【政体】

 早い話が、憲法が変わると「政体」も変わった事になる。
 無論大小の修正は幾度も繰り返されるのだが、大枠となる部分を全部取り替えた時に「政体」が変わったと看做される。

 なおタンガラムにおいては「三権分立」とは、「政権」(行政+立法権)、「法権」(司法権)、「軍権」を意味する。
 と考えると、以下の過程の理解が容易いであろう。

 タンガラムにおいて「軍部」とは実戦部隊を意味し、国家レベルの戦争指導層・将軍レベルの階級は「政治家」扱いとなる。
 これは「民衆協和国」成立過程において、各地方国家の独立軍を併合した名残だ。
 各地方国家の国家元首がそれぞれの軍隊の最高指揮官であり、彼らは併合後政府高官として中央政治に関与した。
 また旧領土ごとに自治監督機構「七閥会」を主催して、それぞれの地方権益が中央政府に冒されないよう監視した。

 

 (第一政体):「タンガラム民衆協和国」成立 「民衆総議会」開設
   全土完全制圧を成し遂げた「タンガラム民衆協和軍」による議席独占と国家元首「国家頭領」選出
   憲法制定までの暫定統治体制

 (第二政体):「七閥会」(全国7区それぞれの最高指導者の会合)による国家元首推戴制
   「民衆総議会」議員として、全国7区よりの人口割議員推薦制度
     (「タンガラム民衆協和軍」による全土統一は必ずしも武力制圧ではなく、地域国家の合同吸収という形で実現する。その為旧国家の枠で行政単位が成り立っていた)
   無産主義勢力の議会よりの駆逐 →「タンガラム民衆協和軍」の左傾化とタンガラム正規軍との確執衝突
   治安維持を目的とする武装警察機関「巡邏軍」発足
      →暴走した無産勢力運動家が主導する「方台理性化運動」が発生し、全土でネコ迫害が行われる。数年で終息するも、以後ネコ喋らない
       「方台理性化運動」とは、聖戴者時代の悪習旧弊を破壊一掃して全国民に近代的政治参加意識を与えようとする運動
         →カニ神殿に逆襲され、無産主義勢力が権力奪還する為の方便である事が暴露されて、運動消失

 (第三政体):「政党」による全国7区での「国家総議会(改称)」議員の限定選挙制度 議員の中から投票で国家元首「総頭領」選出
   無産主義勢力も一定の政治参加を許可される
   「七閥会」は監査組織に
   軍事力の行使に「国家総議会」の承認が必要となり、軍部の政治への完全従属が法律化される
     (私的軍隊で政治勢力でもあった「タンガラム民衆協和軍」の解散)

 ※第三政体の発足をもって、「タンガラム民衆協和国」は完全な国家としての体裁を獲得する。

 ※この時期、ゥアム帝国からの探検艦隊来航。さらに3年後、ゥアム探検艦隊はシンドラ連合王国の存在を確認
    いきなり発生した「国際関係」に、タンガラム全土は鳴動。政治体制の引き締めが必要となる
    ゥアム帝国制、シンドラ太守による階層社会の知見を得て、民衆協和制への志向高まる

 

 (第四政体):「国家総議会」を二つに分けて「監査院」設置 全国各県ごとの選挙区による男女普通選挙実施
   「七閥会」は各地方ごとの「大審会」として国政関与は限定的に
   「国家総議会(国会)議長」の直接選挙制度実施(短期間で終了)

 ※国際交流が始まり、様々な知識や文物が流入して世間に「新時代」気分が広まる
    天下泰平で経済も良好。科学技術の発展で社会も進歩し電灯・電信が導入、文化爛熟期 

 (第五政体):国家元首を「大臣領」と改称 「最高法院」による「上位基本法」制度始まる
   (憲法が直接に法的拘束力を持たず、憲法に基づく上位法を別に法律専門家が作る事になる)

