で三番目に偉い紅曙蛸神官である。天地に響く大笑で縁起が良いとカプタニアの住民から慕われる生き神のような人で、黒甲枝や元老院にも尊ばれている。彼はハジパイ王の化身であるサクラバンダに額ずいて言祝ぎを申し上げ、事情を説明する。

「南のタコリティに御わす青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様が、タコ石採掘場において紅曙蛸巫女王五代トュラクラフ・ッタ・アクシ様を象ったタコ石の像を掘り出したという、まこと我らにとっては天から零れたような吉報が今し方ネコによりもたらされました。その喜びを庶人と共に祝い、青晶蜥神殿に御礼を申し上げに参るところで御座います。」
「真であるか。」
「ネコは我を欺いた事は御座いません。また紅曙蛸巫女ティンブットなる者が青晶蜥神救世主に付き従い、その全てを目にしたとも伝え聞いております。この者はかってエイタンクァプトにてメグリアル王の御前で舞を奉じた事もある、身元も技も確かな巫女でして、ガモウヤヨイチャン様の御降臨の始めより供するを許されております。それが確認したからにはまず間違い無いと思われます。」

 メグリアル王は褐甲角王国の第三王家であり、北方聖山にて武徳王に代わってカブトムシ神を祭っている。この名をわざわざ出したからには、ハジパイ王に対してもよもや疑いはするまいな、と婉曲に言ったも同然である。十二神の聖なる秩序に関しては世俗の権力の介入を許さない、と主張するのは紅曙蛸神官の義務でもあり、決して神の意志を曲げなかった五代テュラクラフの遺訓が今も生きていた。

 

 ぎい、ぎぎぎぎぎぎざじゃ、しゃだ、じゃぢゃぎぎるぎぎうぎるじぃ

 サクラバンダが歯ぎしりをし始める。その表情は万力で頭蓋骨をねじ上げられているように不自然で苦痛に満ち、自発的にしているのではなかった。女官達は慌ててサクラバンダに駆け寄るが、彼は大きく背を伸ばし、首を高くに上げた。

『ギジジ、が、ガモウヤヨイチャ、ンのする、はことごとく、常軌を逸している、・・・・信用するに、アタイしない。』

 大狗が喋り始めた。女官も含め誰もそれが喋るとは思わなかったので、皆一斉に驚いた。その言葉は人間の、あるいはネコのとは異なり、金属をこすり合わせる音に似た無機質の、非現実的な声だった。

『救世主は我ら。救世主は、ガモウヤヨイチャ、ンは、世を救わない。救う気は、無い』

 サクラバンダの喉を借りて喋っている。唸り吠える事しかできない喉と舌を酷使して、彼の後ろに居る者が直接語りかけていた。

『王国は滅びぬ。滅びなかった。これからも、同じだ。・・・滅びるは自らの、中にありて。理由が、ある。自ら滅び、を、のぞ、む』

 

 眼前に展開する奇跡に皆が目を奪われている最中、かすかな異変にアルエルシィは気付いた。通りの反対側、双子門の東側に近い人込みの中に、一人の男の不審な動きを目撃した。誰もが凍りつき固唾を飲んで見ているのに、一人だけ動いている。それだけだが妙に印象に残った。服装は港の人足達と同じものだが汚れておらず、体つきも華奢な優男という感じで、やはり変なのだ。

 人の視線とは逆に、男は東の大路へと離れて行く。こんな重大事を目の前に、他に何を急ぐ用があるのだろう。隣の弓レアル、いやハギット女史に言おうとした時、男が居た人込みから声が上がった。

「きゃっ。」

 女の軽い悲鳴で、足元を何かがすり抜けた、そんな感じ。

「うわああ。」

 今度は男で、確実になにかの脅威を発見した、そんな声。

 吉祥陣を組んで控えている紅曙蛸神官巫女が座ったままざっと向きを180度換え、立ち上がった時にはサクラバンダを中心に包み込む芙蓉陣へと隊形を換えていた。貴人の前で楽を奏で舞い踊り傍近くに侍る事も多い彼らは、万が一の際には身を捨てて貴人を守るという芸も身に付けている。それに納得いかないのは警護に当たっていたクワァット兵だ。紅曙蛸神官巫女をどけて自分達の職分を果たそうとする。兵士に押されて陣形が崩ればらばらに行列に戻ろうとした時、一人の巫女が声を上げた。

「!、   ”足の無いトカゲ”!!」

 それは蒲生弥生ちゃんが降臨する数年前にいきなりこの世界に現われた生物だった。以前にはこんな異様な怪獣は想像の内にも居なかった。トカゲ神救世主の降臨を待ち望む十二神方台系の人々にとって、足元の死角からいきなり現われ死の罰を与える”足の無いトカゲ”は悪夢そのものだ。「救世主の代りに死のトカゲを与えたのは、神が世界を見捨てたもうた証拠だ」と主張する者さえ居る。

 脚を咬まれた巫女は崩れ落ち、たちまちに顔色が青く変わっていく。これの毒は咬まれた部分を青く大きく腫れ上がらせるが、痛みも感じずにそのまま眠りに就き、昏々と何日も眠り続け遂には目も醒まさぬままに冷たくなるという・・・。

 無形の拘束を解かれてサクラバンダは大きく唸り、一飛びで地面に倒れた巫女に覆い被さる。彼女のふくらはぎに絡みつく”足の無いトカゲ”を一瞬で噛み砕くと、その残骸を人込みに吐き出した。逃げ惑う人々の去った後に、七つに千切れたそれが無残な骸を曝している。

 アルエルシィは地獄にも等しい光景から無理やりに顔を背けて、男が去った方向を見た。押し寄せる、あるいは逃げ去ろうとする人の波の中に、彼の姿は無い。

 

 

第6章 金雷蜒寇掠軍、救世主の御業の片鱗に触れる

 

 金雷蜒(ギィール)神族の間には階級や階層が無い。

 神聖王だけは聖蟲の繁殖と聖戴に関る事で特別に高い位置を占めるものの、神族同士は対等の関係にある。元より互いに傲岸不遜で傍若無人であるし、聖蟲によって能力が高いレベルで均質化されており命令を下す受けるという関係を構築出来ず、階層を分けられないのだ。

 必然的に金雷蜒王国の軍隊は烏合の衆となり、将軍やら元帥やらはどこにも居ない。もちろん統一的な軍勢の運用が出来ないのは困るので、普通の人間をその任に当てている。要するに軍事コーディネーターでありシステム管理者だ。軍隊というよりもギィール神族に兵隊を供給しその運用を手助けして勝利を得るサービスを提供している、と言った方が正しい。

 ギィール神族は冷酷な支配者であり圧政者であるが、同時に有能な経営者企業家でもある。戦争も、価値の創造として兵を起こす。

 或る意味彼らは敵を欲していた。より見事なより難度の高い、克服するに値する強敵こそが社会の発展、技術の進歩に貢献すると、ライバルとしての褐甲角(クワァット)王国と黒甲枝を育成する投資を惜しまなかった。それが金雷蜒の聖蟲の欲する、知識と技術を最大限に駆使する試練の場を用意する事に繋がり、問題解決の為に新しい産業を興し雇用を発生させ奴隷を養わせる。

 戦いはまた、奴隷達が新しい境遇を得るチャンスの場でもある。

 職業組合「バンド」に拘束される奴隷には、職業選択の自由も移動の自由も、結婚の自由すら無い。バンドの計画に基づいて定められた土地の定められた業務へ従事し、入用とする労働者の数さえ繁殖計画として定められている。いや、ギィール神族に仕えるのならまだマシで、場合によっては一般人の、高位の奴隷に奉仕しなければならない。往々にして高貴な神族よりも、なまじ富と権力を手にした高位奴隷の方が同じ奴隷身分の者達にとっては酷薄残忍な主人だ。

 これから脱出する為に唯一取り得る手段が募兵への応募である。

 兵隊となればバンドの拘束からも自由で、除隊後余所の土地のバンドへ移る事も、別の主人に仕えてやり直す事も可能になる。戦場で勇猛さを見せて兵隊バンドに加入するのも一身の出世としては希望がある。寇掠先での分捕り品を故郷に持って帰りバンド内階層の昇進をカネで買ったり、最悪最後の手段として敵地である褐甲角王国に脱出という選択肢すら有る。

 これほどまでにメリットがある戦争にどうにかして行きたいと望む空気に東西金雷蜒王国は溢れていた。死の危険は問題ではない。ギィール神族は慈悲にも篤く、遺族に対して弔慰金も払ってくれる。

 そもそもが奴隷というものは労働によって自らを養っているわけではなく、労働の対価を得てもいない。バンドによって一定量の衣食を供給されるから、成果主義はそこになくどれだけ熱心に働いても報われない代りに、死んだとしても家族に損失は無い。しかし戦死すれば家族にカネがもらえるとなれば、一生懸命ギィール神族の御為に働いて立派な盾となって死んで来い、と我が子を万歳して送り出す風習が確立しても不思議は無かった。

 

 東金雷蜒王国独立寇掠部隊「シンクリュアラ・ディジマンディ(救済と回復の霞嵐)」は六人のギィール神族が組織した遠征部隊で、ヌケミンドルの南東100里の毒地中、つまり救世主蒲生弥生ちゃんがこの世界に出現した白色の濃霧の荒野の北近くに遊弋している。毒地に留まること三ヶ月、その間青晶蜥神救世主が降臨した事など知らずに襲撃の機会を窺って居た。

 独立寇掠部隊の目的は単純で、絶え間なく褐甲角王国に打撃を与え兵力を国境線に薄く広く分散させて、大侵攻の為の兵力結集をさせない事に有る。60の部隊が輪番で12隊ずつ、毒の大気に隠れて手隙の村を攻撃する。1000の村に対して12隊とは少な過ぎるようだが、国境線700里のどこにも防御の焦点を絞らせない事で限られた黒甲枝の神兵を分散させた上で、ゲイル騎兵を数匹でと兵員100でピンポイントに寇掠を仕掛け、敵の迎撃体制が整う前に引き上げる作戦で効率的な掠奪を行っている。

 「シンクリュアラ・ディジマンディ」は大胆にも、国境線から浸透する事40里、通常は寇掠部隊に曝されない安全圏と思われる街道沿いの町を窺っていた。連年で続く襲撃に国境沿いの村は手元に貴重な財物を貯えないようにして、身一つで逃げる対策を取っている。それでは折角の寇掠部隊が手ぶらで帰らねばならないので、最近はより内側の村や町に目標を換えていた。通過中に村人に目撃され迎撃線を敷かれて失敗する確率も高いのだが、褐甲角王国には金雷蜒王国からの難民が多くまた間者も多数居て、それらの手引きによって見つからないルートを策定して隠密に侵攻する。

 部隊の構成は、ギィール神族が乗るゲイル騎兵が6、その従者が20、戦闘専門バンドに所属する下士官級奴隷・剣令10、募兵で集められた一般の奴隷兵100で標準的な寇掠部隊よりも少し兵数が多い。一般兵は戦闘を期待されておらずただひたすらに財貨を漁り運搬する。この世界には牛馬に相当する使役に適した家畜が存在しないので、人力のみが唯一確実な運搬手段であり、人手はどうしても必要なのだ。

 金雷蜒王国軍で主力となるのがゲイル、体長10から15メートルにもなる巨大なゲジゲジである。もちろんこのような生物が自然にあるはずがなく、ギィール神族が品種改良と特殊な飼料を与える事で育成したものだ。人を食らう。これにギィール神族が跨がって弓で地上の兵を射る。騎乗生物が他に見つからなかった近年まで、このゲイルが最速の乗り物でもあり、平均身長2メートルの神族が常人とは比べ物にならない腕力で射程200メートルにも達する強弓を使うのだから誰にも止められない。ゲイル自体も30人の装甲兵を一瞬で撃破するという凶悪さで、これの前に立つのは死と向かい合うのと同じだ。その他に、狗番と呼ばれる神族の為に命も捨てる護衛と剣匠と呼ばれる武術の専門バンドに属する戦闘奴隷が付き従い、ゲイルの足元を固めている。陣容こそ薄いが戦闘のプロで、村の守備隊程度では太刀打ちできない。

 実際、各村の守備隊は黒甲枝が来るまでは決して戦おうとしない。金雷蜒軍の寇掠隊は虐殺は目的ではないし毒地に女を掠って行くのも面倒だから、逃げれば追って来ない。あまりに見苦しい真似をすると却ってギィール神族に背後から射られるので、奴隷兵もそれほどは悪事は為さないし、元々褐甲角王国の人は金雷蜒王国からの脱出者だ。知り合いや親戚に出くわす例も珍しくはない。攻める方も攻められる方も半ば馴れ合って応じている。

 

 しかし、今日襲撃された町「ノゲ・ベイスラ」は違っていた。国境線よりも離れた場所に有る為にそういった作法が住民に徹底していない。また町であるから、普通の村よりも高価な財物に溢れている。この町はベイスラ地方の中心都市であるから黒甲枝の駐屯砦が有り三人の神兵が詰めているが、生憎と今日は前線に視察に行って留守だった。その不在も間者により知らされており、今日の侵攻が決められた。駐屯砦に残るのはクワァット軍の正規兵10名と地元から選抜された邑兵だけだった。

 彼らを指揮するのは、若干18歳のカロアル軌バイジャン。黒甲枝の子弟のみを訓練する兵学校を出て、首都カプタニアの近衛軍で初年の指揮訓練を終えて、初めて地方の前線に配属された新米の士官だ。一応は小剣令の位を得ているが未だ実戦経験も無く、ましてや聖蟲を戴いた黒甲枝抜きでゲイル騎兵に当たるなど考えてもいなかった。町の警戒を怠ったつもりは無かったが所詮は夜盗を防ぐ程度の配置でしかなく、防壁内の建物に火の手が上がった知らせを寝床で告げられ飛び起きた。時刻は午後11時、もちろん機械式時計は無いから夜半という以外の形容詞は無い。

 垂直の壁さえ乗り越えるゲイル騎兵に防壁が役立たないのは当然だが、いきなり内部に入られたというのは痛恨事だ。ノゲ・ベイスラは小高い丘の上にある比較的護り易い町で土塁も全周に巡らし垣根も空掘も掘ってあるのだが、どこからも破られたという報告が無いのは、誰かが内通して関門を開けたからに違いなかった。いやそもそも、ここまで見つからずに寇掠軍が入り込んだのは王国内に手引きする者が居て周到に準備しなければありえない。国境線から40里、ゲイル騎兵なら往復するのに掛からないが、徒歩では1日以上絶対に必要だ。掠奪品を抱えて逃走するにはそれ以上掛かる。狼煙を上げ周辺の村から邑兵を招集して国境線で待ち伏せるのに、1日もあれば十分だ。であれば逃走にも手引きが有るのだろう。不審者対策をぬかった、とほぞを噛むしかない。

 そもそもが、民衆の自治会議がなっていない。彼らは先んじてこの村町に住んでいるのをいい事に、難民に対する態度が無慈悲すぎる。元は同じ金雷蜒王国からの脱出者であるのに、片方は家を持ち畑を持ち裕福に暮すのに対し、難民は単なる季節労働者としてわずかな給金でこき使われ、冬場には村を追い出される。追われた難民は行く所が無く、中心都市であるここノゲ・ベイスラに流れて来る。無論町でも彼らの居場所は無い。昼の内は町に入れるものの日暮れと同時に門外に追い出され、防壁の下の空掘にでも身を潜めざるをえない。駐屯砦から支援を受けたトカゲ巫女やカタツムリ巫女が食を与えなければあの者達はどうなるのか、と思っていたが案の定こういう羽目に陥った。間違いなく、彼らの内に寇掠軍の内通者が居る。だがそれは彼らに冷たく当たった自治会議の、住民達への復讐なのだ。

 軌バイジャンは正規兵と邑兵60をなんとかかき集めて整列させる。ノゲ・ベイスラの町は狭い上に入り組んでいる。逃げる住民と掠奪する奴隷兵達とが鉢合わせて大混乱になっているだろう。ゲイル騎兵には手の付けようが無いが、奴隷兵は押し返して住民の逃げ道を作らねばならない。それと、火を消さねばならない。この世界には瓦屋根が無く、駐屯砦以外は板屋根か小枝葺きだ、火には弱い。既に放火された一角は放棄して、せめて他への延焼を防ぎたかった。

 邑兵の20を火消しに当たる第二隊とし邑兵隊長に任せ、軌バイジャンは武装した隊を率いて駐屯砦から出撃した。軍衣に兜、甲冑を急いで身につけ胸盾を垂らす。武器は弓、邑兵には短戈と大楯を持たせ、残りには松明を掲げさせ矢を運ばせた。掠奪には構わず、人を襲っている時のみ相手にしろと命令する。金雷蜒軍の一般奴隷兵は財貨を漁るのが任務で、荷を背負っているとほとんど危険性が無い。これを担いで生きて帰ることしか頭に無いから、守備隊が姿を見せただけで逃げ散るのだ。

「火を持っている者は射殺しましょう。町を焼かれてはこの地域全体の防備が危うくなる。」

 軌バイジャンに継ぐ指揮権を持っているのが凌士長ヤヨアだ。彼は30歳で実戦経験も豊富な、黒甲枝に仕えて駐屯砦を実質取り仕切る下士官で、軌バイジャンにとっては師にも当たる人物だ。彼が居なければ兵すら集まらなかっただろう。

 坂を下って町に入るといきなりの緊張感が軍勢の全員を包んだ。町の外れ、駐屯砦の反対側を攻めたのももちろん計画どおりなのだろう。連絡が行き届かずこの辺りの住民は単なる火事かと戸惑い、避難する様子も無い。

 軌バイジャンは第二隊に住民を駐屯砦に避難させるよう指示した。ギィール神族の寇掠だと認識した住民はほぼ身一つで避難する。何か持っていると却って掠奪に遭い殺される確率が高くなるからだ。何も無くても身分を証明するものさえあれば、金蔵や他の街に預けた財貨が引き出せるように法で定められている。褐甲角王国は金雷蜒王国よりも科学技術においては劣るものの、商業や金融、契約については進歩していた。カブトムシ神自体が契約の守護を象徴するものだから、クワァット軍と王国に住民が寄せる信頼は絶大なものがある。

 隊列は土の坂道から広場の石畳に差しかかる。縦列から横列に変更し、警戒体制で進軍を続ける。遠くから見えていた火事で燃える家も、ここからだとかなりはっきりと識別出来た。燃えているのは北門の付近の食糧倉庫三棟で、他には延焼していない。未だに掠奪が行われているようで悲鳴や怒声が上がるのは、逃げ遅れた者がかなり居るということだろう。

「広場の南口、カエル口に障壁を築きましょう。これ以上の侵入を許すわけにはいかない。」

 ヤヨアはバリケードを作って金雷蜒軍が町全体に拡がらないように防ぐ事を進言する。防壁を潜られたとはいえ、町全体も戦闘時には防塞になるように設計されている。高塀や池を作って真っ直ぐには進軍できないよう道路をねじ曲げており普段は通行に支障を来すほどだが、いざ侵入されてみるとその配慮が有り難かった。

「しかし逃げ遅れた者を救わねば、」
「ここを封ぜねば、逃げる先を作る事も出来ません。障壁の先はお諦め下さい。今はまだ敵は侵入口付近の掠奪に気を取られているから、こちらに注意が向かない内に塞ぎましょう。」
「火は、掛けて来ないか?」
「もうしばらくは。自分達がそこに居る間は、敵も控えるでしょう。」

 風は北北東の微風で火の粉がこちらには飛んで来ないのは幸運である。

「この風だったら、むしろこちらから火を掛けて、ゲイル騎兵も焼き尽くすことが可能です。」
「・・・わかった。広場の守備を放棄する場合、風がこのままならば考えよう。」

 バリケードを作っても、巨大なゲイルを留める事など出来はしない。せいぜいが向こうからの矢を防ぐのが精一杯で、奴隷兵の侵入をしばし留めておければよいという程度の効果しか期待は出来ない。広場は防火帯としても機能するように可燃物は何も作らないようにしている。ここから南側だけを火に掛けてもギィール軍を追い払えれば、被害は四分の一以下で町全体は生き残る。

 邑兵にバリケードを作らせて、正規兵は通りを逃げて来る者の中にギィール軍の奴隷兵が混じっていないか監視する。難民が同調して掠奪に荷担していることもあり、見分けるのが困難だ。大通りの南口を逃げる者が多いが、路地のカエル口、色町がある通りの方からも化粧臭い女達がわらわらと逃げてきてバリケード構築の邪魔をする。中に一人、奴隷兵が混じっていた。どこの世界にも、欲よりも色を優先させる者がおり、掠奪を放り出しても女を襲いに来たのだろうが、胸に一矢突き立てられて絶命する。

 クワァット軍正規兵と地元の邑兵の違いは、まず弓の技術の差と言ってよい。弓は長年の修練が必要でゲイル騎兵には離れて攻撃する方法しか通用しない為、正規兵は念入りに訓練を積み重ねている。長槍で集団運動をして敵の突撃を防御し多勢を突き崩す技術も邑兵には無い。邑兵のメインウエポンである短戈を使っても棒を振るっても装甲の差がある正規兵には歯が立たず、唯一有効なのは投石ぐらいで、正規兵のアシストをする程度でしかないのだが、それでも金雷蜒軍の一般募兵の奴隷よりははるかにましだ。今回130と70で敵の方が数で勝ったとしても、それほど戦力に遜色は無い。ゲイル騎兵が無ければ、だ。

 住民の避難に当たっていた第二隊が、民間の男達も組織して広場に合流する。軌バイジャンはそれらに、広場の反対側出口に第二のバリケードを築かせた。第一のバリケードが破られるのは既定の事実で、本番は広場に躍り出たゲイル騎兵、上に乗る神族を二番目のバリケードから射る事が出来るかで戦の帰趨が決まる。一番目は神族の従者である狗番がすぐには続かないようにする程度の意味合いしかない。もっとも二番目が間に合わなければ家の屋根から射るまでだが。

「弩車は使えないかな。」

 強力な弩を荷車に積んだ、対ゲイル騎兵用の兵器も駐屯砦には備えられている。本来ならば街道に面した砦の方からギィール軍に攻められるはずなので、そちらに設置されているが、今回いきなり内部に入られたので役に立っていない。

「何騎いるか分かりませんが、ゲイルは四より少なくは無いでしょう。矢数で押すしかありません。弩車は砦で、最後の。」

 並の人間が射た矢では巨大なゲイルの外皮を貫くことは出来ないが、上に乗る神族は優れた鎧を纏い盾に隠れてはいるものの、当たればちゃんと死ぬ。ゲイルを相手にせずあくまで神族を狙うのが、黒甲枝が居ない彼らが取り得る最善の方法だ。しかし。

「来ます。」

 風が止み、火の粉が天に真っ直ぐに昇って行く。今からでは町ごと敵を焼き尽くす方法は取り得ない。それと見て風上だったこちらへ寇掠を続行するだろう。全員を一番目の障壁から下げさせて戦闘準備をする。邑兵に大楯を持たせて正規兵は弓を構えて二番目の障壁と家屋の屋根とに分かれて待ち構える。残りは投石器と短戈を構え、壁や家の後ろに身を隠す。白兵武器ではゲイルには歯が立たないが、ゲイル騎兵は一度乱戦に突入すると雑魚相手は奴隷兵に任せその場を離れて別の敵を探す。最初の襲撃を生き残った後の備えも怠るわけにはいかない。

 不思議と広場は静けさに包まれ、火が家を焦がし材木が弾ける音のみが響いている。土壁の家屋は屋根以外は火に強いので、壁としての役目は最後まで果たしてくれる。襲撃は道なりに来るしかない。空気が妙に乾いて喉が渇きに貼り付き、大きく唾を飲み込んだ。

 一番目の障壁に身を乗り出す影がある。影はやがて障壁の上に大きく立った。

 エジプトのアヌビス神を思わす黒い狗の仮面に黒光りのする甲冑、右手には長い刀を携え弓と矢筒を背負っている。甲冑は前後を大きな蛤状の鉄板で挟んだ形の独特なものだ。ギィール神族の従者であり護衛である「狗番」だった。彼らは幼少の頃より神族の盾として死ぬ事を教えこまれて来た者で、軍の命令よりも自らの主人の安全を優先する。戦闘のプロではあるが軍人ではない。障壁の上に立つ彼は、主人の乗るゲイルがここを越えても無事なのかを確かめているのだ。

「アレを射てはいけません。ギィール神族は狗番が死ぬ事をなにより嫌い、場合によってはそれを理由に撤退しますが、あれは囮です。」

 ヤヨアの言葉に軌バイジャンはうなずく。それは兵学校でも教わった。狗番は自らの主人である一人の神族の為に死ぬが、それだけの忠誠を持つ者の代わりは容易には見出せない。故にギィール神族も、奴隷と言えども彼らを大切に扱っており、その紐帯は主従の枠を越え肉親のそれに近い。

 だが、これ見よがしに姿を見せる狗番に、誰も射てみようと思わない筈が無い。距離は少し有るが専門の弓術を厳しく教えこまれたクワァットの正規兵ならば確実に仕留める事が出来る。一人が盾の陰で弓を引き絞るのを見たヤヨアが、慌てて止める。

「待て、まだだ、身を晒すな!」

 その兵はほんの僅か、盾の陰から身を出して狗番を狙った。時間にして一秒も無い。

ぎゆん・・・・・・・・・・・・・・ん。

 鉄の兜を貫いて額に一本の矢が立ち、彼は矢を番えたままふらりと立ち上がってそのまま倒れ、あおむけに障壁の裏に転落した。即死だ。松明の明かりに矢羽根が金色に輝き、その射手の身分を証明する。

「・・・。」

 軌バイジャンは唇を噛んだ。人が死ぬのを見るのは珍しくないが、自らの部下が実戦で死ぬ所を初めて見たのだ。あまりのあっけなさ、自分の無力さに身体の芯が崩れて目眩いを起しそうになる。

 ギィール神族は平均身長2メートル、エリクソーと呼ばれる霊薬を幼少より服用する事で人体の理想型とも言える雄大で優美な肉体を手に入れる。単に大きいだけでなく筋力も動きの早さも正確さも、常人を遥かに越えて優れた能力を示す。傷も付きにくく癒りも早く病に倒れる事も希で、まさに神人と呼ぶにふさわしい奇跡の身体だ。

 それが引く弓はやはり常人が用いるものよりも強力で射程は200メートルを越え、貫通力も高い。しかも金雷蜒の聖蟲はギィール神族に智慧と知識を与えるに留まらず、周囲の状況を目で見るよりも正確に的確に教えてくれる。闇の中でもはっきりと標的を見せ、風向風速までも測定し補正して軌道を提示するので外すという事が無い。

 兵達はさらに身を縮めてゲイル騎兵の矢を避ける。火は一層大きく燃え上がり、広場をも明々と照らし出すほどになった。だが誰も前を見られない。揺らめく影の中に、人の足音怒声、材木が焼け弾ける、壁が崩れて地に落ちる音に加えて、カチカチと無数の硬いものが石畳を叩く音がする。やがて、材木を引き裂く不快な亀裂音を加え、ばりばりと障壁を砕く轟音へと変わる。

「・・・・射撃用意!目標は最前列ゲイル騎兵。二射せよ。」

 ヤヨアが声をかすらせて全員に指示する。ふがいないが軌バイジャンでは攻撃のタイミングを掴めない。経験豊富なヤヨアが進言する事をただ追認するだけだった。

 カチカチと鳴る無数の音、ゲイルが17対の肢で這う爪音が広場全体にこだまして、何体居るのか掴みかねる。奴隷兵達の声も交じっていた。第一の障壁を排除し始めたのだろう。ゲイルの爪音は次第に近づき、しばし止まり、揃って地面を叩く音となる。これは、ゲイルが歩調を整えて鎌首をもたげ姿勢を高くする時の音だ。今まさに第二の障壁に飛び移ろうとする準備姿勢だ。

「射よ!!」

 ヤヨアが背を叩いたのを合図に、軌バイジャンは攻撃開始の下知を飛ばす。正規兵達は一斉に盾から身を乗り出し引き絞った弓から矢を放った。

 ゲイルは障壁の20メートル前に立ち上がって居た。高さは5メートル、その背のギィール神族目がけてニ連射18本の矢が殺到する。しかし、すべて騎櫓の盾に防がれた。ゲイルの背には地球の象兵と同様に櫓を組んで乗員を守っている。

「射よ、射よ!」

 後は狙いも付けずに矢を立て続けに射るだけだ。放つだけならば、クワァットの正規兵は毎分60本以上を発射出来る。実戦ではそこまでは早くはないが、気付くと手元に30あった筈の矢がもう無い。後ろに控えて居た邑兵が次の矢筒を差し出すのを受け取り、広場に矢の雨を降らす。だがゲイル自体は常人の弓では傷もつかない。ギィール神族もタコ樹脂の盾の陰に隠れて無傷で押し通る。

ばりばりばりっ。

 第二の障壁が一瞬にして弾け飛ぶ。更にニ体のゲイル騎兵が続き障壁の上に駆け上がった。

 石畳の上に落ち一瞬意識を失った軌バイジャンが振り向くと、ゲイルの顔を仰ぎ見る位置に居た。松明の明かりを照り返し紅く輝く大きな両の複眼と七つずつの副眼、二重になった顎口の周囲には無数の長い髭、歯か刺だか分からない突起が数列口腔内に輪を作り獲物を呑み込んで離さない。比較的短い前肢が三本、瓦礫を押さえて前に進もうとし、長い爪が二本に副爪が八本で下の材木をしっかりと掴んでいる。肢の林の向うに、黄金の鎧に身を包んだギィール神族が自分を見下ろすのに気が付いた。

 その瞳には何の感情も無かった。敵意や殺意などみじんも感じられない。彼らにとって褐甲角王国寇掠は単なる狩りに過ぎないのだ。獲物は無敵不死身の黒甲枝の神兵で、それに従うクワァット兵邑兵は森の下生えの草程にも見えないのだろう。

 もう一つの視線を感じた。ゲイルの上に設えられた騎櫓の隙間から誰かがこちらを覗いている。普通の人間の、女の眼だ。怯えているようにも憐れみを自分に注いでいるようにも見える。

 ふ、とギィール神族が天に顔を逸らし、ゲイルも身を起こし頭を持ち上げて空の様子をうかがう。びぃいいーんと、蟲が羽ばたく羽音に似たうなりを聞く。

きゅあ。

 騎櫓の盾が流星にでも撃たれたようにいきなり跳ね飛ぶ。それはゲイルを傷つけ石畳の地面を抉った。第二撃を避ける為、騎乗するギィール神族はそのままゲイルの巨体を大きく返し向きを変え、他のゲイル騎兵もそれに倣って元来た南口の方へと後退し始める。

 かろうじて無事であったヤヨアに助け起こされ立ち上がった軌バイジャンは、奴隷兵達が剣令や狗番に率いられ広場から撤退するのを見た。

「これは。」
「信じられないことですが、殿様方がお戻りになられたのではありませんか。」
「父上が? そうか!」

 ノゲ・ベイスラの司令官カロアル羅ウシィ他三名の神兵がなんらかの手段で異変を察知し、急いでひきかえしてきたのだろう。この世界には馬に相当する高速の移動手段は無いが、実は人間が走るのが一番早く便利がよい。黒甲枝は聖蟲によって怪力を付与されているので、専用の重甲冑を装着したまま時速10数キロの普通の早さで走る事が出来る。疲れも知らず、一日に100キロの移動も不可能ではない。

