『罰市偵』ボツ原稿集

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 第二巻十話「「闇御前」裁判顛末その3」全章 170126→180708

 

 五月二十一日、「闇御前」裁判当日。

 ノゲ・ベイスラ市すべての人が固唾を呑んで、世紀の審判の開幕を今や遅しと待ち構える。
 おそらくは、いや間違いなく大波乱の展開が待っているはず。「闇御前」に加担する勢力が手をこまねくわけが無い。
 首都とは異なり物理的に警備体制が手薄となるこの地での裁判こそ、奪還する最後の好機だと考えるに違いない。

 方や裁判所。正義の味方を気取るにしても、本当に信じて良いものか。
 議会政府行政司法から軍部に至るまで、あらゆる部署に「闇御前」は根強い影響力を行使するという。
 公権力が総ぐるみとなれば、どのような違法行為だとて容易く実現できる。
 現に首都ルルント・カプタニアにおいて開かれた裁判では呆れるほどに悪辣な妨害が頻発して、遂には審理を諦めて放り出したくらいだ。
 裁判所自体が毅然としていればこうはならない。
 あくまでも悪に断を下し市民社会に正義をもたらさんと決意していれば、生命も惜しまずに続行したであろう。

 唯一絶対の信頼を寄せる事が出来るのは、民衆の英雄。国家の闇を打ち砕く現代の救世主。
 刑事探偵ヱメコフ・マキアリイが独りあるのみだ。
 そしてここは彼の狩場、悪を根こそぎに平らげる本拠地なのだ。
 否が応でも市民は期待する。またしても彼はやってくれるはず。
 法廷で真の邪悪と正面切って立ち向かい、見事斃してくれるのだ。

 だが戦場が裁判所内に留まるとは限らない。
 巷間流れる噂では、悪人どもはノゲ・ベイスラ市内各所に同時に火を放って裁判自体を流してしまう計画とか。
 さらには重要証人の移動を路上で待ち伏せて暗殺するなども。
 逆に、歪んだ正義感に取り憑かれた暴漢ども、「天誅行徒」を名乗る輩が「闇御前」本人を襲って殺そうなど、まことしやかに語られる。

 果たして今日を無事に乗り切る事ができるか。

 

 そして五月二十二日。次の日である。

 なぜいきなり日付が変わるかと言えば、マキアリイ刑事探偵事務所のうら若き事務員クワンパさんは、ベイスラ中央裁判所に行ってないからだ。
 昨日はずーっと事務所で留守番をしていた。

 考えるまでも無く、裁判所内外で数多の職種の公務員が忙しく働く中で、一介の民間人事務員が何を出来るはずも無い。資格だって持っていない。
 カニ巫女棒はあれども、警備の陣営は銃火器で武装して待ち受けている。
 所長のマキアリイだって実力行使をする機会が無さそうなのに、なんで彼女を連れていくものか。

「というわけで私は不満がいっぱい溜まっています。一人だけ除け者みたいで」
「まあ、そうね。わたしだってそれほど活躍したわけじゃないし。ねえマキアリイ君」

 唯一人、新聞一面大見出しで載っている所長ヱメコフ・マキアリイには彼女らの台詞が理解できない。
 何もしないでカネ貰える方が楽じゃないか。

「彩ルダムさん、こんな所で油を売っていていいんですか。国家反逆罪で特別法廷が開かれる事になったんだから、忙しいんじゃないですか」
「いいのいいの。わたしの仕事は昨日で終わった。後は頂上法廷の父様が適当にやるから」

 革椅子にふんぞり返るチュダルム彩ルダム法衛視に、マキアリイもクワンパも渋面を作って肩をすくめるばかりだ。
 如何に重圧から解放されたとはいえ、緊張感無さ過ぎる。朝っぱらから酒でも飲んでいるのではないか。

 ちなみに事務所下の道路には、この前と同様に真っ赤な高速自動車が駐まっており、首都中央警察局の護衛が立番をしている。
 「闇御前」裁判は正義側の一方的圧倒的勝利に終わったが、その腹いせにマキアリイ事務所に爆弾火炎瓶等を投げ込むくらいはあるだろう。
 彼の仕事は全然終わっていない。

 クワンパはまったくもって不愉快である。
 自分は何一つ仕事をやった気がしない。そもそもが裁判の様子も知らないのだ。
 いいかげん教えて下さいよ。

 

         ***

 五月二十一日のベイスラ中央裁判所の様子は、有線放送で逐一中継解説されていたとはいえ、内部の状況までは手が届かない。
 裁判所内でほんとうは何が起きていたのかは、今後の新聞報道等に詳細が載るのを待つしか無い。

 ただ一般大衆は、英雄探偵が見事巨悪を葬って新しい段階に突入した、と理解した。
 マキアリイがクワンパに説明するところでは、

「つまり、俺達は盛大に道化を演じて見せたのさ」
「そうそう」
「道化、ですか。ほんとうは何の働きもしていない?」
「昨日の主役は正真正銘隠し玉の証人さ。俺達の仕事はあの人の存在を徹底的に隠蔽し、「闇御前」側が対応をする余地を与えない事にあったんだ。」

 

 裁判所周辺の警備は、ノゲ・ベイスラ市に裁判が移る事が確定した時点で既に始まり、1週間前から厳重に、3日前から厳戒態勢に突入する。
 取材陣も3日前から場所取りを始めて、前夜には既に総動員体制となっている。

