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「我が友に捧ぐ 

 いずれ同じ所に行かんとする僕が、君を愛する人達の為に残す最後の思い出をここに綴る」

―ソグヴィタル・ヒィキタイタン―

 

 この物語はタンガラム民衆協和国52代総統臣領ソグヴィタル・ヒィキタイタン翁の回顧録
『今一度あの日を語ろう』に基づいて構成された創作物である。

 登場する人物、企業、集団、政党、宗教団体他は架空のものであり、必ずしも元となった存在を正しく描いているわけではない。
 劇中で語られる犯罪事案に関しても、個人情報保護の観点から当事者の姓名他を改変し、また大幅に脚色されている事を理解していただきたい。

 それでもなお、「英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ」の真実に最も近い描写が為されていると自負するものである。

 

 

『罰市偵』

(第一話)

 この物語は創始歴6215年春3月、ノゲ・ベイスラ市中にて刑事探偵事務所を開いていたヱメコフ・マキアリイが
夕呑螯神殿巫女見習い「クワンパ」を事務員として受け入れた日に始まる。

 17歳の彼女は新調した紺色の事務服に身を包み、カニ巫女の緋と白の飾り紐を巻きつけた長大な棒を堂々と持参して扉を叩く。

 

 「クワンパ」は本名をメィミタ・カリュォートといい、ノゲ・ベイスラの一般的な俸給人の娘である。むしろ裕福であったとも伝わる。
 恵まれた生まれの彼女が何故カニ巫女の過酷な運命に身を投じたかはおいおい説明するとして、
留意すべきは彼女がマキアリイ刑事探偵事務所が受け入れた4人目の巫女見習いである点だ。

 カニ巫女となる修行は厳しい。最初の2年間で半数が脱落する。
 初修の段階を終えた彼女らには、1年半の期間一般社会において自ら稼ぎ生活する事を求められた。

 正式にカニ巫女となった暁には、正義の為貧しい民衆の為に棒を奮い悪を懲らしめる危険な任務が待っている。
 だが救うべき社会とは、正義とはなにかを知るには、やはり世俗に塗れ自らの身体で覚えるしかない。

 救世を志す彼女らは意気揚々とこの試練に臨む。罠であるとも知らずに。

 十代の年若い娘が神殿で共同生活をし厳しい戒律の中で修行する間は、志が折れる事は無い。
 だが俗世間に出て巷の誘惑に包まれる中、自らを律し続けるのは至難の業だ。
 また恋愛と呼ばれる魔が襲う。
 信仰と志を覆すに余り有る動機を獲得する。

 つまりはこの1年半において、カニ巫女見習いは普通の女に戻ってしまう。それが目的だ。
 人としての喜びを捨てて信仰に生きるには、一時の熱狂、若気の至りでは覚束ない。
 苦悩を経て、この他に生きる道は無いと思い定めた者のみが神殿の門をくぐるべきであろう。

 というわけで、カニ巫女見習いクワンパは新たなる戦場を訪れた。

 

「マキアリイ私立刑事探偵事務所    責任者: 所長ヱメコフ・マキアリイ」

 木製の薄い扉の波ガラスに金色で記された事務所の名、責任者の名を右手の指でなぞってみる。
 感慨が胸一杯に沸き上がってきた。

 その名を始めて耳にしたのは10年前、まだ小学生だった頃だ。

 当時19歳のソグヴィタル・ヒィキタイタンと18歳ヱメコフ・マキアリイ。
 選抜徴兵で南海イローエント港での訓練に明け暮れていた2人の若者は、国家の重大事に遭遇した。

 後に「潜水艦事件」と呼ばれる、ゥアム帝国の外交官令嬢が誘拐され、身代金代わりに最新鋭潜水艦の技術情報を奪取しようと試みた国際的謀略だ。
 裏にはさらに巨大な陰謀が隠されており、対処を誤ればタンガラムの国家的威信が地に落ち、極めて不利な国際条約を結ばされる所であった。

 二人は令嬢誘拐に一早く気付き、これを阻止。奪い返さんとする悪漢共を千切っては投げる大活躍。
 陸に、海に、空にと最新兵器を縦横に駆る立体的な冒険を経て、ついに真の黒幕を暴き解決に導いたのである。
 若き英雄は一躍時の人となり、新聞雑誌は彼らの特集で紙面を埋め尽くし、放送演劇や映画まで作られる熱狂ぶり。

 特に名家の生まれで背が高く美男子なヒィキタイタンは女性の人気を独り占めとし、まるで映画俳優や大物芸能人並に持て囃された。
 その余勢を駆って、25歳となり被選挙権を得た彼は国会議員に立候補。見事に当選。
 若手議員の頭領となって、今や政界を揺るがす新星と讃えられている。

 一方ヱメコフ・マキアリイは。

「ぐびっ、」
 クワンパはツバを飲み込んだ。

 ヒィキタイタンほど背は高くないが球技シュユパンの選手として鍛え抜かれた肉体と技を用いて、マキアリイは主に物理的暴力に対抗した。
 豪速球を投げ込む強靭な肩は驚くほどの遠くにまで手榴弾を放り、敵の陰謀を打ち砕く。
 顔はあまりかっこよくはないが、それ故に軍人としての模範とされ、国家が望む若者像と高く評された。

 つまりは軽佻浮薄な女子の人気をヒィキタイタンが独占し、玄人好みの男性はマキアリイを大いに賞賛したわけだ。
 当時小学生であったクワンパは、学級の女子皆が騒ぐ派手なヒィキタイタンよりも、渋いマキアリイ派であった。
 男子は全員マキアリイ派で、にわかにシュユバンの練習を始める者が多数出たと記憶する。

 兵役を終えたマキアリイは、世間が望む通りに国家に仕える道を選び、警察局に奉職。
 だが英雄の虚名が災いして長くは勤める事が出来ず、やむなく退職して自ら刑事探偵事務所を開く。

 と、カニ神殿では聞かされた。

 幼き日の英雄が、ガラス戸の向こうに居る……。
 いや今も正義を愛し貧しき人弱き庶民を助ける為に自らを粉として戦っている、本物の英雄が居る。

 クワンパは緊張した。せぬわけが無い。

 どのような人物であろうか。
 既に3人のカニ巫女見習いを受け入れて、正義を行う助けとした。狭量な人ではあるまい。
 様々に読んだ記事や演劇でも、ものに動じぬ大らかな性格とされていた。

 恐れるべきはむしろ、クワンパ本人の器。
 自分は英雄の目に適うか?

 躊躇はしたが迷いはしない。思い切って扉を開き事務所に入る。

 

       ***

 せまい。想像の3分の1の広さだ。
 英雄が使う正義の拠点として過大に考えてしまった。個人の刑事探偵事務所であればこれが標準と、後に知る事となる。

 木製の事務机が1台、応接の長椅子が2脚1組。窓辺の明るい場所がまた机となって、後は書棚。事件資料であろうか数十冊が無造作に並んでいる。
 そして眼鏡の女。クワンパの2、3歳年長で、臙脂色の事務服を着ている。

「あの、ヱメコフ・マキアリイ氏は、」
「所長! カニ巫女来ました」

 そっけなく、あるいは冷たくと表現した方が良いだろう、眼鏡女はそれだけを叫ぶと事務机から離れ、終い支度を始めた。
 クワンパは尋ねた。貴女はこちらの事務員ですか。

「臨時のね、カニ巫女がさっさと辞めたから次が来るまでの。あなたは「クワンパ」さんね」
「はい、あ」
「あなた、簿記は出来るの?」
「多少は、」

 女は鼻で笑った。美人だけれど冷たい奴だ。マキアリイ氏とどのような関係だろう。

「カニ巫女の多少、ね」

 カニ神殿では神官巫女に簿記会計の学習も施す。
 カニ神殿の本来業務は「十二神殿の監査」であり、もちろん経理の不正や無駄も検査する。
 巷の悪を懲らしめるにしても常にカネの問題がつきまとう。無視してよいものではない。

 が、棒術で人を殴る稽古よりも熱心に経理の勉強をする者は居ない。数字や記録を司るのは蜘蛛巫女の仕業だ。
 眼鏡女が冷淡なのも、クワンパの前3人の巫女の能力を見ての感想であろう。

「あらかたの処理はもう終わってるから、後は適当に眺めてお金の流れを把握しておいて。どうせ貧乏事務所だからすぐ分かるわ。
 あと、貴女の給金は週4ティカです。これまで3人の巫女見習いも全員その金額でしたから、嫌とは言いませんね?」
「はい」

 給金が安いのは神殿でも言い含められている。
 本来厄介なカニ巫女見習いを受け入れてくれるのだ、無茶は言えない。
 3人の先輩が不平を言わなかったものを、末席のクワンパが主張できるはずも無い。

 眼鏡女は私物を詰めた布鞄を肩に掛け、帽子をかぶってハイサヨナラと、出て行ってしまった。
 まるで牢獄から解放されたかの未練の無さで。
 クワンパは未だガラス扉の入り口に立ち尽くす。仕事に取り掛かる前に、まずマキアリイ氏に会わなくては。
 だが未だ姿を現さない。

 傘立てに3杖(2.1メートル)カニ巫女の棒を立てて、呼んでみる。

「あのー、ヱメコフさん。ヱメコフ・マキアリイさん」
「……おう居るぞそんなに呼ばなくても」

 書棚の脇の藤を編んだ衝立の陰から男性の声がする。
 本物だ!
 放送でも報道映画でも幾度も聞いた声そのものだ。
 これが本物の英雄……。

 衝立の裏からふらりと現れた男性はよれよれであった。
 背は高い。クワンパより頭ひとつ分は高い。がっちりした鍛え抜かれた筋肉も、間違いはない。
 ただ、

「……何故、いえ悪にやられたのですか!」

 全身傷だらけ、頭には包帯を巻き手指にもぐるぐると。
 上半身は裸で上着を引っ掛けただけだが、肋骨にも損傷が有るようだ。
 明らかに暴力の痕跡。さすがは現役の正義の味方。

 バツが悪いのか、マキアリイは顔をひきつらせて笑って見せた。顔面にも打撲痕があり、喋るのも痛そうだ。

「練習でぶつけただけで、大丈夫だ。仕事ではこんなまともには受けないから」
「練習? ……あ、シュユパンですか。」

 英雄マキアリイは球技シュユパンの名手として知られる。
 白い球を棍棒で打ち、周回路を走り回って点を入れていく人気の競技で、職業選手であれば1年で屋敷が建つほどの大金を稼ぎ出す。
 たしか彼は兵役を終えた頃に、有力競技団から盛んに勧誘を受けたはずだ。
 大枚の契約金を断り警察局に入って正義の為に戦うと宣言した姿を、クワンパは今も覚えている。

 そうか、表立って試合をしてはいなくとも、今も練習に余念が無いわけだ。
 さすがは英雄、と褒めると、即座に否定された。

「シュユパンじゃない、あんな柔らかい球で怪我をするものか」
「じゃあなんで、」
「ヤキュだよ。シュユパンの元になった球技だ」
「YA-KYU? なんですかそれ」
「星の世界の言葉で、”野””球”という意味だ。広い野っ原で球を弾いて戦う。
 シュユパンはヤキュがあまりにも乱暴で危険だったから、安全に遊戯性を高めて改良されたものさ」
「はあ、」

 軽く見積もっても全治1ヶ月の重症だ。
 ただの練習でここまで痛めつけられるとは、どんな恐ろしい殺人競技なのか。
 それより、こんなに傷んでは正義の為に戦えないのでは。

 マキアリイはようやく足を運んで応接用の長椅子に座り込む。安物ではあるが一応革張り、探偵事務所には必須の備品。
 クワンパも勧められたが、分を弁えて先ほどまで眼鏡女が座っていた事務椅子を引いてきた。
 一応は今日から自分は従業員だ。

 

       ***

「カニ神殿から聞いている。シャヤユートの後任のクワンパ、だな。シャヤユートはどうなった?」
「はい、師姉は懲罰房に入れられて写経の毎日です。尊敬しています!」
「あ、そう」

 カニ巫女見習い「シャヤユート」はクワンパの1期前に修行に入った先輩だ。わずかの期間ではあったが直接に面倒を見てもらった事もある。 
 尊敬すべき師姉が、英雄として名高いマキアリイ氏の下で正義の為に働くと聞いて、後輩達は胸をときめかせたものだ。
 1年半の世間修行のはずが、わずか9ヶ月で神殿に戻され正式に巫女として昇格したのも、目覚ましい働きが認められたからだろう。

 だが正義を行うと必ず反動がある。
 弱者の為、虐げられし者を救う為に棒を奮えば、時として法を犯す事にもなりかねない。
 シャヤユートはかろうじて刑事訴追は免れたものの、神殿において懲罰を食らう身となった。
 これこそがまさに英雄の証。
 クワンパも彼女に続かんと、法を破るのもやぶさかではない覚悟だ。

 マキアリイは痛む頬をさすりながら、クワンパに忠告する。それはやめろ。

「あの時はだ、シャヤユートはそこまでする必要無かったんだ。既に事件は片付き犯人も捕縛され、巡邏軍に引き渡すだけだった。
 でかい事件だったから被害者も多いのだが、巫女が被害者に成り代わり復讐するなんて掟は無いだろ、カニ神殿にも」
「はあ。たしかに復讐の手伝いはしますが、自ら引き受けるなんて教義は教わってません」
「だろ。馬鹿なんだよあいつは」

 尊敬する師姉を侮辱されたようで、クワンパは少しむくれた。
 そこまで言うなら止めてくれればいいものを。

 そうではない、尋ねるべきは別の事だ。クワンパ自身の今後について知らねばならない。

「あの、今はどのような悪を裁いているのでしょうか。やはり殺人ですか、それとも社会を腐らせる巨大な陰謀を、」
「                。」

 英雄は哀しげな瞳をした。
 カニ巫女見習いは皆同じことを尋ねる。マキアリイは同じ答えを語り、彼女らが悲嘆に暮れ絶望するのを見届けねばならなかった。

「刑事探偵事務所、ってものに幻想を抱いている。んだな、いつものとおりに」
「悪を懲らしめるんでしょ、一般庶民の味方となって。違いますか」
「ぜんぜん違う。

 刑事探偵てのは刑事事件の裁判で弁護活動をする法論士に従い、事件の調書の裏付けを独自に行なったり、弁護側証人を見つけてきたりするのが役目だ。
 悪を懲らしめたりとっ捕まえるのは、巡羅軍だったり警察局の役目。刑事探偵は何の権限も持っていない」
「またまた、ごじょうだんを」

 それで留まるならシャヤユート姉が懲罰を食らうはずが無い。
 現にマキアリイはこの事件で大きく新聞に取り上げられ、英雄探偵意気盛ンナリと証明したばかりである。
 指摘すると、

「驚くなよ、あの事件で俺が得た報酬は、1ティカだ」
「え?」
「国定の刑事探偵依頼料最低額1日分、これだけだ。必要経費すら入ってない」

「そんなバカな、だってあの事件は資産家一族の跡目相続を巡って10日にも渡る惨劇が続いたって、」
「それでも依頼は1日分1回きり。後は俺の持ち出しだ。
 全部あの馬鹿巫女のせい、というのを心に深く刻んでおいてくれ。ぜったい真似するなよ」

 1ティカとは、一般的肉体労働者の1日分の日当と法律で決められている。(おおむね5千円に相当)
 専門職である刑事探偵を雇うには少な過ぎる代金だ。
 法論士を自ら雇う経済的余力の無い低所得者を救済する為に国選弁護人が定められ、その下で働く場合の刑事探偵報酬である。
 正直、正義の味方でもなければこんな金額ではやってられない。

「で、でもそれじゃあ、事務所の経費は、」
「ぜんぜん出ない」
「先程の、眼鏡の事務員の方は、」
「アレはな、本業は”借金取り”だ。ウチにツケの掛け取りに来て、あまりにも悲惨であるから事務処理を手伝ってくれてたんだ。もちろん無給で」

「じゃあ、私の給金週4ティカは、」
「どこから出そうかと苦慮している。今はこんな有り様だしな」

 ズタボロになった両手の指を幽霊のようにぶら下げて示してみせる。
 クワンパは暗澹たる気持ちになった。

 そもそもが、英雄が金持ちであるとは考えていなかったが、解決した事件にふさわしい報酬はもらっているはず。
 庶民の為に活躍するにも必要経費は発生するはずで、
普通に考えれば……。 

 

       ***

「あ、でもカニ神殿から巫女見習いを受け入れてくれた謝礼が有ると聞いていますが、」
「見るかい」

 マキアリイは傷ついた腕を伸ばして事務机の上の、手が届かなかったから代わりにクワンパが濃茶色の資料綴を取った。
 表紙を見ると、「巫女シャヤユート破損報告表」と書いてある。
 開いて読むと、

「……なんですか、コレ」
「シャヤユートが毎日ぶっ壊して回り弁償しなければならなかった件の損害報告書さ。半分はカニ神殿が負担する」
「でも、これだと、週に平均15ティカは損害が出ていたとあるんですが、ほんとに?」
「給金週4ティカに加えて損害賠償7ティカを俺が負担だ。どこから何が出る?」

 師姉が早々に神殿に戻された理由が判明した。なるほど、9ヶ月で帰ってくるはずだ。
 いやむしろ、マキアリイは9ヶ月もよく辛抱したものだ。さすがは英雄探偵。

「ついでに言うと、シャヤユートは金遣いが荒く、困っている人を見捨ててはおけない性分だからな、週4ティカではまるで足りないと毎日不平を言っていた。
 だがゼッタイに上げないからな。絶対にだ」
「損害賠償分を給金で補填すればよかったのではないですか?」
「飯が食えないだろ。あいつは俺に飯までタカるんだ、人のゲルタまで取り上げて食ってしまう鬼巫女だった。」(ゲルタとは干し魚のこと)

 思わずクワンパは頭を下げる。師姉に代わって土下座したくなった。

 シャヤユート姉は美人で凛々しく、正義を重んじ信仰に篤く、誰よりも悪を憎み虐げられる庶民を救わんとする志の高い人だ。
 世間の荒波に揉まれても怯むこと無く志を貫いた。
 その代償はすべて、雇用主であるマキアリイが負担していたのか。
 クワンパは師姉の分まで彼に尽くさねばと心に誓う。

「だがな、シャヤユートはまだ可愛いもんだった。前二人のケバルナヤとザィリナなんか、もっと。」
「まさか、ケバルナヤ神姉は今やベイスラ県のカニ巫女で最も優れると讃えられている人で、ザィリナ姉は私達の指導教官ですよ」
「二人の破損報告書、読むか?」

 マキアリイの視線の先の書棚に、濃茶色の背表紙の資料綴が20冊ほども並んでいる。
 クワンパの背筋に戦慄が走った。

 優れた巫女とは、一時たりとも奉仕を滞らせる事が無い者なのか。
 正義の為に働くのに何物にも躊躇せず、己の信じるままに緋白の棒を叩きつける。
 その偉業が並ぶ資料綴として証される。
 シャヤユート姉もこれを見て、覚悟を決めたのだろう。

 感動に打ち震えるクワンパに、マキアリイは長椅子に寝そべりながら言った。

「俺は寝る。絶対安静の面会謝絶だ。おまえは夕方になったら勝手に帰っていい。電話は要件だけ聞いて後で俺が返事するって。

 住処は神殿の寮を出て実家に戻ったと聞いているが、」
「はい。実家から通う事になります」
「それは良かった家賃の心配も飯もだいじょうぶだな。シャヤユートの奴は俺の家に泊まろうとしやがったからな……」

 

 そのままマキアリイは寝付いてしまった。
 クワンパは立ち上がり、英雄の顔を改めて拝見する。
 殴られた頬が痛々しい。
 巻かれた包帯の下から覗く髪は薄い茶色、あまり上等なものは食べていないと思われる。

(タンガラムの人間は食べたもの、タンパク質の違いで髪色が変わる。高所得者は肉を食べる事が多いので赤みがかった髪となる。
 ちなみにクワンパもカニ神殿の質素な食事で立派に茶色になっている)

 これが英雄の顔? 緊張感や威厳、無数の死線を潜った深味などは見受けられない。
 だが毎日を決まり切った時間割で生きる勤め人でも、銭勘定に明け暮れる商売人とも違う。捜査官や軍人ともまるでかけ離れる。
 神官が備える独特の押し付けがましさも無い。
 カニ神殿に仕えていればヤクザやチンピラなどを見る機会も多いが、似ていない。

 なんだこの人は。

 試しに殴ってみようか。
 武術の達人であれば眠っていても全身が目となっており、襲撃者に的確に対処できると聞く。
 カニ巫女の棒を使うのがよいだろう。アレなら人間の頭蓋骨でもぱかんと西瓜のように割ることが出来る。

 だが止めた。怪我人が寝ている時に叩くのは、いくらなんでも善行とは呼べまい。

 仕方なしに、クワンパは帳簿を調べ始めた。
 借金取りの眼鏡女はカニ巫女の経理能力をバカにしたが、正直まったく自信が無い。
 書き方計算の仕方は知ってはいても、本物の経済の重みを知らないからだ。
 ただ、読む分にはなんとかなる。今月、先月、先々月と遡って「マキアリイ刑事探偵事務所」の経理を調べてみた。

 深く反省する。
 シャヤユート姉が最後の事件を起こしてカニ神殿に収容された後、事務所の収支は一気に健全化を見せていた。 
 通常裁判業務の取り扱い数が増えて、順当に仕事料が入ってくる。
 必要経費も過大に膨らまず常識的な範疇に留まり、普通に支払いをしてもらっていた。

 客観的冷静にえこひいき無しに分析するに、シャヤユート姉は邪魔者以外の何物でも無かった、と判断せざるを得ない。
 同時に、マキアリイの超人性を改めて理解する。

 シャヤユートが事務所で働いていた9ヶ月の間、新聞等で大きく報道された事件は5件。
 いずれも怪事件の名を冠するにふさわしい難度の謎を解明している。
 加えて、単純な一般犯罪を最低でも月1件解決。

 これらがほとんど無給の案件であったとしたら、どのような修羅場が事務所で展開されていたのであろうか。

 

       ***

 夕刻定時になった。先ほどの言に従えば退社してよい時間。
 そもそもクワンパはまだ働いてすらいない。
 残業すべき理由も無いのだから、家に帰る他無いだろう。

「あの、所長。マキアリイさん」
「ぅぐぐぐ、」
「定時になりましたので私は帰ります」
「ぐぐぐ、さよなら」

 長椅子に伏せぴくりとも動かぬままに別れの挨拶をする英雄。
 傘立てから緋白の紐を巻いた棒を引き抜いて、クワンパは首を捻りながら事務所のガラス扉を開けた。
 振り返ると、入る時には輝いて見えた金色の文字が、今はやけに痛々しく見える。

 カニ神殿で世間の実相は自ら体験してみなければ決して把握出来ないと教わったが、まさに今日は実践してしまった。
 尊敬する師姉の、子供の頃からのあこがれの英雄の真実の姿を覗き見て、自分は何を得たのだろう。

 

 マキアリイ刑事探偵事務所は煉瓦造りの鉄道高架橋下に設けられた店舗の2階にある。
 暗い混凝石の階段を降りて、1階の靴・皮革卸店の脇から通りに出る。

 騒音の激しい場所に無理やり開かれた商店街で、もちろん高級店など有りはしない。
 貧しき者弱き者虐げられし者に救いの手を伸ばす英雄探偵の拠点として、まことふさわしい場所だ。
 だが実相は、英雄の経済状態にまこと見合った、これでも贅沢と呼べる所なのだ。

 夕暮れ家路を急ぐ人々の流れを遮るかに、目つきの悪い男が立っていた。
 若いが不健康、衣服もだらしなく正業に就いている者ではありえない。

 クワンパはカニ神殿に身を寄せる前、つまりは信仰に目覚める前はよくある話で、このような輩と多少面識があった。
 今にして思えば赤面の至りであるが、おかげで知るべきものが分かってしまう。
 こいつはチンピラだ。

 男は、軒に届く3杖カニ巫女の棒に少し驚いたが、クワンパの顔を見て表情を戻した。
 多分彼は、もっと美人を想像していたはずだ。
 紺の事務服を着ているところからも、人違いと感じたのだろう。
 ぶしつけに尋ねてきた。

「あんた、カニ巫女のシャヤユートか」
「いえ、師姉に御用ですか」
「ということは、今は上には居ない?」
「はあ。マキアリイさんが一人で、」

 男はうおおおおと雄叫びを上げて、今クワンパが出てきた入り口に突入していった。
 しまった、刺客か?! 
 英雄探偵であれば敵が多いのは当たり前だ。刑事探偵事務所の一員としてはもっと警戒すべきであった!

 驚いたが後の祭り。階段を駆け上がり、金文字が書かれたガラス扉を蹴破って、
 2階の窓を突き破り、ガラスの破片と共に男は再び通りに、投げ飛ばされて戻ってくる。
 1階皮革卸店の庇を叩き割って、落下する。

 クワンパはカニ巫女の棒を構え直し、地面に無様にひっくり返る男に突き出した。
 ガラス片の中に転がっていた短刀を見つけ、弾き飛ばす。これでマキアリイを刺し殺す腹だったのか。
 男を小突いてみる。重傷ではあるが、死にはしないと見た。
 ならばマキアリイの様子を確かめに戻るべきだ。

 卸店からも従業員がわらわらと飛び出してくる。驚いてはいるが、慣れてもいる。
 なにせ2階の事務所は英雄探偵が借りて、ついこの間まで暴風のようなカニ巫女が勤めていたのだ。

 クワンパは男の拘束を他に任せ、3杖の棒を横たえ階段を駆け上がる。
 まさか英雄探偵ともあろう者が深手を負ってはいないだろうが、なにせ傷だらけで寝ていたところだ。
 万が一という事も。

 金文字の扉は叩き割られ、素通しになっている。
 その先はまた木枠の砕けたガラス窓。男一人が通過したのだ、破損も著しい。
 物質的損害はどうでもいい。肝心の所長は、英雄探偵マキアリイは。

 先ほどと同じに、長椅子に伏せたまま寝ている。
 一見すると変わりなく、つまりは全身傷だらけで今刺されていたとしても見分けがつかないが、無事そうだ。
 クワンパは棒を己の肩に立て掛け、膝を折ってマキアリイの傍に屈む。手を差し出して口元に、息を確かめた。

「生きてるよ」
「なにも、お怪我はありませんかマキアリイさん」
「階段をあんな乱暴に昇ってくれば、寝てても分かるさ」

 さすがというべきだ。未熟な不届き者の襲撃で害されるほど、落ちぶれてはいない。
 身を起こしたマキアリイは、改めてクワンパを見る。
 心配する顔に対して、予想に反してびっくりだ、という顔で応じた。

「あいつ、今通りに居て様子を窺っていた、んだな」
「はい、そのようです。申し訳ありません私がもっと早く気付いていれば、」
「ということは、あいつを見た途端にカニ巫女の棒でぶっ叩く、なんて真似はしなかったんだ」
「え、ええ。はい、そんないきなり人を叩くなんて出来ませんから。悪かどうかも見分けていないのに」

 マキアリイは右手を伸ばし、クワンパの肩を掴んだ。強い力の、暖かい手の温もりがある。
 眼差しにも、まさか、涙まで浮かべている。

「よかった、本当に良かった。やっとまともな常識を持った巫女が来てくれた」
「え?」
「ほんとうにながかった。よかった」

 クワンパは学習した。

 マキアリイ刑事探偵事務所に勤めるカニ巫女見習いは、まずは怪しい人物を叩きのめして掃除する役目を負うのだ。
 一種の用心棒として、英雄探偵の職務を妨げる要素を排除する露払いの役を求められる。

 つまりは自分は、これまで3名の巫女に倣うべきなのだと。

 

(第二話) 

 翌早朝、早めに行って事務所の片付けでもやるかと出勤したクワンパは目を疑った。
 人が居る。客だ。
 まだどこの商店も営業していない時間なのにマキアリイ探偵事務所の前に、階段の所にまで客が列を為して待っている。
 しかも先夕ぶち割られたガラス扉と窓の修理に大工までが入っている。

「おうクワンパ、早いな」

 部屋の中から呼び掛ける所長マキアリイも、昨日と違って包帯が無くきりっとした姿。指にはまだ巻いているが、ほぼ全快に見える。
 思わず尋ねずには居られない。

「大丈夫なんですか、怪我」
「あんな格好だとお客さんが不安に思うだろ」

 たしか肋骨にも傷が、と思って指を伸ばして触ってみると、びくっと震えた。
 ああ、やせ我慢なんだ。さすがは英雄探偵、見る人に与える印象にも配慮する。

「しかし、刑事探偵事務所ってこんなに客が来るものなんですね。初めて知りました」
「いやウチは特別だぞ。これは正規の業務じゃないから」

 砕けた扉の外で待つ客がしびれを切らして催促する。

「マキアリイさん、お願いしますよ」
「ああおおうん、あー皆さんこの娘が新しく入ったカニ巫女見習いのクワンパです。どうぞよろしく」
「クワンパです、どうぞよろしくお願いします」
「ああこの人がシャヤユートさんの後任の、こちらこそ毎度マキアリイさんにお世話を掛けております」
「それでは営業を開始します。クワンパ、後ろに並んでるお客さんの氏名と用件をこちらに書いてもらってくれ」
「はい所長」

 要領を得ないまま、クワンパは業務に突入する。
 しかし不思議だ。世の中こんなにたくさん朝早くから並ぶほどに犯罪事件に満ち溢れているのか。
 疑問は、列の後方に並ぶ客が書いていく依頼内容を読んでだいたい解けた。
 なるほどね。

「クワンパー、並んでるお客さんにお茶をお出しして。下の靴屋の給湯室でお湯をもらって」
「はいただいま」

 大工が扉を組み立てるのに通路幅全体を使うのを、身をよじって避けて、ヤカンをぶら下げ階下に降りる。
 ちなみに便所も1階通路脇にある共同だ。水回りが1階にしか整備されていない。

 この建物は鉄道高架橋下に作られた橋の管理棟で、本来は店舗や居住は許されていない脱法建築物である。
 脱法と言っても主に税制上の問題で強度的には並より丈夫だが、とにかく2階より上はまともな設備が無い。
 故に家賃が安く貧乏探偵マキアリイであっても借りる事が出来るわけだ。
 1階は靴・皮革卸問屋、2階はマキアリイ刑事探偵事務所と、隣が代書屋になっている。
 まだ見てはいないが、3階屋根裏に占星術師が住んでいるとマキアリイに聞いた。事務所を長期留守にする時はその人に頼むのだそうだ。

 クワンパは階下の問屋の店主従業員に頭を下げて自己紹介する。昨日顔を会わせているからおおむね好評であった。
 ただ、彼等は少し気になる話をする。

「いやー、前のカニ巫女のシャヤユートさんは美人だけど、ちょっと、なんというか遠慮の無い人でしたから」

 話の端々から類推するに、お腹が空いたら1階に降りてきて従業員用のおやつを強引に食べていたらしい。
 師姉、なんてことを。

 マキアリイ刑事探偵事務所に控室は無い。1室を衝立で区切って着替えや私用に使う。
 お茶もここに置いていて、安物のチフ茶と昆布茶の缶が並んでいる。
 チフ茶は蕎麦殻に似ている三角の実で煮出す必要があるから、手間の掛からぬ昆布茶を選択する。

 客は12名も居た。

 

       ***

「所長、刑事探偵事務所ってこういう事をするんですねえ」
「ウチが貧乏人相手の商売だってよく分かっただろ」

 客が来るのは朝だけだ。昼前には全員を片付けてやっと一息吐ける。
 つまりこういう仕組みなのだ。

 昨日から夜に掛けて巡羅軍の取り締まりが行われ、路上で商売をしていた人が検挙された。

 巡羅軍とは地域の治安と安全を守る組織である。
 本来は暴動や騒乱を鎮圧する為のもので重度の武装をしているが、反面専門的な捜査能力を持たない。
 だから犯罪が行われた場合初動を巡羅軍が担当し犯人を追跡したり検問を実施するが、長期化して地道な捜査が必要になると警察局に事件を委譲する。

 非常時ではない時は通常業務として路上営業やヤミ取引、賭博売春等を定期的に取り締まっている。

 路上営業、つまりは屋台で飲食店を営む者が捕まるのはたいていが営業免許不携帯等の微罪である。
 だが、嫌がらせ的に商売道具の押収や家宅捜索までされたりする。叩けばホコリが出る、というやつだ。
 巡羅軍は軍と名が付くだけあってやる事が大雑把。単純に検挙数が稼げればよいと思っている。

 そこで私立の刑事探偵に依頼して「厳密に証拠管理しているか確認します」と睨みを利かせる。
 巡羅軍だって検挙者を刑務所に送るのが目的ではない。そもそもが科料で終わる程度の犯罪だ。
 痛くも無い腹を探られるよりは釈放してしまおうと考える。

 捕まった側も、罰金払うよりは刑事探偵依頼料の方がよほど安くて得、という理屈だ。

「つまり裁判にならない方がずっといいわけですね」
「何日も拘束されたら商売上がったり、一家で首括らないといけなくなるだろ」
「なるほどなるほど」

 

 昼過ぎからは巡羅軍の一時拘留所を回って手続きをしてくる、という事で弁当を広げようとした時、
 修復なったガラス扉からネコ手紙がやって来た。

 「ネコ手紙」とは、かってはネコが駄賃をもらって手紙を運んでいた伝説に基づくもので、現在は子供が小銭稼ぎに運んでいる。
 郵便局を通すよりよほど早いから、簡易な伝言であれば多用される。
 もっとも最近は電話の普及で重要度が落ちているが。

 クワンパが受け取って硬貨をやり、所長にそのまま渡す。
 マキアリイは開いて内容を確かめ、言った。

「クワンパ、事務所を閉めてついて来い」

 

 巡羅軍の一時拘留所、と言っても牢獄ではない。
 役所の受付の待合室で延々と待たされる。しかも行儀よく姿勢を正して静粛に待ち続けるしかない。
 自由に喋れる牢屋の方がよほどマシとさえ言われる。

 クワンパの第一印象は、

「犯罪者らしき人が誰一人居ませんね」
「当たり前だ。逃亡の恐れの有る奴はちゃんと牢屋に入れられてる」
「たしかに」

 依頼人はおおむねマキアリイの顔なじみで、探すまでも無い。先ほどまで事務所に居た人の姿もあった。
 依頼したその足で待合室に並んでいる。

 物証が無く容疑だけで捕まっている者であれば、マキアリイの名刺を提出するだけでおおむね解放される。
 本人が顔を出せばなおさら速やかに処理される。巡羅軍もめんどくさい尋問をやりたくないからだ。
 逆に言うと、誰の保護も無ければ何時まででも役所仕事に付き合わされる。

 物証が有ったとしても、証拠能力を持つとは限らない。
 何処にどのような形で存在してどう扱われていたか、警察局の捜査経験者が突っ込めば途端に曖昧になるものだ。
 甚だしくはまったく別の現場の物が無関係の人間の事案に適用されていたりする。つじつま合わせの材料に使われる。

 巡羅軍は万年人手不足で、徴兵で回されてきた素人も少なくない。
 毎年のように警察局との一体化が議論されるが、進展した例が無かった。
 業務の効率化よりも、軍部から独立した行政自前の軍隊を保持して政府転覆防止する方がよほど重要らしい。

「刑事探偵って、案外と権力あるんですねえ」
「捜査資料閲覧の国家資格を持ってるからな。警察局の調書と違って巡羅軍のは穴だらけなんだ、それを指摘されるのをものすごく嫌がる」
「心理学のもんだいですね」

 

       ***

 依頼人の内若干名が翌日まで処理が長引く事になった。釈放の為の手駒が足りなかった。
 再度調査して証言等を集めて、無罪を立証するに足るものを用意する必要がある。
 朝依頼されて昼解決、そう簡単にはいかない。

 その前に、ネコ手紙の件を処理しなければ。

 

 別の拘留施設を訪れた。こちらはれっきとした刑法犯を収容するもの。
 門をくぐると女達の嬌声が聞こえてくる。
 マキアリイは背後に従う巫女見習いに尋ねる。

「ここ来るのは初めてか。カニ神殿の研修で、」
「ここではありませんが、別の所に」
「なら説明は要らないな」

 二人の姿を見て、「マッキーさんだー」「マッキーさんこっち向いてー」などと声が上がる。
 他方、「あのブス何」「シャヤユートじゃないわね」「あいつクビになったんだ」などの陰口も飛ぶ。

 ここは巡羅軍風俗営業取締課、街の売春婦を逮捕拘留する施設だ。

 巡羅軍は軍隊であるから、基本男の社会。若干の女性隊員も居るが連絡基幹業務が専門で、治安維持の現場には出て行かない。
 女の手が必要であれば民間の業者に協力を依頼する。
 カニ神殿は古来より婦人の困窮を救う為に活動してきたから、警察局巡羅軍共に頼りとする。

 この施設にもカニ巫女が詰めていた。
 中年女性でがっしりとした体付き、腕周りなどクワンパの2倍もある。頭巾に白服に緋色の袴の正規装束。
 壁にはクワンパと同じ3杖(2.1メートル)緋白の紐で飾られる、これまた年季の入った棒が立て掛けられている。

 本物の巫女に会ってクワンパは恥ずかしく思った。自分は見習いとはいえ俗世間の事務員服を着ている。
 いや社会の実像を知るために世間修行をしているのだから良いのだが、それでも気後れする。

 彼女はマキアリイを見て安堵した。

「よく来てくれましたマキアリイさん。後ろのは見習いの「クワンパ」ですね」
「「ケルヴォン」さん、これからちょくちょく使いに出しますから、よろしくお願いします」
「クワンパ、マキアリイさんのお役に立っていますか」
「は、はい。まだ良くわかりません……」

 尊敬すべき神姉に対面して、クワンパは硬直している。
 役に立つかと問われれば、昨日チンピラ刺客を殴り損ねて事務所に多大な損害を与えてしまった。
 師姉シャヤユートや前2代の巫女のように悪を滅ぼす躊躇の無い破壊もしていない。慙愧に堪えない醜態だ。

「それで、手紙にあった娘は、」
「こちらです」

 牢、と言っても細い鉄の棒がまばらに並ぶ窓の中に女達が閉じ込められている。
 いずれも化粧が濃く安い香水の臭いを撒き散らし、そして若くもない。彼女らは巡羅軍取り締りでも常連と呼べる娼婦達だ。
 毎度捕まる女は決まっているとさえ言える。
 ヤクザは取締り情報を一早く入手して儲かる上玉は匿い、生け贄的な娼婦を掴ませる。
 巡羅軍としても空振りでなければ良しとして、さほど質には拘らない。
 捕まった女達も「捕まり賃」をもらっていたりするわけだ。3日ほど休み程度にしか思っていない。

 だが案内されたのは部屋の隅に膝を抱えて座っている、籠を持った少女であった。
 まるで化粧気が無く服装も淡い灰色で安物。髪は黒く14歳くらいに見える。
 ネコ手紙の用件は彼女であった。

 マキアリイは眉をひそめる。

「御神籤売り?」
「まさに御神籤売っていて、取り締まりに巻き込まれたのです」
「不器用だな、逃げきれなかったのか」

 「花売り」「御神籤売り」は隠語で「売春」を意味する。
 しかし実際は、それらを隠れ蓑にする売春は最低額の私的なものであり、ヤクザが管理する売春業の価格破壊者だ。
 巡羅軍が取り締まるまでもなく、ヤクザ組織が自らの商売に組み込んで適正価格で行わせる。
 だが大雑把な巡羅軍の兵士は隠語をそのままに信じ込んで、本物の花売り御神籤売りを検挙してしまうのだ。

 カニ巫女が見れば真贋は一目だが、関係者だから身元引受人には成れない。
 少女本人も、迷惑を掛けると一家まるごと借家から追い出されたりするから、頼む人も無く窮していた。
 そこで手近に使える信用抜群の「英雄探偵」の虚名を拝借する事となる。

 差し出されるままに身元引受の書類を書いて、息を吹きかけ印判を押す。
 係官に提出すると一瞥して即少女を釈放してくれた。彼女が手違いで捕まったのは係官も最初から認識する。
 それでも形式が整わねば解放できないのが、お役所仕事というものだ。

 少女は、

「ありがとうございますありがとうございます」
「お前さん背が伸びすぎだ。御神籤売りはもう辞めた方がいい、またパクられるぞ」
「はい次の仕事を探します。それで、マキアリイさんですよね、本物の英雄探偵のマキアリイさん」
「ああ本物だ」
「うわああ私、一度お目にかかりたかったんです。こんな所で会えるなんて感激です!」
「いやだから、もう捕まるなよ」

 施設から出て別れるまで、少女はどれだけ自分がマキアリイを尊敬しているか滔々と語り続けた。
 その姿にクワンパも耳まで恥ずかしくなる。
 同じ状況であったなら、おそらくは一昨日までの自分も似たような事をしただろう。

 

       ***

 翌日クワンパは不機嫌であった。

 巡羅軍の拘留所でマキアリイにもう帰ってよいと言われた。自分は残りの依頼者の件を調査するからと。
 元よりクワンパは単なる事務員で、探偵業を教わる為に働いているのではない。
 しかし英雄探偵が探偵らしい事をようやく始めるのに見逃すはずも無いわけだ

 言われるままにクワンパはマキアリイと別れる。
 別れて、尾行し隠れて彼の働きぶりを観察しようと企んだ。

 まず第一の不満は、探偵のくせに自分が尾行されている事に気付かない点だ。
 クワンパはカニ巫女棒を携えたまま、つまりもの凄く目立つ格好だったにも関わらず、最後までマキアリイは反応しなかった。

 調査は何をしたのかと言えば、酒場に行くだけだ。何軒もの酒場や網焼き屋、屋台に立ち寄り、他愛の無い噂話をその場に居る人と交わすだけ。
 酒はあんまり飲まない。一番安いゲルタの干物を飽きもせず何度も頼む。
 どうせ食べるならイカでもトリでもカタツムリでもあるだろうに、なぜにゲルタ。しかも不味い方。値段が安いからか。

 これを延々5時間続け、立ち寄った酒場は10軒以上。最後はクワンパが根負けして離脱するまで変わらなかった。
 で、昨日よりも半時間早くに事務所に来てみれば、もう居たのは関心だが案の定二日酔い。
 頭を抱えて革の長椅子の上で呻いている。

「クワンパ、水。」
「はい……。」

 陶器の水差しからぬるいのを湯呑みに注いで持っていくと、ありがとうも言わずに飲み干した。

「クワンパ、紙。」
「何の紙ですか。」
「今から言うことを全部書け。あとで清書しろ。」
「はい。」

 目の上を右手で抑えながらマキアリイはぶつぶつと呟き始める。
 何の文句かと思えば、昨日の依頼人の事件で提出する嘆願書や意見書である。
 どうやら酒場で仕入れてきた情報は、依頼人の人となり家族の逸話だったらしい。お涙頂戴の感情に訴える文章だ。

「人間てのはな、」
「はい……」
「物語ってやつに弱いんだ。ウソでもホラでも構わんが、納得できる話が有ればなんとなく便宜を図ってくれる。ウソだと知っていてもだな」
「はぁ」

 そんなバカなと思ったが、清書した書類をネコ手紙に届けさせると、間もなく電話が鳴った。
 依頼人から解放されたとの報告だ。
 巡羅軍とはその程度の情緒的な組織なのか?

 呻きながら、長椅子の上でのたうち回りながら、マキアリイが解説してくれる。

「つまり泣きを入れるまで帰してくれないんだ。役人てのは自分達の権威が人を確かに服従させる事を確認して、ようやく満足するわけだ」
「じゃあ最初から無罪の証拠なんか要らない?」
「上級の役所の警察局に提出する時には要る。でも今回定期定番の取り締まりだから裁量の内、いつもどおりの手で通るさ」

 呆れてモノも言えない。タンガラムの、ベイスラの治安はこんな曖昧いい加減な基準で成り立っていたのか。
 腹を立てる巫女に、だがマキアリイは説教をするのだ。

「だからさ、この程度だからカニ巫女がチンピラぶん殴っても無罪放免お咎め無しで終わるのさ。
 世間一般常識の範疇で収まればあえて犯罪事案に仕立てない」

 

「あの、こちらがヱメコフ・マキアリイ氏の探偵事務所でしょうか?」

 中年のくたびれた工員服の男が恐る恐るに扉を開いて顔を覗かせる。
 金が無いのはマキアリイ事務所への依頼人皆だが、彼には犯罪を行う、または巻き込まれるほどの気力も感じられない。
 どこか病気なのだろうか。

 クワンパがひとつだけ感心する点は、マキアリイはこの手の人間に対して随分と優しいところだ。
 助けが必要なところには損得抜きで手を差し伸べる。これがいつでも実行できる人間は確かに英雄を名乗る資格を持つだろう。

「どうなさいましたか。お困りに見受けられますが、私共でお力になれる、」
「あなたがあの有名なヱメコフ・マキアリイさんですか。娘が昨日大層お世話になったそうで、ありがとうございますありがとうございます」

 昨日娼婦狩りから助けた御神籤売りの娘のこと、とクワンパも気付いた。
 御礼に親が訪れるのは不自然ではないが、彼の様子はただならない。

「実は娘が昨日から戻っておりません。いえ、一度戻ってきたのですがあなた様のお噂をべらべらと嬉しそうに喋って、御神籤売を辞めて別の仕事を探すと家を出たきり、」
「戻ってこないのですか?」

 巡羅軍に捕まって1泊拘留された次の日だ。家族に心配を掛けないようちゃんと夕方には戻るはず。
 何事が異変があったと考えても良いだろう。

 

       ***

「まさか誘拐」

「こらクワンパ、軽々にものを言うな。どちらかに娘さんが泊めてもらえる知り合いは居ませんか」
「心当たりはすべて寄ってみたのですが、いずれにも。姿を見たという人も無くて」

 一般的に考えれば、行方不明であればまず巡羅軍に捜索願を出すべきだ。
 しかし今回、間が良くない。ただでさえ単なる行方不明では初動が遅いのだ。
 公権力がアテにならないとなれば、頼るべきは庶民の味方、英雄探偵!