 黒甲枝、褐甲角神の聖蟲を額に戴く神兵の主武器は鉄弓、並の人間が十人掛かりでも引けない鍛鉄の弓で重量200gの鉄箭を射る。その威力は一抱えもある花崗岩の大石をも微塵に砕く程で、いかなる盾もゲイルの外皮をもやすやすと貫く。射程距離も400メートルを越え、さすがのゲイル騎兵も黒甲枝には敵し得ない。用があれば策を用いて対処するが、通常の寇掠であれば避けて撤退するのが定石だ。

 果たして、軌バイジャンが残兵を集めて隊を再編し燃え盛る南口に前進した時には、金雷蜒軍はかたちも無かった。一人、黒い影が焔をも物ともせず瓦礫の上に立ち続けている。全身を覆う甲冑は丸く黒く甲虫を模したようで、人の姿をした褐甲角神そのものに思えた。背にある旗は軌バイジャンの肩の徽章と同じ文様だ。

「父上!」
「無事か。」

 昆虫のような面頬を付けたままくぐもった声で羅ウシィは答えた。他の神兵は居ない。視察先で寇掠の手引きに関ったという難民の告白を受けた彼らだが、襲撃先はその者は知らず、またこの告白自体が策略である可能性も高かった為に、主要な町に分散して走ったのだ。黒甲枝は一人であっても複数のゲイル騎兵と互角の勝負が出来る、だが。

「父上、いや、大剣令。追撃を。」
「いや、火を消せ。それと狼煙を上げ、退却路に当たる町村に警戒を促せ。」
「・・申し訳ありません。留守を任されていながら、やすやすと敵の侵入を許してしまいました。この責めは。」

 羅ウシィは崩れ落ちた家の上から兵達の前に下りて来た。重甲冑は火の熱を帯び、白い蒸気を上げている。冷めるまでは甲冑を脱ぐ事は出来ず、誰も触れない。だが皆一様に安堵のため息を衝いた。火にも焼かれず戦い続ける黒甲枝の無敵性こそが彼らの精神的支柱なのだ。

「戦とは常に敵に裏を掻かれるものだ。自分の予期したものと違っていても、落ち込まず次善の対応をを心掛けよ。それにしても。」

 邑兵と町の住民達が燃え残る家財や負傷者の回収をすでに始めている。寇掠軍の後ろに続いて空掘から火事場泥棒に上がっている難民達を追い散らしていた。放置すれば難民と住民が互いに殺し合う事態へと発展しかねない。だが、クワァットの正規軍はどちらの民をも守護せねばならなかった。

 羅ウシィは誰にも聞かれぬよう甲冑の中で嘆息し、一人呟いた。

「青晶蜥神救世主であったなら、この世界を救い得るのだろうか。」

 

 

 「シンクリュアラ・ディジマンディ」は追撃も受けず無事に毒地中の城塞へ帰還した。

 毒地にはクワァット軍の一般兵は入って来れない。ここの空気を吸うとたちまちに気分が悪くなりへたり込み、そのまま放置すると一日後には血を吐いて死ぬ。元々はタコ腸から作った殺虫剤や農薬で正しく使えばなんでもないのだが、無知蒙昧な一般人や黒甲枝にはギィール神族の呪いとしか思えない。撒く方法もよく考えていて、散布に疎密を作り風の通り道を計算して東金雷蜒王国から無事に通れる街道や長期滞在が可能な基地を作っているので、奴隷兵達も安全に毒地中に留まれるわけだ。

 寇掠から戻ると部隊は掠奪品の検査をする。取った者がそのまま私する事は出来ず、すべてを差し出して値打ちを鑑別し階級に応じて等分するのだが、時々妙なものが見つかり問題となる。

「一見すると蝋のようですが、すこし感触が違います。包みを見るにカプタニアに送られる特別便で木箱に厳重に納められ封印も三重に施されており大層な宝物と誤解したのですが、わかりません。」

 掠奪品を鑑別していた剣令の一人が、正体不明の物体を抱えてギィール神族に指示を仰ぎに来た。ギィール神族は掠奪品の分配には関心が無いが、敵方の情報を知る書簡や資料等があれば必ず報告させる。新兵器も興味の対象で、使い方が分からない道具や薬品は彼らに鑑定してもらい重要度を決定する制度になっている。

 上将であるヌトヴィア王ハルマイは、ゲイル上に同行させた蝉蛾巫女が砕けた盾の破片で負傷したのを気遣い席を外していたので、残りの五人の神族に鑑定を仰いだ。ギィール神族同士に階級の上下は無いが年長者を立てて「上将」と呼び責任者とし、他を「列侯」と呼び習わす。

 列侯はその小さな象牙色の直方体を見て、同音を口に出した。

「”石鹸”だ。」

「何故”石鹸”がここにある。」
「否、問うべきはそこではない。我ら金雷蜒神族は二千年もこの地を治め種々の文物を発明しながら、なぜ”石鹸”を作らなかった。」
「知れたこと。我らの内誰か一人でも、自ら何かを洗ったことが有るか?」

 一人だけ交ざる女性の神族キルストル姫アィイーガが それをとって匂いを嗅いでみた。彼女もまた男性の神族に劣らぬ大きく優美な肢体を持っている。ギィール神族にとって男女の差は服装のデザインの違いしかない。

「良い香りがする。それに形も美しい。これを作った者は”石鹸”がなんであるかを熟知している。」

 アィイーガの片手に納まる小さな石鹸は、単に四角く切っただけでなく四隅も丸め、上に人頭の文様が象られていた。それと同じ絵柄が青晶蜥神救世主蒲生弥生ちゃんの左胸に刺繍されている事を、彼らは知らない。

「では、これを作った者はギィール神族か。」
「そんな話は聞いたことが無い。まして褐甲角王国で新奇な文物が受入れられるなどあり得ない。」
「西金雷蜒王国の産なのか?」

 剣令は慌てて掠奪品に混じっていた書簡類を調べてみる。だが答えを待たず、手の中の石鹸を見詰めるアィイーガがなぜかそわそわし始めた。

「どうした。」

「・・・・・湯浴みがしたい。これを使うと大層気持ちが良いと、聖蟲が教える!」
「確かにそうだが、しかしこの城塞では水は貴重だ。もう半分も残ってはいまい。本地へ帰還するまで湯浴みは控えろ。」

 その時、ヌトヴィア王ハルマイが蝉蛾巫女エィムールを伴って部屋に入って来た。蝉蛾巫女は風の流れを読む能力を持ち毒地を行く寇掠軍には欠かせない道案内だが、彼女はハルマイの愛妾ともなっていた。

「なにかあったか。」
「なにという程ではないが、不思議なものを発見した。」

「エィムールが褐甲角王国の風が変わったと言う。難民の上を覆う空気に淀みが消え、ざわつき猛り流れ出していると。変化が起きているはずだ。」

 エィムールは本来の蝉蛾巫女の衣装ではなく軍衣を身に着けており、元々表情が乏しい為に少年のようにも見える。右の肩を吊っているが腕の骨にヒビが入っただけで、ハルマイが自ら包帯を巻いて固定した。ハルマイはアィイーガの手の中の物を見て言った。

「”石鹸”か。毒地に居ては分からぬなにかがあったやもしれぬな。」
「一度ここを引き上げるべきではないか。」
「少し早いが奴隷達が満足する戦果はあったはずだ。」

 

「上将列侯、一大事が御座います。」

 書類を調べていた剣令が蜘蛛巫女のおみくじが混ざっていたのを発見した。蜘蛛巫女は時事の話題をもじった警句をおみくじに書くので、世情を知る上でよく参照される。

「青晶蜥神救世主が現われたそうです・・・・・・・。」

 

第7章 救世主弥生ちゃん、東金雷蜒王国に上陸する

 

 青晶蜥神救世主蒲生弥生ちゃんは密輸船に乗って隠密裏に東金雷蜒王国に入国した。青晶蜥神救世主を名乗る者はそのほとんどが捕まって焚刑に遭っていると聞き警戒したとも言えるが、本物はまた別の問題を抱えている。

「・・やれやれ。ガモウヤヨイチャンさま、やっと静かになりましたね。」

 タコ巫女ティンブットも同じ悩みを共有していた。弥生ちゃんが「ついうっかり」紅曙蛸巫女王五代テュラクラフを掘り出してしまったからには、タコ巫女で唯一の目撃者である彼女自身もまた聖女として崇められる立場になったのだ。これまでは弥生ちゃんのお供でのんびり物見遊山で有力者達の御接待を受ければ良かったのが、その日以降真摯で敬虔な紅曙蛸巫女の鑑の役を演じなければならなくなった。これはいいかげんな性格の彼女にとってはかなりの負担になる。

「こういう事は夫がやってくれるべきものだと思うんですけどねえ、あたしも聖山に付いて行けばよかった。」

 弥生ちゃんに付き従うからこういう羽目に陥る訳で、それは前後に矛盾する間抜けな台詞だが、なんとなく共感してしまう。

「でもあなた、タコ巫女なんだからテュラクラフ様の側に居なくていいの?」

 紅曙蛸巫女王テュラクラフのタコ石の神像は現在タコリティの街に厳戒体制で保管されている。タコ神官巫女が側に侍るのは元より、交易警備隊の相当数が紅曙蛸王国近衛軍を名乗り街全体を防衛し、その指揮を仮面の男「退屈のお殿様」が執っている。

 なにしろ、掘り出した弥生ちゃんが「これ生きてるよ」と言い、傍近くで昼夜を分かたずお護りするタコ巫女達も、「睫毛が動いた」「唇がなにか言っている」「聖蟲の蛸の足が蠢いている」とか証言するものだから、皆は石像がいつ目覚めるか固唾を飲んで見守っている。皆に請われて弥生ちゃんが奇跡のハリセンで二三度叩いてみたものの、並の病人なら完全治癒でスキップして家に帰る威力でもやはり女王は目を醒まさない。古事来歴に詳しい学者や古老を呼び集め智慧を絞ってみるが所詮は常人の頭では想像も及ばぬ神秘であり、結局は青晶蜥神救世主に最終判断を仰ぐしかなかった。

 弥生ちゃんは言った。

「あー、テュラクラフさまが生きているのは間違い無いけれど、外からなにかをして起きるとは思えない。これは自発的な意志によって石に姿を変え身を守っている状態だろうから、テュラクラフさまが感じている脅威を取り除けば、自然と起き上がって来るんじゃないかな。」
「おお! してその脅威とは。」
「もちろん、そこらへんの人間やらじゃあないね。もっと大物の、神様クラスの凄い奴。どこに居るかはしらないけれど、そういうの心当たり無い?」

 彼らは即座に三つを挙げた。一に毒地中にある金雷蜒神聖王国時代の旧首都ギジジットに眠るゲジゲジ神。ニがカプタニア山中に棲まうというカブトムシ神。三に聖山神聖神殿都市にある大洞窟に巣食うと噂される不可思議な怪物。中でも最も有力なのが

「ギジジットです。紅曙蛸王国の次に参られた神ですので、紅曙蛸神が強く意識なさるのは当然だと思われます。」
「よし決まった!ギジジットに行こう!!」

 という経緯で弥生ちゃんは船に飛び乗った。何時までもタコリティに居続けては救世主としての任が果たせないし、金雷蜒褐甲角両王国の実態を見なければ何をするにも計画も立たないので、今こそ旅立つべき時だった。

「いいんですよお。あそこに居てもお世話する巫女は何十人も居るし、偉い神官様もやってくるし、あたしなんか邪魔なだけです。それにガモウヤヨイチャンさまがテュラクラフ様の御為に冒険なさろうというのに、付いて行かずにどうします。皆が幸運の舞で送り出してくれましたよ。」

 救世主を護衛しようという強者は100人を下らなかったのだが、弥生ちゃんは全てを断った。そんなに大挙して押し寄せれば、救世主と言うよりも黄巾党や太平天国の乱みたいで警戒されるに決まっているし、なによりこの世界の真の姿を見失う。水戸黄門はお忍びで行くから大活躍できるのだ、とティンブットと無尾猫のみを伴って船出した。一番残念がったのは仮面の男だが、頭にカブトムシの聖蟲を憑けて金雷蜒王国を歩き回るわけにはいかないし、テュラクラフの神像を守るのに彼ほどの適任者は居ないのだから仕方がない。いや、それをいい事に弥生ちゃんは全てを彼に押しつけて脱出したのだが、元々彼は人の上に立つべき人間なのだから、これが一番良い仕儀だと思う。

 

「それはそうと、前から気になっていたのですが、」

 とティンブットが遠慮がちに弥生ちゃんに問うた。何故だか左の胸ばかりをじろじろ見る。

「なに、このワッペン?」
「その、極めて細かな糸で刺繍されている人頭の絵は、なにか謂れの深いものでしょうか。ガモウヤヨイチャンさまはその図柄を正式な紋章にされましたが。」
「これは、”宇宙人ぴるまるれれこ”と言う。私の学校で特別な生徒に代々受継がれてきた由緒正しいものなんだよ。」
「おお、”宇宙の人”というのは、天空に住いする神ということですね。して何をなされた方です。」
「神殺し。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」

 

 タコリティを出てクレーターを周り、東海岸に入った途端に気候ががらっと変わった。どういうわけだが南海岸よりも東海岸の方が気温も高いし湿度も上がる。東から暖流が遡っているかららしいのだが、海流と気候の関係についてこの世界の人は無頓着で、弥生ちゃんに言われるまでその関連性を気付かなかった。

 気温が高いから、当然東金雷蜒王国の風俗はトロピカルなものになる。男性は半裸で腰巻のみ、女性も胸と腰巻のみでかなりセクシーな衣装を身につけている。さらに目につくのが、ほぼ全員が刺青をしている事で、聞けばこれは身分証明書のようなもので出身地や職業組合「バンド」の種、奴隷の所有者を表し、故に褐甲角王国では原則として刺青禁止となっているのだそうだ。ティンブットの腹と背にも、ちゃんと図案化された紅曙蛸が彫ってある。

 船は最南端の防御陣地ガムリ点を軽くクリアして、その先にある普通の漁港に入った。何故臨検も無いのかというと、出るのは厳しいが入るのは至極簡単で警戒も薄いのだという。東金雷蜒王国から有用の製品や最新武器、書物、あるいは技術者学者が出て行くのは困るが、褐甲角王国からはせいぜい間者くらいしか入れるものがなく、不審者は刺青の身分証明で簡単に見分けが付くということらしい。密輸船の船長は言った。

「もし万一聖蟲を額に憑けた方がいらしても、ギィール神族は遠くからでも分かりますから、奇襲される心配は金輪際無いのです。」
「ちょっと待って。じゃあ私が乗っているということは、」
「はあ。関所の役人は青晶蜥神救世主さまには決して手を出すな、と言い遣っているらしいですね。テュークの紅曙蛸神像をぶち壊した時の話が誇張されて伝わっているようです。」
「君子危うきに近寄らず、隙を見て策を弄して取っ捕まえようというわけか・・。」

 あまりにも間抜けな不手際に弥生ちゃんも次の手が思いつかず、茫然と船縁に立ち尽くしていた。その可哀想な姿にティンブットが見かねて口を出す。

「あの、どうします。なんでしたら船上からハリセンで煽いで港を一気に火の海にする、とかしてまぎれ込みますか。」
「いや、度胸を決めて上陸を強行しよう。出たとこ勝負だ。」

 軍港ガムリ点から5キロ北にあるガムリハンは本当に小さな漁港だったが、割と家々の造りが良く裕福そうに見える。

「この港を治めるのはサガジ伯メドルイという神族で、軍事にあまり興味を示さない方です。工業というより魚皮細工を主になさっております。」

 魚皮を使った製品は弥生ちゃんもタコリティでよく見たが、丈夫で防水機能があるので笠や合羽によく使われている。もちろんギィール神族が作るものは品質も高く装飾も華美で、金箔等を裏打ちした高級品は大層な高値で取り引きされる。この世界は魚皮・樹皮を好んで使う傾向があり、獣皮の革製品は武具以外はあまり使っていないように見受けられる。
 港に着くと乗っていた無尾猫達はすっ飛んで他のネコを探しに行った。彼らには独自の習性があり、見聞きした事をすぐに他のネコに話さなければ気持ちが荒れて落ち着かなくなる。万が一事故でもあって自分が死んでしまい見聞きした貴重な情報が失われたら、と思うとおちおち寝てもいられないらしい。

 港は、空だった。小舟が何隻も繋がれているが誰も居ない。時間帯が遅いからもう仕事を終えてしまったのかと思ったがそうではなく、小高い丘の上に皆集められているようだった。

「なにか、騒がしいですね。楽の音が聞こえます。お弔いでしょうか。」

 とタコ巫女ティンブットは辺りを見回した。彼女の話によると、祭礼を行うにしても暦に吉日というのがあり、今日はそれには当たらないので祝いは無いとの事だった。誰も居ないのをこれ幸いと、弥生ちゃんは町の家々を勝手に覗き込む。

「・・・ゲルタは無いね。」
「あんなもの、漁港にあるわけがないじゃないですか。もっとおいしいお魚がいくらでも獲れますよ。」

 呆れた顔でティンブットが言う。もっと貧乏臭い漁村であれば、延々1キロメートルもゲルタが干されているうんざりするような光景を目にするのだが、ここでは大型魚の皮が奇麗に短冊に剥がれて吊るされている。

「あの魚は食べられないのかな。」
「ミョサンマですね。両手を広げた程もある大型の魚で大層な美味と聞きますが、痛み易いので港の近くでないと手に入らないものです。取れる港も限られていて、珍味と言ってよろしいのではないですか。」
「それは是非とも食べなくちゃいけないな。ワサビと醤油があればお刺し身で頂けるんだがねえ。」
「ワシャビ? ショーユ?」

 楽の音に誘われるように、二人は丘を登って行く。その後ろからネコが駆けてきて合流するのだが、今まで居たネコは一匹も居らず全て別のネコだ。船に乗っていたネコたちは自分が得た弥生ちゃん情報を他に伝えるのに大忙しなのだろう。どのネコも皆同じ顔で同じように喋って個性が無いから、なじみで無くても構わない。

 丘を上がった所に、銀色に輝く大きな屋敷があった。その庭で大勢の男女が入り乱れて踊っている。弔いには見えず祭礼のように陽気であり、不審に思ったティンブットが弥生ちゃんに頭を下げて隠れるよう言い置いて、一人事情を探りに行く。踊りの輪から二三人引き出して話し、いそいそと戻って来た。

「やはりお弔いだそうです。」
「誰の?」
「いえ、青晶蜥神救世主さまが降臨なされたからには今の世が終わるに決まっていると、御主であるメドルイ様が仰しゃったそうです。」
「つまり、私の為に踊っているってこと?」
「これは正規の葬礼ではありません。コウモリ巫女もカニ巫女も居ないお弔いがあるわけがない。戯れでお祝いしてるのですね。」

 と、ティンブットは背に負った荷物を下ろして身軽になる。なにをするかと聞くと、祭の輪に入って踊らねばならないのだそうだ。

「お祝いをしているのに踊りも披露せずおひねりも貰わないというでは、タコ巫女としての職業倫理に反します。では一踊りして参ります。」

 弥生ちゃんとネコを置き去りにして、ティンブットは祭の輪の中心に飛び込んで行く。輪の中には既にタコ巫女が四人居たのだが、ティンブットの乱入に応じて踊りを変え彼女を中心とした隊形に替わる。音楽もより華やかでテンポの速いものとなり、民衆は踊りの手をしばし止めて中心のタコ巫女に注目する。

 踊り手としてのティンブットは、達人の名に恥じない見事な技量の持ち主だった。彼女が踊るとその場の空気が光輝き、観客は我を忘れて見入ってしまう。人を操るのも得意で、彼女が手をひらひらと振る度に民衆は左右に揺らいで自然と列を成し、花弁が拡がるように四つの組に分かれ皆揃って手足を振る。四人のタコ巫女はそれらをひとつずつ受け持ち煽り立て、波が打ち寄せ帰るが如くティンブットの周りに渦巻いた。

 惜しむらくは彼女が旅装のままで艶やかさに欠けることだ、と弥生ちゃんは思ったのだが、どこからともなく五色の鮮やかな衣が舞い降りてきて、石舞台に駆け上がったティンブットがそれを取る。どうするかな、と見ているとそのまま舞台の上で素っ裸になって着替えをする。踊りながらも扇情的に服を脱ぎ裸身を揺らしてひとしきり披露した後、翻すように衣装を羽織ってみせる手並みに、これも芸の内なのだと納得させられた。エロティックであるものの爽やかで女性にも嫌味を感じさせない。この真似は自分には出来ないな、と弥生ちゃんは舌を巻いた。

 ぼわんとドラがなり、正面にそびえる屋敷から狗の面を被った若者が現われ、階段の上に立つ。ギィール神族の護衛、狗番だ。その姿を見て皆が地面に両膝を付いてひれ伏した。タコ巫女達も衣の裾をなびかせ膝を折り頭を垂れる。一人、ティンブットののみが石舞台から進み出て階の下の段に身を横にしなだれかかり乞うように手を伸ばした。狗番は階段の上で周囲を睥睨し様子を検めてまた下がり、銀色に光る正面扉を観音開きに引き開けた。

 遠目で見る弥生ちゃんにも、その男が非常に背が高く均整の取れた美しい肉体の持ち主である事がよく分かる。タコリティにも何人かギィール神族が居たのだがどれも皆同じように美しく、これが神の一族を自称すれば普通の人は信じるに決まっている、と思えるほど平民とは違っている。彼、サガジ伯メドルイも半裸の姿に金銀の箔で飾られた肩飾りを垂らす美々しい姿で、太陽の光を反射して庭全体を照らし出した。人々は一層地面に額をこすりつけるのだが、ティンブットのみが身を起す。

「あれは、スターだけに許される特権てものなんだろうな。」

 確かにティンブットは只者ではない。救世主弥生ちゃんの前に出てもなんら怯まず対等に話して居た事をもっと高く評価すべきだったのだ。音楽は荘厳なものに代わりメドルイが階段を一歩ずつ下りて来る。潤んだ瞳でそれを見詰めるティンブット。彼は手を差し伸べて舞姫を優しく引き起こし、わずかに頭を傾けて慇懃に挨拶をする。それに応えてティンブットは舞衣装の長い袖をひらと振り、空気をはらんで裾を翻して四人のタコ巫女と同じく膝を折り畏まる。彼が右手を上げると狗番がドラを叩き、民衆が、彼の奴隷達は頭を上げ再度両手をかざして礼拝する。手を下ろして、掌を上に向け横に滑らすとティンブット等の舞姫は立ち上がり、彼の周りを舞い始める。それと同時に音楽も元へと戻り奴隷達も立って踊り出した。

 石舞台の上でティンブットとメドルイが踊る。本職のティンブットに劣らず彼も踊りが達者だった。身体の使い方が常人とは違い、大きな肉体がしなやかに滑らかに弧を描き、重力を感じさせない身軽さで高く飛び上がり旋回する。その度衣装の金銀が煌めき、粉粒のような光が周囲に散乱して奴隷達の目を奪う。おそらくは、奴隷というものはギィール神族を直視する事も許されないのだろう。皆は巧みに目を逸らして踊り続ける。

 突然太鼓の音が高く、二度三度と轟いた。メドルイは舞台から階段へと戻り、ティンブットも弥生ちゃんの方に踊りながら走ってくる。後ろにはタコ巫女、奴隷達も続いている。

「青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンさま、金雷蜒神族サガジ伯メドルイさまにお招き頂きました。どうぞこちらへ。」

 ティンブットは先程メドルイにしたのと同じように、弥生ちゃんの足元に跪く。今更のようなその礼に、なんだか弥生ちゃんはこそばゆくなり、階段の上に立つ彼を仰ぎ見た。

「ぜんぜん、隠れてた意味ないじゃん。」

 

 屋敷を飾っている銀色の正体は、”ブリキ”だった。鉄板に錫をメッキしたブリキは地球上では西暦1240年頃ボヘミアで発明されたと伝えられるから、ギィール神族が作ってもまったくおかしくない素材なのだが、いきなり現代文明に直面したようで弥生ちゃんはちょっと気が抜けた。ギィール神族は金属をこの地にもたらした一族でありその屋敷もブリキや銅板、あるいは金で屋根を葺いていて遠目からでもすぐに分かるそうだ。それでいて瓦は焼かないのだから、技術の偏り具合が面白い。

 サガジ伯、と言ってもギィール神族は誰に爵位を認められるという事はなくすべて自称なのだが、「伯」「侯」は中央政界に手を出さない神族が好んで使う字だという。それゆえ、弥生ちゃんは特に咎めを受ける事も詮議も無く、単に珍しい客が来たとして心尽くしの接待を受けた。

「・・・・・うーーむ。」
「どうなされた。ガモウヤヨイチャン殿は天空より参られたと申されるが、この地の食はお気に召さぬか。」

 タコリティでは大都市全体が総力を上げて弥生ちゃんを歓待してくれ御馳走にも事欠かなかったわけで、ギィール神族とはいえ漁港を支配するに過ぎないメドルイの歓待の膳は確かに簡素と言えばそうだし平民の食事に比べれば目が眩むような高級なものとも言えるのだが、不審に思ったのはそういう事ではない。

「それとも、毒でも盛られていると御懸念か。」
「ハハハ。毒ですか。」

と、弥生ちゃんは軽く笑った。釣られてティンブットも笑い、慌てて口元を押える。

「タコリティにおいては、五度ほど毒を盛られました。寝ている最中に天井から口元に毒を垂らすという目にも遇わされましたし、寝所に”足の無いトカゲ”を放り込まれもしましたよ。」
「おお、それは。」
「でもねー、あいつらバカばっかりなんだよねー。私が何者なのかすっかり忘れてるんだもの。」

 弥生ちゃんは青晶蜥神救世主である。青晶蜥(チューラウ)は冷気と癒し、薬の神であり、神官巫女はその神殿において医薬品化粧品を調合販売している。暗殺に用いる毒薬も青晶蜥神官が作ったもので、頭にカベチョロを乗っけている弥生ちゃんに効く道理が無い。舐めてみなくても一目で毒が入っているのは分かるし、それを入れた者も即座に見抜いて食えるものなら喰ってみろ、と意地悪もした。田舎の子だから「蛇」なんかへっちゃらで、頭をカタナで叩いてのばし尻尾を掴んでくるくる回しながら朝起きて来て、皆の度肝を抜いたりもした。

「そ、それは申し訳ない。そのような無粋な刺客しかお眼に掛けられなかった事はこの世を治める一族として情けなく思う。」

 メドルイも弥生ちゃんの憂鬱を理解して恐縮してみせた。千年に一度の救世主を襲うのに、そんな間抜けしか居なかったのかと頭を抱えたくもなる。

「して、御不快はいかなる理由で。」
「いや、御馳走は有り難いのですけれど、東海岸に行けば違った香辛料があると聞いていたもので、」
「味ですか。ファッカプタは試してみましたか。」
「ゲルワン・カプタ、ミオ・カプタ、ジューデン・カプタ、アリストタラ・カプタ、皆試しました。貴重なギンゲスヒト・カプタも頂きましたし、カプタ・メノーマは遠慮しました。あれは寄生虫です食べちゃダメですよ。」

 ここ十二神方台系においては香辛料と言えばカプタ、つまり昆虫を干したものをすり潰して粉にしたものになる。植物由来のもので強い刺激を与える食用に適した香辛料がほとんど見当たらない為に、虫の粉を混ぜるのだが、苦かったり甘ったるかったり粉っぽかったりと、ろくな味にならない。この地の人であればそれが当たり前として、なんの疑問も感じないのだろうが、辛いものが大好きな弥生ちゃんにはこの仕打ちは地味に堪えている。ちなみにカプタ・メノーマとはカミキリムシのような白黒の昆虫を生きたまま腹を割いて緑の腺を引っ張り出して生食する、ゲテモノ食いだ。

「それは困りましたな。辛いものと言われても、それでは塩を多量に入れるくらいしか味つけが出来ませぬ。」
「十二神方台系は良い所ですが、こればっかりは我慢出来ないのですよ。」
「星の世界の味とはどのようなものであるか。後学の為お教え願えないか。」

 弥生ちゃんは思いつく限りの形容詞で説明してみるが、こればっかりは言葉では伝わらない。メドルイも首をひねるばかりだ。が、

「あ、こいつ。なんだって。」

 いきなり弥生ちゃんが頭の上のカベチョロと喧嘩し始めたので、宴席に侍る者全てが驚いて尋ねた。

「いかがなされた。」
「いや、こいつがね、今、”聖蟲が頭に憑いた者に対しては、感覚の記憶を転送して共有できる”って教えてくれたのよ。」
「おお、私にはその資格がある。」
「ついでにね、自分の気配を消してゲジゲジの聖蟲の特殊知覚を騙して隠密裏に行動できる、って今更のように教えてくれるのだよ。このやろう。」
「ああ。それは迂闊だ。」

 周囲の顰蹙もなんのそので、カベチョロにしばしお仕置きをした後に、弥生ちゃんは威儀を正して座り直した。

「それでは、私の世界の味がどんなものであるか、ちょっとお楽しみ頂きましょう。どの程度正確に再現できるか分からないけれど。」
「これは、ガモウヤヨイチャン殿をお招きした甲斐があるというものだ。では、どうぞ。」

「とりあえず、”カレー”とか。」

 弥生ちゃんは通常の十倍の辛さのカレーを甘いと感じる辛味のスペシャリストだ。その記憶を転送されたメドルイは、いきなり口を押さえて悶絶する。驚いた狗番が主人を守ろうと抜刀して弥生ちゃんの前に立ち塞がる。

「だ、だいひない。きへんはなひ。」

 メドルイは舌を突き出して味覚に抗する。周囲の女奴隷やカエル巫女が慌てて彼の側に水やら手拭いやらを持って来る。

 弥生ちゃんは記憶の転送を止めた。瞬時に刺激から解放されて、メドルイはようやっと息を吐く。いくら理想的な肉体を持っていたとしても、未体験の味には耐えられない。

「・・・・あー、これは序の口です。私はこれじゃあ全然物足りないんですけど。どうします、これ以上は止めときますか。」
「いや。いや、これは素晴らしい。このような味覚があり得るとは、私は今、金雷蜒王国二千年の内で最も貴重な体験をした。さあ、もう一度感覚を頂こう。」

「では、次はワサビなど。これは生魚の切り身をショーユというものと合わせて食べる時に最高の美味となります。」

 メドルイは今度は額を押さえてのけぞった。狗番は狗の仮面の下で脂汗を流して、主人ののたうつ姿を見る。何も出来ないのがいかにも口惜しい。

「では次はマスタードとか。」
「青とうがらしで柚胡椒とか。」
「胡椒忘れてましたね。」
「山椒です。」
「七味唐辛子は辛味は薄くても風味がよろしくて、すっきりとした味わいの。」
「今流行のハバネロはどうでしょう。」