 裁判所に被告人や証人が到着するのは、当日早朝より。
 市内全域で通勤通学が始まる前の4時ちょうど(午前6時頃)に最初の、そして最大の注目人物である「彼」が護送されてきた。

 「闇御前」の通称を持つ、タンガラム民衆協和国最大の政商にして裏世界の支配者。
 本名を、バハンモン・ジゥタロウという。
 年齢は86歳もしくは87歳、戸籍上の記載に若干の疑問点があり確定していない。
 出身地は方台西岸、百島湾と呼ばれる無数に島が集まった海域で、親は漁師をやっていたとされる。
 闇御前、いやジゥタロウも順当に成長すれば漁師になる運命だ。

 だが時は混迷を深める第七協和政体崩壊の時期。
 荒れる世間の波に乗って若者は政治運動に飛び込み、先の見通しも立たないまま闇雲に暴れ回る時代であった。

 ジゥタロウも故郷を捨てて都会に潜り込み、のし上がる機会を窺っていた。
 折よく政党人と知り合いになり、当時は失職中の元国会議員の書生に成った。
 その人に将来性を見込まれ大いに可愛がられて勉学を積み、やがて彼は国外に目を向ける事となる。

 彼の故郷百島湾の遥か西の果てには、シンドラ連合王国がある。
 タンガラムとは旧い縁を持つ唯一の異国だ。
 既に蒸気船による定期航路は開かれているが、当時タンガラムは現地に確たる拠点を設けて居らず、有力な提携先も得られていない。
 連合王国という複雑な政治体制ゆえに外交も一筋縄でいかず、外務省も通り一辺倒の関係を続けるのみである。

 元議員の薫陶により異国に強い関心を抱く彼は、若くしてシンドラに旅立つ。
 残念ながら経済的な問題から大学教育を受けられなかった為に、超階級社会であるゥアム帝国よりも、猥雑と表現されるシンドラ社会に可能性を見出したのだ。
 初めて見る異国の地で彼は遺憾無く才能を発揮する。
 現地でタンガラム独立商人の間に独自の連絡網を設け、シンドラの地方太守に接近して後援を受け、タンガラム間貿易の一角に食い込む事が出来た。

 若き顔役として一応の自信自負と共に帰国した彼を待ち受けていたのが、第七協和政体断末魔の咆哮であった。
 ここから闇御前への道が開けていく……。

 

 「闇御前」の一代記は裁判所前に詰め掛けた取材陣皆が熟知するところである。
 首都またデュータム市での裁判ではその姿を公にする事は無かったが、今回は機会が得られるかも。
 裁判所前の道路に進入する巡邏軍の重装甲車に写真機の砲列を向ける。
 だが無数に瞬く投光器の閃光は警備にとって最悪だ。(マグネシウム)の焔は、取材陣に潜んだ刺客の銃砲の隠れ蓑となる。

 そこで巡邏軍では写真撮影に投光器の使用を禁止。逆に裁判所入り口に設置した強力な電気探照灯で目眩ましとする。
 その為に道路の向かいにひしめく取材陣は撮影出来ず、離れた所から望遠で覗いていた者のみが成功した。

 数ヶ月ぶりに撮影された「闇御前」バハンモン・ジゥタロウは異形の容貌でもまた知られる。
 長身痩躯、老人にしては腰も曲がることはなく飄として重装甲車から降り立った。
 身には拘置所の収監者が着せられる朱色の衣。上下共に朱く目立ち、管理の便宜を図っている。
 逮捕前までに報道で流された写真や映像だと、たっぷりと絹を使ったゆったりとした黒の礼服姿が多い。まさに大物然としている。
 だが若い頃の闊達さを考えると、今のすっきりとした服装の方が実は似合っているのではないか。

 なにより人目を引くのが、その顔だ。
 細い頸の上に丸い小さな頭で、色は白く髪も白く髭は無く、両眼がぎょろりと丸く大きい。瞳の色は銀。
 まるでカエルを思わせる、世間一般では稀な形。
 だがタンガラムにおいては古来よりカエルは美の象徴。千差万別色とりどりの種類が棲み、生きた宝石と呼ばれている。
 カエルの容貌を持つ者は天界の美を地上に顕現させたとして珍重される。妖しい魅力が人を惑わせた。
 彼も若い頃は、いや現在においても言い寄る美女を退けるのに難儀させられるという。
 絶倫としてもまた知られる。

 

         ***

 有能な美女ばかり11名を妾とし、彼が率いる経済団体の要職を務めさせており、「闇御前の11姉妹」として名を馳せる。
 ヱメコフ・マキアリイが彼を逮捕した直接の理由も、その中の1人の殺害教唆を暴いた事による。

 哀れなるかな。権力を求めて有力者に接近し、自らを贄として捧げる事で得た地位を、
市井の木っ端探偵に足元を掬われ、主人に不始末の責を問われて衆人環視の内に私刑惨殺されてしまったのだ。
 愛した者に対しても冷酷残忍なる振る舞いを平然と行う。
 齢八十を超えて人界の則を逸脱するにしても甚だしく、やはり常人とは呼び難い。

 重装甲車の陰から裁判所正面玄関に入っていく十数秒を、現場の人は息を潜めて見送った。

 