 マキアリイは父親を長椅子に案内して、真正面に座って事情を尋ねる。二日酔いの気は既に吹き飛んでやつれも見せない。

「御神籤売を辞めろと忠告したのは私です。元締めに仕事を辞めると挨拶に行きますよね、娘さんなら。」
「あ! ああ、そうでした。それは考えなかった…」

 父親が言う名前を頼りに、クワンパが電話帳を開いて御神籤売の元締めを探す。
 幸いにも戸別電話に登録が有ったので、マキアリイが掛けて確かめた。

「……。たしかに娘さんは御神籤売を辞める挨拶に出向いてます。ちゃんとお礼を言って、職業紹介所に向かったそうです」
「そうですか。まったくわたしは、あの娘ばかりに苦労を掛けて。これでも妻が病に伏すまでは家族6人それなりに、」

 くどくどと愚痴をこぼす依頼人は置いておいて、マキアリイとクワンパは市内地図を広げる。
 御神籤売元締めの住所、職業紹介所。
 指で地図に輪を描き、マキアリイは眉をひそめる。

「巡羅軍の娼婦取り締まりがあった地区に全部入るな」
「まさか、また捕まった?」
「まさか。
 お父さん、娘さんは風俗関係の口入れ人とか、その筋の人間と知り合いではないですね?」
「娘に限ってそんなことは。根がまじめできっちりとした子なんです、学校でも成績が良くて」

 つまり自分から失踪する筋は無い。
 僭越ながらクワンパはまたしても口を挟む。

「事故、もしくは誘拐?」
「あの辺りは人通りも多く路地の隅まで目は行き届く。事故は無いだろう」

 マキアリイは席を立って、でしゃばりな事務員を部屋の隅に追い出す。
 犯罪の話なんかすれば、父親が余計な心配をするだろう。
 だがクワンパは食い下がる。

「そうだ。犯罪組織が綺麗な女の子に目をつけて狙いすまして拐かし、遠くの街に売り飛ばすという事件がたしか!」
「それは無い」
「何故です」
「その組織は俺とシャヤユートが叩き潰した」

 あ、とクワンパは口を開く。
 彼女が思い着いたのは、何の事はないマキアリイが解決した事件に例が有ったからだ。
 巫女シャヤユートが関係した2番目の大事件である。
 たしか政治結社が黒幕で活動資金調達の為だったはず。師姉が囮となって。

「他の組織が誘拐業をやっていても不思議じゃないが、俺達に手柄をさらわれてベイスラの巡羅軍と警察局は目を三角にして見張ってるからな」
「じゃあ誘拐は無い?」
「組織的でないとすれば、行きずりの犯行。もしくは顔見知りだな」

 こそこそと二人が話す間、父親は落ち着かない表情を見せる。
 生活が苦しい中仕事を休んで娘を探しているのだ。気ばかりが先走って不安でしょうがない。
 クワンパに配慮を促して、再び席に戻る。

「失礼しました。
 それで、娘さんは日頃から変な男に目をつけられるとか、痴漢に遭ったとかは聞いていませんか」
「そう言えば、」

 父親は考える。互いに労働に忙しく疲れる毎日の中、ささいな日常会話を覚えては居られない。
 そもそもが娘は自分に身の回りの問題を打ち明けて来ただろうか……。

「最近、ではないですが幼なじみの男の子達にいやらしい事を言われた、お尻を触られたとか怒っていた事があります」
「それは近所の不良集団とかですか」
「そこまで悪い子達ではないと思いますが、なにしろ貧乏な街でやる事もありませんから」
「歳は、」
「娘の1つ2つ上です、子供の頃はよく一緒に遊んでいましたが、大きくなると男女は別になりますからそんなに親しくはないはずです」

 

       ***

 もちろん彼等が犯人と決まったわけではないし、怪しい存在は他に幾つもあるだろう。
 だが調査に着手するにあたり、「対象に明らかに興味を持つ集団」を最初の一歩とするのは定石だ。

「彼等なら、ひょっとしたら娘さんを目撃しているかもしれない。
 彼等がよくたむろしている場所とか店を知りませんか。」
「店ではなく、たしか舟小屋です。渡し舟をしまう舟小屋が近所の子供たちの秘密基地になっていたような気が。」

 探偵は活動を開始する。事務所を一時閉めて、クワンパも連れて捜索する。
 父親にはなるべく自宅付近で独自に捜索する事を勧めた。連絡が付き易い場所に居てもらう必要がある。
 そして、

「調査費用は1日1ティカになります。これは政府の規定ですから。」
「はい、お願いいたします。」

 

 ノゲ・ベイスラは高低差の大きい、坂の多い街だ。
 もちろん貧乏探偵が自家用自動車を所有するはずもなく、自転車だって持っていない。
 そもそも坂が多ければ自転車も効率的ではない。自動車が出力不足で登れなかったりする。
 道路の多くは舗装していないし、あまり車輪に適していない街だ。

 最も有力な移動手段は路面電車。
 ノゲ・ベイスラは山地の豊富な雨水を利用した水力発電で電力供給に不安が無く、発達した電車網を持っている。
 しかし今回、マキアリイとクワンパはさらに効率的な移動手段を用いた。
 2本の脚で走るのだ。

 クワンパは何故自分がマキアリイ刑事探偵事務所に雇われたのか、理由を悟った。

 彼は足が速い。さすがはシュユパンの選手だけある。
 シュユパンは革製の白い球を投げ、棍棒で打ち返し、革手袋で捕球し、試合場を走り回る。
 クワンパも足には自信が有る。学校の運動会で短距離でも長距離でも上位常連だった。
 カニ神殿でも資質を見極めて紹介したのだろう。

 だが少し不公平だ。
 向こうは手空きなのに、自分は長大なカニ巫女棒を抱えて走らねばならない。

「しかし所長。」

 クワンパが疑問を呈す。
 件の少年の集団をとりあえずの参考人とするのはよいとして、
幼なじみで町内であれば日頃から顔を会わせているはず。いきなり誘拐しようと思うものだろうか。

「そうだろうか。彼等が行動を変える切っ掛けがあったと思わないか。」
「いつもと変わらないんじゃないですか、なにも       あ。巡羅軍の」
「巡羅軍の娼婦狩りで捕まるところを彼等に見られていたのかもしれない。
 とすれば、心の中でなにかが変わってもおかしくはない。」

 

 舟小屋は街の裏、堤防がある広い川原の中に建っていた。
 ノゲ・ベイスラは地方都市としては発展しており橋梁も整備されているが、どこからでも川を渡れるわけではない。
 むしろ川自体が道路の代わりだ。重量物を大量に運搬するのに今も水運が大きな役割を果たしている。

 橋が無ければ道をぐるっと回らねばいけないが、私設の渡し舟が用意されている場所も有る。
 運賃を取る業として行う場合は行政の許可が必要であるし、安全対策も舟の定期的な点検も必要だ。
 だが個人が私的に舟に乗るのであれば許可は要らない。
 そこで船頭が乗らず客が勝手に漕いでいく、脱法的な渡し舟が発生する。

 舟小屋にたむろする少年達は、自らも客でありながら船頭となって他の客を乗せて漕いでいく、という仕事をしているわけだ。

 川原で遊ぶ小学生に尋ねて、すぐに場所は判明した。
 舟小屋に錠は無く出入り自由になっている。利用する客が雨宿り出来るように解放されていた。

「火を使っているな。昨夜は一晩中ここに篭っていたようだ。」

 地面の黒く焼けた灰を確かめて、マキアリイが状況を推察する。

「だが「暁」(午前6時)までだ。日が昇ると渡しの客が来るからな。」
「御神籤売りの子は一緒に?」
「足跡が、女の子の小さいのが有る。これだな。」

 男、少年3人と少女が1人。特に抵抗もせずに川の方に歩いた跡が残る。
 もう少し進むと小石だらけの川原になり、足跡は消える。

「舟に乗せて、次は何処に行った。向こう岸か。」

 

       ***

 向こう岸は市場街だ。道路鉄道が集中し、加えて水運で各地の産物を運んでくる。
 この渡し舟も市場に勤める人が多く利用していた。

 だが女を誘拐して連れ込む所では無い。
 昼の間に隠しておくとすれば、倉庫。あるいは知り合いに場所を貸してくれる者が居るのか。

「所長、舟が帰ってきます」

 川幅は40メートルほどだが、市場の辺りまでは500メートルある。
 遠くに木製の古びた舟を竿で漕ぐ姿があった。
 目当ての少年達でない可能性も高いが、

 クワンパは目も良い。

「昨日の女の子、乗ってます!」
「そうか」

 遠目には争う様子もなく、少年3人の内1人が竿を差して舟を漕ぎ、少女はおとなしく座っている。
 ひょっとすると単純に少年達と遊んでいただけの可能性もあるか、と考え始めた矢先。
 少女は目的地に立つマキアリイを視認した。
 舟の上に立ち上がる。

「マキアリイさぁあーーーーーん!」

 悲鳴のような高い声、だが緊急性や緊迫した気配は無く、単純にまた憧れの英雄に会えて大興奮的な叫びだ。
 彼女はそもそも自身が行方不明で父親が必死になって探していると知らないだろう。
 刑事探偵にまで依頼して捜索しているなど想像だにしない。
 だが、

「所長、あの子縛られてますよ」
「ほんとだ、胴回りを縄で縛られてるな」

 ひとしきり舟の上で暴れ回った後、少女は自らが置かれた状況を正しく認識する。
 再び叫んだ。

「たすけてー!」
「あ、やっぱり誘拐されてますね」

 川原で遊んでいた小学生が集まってきて、マキアリイの隣に並んで水面の舟を見る。
 3人の少年は少女がいきなり助けを求めたのに驚き、行く手に迎える大人の男を公権力の手先と勘違いし、狼狽する。
 竿を操り舟を元来た市場に方向転換させ始めた。
 距離は200歩(70メートル×2)、彼等を留める手段はどこにも無い。

 マキアリイは下を見て小学生に話し掛ける。

「君が持っているのはシュユパンの球だね。ちょっと貸してくれないか」

 シュユパンはタンガラムにおいて人気絶頂を誇る球技だ。職業選手達が優勝旗を目指して覇を競っている。
 男子は小学生の頃から真似事を始めるが、かなり複雑な規則であるから子供向け単純なやり方が用意されている。
 球が一つ有れば道具は他に要らない。ぶつけても怪我をしない柔らかい球を用いる。

 大きなおじさんに頼まれては子供も断れない。白い球を手渡すと、マキアリイは手のひらでぽんぽんと跳ね上げ感触を確かめる。

「うん。大丈夫だろう」
「え、何をするんですか所長」

 マキアリイは胸の前に手を合せ球を挟み込み、右手を背後に下げ、大きく振りかぶって投げた。
 その迫力筋肉の躍動は空気をびしっと鳴らすほど鋭く、小学生達は凍りついた。
 クワンパもまた驚く。本物のシュユパンの投手はこれほどのものなのか。
 子供の一人が小さくこぼす。

「鉄砲肩だ……。すげー」

 弾道は低く直線に水上を走り、まっしぐらに舟を目指す。
 これほど遠いのに高さがまるで落ちていかない。空中に道が有ってその上を走るかに歪みなく飛んで行く。
 気付いた時にはもう遅い。舟上の少年、竿を握って向きを換えようとした者の頬に見事に着弾。
 彼は大きく弾け飛び、川面に丸い波紋を作る。
 他2人も大きく揺れる舟から放り出されて、やはり水の中。少女だけが残される。

 自ら縄を解き拘束を外して竿を握り、舟の支配権を確保する。
 少女は大きく手を振って救い主に応える。

「マキアリイさーーーーーん」

 その表情は明るい。

 

       ***

 少女は舟を操り、川に落ちた少年達を回収してマキアリイの元に帰って来た。
 春先の川の冷たさは彼等から抵抗する気力を奪い、ただひたすらに火に当たりたがった。

 マキアリイは少女の安否を確かめる。

「君、大丈夫か。怪我などは無いか」
「はいまったく問題ありません」

 満面の笑顔で答える少女は昨夜一晩中監禁されていた陰が微塵も無く、むしろ晴れ晴れとした表情だ。
 しかしほんとうに無事だったのか。
 クワンパが改めて尋ねる。この少年達にけしからぬ真似をされなかったか。

「あ、ああ! はい、どうやら最初はそのつもりだったみたいですね。こいつら」
「最初は? じゃあ何も無かったの」
「凄んではいたんですけど、私がマキアリイさんに会えたことを誰でもいいから話したくて言いたくて、べらべらと喋っている内に子供時代の思い出話に花が咲いて一晩中ずっと」
「なんだそりゃ」

 何も無いならそれでいいが、では何故今日は解放されなかったのか。

「えーと御神籤売りの仕事を辞めて別の仕事を探さなくちゃいけないて話をしていたら、じゃあ知り合いが市場に勤めているから野菜の切れ端を集めて加工する仕事を紹介してくれるって。それで市場まで行きました」
「仕事、決まったんだ」
「はいおかげさまで」

 おかげ様なのは少年達の手柄だろうが、では何故帰りの舟では縛られていたのか。

「それがですね、全部一段落したら昨日の事を思い出して、じゃあ改めてということになって」
「だめだろソレ」
「ダメですねほんと」

 確かに少女は誘拐されて危難に遭うところをマキアリイに救われたわけだ。
 クワンパは考える。何も無ければそれで良いが、しかし悪事は間違いなく行われたのだ。
 正義の棒を食らわさぬわけにもいくまい。

 焚き火の傍でガタガタと震える3人の少年を細目で睨んで、マキアリイに尋ねる。

「あの、こいつらぶっ叩いていいですかね?」
「そんなのは自分で判断しろよ」
「します」

 

 こうして事件は終わった。いやそもそも事件は存在したのだろうか。

 行きがかり上各方面に迷惑をを掛けたから、少女と父親はとりあえず巡羅軍の街頭詰所に被害届を出しておいた。
 当事者として少年3人と、刑事探偵マキアリイおよび助手事務員クワンパも参加する。

 詰所の兵士、巡羅伍長は事件の経緯を聞いてめんどくさくなった。
 結局は何も無かったわけだ。
 いや、結果としてカニ巫女の棒で殴られた負傷者が3名存在する。これは立派に暴行傷害事件であろう。
 だが原因としては少年3人が悪いのだから、教育的指導と考えて無かったことにしよう。

 巡羅軍は案外と情緒的な存在である。

 

 夕暮れの中、鉄道高架下の事務所に戻ってきたマキアリイとクワンパは応接用長椅子に座り込む。
 特に仕事をしたわけではないが、なんだか疲れた。
 これで1ティカは安くないか? いや、なにをしたわけでも無いのに料金取って良かったのか。

 ちなみに投げた球の代わりを借りた小学生に買ってやった。3ゲルタ(100円×3)の必要経費。
 もちろん英雄探偵ヱメコフ・マキアリイの署名付き。

「仕事の代金て、何か手応えありませんね」
「刑事探偵の仕事に手応えなんてめったに無いぞ。よっぽどのネタを発見しないと」
「”失せ人探し”で帳簿に記載していいんですよね。業務、で」
「依頼人が泣かないと業務にならない、てのなら俺は刑事探偵辞めるぞ」

 なるほどそう考えれば今日は確かに仕事をした。
 時計を見ると、既に定時を過ぎている。

「あ、それじゃあ私、これで帰ります」
「おうまた明日」

 そうまた明日。英雄探偵との日々が明日も続いていく。
 だが、まるで手応えが無い……。

 

(第三話)

「え、店休日って事務所休みじゃないんですか?」

 就職4日目、明日は店休日だ。

 タンガラムにおいては週は9日、8日働いて1日公休の決まり。
 だが役所や銀行では週の真ん中5日目は窓口業務を行わず、溜まった案件を処理する慣習となっている。
 当然役所に関連する業界も休み。また公休日は営業する百貨店等大規模商業施設の店休日として法律で定められる。
 故に、通称「店休日」。

 クワンパはお休みがもらえると思っていたのだが、所長に冷たい目で諭される。

「おまえ、店休日は役所の中何もしていないと思ってたのか?」
「え、えーそれはー」
「たしかにカニ神殿との取り決めでは祭事がある時はそちらに参加していいとなっている。だがな、」
「はい!」

 クワンパ、赤面する。まるで小学生みたいな事を口走ってしまった。
 店休日は一般消費者や利用者にとっては休みだが、事業者にとっては準備期間であり業務はしっかりと進行中。
 刑事探偵事務所においても、受け付けた事件の調査を行い依頼を果たさねばならないのだ。
 世間の常識、社会人としてまったく恥ずかしい。

 顔を上げて所長を見ると、彼はまったく別の事を考えついたようだ。

「そうか、明日は新聞休刊日だ」
「はい」

 刑事探偵事務所は世間の情報を常に収集せねば営業に差し支える。
 新聞も3紙を取っていた。クワンパは帳簿を眺めて、これ1紙に減らしたら経費削減できないかな、と考えたから覚えている。
 タンガラム全国紙、ベイスラ県地方紙、ベイスラを含む方台中央区の経済紙。
 なぜ刑事探偵事務所で経済紙が要るのだろう。

「クワンパ、俺は世に隠れも無い英雄探偵ヱメコフ・マキアリイだ」
「は?」

 何故今威張る。いきなりどうした、ゲルタでも切れたのか所長。

「正義の使者庶民の味方、悪を斥け善を成す現代の救世主世間の人気者女の子にモテモテだ」
「最後のはちょっと違うと思います」
「俺様の動向一挙手一投足を見逃すまいとタンガラム国民は目を皿のようにして見守っている」
「そんなおおげさな」
「それを伝えるのが報道と放送各社だ。毎日俺は監視され取材されている」
「そうなんですか、全然気が付きませんでした」

「お前の前の巫女シャヤユートは華のある女だった、頭の中や言動は別として絵になる美人だった」
「その点に関してはまったく異論がありません」
「報道放送興行各社はあいつに首ったけで、その生き方を詳しく伝えようと日夜努力していたものだ」
「わかります、まったくもってそうでしょ」

「というわけでシャヤユートの後任、4番目のカニ巫女見習いクワンパに関しても興味津々なわけだ」
「え?」
「英雄探偵としては新たな事務員の人となりを全国の俺を応援してくれる人の為に伝える義務がある。
 報道各社の記者にご列席頂いて、お前のお披露目会をしたいと思う」
「ちょっとまってください所長。なにかちょっとまちがって、いえそんな、わたしはそのようなタマではなくて」
「世間に大人気の英雄探偵様の事務所で働くと決めた時点でおまえの運命は決まっていたのだ。逃がさんぞ」

 しまったー。クワンパは自分が極めて大きな過ちをしていた事にようやく気が付いた。

 そもそもが新聞や放送で伝えられるシャヤユートの動向に一喜一憂していたのが、研修中のカニ巫女見習い自分達だ。
 ごく当たり前に活躍を楽しみとし、そしてしばしば師姉の有り様が捻じ曲げられて伝えられるのに憤慨しながら応援していたのだが、
考えてみれば現場の記者が密接に取材しなければ、そんなもの伝えられない。
 シャヤユート姉は日常を監視されながら9ヶ月を過ごしていたわけだ。

 まったく考えなかった!

 

       ***

 カニ巫女見習いクワンパは本日をもって、ようやく待望の言葉を雇用主から聞くことが出来た。

「うん、本採用だ」
「はあ。」
「なんだ嬉しくなさそうだな。躍り上がって喜べとは言わないが、もっと肯定的な反応を期待するんだが、」
「いやー、」

 頭の中は新聞雑誌放送局の人とのお披露目会でいっぱいである。
 改めて再考を促した。

「あたしなんかのような者で、ほんとうにいいんですかね?」
「別に女優に成れとか踊ってみせろとか言わないぞ。どうせ別嬪の女優さんがお前の役をするだけだから」
「そうなんですけどね、そうなんですけど写真とか新聞に載ったり?」
「それは我慢しろ。あーシャヤユートはさすがに写真写り良かったからなあ、アレと比べられると落ちるな」
「ですよねですよね、師姉に比べるとわたくしごとき者が後釜なんておこがましいと思いますよね」

 クワンパ事務椅子に座ったまま烈しく落ち込む。背を屈め小さくなって、股の間に頭を突っ込むほど小さくなった。
 合点がいった。いや前々からずっと疑問であったのだ。

 我ら研修中のカニ巫女見習いは全員がシャヤユート姉を応援していた。
 もし望まれるのであれば師姉の下に馳せ参じ、命を捨ててでも悪漢どもと棒を振り回して戦おうと誓い合う。
 にもかかわらず、同期朋輩は世間修行で一般社会に就職をする段になって、誰一人として師姉の後を継いで英雄マキアリイの刑事探偵事務所を選ぼうとしなかったのだ。
 掲示板にひっそりと一枚貼られた求人票に、誰も触らないからこれ幸いとひっぺがしたクワンパは、

「しまった……、あれは罠だったのか……」
「いやなら事務所辞めてもいいんだぞ。今から別の会社に就職口利いてやってもいい」

 その手が有ったか! と顔を上げぱっと輝かせる。が、

「だめですそれはー逃げるなんて出来ませんー」
「カニ巫女だからな。世間の風に負けて筋を曲げたとか無理だよな」

 力無く立ち上がり、うなだれたまま事務所入り口のガラス扉を押し開ける。
 とりあえずお手洗いに行って考え直そう。

 

 マキアリイ私立刑事探偵事務所は鉄道高架橋下に作られた2階建て半の建物内にある。
 半、とは天井裏にまた部屋が有って、そこにも人が住んでいるからだ。占星術師だと聞く。

 2階階段下り口の手前がマキアリイ事務所、奥が代書屋になっている。
 刑事探偵事務所の依頼人はとにかく公権力と揉めている事が多く、役所に提出する書類を準備するのに代書屋大活躍だ。
 本採用になったからには改めて代書屋のおじいさんに挨拶せねばならないだろう。

 暗い階段を降りると、表通りから裏に繋がる通路に出る。
 階段入り口の右隣に便所が設置されている。男女共用汲み取り式だ。
 小さな洗面台のくすんだ真鍮の蛇口を捻って手を洗い、考える。

 そうだ、新聞はともかく放送局の人達は大して美人でもない自分を見て考え直すだろう。
 こんな女持ち上げても視聴者の人気を取れないと。
 そしたら新聞も注目することが無くなって、おお大丈夫じゃないか!

 少し元気になって事務所に戻ると、マキアリイが電話の受話器を置いたところだった。
 クワンパの顔を見て、少し笑う。

「今カニ神殿から電話があった。クワンパは使い物になるかって。
 お前は逃げないよ、と言っておいたぞ」
「ええ逃げませんよ。どうせ誰かがやるのなら、私が道化を演じてみせますええやりますよバカにしやがって」
「そういう手もあるな。英雄探偵とお笑い女芸人、悪くない」

 再び電話の呼び鈴が鳴る。
 電話受付は事務員第一の仕事。クワンパは受話器を取ろうとして所長を見る。
 彼も右手を開いて「どうぞ」と促した。
 本採用後第一番の仕事。

「はいマキアリイ刑事探偵事務所です」
”君が新しい事務員のクワンパさんだね、カニ巫女見習いの。マキアリイは居るかい”
「はい所長は居ります。お名前とご用件をどうぞ」

”僕はマキアリイの友人の、ソグヴィタル・ヒィキタイタンという者です”

 

       ***

 背筋の毛がぞっと逆立つ。

 10年前世間を震撼させた国際的謀略、二人の若者を一躍国家英雄へと押し上げた前代未聞の大事件。
 『潜水艦事件』

 その主役の、カッコイイ方がソグヴィタル・ヒィキタイタンだ。
 当時19才でマキアリイの一つ先輩。
 甘い容貌と長身、洗練された仕草と機知に富んだ受け答えでまるで青春俳優のよう。実家は富豪で元は王家に繋がる血筋だとも聞く。
 泥臭い肉体派のマキアリイと対比して、いかにも都会的で知性派の印象を与える。
 それでいて運動神経抜群で自動車船舶習いもしないのに航空偵察機まで操縦出来て、格闘をしても華麗に悪漢を伸していく。
 女子の人気が片方に傾くのも無理の無い話だ。

 徴兵除隊後は私立大学で政治を学び、最年少主席当選で国会議員となった。
 若手議員の旗頭で穏健改革派の行動隊長。政治報道で注目されるのも必然で、さらに服飾や行動までもが流行の発信源となる。

 マキアリイが英雄探偵であるのなら、ヒィキタイタンは英雄議員救世主と呼ぶべきであろう。

 クワンパ喉が引き攣って声が出ない。
 所長に振り返り、受話器を指で差して、やっとのことかすれ声を出せた。

「……ひぃきたいたん様です」
「おう」

 天下の大英雄様に対してウチの英雄探偵さまは、特に構える事も無く自然に受話器を受け取った。
 友人なのだから当然、とも言えまい。有名人同士の付き合いなら互いが構えて敬遠してもおかしくない。
 さらに言えばヒィキタイタンは国会議員であり権力を掌握しているのだから、市井の貧乏探偵と立場が違いすぎる。
 そもそもこの二人、今現在はどの程度の関係なのだろう。

 10分ほども話して受話器を置いた。首都からの長距離電話だが向こうは金持ちだから気にしない。

「あの所長、ソグヴィタル・ヒィキタイタン様はいつもお電話を掛けてきて下しゃりますか」
「狂ったような敬語使わなくていいぞ、物腰は柔らかい奴だから。
 そうだな、大きな事件が有れば必ず掛けてくる。そして俺はしょっちゅう大きな事件に出食わしている」

 映画に成るような大事件が目白押しだ。
 それぞれが政官財界や軍部の深奥に潜む巨大な悪、またはヤクザや暗黒街の大勢力と衝突する。
 ヒィキタイタンが常に電話を掛けてくるのも、彼の身を案じてであろう。国会議員の権力が有ればいくばくかの救いになるかも知れない。

 所長もその辺り説明が必要と感じた。

「政界に絡む問題は基本的に奴に後の処理を頼む。
 もちろん分かってるだろうが、世間に報道される「事件の真相」ってのは極々一部で、大半は闇に消えていく性質のものだ。映画なんて触りを軽く撫でてるだけだ」
「秘密がいっぱい、てことですね」
「事務員にカニ巫女を採用しているのもそこに理由がある。拷問されても喋らない強情な人材が必要て意味だ」
「なるほど、強情ですか」
「だからさクワンパ、お前は自分では場違いな所に来たと思ってるだろうが、カニ神殿でもちゃんと人選をして間違いが無いのを送ってきてくれている。
 写真写りが良いなんて些細な心配は要らないんだ」

 この言葉にクワンパは、事務所に来て初めて落ち着きと納得を覚えた。
 自分が望まれている、少なくとも英雄探偵を支える者として必要な条件の一つを持っていると、自負出来るものが確かにあった。

「首都(ルルント・タンガラム)ではもう一人世話になっている人が居る。ヒィキタイタンの幼馴染みの法衛視で法律関係ではそちらに任せる事になる。
 ひょっとするとお前にも単身で首都へのお使いを頼む事もあるだろう。覚えといてくれ」
「はい」
「命の危険がある、かもしれないぞ」

 身の引き締まる思いがする。
 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイの事務員助手になるとは、この職場に期待していたものは、まさにコレだ。
 ようやく本採用の言葉の重さを実感する。

 

       ***

 本採用ということで、二人は関係各所に挨拶に回った。
 事務員一人で大げさな、と自分達でも思うがなにせ英雄探偵の助手である。場合によっては人命の掛かった最重要の情報をクワンパを通じて伝える事もある。
 顔つなぎをして信頼を確保しておくのは必須の手続きであった。

 

「「クワンパ」さん、メィミタ・カリュォートさんですか。よくマキアリイ事務所を志願なさいましたね。あなたの勇気に敬意を払いますよ」

 第一番の重要人物として紹介されたのは、ゾバダ・シンタリアン氏。60歳を超える老練の法論士である。

 「法論士」とは刑事裁判で弁護人の役を務める資格の保有者で、民間人が法律関係の手続きや争議を行う際に全般を取り仕切る職業だ。
 「刑事探偵」は弁護人となった法論士の指示に従い裁判で有利となる証拠証人を探してきたり、事実関係の裏付けを取ってくるのが本来の職務である。

 マキアリイが説明する。

「このゾバダさんは俺が私立刑事探偵になるきっかけを作ってくれた恩人とも呼べる人だ。これまでの事件でも裁判の手間を引き受けてくださっている」
「そうなんですか、それはどうも」

 思わず御礼を言いそうになったが、考えてみればクワンパはマキアリイの身内でもなんでもない只の事務員だ。
 所長が恩人と呼ぶ人に頭を下げるのに否やは無いが、なんとなくそれは違うだろう。

 ゾバダ氏の個人事務所は、さすがにマキアリイ事務所ほど騒々しい所ではないが、下町庶民が暮らす地域にある。
 顧客も低所得者層を主として、法律の力を彼等の為に用いて戦う穏やかな闘士であった。

 事務員は彼の実の娘と聞かされる。22、3歳で落ち着いた清楚な人だ。クワンパとマキアリイに熱いシフ茶を淹れてくれた。
 ゾバダ氏はマキアリイが刑事探偵を始める頃の話をしてくれる。

「もちろんその頃でも世間の人気者であったから望めばマキアリイ君はどこにでも進めたはずなんだが、大きな事件に巡り遭う星の下に生まれた男だからね。
 どの組織に属したとしても早晩事件にぶつかって、警察局を辞めた時と同じような状況に陥ると思ったんだ。
 それならばいっそ私立探偵となって独立して世間のお役に立つべきだと諭した事もあったかな」

「所長は警察局を追放されてしまったのですか?」
「バカな話でな。ちょっとしたヤミ商人を業務でとっ捕まえてみたら、芋づる式にずるずると悪党が暴き出されて、気が付いたら警察局内部にまでしっかり食い込んでいたって事件だった。
 もちろん俺は悪くないが、同僚を逮捕する事になってしまったからぎくしゃくとして居心地が悪くてな」
「はあ、それは災難です」
「それで部署の変更を申し出てのどかな犯罪なんかまるでない僻地に島流しにしてもらったら、田舎の実力者ってやつの積年の悪事をひょんなことからずるずると」
「めんどくさい正義ですねえ」

 ゾバダ氏はハハハと明るく笑う。
 ヱメコフ・マキアリイという人間はどこに行っても犯罪にぶち当たってしまう運命なのだ。英雄の性というもので、正義を求める限り必ず悪に辿り着いてしまう。
 ならば自覚的に正義を行うか、受動的流されるままに事件に翻弄されるか。

「そこで私が刑事探偵になってはどうかと勧めたんだったね」
「はい。

 先生には以後度々お世話になっているんだ。特に被害者の権利を守る段になると法律に頼るしか無いからな。
 相手が実力者権力者であればも訴訟に関与したがらない法論士も多い。弱い者の味方になってくれる人を探すのは難しいんだぞ」

 クワンパは思う。
 この事務所は温かい穏やかな雰囲気に包まれているが、ひょっとするとマキアリイ事務所よりも危険な場所かもしれない。
 振りかかる火の粉を払うのに、非常の手段が必要な時もあるのかも。
 にも関わらず穏やかで居られるのは、父娘共に胆力が座っているのだろう。

 法論士の若い弟子が、それでも30歳ほどの男性だ、ゾバダ氏を呼ぶ。裁判所から何事か電話で伝えてきたみたいだ。
 長居をするのも迷惑、マキアリイとクワンパは応接の革椅子から立ち上がる。
 氏はそのまま弟子と打ち合わせを始めて、二人は娘に送り出される。

 この世界に生きる先輩として、また3人の前任者と付き合った経験からクワンパに忠告をしてくれた。

「クワンパさん、どうもカニ巫女の人はマキアリイさんを見ると棒で叩きたがるみたいです。
 でも間違えないでください、マキアリイさんは本当に世の中の為にお役に立っているのですよ。実績は十分にあるのです。
 見かけだけで判断してのらくらと怠けてるなんて思わないでくださいね」
「えー、そんなことは無いんですけど」

 シャヤユート姉は、その前の二人の先達も、同情を誘うほどにぶっ叩いていたのか。
 いやなんとなく、尻をぶっ叩いてしゃんと働かせたくはなるのだが。

 

       ***

「叩きたまえ笞を入れたまえ。それが英雄の傍に侍ることを許されたキミの責務だ!」
「はあ」

 次に訪れた法論士は壮年のヒゲの立派な男性だった。
 若干恰幅が良く、上等な服を着て事務所も広く内装も品良く、口やかましい。
 クワンパが想像する法論士そのままの姿だ。

 名はィメンタ・スルグナ・シャニナメンターとややこしい。姓+名+母方の姓で、大時代的な風習を堅持する家系らしい。
 ゾバダ氏よりも若い分過激に、マキアリイを非難する。

「クワンパ君、キミはどう思う」
「は、はい」
「英雄マキアリイはこのままで良いか。犯罪解決の映画が何本も作られれば世が正されると本当に思うか」
「え、えーどうしたものか」

 所長は半笑いでおもちゃにされる事務員の醜態を楽しんでいる。
 カニ巫女が迫力で圧倒されるなど、なかなか無い見ものだ。

「この男は結局本気で人生に取り組んでいないのだ。自らの意志で世界を変えようとは思っていない、流されるままに英雄の役割を演じているに過ぎない。
 これが許せるか。世の人特に我々正義を志す者が欲して已まない力を備えた英雄が、無気力に目の前に転がり込んでくる事件をだけ相手にしている」
「あ〜」

 クワンパ助けを求め目を泳がせる。こんな人どうやって相手にすればいいのか、棒で叩くべきだろうか。
 マキアリイはようやく助け舟を出してくれる。

「つまりスルグナさんはこういう人だ。正義に熱く燃えている。
 だから、政治権力の横暴や財界のカネの暴力に屈せず、ヤクザや犯罪集団の脅迫にも負けずに訴訟を起こす事が出来る。
 とても頼りになる人だよ」
「はあ。でも、助けてください」

「カネだ! つまりは英雄マキアリイには欲が足りない。カネという翼が有ればささやかな欲でも大きく羽ばたき遠くの空まで飛んでいける。
 クワンパ君、キミは棒を振るって尻を叩き、金儲けをさせなさい。
 貧乏人を助けるのは結構、同じ数だけ金持ちを助けるのだ。大きな正義はより大きな救いとなり、貧しき者弱き者を多く救う事となる。
 とりあえずはそのしみったれた服を彼から脱がせ、質屋に行って他所行きの服を請け出してくるのだ!」

 罵声のような檄を背に浴びながら、クワンパとマキアリイはィメンター法律事務所を後にする。
 カニ巫女は尋ねねばならない。

「所長、一張羅質屋に入れてるんですか」
「おお。普段着ない服は手元に無くてもいいだろ」
「つまりはスルグナさんは、人を訪ねるならちゃんとした服を着て来いと言いたかったんですね」
「言いたかったんだな」

 

 次に会った人はマキアリイと同程度によれよれの服を着ている。
 年齢は50歳くらいか、頭も少々寂しい。

「こちらはカオ・ガラクさんだ。刑事探偵の大先輩だよ」
「これがシャヤユートさんの後任か。なるほどカニ神殿は同じような人間を送ってくるな」

 聞いたところでは、この人は警察局で20年近く捜査官を勤めた末に私立探偵となった。
 マキアリイが警察局に居たのは5年にも満たないから、年季の入り方が断然違う。
 しかし、貧乏なのは同じくらい。事務所はマキアリイ事務所の半分の広さしかない。雑然と書類が散らばる。

「ああ、個人事務所ならこれが標準だよお嬢さん。マキアリイはアレだけ世間の人気になっていながら貧乏な方がおかしい」
「はあ、それは私も変に感じてます」

 警察局の捜査官は巡羅軍と違って、それなりに難しい試験を経た中級公務員だ。
 20年の経験があって転職しようと思えば引く手数多のはずだが、

「お嬢さん、マキアリイが警察局を辞めた経緯を聞いたかい」
「ええ、事件の絡みで同僚を逮捕してしまったとか」
「こちらもご同様だ。定年までじっと黙って心に押し込んでればちゃんと退職金も出たんだが、無理だったよ。おかげで女房にも逃げられてしまった」

 正義とは残酷なものだ。志す者に孤独と欠乏を強いる事となる。

「それでもだ、息子は捜査官に成りたいなんて言ってくれる。これはこれで面映ゆいな」

「クワンパ、俺とガラクさんは補完関係にある。
 もし俺に何か有って連絡が付かなくなったら、ガラクさんに頼んでくれ。ちゃんと探して事件を引き継いでくれる。
 ガラクさんが行方不明になったら俺もそうする」
「はい。カオさんよろしくお願いします」
「うん、お互いあんまり世話を掛けないようにしような」

 

       ***

「大手の刑事探偵事務所ってのもあるんですよね」

 カオ・ガラクの探偵事務所を出た二人は自分達の本拠地に戻る。
 道すがらクワンパは尋ねる。刑事探偵いや探偵業というもので一体どこまで金儲けが出来るのか。
 マキアリイは宙を眺めて考えた。
 人の恥部暗部を暴き出してカネにするのは探偵本来の業務ではあるものの、私欲を満たす為に悪用すれば。

「大手の事務所というのは秘密保持に重点を置き顧客も個人ではなく企業や組織だ。企業同士の戦争は物量で勝負だからな」
「なるほど、次元が違いますから動くお金も桁違いですか」

「よく推理小説や演劇では業務で得た秘密で恐喝する探偵が出てくるが、それで儲かるのは端金だ。本当の金持ちにはなれない」
「そうですねえ、ほんとに本当の金持ちなら恐喝に対する防衛法とか持ってますよね」
「ヤクザを使う奴も居る。1金も払えば請け負う殺し屋だって珍しくない」(1金=10万円相当)
「そんなに安く?」
「実際安いらしいぞ」

 二人は寄り道して、とある混凝石(コンクリート)造りのかなり厳重な建物に入る。
 表には「質屋」の看板が出ているのが、建物の格に合わず不自然だ。
 店内の受付には見覚えのある眼鏡の女が座っていた。にこりともせず応対する。

「あらマキアリイさん、そのカニ巫女は逃げ出さなかったんですね」
「逃げ出したのは一人も居なかっただろ。本日付で本採用にした、クワンパだ」
「本採用になりましたどうぞごしどうごべんたつのほどをよろしくに」

 クワンパが理解するところでは、少なくとも眼鏡女はマキアリイの敵ではなく、自らが得意とする経理で助けてくれる存在だ。
 しかしながら事務員のカニ巫女に対して敵意や反感を持っているらしい。
 前任のシャヤユート姉はきつい性格の人であったから衝突でもしたのだろう。
 自分はどうやって接すればいいか、少し考えた方がいい。

 所長に振り返り、先ほどスルグナさんの所での話を蒸し返す。

「あの、一張羅預けてる質屋ってここですか」
「は? 質屋。」

 眼鏡女がまたしても馬鹿にして鼻で笑う。だって、この建物「質屋」って書いてあるじゃないか。

「クワンパ、この店は「質屋」とは書いてあるが今の主な商売は、近くの中小の商業者に運営資金を貸してる金融会社だ」
「質屋じゃないんですか」

「元は質屋で財を貯めて、先代の経営者が商売を拡大したのです。質屋もやってますよ、質草は土地建物なんかの大物になりますが」

 なるほど、マキアリイ刑事探偵事務所もここから運営資金を融通してもらっていたのか。道理で借金取りが来るはずだ。
 しかし、今日訪れたのはどんな理由で、

「ネイミィ頼む! 3ティカ、いや4ティカ貸してくれ」
「何に使うんですかそんなお金」
「質屋で服を請け出してくる。明日ちょっと偉いさんに会うんだ」
「仕方ないですねえ、じゃあまた貸しですよ」

 眼鏡女ネイミィさんとやらはほぼ即決でマキアリイにお金を貸してくれた。というよりは、なんだこれ?
 ネイミィは自分の懐から財布を出して、どうやら個人的に貸し付けている。
 これは、ヒモだ!

 古代よりカニ神殿では貧困のあまりに売春に走らざるを得ない女達を救ってきた。
 経済的な問題で他に手段が無いのであれば、致し方ない。倫理上褒められたものではないがそれも浮世だ。
 憎むべきは彼女らを食い物にするヤクザの情人、そしてヒモ。
 こいつらさえ始末すれば、貧しいながらも彼女らは一家を支えていける。更生する足掛かりも得られよう。
 故に緋白の紐を巻いた棒で叩きのめすのだ。

 クワンパ、身分証明の為に携えているカニ巫女棒を店内で振りかざす。
 眼鏡女は、しかし落ち着いたまま巫女を止める。この余裕、情婦だからか?