 ほぼ30分ほど感覚の転送が行われメドルイはすっかり消耗して寝込んでしまい、弥生ちゃんとティンブットは客室に案内され広間を去った。メドルイは新しい体験に大変満足で興奮すらしていたのだが、周囲の者は気が気ではなく主人の身を案じている。

「大丈夫だ。これほど愉快な事は生まれてこの方無かったぞ。」

「御主よ、聖蟲に関る事に口出しは致しませぬが、これはあまりに無謀が過ぎます。」
「言うな、分かっている。他の聖蟲に、特に今から世を変えようという青晶蜥神の聖蟲に意識を接続するなど、正気ではとても出来ぬ。だが痛快だ。」

「青晶蜥神救世主をいかがなさいますか。あの方は危険過ぎます。いっその事命を奪った方が後の世に益するのではありますまいか。」

「ミィガンよ、我が忠実なる狗番よ。御前は金雷蜒王国が万年までも続く事を望むか。私は違うぞ。この世は狂っている、狂いを修正出来ずに淀んで行く。青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンは、その淀みを清める為に遣わされたのだ。お前達が何者にも束縛されずに生きていける世が待っているかも知れない。」

「いかに世が変わろうとも、人から愚かしさを拭い去る事を出来ますまい。真賢き人に仕える事でのみ自らを全う出来る者も必ず居るのです。」

「そうか。ガモウヤヨイチャンどのは苦労されるのであろうな。よい。今宵は安らかにお泊り頂くのだ。明日になればまた考えよう。」
「は。」

 弥生ちゃんとティンブットとネコ三匹は女奴隷に案内されて、”救世主の間”という部屋に案内された。メドルイは弥生ちゃんがここに来る事を三日も前から知っており、わざわざ屋敷を改装させていたのだった。多分、密輸船の船長がここに来る事を約束していたのだろう。油断も隙もあったものじゃない。が、部屋は金属できんきらしてはおらず、青晶蜥神を象徴する青を基調とした落ち着いた内装となっている。

「ガモウヤヨイチャンさま、ここは素直に感謝いたしましょう。」

 タコ巫女はしこたま酒も食らっていて、今にも潰れそうで足元もふらついている。弥生ちゃんは未成年でもあるし、元から固いにんげんであるから酒は一滴も飲んでいない。それが災いして、救世主が自分に仕えるべき巫女を介抱するという羽目になってしまう。女奴隷の力も借りてティンブットを寝床に放り込み、自分もその脇に座ってもういいよと言ったのだが、女奴隷は下がらなかった。

「ガモウヤヨイチャン様、お尋ねしてよろしゅうございますか。」
「うーーーん、だいたい貴女達が何を言って来るかは、決まってるんだけどね。許す。」

「ありがとうございます。青晶蜥神救世主さまは、金雷蜒神族をいかがなさいますか。褐甲角王国とおなじく、滅ぼそうとお考えですか。」

「それね。私にも分からない。これは無責任で言っているのではなく、何も知らない私だからこそこの世界の人では考えもつかぬものを見出せる、とトカゲ神が期待してるんじゃないかな。」

「分からない、決めかねているのではなく。」

「私はこの世界の誰に対しても、恨みはありません。私を襲って来る暗殺者にさえも。今のところ私は憎しみからは自由です。」

「それだけうかがえれば安心です。では隣に控えておりますので御用が御座いましたなら鈴でお呼びください。」

 枕元には金色の鈴がある。複雑でありながら継ぎ目の無い青銅の鋳物で、つる草を模した繊細なデザインは鈴の部分を葉のように薄く仕上げ彫金で飾り文字を施している。これだけのモノを手作業で作れる職人が、地球には何人居るのだろうか。

 

 朝起きると、人が死んでいた。客室の扉を開けると、昨夜案内してくれた女奴隷と狗番が床に横たわっている。その他、見たことの無い男たちが数名、これは庭に転がされていた。メドルイも左肩に傷を負い、奴隷達の手当てを受けている。

「呼んでくれれば良かったのに。ハリセンなりカタナなりの威力をご披露致しました。」
「我が家の客人を守るのは、これは私の義務です。とはいえ、”なりそこない”が混じって居たので要らぬ犠牲を出してしまった。」

 なりそこない、とは聖蟲を戴く為の七つの試練をクリア出来なかったギィール神族の子のことで、エリクソーと呼ばれる特殊な薬液を服用して成長した身体は神族と同等に雄大で、戦闘力としては変わらぬ強さを持っている。庭に骸は転がっていないから、それは逃げ果せたのだろう。

「何者です。」
「鳥を食らうたからといって、空が飛べるわけではなかろうに。貴女を食べに来たのです。」
「え、」

 この世界には十二神信仰とは別の宗教もちゃんとある。その一つが通称人喰い教。人を食べることでその霊力を我が物とし聖蟲を戴かずとも超人になれるという思想だ。神官や巫女を特に狙いギィール神族や黒甲枝にまで手を伸ばすという。千年に一度しか現われない十二神の救世主とくれば是非とも食べねばなるまいと固く誓っているだろう。

 弥生ちゃんは自分を守る為に死んだ二人の亡骸を検めた。女奴隷は左の肩から腹にかけてばっさりと骨まで断ち斬られ即死している。狗番の方は全身に何ヶ所も傷を負っているが、致命傷は腹を抉られたものだろう。

「? ・・・・あ、まだ生きてる。」

 ほんとうに微かだが、狗番には息があった。だが内蔵を抉られては手の施しようが無い。メドルイが奴隷に支えられて立ち上がった。

「私の狗番だ。忠節の終わりを与えてやろう。」

「まあ待って。私は青晶蜥神の救世主だよ。治癒の力を持っている。」
「救えますか。」

「わからない。今までやったことのない大手術になりそうだし。失敗しても恨んじゃダメだよ。」

 弥生ちゃんは腰の後ろに束さんでいるハリセンを取り出した。青い光が周囲に満ち朝日の目映さを凌駕した。

 

第8章 弥生ちゃん、毒地にて金雷蜒姫を虜とする

 

 東金雷蜒王国の南の端にある漁港ガムリハンの領主サガジ伯メドルイの元に逗留して、弥生ちゃんはギジジットへ行く準備を調えた。

 なにしろ、神聖金雷蜒王国時代の首都であり、現在も巨大ゲジゲジ「ゲイル」の繁殖地であるギジジットへの道程は、ギィール神族にとっては秘中の秘でメドルイの口を割らすのにてこずったのだ。だが、日数が掛かった分、弥生ちゃんは金雷蜒神族についての理解をかなり深めた。

 彼らは確かに奴隷を使役するのだが反面、一般人奴隷の社会は強力な支配者が無いと一気に崩壊する脆弱さを持っている。金雷蜒神族という大きな幹に一般人の社会が寄り掛かっている、と言った方が正しいだろうか。それもギィール神族は単なる支配者ではなく産業を興し工業の原動力たる「働く貴族」だ。彼らがぽっかりと抜けてしまえば、社会の生産性が半分以下にも下がって、大量の餓死者が出ると想像される。古事を聞くに、1000年前のギィール神族同士の内乱も300万人以上に脹れ上がった人口問題を端緒とし、それぞれの奴隷を食べさせる為の利権争いが元らしい。

 技術者としてのギィール神族は確かに相当に興味深い。メドルイの屋敷や作業館を覗いてみると、水車を利用して回転動力を引き出し、魚皮を圧延したりふいごを回して火を焚いて乾燥を早めたり、または鉄を溶かしたりと随分と進んでいる。弥生ちゃんが江戸時代のカラクリ茶汲人形の話をすると、次の日には大体おなじようなものを作って来るし、野原に行って過酸化水素水を利用したロケット槍というものを飛ばして遊んだりもした。

 これほどまでに技術に明るい彼なのだが、どういうわけか火薬についての知識がまるで無い。無ければ無いでそれは結構だがあまりにも不自然なので、それとなく婉曲的に地球の話をして試してみた。しかし、他の事ならば地球に関しては目を光らせて来る彼が、この話題にだけはまったく反応を示さない。理解出来ないという風ではなく上の空になる。弥生ちゃんは直感的に、”この種の知識についてはプロテクトされている”と感じた。金雷蜒の聖蟲がその知識を彼らに与えないのだ。

 考えてみれば当たり前で、もっとも原始的な石の玉を打ち出す大砲でも巨大なゲイルを殺せるし、爆薬一樽もあれば無敵を誇る黒甲枝の神兵をも屠る事が可能だろう。弓や弩の矢をはたき落す弥生ちゃんも、或る程度の口径以上の鉄砲玉を防げるかはなはだ疑問だ。頭に聖蟲というものを載せて人々を導くというシステムにおいては火薬はもっとも忌避すべき反則技なのだろう。

 

 メドルイの元には、弥生ちゃんの逗留を知って色々な人が忍んで来る。弥生ちゃんが隠密行動中(!)という事で、彼が気心の知れた友人にのみ伝えたのだが、多彩な人物が集まった。驚いたことに彼の友達は同じギィール神族だけでなく、普通の人も混じっていた。ギィール神族の友となるくらいだから皆相当の秀才だがおかしな事に彼らは単なる奴隷で、漁師をしたり灯台守をしたりと極普通に暮している。メドルイに言わせると「聖蟲を憑けていても、バカはバカ」とのことで、個人の資質が聖蟲によって高まるという事は無いのだそうだ。

 聖蟲の能力を十二分に使いこなす為には、それを戴く人間も並外れて優秀でなければならない。故にギィール神族は聖蟲を戴く前に資格を試す七つの試練を受けるし、褐甲角王国でも世襲ではあるものの25歳くらいまで厳しい軍務を経て軍人としても執政官としても十分に訓練を積んだ後に聖戴を受けるそうだ。

「ただし、例外もある。”王姉妹”という、金雷蜒神聖王の姉妹達は誕生直後から聖蟲を戴いて、生まれついての神として生きている。」

 ゲジゲジの聖蟲の繁殖を行う神聖王とその助けをする姉妹や娘、叔伯母達は極めて特殊な存在で、彼女たちがこの国の中枢と言ってよいらしい。王姉妹は徹底的に王国の存続を優先する。その為には手段も犠牲も選ばず、ましてや奴隷達の生命など考慮に値しないと普通人で奴隷である宰相や官僚と対立する。彼女たちの意志が法令に優先する事もあり、しばしば社会の混乱の元にもなる。

「ギジジットは王姉妹の巣窟だ。二代前、あるいは生きていれば三代前の王姉妹が金雷蜒神に傅いて秘儀を行使している。」
「ガモウヤヨイチャンさまが申される、紅曙蛸巫女王五代トュラクラフ・ッタ・アクシを脅かす者、というのも金雷蜒神ではなくもしや王姉妹ではなかろうか。」
「左様。神が悪事を為す筈がなく、その働きはすべて天の定める計画に従っている。神の力を歪んだ目的に使うとすれば、それは人の業だ。」
「王姉妹は自らも真の神と思っているからな。金雷蜒神と自分の区別も付かないのだろう。」

 メドルイと共に弥生ちゃんの計画を助けてくれているのは三人ともに普通人だった。いずれも知識人というよりは隠者や道人といった風体で、「竹林の七賢」という言葉を思い出させる。弥生ちゃんがこの世界に来て初めて会った「蜻蛉の隠者」の素性が大体分かって来た。初対面の人に会う時には、弥生ちゃんは決まって「蒲生弥生です。”やよいちゃん”と呼んでくださいね。」と挨拶するものだから、この世界の人は皆”ガモウヤヨイチャン”と呼ぶ。

「ガモウヤヨイチャン殿にはお分かり頂けないだろう。金雷蜒の聖蟲はすべて雌で、雄は東西神聖王の額に居る二匹だけなのだ。よって聖蟲の繁殖は王宮でのみ可能で、それを司るのもやはり女、王姉妹に逆らう事は叶わない。あれらは世俗には一切関心が無いから、普通王宮の外の神族と対立する事はないが、その狭間に立つ官僚達は不憫だな。」

 弥生ちゃんは言った。

「では、世をひっくり返そうという青晶蜥神救世主の私を、さぞかしぶち殺したいでしょうね、その人達は。」

 ハハハと皆笑う。

「それでもギジジットに参られるか。」
「紅曙蛸巫女王は、必ずしも救世の業には必要では無いだろうに。」
「救世主と言えども神には叶いませんぞ。勝つ事などはあり得ない。王姉妹のみを相手にする、とはいきませんぞ。」

「これは・・・、勘です。」

 弥生ちゃんの言葉に、四人はほおと息を吐いた。

「直感に基づいて私はギジジットに行かねばならないと思い定めて居ます。論理的ではありませんが、しばしば直感は一気に真実に到ります。」

「紅曙蛸巫女王は天から指図を受け、金雷蜒神聖王は当然の理を尽して、褐甲角武徳王は迷いの果てに王事を成されたと言うが、それが貴女のやり方であるのなら、それに従うのが正しいのだろう。」
「メドルイ様、どうぞ青晶蜥神救世主の為に地図を書いて差し上げたまえ。なに、首尾よく辿り着けるとも限るまい。」

「地図ではダメなのだ。季節により、また月の配置により毒の密度は動いている。計算によってのみ無毒の経路が見出せる。」
「大まかなものでよろしいのではありませんか。青晶蜥神救世主は治癒の魔法を持っている。なんとかなりますよ。」

 

 こうしてギジジット行きの目処が立ったのだが、他にも問題続出で弥生ちゃんは本当に困ってしまった。

「申し訳ありませえーん、私、わたしがガモウヤヨイチャンさまに付いて行かずに誰がというのに、ご一緒出来ないなんて、うわあああああああん。」

 毒地で使う防毒マスクのテストをしたら、ティンブットがアレルギー反応を起してマスクの着用が出来なかったのだ。5人に一人はこの症状を示し、体質的に毒地の毒にも劇的に反応するとの事で、その見極めをする為の試薬をマスクに仕込んでいるらしい。この症状が出る者は決して隊列には加えないそうだ。

「テュラクラフさまの御為に救世主さまがお出でになるというのに、タコ巫女の私が随行出来ないなんて、”腹かっつあばいて”お詫びいたしますうぅぅ。」
「ほら泣かない。」

 切腹の風習はこの世界にはないが弥生ちゃんから日本のお詫びの仕方というのを教えられていて、まさかこうも早くにその機会が巡って来るなんて、とタコ巫女重代の短刀を腹に当てて弥生ちゃんに止められた。弥生ちゃんはティンブットを慰める。

「だいたいねえ、毒地にタコ巫女が行ってもやること無いでしょう。踊りが役に立つ訳もなし。」
「うわあああん、それはそうなんですけどお。」

 自分の代わりとなる者を、という事でティンブットは東奔西走して青晶蜥神救世主に随伴する蝉蛾巫女を探した。風の流れを読み毒地を旅するのに欠かせない天鳴蝉(ゼビ)神の巫女は本来歌姫で、踊りと音曲を生業とするタコ神官巫女とはもともと縁が深い。聖女ティンブットの名はガムリ点近辺にも伝わっており、地元紅曙蛸神殿の全面バックアップの下、とびきり腕っこきの蝉蛾巫女を探し出した。

 名はフィミルティ、身長”公称150cm”の弥生ちゃんよりも更に小さな女の子だが、これでも二十歳だという。この世界ではかなり希な栗色のさらさらした髪を短く丸く切っているので小学生の男の子のようにも見える。ただ、彼女は視力がほとんど無かった。

 弥生ちゃんが診断した所、極端な近視だということが判明したのだが、案の定この世界には眼鏡が無い。ギィール神族はもとより視力異常にはならないし、そもそも目を瞑っていてもゲジゲジの聖蟲が周囲の状況を事細かく伝えてくれるので、眼鏡の必要性に気づくはずも無い。それでいて、友達の為に老眼用の虫めがねを作ってあげたりはするのだから、偏っている。

 弥生ちゃんはメドルイに頼んで、近視用の凹レンズを作ってもらった。メドルイも面白がってレンズ用ガラスの鋳型を何個も作りフレームも自ら金属をひねり、フィミルティ専用眼鏡を作り上げた。圧縮レンズなどは無いから相当に分厚い牛乳瓶の底のようになり、ぐるぐる眼鏡を掛けた姿は、弥生ちゃんの高校の友人で独唱の達人、祐木聖とまるっきりそっくりになる。彼女は普段は人に聞き取れないほどの小声で喋るのだが毒舌で仲間内では「悪党」で通っており、フィミルティも同様に、・・毒舌だった。

「青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンさま、この度はお招き頂き有り難う御座います。されどギィール神族の随伴無しに毒地を、それもギジジットにまでお出でになるとのお話ですが、途中で見つかると我ら随員までも成敗される事をご存知でしょうか。」

「あ、・・いやあー、まあそうなんだけどー、でもおーこれは救世の事業として仕方なしにだねー、もちろん行きたく無いのなら無理強いにはしないんだけど。」
「参ります。我ら十二神に仕える者、救世主の思し召しとあれば、たとえ火焙りにされようが磔で腸を抉り出されようが拒むことはありません。喜んでガモウヤヨイチャンさまの御為に八つ裂き狗喰いの刑も受けましょう。」

「あ、やー、その、気軽にね。」
「もちろん道中は、紅曙蛸巫女のように何も考えないことを旨と致します。」

「とほほ、とんでもない人を呼んで来ちゃったな。」

「それで毒地中の行軍計画は。」
「メドルイさまに頂いたこの無毒の経路を辿って、金雷蜒軍の補給地を経由してギジジットに行くわけだ。最短で20日の行程を予定してるけど、ま一ヶ月。その後、首都であるギジシップ島へ向かう東の街道に出るか、更に北上して聖山麓を東西に横切るボオダン街道のどこかに出る。」
「大雑把ですね。」
「ギジジットに何が待っているか分からないから仕方がない。」

 折角もらった眼鏡でフィミルティが地図を丹念に眺めた。そんなに目を近づけたら眼鏡の意味が無いだろうと思うのだが、習い性ですぐには直らない。

「補給地を経由する、とは。確実に見つかりますよ。」
「そこだ。確実に見つかるのもそうだが、確実に補給もしなければならない。そこで、ギィール神族が常駐しないタダの物資集積所を強襲して奴隷兵やら剣令やらを虜にして補給の手伝いをさせ、それを口実に脅迫するという手口を使う。つまり、ギィール神族にバラされたくなかったら素直に協力しろと。」

 呆れたように冷たい目でフィミルティは弥生ちゃんを見る。さすがに計画が安直過ぎたかな、とちょっと反省したのだが、彼女の言葉は違った。

「なるほど。奴隷の心理を良く突いている。たとえ抵抗して協力しなかったとしても、そのような噂が立っただけでその者は死を与えられますから。」
「ま、そういうことで、あくまで内緒ということをよく言い含めてだね、最小限度の補給で最短距離で縦断するのだよ。」

 

 だが荷運びの人夫が見つからない。なんだったら青晶蜥神官巫女を動員しても良いのだが、ティンブットが見つけてくれたこの蝉蛾巫女ほどに肝の座った者はそうは居ないので、結局イヌコマという可愛い馬を5頭買って運搬させる事とした。ポニーと同じ大きさでイヌのように毛が生えたとんがっている耳を持つ。速度はあるが非力で60kgを載せたらもう歩かないというので、畜力としてはあまり活用されておらず、通常は食肉目的で飼われている。

 供と言えば、ネコが大問題だった。彼らは当然の責務として救世主弥生ちゃんに付いて行こうと思うのだが、なにせ毒地はネコが住める所ではない。ギィール神族の寇掠軍にネコが付いて行った例も無く、普通ならば諦めざるを得ない所を命知らずの雄ネコが5匹、決死隊として同行することとなった。

「あなた達は命知らずで豪胆無比ということだけど、どんなことをしたの。」

「オレは、”足の無いトカゲ”を捕まえたことがある。」
「オレは、火事場泥棒の後をつけていった。」
「オレは、ゲイルの庭に忍び込んで食べられそうになった。」
「オレは、カニ巫女に棍棒で殴られながらも密着取材を敢行した。」
「オレは、海で溺れたことがある。」

 おおおーーー、と相互に武勇談を讃え合うのを額を押さえて聞いていた弥生ちゃんだが、彼らの食事を考えるとまた頭痛がしてくる。無尾猫は本来吸血生物で小動物の生き血を吸うのだが、現在ではビスケットに血を吸わせたものを常食とする。つまり彼らの餌として食用ネズミとかを生きたまま持って行かねばならないのだが、それは無理だ。

「どうしよう。」
「生き血が必要ならば、イヌコマを。」
「それはダメ!」

 弥生ちゃんはネコたちの為に生き血の缶詰というものを作らざるを得なかった。メドルイにブリキで缶を作ってもらって、その中に湯煎した大ネズミの血を海綿に含ませて封じ込め蓋を蝋付けする。この缶は何度も使用して補給地ごとにネコ用缶詰を作る、ということでハンダではなく白蝋で封印することにした。物資集積所の幾つかは食用ネズミの養殖もしている、という情報に賭けたのだ。

 メドルイは言った。

「ガモウヤヨイチャンどのは、細々とした生活の端っこに位置するモノをお作りになる。」
「我ながら実にせこい救世主だよ。」

 

 そしてもう一人、弥生ちゃんに随行する者が居た。

「ミィガンよ。御前はガモウヤヨイチャンどのについてギジジットにまで行くのだ。」

「しかし、メドルイ様は。」
「よいか、私を守るのと同様に、私の命に服するのだ。ガモウヤヨイチャンどのの為に生命を捨てよ。」
「・・・・・・・は。」

 メドルイの狗番ミィガンには、死の淵から弥生ちゃんにかろうじて命を救われた恩もある。彼の治療は、それは奇妙なものだった。

 弥生ちゃんのハリセンから発する光は一種のフィールドとなり彼を包み込み、その中で人体を半ば分解して組み直すというサイボーグ手術にも似た光景が繰り広げられた。足りない部品は彼と一緒に死んだ女奴隷の臓器を抜き出し挿入するという荒技をも使用し、免疫による拒絶反応は遺伝子をそっくり書き換える事で対処したらしい。この奇跡のあまりの非人間さにまるで、UFOで来た宇宙人が人体を無知のまま解体修理した、そんな感触を弥生ちゃんは覚える。

 

 こうして三人と5匹と5頭のキャラバンは毒地の中へと出発した。

 ティンブットは既に数日前に出発し、首都ギジシップ島方面へと移動している。彼女は道中デマを振り撒いて、弥生ちゃんが通常の街道を使って移動しているという欺瞞情報でギジジットへ注意が向かないように工作する事となった。トカゲ巫女が化けた偽弥生ちゃんも連れている。メドルイは見送りに来なかった。やるべきことのすべてをやったからには、別に祈りを奉げる必要もあるまいと、いつもの生活のリズムを崩さなかった。次第に遠くなる銀色の館を、ミィガンはいつまでも何度も見返していた。

 毒地には一片の緑も無い。ほぼ乾燥して沙漠なのだが、時折昔の住居や村の跡に出くわす。溜め池も残っているのだが、そこに溜っている水は飲むと黒い血を吐いて即死する、とミィガンは言った。それでも、紫色のなめくじが生きていたのには驚嘆する。

 ガムリハンを立って二日後、弥生ちゃん達は毒地に入った。地図に従って北上するも、いきなり毒の雲に出くわして進行を妨げられる。弥生ちゃんの治癒能力が無ければ全滅しかねない危ない状況で、その後進むにつれて環境はどんどん悪化していく。業を煮やしてハリセンで進路上の毒をいきなり全部浄化してみたのだが、幅1km長さ12kmに渡って浄化した空間もわずか数時間で旧に復した。

「やはり、ギィール神族の案内が無いとちょっと無理みたいだね。」
「風がデタラメに吹いて来ました。どうします。今なら引き返せますが、戻りますか。」

 弥生ちゃんはちょっと考えて、額のカベチョロをてこてことこづいてこう言った。

「私の気配を一時半径30キロくらいで解放して、ギィール神族をおびき寄せてくれない。」

 ミィガンは驚いて尋ねる。

「ガモウヤヨイチャン様、何をなさる御つもりです。」
「だから、道案内をとっ捕まえるのさ。」

 果たして二時間後、弥生ちゃん一行は金雷蜒軍寇掠部隊の一つと遭遇する。これはノゲ・ベイスラを襲って青晶蜥神救世主の降臨を察知し、急遽帰還を決めた「シンクリュアラ・ディジマンディ(救済と回復の霞嵐)」だった。彼らはガムリ点より北へ100キロの大三角州の河口付近を領地とする神族達によって組織されているので、東へまっすぐ弥生ちゃんの進路を横切る形で移動していた。

 両者は矢の届かぬ300メートルの距離で対峙する。弥生ちゃんはギィール神族の礼儀に詳しいミィガンを使者に立てた。

「これなるは天の神座に御わす十二の創造手が一星、青晶蜥(チューラウ)神により方台に遣わされた世にも奇なる尊き救世主、ガモウヤヨイチャンさまが御行列なるぞ。金雷蜒神族といえどもゲイルに騎乗のまま挨拶するは許されぬ。地に下りて威儀を正されよ。」

 居丈高である。喧嘩を吹っかけているのだから当たり前だが、大声で伝えるミィガンは今にも心臓が止るほどに鼓動が激しく、ギィール神族への罪悪感で一杯になる。戦力を考えても、相手はゲイル騎兵6騎に兵士が100数十、対してこちらは男一人に女が二人、ネコ5匹だ。正気の持ち主ならば岩陰にでも隠れてやり過ごすだろうが、生憎弥生ちゃんは酔狂の人だった。

 弥生ちゃんが自分の気配を隠蔽していないので、得体の知れない聖蟲の存在をギィール神族は確実にキャッチしている。ゲジゲジでもカブトムシでも無ければ、それはやはり、新救世主であろうが、判断を下すにはあまりにも唐突で当惑する。向うも狗番を一人使者に出して来た。

「もう一度伺う。真の青晶蜥神救世主様であるか。」

「ギィール神族におかれては、答は無用であろう。聖蟲が真実を明らかにされる。」
「されど、なおも問う。真の青晶蜥神救世主であれば、何故この地にあられる。どちらへ参られる。」
「ギジシップへ。金雷蜒神聖王に拝謁し、方台の行く末あるべき姿を談合し、王国を快く譲られん事を申し述べる御つもりだ。」

「・・・・国を、譲れと。」

 ミィガンは、弥生ちゃんの指示通りに嘘八百を言った。現在の東金雷蜒王国の首都ギジシップ島へ向かう、というのも大胆な話だが、それでも金雷蜒王国の心臓とも言える旧首都ギジジットを直撃するよりは遥かに現実的で理解可能なはなしだった。相手の狗番は明らかに自分の裁量を越える事態に動揺し、しばし待たれよと歩を返し主に指示を仰ぎに行く。弥生ちゃんも声を上げてミィガンを呼び戻した。

「戦うのは私がするから、あなたはフィミルティとネコとイヌコマ達を守ってて。」
「しかし。」
「しかしも案山子も、あなた一人加勢に付いたって何の役にも立たないよ。」

「攻めて来ますか。」
「当り前じゃない。」

 

 当たり前のように、軍勢が押し寄せて来た。ゲイル騎兵はその場に留まり、歩兵だけだ。青晶蜥神救世主がいかなる力を持つ者かを見極めたいのだろう。狗番ではなく剣令が指揮する武装兵と奴隷兵が剣を抜き槍を構えてまっすぐに駆けて来る。

ぱあーん。

 弥生ちゃんは腰の後ろに束さんであるハリセンを抜いて、大きな音立てて開き、青い光と共に疾風を引き起こした。

 「シンクリュアラ・ディジマンディ」の兵達はまとめて左に弾き飛ばされた。弥生ちゃんに辿りつく200メートルも前だ。15メートルも吹き飛ばされてコロコロと荒れ果てた地面を転がる。ミィガンもフィミルティも、青晶蜥神救世主としての弥生ちゃんの真の姿を目の当たりに見て声を失う。さすがに「神殺し」ピルマルレレコを紋章とする御方だ、と初めて納得が行った。

 立ち上がった兵達は、誰一人再度弥生ちゃんの方に向かわなかった。代りにゲイル騎兵が6騎揃って前に出る。狗番は続かない、足手まといとされたのだろう、逃げ散る奴隷兵達を取り纏めている。弥生ちゃんはハリセンを戻してカタナを抜いた。

 本来ならば何処かの狗番の差し料だった湾刀は、戦場で砕かれ長さを半分にされて弥生ちゃんの手にある。先は折れたままに平たく、切っ先と呼べる部分は無いが、ほぼ日本刀と同形に見える。弥生ちゃんの手の中でその刃先に青い滴のような光を宿し、黒光りのする刀身に鬼気をはらんだ。

 弥生ちゃんは自ら前に出て、敢えてゲイル騎兵の輪の中に立つ。鎌首をもたげ高さが4メートルになる上に、金銀に彩られたきらびやかな甲冑に身を包むギィール神族達が弓を引く。17対のゲイルの肢が6揃い、蟲の脚の森に囲まれたようなものだ。

「これは怖いな。」

 とか言いながら、右手のカタナを正眼に突き出す。それを合図としてギィール神族は一斉に矢を放った。

 とーん、と弥生ちゃんは上に飛ぶ。高さ5メートルで、ギィール神族達と同じ高さだ。ぐるりと旋回して彼らの驚く顔を拝見し、品定めをする。再び矢が番えられるが、空中で足場も無いのに、弥生ちゃんは東に飛んだ。

「風が、救世主さまを包んでいる。」

 蝉蛾巫女フィミルティは、風が弥生ちゃんの身体を持ち上げて自由に宙を走らせるのを感じ取った。いや、腰に差したハリセンが畳んだままでも風を呼び、弥生ちゃんを左右に吹き飛ばす。弥生ちゃんはそれを巧みに使って、燕が家屋の軒をすり抜けるようにゲイルの肢の間を飛び交っている。

 同士討ちになると弓の使用を諦め、ギィール神族達は長槍や戈を振り回した。しかし、良鋼を鍛えた刃でも、弥生ちゃんに当たったかと思えば刃先穂先が刎ね飛ばされ、使い物にならなくなっている。弥生ちゃんは大胆にもゲイルの頭の上に立ったりするが、ゲイル自体は斬らなかった。ミィガンから、ゲイルは口から腐食性の毒液を吐くと聞かされて、ひょっとしたら映画「エイリアン」みたいな強酸性体液を持っているのでは無かろうか、と思ったからだ。

「大体、わかった!」

と宣言して、弥生ちゃんはゲイルの背の騎櫓を固定する鎖や腹帯を狙い始めた。騎櫓を落されればギィール神族もゲイルの背から振り落とされる。弥生ちゃんのターゲットは、一人だけ居たギィール神族の女性、キリストル姫アィイーガだった。

 アィイーガは騎櫓を斬り落とされ、タコ樹脂の盾を両断され、遂には後頭部を蹴飛ばされて、激しく地面に落下した。死んではいない事を確認した弥生ちゃんは、カタナを左手に持ち替え再びハリセンを引き抜いた。

「ぃえええええええいいいいいいいいい。」

 6匹のゲイルが揃って、500メートルほど吹き飛ばされた。ちょっとやり過ぎたかな、と思ったら不意にがくっと膝の力が抜けた。ハリセンは使い過ぎると自分の身体にもダメージが入るのだ、と今更に知る。

 