「その写真が、新聞のド一面に載っているのです!」
「まあね、他に写真を撮れる場面無かったからね。」
「それにしてもー、なんとも憎々しい姿ですねコイツ」

 極めて先入観たっぷりのクワンパの評に、顔で笑いながら彩ルダムは訂正を入れる。

「いやね、闇御前の尋問に当たる法衛視はだね、1時刻以上は彼と喋るなと固く釘を刺されてるんだよ」
「なんですか、それほどまでの悪の瘴気を噴き出して精神が汚染されるんですか」
「逆だよ。あの人はとても話が上手くて人を惹き付ける力が凄いのよ。1対1で真正面から向き合うと、いつの間にか彼の味方になっている。そんな事例がたっぷりよ」
「まさに悪魔的です!」

 クワンパは新聞を大きく両手で掲げて、写真をぎろと睨む。闇御前には正義の焔をぶつけるのみ、の姿勢が絵に描いたように表現される。
 マキアリイは、カニ巫女には分からないだろうなと楽しくなった。
 妖しい美の誘惑など、カニ神殿の対極に位置するものだ。まったくに理解を拒み完全否定できるのは一種の才能である。

 

 主役の入場に続いて関係者が続々と裁判所に入っていく。
 彩ルダムが用意した証人も一人ずつ独立して護られながら到着した。全員が巡邏軍が用意した装甲自動車を用いている。
 彼らを阻止しようとする企みは予想の通りに発生した。
 或る証人は潜伏場所が既に突き止められており、自動車には自動車をぶつける手段で動きを止められ、襲撃を受けた。
 幸いにして首都警察局から派遣されていた特別機動護衛隊が即時に対応して事なきを得たが、法廷で証言するまではまったくに油断できない。

 そして、裁判所の入り口でも。
 巡邏軍によって遠ざけられる取材陣の丁度目の前、裁判所の建物の端に掛かる位置まで到達した装甲自動車が急にふらつき、停止した。
 何事か、と写真機が向くと、いきなり車の扉が開いて男が2名飛び出した。
 大柄な男が背の低い小太りの男を抱きかかえて、走る。
 次いで運転席の巡邏軍兵士も飛び出した。

 何? と考える間も無く、装甲自動車に噴進弾が直撃する。
 火薬ガスを噴射して飛翔する噴進弾は、成型炸薬を用いて戦車も破壊する最新兵器だ。当然に軍でしか用いていない。
 装甲自動車に直撃して大きく爆発する。
 襲撃だ!

 取材の記者はこれをこそ待ち構えていた。爆風に身を屈めながらも写真機を向け、禁じられる投光器の閃光を走らせる。
 そして彼らは気付いた。装甲自動車から飛び出した男の1人は、彼らのよく知る人物だった。

「マキアリイさんだ! マキアリイさんが!」
「証人の移送にも協力していたんだ!」

 小太りの証人を庇いながら周囲を警戒し、眼の覚める速度で裁判所の通用口に走り込む。
 彼の居た地点の土が不規則に弾け飛んだ。射撃、銃撃されている。

 直ちに警備の巡邏軍兵士が周辺全域を強権でもって規制し始める。取材も何もお構いなしに押し出し、解散させる。
 さらには銃撃地点を探して何組もの小隊が走り出す。
 完全に戦闘状態だ。

 

         ***

「あ、それな。狂言だから」
「は?」
「俺達が仕組んだ偽の襲撃だ。砲弾の炸薬もただの花火に換えた」
「取材の記者じゃまだったのよねー。何百人居たのかしら、あれのど真ん中に迫撃砲でも撃ち込んでみなさいよ。いきなり裁判中止よ」
「あ、そんな陰謀が有ったんですか」
「過激組織の迫撃弾発射器があとで何基も見つかったわ。「闇御前」の一党にカネをもらって官憲にド派手に直接攻撃できると張り切ってたって、とっ捕まえた警察局の連中が言ってたわ」
「危険だからと言って解散する記者連中じゃないからな。やはり一度痛い目を見なければ素直に逃げてくれない。
 巡邏軍なり警察局なりの強権で解散させようにも、報道の自由やら市民の知る為の権利なんかで反論して逆に食い下がってくる。
 であれば、狂言だなと」

 クワンパも、所長と彩ルダムが周到に今回の裁判の準備を進めていたのは知っているが、本当に色々考えていたんだと改めて感心する。
 正義を執行するにしても、本来ここまで細心な注意を払って慎重に事を図らねばならないのだ。

「所長がかばっていた証人てのは、」
「それ餅マッチリさんだ。狂言とはいえ本物の火薬が爆発するのに素人使うわけにはいかない。
 というか、この装甲自動車で運ばれていた証人は、俺だ」
「あ。そうですよね、所長もれっきとした証人でしたね」

 

 体よく追っ払われて平穏となった裁判所前に、首都近辺からそれぞれ別の経路で移送された4名の証人が到着入場する。
 彼らは道中様々な妨害を受け、結構な冒険を経てノゲ・ベイスラ市に集結した。
 ただし、1人ずつの証言では「闇御前」を国家反逆罪に追い込む事は不可能。4人全員が揃って周辺を固めるからこそ、決定的な打撃を与えられる。

 静謐であるべき裁判所内は喧騒で満たされ、収まらぬままに開廷に至る。
 もちろん警備陣は多勢を投入して安全を図っているが、法廷内部であからさまな活動は出来ない。
 もしも裁判関係者の中に刺客が混ざっていた場合、対処のしようが無い。