「あんたが何を考えているかだいたい分かるけど、それ全然違うから。マキアリイさんには純粋に商売でお金貸してるから」
「でも返すアテの無いカネを貸すのは、やっぱり愛情ゆえの盲目に陥って、」
「ぐあああああだからカニ巫女嫌なのよ! あのねマッキーさんはね、カネの成る樹なんだから。
 儲かりもしない刑事探偵なんか辞めて全国巡って「英雄マキアリイ講演会」とかやったら、年に1千金くらい軽く簡単に稼ぎ出すんだから。
 その権利! あたしが買ってるのはソレ!」

 なるほど、そういう考え方もあるのか。
 単純に『潜水艦事件』をネタにしても1千金の価値はあるが、英雄探偵として何本もの映画や演劇の主役となった今では倍も十倍も儲かるだろう。
 この女、頭いいな。

「どうもすいません。でもまだ事務所潰れてませんから講演巡業の話は保留ということで」

 素直に引き下がるクワンパに、むしろマキアリイとネイミィが驚いた。
 カニ巫女というものは自分が悪いと悟った後でも、とりあえずマキアリイをぶん殴るものだろう。
 なんだ今度の新人は、天使か聖人か。

 質屋の店内を壊すこと無く表に出た二人。
 だがクワンパはマキアリイに向き直る。やっぱりこいつは言わねばなるまい。

「でもネイミィさん、所長に惚れてますね」
「おまえさっきの説明聞いただろ、理解しただろ」

 確かにシャヤユート姉みたいにぶっ叩いておくべきであった。

   (天使とは天の御使い、救世主のことである。タンガラムにもちゃんと概念は有る)

 

       ***(3話の2

 日が落ちて間もない時刻を「カエル時」と呼ぶ。

 カエル(紫醸蟾)神『ア・ア』は酒と宴と美の女神だ。愚かさに惑う恋愛の神でもある。
 故に歓楽街は古来より「カエル街」を名乗ってきた。
 盛り場が活動を始める夕暮れ以後は当然に『ア・ア』が治める時間帯だ。

 事務員クワンパは所長マキアリイに連れられて、強制的に拘引されて、カエル街に居る。
 案内されたのはちょっと大きくちょっとだけ贅沢な料理店。先日マキアリイが飲んで回った酒場とは比べ物にならない。
 その分飲食代は高価いが、自分達が払う必要も無い。
 待ち受け集う面々が払うわけでもない。すべて経費で落してくれる。

「あーみなさんこんばんわ。本日付を持ちまして我がマキアリイ刑事探偵事務所に本採用となりました事務員「クワンパ」です。以後お見知り置きを」
「クワンパですどうぞよろしく」

 興味津々を通り越して衣服越しにすべてを貫いてしまう視線の集中点で、クワンパは真っ赤になった。
 人生始まって以来これほど人の注目を浴びた事は無い。非常に恥ずかしい。
 取材の記者は15人も居た。これだけの人数になると広間の客席では他に迷惑だから、奥の座敷を借りる。ちょっとした宴会だ。

 ちなみにタンガラムの宴会は古代は床に毛織のじゅうたんを敷いて胡座で輪になって行った。
 今でも野外に宴席を設ける時は胡座で飲んでいる。
 時代が進んで1000年くらい前から椅子席または立食の宴会も増えたが、座敷を持つ店も少なくない。
 なんとなく古代の貴族みたいな気分になるのだ。

「タンガラム全国日報のサーセンです。」
「あどうも」
「東方台新報のャママムですよろしくお見知り置きを」
「あはい」
「ベイスラ中央県新聞です」
「マード出版の月刊女性新世代です」
「ハヴァワート伝映配信社です。今度あなたの先輩のシャヤユート嬢の映画を撮ります」
「あそれはそれは」
「グダン美芸能です。ご存じないかもしれませんが、マキアリイさんが解決した事件の演劇を全国で展開」

 とにかくひとりずつの顔を覚えるだけで精一杯だ。
 マキアリイに、事務所の近辺をうろついていても不審者扱いしてぶん殴らないように彼等の顔を覚えておけと命じられた。
 今日は1社1名しか参加していないが、もちろん何人もが交代で取材をしている。
 今後も覚えるべき人は増えるばかりだろう。

 意外だったのは女性の記者が多い事だ。15人中5名、犯罪報道の血みどろの現場にこれほど女性が居るなんてびっくりだ。
 いやそうではない。彼女らは犯罪捜査に関心があるのではなく、英雄として世間の人気者としてのマキアリイに注目するのか。
 だとすればクワンパ本人にとって最も警戒すべき相手。

「写真を撮りたいと思います。クワンパさん、マキアリイさんの隣に並んでいただけますか」

 大きな写真機を抱えた撮影手が店の外から呼び込まれ、宴席の前の1枚を撮りたがる。
 クワンパも覚悟はしていたものの、報道各社が別々に撮影手を用意してそれぞれが1枚ずつ順番に撮っていくなんて想像しなかった。
 照明の閃光が連続して目が痛い。

「後日お時間を頂いてクワンパさんお一人の写真を撮らせていただく機会を設けたいと思いますが、よろしいですか」
「いやです。」
「はい了解しました。業務ということでクワンパを行かせます」

 所長の無慈悲な言葉に恨みが篭った視線をぶつける。なんでそんなコト安請け合いしちゃうかな。
 小声で文句を言う。

「……それは刑事探偵事務所の業務じゃないでしょ」
「……営業は大事だぞ。無料で宣伝してくれるというものをどうして断らねばならん」
「うぐぐぐ」

 

       ***

 その後記者が代わる代わるにクワンパに質問をしていく。が、素直に喋るようではカニ巫女とは言えない。
 むしろぶっきらぼうに相手にしない方が予想通りのカニ巫女らしさに合致するようで、逆に記者達に信頼感を与えたようだ。

 だいたい分かってきた。
 女性記者は女性誌から派遣されている。女性の視点から英雄マキアリイとその事務員を観察して、読者の要望に応えているのだ。
 まだ若い23才くらいの記者に尋ねてみた。丸眼鏡で服装は抑えめにしているが流行に敏感なおしゃれさんだ。
 シャヤユート姉と自分を較べて、記者の人達はどう考えているのか。

「そうですねえ、実のところシャヤユートさんはウチの読者にはあまり評判良くなかったですね。」
「え? 働きが悪かったってことですか。」
「なにしろ美人過ぎたでしょお、その美貌に負けてマキアリイさんが結婚してしまうのではないかと心配する読者からのお便りがたくさん編集部に送られて来ましたよ。」
「けっこん、ですか。」

 英雄探偵マキアリイ、その気になれば恋人愛人など何人でも作れる。結婚しようと思えば政財界の大物の令嬢を望んでも許されるだろう。
 にも関わらず独身、いや独りで居続けるのは何故か。
 女性読者であればやきもきするのも当たり前。叶わぬ夢とは知りながらも何時かは自分が、と妄想する人も少なくない。
 であれば、師姉ほど美人じゃない自分は大丈夫!

「いやーそれはどうでしょうかね。シャヤユートさんは美人過ぎたのが却ってマキアリイさんの遠慮を生んだと考える向きもありますよ。
 日々暴力と犯罪に直面し神経の休まる暇も無い英雄には、心癒やしてくれる普通の女性の方がふさわしい。そんな考え方も」
「それって、なんか嫌な感じです。」
「今日クワンパさんにお会いして、編集長にその線でクワンパさんの人物設定売り込んでみようかと提案してみます。」

 ぎゃああああと叫びそうになった。こいつらやっぱり敵だああ。

 ふと気が付くと、宴席に呼ばれていたにも関わらず自分は何も食べていない。せっかく上等な店に来たのにもったいない。
 どうせ他人のカネならば遠慮無く食ってやろうと思い直した。
 なにせこいつら商売で自分を呼んだのだ。遠慮すべき何物も無い。

 物色を始めて周囲を見回すと、マキアリイが居ない。何処に逃げた、一人で置いてかれると困る。
 男性30代の記者に尋ねる。

「所長はどこに」
「マキアリイさんは呼ぶ人が居て、ちょっと店の外に。すぐ戻ると言ってましたよ。」

 信用ならない。
 先日尾行した上で理解したのだ、マキアリイの守備範囲はまちがいなくカエル街歓楽街。ふらふらと何処ぞの網焼き屋に逃げ込んだかも。
 とはいえクワンパ逃げるわけにもいかない。なにせ会の主役は自分なのだから。
 でもどうすればお開きにしてもらえるだろう。

 丁度店の給仕が料理の皿を運んできた。焼きゲルタである。
 ただし、これはマキアリイが常食している安物ではない。大ゲルタと呼ばれる別種の魚だ。
 大きくて白身で脂も乗って変な匂いもせず、普通に美味しそう。もちろん値段は張るが今現在ゲルタと言えばこちらを指す事が多い。

「なんで所長は安物のゲルタを好んで食べるんでしょうね。」
「ああマキアリイさんは好きですねえ、ほとんど中毒患者ですよ、軍隊暮らしが長い人は多いんですが、まだ若いのに珍しいですね。」
「変ですよねやっぱり。」
「でもそこが古風だと男性読者には人気なのです。まるで褐甲角王国の戦士みたいだと。」

 民衆協和国が成立する前にベイスラおよび方台西部を治めていたのが、クヮアンヴィタル武徳王率いる褐甲角王国だ。
 カブトムシ(褐甲角)神『クワアット』を奉じる神権国家で、民衆を守るために剣を取る。
 『潜水艦事件』のもう一人の英雄ソグヴィタル・ヒィキタイタンは、その王族ソグヴィタル家の末流だと聞く。

 古代の戦士は、戦士に限らず一般庶民もだが日常ゲルタを食べて暮らしていた。
 戦場の糧食として特に塩を補給する食品として不可欠のものであった。
 一説によればゲルタには人を興奮させる作用が有り、今も暗黙の知恵として軍隊糧食に常用されているらしい。

 というのが、中学校の「家政」の授業でならった食品知識である。
 とにかくゲルタを食う男はかっこいい、という迷信が蔓延っている。

「かっこつけですかね?」
「マキアリイさんはあんまりご自分を演出なさらない方ですが、ひょっとすると有りかもしれませんね。」
「悪癖ですよね。」

 

       ***

「いやーしかしクワンパさんが普通の常識を身に着けておられる方で良かったです。なにせシャヤユートさんは、」
「師姉がどうしました」
「シャヤユートさんも最初にこのような形で記者連中の宴会にご出席いただいたのですが、虫の居所が悪かったのかいきなりカニ巫女の棒で机をもの凄い勢いで叩いてお帰りになったんです」

 そうか! その手が有ったか。
 しかし凡俗のクワンパには真似出来ない。やむなく最終手段を取った。

「すいませんちょっとお手洗いに」

 高級店であれば便所も水洗で綺麗。もちろん男女別になっている。
 手を洗いながら考える。
 この会に出席したのは案外と良かった。自分が知らないマキアリイと、彼を巡る状況がいささかなりと見えてくる。

 彼はしがない刑事探偵として市井に埋もれて過ごしているが、この取り巻きの記者連中の情報網を使えば普通に自分で調査するよりも多くを迅速に知る事が出来る。
 他の刑事探偵よりも明らかに有利だ。
 もちろん記者も活躍する英雄が見たいわけで、無償の協力を惜しまない。
 故に非常識とも呼べる大掛かりな犯罪の摘発が可能になるのだろう。

 明かしてしまえば手品のタネは他愛のないものだが、英雄探偵の役に徹するのはなかなか面倒だ。忍耐が求められる。
 特定の女性を作らないのも役作りの為かもしれない。
 とはいえ、

 クワンパは鏡に映る自らの顔を見る。
 未成年だから酒は飲んでいないが、酒気に少々当てられて赤くなっている。

「まだ本当の英雄探偵の姿を、見せてもらってないなあ」

 座敷に戻る途中横の従業員通路をちらと見る。扉の向こうは店の外で、マキアリイの姿があった。
 何者かと会話している。
 呼びに来た人とはあれか、と気にも止めずに宴に戻ったが、

「何を話しているのだろう……」

 考え出すと頭から離れない。いや、勘が働いた。カニ巫女独特のものだ。

 その後帰ってきたマキアリイは終始にこやかで、男性記者連中と大いに酒を酌み交わし女性記者にはちゃんとおべっかを使って宴を盛り上げた。
 しかしクワンパは見逃さない。
 彼は中座して戻ってきた後は、ゲルタを食べなかった。鳥のカラ揚げやイカのゲソその他のご馳走はちゃんと食べたのに、だ。

 

 宴は2時間でお開きになり、二次会に皆流れていった。
 クワンパはこれでも未成年であるから早々に離脱を許可されたが、後ろから夜の街に漂い出る所長を見て気付く。
 来る時は持っていなかった紙包みを右手にぶら下げている。おみやげか?
 だがそんなものを頼む人間は他に居なかったし、そもそも二次会に行くのに邪魔だろう。
 であれば、途中で彼を呼び出した人があれを持って来たのか。

「それでは所長皆さん、私はこれで失礼いたします」
「おう、気を付けて帰れよ。」

 なんとなく釈然としない。陰謀の臭いがする。
 ただ、腹が減った。記者の質問責めをかわすのに神経を使ってものを食べた気がしない。
 屋台の提灯に「ラヲ麺」と書いてあるのに誘われてふらふらと寄ってしまう。

 だが! ふと我に返り急いで肩から提げている布鞄の中の財布を確かめる。
 食える、かろうじてカネは有る。だがこれを使ってしまうと週の残り半分をどうやって過ごそう。

 いかに実家暮らしといえども自分は現在カニ巫女修行の世間を身を以って知る体験中だ。無駄遣いするわけにはいかない。
 と考えると、しまったさっきの店で食べ残しを持ち帰りにしてもらえばよかった。無念。

 屋台の親父が、この女食うのか食わないのかはっきりしろと顔で示している。
 肩を落して背を向けた。

 「ラヲ麺」とは創始歴5000年頃に方台に光臨したトカゲ神救世主『ヤヤチャ』が、”星の世界の食べ物”と称して自ら穀物の粉をこねて伸ばして作った由緒正しい食品だ。
 それ以前には穀物を紐状に整形して食べる発想は存在しなかった。
 以後多くの料理人が本物の「ラヲ麺」に近づけようと切磋琢磨し工夫を積み重ねて、ついには方台人民の魂を揺さぶる芸術作品に仕立てあげた。
 出汁もゲルタ・獣骨・カタツムリ・昆布・醤油等々様々な味に、麺も幾つもの穀物を絶妙な配合比で練り上げ、上に載せる具も色とりどりに……。

 とにかく腹が減った。

(注:! 地球時間(24時間制)とタンガラム時間(12時間制)は違うのに「1時間」と言ってしまうと紛らわしい。
   以後タンガラム時間の場合は「1時刻」(2時間)と表記する。これまでに書いた分も後日修正)

 

       ***

 週の5日目は店休日という事になるのだが、休まない方の人間になると世間の色んなものが見えてくる。

 そもそもが路面電車は年中無休で動いているわけだし、学生だって学習以外の学校行事や労働奉仕を押し付けられるのが店休日だ。
 カニ神殿で修行中なんか、店休日どころか公休日だって変わらず巫女見習いのお勤めを果たしていたわけだし、
なんで自分がお休みだと思い込んでいたのか、今となってはさっぱり分からない。

「これから行く巡邏軍駐屯地だって年中無休どころか一日中営業中だぞ」
「そうなんですよねよくよく考えれば」
「とはいえだ、そんなに気張っていたら身が保たん。1日12時刻無休で人間貼り付けていると兵隊だって倒れてしまう。
 効率よく休むのが組織運営の秘訣なわけだ」

 本日は巡邏軍の責任者にご挨拶に向かうと、所長は宣言する。
 質屋のネィミィさんにカネを借りて一張羅を請け出してきたのもその為だ。
 クワンパもカニ巫女見習い正装である。白の上着に緋の袴、左右に枝が数本生えた白い帽子も被ってカニ巫女棒で完全装備。
 電車の長椅子に座っていると非常によく目立つ。

「それにしてもですよ、所長は英雄探偵ですから巡邏軍の偉い人と知り合いでしょうが、その事務員が代わったからとご挨拶に行くようなものですか?」
「ああ確かに。シャヤユートの時は行かなかった、というかまだ知り合いじゃなかったからな」
「あそうなんですか。」
「シャヤユートが居る頃にとある事件を頼まれて知己を得た。その後俺達が解決した事件でいろいろと迷惑を掛けてしまい、告訴されないよう骨折りしてもらった。
 お前が挨拶に行くのは、シャヤユートの件がすべて解決して打ち止めですありがとうございましたと御礼を申し上げる為だな」
「なるほど、割と重要な任務ですね」

 尊敬する師姉の代役となれば、気合を入れねばならない。

 

 巡邏軍とは警察局と共に市内の治安維持を担当する組織だ。
 「軍」と名が付く通りにれっきとした軍隊であり、装甲車や大砲だって持っている。教練で小銃や擲弾筒の実弾射撃を行い、爆発物処理の訓練をする。
 当然に市内に演習場は置けず郊外に設けられた。
 だが一方、平時の一般警察業務や消防救急も受け持っており、任務の性質上市内に指令所が配置される。

 ノゲ・ベイスラ市には巡邏軍市内警備指令本部と巡邏軍ベイスラ県中央司令部の2箇所中枢が存在した。
 野外火器演習場を有する駐屯地は県中央司令部の方である。
 マキアリイとクワンパの目的地もこちら。
 のどかな田園風景の中、土塀に囲まれた広大な敷地が見えてくる。

 土塀はタンガラムではごく普通に用いられる伝統的工法だ。
 煉瓦は森林を燃料とする為に自然破壊が大きくなり、石材はそもそもが方台での産出が少ない。
 土と粘土と細かい木の枝を練り込んで積み重ねる土塀作りは、強度的にも安全性からもまったくに問題を認められない。
 雨が当たる箇所に瓦を載せていれば、耐水性も十分である。

 もっとも大砲の弾を防ぐ事は出来ないと思われるが。

 「巡邏軍ベイスラ県連隊駐屯地中央司令部前」電停までの電車賃は3ゲルタ2分。(320円相当)
 先夜クワンパが断念したラヲ麺が1杯2ゲルタであるから、いかに高額で遠方まで来たか分かる。
 情けない顔で所長を見た。

「電車賃、経費で出ませんかね……」
「業務というか、おまえの挨拶回りだからなあ。出ないなあ」
「所長は電車賃払う時、領収書もらってますか?」
「いや俺、市内自在定期券持ってるし」

 あ、ずるい。乗り放題券持ってるんだ。
 もっともマキアリイは事件の調査や各所での打ち合わせにノゲ・ベイスラ市内を飛び回る。
 一々移動費を心配しているようでは業務にも差し支えるだろう。

「私も乗り放題券欲しいです。」
「事務員は事務所で留守番するのが仕事だ。要らんだろそんなもの」
「ううごもっとも」

 

 駐屯地出入り口はさすがに混凝石(コンクリート)造りの詰め所があり、小銃装備青い軍服の歩哨が2名立っている。
 マキアリイは受付で面会予約を確認してもらい、ついでクワンパ共々所持品の検査を受けた。
 巡邏軍は治安維持活動を担当するから不穏分子の爆弾攻撃や毒物攻撃を幾度も受けている。
 隊内に持ち込まれる物品には十分な警戒を払っていた。

 彼等の注意を惹いたのはマキアリイが自ら持って来た煉瓦大の紙包み。油紙で防水され紙紐で厳重に縛られたそれは、一見すると爆発物に思われる。
 受付内で包みの紐を解いたから、クワンパは中身を見れなかった。
 検査を行う兵士は一瞬顔を引き攣らせ眉をひそめ、だが「問題なし」の判定をくれた。

 駐屯地への進入を許された二人。カニ巫女はやはり気になる。

「所長、それ昨日のお披露目会の時、店の裏で誰かからもらった物ですよね?」
「ぅん、なんの事だ」

 怪しい。とてつもなくあやしい。

 

       ***

 巡邏軍ベイスラ県中央司令部。

 実はベイスラのみならず方台中央南部の広大な領域を預かる拠点である。
 南部のイローエント管轄区に比べれば外国人犯罪組織の侵入も少なく治安は安定しているが、山岳地帯と平原地帯、河川と様々な地形的変化に富んだ場所でそれぞれに異なる編成を必要とする。
 特に重要なのが方台中央を南北に貫くスプリタ街道沿いの鉄道線路。方台の大動脈でありこれが分断されると全国経済が破綻する。

 またベイスラは「民衆主義」「民衆国家運動」の発祥地で、現在に至るも活動的政治結社が多く存在し度々騒乱を起こす。

 この難しい土地で重責を担うのが巡邏軍監カロアル・ラゥシィである。(「軍監」は「少将」に相当、上から3番めの位)
 50歳。重厚な古武士の風格を見せる男だが、実は警察官僚としての資質の方が高い。
 巡邏軍という組織においてはもちろん軍人ぽさが指導力に繋がる為に、あえて武人風に自らを演出していた。

 人となりをマキアリイに聞いて、あらかたの情報は事前に頭に入れている。
 子供は2人兄妹で、16歳の兄の方は電気工学に興味を持ち軍人を見向きもしないのが悩みのタネだそうだ。 

 司令官室に通されたマキアリイとクワンパは、しばし待たされる。会議中だそうだ。
 木の椅子に座ったカニ巫女は周囲を見渡して落ち着かない。二人を案内してきた兵士がそのまま直立不動で監視する。
 巡邏軍兵士は任務の性質上重火器の使用は縁遠いが、一般刑事犯罪に備えて回転拳銃を装備する。ちょっと物騒。

 拳銃について一言述べるならば、タンガラム一般社会においては連発拳銃の所持は違法である。
 また金属薬莢の弾丸の一般販売も許可されていない。
 しかしながら紙製薬莢を使う伝統的な単発銃の所持は案外と簡単な手続きで許可された。
 暴動や騒乱の時には百年前の猟銃や軍用銃が振り回され、巡邏軍と衝突する。

「あの、所長」
「なんだ」
「ここってひょっとしたら普通の民間人は入れない場所なんじゃないでしょうか」
「友達ならいいんじゃないかな」
「あの、お仕事の関係で来ているのではないのですか」
「そこらへんの説明は難しいが、俺が解決した事件は巡邏軍の顔に泥を塗るものばかりで、司令官は怒髪天を衝く。個人的なコネがあるから許されてる」
「ひい」

 よくよく考えなくてもクワンパは一介のカニ巫女見習いで、軍隊の司令官どころか大会社の社長にだって会ったことがない。
 社長室てのも見たこと無いが、たぶんこの部屋と似たような広さ重厚さなのだろう。
 軍隊であるから軍旗連隊旗以外の装飾はほとんどないが。

 座っている後ろを振り向くと、案内の兵士がじろと睨む。
 その先の壁には、「タンガラム民衆協和国」国家元首総統の肖像写真が飾ってある。
 あまりにも雲の上の人物であるから、クワンパはこれまで意識する事も無かったが、

「ひょっとすると所長、総統閣下にも会ったことあります?」
「うん」

 しかし、所長が持って来た紙包みは何なのだろう。膝の上に置いて大事そうに右手を乗せている。
 金銭的価値が高いものであれば、営門の詰め所でもっと大袈裟に調べただろう。
 それに歩哨の兵士の呆れたような顔。とても普通の荷とは思えない。

 クワンパは昨夜のお披露目会の様子を思い出す。
 店の裏で所長が会っていた男は、たしか。

 

「いや待たせたねマキアリイ君、会議が長引いてしまった」

 マキアリイはクワンパを促して席を立たせ直立し、入室する司令官を迎える。
 ここらへんが徴兵経験者というものだろう。二人を監視していた巡邏軍兵士と同じ姿勢である。
 司令官カロアル軍監は応接の革椅子を勧めた。
 肩や胸に色とりどりの記章が付いているが、色だけはヒラの兵士と同じ青い軍服だ。

「楽にしてくれたまえ。この娘が新しい君の事務員だね」
「お忙しいところをお騒がせして申し訳ありません軍監。シャヤユートに代わるカニ巫女見習いで「クワンパ」と申します」
「クワンパです。以後よろしくお願いいたします。先代の巫女が巡邏軍の方々に大層ご迷惑をかけたそうで謹んでお詫び申し上げます」
「ほお……」

 カロアルは自らの執務机に就いて、茶色の口髭を触った。
 常識的な事を言ってみせるクワンパを値踏みしているようだ。
 彼と共に入室した副官と当番兵もそれぞれの位置で訪問者を見つめる。

「……確かに大層なご迷惑だった。背筋が寒くなる、と形容してもいいくらいだな」
「!       。」

 クワンパ二の句が告げられない。
 分かっていた事であるが、さすがは師姉。バンザイだ。

 

       ***

「いや責めはしない。それが古代より続く十二神殿夕呑螯神に仕える者のあるべき姿だから咎め立てしない。
 問題はむしろ、マキアリイ君の英雄的活動にまんまと出し抜かれてしまう我々巡邏軍の方に有るだろうな」

 と副官を睨む。
 痩身中年の副官も遺憾の意を顔面に悲痛に浮かべながら、無言で応じた。
 当然の反応だ。英雄探偵活躍の裏には、それまで悪を見過ごしてきた治安維持・警察機構の不手際が存在する。
 国家を揺るがす重大犯罪が一介の刑事探偵の個人的な能力によって暴き出され、権力者達が一網打尽に罪に問われるなど本来有ってなるものか。

 もっとも県中央司令部では個々の事件に直接は関与しない。
 とばっちりを受けているのはノゲ・ベイスラ市の指令本部の方だ。
 カロアル軍監としては、部下にはっぱを掛ける為にマキアリイを大いに讃えた方が効率がよい事になる……。

 

 以後しばらく、マキアリイとカロアルは「おとなのはなし」を続けた。カニ巫女なんかは蚊帳の外だ。
 話を黙って聞いていると、概ねの状況が読めてくる。

 カロアル軍監は若くして昇進を遂げた有能な人材であるのだが、さらに上、巡邏軍の頂点に昇り詰めるには手駒が足りないらしい。
 つまりは政界での後ろ盾。
 巡邏軍という組織が政府与党の権力の玩具として機能するには、人事において相当なエコヒイキが必要なわけだ。

 本来であればカロアルの出世はここまで。一般庶民が見ればもう十分に思えるが、野心ある者としては中途半端で面白くない。
 だが政官界はここ数年大激震を起こしている。
 数々の汚職や権力犯罪、またその隠蔽行為が次から次へと暴露され、政権与党は大打撃。野党や報道各社の激しい追求を受けふらついている。

 騒動の元はヱメコフ・マキアリイ。

 英雄探偵と呼ばれるほどの大活躍派手な犯罪摘発は、つまりはそういう事なのである。

「そうか、所長の政治的利用価値はそんなに大きかったのか」

 司令官殿はお忙しい。副官が腕時計を見て次の予定に移るべきと進言する。
 いかに英雄と呼ばれる人気者が訪ねてきたとはいえ、無理をして時間を割いてくれていたのだ。
 別れを告げる代わりに一言、カロアルは尋ねた。

「練武場の方には寄るかね?」
「ええ久しぶりに」
「うむ、みっちりとしごいてやってくれたまえ」

 

 その時クワンパは見た。
 マキアリイが持っていたはずの紙包みが、いつの間にかカロアルの手の中に有る。
 彼は副官や当番兵の目を憚るように、執務机の引き出しに隠そうとする。さりげなく。

 どのように受け渡しをしたのか。
 否、問うべきは。

 緋色と白の紐を巻いた尺3杖のカニ巫女棒は自らの意思を持つ。
 クワンパも最近思う。自分の脳は頭の中に有るのでなく、右手に握るこの杖ではないかと。
 考えるよりも感じるよりも早く、正義が執行される。

 雷電の如くに棒は走り、カロアルの背後に回って閉めようとする引き出しを押さえ、紙包みを縛る紐を引っ掛けて宙に跳ね上げ、
机の上に叩きつけた。
 武術の達人マキアリイが止める暇も無く、兵士が制止の声を上げるよりも早く。
 カニ巫女クワンパはふぅーっと深く息を吐いた。

「そういう事だったか。よもや賂の品であったとは」
「ま、まてクワンパ。話を聞け」
「ま、マキアリイ君これは一体」

「昨日昨夜からずっと変だと思っていたんですね。所長が店の裏で小声で話していた、
 ”正規の販売路では流通できない”、”既に公の場から追放された”、”特別に極秘の入手先が” 云々を」
「くそ、地獄耳め」
「クワンパ君落ち着き給え、たしかに我々が悪かった。密かに受け渡すのを怪しく思うのも仕方ない、だが」
「問答は必要ありません。中身を見れば分かることです」

 再び棒を振り上げ、机の天板も割れよとばかりに紙包みを烈しく叩く。
 油紙が弾け飛び、中から白い粉が吹き出した。
 呆気に取られて見守っていた副官、当番兵、そして案内の兵士もあっと声を上げる。

「……薬物、”恐怖の白い粉”、ですか」

 

       ***

 タンガラムを裏で侵食する恐るべき薬物である。当然非合法、ではない。
 実際には精神依存性だけで若年でなければ身体への悪影響はほとんど無く、それどころか一般食品にだって微量に含有されている。
 だが精製して純度を高めたモノは恐るべき破壊力を発揮した。

 創始歴5500年代、宗教団体「ピルマルレレコ教団」はこれを密かに混入した餅を「聖餐」と称して信者に与え、精神的奴隷にしたと伝わっている。
 信者は粉の魔力に冒され王国の法や十二神信仰の掟を忘れ、家族親族も顧みずに教団への絶対的帰依を誓い、財産のすべてを盲目的に喜捨したという。
 教団の勢力は全方台を覆い尽くし、すべてが悪の手中に落ちる寸前にまで陥ったらしい。

 現在の「タンガラム民衆協和国」においても第一級の危険物として巡邏軍・警察局および国民保健局による厳重な監視下に置かれる。
 しかしながら微量を用いれば非常に有用な化学薬品でもあるので、純粋な結晶ではなく混ぜ物をした極めて薄い濃度で供給されている。

 もしも巡邏軍司令官が”粉”のヤミ取引を行っていたと世間に知れれば、それこそ政府が吹っ飛ぶほどの大事件になろう。
 図らずも英雄探偵の名は世間に轟き、永遠に語り継がれる事となる。

 マキアリイは必死でカニ巫女をなだめた。
 司令官室の物音は外にまで響き、既に数人が廊下に集まってきている。これ以上騒ぎが大きくなれば本当に手が付けられない事態に。

「クワンパ、まて。よく見ろ、そして舐めてみろ」
「なにをばかな」
「いいから舐めろ、それで分かる。お前の考えている”粉”じゃない」
「じゃあなんだと言うのですか。動くな! そこ、壁に並べ。手は頭の上だ」

 兵士が腰の回転拳銃に手を伸ばそうとするのに、クワンパは鋭く眼光を飛ばす。
 なにせ軍監が人質にされた格好であるから、逆らえない。
 カロアルも、包みから吹き出した白い粉を指に付けて、説得する。

「クワンパ君、私が舐めるから、それで判断してくれたまえ。いいかな、いいな」

 粉に塗れた人差し指をカロアルは口に含む。何も起きない。
 薬物依存患者が示すであろう数々の異常行動は見られない。
 訝しむままに、クワンパも包みに左手の指を突っ込み、舐めてみる。

「ぅぺぺぺ、辛いじゃない!」
「どうだ分かるな、塩だろ」
「塩です。というか、普通の塩じゃないですめちゃくちゃ辛い」
「不純物が多いから逆に塩辛さが引き立つんだ」

 棒を脇に挟んで、両手で破れた紙包みを大きく開く。
 中からはおびただしい塩の粉と、砕け散った薄い板の端切れが幾つも出てくる。
 板、ちがうこれは魚だ。開いた魚の干物を幾重にも重ねて塩に閉じ込めていたものを、私がカニ巫女棒で叩き割った。

「……ゲルタですね」
「そうだ、塩ゲルタだ」
「こんなに塩して、バカですか辛くて食べられないじゃないですか」
「それが古代風の製法で作ったほんもののゲルタだ。今売っているのとは根本的に違う」
「なんでこんなものをこそこそとやり取りするんです?」
「それはー、」

「それは私が説明しよう」

 カロアル軍監はカニ巫女棒から解放され、立ち上がって軍服全身に浴びた白い塩を両手で払う。
 再び舐めて、舌を突き刺す辛さに眉をしかめる。

「若いクワンパ君には理解できないだろうが、軍隊生活兵営生活が長くなると食事に出されるゲルタに異常に執着する者が発生する。
 俗に言うゲルタ中毒患者だ。と言っても病的なものではない、ただ単に栄養が偏って不健全であるだけで害は無い。
 だが更に症状が進むと数日も食さぬと禁断症状が発生して、気力が失せ鬱な気分となり」
「やっぱり依存症じゃないですか」
「いやいやそこでこの古代風ゲルタを与えるとたちどころに症状が緩和され戦う気力を取り戻し、それどころか溌剌として英気溢れ。
 いやそこまでは言い過ぎた」

 若いカニ巫女が目を細めてじっと睨むのに、軍監も己がいかにも中毒患者の言い訳っぽい話をしていると気が付いた。
 ここは素直に真実を語るべきであろう。

「あーつまりは私は、この異常な嗜好品であるところの古代ゲルタをマキアリイ君に調達してもらい、隊内の同好の士と分け合っていたのだ。
 もちろん違法ではないし軍規に触れるものでもない。
 ただちょっと、     恥ずかしいだけなのだ」

 マキアリイの顔を見る。大きくうなずいた。
 副官を見る。同様に。
 兵士2名を見ても同じく肯定する。

 大の大人が魚の干物1枚で欣喜雀躍する姿は、たしかに見栄えがいいものではない。
 人間こうなっちゃオシマイだ、と軍を離れる事を決意する者も出るだろう。

 クワンパは考える。
 これはどう裁きをつければ良いものか。
 大きな机の上に散らばる白い粉と情けなくばらばらに砕けた灰色の魚の身と。
 誰が一体悪いのか。

 とりあえず、紛らわしい真似をした所長を叩いておこう……。

 

       ***

 巡邏軍の練武場は中学校の体育館と変わる所が無い。
 木造で床は板張りで高い所に明かり取りの窓が大きく幾つも開かれ、そして汗臭い。

 屈強の男達が整列して英雄マキアリイを待っていた。

 巡邏軍は無論街頭治安維持活動の時は完全装備で配置される。
 回転拳銃を持つし鉄帽を被るし盾や棍棒も装備する。防弾ではないが投石や棒で殴られる対策に防護服も着用する。
 しかしながらやはり基本は素手の格闘だ。
 殺傷ではなく逮捕を目的とした任務であれば、日頃鍛えた武術の技が有用である。

 練武場に集うのは即応攻撃隊第一班30名。ベイスラ県部隊の最精鋭だ。
 クワンパは、マキアリイも結構背が高いと思っていたが彼等を見て考えをちょっと改めた。
 貸してもらった運動着に着替えた所長に忠告する。

「やっぱりやめた方がいいんじゃないですか」
「うんまあ、確かに彼等と同じ事をするのは骨だな」

 マキアリイはいつものとおりに平静のまま、兵士の前に出て行った。
 隣に立つ一人だけ運動着ではなく戦闘訓練服の第一班班長が訓示する。

「本日は英雄探偵として名高いヱメコフ・マキアリイ氏が諸君等に徒手格闘術の模範を示して下さる。
 各員遠慮無く御教授賜るように」

 つまりはひとりずつ全力で戦えというお話だ。
 マキアリイが強いのはクワンパも理解するが、戦闘の専門家を相手にどの程度通じるか。
 兵士達は練武場の壁際にぐるりと取り囲むように下がり、1名強そうな、利かん気そうな若いのが前に出る。
 たぶん第一班の新人であろう。

 班長はクワンパの隣に立ち解説もしてくれる。
 最初の兵士に手順を説明する。

「今回の訓練はヱメコフ氏を凶悪犯と見立てて素手で逮捕するという設定だ。武器は持たず防具も着けていないが打撃は許可する。ただし止めは刺さない。いいな」
「ハッ!」

 そんなのでいいのか、とクワンパは驚いた。せめて頭を保護する防具くらい。

「はじめっっ!」

 マキアリイは中央で構えることなく自然に立っている。隙だらけだ。
 兵士は先輩からマキアリイの実力の程を説明されているのだろう、慎重に構えて右拳を前に出した打撃の型。
 「あ、だめだ」とクワンパは理解した。格が違う。

「   !」
 無声ながらも激しい気合と共に突っ込んだ兵士は、簡単にかわされる。
 そのままパタリと木の床に横倒しになってしまう。動かない。

「それまで! 馬鹿者っ、そんな打撃が上級者に通じるわけあるか!」

 名誉の為に説明すると、彼も最初から打撃で倒しに行ったわけではない。
 一撃当ててマキアリイの反応を引き出し攻防戦を行おうと考えた。

 ただマキアリイは動かない。拳が当たる瞬間まで本当に棒立ちだったのだ。
 それは、そのまま突き込む。
 そして見事にかわされ、脇腹に肘鉄を食らってしまった。終了。

「次っ!」

 2番目も新人だ。先頭があまりにもあっけなくやられたから、慎重に防御の構えで応じる。
 消極的と思えた瞬間、マキアリイの右手が彼の頭を上から押さえている。
 そのまま真下に叩きつけられた。打撃でも投げでもなく、押し下げただけだ。
 だが身長分の高さから木の床に激突すれば、衝撃も尋常でない。終了。

「次コラムっ!」
「ハッ!」

 指名されたのは、新人であっても何らかの格闘競技の選手であろう。
 動きも構えも前二人とは明らかに違って堂に入っている。おそらくは競技会での優勝者が巡邏軍に高待遇で迎えられたのだろう。
 両手を烈しく交互に前後させ、付け入る隙を見せない。
 これは「サンガス練方」と呼ばれる格闘技の動きだ。
 クワンパもカニ巫女などという荒っぽい世界に身を置くから、多少は格闘技も知っている。

 「サンガス練方」は打撃よりも投技に重点を置く角力から発展した格闘技で、……。

 マキアリイに練武場の壁までふっ飛ばされて、囲む兵士達に衝突する。
 肉の壁で止められて無傷であったから再び挑むが、またしても床に叩きつけられ腕を捻られ取り押さえられた。

「所長、つよい」
「おう。」

 思わず口を突いて出た言葉に、軽く応じてくれた。
 班長がクワンパに説明する。

「これが『ヤキュ』の動きです」
「「ヤキュ」てのは「シュユパン」の親戚の球技でしょ。何故ここまで強いんです」
「「ヤキュ」の球は時速100里(約100キロ)を大きく超える速さでぶつけられるので、これに慣れると人間の動きなど止まって見えるのです。
 また「ヤキュ」では相手の攻撃を身体に受けると負けになりますから、とにかく当たらないように努力工夫をします」
「ああ、それでまったく触られないんだ」

「巡邏軍の集団での任務で使えるかは分かりませんが、個人的にはご覧の通りに無敵ですね」

 

       ***

 1人2人では埒が明かないから、3人で襲う事となる。

 巡邏軍即応攻撃隊第一班班長が言うには、マキアリイ本人の申告では4人以上が相手なら逃げながら戦うしか無いそうだ。
 その場に留まって戦うなら、3人が限界。
 しかし実際の戦闘であれば逃げて動いて有利な立ち位置を確保するから、3人に囲まれるのもほとんどあり得ない。

 襲う3人の内1名は1杖(70センチ)の短棒まで持っていた。
 実際に犯罪者を逮捕する時は武器を用いるのが当然で、より実践に近い形。
 しかも背後の完全な死角から攻撃する。

 マキアリイは、打ち込んできた棒を見ること無く、振り返りもせずに鮮やかにかわすと、右手で棒をもぎ取ってついでに持っていた兵士を投げてしまう。
 投げる先にも兵士が居て衝突し、2名がもつれて倒れ動きが止まる。
 その間に残る1名を片付けて、3人まとめて地面に押し付け拘束してしまう。

 冗談のような強さ。兵士達は皆感歎の声を漏らす。
 班長はクワンパに説明、と言うよりはほぼ弁解した。巡邏軍の精鋭は決して弱いわけではないと。

「マキアリイさんは、これを夜の闇の中でも出来るそうです。夜に戦ったら勝てる者はこの方台には居ませんね」
「刃物とかでは?」
「今見たとおりに、早々に取り上げられてしまうでしょう」

 であれば、なんでカニ巫女棒にわざわざ当たっているのだろう。さっと避ければいいものを。

 

 巡邏軍中央司令部の訪問を終えた二人は、営門前商店街の小汚い定食屋に立ち寄った。

「ここは巡邏軍の兵士が外出日に遠出する際に、とりあえず腹を満たして行こうと立ち寄る安くて量がたっぷりの店だ。新兵には大人気だ。」
「なるほど、今の私達には救いとなる所ですね。」

 財布の中身が寂しいクワンパにとっても実に頼もしい店だ。しかもマキアリイが奢ってくれるという。
 カニ巫女は目を細めて英雄探偵の魂胆を探る。

「まさか懐柔しようとか言うんじゃないですよね。怪しげなゲルタ商売の片棒を担がせる」
「だからカロアル軍監殿は外部とは頻繁に接触できないから、俺が代わって売人と会ってるだけで」
「だからなんで「売人」呼ばわりなんですよ。そもそもカロアルさんとはどうやって知り合ったんです」
「話せば長いことながら、巡邏軍駐屯地内にて備蓄していた食料の不可解な数量不足を発見して、内部監察でなく外部で調査してくれる人間をと頼まれて」
「それって、ゲルタが無くなったとかですか?」
「何故分かる!?」

 店員の多少トウの立ったおねえさんが注文を取りに来た。
 献立表を眺めるクワンパを尻目に、マキアリイは。

「焼きゲルタ定食」
「はいゲルタ一丁」
「ちょっとまて。」

 カニ巫女事務員の冷たい視線を浴びて、さすがに撤回する。今日くらいは別のものを食べろと無言で強制される。

「それやめて、イカ煮付定食」
「はい。こちらの方は」
「カラリ飯」
「はい。イカ煮とカラリー!」

 厨房に注文を叫ぶ。

 「カラリ」とはタンガラムの西の海の果てにある別の方台、異国「シンドラ」の料理である。
 シンドラは香辛料大国で大量に煮炊きに使い、黄色い汁をコメの飯に掛けて食する。

 創始歴5000年代の初頭ほんの一時期、タンガラムはシンドラと交流があったとされる。
 その時にコメやムギと共に幾つかの香辛料も到来した。
 「カラシ」もその一つだ。

 「カラリ」、シンドラでは「カリ」と呼ばれる料理を再現しようとしたところ、「カラシ」が主要材料として採用されてしまう。
 つまりはカラシ汁をコメやトナクにぶっ掛けて食べるタンガラム風「カリ」が「カラリ飯」である。
 美味しい。
 タンガラム人民の舌に合うように千年を掛けて調整工夫されてきたものであるから、不味いはずは無いのだ。

「ところでな、クワンパ」
「はい所長」

 どんぶり飯をヘラでかき込みながら、聞く。正直食べるのに夢中でどうでもいい。
 マキアリイはショウ油で煮たイカを箸でつつきながら、やはりゲルタでないと食べるのにも気合が入らないようだ、業務命令を下す。

「明日はな、」
「はい」
「明日は何がナンであろうが絶対に事務所に来い」
「当たり前じゃないですか仕事なんですから」

「そうだ仕事だ。社会人なんだから、ゼッタイだぞ」

 

(第四話)

 目が覚めると、混乱した。ここは何処だろう。
 布団がふんわりと柔らかく暖かい。
 そんなはずはあり得ないからまだ夢の中かもしれない。
 ならばもっと眠っていよう。起きればまた厳しい修練の一日が始まる……。

 ! 違う。仕事だ。
 英雄探偵マキアリイの事務所で、カニ巫女の、学校が、
 数年分の記憶がごっちゃになって襲ってきて、びっくりして飛び起きた。

 ここは自分の家自分の部屋、カニ神殿の巫女見習い寄宿舎から戻ってきて世間修行の真っ最中。
 今何時だ?

 心臓がどきっと拍って、遅刻の恐怖が襲う。
 置時計を見ると、「4時前!」    (タンガラムは12時間制で0時が無い 地球時間だと午前6時ぐらい)
 ふーっと長く息を吐く。大丈夫問題ない、まったく時間通り。
 カニ神殿の寄宿舎ではもう半刻早く、日の出前に起きる習慣だったから驚く必要は無かったのだ。
 第一寄宿舎の毛布は薄っぺらくて冬場は寒くてよく眠れない。

 別の心配を思い出した。所長のマキアリイに念を押された事だ。
 「今日は必ず出勤しろ」 当たり前を何故わざわざ命じなければならないのか。
 自分はまた、なにかとんでもない勘違いと見落としをしているのではないか……。

 正解は元気な男の子の姿で登場した。

「姉ちゃん姉ちゃん、新聞! 新聞にカリュねえちゃんが出てる!!」
「それかぁっ!」

 小学生の弟ファサナンが朝起きて一番の仕事、玄関先に配達された新聞を取りに行ってびっくりした。
 一面先頭の記事に、「英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ事務所に新人カニ巫女配属!」の大見出しが。
 自分の姉の顔写真が大きく載っていれば、もちろん飛んで知らせに来る。

 弟が左手に持つ新聞をひったくろうとして、取り逃がす。
 彼はそのまま階下に降りて父母に特急で持っていくのだ。

 

 カニ巫女見習い「クワンパ」、本名メィミタ・カリュォートの自宅はノゲ・ベイスラ市内の階段集合住宅だ。
 垂直に立つ高層集合住宅よりも庭の有る一戸建てが欲しい、という中間所得者層向けで斜面に同形式の戸建てを階段状に並べている。
 ガス水道電気設備を共有化する事で建設費を抑える事が出来た。
 高低差の大きいノゲ・ベイスラでは割と多く見る形式。

    (注;ガス、はガスでいいや。「瓦斯」なんて逆に不自然だし、「燃気」とか訳語を考えたけど胡散臭すぎた)

 クワンパ、いやカリュォートの家族構成は父母弟の四人家族。郊外には父方の祖父母と叔父一家も住んでいる。
 父メィミタ・サダスンは大手流通会社のベイスラ支店営業部長を務める。
 母カラハナナも実家は素封家で、まずは裕福な家庭と言えるだろう。
 カリュォートはお嬢様と呼ばれても不自然ではない境遇である。

 それが何故カニ神殿の巫女という過酷にして富貴とは無縁の世界に身を投じるか、には現代社会の宿痾を解説せねばならないのだが、
とにかく両親はカリュォートが家に戻ってきて安堵している。

 そもそもが娘をカニ巫女にさせようと思う親は居ない。機会があれば俗世間に取り戻そうと様々に画策する。
 カニ神殿においても、親の心配を考慮して1年半の長期に及ぶ「世間修行」を巫女見習いに課していた。
 その為に修行中の勤務先にはなるべく安楽な職場を斡旋するのが普通で、カリュォートの父にすればいとも容易い業であった。
 だが娘は、

 

 2階の自室から寝間着のまま降りてきたカリュォートは、
既に食卓に就いている父、父に新聞を運んできて得意気に解説する弟、朝食の準備をしながらも上から新聞を覗き込む母、の姿を見る。
 父は娘を見て、開口するに、

「おまえが英雄探偵のマキアリイさんの所に勤めている、というのは本当の話だったんだな」
「当たり前じゃない」
「いや、こうして新聞にまで載っているのを見て初めて実感した。これは大変なことだぞ」

 うんうん、と弟も首肯く。
 「潜水艦事件」は彼が生まれたばかりの頃の話だからよく知らないが、その後の探偵としての活躍はまさに天下の英雄。小学校でも模範の人物として高く評価されている。
 学校の先生も、「マキアリイさんのようにいつも正しくありなさい」と諭すほどだ。

 その英雄の事務所に、助手として自分の姉が勤めている。
 学校で言いふらして自慢したいところだが、固く姉に禁じられた。
 英雄たるもの自らの功績をおおっぴらに誇るものではない、と言われれば準じて従わざるを得ない。

 母はさすがに心配する。英雄探偵マキアリイ活躍の裏には、常に血腥い陰謀と理不尽な暴力が付きまとう。

「カリュ、危ないことは無いの?」
「勤めた初日に事務所にヤクザの鉄砲玉が短刀抱えて殺しにきましたが、あっさりと窓から投げ捨てられて病院送りです」

 おおおー、と男二人は感動する。さすがはマキアリイさん、雑魚の刺客など歯牙にもかけない。

「強いの? 姉ちゃんやっぱりマキアリイさんはホントに強いの」
「昨日巡邏軍の中央司令部に行ってきました。巡邏軍の精鋭即応攻撃隊第一班の兵士達を、3人掛かりで襲ってきても簡単にやっつけてたよ」

 おおおおおおー、と男二人は興奮する。
 本物だ、これこそ本物の英雄だ。掛け値無し何一つ紛うこと無き真の強者、英雄探偵ヱメコフ・マキアリイその人だ。

 母は溜息をつく。こんなはずではなかったのに、こんな危ない職場に勤めさせるはずではなかったのに。

「……。カリュ、早く支度を済ませて朝ごはん食べなさい」

 

       ***

 裕福な家庭の朝食を特徴づけるものとして、ゲルタの臭いが存在しない点が挙げられるだろう。

 かっては方台の食の根幹を為すと称された塩ゲルタも、冷蔵技術や鉄道による運搬が普及した現代にあっては過去の話と成り果てた。
 出汁を取るのにも昆布や茸、ゲルタに代わって大ゲルタの燻製、更には科学技術を用いて固形化した簡易出汁粉末も市販される。
 味噌ショウ油麹等発酵食品はタンガラムの得意分野で、一般市民が広く利用するばかりでなく国外に輸出するまでにもなった。
 牧畜が組織化され食肉や乳製品の供給も増大し安価に市場に供給される。ゥアム帝国からニワトリが導入され採卵農家も増えている。
 今ではよほどの山奥でもない限り、海で漁れた魚介類をナマのままで販売できるまでになった。

 かっては芋の混ざった餅を主食としていた一般庶民にもトナクやコメが供給され、よほどでなければ飢える心配も無い。
 これすべて科学技術農業技術の進歩の賜であり、民衆協和国の国民福祉の精華である。

 メイミタ家の朝の食卓を見ても、現代が光り輝いていると言えるだろう。
 ましてやカニ神殿にて寄宿生活を送ってきた身にすれば、贅沢の極みで目と舌が潰れそうだ。

「これはまずい」

 カリュォートは、いや心中「クワンパ」に戻って考える。この贅沢さに慣れてしまうと心が揺らぐ。
 母はほかほかと湯気が漂う白く炊きあがったトナクと、乳脂を塗った丸い蒸し麸のどちらを食べるかと選択を迫る。
 選択肢が有る献立、それ自体が考えられないほどの富貴である。
 薄く切った荒猪塩漬け肉に卵を落とし、上に香菜と甘辛いショウ油タレを垂らした目玉焼きなど、寄宿舎では話に出すのも罪深い御馳走だ。
 これが当たり前の生活、当たり前の人間が目指すべき暮らし。
 ああっ、その上にまだ蕩ける乳酥を注ぐ!