   「国会議長」が国家元首をも越える権威として看做される事となり、その下に行政権を預かる存在としての「大臣領」がある。と考えられた
   「政権」を「立法権」と「行政権」に分離しようとの模索
   「法の下の統治」が大命題として唱えられる
     →「法論士禍」が発生する(注;弁護士大暴れ大迷惑) →「刑事探偵制度」成立
       →結果疲れ果てた政府・民衆は、逆に常識的な判断を重視する傾向となる
         →政党政治が腐敗堕落して党利党略党争に溺れ、ゥアム帝国の侵略を呼び込んでしまう

 ※創始歴6072年「砂糖戦争」勃発 第五政府混乱し国防体制崩壊
     義勇兵の蜂起、各地方軍部の独自行動による防衛戦争に合流 元「聖戴者」家系による指導
     戦時救国政府発足 第五政体憲法停止 戦時体制に (事実上第五政体崩壊)
     終戦後、国家総議会全議員改選 現職大量失職。「最高法院」判事辞職相次ぐ
     憲法制定暫定政府樹立

 

 (第六政体)6074年〜:「砂糖戦争」の教訓から、国家元首「総議会統領(総統)」の下に行政の長としての「大臣領」が内閣を組織する形態になる
   産業振興防衛力強化に邁進する為に、事実上の一党独裁体制になる 鉄道敷設事業の国営化と推進
   「最高法院・頂上法廷」の判事の任命に各「大審会」の合意が必要に
   選抜徴兵制度の実施および義勇兵の禁止法制化(「砂糖戦争」時の義勇兵が私兵集団として政治勢力化するのを防止)
   元「聖戴者」家系への公職禁止令
     (同等の措置はこれまでも存在し公式に禁止 あくまでも民衆協和体制におけるイレギュラーと見做す)

    →過度の開発独裁による産業の歪化 行政と財界の癒着
     一党独裁の固定による専横・特権階級化
       →頂上法廷と大審会の承認による各地方「軍部」の反乱により、第六政体憲法停止
         →暫定政府樹立 第七憲法制定委員会発足

 (第七政体)6102年〜:一党独裁制の否定 開発独裁体制の終了 経済自由化 
   防衛力整備計画の大幅見直しと軍上層部の「政治家」化 軍事力行使は「大臣領」の管轄から「総統」の直接指導に
     (第六政体では軍上層部は「官僚」化しており、一党独裁体制下において与党の私兵的存在に堕していた)
   「法権」と同等の、「軍権の完全分離」
     (軍事政権への進展を防止する為に、地方軍部にある程度認められていた行政機能を完全に剥奪)
     (なお「巡邏軍」は内閣「大臣領」の指揮下にある行政の実力機関であり、こちらに移管された)

    →過度の資本集中による巨大財閥寡占支配 政府与野党まるごとの癒着 貧富の格差拡大
     批判勢力の学者・報道記者・活動家の弾圧 治安警察の暗躍
     約5千人の失踪事件(後に虐殺され埋葬されたと発覚 →60年後ヱメコフ・マキアリイが埋葬地発見)
       →今回軍部は動かず(第七政体の末路から、地方軍部上層部も抱き込んでいた)
        一般民衆・侠客によるデモ活動激化・無産主義他政治活動家武装蜂起
         →第七政府崩壊、上層部シンドラへ亡命 暫定政府樹立 財閥解体

 (第八政体)6154年〜:財界の政治への干渉禁止 大規模財閥の解体 極端な貧富の差の解消義務付け 地方均等発展の推進
   行財政改革 税制改革 (裏面にて、行政による産業指導の復活)
     (とにかく第七政体で過度に進展した資本主義体制を是正し、国民の階層分化を解消する措置が行われた)
   「国会議長」の直接選挙制度復活 (連立与党による長期政権が続き、一党独裁体制の復活が懸念された為)
   「海外派遣軍」創設 (派遣費用を秘密裏に財界から徴収・裏予算 国民の慢性的な負担)

