【そもそも闇御殿とはなにか】

 「闇御殿」とは「闇御前」ことバハンモン・ジゥタロウの私邸であるが、
海外派遣軍関連の事務施設および戦費調達機構、さらには国内秘密治安機関の本部も有する、
国内有数の秘密組織の根城である。

 無論そんな場所を一個人が私有出来るはずが無い。
 それが何故、「闇御殿」と呼ばれるようになったのか。

 まずは位置関係から明らかにしておこう。

 ルルント・タンガラム市はその成立の過程から、5区に分けられる。
 旧「褐甲角王国」時代に成立したのが「古市街」、旧市とも呼ばれる。
 元の「ルルント・カプタニア」市だ。
 この時代においては大都市であったが、こじんまりとしてその後の経済発展により手狭となった。

 そこで「カンヴィタル武徳王国」時代に拡張されたのが、「大市街」「新市街」
 大市街には「仮王宮」が築かれ、カンヴィタル武徳王国の政治中枢とされた。
 現在ではタンガラム民衆協和国の政治中枢である「政治特別区」となっている。
 新市街は旧市時代の一般庶民や商人が移住を強制された新しい街。
 両区併せて旧市の3倍の面積となる。

 さらに「タンガラム民衆共和国が首都を遷都した際に拡張されたのが、
「外市街」「侍市街」、
また大市街も便宜上分割して、財閥本邸が多数陣取る高級住宅地を政治特別区から切り離した。
 「雅市街」と呼ばれる。

 古市街を中心として、大市街は西、新市街は北、
外市街は新市街のさらに北、侍市街は大市街の北で新市街の西に位置する。

 

 「闇御殿」は新市街南端、古市街と大市街に通じる要地に位置する。
 この場所には軍関係の役所と軍関連企業、軍人施設が密集するので、
俗に「軍人街」とも呼ばれる。

 「タンガラム国軍中央司令軍」大本営
および「首都近衛兵団常駐部隊駐屯地」の眼の前にどんと広がっていた。
 複数路線が入り交じる路面電車の操車場を挟んで、お向かいさんだ。

 「闇御殿」の北側、国際大学を挟んだ先には、
巡邏軍の中央司令部と首都中央警察局までもが存在する。

 なにせ「闇御前組織」は、元々が「海外派遣軍戦費調達機構」を母体とする。
 「海外派遣軍」関係諸機関の庁舎が敷地内に設けられていた。
 「海島権益争奪戦」で戦死傷病死した兵士の慰霊祭も行われる。
 国家総統に大将軍、内閣大臣領以下閣僚も列席して華々しく礼砲を天に放つ。

 つまりは「闇御殿」も軍関係施設の一つなのだ。

 

 そもそもが「ルルント・タンガラム」市は「ルルント・カプタニア」市と呼ばれ、
褐甲角王国そしてカンヴィタル武徳王国の副王都、王国最大の商都であった。
 「ルルント」は古語で「華やかな」を意味する。
 褐甲角王国においては、
アユ・サユル湖の要衝、関門である「カプタニア」市こそが王都とされたが、
要塞都市であり敷地面積が狭く経済的発展が望めない為に、
西隣のルルント・カプタニア市を王国の経済中枢として発展させた。

 創始歴5000年代、「方台新秩序」に基づいて地方分権が進み、褐甲角王国も4つに分割された。
 貴族であり聖戴者である黒甲枝家もそれぞれに分かれて国を治める事となったが、
宗主国であるカンヴィタル武徳王国の王都であるカプタニア市は共通の聖地、
神都として崇められた。

 その為カンヴィタル武徳王国では政治経済の方針を定める元老院をルルント・カプタニア市に移し、
俗事に関する事柄はこちらで取り扱う事となる。
 だが俗事は加速度的に重要さを増して王国の命運を左右する。
 武徳王自身もルルント・カプタニア市に移って政局を自ら差配せねばならなくなった。
 仮となる王宮も建設して、常時留まる慣習となった。

 この「仮王宮」こそが、「タンガラム民衆協和国」における現在の「政治特別区」、
総統府や内閣府、国家総議会が入る政治の中枢だ。

 仮王宮が建設されたのは、ルルント・カプタニア市「大市街」、
旧ルルント・カプタニア市「旧市街」が急激な経済成長によって手狭となり、拡張された西側である。
 そして北側には元から居住する一般市民や商人を移転させて「新市街」を建設した。