 マキアリイがどうしてゲルタに拘るのか、一端が分かった気になった。

 英雄だ正義の使者だ国民の模範だなどと持て囃され世間に担ぎ上げられ大衆の羨望する対象となっても、各界著名人が声を揃えて褒め称え美姫がかしづき旨酒の杯を捧げても、
舌を抉る苦味に日頃慣れ親しんでいれば己を見失う事も無いだろう。
 所詮は一兵卒、と自らの立場を思い知らせてくれる。

 母が追い打ちを掛ける。

「カリュ、あなたお昼代は有るの。電車賃は大丈夫?」

 だいじょうぶではない。かろうじて電車賃は有るが、3日分を差し引くと昼飯代が消失してしまう。
 歩いて行くにしても家から事務所まで半刻半(約1時間半)、往復1刻半を無駄にするくらいならその分正義に当てるべき。
 カニ神殿で教わった。「正義とカネを天秤に掛けるべからず」
 しかし腹が減っては正義も行えない……。

「お弁当、つくろうか?」

 またしても母の誘惑。だが背に腹は代えられない。
 昼飯代の心配で3日をビクついて過ごすくらいなら、恥を忍んで持参すべき。
 弁当箱の中に詰めるものも極力貧相なものに、自分の手で選ぶべきだろう。
 修行中のカニ巫女見習いとして最低限の意地を見せねばならぬ。

 あと3日、週末には待望の初給料が待っている。
 たかが4ティカに過ぎないが、そして次の週末までとても保ちそうにないが、それでも。

「……べんとう、自分で作る」
「そう?」

 だがクワンパには勝算が有る。
 自分の前には3人の尊敬すべき先輩巫女が同じ条件でちゃんと過ごしてきたのだ。
 なにか裏が有るはず。給料が少なくても生きていけるカラクリが絶対に存在するはず。
 それさえ見つければ、おそらく。

「本採用になったから所長が交通費支給してくれるはずで、定期券を買えるから大丈夫」
「ならいいけれど、困ったら遠慮なしに言うのよ。何が大事かってマキアリイさんの脚を引っ張るような真似だけはぜったいにやっちゃいけないのだから」

 母の言は一々正しい。事の軽重を見誤ってはならない。
 自分は刑事探偵事務所の単なる事務員に過ぎないのだ。
 英雄探偵の活躍を妨げる足手まといには死んでもなってはならない。
 一時の恥など恐れてはならぬ。細かい銭計算にこだわってもならぬ。物惜しみをしてはならぬ。
 財布の中身が空っぽであれば、ネコ手紙にこづかいやって受け取ることすら出来ない。

「おかあさん、ごめんなさい。どうしても電車賃は予備が無いと困る」
「はいはい」

 だめだやはり。実家に居てはどうしても最後は甘えてしまう。
 早急に部屋を探して独立せねば。だが週給4ティカで借りられる部屋が何処に存在するだろう。
 考えなくては、かんがえなくては。

 

       ***

 紺色の事務員服に着替えて、玄関傘箱に突っ込んでいたカニ巫女棒を引き抜いて、覚悟気合を入れ直して顔面の表情を厳しく引き締めて、
玄関の扉を開けて表に出たクワンパは、一瞬で家に戻ってきた。

 ご近所さんが、もちろんクワンパを良く見知っている人達が外に出て自分を待ち構えている。
 言わずと知れた新聞記事のせいだ。

 なるほど、昨日所長マキアリイが「ちゃんと仕事に来い」と念を押すはずだ。
 とってもとっても恥ずかしい。だが正義と信義の為に行かねばならぬ。

 表靴を履いたまま家に上がろうとするクワンパに、弟ファサナンが叫ぶ。

「姉ちゃん、放送でも姉ちゃんの話してる!」
 電波による無線放送は電離層が混乱するタンガラムでは一般的ではない。
 音声放送は電話と同じ通信線を用いて有線で行われる。有線伝声機、だ。

(注;テレビ、は各家庭が所有するまでには至っていない。「伝視館」と呼ばれる小劇場で有料で鑑賞出来る)

 朝の放送は主に天気予報や政府広報、前日の事件事故あるいは芸能情報なども伝えられるのだが、
本日第一番の話題はなんと言っても、「あの英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ氏の事務所に新人巫女配属!」である。
 他に何を伝えるべきか。
 ちなみに朝の放送は全聴取世帯の6割もが聞いている。
 クワンパの存在は方台全国津々浦々までも知られる事となるのであった。

 逃げよう、という気楽な選択肢はカニ巫女見習いには存在しない。
 世間に負けて己が筋を曲げたなど、死んだ方がマシである。
 だがさすがにこの状況は。

「姉ちゃんいってらっしゃい」

 弟に見送られるクワンパは、姑息にも手ぬぐいを覆面として表に出た。
 無論近所の人には隠しようもないが、そもそも自分を知ってる人を欺く方法も無い。
 だが見ず知らずの赤の他人であればなんとか誤魔化せるのではないか。

 覆面姿のままで路面電車を待つのは苦痛であった。
 正体はバレていないと思われるが、カニ巫女棒はいかんともし難く持ち主の身分を明らかとする。
 明日からはもう半時刻(1時間)早く家を出よう。
 少なくとも中学校の生徒が居る時間は避けるべきだ。

 こういう時に限って電車は何時まで経っても来ない。来ない、こない。
 いやいつもどおりではあるのだが、普通にわずかに待つのだが、その数分が針のむしろ。
 ようやく到着した電車には、当然に朝の通勤通学客が満載されているのである……。

 おじさん、何故狭い車内で新聞を読む。殴るぞおら。

 

「……、シャヤユートはそんなものは被らなかったな」
「私は凡俗の徒でありますから、師姉とは違うのです」

 必死で辿り着いたマキアリイ事務所である。一生分の忍耐力を使い果たしてしまった。
 金文字のガラス扉を開けて転がり込んだクワンパに、所長は残酷な言葉で評した。
 ええもちろん、私なんかどうしようもなくつまらないクズでございますよ。覚悟なんかまるで出来てやしない。

「ところで所長、私本採用となりましたからには交通費が支給されるはずですよね」
「そういう事になるな」
「実家までの定期券代を申請しますからください」
「やぶからぼうに要求するな。だいたいお前、ほんとにそれでいいのか?」

「いいのか、とは」
「いや、実家暮らしは緊急避難的措置でどこかで一人暮らしをするのがカニ巫女世間修行の筋ってものだと俺は理解しているのだが、」
「ううううう、そうです近日中になんとかしなくてはなりません……」
「今定期券買うと損するぞ」
「ごもっともでございます」
「回数券でなんとかしろ」
「はい」

 クワンパ、覆面を解いて自分の定位置事務員席に座る。
 やっと息が吐ける。仕事をしている最中はさすがに世間の評判は気にしなくて良い。

「クワンパー、」
「なんでしょう所長」
「今日は半時刻早く上がっていい。特別任務を与える」
「はい、なんでしょうか」
「近所の伝視館に行って芸能情報番組を見てこい」

 血圧が間違いなく3分の1倍上がった。
 芸能番組だぁ、今日の本日の中心話題は誰がどう考えても自分じゃねえか。
 私に恥の上塗りをしろとおっしゃるか!

「いや、世間が自分をどのように評価しどんな期待をしているか。あるいは悪意を持って伝えているか、ちゃんと自分の目で確かめてこい」
「なぜそのような無慈悲な任務を、」
「これがお前が選んだ世間修行だからだよ。
 普通のカニ巫女見習いなら正義とか犯罪とまったく関わりの無い、ほんとうの普通の人達の世間を勉強する。
 だが刑事探偵事務所なんてヤクザな場所で働くからには、これくらいは被ってもらわないとな」

 まったくもっての正論であるから、反抗する言葉も無い。
 正直、刑事探偵事務所での世間修行は反則に似た要素が有る。
 否応なしに世間の裏、醜く汚い世界を見ていれば神聖なる責務を片時も忘れず、志が鈍る事も無いわけだ。
 カニ神殿としては見習い達の志を砕き、過酷な運命に身を任せるのを避けさせるのが本来の目的。半端な覚悟の者をふるい落とす試練である。

 それにしても所長は、マキアリイは、
なんでそんなにカニ神殿の教えに詳しいのだ。いや、巫女見習いを過去3人も受け入れていれば当然に心得もある。

 だがこれでは監督官がつきっきりで監視してるみたいじゃないか。

 

       ***

 とんとん、とガラス窓を叩く音がした。
 ここは2階である。外に人が居るはずが、実は有る。

 1階の靴・皮革卸問屋は、道路に面した庇を大きく伸ばして違法に拡張している。店舗面積を増やしていた。
 これは靴屋だけではなく鉄道高架橋下の建物は皆そうしており、もちろん向かいの建物も同様で、道路幅が3杖(2.1メートル)も狭くなってしまっている。

 庇の部分は2階から見れば張り出しが出来たようになっており、人が通るのに都合が良い幅だ。
 現にこの庇部分に電気電話の接続機器函を設置しているし、不心得者は隣の建物に行く通路としても使っている。
 あるいは庇の上に露店を出して下行く人相手の商売をしていたりもする。客が上るハシゴまで用意していた。

 マキアリイは読んでいた新聞から顔を上げ、振り向く。
 窓の向こうには誰も見えない。

「ネコだな」
「ネコですか」
「時々来るんだ。シャヤユートを面白がって覗きに来てた」
「はあ」

 タンガラムには猫が3種類居る。山猫と小猫と無尾猫だ。
 山猫は文字通りに山奥の森に棲む猛獣で、人間社会とはほとんど縁が無い。
 小猫は文字通りの小さい猫で、愛玩用の可愛い生物である。ネズミをよく獲る働き者だ。

 問題は、無尾猫と呼ばれる全長1杖半にもなる大型吸血生物。無尾と呼ばれるとおりに尻尾は無く、尻の部分の毛が少し跳ねているだけ。
 霧のように真っ白で、美しいと言えなくもない。
 だが人間社会での嫌われ者だ。彼らには「窃視症」の癖が有る。
 街の何処にでも居て、人間がやる事を観察している。本当に、意思を持って覗いている。

「じゃあつまり、シャヤユート姉の代わりの私を覗きに来た、ってことですか?」
「たぶん。面白い事は見逃さない連中だからな」

 おとぎ話の世界では、かって無尾猫は人間の言葉を使い、人間に世間の面白話を伝えて餌をもらっていたと聞く。
 もちろんクワンパは生まれて此の方、ネコが喋るところを見たことはない。
 だがおとぎ話の世界にはもう一つ法則が有る。カニ巫女は無尾猫の天敵なのだ。

「叩いてやりましょう」
「おいおい、罪も無い動物を叩いてはいかん。せんべいをやってくれ」
「え、ネコ煎餅ですか?」

 人間がネコに面白話を聞くには対価が必要。またネコに恋文などを届けてもらうにも、謝礼が必要だった。
 それがネコ煎餅。手のひら大の大きさでトナクとジョクリと呼ばれる穀物の粉を山羊乳で練って焼き上げたものだ。
 古い時代のお菓子であるから砂糖を使っていないが、れっきとした人間の食べ物でもある。むしろ高級品。

 マキアリイの指示で戸棚の上を探すと、大きな丸い缶に相当な数のネコ煎餅が入っていた。

「所長、ネコお好きなのですか」
「ネコにはちょっと義理があってな、故郷に居た頃は割と世話になった」
「ネコに義理、ですか」

 なんだかよく分からないが、所長が生まれ育った地ではネコを大切にするらしい。
 というか、マキアリイの故郷って何処だ? 芸能情報でも見たこと無いぞ。

 木枠のガラス窓を開けて下を覗くと、庇の道にほんとにネコが居た。
 こうして間近で見ると結構大きい。小学生低学年くらいの大きさはある。
 間抜け面だ。いつも寝ぼけたような面をしているのが無尾猫の特徴。精悍な小猫とは違う。

「おいおまえ、シャヤユート姉を覗きに来たか。それとも私か」

 無尾猫はにゃーとは鳴かない。盛りのついた季節はぎゃーぎゃー喚くが、だいたいが無口で静かな生き物だ。
 覗きに特化しているとも思える。
 黒い鼻先を突き出してクワンパを見る。カニ巫女棒は持っていないから警戒しない。
 さすがに運動能力に関してはネコは人間よりも敏捷、簡単にはやられない。

「ほれ、邪魔だからこれ食べて帰りな」
と、左手に持ったネコ煎餅をひらひらさせる。ネコは右手を上げてふらふらと宙を掻き、取ろうとする。

 まるで人間みたいだな。

「ほら、ちゃんと取らないと私が食べちゃうぞ」

 じゃらしながら発した自分の言葉に、だがクワンパは閃いた。
 家を出る前に、朝食の時に考えていた事だ。

 シャヤユート姉は、前二人の巫女も、週4ティカの薄給でどうやって暮らしていたか。
 カネが無くても生きていける裏の仕組みが必ずあるはず……。

「       ネコ煎餅、か  。」

 所長がネコにやる為に買ってきたネコ煎餅を、あの人達が密かに掠めて食っていたのか。
 そう言えば階下の靴卸問屋でも、買い置きのお菓子をシャヤユート姉が貪り食って迷惑していたと聞いた。

 これがマキアリイ刑事探偵事務所の事務員の命綱、なのか。

 ばりばりばり、と一瞬の早業で食ってしまう。所長に見つからないように。
 ネコは血相を変えて、ほんとうに予想を超えた突発的事態に直面して動転した表情だ、庇の道を跳んで逃げていった。
 ざまあみろだ。

「   所長、ネコは煎餅食べて行ってしまいました」
「なに食った?」
「はい。ぱくっと」
「おかしいな、あいつらはもらった煎餅をネズミの血に浸して柔らかくしてから食べる習性なんだが、」
「あ、はい。なるほど」

 そうか、あいつらはそういう習性か。バレないように覚えておこう。
 「ネコは煎餅を咥えて持って行った」と。

 だがもしネコが人間の言葉を喋れたとすれば、今頃はクワンパのとんでもない悪評が街中に流れているはず。
 「新しいカニ巫女は、オレの煎餅を食いやがったとんでもない冷血極悪人だ」とか。

 へへーん、ざまあみろ。

 

       ***

 伝視館の安っぽい座席の上で七転八倒している。心中で。
 只でさえ注目されてるのに、余計目立つ真似を公衆の面前でする訳にはいかない。
 だがつらい。心が痒い。

 

 所長マキアリイの業務命令により伝視館に鑑賞に来たクワンパは、まず入り口前に置かれた立て看板に悶絶する。
 今朝の新聞一面に大きく印刷された自分の顔写真が、そのまま新聞を貼って呼び込みに使われている。
 『稀代の美人巫女シャヤユートに続く英雄探偵マキアリイ氏の次なる相棒は、この美女だ!?』
 美女って誰だ。いや後ろに付いている疑問符は実に的確であるから文句を言えないのだが。

 伝視館とは映画館の親戚で、有線放送によって配信される映像番組を真空管画像表示器によって映し出し鑑賞させる商売だ。
 映画館は撮影帯(フィルム)を幻燈機で投影して白い表示幕に映し出すが、伝視館では一辺半杖(35センチ)ほどの四角い画面を多人数で覗く。
 画面が小さいからさほどの大人数では見られない。せいぜい50人が入る小さな小屋で営業する。

 映画に比べると画像は鮮明でなく値段の安い小屋だと色も着いてなく、そもそもが有名俳優なんかの出演も無いのだが、即時性同時性という圧倒的に有利な条件を持っている。
 その日起きた事件をそのままに全国に配信できる。また人気の歌手や俳優の話題を今まさに見たい時に直接に報道してくれる。
 更には、巷で噂の事件や醜聞艶聞を即興演劇にして、生放送で配信もする。
 英雄探偵マキアリイの事件記録もこの先進的伝達装置によって世間の認知するところとなり、爆発的人気に繋がったと言えよう。

 ほっかむりで覆面をしたまま受付に1ゲルタ(100円)を払う。
 安さもまた伝視館人気の秘訣だ。開館すぐの南昼時(正午頃)にはタダで入館できて、機器の調整中に流している報道番組を弁当食べながら見ることも出来る。
 おそらくは昼時には世間一般の人は皆、クワンパの顔を覚えたであろう。

 今は9時頭(午後4時)で買い物帰りの主婦を対象とした芸能情報番組の時間。
 血みどろの犯罪の捜査情報や再現演劇の放送時間は夜になるのだが、英雄探偵マキアリイの活躍となると話は別。
 しっかりと昼間に放送される。

 

 ここに至るまで、本日の経過報告。

 所長マキアリイは本日は不在。裁判所から呼ばれて出向いて行った。
 あまり探偵らしいところの無い彼だが、「動体解析」という分野ではれっきとした専門家であり頼りにされているそうだ。
 「動体解析」とはつまり、犯人が居て被害者が居て、両者がどのような位置関係にあってどのように動いて、何をして、こうなった。を分析する手法だ。

 犯人を捕まえたらそいつに何をしたか白状させればいいようなものだが、そもそも素直に言うわけがない。
 また犯行時には興奮して、自分が何をやっているかを詳細に覚えているとも限らない。
 最近はちゃんと科学的に鑑識捜査を行うが、あくまでも参考資料であって実際に何が起きたかは解析してみなければ分からない。
 場合によっては取調官による誘導尋問により、でっち上げられた脚本通りを喋らされている可能性もある。
 捜査員による証拠の捏造も未だに横行する。

 そこで「動体解析」が必要とされた。調書の記述と鑑識結果から、実際には何が起きたのかを立体的に分析する。
 タンガラムは武術格闘技が盛んな国柄であるから、事件関係者が武術を嗜んでいる可能性も高い。
 摩訶不思議にして玄妙なる秘術を用いて、通常では想像も出来ない結果を生み出す事も有る。得体の知れない隠し武器を用いる例も少なくない。
 故に、武術の達人であるヱメコフ・マキアリイ氏の御登場を願うわけだ。
 時には裁判がひっくり返るほどの重要なお仕事。

 というわけで一人事務所に残されたクワンパは電話番をし、また所長の指示で古新聞の切り抜きを行った。

 新聞の犯罪記事を収集するのは、刑事探偵として普通に思える。
 だがマキアリイ事務所では、経済新聞の記事に重点を置いて収集している。
 「何故です」と尋ねると、「経済新聞にはこれから起きる犯罪が書いてあるから」との答え。
 気の利いた犯罪者は経済新聞を案内として次の犯罪を企画するのだそうだ。

「俺が遭遇する事件はなぜか政官軍財界の大物が絡むことが多く、様々な利権がその原因と結果であり、おおむね新聞に載ってるんだ。
 事件の背景を読み解き解決に導くには、基本情報を抑えていないとついていけない」
「それで経済新聞ですか」
「商事探偵なら基本中の基本だがな」

 商事探偵とは経済犯罪専門の探偵である。取り締まりも警察局でなく商工保安局及び税務局が行い、専門裁判所も設置されている。
 もっとも裏にヤクザが絡んでいれば警察局が出張ってくるし、刑事探偵の出番ともなる。

 ちなみに離婚裁判やら浮気調査などで活躍するのは民事探偵と呼ばれている。これには国家資格は必要ない。

「とは言うものの、」

 おそらくマキアリイは一度読んだ記事は全部覚えているはずだ。
 細部までは知らなくとも、そういう事が有ったな、との記憶は脳内で網のように絡まってタンガラム経済界の構造を浮かび上がらせる。
 新聞切り抜きは事務員であるカニ巫女見習い、つまりは自分達の教育手段であるのだろう。
 狭い範囲の世間内での正義でなく、もっと広い世界、それこそタンガラムを越えてゥアム・シンドラ・バシャラタンの異国にまで目を向けろと。

 前任者が作成した切り抜き帳を見てみると、どの事件にどの記事が役立ったのかを赤鉛筆で解説が記されているものがある。
 これは2代前のザイリナ姉の字だ。
 クワンパ達の指導教官であり人となりも知っているが、そのとおりに几帳面に貼り付け、書いている。
 対してシャヤユート姉の作は糊付けが汚いしまっすぐ貼ってないし面積を無駄遣いしてるし、とてもずさんな代物。
 やる気が無かったのが明白である。

 自分はどちらの先達に習うとするか。

 

       ***

「あの切り抜き帳は売れるな……」

 伝視館の椅子の上でとりとめもなく考える。
 質屋の眼鏡女ネイミィさん流の考え方であれば、事件解決の起点である情報集積およびその評価を記した文書は歴史的にも価値があるし、蒐集家また熱烈的マキアリイ信者にとっては宝物となろう。
 幾らになるか見当もつかない。
 まあ、売らないが。

 当然にクワンパ自身が製作したものも後世においては歴史資料として珍重されるわけだ。
 徒や疎かには作業出来ない。孫子の代まで祟られてしまう。

 

 現実逃避はやめて、伝視放送番組を見よう。
 まず注目すべきは、自分が喋っている!

 お披露目会に写真機は有ったから静止画が世間に出回るのは仕方がない。
 だが映画撮影機は無かったから動画も音声も撮られていないと安堵していたのだが、声が流れてくる。
 自分の声を自分で聞く行為は、極めて不愉快かつ違和感が有って承服しかねるものだ。
 我ながら、なんでこんな声なんだ。

「くそ、磁気録音機なんて誰も持ってなかったはずなのに、……光学録音機か!?」

 光学録音機とは、半指幅(7.5ミリ)の撮影帯を使う簡易映画撮影機を改造したものである。
 かっては個人が映画撮影をするのに重宝して流行したが、天然色化そしてなにより同時録音が出来なくて現在では廃れてしまった。
 販売に行き詰った製造会社は帯送り機構を流用して、映像でなく音声を専門に記録する機械に作り変えた。
 これが大評判となり飛ぶように売れる。

 とにかく録音機を携帯できる、しかも大量の電池を必要とする磁気録音機よりも圧倒的に小さい。
 現像の手間は掛かるが、3分長の撮影帯をそのまま流用して10分の長時間録音も可能である。

 今では新聞雑誌の取材では不可欠の機材となった。
 政治家芸能人の不規則発言もしっかり録音される事となり、各所で舌禍事件を引き起こす。
 もちろん犯罪捜査にも多用され絶大な威力を発揮。裁判で証拠能力も認められる。
 推理小説や演劇映画においても、光学録音機を使った犯罪や犯罪立証場面が普通に出現し、世間一般での認知を高めている。

 まさか自分がその餌食になろうとは。

「事務所にもたしか、1台あったな……」

 画面にはお披露目会に出ていた新聞記者の男性の姿が映っている。
 番組制作は首都ルルント・タンガラムで生放送で行い、全方台に同時に発信されている。
 あの人、わざわざ首都にまで行ったのだな。
 おおむね自分を褒めてくれている。少なくとも悪意の有る評価は言わないのは有り難い。
 だが、

”では次に、前任者シャヤユートさんと新しいクワンパさんの性格特質などを比べてみましょう”

 司会者ぶっ殺す。
 師姉と比べて私が良いところなんてあるはず無いだろ。
 そもそも破壊力比べってのはなんだ。カニ巫女棒損害見積額ってのはどうやって出した。

「        ……。」

 まさかそんなものが出るとは想定の外であったが、芸能番組としては極めて当然必然の、
クワンパ幼少期の写真が映る。どう見てもかわいくない。
 小さい頃はお嬢様でおとなしい子でしたよ、などという見知らぬおばさんの証言。この女誰だ、近所には住んでないぞ。

「               …………。」

 そして中学生の頃の写真。見たくない、これはゼッタイ見たくない。
 番組の常連出演者である重厚な風貌の学者先生が評する。

”クワンパさんはこの頃は現代社会の宿痾たる未成年の非行、いわゆる「持てる者の反乱」の風潮に流されて学校も欠席しがちとなり”
”つまりグレていたのですね”
”うむ。このような経緯を辿りつつも、カニ神殿の教えに接して厳しく諌められ、信仰に目覚めたわけですな”
”この点はシャヤユートさんとはまるで正反対ですね”
”シャヤユートさんは生まれながらにカニ巫女になるしかないと親が諦めるほどに苛烈な、正義を求めて已まない性格だったのです。
 対してクワンパさんは自らの実体験によって社会には間違った道を行く者が少なくないと見極め、正義を志したと言えるでしょう”

 殺して、いますぐ私をこの場でコロシテクレ。

 

       ***(4話の2)

 夕方の子供向け番組に切り替わったところでクワンパは伝視館を出た。もう覆面なんかどうでもいいや。

 とにかく精神的打撃が大きく、足下はフラつき目は虚ろ。棒にすがってようやく歩いている。
 このまま家に帰るのは無理。どこか落ち着ける場所を見つけて心を立て直さなければ。
 だが近所の店に入れば、客も店員も自分に好奇の目を向けてくるのだろう。
 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイの偉大さが今更になって理解できる。
 なんでこんな事毎日されて、あの人は平気で生きていられるのだ。

「ダメだこれは、一時撤退だ」

 行くアテと言えばそれこそマキアリイ事務所しか無い。
 1時刻(2時間)ほど退避して、暗くなって帰宅客が少なくなった頃に電車で帰ろう。
 気付けに角店でガラス瓶入り甘酢飲料を買って、ふらふらと戻っていく。酒が飲めればがばがばとあおるところだ。

 鉄道高架下事務所近辺の人は既に顔なじみになっており、今更正体を隠す必要も無い。
 ただ囁く声が聞こえてくる。「やっぱりシャヤユートさんとは違うみたいね」
 そうです天然自然に人の輪の中心となるべくして生まれた師姉とは私は違うのです。

「おまえ、ちょっと待て」

 カニ巫女棒が自動的に立ち上がり、一人の男の肩を押さえつけた。すさまじい力で逃げる事も跳ね除ける事も出来ない。

「わ、わたしでしょうか」
「おまえ、何者だ。何故事務所の方を監視している」

 辻の角で隠れてマキアリイ事務所の動向を窺っていた不審人物、黒っぽい服に平たい帽子、小型写真機を首からぶら下げている。
 新聞記者、と思えなくもない。

「わ、わたしは雑誌の取材で英雄探偵マキアリイさんを、」
「どこの雑誌社だ」
「え、え〜それはー、……東天芸能、とか?」
「ウソをつけ」

 この間のお披露目会に来た新聞雑誌放送の記者は顔を覚えた。
 東天芸能は大手出版社が発行する有名芸能誌。ちゃんと出席していたが、こいつではない。
 その日に参加していない人でも、クワンパと目が合えばにこやかに挨拶をしてくる。既に取材を認知されていれば、警戒されない対応をする。
 そうでない取材記者となれば、マキアリイにとって敵対的否定的な意見を書く三流醜聞芸能誌。
 あるいは特ダネ狙いの一匹狼流れ者記者であろう。

 このような人物の徘徊は世間の為にならないばかりか、探偵業と呼ばれる職種に対するあらぬ誤解を生み出す元であろう。
 一撃の下に天の河原の裁きの庭に送ってやるのがせめてもの情け。

「ややや助けて、助けてください」
「ふふふ今の私には慈悲など一片も無い。憂さ晴らしにちょっとあの世巡りでもしてくるのだ」
「うああああああ」

 記者が怯えるのはクワンパが怖いからではない。前任者の評判を知っているからだ。
 カニ巫女というものは、だいたいがあんな感じ。
 脱出の為に取り得る手段といえば、無様!

「うわああああああん」

 男は外聞もはばからずに泣き出した。さすがにこれには退く。

「す、すいません。俺は、わたしは、年老いた両親と病気の妻と腹を空かせた子供たちが5人も家で帰りを待って、」
「見え透いたウソを吐くな。さあ首をもうちょっと伸ばせ」
「すいませんすいません、ただ暮らしをほんのわずかでも楽にしようと、英雄探偵マキアリイさんの秘密を探って雑誌社に売り込もうと、」
「なんの秘密があるんだよ、あの人に今更」
「家を、」
「いえ?」
「マキアリイさんが何処に住んでいるのか、誰も知らなくて、それで」

 クワンパ、意表を衝かれて少しびっくりした。
 ヱメコフ・マキアリイの住処、住所? 考えたことも無かった。
 だが事務所には泊まっていないのだから、どこかに有るはず。まさか盛り場の網焼き屋で一晩中飲んでるわけもないし。

「おまえ、それでも芸能記者だろ。尾行とかしないのか」
「したんです何度も、色んな記者が試みましたがすべてまかれて、これまでに一度も、」
「ほんとに、ほんとに誰も知らないの?」
「知らないんです」

 カニ巫女棒を男の首根っこから外して、逃げるままに任せる。
 そいつは謎だ。
 というか、事務員本採用となった自分が知っておかねばならない情報だろ。いざという時の連絡の為に。

 

       *** 

 忙しいから忘れていたが、マキアリイが事務所を退出した後の連絡先電話番号をクワンパは知らされていない。
 個人電話を引いていない可能性も高いが、刑事探偵の職業柄それは不心得というものだ。
 不在時にも伝言を引き受ける者が必要なはず。

 あるいは事務所以外では連絡を受け付けない特殊な営業形態を取っているのだろうか。
 他ではありえないが、なにせあらゆる意味で世間の例外だ。
 何らかの配慮でそうなっているのかも。

「ひょっとすると、二重生活で他人に化けて平穏な家族生活を営んでいるのかもしれないな」

 28歳といえばまともな人間であればとっくの昔に結婚して子供の2人でも居るべき年齢だ。
 英雄探偵と呼ばれるあまりにも異常な生活にあれほど脳天気に適応できるのも、どこかで息抜きをしているからだろう。
 腕利きの芸能記者が尾行しても、いや多分彼に恨みを持つ犯罪組織も全力を尽くしてネグラを探しているはず。
 にも関わらずこれまで無事で済んでいるのは、よほどの隠蔽能力を持っているからに違いない。

 まったくの別人に化けて、との発想は悪くない考えだ。
 隠し子隠し妻、うん有るアル。

「お、クワンパお前なんでまだ事務所に居るんだ」
「あ、所長お帰りなさい」

 灯りの点いていない事務所に錠を開けて入ってきたマキアリイは、長椅子に寝そべる事務員の姿に驚いた。
 もう1刻半(3時間)も前に帰したはずなのに、何故。

「おまえ、俺が与えた特別任務行かなかったのか」
「見てきました。あまりにも精神的打撃が大きかった為にここでほとぼりを冷ましています」
「     ああ、電車の乗客が少なくなる時間まで待ってるのか」

 天井蛍光灯の電源釦を入れると淡く白い光がぼんやりと室内を照らし出す。
 ベイスラでは電力供給は水力発電によって不足は無いが、タンガラム全国で考えると節電を必要として、照明には蛍光灯が推奨されている。
 高いし不良品も多いしちらつくしじーじーと五月蝿いが、確かに電気代は安くなる。

 しかしまあ、なんて格好だ。
 クワンパは靴は脱いでいるが、足を揃えて長椅子の上に乗せて上品とは言えない姿で寝ている。
 暗闇で誰も見ていないなら許されるかもしれないが、行儀が良くない。
 起き上がらないままに、質問を返してきた。

「所長、所長のご自宅の電話番号をまだ聞いていません」
「お、そうだったか」
「そうです。というか住所も知りません。これでは業務に差し障ります」

 そりゃそうだ、とマキアリイも抵抗しない。
 上半身を起こした事務員に問い掛ける。

「知りたいか、俺の家」
「当たり前です。もし万が一の事があればご家族に連絡しなければいけないでしょ」
「いや俺一人暮らしだぞ。連絡してもらわないと困るのは確かだが」

 ただ、マキアリイにもおいそれと教えるわけにはいかない事情も有る。

「一つ宣言をしておくぞ。俺は自分の家にカニ巫女を住まわせたりしない。部屋に空きが有ってもだ」
「なるほど、やはり」
「何がやはり、だ。シャヤユートの奴はな、俺の家を知ってタダで住みたいとか言い出して困った事になったんだ。だから、」
「分かってます、公私は混同しません。誰にでも御自分の生活というものがあって他人が踏み込むのを許せない領域なんですね。分かります」
「妙に聞き分けがいいな」

「それで、何処なんです」

 だが教えてくれない。
 明日案内の者をやるからそいつに連れて行ってもらえ、と不思議な提案をした。向こうにも受け入れ準備が必要だから、と。

 ますます怪しい。隠し妻確定だ。

 

 次の日。通常業務。
 マキアリイは事務所に居たり居なかったり、どこかに行ったり帰ってきたり。
 クワンパも普通に電話番や来客の応接、書類作成やその他雑務に追われ、気が付くと夕方になっている。

 退勤時帰り支度をしたクワンパは1枚の書付をもらった。

「これがご自宅の住所ですか」
「この場所に行くと案内人が待っている。指示通りに従うんだぞ」

 やたらめんどくさい。ここまでしなくてはならない事情とはやはり。
 クワンパの期待は膨らんだ。

 

       ***

 路面電車を降りて指定方向に歩くと、トカゲ神殿であった。

「なんだ」

 カニ巫女にしてみれば同業者、珍しくもない。
 トカゲ(青晶蜥)神『チューラウ』は冬の神、氷と結晶とガラスの神、冷気と癒やしの神である。
 特に癒やしを求めて、科学医療全盛の現在でも多数の信者が訪れる。
 人の寿命は天の定めるところ、薬石を費やしても最後は運でしかないのは変わりない。

 ノゲ・ベイスラのトカゲ神殿は自主申告に基づけば、
かって「ジョグジョ薔薇の乱」を鎮圧する為に救世主「ヤヤチャ」とその軍勢が南方に赴いた際に、陣屋として用いた場所に建てられている。

 今を遡ること1200年前に「星の世界」より降臨されたトカゲ神救世主「ヤヤチャ」は、民衆に最も愛された救世主として今も尊崇の対象である。
 その業績は数え上げればキリが無く、現代科学文明の基礎を築いたのも、民衆主義運動の始祖であるとも伝えられる。
 残念ながらベイスラは生憎と縁が薄く、陣屋くらいしか遺跡が無い。
 その聖地にどっかりと居座るのが、トカゲ神殿であった。

 トカゲ神殿の神官巫女は、当然の事ながらかっては医術に携わる医師と看護婦であった。
 現代は国家が免許を発行して私的な医療教育を禁じているが、医師の多くがトカゲ神の信徒である。
 というよりは、「医神」としても崇められる「ヤヤチャ」を深く尊敬する。

 ましてや看護婦は、誰もが幼い頃に「ヤヤチャ」の活躍するおとぎ話に心躍らせて、後に続こうと決意して看護学校あるいはトカゲ神殿の門を叩いた者ばかりである。

 クワンパにも覚えが無いではない。
 だが長じた今の目で改めて観察すると、トカゲ巫女はなんだかそっけなく冷たく計算高い者ばかりだ。
 もちろん日々病に戦う人達と接していれば優しいだけでは務まらず、時には毅然としてあるいは厳しく接する必要もあるだろう。
 それ以上に、現在のタンガラム民衆協和国の福祉医療制度では弱者に十分に手が回らず、貧困層を病から救おうとあらゆる手段を用いて浄財を募る活動に特化している。
 守銭奴と呼ばれるのもむしろ名誉と感じるほどに険しいのが、トカゲ巫女であった。

「貴女がカニ巫女見習い「クワンパ」さんですね。ヱメコフ様から伺っています。トカゲ巫女の「チクルトフ」です」
「あ、どうもクワンパです。今日は所長の家への案内をよろしくお願いいたします」

 クワンパより首一つ高く痩身で30歳前と見えるのが、トカゲ巫女の隊長「チクルトフ」だ。7人の巫女が既に集結している。
 トカゲ巫女の正装は藍色の衣で白の頭巾。薬や包帯などを入れた布鞄をぶら下げているのはクワンパと同じ。
 カニ巫女は3杖(210センチ)の棒を携えるが、トカゲ巫女は短刀を護り刀としてぶら下げる。
 もちろん戦う為でなく、不意の事故に遭遇して怪我人などを救う際に役立てるものだ。

 ちなみに「ヤヤチャ」は武神としても名高く、その佩刀「KATANA」は天下の名刀として世に武勇を轟かせた。
 トカゲ巫女を怒らせると護り刀を振り回して危険である。

「クワンパさん、ヱメコフ様のご自宅に案内するのにその姿ではなりません。こちらで衣装を用意しましたので着替えてください」
「あ、はい」

 さすがの配慮。クワンパは世間の人に面が割れているから、トカゲ巫女に化けて頭巾で顔を隠して赴くのか。
 しかし何故所長はトカゲ神殿と付き合いがあるのか。

 トカゲ巫女見習いは正式の衣装よりも薄い青、浅葱色になる。
 カニ巫女棒にも布で覆いを掛けて、上にトカゲのぬいぐるみを括りつけ、トカゲ棒にされてしまった。

「では参りましょう」

 粛々と進むトカゲ巫女の列。クワンパは最後尾を見習いとしてしおらしく付いて行く。
 何処へ、と思えば路面電車の停留所に。

 日が落ちた街をごとごとと電車は進む。
 トカゲ巫女の一団が横一列に座席に座り、他の乗客を威圧する。
 カニ巫女とは違い、これはこれで圧力だ。戦場に赴く戦士にも似た迫力がある。

 ノゲ・ベイスラの街をぐるっと半周し、降りた先でも20分ほど歩く。
 頭の中で地図を作ってみると、マキアリイ事務所から直線で行けば歩きで30分ほどの近さとなろう。
 とんでもない大回りだ。尾行をまくとしても。

 そしてなにやら住民のガラが悪い通りに出る。
 クワンパは列の先頭の「チクルトフ」に叫んだ。「私が露払いをしましょうか」と。
 だが応じず、まっしぐらに切り進むように通りを歩んでいく。
 街の者も敬して遠ざかり、妨害しようとはしない。トカゲ巫女は尊敬されているようだ。

 周囲を観察すると、ここは低所得者貧困層が溜まり暮らす街。
 ベイスラのみならず方台南方の田舎から職を求めて流れてきた日雇い労働者が集い、つかの間の眠りを貪る場所であった。
 カニ巫女としても重点的に目を配り、悪を懲らしめねばならぬ土地。

「こちらです」

 と案内されたのは、街から少し離れた高台にある屋敷街。いや、かってはそうであったが今は荒れ変わり果てた貧民街だ。
 ノゲ・ベイスラには所々こういう街がある。
 徒歩とイヌコマによる交易が主流であった時代から、和猪車による輸送に代わり、鉄道自動車へと交通手段が移るにつれて、市街の各部の重要性も変化する。
 高級住宅街であった所が、いつの間にか時流から外れて住民の質も異なる人が集まり、やがては貧困層に制圧されてしまう。
 また再開発で追い出されて、別の街に流入する。
 絶えず変化を続けるのが生きた成長する市の営み。

 思ったよりも随分と大きな建物だった。
 重厚な造りは屋敷というよりもむしろ館。分厚い窓の扉は防犯どころか戦争にだって耐えられそうだ。

 もちろん個人の住宅と呼ぶには大袈裟すぎる。

「ここが、マキアリイ所長の自宅、ですか?」
「いえ、「マキアリイ偽病院」です」
「にせびょういん、ですか」

 トカゲ巫女が向かう場所であれば、それは病院だろう。だが偽病院とはなにか。
 目を凝らせば、闇の中館の庭の各所に人がうずくまっている。
 まだ夜は寒いのに、これでは風邪をひいてしまう。

 トカゲ巫女達はさっそくにバラバラに分かれて人々の間を回り始める。
 昼間の当番であった巫女と交代して、引き上げる者は館の中に入っていく。 

 

       ***

 ニセ病院の院長は、思ったよりもはるかにまともな医師であった。
 年齢は40歳過ぎ、太いあご髭が生え体格もがっちりとして軍医を思わせる。
 患者達、また巫女の尊敬を集めており、彼の行く所には薄暗い照明の中にも笑顔があった。

 クワンパは棒の覆いを解いて自らの身分を明らかにする。

「私立刑事探偵ヱメコフ・マキアリイ事務所の事務員でカニ巫女見習いの「クワンパ」です。
 今日は所長のマキアリイの自宅に案内されたはずなのですが、ひょっとして所長はここに入院しているのですか?」

 院長は笑う。あの人は医者なんか要らないヒトだ。

「はじめまして。私はこのニセ病院の院長を務めている事になっている、ウゴータ・ガロータです。本名はもうちょっと長い」
「先生はこれでもれっきとしたソグヴィタル大学医学部副教授の身分をお持ちです」

 彼の傍で診察を手助けしていたトカゲ巫女が誇らしげに説明を追加する。
 よくよく見ればこのニセ病院、正規の医者は彼一人、看護婦も医療助手も居らず、トカゲ巫女ばかり。
 普通の病院とは趣がかなり違う。

 尋ねてみる。ここにお医者様は一人だけなのですか。
 無駄時間を費やすのは惜しい、と患者の診察と治療を続けながら、そしてかなり血生臭く荒っぽい、ほとんど戦場での医療並に簡素だが的確に処理しつつ、
クワンパの質問に答える。

「私の研究室は「僻地医療および緊急事態における現場医療」を主とする実践的な医術を教えるもので、だいたいがとりあえずは軍医の道を選ぶ。奨学金の関係上それ以外を選べない医学生が集っている。
 彼らの実践研修の場所として此処は最適であるから、手伝いはいくらでも居るわけだ。
 夜勤の見習い医師もちゃんと居るから安心してくれ」