 戦いの様子を呆然と見守っていた「シンクリュアラ・ディジマンディ」の兵達は、慌てて飛ばされたゲイルとギィール神族を追う。そのまま彼らは撤退して毒の雲の向うに消えて行ったが、狗番が二人だけ戻って来て、やはり弓の届かぬ300メートル付近に控える。

「・・・この方の狗番でしょう。主が居ないのを知って取り返しに来たのです。」

 キリストル姫アィイーガは気絶していて、その額の金色のゲジゲジは彼女を守ろうとけなげに尻尾の刺を振っている。小さな頭をもたげ、赤い双眼が輝く。

「おっと。」

と弥生ちゃんが避けた所を、赤い光条がすり抜ける。これが世に言う「金雷蜒の雷」、ギィール神族に無礼を働いた者が撃たれるという神罰だ。が、弥生ちゃんはゲジゲジの聖蟲がこれを放つのを十二神方台系に来た当初に見ているので、よく知っている。

「そんなレーザー光線は効かないよ。」

 と人差し指でゲジゲジを押さえて捕まえる。きゅーきゅーと聖蟲は可愛らしい声を上げた。聖蟲をとっ捕まえるという光景を初めて見て、ミィガンもフィミルティもあまりの罰当たりさに全身を硬直させた。

 弥生ちゃんは、遠くに控えてこちらの様子を探る二人の狗番の姿を見て言った。

「あいつら、主を救えないと知ったら、死ぬかな。」
「死にます。御主を失って故郷に帰る事の出来る狗番はいません。」

「そりゃかわいそうだな。」

 弥生ちゃんの意を受け、ミィガンは彼らの元へと歩いて行く。こうして弥生ちゃん御一行様は人数が倍に増えた。

 

第9章 仮面の男、自らの罪を語る

 

 「仮面の男」、ソグヴィタル範ヒィキタイタン、現在は弥生ちゃんに偽名を頂いてミストレックス(「ミスターX」の十二神方台系なまり)と名乗っている彼は、紅曙蛸神殿仮宮の守護大監室でまどろんで居た。

 紅曙蛸巫女王五代テュラクラフの神像は本来ならば紅曙蛸神殿に安置されるべきだがあまりにも防備が薄いと、タコリティ最大の実力者フィギマス・ィレオの館を仮の紅曙蛸女王宮殿と定めている。ヒィキタイタンはテュラクラフの守護者を青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンに依頼され、またタコリティ全体の防衛に関しても最高指揮官を務めるよう推挙され、守護大監として神像の安置された大広間の隣の部屋に司令部を置いている。

 部屋の中央の大机にタコリティ市街全図と周辺地図が無造作に拡げられている。突貫工事で都市全体を要塞に作り替える計画と防衛軍の練兵の計画を先程まで長時間合議していたのだが、所詮彼らは交易警備隊に過ぎず軍勢として兵を指揮した事はなく、配下の兵達にも絶対の忠誠を期待出来ない事を再認識させられるだけだった。有力者同士の勢力争いや面子を賭けた対立も調停しなければならず、司令部は内部分裂を食い止めるのに汲汲とさせられている。ヒィキタイタンの手足となって働く忠実で有能な士官が少なく、全てを彼が直接監督しなければならないのが混乱の元凶だ。

「うむ、こうしてみると、黒甲枝の組織は上手くできている。」

 金雷蜒王国と比べて、褐甲角王国が絶対的に進んでいると胸を張れるのが、軍と官僚の制度である。額に聖蟲を戴くとはいえ知的にはただの人である黒甲枝が統一された国家を運営していくにあたって、軍、官僚、法制度の確立にいかに知恵と資金と人材を注いできたか、国を一から創り上げる苦労をしてヒィキタイタンにもようやく理解出来て先人の苦労が偲ばれた。

「仕方がない。最初から分かっていたが、各有力者、交易警備隊をそのまま隊ごとに独自の指揮権も与えるしか全体をまとめていく方法は無い。褐甲角王国と同じ仕組みが成り立つ道理が無かった。」

 裏切りも功名争いもこの際許容しなければならない。タコリティは二千年も見放されて来ただけあって、単独で生きて行く事の出来ない都市だ。彼ら有力者はタコリティの外部にもネットワークを持ち、独自に補給路を確保しているからこそ覇を唱える事が出来る。このネットワークを統合的に支配する事が理想だが、叶わないとなれば逆に複数のネットワークに寄生する形で紅曙蛸女王宮を維持していく形が最善となるだろう。

「まるで、3000年前の紅曙蛸女王宮殿と同じ形になるのか・・・。」

 ヒィキタイタンは嘆息し、長椅子に不貞寝する。既に深更を過ぎ、館内に人の行き来する音も無い。身体を動かす事はほとんど無いが、連日連夜のまとまるあての無い会議と互いに矛盾する計画に気苦労ばかりが積み重なり、神経に毒が染みるような疲れが全身を搦めとっていく。ガモウヤヨイチャンがこの仕事をおっぽり出してギジジットに出かけたのはまことに正しい。自分も是非にと願って供をするべきだった、と羨望にも似た後悔をする。だが頼まれた以上なんとかせねばならぬし、その責務から逃げるつもりは毛頭無い。褐甲角王宮元老院で表情も見せぬ元老達を相手に空疎な演説を飛ばすよりは遥かに手応えがある、やり甲斐のある仕事なのだ・・・・。

 

「ヒィキタイタン様、おやすみでしょうか。」

「ドワアッダか。金か?」

 武器屋の主人ドワアッダは、ヒィキタイタンが信頼出来る数少ない腹心の一人だ。彼も武器取り引きの為の独自のネットワークを有し、他の有力者とは距離を置く事が可能な為に、ヒィキタイタンの仕事を他からの干渉無く手伝う事が出来る。

「兵糧の備蓄がかなり貧弱です。通常の都市生活を続ける事がまず優先されますから、それを割いての備蓄となるとかなりの負担を民衆に強いることになり、食糧価格の暴騰を招くようです。」
「水までも買わねばならないからな。だが、むしろタコリティの外に貯える方が容易だろう。」
「それはかなり有望です。どの有力者も自らの鉱区に相当量の物資を貯えていますので、これを徴発すれば数ヶ月は戦えます。」

「タコリティ自体を守るのはやめにするか。紅曙蛸女王宮を船にでも載せて移動可能にしておいた方が楽だ。」
「紅曙蛸(テューク)神の円湾すべてを使って逃げ回りますか。なるほど、それは面白い。ですが、」

 ヒィキタイタンは椅子から起き上がり、ドワアッダに向き直った。

「だが、ガモウヤヨイチャン殿がどうするか、これだな。いつまでも逃げ回るわけにはいかないし、それでは現世にテュラクラフさまがお帰りになった意味が無い。タコリティの外で状況が変化して、紅曙蛸巫女王国が存立できる基盤が整わない限りは、すべては水泡に帰すだろう。」

「外と言えば、」

と、ドワアッダはヒィキタイタンの耳元に口を寄せ、声を潜めて言った。

「しきりに褐甲角王国から問い合わせがございます。”ミストレックス”を名乗る者は国事犯ソグヴィタル範ヒィキタイタンではないか、と追捕師レメコフ誉マキアリィの名で照会して参ります。」
「ここまでおおっぴらに表に出ているのだから仕方がない。奴には責務を果たす機会を与えねばなるまい。」
「それでは困ります。」
「いや、」

とドワアッダを留める。彼の助けを借りてタコリティに身を隠し時が移り状況が変化して汚名を雪ぐ機会を待っていたが、ガモウヤヨイチャンのおかげで無理やりにでも陽の当たる場所に引き出されたからには、堂々正面から罰を受け禊とせねば人々を従える資格を認められないだろう。

「奴はまもなくここに来る。饗応の宴を催さねばなるまい。」
「もしや死ぬ気では御座いませんね。」

 ヒィキタイタンは笑った。心に染み入る実に佳い顔だ。

「その気は無い。無くなった。少し前まではそれもよいかとも思ったが、今は死ねぬ。こう面白く世が動くのに、死んでいる暇などあるか。」
「おお、安心しました。そうでないとこのドワアッダ、無駄飯を提供した甲斐が御座いません。タコリティの王などは小さい、褐甲角王宮までも手中にすると戯れ言を申されませ。」

「だがマキアリィにも見せ場を作ってやらねばならないだろうな。俺独りがおもしろがっては罰が当たる。知っているか、マキアリィは六歳も年上だったファンファネラを室に迎えると言い張って父御を困らせたのだぞ。」

 訴追されたヒィキタイタンの代理人としてカプタニアに残り、彼に代って刑を受けたカタツムリ巫女ファンファネラは、彼ら二人にとっては姉とも仰ぐ慕わしい存在だった。宮廷の侍女や秘書として働く緑隆蝸(ワグルクー)神の巫女は、見初められて黒甲枝の奥方となり神職を辞す例も多い。ファンファネラのように独身を貫いて王宮に勤め続け高位の役職に登る者はむしろ希だ。だが、だからこそソグヴィタル王である範ヒィキタイタンの身代わりが務まった喜びを、レメコフ誉マキアリィに牢の格子越しに語ったと、風の噂に聞いている。

「どちらが死んでも、ファンファネラは泣くだろうな。いや、怒るか。あれは、いつまで経っても俺達を子供扱いしていたからなあ。」
「美しい御方でしたな。」

 東金雷蜒王国製の刀剣を購うのに尽力したドワアッダは、ヒィキタイタンが市中にお忍びで出かける際にもその手引きをし、共犯者としてのファンファネラとも度々顔を会わしている。

「そうでもないぞ。十人並より上というだけだ。」
「王宮にはそれは美姫が出入りしたでしょうが、私にはまぶしく感じられましたぞ。マキアリィ様の方が見る目が御座いました。」
「見る者によって、色々と印象が違うのだな・・・。」

 

 きゃあああ、と隣の大広間から宿直の紅曙蛸巫女の悲鳴が上がり、続いて小枝がぽきりと折れるのに似た音がした。

 ヒィキタイタンとドワアッダは、すわ襲撃者かと剣を掴んで守護大監室を飛び出す。督促派行徒、人喰い教、あるいは狂信的十二神信徒が金雷蜒神もしくは褐甲角神の為にと、テュラクラフの神像を毀損しようとする。中には紅曙蛸神の信徒が家宝とする為にと切り取りに来る事もある。それを防ぐ為に昼夜問わず常に紅曙蛸巫女が周りを固め、紅曙蛸神官戦士が外庭に詰めているのだが。

 ヒィキタイタンの帯びる剣はドワアッダが調達したギィール神族作の名剣であるが、それに加えて弥生ちゃんが青晶蜥神の神威を与えて鉄をも切り裂く神剣となっている。現在タコリティには弥生ちゃんによって神威を与えられた刀剣が三本あり、一本がドワアッダの店で弥生ちゃんが使った子供用の剣、もう一本は弥生ちゃんが試し切りにした武装兵の雇い主に借金のカタとして与えた刀である。十二神方台系では両刃の剣は身分ある者が用い、一般の武人は構造的に丈夫な刀を使う。その慣習に従って剣の方は紅曙蛸神殿に奉納され、刀は巡り巡ってタコリティの第一人者が帯びるべき支配の権のシンボルとなり、紅曙蛸神殿に館を提供するフィギマス・ィレオの所有となっている。

 大広間は元々もフィギマス・ィレオが紅曙蛸神官巫女を招いて祭宴を行う為に設えていたものだけあって、テュラクラフの神像を安置するのにさほどの内装の変更も必要なかった。弾丸状に奥が丸まり胎内をも思わせる、古い洞窟形式の祭壇を拡張したもので、放物線の焦点位置に方形の台座を据え神像を安置する。紅曙蛸神文様を浮き彫りにした丸い壁面を背景に、見る者をいきなり神話空間に引き込む迫力と荘厳さを生み出していた。

 神像の前に、三人の宿直の紅曙蛸巫女が固まってテュラクラフの顔を見詰めている。驚愕か、怯えか、いずれにしても他の者は見当たらず、侵入者が有ったわけではないらしい。

「いかがした。」

 ドワアッダを従えて広間に入って来たヒィキタイタンに、三人は控える事も忘れて眼ですがった。屋外に在り兵を指揮する時は別として、神殿内にあっては今や彼はカブトムシの聖蟲を隠そうとしない。聖蟲の威光があればこそ、不安定な状況で安心を得る者は多い。

「テュラクラフ様が。」
「異常が、なにか起きたのか。」
「テュラクラフさまが、」

 巫女たちは口ごもり、説明を容易にはしない。タコ石に覆われ全身が赤い光沢を放つ無機的な姿とはいえ、女人の肢体をまじまじと観察するのは憚られ、テュラクラフの世話と清拭は巫女達のみが携わる。ヒィキタイタンと言えども最早テュラクラフに触ることは出来ないので、自分では確かめられない。

「テュラクラフ様が、・・・・・伸びをなさいました。」

 ヒィキタイタンとドワアッダはしばし巫女の言う意味を理解出来ず、立ち尽くした。伸びとは、

「はい。両の腕を上げられて、背筋を反って伸びをなさいました。ぱきといったのは、その時の背骨の鳴る音です。」

 二人は唖然とする。振り返って神像を見直してみるが、昼間の姿と寸分違わず静かな微笑を浮かべ、蝋燭の光に揺れる陰翳を作っている。

「・・・異常は無いのだな。」
「は、はい。異常は、ありません。」

 ヒィキタイタンとドワアッダは互いの顔を見合わせた。何も無いのなら、ここに居る必要は無いのだが、しかし。

 言葉を選んで、巫女達を刺激しないよう小声で、ドワアッダは言った。

「このような形でヒトを驚かす御方を、わたくしはもう一人知っております。」
「私もだ。」

 

 褐甲角王国において、追捕師という役職は特別な意味を持つ。通常の刑事犯ではなく国事犯、それも聖蟲を頂いた人間を対象とする為に、追っ手の側も聖蟲を頂いた黒甲枝を当てるのだ。いわば名誉職であり任命以前の役職からは解放され追捕に専念させられる。彼の職務は王国全体の体面にも関る絶対に失敗の許されない責任の重いものであり、その手段も正々堂々、公衆の面前で格調高く果たされねばならない。

 ヒィキタイタン事件、ソグヴィタル王による宮廷クーデター未遂事件は公式には発表されていないので、元老院の喚問に応じず代理人であるカタツムリ巫女ファンファネラを刑に服せしめた事自体が、国民から見たヒィキタイタンの罪だ。無実の女人、それも被告人を深く信頼し刑に処せられる可能性も承知して代理となった者を見殺しにした、という事実は、ヒィキタイタンの名誉を著しく傷付け、道義的倫理的に回復不能な悪評を民衆に植えつける事に成功した。先戦主義を奉じ元老院において孤立しつつも褐甲角神の誓約を第一の責務として遂行を迫るヒィキタイタンに意を同じくしていた黒甲枝達も、このスキャンダルの前には沈黙せざるを得ず、ハジパイ王、嘉イョバイアンの策略は完全に成功していると言える。

 レメコフ誉マキアリィは、ハジパイ王の呼び出しを受けてカプタニア王宮元老院議長室を訪ねた。

 元老院は「金翅幹」家と呼ばれる王国への貢献著しい家系から議員を集め、軍事以外の全ての政策と立法を諮っている。十二神方台系における議会制度の走りとも言えるが、議場においては形式的な表決が行われるのみ。各個の利害を代表する小グループずつが書簡を通じて調整を重ね、表決が行われる時にはすでに大勢が決していて、すべてが完全な解決を得た瑕瑾の無い結論として武徳王たるカンヴィタル王に奏上され、公布施行する、という仕組みになっている。

 ハジパイ嘉イョバイアンはこの閉鎖的な議決システムの達人で、50年にも渡って元老院で格闘し続けてきた稀代の政治家である。元老院においては王族と言えども特権を主張する事は出来ないが、ハジパイ王は入念な根回しとシステムの特徴を知りつくした巧妙な評議戦術で独裁体制とも呼べる権力を築き上げてきた。

 その根拠地である議長室は、さほど大きなものではない。王宮の一角であるから質素というわけにはいかないが単に事務机があり書類戸棚が数本据えられているだけの、何の面白味も無い倉庫のような部屋である。扉は無く分厚い毛織物のカーテンで通路と仕切られており、戸口の前には待合室よろしく長椅子が三脚並べられている。

 マキアリィが訪ねた時も、すでに数人が長椅子に座って順番を待って居た。彼はハジパイ王から特別に呼ばれたので順番を飛ばしてそのまま部屋に通されたが、長椅子に一人の侍女が座っているのを不思議に思った。カタツムリ巫女ではなく、黒甲枝から募られた少女だ。侍女ならば控え室で呼ばれるままに伺候すればよいのに御用商人や官僚のように待たされるとは、どのような特別な役儀を負って居るのか。

 暗い部屋の天窓からの陽光が届く一隅に、ハジパイ王は座ってカタツムリ巫女の秘書が差し出す書類に署名していた。マキアリィの姿を見ると、秘書を下げ、二人きりになる。

「タコリティを攻め落とすのに、兵力はいかほど要る。」

 いきなりの下問にマキアリィは戸惑いはしたが淀みなく答える。

「黒甲枝が10、クワアット兵が1000、輜重の邑兵が1000余り。陥すだけならばこれで十分ですが、その後占領し続けるには1万人では足りないでしょう。」

 レメコフ家は黒甲枝として建国以来褐甲角軍の重責を担って来た名門だ。マキアリィ自身、追捕師に任じられる前は若くして大剣令を勤め、将である兵師監に叙せられる直前だった。ハジパイ王は王宮深くにあり軍事にはまったく関与しないのに対し、彼は専門家であるからいきなりの質問にも驚かない。

「タコリティの民草は、褐甲角王国には服せぬか。それとも金雷蜒神族どもに未だ隷属しているか。」
「そのどちらもありますが、非公式な交易の拠点として我らも法の支配を及ぼさなかった経緯があります。褐甲角王国がタコリティにて公の支配を唱えれば、東金雷蜒王国は無頼の者共を使嗾して何年でも抵抗を試みさせるでしょう。」

「民衆は皆王国に連れ去り、タコリティに火を放ち、まったく無に返すという手もある。」

 マキアリィは瞬きをしてハジパイ王の真意を汲み取ろうとした。彼の言は、純軍事的な面では常道だろうが、しかし。

「褐甲角軍においては、そのような無法は許されますまい。なにより黒甲枝が承知しません。またタコリティは紅曙蛸巫女王所縁の地ではありますが、かって我らが救世主初代武徳王が拠った事も御座います。」
「そうだったな。最初の旗揚げで一敗地に塗れて、彼の地に逃げ込んだのだったな。」

 尊崇すべき建国の救世主を冷笑するかのハジパイ王の言葉に、マキアリィは足元が空くような不審を覚えた。金色の聖蟲を戴く者は滅多に軍事には携わらないが、それでも褐甲角神の無敵性を肉体に意識しないはずが無い。神から与えられた力は借り物と呼び、無敵の黒甲枝に対してもまったく権威を認めず道具としてしか見ていない、との噂は耳にはしていたが、まさか褐甲角神救世主に対してもそうであったとは、マキアリィは信じられなかった。

 だがだからこそ、ハジパイ王は聖蟲を持たない官僚や学者、民間の有力者の支持を集めている。褐甲角王国120万人の内、聖蟲を戴くのはわずかに1300人に過ぎない。ギィール神族とは異なり褐甲角の聖蟲は知的には何の機能も持たないから、結局は王国の運営は人間本来の能力で成し遂げられて来た。神ではなく人の知恵と力で、という自負は一面で神の知恵に依存する金雷蜒王国に対する強烈な対抗心を掻き立てるが、他面、いつまでも黒甲枝に庇護され続けるひ弱な自らの姿を屈辱に感じる者も最近では少なくないという。

「しかしながら、タコリティが独立して紅曙蛸王国を復活させようという動きは看過出来ません。褐甲角神の大義に対する挑戦とも受け取れます。ここは元老院にてよく評定をなされて慎重に対応すべきでしょう。」

「だからこそ、そなたを呼んだ。」

 だろう、とマキアリィは自らの予想が当たった事を喜びはしなかった。追捕師である自分を呼び出すのはヒィキタイタンの所在が知れたに違いないし、タコリティ独立を率い防衛の指揮を執る仮面の男の噂はカプタニアにまで伝わっている。マキアリィがそれを確かめに行かないのは、タコリティが以上のような特殊で政治的事情を抱える場所だからに他ならない。

「私一人ならば、タコリティに乗り込んでも問題にはなりますまい。少数の私的な供のみを率いて直ちに参りましょう。」
「それでは効率が悪い。ヒィキタイタンと共にタコリティ独立の動きを潰してもらいたい。兵を100与えよう。これに城門外でヒィキタイタンの罪を叫ばせ、タコリティの民衆に周知させ求心力を削ぎ、アレが自ら外に出るように仕向けよ。」
「・・・はい。」

 あくまで徹底的にヒィキタイタンの名誉を傷付けるハジパイ王の作戦に、マキアリィは反発を覚えずには居られなかった。

 元々は政争に破れたとはいえヒィキタイタンが罪に問われる筈では無かった。武徳王カンヴィタル王も、一時身を退いて時期を待てと、ヒィキタイタンに聖山に赴いて武徳王の代理として褐甲角神像の落慶式を取り仕切るよう計らったのだ。しかしこの機を逃さず徹底的に叩き潰す策に出たハジパイ王は、いつしか宮廷クーデターを王国全体に及ぶ簒奪の疑いありと拡大して公的な喚問にまでエスカレートさせた。ここまで徹底的に対抗勢力を潰そうとする動きは元老院ではかって無く、ヒィキタイタンが言っていた「ハジパイ王を引退に追いやる切り札」の重大さは、もしや彼が思う以上にハジパイ王には致命的だったのかもしれない。

 ほとんど例の無い王族の喚問となれば、たとえ無罪となっても自ら王位を辞す他は無く、また連座した者も死をもって無実を明かさねばならない。この策謀を潰す為には、喚問自体を拒絶して一身に叛逆の責めを負う以外に無かった。何時までも王都に戻らないヒィキタイタンに遂に召喚命令が下り、代理人の命を賭けての期限を定められたが遂に応じず、ファンファネラの死となったのだ。

 目を閉じればその時の状況が、今もありありと浮かんで来る。

 兵庭と内庭に挟まれた「死の庭」と呼ばれる王城の中央道で行われた処刑は、サクラバンダ他三頭の大狗による「狗掛かり」によって行われた。抗う術の無い女人を体長2メートルを越える肉食獣が寄ってたかって噛み殺す残虐な刑罰は、黒甲枝といえども目を背ける凄惨なものだった。ファンファネラは緑隆蝸(ワグルクー)神の緑の法服を牙と爪により剥ぎ取られ白い肌を曝して地面に倒れ、夥しい血を池のように溜めて息絶えた。動かなくなってもなお刑の終了を告げる角笛はならず、狗達は五分あまりもファンファネラを責め続ける。興奮した狗を何人もの兵が縄を掛けて取り押さえ連れて行き、執行吏がファンファネラの死を確かめた後に、復讐の神である夕呑螯(シャムシャウラ)神の巫女が六名、白い旗を拡げて現われる。彼女達は山蛾の繭糸で織った絹布をファンファネラの血に浸し赤く染め上げ、中央門上の楼塞で見届けるハジパイ王に示した。この旗を与えられる者が刑死者の恨みを晴らし復讐を遂げる追捕師になる。旗はあらかじめ定められていたとおり、兵庭の最前列で見守っていたレメコフ誉マキアリィに差し出された。

 レメコフ家は、チュダムル家と並んで黒甲枝の双柱として王国を支えて来た重要な家系である。たびたび元老院、金翅幹家への昇壇を勧められながら頑として拒み続け軍務を果たして来た。その片方の若き後継者を追捕師として最前線から外し、黒甲枝の発言力を低下させ、同時にヒィキタイタンの王都における協力者を切り離したのは、ハジパイ王の熟慮の末の結論だ。一度得た機会は余すところなく使い尽くすやり口に嫌悪感を示す者は多いが、巧みに正論を配するその政治手法を何人も覆す事が出来ない。

 伝えるべきを伝え、マキアリィに退室を促すハジパイ王は、ふと思い出したように尋ねた。

「いま、青晶蜥神救世主はどこに居る。」
「青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャン様は、タコリティを離れ東金雷蜒王国はガムリ点近辺に上陸したと聞き及んでいます。」
「まだ生きているのか。」
「救世主様を襲う者は数多いと聞きますが、ことごとく退けられたという話です。驚くほど勘が鋭く、陰謀を見抜く才を持っておいでだと。」

「ハハ、陰謀を見抜く才などはこの世には無い。それは、自ら陰謀を巡らす能力がある、という意味だ。」

 ハジパイ王はそれ以上喋らず、書類に目を落す。マキアリィは形だけは深く礼をして、議長室を後にした。

「次の御方。カロアル斧ロァラン様、お入り下さい。」

 ハジパイ王の秘書のカタツムリ巫女が呼び入れたのは、あの年若い黒甲枝の侍女だった。

 

「まあ、赤甲梢の総裁がお代わりになるのですか。」

 久しぶりに王宮から宿下がりしたカロアル斧ロァランを屋敷に迎えて、ヒッポドス弓レアルは心からの歓待をしたが、それはまたお別れパーティでもあった。

 赤甲梢とは、黒甲枝が聖蟲を世襲で継承するのに対し、当人限り一代のみで与えられる武人の事だ。志操堅固にして王国に対する忠誠が篤く、武芸や兵術で衆に抜きんでた力量を持ちながらも、黒甲枝の次男三男として生まれ養子の口も無かった者を救済する目的で作られた制度だ。建国当初はすべて当人の器量に応じて聖蟲を与えていたから、先祖返りした制度とも言える。

 現在は赤甲梢はほぼ全てが一隊に集められ、高速戦闘部隊を形成する。兎竜という大型草食獣に騎乗して神出鬼没のゲイル騎兵を追うのが任務だ。兎竜の積載制限から黒甲枝の重甲冑は用いず、装甲防御の観点から言えば無敵では無いが、その分機動性運動性に秀でている。額に戴く聖蟲も赤い甲羽の品種が与えられる。

「赤甲梢の総裁はキスァブル・メグリアル焔アウンサ様でしたね。あの方ももう随分と長く勤められましたから、お代わりになられるのも当然ではありますが、しかしこの時期に。」
「この時期だからこそ、というのがハジパイ王の仰せでした。来るべき金雷蜒王国との決戦の前に、赤甲梢にも新しい血を与え軍全体の編成も修正されるという事です。」

 ハギット女史の問いに、斧ロァランは自身も納得がいかない答をする。現在の総裁、焔アウンサは王族の姫でお飾りという型を破って強い指導力を発揮し、出来たばかりの高速戦隊を縦横に采配して多々勝利を納めて来た。この時期であればこそ彼女の指導力は必要とされるにも関らず、ハジパイ王は元老院に諮って後継者へ職を移譲させようとする。軍に対する元老院の影響力の増大を狙っているのだろうが、逆に褐甲角軍の弱体化を図っているようにも見える。

「それで次の総裁にはどなたがお就きになられるのです。」

 弓レアルには誰がなろうがまったく関係の無い話に思える。ただ義妹がいじめられないような優しい人だといいな、と思うだけだ。

「メグリアル劫アランサ様です。アランサさまは17才で、メグリアル王の御すエイタンカプトでお育ちになりましたから私達も未だお目にかかって居りませんが、しっかりとされた方だそうです。」

「メグリアル家の姫は大体意地っ張りですから。」

 とハギット女史は思い出すように弓レアルに言った。

「焔アウンサ様が赤甲梢の総裁になられたのは、私がまだ子供の時でした。お嬢様が生まれた年ですね。」
「18年もお勤めになられたのですか。それは、もっと早くに代わるべきではありませんか。」
「その前は5年7年でお辞めになられましたから、アウンサ様はよほど水が合われたのでしょう。ロァランさまは侍女としてアランサさまに御奉仕するのですか。」
「いえ、輔衛視としてチュダムル彩ルダム様がお守り役になられますから、その方のお指図を頂いてアランサ様にお仕えする事になります。使い番のような役ですね。」
「そうだわ!」

 と弓レアルは手を叩いて言った。

「デュータム点まで、私もご一緒してお送りしましょう。兎竜という生き物も見てみたいし。」

 十二神方台系には蛇が居なかったから、地球の東洋の「龍」も西洋の「ドラゴン」もイメージとしては存在せず、「竜」といえば兎竜とその仲間を指す。全長4メートルを越える麒麟に似た細身の草食獣で、耳が兎のように伸び全身に薄灰色の短い毛が生えている。平原に群れて過ごし実に平和に暮している美しい獣で、古来より神の乗り物として尊ばれ狩りを禁じられてきた。大き過ぎるから人が飼い馴らすことも無かったのだが、近年黒甲枝の怪力があれば調教出来ることが判明し、飼育と利用が開始された。

「お嬢様、さすがに怒りますよ。」
「言ってみただけです。ロァラン様の御為に何か出来ないかとおもいまして・・。」
「兎竜を見たいのはわたくしも同じですが。」

 

 肩の力が抜けた弓レアルの言葉に、斧ロァランは王宮での心が凍るやりとりの緊張からようやくに解放された。ハジパイ王は彼女にこう言ったのだ。

「・・聖蟲をそなたに授けたい。色は緑金で。勿論そなたが拒むものは聖蟲が伝えない。狗とは違いそれを戴く者の意思が最優先する。」

 大狗サクラバンダの額に宿る聖蟲と同じ色で、ハジパイ王はそれを通じてサクラバンダの目に映るものをそのまま見る事が出来る。行動を強制する力もあり、尋常の聖蟲の在り方とは大きく異なる使われ方をされている。

「お断りします。たとえハジパイ王の仰せとはいえ、わたしは狗ではありません。」

「王国に仕えるとは、狗以下の扱いをされても恨まぬという事だぞ。そなたは、巷の片隅で褐甲角神の為に己を捨て泥と汚名を被って生きる者を知らぬだろう。」
「であればなおさら、聖蟲を使う必要は無いでしょう。狗になれと申されるならば従いますが、狗と同じに扱われるのは家名に賭けてお断り致します。」
「うむ。」

 ハジパイ王はむしろ満足そうだった。この娘も他の黒甲枝と同様に扱い易いとみたのだろう。信義と公正を旨とする黒甲枝の家に生まれた者は或る意味褐甲角神の神官巫女に等しく、神の命ずるままの行いを為さずしては生きていけない。奸計を弄する者にはいとも容易く操れるであろう。

「では、狗になってもらおう。そなたの見るもの聞く所をすべて詳細に私に書き送るのだ。連絡の方法は現地で手の者が教える。」

「間者になれ、というお話ですね、赤甲梢に対する。」
「拒みはしまいな。」
「・・・はい。」

 赤甲梢の存在意義は、褐甲角神救世主の誓約をひたすらに無私に実現することにある。黒甲枝が執政官としての役務も持つのに対し、ただ戦う事だけを要求される先戦主義の権化と言える部隊であり、総裁キスァブル・メグリアル焔アウンサの下で更に先鋭化された。その内奥深くに潜伏し密かに動向を洩らし、いざという時は心臓を抉る針の役目を斧ロァランにあてがおうというのだ。ロァランの頑さはむしろ彼らの信頼を得る隠れ蓑となるだろう。