 ※第八政体発足10年後、突如「バシャラタン方台」発見
  文明三国による海島権益を巡る衝突が頻繁に発生、慢性的な戦闘状態となる。「隠された戦争」
  否応なく国際化が進みタンガラム方台にも外国人が多数流入、治安問題も引き起こす
  科学技術のますますの発展で社会は大きく変化。
  経済自体は良好だが、なぜか慢性的に国民生活は逼迫し閉塞感が漂う
  憂さを晴らすかに大衆文化が花開き、映画・伝視館放送が隆盛を見せる
      →「闇将監」「闇御前」による政財界の隠然たる支配 「潜水艦事件」等の外患、相次ぐテロ事件 資源問題
       (「闇将監」は第七政体の秘密警察若手幹部で、第八政体においても秘密警察を一手に掌握し「闇御前」と共に「海外派遣軍」戦費捻出に貢献した)
        →国家英雄「マキアリイ」「ヒィキタイタン議員」による治安正常化運動

 

【無産主義について】

 当然のことながらタンガラムにおける「無産主義」は、共産主義とはまったくに縁が無い思想である。
 そもそもからして「民主主義・共和主義」ではなく「民衆主義・協和主義」なのだ。
 まずは「民衆主義・協和主義」の定義から説明すべきだろう。

 タンガラム方台は聖戴者による神権政治によって長く統治されてきた。
 基本的には世襲ではあるのだが、神によって選ばれた人間という「保証」付きの統治制度だ。
 また「聖戴者」はそれだけ優れた資質を持っている。そうでなければ「聖蟲」がその人物を拒否するものだ。
 であるからして、民衆は何も考えずに「聖戴者」の統治を受け入れて問題が無かった。
 傍若無人で人の命など一顧だにしない「ギィール神族」ですら、その叡智によって民衆の暮らしが成り立っている事に疑いを持つ者は居なかった。

 この体制が崩壊するのは、彼らの統治が暴走したからではなく、「聖戴者」の数が創始歴5000年代後半に激減したからだ。
 つまり、聖蟲を持たない一般民衆は神の庇護から放逐されて、自らを統治せねばならなくなった。
 民衆によって自らを統治するという思想が「民衆主義」である。

 だから「聖戴者」ではない血縁による政治権力の世襲も、この枠に入れられる。歴史的にこれを「小王制」と呼ぶ。
 しかし近代の自主性に目覚めた民衆に、権力の私物化を許す「小王制」が受け入れられるわけがない。
 そこで、投票により民衆自らが統治者を選ぶ「民衆王制」を目指して政治運動が繰り広げられた。

 後にこの試みは成功して「民衆王国」が誕生するのだが、彼らは直ぐにその弊害に気が付いた。
 権力者は長く在位すれば必ず権力を私物化し、自らの子孫または自らの意に沿う人物に委譲しようと試みる。
 そこで権力を期限付きのものとして定期的に選挙で選び直す「民衆協和制」へと移行した。

 「協和制」とは、有権者が皆平等に政治に参画するという思想だが、
ここで重要なのは必ずしも全体が同一の思想や立場・利益に立つものではない、という点だ。
 或る意味では「協和制」は、対立者が敵対関係を維持したまま一つの枠組みで合議して政治方針を決定する仕組み、と言えよう。
 「民衆協和国」がタンガラム全土を併合・統一するまでに、幾つもの地方国家を併呑した。
 利害関係が解決されないまま、それぞれの抱える武力を解除しないままに一体化する。
 その対立を議会においてぶつけ合い、それぞれの意見を討議して政策決定を行うわけだ。

 このシステムは、創始歴5000年代初頭に出現した救世主「ヤヤチャ」が提唱したものだ。
 彼女は当時方台に存在した2つの国家に方台統一の野望を諦めさせ、対立を包含したまま統一機構を構築した。
 それどころか、それまで従属的な存在であった地域を国家として独立させ、また既存国家も行政圏ごとに独立させ、
わざわざ分断してから、統一機構に参加させる。
 分断国家同士の戦争ですら容認するという潔さで、地域の自主性の確立と方台全土の統一を両立した。

 「民衆協和国」も対立を包含したままに統一国家としての体裁を整える事で、無用な血を流さずに済んだ。
 そしてそれぞれの地域から選出された「民衆総議会」議員による投票、間接選挙により国家元首を定める事となる。
 「国家総議会統領(総統)」もしくは「大臣領」(現在は統領の下で総理大臣の役)である。

 