「ヱメコフ・マキアリイはあなたとどのような関係をお持ちですか」
「いや、この館は元々マキアリイさんのものだから、なんでこうなったかは彼に聞いてくれ」
「はあ」

 トカゲ巫女はこれ以上は治療の邪魔だと、クワンパを追い払う。
 説明してくれる暇人は食堂調理場に居るはずだから、そこで聞いてくれと。

 人がうずくまる仄暗い通路を歩いて行く内に、ニセ病院とはなんであるかがだいたい理解できた。
 誰ひとりとして治療費を払えそうな者が居ない。いや払うと言っても受け取らないのだろう。
 タンガラム民衆協和国にはれっきとした全国民医療保険がある。貧困層を対象とした慈善病院も存在する。
 だが保険料を払えない者は少なくないし、慈善病院の月間受け入れ患者数も定まっている。酷い順番待ちだと聞く。
 待っている内に手遅れになって結局命を縮めてしまう。

 ニセ病院とは、国家の補助とは関係なしに無制限に患者を受け入れる医療保険の効かない違法診療機関のことなのだ。
 無論患者が治療費を払わないのであれば、何処からか資金を調達している訳だ。それも毎月大量に。
 だが公衆保健当局に見つかれば間違いなく閉鎖されるし、責任者は逮捕される。資金提供者も連座する事となろう。
 それでも人々に必要とされるものであるし、勇気ある人が立ち上がり組織せねばなるまい。
 タンガラム全国において、同様の違法施設は少なくないと聞く。

(注;タンガラム民衆協和国において看護師は「看護婦(女)」と「医療助手(男)」に分かれている。「医療助手」はそのまま軍隊で「衛生兵」となる)

 

 食堂は広いが暗く人は居ない。患者もここには留まれない決まりになっているのだろう。
 元は貴族かそのような特権階級が会食していた広間ではないだろうか。部屋の隅々の柱の上に古めかしい飾りが施してある。
 長い木の机が幾脚か並んでいるが、これは安物で最近入れたもの。対して壁の食器棚は黒光りのするいかにもな高級品。

 先ほどの院長は「この館はマキアリイのもの」と言っていたが、手に入れた際は十分に豪華な屋敷であったのだろう。
 たぶん、所長も意図しない内に、いつの間にか貧乏人相手の病院に化けてしまった。
 だがそもそも館をどうやって入手したのか。金銭を支払って購入したわけではあるまい。

 調理場に顔を出すと、ここは明るくクワンパにも馴染んだ雰囲気だ。カニ神殿寄宿舎の調理場と同様の混乱と欠乏が見られる。
 そして山のように大きな男が居た。
 座って、小さな机の上に皿を置いて、なんらかの煮汁を匙で啜っている。
 皿の横には机に直に麭(パン)が置いてある。男の体格に合せてこれも大きい。

「あんた誰だい、見ない顔だね」

 女の、おばさんの声。男から、ではない。その背後からだ。
 料理番の中年女性が男の陰に隠れていた。というよりは背中が大きすぎて見えなかった。

 調理場の天井灯は蛍光灯ではあるが薄暗く、かまどの火を足してようやくまともな明るさになる。
 赤い火に照らされるのは、元気だけが取り柄そうなおばさん。もちろん既婚者だろうし子供も何人も居るだろう。
 周りの街に住むごく一般的な低所得者階級である。

「あんた、トカゲ巫女じゃないね。感じで分かる。誰だい」
「あ、私はカニ巫女見習いで、マキアリイ刑事探偵事務所の事務員をやっているクワンパと申します。以後お見知り置きを」
「あーシャヤユートさんの次の。あーなるほど」

 

       ***

「あたしは近所に住んでるアチャパガってもんだ。病人食でない方の料理番している」
「こちらでお勤めですか」
「いや近所の女達が代わりばんこで調理場を手伝ってるだけさ。あたしらもニセ病院に面倒みてもらってるからさ」

 事情を説明してくれる暇そうな人、とはこの人らしい。いかにもよく喋りそう。
 しかし病人食は作らないとは、

「ああ病人食はトカゲ巫女さんが作るんだよ。ここに来る病人の半分以上は栄養失調が原因だからね、よく考えてそれぞれ別の食事でないとダメなのさ」
「なるほどなるほど。それで、あなたはうちの所長のマキアリイをご存知ですか」
「そりゃあね、ここはマキアリイさんの家だし」

 やっぱりそうなんだ。でもどうしてこうなった。
 それより、このでかい人はなんだ。背が高いのではなく、横幅が極端に広い男だ。筋肉の塊に頭が埋まっているように見える。

「ああこちらはコウモリ神殿から来てる墓堀人のンゴアーゥルさんだよ。別に怖がらなくていいさ、用心棒だけどね」
「用心棒? というか病院に墓堀人が居ていいんですか」
「だってここに担ぎ込まれてくる病人なんて、半分くらいすぐ死んじゃうしさ。手遅れになってからようやく来るんだから。
 死んだからといって葬儀代も火葬代も無いんだけど、これもご奉仕さ」
「はあなるほど」

 とんでもない所であるのは理解した。だが用心棒ってのはなんだろう。
 アチャパガおばさんはやっぱ政府が悪いんだよ、と肩を竦めてみせた。

「ここらへんに住んでる者は貧乏人ばっかりだからヤクザにカネを借りてたりするしね。借金返すために倒れるまで働いて、倒れたら容赦なく身ぐるみ引剥していくのさ。
 マキアリイさんが折良く居る時なら簡単に追い散らしてくれるけど、普通居ないからンゴアーゥルさんが守ってくれるわけさ。」

「……マキアリイさんはえらい人だ。あの人が居なければそもそもニセ病院成り立たない」

 いきなり男がくぐもった声で話に割り込んできた。
 思ったより普通の声で安心した。
 コウモリ神殿は葬儀や魔除けを司るもので、生きた人間のみを扱うカニ神殿とは真逆の存在となる。

「……このお屋敷もホントならヤクザに取られるところだった。マキアリイさんが助けてくれたから、こうやって人の役に立つものに生まれ変わった。」
「そもそも所長はどうやってお屋敷を手に入れたんです? そこが分かりませんそんなお金持ちにも見えないし」

 これはアチャパガおばさんが教えてくれた。

「あんたの前の前の前のカニ巫女さんの、」
「ケバルナヤ神姉ですね」
「その頃のお話でね。このお屋敷には元々金持ちの婆さんと召使の爺さんが二人きりで住んでたのさ。
 ここらへんにお金持ちばかりが住んでいた時代の最後の生き残りでね、爺さんが鉄砲振り回してあたしらも近付けなかったもんさ。
 でもさすがに歳でね、身体が動かなくなって、そこをヤクザに目を付けられたわけさ。地所建物まるごと巻き上げられそうになったのを、」
「そこで所長が介入して助けたわけですか」

「でもね、爺さんの方は無理が祟って死んじゃってね。持ち主の婆さんも病気で長くなかったんだよ。
 方台のどこかに相続人が居るはずなんだけど、見つかるまでの管財人にマキアリイさんになってもらって、おっ死んだ」
「亡くなりましたか。でもこんな使い方していいんですかね、本来の相続人は」
「婆さんは好きな様に使ってくれと言い残したみたいだしね。そもそもほんとに相続人が生きてるか分かりゃしないんだ。実質マキアリイさんにくれたんだ」

 

 クワンパは調理場の天井をぐるぐると見回した。

「それで、所長の部屋は上の階ですかね」
「外だよ。薪炭倉庫の隣の庭番小屋がマキアリイさんの部屋だ」
「外? 小屋ですか」
「寝に帰ってくるだけだしね」

 おばさんの案内で調理場の扉を開けて外を見る。
 こちらの庭は裏口で物資搬入口、患者が寝転んでたりしない。月の灯りに街の様子が暗く窺い見えた。
 薪炭倉庫は割と大きな建物で、これだけで何人も住めそうだ。
 脇に、ほんの小さな一部屋だけの小屋が有る。ガラス窓から灯が見えた。

 誰か居るのかな、と思っていると灯が消えて、扉を開けて女性が出てくる。
 妖精だ。
 人間離れした美しさの妖精の姫が、しかし粗末な服を着て掃除道具をぶら下げて現れる。
 丁寧に小屋の錠を締めて離れる。

「なんですかあの美人は、にんげんですか」
「メマ・テラミさんだ。綺麗だろ、マキアリイさんの部屋の手入れはあの娘が一人で任されてるんだ」

「じゃあやっぱり、隠し妻!」

 

       ***

 クワンパはおばさんにいきなり口を押さえられた。

「しっ、ゴメンだからそういうことはあの娘の耳に入るところで言わないでおくれ」
「それじゃやっぱり、秘密の」

「あんたがカニ巫女だから言うけどさ、メマさんは「ヤチャッタ」だったんだよ!」

 「ヤチャッタ」とは美しい女性の姿をしているが人を誑かし生きたまま腸を食らう鬼、の意味。
 もちろんそんな妖怪は実在しないが、裏社会には命じられるままに人を色香で惑わし、財産のみならず命までも奪い取る役目を帯びた女が居る。
 効率よく人を誑かす為に、美しさだけでなく純真さ、普通らしさを留める事を要求される。
 美しいが故に悲惨な末路を迎える、哀れな人形達だ。

「メマさんはあの器量だろ。幼い頃に親に売られて、「ヤチャッタ」として育てられたんだよ。
 それで何度も転売されて、しまいにはとある犯罪組織の親分の情婦にされたって話だよ」

「……マキアリイさんがその組織を潰した。それであのひとはここに住むようになった」

 いつの間にか墓堀人のンゴアーゥルも外に出てきた。麭をむしって食べながら。
 クワンパは月明かりの下、外の水道で雑巾を洗うメマ・テラミを見る。
 まだ水は冷たいのに、何も苦とするところは無いようだ。
 むしろ幸せそうに感じる。

「じゃあメマ・テラミさんにとってマキアリイ所長は恩人ということですか。それで身の回りの世話をすると、」
「そうだね、それで精一杯なんだよ」
「でもそれは、やっぱり所長の事好きなんじゃないですか?」
「だからさ、それは言わないでやっておくれ。
 天下の英雄探偵さまと、裏社会の女とではとうてい吊り合わないて本人も分かってるのさ」

「所長はそんなこと気にする人じゃないと思いますが」
「マキアリイさんはね。でも世間はそうじゃない。
 自分のせいでマキアリイさんが後ろ指刺されるようになったら、あの娘は生きていられないさ」

「そんな、」

 

 交代して神殿に引き上げるトカゲ巫女の一団と共に、クワンパも路面電車で帰っていく。
 帰りの隊長は頭之巫女「ヴァヤヤチャ」 36歳。
 頭之巫女とは、神殿で祭祀を司るのではなく、一般民衆の為の奉仕を行うヒラの巫女の責任者。
 巫女見習いクワンパにとっては目も眩むほどに偉い人だ。

 深夜の電車は他の乗客も少ない。
 彼女はクワンパの疑問に答えてくれる。

「まず何故マキアリイさんがニセ病院を始めたかを説きましょう。
 貴女の言う老婦人から館の管財人を任されたマキアリイさんは、しかし刑事探偵の責務から不在がちで周囲の者達が館に入り込んで好き勝手荒らすようになったのです。
 昼夜を問わず館を管理する者が必要と考えていたところ、ある日入った網焼き屋でウゴータ様に出会いました」
「院長先生ですね」
「ウゴータ・ガロータ様はソグヴィタル大学医学部副教授という高い地位にありますが、大学内での権力争いに嫌気が差して酒に逃げました。
 下町でニセ医者まがいに病人を治療していたのをマキアリイさんが見て、そんな埃っぽい所でなく腰を据えてやればいいと館に招いたのです」
「なるほど」

「そこで、我々の出番です。
 いかに医者が居ようとも資金が無ければ人は癒せません。患者から治療費を取れないとなれば、有徳の人士から浄財を募ってくる他ありません」
「はい」
「というわけで、マキアリイさんをダシに使いました」
「はあ。」
「世の中の、それも人の役に立てようと寄付を考えてくださる方は、マキアリイさんの英雄探偵の虚名にとても弱いのです」
「虚名、ですか」
「ご本人が虚名とおっしゃいますから、虚名でしょう。

 寄付をお願いする方に「あの有名なヱメコフ・マキアリイ氏が虐げられる貧困層の為に無償の病院を作りました、しかも御自身の名を伏せて密かにです」とお伝えすれば、
 どの方もこれは捨て置けぬと、争うように資金を供出してくださるのです」
「悪党ですね」
「今ではもうマキアリイさん本人は必要ありません。虚名だけで十分です」

 さすがトカゲ巫女の長、言うことが冷血そのものだ。

「ところでクワンパさん、以後はマキアリイさんの御自宅にはなるべく近寄らないでください。如何に変装しようとも尾行をまこうとも、貴女は目立ちます」
「はい一度見れば十分です。私に御用がありましたら探偵事務所の方にご連絡ください」
「そうですね、お互い自らに定められた責務を果たしましょう」

 しばらく沈黙が続く。
 電車の車輪が時折線路の境目でごとごと鳴り、車内の照明がちかと瞬く。

 クワンパは他に尋ねるべきものが残ってないか一生懸命考える。
 ヴァヤヤチャの方から静かに話し掛けてきた。

「実はですね、マキアリイさんの生まれ故郷には慈善病院もニセ病院も無いのだそうです」
「田舎なんですかね」
「はい田舎ですね。私の知る所でも鄙びた土地にはそのような施設はありません。
 田舎の共同体では互いが支え合って不足を補い、また親類縁者も近所に住んでいますからなんとかなるそうです。
 高度医療はありませんが」

「現代社会の宿痾、ってやつですか」
「はい。経済が発展し周辺から人が流入する都市部でこそ貧富の差が開き、誰にも助けられない見捨てられた人が生まれるのです」

「所長の故郷って、何処ですか」
「存じません」

 

       *** 

 週の8日目、公休日の前日は昼までで営業終了である。
 故に「半休日」と呼ばれる。「週給日」とも言う。

 クワンパも本日限りにおいては気合が違う。
 所長マキアリイが呼ぶ。

「おーいクワンパ」
「はい! 所長」
「給料の支払い週明けなー。    ウソ、嘘だそんな地獄の底から恨みをつのらせるような眼はするな」

 どんな顔をしてるのかと手鏡を覗いてみると、これは酷い。カニ巫女棒無しでもヤクザが怯むおぞましさだ。
 芸として覚えておこう。

 改めて、マキアリイは尋ねる。どっちがいい?

「どちら、とは」
「週給4ティカを1ティカ札4枚で支払うのと、4ティカ札1枚で支払うのと。ちなみに4ティカ札はぴかぴかの新札を用意している」
「う、それは迷う」

 家に持って帰って社会人初の給料を見せびらかすには4ティカ札の方がかっこいい。
 だが利便性を考えると最初からバラしていた方が何かと都合がよい。
 なにせ今日は退勤後にカニ神殿に行って報告をする段取りになっている。
 巫女見習いの後輩や、同じく世間修行に飛び出した朋輩と会うのだから。

「う、うううう〜ん、4、ティカ札で」
「おう」

 給料袋に4ティカの新札を入れて、ご苦労さんとクワンパに手渡した。
 この1週間、なにがなんだか分からないがとにかく大変な目に遭った。
 苦難に見合う適当な報酬金額かは知らないが、達成感は確かに有る。

 素直に嬉しがる事務員に、マキアリイもこれが普通だよなと納得する。
 前任者のシャヤユートときたら。

「クワンパ、俺の家に行ってみたんだろ。どうだった」
「期待した隠し子隠し妻は居ませんでした」
「そんな妄想をしていたのか、お前は」

「でも腑に落ちない点はあります。あんな騒がしい所でよく眠れますね」
「至って寝付きはイイ方だ。何処ででも、それこそ牢屋の冷たい床の上でも眠れるぞ」
「そうではなく、あそこって此処と同じで個人の秘密とか内緒事とか、まるで無いですよね」
「色んな人が出入りするからな」

「ほんとにあそこがねぐらですか? ひょっとしたらまた別の場所に隠し妻が居るんじゃ」

 クワンパの疑問は、あそこが本当に隠れ家だとしても腕扱きの芸能記者や探偵、犯罪組織の密偵であれば簡単に探し出せるだろうと思えるからだ。
 たぶん、ニセ病院までは誰でも辿り着く。その先が……。
 ま、いいや。

「それで所長、私は昼からカニ神殿に行って報告をしますが、どうします」
「どうします、とは」
「シャヤユート師姉です。懲罰房で謹慎写経の毎日ですが、伝える事はありませんか」

 マキアリイ、少し悩む。
 今更あの女に説教じみた愚痴を伝えるのも大人げない。だが言わねばならぬ用が無いわけでもない。
 志半ばで神殿に強制回収された無念を考えると不問に付しても構わないのだが、やはり言うなら今しかないだろう。

 所長としてのマキアリイが事務机代わりに使っている広い窓辺の下の引き出しの中から、薄い書類綴を引き出した。
 灰色の表紙、黒い紐で括ってある。
 クワンパに突き出した。

「こいつを本人ではなく、頭之巫女「ッベルニハム」さんに確実に届けろ。内容確認をしてもらった上でシャヤユートにも見せに行け」
「なんです、これ」
「あいつが俺の名前で勝手に溜め込んだ、ツケの請求書。8金と16ティカ48ゲルタ3爪だ。後から掛取りに来た」
「わお!」

 

       ***

 1週間ぶりのカニ神殿への参殿だ。
 正確には初日にまず参って最後の指示を受けてからマキアリイ事務所に向かっているから、7日ぶりという事になる。
 まるで大昔の出来事に感じられる。

 世間修行第1週は全員が戻ってくると定まっているので、神殿寄宿舎で学ぶ後輩達が門前に総出で迎えた。

「クワンパさまだ。」
「クワンパ姉さまだわ。」
「マキアリイ探偵の、なんて勇気のある」

 ほんとうに総員バンザイで出迎えられた。
 既に戻っている4人の同期朋輩も、それぞれの職場の制服で出迎える。
 中には女の子の憧れ「高級百貨店の案内嬢」姿の者も居る。

「クワンパ!」
「クシィタンカ! それにペミレ、ランパエスも。ガトーラムすごく似合ってる」
「新聞も放送も伝視館でも、見たわよクワンパ。凄いじゃない」
「すごい勇気だよクワンパ」

 この「勇気」の意味を、ようやくに理解したクワンパだ。
 ちなみに「巫女名」はおおむね祭祀に使う器物や供物、それぞれの奉じる神に関連する気象現象やら動物などに由来する。
 「クワンパ」はカニ神殿で個人が贖罪の祈祷を行う際に1灯のみ用いる燭台の意味だ。

 5人全員がカニ巫女棒、正式には「神罰棒」を携えているから、それぞれに掲げて宙で合わせる。
 師姉を囲んで後輩達も輪を作る。一発気合入れていくか。

 カニ巫女見習い心得、最も簡単にして最も端的にカニ神の教えを称えるものだ。

『我ら野辺の歹と朽ちるとも世に緑なす民草を蝕む毒蟲噛み潰す 西百大海陽の落ちる茜空にてシャムシャウラ照覧あれ』

「なに勝手に祈祷しておるか! さっさと報告に来い」

 雷が割れる声で寄宿生を一瞬で追い散らしたのは、巫女見習いの指導教官。
 「ザイリナ」だ。
 寄宿生また世間修行組と年齢は近く、背も低い人だが全身烈火の塊、熱く焼けた鋼の迫力を持つ。
 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ事務所二人目の事務員でもある。

「クワンパ!」
「はい!」

 打てば響く瞬発力がザイリナと対するコツだ。わずかでも遅れれば魂が消し飛ぶ叱咤をもらう。

「所長は、」
「はい!」
「まだゲルタばかり食っているか」
「はい! アレは治りません!」

 それだけを聞けばザイリナは満足らしい。
 身体に変調も無く、精神に狂いも迷いも無く、淡々と英雄を続けていると分かるのだ。
 ちなみにザイリナは事務員時代、いやそれが終わる直前に「赤髪の巫女」の名を世間から奉られた。

 幼くしてカニ神殿に身を寄せた彼女は、マキアリイの事務員となった時もまだ髪の色が黒かった。
 タンガラムの人間は幼少期は全員が髪は黒、烏の濡羽色で等しく美しい。
 成長して思春期を迎え、大人になる瞬間。一夜にして髪の色が変じる生理現象を持っている。
 それまでに食べたタンパク質の違いで赤くなったり茶色になったり黄色になるのだが、
神官巫女はおおむねが粗衣粗食の生活を送り、それこそゲルタなどを主に食い、誰もが茶色になるのが常である。

 にも関わらずザイリナは事務員時代に巧妙に近所の人の間を立ち回り、マキアリイが贔屓にする網焼き屋にも入り浸り、まんまと肉をせしめていた。
 たかるのが上手かった、とも言えるだろう。
 おかげで色が変じた時に見事な赤髪となり、英雄探偵の助手としても既に名高かった為に評判となった。

 神殿に戻った今では皆と同じ粗食で茶色に戻っている。
 だが彼女を慕う、また事務員時代の活躍に強い思い入れの有る人は、彼女の好物をと干し肉や塩漬け肉を寄進してくれる。
 寄宿舎の見習い達は大歓迎するのであった。

 

 カニ神殿ノゲ・ベイスラ社頭之巫女筆頭「ッベルニハム」は50歳。
 クワンパが提出した請求書の綴を前に不機嫌な溜息を漏らす。

「シャヤユートは、もう損害報告書は無いと言っていたのに……」
「損害報告ではありません、無断借用であります。神母」
「あなたは黙ってなさい。
 ザイリナ、シャヤユートは貴方の推薦でしたね。どう考えますか」

 他人に即答を要求するザイリナだ。自分も瞬間的に返答する。脳味噌は使わない。

「シャヤユートは正義に篤く賢い子です。無断借用といえども自分の利益の為に使ったものは1件も無いでしょう」
「そうですね。使途は書いていませんが、貸してくれる人がちゃんと居る事実の方が重要です」
「正義を行えば必ず反動があります。
 貧しい者弱い者を食い物とするヤクザを叩きのめすのはよいとして、そいつらが食い込んでいる利権から外されてしまった場合、たちどころに進退に窮する人も居るのです。
 シャヤユートは神罰棒を奮う際に、悪を滅ぼした後の手当も考えています。
 これら無断借用はおおむねその過程で発生したものでしょう」

 ザイリナがマキアリイ事務所での世間修行をめでたく満期を迎えて卒業した後、次の巫女見習いはなかなか決まらなかった。
 半年を経て、ザイリナとそのまた前任者ケバルナヤの推薦により、シャヤユートが鳴り物入りで派遣される事となる。
 それだけ期待は大きかったし、信頼も厚かった。

 彼女がわずか9ヶ月で戻らざるを得なかったのはカニ神殿の計算の外である。
 不起訴になったとはいえ暴行傷害の現行犯逮捕されたからには、如何ともし難い。
 それだけの納得すべき理由が有ったとしても、法には逆らえないのが現代社会だ。

 ッベルニハムはもう一度溜息を吐いた。
 カニ神殿自体はなんら儲かる事業を営んでいない。十二神殿すべての利益から分配される資金のみで運営される。
 さてどこからひねり出したものか。

「クワンパ、マキアリイさんはなんと仰っていましたか」
「はい、シャヤユート姉個人の借金とするか、カニ神殿で引き取ってもらいたいと願っています。
 実際所長が支払うべき案件とも思えません」

 カニ巫女見習いクワンパの、現在の正式な身分は「ヱメコフ・マキアリイ私立刑事探偵事務所の事務員」である。
 忠誠心を望まれるとすれば事務所の方であって、カニ神殿ではない。事になる。筋的には。

 

       ***

 「小さい男メ」と囁く、頭之巫女ッベルニハムの声にもならない小さな陰口をしっかり聞き取った。
 だがおよそ9金(90万円相当)の謂れ無き損金を、笑って処理する零細事業者も居ないのではないだろうか。

 彼女は、さすがにマキアリイに半分負担させる構想は断念した。
 どう考えても理が無い。
 業務の外で、しかも所長である彼の名を勝手に騙っての借金だ。それこそ詐欺罪に問われても仕方なかった。

「まあ、鉄道列車を脱線させたザイリナや、アユ・サユル湖で遊覧船を座礁させたケバルナヤに比べれば物の数ではありません」
「ですね」
「ザイリナ、他人事のように言うな」

「あ、それ両方共映画で見ました」

 映画または伝視放送の事件再現演劇で見たところでは、
ザイリナは鉄道線路に縛り付けられた少女を助けようとするマキアリイが最期まで逃げないと判断し、転轍機を無理に切り替えて貨物輸送列車を脱線させた。
 ケバルナヤは、某国大使を狙う暗殺団が待ち構えているとの情報を入手し、マキアリイ不在(別所で悪と決闘中)の中独自の判断で遊覧船の操舵を奪い、暗殺団の只中に船を突っ込ませている。

「某国大使の暗殺団?」
「はあ、映画ではそのようになってました」
「またいい加減な脚色を。アレは本当はー……。まあいいでしょう、それでクワンパ。あなた自身の損害報告書は」

 やっぱりきたかー、とうなだれて、肩から掛ける布鞄から1枚の請求書を取り出した。
 まあ自分で損害賠償かぶるよりは遥かにマシであるから。
 頭之巫女に提出する。

「7ティカ(3万5千円相当)、これは?」
「巡邏軍ベイスラ県中央司令部にて軍監カロアル様に殴り掛かった際に、巻き添えで高級万年筆他数点を完全破壊したものであります……」
「7ティカ、まあこんなものでしょう」

「伝視館の天然色映像表示管に神罰棒をぶち込んだシャヤユートよりは遥かにマシです」
「そうですね、あれは10金でしたかね」

 クワンパ、自らの器の小ささを改めて思い知らされるのであった。

 

 夕呑螯神殿憤怒紅蓮の獄・懲罰房。

 カニ巫女シャヤユートは自らが犯した罪を償う為に、今も牢に繋がれ写経の毎日を送っている。
 彼女は神殿に戻った後に正式な巫女に昇格した。
 カニ神殿の教えに従えば彼女が奮った暴力は正しく神の怒りであり、何人にも恥じるものではない。
 事件現場に居た人は皆理解はしたのだが、法に従えば逮捕せざるを得ないものであった。

 太い松材を鉄で連ねた扉を開き、クワンパは懲罰房に入るのを許される。
 柿渋色の衣を着せられた師姉は、若干痩せたと思われるが眼光は鋭く、信念のわずかな揺らぎも感じられない。
 凄絶な美しさである。

「シャヤユート姉さま、お久しぶりでございます」
「まだ1週間経ってない」
「あ、はい。最初の1週間を無事に務めることが出来ました。以後もヱメコフ・マキアリイの下で正義の為に働いて参る所存であります」
「所長は、」

 振り向く上半身に従い、長く腰の当たりまで伸ばした髪がなびき、鉄格子の窓からの光に煌めく。

「あの男は、相変わらずだらだらと怠惰に毎日を送っているか」
「あ、今週は巨大な悪とは遭遇しなかったようで、通常営業のみを淡々とこなしています」
「ならばよい。わたしも少し反省した。あの男の尻を叩いても別に事件が早く来るわけではなかったのだ」

 そんなことで所長は殴られていたのか。
 人は勤勉がなによりと言っても、刑事探偵などは暇な方が世の中平和で良いに決まっている。
 ましてや天下国家を揺るがし政財界を激動に陥れる大事件など数年に一度で上等。毎月毎週起こってたまるものか。

「相変わらず貧乏くさい飯を食っているのだな」
「はい、あれは病気です」
「ならばせめて豆麸を食わせろ。毅豆製品は安価で栄養価も高い。タンパク質は筋肉を育てる素となる」
「はい。お教えありがとうございます」

 それ以上の話は無い。再び座って写経を始めようとする。
 お邪魔をしてはならないと、クワンパも無言で礼をして懲罰房の外に出た。
 だが閉じられた扉から再び声がした。

「いずれ房を出れば一度会いに行く」
「はい」
「わたしが引き受けねばならぬ恨みが有るからな」

 棒を振るえば恨みを買う。人の運命に介入すれば、最後まで見届ける義務が生じる。
 カニ巫女になる修行とは、その覚悟が自分に有るかを問う事だ。

 クワンパには、まだ無い。

 

 

(第五話)

 ヱメコフ・マキアリイ私立刑事探偵事務所は鉄道高架橋下の違法建築物の中にある。
 だから時間帯によっては列車が何本も続けて通過して全く話ができない状態となる。

 列車が途切れるまでの数分間誰も口を開こうとせず、ただひたすらに待った。
 マキアリイが来客に勧める。

「……それでは、お話の続きをどうぞ」
「あ、ハイ。

 それで、首都(ルルント・タンガラム)の警察局では埒が明かず、現場であるノゲ・ベイスラの警察局に直接交渉するように言われまして、
 そこでもやはり門前払いと言いますか、既に捜査は終了して処分は決定したとの一点張りでどうしようもなく、
 でも親切な捜査員の方がヱメコフさんの連絡先を教えてくれて、この手の案件をまともに取り合ってくれる方は貴方だけと勧めてくれました」
「たしかに、警察局も巡邏軍も捜査終了や不起訴処分と決まった後はほとんど取り付く島がありませんからね」

 依頼人は3名。
 年配のご婦人とその息子、まだ学生の娘。
 息子は既に成人し去年から働いているが、事件の異常性から仕事は休んで家族で警察局に対処を求める活動を続けている。
 革の長椅子に3人並んで座るが、専ら話をするのは彼だ。

 マキアリイはクワンパに振り返る。
 事務所で作った新聞の切り抜き帳や縮刷版を探してみたが、この事件に関しては手元に記録が無かった。
 なにしろ4ヶ月前の最近の事件だ。まだ縮刷版は出ていない。
 そもそも私立刑事探偵に仕事が回ってくる話ではない。マキアリイの興味の対象外であった。

 

 創始歴6214年年末、暮れの忙しい時に男が一人、ノゲ・ベイスラ市の高層建築物から投身自殺を行った。
 通報により駆けつけた巡邏軍は直ちに身元を調査し、苦も無く氏名と職業所属を探り出す。
 アゲナシタ・ガーョイン 52歳 ルルント・タンガラム在住 国会議員秘書。
 彼が仕える国会議員カキネー・エンコニニはベイスラ県を選挙区とする野党議員で、彼もしばしば地元を訪れ有力者や支援団体との会合を重ねている。

 普通に考えるとこれはれっきとした事件である。それも政界の裏事情が絡んだ厄介なものであろう。
 巡邏軍から事件を移管されたベイスラ警察局も色めき立つ。
 なにしろ件の議員は、現在は野党ではあるものの2年前までは連立与党の一員。
 現在は所属政党が連立を解消しているとはいえ、政治状況でどのようにも転ぶ可能性がある。
 この事件がその契機になる事も。
 だが、

 いきなり捜査は終了。事件性は無く、アゲナシタが人生に行き詰まり悲観して自殺したと結論付けられた。
 その後カキネー議員事務所から政治資金の不正な使用が申告される。
 アゲナシタが使い込みをして返済に苦慮し自殺に至った、との筋書きですべてが一件落着する。

 収まらないのはアゲナシタの家族だ。
 父親一人を悪者にして何もかもを引っ被せる幕引きに納得できるはずも無く、警察局に訴え再捜査を要請する。
 だが首都の警察局は管轄違いだと相手にせず、ノゲ・ベイスラに至ってはけんもほろろに断られる。
 おそらくは中央政界から圧力が掛かっているのだろうと推測はできるが、であれば公権力に解決を求めるのは虚しい努力となる。
 民間の法論士に頼るとしても、敢えて火中の栗を拾うバカはめったに居ない。

 どこかに権力の横暴にも屈せず、すべてを闇に葬る暗黒勢力の企みを打ち砕く正義の味方は居ないものか。

 マキアリイは言った。

「この手の事件はとにかく面倒で調査費もかさみますので、普通の法論士も刑事探偵も受け付けません」
「やはり、正義は無いのでしょうか」

 アゲナシタの息子 アゲナシタ・ワヒヨヲが、安物の革の長椅子から尻を浮かして探偵に強く尋ねる。
 「英雄探偵」と讃えられるヱメコフ・マキアリイですら権力に屈するのであれば、タンガラム民衆協和国のどこにも正義の光は無い。

 彼も思春期の10年を英雄探偵の活躍に胸踊らせて育った世代だ。
 まさか自分達家族の上に国家権力の陰謀が襲いかかってくるとは思いもよらかったが、幸いにして英雄に巡り会えた。
 もしも彼の信じるところが正しいのであれば、

「私が日頃からお世話になっている法論士は気骨のある人でして、このような案件でも怯まずに法廷で闘ってくれます。
 安心してお任せください」

 交渉を息子に任せていた母と妹は同時に大きく安堵の息を吐いた。
 やっと真の味方にたどり着いた。この4ヶ月の地獄の日々にようやく助けを得る事が出来た。

「ですが、」

 と妹は懸念を口にする。

「ですが英雄探偵のマキアリイさまが、このような小さな事件をほんとうに手掛けてくださるのですか。巨悪と戦うお邪魔となるのでは」

 

       ***

「ハハハ」

 一笑し、マキアリイは改めてクワンパを見る。
 世間の人は皆、「英雄探偵マキアリイ」に過大な評価を寄せてくれている。まるで就職初日のクワンパのように。
 英雄の実像を多少は弁えた事務員は、内心では冷や汗を流して外面上微笑みを作って見せた。

「私の事件解決の逸話をご存知であれば、どの事件も最初から計画的に行動していたのではなく、ほとんど行き当たりばったりで巨悪に遭遇してしまったのをご理解いただけると思います。
 今回の事件が同じ展開を見せないとは言い切れませんが、たぶん、まあ、大袈裟にならない事を祈りますよ」
「そう、なんですか」

「ただし、」

 とマキアリイは釘を挿して安易な楽観をせぬように予防線を張った。
 刑事探偵に依頼したとしても、必ず真実が解明され邪悪が陽の下に引き出されるとは限らない。
 依頼人3名は背筋をまっすぐに正し、英雄の言葉に集中する。

「真実を解明するのと、依頼人の利益を守る事。この二つが必ずしも方向を一致させるとは限りません。
 真実を暴けばおそらくは故人の、お父様の生前の行いと秘密を明らかにするでしょう。
 政治家秘書という難しい仕事の裏ですから、あまり好ましくない事実が暴き出されるのも考えられます。
 場合によっては知らなければ良かったと思える事にも」
「それは、      ……覚悟の上です。父が完全に潔白であったとは、
 政治活動を行う上で私達家族に言えないような事をしていた時もあったと思います。
 ですが、」

「私としては、当ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所の方針としては、真実の解明よりも依頼人の利益を尊重します。
 もしも現状を維持する方があなた方の利益となると判断した場合、事件の詳細をお伝えできない事もあります」
「政府の圧力に屈する、と?」
「お父様の自殺とされる行為が何者かに強いられたものであっても、お父様自らの、あなた方残される家族を守るための苦渋の決断であった場合、
 現状を覆すのはむしろ遺志に反するものとなるでしょう」

 3人の依頼人は互いに顔を見合わせて、困惑する。
 これまで考えた事も無かった切り口での事件の評価だ。
 だが夫であり父であるアゲナシタ・ガーョインの善意を信じるのであれば、無い話ではなかった。

 息子に任せずに夫人が自ら口を開く。家族の総意として宣言する。

「その選択はヱメコフ様のご判断にお任せします。ただわたくしどもが納得できる決着をお願いいたします」

 息子が、

「それで、どのくらいの日数で調査出来るでしょうか」
「そうですね、事件化されなかったわけですからすべての捜査資料は警察局ではなく巡邏軍で閲覧が可能です。
 捜査資料の検討に1日。関係者に事情を尋ねるのにおおむね、

 ……みなさんはノゲ・ベイスラにお泊りですか?」
「はい、とりあえず5日の滞在を予定して宿を取っています」
「そうですか。だがあまり適当ではないな。
 なるべく事件関係者と直接接触しないでいただくと調査が捗ると考えます。
 第三者として客観的な立場で私が訪問する事で新たに引き出せる事実も有るでしょう。

 そうですね、予備的な調査結果をお伝えして今後の方針を相談するとして、4日後朝に再び事務所にお出でいただけますか」

「すべて、ヱメコフ様の仰るとおりにいたします」

 家族3人は長椅子から立って、揃って頭を下げる。
 もうこの人以外に頼れる者は居ない。ただひたすらにすがるべきだ。

 

 マキアリイはクワンパに合図をする。
 相対していた革椅子から立って、背後に立つ事務員と交代する。
 席に着いた彼女は資料を広げる。

「それでは依頼料調査費用についてご説明いたします。特に必要経費、巡邏軍で文書閲覧に掛かる諸経費がこのように……」

 

       ***

 クワンパは小包丁の切っ先を伸ばして箱を触る。紙包みの合わせ目に刃を滑り込ませる。
 応接の革椅子の前に置かれた小卓の上、依頼人アゲナシタ一家が持ち込んだ菓子包みを調査する。

 これもマキアリイ刑事探偵事務所事務員の大切なお仕事、「爆発物危険物処理」だ。

 どれだけまともそうな人でも、また深刻で同情すべき事情を抱えた依頼人であっても、それが演技では無いとの証明にはならない。
 いや人を殺すのであればどこまでも真実味を追求し、ありとあらゆる手段を講じて演ずるだろう。
 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイはそこまでしても殺す価値を持つ人間だ。

 というわけで来客依頼人が持ち込んだ物品、それもご挨拶の菓子類に関しては慎重かつ厳重な検査が行われる。
 まずは爆発物、ついで発散するガス状化学薬品。蜘蛛蛇毒茸等生物兵器の可能性もある。

「包み紙に異常なし。取り払います」

 内部から栗色の紙箱が出てきた。クワンパはこれの正体を知っている。
 ベイスラの有名なお菓子屋さん、土産物として定番の焼き菓子である。割と上等。
 ちょっとがっかりする。
 定番であるからクワンパの実家でもよく見るお菓子なのだ。珍しくない。
 だが未開封売っているままであっても、毒を忍ばせていないとは限らない。
 外見で判断できない場合はやはり、毒味を行うしか無いだろう。

 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイに代わって巫女見習い事務員が毒味を行う。
 この習慣が出来たのは、二代前ザイリナの在籍時。

 或る夏の日、マキアリイは昼ごはんに出前でドングリ冷麺を注文した。
 ゲルタを使わない料理を頼むのも妙だが、時には気の迷いもある。
 マキアリイ不在でザイリナが出前を受け取り、だが何らかの事情でそれを失念する。
 部屋の温度が高いままに冷麺を放置し続けた。
 事務所には電気冷蔵庫なんて文明の利器は無いが、簡易な氷冷蔵庫は設置してある。
 近所の氷屋で大きな氷を買ってきて、おおむね1日は冷やす事が出来る。飲み物などを冷たく保つ。
 だがザイリナは「軟弱な」と経費削減をして使わなかった。
 真夏の暑い中訪れた顧客に対しても、煮えたぎるチフ茶を出すほどだ。
 1時刻(2時間)後に帰ってきたマキアリイは、すっかりヌルくなったドングリ冷麺に文句を言いながらも食べた。
 なんか普通より酸っぱく酢が利いている気がしたが、考えない。
 そして腹痛で倒れた。
 ザイリナは深く反省した。暗黒勢力は毒殺という手段を用いる事もあるのだと。

 以来事務員の仕事にマキアリイの食するものの毒味が加わった。
 毒は即効性とは限らないので、食後4半刻(30分)は経過を観察する。
 その間事務員のやりたい放題という事だ。

 

 ぼりぼりとお菓子を食べるクワンパを横目に、マキアリイは旧知の新聞記者に電話をする。
 アゲナシタ・ガーョイン自殺事件の報道について尋ねた。

「ああ、あの事件は尻すぼみで終わってこちらとしても不完全燃焼な気分ですよ」

 政治記者であれば、中央政界の国会議員秘書が地元選挙区で投身自殺、という実に美味しいネタに食いつかないはずが無い。
 深く突っ込めば特ダネの嵐となってタンガラム全土を巻き込んだ騒動にもなったかもしれないが、

「そうです。政府の総統周辺から圧力が報道関係にも掛けられてますね、間違いなく。下の方には何の説明もありませんが」
「それほどの大きな事件なのか」
「いや逆みたいです。こんな小さな事件を大きく煽ってただでさえ不安定な政治状況を掻き回して欲しくない、そんな感じです。
 夏にはまた国政選挙がありますから、それまでの政治工作に余計な波風は要らないと」

「でも特に有力者でもない野党議員の秘書だろ。総統が関与を心配する話かな」
「野党「自由タンガラム党」は、2年前までは連立与党の一員でしたからね。
 2年前の政界の大醜聞で中心与党の「ウェゲ(真人)議政同志會」に火が着いて、大火傷しない内に逃げ出したのが「自由タンガラム党」です。

 ほとぼりが冷めたと見て、また連立交渉を水面下で行っているらしいですね。
 「ウェゲ會」の支持率は下がる一方ですから、新たな連立相手がどうしても必要となります。
 その大事な連立相手に悪評が立つと、これがまた」

 そういうカラクリであったのか。
 報道各社の上層部は、来る国政選挙での表に出せない極秘情報を総統周辺から提供してもらうのを条件に、この件は目を瞑ったのだ。

 

 ちなみに「2年前の政界を揺るがす大醜聞」とは、かの高名な英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ氏によって、
長年政界に巣食ってきた前時代の妄執、影の支配者、「闇御前」とまで呼ばれた黒幕の逮捕にまでこぎつけた事件である。

 

       ***

「それで、アゲナシタ・ガーョイン氏自身についての取材は、」
「ああこれがですね、実はあまり芳しいものではなく」
「かんばしくない?」
「彼はベイスラの地方部を選挙区とするカキネー・エンコニニ議員の政治秘書なんですが、議員の代理として度々ベイスラに戻って地元有力者との連絡役を務めていたわけです。
 その仕事の中には、カキネー議員の愛人の世話、というのが含まれていたようでして」
「愛人。まあ政治家にはよくある話だな」
「よくある話です。そして現地妻的な愛人には定期的に世話が必要になるわけです。
 アゲナシタはその役をやっていたわけですが、……本人がその愛人に入れ上げてしまったみたいなんです」

「おい。」
「ええ、まずいでしょ。しかも入れ上げて貢いだカネの出所がカキネー議員の政治資金の使い込みだ、という情報も」
「政治資金使い込みで投身自殺、という警察局の発表も別にウソではないわけか」
「裏は取れていませんがね。なにせ本人は死んで、事務所も貝になって喋りませんから」

「それで、そちらも報道は手控えているわけですか」
「ええ、水面下ではまだ取材は細々と続けていますが。詳しい資料をお届けしましょうか?」
「お願いします。だがこれは、ご家族にはなかなか言い難い話ですよ」

 通話しながら、マキアリイは目の前に立つ女事務員を見据えていた。
 いつの間にかお菓子を食べるのを止めて電話の内容に聞き入っていたようだが、つい立ち上がり近寄ってきた。
 見たことも無い表情をしている。
 これは、カニ巫女見習い「クワンパ」ではない。
 17歳の「メイミタ・カリュオート」だ。

 遠慮するように微かに唇を動かす。

「……、奥さん、綺麗な方でしたよ」
「ああ、そうだな」
「お嬢さんも美人で、頭も良さそうで、」
「上級学校に通ってるそうだな」
「息子さんも成人されて、いい会社にお勤めするようになったって」
「ああ」

 彼女が何を言いたいのか、手に取るように分かる。
 自殺したアゲナシタ・ガーョインは、何が不満でこのような状況に陥ってしまったのか。

「特に異才を持つわけではない普通のまっとうな社会人として、ほぼ完璧と呼べるほどの幸福な境遇だろうな」
「どうして!」

 強く訴える彼女も、マキアリイが答えを持っていない事は十分に理解する。
 それでもなお叫ばずには居られない。

「クワンパ、残念ながらこれが現実の犯罪だ。正義なんてそう簡単に見えるものじゃない」
「でも、それじゃあ私たちはどうすれば、」
「俺達は公務員じゃないからな。依頼人の利益を最大限に尊重し、その希望の範囲内で全力を尽くすのみだ」
「見たくない真実は黙っている。そういう事ですか」

「ま、そこは匙加減だ。
 馬鹿正直に調べたものを垂れ流しても大抵の場合ろくな結果にならない。事実を「整形する」必要がある」
「騙すんですか?」
「というか、夫婦関係のもつれはカニ神殿の取り扱い事項だろ」

 不意を衝かれてクワンパは表情を元に戻した。
 確かにカニ神殿それも巫女は夫婦間の揉め事、より具体的にはヒモ亭主を叩きのめし根性を入れ直すのも責務とする。
 だが今回の事例は、

「あー、……それは、すいません。それは多分カブトムシ巫女やミミズ巫女の仕事です」

 再び応接の革椅子に戻り、お土産の焼き菓子をやけくそ気味にぼりぼりと食べた。
 現実世界における犯罪捜査は単純綺麗に白黒分かれるものではない。とは頭で理解していても、実際に遭遇すると破壊力抜群だ。
 だからこそカニ神殿では庶民生活の卑近な日常に潜む一見して明白な悪を破壊して回るのだ。