 今この時に、ハジパイ王と交わした会話自体が、斧ロァランを縛る枷となる。逆らおうにも黒甲枝は自らの言葉に背けない。

 

「ああ、それでは、わたくしたちの結婚式に参加して頂けないかもしれないのですね。それは困ります・・・。」
 あまりに日常的な義姉の言葉がやけに遠くに聞こえた。

 

 

 

【ゲルタのおいしいいただき方】

・・・・そんなものはありません、というのが十二神方台系の住民大方の意見だろう。

 大陸の周囲どこででも取れる雑魚のゲルタは、網を入れれば季節には嫌でも大量に上がって来る有り難味の無い魚だ。これで美味ければ神の御恵みと称えられようが、あいにくと強烈な臭いがするのでそのままでは食べられず、色々と処理してかすかすの食べる事に徒労感すら感じる食品になってしまう。内臓もアンモニアを大量に含んでいて、海に撒いても悪食の清掃生物すら見向きもしない。

 とはいえ、海辺の漁師達はゲルタを食用にする方法を色々と試行錯誤した。保存食として考えた場合アンモニアを大量に含む性質は腐敗防止に効果があり、ちゃんと処理をすれば長時間ナマで放置しても食する事が可能である。また長期間置くことでアンモニア発酵が進み蛋白質が変性して、ある程度は美味といえる味に変化する。この特性を生かしてゲルタはしばらく吊るして食べるのが標準となった。

 十二神方台系は全般的に温暖湿潤な気候で晴れが何日も続く事が無く、魚を干すのには適していないが、ゲルタはほったらかしでも腐らず勝手に乾いてくれる。乾いている最中に発酵が進みアンモニアも抜けて、とまったく手が掛からない。

 更に漁師達は塩を付ける事を考えた。地球では木の葉や枝に海水を垂らし乾かして塩を得る所を、ゲルタに海水を掛けてみた。海岸線にずらとならんで悪臭を放つゲルタを見れば塩水くらい掛けたくなるのが人情で、発酵の進む2週間ほどの間海水を掛けては乾かして、遂には真っ白に塩を噴いたゲルタを得る。ここまでくれば後一歩、付いてる塩を掻き落として精製すれば立派な食塩が出来上がる。しかしなぜかこれはやらない。

 理由は流通上の問題にある。ゲルタ干しによる食塩の精製は紅曙蛸巫女王国時代に始まり交易の重要品目だったが、モノが良過ぎた。交易路が途絶して流通に困難を生じると、精製された塩はほとんど砂金と同様の稀少さを持って取り引きされた。各地に勝手な関所が作られ関銭を取るようになると、精製された塩はその貴重さが災いしてまっさきに取り上げられた。

 一方塩を噴いたゲルタはまったくのノーマークで、同じ塩を扱っているのに商品価値に大差がついて最低の扱いをされた。が皮肉にもつまらないからこそ、ゲルタはどこででも流通する標準的な商品となる。大陸上のどこででもゲルタは同じ程度の価値で取り引きされ、交換レートの目安となる。つまり通貨の代替物として機能するようになった。

 目先の利いた商人はゲルタの形で目的の大都市に塩を安全に安価に運び、都市内で精製作業をして高価な食塩として販売する。塩抜きされた大量のゲルタは廃棄するのも勿体ないから、安価で下げ渡され市場で一般庶民の蛋白源として売られている。これが狭義のゲルタであり、普通話題に上げる時はこれを焼いた料理の事を言う。出しガラを焼いているわけだから美味い道理がない。故に、「ゲルタのおいしいいただき方はありません」。

 出しガラのゲルタは焼いた”ゲルタパス”くらいしか調理法は無いが、塩ゲルタは色々と使い途がある。大鍋に水と塩ゲルタを放り込み炊くと、案外と良い出汁が取れる。塩気もあるからこれに穀物や野菜、その他の具を入れるとお粥やスープが出来上がる。冷水に一昼夜漬けておくと塩水が取れるからこれで漬け物を作る。また調味料として砕いた塩ゲルタを料理に入れても良い。ゲルタをぐつぐつと煮潰してペースト状にしたものを主食である焼き餅に塗って食べてもいる。(餅といってもとうもろこしで作るトルティーヤに似て粘りは無い)

 ともかく料理の大多数はゲルタになんらかの依存をしていて、十二神方台系に住む人は生まれてから死ぬまでゲルタを食べ続けるわけだ。これにはいいかげん人々もうんざりしていて、家人が不慮の死を遂げ嘆く人に対して「ゲルタからは解放されたのだから」と慰める言葉まであったりする。

 近年、ゲルタの製法の改良も試みられ、ゲルタを徹底的に発酵熟成させて味わい深いものにした商品が幾つか発売された。中でもゲルタの近縁種である大ゲルタ(親ゲルタともいうが別の魚)を使って熟成後燻製にしたものは特に良い出汁が取れると好評を博している。

(蒲生弥生)

 

 

第10章 金雷蜒王姉妹、毒地神聖首都より魔手を伸ばす

 

 毒地中を行く青晶蜥神救世主蒲生弥生ちゃん御一行様は、金雷蜒軍との十七度の戦闘をことごとく勝利した。

 内訳は、毒地を移動中の部隊と遭遇7回(ゲイル騎兵を有する部隊との戦闘3回)、暗殺者の襲撃6回、補給地への襲撃4回である。

 三番目の補給地において、弥生ちゃんはとても貴重な宝物を手に入れた。大鹿の革をなめしたものに金箔を張った2メートル四方にもなる巨大な地図である。毒が撒かれる前、1300年程昔の神聖金雷蜒王国の最盛期に作られたもので、今は滅びた街や村、街道や水路まで細かく記されている。

「・・・水路だ。」
「うん。水路、いや地下水道だな、これが毒を運んでいる。」
「何も無いと思ったところから、いきなり毒が吹き出すのは、地下水道のせいでしたか。」

 蒲生弥生ちゃんと蝉蛾巫女フィミルティ、そして今ではすっかり弥生ちゃん主従と仲良くなってしまったキルストル姫アィイーガは、地図を見て毒地の仕組みを看破した。旧王国時代の神聖首都ギジジットに繋がるありとあらゆる水路が毒を運び、毒地中の隅々までも汚染している。この水路に水を注入する順番によって毒の濃度のムラが発生し、不規則な安全路を作っていた。

「しかし、こんなものを1000年前につくったままで運用する事はできない。誰が管理しているのだ。」
「水に関する事ですから、やはりミミズ神官巫女でしょう。あいつら、老けた巫女ばっかりだと思っていたら、若い頃は毒地で働いていたのですね。」

 ミミズ神、水悉蚓(ミストゥアゥル)神は河川や地下水、雨乞い、植物の芽吹きの神である。その巫女は雨乞いのスペシャリストで、故に憑依体質であり庶人は半ば忌避している。フィミルティの言うとおり平均年齢は40歳程度で若い男性には縁の遠い存在だが、女性の家庭問題、とくに夫や恋人の浮気に効く呪いを持っているというので、その神殿はひっきりなしの参拝者を受入れている。

「でも変だね。ギジジットに水が流れこむ様に水路は出来ている。ヌケミンドルの大用水から、あるいは聖山山脈の河川の水を引いて、農地を潤し、最終的にギジジットに到達するように設計されてる。ギジジットから水は出て行かない。」

 弥生ちゃんが感心するのは、この地図にはちゃんと高低差も記されている事で、これを見れば水の行方が一発で分かるのだ。アィイーガは地図を確かめて言った。

「しかし、ギジジットから毒の水が送られているとすれば、毒地の通路の計算式と合致する。いや、これを見てしまってはそれ以外には考えられない。」

 ギィール神族には彼らだけが知る、毒地中を旅するのに安全な通路を発見する計算式というものがある。これを持たない普通人は決して毒地を行く事が出来ない。だからこそ弥生ちゃんはアィイーガを捕虜にしたのだ。

「なにか巨大な力で、ポンプを使って水を送り出している?」
「ポワンプとはなんですか。」
「揚水機、水を無理やりに水路に送り出す機械よ。」
「しかしそれにはとても巨大な力が必要だ。そのような力はありえないし、大規模な水道建設をしたという話も聞かない。私が出征した範囲で知る所では、この地図はまったく正しいぞ。」
「そうだね。毒地の中で大人数を投入しての大土木工事というのも、無理が有る。なんか、あるね。」
「うん。」「はい。」

 

 現在弥生ちゃん御一行様は総勢10名、弥生ちゃんとフィミルティ、ミィガン、キルストル姫アィイーガと二人の狗番、襲撃した補給地で加わった救世主信者の奴隷兵が2名、物好き1名、アィイーガが居るからマトモな作戦行動だろうと勘違いした奴1名。イヌコマも10頭に増えている。ネコ5匹の決死隊は変わらないが、彼らは日を追って見る見る機嫌が悪くなって来た。ネコにはネコ独自の生理現象があり、自分が体験した貴重な情報がもし万が一の事があって失われたらと思うと心配になって、神経が過敏になり焦燥感に駆られる「話したい」病になる。

「ガモウヤヨイチャン様、アィイーガ様、メシができましたでござりまする。」

と、料理番を仰せつかったうっかり八兵衛が三人を呼びに来た。救世主に歌姫にギィール神族と三人も女は居るが誰一人まともに料理出来る者はおらず、やーやっぱり奴隷ってべんりだなあとかの間抜けな感想を洩らしてたりする。

 弥生ちゃんが作った鉄の鍋は料理番に大好評で、奴隷達はおおさすがは救世主様のお持ち物は違う、としきりに感心した。なにしろ出征やら交易の旅においても鍋は土器か石器であって、奴隷が二人がかりでもっこで担いで行く。鍋が無ければそこらへんの岩の窪みに水を溜めて焼け石を放り込んで穀物の粉を煮るのだが、効率が悪いから無理をしてでも土器の調理器具は抱えて行く。それに対して、イヌコマの背に引っ掛けておくだけでよい鉄製の鍋の優位性は一目瞭然、熱効率も良いし調理法も色々と応用が効くので、誰にでも喜ばれた。

 だが弥生ちゃんは、ぐつぐつと煮える鍋の前でぐんにゃりとなる。

「また、・・・ゲルタだ。」
「ゲルタが一番保存が効きますから。」
「でもゲルタだ。」
「しかし他にありませんから。あのー、それほど仰しゃるのならイヌコマでも一頭バラして。」
「それはダメ。」

 結局塩ゲルタのお粥ばかりを頂くしかない。十二神方台系には、不慮の事故で家族を無くした人を慰める言葉に「ゲルタからは永遠に解放されたのだから」というのがあるらしい。

「ガモウヤヨイチャンさまー。」

 とキルストル姫アィイーガが呼ぶ。彼女は頭にゲジゲジが憑いているから、弥生ちゃんに味覚の記憶の転送をしてもらう事が出来る。最初は当然のように反発し非協力的だった彼女も、サガジ伯メドルイに好評だった味覚、辛味の転送を行うと、何日かの内には辛味中毒患者となり弥生ちゃんの傍を離れなくなった。フィミルティに、「後世、青晶蜥神救世主の叙事詩において、必ずやキルストル姫アィイーガの名がありますよ」とかの説得も受けて、これはこれで面白いかなあと気軽に協力者になる。彼女は21歳とまだ若く、好奇心に溢れたノリのいいおねえちゃんだった、という事だ。騎乗すべきゲイルも居なくなったが、まったく気にしない。

「おいたわしい・・・。」
「うるさい!」

 フィミルティの心の篭らない慰めの言葉を背に受けて、弥生ちゃんはお椀を抱えてずるずるとアィイーガの元に歩いて行く。聖蟲を使った味覚の転送は、弥生ちゃん自身は感じないのだから、自分にはまったくメリットが無い。アィイーガが「辛い辛い」とおいしそうにご飯を食べているのを、恨めしげに見ているしか無いのだ。

 うっかり八兵衛はネコ達を集めて、生き血の缶詰を開けてお皿の上に出す。このお皿もまたブリキ製で非常に使い勝手が良い。フィミルティはアィイーガに、この旅が終わったらブリキ製のお皿と鉄の鍋を作って軍用に売り出せば大儲け出来ますよ、とか進言してアィイーガもそりゃ絶対間違いないなと首肯した。ギィール神族は単なる支配者ではなく企業家発明家であるから、新規事業のネタを常に探している。

 猫達が生き血を含んだ海綿をずるずると啜っているのを見て、しばし弥生ちゃんは考え、あーっと声を上げた。

「どうしました。」
「缶詰!」
「ハイ。」
「ネコだけじゃなくて、人間用も作れば良かった!!」

「・・ほお、それは素敵な思いつきです。さすがは青晶蜥神救世主さま。」
「次の補給地では、それやってみよう。さすがにゲルタは飽きた。大ネズミの肉だとか、大山羊の脳髄とかも煮て詰めれば良いだろうな。」
「かなり大きな缶詰を作らねばなりませんが。」
「私がやろう。何、錫金があれば簡単な工作だ。」

 

 三人の狗番達にとっては、そんな呑気な旅では無い。遭遇戦や補給基地の襲撃はよいとして、問題は明らかに暗殺目的と思える襲撃が何度も繰り返された事だ。どう考えても自分達の行動が筒抜けで内通者が居るとしか考えられない。が、奴隷兵たちが合流する以前から襲撃は始まっており、彼らにも含んでいるかもしれないが優先順位は低くなる。アィイーガと二人の狗番ファイガルとガシュムは不本意ながら突然巻き込まれたのだから内通どころではない。ミィガンは弥生ちゃんに瀕死の重傷を救われまた主人に言い遣っての同行だから信じるとして、フィミルティとネコ、それに弥生ちゃん本人こそが一番怪しかった。

「どう思う? ガモウヤヨイチャンさまは本当に自分の姿を消し得ているのか?」

 ゲルタの粥を啜りながら、狗番達は相談する。彼らは主人以上に主人の命を慮らねばならない。

「アィイーガ様には感じられない、という事だから、普通のギィール神族の方々には完璧に隠蔽出来るのだろう。だが、ギジジットに住む魔法使いには通じてないのかもしれない。」
「我らの知恵の及ぶ範囲では無いが、しかしあれほど真っ正面から戦われるのは非常に心配だ。」
「何故ガモウヤヨイチャン様はハリセンを使って下さらないのだ。”カタナ”だけでは見ているだけで恐ろしく危ういぞ。」
「ハリセンは最後の武器なのだそうだ。あれを使うと物事の本質が見えなくなる、と仰しゃられる。」

 彼ら狗番にも、弥生ちゃんが各々の刀に神威を与えてくれている。鉄をも切り裂く武器というのは一見すると無敵そうだが、相手が打ち込んできた刃の勢いそのままの破片が自分の方に飛んで来て、普通に剣を受けるよりも危なかったりする。防御には技巧が必要で、あくまで自分から攻撃を仕掛ける際に有利な武器なのだ。弥生ちゃんの性格そのままである。

 

「ともかくあと7日の距離まで到りました。もう少しです、頑張りましょう。」
「・・・・・・・コーヒー飲みたい。」

 

 

 王姉妹、歴代金雷蜒神聖王の姉妹達は年を経て王位が次代に移ると、毒地の中心に在る神聖金雷蜒王国時代の旧首都ギジジットに赴き、そこで一生を終える。ギジジットは地上における金雷蜒(ギィール)神の御座であり、化身である巨大ゲジゲジが住んでいると噂される。それは或る意味真実で、ギジジットは巨大なゲイルの繁殖地でもあり、夥しい数の幼生を飼う事も彼女たちの仕事となる。もっとも下僕であるゲジゲジ神官巫女が大抵の業務を行ってくれるので、金雷蜒神の与えた秘法奥義の研究に没頭するのが常である。

 毒地の中心部であるギジジットは、実はまったく毒気が無い。毒の製造元ではあるもののここで長年働くゲジゲジ神官巫女、あるいは地下水道のメンテナンスを行うミミズ神官巫女を生かす為には全に清浄にしておかねばならないからだ。城内にはわずかばかりでも緑地が有り畑さえも設けられ、一応はギジジットのみでの自立が可能である。

 現在ギジジットの長は現在の金雷蜒神聖王の祖父の姉妹である”ゴブァラバウト四数姉”だ。王姉妹には名が無く、生まれた順番がそのまま名前になる。母の身分をは問わず父王の名をそのまま受継ぎ、皇太子たる男子の出生の前後で姉妹を分けるだけの極めて単純な命名規則に従う。

 ゴブァラバウト四数姉は78歳。十二神方台系においては極めて高齢と看做せるが、髪が真っ白になった以外に老いの印は無く、未だ40代でも通る美貌を誇っている。身長は他のギィール神族と同様に2メートルの巨人で、頭から極めて繊細な金雷蜒神の縫取りをした赤い薄衣を被っている。手足には黄金の輪に宝石をあしらったものを幾つも嵌め、七色の糸に金糸を巻いた飾り帯を何本も垂らし、裾には黒曜石の小さな獣の像を十幾つもぶら下げているという豪華さだが、しかし裸足で歩く。ゴブァラバウトの娘は今や彼女一人で、弟ギジメトイスの娘四人が彼女を助けている。この五人の王姉妹がギジジットの支配者だ。

「・・・読めぬ。」

 彼女達は生まれた直後から聖蟲を与えられ、生まれながらの神として生きて来たが、能力は普通のギィール神族とさほど変わりない。聖蟲の様子を他より敏感に繊細に感じ取るだけだ。聖蟲は聖蟲同士で会話する。その会話は地平線を越えて姿が見えなくなっても通じており、人には意味を教えてくれないが王姉妹にはなんとなく気分だけは分かるものだ。地上に在る3000余のゲジゲジの聖蟲全ての輻輳する会話の響きを、ここギジジットで音の無い楽として読み取っている。

 ここ数日、響きに不思議な色が加わった。78歳の彼女をして戸惑わせる、初めての音だった。それは日が経つにつれて次第に大きく強くなっている。聖蟲達はその到来をむしろ喜んでいるように感じ取れるが、金雷蜒神にとっての喜びと、地上の人の喜びとが合致する事は少ない。凶兆とみなすべきではないか、と四数姉は考えた。

「これはなんだ。」

 答られる者が居る道理が無い。ギジメトイスの娘達も異変は感じるが意味を知る術を知らない。やむなくゲジゲジ神官を呼び出して外界の話をさせた。ゲジゲジ神官巫女もギジジットより一歩も出ることは無いが、東金雷蜒王国から物資を運んで来る者から王国の状況を伝える文や噂を得てはいる。神官はここ最近で最も重要な事件として、「青晶蜥神救世主がいよいよ出現し、しかもそれは天空より下った星の人」という話をした。

「救世主、トカゲ神の救世主が本当に現れただと? 汚らわしい。あのようなぬめぬめとした陰気な生き物を戴く恥知らずが、我らが王国を窺いに来たというのか。」

 彼女達の意識では、褐甲角王国はほとんど意味を為さないほどに矮小な領域を占めるだけの貧弱で遅れた反乱勢力に過ぎない。青晶蜥神救世主に対してもなんら敬意を覚えず、抹殺するにも手が汚れるのを恥とする程度の虫けらにしか思えない。

「上四姉、この響きはもしや青晶蜥神の聖蟲が近づいている印ではないか。」
「このギジジットに! 誰の許しを得て。」
「救世主というからには誰の許しも必要とはするまい。小娘とな、それも子供並に小さい矮人と。」
「だが何の為にギジジットに来る。来て何をする。何の目的がある。」
「黙れ。トカゲの目的など知った事か。殺す、如何に殺すか。それのみが分かれば良い。」

 だが彼女達も合理的なギィール神族の一員である。救世主と呼ばれる程の者を、地上の力で殺すのは不可能だろうと瞬時に見定めた。念の為、一応は刺客を放つよう指図する。毒地は王姉妹の庭だ。寇掠軍を率いて出征してきたギィール神族の中に気に入らない者が居た場合、人知れず抹殺するのを日常茶飯事としていた。飼っている刺客は数も芸も豊富に有る。暗殺を司る吏官は、今度も簡単にカタが着くだろうと軽く考えて出撃の命令を下した。

 暗殺失敗の報を伝えた者は三名が四数姉に殺された。無理だと知ってはいても腹は立つ。八つ当たりで殺された者は死に損だが、ゲイルの口に放り込まれなかっただけを慰めとするしかない。ただ暗殺の失敗は、それでも青晶蜥神救世主の位置と進路、意図を知らせてくれた。

「ここに来る。間違いなく。その力は強大で、ゲイルを敵とせぬほどだ。」
「これだけの力を持つ者なれば行いもまた破天荒であろうな。ギジジットにて破天荒を為すとすればなにがある。」
「金雷蜒神の地上の御体節を損なう事、これ以上の不埒はこの世にはあるまい。」
「トカゲはやるか。」
「やるな。」
「やるだろう。神殺しを紋章として使うらしいぞ、あれは。」
「ガモウヤヨイチャン、という名だ。ピルマルレレコという神の紋章を持つ。天の人だ、神を殺す神だ。ピルマルレレコ神の生き姿として、あれはこの地に在るらしい。」

「殺せ殺せ殺せ、簡単に殺せと言うが殺せない。「金雷蜒の雷」を受けつけないと聞く。弓矢より投槍よりも早くに動くと言ったな。」
「黙れ、だまれ。この世では殺せない。それは最初から分かっていた。カブトムシも潰せなかった、力では勝てぬ、そういう枠組みが天の神座にて定められたのだ。」
「神には神の秘術しか通じまい。我らの神を動かそう。」
「簡単に言う。救世主の出現を防ぐ為に数百年の歳月を費やして、結局は失敗した。神の業は地上の我らには手が届かない。」
「届くとどく。」
「そうだ届く。届く者にやらせればよい。」
「星の世界からガモウヤヨイチャンは来たという。星の人ならば、殺せるだろう。呼び出せ。」
「天空に輪を作り、時を捩じ曲げる。星の世界に力を送り、我らの意の通じる星の人を探す。ゲルヒッテン衡ヌバイムの書に有る技だ。」
「力が要る。律令の障壁を越える力だ。光よりも早く星を渡る、歪んだ衣の結び目をほどく力だ。」
「それは今我らの手の内で、発せられるを待っている。」
「フフフ」「ハハハ」「フフハハハ。」「愉快愉快。」

「だが今ひとつ、地上の手段で刺客を差し向けよう。獣人だ。」
「愉快愉快。」
「獣人が叶う筈も無し。何故に遊ぶ。」
「獣人は長らく飼い過ぎた。殺してもよいが一度も使わずに捨てるのは惜しい。」
「殺す為に放つのか。それもまた楽し。」
「手紙を持たそう。まっすぐにギジジットに来られるように。」
「そうだ準備をせねばならない。不意に訪れられても歓待できない。手紙を持たそう。入り口を指定しろ。」
「飼育番を呼べ。」

 

「・・・・あれは、古伝に聞く”獣人”というものだな。」

 弥生ちゃん御一行様に先行して待ち伏せの有無を確かめていたキルストル姫アィイーガ主従は、岩山の間道の出口に潜んでいる10名程度の兵と異形の戦士2名を発見した。アィイーガは虜の身であるにも関らず、こうしてよく斥候の役を果たしている。本来金雷蜒の聖蟲を額に戴く者は周囲の状況を眼で見ずとも半径1キロ以上は知覚出来るのだが、現在弥生ちゃんの能力で情報封鎖がされている為に自分で確かめるしかない。が、それはなかなかに新鮮な感覚で、敵と知恵を絞って裏を掻き合うゲームを楽しんでいる。

 二人の狗番ファイガルとガシュムは主人ほどには気軽にはいかないが、活躍の機会を存分に与えられてそれなりに満足している。しかし今回の敵は、

「人、でしょうか。」
「人だと聞くが最早人とは呼べまい。神聖金雷蜒王国末期にギィール神族を効率的に殺す為に作られたのだが、こいつは黒甲枝を対象により強力に仕立てられている。ぬかるなよ。」

 アィイーガはすっかりやる気になっている。ギィール神族はその偉大なる体躯を手に入れる為に幼少よりエリクソーと呼ばれる薬液を服用している。エリクソーには様々な種類があり、効果もそれぞれに異なり、服用の仕方を間違うと害も引き起こす。ギィール神族が用いるのは、長年の研究の結果安全性と効果とのバランスが最適に保たれている「黄金調合」と呼ばれる定番の処方箋だが、現在もより良い調合と処方は研究され続けている。

 その最もおぞましい成果が「獣人」だ。筋力や持久力、回復力を極限まで高める処方を受け、副作用も相当に発生するのを薬でまた抑え込み、徹底的に身体能力の強化を図った末に出来上がるのが、この人とも獣ともつかぬ容貌魁偉な戦士だ。確かに戦闘力耐久力は高いのだが、寿命は短く使い捨てとされる。褐甲角王国成立後はギィール神族から黒甲枝に対象を換えて更なる研究を続けたと聞くが、現在両金雷蜒王国においてまったく姿を見る事は無い。どれほど強化を続けても、神が憑いて居る黒甲枝には到底及ばないのが明白だからだ。

 道の奥から弥生ちゃん御一行様が見えて来た。弥生ちゃんは地図を見るにも地形を読むにも長けていて、待ち伏せやら罠を施す場所を実に的確に予想する。聞けば、「向うの世界では、毎日のようにやっていた」との事で、星の世界とはそれほどまでに物騒なのかと同情したほどだ。トカゲ神の聖蟲は自らの気配を隠蔽するだけでなく、虚偽の姿をゲジゲジの聖蟲の特殊知覚に送り込む能力もあるらしく、弥生ちゃんを欺くのは至難の業と言える。

 アィイーガ主従は獣人とその周りの兵を見下ろす断崖の上にある。アィイーガは獣人側から姿を見られないように立って、弥生ちゃんの聖蟲に話し掛けた。聖蟲は聖蟲同士で通信が出来る。ゲジゲジ同士では特殊知覚の及ぶ範囲、カブトムシは相互の姿が見える限りにおいて、離れて居ても会話を通じる事が可能だ。異種の聖蟲同士の通信はアィイーガは弥生ちゃんのカベチョロと初めてしたのだが、気配の隠蔽中はカブトムシと同じく視界の届く範囲での通信に限られる。

『待ち伏せがあるが、特殊な兵士が居る。対黒甲枝用に特別にエリクソーを与えて育てられた異形の兵だ。獣人という。』
『エリクソーを? じゃあドーピングビーストてわけだ。』
『ドォピングト? まあ、いい。つまり普通の兵とは戦闘力が格段に違う、恐ろしげな化け物が待ち受けているのだ。』
『私が行こうか?』
『少しは遊び甲斐がありそうだ。我らだけで先に仕掛ける。手を出すなよ。』
『ピルマルレレコに誓って。』

 弥生ちゃんは無駄に人死にが出るのは嫌がるので、戦闘は普通半殺しで剣を納めている。命に係らない程度の重傷ならば後でハリセンを使って治癒してくれ、その威徳によってこれまで各補給地での半強制的な協力を取りつけて来た。しかし、襲撃者に対しては弥生ちゃんはなかなかに冷酷で、歯向かう者に速やかな死を与えてくれる。人殺しを生業とするような連中であるからには、世界平和の為にもさくっとこの世をお引き取り願おうというハラだ。下手に生かしても面従腹背で、看護する従者やフィミルティが人質に取られるとかの危険に晒されてはかなわない。

「気付くまでに、5取るぞ。」

 とアィイーガは弓を引き絞る。眼下の敵は、この距離ならば何処からも射られないと思っているのだろうが、ゲジゲジの聖蟲の弾道補正能力を活用すれば、曲射でも十分ヒットする。高低差も手伝って300メートルが有効射程になる。

 アィイーガの狗番は二人とも当然に弓の達者だが、主には劣る。ファイガルは長刀を、ガシュムは双刀の使い手で、どちらも本分はアィイーガの護衛であり、接近戦主体の戦士だ。二人の鎧は狗番専用のもので、前後一枚板状の甲板を肩の部分の蝶番で前後をぱっくりと挟むので、ハマグリ合わせと呼ばれる。狗番はギィール神族の盾ともなるので、鎧も最強レベルの防御力を誇り常人の矢ならば正面から受けても弾くほどだが、手足の防備は薄く活動的になっている。狗の面も戦場用のものは兜になっていて、黒い鼻面も狗耳も薄い鉄を打ち出して巧みな造型を見せている。

 これに対してアィイーガの鎧は、全身を金銀で覆い絢爛豪華、しかも薄い。手足までも甲で包んでいるが動きを妨げないように薄く、複数の部品を巧みに組み合わせて関節の自由度を確保している。それでいて防御力は狗番の鎧以上なのは、黄金よりも高いと言われるタコ樹脂をふんだんに使っているからだ。軽く強靭で、刃を包みこむように止め、しかも元の形状に復元するタコ樹脂は、タコリティ周辺の採掘場から得られたタコ石やタコ骨から作られるもので、ギィール神族以外には加工出来ない。金銀の装飾も鋼鉄の部品にメッキを施した主要部を補強する装甲で、見た目の華麗さに反して恐ろしく実戦向けだ。”ネヴュラス”と呼ばれる、十二神方台系随一の工芸品にして芸術である。

 

 ぎゅぎんぎんぎんぎんぎぃいーーーーん

 立て続けに放った矢は、アィイーガの狙いどおりに4人を貫いたが、

「一人、獣人の陰に隠れて討ち漏らした。獣人の二の腕に当たったが、痛がらない。」
「痛みを感じないのでしょうか。」
「矢が弱過ぎたのか、それとも痛覚を遮断しているのか。いずれにしても、胴から首を切り離さねば死なぬと思え。」
「は。」

 獣人が前に出た事で狙い易くなった残りの兵を3人続けて射殺した。動きが鈍く右往左往してどこから射られているのかさえ分からないようだ。兵ではないのかもしれない。

 アィイーガ主従は山を下りて道に出た。白兵戦で勝負を付けようとする。獣人の腕力ならば黒甲枝の鉄弓すら引けると考えられたのだが、射撃戦の用意が無いらしい。知的能力に関して不具合があるのかも、とアィイーガは狗番に警戒を促した。何をしてくるのか常識では考えられない。

 二体の獣人とアィイーガ主従は30メートルの距離で対峙する。獣人の身長は3メートル弱、全身が黒く瘤が幾つも表面を覆っていて分厚い甲冑を纏っているようだ。毛も不規則に全身から生えている。防具も装着しているが、肉に縫い付けたり釘で鉄板を打ち込んで固定している。

 改めてアィイーガが弓を引いて、先程手傷を負わせた方にもう一矢射掛けてみた。左の胸の上に見事突き立ったのだが、やはり効果が認められない。

「困ったな、急所が無いのかもしれん。」

 二人の狗番は各々の刀を抜いた。彼らの得物には弥生ちゃんが青晶蜥神の神威を与えて鉄を切り裂く神刀に仕立ててある。アィイーガも弓を納め、槍を構えた。アィイーガは剣にこそ神威を受けたものの、この槍にはなにもさせなかった。刺すよりはむしろぶっ叩くための武器であるから、斬れ過ぎるのも困るのだ。

 白兵戦闘と見て二体の獣人は動き出した。彼らの武器は左右の手に持つ大きな包丁である。刃渡りは1メートルだが幅が40センチもあり、包丁と呼ぶしかない形状をしている。刃は一応光っているが重量で甲冑でも盾でも諸共に叩き潰す。