 こんなこともあろうかと、証人の中に最強の警備員を配している。ヱメコフ・マキアリイ、天下の大英雄だ。
 彼は入廷する前にも、ぱぱっと刺客を3名捕まえた。
 もちろん逮捕は警察局や裁判所警護の要員が行うが、彼らの中に変装して潜んでいた者をあっさりと見破った。
 武術の達人として知られるマキアリイは、また人間の動きを解析する優れた専門家でもある。
 ほんのわずかな動作の違いから意図を推察し、正体を看破する。
 自ら暗殺に曝される事数百回の男にとっては、児戯に等しい。

 と、言われても事務員クワンパには信じられない。
 今先程、狂言話を聞いたばっかりだ。あらかじめ仕込んでおいた偽刺客ではないのか?
 機先を制して刺客達の動きを封じる作戦ではなかったのか。

「クワンパおまえな、だんだん可愛げが無くなってきたぞ」
「マキアリイ君、あれ本当に分からない。どうしてあんなに簡単に見破れるのさ」
「うーん、説明するまでもなく人と歩く道筋が違うから、というのでは説得力にならないですか?」
「分かんないなあ」

 

 とにもかくにも裁判は始まった。しかし、彩ルダム自身はこれには関わらない。
 地方裁判所での裁判であれば、通常は裁判官も検察官も法衛視が務めるのだが、今回は両方共に法衛監が当てられている。
 法衛監は地方裁判所では長官のみ1名で、下位の法律家である法衛視を率いて業務を処理している。
 司法の最高機関である「中央法院」となれば所属するのは法衛監ばかりで、法衛視は小間使い扱いとなるわけで、
この裁判、名目はともかく実質上は「中央法院・頂上法廷」での戦いに準じるわけだ。

 他方「闇御前」の弁護人側は、これまたタンガラム法曹界で名の通った大物法論士ばかり。元法衛監も名を連ねる。
 不可能な訴訟も確実完璧に逆転してみせると評判の法論士も居て、正直検察側は分が悪い。
 特に政治や軍事に絡んだ各種工作活動の違法性に関しては関係者の証言に頼る他無く、実証が困難と言わざるを得ない。
 その為の4人の証人であるのだ。

 ただ絶対に有利な点も存在する。
 ヱメコフ・マキアリイに対する21件の殺人教唆。これは既に暗殺者本人の有罪は確定している。
 および彼が「闇御前」の私邸である通称「享楽城」に乗り込んだ際に発見した女性の死体。彼女の殺害を教唆した罪に関しては、今回で確定する。
 まずはこの件で、検察側が先行する。

 国民的英雄として著名な刑事探偵ヱメコフ・マキアリイ氏が証言台に立つ。
 今回の裁判は特別に重大なものであるとして、法廷での発言はすべて磁気録音機で収録されている。
 傍聴人として選ばれた各界名士の前で、マキアリイは宣誓する。

「タンガラム民衆協和国の自由なる国民として、また社会正義に基いて自ら行動する矜持有る人間として、この法廷において真実のみを語り事実を明らかにする助けになる事を誓います」

 以下の質問と答えはこれまでに何十回となく喋らされた話ばかりだ。
 なにしろ殺人教唆であるから殺人を実行した犯人が居るわけで、裁判は優先して行われ既に有罪も確定している。
 身長3杖(210センチ)を越える凶悪な格闘者で、「闇御前」の傍近くに侍り暴力を以って仕えてきた。
 一種の殺人機械であり、命じられるままに「闇御前」に逆らう者を鏖殺して、恐怖で人を支配する役に立っている。
 特に女を殺すのに芸術的な技巧を有し、より醜く見苦しくあがくように苦痛を殊更に与え、また奇っ怪に人体を捻じ曲げて主人を喜ばしてきたわけだ。
 もちろん正義の英雄マキアリイは、「享楽城」庭園にて彼と戦うことを強制され、見事勝利しているのである。

 件の女性の死体は、勝利したマキアリイに対し「闇御前」が与えた褒美。その場に有ったどの財宝でも好きなものを一つ与える、により獲得した宝箱の中身であった。

 

         ***

 問題は、何故彼女は殺されたのか。
 主に中学生の美少女10数名の失踪と死亡、および違法な海外渡航より正確には人身売買が関係する。
 彼女の役職は、タンガラム国民の海外移住を支援する公益団体の会長だ。
 だが真の任務は「闇御前」の指示に基づき、国外において他の機関の活動の便宜を図るのを目的とする。

 つまりは公共の利益の為と称して悪事を行っていたのを、刑事探偵ヱメコフ・マキアリイに摘発され、その責を問われて惨殺された。
 全貌を明らかにするには、「闇御前」が行う様々な事業についての詳細な調査が必要である。
 場合によっては国家反逆罪に相当する行為も、その中から発見されるであろう。

 

 証言を終えたマキアリイはそのまま法廷に留まり、検察側に特別に席を与えられ、被告「闇御前」バハンモン・ジゥタロウと正対する事となる。
 裁判長の特別な許可を得て、記録係が法廷内の情景を撮影した。重大事件の場合報道関係に公表する慣例として広まっている。