 ちなみにカブトムシ神殿は契約と結婚を司り、ミミズ神殿は男女の愛憎に応じて呪術を指南する。

 

「それで所長、どうしますか」
「普通に通常の手順で調査を始めるさ。まずは巡邏軍に行って調書を見る。関係者の名簿を作って1人ずつ当たる。
 特に重要な関係者には深く対話して証言を引き出す。
 刑事探偵に出来るのはここまでだ」
「それで済むと」
「これで済まなきゃ、大事件だな。「英雄探偵マキアリイさまの映画」がまた一本出来ちまう」

 ぐびっと唾を呑み込み、クワンパはお菓子を喉に引っ掛けた。
 げほげほと湯呑みに入った白湯を必死で飲み干す。
 巨悪の予感に身体が思わず緊張を見せる。

 

       ***

 巡邏軍ノゲ・ベイスラ市中央司令本部文書課。
 はっきり言うと、ここの職員にとって私立の刑事探偵は敵である。

 まず基本的に官僚公権力は民間人よりも自らを上に見る傾向が有る。
 これは特権階級の存在しない民衆主義国家であっても、いやだからこそ顕著な特徴だ。

 第二に、法論士および刑事探偵商事探偵の仕事は、警察権力の業務を結果的に監査する事となる。
 公権力の暴走を抑える為に民間人が裁判業務に携わるのが民衆主義の大原則であるが、不愉快極まりないのは当然の話。

 第三にめんどくさい。
 刑事探偵は警察局よりも下位の捜査機関である巡邏軍の調書しか閲覧出来ないわけだが、閲覧のみで持ち出しも複製もできない。
 要点を抜粋して持ち出す事は可能だが、これも検閲官が調べて秘密を保つべき部分には墨を塗る。
 裁判の最中に資料閲覧ともなれば、法律で便宜を図る事が義務付けられているので定時に閉室出来ない。
 検閲官も残業を強いられる。

 そして、ヱメコフ・マキアリイという人間。
 彼の活躍の裏で、巡邏軍警察局は無能怠惰と政治家や上級官庁、報道各社に世論から責め続けられるのだ。

 敵意が込められた視線を背後からひしひしと感じながら、マキアリイは苦笑する。
 自分も元は警察局の人間だ。
 外部の民間人に縄張りをかき回される苦痛はよく分かるが、望んで大事件に遭遇しているわけではない。
 星の巡りが悪かったと諦めてもらおう。

 

 で、肝心のアゲナシタ・ガーョイン投身自殺事件は。

「ま、聞かされた通りか」

 旧知の新聞記者に教わったままの事実が淡々と記されている。
 他殺の可能性は限りなく薄い。解剖所見も現場の鑑識の結果でも、他者の介在は感じられない。酒薬物等意識を撹乱する物質は検出されない。
 自ら柵を乗り越え8階建の高層建築屋上から身を投げたのを、疑う手がかりは見つけられない。

 だが不自然な点は確かに有る。
 そもそもが何故投身自殺。そして自殺の場所。
 件の高層建築は確かにノゲ・ベイスラ市において最も高い建築物の一つではある。建築会社が自社本拠を構えるのに、自らの技術力を誇ってわざわざ一番高くした。
 その建築会社は「自由タンガラム党」の有力な支持者であり、アゲナシタ自身も幾度も訪れて社長会長に選挙運動の支援協力を要請している。
 いわばお得意様。
 わざわざ此処で死ぬとなれば、自らが仕える国会議員カキネー・エンコニニ氏によほどの恨みがあり面当てに選んだとしか思えない。

 さらに、第一発見者。というよりは身元確認者。
 市内在住の「自由タンガラム党」突撃運動員4名が当時社内で特に用も無く静かに滞在し、投身自殺の騒ぎを聞いて表に飛び出し駆け付けた巡邏軍兵士に身元を伝えている。
 突撃運動員とは簡単に説明すると、荒事専門の選挙運動員だ。

 タンガラム民衆協和国が世界に誇る自由選挙は、理想は素晴らしいものだが実際は血みどろの闘争だ。
 なにせ利権を賭けた真剣勝負であり、数年間を敵対勢力に渡してしまえば徹底排除されて回復不能になってしまう。
 だから選挙運動には各種企業・団体が多人数を動員し手弁当で参入する。ヤクザも公然と協力する。
 結果、対立候補同士の運動員が本当に暴力で対決する。その最前線で戦うのが突撃運動員と呼ばれる者達だ。

「そうは言っても、だ」

 いかに有力な支持者の会社ではあっても突撃運動員が常駐するなどあり得ず、その日たまたま居たにすぎない。
 まるで自殺が起きるのを見透かしたように。
 事件に深く絡んでいるのは明白であるが、自ら殺人をあるいは自殺幇助を行ったわけでもない。
 現場建物内の応接室でその時刻は暇を潰していた、との不在証明がちゃんと有る。

 普通に考えれば、彼らとアゲナシタが談判して政治資金使い込みの責任を自ら取るように強要し、自殺を促した。
 巡邏軍と警察局が覚悟の自殺と見做したのにも合理的な根拠がある。

「まあこいつらは口を割らないだろうな」

 4人の突撃運動員は現在はノゲ・ベイスラ市を離れて議員本来の選挙区であるベイスラ南部で活動中、と書かれている。
 だが所在確認はもう3ヶ月前の話だ。今頃はちゃんと市内に戻っているだろう。
 アゲナシタが入れ上げたという議員の愛人もやはり市を離れて田舎の実家に戻ったとされるが、おそらくは首都により近いヌケミンドル市にでも逃げている。

 他に事情を聞くに都合の良い関係者は居ないのか。

「これだな」

 アゲナシタ・ガーョインの上級学校時代からの親友がノゲ・ベイスラ市内に勤めている。
 姓名はコクトウ・ボア・スグナ、年齢は同じ52歳。食品会社の営業部長だ。
 アゲナシタは市に来る度に何度も彼に会っているし、自殺の直前にも面会したと調書には書かれている。

 警察局も巡邏軍も最重要の関係者として深く事情聴取を行っており、特に拒むことも無くむしろ積極的にアゲナシタの近況や心情を証言している。

「……、アゲナシタ本人と夫人とも十代の頃からの知り合いか」

 当然に遺族アゲナシタ一家とも親しく、自殺当日に彼が電話で首都に事情を伝えている。
 ノゲ・ベイスラ市内に滞在中も親身になって助けてくれた。

「裏の事情を知っており、話してくれる可能性が有る人物は彼以外には無いな」

 

       ***

「どう思う、クワンパ。お前此処で死にたいか?」

 翌日朝。
 マキアリイと事務員クワンパはアゲナシタ・ガーョインが自殺した高層建築の足下の道路に居る。
 8階建てはさすがに高い。首を上に伸ばしても屋上が見えない。

「この高楼(古い言い方だ)は、ノゲ・ベイスラでは一番高い建物ですかね」
「10階建ては無かっただろ。第一高さを競っても仕方ない」
「そうですねえ、高いのが欲しければ高台に建てればいいんですから」

 ノゲ・ベイスラ市は高低差の大きな土地だ。山や丘や崖、谷や川や沼地で交通にも苦労する。
 何故こんな場所に大都市が出来たのか不思議ではあるが、防衛上は便利なのだ。
 方台初の民衆主義国家「ソグヴィタル民衆王国」が出来たのも、この地形ゆえ。

「正直自殺するならもっと高い所はある」
「ですねえ。ここからも崖の上の建物見えてますし」

 クワンパは答えながら、なんとなく路面をカニ巫女棒の石突で突いてみる。なんとなくだ。
 マキアリイはその意味を知っている。

「気になるか、やっぱり」
「は?」
「地面だろ、ここは石畳でなく土舗装だ」
「あ。はい、ですが、」
「土舗装の上に投身自殺をして確実に死ねるだろうか、と普通考えるよな」

 クワンパは自分が抱えていた違和感の正体を教えられ、ちょっと驚く。しゃがんで道路を手で撫でてみた。

「だめですかね、自殺」
「事実としてはちゃんと即死しているのだから問題無いが、死ぬ前にどう考えるかだ」
「ちょっと、……嬉しくないですよね。いや死なないで済む方がいいと考えれば、逆にココがいいのか」
「その考えは無かった。自殺をしても死なない方がいい、という心理。あるかもな」

 建物の所有者である建築会社に事情を尋ねようと申し込んだが、丁重にお断りされてしまった。
 英雄探偵の名を以ってしても無理。正式に裁判が始まって法論士が裁判所命令でも持って来なければダメだろう。
 では第一発見者である建物入り口守衛詰め所の警備員に私的に、と試みたがこれもダメ。
 さすがに緘口令がしっかりと敷かれている。

 逆に近所の商店などに当時の状況を尋ねると、堰を切って落としたように喋りまくってくれる。
 どの人も、あの有名なマキアリイさんがわざわざ訪ねてくれた、と大喜びで聞きもしない事まで話すのだ。
 これが英雄探偵の力か、とクワンパは改めて認識を新たにする。
 いちいち聞き込みする必要が無い。関係ない人までどんどん押し掛けて証言が積み重なっていく。
 おかげで当時の状況が手に取るよう理解できた。

 求められ色紙に飾り文字で署名していくマキアリイは、クワンパを呼ぶ。
 野次馬が多くなり過ぎて対応不能となった。すわ暴動か、と巡邏軍の兵士まで顔を覗かせる。

「クワンパ、俺は小用でしばし席を開ける。という名目で逃げる。お前も適当な頃合いで逃げろ」
「はい、承知」

 

15分後、二人はとある喫茶館で落ち合った。
 喫茶館とは喫茶店よりもすこし上等な店である。
 喫茶店はむしろ茶店と呼ぶべき簡易な、それこそ道端に椅子を出して安い茶を供する商売だ。
 さすがに外では目立つ。

息を切らしてマキアリイが座る卓まで来たクワンパは、向かいの席にどっと倒れ込む。
 カニ巫女棒も席の下に取り落とした。

「……逃げるのたいへんでした」
「ご苦労。こっちに冷たいのを」

 タンガラムの一般的な商習慣、飲食店では頼まないとお冷は出てこない。
 ガラス碗に氷水を入れてクワンパの前に届けられる。給仕が卓に置く瞬間にひったくって喉に流し込んだ。

「それで、何か気付いた点はあるか」
「そうですね、飛び降りたアガナシタ氏を確認した4人の突撃運動員の顔や風体を、わたしほぼ間違いなく分かるようになりました」
「あれだけ熱心に説明してくれればな」

 息を整え直したクワンパは席に座り直して改めて尋ねる。次はどうしますか。
 マキアリイはにたと笑う。

「証言してくれそうな関係者を当たる。だが明日辺りになると向こうから接触してくるはずだ」
「向こう、とは」
「「自由タンガラム党」の連中さ。そろそろご注進が行ってる頃合いだ」
「ああ、関係する建設会社に問い合わせしましたからね」
「それどころか、現場近辺であれだけ大袈裟に聞き込みをやったんだ。痛くもない腹を探られたと飛んでくる」

 あ。
 クワンパは驚いた。あの人だかりは故意に起こしたのか。
 マキアリイの英雄探偵としての虚名は、こういう使い方も有る。

 

       ***

 昼過ぎに訪れたのは、アゲナシタ・ガーョインの親友コクトウ・ボア・スグナ。
 彼が勤める食品会社のベイスラ支店は、かなり大きな建物の3階4階部分を事務所として借りている。

 巡邏軍の調書および新聞社から届けられた取材帳に顔写真が載っている。
 実直で法律なんかぜったいに違反しない堅実な性格と見受けられた。
 彼自身についても巡邏軍警察局はちゃんと調査しており、見た目の通りの評判を周辺から聞き出している。
 「自由タンガラム党」とはほとんど関係ない。あくまでもアゲナシタ本人の友人だ。

 応接室で待たされるマキアリイとクワンパ。
 ここでも英雄探偵の虚名は絶大な威力を発揮し、事情を伺いたいと申し込むと二つ返事で通された。
 女性事務員がチフ茶を淹れてくれたが、まさに興味津々。
 応接室の扉の向こう、廊下で他の事務員が首を揃えてマキアリイを見物している。

 待ち人は、この支店の営業部長だ。

「お待たせしました、ヱメコフ・マキアリイさん。あの本物のマキアリイ氏ですよね、名探偵の」
「本物の本人ですが、名探偵と呼ばれた事はこれまでにありません。そこは訂正を願います」
「私がコクトウ・スグナ、アゲナシタ・ガーョインの古くからの友人です。
 高名なマキアリイ探偵の御手を煩わせる事となり、彼に代わってお詫びいたします」

「その様子だと、アゲナシタ氏の夫人から連絡を受けておいでですね」
「御子息のワヒヨヲ君から。ようやくに本当に自分達を救ってくれる味方に出会えたと喜んでいました」

 コクトウ氏は身長はクワンパより高い程度、タンガラムの成人男性としては低い。
 52歳であるからそれなりに恰幅は良いが、なんとなく精気が無い。影が薄く感じられた。
 思わずクワンパは口を出す。

「あの、ご健康が優れないのですか」
「貴女はマキアリイさんの助手の方ですね。今評判のカニ巫女の。
 ハハ、面目ない事ですが先年妻を亡くして以来どうも身辺に不自由をして、周囲に心配を掛けてます」

 二人は再び椅子に座り正面にコクトウ氏が着くのを待つ。
 さすがにまっとうな会社が備える応接用の革椅子は上等で、マキアリイ事務所の10倍は高価であろう。
 改めて仕切り直し、真正面から訊ねる。

「巡邏軍警察局の調書で読みました。亡くなられたアゲナシタ氏が最後に会った親しい人物、で正しいですね」
「はい。おそらく相談を受けた知り合いは私だけでしょう。
 彼の仕事は特殊で複雑で秘密を保たねばならないものですから、私的に相談できる者は他に居ないと思います」
「そして彼の用件はあいまいで、結局はあなたにも詳しく伝えなかった」
「具体的な相談としては首都もベイスラも離れてどこかに身を隠せる場所は無いか、です」

「あなたの返事としては、「考え直して首都に戻れ」、でしたね」
「正確には「家族の元に戻れ」です。
 彼の様子の深刻さから少なくとも今の職を失うのは間違いないと思い、それならば最後に頼るべきは家族しか無いと」
「その忠告に対して、彼は、」
「はい。「それが出来れば逃げる必要も無い」」

 

 ここまでは事情聴取で何度も尋ねられた事なのだろう。
 言葉に澱みも迷いも無く、証言がブレることも無く正確に答えてくれる。
 このまま続けても調書以上のものが出ることは無い。

 マキアリイは切り口を変えてみる。

 

       ***

「アゲナシタ氏の遺族が私に依頼されたのは、この自殺が実際は何者かによって強いられた犯罪ではないか探って欲しいというものです。
 彼は国会議員カキネー・エンコニニ事務所の政治資金を私的に使い込んだ疑惑が掛けられています。この点に関して相談は受けられましたか」
「彼は対処不能な問題があるとだけ教えてくれましたが、実際には何がかは秘密を保ちました。私は聞いていません」

「カキネー議員がノゲ・ベイスラに抱える愛人については、」

 クワンパは見た。ほんの瞬間、コクトウの表情が歪むのを。
 マキアリイはクワンパに対して合図を送る。こんな時にはこう動け、とあらかじめ定めておいた。
 いきなりクワンパは喋り始める。アゲナシタの息子の話だ。

「でもワヒヨヲさんってかっこいいですよね。それに首都でなんだかの会社ですか、本社勤務だなんてよっぽど優秀なんですね」
「ああ、」

 とコクトウは頬を緩ませる。
 マキアリイが持ち出した「愛人」から話を逸らす気もあるのだろう。

「「新紀マルニゥム商券会」です、証券会社ですね。正規の大学を出ていないのに正社員採用されるのはよほど優秀である証明ですよ」
「あの方は、ご結婚の予定はまだ無いのですか」
「ああそうですね、本人がその気になれば。でもまあ恋人の話はまだ聞いていませんよ」

 事前に読み込んだ調書および新聞社から届けられた資料の通りに、コクトウはアゲナシタ一家に十分な親しみを持っている。
 アゲナシタ本人が犯罪を犯していたとしても、友誼が変わる事は無い。
 証言を引き出すにはこの方面から探るべき。

 マキアリイは改めてコクトウにまっすぐに向かう。

「コクトウさん、私はアゲナシタ一家から真実を探る依頼を受けました。ですが、あの人達を傷つけるものであってはなりません。
 あくまでも依頼人の利益を第一として、真実を暴いて公的な裁きの場に持ち込むのはその目的を果たす手段の一つとしてです」
「依頼人の利益を……」

「場合によってはアゲナシタ氏の醜聞が暴き出されるかもしれないと、あらかじめ依頼人には念を押しています。
 あの方達も了承して私に善処を任せました。
 ただこのまま、あいまいとした疑惑を掛けられたまま闇に葬られるのを許せないだけです」
「それは、……分かります理解できます。ですが……」

「私はいつでも「正義の味方」というわけではありません。
 正義よりもさらに大切なものが世の中には幾つもあると数々の事件を通して理解しています。
 時には自らの命を顧みずに天河の河原にまで秘密を持っていく人も。
 その痛みと決意を骨身にしみて理解させられました」

 マキアリイは事務所の連絡先が入った名刺をコクトウの前に差し出した。
 「英雄探偵マキアリイ」に直接連絡できる名刺は、依頼人の他はよほどの重要人物にしか用いない。
 コクトウは沈黙のままに手に取って見る。

 或る種の人物、心に闇を抱え後悔に苛まれる人にとって、時に英雄探偵の名は一条の光として差し込む。

「今日はこれで失礼いたします。なにか思い出される事がありましたら、電話をください」

 

 クワンパは少し不満な顔をしている。
 コクトウ・ボア・スグナ氏は、もう少し突いたら意外な証言を始める気がしたからだ。
 粘るべきではなかったか。

 会社から出て通りに戻り、マキアリイは呆れて事務員を見る。

「俺達は警察局でも巡邏軍でもないんだぞ。証言を引き出せばいいってもんじゃない」
「えーでも効率が優先ではないんですか」
「おまえ、コクトウさんとアゲナシタ一家とがこの先不仲になったらどう責任取るんだよ」
「え?」

 そんな所は考えなかった。
 いや、巷に溢れる探偵小説刑事小説映画演劇他で、そんな配慮をする物語は無い。

「おいクワンパ、気付いているか。俺たちはつけられている」
「えぇ、」

 クワンパは硬直した。首を回して周囲を確かめたいが、尾行者に感づいていると知らせてしまう。
 必死で身体の反射的行動を食い止めた。
 だが所長は、

「いいぞ、周りを確かめても」
「え、いいんですか」
「おう、やれ」

 言われるままに尾行者を周囲の風景の中から探すと、電線柱の陰に隠れる男が居た。バレバレだ。

「居ました」
「下手だろ、尾行。おまえに見つかるくらいだからな」
「専門家ではありませんね。私に見つかるくらいですから」
「「自由タンガラム党」の連中だ。おそらくコクトウさんの所から連絡があった」

「え、じゃあ」
「もちろんコクトウさんは「自由タンガラム党」となんらかの繋がりが有る。それが良いか悪いかは別の判断だ」

 (「天河の河原」:黄泉の世界で人間の魂が最終的に辿り着き生前の善悪を裁かれる場所。罪人はカニ神に首を切り取られ河原に永遠に晒される)

 

       ***(5話の2)

 調査2日目6時ちょうど(午前10時)
 二人は眠い目を擦りながらコクトウ氏の会社に向かう。

 クワンパは昨夜は終業時間を越えて延々と電話番の残業をさせられた。
 再度調査に出掛ける所長の指示で、コクトウ氏が直接電話連絡をしてくる可能性に賭けたのだ。
 狙いは大当たり、いやそうなるように誘導したのだから当然の結果。
 再びの訪問を約束する。
 英雄探偵に告白すべき何事かが有るのだろう。

 戻ってきたマキアリイに更に雑用をやらされた。犯罪捜査関係であればクワンパも愚痴は言わない。
 首都の法衛視との間で秘密の打ち合わせ、との名目で暗号通信と解読を行う。
 すごくちまちまとしたパズルの連続であった。

 結局作業は2時(午前2時)過ぎまで掛かり、終電はとっくに過ぎて始発を待たねばならない状況に。
 しかたがないから事務所の長椅子で眠るしかなかった。
 身体の節々が痛い。

 

 コクトウ氏が勤める食品会社に着くと、昨日と変わらぬ歓迎の嵐。
 昨日と同じ応接室に通されるが、申し送りがあったのかすぐにコクトウ氏の個室に案内される。
 ベイスラ支店営業部長の役職だが、実質はもう少し上の職位にあるらしい。

 女性事務員の案内で部屋に入ったマキアリイは、足を止め後続のクワンパは激突した。
 鼻が痛い。

「所長、どうしました」
「キミ、この部屋には前に誰か訪れていないか」

 案内の事務員に強く訊ねる。彼女は英雄探偵を案内していた浮き浮き気分のまま返事をするが、

「いえ私たちは知りません」
「そうか。とりあえず救急車の手配をしてくれ。コクトウさんが倒れている」
「え。」

 クワンパと共に事務員が部屋の内部を覗いて、毛足の短いじゅうたんの上に倒れるコクトウ氏を確認する。
 一目で分かるが、これは暴力犯罪だ。後頭部の髪が赤い血に塗れている。
 事務員は蒼白となって、指示された通りに電話の元に、上司や男性社員の元に走る。

 マキアリイは上着のふところから白い手袋を取り出して、映画の刑事のように手に嵌める。
 犯罪捜査だ鑑識だ指紋採取だ、とクワンパは敏感に反応し自分も身体の前にぶら下げている布鞄から手袋を急いで取り出す。
 だが、

「クワンパ、おまえは部屋に入るな」
「えええー」

 残念だが無理からぬ。
 マキアリイは正規の刑事犯罪捜査教育を受けた本職であるのに対し、自分はまったくの素人。
 重大な犯罪現場に遭遇するのも初めてだ。

 まず最も重要なのが扉の取っ手、それも部屋の内側。
 迂闊な犯人あるいは素人であれば指紋を確実に残すだろう。
 クワンパに出入りされては困る。
 そしてマキアリイも入室しない。じゅうたんに犯人の痕跡が残されている可能性が高かった。

 探偵の目は、毛の沈み具合から部屋で何が起きたかを読み取ろうとする。
 だが事態は緊急を要する。コクトウ氏の安否はまだ確かめられていない。
 じゅうたん上の痕跡を確認記憶して、マキアリイはゆっくりと歩を進める。

 うつ伏せに横たわるコクトウ氏の傍にしゃがみ、頸動脈に手を伸ばした。
 脈は感じられない。

 クワンパに振り向き、首を横に振った。
 更に命じる。

「クワンパ、1階に降りて守衛室に状況を説明。建物から人を出さず留めるように要請しろ。巡邏軍が来るまでだ。
 あと、ここ四半刻(30分)以内に建物を出入りした人間が居ないか聞いてこい」
「はい!」

 

       ***

 重大な犯罪が発生したとの通報を受けて、巡邏軍の先遣隊が到達するのに通常は30分以上掛かる。
 だが今回、10分で飛んできた。
 通報の内容に「英雄探偵のマキアリイ氏の指示で」という情報が含まれていたからだ。

 ベイスラの巡邏軍・警察局はこれまでに何度もマキアリイに煮え湯を飲まされている。
 英雄探偵が華々しく活躍する裏では、治安当局の不手際と無能が明らかにされ市民の糾弾を浴びているのだ。
 今回の事件も直ちに現場を掌握し、マキアリイの関与を排除しなければならなかった。

 同時に警察局に属する科学鑑識班も到着する。
 通常は巡邏軍先遣隊の要請後におっとり刀で到着する鑑識だが、今回は特別。
 「素人」ヱメコフ・マキアリイが現場を荒らしていないか、目を三角に尖らせるのだ。

 さらに例外的に、警察局の捜査官も同行する。
 採用年からするとマキアリイとは同期に当たる、若手から中堅と呼ばれ始める年齢の男。
 ただしマキアリイと共に仕事をした事は無い。

 「英雄」と呼ばれたマキアリイは警察局内部でも特別視され、また政府肝入で首都ルルント・タンガラムに配属された。
 その後田舎に島流しにされ、警察局を退職させられた。ベイスラに来たのはその後だ。

 捜査官は苦虫を噛み潰した表情で「英雄」から事情聴取を行う。
 中央政府からの圧力で終了させられた「事件」の重要な関係者が殺害されたのだ。
 面白いはずが無かった。

「それで、コクトウはあんたに何の用が有って呼び出したんだ」
「昨日の面会で説得したから、アゲナシタ事件の裏の事情を話す気になったんだろう」
「あれは事件じゃない、ただ自殺しただけだ。そういう決着がついている」
「まあそこらへんをね、何も聞いてないよまだ」

「犯人や怪しい人物は見ていない。そうだな」
「俺とうちの事務員とこちらの女性事務員の3人が一緒に廊下を歩いてきたが、不審な人間は見ていない。
 他の社員も守衛も見ていないそうだ」
「それはこちらで調べるから言わなくていい。
 前日の電話で、あるいは面会時に命を狙われているなどの話は出なかったか」
「まったく」
「ほんとうに?」
「有れば防げたのかもしれないがね」

 クワンパから聴取してもまるっきり情報が得られず、捜査官はまたしても表情を歪めるだけだった。

 解放されたクワンパは、1階下の別企業事務所の一室で待たされていたマキアリイと合流する。
 事件現場では最新科学技術を駆使した鑑識捜査が繰り広げられており、是非とも拝見したかったのだが許してもらえなかった。

「所長。犯人の手掛かりはほんとうに何も無かったのですか」
「凶器は有ったぞ。飾り棚に置いていた金属の褒賞像だな。血は着いていなかったが薄い埃に動かした跡がくっきりと」
「じゃあ指紋で分かりますね」
「それがさ、全面梨地の加工がしてあって細かい凹凸だらけ、指紋は出ないなーアレは」

 残念な顔をする事務員に、それでも大きな進歩だよと教えてくれる。

「まあ単純に、そこに偶然置いてあるモノを使っての衝動的犯行だ。計画的殺人とは思えないし専門の犯罪者のしわざではない」
「ああ、そうですそうです。行きずりの、じゃないやこの場合は素人の知り合いの犯行、って線が濃厚ですね」
「会社の自室に招き入れるくらいだから、初対面の人間ではないだろう。
 業務関係であれば、他の社員がその人物に会ってないのは不自然だ。個人的な関係だな」
「ですねですね」

「殴られた傷は後頭部の上の方、つまり斜め上から凶器をぶつけられた。
 コクトウさんは背が低いから犯人が女性であっても可能だろうが、傷の位置から考えると彼よりは背の高い、おそらくは男性」
「ふむふむ。定石どおりですね」
「1発しか殴られておらずトドメを差していないから、殺害の意思は無かった。あるいはそれどころではなかった」
「衝動的に、ということですね。それだけ切羽詰まっていた。何をです?」

「部屋のじゅうたんの上にうろうろと歩き回った跡が有る。おそらくはコクトウさんと口論になって揉めたんだ。
 一方コクトウさんも結構歩いている。むしろ積極的に応じた感じだ。
 俺は「説得をしていた」と見るがな。

 そして、倒れたコクトウさんから何かを奪った。上着を漁った時の乱れが衣服に残っている」
「何かって何です? 重要な証拠物件でしょうか」
「俺達を呼び出した用件だろ。であれば告発状とか告白書ってところか。
 その存在を犯人が知ったとすれば、是非とも入手したくなるブツだな」
「ではやはり、政府の工作員!?」

 マキアリイはあまりに突飛なクワンパの結論に、顔だけで笑って見せた。
 今まで挙げてきた推理がまったく意味無いじゃないか、その飛躍は。

 

       ***

 事情聴取を終えて、二人は解放された。既に2時刻(4時間)は経過する。

 会社建物の外には野次馬と報道関係者が輪を作って見守っている。
 既に各社に情報は行き渡り、英雄探偵マキアリイの関与は周知のものとなっていた。
 すわ大事件か。期待が高まるのも無理はない。

 マキアリイはクワンパの背を押した。

「ちょっとおまえ、先に出て周囲を観察しろ」
「観察、ですか」
「なんでもいいからちょっと出てよく見ろ。犯人が舞い戻って現場の様子を確かめに来た、とかは無いから気楽にな」
「無いですか」
「おう。今はもう犯人は居ない」

 3杖(210センチ)のカニ巫女棒をこれ見よがしに突っ立てて、玄関から取材陣の前に出る。
 既に「クワンパ」は有名人であるから、写真の投光器がばちばちと激しく点滅した。目の前が真っ白になる。

 視界が回復して、周囲をぐるっと見回し野次馬の中から。
 くるっと背を見せ再び建物に戻る。
 報告。

「居ました! 「自由タンガラム党」の突撃運動員4名、人相聞いてたとおりです!」
「よーし、役者が揃ってきたな」
「犯人、あいつらでしょうか」
「そんなわけ有るかよ。あくまでも「アゲナシタ事件」の方の容疑者だ」
「そうでした」

 満を持して、英雄登場。
 先ほどのクワンパにも増して白光が煌めき、野次馬の歓声が地鳴りのように湧き上がる。
 残念ながら事件捜査が進行中の場合に語られる言葉は一つしか無い。

『犯罪捜査は巡邏軍また警察局の管轄であり、現在鋭意奮闘中であります。
 私ヱメコフ・マキアリイは当局に求められればいかなる協力にも応じますが、今は事件概要をお伝えする立場ではありません』

 

 やっとこさで事務所に戻ってきた二人である。
 だが休憩はまだ許されない。クワンパは革の長椅子の上に寝転がってしまったが。

 マキアリイは電話を取って、今回の依頼人アゲナシタ一家が待機する旅館に連絡する。
 彼らが親しくする、父の旧友コクトウ・スグナ氏が殺害されたのだ。
 その責はアゲナシタ事件の再調査を依頼した自分達に有る。と、おそらくは考えるだろう。
 調査方針の変更があるかもしれない。
 事件関係者として警察局の事情聴取にも応じねばならない。

 果たして、電話に応じたアゲナシタ夫人は絶句する。

「コクトウさんが……」
「残念ながら、他殺です。私が直に確認しました」
「そんな……、何があって、いえ誰が。……もしかして主人の事件と関連が、」
「全ては巡邏軍の現場検証が終わってからです。
 巡邏軍か警察局の捜査官がそちらに事情を伺いに参るはずです。旅館を動かずにお待ちください。
 私もこれからそちらに参ります」
「はい、ヱメコフ様の仰るとおりにいたします」

 なにか腑に落ちない。何故夫人は電話を息子に替わらないのか。

「御子息のワヒヨヲ君は今そちらに居ないのですか」
「気分転換に行くと朝から出ています。やはり宿を出たのは間違いだったでしょうか」
「連絡があったらすぐ戻るようにお伝えください。すべては私がそちらに着いてから」

 マキアリイはしばし考える。
 あちらには女性が2人。クワンパを連れて行った方が適切だろうが、
やむを得ない。

「クワンパ、連日で済まないが今日も残業だ。事務所で夜まで電話番をしていてくれ」
「はい。付いて行かなくていいですか、アゲナシタさんの所に行くんでしょ」
「仕方ない。帰りは分からん、電話する」
「行ってらっしゃい」

 さすがにカニ巫女でも今日は堪えた。おとなしく留守番をする。
 本物の殺人事件に生まれて初めて遭遇したのだ。
 そんなやわな神経ではとても師姉に及ばない、と分かってはいるのだが。

 

       ***

 問うべきは2点。
 アゲナシタ・ガーョイン自身が起こした政治活動費使い込みの真相。
 何故有力な支持者である建設会社本社を自殺の場所に選んだか。

 さらに、コクトウ・スグナは何をマキアリイに伝えたかったか。
 今回の殺人事件はどう絡んでくるのか。

 クワンパは事務机の前に座って推理する。電話番はなかなか退屈。

「基本的に、アゲナシタ自身の使い込みについて情報があまり出回ってないのね。議員事務所が発表した程度にしか。
ほんとうは国会議員が悪いことをしていて、その詰め腹を代わって秘書のアゲナシタに取らせた。
 という定番の脚本では無いんだ。そもそも議員への疑惑自体が存在しない。
 じゃあ本当にアゲナシタ本人が悪い? 愛人に手を出し議員を裏切った? それで死ぬなんてまるでヤクザの世界だ」

 政治家とヤクザに密接な繋がりがあるのはタンガラムの常識だが、政治家は表の光の側だからさすがに表立っては酷いことはできない。
 今回の事件はどうしても表面的に見えるカタチが乱暴で、違和感が拭えない。
 何が裏に隠れているんだろう。

 名探偵クワンパは早々に廃業した。考えてもまったく分からない緒が掴めない。
 重要な部品が見当たらないのだ。

 

「なんだこいつ、仕事してないぞ。ヱメコフ所長は居ないの」
「あ、   眼鏡のネイミィさんか」

 終業時刻を過ぎると質屋の眼鏡女ネイミィがガラス扉を開けた。
 クワンパが着任する前まで事務員代理をやっていたから、遠慮が無い。
 何の用だ。

「なんの用だよ。所長に返すカネなら無いよいつものとおりに」
「そんなこと夢にも思わない。暇だから帳簿を確認に来たよ」
「う、問題は無いと思うけど……」

 ネイミィは経理の専門家。
 対してクワンパはカニ巫女教習で簿記の基礎は習ったが、棒を振り回す方が面白いからおざなりだ。
 第一前任のシャヤユート姉は金銭にはまったく頓着しない性格で、……ハハ、どうやってたんだろ。

「今日は所長は」
「殺人事件に遭遇した。事情聴取やら関係者に面会やらで相変わらず忙しいよ」
「殺人、だれ?」
「いやそれは業務上の秘密ってやつで。新聞に出るまでダメだよ」

 眼鏡女は帳簿をめくる手をしばし止めて宙を見る。
 きつい女だが荒事には向いていないから、やっぱり死体とかダメだろ。

「ネイミィさん、あなたさ、事務員代理で事件に遭遇とかした事ある?」
「なんで事務員が所長にくっついて現場に出向かなくちゃいけないんだ。電話番しろよ」
「あ、ああ、うん。そうだね常識的だね」

 カニ巫女事務員はそういうわけにはいかない。

「そうだ、あんた企業とか事業所とか詳しいよね。大手建設会社分かる?」
「全部は知らない。大手より中小の方が分かるけど、業務で付き合いの有るところだけね」

 アゲナシタが投身自殺した建設会社の評判を聞いてみる。
 「自由タンガラム党」への選挙支援を行うのであれば、なにかしら噂になっているのでは。

「悪い噂は聞かないねえ。選挙協力なんてどこだってやってるし」
「あ、そう」
「ついでに言うと、どこだって談合やら不正入札やら行政と癒着やってるし」
「ああ、うん。それがふつうだよねー」

 多少のネタでは地方政界だってひっくり返らない。
 それこそ国会議員秘書が1人死んだ程度ではびくともしない。
 では政府がもみ消しに来る理由は何だろう。

 ネイミィが尋ねる。殺人事件て、犠牲者は知り合いなのか。

「ネイミィさんならいいかー。今の依頼人の友人で、私達が事情を伺いに行った翌日にゴツンと」
「撲殺?」
「うん。所長が居ないのも依頼人に経緯を説明と、巡邏軍警察局が事情聴取に来た時の対応をね」
「そうか、じゃあ喪服の準備しないといけないな」
「喪服?」
「所長、お葬式出るでしょ。そういう経緯なら」

 気付かなかった。いや、事件の流れからすると行かねばならない。
 コクトウ氏の葬儀の会場に重要な関係者が現れるかもしれない。

 

       ***

 遺体はまだ戻ってきていない。
 検死解剖後も規定の時間は死体安置所に保管しておく規則だ。

 調査3日目。コクトウ・スグナ氏の自宅では葬儀の手配が進んでいる。

 最近では様々な宗教が乱立して葬儀の形式も多数見られるが、標準的なのは十二神信仰「コウモリ神殿」によるものだ。
 神殿から神官巫女を招いて、コウモリ神の御札をぺたぺたと至る所に貼って厳かな楽の音と共に見送る。
 殺害現場である食品会社のコクトウ氏の部屋も御札だらけになるはずだ。

 自宅はノゲ・ベイスラ市郊外の一軒家で農地と宅地が入り混じっている土地だ。
 コクトウ氏は先年妻を亡くし、子供も居なかった。
 遠方の親戚と妻の実家から人が来て、また会社の同僚部下が集まって準備を進めてくれている。

 だがたぶん、棺の無い通夜となるだろう。

 英雄探偵ヱメコフ・マキアリイはアゲナシタ一家を伴って会場を訪れる。
 アゲナシタ家はコクトウ氏と家族ぐるみの親しい付き合いで、亡くなった妻の親族とも顔見知りだ。
 特に老父に対して夫人は涙で手を取り、お悔やみの言葉を、自身の罪を悔やむ気持ちを打ち明けた。
 アゲナシタ・ガーョインの自殺から始まる死の連鎖。
 不用意に闇を照らして、災いを呼び込んでしまった。

 クワンパとは会場で落ち合った。葬儀の場だからカニ巫女見習いの正装。
 マキアリイはクワンパが持ってきた喪服を上着だけ羽織る。
 配慮は嬉しいが、現在も職務中調査続行だ。参列者の中に容疑者、事件関係者が紛れているかもしれない。

「それにしてもよく気付いたな、喪服」
「ネイミィさんが、」
「ああ。礼を言わないとな」

「ヱメコフ・マキアリイさん、ですな。あの高名な探偵の」

 コクトウ氏の妻の父が近付いて話し掛けてきた。かなりの高齢で痩身、歩くとふらついて危ないと感じられる。
「この度は突然の事で、当事者の一人としてなんとお慰めすればよいか」
「娘が逝った後スグナ君はどうにも影が薄く感じられて案じておったのだが、残念だ。まだ寿命には遥かに遠いだろうに」
「アゲナシタさんとは親しくされていたのですね」
「ああ、スグナ君と娘の間には子が生まれず、アゲナシタさんの御子さんを我が子のように可愛がっておりました」
「そうですか……」

 兄と妹を、孫を見るかの視線で遠くに振り返る。
 おそらくは、それは有るべきだった可能性。コクトウ・スグナと彼の娘との間にも訪れるべきだった幸福。
 もちろん彼には他の子があり、孫も居る。会場にも来ている。
 それでも惜しまれてならなかった。

「それで、マキアリイさん。実はこうなる事は或る程度予想されておったのです。
 スグナ君から手記のようなものを預かっている。それをお渡ししたい」
「手記ですか」
「告白状かもしれん。今年になって急に家に訪ねてきて、万が一があれば然るべき人に渡して欲しいと頼まれました。
 儂の方が先に逝くから無駄なことをと思ったが、」

 喪服の内懐からかなり大きな茶封筒を引き出して、探偵に手渡した。

「然るべきがどんな人かさっぱりだが、あんた以外に託すべきは居らんだろう。受け取ってください」
「内容は確かめられましたか」
「うむ、老身には案外と辛いものだった」

 マキアリイが話している間、クワンパは周囲をさりげなく監視している。
 注意を呼び掛けた。

「所長……」
「居たか?」
「たぶん。もう消えました」

 

       ***

 先夜マキアリイはアゲナシタ一家と今後の調査方針について協議した。
 結果、アゲナシタ・ガーョイン自殺よりもコクトウ・スグナ氏の殺人事件について調査を行って欲しいとの希望を聞いた。
 どちらも根が同じだから、結論も等しくなるだろう。

 依頼人に挨拶をして、探偵とその事務員は職務に戻る。

 葬儀の会場を離れ最寄りの路面電車の停留所に向けて歩く。事務員は所長の喪服を袋に入れて担いでいる。
 緑の原に沿った人通りの少ない道に出ると、それらは姿を現した。
 男が4人、布で覆面をしている。

「所長、こいつら”アゲナシタ氏が自殺した際に身元を確かめた「自由タンガラム党」の突撃運動員”ですね?」
「クワンパおまえ、そんなあっさりと正体を見破ってやるなよ」
「だって聞いた通りの風体なんですよ、分かっちゃうじゃないですか」

 体付きや雰囲気、着ている服装など、自殺現場で聞きこみをした通りの姿が出現したのだ。
 配慮したくてもバレてしまう。
 意味が無いから、彼らも覆面を取った。

 頭領格、髪が灰色で中途半端に伸ばしている目の細い男が代表して交渉する。

「刑事探偵のヱメコフ・マキアリイさんだな。多くは言わない、さっきコクトウの義父さんから受け取った封筒を渡してもらいたい。
 と言っても無理だろうな」
「無理だ」
「ああ、あんたに渡った時点で分かっている。暴力沙汰でなんとかなるとも思わない。あんたの武勇伝はよく知ってる。
 だからせめて、内容を確かめさせてくれ。こちらが必要とする文書かどうかを教えてくれ」

 なかなかに紳士的。
 突撃運動員は荒事が専門とはいえ、逮捕されてしまっては元も子も無い。
 法的に安全な距離をすれすれまで近付いていくのが仕事だ。

 だがこちらもただでは応じない。

「そちらが必要とする文書の概要を教えてくれ。そうすれば見せてやる」
「そいつは難しい注文だ。頼む、なるべく穏便に済ませたいんだ」

 マキアリイは上着の襟をひらひらとはためかせて、懐の文書を誇示し煽った。

 残り3人がじわりと間合いを詰めてくる。
 狙いはクワンパ、いかにカニ巫女といえども屈強の男3人が掛かれば取り押さえる事も可能だ。
 人質を取られてはさすがの英雄探偵も譲歩せざるを得まい。

 狙いが自分に向いたと知り、カニ巫女棒を戦闘態勢に構えてじわりと背を低くする。
 たとえマキアリイが止めても1人くらいは頭蓋骨叩き割る算段。

 だが、

「なるほど、噂はほんとうだったわけだ。
 アゲナシタが出奔する際に追求を防ぐ手段として、「保険」を用意していたのは」
「くっ、」

 指摘は図星を突いて、男達は顔色を変える。

「探しているのは「保険の複製」だな。
 アゲナシタをあんたらに売ったコクトウさんが持っている可能性は低かったが、万が一と思ったわけだ。
 親友だったからな」

「売った?」

 むしろクワンパの方が驚いた。
 そうか、さっきの「告白状」と言ってた文書はその件を綴っていたのか。

 さすがは英雄探偵、世間の評判は伊達ではない。
 これ以上関わるとさらに多くの情報を読み取られてしまう。
 4人の男達は速やかに撤退する。
 危険は冒さず慎重なのが、単なる荒くれ者と一線を画するところだ。

 再び道は二人だけに戻る。所長に尋ねる事がたくさん出来た。

「教えてください、「保険」て何ですか」
「それこそ、「大手建設会社から投身自殺した」理由さ。
 国会議員カキネー・エンコニニが地元業者と癒着し不正に便宜を図っていた証拠の数々。さらにはノゲ・ベイスラ都市拡張計画も絡んでいるらしい。
 自分に追手が掛かったらこれを公表することで諸共に自爆する気だったわけだ」
「その関係先が自殺現場ですか。

 でも何故? 関係先で死んだら怪しいと示しているみたいじゃないですか」
「そこはまだ知らん」

「コクトウさんがアゲナシタを売ったというのは」
「アゲナシタがベイスラに逃げてきて匿ってくれと頼んだんだ。最初の内はコクトウさんも親身に面倒を見てくれた。
 だがその内に親友を許せなくなり、追手である「自由タンガラム党」に居所を通報する。

 その時の心の揺らぎについて書いてあるのが、この文書ってわけさ」

 と、マキアリイはクワンパが首から下げる布鞄を小突いた。
 封筒は最初からこちらに仕舞ってある。

 

       ***

「……、私とおんなじだ」

 帰りの路面電車の中で、クワンパは原稿用紙に書かれたコクトウ氏の手記を読んだ。
 昨日彼が自分達に語ろうとしたのは、そして殺人犯が奪っていったものは、この手記と似た内容であろう。
 マキアリイは速読法を使えるから、文書を受け取ったその場で大体の内容を確認してある。

「コクトウ氏の怒りはもっともなものだ。特に妻を亡くして間も無い時期に、これだ」
「コクトウさんは若い頃、アゲナシタの奥さんを好きだったんですね。
 でもアゲナシタさんの方が先に告白して結婚してしまった。
 その後のアゲナシタ夫妻は順調にお子さんが出来て幸せそうに暮らしていたし、自分も結婚して表面上は仲良く友情を深めていた。
 自分達には子供が出来ないのを、アゲナシタさんのお子さんの成長を慰めとして良くしてくれていた……。

 許せませんね。特に愛人に入れ上げて云々の下りは」
「それでアゲナシタの所在を「自由タンガラム党」に通報した。売ったとはそういう意味だ」

「でも所長、これを読んでも「保険」の詳細は分かりません」
「具体的な部分は知らなかったみたいだ。だが建設会社の名は出てくる。

 アゲナシタは、コクトウさんに後事を託さなかったんだな。
 政界の疑惑を取り扱うのに、一介の会社員では荷が重いと感じたんだろう。
 報道関係者か同じ政治の業界人、有効に活用できる知り合いが他に居たのかもしれん」

「でも所詮は野党議員の地方での汚職程度でしょ。政府が関与するほどの大ネタですかね」
「連立与党復帰というからな。どんなに小さなネタでも、復帰直後に暴露されては支持率激減で大損害だ。
 アゲナシタは自分が考えるよりも大きな爆弾を、その価値を知らずに持ち出してしまったわけだ」

 既に電車は市の中心部、軒を連ねて店が立ち並ぶ通りに戻ってきた。
 クワンパは車窓から望む猥雑な風景にぼんやりと思いを走らせる。
 正義って難しい。

「殺人犯、誰なんでしょう。さっきの4人じゃないですよね……」
「あいつらは殺しなんかしない。
 アゲナシタだって殺してない。自殺を強要しただろうがね」

「「保険」はどうなったんでしょう」
「4人が取り上げた、と俺は思うな。家族をひどい目に遭わせるぞと脅せば、ふつう抵抗出来ない」
「ひどい目、って」
「この件の全容が表沙汰になれば、アゲナシタ一家はもう首都には居れないさ。
 息子さんだって折角入った会社を辞めざるを得ない。娘さんにも縁談は来ない」
「ひどい話ですが、自業自得ってものですね。何も知らない家族が哀れです」

「うやむやの決着で助かる場合もある。それを条件に自害するよう強いたんだろ。
 以後はおおむね満足すべき状態だ。約束は守られている」

「犯罪ですよね」
「犯罪だよ。だが告発するべきだと、おまえは思うか」

 

 路面電車を降りた先は、とある大きな建物の前。
 さすがに中央政界で連立与党になるほどの政党だ。立派な事務所を構えている。

 『自由タンガラム党ベイスラ県支部中央事務所』
 でかでかと金看板が掲げてある。

 その真正面玄関から、英雄探偵は恐れ気も無く入っていく。
 1階の事務室は大きく開けている。政党関係者、事務員、運動員が10名ほど居た。
 夏の国政選挙の時には選挙運動司令部となり、党員多数が詰めかけごった返す。

 マキアリイは懐から茶色の封筒を取り出して、左手で高く掲げた。

「さっきの男、取引に応じるぞ。状況が変わった。アゲナシタ家に手を出さない、でどうだ!」

 もちろん先ほどの4人の突撃運動員は居ない。
 だが彼らより上の権限を持つ人物が政治的判断を下してマキアリイの元に差し向けるだろう。

 クワンパも所長に続いて、カニ巫女棒を真正面に押し立てて入っていく。
 左右を睥睨して脅しを掛けておいた。
 しかし、ちょっと分からない。これは何のお芝居なのだ?