 さて「無産主義」だ。
 「共産主義」と隔絶して異なる点はもちろん、マルクス『資本論』が存在しない事である。
 つまり、まったく無関係な存在だ。

 「無産主義」は、貧富の差を認めず格差解消をしようというシンプルな思想だ。
 もちろん貧富の格差は古代より存在する。
 「聖戴者」の統治する時代であっても、富裕な者と貧困にあえぐ者が二極分化する。
 しかしながら、それが暴動に繋がった例は少ない。

 「ギィール神族」による統治下では、富者であっても所詮は神族の奴隷であり、一般貧民と立場上は同等。
 むしろ神族の傍近くに仕える事で、勘気を蒙り殺される危険が大きかった。
 また神族は優れた叡智により産業を起こし、人々を養う。
 最下層の奴隷であっても貴重な労働力として平等にその暮らしを保証する。弱者や老人を庇護する懐の深さも見せる。

 「褐甲角王国」においては、王国全体が軍事国家であり経済も統制状態にあった。
 富裕層はそもそもが「聖戴者」である「神兵」の血縁となり、王国の大義である「民衆解放」の義務を負う。
 最高権力者である「武徳王」が質素を尊び、一般民衆と目線を同じとして統治するのを旨とした。
 また農村を基盤とする共同体が行政単位であり、貧困民が出ないように村全体が扶助する仕組みとなっていた。
 もちろん理想通りには行かないものであるが、「聖戴者」の公正を疑いはせず、
それ以外の一般の官僚や富商などの強欲に民衆の怒りは集中していた。
 つまりは当時は、一般人統治者は信用ならない、との常識が存在した。

 「無産主義」は、「聖戴者支配」における公正が、一般人統治支配では存在しないという立場に立つ。
 政治に携わる者など信用ならない。と見做して論理が構築されている。

 彼らは基本的に直接民主制を採用する。全員が集まって討議して、専門の政治家を作らない。
 また議会の決定に基づき政策を実行する行政官も、専門職としては認めない。
 他に生業を持つ者がボランティアとして行政職も務める、という形を取る。当然報酬も無い。
 そして貧富の差を認めない。富の集中を排除する。
 全員が平等でそれぞれの立場の業務を行い、利益は平等に分配される。富の蓄積は許さない。

 これは創始歴5000年代後半の未発達な資本主義に反対する立場とも言えよう。
 当時の産業の発展と革新についても否定的で、原始的な農村社会をモデルとした社会体制を志向する。

 しかしながら、軍事組織は作り上げた。
 戦闘指揮に関しても特権階級を認めず、兵士が平等に発言権を持つ会議によって運用される。
 軍事の専門職を設ける事も無く、無産主義共同体全員がすべて戦闘員として機能するように訓練された。
 もちろん著しい非効率である。

 だがそもそもが無産主義に基づく共同体、というものが現実に成立した例が無い。
 存在するのは活動家であり戦闘員のみな状況で、各地で暴動や破壊工作を行う分には。むしろこの程度の軍事体制で十分。
 すべてを統括する指導者が居ないから無産主義者を根絶することが出来なかった。

 つまりは無産主義は政治運動を行うためだけの存在で、現実的な社会体制として構築する気がさらさら無い。
 幻の理想主義だ。
 だからこそ、現実の政治体制において不満を覚える勢力が無産主義に拠って抗議行動を繰り広げる形で長年存続してきたわけだ。

 「民衆協和国運動」が全土掌握を完了する時期に、尖兵として無産主義者は活躍を見せる。
 協和国軍の主力ともなった。
 だが統一後も独自の軍事勢力として留まり続けて、各国軍隊を統合した正規軍と衝突を繰り返す。
 憲法制定から各種政治体制を構築した第二政体において、最後の課題とされたのが、
この「無産主義者を主力とする私兵軍」の排除である。

 

 巨大財閥が社会を支配し貧富の差が著しく拡大した第七政体の末期には、抗議行動を実力を以て行う無産主義に傾倒する者が多く出た。
 第八政体で政府が発足した時、当時の政治家は無産主義勢力との連携を余儀なくされ、大変苦労した。

 

 

 

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