 さてココからが本番。
 「闇御前」を告発する4人の証人が呼び込まれる。
 彼らは直接間接に「闇御前」の下で働いていた人物で、本人と顔を合わせた途端に態度を翻して証言を拒むかもしれない。
 いずれも秘密保持の為にその生命を狙われた、また家族にも累が及んで災難を受け、故に証言を決意した者達であるが、どう転ぶか分からない。
 それだけ強烈な影響力を「闇御前」は持っている。
 だからこその英雄マキアリイの同席である。
 光と闇の狭間に置かれて、証人は各々なにを選択するか。

「でも結局その4人の証人って、単なる囮だったんでしょ目眩ましの」
「まあなあ」
「あれだけ苦労して連れてきたのに馬鹿みたいじゃないですか私達」
「クワンパさんそれはね、仕方ないのよ。たしかにあの人達の証言は普通なら十分有効なんだけど、弁護側にもその存在は知られているから対策されてしまうの。
 存在を極力秘密にしていたんだけど、裁判所中央法院にだって連中の手先は忍び込んでいるからさ。筒抜けなのね」
「証言って、あらかじめ何を喋るか分かっていた。そういう事ですか」
「すべての情報をあちら側が握っているわけでしょ。こっちはほんの上っ面を撫でている程度にしか知らなくて、ダメね普通」

「そこで、隠し玉ですか」

 

 2人目の証人アフォイナ・ボルゴンが弁護側の反対尋問により嬲られた後に、彼は現れる。
 まったくに場違いな、裁判で正式に証言する際に慣例として着用される礼服ではなく、作業着姿の初老の男性である。髪もほとんど色が抜けて白髪も同然。
 裁判所の人間は彼に見覚えがあった。否、見ても認識はしなかっただろう。
 彼はベイスラ中央裁判所の清掃員に過ぎないのだから。

 裁判長に氏名と住所、職業を尋ねられ、宣誓を求められる。

「アゼファールド・ィヒです。職業は現在は当裁判所の清掃、」
「その男は死んでいるはずだ!」

 弁護側法論士が叫ぶ。彼が証人を知るはずは無かったが、裁判資料の片隅に記載されている。
 「闇御前」バハンモン・ジゥタロウが逮捕された直後に起きた、関係者が連続して事故死する事件の被害者名簿の内だ。
 検察の法衛監が答える。

「アゼフィールド・ィヒ氏は自宅で起きた爆発事件で瀕死の重傷を負い、容態が安定したところで当地ノゲ・ベイスラ市に移されて療養生活を送っていました。
 現在は体調を回復して当裁判所内にて清掃員として働いていますが、これは今回の証言を無事に行うための一種の保護措置であります」
「ですが人相が違うと、被告人が」
「安全の為に整形手術を行って正体を隠しておりました。証人がアゼフィールド・ィヒ氏本人であることは指紋・医療記録から確認されております」

 彼が彼である事を証明する為に、一時審理は中断する。

 

         ***

「でもどういう人なんですか。所長は知っていたんですかその人、アゼフィールド・ィヒさんですか」
「この件はマキアリイ君が居なければ成し得なかった、と言ってもいいわね。それだけ信用できる人間が法曹関係者の中にも居なかったのよ」
「なにせ国家機関が諜報員を差し向けてくるからな。まともな人間なら後先考えて転んでしまうところさ」
「バカだからねこの人」

 チュダルム彩ルダムの仕事とは、つまりはこの最終兵器とも呼べる証人の存在を徹底的に隠蔽し、最大の効果を発揮する場面で投入する事にあった。
 アゼフィールド・ィヒはこれまでに登場した証人とは異なり、「闇御前」本人の側近として働いていた人物だ。
 秘書は別に有能な者が居るのだが、彼は「闇御前」が外国使節と直接交渉する際に随伴し助言を与える。実際元はれっきとした外務省の役人であった。

 本来「闇御前」が司っている国外権益の獲得は、国家が全面的に管掌すべき事案だ。
 だが広大な海洋上で繰り広げられる争奪戦は既に武力を用いた戦争状態と呼ぶべき状況にまで発展し、建前上のまったくに平穏で友好的な国際情勢と乖離する。
 どの国も自らの国民に戦争を隠蔽したままに外交を行う為に、闇の権力者・秘密外交機関を生み出す事態となっていた。

 ィヒは政府から派遣され、「闇御前」が行う各種裏交渉・工作活動のすべてを認識し報告する連絡員でもある。
 彼自身も複雑に入り組んだ国外権益の重要性を理解し、結局は国家のためとなる必要悪として「闇御前」に従う。
 その意味では彼は普通の上級公務員であったのだ。

「ふつうのひと、なんですか」
「犯罪が、悪人によって行われるばかりではないさ。ごくまっとうな社会人が属する組織・社会の極めて正当な指揮命令系統に従って行動したら、それが犯罪だったという事例は多い」
「世の中綺麗事ばかりで成り立っていないからね。ある程度は目を瞑らなくてはいけない事もあるわ。カニ巫女には理解できないでしょうが」
「いえそれは、案外と。貧しさ故の不法行為に関しては彼らを善導する事こそカニ神殿の責務とされています」