 党事務所を出て、すぐ尋ねた。

「所長、取引って何をどうやるんです。目的は何」
「まだ登場人物が足りないんだ。コクトウさんの殺害犯もそうだが、さらに一人な」

 

       ***

 巡邏軍ノゲ・ベイスラ中央司令本部正面玄関受付待合室。

 取引場所に選んだのは、まさしく警察力の中心部。
 今回クワンパは置いてきた。一人で待合の安い長椅子を占拠する。
 もう夕方近くだから、受付の事務官がうさんくさそうに見詰めている。

 こんな場所にいっぱしの悪党が足を踏み入れるはずも無い。
 近寄れるとすれば、

「ヱメコフ・マキアリイだな」

 突撃運動員の頭領を引き連れて現れたのは、薄い外套を羽織って帽子を深く被る背の高い男。
 雰囲気は険しく妥協を許さない迫力を持つ。軍人や警察局捜査官に近い。

 マキアリイは顔を上げる。予想が当たってニヤリと笑いを見せる。

「政府中央、総統筋の政治工作員てとこだな。
 俺は秘密工作機関の人間には何度も会っているから分かるよ」
「では現在の状況の危うさも理解できるだろう。君が入手した情報は国家政府の安泰を損ねる可能性を持つ。速やかに引き渡せ」
「言われなくても、巡邏軍に捜査資料として提出するつもりですよ。
 なにせ今回はれっきとした殺人事件だから、もみ消しは出来ない」

 痛いところを突かれて、男は口をつぐむ。
 突撃工作員は既に自分の扱える領分を越えて、見守るばかり。

「アゲナシタが用意した自分を守る為の「保険」は、最終的にあんたが手に入れたわけだ。
 だがあんたは政府の人間だ。政治家・政党が利権漁りに奔走するのを野放しに出来ない。
 総統閣下だって政府の頂点に立つ人間だ。自分達以外の勢力が権力の足元を掘り崩すのを許すわけにはいかない。
 ほどほどにしろ、と釘を刺して牽制する為に、あそこで自殺をさせた。

 そうだな?」
「文書を渡してもらおう」

 懐から封筒を取り出して、マキアリイは上に差し出す。
 だが政治工作員が握っても離さない。

「もうひとつ。コクトウさんを殺したのはあんたらの方じゃないな」
「違う。だが容疑者は既に特定してある」
「俺もだ。あまり嬉しくないな」
「そうだな」

 手を離す。
 封筒の中から数十枚の原稿用紙を引き出す。
 彼もマキアリイと同じ文書速読法を身に着けていた。内容を素早く確認する。

「! 無駄だった」
「そうでもないさ、「保険」の内容について或る程度は抑えてある。ただ証拠能力が無いだけだ」
「巡邏軍に渡し給え。もはや興味は無い」

 男は踵を返して外に出て行った。突撃工作員も続くが、何度か振り返る。
 マキアリイも立ち上がり、原稿用紙をめくって中身を確かめ封筒に戻す。
 受付の事務官に伝える。

「巡邏軍捜査課に。コクトウ・スグナ氏の殺害事件に関連する書類を入手したので提出したい。
 私の氏名はヱメコフ・マキアリイ。職業は刑事探偵だ」

 

       ***

 「以上が、アゲナシタ・ガーョイン氏の自殺に関する調査報告です。

 もしも裁判を起こすのであれば、不可能とは言いませんがかなりの難航が予想されます。
 それも罪状は殺人ではなく、自殺の強要。有罪に持っていけたとしても禁錮3年程度でしょう」

 依頼4日目。
 早朝にヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所を訪ねたアゲナシタ一家の3人に、約束通りの結果を報告した。

 事実を隠すのではなく、説明に不要な部分を省いただけで、しかし夫人と娘には十分に衝撃的な内容だった。
 コクトウ氏の手記に関しては、アゲナシタ夫人に対する思慕の情は伏せておく。
 ただ人倫においてアゲナシタ・ガーョインを許せなかった、それで十分に納得してもらえる。

 伏せたまつげを上げて、夫人はマキアリイの顔を見る。

「たいへんに満足のいく、納得できる調査結果です。
 私どもも、以後は夫の事件に関しての追求は諦めようと思います」
「それで、コクトウのおじさまを殺した犯人については手掛かりは無いのですか!?」

 勢い込んで尋ねる十代の娘に、マキアリイは困惑する。
 彼女にとっては事件は決着がついたどころではなく、まだまだ進行中なのだ。
 自分達の調査依頼が原因か、と考えると無理からぬところ。

 だが本当に辛いのだ。これから先を語るのは。

「コクトウ・スグナ氏の殺害に関しては巡邏軍の捜査に任せていますが、しかし」
「はい」

「ワヒヨヲ君。君、コクトウさんの所から持ち出したものが有るね」

 電撃に撃たれたかにアゲナシタ・ワヒヨヲは座る姿勢を正した。
 ぎこちなく左手を動かし、上着の懐から数枚の紙を取り出し、対峙するマキアリイの前に並べる。
 そして、床に跪き両手を着いた。

 母と妹は何事が起きたのか理解できずに唖然と見詰め続ける。

「申し訳ありません!」
「……だから関係者に接触してはいけないと言ったんだ。互いに感情が不安定となって予期せぬ結果になる事が多い」

「もうしわけありません。でも、コクトウさんがマキアリイさんに渡す書状が有ると言った時、どうしてもそれが見たくて」
「拒否されたんだね。それが君達を傷つけるものだと十分に理解していたから、見せたくなかったんだ」
「すいません、すいません……」

 書状を1枚手に取って、読む。
 内容は昨日の手記と同様だが、アゲナシタ夫人に関しては触れていない。
 これをマキアリイ経由で提示すれば、一家は父親の死に対する疑問を永久に封じる事が出来ただろう。

 コクトウ氏に拒絶され、口論の末に衝動的にその場にあった褒賞像を掴んで凶行に及ぶ。
 殺意など微塵も無かったが、結果は最悪となってしまった。

「ワヒヨヲ、おまえ、まさか、」
「お兄さま……。」

 次第に意識の中に、息子が、兄が犯した罪の形が浮かび上がってくる。
 妹は思わず悲鳴を上げた。どうしようもなく、止めようも無く、立ち上がり腕を振り回し。

 クワンパが背後から取り押さえた。凄い力ではあったが、あらかじめ備えていれば対処できる。
 カニ巫女はこのような狂乱には慣れていた。

 マキアリイは平静を保つ声で彼らが次に進むべき道を示す。

「巡邏軍もいずれ君に到達するだろう。あの現場には証拠が多すぎる。
 その前に自首する事を勧めます。私が同行しましょう」
「はい、お願いします」

 床に跪いたままの青年に手を貸し立ち上がらせる。
 司法に身を任せるのにいささかの抵抗も示さない。
 己が罪を知り罰を甘んじて受ける。

 だが本来こんな未来が有るはずも無かったのだ。
 アゲナシタ・ガーョインの背信はあまりにも業が深い。

 

       ***

「世間の人間はおおむね勘違いしているのだが、政府の圧力とか横槍と呼ばれるものは巨大で圧倒的な化物のしわざ、ではないのさ。
 ちゃんと担当の役人が居て、それも少人数によって処理されている。ましてやこんな小さい事件だ。
 そいつを呼び出して話を聞けば詳細は一発で分かるわけだ」

 マキアリイの説明にクワンパも納得はするが、腑には落ちない。

「ほんとうに政府の秘密工作員がのこのこと出向いてくる、と思ったんですか?」
「俺を誰だと思ってる、英雄探偵マッキーさまだ。
 俺が解決する国家的大事件の後処理に忙殺させられているのは、そいつらなんだな。面識は無いが仲良しさんだ。
 だからいつでも俺の動向を監視している。政府関与の案件に俺が首を突っ込んだと知れば、首都からでもすっ飛んで来るさ」

「つまり、この事件は最初から解決の目処がついていた、て事ですか」
「安い依頼料でも満足な結果を依頼人に提示する為には、そりゃ算段があるだろう」
「でも政府工作員喋らないでしょ」
「とっ捕まえて締め上げるつもりだった」

 はあ、とクワンパは溜息を吐く。
 シャヤユート姉やザイリナ姉をいかにも乱暴者扱いするが、どうして所長本人も大した玉ではないか。
 そりゃあ英雄探偵だものな、尋常の手段でやってたらそんな称号貰えないや。

「それで、コクトウさんの事務室にワヒヨヲさんが行ったのを誰も見ていない「密室」問題はどうなんです?」
「なんでそれが密室になるんだよ。
 まず行きは、コクトウさんがいかにも新入社員風の若い男と一緒に会社に入れば、守衛は社員の一人と勘違いする。
 ”部外者は入っていない”
 帰りは、ワヒヨヲ君本人が言うとおりに「無我夢中で気がついたら通りに出ていた」だ。
 監視の目を欺こうと色々画策すれば却って人目についたんだろうが、無心の動きだからな。
 守衛だって四六時中出入りを見ていない。普通の小さな商業施設だから、警戒するほども無い」

「結果的に、犯人は消えてしまったわけですか。案外と単純ですね」
「だがこういうのが一番タチが悪い。たまたま誰も見ていない、てのは捜査官泣かせだよ」

「所長はワヒヨヲさんが犯人だと、何時頃気付きました?」
「いや、アノ現場に踏み込んですぐ。

 コクトウさんがかなり感情的に歩いていると見て取ったから、訪問者はごく身近な知り合い。
 しかも相手は若い。そして苛立っている。一種の甘えが見えた、親子喧嘩のような感触だ。
 そして犯罪者としてはド素人で、明確な殺意で犯行に及んだわけではない。
 これで分からなければ探偵失格だ」

 マキアリイは動体解析の専門家だ。じゅうたんの上の足跡でそこまで読み切った。
 今回悪漢との格闘も追跡劇も無かったが、ちゃんと探偵らしく仕事をしていたわけだ。
 それに比べて、とクワンパは自らを反省する。

 ヱメコフ・マキアリイ刑事探偵事務所に就職して初めての本格的事件だ。
 しかも殺人事件の第一発見者にもなる。
 正義に燃えるカニ巫女見習いとしては、就職前に期待していた通りの展開にようやく辿り着けたわけだが、さすがに現実は辛い。
 胃に重いものが詰まったような、不快な未消化感のみが残る結末だ。

 特に悪事を働いたわけでもないのに殺されたコクトウ・スグナ氏。
 恩人を意図せずに殺害して自らも獄中に囚われる事となったアゲナシタ・ワヒヨヲ。
 それになにより残されたアゲナシタの家族。

 母娘は住み慣れた首都を離れて、どこか知らない土地に移り住まねばならないだろう。
 誰の助けを受ける事も無く、その苦しみが恩有るコクトウ氏に対するせめてもの償いとして。

 この事件、悪人が見当たらない。ただ虚しさと悲しみと徒労感のみが残る。

 クワンパも、夫人と娘の慰めと世話に掛かりきりで疲労困憊する。
 もちろん自分一人ではまったく力不足だから、カニ神殿に応援を頼んで熟練のおばちゃん巫女を呼んできた。
 カニ神殿は悪を滅ぼすのみならず。
 犠牲となった人々を、また罪人の縁者の苦しみを和らげる助けも行っている。

 

「どうだクワンパ。まだ正義とかぬかす元気は残っているか」
「この程度で諦めるほど繊細な人は、カニ神殿に足を踏み入れないんです」

 精一杯の強がりで所長に返すが、正直揺らいでいる自分を認識する。

「でも所長、けっきょく私たちはどうすれば良かったんでしょう」
「どうしようも無いのが、人の世だと思うけどな」
「そんなものですかね」

 はあ、と再び溜息を吐いた。
 たられば言い出したらきりが無い。未来が分かれば誰も過ちを犯しはしない。

 そんな事より。

「   お腹、空きましたね。もうお昼ですよ」

 初めての本格的な事件に打ちのめされる事務員を、所長としては労ってやる必要がある。
 マキアリイは立ち上がる。

「今日は奢ってやるさ。何でも言え」
「どうせゲルタ定食止まりでしょ、いいですよソレで。

 たまには苦いものも食べたいんです」

 

 

(第六話)

 南昼時(正午)、事務机の上で弁当箱の蓋を開けたクワンパははらりと涙を落とした。心の内で。

 無論カニ神殿で新人教育をされていた頃も質素であったが、さすがにここまで貧相ではなかった。
 世間の冷たさはまず胃袋から訪れるものか。と悟ったつもりになるにしても、やはり我慢の限界は有る。

 母の言うとおりに昨夜の残り物でも突っ込んでおけば良かったのだが、それは許されない。
 クワンパが自ら稼いだカネで自らの食費を賄わねば、世間修行が意味を為さないのだ。
 自宅から職場に通うのを続けていれば、どうしても最後は甘えてしまう。
 早急に独立せねばなるまい。

「というわけで、週給5ティカへの賃上げを要求します」
「おう」

 聞くだけで所長のマキアリイは応じない。応じようにも無い袖は振れない。
 彼の昼食もまた寂しいものだ。近所の店で買ってきた焼き芋餅とゲルタのみ。(穀物と芋を混ぜ込んだ餅、と干し魚)
 というか、ゲルタ変な臭いがするから窓は開けて食べて欲しい。

 ちなみにお茶は、事務所1階の靴・皮革卸問屋に頼んで給湯室を使わせてもらう。
 淹れるのもチフ茶の一番安い奴。苦いばかりで安らぎなんかありはしない。
 それでも温かい飲み物があるだけマシと言えるだろう。

 全部貧乏が悪いのだ。所長に甲斐性が無いからだ。
 賃上げ交渉をするにしても、まずは事務所の財政の向上が先。営業努力が必要だ。

「そもそもですよ所長、手数料の値上げとか出来ないんですか」
「うちは貧乏人相手の商売だからな。裁判にならないように便宜を図ってやると、継続的に料金取れない」
「他所の事務所はどうやって稼いでいるんです。優良顧客ってのは、」
「カネが無くて見捨てられた一般庶民を救うのが我がマキアリイ刑事探偵事務所の使命だ。それが正義ってもんだ」
「ううひきょうな」

 カニ神殿は虐げられた一般民衆底辺の人々を救うのを責務とする。
 見習いとはいえクワンパもその一員だ。正義を振りかざされては閉口せざるを得ない。

 そもそもがここへの就職も神殿の斡旋によるもの。
 世間修行であればもっと高給がもらえる職場に勤めるべきなのに、刑事探偵事務所なんか選ぶ方が悪い。
 薄給は甘んじて受けるべき試練なのだ。

「しかし週4ティカはあまりにも、」(5000円相当×4 /9日)
「自宅暮らしだろ、なんとかなるだろ」
「どうにも自宅は居心地が悪くて、巫女専門の寮に引っ越そうかと」
「ふーん」

 マキアリイ知ったことではない。
 世間の柵から預からざるを得ないとしても、身の振り方までも責任は負わない。いや負ってはいけない。
 カニ神殿の婆あ共は、どうもマキアリイに嫁を紹介しているフシがある。
 30歳近くにもなって独身はどうかと自分でも思うが、カニ巫女を嫁にするのは嫌だ。ぜったいに。

「ちょっとまて。巫女専門の寮と言ったか?」
「はい、なんだかそういうのがあるらしくて。まだ貸家屋には当たっていませんが」
「そういうのは不動産屋じゃない。町の篤志家に当たるんだ」

 国土の名前からして「十二神方台系」と呼ぶ。
 十二神信仰は現代文明の今日でも根強い支持を民衆から受けていた。
 半ば形骸化しているとはいえ神殿に仕える神官巫女に個人的便宜を図る富豪や篤志家も少なくない。

 特にカニ神殿は原初のままの奉仕形態をそのままに留める最後の神殿だ。
 巫女見習いを受け入れてくれる所も有るだろう。

「探しに行くか」
「今からですか。昼後の営業は」
「1ティカの代わりと思えば安いもんだ」
「いえいえ、これからずっと毎週1ティカ上げてくれと要求してるんです」
「うん、ああ」

 生返事だが、内心マキアリイは必死である。
 だいたいがカニ巫女になろうとする女はタチが悪い。
 家を出ると言ったからには、最悪事務所に泊まり込みで家賃浮かそうくらいは考えているはず。
 四六時中事務所に女臭さが漂う、身の毛もよだつ事態になってしまう。

「幸いにして心当たりが無いわけではない。巫女衣装あるか?」
「棒なら」
「それだけあれば十分。」

 マキアリイは上着を肩に引っ掛け、クワンパは傘立てから長大なカニ巫女の棒を取り出して事務所を後にする。
 電話番が居ないと困るのだが、町内電話交換処のねえちゃんに留守番伝言を頼めばよい。
 事務員なんか無理して置かなくても大丈夫なのだ。

 

       ***

 2階事務所から暗い階段を降りて通りに出ると、道行く人はぎょっと振り向いた。

 緋と白の飾り紐が巻かれた3杖(70センチ×3)カニ巫女の棒は、恐怖の対象である。
 別に犯罪者でなくとも、人間なにかしら疚しいものを心に抱えているものだ。
 正義から身を隠すのも、また世の倣い。

 二人は昼過ぎの買い物客が多くなろうとする時間帯に、ひょっこり現れた。
 目立つ。
 それでもまったく怯まないのが、カニ巫女たる由縁。
 恥ずかしいなどと奥ゆかしい事を考える女がなろうとする商売ではない。

「所長、どこに行くんです」
「酒屋」

 マキアリイはいい加減でちゃらんぽらんな人間であるが、昼日中から酒を喰らうほどは落ちていない。
 この3週間勤めてみて、さすがにクワンパも納得した。
 当初の期待が高過ぎたのが修正され底辺を漂った挙句、再評価の段階に至ったとも言える。

 なにせ世間一般では彼は、

「よ、親父さん」
「これはマキアリイさん、こんな時間から、おお! カニ巫女まで連れて」

 世間一般ではヱメコフ・マキアリイと言えば正義の味方、悪を挫く英雄探偵である。

 虚名ではない。現にこの下町を本拠とし庶民の側に立って数々の難事件を解決している。
 警察権力の手が届かぬ暗黒街の曲者を叩きのめし、虐げられる弱者を力づくで救い出す本物なのだ。
 カニ神殿が巫女見習いを委ねるのもその証。
 だからクワンパも最初の1日目は大いに期待して事務所の扉を叩いたわけだ。

 2日目には絶望しながら出勤し、3日目には目を丸くして退勤した。
 正義の味方なるものは、確かにそう呼ばれるにふさわしい仕事をしていても特にカッコイイものではない、と理解したからだ。
 4日目にはマキアリイを棒で叩いていた。
 この男を正義の味方にふさわしい立派な人間に矯正するのが、カニ巫女としての自分の責務だと思い至った為だ。

 ちなみに叩かれた方の言い分としては、初日に叩かなかっただけクワンパはおとなしい世間一般の常識をわきまえた我慢強い子、である。

 酒屋の親父は事情を聞いてうなずいた。

「クワンパさんが実家を出て巫女の寮に住みたいと。なるほど、やはり世間の風を知らなければカニ巫女として務まりませんからねえ」
「と言ってもカネは無い。どこか、無賃とは言わないが奉仕でなんとかなる所を知らないだろうか」
「ええございますよ。それもマキアリイさんの所で修行中となれば是非にと申し込んで来る人もございますよ」

 酒は本来カエル神殿が扱うべき品だ。古代ではカエル神官が醸造を行っていたと伝え聞く。
 現在は完全に民営化されているものの、酒に酔うのは天命を聞く為、現より離れて天河に舞う為との方便が語られるとおりに神事に近い商売だ。
 酒屋が民間での信仰組織の取りまとめ役になるのも当然。祭りともなれば一番儲かる立場であるし。

 親父は少し考えた。心当たりは幾つもあるが、せっかくマキアリイ氏が訪ねてきたのだ。
 彼の力を借りてよいのではなかろうか。

「マキアリイさん、ワームワッドシラ氏をご存知ですか」
「知らん。が、それは鉄道会社のなんかだったな」
「はい。鉄道敷設工事を請け負う大手ワッドシラ建設の創業者です」
「だよな。会ったことは無いが聞いた気はする」

「その方の後家さんが、これがまたお若いとてもお綺麗な方なのですが、」
「あーワームワッドシラ氏て死んだんだ」
「はあ、それも若い女房を娶ったせいだ、などと陰口を叩かれまして。まあ80歳ですから天寿を全うされたと思うべきなんでしょうが、親族の方はそうはいかず」
「いかないなあ」
「それで後家さんをお屋敷から追い出して、適当な家を手切れ金代わりにあてがってですね。戸籍から外してしまったと」
「よくある話だな」

「その後家さんが、自分一人で住むにはさすがに大き過ぎるからと、家を巫女の為の寮にしようと考えました」
「渡りに船か」
「そうなんですけどね。欲の皮の突っ張った奴は居るもので、手切れ金の屋敷までも取り上げようとしているみたいで、なんとかならないかとご相談を」
「おう。」

 親父は小さな陶器の猪口に九真の酒を注いだ。混ぜ物の無い最上の強い酒だ。
 マキアリイはぐいっと一口で飲み干した。
 これで親父との約束は成立。後は任せろ。

 クワンパは仕方ないなと息を吐いた。やっぱり男だな、と。
 若くて美人の後家さんと聞いただけで眼の色変えやがる……。

 

       ***

 ノゲ・ベイスラは起伏の大きな街だ。
 ベイスラ県自体が西部に巨大な山地を有しており、丘陵部と平地の境目にノゲ・ベイスラは位置する。

 だから坂が多い。むしろ坂のある場所を選んで街が作られている。
 銃や大砲が無かった時代の防衛上の要請だ。
 その後ソグヴィタル王国時代の王都となって人口が増加し拡大して、今の市街地になったわけだが
高級住宅街は相変わらず高台に有る。

「なかなか手強い坂だな……」
「ちょっとした山登りですね……」

 事務所のある下町から件の屋敷の有る場所までかなり大きな坂を登らねばならない。
 道は整備されているものの、自動車等は大回りする緩やかな坂道を通るようになっていて、最短距離は本当に山登りの様相となる。
 坂道上りを助ける為の人足や荷運びのイヌコマまでが準備されていた。さすがは高級住宅街。  (イヌコマ;小さい馬 タンガラムに大きな馬は居ない)

 目的の建物はすぐ見つかった。
 海を渡って東の果てにあるゥアム帝国の貴族の邸宅風建築物、など他で見られるものではない。
 さほど大きくは感じられないが、寝室だけで10室は間違いなく有る。
 屋敷全体は一段高く盛り上げられた石垣の上に、美しく整えられた庭と囲いと、瀟洒な門から降りてくる石階段の傍に、

 風体の良くない若者が数名、たむろしている。
 カネは持っているようで当世風の色味が派手な服で着飾っている。
 その割には行儀は良くない。門前で飲食をした包み紙や空き瓶を投げ散らかしていた。

 クワンパはすっと表情を白くした。
 3杖の棒を握る右拳に力が入る。問答無用で打ち据えてもカニ神はお許し下さるだろう。
 だが遮るようにマキアリイが前に出て、若者達と話し始める。

「すまないな、その家の人に用が有るんだ。ちょっと通してくれ」
「あぁ?」

 上目遣いに訝しむ目で拒絶の態度を示そうとする彼等は、しかしバカではなかった。
 話し掛けてきた男がかなり背が高く、筋肉も厚く、素手の喧嘩も強そうだと見抜いた。
 戦力的に上位の者に歯向かうほど無謀ではない。自らが傷つく事を恐れる。
 下町育ちの不良少年とは行動原理が違った。

 素直に、と表現してもよいほどに速やかに道を開け、マキアリイとクワンパは石階段を昇って門内に入る。
 背後から、「あいつ、マキアリイ探偵じゃないか?」と囁く声が聞こえた。

 振り返り、カニ巫女を先に進ませて、マキアリイは背後にちょっと挨拶をして、
怒りを抑えて自重したクワンパを労う。

「よく我慢したな。今あいつらを殴ろうとしたのは、正義から、じゃないだろ」
「なんでも分かるんですね、所長は」
「普通のカニ巫女なら殴る前に追い散らすからな、ああいう手合は。で、心当たりは」
「   ああいうのがカッコ良く見えた4、5年前の自分を殴りたくなりました……」

 案内も無しに敷地に上がり込んでしまったから、改めて門脇の呼び鈴を押す。電話式とは豪勢なことだ。
 柔らかな女性の声が聞こえてきた。

『どちらさまですか』
「先程お電話を差し上げた、カニ巫女見習いの付き添いです。ヱメコフ・マキアリイと申します」
『もしや、あの高名な……。お上がりください』
「ありがとうございます」

 クワンパは不機嫌になった。
 多分、声の主は大層な美人。所長が相貌を崩すのも予感に期待を膨らませるが故だろう。

 

       ***

 室内の調度もゥアム帝国風。館を建てる際に全室揃いで家具類を輸入したらしい。
 タンガラムには無い大型鍵盤楽器が据え付けてあった。これだけでも普通の家が買えるほどの値段になる。

 だが二人を迎えた女主人は趣味が違う。純方台美人で飾り気が無く質素な姿。
 木綿の白い服の裾が爽やかな風に大きく膨らみ、少し少女趣味に感じられた。
 はにかんで笑う。

「ちょっと大仰な家でしょ。主人も実物を見ないで買ったようで、困っているんです」
「貴女がワームワッドシラ氏の、」
「グリン・ワームワッドシラ・サファメルです。今はただのグリン・サファメルですが」

 使用人を用いず、日当たりの良い庭に面する明るい客間に自ら二人を案内した。
 屋内は綺麗ではあるが、なんとなく手入れが行き届いていない。人手不足に見受けられる。

「ジーマママさん(酒屋の親父)にお願いしていたのですが、まさかあの高名な探偵のマキアリイさんが訪れてくださるとは、びっくりしました」
「なにやらお困りの様子で、やはり門前にたむろしていた連中ですか」
「はい。先月までは警備会社の人が見回ってくれていたのですが、契約が切れたとかで。私そういうのには疎くて」

 なるほどなるほど、とマキアリイは鼻の下を伸ばして話をうかがう。
 これだから男って奴は。
 クワンパはふわふわする毛織物が敷かれた椅子に沈み込んで内心愚痴った。

 たしかにサファメルは見事な美人だ。
 細くスラリと伸びた肢体に豊かな胸、肌は磁器のように滑らかで白くシミひとつ無い。
 髪が短いのは既婚者しかも老人の世話をしていたわけで、邪魔だから切ったのだろう。
 色はマキアリイやクワンパと同じ茶色、それほど裕福な生まれではないようだ。

 年齢は25歳、結婚生活は2年に満たなかったと聞く。
 そもそもが80歳になる夫との間に性生活などあったのだろうか。
 クワンパは、失礼にはあたるが尋ねてみた。

「どのような経緯でそんなに歳の離れた人と結婚するはめになったのですか」
「こらクワンパ!」
「いいんですよ、マキアリイさん。よく聞かれる質問です」

 普通に考えると財産目当てで大富豪に近づいたと考えるべきだろう。
 陰口を、あるいは正面から堂々と批難されて来ただろうに、彼女は暗さを漂わせない。
 薄く紅を差した唇で穏やかに語る。

「クワンパさんはカニ神殿の巫女ですね。実は私はトカゲ巫女だったんです、見習いですが」
「おお」
「本当は看護者に成りたかったのですが、学校で実習をしている内に一人だけ特別授業を受けさせられて、気が付いたら神殿預かりになってまして」
「あー。」

 話には聞いたことが有る。
 本来医療を司るトカゲ神殿は神官が医師を、巫女が看護婦の役割を果たしてきた。
 国家が医療資格を認定するようになって神殿での医療行為は認められなくなったが、看護者の募集と育成には今も大きく関わっている。
 看護学生は近代的な医療教育を受けて一人前になるわけだが、中には意欲だけ旺盛でも手先が不器用でどうにも使えない者が居る。
 落第にさせるのも可哀想だから、トカゲ神殿が預かって本人が気付かない内に巫女にさせられている、という塩梅だ。

 都市伝説と思っていたが、生きた実例が目の前に居る。

「それで、病院に入院してきた主人のお世話をする事となりまして、」

 悪意を感じる。殺意をすら。

 もちろん高額な医療費を請求する大病院には様々に快適な特典があって、トカゲ巫女の訪問も含まれている。
 現代医学が発達したとはいえ、最後に頼るのはやはり天命。
 治癒を司るトカゲ神への信仰は衰えること無く深く篤く尊ばれる。

 しかし、選りにもよって伝説の巫女をあてがうとは。
 ワッドシラ家の人間が合法的に老人の退場を目論んでいたとは考えられないだろうか。

「ええ、主人は3度死にかけまして、臨終の場に私もその都度居合わせたのです」
「やっぱり!」
「それで3度目に目を覚ました時に私の腕を掴んで、サファメルお前を世に野放しには出来ない、と言われて結婚する事になったのです」

 マキアリイとクワンパは思った。ワッドシラ老人は英雄だ!
 世間に巫女が害毒を垂れ流す前に自らが堰となって食い止めようとしたのだ。
 なんという立派な男。

「その後、私が何もしないようにすると、主人は2年長生きしまして、」
「でしょうね」
「でも自分が死んだ後私が困るだろうと、この館を私名義で買っていてくれたのです」
「なるほど」

 

       ***

 クワンパは家の外が騒がしいのに気が付いた。
 振り向くと、もちろんマキアリイも分かっている。

 ひときわ高い歓声が上がったと思うと、庭にこつこつと当たる音がする。
 何事、と注目すると四角い植木鉢が砕けて薄桃色と白の小さな花が散った。
 サファメルがきゃっと悲鳴を上げる。

 マキアリイとクワンパは恐れ気も無く庭に出るが、また1個石が飛んできた。植え込みに落ちて被害無し。
 拾い上げると女の拳大とかなり大きなものだ。人に当たれば怪我どころでは済まない。

「包帯。」
「はい」

 最近のクワンパはいつも包帯を持ち歩いている。
 マキアリイはワケの分からない理由で怪我をする事が多く、と言っても悪漢と格闘などでは傷一つ無いのだが、
もっと言えばカニ巫女棒による被害がここ数年一番多いのだが、
とにかくクワンパは常に持ち歩く布かばんに救急医療用具一式を携える習慣を持った。

 言われるままに渡された石に包帯を巻く。きっちりと包んで緊く結んで返す。
 マキアリイは右手で握り、しっくりする形に持ち替えて、元来た方向に投げ返す。
 たちまち「いでぇー!」と悲鳴が上がった。

 サファメルを館に留めて、探偵と巫女は庭を進み門外に出る。
 先程までたむろしていた連中の一人が頭にコブを作って路上で転げまわり、仲間は手当するでもなくおろおろと見守っている。
 そして一人。中年と呼ぶにはまだ若い、服の趣味が大きく違う男が居た。
 たぶん彼が若者達に示唆し、石を投げ入れさせたのだろう。

「よお。商売とはいえこんな連中とつるむのは大変だな」
「あんたは、       くそ間の悪い」

 さすがにその筋の者だけあって、英雄探偵をご存知だ。
 黒地に大きな白襟の、男性らしさを強調して周囲に存在感を大きく示すその衣装は、どこから見てもヤクザである。
 チンピラとは違い、業として行うヤクザであるからヘマは踏まない。
 天敵と呼べる存在には近付かない知恵を持っている。

 だが、蛇に睨まれたカエルのようなものだ。
 マキアリイは彼の肩に親しげに腕を回し、引き寄せる。

「よくある手だよな。チンピラに良さそうな物件にケチを付けさせて、頃合いになると「親切で良心的な不動産屋」が現れて「高値」で買い取ってくれるのは」
「なんの事だよ」
「だが残念だな。このマッキーさんの目に止まっちゃったからには、俺の方から「良心的な不動産屋」を紹介してやるよ」
「く、うぅ」

 ついでに周囲で硬直して事態を見守る連中にも、勁い視線を飛ばしておいた。
 彼等にとってこの男は絶対的強者である。半ば非合法の娯楽を提供してくれる裏の世界の案内人でもある。
 不可侵の権威である彼に対して、馴れ馴れしくまた婉曲に脅迫してみせるマキアリイはまさに異界の勇者。
 世間で話題の英雄が作られた虚名ではないと如実に証明する。

 もう一押ししておこう。

「そういえばだ、ワッドシラの爺さんの三男が関連会社の社長だったな。その末の息子がとんでもないドラ息子らしいな。
 バカな仲間と毎晩遊び呆けて女を泣かせて、親に愛想尽かされて小遣い停止だって?」
「なっ、知らねえぞ」
「いや俺だって素人じゃないんだ、仕事に着手する前に下調べくらいする。
 爺さんが死んで長男が会長に就任して、今は兄弟姉妹間で権力争いの最中だってな。
 ガキが刑事事件で逮捕されると、そりゃあ立場が無いなあ」

 男の肩から手を離す。前に押し出した。
 下っ端の若者達は顔面蒼白だが、さすがに彼はくぐった修羅場の数が違う。表情を変えずにマキアリイに向き直った

「どうやら少し絵図を変えなけりゃいけないようだ」
「うん。まあそういうことで」
「マキアリイさん、何時までこちらの後家に手を貸すおつもりで、」
「いやカニ巫女がな、下宿先を探していてここが丁度いいみたいなんだ」

 クワンパは背後で若者達に睨みを利かせていたが、話に出たので改めて3杖緋白の棒を垂直に立て直した。

 男はどうにも分が無いと見極めて、引き下がる。若者達も追い散らした。
 そもそもが大して気乗りのする仕事ではないのだろう。
 金持ちのバカ息子の相手をしたくないのは、ヤクザだって同じ。
 それにマキアリイの言外の意に気付いたのだ。

 クワンパは棒を斜めに倒して気合を緩めた。これで終わり?

「終わりなわけが無いだろ。クワンパ、今日からこの館に泊めてもらえ」
「あいつらまた襲ってきますか」
「来ない方がいいなあ。でもバカだからな」

 その点に関してはクワンパも同意見。

 

       ***

 夜半、日付が変わる前に再び彼等はやって来た。
 魚油灯を手に、棒なども携えて武装している。

 これはクワンパにとっても意外だった。暴挙に出るにしても、もう少し策を練ってくると思っていた。
 まさか売り物に対して焼き討ちを掛けるなんて。

 誰かの声がする。
「物置の小屋なら燃やしてもいいぞ。どうせウチのものだ」

 ああこれが噂に聞くワッドシラ家のバカ息子だな。昼間は聞かなかった声だ。
 なるほどヤクザが手を引いたから、親玉が直接指揮に乗り出したのか。

 怯える家主のサファメルを家の中に留め、クワンパはカニ巫女棒を手に庭に出た。
 想定される人数はおよそ7人、一人で相手にするにはちょっと多い。
 カニ巫女の強みはその獰猛さにある。相手の頭蓋骨を叩き割っても可とする躊躇の無さこそが畏怖される根拠だ。
 2、3人なら脅しも利くが、どこまでやれるか。

 暗がりの中、門内に入ってきた先頭の男を真っ向上段からぶっ叩く。
 悲鳴も上げずに芝生の踏み石にひれ伏した。
 警告する。先に警告すべきであったろうが。

「住居不法侵入は立派な犯罪です」
「うるせえ突っ込め!」

 まあ、判断としては良い。ここで怯む程度の悪だと叩く方も張り合いが無い。
 ただ火は良くない。男の一人がガラス瓶の口から伸びる布に魚油灯の火を移す。
 火炎瓶まで用意するとは、ほんとうに建物が焼けてもいいわけか。
 どう見ても豪奢なお屋敷なのに、上モノが無くても土地だけ売れればよいと。
 さすがは大富豪のぼんぼん故の判断だ。

 しかし、火の着いた瓶を持つ男は投げようとしない。放火の実行犯にはなりたくない。
 彼等はただ面白おかしく親のカネを浪費して遊んでいるだけに過ぎず、度胸の座った犯罪者ではないのだ。
 いつまでも投げないのに業を煮やして火炎瓶を奪い取ったのが、親玉ワッドシラだろう。

 クワンパも困った。さすがに放火には対処できない。所長のマキアリイはまだ来ないのか?