 「闇御殿」の敷地は、この新市街南端に存在する。
 元はカンヴィタル武徳王国にて宰相職を務めた元老員「ハジパイ」家の邸宅だ。

 ハジパイ家は、褐甲角王国の副王家「ソグヴィタル」家の分家だが、
政治路線の違いから本家と対立になり、
元老院内にて相反する存在として共に王国の政治を支えてきた。

 創始歴5000年頃に当時のソグヴィタル王 範ヒィキタイタンが王国を追放となり、
青晶蜥神救世主「ヤヤチャ」と共闘して新生紅曙蛸王国の樹立に貢献。
 結果、懲罰としてソグヴィタル副王家の家督はハジパイ家へと吸収され、
改めて「ソグヴィタル」家を名乗った。 

 そして「方台新秩序」に基づき褐甲角王国が4つに分割統治される。
 ソグヴィタル王家は南側の領地を預かり「ソグヴィタル王国」を名乗った。

 独自の統治権を持つのは良いが、しかし宗主国「カンヴィタル武徳王国」において、
ソグヴィタル家が発言権を失うのも意味する。
 これを危惧し、一定の影響力を維持し続ける為に、
再び分家として「ハジパイ」家を興す。
 元老院首座としてこれまで通りに、中央政界にて中心的役割を果たし続けた。

 ハジパイ家は旧王国時代より都市商工者を権力基盤とし、彼らの代弁者としても機能した。
 新時代となってもやはり商人の街である新市街に邸宅を構えたのも当然だ。
 主たる元老員の邸宅は大市街、仮王宮の後背となる山側に構えられた為、
新市街のハジパイ邸は秘密の会合を催すのにも好都合であった。

 

 それからおよそ1000年。
 「タンガラム民衆協和国」が全土を統一し、すべての王国が廃された。

 そして創始歴6072年、「砂糖戦争」勃発。
 初の対外戦争、「ゥアム帝国」の侵攻を受け、方台東岸への上陸を許してしまう。

 政治的混乱を招き外寇を誘う不手際を犯した第五政体は崩壊。
 義勇兵を中心とした防衛戦が展開され、救国臨時政権の下で戦争指導が行われ、
戦後新たに第六政体を立ち上げて復興を目指す。

 敵軍本土上陸の恐怖からタンガラム民衆協和国の首都を、
交通の便が良く、東西どちらからでも侵攻が容易と思われる「デュータム」市から、
アユ・サユル湖と狭隘なカプタニア街道で防衛可能なルルント・カプタニア市に遷都すべきだとの議論が起こる。

 遷都を決定した第六政体は、歴史と伝統あるルルント・カプタニア市を一から作り直す勢いで、
近代都市建設を一気に敢行する。
 仮王宮等がある大市街も、宮殿のみを残して政治特別区としたが、
そこに最も近い新市街南端には軍関係の中枢施設が置かれた。
 首都内防衛の常駐兵力の駐屯地ともなる。

 ハジパイ邸はしかしそのままに留め置かれた。
 広大な敷地面積があるので、いざという時に大軍を配置出来ると見込まれたからだ。
 実際カンヴィタル武徳王国時代でも、
ハジパイ邸は仮王宮に至る最後の防衛拠点と考えられていた。

 第六政体には別の思惑もある。
 彼らの急務は、砂糖戦争により断絶したゥアム帝国との修好を果たす事だ。

 戦争は終わったが終戦条約は未だ結ばれず、
帝国を自国と対等の存在として扱う事も国民感情から許されない。
 迎賓館は使えなかった。
 交渉使節を新首都内の何処に泊めるか、警備上でも大問題となる。

 そこで正式な政府施設ではない民間のハジパイ邸を、その役に用いた。
 宮殿ではないがそれに準ずる屋敷であり、
広壮な庭園も整備され、格式として不足する所はまったく無い。
 外周の塀も戦闘に対応して堅固で、警備上十分と見做される。

 国家総統が用いる私的な邸宅、として非公式な外交の場となった。
 「平等苑」と名付けられる。

 

 第六政体は対外戦争に対応できる国力増強の為の開発独裁を推し進めたが、
官主導である為に非効率な部門が多数発生し、
また既得権益が弊害となりついに自壊。

 民間経済の自主性を尊重し効率を追求した第七政体は、
だが資本の暴走、貧富の差の拡大が進む。

 政官界は財界との癒着を進め、
「平等苑」では毎夜宴会が開かれ、特権階級が贅沢の限りを尽くしていた。
 と、当時の民衆は理解する。

 実際はそこまで露骨な馬鹿騒ぎは行われていないが、民間の新聞はそう書き立て、
運動家は街頭で大声で批難し、「公然の秘密」として囁かれる。
 ついに格差が極限まで達し、民衆が暴動に突き進む中、
「平等苑」は格好の標的とされた。
 怒れる大群衆が敷地に雪崩込み、破壊と略奪を行う。