「とにかく彼自身は自分を犯罪者とは見做しておらず、それ故に自分が犯罪に巻き込まれるなんて考えては居なかったんだ。
 俺が、「闇御前」を逮捕しちまうまではな」

 ィヒのみならず、多数居たはずの「知り過ぎた男」は、自らの危うい立場を認識する前に次々に殺されていった。
 ほぼすべてが事故、あるいは自殺として処理される。巡邏軍警察局にも政府の内々の指導がなされ、無難に決裁されていく。
 この件に関しては政府行政自身が、自らに火の粉が掛からぬように早手回しで動いたと言えよう。
 必ずしも、「闇御前」の組織が主人の身を守るために働いたわけではない。

 司法ですら例外ではなかった。
 司法機関も上層部になるほどに、国家の政治に深入りする。
 国家百年先の大局を踏まえ、単純な正義を貫く事によりそれが侵害されるとすれば、修正を行うにやぶさかではない。
 あくまでも彼らに許された範囲においてのみ正義は追求され、国家と国民の存続こそが優先される。

「ダメじゃないですか」
「ダメだよ。でもダメでない馬鹿みたいに正義を貫く人間も居るのさ。ウチの父様みたいなバカがさ」
「チュダルムのお父様というのは、何をなさっている方なんです」
「頂上法廷の裁判官の一人で、「護法統監」という役職にあるよ。簡単に言うと武力で司法権を守る兵隊の将軍さ」
「ははあ、そりゃー、いかにもな」

 つまりは偉い人の中にも、マキアリイのように頭の堅いネジ曲がった根性のヒトが居るわけだ。
 その娘であるから、なるほど嫁の貰い手は無かろうさ。

 

         *** 

 アゼフィールド・ィヒの抹殺計画は、非道を通り越して虐殺であった。
 その日、彼の家では一族を集めての伝統的な行事があった。タンガラム民衆の間では普通に行われる、親族が集まって先祖の徳を偲ぶ供養の会だ。
 名目はともかく、大人たちは酒を飲み大いに騒ぎ、子供たちはご馳走を食べて遊ぶ楽しい集いである。

 一族13人が宴会を行っている最中に、ガス爆発が起きた。消防署の現場検証ではそう結論付けられている。
 だが爆発力の桁が違う。家庭用ガスの漏れによる爆発事故では家屋の骨組みまで一瞬で破壊される事はない。
 アゼフィールド家はいきなりすべてが消滅した。12人が即死、人体もばらばらにちぎれ飛び、何人居たか判別できないほどだ。

 何故その家の主人であるィヒ本人が生き残ったのか、まったく分からない。
 家屋の構造のお陰で爆風を直接浴びなかった為か、五体いずれも損なわれなかったのは奇跡としか言いようが無い。
 それでも瀕死の重体となり、救急車で病院に到着した時点では心臓も停まっていたという。
 奇跡的に意識を取り戻したのは、実に1ヶ月後。

 既に首都警察局も、「闇御前」事件全般を管理する中央法政監察局も彼の重要性を十分に認識し、ひそかに安全確保の方策を巡らせていた。
 担当は、「護法統監」チュダルムの実子である法衛視チュダルム彩ルダム。
 「闇御前」にも政府にも軍部の介入にも怯まずに彼を守り、裁判で証言させる説得を行う任に耐える者が他に見出だせなかったのだ。
 その彼女にしても、首都ルルント・タンガラムにおいて安全を確保し続けるのは無理と判断する。
 チュダルム家の本拠地は首都の隣のカプタニア県であるが、いかにも近すぎて介入を防ぐ事は出来ない。

 幸いにして彼女には、従弟ソグヴィタル・ヒィキタイタンを通じて、国家英雄として讃えられる刑事探偵ヱメコフ・マキアリイと親交があった。
 国家的難事件を幾つも解決し、「闇御前」事件においても中心的な役割を果たした彼を抜きに物事を進めるのは、むしろ不自然だ。
 やるのだったら地獄の淵までもずっぽりと付き合いなさいよ、と計画に巻き込んだ。 

 未だ重体のィヒをアユ・サユル湖を渡ってベイスラに運び、医療体制を整える。

「ここで、ウゴータ先生にも手伝ってもらったわけだよ」
「ああ、偽病院てそんなことまでしてたのですか。じゃああそこに隠れていた」
「それはもう少し元気になった後だ。
 偽病院の患者の一人が重態になったとして、身分を偽りソグヴィタル大学病院に送り込んでなんとかね」

 当然に、首都の病院ではアゼフィールド・ィヒなる人物は治療の甲斐なく亡くなったと公式に発表している。

 

「元気になったところで裁判所内に清掃員として働く事で保護して、裁判の機会が訪れるのを待っていたわけですか」
「偽の家族も作ってね。彼には現在、妻と娘の役をする人が居て一緒に暮らしているのよ。まったくに普通の一般人として」
「司法当局の工作員てことですか」
「それが使えればね、マキアリイ君に頼むこと無かったのよ」
「重態になった人間に家族が付き添わないのは不自然だろ。病院に居た時分から家族役を送り込んでおいたんだ。
 俺個人のツテで、信頼の出来る人物にお願いした。
 なんというかー、俺が解決した事件の恩を着せて無理やりお頼みした、という感じがしないでもないが」
「似たような公権力の横暴で被害を受けた人をマキアリイ君助けたから、その人達も快く引き受けてくれたのよ」

 そして遂に、復讐の時は来た。

 