 鈍重そうな獣人の印象が、狂暴で敏捷な野獣のそれに代った。大狗ほどの早さがあるだろうか、つむじ風のように間合いを詰めて来る。これが真正面から迫ってくれば並の兵ならば逃げる事も叶わないだろう。一瞬で天河の冥秤庭にまで送ってくれる。

「不良品だな。」

 狗番は常にゲイル騎兵の足元に在り、巨大な力の暴走に慣れている。一直線に駆けて来る獣人は方向転換もままならず、避ければそのまま通り抜けて行く。アィイーガの槍は長さが4メートル以上、ゲイルの上から兵を叩く為のもので、相当強大な力と衝突しても耐える弾力がある。獣人は狗番に誘われて突進し、アィイーガの槍に突かれてバランスを崩すばかりだ。

 更に二人の狗番が構える刀は鋼鉄をも斬り裂く。胴体にまで斬り込むのはなかなか難しいが、獣人が構える大包丁自体を細かく削って無力化を図った。二体の獣人は、アィイーガ主従を前後から挟み撃ちしているのだが、矢を受けた方はファイガルの長刀(長巻に近い両手刀)に翻弄され槍に突かれ、もう一体はアィイーガの背を狙うが巧みにすり抜けられ、ガシュムの双刀に肉を切り裂かれている。

「む、切り過ぎた。」

 ガシュムが尻や腿の肉を削ぎ落とすので、ついにこちらの獣人は足が止まった。突進してくればこそ隙も衝き易かったのだが、動かないとなると短い双刀では攻めにくい。

「うお、血が出ない。」

 アィイーガと連携して斬り込んでいたファイガルは遂に矢の刺さる左肩を刎ね飛ばす事に成功したが、汚らしい赤黒い液体が少量飛び散るだけで、出血しない。肩の骨は見えているのだが、それでも左腕は動いて大包丁を振り回す。

 動きを止めた獣人に対峙し観察していたガシュムは、アィイーガに告げた。

「御主、こいつにもやはり、目が有ります。」
「うん。弓で潰せ。」

 肉塊と瘤で覆われて顔のありかも定かではないのだが、瘤の切れ目から黒く光る目が確認できる。いくら強化したといえ元は人間であるからには、目は一対二個しか無く、潰されれば身動き出来なくなるだろう。

 びゅぅがああああ、と誰も聞いたことの無い凄まじい悲鳴を上げて、左目に矢を受けた獣人がのたうった。もう一体の獣人はそれを聞いて二つに分かれて戦う愚を悟り、駆け寄って来る。アィイーガはその横をすり抜けて傷ついた左腕の脇を突こうとしたが、獣人は手首を妙な形に折り曲げて手甲を彼女に向ける。

 

 二人の間に突然氷風が吹き、獣人の左腕が凍りついた。そのまま腕はもげて地面に落ち、あらぬ方向に鉄の矢が二本飛んで行った。小型の弩が左の手甲に隠されていたのだ。今の氷風が無ければ、アィイーガはかなりの深手を負っていただろう。

 振り返ると、弥生ちゃん御一行様が背後に到着していた。ミィガンも刀を抜き参戦する。その手前に弥生ちゃんが両手が空であることを見せて大嘘を言った。

「わたし、何もしてないよ。」

 

 

第11章 巨大金雷蜒神、虚空より災厄の女神を召喚する

 

 神聖首都ギジジット、その名は十二神方台系において文明の象徴であり、空中楼閣にも似た建築の奇跡として今も人々の畏怖を集めている。

 まったく何もない平坦な土地に遠くから用水を引いて緑化した穀倉地帯の中心に作られた世界初の計画都市で、世界の中心としてあらゆる産物が集中し未曽有の栄華を誇ったと伝えられる。中央の金雷蜒神聖宮から放射状に発する9本の中心道と左右に繋がる街路は蜘蛛の巣のように整然として、直径3キロの市街部には各種の公共施設と十二神の神殿が設けられ、ギィール神族ならびに宮廷官僚とそれに奉仕する奴隷が快適に暮せるすべてが揃っていた。上下水道と水路が縦横に巡らされ、小舟を使えば市内のどこにでも一歩も歩かずに行けたという。

 この水路はまた巨大で重い建材を運ぶのに役立ち、作られてから800年の間金雷蜒宮は迷路のように拡張され続けた。或る時は天にも届く高楼として、また或る時は小山をも呑み込む巨大なドームとして、時の神聖王の趣味に合わせて解体と再生が行われ、その都度人を驚かせた。しかし最終的に城は一つの螺旋へと姿を落ち着かせ、今に到っている。

 

 弥生ちゃん御一行様は遂にギジジットに侵入した。ギジジットの周辺には褐甲角軍の侵入を防ぐ為の古い防塁跡が残っており、そこからがギジジットと呼ばれる土地なのだが、毒地の形成後は侵攻を受ける危険も無く防塁もほとんどが放棄され、弥生ちゃん達はさしたる抵抗も受けずに府内に入る事が出来た。

「これはー、壁なのかなあ。」

 神聖首都ギジジットの城市の周辺にはぐるりと壁が巡らされている。だがそれは防壁と呼ぶには低過ぎた。高さ4メートルほどで弥生ちゃんでさえ工夫すれば簡単に乗り越えられそうな、まるで防御の役を果たさないタダの土盛りに見える。

「確認した。この壁は金雷蜒宮を中心に完全な円形を描いているようだ。」

 キルストル姫アィイーガがゲジゲジの聖蟲の特殊知覚で壁の曲率を測定計算した。彼女もギジジットには初めて来たので、この壁の正体が分からない。完全な円形と言うのならば人為的なものに違いないが、それにしても。

「まるでゲイルの背のような感触だな、これは。」
「気味が悪いです。中でなにやらごろごろと音がしてますよ。」

 結局壁を乗り越えたのは弥生ちゃんとアィイーガ、蝉蛾巫女フィミルティと狗番達だけだった。残りの者とイヌコマはこの壁の外に残り、ネコ達も5匹の内2匹を残した。

「それはつまり、折角貯えた『青晶蜥神救世主ガモウヤヨイチャンの戦いの記録』を保存する為だね。」
「ネコはこんなに長い間、噂を貯えた事が無い。ようじんようじん。」

 無尾猫はこれでなかなか頭が良い。ひょっとすると人間よりも賢いのではとも思えるほどで、十二神がなぜネコでなく人間をこの地の支配者として選んだのかは考察に値するだろう。

 

 壁の上に立ち、ギジジットの旧跡を眺望する。中央にそびえ立つ斜めに上部が切り取られた台形の建物が、金雷蜒神聖宮殿だ。弥生ちゃんは作りかけのバベルの塔の絵を思い出す。中心付近に一本突出して立つ塔があり、高さは約200メートル。地震が無いから保つのだろうが、それにしても非常識な高さでここまで届かせるには相当の無理が有ったのだろう、塔の基部はかなり複雑な形状をして補強がなされてある。

 宮殿周辺の施設はほとんどが無傷である。アィイーガの話によると、結局ギジジットに侵入し得た武装勢力は金雷蜒神族同士の内乱においても無く、兵火が及んだ例は記録に見る事ができない。ギジジットの封鎖は褐甲角王国建国から80年後だから、900年の間手つかずの状態でここにあり、まるで昨日作ったかのようなくしっかりした輪郭を保っている。

「ゲイルです。」

 フィミルティが指差す方向には、数体のゲイルが移動する姿が見えた。軍用に使われるものより少し小さい。

「人を食わせないとあの程度にしか大きくならない。エリクソーも投与しなければならんしな。」
「人って、どうしてもゲイルには人を食べさせないといけないの?」
「仕方がない。ゲイルという生き物は本来臆病で、人を食わせないと人間を避けて通るのだ。金属の刺や甲冑で覆われて固い人間など、食いたくはない餌だろう。」
「ふむ。」

 なかなかに、ゲイルを運用するにも難しいものがある。

 壁の内側に下りた弥生ちゃん達は、奴隷の家だったらしいこじんまりとした町屋を眺めながら宮殿に向かう。町屋はさすがに崩れて廃墟となっていたが、家々の区画はきちんとした方形で街が無秩序に造成されたのではない事を示している。水道施設も諸所に有り、車道の石畳は弥生ちゃんがこれまで見たどの町にも無かったものだ。

「これがギジジット。よくもまあこれだけの街を放棄出来たものだね。」
「さほど不思議ではない。1000年以上前から、ギジジットは金雷蜒神の御わす聖地として、庶人が共に暮すのは避けるべきだという意見が強かったのだ。カブトムシどもが侵入する危険が垣間見えた途端に、あっという間に隔離方針が決定したらしいぞ。」

 

 げきぃえええええぃえええ。

 と怪音を上げて、崩れかけた屋根の上から覆面の男たちが襲って来た。弥生ちゃんは左手一本で逆手にカタナを抜き、一閃。敵の武器を斬り落し峰打ちで気絶させる。残り、計4名も狗番達がそれぞれに生きたまま取り押さえた。峰打ちの技法はこの世界には無く、狗番達も初めて見た時は感嘆してさっそく弥生ちゃんに教えを乞うたのだが、弥生ちゃん自身それは自分の技で無かったからこそばゆい気がしたものだ。

「うん。腑に落ちた。」
「なにがです。」

 フィミルティの問いに弥生ちゃんは、この剣技は自分が習い覚えたものではなく、友達が修行して居たものをカベチョロの聖蟲の力で忠実に再生していたが、今ようやくにして自分自身のものになったと納得出来た、と説明する。

「では、ガモウヤヨイチャンさまは、星の世界に居られた際には、剣はお使いになられなかったのですか。」
「そうでもない。私はわたしで、秘剣がある。ハリセン向きの技じゃないから、使ってないけど。」

「それは是非にもご披露をお願いしたい。」

 アィイーガの狗番ファイガルは長剣を使う剣士である。星の世界の剣技を盗もうと、一生懸命だ。弥生ちゃんは苦笑して、そのうちにとだけ言っておいた。

 弥生ちゃん達は取り押さえた襲撃者を叩き起こして、道案内をさせた。10日前、獣人を倒した際にその身体から黄金の牌、金雷蜒神聖王族のみが使う命令板を入手したが、それには青晶蜥神救世主がギジジットにまで来る道筋とギジジット内部の移動方法とが記されていた。もちろん弥生ちゃん達はそんなものに従う気は無く直行を避け、敢えて遠回りして経路外の補給地を襲って万全の準備を調えてから、ギジジットに挑んでいる。まあ、襲撃者が来たのはすでに王姉妹の監視下にあるという事だから、こいつらに道案内させても危険度は大差無い。

 襲撃者達は水路につないだ小舟に一行を案内した。ギジジット内部は小舟で移動するのが最も楽ではあるが、水路上では矢を避けられない。迷ったが、襲撃者は「金雷蜒宮には、秘密の水路を使わないと上がれない」と申すので、仕方なしに乗り込んだ。全員にネコまで乗せると小舟が一杯になるので、襲撃者は一人を残して道端に転がしておく。どうせ誰かが回収に来るだろう、と思っていたら、舟が岸から離れると同時に物陰に隠れて居た同じ服装の集団が現れる。ぼこぼこに殴られていたから、たぶん襲撃失敗のお仕置きをされていたのだろう。

 襲撃者を舳先に乗せ、アィイーガの狗番ガシュムが櫓を漕いで舟は進む。要らないというのにミィガンが弥生ちゃんの盾になった。狗番は元々がギィール神族の護衛であるので、丈夫な鎧を纏い状況によっては盾となるのも通常の任務だから、弥生ちゃんも強くは拒めなかった。ファイガルはアィイーガの盾となる。弥生ちゃんと同様に防具を身に着けていないフィミルティはアィイーガの懐に隠された。

 舳先で水路の案内をする襲撃者は、プロの兵士暗殺者ではなく単なるゲジゲジ神官戦士だった。最初から捕まるのも目論んで居たという事だろう、なかなかに礼儀正しい。

「青晶蜥神救世主様、金雷蜒神聖宮殿の内部は人が入る門はありません。舟のみが水路を通って入ります。降りる必要もありません。王姉妹の長、ゴブァラバウト四数姉様がお待ちの中央蒼天の庭に直接通じております。」

「ゴブァラバウトだと、まだそんなのが生きていたのか。」
「ゴブァラバウト神聖王の神子はもはやあの方のみです。青晶蜥神救世主様の到来を長年待っておいででした。」
「ぶっ殺す為、にね。」
「・・・・・・・。」

 金雷蜒神聖宮殿に近づくと、水路が合流して幹線となる。その上を幾重もの石造りのアーチが覆い、滑車の群れがぶら下がっている。このまま舟の上から建材を引き上げて宮殿の増設を果たすのだろう。木製の櫓や梯子がどこにでも設えられて、今も工事中と見えるのだが、一人の作業員の姿も無かった。

「矢が、飛んで来ませんね。」

 ミィガンが呟くが、ゲジゲジ神官戦士が警戒を解くように言う。

「青晶蜥神救世主が放たれた矢をそのまま逆に撃ち返す事を、皆よく心得て居ます。」
「うん。賢明だな。」

 風で守られている弥生ちゃんに普通の矢は効かない。強い弩で鉄箭を撃つのなら別だが、タコ石採掘場で紅曙蛸神像を斬った力を使われてはかなわないから、攻撃禁止の命令が出ているのだ。

「金雷蜒神聖宮殿の正門です。」

 幅が100メートル以上の水路の上に、獣の口を象った巨大な門が現れた。門に扉は無く格子も見えず、ここでは出入りする誰も留めるという事もできない。不審に思ったが、中に入るとその理由が分かった。行き止まりだからだ。アーチ構造の石造りの天井の下は船着き場になっており、三方にちゃんとした大扉を備えた門が有る。上部には兵櫓の矢狭から弩が狙っていた。

「こちらに。」

 と案内されて舟を着けたのは、小舟が2艘入るだけの小さな部屋で天井から吊り下げるしっかりとした一枚扉が付いている。扉が下がると完全に元来た水路から隔離され、どこかでごうんと機械の仕掛けを切り替える音がした。アィイーガが不審の念で眉をひそめた。

「このまま下水に流すという仕掛けではないな。」
「そのような機能もございますが、今日は使ってはならないと命じられております。水路を凍らされると大変ですから。」
「王姉妹様はよほど青晶蜥神救世主さまをお調べになったのですね。」

 やがて水位が上昇して、小舟も上がり出した。この区画はパナマ運河と同様の閘門になっている水位エレベーターだった。重い石材を上部に持ち上げる為にこんなものまでこしらえているのだと、弥生ちゃんはしきりに感心する。

 二階に上がるとまた水路がある。更にもう一度エレベータを上がって舟を降りた所が、王姉妹の待ち受ける蒼天の庭、神聖宮殿中心の吹き抜けだった。直径は150から200メートル、高さは80メートルもありローマの円形の闘技場のように何階層も重なっているが、その壁面にはぐるりと巨大なゲジゲジの、いやムカデの体節が巻きついている。

 皆息を呑んで周囲を見回し安全な位置を探すが、ただ天から青い空が覗くだけで、全周どこにも逃げ場所が無い。

 さすがにアィイーガも顔を青くして言った。

「まさか、この城全体が、金雷蜒神の御体なのか・・・。」

「よくぞ参られた、青晶蜥神救世主殿。」

 頭の上から声がする。見上げると、一層上の階の左手から出ている張出の上に、赤い薄衣を纏った数名のギィール神族の女性が居た。

「地上の手段ではそなたを殺すことなど出来はしない。それは千年前、褐甲角神救世主を殺せなかった事からも分かっている。だが、ここで行われる秘術は違うぞ。」

 弥生ちゃんは一歩前に出て、金雷蜒王姉妹に応対する。弥生ちゃんは公称150センチという小柄な身体にも関らず、「日本三大バカ声」に数えられた程の大声の持ち主だ。高くもなく低くもなく、聞く人の心に染み徹る強い意志を秘めた声が、円形の吹き抜け全体に響き渡る。

「私が青晶蜥神救世主蒲生弥生。わたしのやる事を邪魔してはいけない。抵抗しなければ貴女方に危害を加えることはなく、金雷蜒神を傷付ける事も無い。」
「戯けた事を。そなたが何をする為にここに来たか、我々はよく知っている。神殺しと言ったな、神を殺す神と。」

 実際、弥生ちゃんはこの場に来るまで、一体何をしなければならないのかまったく分からなかった。何も考えずに勘だけで思いこんでただ来たに過ぎない。名目上は紅曙蛸巫女王五代テュラクラフの復活を果たす為に彼女を脅かすものを排除するという事だが、実のところ確証は全く無かった。今王姉妹にそう言われて逆に、やっぱそうしなきゃいけないのかなと思ってしまう。

 王姉妹は彼女達なりに真剣で必死であるから、まさか青晶蜥神救世主が何も考えずにこの場に臨んでいるなどと思いもよらず、ただただ秘術の発動に備えている。四人のギジメトイスの娘達はすでに術に入っており、壁面に絡みつく金雷蜒神の体節に、聖蟲が発する赤い光条でギィ聖符の呪文を刻んでいる。これは金雷蜒神が有する絶大な計算力を利用する為のいわばコンピュータのプログラムで、これから行われる強力なエネルギーの発動を制御する予備的な術の発動がもう始まっていた。

 術の発動を指をくわえて見ている道理は無い。試し、とばかりにアィイーガが弓を向けて、一番手前に居る王姉妹ゴブァラバウト四数姉に矢を放つ。が、複数の赤い光条が飛び矢を叩き落とした。

「何者、・・ギィール神族か。なぜ御前そこに居る。」
「王姉妹などというは冥府の亡者に等しい。地上の在るべき姿にお前達の意志など要らぬ。」

 王姉妹は金雷蜒王国において世を乱す元と長年を思われ続けて来た。ギィール神族で彼女達に与する者は一人も居ない。同じゲジゲジの聖蟲を戴くとはいえ、仲間では無いのだ。

「愚かな。青晶蜥神救世主の作る王国において、お前達の居場所があると思うてか。滅びを目の前にして、なおその帆を吹くか。」

 四数姉の言葉と共に弥生ちゃん達の周りにいずこからともなく黒い甲冑を纏った戦士が10数名現れた。ゲジゲジ神官戦士とは違い、死臭漂う禍々しい暗殺の練達者だ。弥生ちゃんが片づいたらたちどころに皆殺しにするつもりだろう。

「貴女、一番前に居る、ゴブァラバウトさん? あなたには、私、前に会っている。」

 弥生ちゃんがいきなり発した言葉に、王姉妹もアィイーガ達も同様にぎょっとする。

「あなたはたしか、三ヶ月前私がこの十二神方台系に舞い降りた際に、一番初めに会った人だ。」

「・・なにを、たわけた、」
「いや、間違い無い。私は一度見た人の顔を忘れたりしない。それに、貴女が分からないのも無理はない。なぜならあなたは既に、死んでいたからよ。」
「・・・。」

「信じられないのなら、貴女の聖蟲に聞きなさい。私はその聖蟲に最初の道案内を受けたのだから。それにほら。」

 と制服のポケットから大粒の宝石を取り出した。死体の衣装から身元確認の手がかりとして取っておいたものだ。後に無尾猫と隠者に会い、ネコに死体を探させたが結局見つからず、この宝石だけがそれを現実として証すものとなる。

「これは貴女のものでしょう。結論を言うと、あなたは最早死んでいる。」

 他の王姉妹ギジメトイスの娘達は動揺してゴブァラバウト四数姉を見詰める。彼女たちは生まれた時から聖蟲を与えられ神として生きてきた者だ。神秘については誰よりも慣れ親しんでいる。その彼女たちが、弥生ちゃんの言葉の中に嘘を感じ取れなかった。事実だという確信を得てしまったのだ。

「上四姉、これは秘術の反作用、副効果について語っているのではないか。」
「上四姉、やはり我ら地上の者が手を出すべき分際の事ではないのかもしれぬ。」
「やめよう、やめよう。」
「やめる必要はない。上四姉、そなたが亡くなられてもトカゲを巻き添えにすれば事は成る。迷うな。」
「失敗だ、失敗するぞ。天罰が下る。」

「黙れ、だまれえ。ガモウヤヨイ! 御前の言葉には耳を貸さぬ。見よ我らが大神の霊威、ギジジット全てに絡みつく御身体節が生み出す無窮の力の発動を!」

 

 この世界で初めて弥生ちゃんの名前を正しく呼んだ彼女は、額の聖蟲から赤い光条を発して、地の底深くを射た。しばしの沈黙の後、城全体が揺れて階層の一部が跳ね上がり、金雷蜒神がその頭を持ち上げた。色は所々剥げた金色で地色はゲイルとおなじ灰褐色、頭だけでも長さが50メートルあり、目は片方で3列で18個、副眼が無数に取り巻き全てが光条を発している。顎の周辺には毛ではなく細い肢が数十本生えて蠢いている。しばし弥生ちゃんの姿を確かめるように頭を同じ高さに横たえると、天を見上げ顎をかっと開いて、全身からエネルギーを絞り出して何かを吐いた。吐いたといっても眼にはなにも映らず空気も震えなかったが、間違いなく巨大なパワーが放出された事だけは皆理解した。

 ギジジットの外周近くに居た留守番の奴隷兵達は、壁からゲイルの肢が生えて激しく振動し、光の珠が内部を駆け抜けるのを見た。円形に首都を囲む壁はすべてが巨大な金雷蜒神の体節だったのだ。ギジジット全体が金雷蜒神に呑み込まれた状態にあり、その巨体が発するエネルギーの全てが無形の力として天に注がれる。

 神聖宮殿の中から見上げる天空に、明らかに常識を逸脱した事象が起る。ギジジットの上空3000メートル付近に金属光沢を放つ円盤状の物体が発生しどんどん大きくなり、遂にはギジジット全体をも覆う程に拡がった。やがてそれは厚みを増して高度1万メートルよりも高くに膨らみ同時に薄く透明になっていく。透明なゼリーみたいでおいしそうだなとか思っていると、突然内部に多色の光点が明滅し、やがて虚空に映像を映し出した。暗い背景に青く滴るように輝く球体の姿、地球だ。

「これこそが星の世界。ガモウヤヨイが住まう本来の世界の姿だ。十二神の律令を曲げて天河を飛び越え、幾億里の彼方に在る青晶蜥神の統べる球体に我らが意を届かせたのだ。」

 その場に居る全ての者が秘術の醸し出す光の乱舞に魂を奪われた。王姉妹ですらこの術は初めて使うのだから、何が起るか分からない。だが弥生ちゃんにだけは別の感想があった。

「なぜ、こんなに未来技術なのに、凄い魔法なのにどうして、平面画像なの? なぜ3D立体画像じゃないの。それにアレじゃあ、30万画素以下の映像じゃない!」

 映像は更に寄って、衛星軌道から地表を覗いているようだ。かちゃかちゃと視点が切り替わり、目が疲れる。可視光線だけでなく、赤外線やマイクロ波でもスキャンをしているらしく不思議な色彩の図も映る。

「アィイーガさま、これは何の絵でしょうか。」

 フィミルティがあまりの恐ろしさに思わずアィイーガにしがみついた。この映像の意味する所を完全に理解していたのはこの場では弥生ちゃんだけだ。人工衛星からの写真を見慣れている者でなければ、地獄を覗き込んでいるとも思えるだろう。視点は更に寄って、あまりにも夥しい人間が蝟集する図や、焔を吹き上げる山、海原を進む巨きなる船が何隻も見て取れた。

 天空に映る影に、いつしか建物の内部が映る。人の姿も見えるがはっきりとしない。黒い服を来た少年と、弥生ちゃんと同じ青い服を着た少女達が早送りのビデオのようにチラチラと画面を横切っていく。

「居たぞいたぞ。我らの意が届く者。金雷蜒神の神威を宿し、ガモウヤヨイを殺す者が、ここに居る。」

「まさか、星の世界にて救世主さまを害そうという術なのか!?」

 アィイーガは天空の映像から眼を放し、弥生ちゃんを見た。弥生ちゃんも天をじっと見詰めるが、その身には気が漲っていて警戒は怠っていない。とりあえずこれが隙を衝くだけの虚仮威しであったとしても、大丈夫だ。狗番やフィミルティは呆然と眺めるままだが、黒衣の戦士達もこの状況下では仕事どころではないらしい。

 アィイーガは弥生ちゃんの傍に寄って、大丈夫かと尋ねてみる。

「大丈夫じゃないんだろうけれど、ここからでは手が出せない。そもそも、どうやって私がここに来たのかさえ分からないんだから、どうしようもない。」

 結局、王姉妹のやりたいままに任すしかないのだ。

「これが、ガモウヤヨイに死をもたらす者だ!」
「あ、・・・・・・志穂美だ。」

 王姉妹が選んだのは、背が高く髪の長い細身の女生徒、弥生ちゃんの友人である相原志穂美だった。アィイーガは尋ねた。

「ご存じの方で。」
「とても恐ろしい娘だよ。誰も近くに寄りつけない、常から全身に鬼気を纏う生きた祟り神みたいな。神経質そうだけどかなりずぼらで不器用で、私以上に乱暴な。」
「それは最悪だ。」
「得意技は・・・・。ゴブァラバウトさん、その人に触れてはならない。すぐに術を解除しなさい。危険です。死にますよ。」

「ハハハハハハハハハ。」

「もう一度言います。志穂美は、あなた方の手に負えるような生易しい人ではありません。逆に、」

「さああ、いよいよだ。天の意志を覆し、星の世界で救世主の神体を打ち砕く。これで方台は我らの思うがままに。」
「志穂美は、しほみは!」

 映像の中で、相原志穂美の頭上にゲジゲジが取り付いた。本物の、地球に居る普通のゲジゲジだ。これはさすがの志穂美でも耐え難い攻撃で、室内の、教室内で手当たり次第のものを放り投げ暴れ回る。掃除の長箒を掴んで振り回し、自分の頭を叩こうとする。

「来た、来たぞ。」
「おお、来た。」
「トカゲが来た。」

「あ、本当だ。ガモウヤヨイチャンさまだ。」

 映像の中にトカゲの尻尾のような先細りの長い髪をなびかせて、弥生ちゃんの姿が映るようになる。錯乱した志穂美を止められる者は校内では弥生ちゃん以外にありえない。暴れる物音を聞きつけて友人として、管理責任者として、志穂美を鎮圧に来たのだ。

「ころせ殺せ。」
「殺せ、トカゲを殺せ。」
「腸を抉り出せ、舌を噛み千切れ。」
「首をもいでみせよ。」

 志穂美は長箒を振り上げて、弥生ちゃんに真っ向から打ち掛かった。常の状態でこのタイミングこのスピードであれば、日頃返し技を鍛えた弥生ちゃんでも受け損なっただろうが、ゲジゲジが頭についての錯乱状態だ。いつもの切味はこの打ち込みには無い。映像の向うの弥生ちゃんは志穂美の長箒を見事受け止めて下に押さえ付け、ぐるっと回して彼女の両腕を長箒を利用した関節技で拘束する。動きを封じられた志穂美の破壊力は頭を振る力へと集中し、遂に額のゲジゲジを振り払った。弥生ちゃんが拘束を解くと志穂美は再び箒を取り、哀れなゲジゲジに容赦の無い打擲を加える。完膚なきまでにゲジゲジを叩き潰し、ついで画面に向かって、映像の視点に向かって魂が燃えるほどに熾烈な視線を飛ばす。

「ひっ!」

 地球のゲジゲジに意念を込めて操っていたゴブァラバウト四数姉は、志穂美の怒りの焦点に居る。

「だから言わんこっちゃない。志穂美は憑き物を落したり、呪い返しが大得意なんだから。」
「そういう事は、もっと早くに言ってあげた方が親切というものだ・・・。」

 空中の映像は物の形を為さなくなった。幾何学模様や稲妻が張り裂ける閃光が渦巻き、最早王姉妹の制御を受けつけない。

「術を、術を解くのじゃ。早く虚空の基盤を破壊せねば、力が逆流して。」

 だがすでに手遅れで、空中の透明なフィールドは次第にある形へと変化していく。

「顔が、女の顔があれに。」

 白い光の塊へと凝集し、再び神聖宮殿の上空に力が戻って来る。無形の力を吐き続ける巨大な金雷蜒神は、頭部の無数の赤い眼を繰り返し点滅させ、壁面の体節は脹れ上がり蒸気を吐き出し、無数の肢の振動する音が耳をつんざくまでに高まった。光の塊はやがて長さが500メートルもある、髪の長い女の面となる。美しく整った額と鼻梁、長い睫毛を伏せた瞼、顎の線は良く鍛えた刃物のように滑らかで鋭く、髪は緩やかに天空に溶けて流れていく。女神だ、と誰もが思ったが、瞼が開いて瞳が顕になった瞬間、自らの誤りを皆悟る。

「う、うわ、うわあああああああああ、ぎゃあああああああああ・・・・・・・!!!」

 獰猛な怒りに満たされた瞳は、まっすぐゴブァラバウト四数姉を捉えた。視線の圧力の恐怖で心臓の鼓動が止らなかったのは、むしろギィール神族の恵まれた肉体が災いしたと言える。彼女は、志穂美の報復を甘んじて受けねばならなかった。

 天空から巨大な女の腕が伸び、白い指がゴブァラバウト四数姉を掴んで空中に持ち上げる。拳は天高くに差し上げられ、南の彼方タコリティの方向へ放り投げた。衝撃波でギジジット全体が震動する。この衝撃で術が崩壊し、虚空に形成された無窮の力を励起する基盤が消滅した。腕はそのまま白い光の粒の集合体に変じて静かに拡散し、女の顔も空中に溶けて流れ出し光の明滅も止み、やがて何事も無かったと思わせる静かな青空へと戻った。金雷蜒神も力の放出を止めて顎を閉じる。

 

「・・・・・時間を越えて、投げ出されちゃったのか。」
「あの方は、一体何者です。」

 アィイーガの問いに弥生ちゃんもしかとは答えられなかった。普通の女子高生、などというのでは絶対納得しないだろうがそれしか言い様が無い。

「人間としての、意思の強さが、桁違いに高いんだよ。あんなものを操れると思う方が誤りで、・・人選間違えた。」
「それではあまりにも、ゴブァラバウトの娘が哀れな。」
「う・・・、ん。どけ。」

 振り返った弥生ちゃんに命じられ、黒衣の戦士達は素直にその場を退く。あまりの恐ろしさに忠誠心も凍りついたのだろう、柱の脇にある隠し扉に姿を消した。弥生ちゃんは狗番達に、戦士が消えた通路を使って待避するよう言いつけた。階上の張出ではギジメトイスの娘達が正気を取り戻し、しきりに周囲に赤い光条を飛ばして金雷蜒神に指図をする。

 自分の方に向きを変えつつある巨大な金雷蜒神の頭を見詰めて、弥生ちゃんは言った。その言葉に、アィイーガも慄然として思わず弥生ちゃんの肩に手を掛ける。

「さて。ちゃちゃっとこれも片付けちゃうかな。」

「ちょっと待て。」

 

 

第12章 青晶蜥神救世主、巨大金雷蜒神に勝利する

 