 第七政体は崩壊。

 新政権第八政体は秩序を回復したが、
群衆に踏み荒らされた「平等苑」の復元・利用を躊躇った。
 政権が再び奢侈贅沢に走るのか、と指弾されかねなかったからだ。

 新政体発足から10年を経て、にわかに国外海洋権益の確保の重要性が叫ばれ、
艦隊の派遣が急務とされた。
 非公式脱法的に設立された「海外派遣軍戦費調達機構」の事務所を、
民衆からも国会議員からも隠蔽する為に用いられたのが、
放置された「平等苑」だったわけだ。



 海外派遣軍の成立に当初から関与して、
国外情勢の調査と工作活動を担当したバハンモン・ジゥタロウは、
この敷地利用の計画策定にも大きく関与する。

 彼は国外での工作活動の便宜を図ってくれる現地協力者の育成を試み、
タンガラム本国に彼らを呼び集め歓待し、また彼らの子弟を留学させ、
将来はそれぞれの国で政局を左右できる人材へと育成する構想を披露する。

 裏面のみならず表の政権からしても有益と思えた為に、
「平等苑」を華麗に再建する計画が正式に決定した。
 のみならず隣に新たに国際大学を設立し、
有力者子弟の留学を受け入れる準備を整える。

 元が元老院首座の邸宅があった場所だ。
 周辺も高級住宅街であり、居住する環境としても良好。
 巡邏軍中央司令部も中央警察局も目の前にあり、治安の問題も全く無い。
 タンガラム政界の中枢も経済の中心も間近にあり、最高学府も隣接し、
財閥子女との交流も期待される。
 まこと結構な立地である。



 「平等苑」が「闇御殿」と呼ばれるようになったは、15年ほど前。
 それまでは「鬼哭舎」というおどろおどろしい名前で、
秘密治安警察の拠点と噂され、一般人の接近を妨げていた。

 それもそのはず、「平等苑」の外周の塀はますます堅固に、
おどろおどろしいまでに威圧的に補強され、
一般市民や報道関係者の接近を拒む。

 また国内秘密治安機関を統括支配して「闇将監」と恐れられた
シュラ・トーシュウの私邸があった。

 「将監」とは、軍事的な政策立案・計画策定を行う「将軍」と、
実戦部隊を統括する「統監」の双方を兼ねるという意味だ。
 極めて強力な権限を有するが、制度上そのような役職は存在しない。
 それほどに力を持つという意味だ。

 とはいえシュラはその役割の重大さから多くの警備要員を必要とし、
便宜上自宅を構えていたに過ぎない。
 中級官僚の官舎と同等のもので、妻と二人慎ましく暮らしていた。

 シュラの死後に組織の全権を引き継いだバハンモンであるが、
立場上は一民間人に過ぎない彼の指導を良しとしない者は非常に多い。
 そこで組織の中核たる施設に自ら乗り込み、睨みを利かせたわけだ。

 殊更に権力を誇示し政財界の有力者を邸内に呼び入れ奢侈贅沢を見せびらかすのも、
自身の虚像を拡大させる演出であったと言えるだろう。
 その様子をわざわざ報道関係の取材記者まで招いて披露したら、
週刊紙等に「闇御前」とあだ名され揶揄された。

 「闇将監」の後継でしかも民間人であるから「闇御前」なのだろう。

 しかし、これは面白いと逆に気に入り採用して、
組織名を通称「闇御前組織」とするように報道各社に通達し、
また「平等苑」を「闇御殿」と呼ぶように要請した。
 「鬼哭舎」よりはよほどにマシだ。

 

 若干やり過ぎと本人も思わないではなかったが、
しかし既に老境に達し、さほど長くも生きないと考えると、
自分を乗り越えるべき悪と見做し挑戦する意欲を持った若者に後事を任せるべきと、
わざと我を貫いた。

 それから10年挑戦者はまったく現れず、
バハンモンの思惑に反して後継者候補が育たないままである。
 自らの孫の成長に望みを託すが、未だ若くて間に合わない。

 さてどうしたものかと思案する内に、世間の印象はますます悪化して、
自分を化け物と呼ぶようになる。

 化け物は化け物らしく過ごしていたら、
そして確かに人間の中においては化け物の部類に入るのだろう。
 英雄が現れて退治されるハメになった。

 



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