         ***

 事務所の電話が鈴と鳴る。
 仕事もしないで無駄話に耽っていた3人は互いに顔を見合わせ、クワンパに応対を促す。電話番は事務員殿のお仕事。

「はい、ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所です。はい、はいはい、はい。居られます。はいお嬢様をですね、」

 彩ルダムの顔を見て、受話器を差し出す。

「お父様が、遊んでないでさっさと帰ってこい、だそうです」
「ちちち、バレたか。でもなんでココって分かったのかな」

 それは間違いなくバレる。事務所下の道路で高速自動車の番をしている警察局の護衛は、定時連絡をする決まり。
 受話器を受け取った彩ルダムは、傍からでも漏れ聞こえる怒声にぺこぺこと平身低頭して恐る恐るに電話を切った。

「ということさ。せっかくだからマキアリイ君と飲みに行こうと思ったけどこれまでだ」
「いやーざんねんだなーそれでは次の機会にという事で」
「うん、やっぱ首都でないと時間取れないよ。ヒィキタイタンと3人で飲むかね」

 致し方なく撤退する彼女は、入り口のガラス扉で立ち止まり、振り返る。

「じゃ次は、首都での事件で。どうせあなたの事だからすぐに新しい事件に出食わすでしょ」
「またその時はお世話を掛けます」
「うん楽しみに待ってるよー」

 

 窓から首を伸ばして下の真紅の自動車に乗り込む彩ルダムを見送り、クワンパは所長に尋ねる。

「また次の大きな事件って、ありますかね」
「世の中平穏無事が一番なんだが、心当たりが無いわけでもない」
「なんですかそれ」
「今年の夏は選挙だろ、国政総選挙」
「あー。あーそれは、忙しそうですね。言われてみれば「闇御前」が捕まってから初めての国政選挙ですか。それはー」
「やっぱり忙しそうだよな、俺」

 怠惰に革の長椅子に寝そべり、雑誌を顔に乗せて昼寝を決め込むマキアリイだ。
 昨日の今日で予定も無いから、クワンパも尻を叩くのはやめておく。
 というよりは、昨日の今日でまだ何か騒動が起きる可能性が無いでもない。待機、も立派なお仕事だ。

 事務員席で本来の業務を再開したクワンパは、口だけで所長に尋ねる。

「その隠し玉のィヒさんですか。また死んだんですよね」
「ああ、面倒だからまた死んでもらった。今度は俺関係ないけどな」

 

         ***

 証人アゼフィールド・ィヒによる衝撃的な事実の暴露。次から次に語られる国家に対する背信反逆の数々に、法廷は凍りついた。
 もはや単純な殺人教唆での裁判は不可能で、ベイスラ中央裁判所は本件審理を拒絶。中央法政監察局に改めて国家反逆罪による立件を勧告する。

 この裁判の傍聴人はベイスラ地方政府が定めた条件を満たす市民有権者であり、相応の社会的身分を持った名士に限られる。
 それでも希望者が殺到して20倍の確率で抽選されたのだが、中には大学教授や政治評論家等の報道機関と密接な関係を持つ人も含まれる。
 彼らは裁判中止が確定した時点で法廷を退出して、裁判所外に待ち構える報道各社の取材記者に見聞きした事実をそのままに伝えた。
 圧倒的衝撃の内容にひたすら聞き入り、手帳に筆鉛筆を走らせ細大漏らさず書き記す。
 有線放送実況中継の天幕では、その場の喧騒を背景として放送弁士がほとんど絶叫調に全国の聴取者に状況を説明する。 

 そして今回の主役であるアゼフィールド・ィヒが裁判所入り口から姿を現す。
 頭巾を被り顔を半分隠してよく見えないのだが、誰か傍聴人の一人が「あの人だ」と叫んだ為に取材記者の暴走が始まる。
 もはや規制も何も無くたちまち人垣を作り、怒るような責める口調で質問を次々に浴びせ掛ける。
 彼の代弁者となったのが、ヱメコフ・マキアリイだ。

「あー皆さん。今回重要な証言をしてバハンモン・ジゥタロウを頂上法廷に送り込んだ功労者のアゼフィールド・ィヒ氏をご紹介します。
 ですが多大な緊張の上に、暗殺未遂事件で負った後遺症により全身の体調がよくありません。
 正式な記者会見は後日行いますが、本日の質問は私が代わって引き受け回答します」

 だがわずか数分で終了に追い込まれる。
 国家反逆罪での裁判を開くに当たりィヒに対しての事情聴取が必要となり、首都警察局また中央法院、国会で特別に編成される議員団による尋問が続くだろう。
 身柄を確保する為に首都警察局より派遣された特別捜査専従班が裁判所前に姿を見せる。
 護送する装甲自動車も用意していた。

 彼らとの交渉はマキアリイの任ではない。証人の安全を守り続けてきたチュダルム彩ルダム法衛視が飛び出して、前に立ち塞がる。
 だが既に大きく事情が変わった現在、彼女が抗し得る権限はもはや失われていた。
 強引と思われるほどに取材記者達を退けて、ィヒを犯罪者ばりに拘引する。マキアリイが抵抗の形を見せるが、彩ルダムに引き止められた。
 装甲自動車に押し込まれて、何処へやら連行される。