『左様。』

 とその老ネコは言った。身体は並の無尾猫の二倍で人と同じ大きさ、年齢は100歳に届き、白い毛が長く伸びて床のじゅうたんにまで垂れている。

 神聖神殿都市では、人界の出来事はこの老ネコから聞いたものを公式見解とする。世界で最も年寄ネコの彼は、全ての噂が集中するネコネットワークの頂点であり、ゆえに人間達に「ネコの神」と呼ばれて尊敬されている。彼の言葉は専属の蜘蛛神官が一切を漏らさず記録して書庫に貯え、十二神方台系の歴史書を編纂するに当たっての最高の資料とする。

 

 聖山、十二神方台系の北辺であり人界と無人境を隔てるトリバル峠の有る聖山山脈は、天上の十二神と繋がる地上で唯一の場所とされ、また人類がコウモリ神に導かれて大地に降り立った最初の地として崇められている。これより北方は高さ数百メートルの絶壁に隔てられ容易には近づけず、また気候も寒冷で作物も実らず一面に立ち並ぶ針葉樹の森には未知の獣が牙を剥くとも伝えられ、人間が踏み込む事を許さない禁断の土地とされている。

 神聖神殿都市はこの聖域に設けられた神官と巫女が修行する学究都市である。人界にあるものは聖務神殿と呼ばれ奉仕活動の拠点に過ぎないが、神聖神殿都市は完全な宗教施設であり、方台で唯一の高等教育機関、大学として長くその権威を保って来た。すべての神官はここで学問を積み、霊能の才ある巫女は俗界より選ばれてここに篭り導きを受ける。彼らの中でも最高の智慧を備えた老人を法神官、霊能に優れた巫女の最高位を法神女として民衆の崇敬を集めるが、金雷蜒褐甲角の二神は他の同格を許さず王族から法神官を凌ぐ位階の「祭王」を仕立て独自の神殿都市を設けている。

 

 現在、聖山においても最も注目されるのが青晶蜥(チューラウ)神救世主ガモウヤヨイチャンの動向である。

 戦火と混乱の中で発生したこれまでの王国とは異なり、今回の救世主は安定した状況下での到来である。現存する両王国との関係をどうするか、どこが主導権を握るべきか、青晶蜥王国はいかなる形式を取るべきか、その権力はどのような法的裏付けをもってするか、語るべき課題は山よりも多い。皆が勝手を言い合い会議は当然に紛糾した。特に、金雷蜒褐甲角の祭王の名代は、もしも青晶蜥神救世主が現在も地上にある二神の王より上位を主張するのならば兵戈を以ってそれを阻止せんと、実にわかりやすく宣言する。

 際限の無い議論の中での、紅曙蛸巫女王五代トュラクラフ・ッタ・アクシの神像の発掘と紅曙蛸王国の復活騒ぎ。更に弥生ちゃんは東金雷蜒王国ガムリ点近辺に到着して以来、消息が不明となる。なにしろ、世間の眼を眩ます為に「偽弥生ちゃん」を紅曙蛸巫女ティンブットが連れて麗々しく行列してまわったので、救世主本人の所在が計画通りに不明瞭になったわけだ。以後、ギジジット上空に観測された巨大な光の乱舞に各地の天変地異があい続き、まったく我を見失った彼らの元にようやくにしてネコの噂が到達した。弥生ちゃんが連れていったネコ決死隊の一報が至急便として神聖神殿都市に届いたのだ。

 彼らは早速ネコの神に、ガモウヤヨイチャンの動向の詳細を要求する。10人の法神官とニ神の名代の前で今、最も案じられた青晶蜥神救世主の安否とギジジット上空で観測された光の正体が判明する。

 

『左様。ガモウヤヨイチャンは巨大なゲジゲジ神を殺そうと言うのだから、キルストル姫アィイーガは驚いた。王姉妹ではないが彼女もギィール神族だから何故かと問うし止めもした。それに対してガモウヤヨイチャンはこう答えた。
 なるほど、神を殺す事は一見すると不埒千万、人の身の分際を弁えぬ僭上の極みだろうけれど、今回は別。見てのとおりに、』

「待ってくれ、何を見たのだ。」
『ネコが見たものは、城の中のぐるりに全部ゲジゲジ神の体が巻きついている姿だ。ガモウヤヨイチャンはこれは異常だと言った。なにしろゲジゲジ神は神さまだ。神さまなのに王姉妹の言う事を聞く。どちらが主人で召し使いなのか分からない。これはおかしい。』

「確かにそれは異常だ。王姉妹はいったい何をしでかしたのか。」

『ガモウヤヨイチャンには最初から分かっていた。この世は一幕のお芝居で、生まれて死ぬ人もそれぞれが役者、それぞれの役を終えて去っていく。その中に落ちて来たゲジゲジの神さまは天上の星河に居る時とは違い、万能ではない。極めて大きな力を持っているけれど、タダの登場人物の一人に過ぎない、と言った。』

「一幕の演劇の、役者の一人、金雷蜒神もまた、そのおひとりと。」

『王姉妹がやったのは、自分達でそのお芝居の筋書きを書いたということ。何百年にも渡ってゲジゲジ神に彼女たちの作った物語を吹き込んだ。おかげでゲジゲジ神はその筋書きの通りに動くことになる。従わなくてもまったく構わないが、王姉妹は皆真剣にお話を信じて死んでいく。彼女たちの努力を哀れに思うと、このお芝居においてゲジゲジ神は自分本来の役とは違う台詞を喋らなければいけなくなった。』

 ほー、と法神官達は息を吐く。ネコの神の言葉に難しい理屈は存在しない。ネコには抽象的な表現で言辞を弄ぶ癖が無いからだ。ガモウヤヨイチャンが説く、金雷蜒神を殺す理由もなんとなく想像が付き始める。彼ら神官もまた、地上において脚本を書く者だからだ。

『そこでガモウヤヨイチャンは言った。
 ようするにね、神様が神様であるためには、一度ステェィジを降りてもらわなくちゃいけないのよ。舞台の上に居る限り、金雷蜒神は地上の枷に縛られ続け、その栄光を失ってしまう。ではどうすればその枷から解き放たれるかと言うと、

 そこでキルストル姫アィイーガは言った。
 皆まで言わなくてもいい。役者が舞台から降りる時は、大抵死んでしまうのだ。神の罰か正義の刃か、あるいは悪漢に毒を盛られるか。間男に後ろから短剣で刺されたり、金色の矢で胸を射られて華々しく絶命する。どの話でも死なねば舞台からは降りられない。』

 

「(金雷蜒神の)祭王名代殿! これはなかなかに看過し得ない問題でありますぞ。王姉妹は地上において金雷蜒神に、明らかに人の分限を越える罠を仕掛けられた。」

「、。」
「うるさいぞ。ネコの神の話の続きを聞け。どうなのだ、青晶蜥神救世主は金雷蜒神に勝ったのか。」

 金雷蜒神祭王の名代が反撃の舌鋒を奮おうとするのを、褐甲角神祭王名代が阻止した。確かに皆先を聞きたい。討論などして潰す時間は必要無い。

『よろしいか。

 ガモウヤヨイチャンは言った。
 とまあそういうわけで、じゃあ後よろしく。殺すとはいうものの、こんな大きなものをどうやればいいのか、全然見当つかないから、ちょっと暴れちゃうよ。

 キルストル姫アィイーガは言った。
 勝てるのか?』

 

 勝てるのか、と聞かれた弥生ちゃんは額のカベチョロをてこてこと叩いて言った。

「ねえ、わたし、アレに勝てるんでしょうねえ。」

 だが、カベチョロ”ウォールストーカー”の答えはふるっていた。青晶蜥神の化身は弥生ちゃんの頭の中だけに聞こえる、深い洞窟に染み入る低音の響きで応じる。

「・・骸はむこうの世界に届けよう。」
「! よく言った!!」

 と弥生ちゃんは右手のハリセンを左の掌に叩きつけ、城全体にこだまする破裂音を立てる。螺旋に渦巻く金雷蜒神聖宮殿の内部はローマのコロッセウムに似た円形の劇場のようであり、十数層に重なる階には、それぞれテラスや観客席、祭祀場が設けられ、その中心の直径200メートル高さ80メートルの地下から天上までの吹き抜けには金雷蜒神の姿がある。

 弥生ちゃん達よりも一つ上の階の張出に居る王姉妹ギジメトイスの娘達は、ハリセンの音に戦慄した。ガモウヤヨイチャンが巨大金雷蜒神を前にして全く恐れていないことを彼女達は悟ったのだ。確かにこれは人ではない、人であれば神に怖れを抱かぬ道理が無い。であれば、ガモウヤヨイチャンという者は神にも等しい、いや、まさに神殺しの神なのであろう。王姉妹はようやくに自らの死を見極め全霊を賭けて応戦する決意をした。神威の総てを費やし刺し違えてでもこの破壊神を滅ぼさねば、金雷蜒王国は地上から消滅する。

 王姉妹の額の聖蟲からひっきりなしに発せられる赤い光条を受けて、巨大金雷蜒神はずるずると高さを伸ばす。壁面に巻きつく体節とは別に、吹き抜け内を自由に動けるだけの長さが300メートルほど頭の後ろに連なっている。カチカチと無数の肢が壁に取付き地の底から体節が上がって来る震動で足元が揺れる。このような巨大な怪物が城内で動き回れば城全体が崩壊しそうなものだが、巻きついた体節が壁面を支えて石材の崩落を防いでいる。

 弥生ちゃんは少し安堵した。金雷蜒宮には至る所に人が忍んでいて、自動ドアかなと思えば動力が人間だったりと、人力に頼る所が多いのだ。彼ら奴隷の心理を考えると最期まで避難しないのは明らかで、城が崩れるのなら金雷蜒神に殉じるだろうと予想が付く。体節が城を守るのならば彼らの犠牲も最小限に抑えられ、相当の無茶が出来るなと心理的リミットを解除した。

 ハリセンを右手に弥生ちゃんは巨大金雷蜒神に向かい合う。金雷蜒神の赤く点滅する無数の眼には、まるで意志というものを感じ取れない。聖蟲はムシとはいえなかなかに表情豊かで、アィイーガのゲジゲジの聖蟲は弥生ちゃんが直接話し掛けると首をくるくる回して考える姿が愛らしい。それに対して巨大金雷蜒神はまったく無機的で生物とさえ見えなかった。ほとんど機械のようだ、と弥生ちゃんは思う。ギジジット全体の動力をまかない天空をも切り裂く強力なエネルギージェネレーター、その中枢制御部が船並の大きさの鎌首をもたげる。

「あ、・・・ひょっとして、やり過ぎるとギジジット大爆発とかもあるかな?」

 深くは考えない。

 アィイーガは弥生ちゃんが全身に精気を漲らせ、闘いの気魄を高めていくのを見て、狗番達に言う。

「お前達はフィミルティを連れて安全な場所まで下がれ。」
「しかし、御主は残られますか!」
「わたしはこれを見ねばならぬ。金雷蜒神族として、聖蟲を戴き王国を導く者の一人として、この闘いの結末を見届けねばならない。」

「私共も残ります。」
「僭越である。これは、神族としての私の責務だ。行け、城の外に速やかに逃げよ。そして待て。」
「は!」

 弥生ちゃんに心残りのするフィミルティの肩を強引に掴んで三人の狗番はその場から離れた。ネコ達も3匹の内一匹だけを残して待避する。

「お前は残るのか。」

「オレは世界で最も豪胆なネコ。カニ巫女の鞭だって恐くないぞ。」
「カニ巫女とは、それほど恐ろしいのか。」

 全身に青い光の帯を纏い、ついに弥生ちゃんが浮上した。そのまま5メートル、王姉妹と同じ高さにまで上がる。このくらい上がっても金雷蜒神の頭の大きさを越えられない。直径が人の背丈より大きな主眼が弥生ちゃんの姿を映し出す。弥生ちゃんは王姉妹に向かって叫んだ。

「改めて警告します。直ちに待避しなさい、さもなくば巻き込まれて死にますよ。」

「青晶蜥神救世主よ、そなたが尋常の者でないのはよく分かった。金雷蜒神と青晶蜥神のいずれがこの地にあるべきか、神競べにて今証さん。」

 王姉妹は悲壮な覚悟で金雷蜒神に殉じようとしている。天河の計画が正しければ青晶蜥神救世主が必ず勝つのだから、彼女達はもはや死人と成り果てて息の有る限り運命に抗おうとするのだろう。だが、当の弥生ちゃんはそれほど運命を信用してはいない。

「この弥生ちゃんが最後の救世主とは思えない、てな台詞を吐かれてはかなわないからね・・・。」

 今や弥生ちゃんの身体は金雷蜒神を見下ろす位置にまで上がった。城の吹き抜けの上層部に手が届く程の高さだ。更にその上には石と木で造られた塔が100メートルもそびえ、地上に落とされた神が天に差し伸べた手のように思える。

「あれを、使うか!」

 弥生ちゃんの身体を中心に青い光の帯が幾重にも回転して、周囲の風を呼び込むように旗めいている。これが噂に聞く、タコリティの採石場で巨大なテューク像を両断した青晶蜥神の御業”ハリセンチョップ”であろうかと、アィイーガとネコは衝撃に備える。王姉妹も天を見上げて弥生ちゃんを指差すが、さきほどの秘術の際に弥生ちゃんが手も足も出なかったのと攻守所を換えて抵抗出来ず、ただ己の神に祈るしかない。

「・・縦に切るか横に切るか。そう、田楽刺しだ。」

 どおん、と空中で爆発する音がして、弥生ちゃんの周囲に衝撃波の輪が拡がる。その輪の拡がる所、天はどこまでも青く澄み渡り、世界の終わりなど永遠に来ぬという静けさが城の内外を満たした。

「う、うあわあああああああああ。」

 聖蟲の特殊知覚で何が起こっているのかを感じ取った王姉妹が悲鳴を上げる。アィイーガも同じモノを認識して青ざめた。特殊知覚は持ち合わせていないガモウヤヨイチャンには、この恐ろしさは分からないだろう。ギジジット周辺の直径10キロメートルの球形の大気総てから見えない刃が無数に沸き上がり、中心の金雷蜒城に殺到する。

どががががあがががががががががざああああああああ

 城の直上から滝が降って来た。微細に砕けた氷の砕片が、高さは1キロ太さは100メートルの白い氷の柱となって巨大金雷蜒神に襲いかかる。落下の圧力で城の吹き抜け内に暴風が渦を巻き、細かな備品が飛ばされて洗濯機の内部に落ちたように回転しては壁に激突して砕け散る。アィイーガと王姉妹は自分が飛ばされてないようにするだけで精一杯で、破片を避ける事が出来ない。ネコはアィイーガの甲冑の陰に隠れてようやく助かった。

 天空の弥生ちゃんがハリセンをぎゅっと左に払い、氷の滝は消失する。氷が駆け抜けた城の底部から、ぼおんぼんと幾重にも震動する音がこだまする。地下の大水道全体が高圧空気に満たされて、諸所で爆発を起しているのだろう。だが、

「・・・耐えた!」

 しゅうしゅうと蒸気を上げて、巨大金雷蜒神の頭部は無傷にその場にある。他の部分も氷に被われているものの損傷は無い。

「わ、我らの神は、氷では貫けぬ! つらぬけぬ。」

 王姉妹は狂喜する。全身に砕けた木の破片を浴びて流血しているが、その痛みも喜びをひしぐには至らない。彼女たちは天に叫んだ。

「次は我らの神の怒りを知れ。」

 金雷蜒神の頭がゆったりと動き、天空を踊る弥生ちゃんに振り向く。全ての眼が赤く輝き、その周辺を取り巻く無数の副眼にも光が宿る。弥生ちゃんはまだ空中で飛行を続けていて、金雷蜒神の構造を観察して弱点を探っている。

 金雷蜒神の眼が急に澄み紅玉の透明さを示した。今や頭部にある全ての眼が弥生ちゃんを視界に捉えている。

「「金雷蜒の雷」が、」

 アィイーガが叫ぶのを合図としたように、全ての眼が甲高い唸りを上げて振動し光を零しはじめ、吹き抜け内部を赤く染めた。さすがに弥生ちゃんも何が起るか気付いたが、逃げずに、・・落ちた。弥生ちゃんは空を飛ぶのはあまり上手ではない。風に吹かれて舞い上げられるだけなので、急に方向転換は出来ないのだ。最も早く移動する手段は、飛行を止めて重力に身を任せる事だが。

 百の眼とその百倍の副眼から、一斉に赤い光条が飛ぶ。総ては弥生ちゃんを指向して長さ50メートルの頭全体が発光し、まるで鍛冶の灼けた鉄塊に見えた。焦点の弥生ちゃんを中心に大きな爆発が起こり、アィイーガも王姉妹も顔を覆う。

「ガモウヤヨイチャン、死んだか?」
「いや、ハリセンを拡げて防いだ!」

 ネコの問いにアィイーガは答える。聖蟲の眼で見たところ、弥生ちゃんは「金雷蜒の雷」の直撃を受けなかった。開いたハリセンを盾として総てを防ぎきったのだ。最後に落ちたのが大正解。落下する事で急速に金雷蜒神に近づき、角度が大きくなって眼の半数の視界から見えなくなる。しかも爆圧を上に逃がした事で自身にはダメージを受けなかった。落下に加速がついてそのまま金雷蜒神の顎の下にまで落ち、横に吹かれて城の壁に取り付き、端の木の手すりに着地する。そのままとことこと細い手すりの上を走って、大きな石の柱の裏に隠れた。

「・・・ちとヤバかった。」

 弥生ちゃんは「金雷蜒の雷」の威力を多少侮っていたのだ。一般のゲジゲジの聖蟲が発するレーザー光線は非常に径が細く貫通力にも乏しくて、直撃してもハリセンで跳ね返せるのだ。その威力はむしろ爆発の効果にある。通常のレーザー光線は経路上の大気に吸収されて減衰するのが障害となるが、「金雷蜒の雷」は故意に大気にエネルギーを吸収させプラズマ化する。本物の雷が近くに落ちると人が弾け飛ぶのは、電流が身体を通ったからではなく、上空に貯えられた静電気が地上に下りる経路上の空気が電離して爆発的に拡散するからだ。「金雷蜒の雷」もそれを模倣しており、人間を爆圧で叩いている。しかも円錐状に光条を回転させて振っている為に、発射点であるゲジゲジの聖蟲の額近辺では爆発の効果はほとんど無く、対象の近辺では大量の空気が電離するように、とうまく考えられていた。

 弥生ちゃんがこのメカニズムを知っていたのは、似たような兵器について学校の友人の八段まゆ子にレクチャーされていたからだ。雷の誘導実験というのも、レーザーを使って空気中にプラズマの道を作りこれを導線代わりとして、静電気がスムーズに流れるようにするものだし、大気中では即座に拡散してしまう粒子ビーム砲もこのやり方で経路上の空気を排除して真空中を飛ばせば大丈夫とかも言っていた。八段まゆ子という人は困ったもので、試合の時にこういうレーザー兵器を使わないか? などと穏当でない提案をして却下した前例があるので、弥生ちゃんはこの種の兵器の原理をよく覚えていた。

「しかし、ハリセンの攻撃が効かないとは、一本一本肢を斬っていくしかないかな。」

 と弥生ちゃんはカタナを抜く。斬る事に関してはハリセンもカタナも同程度の能力を持っている。斬るのに力は要らないからハリセンでも別に構わないが、やはり日本刀の形をしている方が気合いが違う。ハリセンは腰に挟んでいても自由に能力を解放できるのだから、普通弥生ちゃんはカタナを好んで使う。

「3、2、!」

 弥生ちゃんが潜んで居た柱の周囲が爆発した。「金雷蜒の雷」がまた殺到したのだ。さすがにこれだけの数の光線が集中すると、巨大な石材でも一気に粉砕出来る。一歩飛び出すのが遅かったら潰されて居たかも知れない。

 ととんと手すりの上を走ると、ジャンプして10メートル先の金雷蜒神の巨体の上に着地する。目の前に不規則に突き出していた長さ2メートル程の虫の肢を切断する。

「?!」

 切れなかった。ゲイルの肢ならばもっと太くても斬れるのに、金雷蜒神の身体には刃が徹らない。二度三度試して、別の肢、立っている足元の甲羅にも突き立ててみるが、まったく刃が立たない。その内近くの眼の一つが光り出したので、弥生ちゃんはやむなく甲羅の上を駆け上がる。

「なぜ斬れない?」

 そこここにある副眼から細い光条が飛び交うのを左右に避けながら、弥生ちゃんは考える。だが、それよりはむしろ金雷蜒神の眼から出るレーザー光線の照準システムが気になった。レーザーを発する眼はどれもばらばらに動いていて、偏差射撃つまり弥生ちゃんの運動を計算して未来の位置に発射するという当たり前の制御をしていない。これは、照準と発射、レーザー光線の励起との間にタイムラグがあり、にも関らず複数の眼で照準位置をカバーする統合された射撃管制をしていない事を意味する。全ての眼がスタンドアロンで動いているのだ。

「やはり、巨大金雷蜒神は構造上無理が有るんだ。複数の個体を接続した、本来ありえない形になっている。」

 弥生ちゃんはとーんと飛んで、王姉妹が居る張出上に飛び降りた。驚いた王姉妹の一人が飛びのこうとして赤い薄衣の裾を踏んで転けた。弥生ちゃんは彼女達を避けてとととと手すりを走り、また階下に落ちる。先程まで弥生ちゃんが居た位置にレーザー光線が迸り、王姉妹をかすめて金雷蜒王国の紋章の大きな浮き彫りを撃ち抜いた。11対しか肢が無い本来のギィール(十二神方台系のゲジゲジ)が描かれた差し渡し2メートルの黄金の銘板が外れて、王姉妹を襲う。

「おお。」

 アィイーガは、壁に巻きついた巨大金雷蜒神の体節からいきなり飛び出した大きな肢によって王姉妹達が救われるのを見る。数本突き出た肢が籠のように覆って銘板や石材が落ちて来るのを受け止めた。

「やはり金雷蜒神に邪悪さは無い。確かに神は神だ。」
「でも、ゲジゲジの神様はここから動けない。とりこにになってるのと同じ。」

 振り返ると左の回廊から弥生ちゃんが走ってくる。後ろにはオレンジ色を帯びた光条が数十本追いかけ着弾して弥生ちゃんの走りぬける後ろを薙ぎ払う。据えつけられた木製の扉や長椅子が光条を受けると瞬時に燃え上がる。

「思った通りだ、波長可変型のレーザービームだよ。こうでなきゃおかしいと思ってたんだ!」

「うああああ、来るな。」

 アィイーガとネコは弥生ちゃんに続いてその場を飛び降り、ついで今居た位置に光条が集中して爆発炎上する。二人と一匹はばらばらに壁を蹴って跳ね回り、それぞれ安全な場所まで移動する。

「そうか、距離を取ればレーザーの照準を細かく修正する必要はなく、或る程度の幅を持たせた面で制圧すれば統合した火器管制システムが無くても不都合は無いんだ。自分の頭の上なんて超近接状態を取られることは通常ありえないからね。」

 とーんとーんと上へ二三階飛び上がりながら弥生ちゃんは考えた。ファンタジーみたいな世界だとはいえ、物理法則はちゃんと機能しており、金雷蜒神もそれに従っている。当然青晶蜥神もそうだろう。ハリセンが通じなかった事にも必ず物理的裏付けがある。必ずだ。

 そこで弥生ちゃんは、そもそも何故ハリセンが鉄をも斬り裂くのかその原理をまったく考えた事がなかったのに気が付いた。まともに考えれば斬れるはずが無いのに、それを当然と無批判に受入れていたのに、今更ながら思い当たったのだ。

「うかつー。」

 金雷蜒神が青晶蜥神の切断能力を受けつけない。この現象は、金雷蜒神が切断の為のエネルギーの集中を、切断面でキャンセルしているという事だ。切断のメカニズムが分からない事にはキャンセルの仕組みも、それを破る手段も見つからない。

 『考えるんじゃない、感じるのだ。』と八段まゆ子が言っていた事を思い出す。『理論と現実が食い違う時、正しいのは常に現実だ。自分の五感で感じる情報それだけが真実なのだ。』

 青晶蜥神は北の氷壁の守護者にして冬の冷気と雪の神、大地を癒す静かな季節の神。カタナで斬る時も、ひんやりと冷たく感じられるし、モノを氷で覆ったり凍らせたりと自由に出来る。氷風を呼んで巨大な紅曙蛸神像も切断したが、氷をぶつけたくらいで鉄や岩が斬れる道理が無い。マンガじゃないのだから、真空などが通じる筈も無い。

 

 考えながらも弥生ちゃんは果敢に金雷蜒神に飛び掛かり、肢を斬ろう、眼を潰そうとする。目一杯ぶっ叩くと、時々なにかの拍子で肢が斬れる事もあり、確かにキャンセル能力の無効化は可能だと確信する。再度、壁に飛び離れて走り、巻きついた体節から伸びて来る肢を掻い潜りながら、答えを見出そうとひたすらに脳を回転させる。

「あ、・・・・・氷なんだ。」

 うまく切断出来た金雷蜒神の肢に氷がへばりついていた事で、弥生ちゃんは電撃的に理解した。とんがった氷で斬るのではない、殺到だ。大量の氷の微粒子が超高速で対象物に衝突する。言うなれば、超小型のチェーンソーで、細かい氷の粒がじゃりじゃりと対象を削っているのだ。加えて、極超低温で材質を脆化させているのかもしれない。どうやって空気を呼び集め氷を動かすのかは依然謎だが、切断というレベルの現象はそうやって行われている。

「となれば、キャンセルの手段は、接触面へのエネルギーの集中。超高温を発する事で氷の接触を弾いている。あまりにも微細な領域で両者のエネルギーの集中が起こるので、マクロでは単に弾かれているようにしか見えないんだ。」

 それを破る為にはより大量の衝突、金雷蜒神のキャンセル能力を上回る氷の殺到を極小の領域に集中しなければならない。点の攻撃が必要だ。

「突き、だな。厭兵術突兵抜刀法、真価を見せる時が来た。」

 あらぬ方向から飛んできた赤い光条を、振り返りもせず無造作にカタナで弾き返す。王姉妹がわずかながらも助勢をと「金雷蜒の雷」を撃ったのだ。だが、最早弥生ちゃんは最終的な集中に入っている。身体は的確に動いているが心はそこにとらわれず、一点に留まり静寂な中にある。無念無想とは言わないが、すでに何者も眼中に入らなくなった。

「見ているか、ネコ!」
「ネコ見てる。これがほんとうの、ガモウヤヨイチャン・・・。」

 先程までの鮮やかで軽やかな動きと違って、非常に遅い、まるで人間が走っているに過ぎない速度で弥生ちゃんは手すりの上を駆抜ける。だがそこにこそ恐ろしさを感じる。タダの人が、このような高さの、幅が10センチしかない手すりの上を走るなど出来はしない、ありえない。本当に普通の人間に戻ってなお、金雷蜒神と向かい合う気概が、この娘にはある。

 弥生ちゃんはふいと手すりから落ちる。その場所に先程までと同様にレーザー光線が集中し、爆発する。風を呼んで浮こうとはせず、そのままに落ちる。下には水路があり、水面に靴が触れた瞬間波紋が一回大きく拡がり半球状にへこみ、まるでミクロの現象を真似たようにミルククラウンを描いて中心に戻って来る。鋭角に跳ねる水に空中高く投げ上げられた弥生ちゃんは、ぱくっと金雷蜒神の口に呑み込まれた。

「あ。」

 王姉妹が一人、喜んだ声を上げた。一瞬勝ったと見えたのだろう。だが、すぐに思い返して、声のトーンを下げる。あんな異常な物体を呑み込めば、たとえ金雷蜒神といえども無傷ではいられない。その場に居る誰もが直感した。金雷蜒神は負けたのだ、と。

 長さが50メートルはある金雷蜒神の頭が横に短冊に七つ八つと裂けた。爆音も光もエネルギーの放出も無い。果実の実が自然と割れるがごとく、きれいに分かれて離れて切れた。いつしか首も抜け落ちて、首から下の胴体も螺旋に裂け目を見せながら城の底に落ちていく。頭だけが、首から解放された反動を喜ぶように上空に跳ね上がる。ゆったりと横に回転し落ち始め、遠心力で裂けた線から分裂し、蒸気を吹いてついに爆発し白い肉片を撒き散らす。

 大量の蒸気と蟲の肉が焦げる臭気を噴出して、金雷蜒神の頭は城の吹き抜け中に散乱した。地の底からも胴体部分が破裂した蒸気が、体液が高エネルギーで蒸発したガスが火山の噴火を真似て吹き上げる。あまりの臭いと蒸気の高温に目を襲われて、アィイーガとネコはうずくまり難を避ける。王姉妹も同様に小さくなって自らの神が滅びる様を見た。あまりにも惨く汚くおぞましく、これが自分達が奉じたものの末路だとはどうしても信じられない。壁に絡みつく体節は未だ健在ではあるものの、機能は停止していかなる運動も光の明滅も無かった。

 

「上へ。王姉妹も。」

 蒸気と臭気の中、良く徹る声が響いた。高からず低からず優しいが誰も逆らえない強い意志を感じる、人間の女の声。アィイーガとネコは声に導かれるまま、階段を目指す。

「王姉妹も、疾く。」

 王姉妹の一人が離れた場所で階段を上がるアィイーガを見る。彼女達は声に従うべきか否か、決める基準を持ち合わせていない。アィイーガは決断を促す為に言った。

「上へ。勝者には従うべきであろう。」
「王国は滅び、我らの使命も潰えた。いずこへ参る所があろうや。」
「冥秤庭に赴くならば、土産に最後まで見届けよ。上へ。」

 4人の王姉妹ギジメトイスの娘達は立ち上がり、別の階段を上った。途中で崩れている所は金雷蜒神の体節に足を掛けてよじ登り、ひたすらに屋上を目指す。臭気はますますきつくなり、立ち篭める蒸気に目が開けられない。

 

 蒸気が横にさらわれ、急に息が楽になった。屋上には風が横になびいていて、城から吹き上げる蒸気と臭気を拭い去っていく。彼女達は明瞭になった視界に、左右に声の主を探す。

「こちらです。塔の下。」

 一際高く聳える塔は二神の騒乱にもびくともしなかった。その基部に黄金色の光がある。一人の少女が大きな生物と待っている。

「ほら、こんなに可愛い。」

 アィイーガとネコ、王姉妹が見たものは、にこやかに笑う青晶蜥神救世主と、体長わずか5メートル、ゲイルよりも小さいがでも大きなゲジゲジの姿だった。目が赤々と輝き全身から黄金の炎を放つ。二股の尻尾は剣のように鋭く天を指している。

「金雷蜒神さまです。頭を下げなさい。」

 だが誰も頭を下げない。動く事を忘れた。彼の僕達は、なぜか顔が緩み、涙が頬を伝うのを感じた。

 

 

『金雷蜒神再生のくだりはこのようなものだ。もう一度最初から話すか?』

 世話係の巫女が持って来た冷たい水を舐めて、ネコの神は言った。だが、並み居る法神官と金雷蜒褐甲角神の祭王名代は討議に移っている。

「・・・王国を築かねばなりませんな。」
「青晶蜥神救世主は、まことに地上の主にふさわしい御方だと存ずる。直ちに緑隆蝸(ワグルクー)神の巫女を遣わして宮廷を整えねば。」