「うぎゅ」

 火炎瓶を握りしめたまま、男が気を失う。後頭部を軽く殴られて失神した。
 落して火だるまにならないように、瓶を空中で支える手が有る。
 英雄探偵マキアリイ参上。
 背後には巡羅軍の兵士が5名姿を見せ、不届きな侵入者を逮捕していった。

 クワンパは叫ぶ。

「所長、どこに隠れていたんですか。」
「隣の家だよ。バカがたむろして困るのはサファメルさんだけじゃないからな。」

 巡羅軍とは街の治安を維持する軍隊だ。警察局との違いは主に騒乱や暴動鎮圧を目的とし、捜査能力を持たない。
 タンガラムにおいては犯罪の初動の対処は巡羅軍が行い、組織的な捜査が必要な段階で警察局に引き継ぐ。
 軍隊であるからちゃんと小銃拳銃で武装するし、逮捕時も荒っぽい格闘で捕まえる。
 今回クワンパに殴られた者の方が多かったが。

「こ、こりゃあ一体!」

 遅れて駆けつけた昼間のヤクザが声を上げる。
 彼は若者達にサファメルへの嫌がらせを止めさせたが、ワッドシラが納得せず仲間だけで計画を前倒しに実行したのだろう。
 兵士を留めて、マキアリイが彼の傍に寄る。

「おい、上手く逃げたか?」
「あ、ああそれはちゃんと、手を引いたんだが、」

 ヤクザにとっては今回の仕事は儲けを考えていない余技である。
 実際に儲かるのは、ワッドシラの鉄道敷設工事に派遣する労働者の差配であり、人入れ業だ。
 バカ息子の機嫌をとっていたのも、この事業から外されないよう接待していた延長上の話。
 刑事責任が被さらないように、マキアリイは彼にそれとなく伝えておいた。

「後は個人の問題だ。子供の落とし前は親に付けてもらうさ。それでいいな」
「おう、うん。そうだな」

 

       ***

 翌朝、客間で巡羅軍の事情聴取に応じるサファメルにマキアリイも付き添っている。
 ワッドシラ家お抱えの法論士が駆けつけて介入を試みたが、これを断り知り合いの法論士を紹介したのもマキアリイだ。

「示談ではなく、事件そのものを揉み消される恐れがありますからね」
「何から何までありがとうございます、マキアリイさん」
「いえ。これは私の本業です」

 私立の刑事探偵は、事件が不起訴に終わり処分無しなどの裁定で終わった場合、再審理に持っていく材料を探したりもする。
 行政に近いワッドシラ建設が影響力を行使して再びサファメルに圧力を加えないように、十分な手を打っておく腹だ。

 消防も巡羅軍の管轄である。昨夜の放火騒ぎの検証を庭で行うのを窓越しに見る、
 彼等も繊細さに欠けるから、美しい庭を荒らしていた。

「サファメルさん、今回の事件はやはりこの家に人が少な過ぎるのが原因でしょう」
「そうですね。やはり最初の計画通りに巫女の為の寮にしたいと思います。クワンパさんもこのまま留まってくれると嬉しいです」

 カニ巫女は巷の悪を叩きのめすのを本分とするが、犯罪被害者の精神的支えとなるのもまた責務だ。
 マキアリイに言われるまでもなく、館の用心棒を引き受けるつもりである。

「ですがサファメルさん、この家は芸術的なモノが多くあるから、がさつなカニ巫女では手入れも困るでしょう。
 カタツムリ巫女やら蜘蛛巫女など学識のある娘を優先的に受け入れた方が良いと思いますよ」

 と言いつつ、マキアリイはクワンパの顔色をうかがう。怒ってないかな。
 無論愉快な物言いではないが、実際美術品の価値が分からぬクワンパにこの家は敷居が高すぎる。
 元トカゲ巫女のサファメルだとて疎いのだから、指南役が欲しいところだ。

 ちなみにカタツムリ巫女は演劇を司り衣装を自ら縫い、また記憶力に優れかっては王宮で侍女をしていたと伝わる。
 蜘蛛巫女は文書を司る。古代の図書館の司書であり、計算や記録にも明るい。
 美術品の管理に役立つだろう。

 サファメルは両手を豊かな胸の前で合せてマキアリイに請い願う。
 このような愛らしい仕草をされてしまうと、お願い聞かざるを得ないではないか。

「マキアリイさん、どなたかふさわしい人をご存知でしょうか。マキアリイさんの紹介であれば私安心できます」
「お任せください。ベイスラの十二神殿ことごとくを当たって、この館にぴったりの者を見つけてきましょう」
「ありがとうございます」

 あいかわらず美女に弱い所長の姿に、クワンパはむしろ哀れを覚える。
 実は昨夜、暇つぶしにサファメルトと雑談に興じたのだ。
 その時聞いた。

「サファメルさんは、『潜水艦事件』の二人の英雄のどちらが好きでしたか」
「私はヒィキタイタン様の方ですね。女の子はみんなそうだったのではないですか」
「あははははは」

 

 後日、クワンパは所長に尋ねた。
 今回の事件はヤクザの男に妙に好意的ではなかったか。正義の鉄槌を下すべきではないのか。

「クワンパ、そんなに敵を作ってたら長生きできないじゃないか。」
「でも悪ですよ。」
「虫だって、追っ払えば済むものまで殺さなくていいんだ。貸しを作れば後で役立つし。」
「貸し、ですか? 一方的に妨害しただけに見えますよ。」
「これが貸しになるんだから、不思議な商売だよな。」

 

(第七話)

 マキアリイ私立刑事探偵事務所の住所は非公開である。
 でなければタンガラム全国から依頼や、それ以上に英雄マキアリイへの激励のお手紙などが山のように降り注ぐ。
 一目見ようと押しかける熱狂的信者も少なくない。
 そこで全国の「マキアリイ氏私的応援団」が手紙や贈り物を一括して受付け、指定の届け先に送ってくれる。
 無論中には不穏当な内容や危険物も含まれるが、彼等が決死的覚悟を持って内容を検閲検査し安全なもののみを選んでくれる。

 それとは別に、マキアリイ事務所は営業上必要な連絡を取る為の仮の名前を持っていた。
 「ハマヴイ映画興業社」という。
 刑事探偵とはまったく関係ない業種であるが、実はそれほど縁遠くもない。
 マキアリイが英雄として崇められる事となる国家的謀略、通称『潜水艦事件』は短期間に幾度も映画化され大人気を博している。
 一時期マキアリイは、その映画に関連する雑貨を販売して糊口をしのいでいた。
 自らの名声にぶら下がって暮らしていたわけだ。

 事務員クワンパは「ハマヴイ映画興業社」宛の手紙を仕分けしている。
 マキアリイと繋がりの有る人は皆彼の特殊事情を知っているから、住所氏名を仮のものとする事に理解を示してくれる。
 だが中には本当に映画会社と間違えて送ってきたものもある。
 おおむね無害なものだが、何故か猥褻映画の郵便申込書が入っていた。

「所長、まさか過去に猥褻映画の通信販売とかしてませんよね?」
「無い、絶対無い」
「じゃあなんでこんなものが」

 マキアリイが推測するに、おそらくは似た名前の猥褻映画販売を行う業者が居るのだろう。
 住所は分からないままにうろ覚えの名前で調べると、たまたま「ハマヴィ映画興行社」が引っ掛かる。
 確かめもせずに注文書を送るのは、若い男性ゆえの浅はかさであろう。

 カニ巫女は猥褻物販売に関しても目を尖らせる。そもそもが違法な商品だ。
 クワンパは不機嫌な面のままに仕分け作業を続けると、

「なんだこれ」

 『ハマヴィ興行社宛ヱメコフ・マキアリイ氏』とはっきり名指しで送ってきた葉書がある。
 裏を返すと、

 絶句した。

「それは、呪い状だな」
「……、呪い? 魔法の手紙ですか」

 上から葉書を覗いたマキアリイはこともなげに断言する。なにせ読めない文字で書いてあるから、雰囲気で察する他無い。
 赤と黒で毒々しく太く渦巻きを幾つも描く。見る者がそれだけで吐き気を催すほどの悪意の紋様。
 文字は古代テュクラ符で、現代人で読める者はそうは居ない。
 象形文字のギィ聖符が一文字添えられている。意味はおそらく「死ね」だろう。

「最後の文字は読めるぞ。「ゲルタ」だ。」
「それは私も読めます。貨幣記号ですから。」
「ちがうちがう、昔の文書で悪意のある、あるいは挑戦状の末尾に描かれた「ゲルタ」は、「これ食って帰れ」「くそくらえ」て意味だ。古い慣習だな。」

 つまり、間違いなくマキアリイに対して敵意害意を持ってこの葉書を送ってきた。
 もちろん差出人の名は無く、心当たりはと問えばありすぎてまったく分からない。

「所長、捨てますか」
「ああうん、それでもいいが一応は魔法の品らしいから上の、」

と、天井を指差す。
 クワンパもうなずいた。

 マキアリイ刑事探偵事務所の天井裏、中3階には占星術師が住んでいる。

 

       ***

 天井裏に行くにはコツが必要だ。
 入り口は階段脇にあるが、天井に扉があるだけで上がれない。ハシゴを下ろすのだが、上に引き揚げられていれば2階からは手が出せない。
 そこで物置から棒を取り出して、扉板を叩く。
 叩き方にも符丁があり、間違えたら反応してくれない。

 マキアリイは昔を思い出し眉をしかめて教えてくれる。

「前にシャヤユートがな、符丁を間違えて出てこないから頭に来て、カニ巫女棒で天井板突き破って押し入って怯えさせてしまった事があるんだな」
「何故そんな事に」
「事務所で俺の制止を振りきって強引に鍋をして、おすそ分けを持って行こうとしたらそんな感じに」
「……ほんとうに伝説の巫女になってるんですね、師姉」

 間違えないように慎重に天井裏を叩く。そんな話を聞かされれば万が一も許されない。
 しばらくすると扉板が上に少し引き揚げられ、隙間が見えた。
 かすれ声がする。

「シャヤユートさんかい」
「呪先生、新しいカニ巫女のクワンパだ。よろしくな」
「クワンパですお初にお目にかかります」
「シャヤユートさんは、」
「悪行の限りを尽くしてカニ神殿に連れて行かれたぞ」
「そうかいそれは剣呑剣呑」

 するすると木のハシゴが降りてくる。
 ぼさぼさの白髪丸眼鏡の老人が顔を覗かせる。緑色の長衣を着て、細い枯れ枝の指をハシゴに掛け降りてくる。
 まるでトカゲのように頭から逆さになって、ぬるりと2階の床に滑り出た。

 クワンパは思わず、「お元気ですね」と口走ってしまう。

「呪先生、こんなものが送ってきた」

 二足歩行に戻った老人にマキアリイは先ほどの葉書を見せる。
 驚く老人。大げさかつ躍動的な芝居がかった動作に、ひょっとすると見かけほど歳ではないのかもと思う。

「あの所長、この方は「呪先生」というお名前、では無いですよね」
「これでも昔は学校の教師だったらしいぞ、歴史だか古典文学だかの。それで呪文や魔法に詳しい」
「学校の先生がそんなのに詳しいのはおかしいでしょ」

「いやいやマキアリイさんこれは大変なものですよ生半可な術式ではなく極めて高度な古典文学の教養有る人物の筆によるものと」

 呪先生は呪い状をかざしたり透かしたり分析始める。彼の興味を惹くに十分なブツだったらしい。

「内容は俺を呪うものなのは分かるんですがね」
「いやいやいやそんな単純な術式ではなくこれはむしろ招待状のようなものですよもちろん貴方のお名前が書いてありますから貴方が術式に取り込まれたわけですが」
「具体的にどの筋から発せられたものか分かりますか」
「ええこれは、」

 先生はハシゴに取り付きまたしても天井裏にしゃかしゃかと消えてしまう。

「所長、あの人はどうやってご飯を食べているのです?」
「昆布しか食わないというが、職業は占星術でその筋ではなかなかに高名な人物らしい」
「占星術といえば蜘蛛神官ですか」
「十二神式ではなくヤヤチャ式天文術、地動説に基づく占いだと聞いている。一度占ってもらったが」
「卦はどうでした」
「俺の人生、大きな災いや騒動や裏切りや悪の襲撃がいっぱい、だそうだ」
「商売大繁盛ですね」

 

       ***

 再びトカゲのように降りてくる。手には先ほどの葉書に、黒い表紙の厚い本に、丸い印章と薄く平たい缶。

「とりあえず呪い切りをいたしましょうぞ」

 呪先生は缶を開く。印肉が出てきたが色は一般的な朱色ではない。藍色。

「無論通常の呪い状であれば十二神特にカニ神の威力で祓い落とす事が出来るわけですがこいつは特別な種類の術法でして十二神信仰を逆用する原理を用いておるのですよ」
「つまり出所が分かりやすいと」
「ええもうこれを使うものと言えばそれは特別な。ああぽんぽんいきますよ」

 印章は丸く大きく柄も太く、男の手で握ってちょうどの大きさ。藍色の顔料を着けられて葉書の中心にまっすぐ押された。
 赤と黒の毒々しい紋様の上に、青く人の顔の絵が写る。
 真正面を向いた女性の顔、頭に2本の角が生えている。

「星の世界より参られ給うた神殺しの神ぴるまるれれこ神の御威徳をもって悪しき邪法を打ち砕きまする」

 マキアリイもクワンパもつられて思わず手を合わせた。
 「ぴるまるれれこ神」とは十二神信仰における13番めの神、すべてを打ち壊し強制的に天に還す最終破壊神である。
 その由来も実態も神話も知られず、ただ存在する事のみが証される。
 現在の合理主義民衆協和国体制の世の中でも幅広く支持を集める神様だ。

 呪先生の解説。

「敵はこの程度の呪い払いは想定済みでマキアリイさんに一種の謎掛けをしてきております乗りたくなければ乗らぬ方がよろしいかな」
「内容は、聞けば必ず引っ掛かるて奴ですか」
「どうなさいますかな小生としては現実社会においてご活躍の英雄探偵殿にこのような戯れ言には関わって貰わぬ方が世の為人の為と思案するところでありますが、」
「クワンパが興味津々だから、続けてください」

 思わず首を伸ばして食い入るように見ていたクワンパだ。
 おまじないの類が好きなのは世の女性と同様で、カニ巫女であっても例外ではない。
 しかしながらこれ以上廊下で立ち話もなんだから、事務所に呪先生を案内してシフ茶でもご馳走する。
 しばし休憩。

 

 再開。

「一見してお分かりのようにこの呪い状は赤と黒のうねり合う禍々しき紋様に彩られておるわけでまさに古代の淫祠邪教人喰い火焔教の流れを汲む呪法であるのです」
「人喰いですか」
「さようまさに人を食いますほんとうに生きた人を生きたまま解体し釜茹でし頭蓋を開き骨を抉り臓腑にかぶりつく恐怖の邪教であるのです」

「科学万能現代文明の今の世に、まだそれが生きているわけですか」
「教団本体は3000年の昔に金雷蜒神救世主であるところのギィール神族によって徹底的に駆逐され絶滅したはずですがどっこい地下に潜って命脈を繋いできたわけです。
 最も近い事例であれば創始歴5555年青晶蜥神救世主星浄王十三代様をたぶらかし捨身祈祷に走らせ給うた張本人こそが火焔教の司祭と言われておりますな今より660年の昔の話」
「なるほど」

 応接の革椅子に向い合って座り魔術の講義を受け大きく頷くクワンパである。
 もちろんまったく分かっていない。
 手の中には件の呪い状、葉書を握り締めたまま。

「さて本題の呪法でありますがそこに描かれるのは五星六芒逆位の陣であります五星は古来より人を意味するネズミ文字でありますが星と読み替えるのがヤヤチャ神術」
「ヒトデみたいなやつですね」
「まさにヒトデでありますがこの際は「人星」と読んでくださいそして「5」であります5と6これが大事」

「人を害する呪法であれば5と7を使う、ってカニ神殿で教わりましたが、」
「そこまさに! 通常呪いは5と7を使うべきであります何故ならば十二神信仰の死角であるから。
 主数12の約数であるところの光数12346そして12よりそれらを引いた暗数111098残る死数が5と7で呪いに用いるわけですが」
「5と7を足したら12になり、結局は十二神の枠組みからは逃げられない。そういう理屈ですよね」

「5と6であれば11となり足りませぬ」

 説明を受けて、だんだんこの文書の読み方が分かってきた。
 ヒトデの周りに描かれた文字が六芒で、単なる悪口ではなく神話に基づいた厄災を表しているのだ。
 そして中心に描かれたギィ聖符、ギィール神族が用いた象形文字の意味は。

「そのギィ聖符は『灼』です太陽の焔ですべてを焼き焦がす意味です」
「ゲジゲジ神、の事ですね」

 

       ***

 黄金に輝き無数の足で地上の隅々にまで光を届けるゲジゲジ(金雷蜒)神『ギィール』は太陽の化身である。
 また知恵の神科学の神でもあり、ギィール神族を通じて金属精錬の技術を地上にもたらしたとも言われている。

 しかし何故呪いに神の名が用いられる?
 呪先生の講義は続く。

「実はノゲ・ベイスラには金雷蜒神殿はありませぬ」
「いえありますよ。ちゃんとカニ神殿の隣に」
「いえいえそれは新しい神殿です褐甲角王国時代に敵国と通じる金雷蜒神殿の神官巫女は警戒され神殿自体が取り壊されていました。
 その後創始歴5000年代に禁令が解けますが取り壊された元の神殿は復元されず新市街に新しく建立されました」
「本当の神殿ではない、そういうことですか」

「11とは失われた十二神を表しており呪いの大元はノゲ・ベイスラの失われた金雷蜒神殿跡に仕組まれております」

 ふふん、とマキアリイは鼻で笑う。
 長々と続く魔術の講義を脇で聞いていたが、ここからが本番だ。

「つまり、俺にそこに行け。という意味だな」
「行かぬ方がよいですぞ」

 呪先生は振り向き、本気で心配する。
 相手が人喰いと分かっていながら敵地に赴くのは、いかに英雄といえども賢明な判断ではあるまい。
 ましてや未だに具体的物理的な実害が認められないのであれば、黙殺が最も正しい判断であろう。

 しかしマキアリイは、もう遅い、と表情で返した。

「第一、クワンパが本気ですからね。先生」
「おお!」

 苦悩する呪先生。だから説明してはならなかったのだ。
 人の興味を引いて誘導するのは魔術の基本。まんまと乗せられてしまうのが人の性。

 クワンパは安物の革椅子から立ち上がり、ガラス扉の戸口の横の傘立てに差しているカニ巫女棒を取った。
 これは英雄探偵ヱメコフ・マキアリイの仕事ではない。
 世の闇邪悪を打ち破り民衆に正義の風をもたらすカニ神夕呑螯『シャムシャウラ』に仕える神殿の者が為すべき責務だ。
 自分ではなく前任者シャヤユート、あるいは更に前二者であっても同じ決断をしただろう。

 ぶっ潰す。

「所長、私が参ります」
「そうか」

 マキアリイは止めない。止まるわけもない。
 それがカニ巫女というものだ。マキアリイ刑事探偵事務所の事務員だ。
 だが考える。
 これは罠であるのは間違いないが、果たして自分を目的としたものだろうか。
 呪術魔術の類であればカニ巫女がまず反応する。術式を読み取る賢者が事務所の屋根裏に住んでいるのも計算の内だろう。
 クワンパを対象として?
 この春から働き始めた新米に対してずいぶんと大仕掛けではないか。
 おそらくは、

 血気に逸る事務員に尋ねる。

「クワンパ、もしこの呪い状がシャヤユート宛のものだとしたら、どうする」
「もし師姉に向けられたものであれば、私に万が一があればお伝え下さい。後は頼むと」
「お前、シャヤユートより強いか?」

 少し考える。ちょっと自信が無い。
 無いが、躊躇するという選択肢は持たない。

「……、慎重に参ります」
「おう」

 

       ***

 ノゲ・ベイスラの街は古い歴史を持つ。
 その起源は方台中央の南北を貫く大動脈スプリタ街道が設けられた古代紅曙蛸王国時代に遡る。
 重要な宿場町として、またベイスラ山地で産出する木材や団栗油を集積し交易する拠点として発展する。

 ただ、二流の街であった。
 ノゲ・ベイスラの北方100里(キロ)、方台最大の湖アユ・サユル湖の北岸に「カプタニア街道」がある。
 南北は巨大な山脈に塞がれ、また湖に通行を阻まれ、この街道が唯一の東西交易路となる。
 街道の西端カプタニアは軍事拠点として、東端のヌケミンドルはスプリタ街道中最大の都市であり産業拠点として栄えた。
 ヌケミンドルにベイスラ山地の産物を供給し、また南部の田舎を管理する役割を与えられたのがノゲ・ベイスラだ。

 金雷蜒王国と褐甲角王国が東西に分かれて争い、ヌケミンドルが最前線となり産業拠点としては成り立たなくなった後もさほど発展はしなかった。
 大いなる前進を始めたのは、創始歴5000年代。
 方台西部を治めていた褐甲角王国が3つに分裂し、南部を預かるソグヴィタル王国が王都をノゲ・ベイスラに定めた後だ。
 人口が爆発的に増大し街の規模は拡大の一途を辿り、そしてノゲ・ベイスラ旧市が顧みられる事は無くなった。

 十二神殿も大きくなった都市の各所に移転し、旧い神殿跡を知る者も居なくなる。

「へぇ〜旧市街跡地って今は全部ソグヴィタル大学の敷地内なんだ」

 呪先生から失われたゲジゲジ神殿の跡地を示す地図を借りたクワンパは、大学正門前で大きく開いて位置関係を確かめる。
 旧市は防衛上の観点から小高い丘の上に城壁を巡らせて囲んだ小さな街であった。
 もちろん王都としては小さすぎる為に、城壁の外に街を建設し新たな城壁を巡らせる。
 王城が築かれたのも、やはり外だ。

 役割を失った旧市街をソグヴィタル王家から借り受けたのが大学だ。王家の名を頂いて「ソグヴィタル大学」を名乗った。
 城壁はそのまま大学の外壁となり学問の自立、大学の自治を守るのに役だったと伝わっている。
 ソグヴィタル大学はまた「民衆主義」「民衆王国運動」の発祥地としても知られる。
 その発達には大学を守る城壁も役目を果たしたのではないだろうか。

「つまり失われたゲジゲジ神殿跡地も大学敷地内に有る……」

 ちょっと困った。大学敷地は当然に部外者立ち入り禁止だ。
 カニ巫女見習いであろうが刑事探偵事務所員であろうが、身分的に入る事が許されない。
 どうしたものか。

 ちなみにソグヴィタル大学はなかなかの名門校であり、偏差値も高い。
 文系学部特に社会学はタンガラムでも高い地位を得ているらしい。
 中学校を出てカニ神殿に巫女見習いとして飛び込んだクワンパにとって、いやそもそも中学校もサボりがちであったのだが、学問の府は縁の薄い場所だ。
 学校の先輩や知り合いも居ないし。
 強行突入を考えるも、校門脇にはちゃんと警備員の詰め所が有る。
 進退に窮す。

 

「あの〜あなた、宗教に興味はありませんか」

 カニ巫女に神を説くとは、なんて身の程知らずなんだ。
 と思うも、クワンパは現在カニ巫女棒に布覆いを掛けて正体がばれないようにしている。
 衣服も巫女服でなく事務員服でなく、普通の女子大生風。
 マキアリイと約束をした「慎重にやる」を実践中だ。

 振り返ると黒っぽい長い裾の服を着た眼鏡の地味な女だ。
 ぎこちなく顔面を引き攣らせて笑って見せる。

「もしお悩みがあるようでしたら、必ずや良い解決策がありますよ。ちっとお話を聞いていきませんか」

 大学について詳しくは知らないが、さすがにクワンパも聞いている。
 大学内には学生が主催する幾つもの団体が有って様々な活動を行っている。
 中には新興宗教の手先も居て、強引な勧誘で社会問題にもなっていると。

 まあ人喰い火焔教ではなかろうが、渡りに舟とはこの事か。

「あの私、悩みがあります」
「では部室にてご説明いたしましょう」

 大学構内進入成功。

 

       ***

 城壁脇の隅っこにある陰鬱な建物に到達して仲間の男女2名と合流すると、
地味眼鏡女は豹変した。

「あなたの魂は穢れているっ。これまで生きてきたあなたの家系は多くの犠牲となる人を踏みつけにして罪業を積み重ね子孫となるあなたの魂に尸毒が染み付いて体調不良を引き起こしているのだっ」

 ここまで来ればもう用は無い。
 カニ巫女棒を用いてヨコシマな3人を叩きのめしてやった。

「さて、失われたゲジゲジ神殿はと」

 さすがに歴史あるソグヴィタル大学。建築物がどれも古い様式で文化財の集合体だ。
 ものの話によれば、創始歴5000年代初頭ベイスラ近辺は空前絶後の好景気に沸いて、とにかくカネが余って仕方なかったそうだ。
 大学も次々と立派な校舎が立ち並び、千年後でもこのように威容を誇っている。
 まあ中に巣食う奴が変な宗教野郎だと意味が無いのだが。

「……これかな」

 旧市街の神殿はすべて城壁外に移転して跡形も無いのだが、それにしてもこれは酷い。
 一辺半杖(35センチ)の切り石が一つ転がっているだけだ。たぶん神殿礎石だろう。
 上面にテュクラ符で「ゲジゲジ」が彫っているから、かろうじて認識できる。

 左手首に嵌めている腕時計モドキを見る。
 時計モドキとは極めて粗雑で安物の時計のことで、1日に1時間も狂ういいかげんなものだ。
 こんなものでも大雑把に時間を知るには十分だし、「時計方位法」を使うのに不便は無い。

「えーと、マキアリイ事務所の方向は、こっちかな」

 太陽と時刻を知り文字盤を使うことでおおまかに方位を知ることが出来る。
 地磁気がむちゃくちゃで方位磁針が使えないタンガラムにおいては一般的な測位法である。
 多少の時間の狂いは問題にならない。

 呪先生の話では、失われたゲジゲジ神殿を起点としてマキアリイ事務所の方向に向けて呪術が施してあるそうだ。
 礎石の前に立ってその方向に顔を向けると。
 木立の中に1軒の茶館が建っていた。奇妙な模様が屋根にまで描いてある。

「黄色と深緑のトラ縞か。なんだろうこれ」

 だが茶館である。喫茶店だ。
 他に呪術を施してそうな形跡は見受けられないから、入ってみる他に選択肢が無い。
 木造でさほど古い建物ではないが、周囲に合せて趣味よく意匠を整えた形式だ。簡素にして大胆かつ繊細。
 ガラス窓が大きく外の景色が見えるのは最近の茶館の流行。
 中を覗いたが、客は誰も居ないようだ。

 呪術魔術とは関係無さそうに思える。
 扉を引き開いて入ってみる。カランと鉦が鳴った。
 誰も応答しない。営業中なのに店員は何処だ。
 心地の良い香りが漂っている。

「お香を炊いているのかな」

 誰も出てこないから、勝手に席を定めて座る。
 窓辺の外の景色が望める場所、先程まで居たゲジゲジ神殿跡が見える。
 しばらく座っていても、店員は来ない。なんだ此処は。
 卓を見ると、献立表の傍に小さな鈴が置いてある。ああ、これを鳴らして呼び出すのか。

 店の奥から茶色の服を着た若い女給が出てきた。
 身体の線が露わになるぴったりとした毛織の服に脚全体を覆う黒の長靴下。前掛けも暗色。
 だが本人が大した美人であるからむしろ花が咲いたように艶やかだ。
 表情は石のように硬い。

「あなた、大学の人じゃありませんね」
「え、このお店は大学関係者でなければ利用出来ないとこでしたか」
「いえそんなことはありませんが、教授の方々が打ち合わせに使う事が多くて学生は敬遠して近寄らないのです」

 なるほど、由緒正しい大学であれば施設利用にも格式が発生するのか。
 じゃあ自分は退散した方が。

「いえどうぞ、どうせお客様は誰もいらっしゃいませんから。ご注文をどうぞ」
「じゃあ、    この匂いはお香ですか?」

 クワンパもカニ神殿で研修を受けてきた身であるから、神殿で炊く香料についてはいささか知識を持つ。
 お香の匂いによってその神殿の経済状態を推し量る事が出来るほどだ。
 カニ巫女としては初歩的な技能。
 女は頬を少し緩めた。

「これはバシャラタンのお茶の葉の香りです」
「バシャラタン、ってタンガラムの南の果てにある新しく見つかった方台の、」
「はい。暴風海の向こうにあるから未だに定期航路もありませんが、今年で交流20週年でしたか。
 大学の研究者が何人も調査に渡って珍しい産物を持ち帰ってきます。この店もそれなりに恩恵を受けているのです」
「なるほど」
「バシャラタンの赤茶を淹れましょう」

 お任せする。
 正直言うと、舶来の珍奇な名物であればいかばかりの値段がするか恐ろしいところ。
 だが此処には調査で来ている。尋常の行動をとっても仕方ない。

 

       ***

 気付くと音楽が流れてきた。
 帳場を見ると女給が電気蓄音機の操作をしている。
 クワンパを振り返った。

「大学の先生で音楽が趣味な方が居らして、うちに録音盤を預けているのです。ゥアム交響楽はお嫌いですか」
「いえ。お願いします」

 畏まった音楽は得意ではないが、それも店の格式というものだろう。なにしろ大学の教授が常連なのだ。
 消炭色の合成樹脂の円盤から流れてくるのはゥアム帝国の音楽。

 ゥアム帝国は何事も合理的論理的組織的に計画立てて行うので、交響楽も理路整然と音が流れてくる。
 これがシンドラの宮廷合奏曲となるとやたらと扇情的で感情に訴えかけるものとなる。
 バシャラタンの音楽は放送で二三度聞いただけだが、やたらと陰鬱。
 タンガラムの音楽はといえば、

 空気が静かに整っていく。
 聞こえるか否かの小さな音量で店全体を包み込む交響楽は聞く者の雑念を払い、思索に耽る最適の環境を醸し出す。
 学問の府ならではの演出だ。

 場違いだな、とクワンパは自らをそう感じる。
 やはり脳味噌を使う業界は自分とは縁薄いものだ。ましてや学問など。
 布で覆って正体を隠しているカニ巫女棒を隣の椅子に立て掛けて、手を放す。
 多少は警戒を緩めねば、敵も正体を見せぬだろう……。

 

「     お待たせしました」

 声に振り向くと、先ほどの女給が自分の傍に立っている。
 いつの間にやって来たのか、いや自分は一瞬意識が無かったのか。
 店全体に立ち篭めていた香りが、今は卓上の茶碗の中から漂ってくる。

「バシャラタンの赤茶、『チャヒ』です」
「どうも。 
        なんでずっと傍に居るんです?」
「お客様には失礼ですが、以前にバシャラタンの飲み物を口になさった事がございますか」
「たぶん、無いと思います。珍しいものですから」
「バシャラタンの茶には、タンガラムその他の国の飲み物と異なり、医学的薬効成分が含まれます。
 慣れぬ方であれば体調に異変を感じる事もございますので、失礼ながらお傍にて見守らせていただきます」
「それはどうも」

 なんだか毒を盛られている気分。だが聞いたことは有る。
 バシャラタン方台は全土が深い森に包まれており、他では見ることの無い動植物が繁茂生殖している。
 当地の植物を煮出した茶には特殊な薬効成分が含まれており、場合によっては人を興奮させたりあらぬ行動に駆り立てたりするとも。
 特にタンガラムの人間は薬効成分への耐性が無く、てきめんに効く。

 カニ神殿でも、新たな薬物依存患者を生む恐れがあるとして要注意と教わった。
 まあ「恐怖の白い粉」ほど恐ろしくはないが。

 受け皿の上の取っ手のついた茶碗を覗くと、「赤茶」とは言うがむしろよく熟成した酒の色に思える。
 シフ茶に似ていなくもない。
 匂いをよく嗅ぐと、茶葉だけでなく花を乾燥させたものも混ざっているようだ。

「お砂糖は入れますか」
「え! 茶に砂糖を入れるの?」
「そのような風習も外国にはあると教授のお一人からうかがいました」
「じゃあちょっとだけ」

 どんな味になるのだろう。銀色の匙に軽く盛った砂糖を女給が入れてかき混ぜるのを不安げに見つめる。
 ちなみに砂糖はタンガラム産の「サトウ芋」から作ったもので、これが為にゥアム帝国と戦争になった事さえある重要産品だ。
 最近はシンドラ産の「黍砂糖」が安価で輸入されて勢力を伸ばしているが、国産品は支えなければならない。

「お酒は入れますか。ゥアムの仙人掌蒸留酒です」
「そんな風習もあるのですか」
「山羊乳を入れる方法もあります」
「いえ砂糖だけで結構です」

 とにかくタンガラムの常識から逸脱した茶であるのは理解した。
 後は覚悟を決めて喫するのみ。

「いかがです」
「ふわっと口の中に香りが広がって、苦くないです」

 たぶん砂糖が無ければもう少し苦味や渋味が感じられるのだろうが、ほんのりとした甘さがまろやかさを引き出して自然と舌が受け入れてしまう。
 香りを飲んでいるようなものかと理解した。
 タンガラムの茶とは明らかに違う別の領域の存在。むしろ良質の酒と区分を同じくするものではないだろうか。

「あ、なにか火照ってくる」
「タンガラムの人にはすぐ効きますからね」

 しばし至福の時間に身体が溶けていった。

 

       ***

「もう一杯いかがですか」
「あお願いします」
「今度は赤茶でも花の香りでなくチィキチャキの実を乾燥させたものにしましょう」
「チュケチャケ?」
「小さな木の実ですよ、小鳥が啄むような。真っ赤で食べられませんが乾かすと素敵な香りを発します」

 勧められるままにもう一度香りに埋もれた。このまま死んでしまっても別段悔いは無いと感じられるほどに身体も心も弛緩する。
 女給が耳元に唇を寄せて囁く。

「もう大体お分かりと思いますが、クワンパさん。これは罠です」
「あやっぱりそうなんだ」
「魔法の術式を探していらしたんですよね。茶館が怪しいと思っても敵の手に乗ってみなければ正体を看破できないと」
「うんそうかんがえた。正解なんだ」
「それでもやはり迂闊ですよ。危険なものと知っていながら敵に出されたものを飲むなんて」
「わたしをころすの?」
「ご冗談を。殺すだけならこんな面倒くさくて費用の掛かる大掛かりな魔法は使いません。
 どうせ殺しても英雄探偵の元にまた別の巫女が来るだけですから」

「狙いはやはりマキアリイ?」
「ですね。あの方はさすがに目障りになり過ぎました。いえいいんですよご活躍は一市民としては大層心強く感じています。
 ただ裏の社会を牛耳る我々といたしましては、何年も掛かる大掛かりな仕事をああも容易く月毎に破壊してくれますと、楽しくなっちゃうじゃないですか。
 今タンガラムを混乱の渦に陥れているのは我々悪の勢力ではなく、正義の使者英雄探偵ヱメコフ・マキアリイ氏なのです」
「じゃまだから消す?」
「このままで結構ですが、さすがに当方の大仕掛の妨害をしてもらいますと甚だ迷惑です。そこで首に鈴を付けようと思いましてね」
「すず? ネコの鈴」
「はい。今の英雄探偵には弱点がありません。彼の行動を掣肘する手段がございません。
 世間一般凡百の人間は社会的生物ですから、なんらかの弱みが必ず発生してそこを握れば簡単に行動を支配できます。
 しかしマキアリイ氏にはそれが無い。困ったものです。
 だから貴女に弱点になってもらおうと思います」
「ひとじち?」
「そんな無粋な。愛を囁くのです、貴女の心に。
 赤茶で心のタガが緩んでいる間に、ヱメコフ・マキアリイへの思慕恋情を深層心理に刷り込むのですね」
「さいみんじゅつ」
「そう、催眠術です。でも本当に自分の心に反する行動を強制する事は出来ません。
 貴女が心の底で元々抱いている感情に火を点けてさし上げるだけです。だから、嫌な気持ちはしないでしょ」

「……ことわる」
「そう邪険にしないで。これから数を数えます。一つ数えるごとに貴女は心の深い闇に落ちていきます。
 気持ちのいい、心地よい、母の胸に抱かれるような温かな安らぎの世界です。」
「あんた、だれ?」
「申し遅れました。わたくしは『アクノメナ』と申します」
「うそばっかり」
「いいんですよ、これから開かれる夢の世界をくぐれば、わたくしの事なんかすっかり忘れてしまうのですから。
 それでは参りましょう。貴女が愛し焦がれた英雄の世界に」

 数を数える声が遠く、深い地面の下から聞こえてくる。
 催眠術とはまた古典的な手を用いるとは思うが、手足の自由が利かず抵抗できない。
 ほんの少しでも動けば、この身体を縛る安らかな鎖を断ち切って邪悪の罠を打ち破るのに。
 だが考える必要は無い。カニ巫女にとって頭とは物事を考える為のものではない。
 思考は、従うべき秩序は3杖の棒と共に有る。
 指を伸ばして、カニ巫女棒に触れる事ができれば。

「あらクワンパさん、頑張りますね。でも無駄ですよ。
 この罠はあの奇矯で乱暴なシャヤユート嬢を対象に練られたものです。失礼ながらまだ駆け出しの貴女ごときが破れるものではないのです」
「こんなことをして、いまにたすけが」
「助けなんか来ませんよ。頼みの英雄探偵様も参りません。
 わたくしとあなたとふたりきり」

「それはどうかな……」

 

       ***

 クワンパの不穏な言葉に、女給『アクノメナ』も顔を上げて周囲を確かめた。
 微かではあるが、茶館の外に人の集まる気配がする。それも殺気立ち、声を荒げて言い合っている。
 「何これ」と窓ガラスから外の風景を覗く。

 一時暗示が解かれたから、クワンパは必死で棒に指を伸ばす。
 あと僅か、ほんの少しだけ力が戻れば。
 邪悪を打ち破るのは夕呑螯神「シャムシャウラ」が責務。神の御怒が従う我ら地上の僕に宿り澱みを払う杖先とならん。
 いやそんな大袈裟な、
 今クワンパに必要なのはささやかな助力。神の御手を煩わすほどではない。
  そう、たとえば英雄探偵マキアリイくらいの。

 右手が遂に棒を握り、思ったよりも強い力で振り回された。
 アクノメナの頭越しにガラス窓を叩き破る。
 きゃ、と彼女は悲鳴を上げた。
 同時に、茶館の外の男達も気付く。中に居るのが目的の女だと。

「居たぞあそこだ」
「茶館の窓の、今割れたガラスのあの女だ」

「何をしたの、あなた!」

 血相を変えて問い質す邪悪の女に、クワンパは顔を歪めて嘲笑って見せた。

「へへへ、師姉の教えには従うものだね。
 シャヤユート姉は言いました。「カニ巫女たるもの目の前に存在する悪を見境なく叩き潰せ」と」

 大学構内に侵入する際に用いた新興宗教の勧誘だ。
 面倒だから叩きのめしたわけではない。自分を探させる為にあらかじめ用意しておいたのだ。

 クワンパは自らの戦闘力にそれほど自信があるわけではない。ましてや人喰いの火焔教が何を仕掛けてくるか、想像もつかない。
 であれば、敵の術中にハマるとしても部外者乱入で無茶苦茶にして算を乱し、その隙に脱出しようと目論んでいた。
 所長マキアリイに約束した通りに、「慎重に参った」訳だ。

 まだ痺れる感じは残るが手足は自由に動く。赤茶は別に麻酔薬ではなかったらしい。
 ただ、どうもカニ巫女棒の先端が揺れて見える。狙いが上手く定まらない。
 人を殴る分には不自由はないが。

 思った通りに、叩きのめした宗教野郎共は仲間を引き連れて自分を探しに来た。
 そういうものなのだ。
 今の世の中なにかしら社会的行動を起こせば必ず反発が有る。暴力によって迫害を加えられる事も珍しくない。
 だからどこでも暴力に対抗する措置を講じているし、場合によっては戦闘員を抱えていたりする。
 新興宗教のいかがわしい勧誘であれば間違いなく、と思っていたがやっぱりだ。

 止めるアクノメナを押し退けて、数人の若い男が茶館に押し入ってくる。
 手には角材や棍棒を握って、いかにも悪党。

 いやあ、今は手加減できないけど、仕方ないよね。
 ごめん。

 

       ***

 「ゲジゲジ神「ギィール」は知恵の神であることからも分かるように「頭」を司る神様であります。
 クワンパさんにはその点を事前に注意しておけばバシャラタンの茶による催眠効果も対抗する心構えがあったのですが小生の不覚でありますな」

 事務所に戻ってきたクワンパは、所長マキアリイと呪先生に事の次第を報告した。
 多少の擦り傷打ち身はあるものの、自分は無事。
 火焔教の陰謀も打ち破って以後問題なし。

 まあ武勇伝だ。マキアリイは呆れて若いカニ巫女の話を黙って聞いた。

「だがよく宗教団体の攻撃を退けて逃げられたな。」
「ああ、途中からですね、学生自治会の戦闘員の人達が構内での乱闘と聞いて鎮圧に出向いてくれたんですよ。
 あの宗教団体は新入生を中心にアコギな勧誘を繰り返して問題化してたそうですから、遠慮無く駆逐してくれたと。」
「そうか。明日の新聞に載ってそうだな……」

 自分を使ってマキアリイの弱点となる個人的な人間関係を構築させる陰謀には、こう評した。

「クワンパ、済まないが俺はカニ巫女を女房にする気はない。神経を苛まれて死にたくはないのだ」
「ええ、それは別に期待しませんから」

「それは火宅の術と呼ばれるものですな付け入る隙の無い相手に美人を娶らせて新たなる価値観中心軸を与え自然と崩壊に導く心理的誘導魔術です。
 マキアリイさんが独身であり何物にも縛られないのをよほどに脅威と感じておるのでしょう」

 呪先生は一度屋根裏部屋に戻り、またトカゲのように降りてきた。
 気付けに、とクワンパに指先ほどに小さな錫紙の包みをくれた。中にはほんとうに小さな乾燥した木の葉がある。

「これはなんです?」
「バシャラタンの赤茶で催眠術に掛けられたとおっしゃいましたな。これは同じバシャラタン茶でも「緑茶」と呼ばれるものです。
 飲むのではなく、そのまま歯で噛んで舌で味わってください」

 嫌な気はしたが呪先生の言う事だから、クワンパは思い切って緑の枯れ葉を噛んだ。
 強烈な渋味が口いっぱいに広がる。

「なにこれ、なんですか」
「バシャラタンの茶は魔法の木でしてな摘んだ若葉に異なった加工を施す事で原料は同じながら様々な味わいと多様な薬効を引き出すことができるそうです。
 この緑茶葉は僧侶が夜通し読経をする際に眠気覚ましとして用いる覚醒効果の高いもので、カニ巫女の方ならばこちらの方がお好みでしょう」
「なるほど、目が覚めます」

 そうか、魔法に掛けられたとしてもちゃんと対処法を心得ていれば安心なわけだ。
 緑茶葉の包みを日頃持ち歩く布袋の薬入れに仕舞っておいた。いつか何かの役に立つだろう。

 

 後日、クワンパはマキアリイと呪先生を連れて再びソグヴィタル大学内の茶館を訪れた。
 割ったガラス窓は修繕されていたが、営業中ではない。
 聞けばあの事件以来ずっと店を閉めているそうだ。

 呪先生が周囲を調べて魔術の痕跡を探したが、特に意味の有るものは見出だせなかった。
 諦めて帰る3人。クワンパは夕日に照らされる茶館を振り返る。
 建物全体に施される黄色と緑色の縞模様が、木陰に漏れる茜に塗り替えられて毒々しい配色になっている。
 まるで事務所に送り付けられた呪い状と同じ、赤と黒が入り混じり原初の狂騒を呼び起こす不吉な紋様に。

 呪先生の袖を掴んで建物を見せようとしたら、強く拒まれた。
 「邪悪を心に刻んではなりませぬ」と。

 大学の事務局に立ち寄って茶館の経営者を尋ねてみると、誰も何も知らなかった。
 そもそもがあの茶館を誰が何時建てたのか、どのような経緯で営業が許されたのかも、まったく記録に残っていない。
 女給「アクノメナ」なる者を知る人も居なかった。

 数カ月後、茶館は火事で焼け落ちた。不審火であったらしい。

 

 

【一巻之終】 

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(テレビドラマ『罰市偵〜英雄とカニ巫女』 出演者インタビュー)

※第一回はカニ巫女見習い「クワンパ」役のシードリイ・スミマス・アム さんにお話をうかがいます。
 ファンの間では「スミ」の愛称で通っており、インタビューでもそう呼ばせていたきました。

「スミさんは現在19才で、巫女クワンパがヱメコフ・マキアリイ事務所を辞めた歳ですね」
「はい、撮影の期間がちょうどクワンパが事務所に勤めた時期と重なって、自分がほんとうにあの時代に生きていたみたいに感じました」
「今年は英雄探偵マキアリイがゥアム帝国行きの豪華客船から失踪してちょうど40年、クワンパが事務所に居た頃から50年になります。
 随分と当時の風習に戸惑ったのではないですか」
「そうですね、まずカニ巫女が簡単に人を叩くのにびっくりですね」
「あれはびっくりですね。今だったらすぐ捕まってしまいます」
「そうなんですよ、当時の人の気風が暴力に寛容というか、法に頼らず民衆が自分で自分を守らなければならない時代で、だからこそ守れない弱い人を守ろうとするカニ巫女や英雄が流行ったんですね」
「当時はヤクザが公然と社会の一大勢力として活動し、犯罪組織も多かったわけですが、それを一掃するきっかけを作った人がマキアリイですから」
「はい。撮影前の勉強会でもそこのところはみっちりと教えられました」

「撮影現場の雰囲気はどうでしたか。マキアリイ役のカ=ヴァ・ヤクシャプティさんは、」
「カ=ヴァさんはカッコイイですよー。ほんとうにマキアリイみたいな事出来ますし、豪速球とか壁登りとかびっくりしました」
「カ=ヴァさんは学生時代シュユパンの選手でしたからね」
「マキアリイの写真とはちょっと違うんですけどね。ちょっとカッコよくなり過ぎかな、二枚目過ぎるかな? って皆言ってましたけど」
「ああ、これまでに作られたマキアリイ映画やドラマとは配役の傾向が違いますよね。普通二枚目半から三枚目って表情の芝居で魅力を出す俳優さんが選ばれるのですが」
「完全にカッコイイですからね。でもちょっとびびってましたよ、自分のような者がマキアリイ役なんてやっていいのかって」
「マキアリイ役をこなした俳優はその後大成して芸能界の重鎮となられた方ばかりですから」
「それだけ演技力が必要な役なんです。カ=ヴァさんもだいじょうぶと思いますけどね」

「クワンパの役作りに注意した点はなんですか」
「はい。ここは監督のパチヤーさんからも厳しく命じられたんですが、「容赦はするな!」てのですね。マキアリイに対して厳しいんです。
 カ=ヴァさんのマキアリイがカッコよすぎるのを、クワンパの演技で貶めてバランスを取るんですね。だから二枚目扱いをしてはいけない」
「少し抵抗があったのではないですか」
「はいはい。そりゃもう。だって「クワンパ」ですよ、女の子の憧れですよ。
 色々と抗議のお手紙を頂きました。「オマエは本物のクワンパじゃない」とか「クワンパはもっと美少女だ」とか、いえわたしもそう思うんですけどね。監督が」
「実際きついヒトだったらしいですからね。数々の映画では脚色で女らしさが倍増してますが」
「カニ巫女ですからね。カニ神殿で1週間泊まり込み修行をした時に理解しました、こんなとこまともな女の子ならすぐ逃げ出すって」
「カニ神殿はそんなにすごいですか」
「やることは神殿の掃除と棒術の稽古、お経を読むことくらいですが、とにかく空気が張り詰めているんです。触ると電気が流れるくらいに。
 人間として極限の緊張感と言いますか、これまでの自分のタマシイがどれだけヤワだったか、もうびりびりと思い知らされました」
「こわいですねー」
「こわいですよー。今の時代でもこうなんですから、50年前はどれだけだったか。ほんとうにカニ巫女棒で人の頭蓋骨叩き割っていたんだ! て確信しました」
「修行の体験が撮影現場でもそのままに生かされたんですね」
「くそ度胸が付いて、どんな危ないシーンでも平気でやれるようになりました。今はちょっと怖気づくくらいに戻りましたけど」

「クワンパのご家族にお会いになりましたか」
「弟さんと姪御さんにお会いする事が叶いました。あちらでは「クワンパ」でなく、あくまでも「メィミタ・カリュォート」のままでしたね」
「姪御さんはクワンパが失踪後の生まれですよね。ヒロインとして有名なおばさんをどう思っていましたか」
「それがですね、姪のシトラァートさんは今年40才になるわけですが、若い頃は「クワンパ」伝説の直接の被害者なわけでして、ずいぶんと窮屈な思いをされたようです。笑って教えてくれました」
「ああ、偉人の家族が名声に振り回されるというアレですね」
「とにかくどんどんと「クワンパ」の名声と神格化が高まっていくわけですから、自分もそうならないといけないと知らない人から強制される」
「嫌ですねー」
「新しい映画が出来る度に言われる事が変わっていく、理不尽ですね。メディアの暴力というやつを思い知らされました。
 でもですね、カメラマンの人とも会ったんです。「クワンパがマキアリイの無事を路上で祈る」写真を撮った方です」
「ああ、まだご存命だったんですね」
「あの写真のオリジナルがその方の家に大きく引き伸ばして飾ってあったんです。これを見たら、ああほんとうにこの人はマキアリイの事を思っているんだ、ってひしひしと理解できました」
「あの写真のせいで「クワンパ」伝説が過剰に膨らんでいったわけですね。

 ソグヴィタル・ヒィキタイタン閣下とはお会いになりましたか」
「試写会の時に。あんなにご高齢なのに印象が昔のままの好青年、なんですね。不思議と言えばあの方も相当に不思議な人ですよ」

「それでは最後に、読者視聴者の皆様に一言お願いします」
「はい。『罰市偵〜英雄とカニ巫女』はラブストーリーではありません。クワンパはマキアリイに恋する女の子ではありません。
 でもこれはラブストーリーです。
 ほんとうにこころ通わせる事が出来る男女の関係を描く、とても素敵な物語です。今後の展開にご期待ください」
「本日はありがとうございました」

 

 

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