 と思った瞬間。裁判所から離れ装甲自動車が速度を上げた途端に、いきなり排気管から火を噴いた。
 何がと思う間もなく自動車は焔に包まれる。そして爆発。
 車体が吹き飛ぶほどの威力は無いが、中の人が無事ではないと覚悟を強いられる。
 果たして運転していた捜査官が飛び出し、地面に転げ回って服に着いた焔を必死で消そうとする。

 証人は、アゼフィールド・ィヒはどうなった?
 駆け出すヱメコフ・マキアリイの目の前で、再びの焔の拡大。爆発。
 燃える焔に包まれた人の形がふらりと歩み出て、助けを求めるかに片腕を伸ばす。
 操り人形の糸が切れたかにぱたりと倒れた。

 待機していた消防自動車がわずかに唸りを上げて始動し、消防士が長く放水管を伸ばして焔に挑む。
 間もなく救急車もやって来て、俯せのィヒを担架に載せ運び去っていった。

 周囲で見ていた何人が気付いただろう。
 地面に倒れるその刹那、ィヒの背がひゅっと伸びたのを。

 

         ***

「それも狂言ですね。証人の今後の安全を図るための」
「実はな、俺達が描いた脚本通りに進展したんだがな、俺達が用意して仕込みを入れておいた自動車はアレじゃないんだ」
「え?」

「中身のィヒさんもな、伸び縮みさんに替え玉を頼んだんだが、何処の病院に連れて行かれたか分からないんだ」
「それ、それって誘拐、ですか」
「どうしようかな。探しに行かなくちゃいけないんだが、手がかり全く無しだ。どうしよう」

 どうしようじゃなく、大問題じゃないか。事務所なんかで寝転がっておらずに探しに行けよ。
 だがまるで動こうとしない所長に、クワンパはこれはカニ巫女棒の出番だな、と入り口脇の傘立てに目をやった。

 電話が鳴る。間髪を入れずに受話器を取り、応答する。

「はいヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所です」
「ヱメコフ・マキアリイを出せ」

 男、若くはない、少し怒気を含んだ声で脅しに掛かっている。ヤクザかも。知らない人だ。
 クワンパもいいかげんこの手の電話への対応には慣れてしまった。

「それではお名前とご用件を伺います。どのような、」
「いいから出せと言っているだろが」
「ご用件を伺わないコトにはお取り次ぎ出来かねます。どうぞ」

「……、伸び縮みする気色の悪い男を預かっている。これで通じるか?」

 所長に受話器を突き出した。

「お待ちかねの電話です!」

 そういう事だったのか。拉致誘拐した人物が目的の証人で無かったとすれば、どこか別の場所に匿われているに違いない。
 様々な役所が絡んで探るのも困難だが、アゼフィールド・ィヒの代理人を努めていたヱメコフ・マキアリイが一枚噛んでいるのは確かだ。
 であれば、交渉に連絡を入れてくるはず。

「はいお電話代わりました。(伸び縮み)キャルファーさんは生きているだろうね」
「まったく、曲芸師を替え玉に仕込んでおくとは念が入ってるぜ。装甲自動車の床に穴が有るから、本物を下水道に脱出させる手品と勘違いした」
「お楽しみ頂き光栄の至り。で、どこに行けばいい」

 嬉しげにすら見える表情でマキアリイは悪との交渉を行っている。人質の生命など意に介する様子が無い。
 必要が無いのだろう。
 勘違いして拉致したのは、証人に用が有ったからに他ならず、生きていなければ意味の無い仕事なのだ。
 そうでなければ昨日、爆破抹殺している。
 おそらくは、どこまでの情報を司法当局に漏らしたか確認したいのだ。それだけ広範な情報をィヒは把握している。

 公的な捜査機関が対象であればまた変わるが、なにせ相手は庶民の英雄正義の味方。人情派としても通っている。
 哀れな伸び縮みさんは生きていてこそ交渉にも脅迫にも使えるはず。
 多少は痛めつけられているかもしれないが。

 マキアリイは受話器を置いて、小さな紙片にちょこちょこと用件を書いていく。
 これから行う伸び縮みキャルファーさん救出劇を、巡邏軍他関係各所に伝えるものだ。
 クワンパは命じられるままに電話を繋いで、連絡を付けていく。

 さて次は。

「というわけで俺は出掛けるが、どうする」
「付いて行くに決まってるじゃないですか。留守番なんて嫌ですよ」

 既にクワンパ、手にはカニ巫女棒を持ち、応急医療道具を詰めた布鞄を肩に担いでいる。出撃準備完了。
 まあカニ巫女だから付いて来るよな、と特に反対もせずにマキアリイは事務所の扉に鍵を掛けた。
 昨日は留守番をさせたから不満も溜まっているのだろう。

 暗い混凝石の階段を下りて通りに出ると、小太り髭の餅マッチリさんが不安な表情で出迎えた。
 マキアリイの姿を見てほっと息を吐き、尋ねる。

「キャルファーを助けに行かれるのでしょうか、マキアリイさま」
「うん、付いて来るかい」
「そ、それはもちろん。長年の相棒を拐われたとなればたとえ火の中水の中。ましてや天下の英雄探偵様がお救いくださるのであれば何を恐れる事がございましょう。
 ですが、お嬢さんもですか」
「カニ巫女だから、悪は許しておけないんだとさ」

 ぽん、と小太り頭の上で金色の扇を広げる。なんとお見事なお覚悟。

「では参りましょう。この餅マッチリ一世一代の大冒険にございます」

 

 

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