「千年の王国はまさに目の前にある。何人も疑うまい。(金雷蜒神の)名代はいかが思われるか。」
「にわかには信じられぬ。だが、ギジジットを確かめ、それが事実だと確認出来たのならば、致し方なく。」

「褐甲角神は?」

 

 ネコの神は自分から興味を移した人間達を見て、感慨も無く呟いた。

『ここからがまた面白いのに。』

 

 

最終章 青晶蜥神救世主蒲生弥生ちゃん、大地を浄化して新時代の扉を開く

 青晶蜥神救世主蒲生弥生は、遠く地平線の彼方を見詰めていた。西に霞む夕日がうっすらと山陰を浮かび上がらせる。あれがカプタニア山脈、褐甲角神が住まうという神山だろうか。

 ギジジット中央に聳え立つ金雷蜒宮殿、その上に立つ高塔の天辺で、弥生ちゃんはネコ達と共に十二神方台系が真っ赤に染まる姿を眺めて居た。この世界は間違いなく美しい。たぶん、地球のどの場所よりも美しいのだろう。おまけに神々に愛されている。そこに、穢れた世界から来た救世主など必要だろうか。

「ガモウヤヨイチャン、なに考えている。」

 しゃがんだ弥生ちゃんの側に寝そべる二匹のネコの片方が尋ねる。ここは地面からの高さは190メートルにもなり風も強く、うたた寝をするには適していないが、さすがに弥生ちゃんに付き従って来た剛のネコ達で、恐怖も感じさせずに屋上の物見台に侍っている。

「なんにも。ねえ、人間がコウモリ神に導かれてこの地に降りる前は、ここはどんな世界だったの。」

 ネコは怪訝な顔をした。そんな事を尋ねた者はかって十二神方台系には居ない。

「ネコ知らない。そんな昔、ネコは言葉喋れなかった。」
「いつから喋ってるの。」
「ッタ・コップが来る三日前。」
「嘘!」

「ほんと。それまでは、ネコ同士でしか話ししなかった。人間の言葉を覚えたのはその時が最初。」
「それは、神様の仕業ね。」
「だと思う。全部のネコがいっぺんに喋れるようになった。ちょっとおかしいな。」
「何故だろう。」
「人間と仲良くなる為、そう聞いている。それでいいと思う。」
「うん。」

 やはり、この世界は極めて人為的に作られている。そう結論づけるしか無いようだ。弥生ちゃんは思う、なぜ自分なのかと。これほどの世界を創ることが出来る存在ならば、最初から完璧な文明人として人を住まわせれば済むではないか。敢えて原始時代から出発する必要はないし、それもわずか4、5000年という短期間で不十分に行う理由が分からない。急いでいるのかいないのか、最終的に彼らは何を望むのか。

 がうるんるんるんるんるん。

 塔の屋上に据えつけられている滑車が回る。この塔には驚くべき事にエレベーターまで設置されている。基部に水圧で回るモーターがあり、その力で二つの籠を上下させる。金雷蜒神聖王族にしか利用を許されなかった設備だが、今乗っているのは。

 がしゃぐううんん。

 開いた扉の中からフィミルティが出て来た。彼女にはギジジットの外で待機して居た奴隷兵とネコ、イヌコマを迎えに行ってもらっていた。しかし、下りたのは彼女一人だった。

「ネコは?」
「宮殿に入りたくないのだそうです。こんなに大きな建物が崩れると死んでしまうから。」
「ネコはそれがいい。三匹居れば、二匹は外がいい。」
「ネコはとても用心深いから、噂話が失われるのを今だに怖れているのよ。それでいいわ。」

 フィミルティは弥生ちゃんの背後に立って、同じように大地に沈む夕陽を見る。黄金色の大気に雲も染まり、世界は静かに眠りに向かう。それは何千年も変わらず繰り返されて来た日常の姿、世界が創られた最初の夕暮れと変わらぬ光景だと、蝉蛾巫女は思う。

「ぃああらはぅあらふぇぃりぃーむ、とばらぁえいれむ、しぃ、にぃるべえい〜、」

 フィミルティは両手をみぞおちの前で組み、常には使われない言葉で歌い始めた。これはギィ聖音、金雷蜒神族が使う表意文字ギィ聖符に与えられた発音をそのままに読む難解な言語だ。人に発音出来ない音も含むので、天上の神々の間で使われる言葉だとされ、聖蟲も直接その意味を解するという。

 フィミルティは唄う。優しく、世界のすべてに届くように、歌い手の想いが、詩を紡いだ人の心が空全体に溶けていくように、ゆっくりと声を響かせる。弥生ちゃんの身体の芯にも声が染み通っていく。

『誰か指し示す別れを告げる夕陽を 神宿る塔の曳く影は長く人工の湖の底に届く
 人の行き交った街を歩むのはただ巨きなる蟲のみで 栄華の匂いを継ぐべき者は彼方に追われた
 天の指し示す絵図にはあらねど、再び聖き街を取り戻せるのならば、仇敵といえども手を取り共に塔に登り
 明ける日沈む日にその頬を染め、光の尽きる所まで分かち合うこともあるだろう

    』

「・・・・心ならずも都を離れることとなった金雷蜒神族の、ギジジットを懐かしむ気持ちを読んだ詩です。これをお作りになった神族の方はギジジットが毒で封鎖された後の御生まれですが、父母に都を離れる際の光景を聞いて、この詩を作ったと伝えられます。」

「ギィール神族にも、そういう感傷的な人が居たんだね。聖蟲を戴く為に感情を削ぎ落としていくと聞いたんだけど。」
「色々な方が御座いますよ。優しい方も心弱い方も。詩は削ぎ落とそうとして出来なかった心の襞から産まれて来るのです。でも良かった。」

 とフィミルティは胸に手を当てる。

「この唄は、いつか誰かが解放されたギジジットで歌わねばならないと、蝉蛾巫女の間で誓われてきたものです。私達は、神族の方々の喪われた心の代わりとしてお傍に侍る事を許されて参りました。それは褐甲角王国でも同じです。常人の定めを越えて過酷な試練を乗り越えねばならぬ尊い方々に代り声で羽ばたくのが、私達天鳴蝉(ゼビ)神に仕える者の努めなのです。」

「それは、私も入るのかな。」
「唄を教えて下さいませ。星の世界の唄を。」

 弥生ちゃんは少し考え、口をしばらく開けたが、止めた。

「今日はダメだ。こんなに夕日が美しいのに、私の唄じゃあ霞んじゃうよ。聖ちゃんじゃないんだから。」
「私にそっくりな方、ですね。」
「聖ちゃんはねえ、あなたとは違って人の為には歌わないんだ。自分の為でもない。歌が勝手に口から零れるんだって。世界の折り目の角から、留めようもなく染み出て来る音の無い響きが、聖ちゃんの姿を借りて歌になって世界に返っていく。だから、」

 弥生ちゃんは振り向いてフィミルティを見る。彼女の顔も夕日を浴びて一色に染まっている。ただ、試作品の眼鏡だけはその場にふさわしくないように見えた。

「もうちょっと、格好の良い眼鏡を作ろう。」
「私はこれで十分満足しています。これがあればこそ、ギジジットの夕日、ガモウヤヨイチャンさまのお姿を拝見出来るのですから。」

 

「・・・ね、私は本当に救世主なのかな。」

 フィミルティは青晶蜥神救世主を改めて見た。自分とほぼ同じ背丈の小さな、普通に17歳の娘。先程は見事に金雷蜒神の再生を成し遂げて誰もがその資格を認めるというのに、未だ自分を疑っている。自信が無いのではなく、自分にその権利があるとの確信が得られないのだろう。

「ガモウヤヨイチャンさまは、この世を救う必要をお認めになりませんか?」
「実の所、そうなんだ。十二神方台系はこんなにも美しい。人も美しい。それは、様々な悪が陰では渦巻いているのだろうけれど、私の世界よりはよほどマシだと思う。もしも私が居なければ、この世界はまた千年何事も無く過ごしていくでしょう。」

「十二神はそれをお望みにはならない、そうは思われませんか。」
「私は百万の人を、死ぬはずだった子供たちを多分救う事が出来る。でもその結果、200万人が餓えで苦しむとしたら、私は何と呼ばれるんだろうね。」

 フィミルティは黙った。多分、方台のどの賢者も弥生ちゃんの問いには答えられないだろう。

「私が、60億もうすぐ100億人になる、球体の上に住んでいる、というのは知っているね。」
「はい。」

「私達の世界は広くて、非常に古くから人が住んでいる。多くの異なった部族があり相争ったり交易したり、たくさんの王国が出来ては滅びしていったの。その古記録を調べる事が学問として成り立っていてね、王国が滅びる原因は大体どこも同じだと分かっている。」
「はい・・。」

「人が集まり国が産まれると、人々を食わせる為に畑を作る。森を切り拓いてたくさんの人を養う畑を作る。すると、繁栄して人は増える。国の強さは人の多さだから、人をどんどん増やす。畑ももっと必要で、結局は森を切り拓く。畑の為だけでなく、煮炊きや暖房に使う薪も要る。家を造るのにも材木が必要。鉄を打つにも船を造るにも都市を拡げるにも木が必要。どんどん切る。近場に木が無くなると、遠くに行って切る。深い森の奥にまで入って切る。そこを農地にするのはいいけれど、そんなにたくさんの木を切ると水の流れが変わる。山に降った雨が土に染み込まずに一気に地表を流れて農地を沈める洪水になる。その分河の水は涸れる、井戸も涸れる。気候も変わって雨が降らなくなったりする。農耕も出来なくなって草原になるけれど、そこには家畜を飼う。たくさんの家畜が草を食べ尽くすと、もうただの荒地沙漠になり、人も家畜も住めなくなる。そうして王国の力が衰えた時に、外から別の王国に攻められて潰される。その繰り返し。」

「・・・。」

「十二神方台系が今までそれを免れて来たのは、ただ時間の流れが遅かった、というだけに過ぎないわ。たぶん、神聖金雷蜒王国がもう1000年長く続いていたら、今頃は完全な更地になっている。褐甲角神の王国と争う事でそれを食い止められてきたけれど、ここらへんが限界でしょう。難民が増えてきて、食べさせるのに汲々としているそうだし、遠からず森を拓いていく。」

「・・褐甲角神は森林に住まう神ですから、森を殺すような真似は致しませんが・・・。ダメなのでしょうか?」
「時がそれを許さない。第一私が来てしまった。私は青晶蜥神救世主だから、たぶん、人に請われて命を救う技を数々広めていくのでしょう。だから、百万人を救うかもしれないけれど、200万人を飢えさす事になるのだよ。」

「でも、天河の計画では、そのような事の無いように十分な配慮が為されているはず、です。そうでなければ神の計画とは言えない。」

「だからこそ、私が呼ばれたし、真っ先にギジジットに連れて来られたわけね。毒地を解放して人々を養う畑を取り戻す。でも、これからもっともっと人は増える。その脹れ上がる人数から方台を守るには、鉄拳制裁しかない。その意味を理解して、冷静に厳格に森と自然を守る強い意志を持った人間が必要だった。60億の人間ていうのはねえ、別に栄えある事ではなく、成り行きに任せていたらいつの間にか増え過ぎちゃってどうしよう、という情けない話なのだよ。」

「ではガモウヤヨイチャンさまは、確かに救世主としてこの地を治めてくださいますか。」
「仕方ないなあ。」

 夕陽を眺めながら嘆息する弥生ちゃんに、フィミルティは改めて膝を折り頭を下げた。この人を失ってはいけない。十二神方台系に今本当に必要な人なのだ、と心の底から得心した。

「あれが、カプタニア?」
「おそらくそうです。」

 フィミルティは弥生ちゃんが指差す西日の下に染みのように翳む影を見た。

「次はあそこにお出でになりますか。」
「たぶん。でもそんなに急がなくてもいい。ギジジットに来る前にも、色々寄り道してギィール神族や奴隷達の生活なんかを見て来たから、今度は褐甲角王国も見聞しなくちゃね。」
「はい。皆首を長くして救世主さまのお出でを待っているでしょう。」

 彼女は一歩出て弥生ちゃんの隣に立った。塔の縁に近づくと地上で働く人の姿、数匹で群れて歩くゲイルが小さく見える。目が眩みそうだが、首を真っ直ぐに落ちる陽に向けた

「ガモウヤヨイチャンさまはご存じですか。十二神方台系の各地には、本当の地名のほかに十二神にちなんで付けられたあだ名があるのですよ。」
「へーどんなの。」

「十二神方台系の中心にあるカプタニア山脈は、褐甲角(クワァット)神の巨木と呼ばれます。山自体を木に喩えるのですね。

 南西部の深山は緑隆蝸(ワグルクー)神の苗木籠と呼ばれ、緑にすべてが覆われて人はほとんど住んでいないと聞きます。右手の北方西には黒の森、黒冥蝠(バンボ)神の狩り場が、聖山を挟んで反対側北東にあるのが白穰鼡(ピクリン)神の巣宿の森になります。

 南はガモウヤヨイチャンさまがテュラクラフ様を発掘なされた、紅曙蛸(テューク)神の円湾。東金雷蜒王国のある東岸の大三角州は紫醸蟾(ア・ア)神の足鰭、反対の西岸は神話にあるとおりに夕呑螯(シャムシャウラ)神が鋏で切り裂いた千々の島。西金雷蜒王国がございます。

 その海に流れ込むのが水悉蚓(ミストゥアゥル)神の百河、三つの山脈から流れこむ無数の河はすべてミミズ神である水悉蚓のものです。」

「金雷蜒神は?」

「金雷蜒(ギィール)神は神族の方が色んな場所に足跡を残しましたので多数ございますが、ギジジット金雷蜒の家、アユ・サユル湖から引いて来た金雷蜒の大用水、それに潤される金雷蜒の沃野は今は毒地と称されます。ですが、最初に付けられたのは、アユ・サユル湖。カプタニア山脈の隣に有る方台随一の湖に金雷蜒神が焼けた鉄コテを落したとされ、コテの熱で蒸発する泡が時々沸いて出ます。金雷蜒のあぶく、とも言われてますね。」

「火山湖なんだよね、あそこは。時々水中で噴火したという記録を読んだよ。」

「十二神方台系のすべてを繋ぐ道は黄輪蛛(セパム)神の輪網と呼び、人の行き来が絶えた事はございません。そしてすべてを包む大気は、朝には赤く染まり昼には青く、暮れると黄昏に夜は漆黒となりて二つの月の光が篭る、七色の天鳴蝉(ゼビ)神の吐息と称されています。ほらこれ。」

 とフィミルティは自らが羽織る蝉蛾巫女の衣装をつまんで見せた。言われて見れば、確かに彼女の服は七色に染め抜いている。左の肩には大きな鳥の羽をあしらっているのだが、これは蝉蛾の触角を表すそうだ。

「トカゲ神が無いよー。」
「青晶蜥神は北方の守護者、北の大氷壁に住いするとされていますが、それとは別に。でもここがそうなのです。」
「ここ?」

「はい。ギィール神族が潅漑開拓する前は滑平原、青晶蜥(チューラゥ)神の鱗跡と呼ばれていたのです。神話でトカゲ神が水晶の棒で念入りに均したのがここですよ。」

「あ。」

 弥生ちゃんがこの世界に最初に降り立ったのは毒地の外れにある、乳白色の霧に覆われた何も無い滑らかな荒野だった。そこで青晶蜥神に会いハリセンを授けられ、頭の上にカベチョロの姿で取憑かれてしまう。当然在るべき土地に自分は降り立ったのだ、と初めて知った。

「参ったな。それじゃあ、次の救世主、天鳴蝉(ゼビ)神救世主はどこからやってくるのかな。空かな。」
「それはあ、そうなのかもしれません。やはり、空を自在にお飛びになられるでしょうから。」

「飛んでみたい?」
「え?」

「千年先の救世主に先駆けて、蝉蛾巫女フィミルティが空を飛びまーす。」

 と、弥生ちゃんは立ち上がってフィミルティの身体を両腕で抱きしめた。あまりに近くに顔が来たので、彼女は寄り目で弥生ちゃんを見る。

「なにをなさいます。」
「覚悟を決めて。今、塔から落ちるから。」
「や、やめて。」

「ネコたち、ちゃんと見てるのだよ。失敗したら地面でべちゃんとなるかもしれない。」

 というや、弥生ちゃんは床を蹴る。抗うも離れるもまだ何もしない内に、フィミルティは空中に放り投げられた。

「あ、あ、あ、あ、ああ。」

 目の前でぐるぐると景色が回り、身体の重みが消え失せ、風の音だけがごうと耳に飛び込んで来る。ひたすら弥生ちゃんに噛りつき離されないようにするが、足元が何時まで経ってもなんの手応えも無い。このまま地面に激突して、生涯の終わりになるのかと思えば、産まれてこの方の様々な光景が、といっても極度の近視でよくは見なかったのだが、が脳裏に幾重にも拡がって思い出される。

 やがて、自分達の周囲に風が巻き、優しく包んでいるのに気が付いた。周りを確かめる余裕も生まれ、首をそっと差し伸べて見ると、高さはまだ30メートルほどもあり、金雷蜒宮殿の螺旋の壁の外に飛び出して、ゆっくりと降下しつつある。下で作業をしていたゲジゲジ神官がこちらを見上げる声に気恥ずかしくなる。水路の上の小舟から、城の中から覗く顔も、皆弥生ちゃんではなく自分を見ているようで、頬が知らずに真っ赤になり、どんどん俯いてしまう。

 弥生ちゃんは風を制御して、宮殿傍の広場に降り立った。まるで上から吊るしているような安定さで、10秒も掛けて慎重に着地してフィミルティの身体から手を放す。もちろんゆっくりと放したのだが、案の定フィミルティは戻って来た重力に足を取られてその場にへたり込んだ。

「ガ、ガモウヤヨイチャンさま、いくら、いくら、ああ、なにこの感じ。足が震えて立てない。」
「私はいっつもやってるんだから、たまにはその気持ちを分かち合いなさいよ。で、どうなの。」

 広場に居たゲジゲジ神官達は、何が起こったのか未だ理解していなかったが、弥生ちゃんの質問が自分達向けだと気付いた途端、その場に皆平伏した。

「青晶蜥神、救世主様におかれましては、この度我ら金雷蜒神に仕える者をして毒地の再生に当たられるとの事、御下知に従いて準備を進めてはおりますが未だ王姉妹様方よりはなにもお伝えが無く、キルストル姫アィイーガ様のお申しつけによりまして、宮殿の外に仮の祭壇を仕立てている最中であります。」

「アィイーガは、まだてこずってるの。」

「はは。再生されました金雷蜒神に対し奉り、王姉妹の方々は未だ魂を失いて御通じになること能わず。アィイーガ様は金雷蜒神と直接にお話になるは今回が初めてだとの事で、今暫くのご猶予を戴きたく、平に、平に。」

 そこに、外での騒ぎを聞きつけて、アィイーガが多数のゲジゲジ巫女を従えて降りて来た。その後ろには金色に輝く新生金雷蜒神の姿が有り、ゲジゲジ神官達は再度平伏し、フィミルティも跪き頭を下げる。

「なにがあった?」
「いや、ちょっとショートカットしただけ。で、いけそう。」

「城の中でやるのはイヤなのだそうだ。自分の身体が焦げたのだから仕方ないのだけれど、変な臭いがするのは気持ち悪いし、折角自由に歩けるようになったから宮殿の外も見てみたいと仰しゃっている。」

 アィイーガは少し憔悴している。そもそも他人の聖蟲と自分の聖蟲を光条で接続してその意を聞くというのは、かなり精神的に堪えるものがありギィール神族同士でも滅多にやらない。王姉妹は日常的にやっているからその道のエキスパートなのだが、現在はショックのあまり腑抜けた状態にあって、金雷蜒神の発する強大な思念には、たとえ害意が無くともダメージが大きくて今は接続は叶わない。

「城に巻きついた体節も、ギジジット全体に円を描いている体節もすべて機能はするそうだ。城の外に力の導管を引き出して、それに金雷蜒神が接続なされる。だがガモウヤヨイチャンに力を与える方法が、」
「ハリセンに直接は無理なのね。」
「先程の王姉妹の業と同様に一度空中に力を溜めて、それをハリセンで変換して扱うのだが、支援する祭壇が無いのでかなり難しいそうだ。」

 弥生ちゃんは少し考える。毒地の浄化はさほど急ぎはしないので、支援設備とやらを整えられるのならば確実を期した方がいい。

「具体的には何が要るの。」

 アィイーガは金雷蜒神に向き合い赤い光条で繋がる。表情が苦悶で歪むので、傍目で見てもアィイーガでは荷が重いなと分かった。金雷蜒神をこの世界に留めその力を借りようと思えば、王姉妹の協力が是非とも必要なのだろう。ひとしきり話して、アィイーガは光条を止めて向き直る。

「ダメだ。高さが13杖の水晶もしくは硝子の柱が7本要る。相当に複雑な図形を描いて水晶の線で繋がねばならぬようだ。ギィール神族が取り組んでも10年は掛かるだろう。」
「そんな金は無い。」
「そうだな・・。では、無茶をするしかない。」

 弥生ちゃんは、その場に控えるゲジゲジ神官達に立ち上がり仕事を続けるように命令する。金雷蜒神は物珍しそうにそこら中を覗き込んでおり、付き従うゲジゲジ巫女達がかなり困惑している。アィイーガが居ないと彼女達には金雷蜒神の意図が分からないので、皆哀願するように瞳を向けて来る。

「あー、ガモウヤヨイチャンどの。準備は一応夜には出来るが、そこまで急ぐ必要があるかな。毒液の供給はすでに差し止めて、放っておいても100年も経たずに毒地の自然浄化は起るだろう。成功しても、長年放置された農地を蘇らせるには10年は必要だ。それでも試されるか。」

「私は、」

 と弥生ちゃんは内心抱えている怖れ、いや予言を初めて口に出した。十二神方台系の住民全てが聞きたくない言葉だ。

「私は、多分、それほど長くはこの地には居ない。或る程度目処が付いたら、帰る事になる。あるいは更に別の土地に飛ばされるのかもしれない。」

「・・・王国は作らない。そう申されるか。」
「それも違う。青晶蜥王国は樹立されるが、それを治めるのは私ではない、という事だね。国を創る準備の為に私はやってきた。そんな感じ。」

「では急がねばならぬな。分かった。またいつもの直感で、今浄化せねば事は為らぬ、というのだろう。段々青晶蜥神救世主の扱い方が、私にも分かって来た。」
「ありがとう。」

「だがな。」

 とアィイーガは別の面で懸念を述べた。毒地は東金雷蜒王国と褐甲角王国の緩衝地帯となっている。これがあるからこそ両軍は直接対決を避ける事が出来て、均衡状態を保てている。浄化により人の行き来が自由になるとすれば。

「戦争が起きるぞ。古今未曽有の大戦さだ。それでもやるか。」
「戦争は、キライ?」
「う、む。私個人としては戦う事は責務であると心得ている。ギィール神族の子として生まれたからには黒甲枝どもとは相容れぬ。和平は、・・・・・大敗でもせねば考えぬな。」

「ダメじゃん、それ。」
「ダメだな。褐甲角王国も同じだ。黒甲枝どもは金雷蜒王国の滅亡を心から願っていて、千年の永きにわたって最後の決定的な勝利を得る戦争を欲している。それが褐甲角神救世主の予言であり誓約だからだ。・・・この話、知っていたな。」

「知り合いに、カブトムシを頭に乗っけた男が居てね。」

 弥生ちゃんはため息を吐く。結局戦は早いか遅いかの問題でしかない。毒地が徐々に元の姿を取り戻すのであれば、浄化された土地を互いが奪い合うだろう。最早毒で封鎖する事は出来ないから、ギジジットも褐甲角王国の手に落ちる。その時、青晶蜥神王国を治める者が調停なり和平なりを見事に成し遂げられるだろうか。

「是非も無し、という事か。すべては天河の計画どおり、というわけだ。」
「準備が出来次第、この夜にでもやりましょう。金雷蜒神さまにはそういう風にお伝えして。」
「わかった。」

 アィイーガはゲジゲジ巫女達が取り巻く金雷蜒神の側に走っていった。いつの間にか弥生ちゃんの背後に立って居たフィミルティが、再度問う。

「今のお話は。」

「ここにネコが居なくて良かったね。聞かれたらスゴイ大事になっていた。」
「ネコ居るよ。」

 水路の脇から、無尾猫が一匹、真っ白い姿を現した。フィミルティはギジジットの外に待機して居た二匹を呼んで来ていたし、アィイーガにも一匹付いている。なかなかに秘密を保つのは難しかった。

「あ、あのー、ごめんだけれど、今の話、ちょっとオフレコに。」
「オプリコ? 黙っていろというのならば、そうする。ネコだってバカじゃない。人間の欲しがらない噂は流さない。」
「アリガトウ! だからネコ大好きよ。」

「ネコは嘘を吐きませんが、怒る人の所で怒る話は致しません。ですが、私は。」

 フィミルティは困惑する。遂に、新しい時代を拓く見事な救世主を得られたと思えば、その人の口から遠からず去ると聞かされる。このような重大事を胸に秘めて弥生ちゃんに付き従い、救いを求める人々の前に立たねばならないのか。

「・・・泣かないでよ。」
「泣きたくもなるでしょう。この不人情の無責任の無計画の、気まぐれで軽薄で乱暴者の、そんな人の尻ぬぐいを誰に押し付けるつもりです!」

 弥生ちゃんは答えなかった。そんな都合の良い人のアテが有るわけがない。行き着く所にまで行くだけだ。だから貴女という人は救世主としての自覚に欠けているのです、と何度言われねばならなかったか。

「ゴメン。」

 いずれ星の世界に帰る人ならば、いっそ自分も付いて行きたい。フィミルティはそう思った。先程の落下みたいに、その小さな躰にしがみついてでも一緒に。

 

 全ての準備が整ったのはもう夜半であった。二つの月、行儀良く28日で回る「白い月」と、極周回衛星「青の月」の両方が天に並ぶ、珍しい配置。この両方が重なる時には重大な凶事が起ると言うが、今宵は毒地の浄化という素晴らしい奇跡が成就されねばならなかった。

 金雷蜒神の準備は至って簡単で、爆発蒸発した巨大金雷蜒神から切断された城に巻きつく体節を探って、脈管を引きずり出し、城の外の広場にまで引いて来る。これを新生なった金雷蜒神が踏んづけて初期駆動のエネルギーと制御信号を与えると、頭が付いていた時と同様に、ちゃんと巨大なエネルギーを発生させる。通常はこれを利用して毒地全体に毒の素となるタコ腸の加工品、元は除草剤と殺虫剤であったが、を隅々にまで送り出していた。今回はかなり無理をしてエネルギーを浄化の為に使うが、地中深くにまで浸透して結晶化した毒までも取り除くとなると、天変地異と呼べるくらいの副作用も伴わねばならない。金雷蜒神が言う所では、ギジジットを中心として直径300キロ程に地震が起きるらしいが、失敗するとそれだけのエネルギーが地表付近で放出される事になる。核爆弾が100個爆発したのと同程度には被害が出るだろう。

 特に儀式も無く浄化のプロセスは始まった。聖蟲で繋がったアィイーガの合図で、金雷蜒神は体節からエネルギーを絞り出し、ギジジット上空に再び光の輪を描いた。弥生ちゃんの額のカベチョロが、ハリセンに特殊な光を放出させて、空中の輪にシンクロさせる。二度三度、十数回光の輪を回転させると弥生ちゃんは遂に力を解放させる。青晶蜥神の青い光の幕がギジジットの西側をまっすぐに照らしていく。光の当たった場所はそのまま白く発光するが、同時に目の錯覚かと思う程度のわずかな隆起を見せ始める。

 隆起は線となって光の届く地平線の彼方にまで続いていく。この線が、弥生ちゃんのハリセンの運動に合わせて移動する。西から南にゆっくりと、本当にゆっくりと光と隆起が進み、地面をめくり上げていく。金雷蜒宮殿の外に勢揃いしたゲジゲジ神官巫女、護衛、暗殺者、その他王姉妹に仕える者全てが弥生ちゃんのハリセン捌きを固唾を呑んで見守る。少し手元が狂っても、ギジジットは壊滅的な被害を受け、誰も生きては居られない。

 だが弥生ちゃんは、人間技とは思えぬ非常な忍耐と正確さを以って光を進めていく。地震は絶えず起きるが、ギジジット自体は震度2程度で、離れるほどに強くなっているようだ。遠く、毒地の尽きる所では震度5にもなっている。普段滅多に地震に見舞われない十二神方台系であるから、人々はこの揺れに世界の終わりを感じているだろう。

 ゆっくりと正確に旋回を続ける弥生ちゃんに、ネコはあまり人には語られない地味な逸話を思い出した。最初弥生ちゃんが十二神方台系に来た時も、視界がまったく無い乳白色の濃霧の中、地面に線を引いてゴブァラバウト四数姉の聖蟲が示した方向に忠実に進んでいた。西の方に確実に正確にまっすぐと、ネコが発見してトカゲ神が待つ大地の裂け目に案内するまで、延々18時間もそれを繰り返していた事を。

 たっぷり一時間を掛けて、光の線は毒地を一周した。多少の波乱はあったものの、破局と呼べる災害は遂に引き起こさなかった。完璧と言って良いだろう。光を天に返し、ハリセンを納めた弥生ちゃんに、金雷蜒神から言葉を頂いたアィイーガが伝える。

「ガモウヤヨイチャンどの。あなたは、人間が成し得る最大限の仕事を見事に成し遂げた。まさに、神に等しい人である、と。」

「あ、どうも、ありがとうございます。と伝えて下さい。」

 フィミルティが差し出すカタナを再び左の腰に吊り、夜も更けて冷えてきたので王姉妹が使っていた毛織物を羽織って、用意された宿舎に去っていく。さすがに疲労が見えるその後ろ姿に、アィイーガは隣に居たゲジゲジ神官の長に言った。

「悔しいが、ガモウヤヨイチャンは、金雷蜒神族よりも神聖王よりも、地上において上座を占めるべき方であるな。それをよく弁えて、おまえたちも粗相の無いように奉仕せよ。」

 並み居る彼ら地上の神に仕えるべき者達は、改めてその場に跪き、弥生ちゃんの去っていく姿に拝礼した。

 

 

 この世は方千里。東西南を大海に、北は聖山と人の住めぬ寒冷の森に囲まれるこの土地は、古来より「十二神方台系」と呼ばれ、人間を住まわせる為に天河に座す十二の神がこしらえた台状の楽天地と思われている。そこには山があり森があり水が流れ風がそよぎ、穏やかで暖かな自然と実りに恵まれ、千年に一度優れた人が神の命に服して救世の事業を行い、千年続く王国を打ち建てて人々を繁栄に導いてきた。

 四番目の王、トカゲ神救世主蒲生弥生を迎えた十二神方台系は、やがて古の約束が成就する時を経て、新たな時代に突入する。その予感を漂わせて天空に浮かぶ二つの月は優しく、妖しく光を湛えていた。

 

(ゲバルト処女 エピソード1 「トカゲ神救世主蒲生弥生ちゃん、異世界に降臨する」 了)

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